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苦の滅尽
14
:
和井 恵
:2013/11/14(木) 14:27:11 ID:/qZ2M5.20
★ 10 への返信です。
> なるほど。サインですね。理解しました。
つまり、このサインを自分で確認することで、渇愛が生じていることを 「 自ら知る 」 のです。
そして、これが 「 自灯明 」 の意味であり、「 如実知見 ( あるがままに観ること ) 」 の真意なのです。
ウパヴァーナよ、ここに一人の比丘があって、
彼は、眼をもって色 ( 認識対象 ) を見ると、色を感知し、かつ、色に対する貪りを経験する。
また、わが内に色に対する貪りがあると、
〈 おお、私はわが内に、色に対する貪りを抱いている 〉 と みずから気がつく であろう。
そこで、ウパヴァーナよ、そのようにして、
比丘は、眼をもって色を見ると、色を感知し、かつ、色に対する貪りを経験し、
また、わが内に色に対する貪りがあれば、
〈 ああ、私は、わが内に、色に対する貪りを抱いている 〉 と 自分で気がつく のであるから、
私はまた、ウパヴァーナよ、この 現生的なる法 は、また、即時的 にして、
〈 来って見よ 〉と示され、よく 涅槃 に導き、智者のそれぞれみずから知るべき法 である、と言うのである。
( 相応部経典 六処相応 35.70 「 ウパヴァーナ ( 優波婆那 ) 」 の部分 )
これを 「 自ら知る 」 ときには、どのような 「 見解 」 も 「 価値観 」 も必要ありません。
むしろ、そのようなものは邪魔になるだけなのです。
そしてもちろん、誰かに 「聞く ( それを問い合わせて確認する ) 」 ことも必要ありません。
これが、 「 自灯明法灯明 」 の 本当の意味なのです。
── ただ、そこでの 「 喜貪 ( 喜び ・ 歓喜 ・ 快感 ) 」 の、有 ・ 無 を … それだけを、正知するのです。
そして、何故、私たちに 「 渇愛 」 が 生じてしまうのかと言うと、
また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。 何故であろうか?
比丘たちよ、愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、苦なる受から逃れる方法(すべ)を知らないからなのだ。
そして、欲楽を、喜び願い求めると、眠れる欲貪の随眠が彼を捉える。
彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。
それらを よく知っていない ことから、苦でもなく楽でもない受を感ずると、眠れる無智の随眠が彼を捉えることとなる。
つまり彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛(けいばく)させられ、
もし苦受を感ずれば、それに繋縛させられ、またもし非苦非楽なる受を感ずれば、それに繋縛させられる。
( 相応部経典 受相応 36.6 「 箭 」 )
── ここに、その答えが説示されているのです。
1.愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、苦なる受から逃れる方法 ( すべ ) を 知らないから。
2.彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。
これらが、つまり、「 無明 ( 四聖諦を知らない ) 」 ということなのです。
部派の説いている、「自然界の真実相(無常・苦・無我)」に対する無知、や、
大乗の説いている、「すべてのものは縁起している ( = 空 ) 」 ことへの無知、を意味しているのではありません。
これらは全て 「 見解 ( 価値観 … これが最高の真理なのだ ) 」 へと結びつく、「 見取 」 になってしまうのです。
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