[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
| |
苦の滅尽
19
:
和井 恵
:2013/11/22(金) 09:27:23 ID:/qZ2M5.20
( つづき )
これと同じことを説いているのが、以前にも引用した下記の経典なのです。
( つまり、「 如実知見 」 と 「 空 」 は同じことを説いているのです )
ウパヴァーナよ、ここに一人の比丘があって、
彼は、眼をもって色 ( 認識対象 ) を見ると、色を感知し、かつ、色に対する貪りを経験する。
また、わが内に色に対する貪りがあると、
〈 おお、私はわが内に、色に対する貪りを抱いている 〉 と みずから気がつく であろう。
…… 中 略 ……
しかるに、ウパヴァーナよ、ここに一人の比丘があって、
彼は、眼をもって色 ( 物体 ) を見ると、色を感知するけれども、色に対する貪りを感じない。
そして、わが内に色に対する貪りを感じないから、
〈 おお、私はわが内に、色に対する貪りを抱いていない 〉 とみずから気がつく であろう。
そこで、ウパヴァーナよ、そのようにして、
比丘は、 眼をもって色を見ると、色を感知するけれども、色に対する貪りを感ぜす、
また、 わが内に色に対する貪りがないのであるから、
〈 ああ、私は、わが内に、色に対する貪りを抱いていない 〉 と 自分で気がつく のである。
だから、私はまた、ウパヴァーナよ、 この現生的なる法は、また、即時的にして、
〈 来って見よ 〉と示され、よく涅槃に導き、智者のそれぞれみずから知るべき法である、 と言うのである。
( 相応部経典 六処相応 35.70 「 ウパヴァーナ ( 優波婆那 ) 」 )
そして、従うべきものと、従うべきでないものが体験として解るようになれば、「 択法 ( 法を選ぶ ) 覚支 」 が確立します。
「 択法覚支 」 が確立すれば、「 善法を増大させて、不善法を減退させる 」 という 「 精進覚支 」 も確定してゆくのです。
── つまり、「 七覚支 」 の前半の流れは、
厭逆想 ( 無常想・不浄想など ) や 不厭逆想 ( 慈想・悲想・喜想など ) を憶念して確立させる 「 念覚支 」 の修習。
次に、 如実知見 → 厭逆想 or 不厭逆想 の 修習 → 如実知見 → を繰り返して検証する 「 択法覚支 」 の実践。
これらの積み重ねによる実績によって、ベクトルの定まった 「 精進覚支 」 が確定してゆくのです。
中部10経「念処経」においては、「 身念処(出入息念など) 」では、無常想や不浄想などの修習をしますが、
「 受念処 」 や 「 心念処 」 では、ただ、ありのままに観る … ということを説いているのです。
楽を感受すれば〈 私は楽を感受する 〉と知る。
苦を感受すれば〈 私は苦を感受する 〉と知る。
不苦不楽を感受すれば〈 私は不苦不楽を感受する 〉と知る。
貪りのある心を、貪りのある心であると知る。
あるいは、貪りを離れた心を、貪りを離れた心であると知る。
怒りのある心を、怒りのある心であると知る。
あるいは、怒りを離れた心を、怒りを離れた心であると知る。
これらは、相応部経典 六処相応 35.70 「 ウパヴァーナ ( 優波婆那 ) 」と同じことを言っているのです。
要するに、「 ある 」 ものを 「 ある 」 と知る ── ただ、それだけを述べているのですが、
これらは 「 身念処 ( 出入息念 ) 」 と交互に修習することで、その効果が現われるのです。
各念処を、それぞれ単独でこのように見てしまっていては、ほとんど意味不明の説明にしかなりません。
ですから、中部 152経 「 感官修習経 」 の、
たとえば、アーナンダよ、力をそなえている人は、曲げた腕を伸ばしたり、伸ばした腕を曲げたりすることができます。
ちょうどそのように、アーナンダよ、かれには何であれ、そのように速く、そのように迅速に、そのように容易に、
生じている喜ばしいもの、喜ばしくないもの、喜ばしく喜ばしくないものが消滅し、平静が確立します。
── このような説明も、毎日繰り返し繰り返し実践していくことによって、
ほとんど動かなかった腕が、少し曲がるようになり、だんだん曲がるようになり、
やがてあちこちへと動かせるようになり、曲げたり伸ばしたり自由に動かせるようになる。
…といった、そこへ至るまでの、リハビリのような地道な訓練 ( 修習 ) が省略されて説かれているのです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板