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鬼和尚の仏教講読会 別館2
637
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/20(火) 23:34:23 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
会衆と絶交する宣言とともに、自ら戒めるのじゃ。
徒弟を正し、会衆を率いてかえつて魔宮を立ててしまったのじゃ。
誰もわしの苦労を知らないのじゃ。
師弟のぼんくら情けが共にあだになって悪くしたのじゃ。
韓信が良弓を嘆くような憐れさなのじゃ。
638
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/21(水) 00:15:07 ID:ody751oo0
くま訳全面改
徒弟を正し、会衆を率いてかえつて魔宮を立ててしまったのだ。
誰もわしの苦労を知らないのだ。
師弟のぼんくら情けが共にあだになって悪くしたのだ。
韓信が良弓を嘆くような憐れさなの
475
金春座者歌 こんぱる座者の歌
唱得雲門王老禪 唱へ得たり雲門王老の禪
朝遊東土暮西天 あしたには東土に遊び暮には西天
震旦徑山上堂後 震旦のきんざん上堂ののち
建仁撃鼓法堂前 建仁にくをうつはつとうの前
くま訳
金春座座員の歌
雲門老師の禪を正しく歌っているのである。
朝は中国で遊び、暮には印度へ帰る、自在に飛び廻る。
中国の臨済宗徑山(きんざん)寺にお参りしたあとで、
日本の臨済宗建仁寺で法堂の前で鼓を打つのである
*金春座(コンパルザ):大和猿楽四座の一。興福寺・春日神社に奉仕。奈良で興福寺猿楽の伝統から首座を
占めた。当時の能楽を代表する金春禅竹(1405-1470)はその理論に一休が関連していたとされる。今も
金春流として続いている。
*建仁:千光榮西禪師の開山なり(大成脚注)
*震旦(しんたん)真丹とも書く。中国の古称。古代インド人が中国を秦の土地 (チーナスターナ) と呼ん
だことに基づく。
〈秦国の土地〉の意でサンスクリット語チーナスターナとなり,それが仏典翻訳の際中国に逆輸入され漢
訳されたもの。振旦,真丹,支那などすべて同じ音の転字だが,震は東方を旦は坦(地)をさす。
*径山寺(きんざんじ)は、浙江省の径山にある仏教禅寺。南宋の五山の一。日本の茶道に影響したとする
言説がある。径山寺味噌(金山寺味噌)の由来や醤油の起源等の諸説との関係が指摘される。日本の文化
との関係は深い。らしい。
(´・(ェ)・`)つ
639
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/21(水) 23:51:33 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
金春座の者の歌というのじゃ。
雲門王老の禅を唱えられたのじゃ。
朝には東土に遊び、暮れには西天に飛ぶが如き歌なのじゃ。
震旦の径山寺に上堂の後
建仁寺の法堂の前で鼓を打つが如くなのじゃ。
640
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/22(木) 02:20:41 ID:1DZSY1IU0
476
三毒
貪嗔根本自痴愚 とんじんの根本自から痴愚
人我無明名利徒 にん我無明名利の徒
一箇無心閑道者 一箇無心の閑道者
近年林下一人無 近年林下一人無し
くま訳
三毒
貪嗔の根本は自ずから痴愚と云う事である
自我があると思い込む無明の徒である。
一箇無心で穏やかな境地
近年、禅林には一人もいないのである。
*三毒:仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じ
ん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。
三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされている。ブッダの説いた根本仏教、大乗仏教を通じて広く知られ
ている概念である。
三毒を構成する煩悩
三毒 読み方 意味 象徴する動物
貪 とん 貪欲 むさぼり(必要以上に)求める心。「欲」 と表現する。 鶏
瞋 しん 瞋恚(しんに) 怒りの心。「いかり」・「にくしみ」と表現する。 蛇
痴 ち 愚癡(ぐち) 真理に対する無知の心。「おろかさ」と表現する。 豚
(´・(ェ)・`)つ
641
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/22(木) 23:02:19 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。
三毒なのじゃ。
貪りや怒りの根本は自らを知らぬ愚かさなのじゃ。
人は我について無明ならば名声と利益を求める名利の徒となるのじゃ。
一個の無心の者であれば閑道者となるのじゃ。
そのような者は近年禅林には一人も居ないのじゃ。
642
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/22(木) 23:14:51 ID:Gk1bTWP60
477
岩頭和尚
名風流面蠻胡 名は風流面はばんこ
胡鬚黒他赤鬚 胡しゅは黒くまたせきしゅ
舌頭絶勝文殊 舌頭は文殊に絶勝し、
脚下踏斷道儒 脚下は道儒をとう断す
天下衲僧痴愚 天下の衲僧痴愚
邪法而今難扶 邪法今たすけがたし
象骨老師小巫 象骨老師の小ふ
臨濟渡子同途 臨濟とし同途
着着作様作模 着着やうをなし模をなす
頭頭入細入粗 づづ細に入り粗に入る
横棹一拶江湖 さおを横たへて、洞庭湖畔で、江湖を一拶す、
江湖議論區區 江湖議論区区たり
くま訳
岩頭和尚
名は風流であるが、顔は異民族の様である。
北方の異民族の髭は黒く、他は赤い
弁舌は、文殊菩薩に圧勝するであろう程に鋭く
足腰は修験道の行者をも踏み倒すほど強い
彼と比べると、天下の禅僧が、まるで痴愚のように思われる。
邪法は今助けにならない
象骨山に崇聖寺を開いた雪峰禅師は、小人の巫女さんみたいだ。
臨済宗の流れの者たちも皆同じである
着着と見栄を張る準備をしているのである。
ああでもない、こうでもないと、細かくしてみたり、粗くしてみたりと、
洞庭湖畔で釣り竿を横たえて、禅者同士で相手の試し合いをしてたのでありましょうか。
夏安居での問答は、細かくやったことでありましょう。
*
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/
>>931
参
*巌頭全奯(がんとう ぜんかつ、828年 – 887年)唐代の禅僧。
州南安県の出身。
青原行思の下で、仰山慧寂・徳山宣鑑に参じ、徳山の法を嗣ぐ。洞庭湖畔の臥竜山(がりゅうざん)で宗
風を挙揚した。
887年、賊に首を斬られて死す。
*蠻胡:蠻・南方の蛮族、胡・北方の異民族
*雪峰禅師が象骨山(ぞうこつざん。雪峰山)に崇聖寺(すうしょうじ。雪峰寺)を開いた。
*装模作様 そうもさくよう:見栄を張ったり、上品ぶったりすること。「装」と「模」はどちらも見た目
を着飾ったり、他人の真似をしたりすること。「作様」は動きの様子。「装模様を作す」とも読む。
*頭頭(かぶりかぶり):幼児が頭を左右に振ること。
*江湖:大きな江(川)と湖の併称で、転じて官に対する民間、世間一般を指す言葉。
禅宗用語 - 夏安居
*一拶:禅者同士が出会うときに、ことばや動作で相手をためすこと。
(´・(ェ)・`)つ
643
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/23(金) 23:40:02 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
岩頭和尚じゃな。
名は風流、面は西洋人みたいなのじゃ。
西洋鬚は黒赤まだらなのじゃ。
舌先は文殊菩薩にも勝つのじゃ。
足下に道教儒教の輩を踏み倒すのじゃ。
彼に比べれば天下の僧も痴愚に等しいのじゃ。
邪法の徒は今助け難いのじゃ。
象骨の老師も渡世のまじないしの如しなのじゃ。
臨済の渡子と道を同じくするのじゃ。
着々とようをなし、着々と模をなすのじゃ。
頭を使うごとに細に入り、粗にも入るのじゃ。
竿を横たえて江湖に挨拶するのじゃ。
江湖の議論は区区になったのじゃ。
644
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/24(土) 04:23:18 ID:4c0wS6fo0
くま訳改
4行目:足下に道教儒教の輩を踏み倒すのだ
8行目:臨済の渡子と道を同じくするの
9行目:着々とようをなし、着々と模をなすのじゃ。
10行目:頭を使うごとに細に入り、粗にも入るのじゃ。
11行目:竿を横たえて江湖に挨拶するのじゃ。
12行目:江湖の議論は区区になったのじゃ。
くま質問
「着着作様作模」とは、普段は世間の人の流儀に従い、その真似をすることにより、波風をたてない、と
いったような意味でありましょうか?
478
示南坊 禎 南坊に示す てい
男色興盡對妻淫 なん色興尽きて妻に對して淫す
狭路慈明逆行心 けい路慈明逆行のこころ
容易説禪能忌口 容易に禪を説くよく口を忌む
任他雲雨楚臺吟 さもあらばあれ雲雨楚台の吟
くま訳
南坊、 岐翁紹禎(一休宗純の実子にして弟子)に示す
男色への興味が尽きれば、妻に対して淫欲をもよおしたりすのである。
仏道修行のため色欲を抑制せよとする狭路に対して、慈明は逆行して、悟りに向ったのだ。
禪を容易なものと考えて説くのは、忌むべきである。そんな言動は、
どうとでもなればよいと、ありのままの情を詠んだ性交、交会の詩の様になってしまうのである。
*南坊宗啓は集雲庵二世を名乗っている。集雲庵開創 岐翁紹禎(ぎおうしょうてい)(一休宗純の実子にし
て弟子)は、正長元年(1428年)の生まれ(Wikipedia)
*楚台夢:そだいのゆめ;性交の意に用ふる比喩。「ふざんのゆめ」に同じ。交会の比譬語。交接の比喩語。
*然もあらばあれ:それならそれでしかたがない。なるようになれ。ままよ。さもあれ。
すでに存する事態を受けて、その事態を不本意ながら容認する気持を表わす。どうともなるがよい。まま
よ。漢文の「遮莫・遮渠・任他」の訓読にも用いる。"
*888: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/08(土) 23:01:28 ID:1d4drIFg0
仏道修行は色欲を抑制して実践するものじゃ。
それは狭い道というのじゃ。
臨済宗の正伝禅ではむしろ色欲をも利用して悟りに向かうというのじゃ。
芸術とか風流の道なのじゃ。
おまけ:文清筆楊岐和尚像(京都大徳寺所蔵国宝)
楊岐禪師・・・慈明和尚の石霜寺に移るに随ひて監寺となる、補佐久うして未だ究明する所あらず、屢々参
して問ふ、慈明多忙に托して説かず、時に慈明に老母あり、寺に近く住す、慈明毎日往きて慰むるを例とす、
一日大に雨りし時、方會その途に伏して慈明の來るを待つ、已にして抵れば直に其手を執り、今日須らく説
くべし、説かざれば和尚を打つべしと詰る、慈明答ふ、監寺是般の事を知らば便ち休せよ、と言未だ終らざ
るに玄旨を領するを得、泥路に附して禮し、又起きて、狭路に相逢ふ時如何と問ふ、慈明曰く汝は且つ軃避
せよ、我も去らん那裡に去れと、それより方會は慈明の出づることを未だ遠からざるを窺ひ、必ず晩しと雖
も鼓を鳴して學徒を集めければ、慈明歸り怒り責めて曰く、何をか為す、方會答へていふ、晩参と、是れ後
世叢林晩参の初なりといふ、後宜春より迎へられ楊岐寺に住す、然るに九峯の長老勤公未だ方會の大悟せる
を知らず、州郡の與望に背かんことを憂ひ、方會と問答したるより、其名遠く聞え四方に重んぜらるゝに至
りたり、後更に潭州雲蓋山海會寺に移りしが、二居共に法筵盛なり、その間風特色あり、學者之を楊岐宗と
呼ぶ、曾つて自賛を頌す、曰く、口似乞児席袋、鼻似園頭屎杓、勞君神筆寫成、一任天下卜度宋の仁宗の慶
歴六年、五十四歳を以て寂す。
(´・(ェ)・`)つ
645
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/24(土) 21:51:45 ID:1d4drIFg0
↑それはむしろ自ら僧としての行いを続け、模範となるというような感じじゃな。
廃仏にも囚われぬ真の僧なのじゃ。
そんな感じじゃな。
南坊に示すというのじゃ。
男色に飽きて妻に淫欲をおこすのじゃ。
慈明の狭い道に逆行する心なのじゃ。
容易に禅を説いてはいかんのじゃ。
雲雨楚台の吟は意に任すのじゃ。
646
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/24(土) 22:21:03 ID:fpf1chfw0
くま訳改
第四句:雲雨楚台の吟は意に任すのだ。
479
相對
二月涅槃寂滅辰 二げつ涅槃寂滅のとき
一刀兩斷也心身 一刀兩斷また心身
不生不滅佛難得 不生不滅佛も得がたし
花約有無相對春 くわ約有無相對の春
くま訳
相對
二月涅槃、釈迦の入滅の日
心身を一刀両断する
不生不滅は佛も得難い境地である
花咲き花落ちる相對の春
*花約有無相對:花咲き花落つるをいふ(大成脚注)
*涅槃会(ねはんえ)、陰暦2月15日、釈迦の入滅(にゅうめつ)の日
*不生不滅:何ものも生ぜず,また滅びないということ。輪廻の世界から解放された世界観に立つと,絶対
的な実在はないということを表現するときに用いる言葉。空の観念を補足するものであり,涅槃のあり方
を否定的に説明する語法。
*一郷正道先生解説抜粋(大谷大学hp)
インドに二〜三世紀頃在世し、『般若経』を中心に空の哲学を大成したナーガールジュナ(龍樹)は、縁
起思想にもとづいて「空」を理解した。「此れあれば彼あり、此れ生ずれば彼生ず・・・・・・」という成句に示
される縁起の意味は、ものはすべて、なんらかの他に依存して存在する相対的なものでしかないこと、絶対
的存在は決してありえないことを教える。この絶対的、実体的存在(自性(じしょう))が無いことを
「空」という。すべては空であって、夢・幻の如きものである。本来、聖でも俗でもないものを、聖とか俗
とか判断するのは、私の心の区別、分別作用である。聖も俗も言語上の区別にすぎず、空という点では両者
は不二である。
ものは、すべて、縁起の理論で無と否定されるが、否定されて無に帰してしまうのでなく、そのまま、縁
起的には有として肯定される、という両面をもった存在である。
そうであれば、自己主張の真・正・善性を標榜し、他を排除するところに闘争がくりかえされる現代の世
相を思うに、絶対性を否定し、執着からの解放を教える「空」の考え方こそ、顧みられるべきでなかろうか。
(´・(ェ)・`)つ
647
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/25(日) 21:46:19 ID:1d4drIFg0
相対なのじゃ。
二月の涅槃寂滅の時なのじゃ。
心身一刀両断なのじゃ。
不生不滅の仏の境地は得がたいものじゃ。
花は有無相対の春を約束するのじゃ。
648
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/25(日) 22:40:24 ID:iAmTf7C60
くま質問
「花は有無相対の春を約束するのじゃ。」とは、ありのままは、相対的なものであり、絶対的なものではない
としつつ、花咲く事が、春の訪れを約束するとは・・・絶対、相対の更に向こう側のありのままみたいなこ
とでありましょうか?
480
日用
日用正工夫 日用のしょう工夫
挽弓東射胡 弓をひいてひんがし胡を射る
殺佛殺祖令 佛を殺し祖を殺す令
波旬失却途 波旬みちを失却す
くま訳
行住坐臥の日用・日常生活
日用生活の中での正しい工夫をするのだ。
弓をひいて東の魔敵を射るのだ。(集中して心にあらわれる一切の思い、執着、煩悩を射止めるのだ)
佛という観念や、祖師という観念も、一切の観念を射止めて消し去るのだ。
それが、悪魔を亡ぼす道である。
*殺佛殺祖:『臨済録』
逢佛殺佛、 仏に逢うては仏を殺し。
逢祖殺祖、 祖に逢うては祖を殺し。
逢羅漢殺羅漢、 羅漢に逢うては羅漢を殺し。
逢父母殺父母、 父母に逢うては父母を殺し。
逢親眷殺親眷、 親眷(しんけん:身内や親族)に逢うては親眷を殺し。
始得解脱、 始めて解脱を得ん
不與物拘、 物と拘わらず、
透脱自在。 透脱すること自在ならん
(´・(ェ)・`)つ
649
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/26(月) 01:35:24 ID:sRRy.l3c0
*おまけ:日用 + 詫茶の創始者 村田珠光 :禅と悟りhp解説抜粋
馬祖道一(709〜788)中国禅の実質的な創始者と言える。
馬祖道一の禅風は<作用即性> 、<日用即妙用>、<即心即仏>、<平常心是道>。
<作用即性>とは本性とその用(機能、働き)は同じであるという意味である。
<日用即妙用>とは日常生活の中に仏法の妙用がそのまま現れていることを言う。
<即心即仏>:「汝等諸人、各々自心これ仏なることを信ぜよ。この心即これ仏心なり。」(景徳伝燈録
卷六)とある。これより<即心即仏>とは、心=仏=仏心 であることを言っている。
坐禅修行によって煩悩を離れた心こそが仏だと言っている。
我々普通人は超越者としての仏を考え仏像など礼拝する。
馬祖はそのような信仰対象の仏ではなく、坐禅修行によって浄化された心(健康な脳)こそ仏であると言う。
(「無門関」30則「即心即仏」を参照 )
景徳伝燈録のこの話の続き話が馬祖語録にある。
ある僧が更に馬祖に尋ねた、「和尚は何故に即心即仏と説く?」
馬祖曰く、「小児の泣くのを止めんがためなり。」
僧曰く、「泣き止むときは如何?」
馬祖曰く、「非心非仏。」
(「無門関」33則「非心非仏」を参照 )
<非心非仏>はよく心でもなく仏でもないと説明される。
三祖僧サンの「信心銘」に「一心不生なれば万法咎無し。咎なければ法無く、生ぜざれば心にあらず」と
いう言葉がある。
(「信心銘」を参照 )
これは一心不生の本体こそが本来の面目(真の自己)であることを述べた箇所である。・・・
意識が生じることがなければ心ではない。 このようなものは心でもない、また仏と呼ぶこともできない。
馬祖道一の法嗣百丈懐海(720〜814)の言葉に
「一切の語言文字、ともに皆宛転して自己に帰す。」という言葉がある。
宛転とは変化するさまを言う。
百丈懐海のこの言葉は「一切の語言文字は、結局のところ真の自己(脳)の働きに帰着する。」と言っている。
根本原理の応用例
茶の湯
わび茶とその歴史(村田珠光→武野紹鴎)堺の豪商・村田珠光(じゅこう)
室町時代後期、喫茶は庶民の間まで広まっていたが、公家・武士らが行う茶会では高価な中国製の道具であ
る「唐物」が用いられていた。
このように高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、村田珠光(むらたじゅこう、1423〜1502)は、粗製の
「侘びた」中国陶磁器(「珠光青磁」と呼ばれるくすんだ色の青磁が代表的)などの道具を使用した。
大徳寺の禅僧・一休宗純のもとに参禅した村田珠光は禅院での茶の湯に点茶の本意を会得したといわれ、侘
び茶を創始して茶道の開祖となった。
珠光は坐禅の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、茶との出合いだったと伝えられる。
彼は坐禅を繰り返すうちに“茶禅一味”の悟りに達したとされる。
彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるものだった。
小さな四帖半の茶室の中では、人の身分など関係ない。そこにあるのは亭主のもてなしの心だけである。
彼はこの心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えを仏典を通
してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化したのである。
この「侘び茶」の精神は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれて行くのである。
(´・(ェ)・`)b
650
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/26(月) 23:53:30 ID:1d4drIFg0
↑そのような感じじゃな。
真摯に実践していればやがて有無相対を超える悟りが訪れるということじゃな。
それでよいのじゃ。
日用なのじゃ。
日用の正しい工夫なのじゃ。
弓を引いて東の敵を射るが如くするのじゃ。
仏を殺し、祖師も殺すつもりで実践なのじゃ。
そのようにすれば魔も付け入る方法を失くすのじゃ。
651
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/27(火) 02:26:56 ID:72aVpLM.0
481
賛松源和尚 松源和尚を賛す
娘生眼照太虚空 じょうしょうのがんだい虚空を照らす
天澤兒孫在海東 天澤の児孫海東に在り
滅卻宗風三轉語 宗風を滅卻す三転語
詞華心緒一天紅 詞華心しょ一天くれなゐなり
くま訳
賛松源和尚
世俗人々の眼を、大いなる虚空へと解放する。
虚堂の孫弟子である一休が、日本国にはいるであります。
宗風を滅却して革めた松源の三転語、
その見事な文章が、思いの筋道を、一輪の赤い花のように導いてくれるのであります。
*松源和尚三轉語
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
>>788
〜
112 113 114 の詩 参
*娘生(じょうしょう)とは、娘のことではなく、女から生れた子、母親から生れた自分、世俗の我、仮我、
自我、と言う意味。「娘生の面目」と言い、「本来の面目」に対する用いられ方をす。
又、禅学大成では、、[にゃうじゃう]と振り仮名されている。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
>>876
*天澤庵:径山にある虚堂の墓塔
(´・(ェ)・`)つ
652
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/27(火) 02:30:13 ID:72aVpLM.0
松源和尚三轉語 1/3
大力量人甚擡脚不起 大力量人なにによってか脚をもたげ起こさざるか
商量鬼窟黒山禪 きくつこくざんの禅商量して
神力金剛現目前 しんりきの金剛目前にげんず
普天之下是王土 普天のもと是
擡脚句中公案圓 脚をもたぐる句中公案まどかなり。
鬼和尚 解説:2020/07/04(土)
大力量の人がなぜ脚をあげることもできないのか、一休が答えを書いたのじゃ。
神力金剛は既に目前にあると言うのじゃ。
天の下は全て既に仏国土であるというのじゃ。
つまり既に大力量の人が足を上げているからそれ以上上げられないのじゃ。
衆生基より仏陀であるということじゃな。
松源和尚三轉語 2/3
開口因甚不在舌頭上 口を開く、なにによってかぜっとう上にあらざる
三寸舌頭開禍門 三寸の舌頭か門を開く
河沙諸佛轉多言 がしゃの諸佛うたたごん
夜來百勞五更目 やらい百労五こうの目
不柰聲聲崇夢魂 いかんともせずせいせいむこんにたたることを
鬼和尚 解説:2020/07/05(日)
口を開くのは舌先だけのことではないというのじゃな。
行いを伴わない言葉は災いを招くのみなのじゃ。
自ら実践して人に説くことが大事なのじゃ。
お釈迦様も自ら瞑想して人に説いたのじゃ。
松源和尚三轉語 3/3
明眼衲僧因甚 みょうげんののうそうなにによってか
脚跟下紅絲線不断 きゃくこんかこうしせん不断なる
二三四七諸禪師 にさんししつしょ禪師
領衆匡徒心乱絲 衆を領じ徒をただして心しをみだす
因銭有癖是和嶠 ぜにによってへきあるはこれ和けつ
娘生脚下血淋漓 にょうじょうきゃっかちりんり
鬼和尚 解説:2020/07/06(月)
目利きの僧がなぜ足の下の赤いほつれの糸を切らないのかというのじゃ。
一休はそのような言辞は心を乱すのみというのじゃ。
目利きの僧が糸を切らないならばそれは糸ではないからというのじゃ。
朽ち縄が蛇ではないと気付くようなものじゃな。
(´・(ェ)・`)b
653
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/27(火) 21:49:37 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
松源和尚の賛じゃな。
衆生をも大虚空と見るのじゃ。
天澤の子孫は海東にあるのじゃ。
宗風を滅却する三転語なのじゃ。
その詞の華は心の糸口になる天の紅なのじゃ。
654
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/27(火) 22:21:13 ID:6L4QXWLw0
くま訳改
第一句:衆生をも大虚空と見るのだ。
虚堂の孫弟子である一休が、日本国にはいるであります。
宗風を滅却して革めた松源の三転語、
その見事な文章が、思いの筋道を、一輪の赤い花のように導いてくれるのであります。
482
日課
如法如説衲僧眼 如法如説衲僧のまなこ
經誦讀誦百千返 經じゅ讀誦百千ぺん
三百六十日課前 三百六十日課の前
風月雪月吟艶簡 風月雪月艶簡を吟ず
くま訳
日課
法の通り、経文の通りが禅僧の見方考え方である。
読経を百回千回繰り返すのである。
三百六十五日その日課の前に。
風月雪月風流な艶簡を作るのも、日課である。
(´・(ェ)・`)つ
655
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/28(水) 23:18:48 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
法の如く、説の如くの僧の眼は
経を読誦すること百千返
三百六十日の日課の前に
風月雪月の艶簡を吟ずるがよいのじゃ。
656
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/29(木) 03:51:45 ID:mPXTyadk0
483
示衆 衆に示す
忍辱仙人常不經 忍にく仙人常不きゃう
菩薩果滿已圓成 菩薩果滿ちすでに円じゃう
撥無因果任孤陋 発無因ぐわ孤ろうに任す
一箇盲人引衆盲 一箇の盲人衆盲を引く
くま訳
示衆
釈迦の前世である忍辱仙人は、人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽んずることなく礼拝したという常
不軽菩薩である。
菩薩の修行は既に完成しているのだ。
因果の法理を否定する野狐禅の師に任せたら、
盲人が盲人を引き連れて道案内をするようなことになるのだ。
*忍辱仙人:釈迦の前世が暴虐な歌利王に四肢や耳・鼻を削がれながらも、怒り恨むことなく耐え忍び、
最後に国王を改心させるという説話あり。(三宝絵・忍辱波羅蜜)
*常不軽:「法華経」常不軽菩薩 (ぼさつ) 品に出てくる菩薩。人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽
んずることなく礼拝したという。常不軽菩薩。
*因果撥無(いんがはちむ):「撥無」は払いのけて顧みないこと)因果の理法を否定する邪見。
因果の道理を否定し、無化してしまうこと。道元禅師は、「百丈野狐話」の一則を『正法眼蔵』で採り上
げ、不落因果を撥無因果とし、不昧因果を深信因果であるとした。
不落因果は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す。不昧因果は、明らかにこれ深信因
果なり、これによりて、きくもの悪趣を脱す。 『正法眼蔵』「深信因果」巻
*孤陋(ころう):世間から離れて、見識が偏り、狭いこと。
(´・(ェ)・`)つ
657
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/29(木) 23:30:33 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
衆に示すのじゃ。
忍辱仙人は常に不軽なのじゃ。
それによって菩薩の成果は既に満ちて円成しているのじゃ。
無因果を発すれば孤陋に任せることになるのじゃ。
一人の盲人が沢山の盲人を率いるようなものじゃ。
658
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/30(金) 01:49:49 ID:Z8CrZII20
484
作家 二首 1/2
臨濟徳山非作家 臨濟徳山作家にあらず
捧頭喝下任師誇 捧頭喝下師の誇るに任す
堪笑伎倆與鼻孔 笑ふにたへたり伎倆と鼻くうと
照看高低日影斜 照らし看る高低日影の斜めなるを
くま訳
作家
臨済徳山はすぐれた力量のある僧というわけではないのだ。
捧喝で気合を入れてくれる先生として自然に誇られていたのである
笑いをこらえねばならぬほど、本物の伎倆と口先のおしゃべりの違いは明らかなのである。
斜めからの日差しであれば、影長く見えて高いように見誤るように、本当の伎倆を見誤るのである
*倆與鼻孔照看高低日影:斜伎倆と口吻と並行せざるをいふ、日影斜なれば低きも高き影に似たり、中天に
沖する時、正に作家の襟度を見るべきなり、偽者は御免で御座るいとふ意(大成脚注)(・口吻:1.口ぶ
り。 言い方。「不賛成の―をもらす」2.口さき。口もと。・襟度:心のひろさ。人を受け入れる量。)
(´・(ェ)・`)つ
659
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/07/30(金) 23:05:43 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
作家なのじゃ。
臨濟徳山などは作家とはいえないものじゃ。
棒で頭を引っぱたいたり、かつをいれたりするから師匠の誇りをもっていたのじゃ。
技量と鼻の穴の差はわらいものなのじゃ。
照らし看る技量の高低は日影が斜めではわからんのじゃ。
660
:
避難民のマジレスさん
:2021/07/31(土) 03:35:19 ID:AaNyLhQ20
くま質問
臨濟徳山は優れた力量がある僧であるとか無いとか、そんな相対的なことではないのだ。
捧喝で気合を入れてくれる指導者としての力量を誇っていただけなのだ。
臨濟徳山は本物の伎倆があることは明らかなので、他の指導者の口先だけのおしゃべりとの違いはお笑いな
ほどである
伎倆の高低の評価は、それを評価する人の視座の高低により異なって捉えられるので、レベルが低い人は正
しく評価できずに、誤解するだけなのだ。
くまは、このように読み取ったのでありますが、
「臨濟徳山などは作家とはいえない」「技量と鼻の穴の差はわらいもの」
と、臨済徳山の力量に付き、一休さんは否定的に捉えていたのでありましょうか?
485
作家 二首 2/2
忍辱仙人常不經 忍辱仙人常に不經
道心須是盡凡情 道心は須らく是れ凡情を尽くすべし
恁麼白浄眞衲子 いんもびゃく浄眞のなっす
可勤観法又看經 勤むべし観法又看きん
くま訳
作家 二首 2/2
釈迦の前世である忍辱仙人は、人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽んずることなく礼拝したという常
不軽菩薩である。
仏道を追求する者は須らく、つまらない感情を棄てるべし
このように清らかな者が禅僧である。
観法、看経の実践に勤めるべし。
*忍辱仙人:釈迦の前世が暴虐な歌利王に四肢や耳・鼻を削がれながらも、怒り恨むことなく耐え忍び、
最後に国王を改心させるという説話あり。(三宝絵・忍辱波羅蜜)
*常不軽:「法華経」常不軽菩薩品に出てくる菩薩。人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽んずること
なく礼拝したという。常不軽菩薩。
*道心:菩提を求める心。仏道を信奉する心
*凡情;凡人の情。凡夫らしい低俗な心。つまらない感情。凡心
*観法:真理と現象を心のなかで観察し念じる瞑想の実践修行法のこと。観の内容は多数に分類される。
*看経:禅宗では「かんきん」と読む。経典を黙読すること。のちに諷経 (ふぎん) ,読経 (どきょう) と
同義となった。また経典を研究するために読む意味でも用いられる。
(´・(ェ)・`)つ
661
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/01(日) 00:05:31 ID:1d4drIFg0
>>660
否定的だったじゃろう。
そもそも大乗には四摂受の教えが在るのじゃ。
布施、愛語、利行、同事の四つなのじゃ。
物や教えを授け、優しく語り、利益を与え、事を同じくするのじゃ。
棒でひっぱたくなどは大乗の作家ではないのじゃ。
それで師匠面をしていては笑い者なのじゃ。
一休は四摂受も知っていたじゃろう。
弟子を導くのに苦労もしていたからそんな者は作家ではないというのじゃ。
662
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/01(日) 00:09:15 ID:1d4drIFg0
>>660
それでよいのじゃ。
作家の二つ目なのじゃ。
忍辱仙人はどんな者でも常に不軽なのじゃ。
道心はすべからく俗気を無くす事が肝心なのじゃ。
俗気がなくなり清浄となれば禅僧なのじゃ。
そのようにして瞑想と看経に勤めるのじゃ。
663
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/01(日) 08:27:19 ID:byGj7T4Y0
486
竹箆背髑 しっぺいはいそく
背髑主山閑話頭 背触は主ざんの閑話頭
誵訛着着沒來由 がうぐわ着着らいゆなし
梨花院落黄昏月 梨花院落くわうこんの月
説向愁人不解愁 説いて愁人に向ってうれひを解かず
くま訳
竹箆という言葉による差別に従い誤るか、従わないで嘘になるか。
背触は、首山省念和尚のちょとした公案である。
誵訛(ごうが)の正しい語源、来歴がはっきりとしないと言う様な話である。
ナシの白い花の咲く中庭で、黄昏の月を見て何を連想するか、(は人それぞれ)
悲しんでいる人に悲しみを説いても、悲しみを解消してやることはできない。(言葉は、解決策をもたらす
とは限らないと言う事である。)
*竹箆背髑:首山省竹箆禅師、竹箆を拈じて衆に示すの語、「汝等若し喚んで竹箆と作さば卽ち觸る。喚ん
で竹箆と作さざれば卽ち背く、諸人宜しく喚んで甚麼と作さん」と。卽ち背せず觸せざる所に於いて、日
用光中とするなり、卽ち他なし、竹箆は竹箆に非ず、卽ち是れ竹箆なり、其の他何の向背かあらん。(大
成脚注)
竹箆:短い警策です。入室の時などに修行者を策励するために使う。
*誵訛:誵は殽の方正しとす、絲の錯雑紛糾して容易にとけざる混雑の様子をいふ、又錯り傳ふる意、展轉
殽誵權を以って實となすの類なり。(大成脚注)
*權:音読み「ケン」「ゴン」訓読み「おもり」「はかり」「はかる」「いきおい」「かり」。元々誤読
だったが、勢いがあったので、正しくなってしまったと言うことでありましょう。
*主山:首山省念和尚 臨済五世の法孫
*愁人:愁人(しゅうじん):① 悲しい心を抱いている人。なやみのある人。② もののあわれを解する人。
風流人。詩人。文人。
*愁人莫向愁人説、説向愁人愁殺人(愁人は愁人に語ってはいけない。愁人に語ればいよいよひどく悲しませ
る。
*無門関四十三則 首山竹篦(しゅざんしっぺい) 洪福寺HPより
首山和尚,竹篦を拈じて衆に示して云く、
汝等諸人,若し喚んで竹篦と作さば則ち触る。
喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。
汝諸人,且く道え,喚んで甚麼(なん)とか作さん。
無門曰く,喚んで竹篦と作さば則ち触る。
喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。有語(うご)することを得ず,無語することを得ず。
速(すみ)やかに道え,速やかに道え。
頌に曰く,
竹篦を拈起(ねんき)して,殺活(せっかつ)の令を行ず。
背触(はいそく)交馳(こうち)す,仏祖も命を乞う。
洪福寺HP 卓道和尚訳・解説抜粋
首山省念(しょうねん)和尚が竹箆を拈じて修行僧たちに言うには、
これを竹箆と呼べばそれは間違いである。
竹箆と呼ばなければそれもまた嘘になる。
それでは何と呼ぶか。
そこを無門が評して、竹箆と呼べば誤る。
竹箆と呼ばなければ嘘になる。
語ってもいけない。黙っても駄目である。
さっさと答えろ、さっさと答えろ。
そこを漢詩に詠って、
竹箆を拈じて命ぎりぎりのやり取りを行っている。
背触(はいそく)が入り混じった処、ここでは釈迦も達磨も命乞いをする。
(´・(ェ)・`)つ
664
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/01(日) 08:29:29 ID:byGj7T4Y0
おまけ:洪福寺HP 卓道和尚訳・解説抜粋つづき
・・今私が首に掛けているこれの名前を皆さんは多分知らない。これは絡子(らくす)と言います。袈裟の
一種で五條袈裟(げさ)とも言います。これを何も知らない人に見せたら何の布きれだろう、なにか切り張
りしたおかしな布だな、テーブルクロスかなとか考えるかもしれません。しかし今私は絡子の説明をして
しまった。皆さんにとってもう一生これは、絡子という坊さんが掛ける小さな袈裟になってしまいました。
これが言葉というものです。
これは片方からの見方ですが、この世界元来何も有りません。禅定の深みではこの世界塵一つ無い。自分
も無ければ世界も無い。無いということも無い。
・・これは竹箆ですよと言えば言葉に落ちてしまう。迷いの世界に落ちてしまう。これは竹箆ではないと
言えば事実目前と異なる。これはこの世界では竹箆です。これは畳、あれは柱。しかし三昧の世界から見
れば何も無い。
平等無き差別(しゃべつ)は仏法に準ぜず、悪差別なるがゆえに、という言葉があります。平等とは禅定で
すべてを空じた境涯です。差別とは今皆さんが見ているこの世界。柱は縦に敷居は横に。生死が分かれ、
有無が分かれ、自他が分かれた相対世界。平等は絶対、差別は相対のことです。平等の裏づけのない差別
は正しい仏教ではない、誤った差別である。
そして、差別無き平等は仏法に準ぜず、悪平等なるがゆえに。この相対の現実世界を離れた平等三昧の世
界、これは正しい仏教ではない。誤った平等である。
・・・背触交馳す。平等と差別が入り混じっている。 これが世界の本来の在り方です。般若心経はそこ
を色即是空、空即是色という言葉で現わしています。
色が差別、相対の世界。空が平等、絶対の世界。色がそのまま空、空がそのまま色。平等を離れて差別の
世界はない。差別を離れて平等の世界は無い。首山竹箆はこの辺の消息を語った則です。
私たちはどうしても言葉に執われてしまいます。竹箆といえばああそれは竹箆なんだ、警策といえば警策
なんだと。その通りなんです。この差別の事実を離れて別に平等三昧の世界があるわけではない。確かに
何も無くなってしまう境地というのもあるのでしょう。しかしその無に住(とど)まっては何の用(はた)ら
きもない。深い穴倉です。
・・・正面にお釈迦様、獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普賢菩薩が両脇にいらっしゃる。あの三尊は
釈尊という完成された存在をあえて、平等の智慧、空の世界を象徴した文殊菩薩と、差別の智慧、用(は
た)らきの象徴普賢菩薩に分けたものです。体(たい)である文殊、用(ゆう)である普賢。これが即の関係
にある。体(たい)即用(ゆう)、何もない本体がそのまま用(はた)らく。それを体現したのが中心の釈尊で
す。
我々が日常誦んでいる般若経典に金剛経というものがあります。これは空という言葉を使わずに空の世界
を説いた経典です。例えばこういう説き方をします。世界は世界に非(あら)ず、これを世界と名づくと。
世界は世界ではない、それを世界と名付けている。今日の則ならば竹箆は竹箆に非ず、これを竹箆と名づ
く。竹箆は竹箆ではない、それを竹箆と名付ける。
一度禅定で天地と一体になる、世界は世界に非ずの処です。その天地と我と一体、万物と我と同根という
境涯の裏付けのもとにこの相対世界に戻って来る。
世界は世界に非ずと三昧に入り、それを裏付けにそれを世界と名づける。空の裏付けにおける色の世界。
世界は世界に非ず、これを世界と名づく。竹箆は竹箆に非ず、これを竹箆と名づく。
無門曰く,喚んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。有語することを得ず,無語
することを得ず。速やかに道え,速やかに道え。竹箆と呼んでも駄目、竹箆と呼ばなくてもいかん。語れ
ば誤るからと黙ってもいけない。そこで詰め寄る、さあ言ってみろ。皆さんのあれやこれやの思い、言葉、
概念、理屈、分別。それを一度きれいさっぱり無くして、まっさらになった自分の一言。
私たちが言葉を使うのは、それが便利な約束事だからです。・・・言葉というのは約束事の集まりです。
その言葉に引っ掛からない。
・・・さて、この短い平らな竹の棒、これをなんと呼ぶか。
・・・竹箆と呼ぶのも約束事です。この言葉という約束事を離れてこれを何と呼ぶか。
頌に曰く、 竹篦を拈起して,殺活の令を行ず。背触交馳す,仏祖も命を乞う。この首山和尚もこの竹箆
の問いで見性しています。ぎりぎりのやり取りです。仏も祖師も言葉では表せません。ここは皆さん各人
に苦労していただくところです。
(´・(ェ)・`)b
665
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/01(日) 23:50:39 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
竹箆背触なのじゃ。
背触は主山の閑話の頭なのじゃ。
着々として糸がもつれるように由来もわからぬものなのじゃ。
梨花院に落ちる黄昏の月なのじゃ。
愁人に向かって説くも愁いは解けないのじゃ。
666
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/02(月) 02:07:52 ID:e1PCX0Dg0
487
病中 二首 1/2
破戒沙門八十年 破戒の沙門八十年
自慚因果撥無禪 自ら慚づ因果撥無の禪
病被過去因果果 やまひは過去因果の果をこうむる
今行何謝劫空縁 今何を行じてか劫空の縁を謝せん
くま訳
病中 二首 1/2
破戒の修行僧として八十年
自ら愧じているのである、因果の法理を否定する邪見を用いたことを。
病は因果の果を被るのである。
今何を行じて、永遠のご縁に表わしたらよいものやら。
くま質問:一休さんは、因果の法理を説く為に、自分の病に託けて、「自慚因果撥無禪」と詠んでるのであ
りましょうか?
*野毛孝彦先生解説
「婬犯肉食」による「破戒沙門八十年」の禅であった。鉗鎚 、鉗鎚 、また鉗鎚 、比類なき厳峻の師の
下で一休が参学し得たも一のは、その師華叟さえも絶対否定することによって自己を証する自己存在の在
り方であった。亡き謙翁のひそみに習い、華叟から与えられた印可の証を断固拒否した一休の態度になに
よりもそれが如実に示されている。
*因果撥無(いんがはちむ)483の詩:因果の理法を否定する邪見。道元禅師は、「百丈野狐話」の不落因
果を撥無因果とし、これによりて悪趣に堕す。としている。
*空劫:世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間
(´・(ェ)・`)つ
667
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/02(月) 23:19:47 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、病は過去の因果が還って来たせいだというのじゃ。
何もかも無であると説いてはいかんのじゃ。
それは邪見なのじゃ。
因果はあると説くべきなのじゃ。
668
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/02(月) 23:22:18 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
病中なのじゃ。
破戒の沙門として八十年経てきたのじゃ。
因果は無いと説いてきた禅を愧じるのじゃ。
病は過去の因果を被ったからなのじゃ。
今はどのようにして劫空の縁を謝れば善いのであろうか。
669
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/03(火) 03:58:07 ID:X242MX.E0
くま訳改
今はどのようにして劫空の縁を謝ればよいものやら。
488
病中 二首 2/2
美膳誰具一双魚 美膳誰か具す一双のうを
小艶工夫日用虚 小艶に工夫日用虚し
淫色吟身頭上雲 淫色吟身とう上の雪
目前荒草末曾鋤 目前の荒草いまだかつて鋤かず。"
蔭木英雄先生訳・解説抜粋
食膳に誰がうまい二匹の魚を添えてくれるのだ(誰からも手紙が来ない)
だから小艶詩を作る日用の工夫(下化衆生の大乗行)も空しい
色欲に耽り詩を吟じて頭も白髪となり
目前の煩悩を除くこともせぬ。煩悩即菩提じゃ。
「・・釈尊一代の教えは、仏性を説き明したものではないのですか」という質問に対する臨済義玄の、
荒草曾て鋤かず(衲は胸中の荒草を一度も刈った事はない。無明の実 性が即ち仏性なのじゃ)。
という返答に拠っている。婬色の小艶詩の虚しい工夫が、即ちそのまま仏性である一とは言うものの、
承句を吟ずる一休の心中には、微かな後めたさが有ったのではなかろうか。
くま訳
病中 二首 2/2
誰からも手紙が来ないのである。
小艶詩の作詞に日用の工夫を凝らす虚しい日常である。
淫色の吟を詠む頭は雪のようにな白髪になってもうたのだ。
目前の雑草のように、煩悩もありのままだ。
*双魚:遠来の客が置いていった2匹の鯉 (こい) の腹中に手紙があったという「古楽府 (こがふ) 」
の故事から、手紙のこと。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/946
参
*くま質問
因果はあると説きつつ、ありのままの煩悩=ありのままも自分を観察して詩に詠む修行法を説いているので
ありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
670
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/03(火) 23:15:26 ID:1d4drIFg0
↑ 淫色に囚われていれば修業もままならんということじゃな。
異性に気を取られているうちに白髪のじじいになってしまうぞというのじや。
そんな感じなのじゃ。
美膳に誰が一双魚を具えてくれるのじゃろうか。
小艶の工夫も日用には虚しいものじゃ。
淫色を吟ずるうちに頭は雲がかかったようじゃ。
目の前の荒草も末だ鋤をくわえていないのにのう。
671
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/03(火) 23:58:33 ID:t.qNfAT20
489
言外和尚 ごん外和尚
端無滅卻大燈家 端無く滅卻す大燈の家
鐵眼銅晴劍樹牙 鉄眼銅ぜい劍樹のげ
一句分明言外語 一句分明言外の語
親聞華叟若曇華 親しく聞く華叟はどんげのごとしと
くま訳
言外和尚 言外宗忠和尚
はからずも、(養叟が法を継いだことにより)大燈禪の家風を滅却してしまったが、
優れた眼力、鋭い舌鋒を備えており、
言外和尚の言葉は、一言一言が明快であった。
親しく知る人に聞くところによると、華叟のことを、三千年に一度、仏の出現するときなどに開くといわれ
る伝説の花、曇華のようだと評価していたそうだ。
*言外和尚:言外宗忠(ごんがい そうちゅう):1305-1390徹翁義亨(てっとう-ぎこう)の法嗣。華叟の
師匠。大徳寺7世住持。のち尼崎に広徳寺をひらいた。
*1422(応永29)一休さん29歳、言外宗忠の33回忌に一休は粗末な着物をまとって参列する。この頃より
風狂と言われ始める。
*華叟 宗曇(かそう そうどん)1352-1428 8歳にして大徳寺の徹翁義亨に投じ、14歳で出家。のち徳禅
寺の言外宗忠に参じ、印可を得る。近江堅田に祥瑞寺をひらき、住持した。門弟にはのちに大徳寺派の主
流派となる一休宗純や養叟宗頤など。
*端無(はしなく):① 思いがけなく、偶然であるさまを表わす語。はからず。ふと。ゆくりなく。
② そのまま。ただちに。
*曇華一現(どんげいちげん):めったに起こらないはずのことが身に起きたときの喜び。心配事が突然解
決したときのうれしさ。
雲間が一瞬晴れたときに、花の色がパッと目に入ってくる喜びの意から。「曇華」は、三千年に一度、仏
の出現するときなどに開くといわれる伝説の花。「曇華どんげ一ひとたび現げんずるが如ごとし」の略。
*うむ。大應、大燈、言外、華叟、と清貧の中で受け継がれてきた禅風を、養叟がぶち壊したと、許さんぞ
と、発信し続ける一休さんでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
672
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/04(水) 23:15:51 ID:1d4drIFg0
だいたいそんな感じじゃな。
言外和尚だというのじゃ。
大燈家の禅で心身を余すところ無く滅却したのじゃ。
鉄の眼、銅の瞳、剣の樹のような口なのじゃ。
ただ一つの句で言外の語まで分明にできたのじゃ。
親しく聞くところによれば師匠の華叟和尚を三千年に一度に咲く優曇華の花のようじゃと言ったのじゃ。
673
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/04(水) 23:38:54 ID:NGSYiiHI0
くま訳改
第一句:大燈家の禅で心身を余すところ無く滅却したのだ。れた眼力、鋭い舌鋒を備えており、
490
病
馬祖不安閑話頭 馬祖不安の閑話頭
毘耶杜語不勝愁 びや語をとぢて愁ひにたえず
夜夜苦吟三十歳 夜夜苦吟す三十歳
月滿茂陵桂樹秋 月は滿つ茂陵桂樹の秋
くま訳
病
馬祖が病気になった際の公案
毘耶に住まわれていた 維摩居士が不二の法門に付き問われた時に黙したことは、残念でならない。
毎夜、苦労して詩をひねり出す三十歳
月は満ちて、司馬相如が糖尿病療養のために住んだ茂陵から、中秋の名月には桂樹が見えのだろうか?
*馬祖道一(ばそ どういつ)709-788唐代の禅僧。諡は大寂禅師。
*馬祖不安 『碧巌録』第三則
日面仏月面仏 にちめんぶつがちめんぶつ
擧。馬大師不安。 こす、馬大師だ不安。
院主問。和尚。近日尊候如何。 院じゅ問う、和尚、近日尊候いかん。
大師云。日面佛月面佛。 大師云わく、にち面仏がち面仏
不安:病気になること
院主:寺務を主宰する役
日面仏:賢却(けんごう)千仏(現世において出世される千人の仏さまたち)の第五十八仏で、千八百
歳という寿命の長い仏さん。
月面仏:賢却千仏の第二百二仏に当たり、一日一夜という寿命の短い仏さま。
馬祖は千八百歳まで生きる仏さまもあれば、一日一夜の仏さまもあるではないか、病気など気にするな、
「生きるもよし、死ぬるもよし」と、言いきった。
*毘耶(びや):古代インドのの首都。釈迦は民衆教化のために、たびたびこの地を訪れ、在家の仏弟子で
ある維摩詰もこの地に住んだ。また釈迦の滅後に、この地で第二回の仏典結集が行われた。
*杜:とじる、ふさぐ
*維摩一黙:ことばで説明するより、黙っていたほうがよい、ということのたとえ。
維摩経の「入不二法門品」 『維摩が、不二の法門に入るとは、どのようなことであるかを菩薩たちに質
問をしました。 菩薩たちは、「善と悪は不二」、「生と滅は不二」、「汚れと清らかさは不二」などと
次々に答え、最後に、文殊菩薩が、「不二とは言葉では説明ができないことである」と説きました。そし
て、文殊菩薩は、維摩に「不二の法門に入るとは、どのような ことですか」と質問しましたが、維摩は、
黙ったまま、ひとこともしゃべらなかった。』というお話しのようです。 仏教で説く法は、言葉で説明
ができないということを、維摩という在家の信者が、言葉を使わず態度で示した ということと思います。
昔からこの場面を、「維摩の一黙、雷の如し(らいのごとし)= ”維摩の黙ったようすは、まるで雷の
響きがあたり一面にいきわたるようだ”」と、たとえられてきたようです。 つまり、それだけ、「維摩
の一黙」には、大きなちからがある、ということかと思います。
*茂陵(もりょう):司馬相如、病渇を養ふために家居せし處なり。(漢の武帝の陵墓)
(´・(ェ)・`)つ
674
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/04(水) 23:42:38 ID:NGSYiiHI0
*桂樹:月に生えているとされる想像上の木。
*おまけ1.馬祖道一(ばそ どういつ)709-788唐代の禅僧。諡は大寂禅師。
懐譲の法を嗣いだ。百丈懐海や南泉普願など嗣法の弟子は、それぞれが数多くの語録を残すので、後の禅
宗に語録を重視する傾向をもたらし、やがてそれは公案を重視する臨済宗へと発展していった。
馬祖は、後世の禅僧の名に見られる道号などとは異なり、道一の俗姓である馬氏によるもの。そのニュア
ンスを日本語化すれば、「馬おじさん」や「馬家の師匠」と呼んでいるのと同じこととなる。柳田聖山が
「純禅」と称する初期の禅宗徒の気風の一端を表すものである。
また、馬祖の生家は箕(み)を作っていたが、開悟の後、名声を得て故郷に里帰りした所、近所の老婆に、
「なんだ、偉い坊さんが来たと思ったら、箕の屋の小せがれではないか」と言われ、それきり、故郷に帰
らなかったというエピソードがある。
思想:馬祖禅とも呼ばれるその禅思想では、禅宗で初めて経典や観心によらずに日常生活の中に悟りがあ
る大機大用の禅を説き、「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)、「即心即仏」など一言で悟りを
表す数多くの名言を残している。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法を始め、これによって多
彩な弟子を育て、遂には禅の正系の座を荷沢宗より奪ってしまった。
*おまけ2.維摩居士(Wikipedia)解説: 維摩詰が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧
めたが、舎利弗や目連、大迦葉など・・は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。・・
そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。
そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、
維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じな
がら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している。
大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用され
た。一休宗純などはその典型的な例であると考えられる。
(´・(ェ)・`)b
675
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/05(木) 23:51:44 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
またまた病なのじゃ。
馬祖の病の公案なのじゃ。
毘耶で後を閉ざすは愁いに勝てないのじゃ。
夜夜苦吟すること三十年なのじゃ。
月満ちるは茂陵の桂樹の秋なのじゃ。
676
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/05(木) 23:59:57 ID:sK2H.r2w0
491
泉涌寺僧行捧 泉にゅう寺の僧捧を行ず
八稜八尺倚長天 八稜八尺長天による
拈起向秋山面前 ねん起して秋ざんが面前に向ふ
衲子當機拱手處 衲子當機に当たって手をこまねくところ
洞山三頓徳山捧 洞山の三とん徳山の捧
くま訳
泉涌寺の僧は棒を振るって修行するのである
八稜(八咫鏡(やたのかがみ))八尺(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))倚長天(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))三種の神器(伝統)みたいなものである。
棒をを立てて、秋山の上賀茂神社の面前に向うのである
他が手をこまねいてる場面でも、禅僧は、臨機に対応するのだ。
洞山は雲門に三頓六十棒くらい、徳山は常に棒で打って指導したのである
*泉涌寺僧;泉涌寺雲龍院の後小松天皇廟を訪れて詠んだ詩には、「庭前に王孫草のあることを知り」とあって、
一休が王孫であるかのような思わせぶりを書いている。
*一人行棒 ひとりぎょうぼう
一人行喝 ひとりぎょうかつ
総不親 すべてしたしからず
座禅のとき、修行僧を励ますために警策(きょうさく)という棒を使う、
または喝と大声をかける。
どちらがよりよい教えなのかを決めつけることはできません。"
*三種の神器、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸
命)に授けた三種類の宝器であるところの鏡と剣と玉(璽)、すなわち、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢
雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙剣、読み:くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのま
がたま)の総称である。 八稜八尺倚長天をこれに当てはめてみた。これで良いのか不明であります。
八稜・・・八咫鏡(やたのかがみ)
八尺・・・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
倚長天・・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
*拈起:採り上げて起てること。上堂や小参を行う場合の師家の動作を示す。
*洞山三頓の棒という公案:洞山守初が、師の雲門分堰から「どこから来たか、どこで過ごしたか」などと
問われたので、これまでの行脚のあとをこまごま答えると、雲門は「このうつけ者が。三頓の棒をくれて
やるところだが勘弁してやる、即刻立ち去れ。」と叱らはった。何がなんだか分からない洞山は、再び雲
門に参じ、自分の答えのどこが悪かったのかを問いなおすと、またもや大声で叱りつけられはった。けど
その瞬間、洞山は師が何を求めようとされていたのかが分かり、初めて悟ることが出来たというのです。
そして、悟りというものは師や周りからもらえるものではなくて、自分への問いかけの中から見つけ出し
つかむもの。そのためには、心の中のこだわりを一切捨て切り、爽やかな心に立ち返りなさい、それが分
からない者は棒で叩くよりない、というのがこの公案の教えるところやということです。
*秋山:地名か?:京上賀茂・秋山・
上賀茂神社:神話の時代から続く京都で最も古い神社のひとつ。ご祭神は、神武天皇の御代に賀茂山のふ
もとに降臨したといわれている賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
(´・(ェ)・`)つ
677
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/06(金) 00:07:50 ID:sK2H.r2w0
くま質問
「馬祖の病の公案」
「毘耶で後を閉ざすは愁いに勝てない」
とは、どういう意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b
678
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/06(金) 23:46:07 ID:1d4drIFg0
間違えたのじゃ。
後ではなく、語を閉ざすのじゃな。
口を閉ざすのでは愁いに勝てないのじゃ。
その後にわしは三十年苦吟してきたのじゃというのじゃ。
黙っていてはわからんから何か言えというのじゃな。
679
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/06(金) 23:57:05 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
泉涌寺の僧は捧を使って修業なのじゃ。
棒は八稜八尺倚長天の神器に匹敵する僧にとっての宝なのじゃ。
棒を捧げて秋山の面前に向かうのじゃ。
僧が機に当たって手をこまねくような場面でも、
洞山は三頓の棒を食らい、徳山も捧をふるうのじゃ。
680
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/06(金) 23:59:35 ID:8qJr3Mus0
「お」から始まる法語である.去年の6月末ころ載せるべきであったが、失念したのである。
577
示會裡徒法語 ゑ裡の徒に示す法語
凡参禪學道 およそ参禪学道は
須勦絶悪知悪覚 須らく悪知悪覚をさう絶して
而至正知正見也 而して正知正見に至るべきなり
悪知悪覚者 悪知悪覚なるもの
古則話頭経論要文 古則話頭経論要もん
学徳参得坐禅観法労而無功者 学徳参得坐禅観法労して而して功無き者なり
如是輩當代四百四病一時發 かくのごときともがら当代し百し病を一時に発す
爲人所辱是情識之血氣也 人の為に辱めらるる是れ情識の血氣なり
對閻老面前有甚伎倆乎 閻老面前に対して、なんの伎倆かあらんや
獅子尊者斷頭白乳顯露分明也 獅子尊者かうべを断ってびゃく乳けい露分明なり
正知正見者日用坐斷涅槃堂底工夫 正知正見なる者の日用涅槃堂に坐断する底の工夫
全身堕在火坑 全身火坑に堕在す
子細看之苦中有樂 子細に之を看れば苦中に樂有り、
若能見得不昧撥無因果之境 若し能く見得せば、発無因果の境にくらまず。
若見不得永不成成佛漢 若し見不得なれば、永く成佛の漢ならず
可懼可懼 おそるべしおそるべし
くま訳
我が弟子達に示す法語
およそ、仏道修行をする者は
悪智恵や悪い記憶を根絶して
正しい智恵と正しい物事の見方を身につけねばならない。
悪智恵や悪い記憶を持つものは、
古則・公案や 経論の中の重要な文句に取組んで、学問と徳行を実践したり、
参禅して真理を体得する為、坐禅を組んで、心中に悟道を黙想しても、
苦労ばかりで効果がないのである。
このような者は、今この時に、あらゆる病気に一時に罹ったような者である
他者から辱めを受けていると感じるのは、迷いの心がそう思わせるのである
閻魔様の面前に出たときに、どんな技量が役立つというのだ
西天(インド)二十四祖の師子尊者は既に生死を離れていたので王により首を切り落とされるに際しても命を惜
しまなかったが、王は勢いよく噴出した白乳により右ひじを切り落とされたという故事が明らかに示してい
る。
正しい智恵と正しい物事の見方を身につけたものは、常日ごろから、死を目前にした者のような覚悟で悟り
を得るために工夫を凝らすのである。
全身が地獄の火の穴にいるような煩悩の苦しみに苛まれたままに留まるのである。
詳細にこれを観察すれば、その苦しみの中に楽があることを発見できるのである。
もし発見することができれば、因果は無いとする考えに陥って、惑わされる事もないのだ。
もし発見することができなければ、永く成仏できなくなるのである。
恐ろしいことである。怖ろしいことである。
*勦絶(そうぜつ):滅ぼしつくすこと。皆殺しにすること。勦滅(そうめつ)。
*話頭:古則・公案の一節。または、その一則のこと。
*要文:経論などの中の重要な文句。また、文章の大切なところ。
*学徳:学問と徳行 *参得:参禅して真理を体得すること。
*坐禅観法:坐禅を組んで、心中に悟道を黙想すること
*労而無功者:苦労ばかりで効果がない。
*四百四病:人間がかかる一切の病気の総称。人間の体を構成する地・水・火・風の四つの元素の不調によ
り、一々の元素に百一の病がおこり、合わせて四百四と数えるものが代表的。
*情識:心。迷いの心。
*血気:1 血液と気力。生命を維持発展させる力。活力。2 向こう見ずで盛んな意気。客気。血の気(け)。
*火坑:火の燃えている穴。特に地獄にある火の穴。また、煩悩の恐ろしさを火にたとえてもいう。かこう。
(´・(ェ)・`)つ
681
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/07(土) 00:02:13 ID:8qJr3Mus0
*おまけ
二十四祖師子比丘尊者(續藏經 祖庭指南 清 徐昌治編述 中国語HPより)
中印度人。姓婆羅門。得法遊方。至罽賓國。・・・時本國有外道二人。一名摩目多。二名都落遮。學諸幻法。
欲共謀亂。詭為釋子。潛入王宮。其王彌羅崛遂滅毀釋教。秉劍至尊者所。問曰。師得蘊空否。祖曰。已得蘊
空。王曰。離生死否。祖曰。已離生死。王曰既離生死。可施我頭。祖曰。身非我有。何怯於頭。王即揮刃斷
尊者首。白乳涌高數尺。王之右臂。旋亦墮地。七日而終。・・・
師子尊者の話(瑞雲院法話のページ HP出典「景徳伝灯録巻第二。第二十四祖師子比丘」)
西天二十四祖の師子尊者は、中インドの婆羅門の家に生まれ、二十三祖の鶴勒那(かくろくな)尊の法を嗣
いだ。その後、諸方を遊行してカシミール国に至り、その地で多くの人々を教え導いたので遠近に名が知れ
渡った。
・・・そのときその国に様々な幻法を学んだ二人の外道がいた。その二人は乱を起こすことを計画し、失敗
したら仏子に罪を着せようと偽りの仏衣をまとい、ひそかに王宮に潜入し悪事をおこなった。しかし災いは
自らに還りことは失敗した。ところが偽りの仏衣に欺かれた王は怒って言った。「我れ心を仏法僧の三宝に
帰依するに、何ゆえこのような害を及ぼすのか」王は命じてすぐに寺を破壊し、僧を追放し、そして自ら剣
を取り尊者のところに来て言った。「師、存在の空なることを得たるや否や」「空なることを得たり」「生
死を離れたるや否や」「すでに生死を離れたり」「すでに生死を離るれば、我れに頭を施すべし」「身は我
が有に非ず。何ぞ頭を惜しまん」王はたちまち剣を振るって尊者の首を断った。すると白乳の湧くこと高さ
数尺におよび、同時に王の右肘も地に落ち、七日後に王は亡くなった。
(´・(ェ)・`)b
682
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/07(土) 00:11:11 ID:8qJr3Mus0
>>676
くま訳改
第三句;僧が機に当たって手をこまねくような場面でも、
第四句:洞山は三頓の棒を食らい、徳山も捧をふるったのだ。
(´・(ェ)・`)b
683
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/07(土) 23:47:19 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
会の衆に示す法語なのじゃ。
凡そ参禅学道の者は
すべからく悪知、悪覚を断つべきなのじゃ。
そして正知、正見に至るべきなのじゃ。
悪知、悪覚なる者は
古則や公案や経論や要文を学び
座禅や観法に労しても功が無い者なのじゃ。
このような輩が今四百四の病を一時に発し、
人のために辱められるはこれ情識の血気のせいなのじゃ。
死んで閻魔王の面前で何の技が通用するというのか。
獅子尊者は頭を断たれても首から白乳現れ奇跡によって成果が分明なのじゃ。
正知正見者は日用の涅槃堂に坐断する心底の工夫は、
例えば全身が火の坑に堕ちて在ろうとも、
仔細に観察すれば苦の中にも楽があると気づくというようなものじゃ。
もしそのような工夫を能く見得すれば因果が無いというような魔境にくらまされないのじゃ。
もし見えないならば、永く成仏のものにはなれないのじゃ。
おそるべしおそるべしなのじゃ。
684
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/07(土) 23:59:25 ID:4YRIQTTc0
492
食籍 じき籍
飯縁食籍聊茶湯 飯縁食籍いささかさとう
竹縛菊籬梅補墻 竹は菊りをばくし梅かきを補ふ
人間世諦盡餓死 人間の世たいことごとく餓死
地獄遠離安樂長 地獄をん離して安樂長し "
くま訳
食籍
食にあり付くご縁、生涯で何を食べてきたかの履歴、多少の茶の湯
竹は菊のまがきを縛り、梅のかきねを補う。(竹は仏縁の譬えでありましょうか?)
人間は、餓死するのがほとんどであるというのが常識である。
地獄を遠ざけて、安楽に長生きするのである。(うむ。でそのために、諸悪莫作 衆善奉行 でありますね。)
*食籍:中国語・生涯で各人が消費した食べ物を記録する冥界の迷信伝説の本を意味
*茶湯(チャトウ・さとう)仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう"
*籬(り・まがき):竹・柴(しば)などをあらく編んで作った垣。ませがき。
*墻(かき):壁・へい・かき・かきねな"
*世諦:① 世間一般の常識または約束で真実とされるもの。世間の人が知っている事柄。世俗諦。② 仏事
のための費用。"
*遠離(おんり・えんり):① 遠く離れること。また、遠くへ離すこと。② 仏語。あらゆる煩悩(ぼんの
う)のきずなから解放されたさとりの境界である無為をいう。〔維摩経〕
(´・(ェ)・`)つ
685
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/08(日) 11:49:14 ID:eGHIm0Xk0
くま訳改
9行目:このような輩が今四百四の病を一時に発し、
10行目:人のために辱められるはこれ情識の血気のせいなのだ。
(´・(ェ)・`)b
686
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/08(日) 22:57:12 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
食籍なのじゃ。
飯縁食籍あればいささかでも茶湯にして仏に供養すると善いのじゃ。
竹も菊籬を縛り、梅も垣根を補うように食籍を役立てるのじゃ。
そうすれば人が悉く餓死することになろうと
地獄を遠離して長く安楽でいられるのじゃ。
687
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/09(月) 00:05:56 ID:sKKZB2ek0
くま訳全面改
食籍
飯縁食籍あればいささかでも茶湯にして仏に供養すると善いのだ。
竹も菊籬を縛り、梅も垣根を補うように食籍を役立てるのだ。
そうすれば人が悉く餓死することになろうと
地獄を遠離して長く安楽でいられるのだ。
493
南園殘菊 南園殘ぎく
晩菊東籬衰色秋 晩ぎく東籬衰しょくの秋
南山且對意悠悠 南山且つ對して意悠悠
三要三玄都下識 三要三玄すべてしらず
淵明吟興我風流 淵明が吟興我が風流
くま訳
南園の殘菊
東側のまがきの菊も色衰える晩秋
その時も南山を眺める心はゆったりとしている。
玄妙な真理の仕組みを全く知らなくても、
陶淵明の詩情を我が事としてその風流を味わうことはできるのだ。
*南園殘菊:陶淵明の詩に「菊を東籬の下に採り、悠然として「南山を見る」と(大成脚注)
俗世間から離れ、心にもの思うこともなく、自然を楽しんで生きる心境を現すことば。
[由来] 陶淵明の「飲酒」という詩の一節から。勤めを辞めて故郷に帰り、自然と一体になって暮らす心
境を、「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る(東の垣根のところで菊の花を折り取り、ゆったりと
した気持ちで南方に見える山を眺め見る)」とうたった。
*おまけ1「飲酒」 其の五、陶淵明
結廬在人境 いおりを結んでじんきょうにあり
而無車馬喧 しかも 車馬の かまびすしきなし
問君何能爾 君に問う 何ぞ よく しかるや と
心遠地自偏 心遠ければ 地 おのずから へんなり
采菊東籬下 菊をとる とうりのもと
悠然見南山 ゆうぜんとして南山を見る
山気日夕佳 さんき にっせきに よく
飛鳥相与還 ひちょう あいともに かえる
此中有真意 このうちに真意あり
欲弁已忘言 べんぜんと欲すれば すでに げんをわする
藤原鎌足公 孫 45代 先生訳
私は隠居の庵を人の住んでいる所で営んでいる(普通は人里離れた所だが)。
しかし、訪問客の乗り物である車馬の音が騒々しい事はない。
どうしてそんなことができるのか、と貴方に問う(自問自答)
「心を遠い境地(超然とした心情)に馳せていれば、住んでる場所も自然と辺鄙になるのだよ」と。
東側のまがきのもとで菊を摘み
心 ゆったりとして南山をながめる。
山の気配は 日暮れ時こそ すばらしい
鳥たちも群れになって 山のねぐらに帰ってゆく。
こう言う生活、こんな自然の風景の中にこそ 人生の真意が込められている
この素晴らしさを言葉で言い表わそうとしても 言うべき言葉を忘れてしまった。
(実に 何とも言えない満ち足りた心境なのだ)
(´・(ェ)・`)つ
688
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/09(月) 00:11:32 ID:sKKZB2ek0
おまけ2「臨済三句」「三玄三要」(臨済録 上堂9)
上堂。
(臨済の三句)
僧問:「如何是第一句?」 僧問う、「如何なるか是れ第一句」と。
師云:「三要印開朱点側,未容擬議主賓分」。 師云く、「三要印開して朱点側(そばだ)つ、未だ擬議を
容れずして主賓分かつ」と。
問:「如何是第二句?」 問う、「如何なるか是れ第二句」と。
師云:「妙解豈容無著問,沤和争負截流機」。 師云く、「妙解(みょうげ)豈に無着(むじゃく)の問を容
れんや、沤(オウ)和争(いか)でか截流(せつる)の機に負
(そむ)かん」と。
問:「如何是第三句?」 問う、「如何なるか是れ第三句」と。
師云:「看取棚頭弄傀儡,抽牽都来裏有人」。 師云く、「棚頭(ほうとう)に傀儡を弄するを看取せよ、
抽牽(ちゅうけん)都来(すべ)て裏に人有り」と。
(三玄三要)
師又云:「一句語須具三玄門, 師又云わく、「一句語に須らく三玄門を具すべく、
一玄門須具三要,有権有用。 一玄門に須らく三要を具すべくして、権有り用有り。
汝等諸人,作麼生会?」下座。 汝等諸人、作麼生(そもさん)か会す」といって下座す。
禪と悟りhpより抜粋①
注:
印開する:印章を押す。
朱点(しゅてん)側(そばだ)つ:赤い色模様がくっきり出てくる。
主賓分かる:主体と客体に分離する。
妙解(みょうげ):文殊菩薩の悟りの智慧。
無著(むじゃく):五台山に現れた文殊菩薩と問答したという
華厳寺無著(「宋高僧伝」二十)のこと。
?和(おうわ):梵語ウパーヤの訳。仮に応用する方便。
棚頭(ほうとう):舞台。
抽牽(ちゅうけん):引くこと。
三玄門:古来、玄中玄(理)、句中玄(智)、体中玄(行)などの
3つに分けられているが具体的内容は不明である。
権有り用有り:権は方便のことで実に対する言葉である。
用は作用や働きのこと。
現代語訳
上堂するとある僧が尋ねた、
「師は三句をもって修行者を指導されるとのことですが、禅の第一句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「それを印章に譬えて言うと、三要(さんよう) の印を押してから持ち上げると、赤い色模様がくっきり出
てくる。そのように憶測を入れる余地もなくはっきりと主・客が分離して顕現する」。
僧が質問した、
「では第二句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「文殊菩薩の悟りの智慧は無著(むじゃく)の問いを寄せ付ける余地も無い。その智慧の力は煩悩の流れを断
ち切る働きをする」。
僧が質問した、
「では第三句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「舞台であやつり人形がいろいろ演技する。それはみな裏であやつる人がいるからだとはっきりと見取るが良い」。
師はさらに、
「いま三句を説明したが、この三句の内どの一句にも三玄門が具(そな)わっていなければならない。一玄門
には三要が具(そな)わっていなければならない。そうなれば方便も働きも出てくるのだ。諸君、そこをどの
ように会得したかな?」と言って座を下りた。
(´・(ェ)・`)b
(1/3)
689
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/09(月) 00:24:25 ID:sKKZB2ek0
禪と悟りhpより抜粋② 三玄門の解釈とコメント①
この上堂説法は臨済の「三玄三要」の思想とされる。
古来、三玄門は玄中玄(理)、句中玄(智)、体中玄(行)などに分けられるとされる。・・・
第一句から第三句までの説明は論理的で筋が通ったものである。・・・
第一句とは
「それを印章に譬えて言うと、三要の印を押してから持ち上げると、赤い色模様がくっきり出てくる。
そのように憶測を入れる余地もなくはっきりと主・客が分離して顕現する」と説明している。
この三要の印や朱点とは何を指しているかわからない。
しかし、印鑑を押してから持ち上げると印がはっきりと現れるように、脳の記憶作用や判断・認識作用を指
していると思われる。
最後の「主賓分かる」も主・客が分離する、分別意識(=理知)の働きを言っていると考えられる。
そのように考えると、
第一句は分別智(理知の本体である上層脳の働き)を禅の立場から比喩的に説明していると思われる。
第二句の説明で臨済は、「文殊菩薩の玄妙な智慧は無著(むじゃく)の問いを寄せ付ける余地も無い。
その智慧の方便は無明の流れを断ち切る働きをする」と言っている。
第二句のキーポイントは
妙解(みょうげ)(文殊菩薩の玄妙な智慧)と無著(むじゃく)の問いにある。
妙解(みょうげ)(文殊菩薩の玄妙な智慧)とは仏教の悟りの知恵である無分別智(下層脳中心の脳から生ま
れる悟りの智慧)を指していると考えることができる。
これに関連すると思われる文殊菩薩と無著(むじゃく)の問答が碧巌録第35則にある。
そこでは無著は文殊の問いに対してトンチンカンな返答をする未熟な禅僧として描かれている(「碧巌録」
第35則を参照)。
これより無著(むじゃく)の問いとは文殊の無分別智には及ばない、分別智(理知=第一句)の段階にある
無著(むじゃく)の境地を指していると考えることができる。
そのように考えると、第二句は「文殊菩薩の無分別智(玄妙な悟りの智慧)は無著(むじゃく)の分別智を寄
せ付ける余地も無い。
文殊菩薩の智慧の方便(=無分別智)は煩悩の流れを断ち切る」と言って禅の基本的立場を説明しているこ
とが分かる。
即ち第二句は無分別智(=玄妙な悟りの智慧)を指していると考えることができる。
第三句は「舞台であやつり人形がいろいろ演技する。それはみな裏であやつる人がいるからだとはっき
りと見取るが良い」である。これは人間をあやつり人形に譬えて説明している。
人間はあやつり人形のような存在であり、舞台裏でそれを操る人(無位真人=脳)を看取せよと言っている
のである。あやつり人形とは肉体であり、舞台裏でそれを操る人とは脳や無位真人と考えて良いだろう。
そのように考えれば第一句は分別智(上層脳中心の理知)、第二句は無分別智(下層脳中心の智慧)、第三
句は脳全体(上層脳+下層脳)について言っていると考えることができる。
このように考えると、臨済の言っている「三玄三要」とは、
①分別智(上層脳)、
②無分別智(下層脳中心の脳から生まれる悟りの智慧)
と③それを一つにした全脳(上層脳+下層脳)
の三つの法門のことだと考えることができる。
(´・(ェ)・`)b
(2/3)
690
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/09(月) 00:30:19 ID:sKKZB2ek0
禪と悟りhpより抜粋③ 三玄門の解釈とコメント②
三玄三要
「三玄三要」は分別智(上層脳)、無分別智と全脳の三法門のこと
臨済は「禅は常にこれらの三つの玄妙な法門(脳に関する法門)に関係している」。
従って禅を説く時は
「常に脳に関係した三つの玄妙な法門について説かなければならない」
と言っていることが分かる。
・・・
この上堂説法で注目されるのは第一句である。
第一句は分別智(上層脳=知性)を意味している。普通、禅や仏教では無分別智(下層脳中心の脳)を重視
するあまり分別智(理知、理屈)を軽視しがちである。
しかし、この上堂説法では分別智を軽視していない。臨済禅では公案と問答を通して禅と悟りの世界を何と
か表現しようとする伝統がある。
これは臨済宗の開祖臨済の分別智(上層脳=知性)をゆるがせにしない姿勢に起因しているといえるかも知
れない。
臨済の分別智(上層脳から生まれる智慧=理知)重視の姿勢は「示衆4-2」や「示衆5-2」に見られる
「真正の見解」重視の姿勢に通じ、注目されるところである。
*おまけ3
『碧巌録』にみる麻三斤 (禅の視点 - life - hp)
ある時、1人の僧が守初禅師に質問をした。「仏とは何でしょうか」
守初禅師は答えた。「三斤の麻」以上。おしまい。これだけ。
……
三斤の麻とは
斤というのは重さの単位で、三斤あれば僧侶の衣を一着仕立てることができるという。
守初禅師の暮らしていた湖北省の襄州地方は麻の産地として有名だったというから、守初禅師にとっても麻
はとても身近なものであったと思われる。・・・・
古来、禅の問答においてもっともポピュラーな問いは「仏とは何か」であるが、・・・
仏とは何かと問われて、「三斤の麻」と答えた守初禅師。
しかし三斤の麻が仏なのではない。
強いて言うなら、三斤の麻を仏と捉える守初禅師の心こそ仏と言うべきだろう。
修行をして悟りやら仏を目指すといっても、悟りやら仏やらに執着すればもうそれは立派な煩悩である。
概念としての悟りや仏に捉われるのは執着であり、その執着から離れれば木も石も水も雲もただありのまま
の存在に感じる。・・・
仏は仏であり、仏でない。特別なものなど何もない。あらゆるものは、ただそのもの。そうした心から世界
を眺めれば、石と仏に差などない。
比べる心で見てしまえば石と仏は別物かもしれないが、比べなければあらゆる存在は「ただの存在」である。
ただの存在だから尊いのである。
そうした「ありのまま」の姿を捉える心こそ、仏といえるのではないか。
言葉の字面と睨めっこするのではなく、言葉の奥を深読みするのでもなく、言葉を発した守初禅師の心を想
う。・・・
(´・(ェ)・`)b
(3/3)
691
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/09(月) 23:36:57 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
南園の殘菊なのじゃ。
東籬の晩秋の菊が衰色をしているのじゃ。
南山かつ対して心は悠々なのじゃ。
三要三玄など全てしらない、
陶淵明も興にのって吟じるのが我が風流なのじゃ。
692
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/10(火) 03:53:18 ID:sdUQpy3s0
494
四睡圖 四睡の図
凡聖同居何似生 凡聖同居何似生
披毛作佛也分明 披毛さ佛また分明
今宵極睡清風枕 今宵ごく睡清風のちん
空劫以來松無聲 空劫以來松に聲無し
くま訳
豊干・寒山・拾得 と虎が一緒に眠る絵
ある人が凡夫であり且つ聖人でもあるとは、はてどんな人でありましょうか。
獣になることと仏になることの違いは明らかでありまうしょう。
今宵深い眠りにつくのである、清風の枕(清々しい気持ちで眠れるのである)
無始無終の永遠の時の流れの中で、松に声はないのである。
*「四睡の図」
https://1000ya.isis.ne.jp/1557.html
豊干(ぶかん)禅師・寒山・拾得(三聖)が虎とともに眠る姿を描く。森羅万象の静寂を表したもので、悟
りの境地を示すとされている。
豊干は奇行で知られる唐代の禅僧で、寺内を虎に乗って歩いたという。
寒山と拾得は豊干の弟子で、同じく奇行で知られるが、それぞれ、文殊・普賢菩薩の化身と称せられる。
ググッテみると、豊干・寒山・拾得 たいへん興味深い人たちでありました。
*寒山・
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
>>906
寒山拾得(森鴎外)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/679_15361.html
寒山拾得縁起(同)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/43732_17109.html
*凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)
凡夫と聖人が共に住する土のこと。智顗が諸経典に説かれている国土を四種に分類したうちの一。この土
にはさらに穢土と浄土の別がある。同居の穢土とは娑婆世界のように六道を具え不浄が満ちている世界の
ことであり、同居の浄土とは極楽世界のように人・天・二乗・菩薩・仏が共に住して、清浄な世界のこと
である。またこの土は三界の内にあるため界内という。
*披毛:けものになること。
作仏:仏となること。最高の悟りを開くこと。
*空劫(くうこう)世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間。
(´・(ェ)・`)つ
693
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/10(火) 23:13:09 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
四睡の図なのじゃ。
凡人と聖人が同居しているのは何を持って生じるのか。
獣になるのと仏になるのでは違うことは分明であるがのう。
今宵は清風の枕で睡を極めるのじゃ。
この世の初めの空劫以來、松に声は無いからのう。
694
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/10(火) 23:29:55 ID:gkLEI3Co0
495
宗訢藏主製墨以爲業 そうきんざうすせいぼく以って業と為す
偈以送之 偈以って之を送る
萬杵霜花華頂天 ばんしょのさう花華頂の天
商量來不直多錢 商量し来たって多銭にあたらず
何須知藏書經巻 何ぞもちひん知蔵の経巻を書することを
小艶題詩衒少年 小艶詩を題して少年をてらはん
くま訳
宗訢藏主は製墨を生業としている
偈を作って送るのである
多くの女達が打つ砧の音が響く天台宗総本山(比叡山)に来てから一年を経た。
師家と問答応酬してきたが、たいして得ることはなかった。
知藏が經巻を書する必要はなかろう。
小艶詩を作って、少年達に詩才をひけらかしてやろう
*宗訢藏主:笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)1490-1568 戦国時代の僧。永禄元年大徳寺の住持
一休さんの死後の生まれであります。もしかしたら、一休さんが宗訢と名乗っていたことがあり、それに
ちなんで命名されたのかもしれないと思い、ここでは宗訢=一休さんと解釈してみた。
*藏主:知藏に同じ、經藏を掌る役。(大成脚注)寺院内にある経典や論書を管理する僧である。最近では
「知蔵」という。なお、現在の図書館司書のような役割もあった。また、「看経」の時には、蔵主の許可
を要する。
*万杵千砧(ばんしょせんちん):きぬたを打つたくさんの女性。または、いろんなところから聞こえるきぬ
たの音。「万」と「千」は数が多いことのたとえ。「杵」はきぬたを打つための棒。「砧」は布を叩いて
柔らかくして、つやを出すための石や木の台。
*霜華・霜花(そうか):① 霜を花にたとえていう語。転じて、白髪。「生涯水急、鬢悴二霜華二毛之歳
一」 〔白居易‐長恨歌〕② (秋の霜と春の花の意で) 一年間。一周年。※正法眼蔵(1231‐53)行持下
「航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや」
*華頂峰は昔、中国天台宗の開祖である智者大師が坐禅を組み、あらゆる誘惑と魔物と戦い悟りを開いたそうで
す。その華頂峰にある寺院が華頂寺です。
*商量:商も量も「はかる」という意味で、協議する、くらべはかる意になる。転じて師家と修行者との間
で問答応酬して人生の一大事を明らめること。
*衒う(テラウ):自分の学識・才能・行為などを誇って、言葉や行動にちらつかせる。ひけらかす。
(´・(ェ)・`)つ
695
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/11(水) 23:25:21 ID:1d4drIFg0
なんだかわからんが、そうきん藏主という者が墨を作って生業としているのに偈を送ったというのじゃ。
萬の杵で霜花を作る華頂の天なのじゃ。
商量しても多くの銭にはならんのじゃ。
知藏の經巻を書くのにもちいるよりも、
小艶詩を題して少年をてらうほうがよいのじゃ。
696
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/11(水) 23:36:29 ID:yB/WV.lo0
496
頌
忘却萬端詩末忘 万端を忘却して詩いまだ忘ぜず
半生半死涅槃堂 半生半死涅槃堂
黄泉路上此吟興 黄泉路上この吟興
閻老宮前後悔膓 閻老宮前後悔のはらわた
蔭木英雄先生訳
総てを忘れ果てても詩はまだ頭から離れぬ
息も絶えだえの病室でも
死出の旅路でも此のように詩興がわく
エンマ様の御殿で後悔することじゃろう
くま訳
頌
全てのことを忘れても、詩のことだけは忘れることが無い。
半生半死の涅槃堂
黄泉の国への旅路でも、このように詩情が沸くのだ。
閻魔様の宮殿の前で後悔するでありましょう。
*膓:はらわた。①体内にある消化器官。②心。精神。「愁膓・熱膓」
(´・(ェ)・`)つ
697
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/12(木) 23:13:54 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
頌なのじゃ。
万端を忘れても詩は忘れていないのじゃ。
半生半死の涅槃の堂でもなのじゃ。
黄泉路の飢えでもこの詩を楽しんでいるのじゃ。
閻魔の前で後悔するじゃろう。
698
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/12(木) 23:56:58 ID:W9EPAI6c0
497
題淫坊
美人雲雨愛河深 美人の雲雨あいが深く
樓子老禅樓上吟 ろうし老禅樓上に吟ず
我有抱持啑吻興 我にほうじそうふんの興有りて
竟無火聚捨身心 遂にかじゅうしゃしんの心無し
『雑学の世界』HP訳
いっしょに寝てくれた美人の愛は、まるで深い河のようにすばらしく、
私はうっとりとして、思わず楼上で歌をうたった。
私には抱擁とか接吻とかの楽しみがあって、
いまや命がけの求道心など全くない
くま訳
美人と深く愛し合う。
女郎と老僧が楼台で吟じる
わしは、抱擁接吻を楽しみたいのだ
結局、煩悩の火で焼かれるこの身を捨てる気はないのだ。
字義・補記(詩詞世界HP解説)
〇淫坊 淫売窟・女郎屋 〇美人雲雨愛河深 美女との情愛の愛慾は深く
〇雲雨 中国「巫山雨」の故事に基づく男女の交情をいう。
楚の襄王が巫山で夢に神女と契ったことをいう。神女は朝は巫山の雲となり夕べには雨になるという故事。
〇樓上 女郎屋 〇樓子(ろうし) 遊女 〇老師
一休のこと
〇竟無火聚捨身心 煩悩の身を捨てるという心は、起きなかった
〇捨身 仏教用語 仏門にはいること 出家
〇火聚(かじゅ) 仏教用語、煩悩の火に包まれている人間の譬(たとえ)
(´・(ェ)・`)つ
699
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/13(金) 23:16:30 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
淫坊とはエロ坊主なのじゃ。
美人と雲雨は愛の河深く、
遊女と坊主は女郎屋で詠うのじゃ。
我に抱持、吸吻の楽しみあれば、
ついに火聚に捨身しても悟りを求めようとする心は無いのじゃ。
700
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/13(金) 23:40:26 ID:qfUSWflA0
498
美人得寵美人珎 美人寵を得るは美人のちん
珠玉青鞋脚下塵 珠玉せいあい、脚下のちり
秋満驪山宮樹月 秋は満つ、りさん宮樹の月
栄華可悔馬嵬春 栄華悔ゆべし、ばかいの春
『雑学の世界』HP訳
美人で寵愛されるのは、美人の中でも珍しい。
だが、その珠玉のような美人も、最後は草鞋(わらじ)を履いた脚の下の塵と消え果てるのだ。
今年の秋も驪山下、華清宮の樹に、月は光を投げかけているが、
栄華の喜びは必ず後悔せねばならない。美貌の楊貴妃もついに馬嵬に消えたのではないかという。
くま訳
美人であっても、寵愛を受けるのは稀なことであるのだ
珠玉の美人も、いずれ足の裏の塵として消え去るのである。
秋は満ちて、、驪山宮樹に月光が差す、
栄華は悔やしさを際立たせる、楊貴妃の馬嵬の春のように。
*驪宮(りきゅう):長安の東、驪山に建てられた華清宮。温泉が沸き、玄宗は毎年避寒のために、ここに滞
在した。楊貴妃との悲恋の物語で名高い。(長恨歌)
(´・(ェ)・`)つ
701
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/14(土) 23:22:24 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
美人でも寵愛を得る美人は珍しいのじゃ。
珠玉も草鞋足の下の塵になるのじゃ。
驪山宮樹の月に秋は満ちるのじゃ。
栄華も悔いるしかない馬嵬の春なのじゃ。
702
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/14(土) 23:34:36 ID:nE0syv4U0
499
寄大徳寺僧 大徳寺の僧に寄す
人多入得大燈門 人多く大燈の門ににっとくす
這裏誰捐師席尊 しゃり誰か師席の尊をすつる
淡飯麤茶我無客 淡飯粗茶我れにかく無し
醉歌獨倒濁醪樽 醉歌獨り倒すだくらうのそん
くま訳
大徳寺の僧に寄す
多くの人が大燈の宗門に入ることができた
それにも拘らず、師の尊い教を棄ててしまったのは誰か。
粗茶しか出せぬのわしの所には客は来ない。
酔って歌い、一人でドブロクの樽を飲み干すのだ。
*這裏(シャリ):《「這」は「此」の意》このうち。この間
*淡飯(たんぱん):そまつな食事。粗食。※正法眼蔵 家常「家常の麤茶淡飯は、仏祖意句なり」
*濁醪(だくろう・どぶろく) 発酵させただけの、白く濁った酒。もろみ酒。にごりざけ。
(´・(ェ)・`)つ
703
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/15(日) 21:57:45 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
大徳寺の僧に寄すのじゃ。
人が多く大燈門に得入するのじゃ。
その中で誰が師席の尊敬を捨てるのじゃろうか。
粗末な食事と粗茶の我に客は無いのじゃ。
醉歌して一人にごり酒の樽を倒すのじゃ。
704
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/15(日) 22:19:29 ID:D8lEVfyU0
くま訳改
第二句;その中で誰が師席の尊敬を捨てるであろうか。
500
山居僧
無人時喜客來嗔 人無き時は喜び客來たればいかる、
落葉飛花獨覺身 落葉飛花独覚の身
正見禪師若行令 しゃう見の禪じ若し令を行ぜば
三冬枯木百花春 三冬枯木百花の
くま訳
山居僧
人が居ない時喜び、客が来ると怒る。
無常なこの世で独覚を目指す身であり、
正しい見解を持つ禅師が若し修行をすれば、
冬の真っ只中で花が咲くのである。
*飛華落葉:飛花落葉:絶えず移り変わるこの世の、無常なことのたとえ。春に咲く花も風に吹かれて散り、
青葉もやがて枯れ落ちる意から。
*独覚:三乗の一つ。仏の教えによらないで自力で悟りをひらき、静かに孤独を楽しんで、利他のための説
法をしない聖者。縁覚。辟支仏(びゃくしぶつ)。
縁覚(えんがく):おのれひとり悟ってよしとする孤高の覚者。教理的には十二因縁を観察して迷いを断ち
真実を悟る者をいう。師なくしてひとりで悟るので独覚ともいい,音写語では辟支仏 (びゃくしぶつ) 。
大乗からみれば部派仏教の徒。菩薩に対する。
*三冬枯木花(さんとうごぼくのはな):冬の真っ只中の枯れ木に花が咲くということの意味。三冬とは冬
の三ヶ月や三年ともいう。
(´・(ェ)・`)つ
705
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/16(月) 23:18:44 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
山に居る僧なのじゃ。
無人の時は喜び、客が来るといかるのじゃ。
落葉飛花一人悟りを得る身なのじゃ。
正見の禅師もし修行を行えば
三度の冬で枯れ木に百の花を咲かせるような悟りの春を迎えるじゃろう。
706
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/16(月) 23:28:43 ID:1R1CKbVY0
501
冬至示衆 冬至じしゅう
獨閉門關不省方 独り門関を閉じて方を省せず
這中誰是法中王 しゃ中たれか是法中の王
諸人若問冬來句 しょにん若しとうらいの句を問はば、
日自今朝一線長 日はこんちょうより一線長し
冬至を修行者に示す
独り感覚を閉じて、周囲を伺わない。
修行者にとって、これこそが修行法の王道である。
もし誰か、冬至について尋ねるものがあれば、
日は今日から少しづつ長くなるとこたえるのだ。
*これは悟りを得るための法を説いたものでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ
707
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/17(火) 23:15:32 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、冬至にかけてといているのじゃ。
一人で門を閉じて修業するようにというのじゃ。
そのような感じじゃな。
冬至を衆に示すのじゃ。
一人門を閉じて周囲を省みないのじゃ。
これこそ誰にとっても法の中の王なのじゃ。
もし人が冬至が来たか訊ねたならば、
日は自ら今朝より一線ずつ短くなっていくことを告げるのじゃ。
708
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/17(火) 23:37:27 ID:ts4ClNsk0
502
大惠宏智揖讓圖 大ゑわんしいう讓の図
眉毛相結眼睛同 眉毛相結んで眼睛同じ
兩箇老禪機境融 兩箇の老禪機境融ず
力士鐵槌子房策 力士の鐵槌子房がはかりごと
憤心在博浪沙中 憤心は博浪しゃ中に在り
くま訳
大慧宏智恭しい挨拶の図
面と向って見詰め合っているのである。
二人の老師は、お互いに力量を認め合っていたのだ。
(宏智は、)張良が力士を暗殺者として雇い、始皇帝の車列に重さ30キロのトンカチを投げつけたような作
戦を実施したのである。
始皇帝の(ような大慧の)怒りの原因は、博浪沙でのこの一件にあるのである。
*大惠⇒大慧
*大惠宏智揖讓圖(胡建明先生解説抜粋):大慧が16年間の流罪を終え、1156年、勅命を受け、大刹阿育王
山広利禅寺に住持した。・・大慧は・・宏智へ挨拶のため、天童山に拝登しようとした。そのとき宏智が
大慧の上山を知り、弟子たちを連れて・・山道の途中で大慧を迎え、礼を尽した。という美談。
(もともと2人は大親友だったらしい。)
*揖譲:1 拱手(きょうしゅ)して、へりくだること。古代中国の作法。2 天子の位を譲ること。禅譲。
*大慧宗杲(だいえ そうこう)1089-1163:宋代の臨済宗の僧。普覚禅師。仏日大師。
曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。宗杲は、公案を用いることによって言
語による思考を限界に追い詰め、そこに大きな疑問を抱えつつ坐禅して言語を超越した悟りへと向かうと
いう禅法を正しいものと認めた。公案を用いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅
し、その疑問を打ち破ることにより悟りへと向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。宗杲は
曹洞宗の禪を「黙照禅」と呼んで批判した。
*宏智正覚(わんし しょうがく)1091-1157宋代の、曹洞宗の禪僧。
正覚は、悟りという目標を設定することによって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避けるた
めに、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れ
るとした。仏性は本来的にすべての者に具有されており、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自
己完結的な禅法の中でその事実に気付くことこそが悟りの要であるとして、公案を用いない曹洞宗の禅法
を擁護した。
宏智は臨済宗の禪を「看話禅」と呼んで批判した。
*機境:行者の根機こんき (素質能力) と観察(かんざつ)の対象のこと。
*子房(張良の字)(? - 紀元前186年)は秦末期から前漢初期の政治家・謀将。軍師として劉邦に仕えて
、劉邦の覇業を大きく助けた。
始皇帝暗殺未遂
秦に亡ぼされた韓の公族であり、祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、屈強な力士を借り受け、紀元前
218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙を通った所を狙った。方法は重さ120斤(約30kg)と言う鉄槌を投
げつけ、始皇帝が乗った車を潰すというものであった。しかし・・暗殺は失敗に終わった。
*くま質問
大慧が始皇帝で、宏智が張良と譬えてると想定して解釈してみたのであります。実際に宏智が弟子を
使って大慧に対して論戦を仕掛けたようなことはあったのでありましょうか?
一休さんは面白がってる様であります。
(´・(ェ)・`)つ
709
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/18(水) 23:23:59 ID:1d4drIFg0
↑そのようなことはないじゃろう。
それはただ悟った者同士が会えたことを、対比させて珍しいこととしているだけなのじゃ。
博浪沙では失敗しているのであるからのう。
大惠宏智の揖讓の図なのじゃ。
眉毛を互いに結び、瞳を同じにしたのじゃ。
二人の老禅師の境地は融和しているのじゃ。
子房が策で力士に鉄槌を投げさせた
博浪沙中では失敗して怒っているのにのう。
710
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/18(水) 23:53:07 ID:TdZJ1C6I0
くま質問
子房が策で力士に鉄槌を投げさせた
博浪沙中では失敗して怒っているのにのう。
とは、何をどの様な意味で譬えているのでありましょうか?
503
翠岩夏末示衆云 すい岩夏まつに衆に示し云く
一夏以來爲兄弟説話 「一げ以来ひんでいの為に説話す、
看翠岩眉毛在麼 看よ、翠岩が眉毛ありや」
保福云。作賊人心虚 保福云く。「賊となる人心いつはる。」
長慶云。生也 長慶云く。「せいや」
雲門云關 雲門云く「関」
眉毛公案爛泥荊 眉毛公案らんでいけい
保福雲門同道行 保福雲門同道に行く
長慶藏身還露影 長慶身を蔵して還って影をあらわす
小樓南畔月三更 小樓南ぱん月三更
くま訳
翠岩夏末示衆云
一夏以來久しぶりに兄弟弟子のために説話したのである。
見てくれ、翠岩の眉毛はまだあるだろうか
保福いわく、泥棒になる人は、自分の心を偽るものである。
長慶いわく、うむ。眉毛は生えてるのでありますよ。
雲門いわく、関門である。
眉毛の公案は、泥んこ刑みたなものである。
保福と雲門は、同じ道をゆくのである。
長慶は、本心を隠そうとして、かえってあらわになっているのである
小樓がある南の水辺で見る深夜の月。
*くま質問・爛泥荊とはどのようないみでありましょうか?
「小樓南畔月三更」とは、この公案の景色は、定型的で風流なものである、みたいな評価でありましょう
か?
*翠巌和尚が夏安居の後に、誤った説法をすると眉毛が抜け落ちるといわれているが、わしの眉毛は残って
いるか?と問うた。
*翠巌令参(すいがんれいさん 生年不詳):翠巌、保福、長慶、雲門、の四人は雪峰義存門下の兄弟弟子
*雲門文偃(うんもん ぶんえん、864-949)
*保福従展(ほふくじゅうてん?〜928)
*長慶慧稜(ちょうけい・えりょう854〜932)
*爛:1.火に焼けて皮膚がくずれる。ただれる。くさって形をくずす。2.まっさかり。
*荊:1.とげのある低木。いばら。うばら。2.刑罰として罪人を打ちたたくつえ。しもと。
*畔:ほとり。岸。水際。
*145の詩
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
>>868
、保福 =
家裏人 = 関の内側 = 悟っている
不偸盗戒
鵝鳥呑珠刑罰辛 がちょう珠を呑んで刑罰からし
分明曲直僞兼眞 分別曲直偽と真と
翠巖老漢眉毛話 すい岩老漢びもうのわ
保福豈非家裏人 保福あにかりの人にあらざらんや
871: 鬼和尚:2020/08/03(月)
・・・ 関といわれれば誰もが関の外に出ていると思うのじゃ。
どのようにして関の中に入ろうとか思って悩むのじゃ。
実は既に内に入っているのじゃ。
一休はそれを詩にしたのじゃ。
保福豈非家裏人というのじゃ。
(´・(ェ)・`)つ
711
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/19(木) 23:11:22 ID:1d4drIFg0
↑ 子房が力士に鉄槌を投げさせたが始皇帝にはあたらなかったのじゃ。
狙った物と物がぶつかるのさえ難しいのじゃ。
悟った者同士が会うのは実に珍しいというのじゃ。
乱れた泥の荊の鞭じゃな。
苦難というような意味でよいのじゃ。
それでよいのじゃ。
眉毛の公案は泥だらけの荊の道なのじゃ。
保福と雲門は同じ道を行っているのじゃ。
長慶は身を隠そうとして還って影を表しているのじゃ。
南の畔で小樓から夜の月がみえるのじゃ。
712
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/19(木) 23:40:18 ID:m5HzqKX60
504
讀冷齋夜話 冷齋夜話を読む
有褒禪山石崖僧之一件事 はう禪山石がい僧の一件のじ有り
感而題之 1/3 感じてしかしてこれに題す
佛印重荷一百夫 佛印重くになふ一ぴゃく夫
佳名道價滿江湖 佳名道価がう湖に満つ
石崖一箇野僧意 石崖一箇野僧の意
佛法南方一點無 佛法南方一點も無し
くま訳
冷齋夜話を読む
褒禪山の石崖僧の一件があった。
読んで感じたことを詠むのである。
仏印禅師は一人で百人の重荷を背負ったのである。
その名声は世界中にとどろいているのである。
石崖は一人の田舎者の僧と云う意味である。
仏法は南方には、一点もないのである。
*冷齋夜話:僧慧洪の編、本書を随筆文にして、東坡の詩、嗣法の様子、羅漢の失墜隊、西崑の體等を録す
(大成脚注)
覚範慧洪の編。詩人の逸話とその作品の評論集。わが五山文学への影響大きく、宋版による五山版がある。
慧洪(えこう)1071-1128:北宋の禅僧,詩人。誣告されて再度投獄されたことがあり,のち隠遁して
終った。蘇軾に学んで雄健な詩風。また絵画にも長じていた。
*仏印禅師 仏印了元(1032-1098) 宋時代の高僧、
*野僧:田舎の僧侶。また、僧侶を軽蔑していう語。
*くま質問:「褒禪山石崖僧之一件事」どのような一件でありましょうか
(´・(ェ)・`)つ
713
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/20(金) 23:20:45 ID:1d4drIFg0
冷齋夜話に収録されている隠者の話のようじゃ。
ここに書いてあったのじゃ。
http://zhangdachun.blog.caixin.com/archives/132891
褒禪山石崖下に一人の僧がおったのじゃ。
紙軸を枕にして寝ていたのじゃ。
裸足でねていたのじゃ。
いろいろ問答したのじゃ。
南に帰って仏印禅師に逢うと山を出たのは
重荷者百夫,擁輿者十許夫,巷陌聚觀,喧吠?犬と言ったのじゃ。
重荷を持つ者が百人、貴族で輿を許されたものが十人、港に建物が多く、
犬や鶏で騒がしいとかいつたのじゃな。
714
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/20(金) 23:27:28 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
冷齋夜話を読んで褒禪山石崖僧の一件に感じてこれに題するのじゃ。
仏印は重荷一百夫と言ったのじゃ。
その佳名、道価は天下に満ちているのじゃ。
石崖一箇野僧の意は。
仏法南方に一点も無しというのじゃ。
715
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/20(金) 23:47:28 ID:3Kzc4IpY0
くま訳全面改
褒禪山石崖下に一人の僧がおったのだ。
紙軸を枕にして寝ていたのだ。
裸足でねていたのだ。
いろいろ問答したのだ。
南に帰って仏印禅師に逢うと山を出たのは
重荷を持つ者が百人、貴族で輿を許されたものが十人、港に建物が多く、
犬や鶏で騒がしいとかいつたのだ。
505 2/3
玉帶笑欺如土泥 玉帯笑ひあざむく土泥の如し
路頭喧吠犬兼鶏 路頭かまびすしはい犬とけいと
天下老禪奈慚愧 天下の老禪慚愧をいかんせん
獄中天澤世皆乖 獄中天澤世皆そむく
くま訳
貴人は笑いながら人をだます泥酔者のようなものである。
街中で騒がしいのは、吼える犬と鶏くらいのものである。
天下の老師が、自分を愧じる思いをどうしたらよいのか。
虚堂が獄中にあったときには、世間は皆背いたのである。
*玉帯(ギョクタイ・ごくたい):玉の飾りをつけた革製の帯。貴族の束帯に用いられた。たまのおび。 玉
で飾った帯。たまの帯。
*泥の如し:泥酔して正体がないさま。
(´・(ェ)・`)つ
716
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/21(土) 23:10:20 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
玉帯の貴人は泥酔者の如く笑いあざむくのじや。
路頭では犬や鶏が吠えて騒がしいのじゃ。
天下の老禅師は慙愧をどうすればよかろうか。
獄中の天沢に世人は皆そむいたのじゃ。
717
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/21(土) 23:31:49 ID:606RJSI.0
506 3/3
百丈絶食無人學 百丈じきを絶って人の学ぶ無し
藥山兩粥黄采麥 藥山兩しゅくくわうさいのばく
但居門外弊衣徒 ただ門外にこすへいえの徒
金襴道光開法席 金襴の道光開席を開く
くま訳
百丈和尚の絶食の話を聞いても、人がそこから何かを学ぶことは無い。
薬山和尚の、棄てられ黄色くなった野菜と煮込んだ麦粥の話も同じだ。
ただのぼろい衣をまとった、浮浪者とかしか思わないのだ。
金襴の僧衣を着た道光の説教をありがたがっているのだ。
*百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749-814唐代の禅僧。南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ。
*薬山惟儼(やくさんいげん・745-828) 寺は元牛小屋・
*道光.1251-1331鎌倉後期の浄土宗の僧侶。比叡山で顕密諸宗を学ぶが,のちに良忠門下に帰す。京都五条
坊門に悟真寺(のちに三条に移転)を建立し布教したので,その門流を三条派といった
(´・(ェ)・`)つ
718
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/22(日) 23:08:14 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
百丈の絶食を学ぶものは無いのじゃ。
薬山の粥と野菜を学ぶものもないのじゃ。
ただ門外に居る破れ衣の者とおもうのじゃ。
金襴の道光を見ればありがたがって法話を聞きに来るのじゃ。
719
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/22(日) 23:14:49 ID:K8K3PImw0
森に嫉妬されて、自殺未遂されて、形振り構わず謝る、一休さんであります。
507
盲女森侍者情愛甚厚 盲女森侍者情愛甚だ厚し
将絶食殞命 まさにじきを絶って命をおとさんとす
愁苦之餘 愁苦のよ
作偈言之 1/2 偈を作りこれを言ふ
百丈鋤頭信施消 百丈じょ頭信施しょうす
飯錢閻老不曾饒 飯錢閻老かつてあまさず
盲女艶歌笑樓子 盲女が艶歌樓子を笑ふ
黄泉涙雨滴蕭蕭 くわうせんの涙雨滴せうせうたり
くま訳
盲女森侍者は情愛がとても厚いのだ。
絶食して自殺をはかったのだ。
わしは、愁いの思いで苦しいのだ。
なので、詩を作ってわしの思いを伝えるのだ。
百丈和尚なら、無心のうちに、信施など受取らないであろう。
閻魔様は、今まで飯代を残したことなど無いのだ。決して見逃さないであろう。
森女が艶歌で遊女を笑っていたのを思い出して、
黄泉の国への旅立とうとする、森のつらい思いを悲しく思い、雨がしとしと降るようにわしは泣いているのだ。
*
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/
>>335
の詩 参
森は紹固に激しく嫉妬して、そのために断食自殺を図ったらしい。
*侍者:貴人のそば近く仕えて、用を足す人。おそばづきの者。
*鋤頭(じょうとう):無心に。↓おまけ参
*僧侶が、檀信徒からまごころの布施を得ること、信心施。
*信施消
信施:受施者がその施の本来の意義・佛法護持の目的を外して自己の慾望のために使うと信施不消の罪を
得て施者の功徳とアベコベの罪報に苦しまねばならない。
*鋤頭(碧巌録) 安延山承福寺HP埜村要道住職 訳・解説
空手把鋤頭 空手にして鋤頭を把り、
歩行騎水牛 歩行して水牛に騎る
人従橋上過 人橋上従(よ)り過ぎれば、
橋流水不流 橋は流れて水は流れず
鋤をとって無心に畑を耕し続けているうちに、いつの間にか鋤を握っていることを忘れ、耕しているとい
うことさえ意識もなく、吾れと鋤が一つになり、無心に徹した心境を「空手把鋤頭」と言い表したもので
ある。
さらに、一日の仕事が終わり、牛の背なにゆられて、家路ににつく帰途はもう心地よい疲れもあって、も
う牛が歩いているのか自分が歩いているのか、人牛が一体となった無心の境地こそ「歩行騎水牛」の語で
ある。
家路の途次には谷川があり、ざわざわと流れる水の音が聞こえ、橋の上に立ち止まってその流れをじっと
見つめていると、
いつの間にか自分がその自然の中に溶け込んでしまい、自分が川の流れになって流れて
いるようでもあり、我と流れが一体になり橋を渡る我が橋と共に流れている大自然と一体となった無心の
境地を「人従橋上過橋流水不流」と表したものである。
無心とは無色透明で、赤が来れば赤に、青が来れば青に、子どもが来れば子どもに、老人が来れば老人に
心を通わせられる。無心の状態なればこそ人境一如で、無心に触れる山川草木が仏のいのち、仏の姿その
ものとして受け入れ切れるのだ。
(´・(ェ)・`)つ
720
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/23(月) 21:54:45 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
盲女の森侍者は情愛甚だ厚くまさに食を絶って命を落とさんとする。
わしはそれをうれいて偈を作って言ったのじゃ。
百丈も鋤で自ら耕して信施を消費したのじゃ。
生涯に食べる飯の数は閻魔がつかて余したことはないのじゃ。
盲女も艶歌に樓子を笑ったことが在るのじゃ。
黄泉では涙滴は雨の如くふるじゃろう。
721
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/23(月) 23:09:15 ID:YLe665060
くま訳改
第一句:百丈も鋤で自ら耕して信施を消費したのだ。
508 2/2
看看涅槃堂裡禪 看よ看よ涅槃堂裡の禪
昔年百丈钁頭邊 昔年百丈のくわとうへん
夜遊爛醉畫屛底 や遊爛醉畫べいの底
閻老面前奈飯錢 面前飯銭をいかんせん
くま訳
見よ、涅槃堂で死を前にしてのわしの禅を
昔、百丈和尚は、農作業の責任者をしていたのであるが、
わしは、夜遊びをして、飲んだくれて、絵の書いてある屏風がある場所で遊んでいる始末である。
閻魔様の面前で飯銭をどうしたらよいのだろう。
*鍬頭(くわがしら):昔、大百姓の代人として、その手作り農業や新田開発を宰領した使用人の頭。飛騨
(岐阜県)白川地方では、家長の弟で農耕の指揮に当たった者。農作の差配人。
*畫屛:絵の描かれた屏風。
*くま質問:飯銭〜:食事などの日常の事々に対する真剣な取り組みが必要であり、いい加減に過すと因果
の報いを受けると、一休さんは説いているのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
722
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/24(火) 23:31:31 ID:1d4drIFg0
そういえるじゃろう。
飯銭とは食の対価じゃな。
僧侶が働かずに施しを貰って生きてよいのは日頃から学道修業に励んでいるからなのじゃ。
真面目に勤めないと閻魔の前で責められると言うのじゃな。
そんな感じじゃな。
見よ見よ涅槃堂の内の禅を、
昔、百丈は座禅をしていない時も畑を耕していたのじゃ。
夜には酔って遊んで屏風の下で潰れていては、
閻魔の前で飯銭を責められてもどうしようもないのじゃ。
723
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/25(水) 02:41:27 ID:qzveYPbg0
くま訳改
第三句;夜には酔って遊んで屏風の下で潰れていては、
第四句;閻魔の前で飯銭を責められてもどうしようもないのだ。
509
擯出中川賀頌 ちゅうせんをひん出する賀頌
不救病身勞病身 病身をすくはず病身を労す
蕭墻有禍會中賓 せうしょう禍ありゑ中のひん
十年劍樹刀山底 十年劍樹刀ざんのてい
萬劫難消阿鼻辛 萬却しょうし難し阿鼻のしん
くま訳
追い出した中川への祝い状
病身を救わず、苦しめる。
会派の内輪もめの元凶である
十年間、劍樹刀山 で苦しめたのだ、
猛火に身を焼く苦しみは、萬劫の年月忘れることができないものとなろう。
*擯出(ヒンシュツ):人をしりぞけること。のけものにすること。擯斥
*中川:「60%の日常 ブログ」記事より。「酬恩庵宝蔵には、一休禅師が書かれた文書がいくつか展示され
ています。門下の中川というお弟子さんが、一休さんの逆鱗に触れたようで、追い出された時の擯出状が
あるんですが、その中に『舌をぬき恥辱を与えし』と中々恐ろしいことが書かれてました。(この人のこ
とでありましょう)
*蕭牆の禍(しょうしょう)《「韓非子」用人から》一家の内部に起こるもめごと。うちわもめ。
*刀山剣樹:思いやりが一切無いむごたらしい刑罰。または、酷く危険な境遇。「刀山」は刀の刃が上を向
いた状態で、無数に立てられている山。「剣樹」は葉や枝、花、実の全てが剣で出来ている樹。山を歩か
されたり、剣樹を登らされては落とされるという地獄で行われている刑罰のことから。
*阿鼻:八熱地獄の無間地獄。現世で父母を殺すなど最悪の大罪を犯した者が落ちて、猛火に身を焼かれる
地獄。
(´・(ェ)・`)つ
724
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/25(水) 22:52:57 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
中川というものを会から追い出したのじゃな。
病身を救わず病身を疲れさせたのじゃ。
会を内輪もめさせた原因なのじゃ。
十年間剣樹刀山の苦しみをもたらしたのじゃ。
その報いは万劫も消し難い阿鼻地獄の辛苦を味わうのじゃ。
725
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/25(水) 23:13:50 ID:pFah44Nk0
510
擯出中川賀頌呈勝瓊 ちゅうせんをひん出する賀頌、しょうけいに呈す
本非蛇影客盃弓 もと蛇影にあらずかく盃のきゅう
元字在心從劫空 げん字こころに在り劫空よりす
昨日凡兮今日聖 さく日の凡こん日のしゃう
無根雲起變通風 無根雲起こる変通の風
くま訳
中川を斥ける賀頌 勝瓊に呈す
元々、盃に映ったのは蛇影ではなく弓影だったのだ。
元来、人は心持ち様次第でどうにでもなるもなのだ。
昨日凡夫、今日聖人。そんな事もあったりするのだ。
理由なく雲起り、風流れを変えたりもするのである。
*擯出(ヒンシュツ・ひんずい・ひんじゅつ):人をしりぞけること。のけものにすること。擯斥(ひんせき)。
*くま質問:勝瓊とは、中川の被害者でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
726
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/26(木) 23:21:50 ID:1d4drIFg0
↑違うようじゃ。
勝玉を呈したというのじゃな。
中川を排斥して会が勝れた玉のようになったということじゃな。
そんな感じじゃな。
もともと客の盃の影は蛇ではなく弓だったのじや。
もともと字は心にあり、劫空に従うのじゃ。
昨日の凡人も今日は聖人になるかもしれんのじゃ。
変通の風は無根の雲を引き起こすのじゃ。
727
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/26(木) 23:50:36 ID:is15Ihgg0
*変通:時に当たって自由自在に変化し適応して行くこと。
くま訳改
中川を排斥して会が勝れた玉のようになったのだ。
第二句:もともと字は心にあり、劫空に従うのだ。
第四句:変通の風は無根の雲を引き起こすのだ。
くま質問:「もともと字は心にあり、劫空に従う」とは、どのような意味でありましょうか?
511
病僧與五辛
病僧大苦發傷風 病僧のたい苦傷風を発す
死脉頻頻命欲終 死みゃくひんぴんとして命終らんとす
如来新病用牛乳 如来の新病牛乳を用ふ
莫忌凡身藥草葱 忌む莫れ凡身薬草のそう
くま訳
病気に罹った僧に五辛を与える
病僧は大へん苦るしい傷風に罹った。
死脈を打ち命が終ろうとしていたのである
釈迦は新しい病気に対しては牛乳を用いたのである。
忌むなかれ、凡夫の身には、ネギが薬草になるのだ。
*五辛(ごしん):辛味や臭気の強い5種の野菜。仏家で、大蒜(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・辣韮
(らっきょう)・野蒜(のびる)、道家では、韮・辣韮・大蒜・油菜(あぶらな)・胡荽(こすい)をさす。これ
を食べると情欲・憤怒(ふんぬ)を増進するとして禁じる。五葷(ごくん)
*傷風:高熱を伴う風邪の一種。
*死脈:死期が近づいた弱い脈拍。「死脈が打つ(=臨終が近い)」
(´・(ェ)・`)つ
728
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/27(金) 23:22:46 ID:1d4drIFg0
↑誰がどうしたとかいうのは心にその名があるからだというのじゃな。
それもまた空であり、無常であるというのじゃ。
心次第ということじゃな。
それでよいのじゃ。
病僧に五辛を与えるというのじゃ。
病僧大苦の傷風を發し、
死脈が頻発して命も終わらんとしたのじゃ。
如来は新病に牛乳を用いたのじゃ。
忌む無かれ凡身が薬草のねぎを用いることを。
729
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/27(金) 23:34:49 ID:pF.J9qfg0
鬼和尚、いつもくまでも分かる解説をありがとうであります。
「元字在心」事々に名づけて、その言葉に囚われてるに過ぎない、
「從劫空」本来一切空であり無情なのだ
ということでありますね。
512
鳩鹿狐懺悔 きうろくこ懺悔
麋鹿生涯獝狘愁 びろくの生涯きつけつの愁ひ
鳩因淫欲苦心頭 鳩は淫欲に因って心頭を苦しむ
四時難愕此愁夢 し時おどろき難しこの愁夢
一枕清風夜夜秋 一枕の清風夜夜の秋
くま訳
鳩、鹿、狐の懺悔
鹿は生涯歩く獣であることを愁いている。
鳩は淫欲に心を苦しめている
四六時中、悲しみに浸りながら見る夢に驚いてはいられないのは、鳩鹿狐もわしも同じなのだ。
毎晩、少しづつ秋が深まってゆく。
*麋:鹿の大なるものなり「なれしか」ともいふ。(大成脚注)
*獝狘:(中国語翻訳)歩く動物
*四時:1.四季。2.仏教 一日の四つの時。旦(=朝)・昼・暮(=夕)・夜。
*愁夢: 悲しみにひたりながら眠って見る夢。
(´・(ェ)・`)つ
730
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/27(金) 23:46:40 ID:GHXQWsSY0
くま訂正
無情→無常
(´・(ェ)・`)b
731
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/28(土) 23:50:59 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、そのような理解で善いのじゃ。
そんな感じじゃな。
鳩鹿狐の懺悔゛というのじゃ。
鹿は生涯愁いがあるというのじゃ。
鳩は淫欲に心頭を苦しめられるのじゃ。
これらの愁いは常に驚きではないのじゃ。
夜寝る時には清風で忘れられるだけなのじゃ。
732
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/28(土) 23:57:58 ID:FQPEZLyM0
513 503参
翠岩示眉毛圖 翠岩眉毛を示す図
賓中有主主中賓 賓中主有り主中の賓
關字失錢生也親 關字失銭せいやしたし
賊賊賊賊拿不得 賊賊賊賊だふとく
當頭姦黨是何人 たうとう姦たう是れ何人ぞ
くま訳
翠岩和尚の「眉毛あるか」と本来の面目についての問の絵
これは、賓となり主となり立ち代わり自由のはたらきを示す、優れた問い掛けで(示衆)である。
しかし、(雲門に)「関」の一字で応えられてしまっては、その巧妙さも効を失ってしまった。
賊賊賊、賊機あり(と応えたのは保福)。これでは、取り付く島がないのである。
この真っ向から(眉毛=本来の面目はちゃんとあるよと)応えた、(長慶という)悪党は、何者であろうか?
*賓と主:四賓主は、賓と主、二人の能力の関係を四通りに分けたもの。賓は客、主は亭主。通常、客が修
行者、主は師となる。
*翠岩示眉毛:碧眼録 第8則 翠巌夏末示衆 参おまけ
*拿不得:補うことを得ざるをいふ(大成脚注)
*当頭:頭の上であること。または、真向かいであること。間近であること。
*姦党:悪人の仲間。悪人の集団。悪党。
おまけ 碧眼録 第8則 翠巌夏末示衆 禅と悟りHP 訳・解説
翠巌示徒 翠巌徒に示す
千古無対 千古対無し
関字相酬 関字相酬ゆ
失銭遭罪 失銭遭罪
潦倒保福 潦倒(ろうとう)たる保福
抑揚難得 抑揚得難し
潦倒翠巌 ろうとうたる翠巌
分明是賊 分明に是れ賊
白圭無玷 白圭?(きず)なし
誰辯真仮 誰れか真仮を弁ぜん
長慶相諳 長慶相そらんず
眉毛生也 眉毛生也
注:
千古対無し:千年の昔から並ぶものが無い。
関字相酬ゆ:「関」という字で締め括った。
失銭遭罪:金を失った上に罰せられる。身から出た錆の報いだ。
潦倒(ろうとう)たる保福:老いぼれた保福
抑揚得難し:上げたのか下げたのか捉えにくい。
白圭:白い清らかな玉器。
ロウロウたる翠巌:饒舌な翠巌。
頌:
翠巌は「眉毛ありや」と父母未生以前の本来の面目を衆徒に示した。
こう見事に突きつけられては
千年の昔からこれに対応できる者はいないほど翠巌の示衆は優れている。
しかし、そこで雲門に「関」とやられては、さすがの翠巌も骨折り損のくたびれ儲けだ。
老いぼれの保福が「ヤイこの盗人めが、ビクビクするない」
と言ったのは一体翠巌を褒めたのかけなしたのか分かりにくい。
ペラペラとよく喋る翠巌は油断ならない男でうっかりすると懐中のものを根こそぎ盗まれてしまうぞ
とは言っても彼の説法は瑕のない白い清らかな玉器
のようでその真仮を見分ける人は少ないだろう。
長慶は「眉毛はチャンと生えているじゃないか」
という言葉で天地一本の大眉毛(本来の面目)はここにあるじゃないかと言った。
(´・(ェ)・`)つ
733
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/29(日) 23:05:07 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
翠岩が眉毛を示す図なのじゃ。
客の中に主があり、主の中に客があるのじゃ。
関の字で銭を失い.、眉毛は親しく生えるのじゃ。
賊賊賊賊と賊が多く捕らえることが出来ないのじゃ。
当頭の姦党、これは誰なのじゃ?
734
:
避難民のマジレスさん
:2021/08/29(日) 23:55:36 ID:wiaF4jrU0
くま質問
「銭を失い」とは、問の価値が失われるというような意味でありましょうか?
「眉毛は親しく生える」とは、結果的に過剰な説明になっていないので、眉はすぐに生えて来る、みたいな
意味でありましょうか?
514
半雲 齋名 半雲 齋名
膚寸無根點碧空 ふ寸無根碧空に点ず
安身立命在其中 安じん立みょう其の中に在り
夢魂昨夜巫山雨 夢魂昨夜ふざんの雨
吟斷朝來一片蹤 吟斷す朝來一片の跡
柚葉先生のブログ訳
半雲(ちぎれぐも)
わずかな根なし雲が、碧空にある。
安心立命とはそのようなもの、
昨夜、巫山の雨が降り、わたしの夢に神女が来たから、
今朝はそのひとひらの蹤を追う
くま訳
半雲 斎名
ほんの少しのはぐれ雲が浮かぶ紺碧の空
安身立命がその中にある。
昨夜は、女神がその雨になって現れてくれた。
今朝は、吟じつつ、一片の雲を待つのだ。
*膚寸(ふすん):「膚」は指四本をならべた長さの意・ほんのわずかな大きさ。特に切れぎれの雲を形容す
るのに用いられる。
*無根:うわさ・疑惑などの根拠となる事実が無いこと。
*巫山雲雨:(ふざんうんう):男女の交わり、情交のたとえ。
「巫山」は中国の四川省と湖北省の間にある、女神が住んでいたとされる山のこと。
戦国時代の楚の懐王が昼寝をした際、夢の中で巫山の女神と情交を結んだ。別れ際に女神が「朝には雲と
なって、夕方には雨となってここに参ります」と言ったという故事から。『文選』宋玉「高唐腑」
*安心立命(あんじんりゅうみょう):「あんしんりつめい」とも読む。安心は仏教用語,立命は儒教の用
語。すべてを絶対のものにまかせて,心が動揺しないこと。
(´・(ェ)・`)つ
735
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/30(月) 23:27:12 ID:1d4drIFg0
↑そのような意味じゃな。
それはただ弟子を試す関門であると見抜かれてしまったのじゃ。
その問いに拠って説法が完全になったという賛じゃな。
736
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2021/08/30(月) 23:31:33 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
半雲の齋名じゃな。
青空に点のような根無し雲があるのじゃ。
安身立命はその中にあるのじゃ。
昨夜は夢に巫山雨があったのじゃ。
朝が來てその一片の跡を吟詠するのじゃ。
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