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苦の滅尽

7:2013/11/07(木) 13:28:33 ID:x0SqdRKg
彼は、単一〈専心・入定〉を単一と思い、単一を単一と思って単一を考え、単一において考え、単一から考え、〈 私の単一である 〉と考え、単一を歓ぶ。それは何故か? 彼には知悉されていないからである、と私は言う。



彼は、涅槃を涅槃と思い、涅槃を涅槃と思って涅槃を考え、涅槃において考え、涅槃から考え、〈 私の涅槃である 〉と考え、涅槃を歓ぶ。それは何故か? 彼には知悉されていないからである、と私は言う。(中部 1経 「根本法門経」)

歓喜は、貪りを生起させ、それに対応する怒りを生起させます。ですので「彼には知悉されていないからである」と釈尊は言うのでしょう。

>『これのみが真実であり、他は虚妄である』と。
>それゆえ、沙門・バラモンが誰もすべて、唯一の説、唯一の戒、唯一の欲求、唯一の意趣をそなえているのではないのです。
(長部 21経「帝釈天問経」)

>釈尊は、そのような決めつけをすることなく、「渇愛を増大させるもの」と、「渇愛を減退させるもの」の二種を説いたのです。

つまりは、歓喜は執着から生起するのであり、執着は渇愛から生起するので、その渇愛を増大させるものと減退させるものの二種を説いたと言うのが縁起の法の根本なのですね。

「生存のうちの恐怖と、生存から離脱することを求める人々の生存とを見て、わたしは生存を尊重せず、いかなる喜びにも執着しない。」
(中部 49経「梵天招待経」)

837師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

839師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
(スッタニパータ)

ですので「何を説くのですか?」と問われた返事が・・

「神や、魔や、梵天や、沙門・バラモンたちと共なる、世間の誰とも論争をすることがなく、さらにまた、諸々の欲望を離れて住するので、疑惑が無く、不行儀を絶ち、種々の生存において渇愛を離れているので、諸々の想念が潜在しない。私は、このような論者であり、このように説く者です。」(中部 18経「蜜丸経」)となるのですね。


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