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苦の滅尽
6
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時
:2013/11/04(月) 22:05:59 ID:x0SqdRKg
>長部経典21経「帝釈天問経」の部分訳、の転載が終わりました。
ありがとうございました。
>ここには、とても重要なこと(縁起の法の本質)が説かれているのですが、それに気がつきましたか?
この(有の)世界には多種多様な要素があり、この有の世界に生ける者は、それぞれの執着する要素についてのみに強く執着して「これが真実で、これ以外は妄想・虚妄だ」と言う見解を持ちます。この見解への執着から論争が生起し、多様な苦が生起します。そして「渇愛の滅尽により解脱した者」のみが「見解」に執着しない者であり、究極の梵行の終焉を迎えた者であると書いてあると理解しました。
実際の生活上では、苦しみの滅尽を実践している人との遭遇は、まずありません。ですので、私に何か聞かれる事もありません。よって、私は何も語りません。
もしも語る機会があったとしても、同じ次元の方との会話なら、何も見解を持たないもの同士ですので、何も主張しあいませんので、何も問題のない会話のみとなりますし、例え、違う次元の方との会話であっても、その方がその世界(処)で、その多種多様な要素に執着しているのが分かりますので、それすらも私にとっては何も問題ではありません。
>釈尊は、そのような決めつけをすることなく、「渇愛を増大させるもの」と、「渇愛を減退させるもの」の二種を説いたのです。
理解しました。経典の中でも神を登場させて、アーナンダが気付く瞬間が書かれているものがありますね。
「樹木の根本の繁みの中に進み入って、心の内に安らぎを落ち着けて瞑想せよ、ゴータマ(アーナンダ)よ、怠る事なかれ。がやがやおしゃべりする事が、そなたに何の用があろうか。」と。(「アーナンダ」サンユッタ・ニカーヤII)
喩えばの実践として、村人と共にがやがやと長話をする事が、渇愛を増大させるものなのか?減退させるものなのか?・・その度ごとに、自らに問いかけてみなさいよと言う事でしょう。
>部派仏教は、「無常・苦・無我」のみが真実であり、他は虚妄である ── と主張しました。
>大乗仏教は、「縁起=空」のみが真実(第一義諦)であり、他は虚妄(あるいは方便)である ── と主張しました。
部派も大乗も「見解」を持っていますね。理解しました。
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