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なぜエスペラントは普及しないのか?

383丹花:2009/04/29(水) 07:22:48
其のためとンを間違えました。でも作っていると、人を感動させたりできるものが、時々できますよ

384N:2009/04/29(水) 08:37:36
Saluton, Nです。

>文化が無いエスペラントは、音楽で人を感動させるのは無理???

文学(エスペラント原作文学;翻訳でなく)についても、「エスペラント
は文化がないから、文学で人を感動させるのは無理」という無理解な謂い
がNe-E-istoのあいだにはままあるようです。でも実際にはそんなことは
ないですよね。クロアチアのスポメンカ・シュティメツ氏のように、原作
文学をたくさん上梓し、高い評価を得ている人も少なくありません。

文学で可能なことが、音楽では難しいのでしょうか?
私は「すそ野」の広さの問題かな、と考えますがどうでしょう。文学は紙
とペンがあれば作品を書けるけれども(それを出版という形にもっていく
のは手間がかかりますが)、音楽だと録音装置や媒体といったものがない
と制作ができない。ソロでなくグループでの作品ともなれば、集まれる範
囲にメンバーが住んでいなければならない。そういった点で、音楽にはハ
ードルがいろいろあって、陽の目を見る作品が少なくなりがちなのではな
いでしょうか。母数がたくさんあれば優れた作品も多くなると思います。

385松戸彩苑:2009/04/29(水) 10:11:33
>>381
私は数年前に「過去に流行ったポピュラーソングにエスペラントの歌詞をつけて流行らせれ
ば良い宣伝になるのではないか」と考えたことがありました。

ladio さんが大衆扇動によってエスペラントを広めようと考えておられますが、これも似たよ
うなものですね。

しかし考えてみますと、この手の曲というのは権利関係がとても厳しいので、許可をとるのが
ものすごく大変だろうなと思いました。
(もちろん、おカネさえ出せば可能なんでしょうけれども)

386Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/29(水) 22:47:10
>>381
言葉は付属品だから、主役次第で結構輝いていると思う。

Rumis Eterne
http://www.youtube.com/watch?v=uggnwtmxCI0

紀元の樹海
本家 http://www.nicovideo.jp/watch/sm4023702
PV http://www.nicovideo.jp/watch/sm6700952?oldplayer=1
アルカ訳 http://www.youtube.com/watch?v=1IjcswFbfMc&feature=channel_page

387ベダウリンデ:2009/04/30(木) 09:46:12
>384
>「エスペラントは文化がないから、文学で人を感動させるのは無理」
私はそこまでは思いません。
ある言葉で何がしかを書いて、それが他人に理解されて、そこに共感が生じたならば、「感動」すると思う。
逆に、特定の文化に依存し過ぎたお話になると、基底にある文化背景や価値観が理解できず、作者が何を言いたいのか全く分からない、
分かった気でも結局的外れだった、とか、そういう場合があると思います。
つまり、文学と「文化」はあまり関係ないと思います。

ちなみに、私は「文化」=「民族文化」の意味で使いました。
エスペランチストは「文化」=「広く一般に人間の知性」みたいにとらえているかもしれないので、
そこはズレがあるかもしれないです。

>私は「すそ野」の広さの問題かな、と考えますがどうでしょう。
事情通のNさんでも、エスペラント音楽にもこんなに感動できるものがあるよ、
と書けなかったのは、やっぱり現時点では「いい音楽は無い」ということなんでしょうか。
自分と他人が同じ感動を受けるかどうかはどうでもいいことで、誰かが感動できる曲があればいいのですが、
私にもNさんにも無い、となると、「ホントに無いんだな」という気がしました。

>音楽だと録音装置や媒体といったものがないと制作ができない。
そんなことないですよ。地下室の倉庫でギター一本でカセットテープに録音された歌でも
本当に良いものだったら、例えエスペラント界の中だけという限られた世界の中であっても、
「語り継がれる名曲」になるのではないですか? そういうのは無いんですよね?
今ではYOUTUBEもあるし、ちょっとリンクでも張って紹介すれば
本当にいい曲ならすぐに噂になって広まると思いますが、そういうの、無いんですよね?

だから「なんで無いんだろう」という気はすごくありますね。
「無い」理由を、私は「民族文化が無いから」かな、と思いました。(正解ではないかもしれないですが)

388ベダウリンデ:2009/04/30(木) 10:12:13
>「過去に流行ったポピュラーソングにエスペラントの歌詞をつけて流行らせれ
ば良い宣伝になるのではないか」
オリジナルの歌詞に勝るものはないでしょう。
外国の原曲に日本語歌詞をつけて流行る場合はありますが、
「母語で歌える」から流行ったのでしょう。
オリジナルで勝負できなきゃダメでしょう。

>言葉は付属品だから、主役次第で結構輝いていると思う。
それは言えてますね。
エスペラントにも良い歌手はいると思うけど、私個人としては「好きになる」程の人が
いなかったなー。いれば、エスペラントももっと好きになったかも、と思います。
ルーミスエテルネに感動してエスペラントに興味を持った人もいるから、
一概に「いい曲は無い」とはいえないですね。
でも、そういう人も、「もっとこういうの集めたい」と思って期待したけど結局他には無かった、
なんだがっかり、ということになってそうな気がしますが、どうなんでしょう?

389Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/30(木) 10:13:46
エスニックな香りが薄さに不満を持つあなたに
こゆい民族文化を持つアルカ文学をお勧め。と宣伝してみる。

『紫苑の書』(2009/04/24改定版)
http://cid-dd6eff55a81cbf67.skydrive.live.com/self.aspx/arka/xion778.pdf

辞典ないと後半はきつい
http://www8.atwiki.jp/arbazard/pages/553.html

紫苑の書読み終えたよ掲示板 感想give us
http://www8.atwiki.jp/arbazard/pages/710.html

390Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/30(木) 10:27:30
とりあえず、エスペラントの裾野拡大→人工言語愛好家増大→アルカ知名度アップと思っているので、
一応擁護してみる。
最近聞いたものでは、「銀河鉄道の夜」の挿入歌がいい感じだったと思う。
幅が狭いのは否めないところだけど。

賛美歌306番(320番)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6618060

素人っぽさがラブリーなヘタリア
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6855656

391北辰:2009/05/01(金) 07:33:57
 エスペラントは「ことば」ですから、それを使った作品・芸術は「文学」になり、
百年の歴史の間に原作・翻訳を含めてかなりの量の作品が知られています。
ノーベル賞候補になった作家もいましたね。
 音楽はこれと違って音を使った(メロディ・リズム・ハーモニーの要素があるが)
芸術。ことばだけで(エスペラントでも、日本語でも)音楽は作れません。
> エスペラントは、音楽で人を感動させるのは無理か?
という設問自体ちょっとおかしいと思う。ことばは
音楽の一部の材料(歌の場合、その歌詞)は供給出来ますが、音楽として重要な
ほかの部分(作曲、演奏)にかかわる人の問題が大きいようです。
 感動する、しないはその作品に対する個人の理解、感受性などで人さまざま
でしょうが、目的意識を持ってかかわる活動の中で「感動」が見つからないのは
残念ですね。どこかで「感動」を発見するように Kun espero antau~en!

392ベダウリンデ:2009/05/01(金) 09:26:43
>390
聞いてみましたよ。どっちかっていうと、私はヘタリアの方がお気に入り。
エスペラントはコミックソング系が意外と似合うように思う。
「賛美歌」の方は、字幕一部おかしくないですか?
(こんなこと指摘できるなんて、私もいっぱしのエスペランチストですねーなんちゃって)
Son ĝojve nigu min, Dio pli apud Vin.
Sonĝoj venigu なら 意味取れる。

あとは、松戸彩苑さんの掲示板でだにょさんが紹介してたサイトも役立ちますね。

初心者のためのエスペラント音楽番組
http://worldtv.com/esperanto_muziko_tv

「歌で勉強」しようとしてた時点では、こんなのあるとは知らなかったから
1年ちょっとで随分便利になったものだと思う。

393ベダウリンデ:2009/05/01(金) 09:44:10
今ではすっかり「エスペラントの敵」の私ですが、
はじめは期待を持って勉強しようとしてたんですよ。
それで歌も、当時の私の検索レベルで一生懸命探して聞いてみたんです。

音楽を乱暴にも2分すると、「民族色の濃いもの」と「汎民族的な」ジャンルと、に分けられると思う。
私は「こゆい民族調」が基本大好きで、そういうのに「感動」するんですが、
エスペラント音楽にも民族調のものがありまして、
それが民謡からの翻訳なのか、オリジナル作曲なのか、私には分からないものもありまして(もちろん知ってる民謡もあった)
そういう曲はメロディ的には大好きなんですが、「どうせなら○○語で聞きたいな」と思ってしまうんですよ。
民族音楽ジャンルでは、エスペラントは「どうせ民族語には負ける」のです。

ならばエスペラントは「汎民族」的な、ポップス・ロックがイケルのではないか、と思いました。
ロックなら「反体制的」で「エスペラントの精神」にもぴったりでしょう?
聞いてみて気に入った曲が無かった、とはいいません。
ありました。でも、幻滅しました。
名詞の末尾のOを滅茶苦茶省略しまくってたから、です。

394ベダウリンデ:2009/05/01(金) 10:00:10
私は、エスペラントは末尾が母音で終わる所が、日本語に近い気がして気にいっていたのです。
それがなせ、詩のジャンルになると、邪魔物の如く排除されなければならないのでしょうね?

言葉は、民族が自分のものとして当たり前のものとして持つもの。
歌や音楽のリズムは、基本的には、その言語が持つリズムを反映しているはずです。
有名な説ですが、ヨーロッパの音楽にアウフタクトがあるのは、その言語に冠詞が存在するからで、
日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い、というものです。(適当なキーワードで検索すれば出てきます)
スラブ諸語にも冠詞は無いし、スラブ系民族音楽も、アウフタクト無いです。

エスペラントはエスペラントが持つ末尾Oという本来のリズムを、どうして排除するんですか?
エスペラントを事実上担っているヨーロッパ人が、自分達が民族的背景として持っている美意識から離れられず、
それで排除してるのではないですか?
ザメンホフの16か状にも、詩ならOを省略してもよい、とありますが、
その言語が本来もつ特性で「美」を追求できないのはなぜですか?

395ベダウリンデ:2009/05/01(金) 10:15:16
エスペラントができて100年?でしたっけ?
いまどきの「民謡」なんて、100年前以降にできたものも多いと思う。
それなのに「エスペラント民謡」が無いのはなぜですか?
ザメンホフ作詞の「ラ・エスペロ」ってありますが、
あれをしのぐどころか、追随できる程度の音楽すら、今なお無いんじゃないですか?
それって、すごくレベル低くないですか?

ちなみに「ラ・エスペロ」って、歌詞見たら、Oの省略があるのは、歌の終わり部分だけです。
前半部メインは省略なしですね。
この曲は「タンタ、タンタ」というリズムが印象的ですが、
それは、末尾母音を省略しない場合、末尾から2つめにアクセントが来る、という
エスペラントが本来持つ言葉のリズムを反映したから、ではないでしょうか?

だから「タンタ、タンタ」を追求すれば、「エスペラント民謡」という色もできたかもしれないですが、
O省略=>言語の個性の否定=>ろくな音楽現れず、という結果になったんじゃないでしょうかねー

396N:2009/05/01(金) 20:06:35
ベダウリンデさんへ。
私はエスの音楽に関しては「事情通」ではないです。(^^;)残念ながら。

テープを2本だけ持っています。komencantoの頃にエスと宮沢賢治の研究
の第一人者だった岩手の故・佐藤勝一先生(釜石線の各駅にエスの愛称
をつけた方として有名)からいただいたものです。片方は世界のさまざま
な歌のエス訳を集めたもの、いまひとつはオランダの「Kajto」というロ
ック(?)グループのものです。私は前者のほうが気に入っていたのです
が、その理由が「あんなのも、こんなのもエス訳されているんだ!スゴイ
な!」というkomencantoの素朴な感動によるものが大きかったようなので、
客観的に比較することはできません。

語尾の-oの省略多用が残念とのことですが、多分、(特に訳の場合)「詰
め込むためにはやむを得ない」という単純な理由ではないかと私は思いま
す。たとえば英語やドイツ語といった子音の多い言語からエス訳する場合、
類似の単語(の前のほうの部分)に母音が挟まるので、語尾は犠牲になる
のではないかと思うのですがどうでしょう。

ベダウリンデさんの「La Espero」評には一理あるような気がします。「La
Espero」の旋律は何種類もあって、今歌われているのは比較的新しいものだ
そうです。ひとりで口ずさむにはイマイチという気がしますが、大会などで
大勢で歌うと荘重な感じがして、私は気に入っています。

397胡人:2009/05/02(土) 03:35:49
詩の最後に「’」が来るのは、そのリズム「強、弱、強、弱、・・・」が歌うために必要だからと聞いています。
たぶん、民族語自身が持つそのリズムを表現するために様々な工夫がなされているのだと思います。

中国語の4声はそれをもって中国語のリズムがあり、
キリスト教の讃美歌は、その詩の意味と共に、その元のユダヤになるのか、ローマになるのかそれ自身が持つリズムを表すために工夫がされているのだと思われます。
また日本語本来のリズムは、皇室の歌会始での朗詠の様なものが本来でしょうし、その様に詠える様に、詩も工夫するのが本当だと思われます。

その意味でエスペラント自身のリズムにあった音楽の追求は、エスペラントオリジナルの音楽が必要とすれば、
本当の音楽を知る才能のある方の出現が必要です。
まぁボサノバ的なものはエスペラント化は簡単だと思えますが(^^)

私は、歴史や、その民族のリズムを感じることが出来る意味で、エスペラントが好きです。
語順の自由さや、母音、アクセント等の条件があいまって、その使用者の文化、価値観を感じられるところが大変興味深く、交流言語として素晴らしいと思います。

その意味で、共通語ではなく、交流語としての有り方の追求が、その必要性をまた創造するものとなると思いますが・・・

398丹花:2009/05/02(土) 07:40:32
私は、ザメンホフの、La vojoを朗読した時、自分もこのような、花の詩を作ってみたいなと思いましたができませんでした。皆さ
んのお話は面白いです。

399ベダウリンデ:2009/05/02(土) 15:06:14
>英語やドイツ語といった子音の多い言語からエス訳する場合、
類似の単語(の前のほうの部分)に母音が挟まるので、語尾は犠牲になる
のではないかと思うのですがどうでしょう。

>民族語自身が持つそのリズムを表現するために様々な工夫がなされているのだと思います。

これでは、「エスペラントには文化が無い」と言われても仕方ないですよ。
エスペラントは、既存の民族文化を翻訳するための言語にすぎない、とお二人は認めています。
まあ、翻訳も高度な知的作業だから、「文化的」なお仕事ではありますが。

外国語(ヨーロッパ語をイメージ)の歌に日本語歌詞をつける時、直訳ではメロディにおさまりきらない。
そこで、日本語では、思い切って意訳して、
時には日本人が共感しやすいように、内容まで一部変更して、歌詞をつけてることがあります。
エスペラントでは、こうはしないのですか?
エスペラントはなまじっかヨーロッパ語にそっくりなので、翻訳が簡単で、
そのために独自色をもった「エスペラント文化」が発展しなかった、ともいえませんか?

エスペラントは民族間交流を目指した人工語なんだから、独自の文化なんて必要ないと、そう言いきってもらえると納得するのですが、
いつもお決まりで「文学があるから文化があるんだ」的に反論されると納得できません。

>その意味でエスペラント自身のリズムにあった音楽の追求は、エスペラントオリジナルの音楽が必要とすれば、
本当の音楽を知る才能のある方の出現が必要です。

結局、エスペラントオリジナルの音楽は、必要が無いから存在しない、ということなんでしょうね。

400N:2009/05/02(土) 19:50:29
Saluton, Nです。

>エスペラントはなまじっかヨーロッパ語にそっくりなので、翻訳が簡単で、
>そのために独自色をもった「エスペラント文化」が発展しなかった、とも
>いえませんか?

その可能性はありますね。

日本語からエスへの歌詞の翻訳の場合には、ベダウリンデさんがおっしゃる
ような「大胆な意訳」が結構使われているんですよね。少し前まで「La Movado」
誌で日本語の歌のエス訳の名人・小西岳さんが「歌の訳し方」という連載を
されていたのですが、ちょうど私自身が購読を始めた頃と入れ替わりに終了
となってしまい、十全には読むことができず、残念でした。そのなかに、確か
に胡人さんがおっしゃるような、

>詩の最後に「’」が来るのは、そのリズム「強、弱、強、弱、・・・」が歌
>うために必要だからと聞いています。

といった記述があったようです。

401ベダウリンデ:2009/05/02(土) 21:40:40
私も改めてエスペラント音楽を聴きなおして「考察」してみました。
敵対的なことばかり書いてもなんですから・・・

>まぁボサノバ的なものはエスペラント化は簡単だと思えますが(^^)
「初心者のためのエスペラント音楽番組」に『イパネマの娘』が入ってました。
タターンタ、タタンタみたいな弾むリズムなので、エスペラントに合ってるかもしれない、と思った。
ただし、エスペラントだと、若干語感がきつくなるような。
エスペラント語で「けだるい感じ」とか、出せるのかな?
いつも強い語調で自己主張してるイメージがあるんですが。

ロックも聴きました。
昔ダウンロードした曲は削除してしまいましたが、かろうじて歌詞を残してました。
私はpersoneとか、dolchemarを気に入ったみたいです。
語尾O省略しまくりですが、曲を聞いたら、ロックは語尾を伸ばすんですよね。
だから、省略せざるをえなかったのか、と、気づきました。
ロックにはウキウキ弾むリズムは似合わないし、エスペラントはリズム的には、ロックは合わないのですね。
語調のきつさは、ロック向きだと思います。

Kajtoもありました。どこぞのヨーロッパ民謡調ですが、こゆい感じはなく、
リズムも弾んだ感じで、ちょっとコミカルでもあり、いい感じでしたよ。
語尾省略も最小限で、その点でも好ましいかったです。

402北辰:2009/05/03(日) 01:28:10
ベダウリンデ様
 「ラ・エスペロ」を例に出しておいでですが、おっしゃるようにこの曲は
「タンタ、タンタ」というリズム(強弱リズム)で出来ています。定形詩で
1行の音(母音)の数も決まっているので1番〜3番まで通して同じメロディで
歌えるわけです。
 O(名詞語尾)の省略 1ヵ所    Al la mond' eterne militanta
 定冠詞の母音省略 2ヵ所     signo de l' espero
song^o de l' homaro
ですが、このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?
> 日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い
初めて聞く ふしぎな話です。日本民謡で、例えば
木曾節、佐渡おけさ、最上川舟歌、をどう歌い出していますか? 全部
アウフタクトで始まっているのですが。伝統を無視して自分の好きなように
編曲する人も あるかもしれないが、私は見たことありません。
 語尾省略のない詩を作ろう、という考えには反対しません。わかりやすい詩を、
という趣旨には賛成です。Brendon Clark の作品、好きですか?

403Kanva:2009/05/03(日) 23:52:48
ベダウリンデさんがどんな範囲で「スラブ系民族音楽」と言っておられるか
よく分かりませんが、いわゆるロシア民謡でアウフタクトで始まる曲ないし
フレーズはいろいろ思いつきますね。
有名どころでは「トロイカ」「カリンカ」「ステンカ=ラージン」
「鐘の音は単調に鳴り響く」「バイカル湖のほとり」「オレグ公の歌」など。

思うに、アクセントのない短い音節が、文や句の頭に来ることができれば、
それが冠詞である必然性はないのではなかろうかと。

404松戸彩苑:2009/05/04(月) 11:45:57
私は「エスペラント改造論」スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/l50
において

  あまりにも長すぎる単語・表現は、より短い単語・表現に換えても良いのではないか。

と主張しているんですが、これは

(1) 作詞する場合や、歌詞を翻訳する場合には、単語・表現が短いほうが便利である。

ということがあるからなんですね。
ほかにも

(2) 合成語をつくる場合にも、短いほうが長くならなくて都合がよい。
(3) エスペラントで話すときにも、短いほうが口が疲れない。
(4) 同時通訳をする際にも、短いほうが楽。
(5) 雑誌などでは使えるスペースが限られているので、短いほうが便利。
(6) ラジオ放送の場合には使える時間が限られているので、短いほうが都合がよい。

といったメリットがあります。

405北辰:2009/05/04(月) 12:01:49
Kanva 様
 あなたのあげたロシア民謡のうち「オレグ公の歌」は、私の見る楽譜
(三沢郷作詞・河西保郎編曲)では4分の4拍子の第1拍から始まっており
アウフタクトではありません。ほかの曲はみなアウフタクトです。
ロシア語には冠詞はありませんが、冠詞のあるなしとアウフタクトは
全く関係無いことが(日本語も同じ)よくわかります。
> アクセントのない短い音節が、文や句の頭に来ることができれば、
その場合 当然作曲家はアウフタクトで始めます。冠詞の有無に関係ないこと、
御説の通りです。

406ベダウリンデ:2009/05/06(水) 08:30:31
北辰様
>> 日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い
>初めて聞く ふしぎな話です。

民族音楽研究の日本での先駆けである、(その筋でその名を知らなかったらモグリでしょう)
故小泉文夫さんの説を、自分なりのうろ覚えで書きました。
ネットで適当なキーワードを入れて検索したら、同じような言い回しが出てきましたので、一般的に流布しているのかと思いました。
出典の本『音楽の根源にあるもの』も持っているので、改めて読み直しました。
それに近い記述は確かにありまして、それは後で引用するとします。

本をよく読むと「緊張」と「弛緩」の言葉を使い、リズムを分析しています。
西洋式の楽譜に採譜して、小節線の前に音符があれば即、西洋式アウフタクトと同じ、と決めつけられるわけではないようです。
小泉氏の説はそんな単純ではないようなので、ぜひ、ご一読を。

407ベダウリンデ:2009/05/06(水) 08:41:57
アウフタクト=上拍、を「体感」したことはありますか?
私の場合、某ダンスなのですが、これが「アウフタクト」か、とやっと体感できた経験があります。
一拍目の強拍を目指し、そこへの準備のために、その直前に体をふわっと上にあげる感じです。
音楽では、タラ、とか、ター、とか、一拍目の前に小さい音が入るんですが、そこを意識するといいんです。
小泉氏の説では、ドイツ民謡は、一拍目が「弛緩」で、その前の弱拍は「緊張」だそうで、
私の「体感」もそれに合ってます。小さい動きなんだけど、準備のための緊張があるんです。

こういう感覚でのアウフタクトって、日本民謡やロシア民謡には無いんじゃないか、
と私は「経験上」感じてました。あくまで経験なので、間違いかもしれませんが。

(まだ続くので待っててね)

408ベダウリンデ:2009/05/06(水) 09:14:00
ロシア民謡で「カリンカ」は、楽譜では、最初の「カ」は、小節線の外の8分音符ですが、
私が知ってるロシア民謡では
「カ〜〜〜〜、リン!! カ、カリン! カカリンカマヤ」という感じで歌います。
ここでは、「カ」の文字のアウフタクトはさして重要ではないようです。

佐渡おけさでも、出だしの「さどー」の「さ」が、楽譜上では「アウフタクト」なんだろうけど、
「さ」は「ど」のための「準備」「緊張」なのかな?と思います。
あくまでも一単語で、たまたま「ど」にアクセントがあるだけで、
西洋式のアウフタクトと違うんじゃないかな、と思います。
私は専門家ではないので、自分の「感覚」で言ってますけど。
(まだ続く)

409Kanva:2009/05/06(水) 09:34:19
西洋音楽に比べて長めの時間での「緊張」と「弛緩」の円環周期を持つ
インド古典音楽でも、同様の重心感覚があると私は感じます。
そして最強拍(「サム」・解放拍)からフレーズが始まるものではなく、
周期の反対側付近の最弱拍周辺(重心が一番高く感じる辺り)から始まり、
最強拍へ向かっていきます。
それで、そういうのも私はアウフタクトの一種だと思っていますが、
一般にはどうなのでしょう。

私も自分の感覚とも照合しながら、どこまでを「アウフタクト」の言葉で
括ってよいのか、改めて考え直したいと思います。

410ベダウリンデ:2009/05/06(水) 10:06:38
小泉氏の本では、民謡の一例をあげ、
『前のフレーズの解放点において、緊張より弛緩の方向に転じたエネルギーを
再び次のフレーズの準備のために緊張の方向へ誘う』とあり、(平凡社ライブラリー、P58)

日本民謡の「アウフタクト」は、これではないか、と私は思います。
弛緩の準備のための緊張ではなく、一拍目の緊張にそのまま持続する緊張。
ロシア民謡のアウフタクトも、私はそれに近いように思います。

本から引用
『ドイツやイギリスの民謡にはアウフ・タクトではじまる(弱起の)旋律が多いが、日本の民謡にはほとんど弱起のものはない。』(同、P58)
『ドイツ語や英語には、前置詞や冠詞が多いので、アクセントのあるシラブルがそれらのあとのニ番目にくることが多い。』』(同、P140)
(例・・中略)
『こうした洋楽のイディオムを持つ旋律は、ヴァイオリンやピアノのような歌詞をもたない器楽の旋律にもあらわれ、
例えばシューマンのトロイメライヤやリストの愛の歌など、アウフタクトで始まる旋律は案外多い。
ただしヨーロッパもスラブやハンガリーなど東欧諸民族の言語では、必ずしもこのようなシラブルの原則は見られないので、
民謡の旋律もしたがって、アウフタクトが少ない』(同P141)

スラブ系の音楽に関しては、民族音楽を聴いてみて「アウフタクト」少ない(てゆーか無い!)と経験的に感じました。
(つづく)

411ベダウリンデ:2009/05/06(水) 10:34:45
北辰様
>このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
>わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
>これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?

エスペラントのことをちょっとでも批判すると、すぐに「逆上」するんですね。怖いです。
エスペランチストって全員そういう人なんですか?

なぜ、省略形の無い本来のエスペラント語のリズムより、定型に決められたリズム配置を優先するのですか?
そのリズム配置が美しいと、誰が決めたのですか?
定型に無理に合わせるのなら、省略せずにすむ別の単語を選択すればいいのではないですか?
定型リズムなんて気にしなければ、日本人の感覚では、de la homaroでもなんの違和感ありません。

そもそも私は、「言葉と、歌や音楽は密接に関係してる」という事を言いたかったんです。
冠詞がどうとが、楽譜上に出る弱拍がどうとか、そういう瑣末な事の学術的検証をしたいのではありません。
北辰さんは、言葉と音楽は関係ない、とおっしゃりたいのですか?

ちなみに、日本民謡はアウフタクトだ、という説もあるようです。
他人のブログから無断コピペしてしまいますが、

(引用開始)
これについては、服部龍太郎氏が、著書『日本の民謡』(角川新書186)の中で次のように指摘しています。
「日本の民謡を観察すると、ほとんどがいつの場合でもアクセントの弱い音からうたいだし、
第二音になってようやくアクセントを強めるということをしている。
すなわち、弱起のかたちをとっているのであって、これは、日本語のアクセントにふかいつながりがあるものとおもわれる。
この一事は音楽にたずさわるひとはもちろんのこと、音楽に関係のない日本人でもよくこころにとめておいてもらいたいことである。
日本民謡がアップ・ビートの弱拍からはじまるということはじつに徹底したものであって、百曲中の九十曲中まではそうである。」(同書206-207ページ)
(引用終了)
ここで注目したいのは、例え日本民謡をアウフタクトと定義したとしても
それは『日本語のアクセントにふかいつながりがある』のです。

(いちおう終わり)

412Kanva:2009/05/06(水) 11:22:32
ベダウリンデさん>

日本語訳によって歌詞のアクセントの位置が原詩とずれていると、ついつい
音楽のアクセントの感じ方も訳詩に合わせてしまう、ということがあります。
日本語の意味を伝えるにはそうする方がいいけれども、楽曲のノリは原曲と
大きく違ってしまいます。
例えばそういう経験から、「言葉と、歌や音楽は密接に関係してる」という
論旨には、賛成します。

「アウフタクト」についても、どこまでをアウフタクトに含めるかの問題を
(連続的なものとして)一旦脇に置くことと、「有る/無い」ではなく
「多い/少ない」という表現だと判りましたから、それならほぼ抵抗なく
賛成できます。

413Kanva:2009/05/06(水) 11:42:10
「La Espero」の件では、
・1番から3番までを全く同じリズム割・旋律形で歌うことは、多少の便利さは
 あるだろうが、音楽的にあまり重要なこととは感じられない。
 歌詞のリズム・音節数・アクセントに応じて変わっても構わないのではないか。
・当たり前のように句末の-oを落としてしまうのでなければ、歌詞1番あたりに
 一ヶ所くらいの省略は構わないのではないか。
と、個人的には感じます。

414松戸彩苑:2009/05/06(水) 12:39:58
音楽好きな人が多いんですね。
これをエスペラント運動に生かせると良いと思います。

415丹花:2009/05/06(水) 16:00:23
昨日60人で、賛美歌を歌ってきましたが、エスペラントを広めるために、文学を、翻訳したり歌を作り、詩を作ったのでは、ないのですか?議論するより、作曲 
してからのように思われます。

416ベダウリンデ:2009/05/06(水) 17:13:47
私は、名詞が-oで終わる所が、エスペラントの好ましい点だと思っていたのですが、
歌を聞くと、-oを省略してばかりだったので嫌気がさし、
エスペラントの歌を好きになる事を諦めたのです。
詩でも、どうせきっと省略の連続だろうから、読む気すらおきませんでした。
よって、ニュース文などの「散文」ばかり読んでいました。
それもそのうち飽きて、今はエスペラントから離れています。

それなのに、そんな私に対して「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、
「作曲しろ」(丹花さん)だの、みなさんトンチンカンだなあ、と思います。
私は「運動」なんてしないです。あなたたちの仲間ではないのですから。

それより、詩の定型リズムはどこの美意識から由来していて、
なぜエスペラントでも、省略という操作をしてまで、
それと同じ形を取り入れているのか、誰か説明して下さい。

417Kanva:2009/05/06(水) 18:56:42
エスペラントではないですが、漢詩の平仄の規則の起源は、学問的にまだ
解明されていないと、今年の時点で、漢語の学生さんから聞きました。
漢語に影響を与えたとも言われるサンスクリットの韻律も、そもそもが
一番古い文献が韻文なので、成立過程を辿ることは難しいでしょうね。

ところで、一つの言語の韻律が数種以内に限られるということはなくて、
サンスクリットなら何百種類とありますよね。
曲の付く詩は定型に限ると、いうことも、ないはずですしね。

418Kanva:2009/05/06(水) 19:18:15
そういえば私は、名詞の語尾を-oに固定するのはそもそも好きじゃなかった
(複数種類の型を持つか、語幹末音自由が理想)し、単語のアクセント位置の
固定も好きじゃない(活用形式や単語によって変動する方が響きとしては
より好ましい)ので、その時点で立ち位置がベダウリンデさんとは異なります。

ただ、しばしば語尾省略が見られるのは好ましくなくて、散文と同じ音構造の
ままで、詩も作れるのが理想だと思っています。
早くもザメンホフの第一書に「Ho mia kor'」という詩がありますけれど、
いくらラテン語の単数主格が/cor/であるにせよ、こういう形を例にしない
方が良かったのにと思います。

419松戸彩苑:2009/05/06(水) 20:24:29
>>416
残念ながら私は音楽とか詩とかいうものに詳しくないので話に加わることができないんで
すが、みなさんの知識には大いに感服させられましたので、それで「そういう才能がエスペ
ラント運動に役立てば良いなぁ」って思ったんですが、しかしひょっとしたら話の腰を折って
しまったかもしれませんね。

ところで『Parnasa Gvidlibro』という、エスペラントで詩をつくる人のための本がありますけれ
ども、これを元にして語尾の -o の省略を説明できる方はおられないですかね?

私もこの本をもっているんですが、なにしろ詩には関心がありませんでしたので、ほとんど
読んでないんですよね。

詩の用語である jambo とか trokeo といったものが何のことなのか、関心がないので、いま
だに判っておりません。
(調べれば当然判るんですが、今までそういう気にならなかったということです)

私の印象では

(1) エスペラントの詩形というのは基本的に欧米語の伝統的な詩形を踏襲しているが、そ
    れに合わせるために語尾の -o を省略する必要が出てくる。

(2) 語尾が -o ばかりだと単調になるので -o を取り去る。

(3) 音節数を減らすために -o を略す。

といったことなのかなと思ったんですが、なにしろロクに勉強してない人間の印象にすぎま
せんので、どなたか詳しい方のご教示を待ちたいと思います。

420Raku:2009/05/06(水) 23:10:04
語尾の母音を省略せずに脚韻を踏めば品詞をそろえなければ
なりませんが、それでは脚韻の効果は失われてしまいます。
日本語詩に脚韻がないのも似たような理由が関係しています。
詩のための特別な語形などは歴史的に発展してきたもので
ない限り不合理なものです。

421ベダウリンデ:2009/05/07(木) 09:42:52
Kanvaさん、松戸さん、ちょこっとでも説明して頂けて、ありがとうございました。
北辰さんは別スレには書き込みしてるのに、ここには返事してくれませんでした。

422北辰:2009/05/08(金) 07:50:32
松戸彩苑さん、 「語尾の -o の省略」は『Parnasa Gvidlibro 』を持ち出す
までもなくザメンホフの Fundamento の中の16条文法の第16条にあります。
英語版には euphoniae gratia (音調を整えるために許容される)が入って、
詩人の特権としてリズムや韻を揃えるために許される、と理解されています。
 その実用上の問題は Parnasa Gvidlibro の LA ARTO POETIKA の
Kanto kvara のなかで細かい注意(乱用の戒め)があります。
しかしこのあたり、すごいですね。Kanto unua から Kanto sesa まで
詩の作り方の極意を、見事な詩の形で述べています。
ベダウリンデさん、
> 「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、「作曲しろ」(丹花さん)
> だの、みなさんトンチンカンだなあ
とは何?? 私はそんなことは聞いたことはないが、かかわりありそうなのは
> Brendon Clark の作品、好きですか?
と おたずねしたことかな? あなたの主張を聞いて、Clark は当然ご存じだろう、
と思ったのですが --- 人の発言をゆがめて非難するのは demagogo の手段です。
説明します。Brendon Clark は詩での母音省略に反対し、省略のない詩作を
実践しています。彼の「マオリの航海の歌」は、太平洋の波のうねりのような
リズムに酔わされる感じです。あなたなら、母音省略のない雄大な詩から
エスペラントの詩の視界が開けるものを感じておられるのでないか、と
思ったのですが。これが トンチンカン ですか? ご返事ください。

423ベダウリンデ:2009/05/08(金) 09:13:25
北辰さま
>> Brendon Clark の作品、好きですか?
>と おたずねしたことかな? あなたの主張を聞いて、Clark は当然ご存じだろう、
>と思ったのですが --- 人の発言をゆがめて非難するのは demagogo の手段です。

その事です。私にとっては聞いたこともない人の名をあげられ、
突然「好きか?」と聞かれたのです。その人がどんな詩を書くのかも知らされずに。
私には、「読んだのか、読んでないなら読め」というように聞こえました。
「こんなのも読んでないくせにでかい口たたくな」的にも聞こえました。

その発言の前には「これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?」
と恐喝じみた言い回しさえ受けています。

こういう言い回しを受けて、私は「怖いな」「不快だな」と感じましたが、
そのように反応したら「demagogo」なんですか?
あなたの意図が私に通じなかったのならば、あなたの「書き方」に問題があるのです。

丹花さんも悪気はないとは思うけど、突然割り込まれ、あのように言われたら
「文句言うなら自分で作曲してみろよ」的に聞こえたんです。
もちろん、悪気はないとは、分かっています。
でも、私には「本当に聞きたいこと」があったのに、それから議題をそらされたように感じました。

424ベダウリンデ:2009/05/08(金) 09:22:03
北辰さんも「母音の省略に反対」の立場を理解し、
すでにそういう詩もある、と紹介して下さいましたが、
「なぜ、省略する形式の詩が多いのか」という疑問には答えてくれませんね。

北辰さんは
>このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
>わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
すごい強い口調で「定型詩のリズムは重要なんだ」と主張なさっているように聞こえます。
なぜ、そこまで定型リズムが重視されるのか、その由来はなんなのか、
私はそこを質問してるんです。

それには答えようともしないんですね?

425丹花:2009/05/08(金) 14:28:04
わたしがつくつてみられたらと言ったのは、そうしてみないとわからないとおもつたからです。2人の方は、懇切丁寧に説明しておられますよ。cつたのはきょくしてみたら

426丹花:2009/05/08(金) 14:31:10
コンピュウターの調子が悪いので、大きく間違えてしまいました。

427ベダウリンデ:2009/05/08(金) 17:23:18
Kanvaさんがおっしゃってた例から・・・

>早くもザメンホフの第一書に「Ho mia kor'」という詩がありますけれど、
>いくらラテン語の単数主格が/cor/であるにせよ、こういう形を例にしない
>方が良かったのにと思います。

私も「ホー、ミーア、コーロ」のままで充分美しい響きだと思います。
それなのに、なぜザメンホフは「ホー、ミーア、コー」でなければ美しくない、と感じたのでしょうかね。
(私は語尾が子音になると聞き取れないので、だから嫌いなのですが)
自分が作った言語そのままの形では「醜い」とザメンホフが感じた「文化的背景」は何なんですか?

そういう点が知りたいんです。(自分で作ってみろよ、というレスは無しでお願いしますね)

428松戸彩苑:2009/05/09(土) 03:31:32
『Parnasa Gvidlibro』(私が持ってるのは1984年に出た第3版)のなかを探してみましたら、
41ページに Ho, mia kor' が載っていました。

この詩は「弱強五歩格(エスペラントでは kvin-jambo、英語では iambic pentameter)」とい
う韻律だそうです。
これは、アクセントの弱い音節と強い音節とが交互に現われるというのを5回くり返すという
もののようですね。

アクセントの弱い音節を小文字、強い音節を大文字で表わすと

  ho MI a KOR' ne BA tu MAL trank VI le
  el MI a BRUS to NUN ne SAL tu FOR
  jam TE ni MIN ne PO vas MI fa CI le
  ho MI a KOR'

というふうになるわけです。

ということで、この韻律にするためにはやはり kor' という形にしないといけないわけです。
---

しかし、私もエスペラントを長いことやってますけれども、欧米人の詩に対する情熱というの
はいまだによく判りませんね。

もちろん、欧米では文学はホメーロスの『オデュッセイア』と『イーリアス』という叙事詩に始
まるんだといったことは知識としては知っていますけれども、しかしなんでそんなことに今で
もこだわるんだろうと思います。

429松戸彩苑:2009/05/09(土) 06:30:11
それから私は、語尾の -o の省略は気にならないんですが、しかし詩において語順がゴチ
ャゴチャになるってのにはかなり違和感を感じます。

具体例をあげますと Ho, mia kor の3行目の

  jam teni min ne povas mi facile

なんかがそうですね。
ふつうだったら

  jam mi ne povas teni min facile

みたいになると思うんですが、これが jam teni min 〜 になっていますので、エスペラントを
始めたばかりのころは頭にスッと入ってこなくてイライラさせられました。
やはり我々は、日本語の語順と英語の語順にしか慣れていませんので、そのどちらでもな
い語順の文章は、なかなかすんなりと理解できるようにはなりませんね。

このほかにも La espero には

  nun de loko flugu g'i al loko

  g'i la homan tiras familion

なんて行がありますね。

そういえば、ギリシア語やラテン語なんかにも語順がゴチャゴチャになるというのがよくあり
ます。

430ベダウリンデ:2009/05/09(土) 13:14:51
私も、詩には全然興味なくて何も知らなかったのですが、ウィキペディアなどで、自分で調べましたよ。
それなりに勉強になりました。
(北辰さんは、やっぱり答えてくれないですね。そういう人なんですね)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%BB%E5%BE%8B_(%E9%9F%BB%E6%96%87)
(引用開始)
例えば日本語の伝統的韻律では、モーラ(拍)が最小単位となり、5拍・7拍を基本とする七五調・五七調などがよく使われる。
フランス語でもこれに似て、韻文では時間的最小単位である音節が一定数繰り返される(5音節、6音節など)。
またアクセント・強勢や音節の長さ、あるいは声調が重視される言語も多い。
例えば古典ギリシャ語とラテン語では音節の長短、英語やドイツ語ではアクセント・強勢、中国語(漢詩)では声調(平仄)に関して特定のパターンが用いられる。
イタリア語やスペイン語では、フランス語と同様の音節数に加え、アクセントのパターンが重視される。(
(引用終わり)

西洋文明の古典・ギリシャ・ローマの詩において、長短リズムの詩があったのですね。
英語・ドイツ語は、たまたま強弱リズムの言語であったので、古典詩の長短をそのまま強弱に置き換えて
その伝統を引き継ぐことができたのですかね?
エスペラントも強弱リズムなので、自然と英語・ドイツ語の詩に近づいたのでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0#.E8.A8.80.E8.AA.9E.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.83.AA.E3.82.BA.E3.83.A0
『音節リズムはスペイン語やフランス語などに見られ、各音節が時間的にほぼ等間隔で現れることによって生じる。』
フランス語は、強弱リズムの言語とは異なるので、詩においても、英語・ドイツ語の詩とは違った様相を示すのでしょう。
自分たちの言語を無理に操作してまで古典の基準に合わせる、ということをフランスでは行わなかった、という事なんでしょうから、
そこらへんにフランスの「文化」というものが感じられます。

431ベダウリンデ:2009/05/09(土) 13:34:07
エスペラントがギリシャ・ローマ風の詩に近づける特徴を持っていたとしても、
無理な操作を行わずにすむ韻律の型を選べばいいのに、と思います。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Piedo_(poetiko)
韻律は、長短(強弱)の組み合わせで、何種類もあります。
その中で、最後が「長」で終わる型は、本来的に、エスペラントには合わないと思います。
ヴィキペディーオからの例をとると、

trokeo: —∪ ("En la mondon venis nova sento") これは合う
jambo: ∪— ("Mi amis vin")  終りに来る単語を vin とか miとかに限れば可能。
daktilo: —∪∪ ("Kanto sincera de mia animo")  最後に休符を足せば、合う
anapesto: ∪∪— ("Ne riproĉu la sorton, ho juna animo")  最後-o省略しないと合わない。
amfibrako: ∪—∪ ("Tra densa mallumo briletas la celo") 合う

このように、 やっぱ、最後は短いので終わるものは、無理なく自然に合うんですよ。
anapesto型でも、最後に「短」を字余り的に追加すればいいと思う。「型」は崩しますが。

>429
エスペラントは、アクセントが固定という不自由さがあるから、
その代わりに、語順の自由は認めてあげるといいと思います。

432北辰:2009/05/10(日) 07:51:26
-->429:松戸彩苑さん、
> 日本語の語順と英語の語順にしか慣れていませんので
ですか。ずいぶん英語に慣れておいでのようですね。英語を習い初めてから
5年後エスペラントをやり出した私とはだいぶ違うのでしょうか。
 英語はかなり語順が固定され、日本語、エスペラントに比べて不自由なことば。
日本語は「が(は)のにを」の助詞が西洋語の格表示に当たる機能をもつので
「動詞が最後」という一応の語順固定はあるが、わりと自由ですね。
ザメンホフの詩で比べてみます。
jam  teni min       ne povas  mi    facile
もう 私を支える(ことは) できない、(私は) 容易には
------------------------------
と、頭から日本語で読みくだして スンナリ わかりましたので、
> 頭にスッと入ってこなくてイライラ
する方がいる、のに意外な感じがしますが、それだけ
英語に慣れて(囚われて?)いる方が多いのでしょうか。
 エスペラントでは格表示と前置詞の活用で、文の要素間の関係は はっきり
表示されるので、格表示を失った英語に比べると語順の自由度は大きく、
詩作や作文に有利な言葉です。表現したい内容にに合わせて語順を変えても
文法違反にならず表現の可能性が格段に大きい。
 「最初にエスペラントを習ったあとで外国語を学ぶほうが学習効果は大きい」
という教育研究結果が多いが、言語の表現可能性と多様性を先に知っておく
ことの意味が大きいのかも、といま気がつきました。

433松戸彩苑:2009/05/10(日) 09:37:02
>>432
それほど英語ができるわけではないんですが、しかし語順には慣れましたので、その影響
はあるのだと思います。

それから考えてみたんですが、私の場合はエスペラントを「読みくだす」ということはしてい
ないんですよね。
どうやら、語順に依存してバッと大づかみにするというやりかたで理解していたらしくて、ふ
つうの語順から外れた文章を見ると、それだけで心のなかで拒否反応を起こしてしまって
いたようです。

もちろん今では、こういう文章にもかなり慣れましたが。

おそらくこの手の文章は、ロシア語やドイツ語なんかを母語としている人たちには理解しや
すくて、英語やフランス語なんかを母語にしている人たちには、ちょっと判りにくいのではな
いでしょうか。

434ベダウリンデ:2009/05/10(日) 13:18:33
>英語はかなり語順が固定され、日本語、エスペラントに比べて不自由なことば。
英語は印欧語の中でも孤立語化した言語だから、語順に依存するのは仕方ないのではないですか?
その代わりに、英語では格変化は退化してるから、格変化だらけの屈折語に比べたら、日本人には馴染みやすいです。
それを「不自由」と言い切るなんて、英語はじめ他の諸言語に対しても「失礼」ですよ。
みんな普通は「母語が基準」なんだから、エスペラントと母語の異なる点に対して「違和感」を感じるのは当然だと思う。
日本人が英語を経ずに直接にエスペラトを習ったとしても、日本語には無いエスペラントの特徴(それは英語にも共通する特徴だと思うけど)
が存在するんだから、難しさは同じだと思う。

てゆーか、北辰さん、エスペラント詩において定型リズムがなぜそんなに重要なのか語って下さい。

435ベダウリンデ:2009/05/10(日) 13:38:00
ところで、私思うに、「文化」って「美意識」なんですよね。
ヨーロッパ人にとってはギリシャローマ文明は誇りであり、憧れであるのは分かる。
エスペラントだと、ラテン語風の詩が、ラテン語の知識が無くても、お手軽に書けるから、
それでエスペラントに飛びついたヨーロッパ人も多いんだろうな、と思う。
ラテン語の詩には「短+長」という型のリズムが存在するから、エスペラントでも存在しなければならない、と
硬直的に考えて、無理やり「ホミー、アコー」なんて言ってるんだろうな。

でも日本人の私からすると、長短を規則的に組み合わせだけのリズムって、単調に感じる。
そこに美しいメロディがつけば、異文化の私にでも「美しさ」は理解できるけど、
言葉だけ聞かされても「美しい」とは感じない。
ヨーロッパ人が自分たち特有の美意識にとらわれてるうちは、エスペラントの「文化」も生まれないんだろうな。

日本民謡のアウフタクトについて、ちょっと考えたんですが、
民謡に限らず、日本人が「うた」う時、一文字目と2文字目は、くっつくんですよね。
「たびーゆけーばー」の浪曲(たぶん、規定のリズムは存在しない、いわゆる無拍のリズムというやつかな?)でも、
百人一首の読みでも、そこが共通してると思う。
リズムが決まっていて採譜できる民謡も、その特徴をひきついでいて、
見かけ上の「アウフタクト」ができるんだ、と思った。

436松戸彩苑:2009/05/10(日) 16:13:39
「エスペラントの詩の上手な朗読」というのを聞いてみたいものですね。
でないと、良さが判らないですね。

437Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/05/10(日) 20:11:34
>英語はかなり語順が固定され
スターウォーズのヨーダのセリフを聞くとその固定観念はもろくも覆ることに。
fight the darkside we must!

ところでセレン氏が有名なメルトをうたった動画をupしたので宣伝します。
http://www.youtube.com/watch?v=eoS0NnUfC5g

438Kanva:2009/05/11(月) 00:20:34
初期からあるキリスト教典礼文は散文であり、ミサ曲なんか数多く
作曲されてきているわけですから、
「定型に沿った韻文でないと(ヨーロッパで)名曲は生まれない」
ということは、誰にも主張できないことだと思います。
縦の揃わないポリフォニーなんかにおける韻文の意味って何でしょう?

また、古代ギリシア語の長短アクセントの韻文は、アクセント位置が
規則正しく現れるタイプのものではなかったので、ベダウリンデさんが
引用したような韻律の先祖とは、見なせないものだと思います。

439Kanva:2009/05/11(月) 00:36:26
> 長短を規則的に組み合わせだけのリズムって、単調に感じる。

私も、その点に同感です。
単純拍子と言われる2拍子・3拍子・4拍子で、中のリズムも殆ど同じ
形が続く楽曲は、単調でつまらなく感じられます。
私にとって自然に湧き出る音楽は、交替拍子や複合拍子のものであり、
たとえ同一の単純拍子が続く曲でも、中のリズム分割がいろいろ変わる
ものが好きです。
また、無拍子の音楽も好きです。

> 「文化」って「美意識」なんですよね。

少なくとも芸術の文化について言えば、「何が美しいか・かっこいいか」
という感じ方・考え方が、文化の違いですよね。
それぞれの文化圏での楽典や、演奏法のルールを知って音楽を聞くことで、
より深く本当に分かるようになるわけですね。
ヨーロッパも、長短のリズムを重視する言語や、強弱アクセントの言語の
葛藤によって音楽や韻律を変遷させてきたわけですが、その結実に我々が
縛られる必要はないと思います。

440Kanva:2009/05/11(月) 00:49:29
「アウフタクト」という用語は、私の身の周りでは、ドイツ語で本来意味する
リズム感覚を離れて、「練習番号○○のアウフタクトから始めてください」と
いうふうに、弱拍から始まるフレーズの、その弱拍部分一般を指すものとして
使われています。
小節番号や練習番号が、小節単位で振られているので、「○○の前の小節の
何拍目」、と言うより、「○○のアウフタクト」と言う方が早いというだけの
ことですが、色々な学校等の出自の人を含む団体で意味が通じているので、
そんなに変な使い方ではないのだろうと思っています。

441北辰:2009/05/11(月) 04:05:24
-->430: ベダウリンデさん、
私はあなたに何度か問いかけて、1度も まともな答をいただいていません。
> 402 名前:北辰 投稿日: 2009/05/03(日) 01:28:10
での私の問いかけに、まともな返事はなく、私の問いかけた
> Brendon Clark の作品、好きですか?
に対して、次のように 私の発言をゆがめた非難が ありました。
> 416 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/06(水) 17:13:47
> 「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、みなさんトンチンカンだなあ
しかも続けて次の文があり、あれ! と驚きました。
> 421 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/07(木) 09:42:52
> 北辰さんは別スレには書き込みしてるのに、ここには返事してくれませんでした。
いったい何についての返事を期待されていたのか、心当たりないのですが?
そこで松戸さんへの返事と、あなたの「みなさんトンチンカン」の意味を伺おうと
> 422 名前:北辰 投稿日: 2009/05/08(金) 07:50:32
で私の真意を説明し ご返事を求めたのですが返事がないまま
> 430 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/09(土) 13:14:51
> (北辰さんは、やっぱり答えてくれないですね。そういう人なんですね)
とは、どういうことですか。何か私の答えを待つ問いかけがあったのですか。
 確認したいのですが、上に出した私の何度もの問いかけ、読んでおいでですね?
そして無視されたのか? それとも読んでない?
いま気がついた。私の何度かの書き込みが次のアクセスの時にはもう見えなく
なっていた。常時こんなことがあれば、目にふれない書き込みがあるかもしれない。
とすると。掲示板管理者の問題ですが、あるいはあなたも その被害者か?
 となるとあなたを責めるのは間違いかも。管理者さん、説明をどうぞ。人の回答を
求める書き込みはその返事が出るまで目にふれるように出しておくべきです。
そうでないと メンバー間に 無用の不信、混乱を起こします。ご返事を!
ベダウリンデさんは 私から聞きたかったことを知らせてください。

442ベダウリンデ:2009/05/11(月) 15:36:45
>いま気がついた。私の何度かの書き込みが次のアクセスの時にはもう見えなく
なっていた。

北辰さん、すれ違いの原因が分かりましたよ。
ここのように、スレ(○○について語ろう、のようなタイトル・テーマ)が複数ある掲示板では、
各スレにつき最新の幾つかのコメントしか表示されないのです。
そのスレの書き込みを全部読みたいなら、右上の 「All」 とか「Last50」をクリックしないといけないんです。

それはさておき、私は北辰さんの質問には「答えた」つもりです。
「トンチンカン」に関しては、突然聞いたこともない詩人の名をあげられ「好きか」と聞かれたので、
私は困惑し、「どうせ読んでないんだろう、読んでから言えよ」という「脅し」のように聞こえた、というのが原因です。
「脅しだ」と真に受けるのも大人げないので「トンチンカン」と、言葉を和らげたのです。
もしも北辰さんが「○○いう詩人は母音省略しないで書いてますし、私はこの詩人好きです」などと書いてくれていれば、
私だって「そうなんだー、読んでみようかなー」と思ったと思います。
今は北辰さんへの反感が強すぎて、読む気はありません。

私がしつこく、「答えて下さい」と言っているのは、
北辰さんは、このスレでの私に対する最初のコメントで「定型のリズムが崩れますが、どうするんですか?」
と強い語調で威圧してきたので、「そこまで定型リズムにこだわるのはなぜか」と聞いたのです。
(もう一回、Last50して読んでください)

443ベダウリンデ:2009/05/11(月) 15:56:46
Kanvaさん
アウフタクトの概念自体が、今はばらけているのでしょうね。
アウフタクトの概念が「強弱」を基準にした「弱」であるなら、
日本民謡には「強弱」自体が無いので、「アウフタクトは存在しない」となるのでしょう。
また、現代では日本人の耳も、アウフタクトに慣れ過ぎて、
4分音符の前に8分音符があるだけで、体がアウフタクトっぽく反応してしまうのかもしれないです。

444ベダウリンデ:2009/05/11(月) 16:36:31
百人一首など、和歌の「詠み」についてなんですが、
「一文字目とニ文字目をくっつける」以上に大きな特徴は「語尾をめいっぱい伸ばす」ことだと思います。
(『音楽の根源にあるもの』のP165に「追分様式」の説明として、同じ様な事が書かれていました。)
エスペラントでもTANKAOは盛んなようで、丹花さん、北辰さんも趣味となさっているんですよね?
私は創作の才は無いので、そういうのができる人が羨ましいので、
けなすつもりは決して無いのですが、ひとつ疑問が生じました。

日本語とエスペラント語では、言語の特質が異なります。
日本語芸術である短歌をエスペラントに移植するとなると、
和歌の様式と、エスペラントの言語的個性のどちらかを犠牲にしなければならないと思うのです。
その当たり、どうなってるのかな?と思いました。

詠唱のイメージでは「ありあけの〜〜〜」と語尾を伸ばしたいところですが、
エスペラントでは、語尾-oを省略しないと、末尾を伸ばせない。
-oを省略すると、西洋詩同様、日常語からの乖離、という現象になる。
省略しないで、「デラホマーロ〜〜〜」と詠唱しても、私は構わないと思うけど、エスペランチスト達が許すかどうか。
そうではなく、和歌の詠唱形式を諦めて「デラホマ〜〜〜〜〜ロ」と詠唱するか?

下記のサイトでは、
http://www.epa.jp/arangxo.html
朗詠できるエスペラント短歌として、西洋詩のように強弱の繰り返しになるような作詞を推奨しています。
太鼓のリズムに合わせて朗詠したいみたいなので、これはもう「ナンミョーホーレンゲーキョー」と同じ世界であって、
和歌の世界ではないな、と私は思ったのですが、
実際、エスペラント短歌の世界って、どんなものなんですか?

北辰さんへ「タイトル右上のLast50をALKLAKU!」

445胡人:2009/05/11(月) 22:57:30
「ナンミョーホーレンゲーキョー」がどの様なたとえなのか、実際に聞いたことがないので、よくわかりませんが・・・

謡などでも同じ様に、根本的に日本の和歌なども基本的には強弱のリズムで詠う様にできています。
それを鳴り物で奏することもあります。
また様々な流派、地域で、様々な詠い方、リズムがあります。

短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

それで短く詠う、2番目、4番目のところに「’」を使用し韻をふむことが一つの方法となる様に思われます。

446Kanva:2009/05/11(月) 23:44:36
「ナンミョーホーレンゲーキョー」は、私の知っている範囲の宗派では、
太鼓を入れるときには、「ダダダンダンダンダンダン」と7回打ちます。
6拍(ウラを数え入れると12拍)のリズムですが、6拍ともほぼ同じ強さ
なので、西洋流のいわゆる6拍子ではありません。
ひょっとすると、宗派によってかなり違う可能性がありますね。

思うにベダウリンデさんも、同じ強さの強拍が規則的に出てくる例として
おっしゃっているのだと思います。

日本語短歌で、二音節ごとに一つの強拍(長いor高いor強いor重い音節)が
出てくるとは私は思っていませんが、そういう説がどこかにありますか?
べダウリンデさんが 444>> でご紹介のサイト
http://www.epa.jp/arangxo.html
では、エスペラントで短歌を作る際に、強弱を二音節ごとに規則正しく
繰り返すように単語を置くように勧めているので、これでは日本語のリズムと
大きく違うように感じました。

胡人さんは、
> 謡などでも同じ様に、根本的に日本の和歌なども基本的には強弱の
> リズムで詠う様にできています。
と書かれていますが、これも強・弱を規則正しく反復することを意味しない
ように思われます。

ところで、胡人さんがおっしゃっている
「2番目、4番目のところに「’」を使用し韻をふむ」
というのは、いま一つピンと来ないのですが、
2番目の7と4番目の7に「’」を使って音節の強弱を合わせると同時に、
2番目の句末と4番目の句末を強拍にして脚韻を踏む
ということで宜しいでしょうか?

447ベダウリンデ:2009/05/12(火) 09:32:12
胡人様
>短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
>始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

確かに、おっしゃるように、百人一首を読む時も、
1番目と3番目の後は伸ばして、2番目と4番目の後は伸ばさないように読むと、よりリズミカルです、が、
でも、それって「絶対的な規則」とは言えないのではないですか?
5行全部を伸ばす例も普通に見かけると思いませんか?(歌会始の映像で確認しました)

Kanvaさん
>思うにベダウリンデさんも、同じ強さの強拍が規則的に出てくる例として
>おっしゃっているのだと思います。

そのとおりです。
太鼓の音は和太鼓風に複雑なリズムを刻むのもありますが、
それに合わるお経は、タンタンタンタンと規則的な拍で読んでるように聞こえました。
(そうじゃない宗派もあるのかもしれないですが)

北辰さんへ「タイトル右上のLast50をALKLAKU!」

448北辰:2009/05/12(火) 11:53:35
ベダウリンデ 様
> 右上の 「All 」 とか「Last50」をクリックしないといけない
なるほど、原因がわかりました、ありがとうございます。失礼しました。
 あの詩人の名をあげた理由は前に説明した通り。あなたの「語尾 -o の省略反対」
の主張を見て、「B.Clark と同じだな、さては読んでいるな」と思ったので、--
「読んでない」こともありうるが、調べればわかること、面倒なら相手
(この場合私)に「どんな人?」と説明させればいい、この件は終わりですね。
> 定型リズムにこだわるのはなぜか
La Espero についての話でした。リズムを変えたり、母音省略をやめ音の数を
増やせば、今の楽譜では歌えなくなる。この詩には2人が作曲していますが、
どれもザメンホフの原作の詩についてのもの、あなたの考える内容改変したものは
見た事なく、具体的な詩(楽譜も)を見なければ いいも悪いも判断できません。
 この歌(La Espero)を、わかりやすい日本語歌詞をつけて エスペラントを
知らない人にも歌ってもらおうと している友人がいます。うまくできれば
いいな、と思っているのですが。1番だけ作って様子を見ています。
「やってみよう」と思う方、歌える試訳を どうですか?
> エスペラントでもTANKAOは盛んなようで、丹花さん、北辰さんも
> 趣味となさっているんですよね?
私は「趣味」と言えるほどには とてもとてもだが、外国にも紹介したい
国内の作品をいじっているうちに 短歌に当たってしまったのです。
 俳句は興味を持つ外国人が多く英語、ドイツ語その他で作る俳人が結構
いますね。エスペラントでもこの頃下火か、と思ったら「モバード俳壇」で
盛り上げている。日本の伝統的短詩型が外国人を魅する、のは愉快ですね。

449ベダウリンデ:2009/05/12(火) 16:34:15
胡人様
>短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
>始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

学校で習った事を思い出したのですが、短歌には七五調だけでなく、五七調もあります。
その場合は、
あまのはら〜、ふりさけみればかすがなる〜〜   ではなくて
あまのはらふりさけみれば〜〜 かすがなるみかさのやまに〜〜 となると思います。

胡人さんが「詠える短歌」いう読み方は、私にもリズミカルに感じられますが、
それは、我々現代日本人が4拍子のリズムに慣れすぎているから、そう感じるのではないでしょうか?

あま、のは、らー、休
ふり、さけ、みれ、ばー
かす、がな、るー、休
みか、さの、やま、にー
いで、しつ、きか、もー

と、ついついこう読んでしまいがちではないか、という事です。

450ベダウリンデ:2009/05/12(火) 17:28:09
胡人様
「同じ強さの強拍が規則的に出てくる例」は、日本の歌で何があるか、考えたのですが
「手まり唄」的なものならありえますね。
手まり唄があるのだから、私が知らない日本の古典音楽でも、同じようなものがあるかもしれません。
ただし、手まり唄は、一拍の中が「タンタ」と細かくはずんでいますので
(例、あんた、がーた、どーこ、さ)
お経のような等間隔性とはまた違うようにも感じます。
(お経のようなリズムで歌う日本の歌があるのか、改めて探してみます)

http://www.epa.jp/arangxo.html で推奨されていた短歌形式は
お経のリズムなのか、手まり唄的なリズムなのか、実際聞かないと分からないですね。

北辰さん
単に「今の楽譜」に合うか合わないかだけを考えてたのですね。なーんだ、という感じです。
私は、歌詞がなぜ定型リズムなのか、そのリズム配置の由来は何なのか、を考えていたのです。
北辰さんはそういう事には興味無いでしょうから、質問は取り下げます。

エスペラントの詩の形式って、英語詩の形式に近いように思いました。
でも、英語を敵視してるエスペランチストが英語詩に倣うわけないし、と思って、
その由来をちゃんと知りたかったのです。
誰か詳しい人いたら、どうか教えて下さい。

451ベダウリンデ:2009/05/13(水) 09:15:23
「同じ強さの強拍が規則的に出てくる例」は、能の「大ノリ、中ノリ」がありましたね。
私は素人なので、単にセリフを読んでいるだけのように聞こえていましたが、
「謡」ともいうし、演じてる人は「うたってる」のかもしれないですね。
それに、敢えて棒読み状態で「うたう」事による音楽的効果もありますね、きっと。
緊迫感とか、鬼気迫る感じ、とか、やわな感情では立ち向かえない状態、とかを表現できるんだと思う。
お経もそうですね。(等拍に読むタイプのお経です。声明もお経の一種だから、ただし書きが必要です)
棒読みは感情を抑えてる感じがするので、それにより逆に、鬼気迫る凄味が感じられるのかもしれないです。

日本語は音節リズムの言語だから、何も感情を入れないと、単純な等拍の棒読みになる。
日常語では感情が入るので、多少等拍性が崩される。
感情を堂々と表現した「歌」となると、等拍性は意図的に崩され、はずんだり、語尾が伸ばされたりする。
和歌は感情を表現する芸術だから、等拍ではないリズムで歌うのが「正統」なのではないか??と。。
以上は私の推論です。

エスペラントや英語など、強勢リズムの言語はどうなのでしょう?
何も考えないで喋ると、強弱のリズムがバラバラになるので、その点を「醜い」と感じるのでしょうか?
日本語とは逆に、拍節にきれいに並べることが、彼らにとっての「美」であり「感情がこもってる」事になるのでしょうか?

こういう話には興味のない人が多いと思いますが、皆様のご意見をお聞かせ下さい。

452北辰:2009/05/13(水) 17:38:03
ベダウリンデさん
> 短歌には七五調だけでなく、五七調もあります
?? 七五調の短歌? どんなものか、例を教えてください。
五七調の例のつもりか、あたたが出している
> あまのはら〜、ふりさけみればかすがなる〜〜
は、五七五七七の 5句の、短歌と 呼ばれているものですね。
> 「今の楽譜」に合うか合わないかだけを考えてたのですね
違います。あなたは La Espero の改変を考えている。 -o などの母音省略を
やめて音の数、リズムが変われば当然楽譜も変わらねば歌えません。おもしろい
ものができたら拝見したい、とは思うが具体的なものは 何も見えないので
判断のしようがない、ということです。
 ザメンホフの La Vojo, 長く R,G,Tomblin の曲で歌われていたが g^anfranko は
これに全然ちがうメロディをつけてギター弾き語りで歌った。なかなか
おもしろいな、と思いました。もっとも原歌詞の改変は一切ありませんが。
> 歌詞がなぜ定型リズムなのか、そのリズム配置の由来は何なのか、
> を考えていたのです
詩を作るのが人間だからでしょう。人間のすべての動作は 心臓の鼓動、呼吸など
基本に強弱リズムがあり、若干の変化を加えて変種も作れます。あとは表現者
(作者)が自己の表現内容にふさわしいリズムを選ぶ、表現の自由を発揮するだけ。
> 英語を敵視してるエスペランチストが英語詩に倣うわけないし
ずいぶん不思議なことを言いますね。エスペラントの詩も(特に定形詩では)
英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。使いやすいから私は
エスペラントを主に使っているが、英語でしか 話せない人や、読めない情報に
出会えば英語を使う。どちらもコミュニケーションの道具で、場合場合で
便利に使えばいいことです。

453松戸彩苑:2009/05/13(水) 22:23:03
先に述べたように私は語尾の -o の省略が気にならないんですが、それは、合成語をつく
るときにしばしば(okul-vitroj のように)語尾の -o を省くということがあるからではないかと
思いました。

454Kanva:2009/05/14(木) 00:26:29
時に、日本語の定型詩と比較する対象としては、琉歌あたりがまず不可欠だと
思うのですが、まだ話題に出てこないようですね。

さて韻文には、強弱を主な要素とするものと、そうでないものの両方があります。
また、強弱を等間隔に繰り返すものと、不均等に配置されるものがあります。
例えば中古漢語以降の漢詩(詩詞)は、主に声調(平仄)に由るものですね。
この漢詩では、各音節(語)の間に、目立った強弱はつけないと思います。

私は、強弱が等間隔に繰り返される韻律は、「当たり前ではない」と思って
います。恐らくロシア語でもドイツ語でも似たような韻律をしているので、
サメンホフが採用したのでしょうが、エスペラントの内的リズムから自然に
導出できるものかどうかは大いに疑問に思います。
(私は高校時代、レールモントフの詩に曲をつけたりして遊んでいましたが、
もう遠いかすかな思い出です。)

そして、韻律に合わせるために語順を倒置することは比較的普通のことですが、
散文にない語尾省略をすることは、当たり前ではないと思っています。

ちょっと当面、書く時間が十分取れませんが、視座の一助になればと、追々、
インドの韻律の話を書ければと思っています。

455ベダウリンデ:2009/05/14(木) 09:56:44
北辰さん
>?? 七五調の短歌? どんなものか、例を教えてください。
五七調  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BA%94%E4%B8%83%E8%AA%BF/
七五調  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%83%E4%BA%94%E8%AA%BF/

>あなたは La Espero の改変を考えている。
そんな事全然考えてませんよ。ザメンホフがなぜ母音省略したのか考えてます。

>詩を作るのが人間だからでしょう。
北辰さんは私が考えてるような事には一切興味が無いのだと思います。
人はみな興味対象が異なりますから、それはそれで構いません。
北辰さんの「答え」は私には「答え」になってないのですが、
興味の対象が異なるので仕方のないことです。

456ベダウリンデ:2009/05/14(木) 10:11:38
>英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。

どうやらそのようですね。私は西洋詩の事は全く知らなかったので、
今回初めて関心を持って色々調べることができました。

参考文献  http://www.venus.dti.ne.jp/~kaisaki/gengoken/pdf/vol2/ueda2.pdf

『ロシアにおいて近代的な意味で言うところの文学の1 ジャンルと
しての詩が盛んになったのは17 世紀初めのことだが、この時期の
詩は各詩行のアクセント数のみを基準とし、音節数やアクセントの
規則的な配置は問題にしないアクセント詩法( тоническое
стихосложение)によって作られた。』

『上記の詩法は17 世紀も中期になる頃には衰退し2 、代わって主にポーランド詩から
音節詩法(силлабическое стихосложение)が輸入された。
この詩法はギリシア・ラテン詩法に起源を持つもので、
各詩行の音節数のみを一定にして、アクセントは問題にしないというものである3。
音節詩法は音節に長短の区別のある言語
(例えばギリシア語やラテン語)の詩法としては有効なものだが、ロシア語の
ように語のアクセントに著しい強弱があり、また音節に長短の区別がない言語の詩法としては、
その特徴を十分に生かせないことから、適したものとは言い難い。』

『初めてこの疑問を公にしたのはВ. К. トレジャコフスキーТредиаковский(1703-69)である。
彼は1735 年に『新簡易ロシア作詩法(Новый и краткий способ к сложению российских стихов)』と
題する論考を発表し、ロシア詩法の改良案を呈示した。
彼の改良案というのは、ギリシア・ラテン詩の模倣である音節詩型ではなく、
アクセント詩型こそがロシア詩に適している、というものだった。
また、彼はロシア詩に詩脚(ロシア語ではстопа)の概念を導入し、(以下略)』

『これに対してМ. В.ロモノーソフЛомоносов(1711-65)は1739年に
『ロシア詩法に関する書簡(Письмо о правилах российского
стихотворства)』7を著し、トレジャコフスキーの上記論考の不徹底性の数々を批判し、
ロシア詩法の改革案を呈示した。
彼の主張とは、アクセント音節と無アクセント音節の交替を詩行の一次指標に
高め、2 音節詩脚のみならず3 音節詩脚を認め、
強弱格以外にも弱強格(ヤンブямб)、強弱弱格(ダークチリдактиль)、弱強弱格
(アンフィブラーヒーамфибрахий)、弱弱強格(アナーペストанапест)を認め8、(以下略)』

『いずれにせよ、この2 人の活動により、ロシア詩には新しい詩法―すなわち
音節アクセント詩法(силлабо-тоническое стихосложение)―が導入された
のである10。』

『ロシア詩法の用語を英詩法、フランス詩法の用語と比較しながら見て来たが、
そのいずれもに語感の共通性があることが気付かれる。
それは、これらの詩法用語が本来はギリシア・ラテン詩法のものであったのを
後代のヨーロッパ諸国が輸入し、それを彼らの詩法に合わせるべく用いたからにほかならない。
つまり、このことはヨーロッパの詩法というものがギリシア・ラテンの模倣から出発し、
それぞれの言語に合わせるべく進歩したものであることを表している。
もちろん、その過程において、ヨーロッパ各国の詩法が互いに影響し
合って発展したこともまた事実である21。』

強勢アクセントのロシア語も、はじめは独自の形式の詩を持っていた。
しかし時代が下がるにつれ、ヨーロッパ色に染まって(?)いったことが分かりました。

457ベダウリンデ:2009/05/14(木) 10:21:55
Kanvaさん
>私は、強弱が等間隔に繰り返される韻律は、「当たり前ではない」と思って
います。

そうかもしれないですね。

>恐らくロシア語でもドイツ語でも似たような韻律をしているので、
サメンホフが採用したのでしょうが、エスペラントの内的リズムから自然に
導出できるものかどうかは大いに疑問に思います。

私も、散文のエスペラントでも、「十分美しい」という印象を持ってました。
なのでそこから独自の「美」を作ればいいになー、(と他人事だけど)そう思ったのです。

>散文にない語尾省略をすることは、当たり前ではないと思っています。

全くもって同感です。

458松戸彩苑:2009/05/14(木) 21:04:31
語尾の -o の省略の話が続いていますけれども、それに似た話を思い出しました。

エスペラントには dank' al (〜のおかげで)という表現があります。
これはザメンホフが使い始めたものですが、しかし、この表現を批判する人がいるんですね。

(1) エスペラントの16条の文法は、名詞の語尾 -o を省略することは認めているが、それ
    以外の品詞の語尾の省略は認めていない。

(2) だから dank' al は(たとえザメンホフが使ったものであっても)間違いであり、danke al
    としなければならない。

というのがその論旨なんですが、これについてはどう思われますか?
私の意見は、みなさんの意見をうかがった後で書きます。
---

それから余談になりますが、今日の昼ごろに「花より団子」に相当する表現を思いつきました。

  rizo pli ol rozo

というものですが、いかがでしょうか?
脚韻は踏んでいないんですが、一文字違いで意味が大きく異なるというところが面白いんじ
ゃないかと思ったんですけどね。

ちなみに『日本語エスペラント辞典』の「団子」「花」の項には「花より団子」の訳として

  regaloj pli ol flor-petaloj

というのが載っています。

459松戸彩苑:2009/05/15(金) 06:18:33
いま思い出しましたが、エスペラントの16条の文法においては「名詞の語尾の -o の省略」
だけでなく「冠詞の la を l' とすること」も認めているんですよね。

これについては、どのように思われますでしょうか?

460北辰:2009/05/15(金) 07:59:16
ベダウリンデさん
> ザメンホフがなぜ母音省略したのか考えてます
私が次のメッージで説明した通りです。
> 402 名前:北辰 投稿日: 2009/05/03(日) 01:28:10
La Espero の例でしたが、「詩のリズムを維持し、定形詩を構成するために必要」
と言う説明が、どうもあなたには理解できないようで、さらに
> 定型リズムにこだわるのはなぜか
と言われた時、根本的に「定形詩に対する理解がない人」と知るべきでした。
これはその後 あなたの
> > 英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。
> どうやらそのようですね。私は西洋詩の事は全く知らなかったので、
で明らかになりましたが、どうぞ理解を深めてください。
La Espero は kvin-trokeo(強、弱のリズム5個で1行の定形詩)なので、
それに揃えるためザメンホフは苦労してますね。しかし見事にできています。
 定形にこだわらず自由詩を作るのも、作者の「表現の自由」ですから、
面白いものができたら 見せてください。

461ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:17:06
定型詩といえば、短歌や俳句も日本の定型詩と言えるでしょう。(音節数の定まった詩)
5文字7文字の組み合わせは、日本人にはとても安定的に響きます。
それは万葉集の時代から現代まで、日本人の言語的美意識としてずっと続いています。
淡々と等拍的に「しずけさや」と言うだけで、とても安定感が感じられます。
「しずかだ」「しずかだよね」より「しずかだな」の方がリズム感が出ます。
このような言語的美意識は日本語の特質から出ているのでしょう。
私にだってちゃんと、母語の日本語では「定型詩に対する理解」はありますよ。

エスペラントにもtankao やhajkoもありますが、
エスペラントを5音節で言ったとして、はたして日本語のような美しい安定感は得られるのでしょうか?
「わがこころ」と同じリズムで「ほみあころ」と言っても、エスペラントらしくないでしょう。
エスペラントだったら「ホーミーアコーロ」と堂々と言った方がずっと美しいと思いますし、
わざわざ5音節にしなくても、いきなり「ミーアコーロ」と言ったとしても、全く遜色ないと思います。

462ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:35:44
エスペラントでtankaoやhajkoを作るのはなぜですか?
本当に、その音節数の組み合わせがエスペラントにぴったり合って美しい、と言えるのでしょうか?
日本の文化を外国人に紹介して親しみを持ってもらうためのツールとしては役立つでしょう。
でも、5,7,5音節のエスペラント文を読んだ外国人は、
日本人が日本の俳句で感じる美しさと同じ印象を持つのでしょうか?

ラテン詩型定型詩についても同じです。
それは西洋一般に普及して、彼らの美意識に染みついているので、
彼等にとっては、日本人が575で句を作りたいのと同様な理由で、そう作りたかったのでしょう。
でも、それは本当にエスペラントに合っているのでしょうか?
母音省略という、日常語を不自然に加工してしか生み出すことのできなかった
ザメンホフの「ラエスペロ」って、そんなに素晴らしいのでしょうか?
定型に無理やり押し込めた努力って、そんなに称賛される事なのでしょうか?

もし「西洋型定型詩はエスペラントにぴったり合っている」としたら、どうでしょう?
単語、文法はエスペラントはヨーロッパ的です。
それは我慢できるとしても、それ以上の「言語的美意識」までも、
ヨーロッパ流に染まらなければならない、という事です。
エスペランチストが「それでいい」と思ってるなら、私は何も言わないです。

463ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:52:37
そうそう、日本人は普通に喋る場合でも、ちょっと気をきかせば
すぐ5,7,5口調で言えますね。
なんでだろ、やけにくいつく、ほくしんさん(最後はちょっと字余り)
(まあ、俳句が芸術的になるには、内容が重要なんですけどね。)

エスペラントでも、『それに揃えるためザメンホフは苦労してますね。』
なんていうような「苦労」なんてしなくても、
誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語だったら、
エスペラントはきっと魅力的な言語になってたと思う。

464Kanva:2009/05/15(金) 22:17:53
>松戸彩苑さま

まず、「散文と違う語形を、韻文で韻律に合わせるために頻繁に使うこと」が
問題なのであって、散文や口語先行で広まったものが韻律に入ったり、
或いはほぼ同時並行で入ったりする分には、違和感がないと思います。
また、韻文の方に古形が残ったために散文と違うのも、自然なことです。
どの言語でも、その言語に合った「美」を、文筆家が模索してきた歴史が
あります。言語という土壌がまずあって、その特性に合った文芸・文学が
花開きます。
そこを、「計画言語でもちゃんと文芸・文学ができるんだぞ」ということを
早く見せるために、無理して近隣言語の韻律を移植してきたのだとしたら、
それは何かおかしいぞ、というわけですね。
世界中の韻律の中から、作り手がどんどん好きな韻律を持ち込んで、
独自のエスペラント詩の世界を開拓するのが、筋としては望ましいことです。
……私は多分、やらないけれど。

dank' al は、もう群前置詞として機能していて、副詞としての danke の
意味が変質してしまっているので、副詞を示す語尾を省略しても構わないと
思います。
明らかに名詞として使っているのに名詞語尾を省略するのとは、違います。
それに、「韻文だから省略している」のでもありません。

465Kanva:2009/05/15(金) 22:43:51
インドの韻律は、皆様ご案内のとおり、大きく二つの流れがあります。
『リグ=ヴェーダ』を最古の文献とする、インド=アーリア語派のものと、
『サンガム』を最古の文献とする、ドラヴィダ語族のものですね。

後者は、大野晋氏が、日本語の五七調の源流ではないかと論じたもので、
文節を単位として各行を組み立てる独特のシステムを持っているそうです。

前者は、ヴェーダ語に端を発する、やはり膨大なシステムですが、
音節の長短(発音にかかる時間)を最も主要な要素として展開します。
音節は、
G (重=guru)と
L (軽=laghu)との
二種類に大別され、三音節の並びの略号として、順列組み合わせ的に
Y = L G G、
R = G L G、
T = G G L、
Bh = G L L、
J = L G L、
S = L L G、
M = G G G、
N = L L L、
というのがあります。
この辺はラテン語と似ていますね。
ただ、この三音節の並びというのは、意味のまとまりでも、韻律の感じ方の
単位でもありません。単に一脚の頭の音節から三つずつ数えて略号に
置き換えるだけの、諳記の道具のようなものです。

466Kanva:2009/05/15(金) 23:03:39
古典サンスクリットで、おそらく最も大量に使われてきた韻律として、
「シュローカ」(狭義の「アヌシュトゥブ」)があります。

○を、軽重どちらでもよい音節の記号とすると、

○○○○ LGG○, ○○○○ LGL○ |
○○○○ LGG○, ○○○○ LGL○ ||

という形式の韻律です。
8音節で一つのまとまりを持ち、その5音節目が軽く、6音節目が重い
リズムがミソです。全体としては、アクセントは不規則なはずなのに、
心地よい4拍子で歌える調子になっています。

エスペラントでは、このシュローカを構成するにも、句末から2番目の
音節を軽くするのがネックになりそうですね。

467松戸彩苑:2009/05/16(土) 09:40:16
>>464
たしかにその通りですね。

私の場合は「エスペラントでよく詩を作るなぁ」という感嘆(と呆れ)の気持ちが先に立ちます
ので、-o の省略とかはほとんど気にならないんですよね。
たぶん、そこのところで意見の相違が出てくるのでしょう。

ところで、これまでは「日本のエスペラント界は、欧米と比べると、詩に関心をもつ人の割合
が少ない」と言われてきたんですが、Kanva さんやベダウリンデさんのように詩にこだわる
人がいらっしゃるのを見て、正直言って驚いております。

残念ながら私は詩には詳しくないので、専門的なことは『Parnasa Gvidlibro』や詩集なんか
を取り寄せて研究していただきたいと思いますね。

あるいは、他のエスペラント掲示板で尋ねてみるという手もあるでしょう。

468Raku:2009/05/16(土) 09:49:35
>>460
北辰さんお勧めのエスペラント「自由詩」を教えてください。

>>462
>そうそう、日本人は普通に喋る場合でも、ちょっと気をきかせば
>すぐ5,7,5口調で言えますね。
一般に定型詩は西洋の詩でも漢詩でもそんな安直なものではありません。
かなり勉強を要します。なぜそうような詩形が出来たのかは、言語の音韻的
特質だけでは説明できない歴史的文化的背景があります。
「誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語」とはどの言語ですか?
そんな言語はわたしは知りません。

>>464
>そこを、「計画言語でもちゃんと文芸・文学ができるんだぞ」ということを
>早く見せるために、無理して近隣言語の韻律を移植してきたのだとしたら、
>そそれは何かおかしいぞ、というわけですね。
>世界中の韻律の中から、作り手がどんどん好きな韻律を持ち込んで、
>独自のエスペラント詩の世界を開拓するのが、筋としては望ましいことです。
>……私は多分、やらないけれど。
同意です。「私は多分、やらないけれど。」の部分も含めて。
和歌の翻訳を考えてますが、一人ではできませんし協力できる能力を
備えたエスペランティストはいませんから絶望的ですね。

469北辰:2009/05/16(土) 10:30:54
-->458 松戸彩苑さん
ちょっと訂正します。
> (1) エスペラントの16条の文法は、名詞の語尾 -o を省略する
> ことは認めているが、それ以外の品詞の語尾の省略は認めていない。
文法第16条ですが、名詞の語尾 -o と 定冠詞の語尾 -a の省略を認めています。
いま気がついた。あなたは 459 で この件追加していました。
ほかは認められてないので、 dank' al については
> 間違いであり、danke al としなければならない
と 言えます。しかし、現実には「広く便利に」使われており
「文法原理主義」も なかなか優勢に なれません。
ザメンホフは dank' al と同じ意味に danke 〜-on も使っていますが、こちらは
前置詞省略の対格となり、文法違反にはなりません。
 この第16条の母音省略、詩人にとっては福音ですね。定形詩の音の数や
リズムを合わせるのに四苦八苦するとき、ほんとに助かりますから。
母音省略に反対し、わかりやすい詩を、と主張し実践している
Brendon Clark も おりますが、立派なもの、と思います。
> rizo pli ol rozo
おもしろい! もっとできそうですね。

470Raku:2009/05/16(土) 11:57:11
>>462
エスペラント短歌とエスペラント俳句の形式はエスペランティストの発明では
ありません。日本語歌人日本語俳人が非日本語人に短歌俳句を作らせるために
考え出した形式です。

471Raku:2009/05/16(土) 12:12:06
わたしの知っている限りでは日本語を除くあらゆる言語で短歌は
5音節、7音節、5音節、7音節、7音節の5行で書かれます。もちろん
日本語短歌のリズムを理解する助けにはなりませんし、それ自体としても
快いものではありません。

472Raku:2009/05/16(土) 17:25:33
エスペラント版ウィキペディアではこのようになってます。
Poemo
http://eo.wikipedia.org/wiki/Poemo

Poezio
http://eo.wikipedia.org/wiki/Poezio

Verso
http://eo.wikipedia.org/wiki/Verso

473北辰:2009/05/16(土) 19:03:49
Raku さん、
> 北辰さんお勧めのエスペラント「自由詩」を
寡聞にして、心当たりはありません。詩集を見てもみな定形詩、なかに
行の長さ不そろいで これは非定形=自由詩か、と思ってみると作者が組み立てた
独自のリズムと脚韻で組み立てた定形詩だったり でお求めには答えられません。
リズムも 韻も ないものは詩でなく、散文 ということでしょうか。
 このスレで母音省略を嫌い、詩のリズムの必要についても疑問を持つ方が
いるので、その考えを実行したら自由詩(自由律?詩)だろうと思い、
> 面白いものができたら 見せてください。
と書いただけです。
 日本の詩歌には自然と人間の関わりが多い。死後も「草葉の陰から」縁者を
見守ったり。英語文化の中から出た歌でも「千の風になって」が日本で受けたのは
そのためか。しかしヨーロッパ文化ではこんな思想は見えないようですね。
Mediuma Poemaro(ブラジル、 1972)は その性格上 生と死を扱った詩99編が
出てますが、ほかの生き物と違って人間だけは 神のもとへと 天をめざし、
「千の風」になる気配は全くなし。あの歌が元来アジア起源でアジアと共通の
自然観をもっていたインディアンからでないか、と言われる所以ですね。
この詩集の作品、構成は多様ですが、やはり全部 定形詩です。

474Raku:2009/05/17(日) 20:52:27
北辰さんお答えありがとうございます。
「詩=poezio/poezia?o」という理解は決定的に間違いということでしょう。

475Raku:2009/05/17(日) 22:30:58
エスペラント短歌俳句についてはベダウリンデさんがすでに指摘されましたが、
拍がすべて同じ長さと意識される日本語と違って、強弱アクセントでアクセントの
ある音節が長めに発音される言語では、強弱の並べ方に規則性がなければ
リズムは成立しません。

476ベダウリンデ:2009/05/18(月) 09:11:41
>このスレで母音省略を嫌い、詩のリズムの必要についても疑問を持つ方が
>いるので、その考えを実行したら自由詩(自由律?詩)だろうと思い、

それは誤解です。
私は「エスペラントならでは」の「エスペラントの言語の特性を生かした」
「母音省略という不自然な操作せずに、誰でも自然に口に出せる」エスペラント定型詩は
なぜ生まれなかったのか、という疑問を持っています。

西洋詩はラテン語の呪縛に縛られながら(ラテン語というお手本から離れられずに)発展してきた。
中国詩も(よくは知りませんが)古典詩の偉大さが大きすぎて、
現代中国人からすると「縛られている」と感じたりするかもしれません。

幸い私は日本人ですが、5文字7文字の組み合わせという日本の定型は
とても良くできたものだと、関心せずにはいられません。
古代から続き、現代の小中学生でも現代口語で短歌俳句が作れちゃう。
文字数という、最も単純な基礎だけ決まっている。
ジャンルによって規則(俳句の季語)や技巧(枕詞、掛詞)があり、
それによって単純さだけでない変化が加わる。
文字数の規則も厳密ではなく、字余り字足らずも許され、それでいてリム感が損なわれない。
5文字に合わせるために、不自然な言語的な操作をする「苦労」なんてないんです。

>「誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語」とはどの言語ですか?
>そんな言語はわたしは知りません。
日本語ですよ。日本語で575口調で言うのに「苦労」しますか?
日本語の他に外国語自体を私は知らないのですが、
世界には、今の自分の気持ちを、即興で、メロディ付きで歌ってしまう民族がいますよね。
歌うってことは、リズム的にも自然に言えるって事かもしれないですよ。

ザメンホフは西洋人なので「詩とは苦労して既存の枠にあてはめるもの」という先入観から抜けられなかったのでしょう。
世界には、言葉をもっと自由にあやつる民族が他にも沢山いるかもしれませんよ。
いつまでも「ザメンホフの呪縛」に縛られていると、
エスペランチストはいつまでも19世紀ヨーロッパの枠から抜けられないですよ。

477ベダウリンデ:2009/05/18(月) 09:17:04
464のkanvaさんのご意見には全面的に同意です。
エスペランチストの中にも、西洋に縛られない人がいるのは心強いですね。

478ベダウリンデ:2009/05/18(月) 15:46:24
dank' al の件について、自分の意見。
日常語で頻出する言い回しが、より言いやすい形に丸まるのは、全く自然な事だと思います。
アキバハラがアキハバラになったように、です。
de temp' al tempoという言い回しも見かけた事があり、違和感はありませんでした。
言語は自然に変化するのが当然です。
ただし名詞末尾の母音省略は、日常語の散文にはほとんど見受けられず、
詩においてのみ頻出します。そこが「不自然」なのです。

>この第16条の母音省略、詩人にとっては福音ですね。定形詩の音の数や
>リズムを合わせるのに四苦八苦するとき、ほんとに助かりますから。
詩を作るのに、文字数を合わせるためだけに四苦八苦するのは、異常事態だと思います。
何のための「定型」なんですか? 詩人が「苦労」するためのものなんですか?
それとも、>422で北辰さんが『詩人の特権としてリズムや韻を揃えるために許される』と書いたように、
詩人が特殊技能をひけらかし、特権階級ぶるために必要なんですか?

479ベダウリンデ:2009/05/18(月) 16:00:57
詩の発生については、>464のKanvaさんの意見に同意で、
エスペラントでは詩が自然発生する前に、ザメンホフが既存の定型を安易に移植してしまった。
それは人工言語ならではの「失敗」だったと、私も思う。

それ以外にも、西洋や中国など、文化先進国には特有の事情もあると思います。
古代の言語では自然な形であった定型が、時代を追って言語の方が変化してしまい、
古代の名作詩は、実際の日常語とはかけ離れたものになってしまった。
しかし名作詩の権威は衰えなかったので、言語が変わっても昔の定型は守られる努力がなされ、
よって、詩は日常語と異なる言語で書かれるのが当然だ、という感覚になってしまった。
ザメンホフもそれを受け次いでいるのだと思う(19世紀ヨーロッパの限界)

日本も文明国だったけど、定型の基礎が単純で、時代時代に適応できたことが幸いしたのかな。

北辰さんはアメリカインディアンの例をあげたけど、彼等の詩はどのようなものなのでしょうね?
英雄叙事詩とか、神(彼等が神とみなすもの)への讃歌とか、きっとあるんじゃないかな?と思う。
そしてそれには、耳で聞いて心地よい、何か表現上の工夫があるんじゃないかな?と思います。
彼等は詩を「文字で記す」事はしなかったから、「昔の定型」は保持されない。
とすると、時代時代で言語が変わっても、聞く人が違和感なく聞けるような形で受け継がれてきたのでは?
と思います。まあ、これは私の「想像」ですけどね。
詩の言葉は本来は「自然なもの」であるべきだった、と思うんですよ。

480ベダウリンデ:2009/05/20(水) 10:25:20
ザメンホフは最初から、ラテン語っぽい詩を書けるように(或いは、書くために)、エスペラントを設計したのではないですか?

ラテン語アクセントについて調べたのですが、http://www.kitashirakawa.jp/taro/latin20.html
ラテン語には長母音と短母音があり、それとは別に高低のアクセントがあるようです。

ラテン語=『2音節の単語の場合。 語の最後から数えて2つ目の音節にアクセントは置かれます。 』とあり、
エスペラントでも最後から2番目にアクセントがくるので、
2音節目が長母音でないラテン語単語に限り、耳で聞いた印象は、エスペラントのアクセントと近くなるでしょう。

ラテン語=『3音節の単語の場合。 ラテン語では、後ろから数えて2番目の音節に含まれる母音の長短で判断します。
それが「長い」音節であれば、この2番目の部分にアクセントがつきます。』
ラテン語でこのパターンにあてはまる単語は、そのまんまエスペラントのアクセントパターンと同じになります。

ラテン語ではこれ以外のアクセント(『「短い」音節であれば、語の後ろから数えて3番目の音節にアクセントがつきます。』)
もありますが、そこまで真似ると、エスペラントの「規則性」が損なわれる。
エスペラントの規則性をなるべく損なわない形で、ラテン語詩の形体にも対応できるようにしたい。
そのための最も単純な「例外措置」が「末尾母音-oの省略」ではなかったか?
と思いました。
事情通の皆さんは真実をお知りでは?

481ベダウリンデ:2009/05/20(水) 10:34:28
問題点を先に書いちゃうと、
ザメンホフがラテン語風の詩をエスペラントで絶対に書かなければならなかったのは、
彼にとっては、西洋文明が世界の規範となるべき至高の存在だったからではないでしょうか?
その思想は現代の「世界人」からすると「異常」です。
世界の価値観は多様であり、全て尊重されるべきものです。
ヨーロッパ文明は特殊で魅力的ですが、それが世界の他の文化に比べて殊更に勝っている、と思う必要はないと思います。

エスペランチストは「ザメンホフ先生は常に正しい」「ザメンホフ先生のお手本どうりに詩を作ろう」
と素直に思いすぎていて、ザメンホフへの批判精神がなかなか現れないのだと思います。
その結果、みんなして「四苦八苦」してラテン語風の詩を書いて喜んでいる、
それが結果として、「西洋文明世界一!!」という凝りかまった価値観に陥る、
それはザメンホフの仕掛けた罠だと、誰も気付かずに・・・

482松戸彩苑:2009/05/21(木) 06:31:49
>>480
> ザメンホフは最初から、ラテン語っぽい詩を書けるように(或いは、書くために)、エスペラ
> ントを設計したのではないですか?

ザメンホフは最初は(アルカやクリンゴン語のように)民族語とはまったく関係なく単語を作
ってみたのですが、それだと自分にとってさえも憶えるのが大変だということが判って、そ
れで当時のヨーロッパ社会においてもっともよく学習されていたラテン語やフランス語をもと
に単語を作ることにしたんですね。

つまり「当時の人たちの学習のつごう」に合わせて作られたんですね。

それから詩ですが、ザメンホフは単純にヨーロッパ式の詩の作り方しか知らなかったんじゃ
ないかと思います。
(でもヘブライ語の詩の形式くらいは知ってたかもしれません)

「ヨーロッパ中心だ」とはよく言われることですが、100年前のロシア帝国民であったザメン
ホフがヨーロッパのことしか知らないのは已むを得ないでしょう。

ヨーロッパ以外の要素を取り入れるというのは、後世の人間がやるべきものだと思います。


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