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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

232今里祐二@日蓮本仏論者:2003/01/09(木) 21:49
『聖人御難事』
『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』

お釈迦様の教えの正しさは大聖人様に依存している、ということになると思います。
きっと、お釈迦様には、未来に大聖人様が出現されるという大確信がおありになったのでしょう。

法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい、などということは
つい最近知りました。しかし、もしそうであったとしても、仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として
羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、
大聖人様は身をもって教え示されたと思います。

『十八円満抄』
『総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。』

腹痛から復活するためにつぶやいてみました。(^^;

233問答迷人:2003/01/09(木) 22:15

大石寺では、『聖人御難事』は、日蓮大聖人が、出世の本懐、戒壇板本尊の建立を遂げられた事を書き記された御書とされていますね。ところが、『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』と有るわけです。つまり、二千二百三十余年とこの御書にしたためられた訳ですから、同じく、戒壇板本尊も二千二百三十余年としたためられておれば、整合性が取れていることになります。ところが、なんと、戒壇板本尊には、二千二百二十余年と認められています。僕は、だから、この聖人御難事は、戒壇板本尊の建立=出世の本懐を遂げたことを述べられているとは、到底思えない訳です。今里さんは、この御書と戒壇板本尊との記述の違いをどうお考えになられますか?

234今里祐二@日蓮本仏論者:2003/01/09(木) 22:31
問答名人さん

>この御書と戒壇板本尊との記述の違いをどうお考えになられますか?

なぜなんでしょうね?
ぜんぜん分りません。
もしかしたら単なる書き間違えかも(笑)

仏滅年は数百年もずれているという事が最近の定説だそうですから、
10年ぐらいどうって事ないのでは(笑)

実用上は何の問題もない、というのが僕の考えです。

235五月雨:2003/01/09(木) 22:52

今里さん

こんばんは。腹痛は治まりましたか?

>仏滅年は数百年もずれているという事が最近の定説だそうですから、
10年ぐらいどうって事ないのでは(笑)

日蓮聖人のお言葉と出世の本懐といわれる戒壇之漫荼羅に整合性がないのを、笑って流せる今里さんは、中々の大人物ですね(笑)

10年くらいどうって事なければ、石山のお形木本尊(仏滅年数二千二百三十余年)も、戒壇之漫荼羅と同じく仏滅後二百二十余年と認めておけば、何の矛盾も生じなかったと思いませんか。今里さんには整合性があるかもしれませんけど、お形木本尊は戒壇大御本尊のそのままのお写し、と教育されてきた私には大矛盾です。

>実用上は何の問題もない、というのが僕の考えです。

ここで言われる「実用上」というのは、どんな意味合いで言われているのかお示し頂けませんか。よろしくお願いします。

236今里祐二@日蓮本仏論者:2003/01/09(木) 23:13
五月雨さんへ

>ここで言われる「実用上」というのは、どんな意味合いで言われているのかお示し頂けませんか。

仏様の望みは『如我等無異』です。僕の望みは『如我等無異』になること、つまり成仏することです。
成仏するという目的を果たすための「実用上」ということです。

237犀角独歩:2003/01/09(木) 23:21

今里さん:

あなた、こんな所に出てきても意味がないんじゃないのかな。
自分の本仏論を抱きしめて悦に入っていれば好いんだから。
言葉をやり取りすること自体、意味ないでしょう、あなたには(笑)

それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。

238犀角独歩:2003/01/09(木) 23:33

まあ、本仏論なんて看板背負って出てきても、説明も何も出来ないかけ声だけじゃ、退屈ですね。
独りよがりの好い気分、聞いたって、何の参考にもならないし、本仏論というのはただの思いこみなのかと。
思い込んでいる人とは会話は成り立たず、ただ、説明も出来ないことを押しつけられるだけでは、公開の議論の場にはふさわしくないでしょうね(笑)

239ROCK@日蓮宗葵講:2003/01/09(木) 23:53
久しぶりにお邪魔します。

○二千二百二十余年と二千二百三十余年に関して

大石寺戒壇本尊(弘安二年十月十二日の御本尊)に関して、大石寺門流は、
寛師の「観心本尊抄文段」を以って、大石寺戒壇本尊こそ本懐である。まぁ
こういうわけですね。(『折伏教典』『日蓮正宗入門』)
寛師は、弘安元年以降は二千二百三十余年であると強調するわけですねその上で、
「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。」
と結論付けている訳ですが、大石寺戒壇本尊には二千二百三十余年となく、二千二百
二十余年とある訳ですから、寛師の説はむしろ、大石寺戒壇本尊は本懐ではないと
いう証左ともなりますね。

240蘭鋳:2003/01/10(金) 01:22
すいません。。突然。。。
犀角独歩さんのHNの元になったブッタの言葉を、前にTVで(日本テレビだったかな)聞いたことがありました。
その時、ナレーターの話す 犀の角のようにただ一人歩め・・・・に涙がでてしまいました。心の奥にしまって
あった忘れた何かに感応してしまったようで理由もなく泣いてしまったのです。過大評価しすぎかもしれません
が、あの時優しさに包まれた気がしたというか、尖がっていたものが割れ崩れたというのか、何とも不思議な気
分になってからというもの、それまで学会や正宗で聞いていた『末法に釈尊の力が無い』と教わり見向きもしな
かった『ブッタ』に興味が湧き、身延の方の掲示板なども見るようになりました。日蓮宗での掲示板では質問に
対してよくブッタの言葉を用いていて分かりやすく納得できるものばかりでした。

私は頭が弱く、皆さんのように色々と語ったりできませんが、祖師の力強さはもちろん、興師の間違いを許さな
いような厳格さがとても好きです。興師は身延の僧侶も認める素晴らしい方と記憶しています。正宗をやめて身
延の門をたたくのは簡単なのかもしれませんが、興師と縁のある大石寺を離れたくありません。重須もあります
が私は日蓮仏教は祖師が妙法を広めなさいと言った以上、縁を考えています。正宗(学会)により祖師の『心』
に触れられたことを感謝しています。是非、大石寺には教義の間違いや歴代法主の立場上の誤解を正して頂き、
せめて古き良き頃の大石寺をこの肌で感じてみたく思います。この時代、良き事は評価され、間違いには人はつ
いてこないと思うのです。昔は立場や営むために他門との差別化は一つの糧としてあったろうと考えますが、今
はいりません。例え、直すべきところを直して身延や他門との一線が消えようとも誰も非難しないでしょう。逆
に拍手されるべき事で他門や他宗は尊敬するのではないでしょうか?仮に外野で悪く言われても過去もあるので
それは甘んじて受けるで良いと思うのです。間違いを正しても今の大石寺の信徒が離れることは無いと感じます
。それどころか、宗門より分派した会の信徒が戻ってくると考えます。根本的な原因は皆、いっしょに思います
。正直なところ富士門をまとめるのは大石寺でなければできないと思います。

日蓮宗史にも宗門のことにも疎い私ですが、いつか良い宗門になることを願っております。

PS 以前、菊水護国さんの言っていた、富士周辺の正宗檀家に英師の頃の釈迦仏像や大黒像があるのは本当なの
でしょうか?本当なら凄く拝見してみたいです。そして心より手を合わせたく思います。

241犀角独歩:2003/01/10(金) 08:42

蘭鋳さん:

はじめまして。
私のHNの元になったのは仰るとおりスッタ・ニパータ第1蛇の章・犀の角の「犀の角のように独り歩め」というフレーズから採ったものです。私も、この教えに言いしれぬ感動を覚えた一人です。

独歩…、このように聞くと単に孤独な歩みを考えがちですが、しかし、蘭鋳さんもご承知のとおり、

「もしも汝が、賢明で、協同し律儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め。しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならぱ、あたかも王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め」

「博学で真理をわきまえ高邁・明敏な友と交われ。いろいろとためになることがらを知り、疑惑を除き去って、屋の角のようにただ独り歩め」

という教えもありますね。

ここでは、単なる孤独の勧めではなく、集団従属から離れたうえで、今度は個を中心にした闊達な思想交友も教えています。

その意味から240にも記されるところ、概ね賛同するものです。

242犀角独歩:2003/01/10(金) 13:39

真偽未決である『十八円満抄』を恰も確定した真跡のように扱ったうえ、さらにまるで学問、教学不要の如き扱われることはまさに片腹の痛む思いがします。

何度も挙げていますが、聖人は『富木殿御書』に

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」

という名文を遺しています。
また、同じく最近も引きましたが、真偽未決ながら、

「何度もかれが云ふ言にて、やゝもすれば己がつまる語なり。されども非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。都(すべ)て理におれざるなり、譬へば行く水にかず(数)か(書)くが如し」

という『諸宗問答抄』の有名な一節が存します。

このような“非学匠”の在り方は、外教のサンジャヤ・ベーラティプッタ鰻の論理(異問異答)にほかならない。

――サンジャヤ・ベーラティプッタは、例えば、“死後の世界はありますか”、とたずねると、“私は、あるとも考えず、無いとも考えず、その他だとも考えず、考えないとも考えない・・・”などと、ぬらりくらりと、筋の合っていないような、合っているような答え(異問異答、“うなぎ”の論理と呼ばれている)をする――

つまり、いわゆる内外相対で簡ばれる外道義なのであって、石山義でいえば、第五位下の論理。第一位上に置かれる本仏義とは天地雲泥、遠くかけ離れた非仏教的なであると指摘しておきます。

249三学無縁:2003/01/10(金) 20:13
でも石山ってアンタッチャブルの寺でしたよね。
つまり不なるが故に浄の寺。
元々は他門の本尊に対する「おきよめ」であったものが、いつのまにか自門のものにまで援用されてしまった、ということなのではないでしょうか。

250今里祐二:2003/01/10(金) 20:16
独歩さんへ

ほかのスレッドだと独歩さんに突っ込まれて恐そうなので『つぶやき』にしたのですが…
学会を追い出され、法華講からも追い出されてしまって、友達いなくて淋しいので、
あまりいぢめないで下さい(^^)

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」

独歩さんの解釈では上記御文の「之」とは何を指すのですか?
それとも「之」とは何かを探すため、犀の角のように独り歩んでおられるのでしょうか?

251犀角独歩:2003/01/10(金) 20:46

「之」の意味は『富木殿御書』に明確でしょう。
私が記すまでもないことです。
いずれにしても、「私が解釈」するのではなく、日蓮がどう書いたかが、ではないですか。

この文の前文に

「夫(それ)賢人は安きに居て危ふきを欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲(おも)ふ」

ともあります。そののちに「之」を論じていくのでしょう。

「之」は文の運びで前文を指す言葉でしょう。不明になっているわけではありません。よって私が求め歩いているものなどの意味は、本来、ありません。

けれど、この日蓮の気迫ある考証の姿勢は門下一同、もっとも見習うべき点であると思うから、引いたわけです。

252三学無縁:2003/01/10(金) 20:57
横レス失礼します。
之、ですか。
石山も含めて日蓮教団的には「広宣流布」ということになるかもしれませんね。
でも、「何」を。
「板本尊」による救いとか、「板本尊」を根本にした教え、であるわけはないですね。
身延にも石山にも池上にも中山にも、というより今の日蓮教団には、その「何」はないのでは・・・。
要山か房山には残っているかもしれませんが、少なくともいまは忘れられてしまっていますね。
真筆御書に戻れば案外かんたんにわかるのですが。
要は、数ではないのです。
日蓮さんも晩年になってその自覚を深めたようです。
数でなければ何を、という向きは、まず真筆御書を読まれることをお勧めします。

でも、「何」の委細は真筆にはないというふうにも私は考えています。
真筆・偽書・疑書を含めて、3篇だけ残して後は捨ててもいいと思っています。
いやはや、抽象的ですみません。

253・・・:2003/01/10(金) 21:02
三学さんでしょ

ということは
御義口伝
不動愛染管見記
あとは
−ん
産湯記
かな
正解?

254犀角独歩:2003/01/10(金) 21:14

あれ。三学無縁さんまで、そんな抽象的なことを(笑)
この書で日蓮が「之」と言ったのは

「此の三大師(円仁・円珍・空海)の意は法華経は已今当の諸経の中の第一なり。然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云。此の義、心有らん人信を取るべきや不や」
という当時、真言になずんでしまった天台宗の考えを指したのではないでしょうか。それが、もはや一般的になってしまったが最為第一は法華経である、これを案ぜよではないでしょうか。

こういう大疑を断じていく台学の在り方を日蓮は徹底していたのですね。
三学無縁さんに対してでは、真面目に答えすぎかな?(笑)
この点ですよ、今里さん。

255今里祐二:2003/01/10(金) 23:57
独歩さん

僕は「之」を「仏様の御意(みこころ)」と受け取っておりました。
僕にとっての仏様は大聖人様ですから「大聖人様の御意」です。
まぁ、僕の勝手な解釈に過ぎないので、どうだっていいことですが。

独歩さんのお考えは、日蓮聖人はただの人、法華経は後世の創作で、シャキャムニとは無関係…
というものだと受け取っておりました。

そのようにお考えの方が

>何度も挙げていますが、聖人は『富木殿御書』に
>「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」
>という名文を遺しています。

ただの凡夫が偽経を引いて、ごたくを並べているのを「名文」などとおっしゃるので、
いったい如何なる事なのかという疑問がわいたので、「之」という言葉に託して質問したのですが、

>最為第一は法華経である、これを案ぜよではないでしょうか。

…なんだかなぁ、偽経など案じてどうするんですか?
僕には、毎日毎日この掲示板にカキコされている独歩さんの気持ちがよく分りません。

それでは、おやすみなさい。

256無徳:2003/01/11(土) 00:56
Satさん今晩は:

>そうなれば大変素晴らしいことかと思います。西洋哲学一辺倒か
>ら来る限界やほころびが、仏教の有する可能性とか、新しい視点
>を導き出す序章になるということかもしれませんね。当たり前と
>して身につけてしまった既成の概念や思考から抜け出すことは困
>難を極めますが、本掲示板に集う人々によって、その萌芽が見出
>されることを期待しています。

全くその通りですね、
ただ、私が<現に我々が目指すサンガの形成は仏教理念による欲望
の制御と言う課題を果たし得るのではないかと考えています。>と
したのは、決して意識的な形で欲望が制御できると考えたわけでは
ありません。例えば法律や教育さらには倫理や道徳と言った人間の
識知や制度のみでは欲望の制御は叶わないと思います。

仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能
にするのであって、人間は向うからやって来る不可避的な状況に急
かされてのみラジカルな変革が結果として可能になるのであり、所
詮人間が意識して出来得る事などたかが知れていると、私が敬愛す
る吉本隆明氏から教えられました。

>「凝集性」という言葉は集団構成員に対して、集団内に留まるよ
>う働きかける全ての「合成力」を意味する時に使われ、また、凝
>集性を高める条件(魅力)として、①集団内の威信、②集団内で
・・・・・・・・・・・・<中略>・・・・・・・・・・・・・・
>問題とすべきは凝集性に潜む「組織外に敵を作る」こと・・「所属
>外集団」に対して憎しみを抱くこと・・所属集団が完全無欠のユー
>トピアであるために、誤謬を指摘するものに対して非難し抹殺し
>ようとすること・・であろうかと思います。

とのことは、これも吉本隆明氏から学んだことですが、「共同幻想」
と言う、人間にとって非常に厄介な心的作用がもたらす弊害の典型
と言えます。独歩さんとのやり取りでも申し上げましたが、まずは
この厄介至極な「共同幻想」を解体することが肝要ですね、しかし
解体と同時に並行的に再構築を図って行くことこそ大切ではないか
と考えます。

>中心もなく、位階序列もなく、主体と客体の区別もなく、秩序と
>カオスの区別もない多様体、或いは個の全体に対する従属を転倒
>させ、秩序や均衡の発想を脱構築しようとするリゾームには「ゆ
>らぎ」があるのではないでしょうか。

正直に申して私は「ゆらぎ」と言う概念が今一つピンと来ません。
なにか、とても都合のよいタームではありますが、特に宇宙の生成
過程で特異点から「ゆらぎ」が生じてビックバンに繋がったとする
解釈が有るようですが、私には理解が届きません。リゾーム的あり
方が「ゆらぎ」とどの様に関係するかは今後の解明に待ちたいと思
います。

>構造機能主義的世界から、差異のダイナミックスへと向かう非決
>定論的視座への転換がリゾームであり、インターネットの持つ世
>界観が平等性・公開性・自律性といった自立分散型であるとする
>ならば、リゾームとネットワークがコンデンスするような自己組
>織化が起きる可能性は充分考えられることですし、新たな宗教共
>同性の成長過程にも、求心力にも、遠心力にもなっていくかもし
>れないという期待感はあります。

とのことは全くその通りだと思います。
これは私が抱く現代的サンガの在るべき姿を素描したものですが、
まずサンガを形成する人々は全く自由であることが大前提でなけれ
ばなりません。もちろん、仏教理念を背景にして形成されることが
大切な要件では有りますが、決して仏教理念を強制するものではあ
りません。

ただし、当然ながら全っき自由であることは全てに亘って自己責任
が生じます。誰彼に強制はされませんが全てに対して自己決定しな
ければ自己変革も社会変革にもなりえません。向こうから到来する
あらゆる事象に対しサンガが全体で対抗することはサンガの持つ性
格上出来得ないと思われます。個々人の悩みや問題をサンガの中で
助け合い相談しあって解消することは大切なことですが、それとて
自己責任が前提となります。

サンガにとって様々な問題や障害が生じた時や重要な事項が持ち上
がった時は、全てネットを通じて問題を提起し、出来るだけ多数の
意見によってサンガの合意事項とすべきですが、決定し得ないこと
は「重層的非決定」とせざるを得ません。つまり、差異は差異とし
て非決定のままで良いと思います。それが、<差異のダイナミック
スへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームであり>とsatさ
んが言われたことに通じると思いますが如何なものでしょう。

257みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/11(土) 00:56
>今里さん
法華経や日蓮があなたの思っているようなものではないかもしれないということと、価値がないということはまったく違ったことです。

法華経が仏語でなくて後代の作でも、何らかの価値がある可能性があります。
日蓮が本仏でなくて凡夫でも、何らかの価値がある可能性があります。
そういう単純な話なのですが、如何でしょうか。

258みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/11(土) 01:43
>>133
>今里さん

>理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
>慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;

たとえば、今里さんが日蓮の開目抄なり本尊抄なりを読んで、何を言っているのかよくわかるなら、増上慢ではないでしょう。
(古文・漢文がわからないとか、事実関係や引用元を知らないということは全然かまいません)

別に、経典でも教行信証でも正法眼蔵でもなんでもかまわないと思いますけどね。

259今里祐二:2003/01/11(土) 08:10
みかんさんへ

>理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
>慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;

これは輪廻転生と無我との関係というか、
理論的整合性というか、そういう事が僕にはどうしても理解できないのですが、
そのことを言ったのであって、
開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです。

260みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/11(土) 08:44
「慧眼」というのはそういうものだからそう申し上げたまでです。
慧眼とは智慧の眼です。ダルマをこの身でありありと体験する能力です。智慧の眼とは仏のみが開いている目です。
智慧の眼の一分を開くというのは、仏智の一分が開くということです。
すなわち菩薩になるということです。
智慧の眼の一分が開いていない人は菩薩ではありません。主観的に菩薩行を営んでいると思っていても、
自分が地湧の菩薩だと思いこんでいても、そんな人は菩薩ではありません。
発菩提心というのは、決心することではありません。智慧の眼の一分が開くことです。
智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり
智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。
わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません。

261sat:2003/01/11(土) 17:10

無徳さん:

>私が敬愛する吉本隆明氏から教えられました。

確か、吉本隆明氏の「共同幻想論」は「文芸」掲載原稿に加筆して昭和40年代に初版が発行されたものですよね。「共同幻想」という言葉は大変インパクトが強く、安保闘争の中でバイブルともされた書だったと思いますが、マルクスやフロイトから民俗学に至るまで幅広く展開された同書は、当時、私には読んでみて難しく・・よくわからなかったというのが正直なところです。

同氏は、「共同幻想」というものは、個の集合としての幻想が発展的に消失しても「逆立」して自己幻想に対して圧力を保持し続けるものだと指摘していたかと思います・・国家も法も宗教も共同幻想なのだと・・

また、「共同幻想が個人幻想に同調しているように感ぜられるためには、個人幻想に対する共同幻想の先験性が個人幻想の中で信じられていなければならない」という同氏の言葉も大変示唆に富んだものかと思います。

伝統性とか正当性とかは、集団が他集団との接触によって何らかの危機的状況に陥った時に意識され、過去・現在・未来の間の距離を集団心理的に調整し、集団内の共同幻想を安定・延命させるために生み出されてきた方法だと指摘する人がいます。それは、好むと好まざるとに関わらず、他の異質集団と接触することで、所属集団内で自己同一性を良くも悪くも確認するということなのでしょうが、その異質なものとぶつかるという空間的な差異の問題が、伝統性とか正当性といった時間的な差異の問題にすり替えられるということなのかもしれません。
その意味からすれば、伝統性とか正当性とかいったものは、必ずしも実質的な歴史性に裏付けられたものではなく、また実在する具体的な何物かを指すものでもない・・集団の共同幻想を守る働きを果たした時に、それはあたかも歴史的な実体の如くに認知される幻想であるということになるのかもしれませんね。

>仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能にする

この点は大変興味深いところです。もう少し詳しく教えていただけませんでしょうか。

>差異のダイナミックスへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームでありとsatさんが言われたことに通じると思いますが如何なものでしょう。

無徳さんの主張される現代的サンガは、①形成する人々が全く自由であること、②自己責任が前提となること、③多数の意見によってサンガの合意事項とすべきこと、④差異は差異として非決定のままで良い・・という点に整理されているかと思いますが、異論はありません。

無徳さんの「所詮人間が意識して出来得る事などたかが知れている」との指摘はその通りだろうと思います。だからこそ逆に、特定の個人に意思を委ね、特定の個人を完全無欠なものに仕立て上げ、誤謬を許さずカリスマ化し、その凝集性を高めようとするのでしょうね。
非決定論的視座とは決定しないということではなく、個人の特定意思とは違うところで決定され(合理的な思考や集団での合議)、その決定はくつがえすことのできないものではなく常に新たな局面で発展系を遂げていくというもので、その流れは全体の中において一見無秩序とみえるもののそうではなく大いなる流れとなっていくといったイメージでしょうか。

変化を求める内面的衝動→開いた対決→再秩序付け、或いは、開いた再生感覚→新しい思想や感情の吸収→より大きな受容性と世界への開放性には場が必要であり、
ある一定の課題が共有された空間あるいは集合内でネットによる回答出しが無徳さんの提唱されるネットによる現代的サンガなのだと・・そう理解させていただければ、

現代的サンガは、成員となった社会以外の別の客観的世界を内在化する過程であり、①他者との高度な情緒的な同一化、②主観的現実と自我の根底的な変化、③現在と過去を断続させ、前後の一貫性を放棄して現実を新たに構成しなおす場になるということでもあるのかもしれませんね。

262無徳:2003/01/11(土) 20:42
satさん今晩は:

私が吉本氏の「共同幻想論」に出会ったのは、創価学会という組織の中で自ら
の力量不足も手伝って二進も三進も往かない所に追い込まれた時でした。

その頃は創価学会が言論問題等で爆発的な膨張が収束する前夜だったように記
憶しています。人材不足からか全く力量不足の私に隊員数130名程の男子部
の隊長と言うおはちが廻ってきました。

元々、私とどっこいどっこいの力不足の班長が二人居ただけの組織でしたから
たまったものではありません。(笑)案の定、新聞啓蒙や座談会さらには部隊
会や本部総会等への隊員の出席数も惨憺たるものでした。

そんな状態で隊長会において折伏や新聞啓蒙の結果報告をする時は、まさに地
獄でした。部隊長や本部長の顔が鬼のように見えてとても直視出来る状態では
ありません、なんと宗教とは残酷なものだろうと、自分の力量不足を棚上げし
て御本尊を恨みたくさえなりました。(笑)

そんな時に確か早稲田の古本屋で吉本氏の「共同幻想論」に出会ったのです。
今考えれば正直言って中味などどうでも良かった様に思います。「共同幻想」と
言う四文字に惹きつけられたのです。<そうだ!今の俺は共同幻想に捕らわれ
ているのだ>と、創価学会という組織の中で自分の主体性を埋没し、信仰する
人間としてでなく、ただ組織の奴隷のように振舞っている己に気付いたのです。

その後「共同幻想論」を何度か読み直しましたので、「共同幻想」と言うターム
に対する理解がある程度は進みましたが、未だに本当に理解できたかどうかは
心許ない気がします。

>>仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能にする

>この点は大変興味深いところです。もう少し詳しく教えていただけませんで
しょうか。

とのことは、あまり難しく考えたわけではなく仏教における人間の欲望に対す
る対処の仕方が、どちらかと言えば否定的であり禁欲的なものであって、特に
物欲や性欲に対する制御を為し得なければ悟りには達しないとする理念があり
ますので、仏教理念を背景にしたサンガが形成され、それが広範な運動となり
得れば人類としての欲望の制御にも繋がるだろうと考えたまでです。

>変化を求める内面的衝動→開いた対決→再秩序付け、或いは、開いた再生感
>覚→新しい思想や感情の吸収→より大きな受容性と世界への開放性には場が
>必要であり、ある一定の課題が共有された空間あるいは集合内でネットによ
>る回答出しが無徳さんの提唱されるネットによる現代的サンガなのだと・・・
>そう理解させていただければ、

とのことはお察しの通りです。私より深い理解を示されておりsatさんの今後
のご活躍を心よりご期待申し上げます。

263無徳:2003/01/11(土) 21:05
訂正__<仏教理念を背景にしたサンガが形成され>を
    
    <仏教理念を背景にした現代的サンガが形成され>と訂正します。

264今里祐二:2003/01/11(土) 21:15
>>127
みかんさんへ

僕は127を完全に読み落としていて、みかんさんに対し大変失礼な態度をとっていたことにようやく気づきました。
申し訳ありません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
127 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2002/12/26(木) 14:59

信について。

わたしは漢文仏典を読む機会が多少ありましたが、その際に引っかかったのが「信」という感じの意味でした。これは現代日本語の信じるとは違う意味なのではないかとずっと考えていました。そうでないと理解できない用例が多いからです。

漢文仏典で使用される「信」ということばは、信・疑、信・不信が対になったことばではありません。もし宗教団体の信者が自分が信仰している、信じているとういことを「信」だと思うので有ればそれは誤りです。その人は「信」を得ていません。
宗教の信者の信は相対的なモノであり、自分は絶対の確信を抱いている、この信は揺らぐことはないと今は思っていても、機縁さえあれば容易になくなってしまうモノです。

わたしが漢文仏典で見てきた「信」とは全く別のことです。それは慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなることです。
法を慧眼で見、知るということは、事実を事実として体験したということですから、それは揺らぐことがありません。それはのどが渇いたら水を飲むとか、眠くなったら寝るというのと同じぐらい当たり前のことです。「のどが渇いたら水を飲む」ということを信じる人などいません。それはナンセンスです。それは事実として誰でも知っていることです。そのような有りようが、仏教における「信」の意味です。そして「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

僕は、みかんさんの上記のご意見に全面的に賛同します。
本当に申し訳ありませんでした。

265犀角独歩:2003/01/12(日) 00:17

255 今里祐二さん:

あなたは二重に私の書いていることを誤解していますね。

まず一点は本仏論者、日蓮全面肯定のあなたが日蓮が案ぜよと言っているのに案ぜなければ、日蓮の意に背くことになるであろうと言ったのです。

第二点。私は法華経は後世の創作であるという現代の仏教学並びに科学の、分析結果に反論する資料を持っていないので、法華経を釈尊の真説とすることはできない、こうは言ってきました。しかし、法華経には菩薩道という非常に勝れた精神が説かれているので、この点は捨てるべきではないと言ってきたのです。

本物であれば信じる、疑経であれば捨てればよいよいなどという二極思考はただの一度も記したことはありません。

このような浅薄な読み込みでは「気持ちがよく分りません」と言うのは寧ろ当然のことであろうと思うわけです。批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたいものです。

あと、「之」については、日蓮の言とあなたの解釈は大きく異なっていることはよくわかりました。

266sat:2003/01/12(日) 02:31

無徳さん:

仏教理念を背景にした現代的サンガについて、大変勉強になりました。ありがとうございました。
また、学会青年部時代の心情を語られたところ・・私自身、自らの問題として捉え今後の信仰の糧にさせていただきたいと思います。
重ねて御礼申し上げます。

267菱村正敏:2003/01/12(日) 07:22
無徳さん。こんにちは。

学会でバリバリやってらしたころのお話をあらためて興味深く拝見いたしました。
昨秋あたりでしょうか、聖教新聞販売店?の方からSGIグラフかなグラフSGI
か、、、そのような名前のフォーカスみたいな池田万歳の写真冊子を3ヶ月で
いいからとってくれ云々の話がありました。その悲壮な感じから新興宗教の信者
とはノルマ地獄だな、それにしてもノルマこなしが日蓮さんの思いとどう関わるのかな
と少しく考えさせられました。たぶん、池田さんという接着剤で学会員さんはかろうじ
て日蓮さんにふれさせてもらってるんでしょうかね。んで、気の毒だからとることに
いたしました。

 そんなこんなで、その写真冊子。郵便受けに入ってることはいいのですが、
少し大きいので外にはみ出しています。人目につくことをやたら想像し、少し
恥ずかしいのでございます。

268今里祐二:2003/01/12(日) 10:23
独歩さんへ

>まず一点は本仏論者、日蓮全面肯定のあなたが日蓮が案ぜよと言っているのに案ぜなければ、日蓮の意に背くことになるであろうと言ったのです。

何をおっしゃりたいのかよく理解できません。

>第二点。私は法華経は後世の創作であるという現代の仏教学並びに科学の、分析結果に反論する資料を持っていないので、法華経を釈尊の真説とすることはできない、こうは言ってきました。しかし、法華経には菩薩道という非常に勝れた精神が説かれているので、この点は捨てるべきではないと言ってきたのです。

>本物であれば信じる、疑経であれば捨てればよいよいなどという二極思考はただの一度も記したことはありません。

なるほど、真偽未決ではあるけれど、なかなか良い事が書いてあるので参考になるよ、といったとこでしょうか。
それにしても独歩さんの考えは、大聖人様のお考えとは掛け離れたものですね。

『報恩抄』
『天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く「法に依て人に依らざれ」等云云。 依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉て外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。 此の経に又云く「了義経に依て不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。』

269今里祐二:2003/01/12(日) 10:24
(つづき)

大聖人様は鎌倉時代の方ですから、当然その時代の科学知識や仏教学の成果の限界に制約されます。
であるがゆえに、法華第一という考え方のまま人生を押し渡って行かれたけれども、
もし現代の科学知識と仏教学の成果を元に、仏法を研鑽されたらどのようになるだろうか……?

上記の道を歩いてみよう、というのが独歩さんの立場だと理解しています。
僕からみれば「身の程知らず」という言葉しか思い浮かびませんが……、

僕はまだ創価学会にいた頃こんなことを考えていました。
「なるほど、大聖人様は経文に忠実に書いてある通りの事を仰ってただけなんだな、ふむふむ。
それにしても昔の僧侶ってバカばっかりだなぁ、字が読めなかったのかしら(爆笑)」

今の僕はそのようには考えていません。
法然や空海のように法門の海の中で溺れず、妙法の珠を取り出だすことが出来たのは、
大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だったからである、と考えています。

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』
『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給ふ。』

270無徳:2003/01/12(日) 17:31
satさん今日は:

こちらこそありがとうございました。今後とも宜しくお付き合いのほどお願
い致します。

satさんは現役の創価学会員とのことですが、学会内部においてどんな思いを
抱かれておいででしょうか?

satさんのような知性をお持ちの方にとって、今の学会は開かれた許容領域が
在りますでしょうか?Libraさんという優秀な青年も居られますし、なんだか
んだ言っても創価学会は大きな組織ゆえに、優れた知性をお持ちの方も大変
多いと思われます。

しかし、池田大作氏に対する絶対的信奉といった側面は、総本山と袂を分け
てらますます強化されたのではありませんでしょうか?現在の私には学会の
内部情報を知る機会があまりありません為に、勝手な想像ですので失礼の点
がありましたらお許しください。

ただ、昨年の10月頃に九州の総合長をされている方を、信濃町から羽田まで
お乗せしたおり(現在私はタクシーに従事しています)、その方が現在にお
いては池田先生を信じることが全てなんだとの趣旨のことをしきりに力説さ
れおられましたので、ああ!やはりそうなのかと思ったものですからsatさん
にお聞きしてみたわけです。

差し障りのない程度で結構ですからお話いただければ幸いです。

271無徳:2003/01/12(日) 17:42
菱村正敏さん本当にお久しぶりです。お元気ですか?

菱村さんはまるで多摩川方面に時々出没して皆を楽しませ癒してくれる
タマちゃん見たいですね(笑)

確か菱村さんは創価学会には批判的でしたよね、それでも時には聖教新
聞やグラフ等を購読され創価学会に貢献をされるとは何と心優しい御仁
なのでありましょう(笑)。

最近はお会いする機会が余りありませんですね、また、オフ会等でお会
い出来ることを楽しみにしております。

272犀角独歩:2003/01/12(日) 19:59

祐二さん:

> 何をおっしゃりたいのかよく理解できません

理解できないのであればどうしようもありません。

> 大聖人様のお考えとは掛け離れた

私は、日蓮の考えとは、かけ離れているところもあれば離れていないところもあります。それがなにか?

> 身の程知らず

身の程知らず等と詰られる筋合いはありません。
しかし、人をして「身の程知らず」と詰るあなたはよほど、身の程知らずではないのでしょう。そこでお尋ねしますが、

> 大聖人…本地…久遠元初の自受用報身如来

ということですが、(1)久遠元初とは何ですか。(2)自受用報身如来とは何ですか、また、(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか。身の程知っているのでしょうから、お答えいただきましょうか。

なお、本地が自受用報身如来ならば日蓮は垂迹となります。そこで日蓮を仏というのであれば、日蓮は垂迹仏となりますが、これでは日蓮迹仏であって本仏となりません。この点は如何でしょう。実際、『産湯相承事』には「本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う」と是の如しです。日蓮本仏は同相承と相違しています。

たしか、あなたは日蓮本仏論者であったはずなのに、何故、日蓮迹仏で論を運ぶのでしょうか。これまた、身の程知ったあなたが、また「理解できません」と、よもや、答えませんでしょうね。

273今里祐二:2003/01/12(日) 21:29
独歩さんへ

>身の程知らず…

平易な言葉で判りやすい事例を挙げたつもりですが(>>269)……。

>ということですが、(1)久遠元初とは何ですか。(2)自受用報身如来とは何ですか、また、(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか。身の程知っているのでしょうから、お答えいただきましょうか。

(1)手持ちの辞典を引いたら「五百塵点劫に成道した釈尊の本因の時」と書いてありました。
久遠即末法とも言われますが、今現在のことです。
(2)三世諸仏に対しても主師親である根本の仏、です。
(3)法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断することが適当と考えます

>なお、本地が自受用報身如来ならば日蓮は垂迹となります。そこで日蓮を仏というのであれば、日蓮は垂迹仏となりますが、これでは日蓮迹仏であって本仏となりません。この点は如何でしょう。実際、『産湯相承事』には「本地自受用報身如来の垂迹上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給う」と是の如しです。日蓮本仏は同相承と相違しています。

>たしか、あなたは日蓮本仏論者であったはずなのに、何故、日蓮迹仏で論を運ぶのでしょうか。これまた、身の程知ったあなたが、また「理解できません」と、よもや、答えませんでしょうね。

このような揚げ足の取り方があるとは思いもよりませんでした。恐れ入りました(笑)

274みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/12(日) 21:35
>今里さん

今里さんのサイトは「成仏しようぜ」だったと思いますが、
今里さんにとって成仏ってなんでしょうか。
あと、成仏した人って現在や過去にいると思われますか。
いるとしたら誰ですか。

>>264
あんまり恐縮しないで下さい。
あんまり他人に振り回されなくても良いと思いますよ。
自信満々なところと、過剰に恐縮するところがあって、
他人からはとても不安定に見えます。

>>268-269
さて
> 法然や空海のように法門の海の中で溺れず

法然や空海の著書は読まれましたか?
日蓮が法華経を選択したのも、「法門の海の中で溺れ」た
ことになると思いませんか?

> 妙法の珠

これは、一言で言って、なんでしょう。


今里さんの「危うい」ところは、仏教一般や
日蓮一般についての知識がなく、創価学会や
宗門や石田次男からの知識のみで、
仏教一般や日蓮について語るところだと思います
よ。(的はずれであればごめんなさい)

とりあえず、仏教一般や日蓮については、次の三冊
だけは読んでから議論していただけませんでしょうか。

中村・三枝『バウッダ 佛教』(小学館ライブラリー)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094600809/

末木『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101489114/

末木『日蓮入門』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480058559/

275みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/12(日) 21:40
>>273
今里さん
独歩さんの指摘は揚げ足取りでは全然ないですよ。
あなたの日蓮本仏理解が根本的に不十分であるということです。
わたしもその点は指摘しようと思いましたが、
独歩さんが既に指摘していたので指摘しませんでした。

あなたは、外部から与えられたイデオロギーとして
日蓮本仏というものに執着していますが、自分の主張として
日蓮本仏論を組み立てられていません。
ですので、あなたは「日蓮本仏主義者」と呼ばれるべき存在であって、
「日蓮本仏論者」ではありません。論じていないし、理解していないからです。

「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、
日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまうのです。
なぜなら日蓮は垂迹に成ってしまうからです。垂迹は当体とは根本的に
違います。

276犀角独歩:2003/01/12(日) 21:46

祐二さん:

(1)〜(3)について、辞典の記述など、どうでもよいのです。
日蓮はなんと言っていますか。

> 揚げ足の取り

揚げ足取り?
本地に対する語は垂迹です。

“本地・自受用報身如来 / 垂迹・上行菩薩=凡夫・日蓮”というのが『産湯相承事』の記述であれば、日蓮を垂迹仏というのが、なぜ揚げ足取りなのでしょうか。

(笑)などで誤魔化さないでください。
日蓮が本仏であるというのは、いかなる証拠によるのでしょうか。

277犀角独歩:2003/01/12(日) 22:13

> 276

補足です。日蓮垂迹仏と記しましたが、これはもちろん日蓮本仏という語を受けてのことです。
実際は“本地・仏(如来) / 垂迹・菩薩(謙下で凡夫)です。

みかんさんも書き込まれていましたか。
そう、この点が、追って、当体に置換されていくわけですね。

278らん♪あらため蘭:2003/01/12(日) 22:51

わぁ!菱村さんこともヤッホさ〜〜〜 ん!! また「いちりんさん」とこ
来て下さいよ〜〜〜っっっ!!!!待ってますね〜〜っっっ!!!!

(o・・o)/~

279:2003/01/12(日) 22:53

菱村さんへ  http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/

280波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/12(日) 22:57
いきておったか糞爺(藁)

281:2003/01/13(月) 01:23

ドモドモ\(^_^ )( ^_^)/ドモドモ

なにしろ、いちりんさんところでは、みんなで「一体ヤッホさんは、どうしたん
だろう」って心配してました。それでね、ヤッホさん。ヤッホさんから言われた
「君は病院に行きなさい」という発言ですが、それが他の病院に診てもら
ったけれど「病気じゃない」って言われてしまいました(。-_-。)・・とほほ。

それで私は、ヤッホさんに対しては、それほどの憎しみというものは持って
いないのです。まわりはヒヤヒヤしていた面がありましたけれども、私は、
本当の「悪」というものを貴方には感じないのです。本当の悪というものは、
男性にはいないんじゃないかなって最近思うのです。「女」のほうが(自分
含めて)本当にやっかいです。だから私は、女人成仏というものを一度はして
みたいけれども、どうやらちょっと最近感情に走ってしまいがちです。
それにしても、ヤッホさん。ほんとお帰りなさい。またいろいろ口喧嘩しましょう
ね〜♪

282sat:2003/01/13(月) 06:46

>270 無徳さん:

>現役の創価学会員とのことですが、学会内部においてどんな思いを抱かれておいででしょうか?

私の体内において、無徳さんのご指摘するところの「共同幻想」は崩れつつありますが、学会員の飾り気のない庶民として見せる素顔は大好きですし、この人たちのためならという素朴な気持ちが失せているわけでもありません。なので、上記のご質問に対するシンプルな答えが用意できるかと言いますと、言葉ではなかなか尽くせない複雑なものがあるというのが偽らざる心情です。正直申し上げまして、カオスの真っ只中にあります。

>今の学会は開かれた許容領域が在りますでしょうか?

これまでに色々ありましたが、確かに、あまり居心地がいいとはいえませんね。

>池田大作氏に対する絶対的信奉といった側面は、総本山と袂を分けてからますます強化されたのではありませんでしょうか?

ご存知のように、現在の学会は、①戦後草創期時代の入会世代、②昭和50年代以降のマス路線による入会者、③学会員子弟(二世・三世)に分布が分かれています。その三層構造による世代意識やモチベーションがコンデンスされている点を見誤ると読めない点が多くなります。

昭和54年4月24日の勇退問題は有る意味で内部クーデターでもあったのでしょうが、事実上失敗しましたし、宗創問題により破門されたことは、むしろ池田名誉会長を絶対視するには好都合に働いたことになります。今般の会則変更の淵源はこの辺からあったと思います。

現在は、かつての池田本仏論をそのまま踏襲する形ではありませんが、「池田名誉会長に対する絶対的信奉」は、「強化された」というよりは、「それしか残っていない」といったところではないでしょうか。①専従者(本部職員や外郭団体勤務者)や、②組織風土に違和感を感じている人にとりましては、自らの信仰の正当性とか確信を語ろうとした場合、「池田名誉会長に対する絶対的信奉」に問題を帰着させなければ説明がつかないということでもあろうかと思います。しかし、末端においての日常風景では、外部が思うほど大きな問題として顕在化していませんし、会合でそういった言葉をことさらアジテーショーンする幹部は逆に見かけなくなっています。むしろ、その沈黙の意味するところを考えたほうがいいような気がします。末端の沈黙は異論を挟まずとも、決して是認でも容認でもないと・・

もっとありていに言えば、学会は、池田名誉会長、或いは本部職員を始めとする専従者によってコントロールされているとの見方もあるでしょうが、構成員はもっとしたたかなような気もします。コントロールする側の論理と、される側の論理を人々は有る意味で肌で知っており、是非はともかくとして、そこに集う人々の意思なのだとする(したい)・・その一点で暗黙の了解を得、二極が交差しているような気もします。

283sat:2003/01/13(月) 06:46

>270 無徳さん(続き):

話が逸脱してしまいますが、エリック・ホッファーが「あらゆる『大衆運動』は、宗教運動にその原型があり、欲求不満に苛まれた人間が、その状態から脱出して、自己存在の不安を救おうとするところにある」と記していたかと思います。同氏は、大衆運動の背景として①潜在的回心、②共同行動、③自己犠牲について論じていますが、創価学会の戦後における運動もこのことと無縁ではないような気がしますし、運動体としてはマスムーブメントとモッブの往還をしなやかに繰り返して巨大化してきたのではないでしょうか。

集団活動の魅力とか、集団所属の魅力が人を惹きよせ、この感情が集団内親和性と相まって顕著になれば、集団を超越的で絶対的な価値とし、それはやがて一体化を目指すことにつながり、自己犠牲や狂信的行動が発現されてきますよね。しかし、学会員の中には、それが組織の延命にとって命取りになることを知っている層もいます。

池田本仏論の蒸し返しとか、創価仏とか創価菩薩みたいな路線に発展させ、財務を中心により独善的・排他的集団となっていくのか・・それとも宗教的権威から世法的権威にターニングした時点から、宗教団体的色彩を脱し、出版事業や教育事業を中心に平和団体、教育団体、文化団体、政治団体的な色彩を強めていくのか・・議論の分かれるところですが、在家集団である以上、ソフトランディングとして、後者の道を選ばざるを得ないのではないでしょうか。

「七つの鐘」とか「正本堂建立」といった具体的かつ明確な組織目標が終了してしまった今、市場原理に基づいた「生き残り戦略」にシフトしたことは否定できない事実であり、国家権力にとって、はなはだ好都合な存在として機能をし始めたような気がします。組織が未完成で急進的かつ過激的な目標を掲げ、外に敵を意識し、上昇志向にあるとき、矛盾など問題ではありませんが、世界平和などという曖昧模糊とした抽象的概念に至っては、到底組織の凝集性を高める集団意思としての目標などになり得ているとは思えません。なり得ているとすれば、それは学会の巨大さであり、財力であり、人的ネットワークであり、そこに身を置くという所属と承認欲求への満足なのかもしれません。

安定飛行に入った段階から、具体的な目標を提示できなくなった巨大集団としての学会は、国家と対立軸にあったわけではなく、国家意思(保守的勢力)の補完作用として機能してきたということであり、違った意味で保守勢力との政教一致路線を展開し、現在も拡大継続しているということになります。宗教政党から国民政党への転換とか、他宗との融和路線の加速化といった事実が正直にそれを物語っているのであり、学会の指針とする「境涯革命五原則(①他人に言ったら愚痴になり、御本尊に訴えれば祈りになる、②世法で苦労すれば苦しみが残る、信心で苦労すれば喜びと福運が残る、③感情をぶつけると怨嫉となる、題目で包容すれば成長できる、④方法ばかり考えると迷いになる、決意して祈ると智慧がわく、⑤出来ないと決めると出来なくなる、やろうと決めて祈ると力がでる)」など、国家権力にとって誠に都合のよい謳い文句以外の何ものでもないような気がします。

かつて差別問題の中心にあった水平社を取り込む形で翼賛運動が完結した歴史を想い、国家権力にとって創価学会が極めて都合のよいガス抜き機能を有し始めたということを考えますと・・もしもそれが大衆の意思だと言うのであれば・・社会への積極関与としての国家諌暁が成就し得ず、身延で晩年を過ごされた日蓮はどのように感ぜられるのでしょうか・・

284今里祐二:2003/01/13(月) 12:59
独歩さん、みかんさんへ

>>232 の僕のつぶやきに対して、独歩さんより
>>237 >>238 >>242 の無礼とも取れる発言があったので、僕も少しカチンと来て
>>250 で、単純で幼稚な罠を仕掛けてみました。
そうしたら >>254 でまんまと引っかかってくれたので、
>>255 >>268で、独歩さんのスタンスの根本的な矛盾点を指摘してみました。

日蓮が仏であるかどうかはともかくとして、日蓮が用いた法華経が仏の金口でなければ、
日蓮の所論はすべて崩壊します。
このことは、誰にでも解るような簡単なことではないでしょうか?

独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわりを見せますが、
日蓮が仏でなければ、そのようなこだわりはナンセンスです。

>>272 あたりから、お得意のグラウンド勝負に持ち込もうとされているようです。
寝技に持ち込まれたら僕など秒殺されてしまいそうなので、その手には乗りません。

日蓮が仏ではなく、法華経が仏の金口でないのなら、
そんなものにいつまでもとらわれているのは時間の無駄です。
すでに40年も無駄にされたとの事ですので、こんなところでカキコなどしている暇はないはずです。
原始仏典を研究し、シャキャムニの真意をつかんでください。ご健闘をお祈りします。

みかんさんの >>127 に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。

>自信満々なところと、過剰に恐縮するところがあって、

ご指摘の通り、僕に仏教一般や日蓮一般の知識が不足しているからだと思います。
紹介していただいた本も読んでみたいと思います。ありがとうございました。

285アネモネ:2003/01/13(月) 15:15
今里さん

少し気になりましたので、失礼ながら横から意見させて頂きたいと思いました。
オフ会のときにも言ったことですが、ご自分の言葉に責任を持つべきだと思うんですね。
まず日蓮本仏論者と自称する以上、論者ですからしっかり「論」を展開して頂きたいです。

250>において、
>ほかのスレッドだと独歩さんに突っ込まれて恐そうなので『つぶやき』にしたのですが…学会を追い出され、法華講からも追い出されてしまって、友達いなくて淋しいので、
あまりいぢめないで下さい(^^)

この時点で、今里さんは独歩さんからの突っ込みを回避するために「論」を捨てたことになるのではないでしょうか。それが証拠に、HNから「@日蓮本仏論者」が消えているわけです。既に、議論から降りて「私の個人的信仰に突っ込みを入れてくれるな」といったところでしょう。要するに、自分の個人的世界観の中での日蓮本仏論だったことを自ら露呈されたわけですね。しかしそのことは、とっくに独歩さんは指摘していて、確かに棘のある言い回しでしたが、237>のレスでそのことを示したということでしょう。

そして見抜かれた今里さんは、255>において、
>僕は「之」を「仏様の御意(みこころ)」と受け取っておりました。僕にとっての仏様は大聖人様ですから「大聖人様の御意」です。まぁ、僕の勝手な解釈に過ぎないので、どうだっていいことですが。

ちゃんと、「僕の勝手な解釈」と断りを入れてあるわけですね。今里さんの日蓮本仏論は、論ではなくて、単に今里さん的勝手な解釈と明示したとなるでしょう。

しかしです、私はここで一言言いたいことは、オフ会のときにもやんわりと申し上げましたが、信仰を人に語り広めるときには、自分の言葉に責任を持って頂きたいのです。個人的な信仰観の域を超えないないなら、そのことを断ってほしいと思うのです。
宗教や信仰は、人の人生を大きく左右するからです。この重大な問題を軽く考えてはいないでしょうか。
少なくとも、日蓮は自分の言葉に社会的責任をどこまで負おうとした人であり、そのために多くの書を残してもいるわけですね。言いっ放しではないわけです。
今里さんが、個人的信仰で日蓮を本仏と崇め続けること、これは個人の自由ですから、論が展開でないからといって、今里さんの信仰する内心には誰も立ち入れません。構わないことでしょう。
しかし、今里さんは「成仏しようぜ!」というサイトを管理し、ネットを通して信仰を広めている立場のはずです。この時点で社会的責任が伴うわけです。その社会的責任の上からも、しっかり日蓮本仏論を展開しなければならない立場にあるのではないでしょうか。
また組織から追い出され、お友達欲しさを感じているならば、尚更ご自分の言葉には最後まで責任を持つことが肝要だと思います。

286アネモネ:2003/01/13(月) 15:15
(つづき)
オフ会で成仏ということについてお尋ねしたとき、今里さんは自分が死ぬときまでこの信心で本当に成仏できるか否かはわからないことだと言われました。私は正直なところ、無責任さを感じたものです。しかし、その無責任さの体質は、恐らく「信伏随従」の組織信仰の影響だろうと思っていました。今里さんだけを責められることではないでしょう。ですから、それ以上のことは言わなかったのです。
だけど、掲示板での一連のご発言を見ながら、やはりなんかおかしい気がして意見したくなりました。
世の中に向けて「成仏しようぜ!」と誘いかけていることに、今里さんはどれだけの社会的責任を感じていらっしゃるのでしょう。宗教への勧誘とは、人の人生を左右することですから、厳しい発言になりますが、そのことを一度しっかりご自分に問い掛けて考えて頂きたいと思います。生意気を言うようですが、それこそ「観心」ということにもつながっていくことではないかと思います。恐らく、ご自身はまったく責任を伴わないところに位置して発言しているのではないでしょうか。恐らく、誰かの言葉に依存したところでのご発言でしょう。
布教の自由はもちろん、言論も自由です。しかし、その自由には重大な責任が伴うという意識、抜け落ちてはいないかと感じられるところです。

最後にもう一言、
269>僕からみれば「身の程知らず」という言葉しか思い浮かびませんが……、

自分は、「論」を展開できずに、突っ込みを入れないでほしいと議論を回避しておきながら、人に対しては「身のほど知らず」と言って、その理由が「単純で幼稚な罠を仕掛けてみました」という。
成仏を目差す人の発言とは思えないのが正直なところです。
しかも、「身のほど知らず」はレスの流から言えば、今里さん的勝手な解釈のうえからのご発言。勝手解釈を認めた時点で、人のことをそんな風には言えないのではないでしょうか。

そもそも罵倒されようと、中傷すれようと、誹謗されようと、自分が絶対的信を傾ける「日蓮本仏論」を徹底的に展開していくのが、今里さんが本仏と崇める日蓮のやり方ではないでしょうか。恐らく自分は仏ではないから、そんなことは出来ないなどとはぐらかされるところかもしれませんが…。
日蓮本仏論など日蓮は言ってないそうですが、それでも日蓮本仏論をどうしても捨てきれないならば、反論するだけの知識と理論武装をして出直せば良いだけのことです。
それにしても、今里さんが本仏と崇める日蓮の気質とは、幼稚な罠を仕掛けるようなことを最も嫌うお方ではなかったかと思います。私はもはや本仏とは思っていませんが、それでもかつては信じていたのです。それは、そこを信じさこませるほどに、まさに仏のように潔く堂々とした人格者であったからであろうと思われます。その点における日蓮への敬慕と信頼は、私は今も変っていません。
今でも日蓮を本仏として崇め勧める立場ならば、幼稚な罠を仕掛けるといった姑息な手段などとらず、潔く堂々とした姿勢を目指して真剣に議論に挑んで頂きたいものです。本仏・日蓮はおろか、人間・日蓮をもおとしめる言論行為ではなかったでしょうか。

287犀角独歩:2003/01/13(月) 15:26

祐二さん:

まず、第一に、あなたは276の私の質問に何も答えず、まったく見当外れのことを記してきましたね。感情論に陥ることなく、質問に答えてください。

また、自分が仕掛けた罠に私が引っかかったことのような言いぐさですが、それは答えに窮した自分をひた隠しにするまさに“罠”でしょう(爆)

さらに質問を続けます。

> 日蓮が用いた法華経

日蓮が用いた法華経とは何ですか。

> 独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわり

これまた、学問を知らないまったくの浅はかな発言なのであって、祖書学において、日蓮の真筆を基準にすることなど、基本中の基本、原則中の原則です。
この言は私を批判するに似て、自らの無知からこの学問的姿勢を批判しています。真筆にこだわりを見せることが異常なのではなくて、なにが真筆か、何が真偽未決か、偽書かすら考えずに、あなたのように放言することのほうがよほど異常なことです。

> 日蓮が仏ではなく、法華経が仏の金口でないのなら、
そんなものにいつまでもとらわれているのは時間の無駄です。

これは二極思考でしかものを考えられない、日蓮本仏主義者ならではの発言です。
時間の無駄なのは、まじめに学ぼうともせず、自分の考えに執着し、形勢不利と見るや、如何にも自分が優位に立っているような見苦しい書き込みをして、さらに自分の考えに執着し、時間を無駄にするあなたの信仰人生にこそ言えることです。

日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。

さらに執着を増し、自己弁明を計り、時間を無駄にされないことを祈るばかりです。
いずれにしても、不遜な発言を投げかけた以上、こちらの質問にはお答えいただきたいものです。

288波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/13(月) 19:48
>>283
>身延で晩年を過ごされた日蓮はどのように感ぜられるのでしょうか・・

蒙古の王を折伏するんだって息巻いていたのサ。

289今里祐二:2003/01/14(火) 02:24
アネモネさんへ

僕のオリジナルの「日蓮本仏論」などありません。
オフ会の時もお話したと思いますが、僕は日寛教学全面肯定という立場です。

290今里祐二:2003/01/14(火) 03:43
独歩さんへ

伝言ゲームの一番最後でシャキャムニの最初の言葉とはすっかり変わってしまった漢訳の法華経を真に受けて、
頭カチ割られ、腕を折られ、首を切られそうになり、島流しにされた愚かでおっちょこちょいの「変なおじさん」
などに、いつまで未練がましくこだわっているのですか?

独歩さんは原典を重視されるお方だと思っていますが、そうであるならば、歴史の流れの中で不純物をいっぱい
抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?

スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りませんけど、そういうシャキャムニの直説と考えられるような
経典を原語でスラスラ読めるほどに研鑽されることの方が先ではないでしょうか?

僕は大聖人様を仏様と信じるという立場から、
「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい、などということは
つい最近知りました。しかし、もしそうであったとしても、仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として
羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、
大聖人様は身をもって教え示されたと思います。」と述べました。

独歩さんは
>それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。
などと暴言を吐くのみで、その根拠を示していません。実用上問題があるのならその根拠をお示し下さい。

また、日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言を吐きながら
それでも日蓮にこだわり続けるという、摩訶不思議な態度で、ネット発言を続けています。
独歩さんが日蓮にこだわる理由は何なのですか?
法華経が後世の創作で、日蓮が仏でないのなら、独歩さんにとって日蓮などどうでもよい存在なのではないですか?
「うなぎの理論」ではなく、明快な答えを期待しています。

291今里祐二:2003/01/14(火) 03:59
独歩さんへ

>日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。

何を根拠にこんなことを言ってるんですか?

292アネモネ:2003/01/14(火) 08:58
今里祐二さん

>289
僕は日寛教学全面肯定という立場です。

ならば、なぜ日寛教学を全面肯定する立場をとられているのか。まずは、そこのところを説明していただけませんでしょうか。

独歩さんはかつてこの掲示板を通して、日寛教学の理論的な矛盾を突いたことはご存知のことと思います。そのことで私も本仏論への信をやめたわけです。
ですから、今里さんはその矛盾に対して反論すべきではないかと思いますね。

291>
>日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言を吐きながら

このことは理論的に何度も説明されてきていることなのに、なぜ今里さんはこのことを妄言と言うのでしょうか。それを説明するためにも、この掲示板で矛盾崩壊した日寛教学をなぜ全面肯定しているのかを説明するところから入って頂きたいと思います。
今里さんの説明如何によっては、私だって再び本仏論を信じることだってあるかもしれません。

293犀角独歩:2003/01/14(火) 09:00

祐二さん:

○質問に答えなさい

わたしは272において

(1)久遠元初とは何ですか。
(2)自受用報身如来とは何ですか
(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか。

という三つの質問を立て、さらに276において、日蓮の言をもって、その証拠を上げてくださいといい、さらに、あなたのは本仏論ではなく、日蓮垂迹論になっている点を指摘ししました。つまり、そこから同じく267に

(4)日蓮本仏何故言えますか。証拠を上げてください。

という質問を足しました。しかし、まったくあなたは答えないのでこの点を287に指摘しました。そこでもさらに

(5)日蓮が用いた法華経とは何ですか

と質問を加えています。さらに今回の暴言について、質問を加えておきます。

(6)「変なおじさん」

変なおじさんとは誰ですか。

もう一度、言います。日蓮の言をもってその証拠を上げてください。

294犀角独歩:2003/01/14(火) 09:00

さらに、祐二さん:

○暴言に応じます

さて、以下に私に投げかけた暴言について、

> 伝言ゲームの一番最後でシャキャムニの最初の言葉とはすっかり変わってしまった漢訳の法華経を真に受けて、頭カチ割られ、腕を折られ、首を切られそうになり、島流しにされた愚かでおっちょこちょいの「変なおじさん」などに、いつまで未練がましくこだわっているのですか?

仏教の伝播が私は伝言ゲームであると思っていません。しかし、あなたはそう決めつけています。おっちょこちょいの変なおじさんとは誰のことでしょうか。こんな一方的な決めつけには答えようがありません。既に私は265において「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と言っております。

> …歴史の流れの中で不純物をいっぱい抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?

これは研究の方法を根本的にあなたは取り違えているのでしょう。
「不純物」というのはあなたの言であって私はこの言葉を使いません。まず、これを断ります。何が後世、言われるようになったことなのか、原型はどのようなものなのかを考えなければ、釈尊にしても、日蓮にしても「本当は何を言ったのか」がわからないので、そのための研究でしょう。これはあなたがいうような「無意味」なことではありません。

> スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りません…

自分が知らないのであれば何も言えないでしょう。知ってから言いなさい。


> 僕は…仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)…実用上は何の問題もない

この言葉は他のあなたの言葉と完全に矛盾しています。あなたは289で、アネモネさんに対して、「僕のオリジナルの「日蓮本仏論」などありません。僕は日寛教学全面肯定」と書いていますが、ならば、全面肯定する寛師はどこで、「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい」という前提で論を説いているのでしょうか。また、後世の創作、怪しい漢訳を元に“道具”として論を立てたと言ったのでしょう。もし、寛師がどこにも言っていないとすれば、この「実用」という一言こそ、あなたのオリジナル本仏論にほかなりませんが、この点はどうですか。


>> それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。
などと暴言を吐くのみで、その根拠を示していません

前節に書いたことがあなたに向けた批判の根拠です。

> 日蓮は仏ではない、法華経は後世の創作であるなどと、妄言

「妄言」などと言われる筋合いはありません。また、これは数百万人しかいないごくわずかな日蓮を本仏と信じるマイナリティとは違い、ごく一般的な学問を基礎にするマジョリティな考え方です。その大多数から見れば日蓮本仏こそ、妄言以外の何ものでもありません。なぜか、日蓮は自分を本仏であるといっていませんし、何度も記してきたことですが、真跡中に「本仏」という語彙は一カ所にしか使用されないのであって、日蓮の教学に採り入れられた考えではないからです。

> それでも日蓮にこだわり続ける

自分が40年間、本仏だと騙されてきた日蓮とは、本当はいかなる人物であるのか、それをこの場で問答名人さんその他の方々と議論をしてきたのです。しかし、その場合、あなたのようにただの思いつきで発言するのではなく、証拠を上げています。まさか「難しい文章は呼び飛ばす」などということをしていないでしょう。過去のログをちゃんと見たうえで責任ある発言をしてもらいたいものです。

> 独歩さんが日蓮にこだわる理由は何なのですか?

理由は前項に書いたとおりです。

> 法華経が後世の創作で、日蓮が仏でないのなら、独歩さんにとって日蓮などどうでもよい存在なのではないですか?

これも前項に書いたとおりです。

> 「うなぎの理論」ではなく、明快な答えを期待しています。

うなぎの理論とは、あなたのように証拠も上げることもできず、自分に寄せられた質問に答えもせずに、人に難癖を付ける態度を言うのです。別名を異問異答と言います。異なった問いに異なった問いです。まさにあなたの態度そのものです。

>> 日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。
> 何を根拠にこんなことを言ってるんですか?

いみじくも290のあなたの書き込みがこの問いについて、自分で露呈して見せているではないですか。

295今里祐二:2003/01/14(火) 12:05
独歩さんへ

>○質問に答えなさい

>>273において(1)(2)(3)はすでにお答えしています。
(4)は(3)と重複しています。

(5)経典という意味で、主に羅什訳の「妙法蓮華経」です。
「正法華経」「添品妙法蓮華経」も助用されています。

(6)「変なおじさん」とは日蓮のことです。
独歩さんの立場だと、「そうならざるを得ないだろう」という意味で書きました。

>もう一度、言います。日蓮の言をもってその証拠を上げてください。

ここが独歩さんの「仏法を信仰する者」として根本的におかしい所です。
日蓮が仏でないのなら、日蓮がどのような言を残そうと、何の証明にもならないのではないですか?
>>290で質問したこともその意は同じ事です。

>これは研究の方法を根本的にあなたは取り違えているのでしょう。…
>原型はどのようなものなのかを考えなければ、釈尊にしても、日蓮にしても「本当は何を言ったのか」がわからないので、そのための研究でしょう。これはあなたがいうような「無意味」なことではありません。

これは「研究」という言葉を使った僕のミスでした。僕は「信仰」という言葉を使うべきであり、
「研究」ということでは、独歩さんの仰るとおりだと思います。
>> …歴史の流れの中で不純物をいっぱい抱え込んだ経典をもとに論を立てた日蓮の研究など無意味なのではありませんか?
この質問は取り消します。申し訳ありませんでした。

>>スッパ・ニパータとかですか? 僕はよく知りませんけど、そういうシャキャムニの直説と考えられるような
>>経典を原語でスラスラ読めるほどに研鑽されることの方が先ではないでしょうか?

>自分が知らないのであれば何も言えないでしょう。知ってから言いなさい。

僕の質問と独歩さんの答えとが、チグハグですね。
僕はいつでも「信仰者」として考え、質問したり答えたりしています。
それに対し独歩さんは「研究者」として、答えたり質問したりしています。
やはりこれではいつまでたっても平行線でしょう。

>…なぜか、日蓮は自分を本仏であるといっていませんし、何度も記してきたことですが、真跡中に「本仏」という語彙は一カ所にしか使用されないのであって、日蓮の教学に採り入れられた考えではないからです。

本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています。

>> それでも日蓮にこだわり続ける

>自分が40年間、本仏だと騙されてきた日蓮とは、本当はいかなる人物であるのか、…

僕は独歩さんに「騙されてた訳じゃないよ、大聖人様は仏様だよ…」と言いたいですが、
「独歩さん」が納得できるような根拠を示すことは出来ません。

>うなぎの理論とは、あなたのように証拠も上げることもできず、自分に寄せられた質問に答えもせずに、人に難癖を付ける態度を言うのです。別名を異問異答と言います。異なった問いに異なった問いです。まさにあなたの態度そのものです。

僕の「信仰者」としての問いに「研究者」としてしか答えようとしない独歩さんの態度に対し「うなぎの理論」と言ったまでです。

>>> 日蓮が仏でなくとも、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなくとも、そこには学び、実践し、かつ人を功利せしめる源泉があることを、あなたは二極思考の頭でしか考えられないために理解できないのでしょう。

僕は「信仰者」として、日蓮が仏であり、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなければ
「人を功利せしめる源泉」などないと考えています。
独歩さんの研究で「源泉」が発見できたなら、その時は教えてください。

>>242での独歩さんの過剰な反応には少し驚きましたが、もう一度あげておきます。

『十八円満抄』
『総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。』

「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。」
日蓮が仏でないのなら、必ずしも日蓮がごとく修行する必要はないと思います。
良い所は取り入れ参考にし、悪い所は受け取らないというのが正しい態度でしょう。
日蓮が仏であるならば「師弟子をただす」という態度が必要になると考えます。

「智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。」
これは「道理」を述べてあるところです。
仏の言葉であれ凡夫の言葉であれ「真実」です。

296犀角独歩:2003/01/14(火) 14:09

祐二さん:

> >>273において(1)(2)(3)はすでにお答えしています

私は「日蓮の言をもって」と言ったのです。
あなたの273の答えは

(1)手持ちの辞典を引いたら「五百塵点劫に成道した釈尊の本因の時」と書いてありました。
久遠即末法とも言われますが、今現在のことです。
(2)三世諸仏に対しても主師親である根本の仏、です。
(3)法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断することが適当と考えます

です。これのどこが日蓮の言なのですか。
答えたことになっていません。
もう一度、記します。日蓮本仏、寛師全面肯定の立場のあなたでしょう。
日蓮の言でお答えください。

> (4)は(3)と重複しています

私の質問、「(3)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか」であり「(4)日蓮本仏何故言えますか。証拠を上げてください」は重複していません。
日蓮の言をもってお答えください。

> (5)経典という意味で、主に羅什訳の「妙法蓮華経」です。
「正法華経」「添品妙法蓮華経」も助用されています。

(5)' では「南無妙法蓮華経」と日蓮が言うとき、この妙法蓮華経は経典であるというわけですか。

> (6)「変なおじさん」とは日蓮のことです。
独歩さんの立場だと、「そうならざるを得ないだろう」という意味で書きました。

先にも記したとおり、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と申し上げてきました。恰も私が日蓮を「変なおじさん」と考えている如き誘導…あなたの言葉で言えば“罠”…ともとれることは、あなたの自信の品格を下げることになります。おやめになるべきでしょう。この議論は本仏義が日蓮の教えといえるかどうかを考える厳粛かつ公正、そして、証拠主義に基づく議論でなければならない。あなたは日蓮本仏の信徒の自覚、私は人間日蓮を敬愛する自覚、この相違する自覚に立つ2人のどちらが、忠実に日蓮の言に基づき、責任ある発言をしているかを問う議論であるべきです。お互い姑息な罠、仕掛けなどはせず、アネモネさんが指摘くださったよう正々堂々と論じ合いましょう。

> 僕はいつでも「信仰者」として考え、質問したり答えたりしています。
それに対し独歩さんは「研究者」として、答えたり質問したりしています。
やはりこれではいつまでたっても平行線でしょう。

あなたは、信仰と研究が別々のものであると考えているようですね。
かつて研究の成果をまとめた書籍を「論」と言ったのではないですか。
日蓮において、果たして信仰と研究が別のものであったのでしょうか。私は而二不二としてとらえていたと思います。
すなわち、あなたと私が信仰・研究と言うとき、その食い違いがあるのではなくて、日蓮が信仰・研究を別に見ていたか、一つのものに見ていたかの違いである点は留意されるべきです。日蓮は研究は研究、信仰は信仰などといった現在の僧学の如き姿勢は微塵もなかったと私は拝しています。

> 本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています

これは池田さんの「私は謙虚な人間です」発言を想起するような記述ですが、まあ、それは置きましょう。このあなたの言葉は日蓮は本仏であるけれど、謙虚だから自分では仏などと言わなかった、こんな意味合いでしょうか。これで合っているとすれば、仏は自分で仏とは言わない、言うと謙虚じゃないという伏線を指示することになりますね。
しかし、これは勝手な固定観念です。例えば妙法蓮華経・寿量品に「今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たり」とあります。つまり、仏は自らを常に仏であると宣言するのは通常、少しもおかしなことではありません。となれば、日蓮が仏であれば、その宣言をすることは仏教の常道と言うことになるでしょう。

297犀角独歩:2003/01/14(火) 14:09

―296からつづく―

> 日蓮本仏…納得できるような根拠を示すことは出来ません。

そうですね。ここで過去2年間、議論をしてきましたが、結局、証拠を示す人はいませんでした。ですから、私は「日蓮が本仏であるという証拠はない」と言ってきたのです。
また、本仏とは言い難い証拠については、過去のログのとおりです。
残念な結果であると私自身、思います。しかし、日蓮の真実の姿は人間であっても、学ぶところは多いのです。この点については、あなた自身、

> 日蓮が仏でないのなら、必ずしも日蓮がごとく修行する必要はないと思います。
良い所は取り入れ参考にし、悪い所は受け取らないというのが正しい態度でしょう。

と記すとおりです。これは『十八円満抄』の真偽の問題ではなくて、私の考えです。
しかし、「日蓮が本仏である」というのに、何ら証拠も示せず、さらに学問的に否定されたことを見て見ぬふりをして、成仏しよう、地獄に堕ちるなどということを私は無責任というのです。

故に冒頭の質問の如く、日蓮が本仏であるというのであれば、その証拠を示すべき、本仏と信じれば成仏するというのであればその証拠を示すべき、地獄に堕ちるなどと脅しの言説を述べるのであれば尚更のことであると、その挙証義務を果たすことを強く求めてきたのです。しかし、結局、あなたはそれができないという。しかし、証明できないという事実が事実でないことを語るととらえるのは取られる側の問題ではなく、それを証明できない側の問題です。

なお、同抄をはじめ、真偽未決をその真偽を決せずして、また、断りもせず、引用することを私は無責任というのです。なぜ、特にこの点について、私が口うるさく言うかと言えば、日蓮本仏論というのはまさに真偽未決書を拠り所にして、成り立っているからです。

> 僕は「信仰者」として、日蓮が仏であり、法華経…ここでは経典を指して言いますが…が釈尊の真説でなければ「人を功利せしめる源泉」などないと考えています。

これはあなたの思い込みであると申し上げるわけです。
何度も記してきたように、菩薩思想は、後天的な仏教思想です。それをモチーフにして出来上がったのが法華経でした。釈尊は菩薩思想を説くことはなかったでしょう。しかし、この思想は、人類にとって大きな精神的な財産です。このような人類の財産たり得る教えは数多あります。それを釈迦の真説でないという理由だけで、捨て去ることは実に愚かな短絡です。また、日蓮が本仏でなければ、その教えは無駄であるというのも同様です。艱難辛苦を生きた日蓮の一生は、信徒ならずとも学ぶところは大であり、人間であればこそ、病み、老い、そして、死んでいったその苦しみの相克を示した姿は多くの教訓を700年間、与え続けてきました。

> 独歩さんの研究で「源泉」が発見できたなら、その時は教えてください。

私は研究者ではありません。また研究と信仰は而二不二であるという日蓮の精神を指示します。

この掲示板では過去2年間、それこそ膨大な議論がされてきました。本仏論者も否定論者もそれは真剣に挙証義務を果たしながら、論じ合ってきたのです。
そこにあなたは「説明できない」ことを当然のように本仏論肯定を論じたことです。
これは過去2年間の議論に対する冒涜であり、軽視であると私は受け止めた。

あなたは237、238の私の発言を無礼とも取れると言った。
しかし、私からすれば、過去皆が真剣に論じてきたことをまるでなかった如く「@日蓮本仏論者」などと名をして、証拠も上げられない、説明もできないと語るあなたの、その姿勢を、無責任とも、無礼とも見たからこそ、論難を強いたのです。

しかしながら、あなたは、私の問うた(1)〜(5)を日蓮の言として何一つ証明できなかった。これこそ、日蓮本仏の実態をさらに示したものであったと私は思うわけです。もし、違うと言われるのであれば、もう一度、真摯に私の質問に答えてください。

298今里祐二:2003/01/14(火) 15:17
独歩さんへ

>日蓮の言でお答えください。

僕が、自分の手帳や友人への手紙に「実は僕こそ、末法の本仏なんだ」という言葉を書いたとします。
独歩さんはその言葉をもって、僕が「末法の本仏」であると認めますか?当然、認めませんよね。

このような場合、言葉など無意味です。

大聖人様にとっても、このことは同じです。
大聖人様が「自分が末法の本仏である」という言葉を残されていたとしても、
そんな言葉は無意味です。何の証拠にもなりません。

であるが故に、経文通りの大難にあわれるという「現証」で示されたのではないですか?
そして僕はその「現証」だけで充分ではないか、と言っているのです。

>この掲示板では過去2年間、それこそ膨大な議論がされてきました。本仏論者も否定論者もそれは真剣に挙証義務を果たしながら、論じ合ってきたのです。
そこにあなたは「説明できない」ことを当然のように本仏論肯定を論じたことです。
これは過去2年間の議論に対する冒涜であり、軽視であると私は受け止めた。

「挙証」とは主に「文証」のことですね。
大聖人様のお考えでは、三証の重み付けは、現証>理証>文証、ですよね。
この掲示板での議論が「文証偏重」に傾いていったため、
「日蓮本仏否定」という誤った結論になっているのだと思います。

功徳の大きさという事で仏の位を計るなら、日蓮本仏で何も問題ありません。

『法蓮抄』
『是れ程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて、頭を低て他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ、飢ゑて食を思ふがごとく、間無く供養し奉る功徳よりも、
戯論に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。
これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり。十号と申すは仏の十の御名なり。
十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり。
妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。
已上、上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり。争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや。
而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑ひ、多宝仏の証明を軽しめ、十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし。
若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕つべし。巌石にのぼりてあら馬を走らするが如し。心肝しづかならず。
又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし。如何してか今度法華経に信心をとるべき。
信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。』

299犀角独歩:2003/01/14(火) 15:34

祐二さん:

> このような場合、言葉など無意味です。

だとしたら、『十八円満抄』を引くことも、以下に『法蓮抄』を引くことも無駄ですね。もっと言えば、日蓮の御書、経典もすべて無駄と言うことになりますね。
これが本仏という言葉に限れば、言葉を引くことは無駄で、他は無駄でないという有様はおかしいですね。

要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。

> 経文通りの大難にあわれるという「現証」で示されたのではないですか?

日蓮の遺文で見る限り、経文通りの難に遭うことによって自分が法華経の行者であると言っています。しかし、本仏であると言っていません。
あなたが書いている現証は法華経の行者たる自覚をもったことのみしか書かれていません。それが何故、本仏たる証明として十分といえるのですか。

> この掲示板での議論が「文証偏重」に傾いていったため、
「日蓮本仏否定」という誤った結論になっているのだと思います。

それは日蓮本仏に固執するあなたの勝手な考えです。
上述の通り、現証から見ても日蓮が本仏であることにはなりません。
法華経の通り、難に遭うと本仏なのだとはどのような根拠で言っているのですか。
もし、この掲示板が偏重なのだという批判の現を奪って言えば、あなたは日蓮本仏偏重に傾いているために、何でも自分の都合のいいように解釈しているのに過ぎないでしょう。

> 功徳の大きさという事で仏の位を計るなら、日蓮本仏で何も問題ありません。

これまた、何ら証拠を示さない口から出任せの放言としか映りません。

最後に『法蓮抄』を引いていますが、あなたの言に従えば、現証のほうが大事なのでしょう。何の意味があるのですか。

300無徳:2003/01/14(火) 15:36
satさん今日は:

現在の創価学会に対する内部からの、まことに冷静かつ客観的な分析に感銘し
ました。satさんのような方が内部おられる創価学会にはまだまだ救いがある
と言うべきかも知れません。

しかし、私は池田大作氏や創価学会の幹部連中には創価学会としての歴史的
総括をなすべきではないかと訴えたいと思います。satさんも取り上げられた

>「七つの鐘」とか「正本堂建立」といった具体的かつ明確な組織目標が
>終了してしまった今、

に関して言えば、総本山側も創価学会も全くの虚言を弄し、創価学会員や正宗
信徒を欺き続けた結果が、現在のごとき有様に至った根本原因である事は明瞭
な事実と言わざるを得ません。したがって<具体的かつ明確な組織目標が終了
してしまった>のではなく、これらの事実を全く総括せずに、なし崩しに再び
会員を欺き続けようとしているのではないかと思わざるを得ません。

正本堂に関して言えば総本山側も明確に総括をし、全信徒に文書をもって詫び
てから正本堂を破壊などせず、名称を変えるなり用途を変更するなりして存続
させるべきでありましょう。いくら維持費が掛かるからとは言え解体し跡地に
奉安堂なる巨大な建築物を建てるとは、私にはとうてい理解が出来ません。

どちらにしても総本山側も創価学会も、どこに軸足を置いて信仰というものを
立てようとしているのかが本当に解っているとは思えません。

日蓮仏法は僧侶の為や創価学会という組織の為にあるのではないことは明瞭で
す。全て末法と言う現在に生きる凡夫としての庶民大衆の為にあることは多言
を要しません。したがって我々はあくまで自らの足で立ってネット社会と言う
利点をフルに活用して、現代的サンガを形成し我々の手に日蓮仏法を取り戻す
べきではないかと考えますが如何なものでしょう。

301みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/14(火) 23:23
>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。

という上記の提言と矛盾するようですが、次の質問にできればわりと急いでお答えいただきたいのですが。
一部は既出の質問ですが、お答え頂けておりません。

1)今里さんのHPは「成仏しようぜ!」ですが、今里さんがお考えになる成仏とはどういう事ですか。
2)成仏した人に会ったことがありますか。あるいは、過去または現在に成仏した人は誰ですか。
3)本仏とはどのような仏ですか。
4)本仏以外の仏とはどのような仏ですか。
5)本仏と、本仏以外の仏の違いはなんですか。

以上、お答えいただけると大変うれしいです。



===
>無徳さん
『共同幻想論』について拝見しましたが、そのような問題関心であれば、次の本も興味深いと思います。
笠井潔『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080694/
田川建三『宗教とは何か』(大和書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479730206/
島田弘巳『イニシエーションとしての宗教学』(筑摩書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480051848/

なお、現代的サンガはむずかしいと思います。人が寄り集まると必ず偏りが生ずるからです。
また、不要なのではないかと思います。仏道修行は自分一人でするものだからです。
善友ができることはありますが、それはたまたまのことです。

302五月雨:2003/01/15(水) 00:12

今里さん

独歩さんとの対話はものの見事に噛み合っていませんね。独歩さんが言われた「外教
のサンジャヤ・ベーラティプッタ鰻の論理(異問異答)」の実演を見ているようで
す。
どうして、今里さんは独歩さんの理論が分からないのかと考えてみました。オフ会で
お会いした時に、私が言った言葉を覚えておいでですか。『今里さんは思考停止して
いる』と言いましたよね、今もそうみたいですよ。日蓮本仏論に拘っていて、独歩さ
んの言われることを考えようともしていませんね。それゆえに反論の基となる根拠を
示すことも出来ず、問いと違う答えにすり替えながら、ついには人を貶める言葉を書
き連ねています。

結局「日蓮本仏論」は日蓮本仏論者(みかんさんに言わせれば、論じていないから論者にもならないみたいですが)にも証明出来ないことが、証明されたのでしょう。
こんな事、今里さんおひとりが信じているのなら、ほんの物笑いになる程度です。今
の世にあって天動説を信じるようなものです。
だけど、今里さんはインターネットの世界でご自分のサイトを持ち、ご自分のお考え
を世に知らしめていますよね。成仏しようぜ、なんてまるで成仏が出来るようなタイトルで。その上成仏出来るか出来ないかは、博打なんですってね。御自分でもどうなるかは死んでしまわないと分からないという無責任ぶりです。今里さんのサイトを見て真に受けてしまった方への責任は、信じてしまった方にあると無責任の上塗りをされていましたね。
だけど、いい大人が自分の言葉に責任も感じず、証明されないことを世に垂れ流している姿は、傍から見ると酷いとしか映りません。

私は、この掲示板で仏教全般から聖人の教えを見るということを学びました。聖人の教えは絶対だから、他に目を向けなくてもよいと学会で石山で教え込まれてきましたが、聖人の本当の教えを知ろうと思った時には、この視点はとても大切でした。
そこで、みかんさんがとりあえず、仏教一般や日蓮については、次の三冊だけは読んでから議論していただけませんでしょうかと挙げられた三冊の本ですが、きっとすぐには読めないと思います。そこで今里さんが敬愛されている小林よしりんさんがいまSAPIOで連載されている『古寺記』をお薦めします。聖人とも関係のある密教について詳しく書かれていますよ。ゴーマニストの今里さんは読まれているとは思いますが、社会一般から見た仏教という視点から、見えなかった何かが見えてくる筈です。
どうぞよしりん先生に仏教とは何かを学んでから、日蓮本仏論の理論武装を出来るものならして下さい。そして独歩さんと議論をして貰ってください。
今里さんは、人間性はとても好い方なのに、石山教学と石田さんの考えでしか話が出来ないのが残念です。

303アネモネ:2003/01/15(水) 01:36
うーん、なんだか、今里さんがお答えにならない質問というのは、かなり核心的な部分なんでしょうね。それを答えると、どういう反論がかえってくるか、今里さん自身わかっていて、つまりそれこそ罠に嵌ってなるものかと、避けておられるのでしょうか。
だとすると、とっくに今里さんは、ご自分が全面肯定の立場をとってこられた寛師教学の本仏論が崩れていること、わかっているんでしょうね。

寛師教学全面肯定としての論は最後まで展開をみることが出来なかったのは、誠に残念ですが、それが現実ということでしょう。
むしろ、今里さんのレスを通して、本仏論の弊害をみる思いがしました。

>本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています。

本人が言わなかったことは、謙虚だからという捉え方だけではないはずですね。そのまま、本当に本仏ではなかったから当然言わなかったという、ごく自然な捉え方が一番にあるはずです。ところが今里さんは、この場合のことについての思考は、まるで意識にないよう。
恐らく本仏であっていてほしい、あつていてもらわなくては困るという、今里さんの切なる願望が、そのことを考えなくさせているのでしょう。
だから、信は信でも、盲信ということになるのではないかと思われます。

304今里祐二:2003/01/15(水) 02:19
五月雨さん、アネモネさん

独歩さんへのレスだけでいっぱいいっぱいなので、しばらくお返事できません。
ごめんなさい。

305今里祐二:2003/01/15(水) 02:27
みかんさん

1)お釈迦様のような仏様に成ること
2)ありません。
3)日蓮大聖人
4)お釈迦様のような仏様
5)本仏=本仏以外の仏の師、本仏以外の仏=本仏の弟子

以上です。

306今里祐二:2003/01/15(水) 03:16
独歩さん

>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。

『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)

僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足なのでしょうね。

>あなたが書いている現証は法華経の行者たる自覚をもったことのみしか書かれていません。それが何故、本仏たる証明として十分といえるのですか。

>>298であげた『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。

独歩さんの、疑いを尽くして、真偽・正邪を見極めていく姿勢は大変素晴らしい事だと思います。
しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。

もし「そのような発言はしたことがない」と仰るのであれば、釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?
釈尊の事を仏と信じているのなら、釈尊が間違いなく仏だという根拠は何でしょうか?
釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。>>298で論じた通りです。
証拠を挙げて、具体的にお答えいただけるとうれしいです。

307みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/15(水) 03:16
>今里さん

お答えいただきありがとうございました。
今里さんが仏や成仏についてどう考えているのか今ひとつわかりにくいのです。
すいませんが、もうすこしだけ質問させて下さい。

6)日蓮と釈迦以外に成仏した人はいますか?
7)いるとしたらそれは誰ですか?
8)「成仏」が「お釈迦さまのような仏様になること」だとしたら、具体的には人間は成仏するとどうなると思いますか。
9)「3)」の答えが「日蓮大聖人」ですが、それは鎌倉時代の日蓮なんですか。
10)鎌倉時代に生きた日蓮は、人生のなかでいつ成仏したと思いますか。
11)鎌倉時代の日蓮と、久遠元初自受用報身如来はどういう関係でしょうか。
12)本仏と、本仏以外の仏の、覚りや力に違いはありますか。
13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。
14)今里さんがもし成仏したら、ご自分がどう変化すると予想されますか。

308今里祐二:2003/01/15(水) 04:25
>>307 みかんさん

6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。
8)判りません。
9)そうです。
10)判りません。
11)不一不異
12)うーん、どうなんでしょう。判りません。
13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。
14)僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています。その後どうなるのかは判りません。

309今里祐二:2003/01/15(水) 04:29
>308 の訂正

6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。

6)日興上人
7)熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。

310今里祐二:2003/01/15(水) 05:48
>308の訂正

13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。

13)していません。

>13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。

>13)石田次男氏は成仏したと思いますか。
と、勘違いしていました。

311みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/15(水) 06:26
すいません。また疑問が増えてしまいましたので、恐縮ですがもうふたつだけ聞かせて下さい。

15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?
16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。

312アネモネ:2003/01/15(水) 09:20
今里さん

私の書き込みは、お読み下さるだけで構わないです。気が向けば、お返事ください。

284>原始仏典を研究し、シャキャムニの真意をつかんでください。ご健闘をお祈りします。

と嫌味のようなことを言われた方が、成仏とはどういう事ですかという質問に対して、
1)お釈迦様のような仏様に成ること

と答えられるのは何か、矛盾してますね。お釈迦様のような仏様になることが成仏であると考え、成仏を目差しているならば、それこそご自分が原始仏典を研究をすることに行き着かなければならないはずですし、先にそのような研究をなさっている方の言葉には耳を傾けるものだと思います。

だいたい、日蓮が本仏ならば、日蓮のような仏様になることというのが道理ではないでしょうか。どうしてここでお答えがお釈迦様となるのかそれこそ疑問ですね。

284>独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわりを見せますが、日蓮が仏でなければ、そのようなこだわりはナンセンスです。

逆に日蓮を本仏だと思う方が、真筆以外の真偽未決の書に対して無頓着であるほうが問題ではないかと感じます。
今里さんは偽書が書かれる中世の宗教を取り巻く時代背景という認識が欠けているのではないでしょうか。日蓮が本仏だと考える方のほうが、真筆以外の書に対して慎重になるものではないかと思うほどです。
たとえば、好きな人から届いたラブレターが、実は別人の創作だったとあっては、好きな人の心の内の真意を取り違えることになるでしょう。また本人が書いたものだと思い込んで大事にしていることも滑稽なわけです。しかし、疑わしき場合は、確認をするでしょう。そこに書かれていることと違っていたら怖いと思って、信じていたいと思っているのが、今の今里さんではないかと感じます。

真剣に日蓮の真意を求めるならば、文献の信憑性には厳格になり、疑問も生じ、慎重になるのは当然のことだと思います。それを異常だと思う神経が、無責任さでありカルト性であるのかもしれません。
楽な道を選んで、日蓮の真意を求めることに怠慢なだけではないかと思います。

313アネモネ:2003/01/15(水) 09:21
(つづき)

305>しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

逆も真で、過ぎたる信は何も生まず、かえって害になるものではないかと思いますね。掲示板でみかんさんと独歩さんが、「信」について幾度となく書き記して下さっているわけですが、お釈迦様の教えをもとに発生した仏教が説くところの本来の「信」と、今里さんが思っている「信」とは違うものかもしれないということにも、問題意識を持ってほしいと思います。

>独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。

答えを見出せるかどうかはともかくとして、そういう疑問を持つことは、宗教を求め広める信仰者の社会的責任のうえで、非常に重要なことだと思います。
ごく当たり前のように、「神や仏」と、お釈迦様を神格化したものとして今日に伝えられ、教えられ、それが当然のことのように私たちは身についているわけですが、実はその固定観念こそ、後世につくられたものかもしれないわけですね。
いちりんさんや独歩さんがよく書かれていましたが、お釈迦様だって私たちと同じ人間だったんだということ、当然、日蓮も同じで、そのうえで仏に成るとはどういうことを意味するのか、そこを考え抜くことこそ、本当の「信」に通じていくものではないかと思います。
歴代の方々の言葉に依存するうえで「信」を訴えるだけで、それ以外のことを考えることを害だと言い切る。
それが宗教のカルト的な思考であり、それが人々を不幸に導いているという社会的側面にも目を向けてほしいです。それが宗教を広めようとする人の最低限の責任でしょう。
今里さんの主張は、オウムとなんら変らないということに気がついてほしいです。

314犀角独歩:2003/01/15(水) 09:51

祐二さん

>>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。
>『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)
> 僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足

不足であるとか何とかいう憶測を一々書き付ける必要はありません。
私はそんなに粘着質ではありませんし、「ああ思うだろう、こう思うだろう」という他人の感情を探るような言葉を一々挟むとそれでなくても長くなる文章がもっと長くなるでしょう。今後、ご無用に願います。

さて、「しうし父母」だとなぜ、本仏なんでしょうか。

> 「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様

この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。それはそれとして、

(7)仮に法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いとしても、なんでそれが本仏であると言えるのですか。

また、あなたの記述によると法華経の行者(本仏)、お釈迦様(権仏)として、その優劣を論じ、さらにこのお二方を別体の如き口ぶりですね。これは如何なることでしょうか。たしかあなたは寛師全面肯定論者と言うことでした。以下はご存じの寛記雑々「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」というのです。

また、先にも寛師とまったく本地・垂迹説を展開していました。
この本地・垂迹(もちろん、本門・迹門とは別)に就き、寛師は『蓮祖の本地内証外用の事』に

「凡そ蓮祖大聖人は若し外用を論ぜば本化上行菩薩の再誕、諸抄の中に或は仏の御使と云ひ、或は霊山相伝等と云ふが如き是れなり。若し内証を論ずれば、久遠元初の本因妙の教主釈尊なり」

といい、石山の同体異名の相伝を論じます。まさか寛師全面肯定のあなたが知らないわけもないでしょう。となれば、

(8)「「法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様」などと別体の如く論じることは寛師の跡を冒涜し、石山の相伝を蔑ろにするものではありませんか。

もちろん、私は寛師の実否を問い、相伝の是非も論じます。しかし、ここにおいて、寛師全面をうたい文句にするあなたが寛師とまったく違う“解釈”をもって論じられてはますます話はわかりづらくなります。

(9)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

> 過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

確かに疑わなければ自分のぬくぬくとした考えのなかで一生を終えることができるでしょう。しかし、この信・疑については既にみかんさんも加わってくださり、論じたことです。私は疑うことを少しも恐れません。あなたは疑うことが怖いのでしょう。

315犀角独歩:2003/01/15(水) 09:52

―314からつづく―

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…

これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう。

> 釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?

質問には質問に答えてから答えるのが礼儀です。
私はあなたに聖人が本仏であるという聖人の言を挙げるように言いました。
しかし、あなたは言を挙げる必要がないなどと言葉を巧みにする変え、いまだに答えていません。まず、こちらの質問に答えるべきでしょう。異問異答にまた逃げ込むあなたの罠には引っかかりません。

> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。>>298で論じた通りです

論じた?、これが論のつもりなのですか。
言葉は根拠にならないのであれば、ここであなたが書いていることはなんなのですか。
また、私はこの298に対しても

「だとしたら、『十八円満抄』を引くことも、以下に『法蓮抄』を引くことも無駄ですね。もっと言えば、日蓮の御書、経典もすべて無駄と言うことになりますね。
これが本仏という言葉に限れば、言葉を引くことは無駄で、他は無駄でないという有様はおかしい」と、その過ちを指摘しています。それにはまったく答えもせず、論とは、まったく、あなたという人は。

呆れてものを言う記も失せますが、たしか、あなたは石田次男さんを尊敬しているんでしたね。石田さんは『現代諸学と仏法』に

「『像法決疑経』には言う「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」と。「若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」である。この意図の下、虚妄性不可避の分別ではあるが、常に非著亦用の方便として闊達に駆使される。
 我々もこの意図の万分の一をも見習いたい」

> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません

仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。

316犀角独歩:2003/01/15(水) 10:33

答えがない質問が溜まってきました。
ナンバーを付け忘れたものなどもありますので、以下、整理しておきます。
お答えください。異答はおやめください。また、異問は答えてから。

本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。

(a)久遠元初とは何ですか。
(b)自受用報身如来とは何ですか
(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
(d)日蓮が本仏と何故言えますか
(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

文字では表せないなどという言い逃れを続けるのであれば、以下の日蓮の言も用いないのでしょう。しかし、あなたはここに書き連ねている。すなわち、つまり、あなたの日蓮本仏“論”とは日蓮の言に拠らない己義荘厳の夢想であると考えるほかありません。あの石田さんでさえ「天台が言う様に「文字は三世諸仏の気命なり」…言語・概念・文字(記号)は仏様の自行と化他のとについての気命なのです。…ですから、「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」」と記しています。あなたは石田さんを尊敬しているのではなかったのですか。尊敬表明をするだけで書いたことも話していたことも覚えていないのですか。それとも読んですらいないのですか。

「仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり」

誤解がないように言っておきますが、私はあなたの本仏“論”を聞いているのではありません。日蓮が本仏であるというのが日蓮の教えであるというのであれば、日蓮の言を挙げて論じるのが筋だと言っているのです。

お答えください。

317sat:2003/01/15(水) 15:54

>>300 無徳さん

>内部からの、まことに冷静かつ客観的な分析に・・

過分なお言葉頂戴していますが、創価学会の立場を代弁して書いているわけでなく、あくまで私個人が感じることを書いているまでです。正しいかどうかわかりません。独歩さんや無徳さんを始めとして本掲示板に書き込まれる方から多くの事を教えて頂いている・・そして学ばせて頂いている一人の創価学会員であるというだけに過ぎません。その点ご理解賜ればと思います。

>私は池田大作氏や創価学会の幹部連中には創価学会としての歴史的総括をなすべきではないかと訴えたいと思います。

仰るとおりだと思います。学会は過去幾度となく対外的に問題が発生しそうになると、事実を封印し葬ろうとしてきました。今も、体質が変っているとは思えません。池田名誉会長のスピーチや書籍は、過去の出来事を修正し、理想化するための作業だったのでしょうし、三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念ですが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えにくいものと思われます。

組織の諸矛盾とか信仰のあり方に懐疑を持った人々・・信仰自体は間違っていないはずだとする人々は・・その後脱会して様々な人生の軌跡を描いておられるかと思います。逆に今も学会に所属する人々の中にも、ご指摘の問題を総括し「負の遺産」を背負うことが自身のクライシスにつながることを動物的嗅覚として知っている人も数多く存在します。言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さないという事は、表裏一体なのだと思います。日本人的感情の側面と言うのでしょうか・・宗創戦争の意味づけとして、負の遺産を全て宗門に帰そうとする方向に向かったことは当然の帰結だったような気がします。

「現世超越」モデルの持つ強烈な思想性は、「事実」の面でいくら「誤謬」を指摘されたところで容易に崩れるものではないという側面があるかと思います。「事実」などは無限にあるため、指摘しうる「事実」はたえず部分的であるほかないのに対し、思想性が描き出すのは先験的に「全体」像であるという主張がまかり通ってしまうのが実情ではないでしょうか。

学会幹部のスピーチが、次第に空疎な言葉で埋められていき、やがて論理性の無い学会の肯定演説に行き着くという日常風景になって久しいですが・・異分子をはじき、より純粋性に向かって組織が形成されていくと、かたやそれがボディーブローとなって崩壊の道を早めることは充分に予想されることです。後はしなやかに変身していくしか学会には残された道はないと存じます。

318sat:2003/01/15(水) 15:55
>>300 無徳さん(続き)

>日蓮仏法は僧侶の為や創価学会という組織の為にあるのではないことは明瞭です。

これも仰るとおりだと思います。全く異論はありません。その上に立って、「学会は池田教に堕した」という巷の通説批判は果たして正鵠を得ているのでしょうか。私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか。

学会が方面制へと組織を移行強化して、今に至っている事は、無徳さんもよくご存知の事であろうと思われます。方面制への移行により管理システムは高度に完結され、本部職員や方面長を始めとする支配の複層化が進展し、権力の分散的存在というセクショナリズムが存在しています。都市から農村へ、そして農村から都市へという路線が昭和50年代以降の戦略でもありました。セクショナリズムは中央集権化の必須条件であり、その欠くことのできない補正手段として機能しうる・・つまり本部職員や方面長によって分散された権力構造とか、セクショナリズムは、自主性や創意性や個性を圧殺するものではなく、ガス抜きとして機能し、更には構成員によって一致して承認された枠内で行われる限り、必要機能として積極的に作用しているというのが実態ではないでしょうか。

これからの生き残りを考えれば、大衆が何を求めているか、オールラウンドにそのニーズを拾っていかなければならず、独裁化から官僚化への移行、そして市場原理化へのシフトに向けたソフトランディングしか方法はないと感じます。それが事実上の解体なのかもしれませんし、歴史の審判を待つということなのかもしれません。

>総本山側も創価学会も、どこに軸足を置いて信仰というものを立てようとしているのかが本当に解っているとは思えません。

創価学会が存在しなければ、大石寺も静かな風情で代々法華講の方を中心として信仰を維持継続していたかもしれませんね。

>我々はあくまで自らの足で立ってネット社会と言う利点をフルに活用して、現代的サンガを形成し我々の手に日蓮仏法を取り戻すべきではないかと考えますが如何なものでしょう。

サンガと言えば、タイあたりで黄色の衣をまとった人たちが集まっている姿みたいなものを想像してしまうような未熟な私ですから、サンガそのものの意味を本質的にはわかっていないのかもしれません。しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもってバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のようなものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。
ネットのもつ匿名性は、節度さえあれば自由に発言はできますし、自分にとって意味を為さないと思えば去ればいいのですし、意味があると思えばオフ会等に出席して実際にお会いしてみることも可能なのですから、組織論理に拘束されない、場に拘束されないという点では有効に働くかと思います。

319今里祐二:2003/01/16(木) 02:21
独歩さん

(a)久遠元初とは何ですか。

釈尊の本因の時

(b)自受用報身如来とは何ですか

日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか

『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

(d)日蓮が本仏と何故言えますか

法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか

本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。

『祈祷抄』
『袋きたなしとて金を捨る事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取らざるべし。行者を嫌ひ給はば誓を破り給ひなん。』

(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。

否定などしていませんが、もしかしたら、僕は日寛教学を一歩進めたと言えるかもしれません。
「私が(他人より)遠くを見ることが出来たとすれば、それは私が巨人達の肩の上に乗っているからだ。」
とは、物理学者アイザック・ニュートンの言葉ですが、そんな感じで受け取ってください。

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

>(f)の答えと同じです。

(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか

「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
「仏である」だけで何故「本仏」と言えるか?については(i)で答えます。

(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。

『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。

>この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。

との事でしたが、「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。

(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

これに対する答えは(e)の答えと同じです。

以上、お答えしました。

>本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。

独歩さんの質問は、平成の今現在の時代状況の中で、大聖人様に直接お伺いしなければ判らない類のものが多く
答えに窮します。
鎌倉時代の、大聖人様の直接の対告衆へのお言葉の中に、適当なものが見つからないからといって
相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。

『女人往生抄』(真偽未決)
『問うて云はく、内外典の詮を承るに道理には過ぎず。されば天台釈して云はく「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。』

320今里祐二:2003/01/16(木) 02:23
独歩さんへ

ご質問します。

1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。

2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。

<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。

<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。

以上です。お答え下さい。

321今里祐二:2003/01/16(木) 02:38
みかんさんへ

>15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?

「成仏とは臨終に際して起こること」と聞かれると答えにくいです。
「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。

>16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。

「因位」と「果位」という事を考えてもらえば判ると思います。それで整合性はつきます。

322今里祐二:2003/01/16(木) 03:28
>>319 訂正

誤) 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
正) 仏身を離れて南無妙法蓮華経はありません。

323犀角独歩:2003/01/16(木) 09:45

祐二さん:

これだけ、衆目に恥を晒す人も珍しい。
「僕は日寛教学を一歩進めた」とは、それはよほど。寛師の文献を精査、読了されたのでしょうか。誇大妄想という言葉以外、思いつきません。

(a)久遠元初とは何ですか。

> 釈尊の本因の時

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(b)自受用報身如来とは何ですか

> 日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか

『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

これは要山の相伝です。
日蓮の御書と相伝の区別も付かないようですね。
また、ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。勘違いしているのでしょうか。

(d)日蓮が本仏と何故言えますか

> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。

日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。
日蓮の言を聞いているのです。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか

> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。

なぜ、差し支えないのですか。

> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。

> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。

仏身とは何ですか。


(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。

> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。

受け取れません。
寛師教学どころか、あなたの述べていることは異問異答の鰻理論、いわゆる外道の論議としか映りません。

だいたい、また、訳のわからないことを言って煙に巻いています。
では、あなたは日蓮が釈迦であると考えているわけですか。
そうではないのであれば、その「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。

324犀角独歩:2003/01/16(木) 09:46

―323からつづく―

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

> (f)の答えと同じです。

「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。


(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか

> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。


(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。

>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。

これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。

> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。

これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。


(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

> これに対する答えは(e)の答えと同じです。

答えになっていません。

> 以上、お答えしました。

私は日蓮の言で、と言ったのです。
それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。

>> 本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。
> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?

まず、日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。
また、私がいつ全否定しましたか。また、勝手に想像・憶測で、恰も私が言ったように記して罠を仕掛けるのはやめてください。

> 相伝

では、日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。

> 「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。

道理を表にすることを私は否定するわけではありません。
では聞きますが、700年も前の日蓮の事跡、文字(文証)で書かれたこと以外で、いったい、何で知ることができるのですか。言うところの道理は、文証を基礎にしない限り、知ることも考えることもできないはずです。だから、文証が重要なのでしょう。それとも、あなたは文証を離れて、日蓮の事跡を知り、ただちに道理によれると言うわけです。まさか夢や幻想に基づいているわけではないでしょう。

故に、引用される『女人往生抄』、また天台釈は、まず文証の正しい選定を基礎にして道理を考えるものであるはずです。しかし、あなたは文証は答えられない、けれど、道理だという。ここでいう「道理」は文証によらないわけですから、単にあなたの想像憶測で、そうあって欲しいという願望の賜物に過ぎません。そんなものは道理とは言いません。

以上、11の質問に就き、相も変わらず、聖人の言を引いていません。
道理という単語に名を借りたあなたの考えを書き連ねたばかりです。

もはや、これ以上、繰り返しても同じことでしょう。
要は、あなたの日蓮本仏という考えは、日蓮の言に依れない、夢想・想像の願望を「道理」という言葉でカモフラージュして肯定したものであると、私は考えるざるを得ない。なぜならば、日蓮の言に拠っていないので、日蓮の教えに従っているとは言えないからです

325みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/16(木) 09:49
>今里さん
一仏一土、仏の三身(法身・報身・応化身)、本地垂迹、久遠実成、本仏・迹仏、これらの概念は了解されているでしょうか。

「久遠」「元初」「自受用」「報身」「如来」。それぞれを理解されているでしょうか。

伝統的な天台法華宗の教理、そして伝統的な日蓮法華宗の教理を理解しないと、それの大胆な読替としての日寛の日蓮本仏説は了解がつかないと思いますよ。


あと、だれかが仏であることを証明できるのは、仏だけです。
他人が開悟したかどうかは、開悟した人にしかわからないからです。
それ故、禅門では、印可は師家しか与えられないのです。

326犀角独歩:2003/01/16(木) 10:02

祐二さん:

> 320

なんですか、これは?
また、「簡単な罠」という奴ですか(爆)

先にも、あなたが「日蓮を変なおじさんと言った」ときにも記したことです。

私は自分の言っていることに対しては責任は負いますので、自分の発言に就き質問されるのはわかりますが、自分が言ったことでないことを、“恰も私が言ったことのように”仕掛けて質問される“罠”には答えかねます。質問するのであれば、私が言っていることに就き質問してください。

320質問の構成は、実に誘導尋問の性格を帯びています。
的確な、私の過去の発言に基づくものに変えてください。
先に「罠を仕掛けた」と公言して憚らないあなたです。
ここは、私も用心してかからせていただきます。

しかし、それにしても、(2)の質問を読んで思ったのですが、先には「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」と記していましたが、今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

327今里祐二:2003/01/16(木) 12:58
>今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

不正な事の代表事例として挙げているのです。

独歩さんのお考えは以下のようなものですね。
>>42
>戒壇之漫荼羅は疑わしいと言われれば、真筆である証拠を示せばよいのです。
>唯授一人は疑わしと言われれば、事実である証拠を示せばよいのです。
>真偽未決・相伝書が日蓮の教えでない言われば、その証拠を示せばよいのです。
>法華経は後世の創作であると言われれば、釈尊の真説である証拠を示せばよいのです。

>>306 で、初めて質問した時の反応はこうでした。

>仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。

独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

再度質問します。

1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。

2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。

<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。

<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。

以上です。お答え下さい。

328犀角独歩:2003/01/16(木) 14:42

祐二さん:

>> 仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。
> 独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

何の証拠をですか。
言いがかりはやめてもらいたいですね。
あなたは仏徒ではないと言ったまでです。

そして、あなたが言う「道理」は、日蓮の言を挙げない自分自身の考えに基づくものであるわけです。そして、さらにそれは寛師よりも優れたものであるそうですね。たしか、日寛教学全面肯定であったはずが、いつの間にか自分の考えのほうが優れている変わってしまいました。これから、どんなふうに変わるんでしょうかね。

再度の質問とのことですが、あなた、日本語がわかりませんか。
私に対する質問の形に変えてくださいといったのです。

329犀角独歩:2003/01/16(木) 14:43

質問を変える理由については、既に326に記したとおりです。

330無徳:2003/01/16(木) 15:23
satさん今日は:

>三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念で
>すが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えに
>くいものと思われます

>言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さ
>ないという事は、表裏一体なのだと思います。

とのことその通りでしょうね、私も決して創価学会も総本山側も歴史的
総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。
ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。

>私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも
>思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換
>済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか

とのこと、おそらく創価学会内部におられる方々はsatさんとほぼ同様
な感じを抱いているであろうことは想像されます。何故かならば現在の
鵺的な日本社会においては、独裁的権力があからさまな形で現前する事
は有り得ないと思われるからです。(国家権力そのものが鵺的)その為に
何処をどう攻めたら変革が可能になるのかさえ判りません。

したがって、権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず結果と
して官僚化し制度として自己正当化を図ってしまうという最悪の状況と
言えます。このことは現在の日本の若者達が自らのレゾンデートルを得
られない為に、そのエネルギーの捌け口が見つからないところから来る
フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れま
せん。

>しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもっ
>てバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示
>板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のような
>ものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。

本当にそうですよね!問答名人さんが別のスレッドでこの掲示板の存在
そのものが富士門流の再構築に繋がっているとの趣旨の発言をされてい
ましたが同感です。更にこの掲示板の在り方そのものが現代的サンガの
萌芽であると私も感じています。大いなる期待を込めて私も参加させて
いただいております。

331犀角独歩:2003/01/16(木) 21:27

なぜ、私は今里さんの質問に答えないかを、ちょっと補足しておきます。

すぐ前で言えば、327において、今里さんは私に対して、

> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか

と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。

この(1)の質問は、実は私の言葉ではなくて、質問者今里さん本人が言った言葉なのです。すなわち、306に

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない

このように私に問いかけているわけです。私はこれに対して、315において

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…

「これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう」

と応じています。ところがこの今里さん自身が言い出した言葉は、恰も私が言った言葉の如くに扱い、320において、私への質問と姿を変えます。そして、その質問はまた327において繰り返されています。それが(1)の質問です。

自分の言った言葉の意味を相手に問うという、この異常な在り方に、私は何度となく、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と記してきたのにも拘わらず、自分が言った言葉の意味を私に問うという通常ではあり得ない質問を投げかけたわけです。

自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。なぜ、あなたが言った言葉について、私が答えなければいけないのですか。

あなたのこのような狡猾な罠を仕掛けては、自分に有利なように議論を運ぼうとする。先には日蓮を「変なおじさん」と言い、恰も私がそのように考え言っている如き印象をロムの人々に与えようとするあくどい手段も取っています。私はこのような不正直な態度は日蓮本仏を真面目に考える人々に対する裏切り行為であると指摘しておきます。

そして、自分が言った言葉を恰も私の言葉のように繕いながら、自分の言葉である「釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠」を「今里祐二は末法の本仏」・「池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録」とどこが違うのかという質問を投げかけています。ここで実に不誠実であるのは「今里祐二は末法の本仏」という自分の言葉に就き、327において「不正な事の代表事例として挙げている」と言っている点です。つまり、この質問はどのように答えても、答えた相手は不正な事を弁明したように仕組まれていることがわかります。

このスレッドは213に管理人自ら「当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望」と仰っている。私も、今里さんとの議論が始まったのち、296において、「正々堂々と論じ合いましょう」と私は呼びかけた。それにも関わらず、あなたは実に卑劣な罠を仕掛けてきた。。

自分で言った事を恰も私が言ったようにして質問し、その誘導は間違いなく不正な弁明とレッテルが貼れるように仕組まれた狡猾な質問。私は、この在り方を公然と批判するものです。あなたの態度は日蓮本仏論者の面汚しです。


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