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苦の滅尽
17
:
時
:2013/11/15(金) 16:05:30 ID:wfU.Go.c0
>「 中部 152経・感官修習経 」 を UP しました。
ありがとうございました
>これまでの理解があれば、この経典が何を教えているのかは、すぐに解るはずです。
ウッタラ青年の師は「眼によって色を見ない。耳によって声を聞かない」を感官の防護として説いていましたが、それに対して釈尊は「それでは、眼(耳)の見えない(聞こえない)者は、目(耳)によって色(音)を見る(聞く)事がないので、感官の修習者になりますね」と言うと、ウッタラ青年は答えに窮しました。
釈尊の説いたものは、眼(耳)で色(音)を見て(聞き)「喜び・喜びではない・喜ばしく喜ばしくない」ものが生じた場合、それらは「作られたもの・粗いもの・縁により生じたもの」と言う理解が起こっていれば、それらは消滅し、平静が確立し、そしてそれは、眼を開けたり閉じたりするように、迅速に簡単に消滅し、平静(寂静)が確立すると言う事で、これが「聖者の律における無上の感官の修習ですよ」と説きました。
つまりは「喜び・喜びではない・喜ばしく喜ばしくない」と言うものが起こった瞬間に、これは「作意されたもの・縁により生じたもの」であると言う理解があれば、それは瞬時に消滅しますね。そして消滅した後には静寂が確立します。これは「一切の生じたものは何であれ滅する」と言う一切知の範疇の教えの一つですね。
その方法は「喜び・喜びではない・喜ばしく喜ばしくない」と言う感情が沸き起こった瞬間に、それに気づき、「作られたもの・粗いもの・縁により生じたもの」と言う理解の下にそれらを避けるだけです。
そして最終的には「厭逆と不厭逆との両者を回避し、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住むことが出来ますように」と願うならば、そこで平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住みます。となりますね。そしてこのように住む者を「聖なる感官修習者」と、経典では表現しているのでしょう。
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