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苦の滅尽

8和井 恵:2013/11/08(金) 13:56:48 ID:/qZ2M5.2

長部経典22経「大念処経」の部分訳を、さらに追加してみました。

この「集諦」と「滅諦」の説明が、そのまま「縁起の順観」と「逆観」の説明へと結びつくのです。

── つまり、渇愛は、十二支縁起の「八番目の縁起支」にだけ見出されるのではありません。
「無明」を始めとするどの縁起支にも、すでに渇愛は染着している(生起して留まっている)のです。

つまり、一つ一つは小さな「雨粒」が、地に落ちて、高いところから低いところへと流れ、次第に寄り集まって、
小さな流れから、せせらぎとなり、小川となり、それらが集合して、やがて「大河」となって流れていくように、
そのような「あちこちで生起し留まっているさまざまな渇愛」が、寄り集まって(集起して)、次の転生を形成する力となるのです。

ですから、各支における「生起」と「滅尽」とは、「そこに生起し留まっている渇愛」の生起と滅尽を意味しているのです。


> 歓喜は執着から生起する

いえ、同時存在・同時消滅なのです。

 つぎに、比丘たちよ、「苦の生起という聖なる真理」とは何か。
 これは再生を起こし、歓び貪りを伴い、ここかしこで歓喜する渇愛です。

渇愛は、喜び・歓びや、歓喜と「共に(それを伴って、それと同時に)」あるのです。
つまり、そこに「喜び」があれば、同時に「渇愛」もそこにある ── 喜び・歓びは、渇愛が生起していることを表わす「サイン」なのです。


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