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苦の滅尽
15
:
時
:2013/11/14(木) 20:33:11 ID:wfU.Go.c0
>「受の滅」を、具体的に経典の言葉で示すならば、下記のようになります。
経典の中に探しておりました「受の滅」は、ここにあったのですね。理解しました。この経典では「彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、身における受であって、心における受ではないのである」と言う「二の矢は受けない」と言う実際の果報のみを理解していました。
>──つまり、「受」に潜在する(そこに染み付いている)渇愛(喜貪)が消滅することなのです。
はい。理解しました。
>これについては、近々に 「 中部 152経・感官修習経 」 を UP しますので、それを参考にしてください。
これは、過去記事で少し触れられている経典ですね。。
>──しかし、尋と伺(如理作意…有用な熟考と吟味)を使わなければ、「妄執想」を滅ぼすことは出来ません。
>だからこそ、有尋有伺定と(有尋有伺を繰り返し修習すると無尋有伺に至ります)無尋無伺定とを修練するのです。
妄執想の滅尽に向けて、有尋有伺から無尋有伺へ、そして無尋無伺定を修練して行きます。そして妄執想の滅尽に至った後は、
そのうち、大まかな考察のある、細かな考察のあるものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないものがある場合、大まかな考察のない、細かな考察のないもろもろのものが勝れています。(長部21経帝釈天問経)
また大王よ、いかに比丘は、諸根において、門が守られた者となるのでしょうか。
大王よ、ここなる比丘は、眼によって色を見ながら、相(大まかな特徴)に執せず、随相(細かな特徴)に執しません。(長部2経 沙門果経)
パーティモッカの防護・六根の防護として「見ながらにして、相(大まかな特徴)に執せず、随相(細かな特徴)に執しない」と言う事だと理解しました。つまりは、対象を見ながらにして、尋も伺も無い状態である無尋無伺が、行為を二種に分別した場合に、同条件での有尋有伺よりも、パーティモッカの防護・六根の防護としては優れていると理解しました。(帝釈天問経と長部2経沙門果経を連動させての理解です)
つまりは、六境に意識を向けて、細かく観察(分別・分析)しようとする事を防護する事だと理解しました。
>つまり、このサインを自分で確認することで、渇愛が生じていることを「自ら知る」のです。
>そして、これが「自灯明」の意味であり、「如実知見(あるがままに観ること)」の真意なのです。
そうでしたか。これが自灯明・如意知見の意味でしたか。理解しました。
>これを「自ら知る」ときには、どのような「見解」も「価値観」も必要ありません。
>むしろ、そのようなものは邪魔になるだけなのです。
>そしてもちろん、誰かに「聞く(それを問い合わせて確認する)」ことも必要ありません。
>これが、「自灯明法灯明」の本当の意味なのです。
>──ただ、そこでの「喜貪(喜び・歓喜・快感)」の、有・無を…それだけを、正知するのです。
なるほど、これなら即時的に理解が起こりますね。これが自灯明法灯明の本当の意味なのだったのですね。
自らの内に、貪りが、怒りが、無智があると言う事を自らが知る(気付く)と言う事ですね。
実生活上でも、怒りの直前には必ず貪りがある事を確認しています。そしてその貪りは、喜びをそのサインとして確実に知覚できますね。
>──ここに、その答えが説示されているのです。
理解しました。
>1.愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、苦なる受から逃れる方法(すべ)を知らないから。
>2.彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
>あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。
>これらが、つまり、「無明(四聖諦を知らない)」ということなのです。
理解しました。
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