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つぶやきすれっど2
171
:
ワラシナ
:2002/12/30(月) 16:07
no151 犀角独歩さん発言の下記部分に触発された呟き。
ー「おまけに信仰上で「である人」は「だった人」には懐疑的になるように組織的に訓練されていますからね。なおさら伝わらないのでしょうね。ー
0、特に、、「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という部分の表現の適確さに感心した。学会顕正会を通して、教団権力維持のため奴隷的青年部だけを意図的に組織現役者に選別していたように思う。顕正会に入った時が、初めて本当の自覚的入信動機を持った時だったが、それ以前10代後半から20代前半までは知識と教養がまるで欠けていたから、他の教団員の組織体験談の微妙な部分の意義が、当時は分からなかった。が話は確実に記憶にとどめていた。
1、具体的に言えば、会内の権力が戸田路線から池田路線に変節した事に反発していた人々の話の意義がわからなかったのである。もし当時これがわかっていて、自分らしい生き方ができていたら、色々な意味で自分の可能性、才能開花に役立つような未知な人々との善い出会いが早くやってきて、もっと中年期の現在を輝かせていた筈だという後悔になっているのである。
2、そこでなぜ、あの時そういう知恵が湧かなかったのか、今となって色々反省するのであった。その理由として、三つ考えた。
2−1、言わば青年初期の心理として、これから未来に向かっていこうとする時の生き方にある、一種の本能指向性の欠点面というか「大きく賑やかでエネルギーとパワーを感じさせるような集団に身を寄せれるのが暗黙のベスト選択とする」という生き方の持つ危険性に無知だった事、と思うのである。誰も「しょぼくれた寂しそうな世界」に飛び込んでいこうとはしなかろう。そう思って自分は、学会の中でははやりそうで元気そうで、自分の可能性が開かれそうな世界と人を選んで接触を求めていったのだけれど、内部反体制派を心の中では軽視していたのであった。(彼らの話の真実を知ろうともせずに、、これが、今となっては大失敗)理由は、といえば、恥ずかしい話、簡単に言えば、自分が組織奴隷青年部だったから、に尽きる。「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という文言を胸に突き刺さるように感じてしまった背景には以上の前提が働いているのである。
2−2、上のように愚かで浅はかな判断しかできなかった事の理由として大きいのは、文芸的な教養の欠如だったと思う。あの当時もっと長編小説や詩歌や推理小説など読書のつみかさねがあったなら、もっと「臆病で?マイナーな生き方のもつ積極的価値」に気づけただろうと後悔している。
2−3、自分には孤独僻があって友人を積極的に増やそうとしなかった事。先輩の忠告助言の意図真意がその当時は全く理解できていなかった事。その理解できていなかった事をその場で問いたださず聞き流してしまっていた事。ただ、先輩の話の方にも自分の失敗談を入れるなり表現技術上の一工夫が必要だったとは、思うのだが、これは5年年上の学生部だと同じ青年同士になってしまって、人生全体が駄目になる本格的失敗談は体験していないので、これは初老期の先輩との交流不足の必要を物語っていると思うのである。
172
:
こまった
:2002/12/30(月) 20:17
独歩さんの諸山の呼称に少々補足を。
保田妙本寺=房山ボウザン、保田ホタとも
大石寺=石山セキザン、大石オオイシ・ダイセキとも
これらは堀日亨さんの使用した呼称であり、蔑称でもなんでもありませんね。
石山の蔑称は「お山」「上野」「上野村」というもので、これは根檀家が使っていたんですよ。
多山はたいてい「ダイセキジ」と呼んでいましたし、「セキザン」と呼ぶのは他の富士七本山での呼び方ですね。
「お山」は「御山」ではなく「お山の大将」という意味合いだったみたいですね。
モモさんに「セキザン」を蔑称などと教えた人がいるならば、それはシッタカでしょうね。
しかも宗旨も宗史ほとんどなにも勉強していない六百代言です。
歪な「言葉狩り」などする必要はないのですよ。
どうせなら「偽信心・偽仏法狩り」をしたらいかがでしょう。
もちろんこの「偽信心・偽仏法狩り」は、今の石山に向けてということですが。
言葉だけの「大慈大悲」なんてイッセンダイゲンですからね。
「だった人」に対する色眼鏡、それがその信仰を如実に物語ってしまうのです。
173
:
こまった
:2002/12/30(月) 20:18
訂正です。
多山→他山
174
:
こまった
:2002/12/30(月) 20:59
いい忘れです。
明治維新以前の石山信徒は「ホンザン」と呼んでいたようです。
けっして「ソウホンザン」ではありません。
なにしろかつての大石寺は身延山久遠寺の配下・末寺だったわけですからね。
もっとも身延だって「ソウホンザン」と呼ばれていたわけではないのですが。
身延が祖山とよばれ権力をもったのは不受不施問題で池上に完勝してからでしょう。
もちろんそのころの石山は不受不施を嫌い、国諌も嫌い、身延の尻尾にぶらさがっていただけでした。
日奥や日親のように純粋に不受不施義を唱えるようなことをせず、保身だけを考えていたのが石山でした。
それでも所詮は田舎寺の悲劇で日蓮宗内で力をもったことは一度もありませんでしたし、ご開帳で繁盛したようすもありません。
なにもかもが中途半端だったのが石山の歴史です。
それは借り物ばかりで創作した教義のためだったのかもしれませんね。
つまり石山には「日蓮」という「バックボーン」がなく、あったのはパッチワークだけだから無理もないですが。
石山系以外から石山はけっして差別されていませんでした。
それどころか相手にもされていなかったし、だいいち存在すらほとんど知られていなかったのです。
興門系では苦々しく想ってはいたでしょうね。
なぜあんな寺が「ミデラまがい」の勝手をゆるされるのか、と。
これは菊水さんの領分ですね。
でも、その部分は、今の大石寺にはもう残ってはいないわけですし、石山住職も知らないわけです。
175
:
犀角独歩
:2002/12/30(月) 22:17
ワラシナさん:
コメント、有り難うございます。
参考になりました。
過日は久しぶりにお会いできて、たいへんに嬉しく思いました。
お体の調子が思わしくないと伺っていたのですが、お顔を拝見する限り、元気そうで安心しました。もっと、お話をしたかったのです。是非、またお会いしたいと思っております。
176
:
犀角独歩
:2002/12/30(月) 22:23
こまったさん:
補足有り難うございます。
本門寺といえば、池上も讃岐(高瀬)もあり、これまた、地名で呼ばないとわからなくなります。こんな例は枚挙が暇がありませんね。
あと、石山でも、売店のある辺りは、「新町」と言って、境内地と区別するなんてこともありました。
一つ、私が意外だったのは「お山」が蔑称であるということ。私は生まれながら、「日蓮正宗創価学会」員であったのですが、子どもの頃、石山に行くこと…つまり登山会ですが…を「お山に行く」と行っていたものでした。この言い方は学会では一般的であったと記憶しています。
それと、北山などが「上野方」などというのも蔑称であったわけですね。なるほどな、と思いました。
177
:
犀角独歩
:2002/12/30(月) 23:02
○呼称が信者の心を操作している
169に日蓮の呼称について、少々記しましたが、それに就き、こまったさんに「言葉狩り」という観点で整理していただき、「あ、そうだな」と思ったのです。
こんなことがありますね。
学会では池田さんを「池田先生」「池田名誉会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触します。
同じく顕正会では、浅井さんを「浅井先生」「浅井会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触することになります。
石山では顕師を「御法主日顕上人猊下」と呼ばないと、これまた宗の信心に抵触することになります。
これはまた、やめた人間はひどく抵抗するところで、学会をやめた人は「池田先生」とは言いたくない、顕正会をやめた人は「浅井先生」とは言いたくない(菊水護国さんは例外!(笑))
石山を離れた坊さんも顕師を「管長」とか「阿部法主」とか言い方に苦慮しています。
つまり、これはその尊称、呼称に既に大きな意味が孕んでいることと、服従・違背という両極にある“信仰であると信じ込まされた感情”が蠢いているからでしょう。つまり、どう呼ぶかによって、既に心理操作が可能になっているという点を聡く看取することが大切なんでしょう。
やめた人でも、演技でも『先生』と何度も絶唱していると、熱烈に崇拝していたときの感情がこみ上げてきます。ところが元学会では池田さん、顕正会では浅井さんに、対するかつての思いが、と異なることになります。
言葉による操作は、人心操作の基本です。しかし、これは宗教だとか、信仰ではありません。心理操作なのです。その操作技術を宗教団体が使っているのに過ぎません。
このように各個人に以前とひそむ心理の正体が何であるかを見極めることは意義のあることだと思います。
けっして被害者運動をここで展開しているとか、そんなことではなくて、そのように思うわけです。(この最後の一節はやーこさんを批判する意図は、もはやありません。しかし、そのように考える複数の人がいれば、その人に向けた言葉であると理解されることは、敢えて否みません)
178
:
菊水護国
:2002/12/31(火) 02:26
> これはまた、やめた人間はひどく抵抗するところで、学会をやめた人は「池田先生」とは言いたくない、顕正会をやめた人は「浅井先生」とは言いたくない(菊水護国さんは例外!(笑))
失礼な(爆)。私が浅井さんを浅井先生と呼ぶのは、酔っ払ったときだけですよ(笑)。
でも酔っ払うと本心が出ると言いますから、私って、結構潜在的には未だ浅井さんの弟子なのかしら(笑)。
179
:
犀角独歩
:2002/12/31(火) 11:32
菊水護国さん:
「自分は住職のことを先生と呼ぶ」と言っていたでしょう。
私は講に就いて、いちばん最初に直されたのはこの点でした。
学会では僧侶を「先生」と呼ぶことで統一されていたんですが、講では「御尊師」
(オウム事件以降、この尊称は(笑))
役員になったとき、住職を御尊師と呼ぶことは徹底できたのですが、所化さんの呼び方が各人まちまちになっていたので住職指導で統一しました。結果は教師補任式を終えた僧は「御尊師」それ以前は「尊師」というものでした。
しかし、たぶん、これは菊水護国さんならば直ちに気づかれるでしょうが、石山の一般的な呼称とは違っていますよね。教師になっていない場合「さん」付けが普通ですものね。まあ、かなり気を遣って統制をしていったわけです。
けれど、菊水護国さんから「先生でいいじゃないの」と言われたとき、実は私は目から鱗が落ちる思いがしたわけです。いいわけですよ、ほんとに。そんなことはどうでも。
地方では坊さんをみな「上人」と呼ぶところがあると『法華講随感』にも記されていました。日蓮の時代は「御房」、順師に係るとされる文献では「和尚」と見えます。
石山大奥では「御法主上人猊下」なんて呼ばず、「御前様」。これは本山格であれば、他でもそうですね。
風情、敬愛の情が表せれば、それでよいのでしょうね。
それを「○○と呼ばなければいけない」とする頑なな決めつけを、どうしてするのかを考えてみることですね。菊水護国さんの「先生」の呼称は、学会とか、顕正会のそれとは違い説得性があったものです。
また、脱けた人は、元いた集団の指導者を出来るだけ敵意を篭めて呼ぼうとします。これまた、見苦しい。
私は実際に現役と喋るときは、その人が呼んでいる尊称を付けて指導者は呼ぶことにしています。ただ、現役と違うのは尊称を付けても批判するところはしっかり批判すると言うことです。通常、批判する場合、信者が敵意を懐くような呼称で呼びながらすることになりますが、私はそうしない。彼らが尊敬の念を表す呼び方で批判をするわけです。このアンバランスに相手は通常、戸惑います。この戸惑いは尊称に刷り込まれた心理操作に由来するものでしょう。
まあ、そんな意味で菊水護国さんが酔っぱらったとき限定付きでも「浅井先生」とさらっと言えるのは、まったくそんな心理操作に引っかかっていないからでしょうね。よい模範だと思うわけです。
阿諛と揶揄、そこに潜む心理操作の罠にご注意というところでしょうか。
180
:
菊水護国
:2002/12/31(火) 12:42
独歩さんの仰るとおりだと思います。
呼び方にこだわるのは、本音では僧侶を敬ってない、建前で敬ってるから・・・なんて言ったら言いすぎでしょうが。
また、脱けた組織はもちろん、敵対する組織を揶揄するのも見苦しい。
たとえば、顕正会=犬性会等です。昔、妙観講は「痴犬」と呼ばれた事に対抗して顕正会をこう呼びました事は皆さんご存知だと思います。
しかし、相手に合わせるのはそのまま「相手の土俵に乗る」事になって、同じレベルになってる事に気づいているのであろうか。
さて、私は確かに正宗はもちろん他宗でも全ての御僧侶を「先生」と呼びます。ただし、我が住職だけは「お師匠」とお呼びする場合もあります。
私は某講に所属してたとき、皇室・伊勢問題議論で、信仰も精神もおかしくなりかけたとき、現在のお師匠の一言に救われた過去があるから、自然にこう出る訳ですが。
何気に信仰を始めた方はここまでの思いは中々無いと思いますので、とりあえず「先生」とお呼びしておけば良いんでは無いでしょうか。後は全て自然にお呼びしたいようにお呼びすれば宜しいんでは無いでしょうか。別にこだわる必要は何も無い。
181
:
犀角独歩
:2002/12/31(火) 13:39
「お師匠」…、美しい言葉ですよね。
寺にいたとき、所化さんが「おっしょさん」と住職を呼んでいる姿が好きでした。
当初、「おしょう(和尚)さん」と呼んでいるのかと思い、変だな思っていたんです。
でも、途中から「おしししょう(お師匠)さん」が「おっしょさん」と聞こえるのだと気づきました。まあ、私は「御前様」というのも案外好きですね。
けれど、講では住職を菊水護国さんのように「お師匠」と呼んだり、石山住持を「御前様」などと言おうものならば「僭越だ」という非難が帰ってきますね。こんなうるさいところはさっさと去るに限ります。
私は日蓮宗僧には「上人」と呼びかけます。石山僧や、正信会僧には会えば今でも教師なら「御尊師」を使いますね。まあ、会う石山僧は限られていますが(笑)
ぜんぜん関係ありませんが『男はつらいよ』で柴又帝釈天こと経栄山題経寺の住職役を演じる笠智衆に皆は「御前様」と呼びかけています。微笑ましい場面です。
富田常雄原作で黒澤明が撮った『姿三四郎』、道場代わりにしていた寺の住職を、三四郎達は何と呼んでいましたっけ? まあ、姿三四郎といっても知っている若い人は少ないのかもしれませんが。
こういうところ、世間は鷹揚なのに、カルテッィクな集団であればあるほど、呼称に拘ります。会社でも役職で呼び合う日本は外人から見ると奇異なのでしょうね。
日本のNGOなんかでも、「さん」付けを推進していますね。略歴は紹介しても、呼びかけは「さん」。坊さんが在家から「さん」付けで呼ばれるのは締まりませんが、それでもそれなりの教導が出来れば、それはそれで大したことでしょうね。
ようやく、ツブヤキになりました。
182
:
犀角独歩
:2002/12/31(火) 13:39
間違えました(笑)
「おしししょう(お師匠)さん」は「おししょう(お師匠)さん」です。
183
:
菊水護国
:2002/12/31(火) 14:04
日蓮正宗の旧檀家さんに聞くところによると、大石寺に限らず、末寺でも昔は「御前」と呼んだそうです。
全ての寺院は「一山の御前」だからだそうです。
末寺住職は「御前様」、法主は「御山の御前様」だったそうです。
さて、呼び方といえば、昔のテレビドラマ西遊記で境正章演じる「孫悟空」が、夏目雅子演じる「三蔵法師」に「おっしょさん」と呼んでるように聞こえましたが、これも「お師匠さん」なんでしょうね。
184
:
菊水護国
:2002/12/31(火) 14:06
> 富田常雄原作で黒澤明が撮った『姿三四郎』、道場代わりにしていた寺の住職を、三四郎達は何と呼んでいましたっけ? まあ、姿三四郎といっても知っている若い人は少ないのかもしれませんが。
うーん。見た事はあるんだけど覚えてないな。ビデオ出てたから借りて見てみようかな。
185
:
問答迷人
:2002/12/31(火) 21:02
昨年の12月31日に、僕は次のように書き込みました。
>151 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/31(月) 23:10
>36206 ゲットしました。
今現在のアクセス数は、116483です。差し引き、この一年間で80277のアクセス数がありました。一日平均約220アクセスです。
皆様のご利用を厚く感謝致します。来る2003年も、引き続き皆様の活発なレスを頂戴出来ますことを切望致しております。
新年に入りましたら、過去ログに、2002年12月31日までの全レスを保存する予定です。合わせてご利用賜れば幸甚に存じます。
116783 ゲットしました。
186
:
犀角独歩
:2002/12/31(火) 21:46
問答名人さん:
本年も本当にお世話になりました。
随分と勝手な投稿をさせていただいたのにも拘わらず、いつも寛大に接していただきましたこと、深く御礼申し上げます。
私は年末・年始、押している仕事があり、休みも取れない状況です。
けれど、昨晩は風邪をこじらせ、12時間もたっぷり寝、昼近く起き出し、少しこちらに投稿させていただき、また、夜まで寝てしまいました。これで年末・年始の休みを終わらせないと仕事のけりが付かなくなります(笑)
いま、こちらを拝見させていただいたところ、問答名人さんの書き込みの時間は午後9時。私が講の役にあった頃はとうに寺院に入っていた時間でした。本年はゆっくりと、年の過ぎていく時間に浸っています。
思えば1年の重要な節々を常に組織のために過ごしてきた自分が、たっぷりと寝、ゆっくりと行く年・来る年を味わえるのことに、不思議な思いがあります。これはまた、問答名人さんとの出会いも大きく一因をなしたことでもあります。
お体のお加減は如何でいらっしゃいますか。明年もさらなるご活躍を期待いたしております。
有り難うございます。
187
:
問答迷人
:2003/01/01(水) 12:29
掲示板御参加のみなさん
新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞ活発な御議論、宜しくお願いいたします。
犀角独歩さん
>午後9時。私が講の役にあった頃はとうに寺院に入っていた時間でした。
僕も、例年はとっくに寺院に出向いていた時間です。昨秋より、寺院参詣を停止いたしましたので、自宅で新年を迎えました。
>たっぷりと寝、ゆっくりと行く年・来る年を味わえるのことに、不思議な思いがあります。
僕にとっては、これは独歩さんと出合わなかったら、あり得ないことでした。独歩さんの指摘によって、大石寺門流の淵源に疑問を持つことがなかったなら、そのからくりに気づくことも出来なかったからです。
>お体のお加減は如何でいらっしゃいますか。
ありがとうございます。お陰様で、かなり回復していますが、まだ、長時間座っているのは困難です。仕事には、全然差し支えない状態にはなっています。
本年は仕事に掲示板に、心機一転、取り組みたいと決意しております。(おやおや、まだ、創価学会の習気が抜けずに、正月早々、決意発表をしてしまいました)(笑)
188
:
犀角独歩
:2003/01/01(水) 15:38
問答名人さん:
明けましておめでとうございます。
自分のためのお正月、なかなか、好いものですよね(笑)
190
:
さかなこ
:2003/01/02(木) 00:52
あけましておめでとうございます。今年も去年に引き続いてROM専で
行きますので宜しくお願いします(笑)
初詣は鶴岡八幡宮と円覚寺に行ってきました(笑)
相方が気を遣って可愛い羊型のお守りを買ってくれました。可愛いお守りコレクションが
また増えました^_^;
私自身はおみくじを信じてないのでいつも引きたくないのですが
(悪いのが出ると不愉快だから(笑))相方が引きたがるので引いたら
案の定「凶」でした。いつも何故か凶ばかりでしょぼーん。。(笑)
円覚寺は以前、独歩さんが坂本弁護士一家のお墓があるとお話されていたので
行ってみたのですが係りの人に聞いたら工事中らしいとか場所がわからないとかで
断念してしまいました。とほ。
夜は新年のお食事を祖母をしました。祖母は戸田時代からのばりばり会員ですが
改めてその凄さにショックを受けて帰ってきました(>_<)(>_<)
終始「福運、宿業、宿命、功徳」を連呼してました。ふう。
とりあえず祖母が親じゃないだけよかったとご本尊に感謝しておきましゅる(笑)
両親はまだ寛容なので。。汗汗
191
:
モトミナ
:2003/01/02(木) 00:59
新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
192
:
モモ
:2003/01/02(木) 05:48
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいいたします。
193
:
モモ
:2003/01/02(木) 06:37
犀角独歩さん
あけましておめでとうございます。甚深のレスを拝見しました。ありがとうございました。
私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」というようなことです。
学術的に用いるならばともかく、一般的な呼称ではないように感じます。
最近の大日蓮など、「石山」という表現は拝見したことがありません。
また大石寺の山号は先にもありましたが「大日蓮華山」であり、「石山」ではありません。
「石山」を連呼し、「石山僧」「石山組織」「石山法華講」など、このような用法は蔑視、揶揄しているように感じる人もいるでしょう。
「石のような山」「石のように頭が固い僧」「石のような組織」など。なるほど確かに今の大石寺、日蓮正宗は石のように頑固で部外者を排斥するようなところがあるかもしれません。
「名は体にいたる徳あり」というような言葉が御書にあったと思います。
言葉は変化していきます。たとえば「おみおつけ」は「御御御付け」と書きます。言葉が変化していった例としてあげられると思います。
一般的呼称として「石山」を連呼するのはどうかと思いますが。
あと私は「大石寺」とは広宣流布、本門寺顕現への夢のある呼称として気に入っています。
「日蓮正宗」はセンスがないと思います。だからたとえば「日蓮正宗信者」というより「大石寺信者」という方が気に入っています。
194
:
モモ
:2003/01/02(木) 06:54
>私は実際に現役と喋るときは、その人が呼んでいる尊称を付けて指導者は呼ぶことにしています。ただ、現役と違うのは尊称を付けても批判するところはしっかり批判すると言うことです。通常、批判する場合、信者が敵意を懐くような呼称で呼びながらすることになりますが、私はそうしない。彼らが尊敬の念を表す呼び方で批判をするわけです。このアンバランスに相手は通常、戸惑います。この戸惑いは尊称に刷り込まれた心理操作に由来するものでしょう。
私もこの意見には賛成です。ある御僧侶が「池田大作(氏)のような大謗法者は呼び捨てでいい」と仰せになったそうですが、私はどうかと思います。
大百法や慧妙、創価新報、聖教新聞でも「池田大作氏」「日顕上人」「日顕師」などとするべきであると思います。
195
:
犀角独歩
:2003/01/02(木) 21:40
モモさん:
> 私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」
だから、いったい誰から聞いたのですか。
> 学術的に用いるならばともかく、一般的な呼称ではないように感じます。
学術的とは、どの程度を指すのかわかりませんが私が「石山」等の略記の使用は通日蓮教学における“一般的な”使用です。さらに狭く富士門一般の僧俗が寄り集まって議論をする場合、以上の略記はごく一般的なことです。また、私が石山僧、あるいは正信会僧などと話す場合も、普通に使用している言葉です。
モモさんが言う一般的とは「日蓮正宗」僧俗一般よりもさらに狭い自分の考えに過ぎません。
> 最近の大日蓮など、「石山」という表現は拝見したことがありません。
『大日蓮』には編集部で独自に定めた表記があります。
また、雑誌編集一般の常識として、略記、略称は使用しないのは通常のことです。
この編集の常識と、口語に近い、掲示板の記述を同様に語ること自体、おかしなことです。
> 大石寺の山号は先にもありましたが「大日蓮華山」であり、「石山」ではありません。
そんなことは誰でも知っていることでしょう。
「石山」は略記、あるいは略称なのであって、誰も山号であると言っていません。
いずれにしても、モモさんは亨師を批判していることはよくわかりました。
> 「石山」を連呼し、「石山僧」「石山組織」「石山法華講」など、このような用法は蔑視、揶揄しているように感じる人もいるでしょう。
どこにいるのですか。もし斯様な人がいれば、略記が蔑視、揶揄であるという偏見を持っているだけのことでしょう。つまり、それはモモさん自身が持っている偏見です。
> 「石のような山」「石のように頭が固い僧」「石のような組織」
そう。モモさんは大石寺を思っているわけですね。
しかし、石山という語彙を使用する人が思っているわけではありません。
> 「名は体にいたる徳あり」というような言葉が御書にあったと思います。
略記、略称とは、まったく関係ありません。
> 言葉は変化していきます。
これもまったく関係ありません。
また、あったとしても、「石山」などの語彙を使わない理由にはなりません。
> 一般的呼称として「石山」を連呼するのはどうかと思いますが。
何度も繰り返しているとおり、略記、略称として使っているのであって、一般的呼称であるとは言っていません。
こんなことで「どうかと思います」とケチをつけるほうが、よほど「どうかと思います」。
また、この言葉は、先にも記したとおり、石山59代亨師を批判する言葉であると受け止められます。
当掲示板のような、異種の価値観、思考をもっている人の議論の場で、学術的に、また、通日蓮教学で“一般的な”記述を、自分の語彙使用法以外を認めない言葉狩りに応じる気はありません。
今後とも、私は「石山」その他の語彙を使用します。
しかし、それは軽蔑でも、侮蔑でもありません。
196
:
犀角独歩
:2003/01/02(木) 21:44
> 「池田大作氏」「日顕上人」「日顕師」
一般的な表記というのであれば、
「池田大作氏」は宗教法人創価学会名誉会長池田大作氏
「日顕上人」「日顕師」は宗教法人日蓮正宗阿部日顕氏(師ではなく氏)
となるでしょう。
自分の所属する宗派の長は「上人」「師」といい、他団体の長は「氏」とする、このような扱い方こそ、まったく一般的とは言わないのです。
197
:
犀角独歩
:2003/01/02(木) 21:46
【196の訂正】
誤)宗教法人日蓮正宗阿部日顕氏
正)宗教法人日蓮正宗総本山大石寺(66世)阿部日顕氏
198
:
菊水護国
:2003/01/02(木) 23:11
モモさん。
石山は、決して蔑称ではありません。
うちの住職も「石山教学では」等と使用することは多々あります。
> 私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」というようなことです。
とありますが、どなたから聞いたのでしょうか。その方が間違っていると思います。
また、文献はどこにお有りでしょうか。
日蓮正宗において「石山は蔑称だ」等という考えも通説もありません。
「私は誇りを持って、石山の信徒です」と云えます。これはおかしいですか。
199
:
犀角独歩
:2003/01/02(木) 23:30
自己レスです
> 編集の常識と、口語に近い、掲示板の記述を同様に語ること
やや補足すれば、亨師の富要の記述「石山」等は口語体であるというより、通日蓮教学における一般的な記述です。
たぶん、193の「言葉は変化していきます」というのは、この亨師の記述に係るのではないのかと思いますが、別段、この点については何ら変化していません。
いずれにしても、このようなことは、言い張ったり、拘ったりするほどのことではないでしょう。
枝葉末節の言葉尻をとらえられて、つまらぬ個人攻撃をされているようで、好い気分はしません。
200
:
歌右衛門
:2003/01/03(金) 12:34
以前にレスをした者です、仕事で忙しくお礼のレスが遅れましてどうもすいませんでした。
以前のレスの続きなのですが、いままでのみなさんのレスを読んで、思うのですが、
苦しんだ挙句、学び、思惟のはてに辿りついた思考がいままでのレスなのでしょうか、
私は、いま悩んでいる事があるんですが、アドバイスして頂けないでしょうか、
現宗門から身延に移りたいのですが、どうなのでしょうか?
201
:
犀角独歩
:2003/01/03(金) 13:59
歌右衛門さん:
はじめまして、でよいのでしょうか。
私は学会35年、石山5年で、独歩の道を選びました。
そこに至るのは筆舌に尽くせない苦悶の選択がありました。
歌右衛門さんは、何を悩んでいらっしゃるのでしょうか。
また、石山から延山への転宗は、何を基準にお考えになられているのでしょうか。
もちろん、その点を否定しようなどと言うことでは毛頭ないのですが、参考にお聞かせください。
202
:
歌右衛門
:2003/01/03(金) 15:25
早々の返事ありがとうございます。
戒壇大御本尊が日蓮聖人、真筆でないとすれば宗門の教義は後に作られた、日蓮とは、まったく関係のないとんでもない代物、こんな物を信じれば信じるほど、
不幸になるのは必然、まして公平かつ平等な社会の作るなど無理、ほんとうの日蓮が後世の者に伝えたかったものは、何か、こんな事を悩んでいます、
転宗の基準は、前項からも、察していただきたいのですが、現宗門には日蓮聖人が後世に伝えたかったものはないのでは?
であるならば日蓮の教えを求めたい、そんな衝動に駆られるのです、おかしいでしょうか?
ならば触れるだけ腐ってしまうよう気がする宗門から離れてたいと思うのですが、身延に行っても嫌なこともあるのでしょう、
ふといろいろ考えてしまうのですが。
203
:
犀角独歩
:2003/01/03(金) 15:38
歌右衛門さん:
お記しのところ、共感するところも多々ございます。
ただ、石山に真実はないけれど、延山にはあるというのは、やや短絡ではないでしょうか。檀家制度に甘んじてきた日蓮門下全般、そこに日蓮の祖意があるのでしょうか。
私はここで問答名人さんとともに、その点を考えてきました。日蓮の祖意は何か、その難問について考えてきた2年間でした。そこでたしかに言えることは宗派教団指導者の都合で語るご都合主義には日蓮の祖意はないということです。
宗派、集団、指導者によらず、まずは日蓮の祖意を考え、それからゆっくりと共に歩むべき朋友を求めることが大切ではないのかと私は考えます。もちろん、元より、私の管見に過ぎませんが。
204
:
問答迷人
:2003/01/03(金) 16:10
107074 ゲットしました。
205
:
問答迷人
:2003/01/03(金) 16:21
歌右衛門さん
>身延に行っても嫌なこともあるのでしょう、
僕もそんな気がします。どの宗旨、宗派にも、もはや日蓮聖人の祖意はないように思えます。
独歩さん
>宗派、集団、指導者によらず、まずは日蓮の祖意を考え、
そうして日蓮聖人の祖意、さらに遡って、釈尊の悟りを求めることが、一番日蓮聖人の歩まれた道に近いのではないのでしょうか、そんな気がしています。
206
:
問答迷人
:2003/01/03(金) 16:30
歌右衛門さん
メールでご案内しましたが、1月5日に名古屋オフ会を行います。参加されませんか?詳しくは、「オフ会 開催案内」スレッドをご覧下さい。
207
:
歌右衛門
:2003/01/03(金) 16:45
犀角独歩さま
そうそうの返事ありがとうございます。
おっしゃるとうりだと思います、
朋友を求める、そんな事を考えたこともありました、しかし物理的にネット上でしか得られないと思うのです、
地域、時間の違いそれを埋める事ができるのはネット、
しかし近隣で宗門や宗門が生んだ学会の被害者が多いこと、しかし被害者たちは、自分が被害者と思っていない
そんなどうにもならない事を見るにつけどうしたらいいのか、どうにもできません
これからどうしたいいのでしょうか?
いいアドバイスがあればいただけます?
208
:
犀角独歩
:2003/01/03(金) 17:03
歌右衛門さん:
どうぞ、「さん」付け、私もそうさせていただきます。
> 朋友…物理的にネット上でしか得られない
ええ、斯様に存じます。
今後の世界ではこのネット上に、サンガが現出する可能性を私はいちばん考えております。徹底した議論が出来ること、ネットは節度と約束を守って使えば、これ以上の利便的な場はないでしょう。集団のための個人ではなく、個人のためのサンガ。その可能性を、私は問答名人さんが設けられるこの場に見ております。
集団と指導者のためではなく、各個人のために、また各個人が個として連なる場こそ、サンガなのであろうと私は思います。
集団の代弁者ではなく、自利が利他を兼する場とネットはなり得るでしょう。もちろん、まったく逆の働きをするような運営の場もあります。利ある場を選び取るところから、個人の自由は始まっていると思うわけです。
209
:
犀角独歩
:2003/01/03(金) 17:04
> 205 問答名人さん:
まったく同感です。
210
:
2chより
:2003/01/03(金) 20:12
2ch創価板よりコピペ
>119 :不甲斐ない一法華講員 :03/01/03 18:59 ID:v43amsm5
>ご尊敬申し上げる法華講の皆様にお願いいたします。
>富士門流信徒の掲示板において、
http://jbbs.shitaraba.com/study/364/
>犀角独歩なる人物が
>1日蓮は、本仏ではない。
>2戒壇の大御本尊は、偽者である。
>3口伝や相承書は、すべて偽書である。
>4唯受一人血脈相承は、まったくの嘘である。
>5僧侶は、信徒を蔑視している。
>6登山を強要し、大御本尊を金儲けの手段にしている。
>7石山は、カルト教団以外の何者でもない。
>などなどの数々の暴言を吐いております。
>ところがこれに反論できる信徒や僧侶が全くおりません。
>猊下様の教えを正しく拝受しておられる皆様方ならこのような邪義を厳然と破折できると確信しております。
>どうかどうか、この犀角独歩を破折し、日蓮正宗の正義を顕正していただきたく思います。
>私にはそのような教学も力もございません。
>どうか伏してお願いいたしますので、犀角独歩を粉砕してください。
>宗旨建立750年を慶祝申し上げるために、伏して、伏してお願い申し上げるしだいです。
>どうかどうか私のこのお願いをお聞き届きいただきたく存じます。
独歩さんガンガレ!!
211
:
犀角独歩
:2003/01/03(金) 21:11
> 210
これは実に楽しみですね。
しかし、以上の3「口伝や相承書は、すべて偽書である」とは言っていません。
証明できないと言っているのに過ぎません。
また、コピペの方、応援、有り難うございます(笑)
212
:
無徳
:2003/01/03(金) 21:15
皆さん明けましておめでとうございます。
何時も亀レスにて失礼しておりますが本年も宜しくお願い致します。
satさん
>無徳さんの「解体から再構築へ」との示唆は大変共感いたします。
共感していただきありがとうございます。過去にsatさんの投稿された
論を拝見しますと大変知的な力量を感じます。特に「現代思想」にも通
じておられるように思われ今後のご活躍に期待を致しております。
213
:
管理者
:2003/01/03(金) 21:21
管理者から一言
>210 どうか伏してお願いいたしますので、犀角独歩を粉砕してください。
新年早々、一応、楽しみです。まぁ、あんまり期待していませんが・・。独歩さんを破折しようとされる方は、姑息な「荒らし」の様な真似をせずに、当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望しておきたいと存じます。そして、途中で逃げ出さずに、とことん議論されることを望みます。
214
:
無徳
:2003/01/03(金) 21:23
問答名人さん今晩は、
>仰るとおりです。当初は、富士門流と言うものの、実際は大石寺門流の再構
築を目指して出発しましたが、現在は、掲示板のコンセプトは結果的に拡大さ
れ、文字通り、北山本門寺、西山本門寺、保田妙本寺を含む、富士門流の再構
築を目指す事となったと思っています。
とのコメントありがとうございました。
この掲示板の目指すところが再確認でき嬉しく存じます。
本年こそ富士門流の再構築という壮大なるテーマに微力ながら皆様と共に
挑戦してまいる所存ですので宜しくお願いします。
215
:
管理者
:2003/01/03(金) 21:27
> 210
スレッドは、特に指定しませんが、内容からして、「続 大石寺問題提起」が適当かと思います。出来れば、そちらで思う存分議論していただければと存じます。
216
:
無徳
:2003/01/03(金) 21:29
独歩さん今晩は:
>還暦といえども、あと20年はばりばりと共同幻想を壊していただかなくては。
とのコメントありがとうございました。
この掲示板における独歩さんの獅子奮迅のご活躍はまさに共同幻想を解体する
利剣となっております。本年もますますのご活躍期待いたします。
217
:
無徳
:2003/01/03(金) 21:40
また、
>今後の世界ではこのネット上に、サンガが現出する可能性を私はいちばん
考えております。
との独歩さんのご意見は、日頃私も考えておりました問題意識と軌を一にして
おり驚いています。富士門流の再構築というテーマも、このネット上における
現代的サンガの構築といった側面があるのかも知れません。
この点における皆様のご意見を是非お伺いしたいと存じます。
218
:
犀角独歩
:2003/01/03(金) 21:43
管理者さん:
210の件、了解しました。
まあ、悪口言われておしまいになるのが関の山(爆)と思っていましたところ、適切なコメントをまず頂戴して、有り難く思います。
219
:
犀角独歩
:2003/01/03(金) 21:45
無徳さん:
明けましておめでとうございます。
> 217
そうですか、それは嬉しく心強く思いました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
220
:
あ
:2003/01/04(土) 04:10
単なるツブヤキ。
私は「お祖師様」という呼び方に、あこがれます。
江戸古典落語で「おそっさん」なんて聞くと、「ホノボノとして、いいなあ」と思います。
2年以上前になりますが、古今亭志ん朝さん、残念なことでした。
221
:
犀角独歩
:2003/01/04(土) 05:06
あさん:
お久しぶり、明けましておめでとうございます。
日蓮宗の人たちは「お祖師様」と言いますね。
好い呼称ですね、たしかに。
222
:
モモ
:2003/01/05(日) 21:08
犀角独歩さん
レス拝見しました。丁寧な御教示ありがとうございました。どうやら石山とは蔑称でも何でもない、ということがよくわかりました。
安易な発言について謹んでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
223
:
モモ
:2003/01/05(日) 21:10
菊水護国さん
レスありがとうございました。222にも書きましたが、石山とは蔑称でもなんでもない、とのことがわかりました。ありがとうございました。
224
:
犀角独歩
:2003/01/05(日) 22:49
モモさん、どうも。
こういう素直な謝罪というのは気持ちが好いものですね。
有り難う。
225
:
無徳
:2003/01/05(日) 23:21
皆さん今晩は:
富士門流の再構築というテーマに対しどの様なモデルが考えられるか考えて
みたいと思います。
まず<リゾーム>と言う現代思想上のタームがあります。
このタームは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神科医フェリックス・
ガタリの共著『千のプラトー』の基本用語で、西洋の伝統的形而上学が一から
出発して分岐してゆくトゥリー(樹木)状の存在モデルとそれに対応する思考
形態をとってきたのに対し、ドゥルーズ/ガタリはリゾーム(根茎)状の存在
モデルと思考形態を提唱しました。
それは特定の中心をもたず、それぞれ異質なものが異質なものと接合されな
がら、始まりもなく終わりもなく、多方向にまた重層的に錯綜しながら延びて
ゆく。当然リゾーム的思考は、パラノよりもスキゾ、定住性よりは遊牧性を志
向する。
このように、二人は垂直に聳え立つ樹木のイメージに従って体系を構築し、
そこに組みこまれないすべてのものを排除してきた西洋の哲学的思考を疑問に
付し、そうした樹木を支えている地下のリゾームをモデルに、発想の根本的転
換をはかろうと企てています。(現代思想用語辞典より)
このリゾームという考え方は独歩さんが、
>今後の世界ではこのネット上に、サンガが現出する可能性を私はいちばん
考えております。
とされた意見に沿って、ネット上に展開し得るサンガの在り方としてのモデル
となり得る思考形態のではないかと思われます。
これまでの富士門流の在り方は、このリゾーム的な存在様式とは対極的なる
組織形態であったといわざるを得ません。もっとも、組織と言う存在様式その
ものがどうしてもトゥリー(樹木)状的な在り方を要請せざるを得なかったと
言う面は否定できませんが、今後の富士門流の再構築にあっては、これまでの
様な組織形態を踏襲することは絶対に出来ないし、してはならないと私は考え
ますが皆さんはどう思われますでしょうか?
したがって、もしネット上にて富士門流を現代的サンガとして形成するとし
たらリゾーム的にならざるを得ませんし、何よりもインターネットという存在
そのものが、まさにリゾーム的であるといって過言ではないと思います。
もちろん、簡単に現代的サンガが形成されるなどとは夢夢思われませんが、
この<富士門流信の掲示板>はもとより、様々な方が立ち上げるホームページ
を介してネットを通じた意見交換が活発化し、更にはネットに集う人々が全国
津々浦々にてオフ会等を開催し連帯連携を強めることが出来得れば決して不可
能なこととは思いません。
皆様のご意見も是非承りたく存じます。
226
:
犀角独歩
:2003/01/06(月) 21:00
無徳さんのお話。含蓄が深くて難しい(笑)
でも、仰るところに私は賛同の意を表します。
227
:
無徳
:2003/01/06(月) 22:38
独歩さん今晩は:
賛同の意をありがとうございました。
そうですね難しいのは当然と思います。
そもそも現代人は社会の成り立ちからして、トゥリー(樹木)状の組織形態に
慣れきっていますから、リゾーム的な関係性を受け入れることは相当に困難で
あることは想像に難くありません。
しかし、インドにおけるサンガの形成と言うモデルがあるわけですから、全
く不可能と言うわけでも有りませんよね、もっとも現代社会とかつてのインド
社会とは全く様相が異なりますから、インドにおけるサンガの形態がそのまま
適用できるわけでは毛頭ありません。
ただし、インターネットという人類史上かつてなかった情報空間が現出した
現在では、かつてのインド社会とは全く違ったサンガの形成条件が生まれたの
ではないかと私は考えています。
リゾーム的人間関係や社会システムの有り方は、ドゥルーズやガタリが目指
すように発想の根本的転換を必要とするために、現代社会に生きる我々にはな
かなか理解し難いのは当然と言えましょう。
ましてや、人類にとってインターネット社会が一体どの様なパラダイムシフ
トを起こすのすのかもまだ予想がつきません、したがってリゾーム的社会シス
テムや人間関係が人類にとってどの様なパラダイムを提供するかも解りかねる
訳ですから、難しいといえばこれほど難しい問題もありませんね。
しかし、私はかえって未曾有のチャンスなのではないかと考えます。何故か
ならば我々一人一人がその主役を演ずる事が出来うるかも知れないかです。
これまでの世の中では我々の様な庶民が本当の意味で主役を演ずることは不可
能に近かったからです。
インターネットと言う情報空間は全く中心点すらないのですね、ネットに連
なる一人一人が中心であると同時に周辺を担っているわけです。まさにリゾー
ム的空間を形成しているといって過言ではありません。
これまでの富士門流では、創価学会や顕正会的な絶対的指導者を中心にした
ヒエラルキーを形成した組織が、圧倒的な力を持ち宗門の中心である本山を脅
かし続けているわけです。総本山側も今やそれに対抗すべく日顕氏を絶対的権
威者に仕立て上げざるを得ないと言う悪循環に陥っているのが現状なわけです。
この様な状況を解体し打破するには、リゾーム的なサンガを草の根的運動で
展開する以外に有りえないのではないかと考えますが如何なものでしょう。
228
:
sat
:2003/01/07(火) 02:24
横レスにてすみません
リゾームのベースとなるところは、①テキスト(すべての言語媒体による情報)を収集して博識になることではなく、②テキストの文自体を暗記して専門家になることでもなく、③テキストから自分にとって革命的な部分をよみとり、自身の運動の糧とすることとされているようですが、「解体から再構築」へ向かおうとする際の大事な視点だと感じます。
また「諸部分」や「全体」を直接見るのではなく、その「差異」に着目、「そこからしか思考は生まれてこない」とするリゾームの主張も的を得たものではないかと思います。
また、「定住の知による世界」である①秩序、②法則性、③言語体系(ロゴス)による説明、④論理配列型によるパラノ世界から、
「遊牧の知による世界」である①複雑かつ多元的、②流動的、③容易な定式化の拒否、⑤複雑に錯綜した多数多様体としてのスキゾ世界への移行は、
秩序・位階制度的、伝統的・ヒエラルキー的な限界思考を打ち砕くのではないかという期待感もあります。
或いは、ヒエラルキー型組織としての強制−服従型コミュニケーションから、ネットワーク型組織としての説得−納得型コミュニケーションに転換を図ることで自己産出を為すというのも納得できるところです。
しかし、問題はドゥルーズ/ガタリ自身が指摘している領土化→脱領土化→再領土化ではないでしょうか。
創価学会が戦後最大の大衆運動へ胎動を始めた時代は、有る意味でリゾームでありスキゾ的であったかと思います。世間の秩序や位階から漏れ落ちた人々が、リベンジ志向を中心とし、人的つながりを何者にも優先する「縦線組織」を形成していったのはリゾームそのものであり、スキゾであり、スキゾと関連して語られるところのノマドでもあったのではないかと思います。しかしながら組織の効率的運営やマス化による操作性向上を目的とした縦線組織から「ブロック組織」への移行が始まった段階でツリー化、パラノ化したということではないでしょうか。
仏典にある「修行僧たちは私に何を期待するのか?私は内外の隔てなしに理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような『教師の握りこぶしは存在しない』。『私は修行僧の仲間を導くであろう』とか、或いは『修行僧の仲間は私に頼っている』と、このように思う者こそ、修行僧の集いに関して何事かを語るであろう。しかし、向上につとめた人は『私は修行僧のなかまを導くであろう』とか、或いは『修行僧の仲間は私に頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧の集いに関して何を語るであろうか。・・」みたいな世界が、いつの間にか一子相伝みたいなものになってしまうのは何故なのでしょうか。
ネットワークという特殊な世界が生まれたことで、私達の思考や信仰の世界もリゾーム化への可能性を開くものだということは否定しないどころか、大いなる期待をしますが、一方で領土化→脱領土化→再領土化もあるような気がします。何せ未体験な世界ですから正直よくわかりません。
その中で考えつくことは、リゾームから学ぶべきは「ゆらぎ」ではないかと・・
229
:
犀角独歩
:2003/01/07(火) 11:45
無徳さん:
satさん:
リゾームということを主軸にした考証も面白いところですね。
私はポスト構造主義となると、もうほとんど勉強していないので、余計なことを記さず、横で読ませていただきます。非常に有意義な議論ですので、どうか続けていただければと思います。
230
:
無徳
:2003/01/08(水) 17:40
satさんこんにちはコメントありがとうございます。
>リゾームのベースとなるところは、①テキスト(すべての言語媒体による情
報)を収集して博識になることではなく、②テキストの文自体を暗記して専
門家になることでもなく、③テキストから自分にとって革命的な部分をよみ
とり、自身の運動の糧とすることとされているようですが、「解体から再構
築」へ向かおうとする際の大事な視点だと感じます。
全くその通りと思います。ドゥルーズとガタリの二人はスキゾ的な在り方を
肯定し、現在知からの逃走を企てつつノマドロジーを通じて西洋的知の体系の
解体を図ったとも言えましょう。
>また「諸部分」や「全体」を直接見るのではなく、その「差異」に着目「そ
こからしか思考は生まれてこない」とするリゾームの主張も的を得たもので
はないかと思います。
とのことは、フーコが賛したドゥルーズの主著『差異と反復』の主要テーマ
ですね、西洋的知の体系の殆んどが「同一性」の原理の上に成り立っていたわ
けですが、実は同一と見える現象の中に微妙な差異が有り、時には大きな差異
さえ有ることを発見し、これまでの西洋的知としての「同一性」による暴力的
世界支配からスキゾ的に逃走を企て、「差異」の視点から当時学生や労働者によ
ってフランスを席巻した「マルクス主義」による革命運動をも批判しました。
>或いは、ヒエラルキー型組織としての強制−服従型コミュニケーションから、
ネットワーク型組織としての説得−納得型コミュニケーションに転換を図る
ことで自己産出を為すというのも納得できるところです。
とのことも全く賛成です、まさに我々が目指す富士門流によるサンガの形成
も「ネットワーク型組織としての説得−納得型コミュニケーションに転換を図
ることで自己産出を為す」と言われた事と軌を一にする考え方です。
>しかし、問題はドゥルーズ/ガタリ自身が指摘している領土化→脱領土化→
再領土化ではないでしょうか。
とのことは、人間の欲望と言うものをどう考えるかに尽きていると思われます。
かつてヨーロッパやアジアでも定住を嫌った遊牧民による殆んど本能的とさえ
言える欲望の奔流が、定住民たる都市や国家と衝突したときに数々の戦争を起
こしました。そして、領土を区切るような都市や国家のあり方を破壊し尽くし
た、まさにノモドロジー的な在り方をヒントに、ドゥルーズとガタリは領土化
を必然とする西洋的知の体系と言う不自由なパラダイムの裏をかいてそこから
逃走しつつ様々なカルチャーと接続し交流することによって新たな変革を目指
したと言えます。
ただ、少なくとも仏教的な欲望否定の原理持つ文化圏に生きる我々にとって
は、ドゥルーズやガタリとはちがった形の西洋的知の体系に対抗する軸が有る
筈ですし、現に我々が目指すサンガの形成は仏教理念による欲望の制御と言う
課題を果たし得るのではないかと考えています。
私には限界を露呈した現代文明とは、人類が果てしない欲望追及に明け暮れ
た結果であると考えます。おそらく大半の人々も同じ意見ではないかと想像さ
れます。したがってこの現代社会の欲望追及の原理に沿った様々なシステムを
根本的に変革せざるを得ません。
もちろん簡単に変革が出来得るなどと夢夢思われませんが、誰かが成さねば
おそらく人類はそう遠くない将来に終末を迎えることでしょう。したがって、
領土化→脱領土化→再領土化どころではないと考えますが如何なものでしょう。
>その中で考えつくことは、リゾームから学ぶべきは「ゆらぎ」ではないかと
とのことは、もうちょっと具体的に語っていただきたく思います。
231
:
sat
:2003/01/09(木) 15:49
無徳さん:
>現代社会の欲望追及の原理に沿った様々なシステムを根本的に変革せざるを得ません。
>我々が目指すサンガの形成は仏教理念による欲望の制御と言う課題を果たし得るのではないかと考えています。
そうなれば大変素晴らしいことかと思います。西洋哲学一辺倒から来る限界やほころびが、仏教の有する可能性とか、新しい視点を導き出す序章になるということかもしれませんね。当たり前として身につけてしまった既成の概念や思考から抜け出すことは困難を極めますが、本掲示板に集う人々によって、その萌芽が見出されることを期待しています。
>「その中で考えつくことは、リゾームから学ぶべきは『ゆらぎ』ではないかと」とのことは、もうちょっと具体的に語っていただきたく思います。
特に難しいことを考えた訳ではありません。リゾームを主軸とする主張を読ませて頂いた時、無徳さんの記された「同一性」の原理とも関連しますが・・組織のもつ「凝集性」とか、「ゆらぎ」という言葉がふと心に思い浮かんだという程度に過ぎません。
「凝集性」という言葉は集団構成員に対して、集団内に留まるよう働きかける全ての「合成力」を意味する時に使われ、また、凝集性を高める条件(魅力)として、①集団内の威信、②集団内で重視される人への魅力、③集団内の協力関係、④集団内の協同関係、⑤集団内の相互作用、⑥集団構成員の類似性、⑦集団の社会的位置、⑧他集団への攻撃といった点が挙げられているようです。
問題とすべきは凝集性に潜む「組織外に敵を作る」こと・・「所属外集団」に対して憎しみを抱くこと・・所属集団が完全無欠のユートピアであるために、誤謬を指摘するものに対して非難し抹殺しようとすること・・であろうかと思います。
集団が事実の上において失敗し誤謬を認めざるを得ない状況に陥り始めた時、損なわれた凝集性を取り戻そうとして、その傾向は益々強くなり、集団構成員の「ゆらぎ」そのものをノイズであり罪悪であると意識づけ、忌避させ、排除させ、所属集団のもつ欠陥を容易に、無自覚に、何らの痛みも感じることもなく看過させるという・・こういった「凝集性を強化する最善の方法」が、所属集団内の整然たる秩序、完全なる秩序を強制希求させ、カルト化への一端とつながっていくのかもしれません。
「ゆらぎ」といえば、半導体や発光ダイオード・発振子のノイズ理論から導き出され、家電製品から景観デザインにまで幅広く応用されている「1/fゆらぎ理論」というのがあるかと思います。森羅万象はすべて1/f0--1/f1--1/f2の数式で表現できるとされ、1/f0(カオス)と1/f2(秩序)との中間に1/f1(変調:ゆらぎ)が自然界に普遍的に存在するとのこと。地球の自転、季節の移り変わり、羊水中から聞く母親の心音、電車のゆれ、音楽・・規則性の中にある不規則性としての僅かな変調が快い気分をもたらすのであり、その変調はノイズではなくゆらぎなのだと・・
単純系から複雑系へ向かっている今・・或いは既存パラダイムからの差異化によって組織構造の意味そのものを問い直そうとしている本掲示板のようなサイトが出現している今・・この規則性の中にある不規則性、意外性、期待性が大事なのではないかと感じる次第です。ゆらぎは偶然のノイズであるというよりは、安定性を見いだそうとして選択した行動であり、差異化と自省作用の結果と考えれば、リゾームとあながち無縁ではないような気がしました。
中心もなく、位階序列もなく、主体と客体の区別もなく、秩序とカオスの区別もない多様体、或いは個の全体に対する従属を転倒させ、秩序や均衡の発想を脱構築しようとするリゾームには「ゆらぎ」があるのではないでしょうか。
構造機能主義的世界から、差異のダイナミックスへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームであり、インターネットの持つ世界観が平等性・公開性・自律性といった自立分散型であるとするならば、リゾームとネットワークがコンデンスするような自己組織化が起きる可能性は充分考えられることですし、新たな宗教共同性の成長過程にも、求心力にも、遠心力にもなっていくかもしれないという期待感はあります。
232
:
今里祐二@日蓮本仏論者
:2003/01/09(木) 21:49
『聖人御難事』
『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』
お釈迦様の教えの正しさは大聖人様に依存している、ということになると思います。
きっと、お釈迦様には、未来に大聖人様が出現されるという大確信がおありになったのでしょう。
法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作であり、羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい、などということは
つい最近知りました。しかし、もしそうであったとしても、仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として
羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、
大聖人様は身をもって教え示されたと思います。
『十八円満抄』
『総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為ても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。』
腹痛から復活するためにつぶやいてみました。(^^;
233
:
問答迷人
:2003/01/09(木) 22:15
大石寺では、『聖人御難事』は、日蓮大聖人が、出世の本懐、戒壇板本尊の建立を遂げられた事を書き記された御書とされていますね。ところが、『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。』と有るわけです。つまり、二千二百三十余年とこの御書にしたためられた訳ですから、同じく、戒壇板本尊も二千二百三十余年としたためられておれば、整合性が取れていることになります。ところが、なんと、戒壇板本尊には、二千二百二十余年と認められています。僕は、だから、この聖人御難事は、戒壇板本尊の建立=出世の本懐を遂げたことを述べられているとは、到底思えない訳です。今里さんは、この御書と戒壇板本尊との記述の違いをどうお考えになられますか?
234
:
今里祐二@日蓮本仏論者
:2003/01/09(木) 22:31
問答名人さん
>この御書と戒壇板本尊との記述の違いをどうお考えになられますか?
なぜなんでしょうね?
ぜんぜん分りません。
もしかしたら単なる書き間違えかも(笑)
仏滅年は数百年もずれているという事が最近の定説だそうですから、
10年ぐらいどうって事ないのでは(笑)
実用上は何の問題もない、というのが僕の考えです。
235
:
五月雨
:2003/01/09(木) 22:52
今里さん
こんばんは。腹痛は治まりましたか?
>仏滅年は数百年もずれているという事が最近の定説だそうですから、
10年ぐらいどうって事ないのでは(笑)
日蓮聖人のお言葉と出世の本懐といわれる戒壇之漫荼羅に整合性がないのを、笑って流せる今里さんは、中々の大人物ですね(笑)
10年くらいどうって事なければ、石山のお形木本尊(仏滅年数二千二百三十余年)も、戒壇之漫荼羅と同じく仏滅後二百二十余年と認めておけば、何の矛盾も生じなかったと思いませんか。今里さんには整合性があるかもしれませんけど、お形木本尊は戒壇大御本尊のそのままのお写し、と教育されてきた私には大矛盾です。
>実用上は何の問題もない、というのが僕の考えです。
ここで言われる「実用上」というのは、どんな意味合いで言われているのかお示し頂けませんか。よろしくお願いします。
236
:
今里祐二@日蓮本仏論者
:2003/01/09(木) 23:13
五月雨さんへ
>ここで言われる「実用上」というのは、どんな意味合いで言われているのかお示し頂けませんか。
仏様の望みは『如我等無異』です。僕の望みは『如我等無異』になること、つまり成仏することです。
成仏するという目的を果たすための「実用上」ということです。
237
:
犀角独歩
:2003/01/09(木) 23:21
今里さん:
あなた、こんな所に出てきても意味がないんじゃないのかな。
自分の本仏論を抱きしめて悦に入っていれば好いんだから。
言葉をやり取りすること自体、意味ないでしょう、あなたには(笑)
それにしても、実用上の成仏なんていうのが本仏論だとは、嗤わせますね。
238
:
犀角独歩
:2003/01/09(木) 23:33
まあ、本仏論なんて看板背負って出てきても、説明も何も出来ないかけ声だけじゃ、退屈ですね。
独りよがりの好い気分、聞いたって、何の参考にもならないし、本仏論というのはただの思いこみなのかと。
思い込んでいる人とは会話は成り立たず、ただ、説明も出来ないことを押しつけられるだけでは、公開の議論の場にはふさわしくないでしょうね(笑)
239
:
ROCK@日蓮宗葵講
:2003/01/09(木) 23:53
久しぶりにお邪魔します。
○二千二百二十余年と二千二百三十余年に関して
大石寺戒壇本尊(弘安二年十月十二日の御本尊)に関して、大石寺門流は、
寛師の「観心本尊抄文段」を以って、大石寺戒壇本尊こそ本懐である。まぁ
こういうわけですね。(『折伏教典』『日蓮正宗入門』)
寛師は、弘安元年以降は二千二百三十余年であると強調するわけですねその上で、
「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。」
と結論付けている訳ですが、大石寺戒壇本尊には二千二百三十余年となく、二千二百
二十余年とある訳ですから、寛師の説はむしろ、大石寺戒壇本尊は本懐ではないと
いう証左ともなりますね。
240
:
蘭鋳
:2003/01/10(金) 01:22
すいません。。突然。。。
犀角独歩さんのHNの元になったブッタの言葉を、前にTVで(日本テレビだったかな)聞いたことがありました。
その時、ナレーターの話す 犀の角のようにただ一人歩め・・・・に涙がでてしまいました。心の奥にしまって
あった忘れた何かに感応してしまったようで理由もなく泣いてしまったのです。過大評価しすぎかもしれません
が、あの時優しさに包まれた気がしたというか、尖がっていたものが割れ崩れたというのか、何とも不思議な気
分になってからというもの、それまで学会や正宗で聞いていた『末法に釈尊の力が無い』と教わり見向きもしな
かった『ブッタ』に興味が湧き、身延の方の掲示板なども見るようになりました。日蓮宗での掲示板では質問に
対してよくブッタの言葉を用いていて分かりやすく納得できるものばかりでした。
私は頭が弱く、皆さんのように色々と語ったりできませんが、祖師の力強さはもちろん、興師の間違いを許さな
いような厳格さがとても好きです。興師は身延の僧侶も認める素晴らしい方と記憶しています。正宗をやめて身
延の門をたたくのは簡単なのかもしれませんが、興師と縁のある大石寺を離れたくありません。重須もあります
が私は日蓮仏教は祖師が妙法を広めなさいと言った以上、縁を考えています。正宗(学会)により祖師の『心』
に触れられたことを感謝しています。是非、大石寺には教義の間違いや歴代法主の立場上の誤解を正して頂き、
せめて古き良き頃の大石寺をこの肌で感じてみたく思います。この時代、良き事は評価され、間違いには人はつ
いてこないと思うのです。昔は立場や営むために他門との差別化は一つの糧としてあったろうと考えますが、今
はいりません。例え、直すべきところを直して身延や他門との一線が消えようとも誰も非難しないでしょう。逆
に拍手されるべき事で他門や他宗は尊敬するのではないでしょうか?仮に外野で悪く言われても過去もあるので
それは甘んじて受けるで良いと思うのです。間違いを正しても今の大石寺の信徒が離れることは無いと感じます
。それどころか、宗門より分派した会の信徒が戻ってくると考えます。根本的な原因は皆、いっしょに思います
。正直なところ富士門をまとめるのは大石寺でなければできないと思います。
日蓮宗史にも宗門のことにも疎い私ですが、いつか良い宗門になることを願っております。
PS 以前、菊水護国さんの言っていた、富士周辺の正宗檀家に英師の頃の釈迦仏像や大黒像があるのは本当なの
でしょうか?本当なら凄く拝見してみたいです。そして心より手を合わせたく思います。
241
:
犀角独歩
:2003/01/10(金) 08:42
蘭鋳さん:
はじめまして。
私のHNの元になったのは仰るとおりスッタ・ニパータ第1蛇の章・犀の角の「犀の角のように独り歩め」というフレーズから採ったものです。私も、この教えに言いしれぬ感動を覚えた一人です。
独歩…、このように聞くと単に孤独な歩みを考えがちですが、しかし、蘭鋳さんもご承知のとおり、
「もしも汝が、賢明で、協同し律儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め。しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならぱ、あたかも王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め」
「博学で真理をわきまえ高邁・明敏な友と交われ。いろいろとためになることがらを知り、疑惑を除き去って、屋の角のようにただ独り歩め」
という教えもありますね。
ここでは、単なる孤独の勧めではなく、集団従属から離れたうえで、今度は個を中心にした闊達な思想交友も教えています。
その意味から240にも記されるところ、概ね賛同するものです。
242
:
犀角独歩
:2003/01/10(金) 13:39
真偽未決である『十八円満抄』を恰も確定した真跡のように扱ったうえ、さらにまるで学問、教学不要の如き扱われることはまさに片腹の痛む思いがします。
何度も挙げていますが、聖人は『富木殿御書』に
「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」
という名文を遺しています。
また、同じく最近も引きましたが、真偽未決ながら、
「何度もかれが云ふ言にて、やゝもすれば己がつまる語なり。されども非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり。都(すべ)て理におれざるなり、譬へば行く水にかず(数)か(書)くが如し」
という『諸宗問答抄』の有名な一節が存します。
このような“非学匠”の在り方は、外教のサンジャヤ・ベーラティプッタ鰻の論理(異問異答)にほかならない。
――サンジャヤ・ベーラティプッタは、例えば、“死後の世界はありますか”、とたずねると、“私は、あるとも考えず、無いとも考えず、その他だとも考えず、考えないとも考えない・・・”などと、ぬらりくらりと、筋の合っていないような、合っているような答え(異問異答、“うなぎ”の論理と呼ばれている)をする――
つまり、いわゆる内外相対で簡ばれる外道義なのであって、石山義でいえば、第五位下の論理。第一位上に置かれる本仏義とは天地雲泥、遠くかけ離れた非仏教的なであると指摘しておきます。
249
:
三学無縁
:2003/01/10(金) 20:13
でも石山ってアンタッチャブルの寺でしたよね。
つまり不なるが故に浄の寺。
元々は他門の本尊に対する「おきよめ」であったものが、いつのまにか自門のものにまで援用されてしまった、ということなのではないでしょうか。
250
:
今里祐二
:2003/01/10(金) 20:16
独歩さんへ
ほかのスレッドだと独歩さんに突っ込まれて恐そうなので『つぶやき』にしたのですが…
学会を追い出され、法華講からも追い出されてしまって、友達いなくて淋しいので、
あまりいぢめないで下さい(^^)
「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」
独歩さんの解釈では上記御文の「之」とは何を指すのですか?
それとも「之」とは何かを探すため、犀の角のように独り歩んでおられるのでしょうか?
251
:
犀角独歩
:2003/01/10(金) 20:46
「之」の意味は『富木殿御書』に明確でしょう。
私が記すまでもないことです。
いずれにしても、「私が解釈」するのではなく、日蓮がどう書いたかが、ではないですか。
この文の前文に
「夫(それ)賢人は安きに居て危ふきを欲(おも)ひ、佞人(ねいじん)は危ふきに居て安きを欲(おも)ふ」
ともあります。そののちに「之」を論じていくのでしょう。
「之」は文の運びで前文を指す言葉でしょう。不明になっているわけではありません。よって私が求め歩いているものなどの意味は、本来、ありません。
けれど、この日蓮の気迫ある考証の姿勢は門下一同、もっとも見習うべき点であると思うから、引いたわけです。
252
:
三学無縁
:2003/01/10(金) 20:57
横レス失礼します。
之、ですか。
石山も含めて日蓮教団的には「広宣流布」ということになるかもしれませんね。
でも、「何」を。
「板本尊」による救いとか、「板本尊」を根本にした教え、であるわけはないですね。
身延にも石山にも池上にも中山にも、というより今の日蓮教団には、その「何」はないのでは・・・。
要山か房山には残っているかもしれませんが、少なくともいまは忘れられてしまっていますね。
真筆御書に戻れば案外かんたんにわかるのですが。
要は、数ではないのです。
日蓮さんも晩年になってその自覚を深めたようです。
数でなければ何を、という向きは、まず真筆御書を読まれることをお勧めします。
でも、「何」の委細は真筆にはないというふうにも私は考えています。
真筆・偽書・疑書を含めて、3篇だけ残して後は捨ててもいいと思っています。
いやはや、抽象的ですみません。
253
:
・・・
:2003/01/10(金) 21:02
三学さんでしょ
ということは
御義口伝
不動愛染管見記
あとは
−ん
産湯記
かな
正解?
254
:
犀角独歩
:2003/01/10(金) 21:14
あれ。三学無縁さんまで、そんな抽象的なことを(笑)
この書で日蓮が「之」と言ったのは
「此の三大師(円仁・円珍・空海)の意は法華経は已今当の諸経の中の第一なり。然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云。此の義、心有らん人信を取るべきや不や」
という当時、真言になずんでしまった天台宗の考えを指したのではないでしょうか。それが、もはや一般的になってしまったが最為第一は法華経である、これを案ぜよではないでしょうか。
こういう大疑を断じていく台学の在り方を日蓮は徹底していたのですね。
三学無縁さんに対してでは、真面目に答えすぎかな?(笑)
この点ですよ、今里さん。
255
:
今里祐二
:2003/01/10(金) 23:57
独歩さん
僕は「之」を「仏様の御意(みこころ)」と受け取っておりました。
僕にとっての仏様は大聖人様ですから「大聖人様の御意」です。
まぁ、僕の勝手な解釈に過ぎないので、どうだっていいことですが。
独歩さんのお考えは、日蓮聖人はただの人、法華経は後世の創作で、シャキャムニとは無関係…
というものだと受け取っておりました。
そのようにお考えの方が
>何度も挙げていますが、聖人は『富木殿御書』に
>「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」
>という名文を遺しています。
ただの凡夫が偽経を引いて、ごたくを並べているのを「名文」などとおっしゃるので、
いったい如何なる事なのかという疑問がわいたので、「之」という言葉に託して質問したのですが、
>最為第一は法華経である、これを案ぜよではないでしょうか。
…なんだかなぁ、偽経など案じてどうするんですか?
僕には、毎日毎日この掲示板にカキコされている独歩さんの気持ちがよく分りません。
それでは、おやすみなさい。
256
:
無徳
:2003/01/11(土) 00:56
Satさん今晩は:
>そうなれば大変素晴らしいことかと思います。西洋哲学一辺倒か
>ら来る限界やほころびが、仏教の有する可能性とか、新しい視点
>を導き出す序章になるということかもしれませんね。当たり前と
>して身につけてしまった既成の概念や思考から抜け出すことは困
>難を極めますが、本掲示板に集う人々によって、その萌芽が見出
>されることを期待しています。
全くその通りですね、
ただ、私が<現に我々が目指すサンガの形成は仏教理念による欲望
の制御と言う課題を果たし得るのではないかと考えています。>と
したのは、決して意識的な形で欲望が制御できると考えたわけでは
ありません。例えば法律や教育さらには倫理や道徳と言った人間の
識知や制度のみでは欲望の制御は叶わないと思います。
仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能
にするのであって、人間は向うからやって来る不可避的な状況に急
かされてのみラジカルな変革が結果として可能になるのであり、所
詮人間が意識して出来得る事などたかが知れていると、私が敬愛す
る吉本隆明氏から教えられました。
>「凝集性」という言葉は集団構成員に対して、集団内に留まるよ
>う働きかける全ての「合成力」を意味する時に使われ、また、凝
>集性を高める条件(魅力)として、①集団内の威信、②集団内で
・・・・・・・・・・・・<中略>・・・・・・・・・・・・・・
>問題とすべきは凝集性に潜む「組織外に敵を作る」こと・・「所属
>外集団」に対して憎しみを抱くこと・・所属集団が完全無欠のユー
>トピアであるために、誤謬を指摘するものに対して非難し抹殺し
>ようとすること・・であろうかと思います。
とのことは、これも吉本隆明氏から学んだことですが、「共同幻想」
と言う、人間にとって非常に厄介な心的作用がもたらす弊害の典型
と言えます。独歩さんとのやり取りでも申し上げましたが、まずは
この厄介至極な「共同幻想」を解体することが肝要ですね、しかし
解体と同時に並行的に再構築を図って行くことこそ大切ではないか
と考えます。
>中心もなく、位階序列もなく、主体と客体の区別もなく、秩序と
>カオスの区別もない多様体、或いは個の全体に対する従属を転倒
>させ、秩序や均衡の発想を脱構築しようとするリゾームには「ゆ
>らぎ」があるのではないでしょうか。
正直に申して私は「ゆらぎ」と言う概念が今一つピンと来ません。
なにか、とても都合のよいタームではありますが、特に宇宙の生成
過程で特異点から「ゆらぎ」が生じてビックバンに繋がったとする
解釈が有るようですが、私には理解が届きません。リゾーム的あり
方が「ゆらぎ」とどの様に関係するかは今後の解明に待ちたいと思
います。
>構造機能主義的世界から、差異のダイナミックスへと向かう非決
>定論的視座への転換がリゾームであり、インターネットの持つ世
>界観が平等性・公開性・自律性といった自立分散型であるとする
>ならば、リゾームとネットワークがコンデンスするような自己組
>織化が起きる可能性は充分考えられることですし、新たな宗教共
>同性の成長過程にも、求心力にも、遠心力にもなっていくかもし
>れないという期待感はあります。
とのことは全くその通りだと思います。
これは私が抱く現代的サンガの在るべき姿を素描したものですが、
まずサンガを形成する人々は全く自由であることが大前提でなけれ
ばなりません。もちろん、仏教理念を背景にして形成されることが
大切な要件では有りますが、決して仏教理念を強制するものではあ
りません。
ただし、当然ながら全っき自由であることは全てに亘って自己責任
が生じます。誰彼に強制はされませんが全てに対して自己決定しな
ければ自己変革も社会変革にもなりえません。向こうから到来する
あらゆる事象に対しサンガが全体で対抗することはサンガの持つ性
格上出来得ないと思われます。個々人の悩みや問題をサンガの中で
助け合い相談しあって解消することは大切なことですが、それとて
自己責任が前提となります。
サンガにとって様々な問題や障害が生じた時や重要な事項が持ち上
がった時は、全てネットを通じて問題を提起し、出来るだけ多数の
意見によってサンガの合意事項とすべきですが、決定し得ないこと
は「重層的非決定」とせざるを得ません。つまり、差異は差異とし
て非決定のままで良いと思います。それが、<差異のダイナミック
スへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームであり>とsatさ
んが言われたことに通じると思いますが如何なものでしょう。
257
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/11(土) 00:56
>今里さん
法華経や日蓮があなたの思っているようなものではないかもしれないということと、価値がないということはまったく違ったことです。
法華経が仏語でなくて後代の作でも、何らかの価値がある可能性があります。
日蓮が本仏でなくて凡夫でも、何らかの価値がある可能性があります。
そういう単純な話なのですが、如何でしょうか。
258
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/11(土) 01:43
>>133
>今里さん
>理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
>慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;
たとえば、今里さんが日蓮の開目抄なり本尊抄なりを読んで、何を言っているのかよくわかるなら、増上慢ではないでしょう。
(古文・漢文がわからないとか、事実関係や引用元を知らないということは全然かまいません)
別に、経典でも教行信証でも正法眼蔵でもなんでもかまわないと思いますけどね。
259
:
今里祐二
:2003/01/11(土) 08:10
みかんさんへ
>理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
>慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;
これは輪廻転生と無我との関係というか、
理論的整合性というか、そういう事が僕にはどうしても理解できないのですが、
そのことを言ったのであって、
開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです。
260
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/01/11(土) 08:44
「慧眼」というのはそういうものだからそう申し上げたまでです。
慧眼とは智慧の眼です。ダルマをこの身でありありと体験する能力です。智慧の眼とは仏のみが開いている目です。
智慧の眼の一分を開くというのは、仏智の一分が開くということです。
すなわち菩薩になるということです。
智慧の眼の一分が開いていない人は菩薩ではありません。主観的に菩薩行を営んでいると思っていても、
自分が地湧の菩薩だと思いこんでいても、そんな人は菩薩ではありません。
発菩提心というのは、決心することではありません。智慧の眼の一分が開くことです。
智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり
智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。
わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません。
261
:
sat
:2003/01/11(土) 17:10
無徳さん:
>私が敬愛する吉本隆明氏から教えられました。
確か、吉本隆明氏の「共同幻想論」は「文芸」掲載原稿に加筆して昭和40年代に初版が発行されたものですよね。「共同幻想」という言葉は大変インパクトが強く、安保闘争の中でバイブルともされた書だったと思いますが、マルクスやフロイトから民俗学に至るまで幅広く展開された同書は、当時、私には読んでみて難しく・・よくわからなかったというのが正直なところです。
同氏は、「共同幻想」というものは、個の集合としての幻想が発展的に消失しても「逆立」して自己幻想に対して圧力を保持し続けるものだと指摘していたかと思います・・国家も法も宗教も共同幻想なのだと・・
また、「共同幻想が個人幻想に同調しているように感ぜられるためには、個人幻想に対する共同幻想の先験性が個人幻想の中で信じられていなければならない」という同氏の言葉も大変示唆に富んだものかと思います。
伝統性とか正当性とかは、集団が他集団との接触によって何らかの危機的状況に陥った時に意識され、過去・現在・未来の間の距離を集団心理的に調整し、集団内の共同幻想を安定・延命させるために生み出されてきた方法だと指摘する人がいます。それは、好むと好まざるとに関わらず、他の異質集団と接触することで、所属集団内で自己同一性を良くも悪くも確認するということなのでしょうが、その異質なものとぶつかるという空間的な差異の問題が、伝統性とか正当性といった時間的な差異の問題にすり替えられるということなのかもしれません。
その意味からすれば、伝統性とか正当性とかいったものは、必ずしも実質的な歴史性に裏付けられたものではなく、また実在する具体的な何物かを指すものでもない・・集団の共同幻想を守る働きを果たした時に、それはあたかも歴史的な実体の如くに認知される幻想であるということになるのかもしれませんね。
>仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能にする
この点は大変興味深いところです。もう少し詳しく教えていただけませんでしょうか。
>差異のダイナミックスへと向かう非決定論的視座への転換がリゾームでありとsatさんが言われたことに通じると思いますが如何なものでしょう。
無徳さんの主張される現代的サンガは、①形成する人々が全く自由であること、②自己責任が前提となること、③多数の意見によってサンガの合意事項とすべきこと、④差異は差異として非決定のままで良い・・という点に整理されているかと思いますが、異論はありません。
無徳さんの「所詮人間が意識して出来得る事などたかが知れている」との指摘はその通りだろうと思います。だからこそ逆に、特定の個人に意思を委ね、特定の個人を完全無欠なものに仕立て上げ、誤謬を許さずカリスマ化し、その凝集性を高めようとするのでしょうね。
非決定論的視座とは決定しないということではなく、個人の特定意思とは違うところで決定され(合理的な思考や集団での合議)、その決定はくつがえすことのできないものではなく常に新たな局面で発展系を遂げていくというもので、その流れは全体の中において一見無秩序とみえるもののそうではなく大いなる流れとなっていくといったイメージでしょうか。
変化を求める内面的衝動→開いた対決→再秩序付け、或いは、開いた再生感覚→新しい思想や感情の吸収→より大きな受容性と世界への開放性には場が必要であり、
ある一定の課題が共有された空間あるいは集合内でネットによる回答出しが無徳さんの提唱されるネットによる現代的サンガなのだと・・そう理解させていただければ、
現代的サンガは、成員となった社会以外の別の客観的世界を内在化する過程であり、①他者との高度な情緒的な同一化、②主観的現実と自我の根底的な変化、③現在と過去を断続させ、前後の一貫性を放棄して現実を新たに構成しなおす場になるということでもあるのかもしれませんね。
262
:
無徳
:2003/01/11(土) 20:42
satさん今晩は:
私が吉本氏の「共同幻想論」に出会ったのは、創価学会という組織の中で自ら
の力量不足も手伝って二進も三進も往かない所に追い込まれた時でした。
その頃は創価学会が言論問題等で爆発的な膨張が収束する前夜だったように記
憶しています。人材不足からか全く力量不足の私に隊員数130名程の男子部
の隊長と言うおはちが廻ってきました。
元々、私とどっこいどっこいの力不足の班長が二人居ただけの組織でしたから
たまったものではありません。(笑)案の定、新聞啓蒙や座談会さらには部隊
会や本部総会等への隊員の出席数も惨憺たるものでした。
そんな状態で隊長会において折伏や新聞啓蒙の結果報告をする時は、まさに地
獄でした。部隊長や本部長の顔が鬼のように見えてとても直視出来る状態では
ありません、なんと宗教とは残酷なものだろうと、自分の力量不足を棚上げし
て御本尊を恨みたくさえなりました。(笑)
そんな時に確か早稲田の古本屋で吉本氏の「共同幻想論」に出会ったのです。
今考えれば正直言って中味などどうでも良かった様に思います。「共同幻想」と
言う四文字に惹きつけられたのです。<そうだ!今の俺は共同幻想に捕らわれ
ているのだ>と、創価学会という組織の中で自分の主体性を埋没し、信仰する
人間としてでなく、ただ組織の奴隷のように振舞っている己に気付いたのです。
その後「共同幻想論」を何度か読み直しましたので、「共同幻想」と言うターム
に対する理解がある程度は進みましたが、未だに本当に理解できたかどうかは
心許ない気がします。
>>仏教理念を根底にしたサンガの形成が結果として欲望の制御を可能にする
>この点は大変興味深いところです。もう少し詳しく教えていただけませんで
しょうか。
とのことは、あまり難しく考えたわけではなく仏教における人間の欲望に対す
る対処の仕方が、どちらかと言えば否定的であり禁欲的なものであって、特に
物欲や性欲に対する制御を為し得なければ悟りには達しないとする理念があり
ますので、仏教理念を背景にしたサンガが形成され、それが広範な運動となり
得れば人類としての欲望の制御にも繋がるだろうと考えたまでです。
>変化を求める内面的衝動→開いた対決→再秩序付け、或いは、開いた再生感
>覚→新しい思想や感情の吸収→より大きな受容性と世界への開放性には場が
>必要であり、ある一定の課題が共有された空間あるいは集合内でネットによ
>る回答出しが無徳さんの提唱されるネットによる現代的サンガなのだと・・・
>そう理解させていただければ、
とのことはお察しの通りです。私より深い理解を示されておりsatさんの今後
のご活躍を心よりご期待申し上げます。
263
:
無徳
:2003/01/11(土) 21:05
訂正__<仏教理念を背景にしたサンガが形成され>を
<仏教理念を背景にした現代的サンガが形成され>と訂正します。
264
:
今里祐二
:2003/01/11(土) 21:15
>>127
みかんさんへ
僕は127を完全に読み落としていて、みかんさんに対し大変失礼な態度をとっていたことにようやく気づきました。
申し訳ありません。
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127 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2002/12/26(木) 14:59
信について。
わたしは漢文仏典を読む機会が多少ありましたが、その際に引っかかったのが「信」という感じの意味でした。これは現代日本語の信じるとは違う意味なのではないかとずっと考えていました。そうでないと理解できない用例が多いからです。
漢文仏典で使用される「信」ということばは、信・疑、信・不信が対になったことばではありません。もし宗教団体の信者が自分が信仰している、信じているとういことを「信」だと思うので有ればそれは誤りです。その人は「信」を得ていません。
宗教の信者の信は相対的なモノであり、自分は絶対の確信を抱いている、この信は揺らぐことはないと今は思っていても、機縁さえあれば容易になくなってしまうモノです。
わたしが漢文仏典で見てきた「信」とは全く別のことです。それは慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなることです。
法を慧眼で見、知るということは、事実を事実として体験したということですから、それは揺らぐことがありません。それはのどが渇いたら水を飲むとか、眠くなったら寝るというのと同じぐらい当たり前のことです。「のどが渇いたら水を飲む」ということを信じる人などいません。それはナンセンスです。それは事実として誰でも知っていることです。そのような有りようが、仏教における「信」の意味です。そして「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。
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僕は、みかんさんの上記のご意見に全面的に賛同します。
本当に申し訳ありませんでした。
265
:
犀角独歩
:2003/01/12(日) 00:17
255 今里祐二さん:
あなたは二重に私の書いていることを誤解していますね。
まず一点は本仏論者、日蓮全面肯定のあなたが日蓮が案ぜよと言っているのに案ぜなければ、日蓮の意に背くことになるであろうと言ったのです。
第二点。私は法華経は後世の創作であるという現代の仏教学並びに科学の、分析結果に反論する資料を持っていないので、法華経を釈尊の真説とすることはできない、こうは言ってきました。しかし、法華経には菩薩道という非常に勝れた精神が説かれているので、この点は捨てるべきではないと言ってきたのです。
本物であれば信じる、疑経であれば捨てればよいよいなどという二極思考はただの一度も記したことはありません。
このような浅薄な読み込みでは「気持ちがよく分りません」と言うのは寧ろ当然のことであろうと思うわけです。批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたいものです。
あと、「之」については、日蓮の言とあなたの解釈は大きく異なっていることはよくわかりました。
266
:
sat
:2003/01/12(日) 02:31
無徳さん:
仏教理念を背景にした現代的サンガについて、大変勉強になりました。ありがとうございました。
また、学会青年部時代の心情を語られたところ・・私自身、自らの問題として捉え今後の信仰の糧にさせていただきたいと思います。
重ねて御礼申し上げます。
267
:
菱村正敏
:2003/01/12(日) 07:22
無徳さん。こんにちは。
学会でバリバリやってらしたころのお話をあらためて興味深く拝見いたしました。
昨秋あたりでしょうか、聖教新聞販売店?の方からSGIグラフかなグラフSGI
か、、、そのような名前のフォーカスみたいな池田万歳の写真冊子を3ヶ月で
いいからとってくれ云々の話がありました。その悲壮な感じから新興宗教の信者
とはノルマ地獄だな、それにしてもノルマこなしが日蓮さんの思いとどう関わるのかな
と少しく考えさせられました。たぶん、池田さんという接着剤で学会員さんはかろうじ
て日蓮さんにふれさせてもらってるんでしょうかね。んで、気の毒だからとることに
いたしました。
そんなこんなで、その写真冊子。郵便受けに入ってることはいいのですが、
少し大きいので外にはみ出しています。人目につくことをやたら想像し、少し
恥ずかしいのでございます。
268
:
今里祐二
:2003/01/12(日) 10:23
独歩さんへ
>まず一点は本仏論者、日蓮全面肯定のあなたが日蓮が案ぜよと言っているのに案ぜなければ、日蓮の意に背くことになるであろうと言ったのです。
何をおっしゃりたいのかよく理解できません。
>第二点。私は法華経は後世の創作であるという現代の仏教学並びに科学の、分析結果に反論する資料を持っていないので、法華経を釈尊の真説とすることはできない、こうは言ってきました。しかし、法華経には菩薩道という非常に勝れた精神が説かれているので、この点は捨てるべきではないと言ってきたのです。
>本物であれば信じる、疑経であれば捨てればよいよいなどという二極思考はただの一度も記したことはありません。
なるほど、真偽未決ではあるけれど、なかなか良い事が書いてあるので参考になるよ、といったとこでしょうか。
それにしても独歩さんの考えは、大聖人様のお考えとは掛け離れたものですね。
『報恩抄』
『天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く「法に依て人に依らざれ」等云云。 依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉て外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。 此の経に又云く「了義経に依て不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。』
269
:
今里祐二
:2003/01/12(日) 10:24
(つづき)
大聖人様は鎌倉時代の方ですから、当然その時代の科学知識や仏教学の成果の限界に制約されます。
であるがゆえに、法華第一という考え方のまま人生を押し渡って行かれたけれども、
もし現代の科学知識と仏教学の成果を元に、仏法を研鑽されたらどのようになるだろうか……?
上記の道を歩いてみよう、というのが独歩さんの立場だと理解しています。
僕からみれば「身の程知らず」という言葉しか思い浮かびませんが……、
僕はまだ創価学会にいた頃こんなことを考えていました。
「なるほど、大聖人様は経文に忠実に書いてある通りの事を仰ってただけなんだな、ふむふむ。
それにしても昔の僧侶ってバカばっかりだなぁ、字が読めなかったのかしら(爆笑)」
今の僕はそのようには考えていません。
法然や空海のように法門の海の中で溺れず、妙法の珠を取り出だすことが出来たのは、
大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だったからである、と考えています。
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』
『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給ふ。』
270
:
無徳
:2003/01/12(日) 17:31
satさん今日は:
こちらこそありがとうございました。今後とも宜しくお付き合いのほどお願
い致します。
satさんは現役の創価学会員とのことですが、学会内部においてどんな思いを
抱かれておいででしょうか?
satさんのような知性をお持ちの方にとって、今の学会は開かれた許容領域が
在りますでしょうか?Libraさんという優秀な青年も居られますし、なんだか
んだ言っても創価学会は大きな組織ゆえに、優れた知性をお持ちの方も大変
多いと思われます。
しかし、池田大作氏に対する絶対的信奉といった側面は、総本山と袂を分け
てらますます強化されたのではありませんでしょうか?現在の私には学会の
内部情報を知る機会があまりありません為に、勝手な想像ですので失礼の点
がありましたらお許しください。
ただ、昨年の10月頃に九州の総合長をされている方を、信濃町から羽田まで
お乗せしたおり(現在私はタクシーに従事しています)、その方が現在にお
いては池田先生を信じることが全てなんだとの趣旨のことをしきりに力説さ
れおられましたので、ああ!やはりそうなのかと思ったものですからsatさん
にお聞きしてみたわけです。
差し障りのない程度で結構ですからお話いただければ幸いです。
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