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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
1
:
管理者
:2002/03/08(金) 16:52
ここから、このスレッドの過去レスを見る事が出来ます。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/gohonbutu.htm
スレッドテーマのご提案がありましたので、立ち上げます。
古来、日蓮大聖人様が御本仏である、というのは、大石寺、富士門流の根幹教義です。この教義について、幅広く、根源的な議論が展開される事を期待して、このスレッドを立ち上げます。
554
:
苦悩乱者
:2003/09/09(火) 14:38
553 訂正
最後の
>減劫御書(真蹟 富士大石寺)録内、録外にも載らず=誤
白米一俵御書(真蹟 富士大石寺)録内、録外にも載らず=正
555
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 07:33
苦悩乱者さん:
わたしは元々学会、のちに石山において仕事もした身上で、そんなことから、正信会各位とは距離を置いてきたのです。しかし、正信会開催の「日蓮聖人の世界展」「御書検索システム」を見て、それまでの偏見を一蹴しました。ついで正信会僧侶とお会いすることもし、現在に至っています。わたしは大乗経典、漢訳の是非から考えていますので、その意味からは、当然、論を跨ぐこともしばしばなのですが、しかし、真摯な研鑽の姿、実際の成果から頭が下がる思いを懐くことは度々です。
ご紹介の令道師のお言葉、学ぶところがあると思いました。々師のことは れんさん も記されてお出ででしたので、有徳の方と拝察もしました。
録内に載らない真跡のこと。この点はたしかにもっと意識されてよいものだと改めて思った次第です。有り難うございました。
556
:
初心
:2003/09/10(水) 15:55
ええー、はじめまして。
ロム専門できたものであり、蓮師門下各派の教学やそれぞれに(相互に)抱える
問題点なども把握できているわけですし、すべての用語をかんぺきに使いこなせるか
ということも怪しい部分があるくらいなのですが、あえて、そしてご質問申し上げる
かたちで、初カキコミさせていただきます。
>536
>しかし、こうなってくると、釈尊一仏を一切の根本としようとする法華信奉者には
まことに都合が悪い。お釈迦様は一切の根源であり、お釈迦様より古いように見える
仏に関する記述は、実は方便なのであって、本当は根本はお釈迦様なんだと、
こうやりだします。一切の仏の成道よりお釈迦様の成道が先だと言おうとしたのが
寿量品の久遠実成だとも言い出します。
との独歩さまのご指摘ですが、
ここのあたりで、我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数と説きあかして
久遠実成のおすがたをあらわされた後の釈尊@虚空会は、ただ今現在、インド・シャカ族
の王子の身をとってブッダが出現され法を伝えられて後のこの世界においてこそ
「釈尊」という名を添えてその呼称とされるものの、釈尊以前に法華経が説かれた時、さらには
ただ今以降の未来にまたブッダが出現されて法華経を説かれた後は、その時々の衆生は
われわれとはまた違う名前でお呼びするかもしれない、しかしその指し示すところはどの場合でも、
それぞれの時代にそれぞれ出現した仏さま方の本地である、同一の、久遠実成のブッダが
それまでの各時代での衆生教導での方便をすべてかなぐり捨てて真実のおすがたをあらわされたもの、
という風には受け取れないものなのでしょうか?
そうしてわれわれが今聞きならう御法の、直接のみなもとの大恩師であるお釈迦様、
その本質はじつはこうした無始の古仏であった。ただわれわれはこの無始より存する御法は
ひとりでに感得したのではなく、お釈迦様ご一代中八年間の説法が根源である、その大恩を
忘却すること無いよう、釈尊の御本懐を無始古仏の本質をあらわされての法華経本門八品の説法と諒解しつつも
そこに釈尊の御名を冠してお呼び申し上げるのだ、という風に、
つまりは根本をお釈迦様にとる、ということではなく、根本をわたしたちはお釈迦様を通して拝する、とでもいうような。
まわりくどい駄文長文にて、申し訳ありません。
557
:
初心
:2003/09/10(水) 16:07
また「人法一箇」等という場合にかりにも仏さまを「人」と呼称することはいかがな
ものかとおっしゃってることに関して。
常住の御佛は、具体的な形をとって衆生の前にあらわれる時は
衆生救済の活動ができる人身をとって御出現、人界の衆生の形で教導され、時機でないそれ以外の時には
まさに御法とでもいうべき形で衆生を教導されますよね。
凡夫の目には人身をとられた場合のお姿と、法そのものとしてのお姿とは別物のようにしかみえないが、
その本質は同一の存在であられる、という意味で前者を人、後者を法という用語で
いいあらわして、人法一箇とよぶのでは無いでしょうか?
お釈迦様が人の形をとって出現されたことは間違いのないことであり、かといって同じ
人身であるといってもその中身が余の人界の衆生と同様とは、佛教を奉ずる者なら
間違えても考えないでしょうから、そうめくじらを立てることもないのではないでしょうか?
558
:
初心
:2003/09/10(水) 16:17
また「人」の代わりに「仏」という言葉を使ってこのことを説明しますと、お姿を凡夫の前からは隠されて
御法としてのおすがたで教導に入られたお姿をも、
衆生をして入無上道、速成就佛身することを得させようとする、大慈大悲のはたらきを
クローズアップしてみる場合には「ほとけ(佛)さま」という風にお呼びする場合があったため、
より厳密性を期して「人」という語が用いられたのではないでしょうか?
つまりは人→人の形、法→法の形ということで…。
559
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 16:27
初心さん:
はじめまして。
> …お釈迦様、その本質はじつはこうした無始の古仏
仰ることは長らくの各派教学の争点ですね。
いわば、五百塵点仮説論 vs 実数論ということです。
で、わたしが記したことはそういう解釈についてではなく、ただ法華経の原文のみで考える話です。たとえば、初心さんが記された“始まりの無い古(いにしえ)の仏”は法華経のどこに説かれていますか。法華経の原文で挙げられますでしょうか?
無始であれば、「我実成仏已来」という記述にはなりませんでしょう。
ですから、わたしは法華経の創作姿勢はあくまで五百塵点実数論であると記しているわけです。それをどう解釈するかの話を記しているわけではありません。
> …無始より存する御法
これまた同様で、法華経原文にこのような御法はどこに記されているのでしょうか。
> つまりは根本をお釈迦様にとる、ということではなく、根本をわたしたちはお釈迦様を通して拝する、とでもいうような。
「根本は、お釈迦様ではなく、お釈迦様通じて拝するもの」というお考えですね。
では、この「根本」とは何でしょうか。
これは疑難ではなくて、わたしの判読力の不足を補っていただくために、まず、記された文意をお尋ねしてのことです。
560
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 16:41
続きがあったのですね(笑)
> …人法一箇とよぶのでは無いでしょうか?
ですから、誰がそう呼んだのかを問題にしているわけです。
蓮師の真跡では「人法」という場合、人は人師を指すので、意味が混乱するので本来の「仏法」がよいのではないのかと記したわけです。
また、「人法」の語彙の使用は蓮師思想から離れる後代の教学展開の中、特に天台本仏論、日蓮本仏論の中で特化していった語彙なので、蓮師の原型教学を素描する場合、それら教学的姿勢と分類する上で、使用しないほうが混乱がないとの意で記したわけです。
> お釈迦様が人の形をとって出現された
これは違いますでしょう。三十二相八十種好という「人」と異なる相を示しされるわけですから。
> …そうめくじらを立てることもないのではないでしょうか?
仏法ということにもめくじらを立てないでください(笑)
> 御法としてのおすがたで教導に入られたお姿をも、衆生をして入無上道、速成就佛身することを得させようとする、大慈大悲のはたらきをクローズアップしてみる場合には「ほとけ(佛)さま」という風にお呼びする場合があったため、より厳密性を期して「人」という語が用いられたのではないでしょうか?
初心さんは「法身仏」論者なのですか?
ここのところは何を記されてお出でなのか、わたしにはさっぱりわかりません。
無始古仏を言うのであれば正在報身の立場からの所顕三身論者なのかと思ったのですが、ここがいまいちわかりません。
また、大慈大悲の側面から見ると「仏」で、り厳密性を期すると「人」であるというのはどのような意味なのでしょうか。
また、誰が「人」の語を用いたのでしょうか。
どうも、よく仰ることがわかりません。
561
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 16:59
―559〜560からつづく―
一つ漏れました。
> 人→人の形、法→法の形
これまた、初見でなんのことかわかりません。
先にも記したとおり、仏は三十二相八十種好という仏の「形」で、人の形ではありません。
何よりわたしがわからないのは法の形ということです。
法に形があるのでしょうか??
562
:
苦悩乱者
:2003/09/10(水) 21:23
犀角独歩さん
私は、これで暫く「リードオンリー」になろうと思います。また私なりに研鑚を続けてゆくつもりです。独歩さんのような方々がおいでになることを知って、ああ、私は決して一人ではないのだ、ともに歩んでいるのだと確信しております。そして、特に印象に残ったカンコさん、愚鈍凡夫さん、そして御意見、諸資料を寄せてくださった諸氏の皆さん、有難うございました。
又、常徳庵さん、何度も「躊躇」をされながら、徹夜までされて、ご投稿をいただき有難うございました。私には決して悪気などない事を解っていただきたいと思っております。
563
:
空き缶
:2003/09/10(水) 22:31
最近デビューした空き缶です。横レス失礼します。
話が変わってしまうかも知れませんが、中国天台山の本堂の釈迦坐像には迦葉と阿難の立像が脇士となっています。
天台大師も人間釈迦を観ていたような気がしてなりません。
人間「日蓮」=末法の本仏も私としてはうなずけるのです。十界互具ですから、仏か菩薩かと論じることはどうかと思っています。
現在の大石寺系の本仏論は御影を造られた日法上人をはじめとする、日隆上人などの法華宗からの輸入による思想展開であることは確かなようですね。
564
:
顕正居士
:2003/09/11(木) 01:26
>十界互具ですから、仏か菩薩かと論じることはどうかと思っています。
「宗祖本仏論」からいうとそうであろうし、それでよいと小生も考えます。
しかし日蓮宗(諸派)のいう「人法」(人と法)とは「仏法」(仏と法)だ
という独歩さんは誤まっておらず、「仏法」では「仏の(教)法」と区別が
できないからいうので、「依法不依人」の人(人師=菩薩)とは違うんだ
は正しいでしょう。
菩薩は未だ修行を完成しない段階だから1%の「人法一箇」(名字の菩薩)
から99%の「人法一箇」(等覚の菩薩)まであるが、100%の「人法一箇」は
ない、などというとき、この「人」は「仏」の意味であります。けれども。
「十界」とは経典に出て来る生物(衆生)を整理し(六道)、聖者の種類
(四聖)を足して十だから、六道と四聖は別の分類で、かつそれが重なる。
声聞、縁覚、菩薩三聖は六道いづれにも出現し得るが、仏は人界南閻浮提
にのみ出現する。現実には地獄、餓鬼、修羅、天とは空想上の生物か人界
の身分のことであり、聖者に三乗の別があるわけでなく「一仏乗」のみが
ある。
教主釈尊とは円満の「人」のことで、「人」を超えた何者のことではない
とも日蓮は述べている。
比叡山根本中堂の御本尊が薬師瑠璃光如来であるのは、薬師薬王同体の上
から最澄は第3祖天台大師を救主・御本尊としたといえるでしょう。
参考・松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』(昭和48年・大成出版社)
の第3編・第4節「日蓮本仏論」は現代人の教養の上から宗祖本仏論を解説
しています。繰返し顕本論や智学居士の人物評も面白く、宗史書としては
悪評判(大石寺洗脳居士)でも、教義批評は価値があり、推薦します。
565
:
犀角独歩
:2003/09/11(木) 23:49
> 顕正居士さん:
有り難うございます。
ご教示、感謝申し上げます。
566
:
犀角独歩
:2003/09/12(金) 07:08
苦悩乱者さん:
562を読み落としていました。失礼いたしました。
「リードオンリー」になられるとのこと、各人の考えをわたしは尊重します。
ただ、わたしも引退宣言をしながら、こうしてふらりと舞い戻り、何日か書き続けたりしたところ、複数の方々から、メールその他で心温まるお言葉をかけていただきました。
あまり、頑なに白黒を決めずに、お互い大らかに行きませんか。
わたしは、今回、舞い戻ったことによって苦悩乱者さんと、メール、またこの板上で議論ができたことをうれしく思っています。この点について、御礼申し上げておきます。
有り難うございました。そして、また、今後ともよろしくお願い申し上げます。
以下は、わたしのHNの由来であるスッタニパータ−第1 蛇の章 3、犀の角 (岩波文庫『ブッダのことば』) の一節です。
「もしも汝が、賢明で、協同し律儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め。しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならぱ、あたかも王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め」
「われらは実に朋友を得る幸を讃称(ほめたた)える。自分よりも勝れ或いは等しい朋友には親しく近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め」
そして、こうもあります。
「相争う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧を生じた。もはや他のものに指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め」
シャキャムニ「独り歩め」という教えは、孤独になれ、孤立しろというものではないことがわかります。自身の精神の自立・自律を教えるものであるとわたしは読んでいます。
ですから、時には人と語らい、談笑することもその教えを破ることにはならないとも考えるのです。また、お話いたしたいと思います。
567
:
アネモネ
:2003/09/12(金) 10:34
犀角独歩さん
>あまり、頑なに白黒を決めずに、お互い大らかに行きませんか。
そうそう。そうですよ。
568
:
アネモネ
:2003/09/12(金) 10:35
苦悩乱者さん
ひとつ、苦悩乱者さんにお伝えしたいことがあったので、ここで書きます。
たまたま今読んでいる本のなかで、以前、苦悩乱者さんがこのスレッドの>464でレスされていた「四無量心」についての記述が出てきました。抜粋します。
「この仏陀の理想に準じて、他者の幸福を増進し〔慈〕、不幸を除去し〔悲〕、しかもそれに執着しない〔捨〕といういわゆる“四無量心”を鼓吹する。」(『仏教』渡辺照宏著より抜粋)
苦悩乱者さんのレスがとても印象に残っていたので、すぐに思い出しました。
これが仏教が求める精神なのかもしれないなあと思い、どんな形であれ仏教に縁をしてよかったと思います。
学ばせて頂きました。有難うございます。
またいつでも気が向いたら(すぐにでも)、気楽に投稿してくださいね。
569
:
アネモネ
:2003/09/12(金) 18:58
↑すみません。転載に誤りがありました。
四無量心の〔喜〕が抜けていましたので訂正いたします。
誤)「この仏陀の理想に準じて、他者の幸福を増進し〔慈〕、不幸を除去し〔悲〕、しかもそれに執着しない〔捨〕といういわゆる“四無量心”を鼓吹する。」(『仏教』渡辺照宏著より抜粋)
正)「この仏陀の理想に準じて、他者の幸福を増進し〔慈〕、不幸を除去し〔悲〕、他者を助けることを喜び〔喜〕、しかもそれに執着しない〔捨〕といういわゆる“四無量心”を鼓吹する。」(『仏教』渡辺照宏著より抜粋)
570
:
愚鈍凡夫
:2003/09/12(金) 20:35
苦悩乱者さん、今晩は。
気が向いたら、何かレスして下さい。
書くことがなかったら、ボケかますとか(コラコラ、おまえだけや)。 (^_^;)
571
:
愚鈍凡夫
:2003/09/14(日) 23:08
>>566
:に犀角独歩さんがご紹介下さいました、スッタニパータの現代語訳(訳者は違います)が下記のHPで読めます。興味のある方はどうぞ。
「クリシュナムルティ学友会」
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/
572
:
ガンコ
:2003/09/15(月) 11:39
種脱相対の魅力(エッセイ) 前編
何て呼んでいたものか忘れてしまったが、誰しも子供の頃に一度や二度は遊んだことがあるだろう。砂場などで砂を手でかき集めて富士山のように盛り上げ、そこに棒を差し込むのである。それが段取りであるが、あとはかわりばんこに砂をかき取っていくのである。やがて棒は支えを失って倒れる。倒したほうが負けである。
いちどこんなことがあった。砂をぜんぶ取り除いてしまったにもかかわらず、棒は倒れなかった。そんなバカなことがあるわけないのであるが、じっさいに起こったのである。べつに絶妙のバランスで棒が立っていたわけではなかった。何のことはない、棒が地面に深く突き刺さっていたのである。
顕正会に入って間もない頃はそれなりに純粋で、まじめに折伏を実践していたものだが、じぶんの先輩が頼りなかったこともあって、よく相手に逆にやり込められてしまったものだった。
「キミたちには日蓮を超えようとの発想があるのかね?」
「いいえ、とんでもない。大聖人さまを超えるなんて、そんな恐れ多いこと・・・」
「ああ、そう。じゃあ、オレはやる気しないなあ。」
「な、なんでですか? ぜひ、やりましょうよ。」
「いいかい、キミたち。キミたちが日蓮を尊敬する気持ちはわかるし、日蓮が立派な人物だったことも間違いないだろうよ。しかし、むかしの人間だ。われわれは日蓮の時代のはるか先を生きているのだよ。だから日蓮の思想なり教えを踏まえたうえで、もっと上を行かなければおかしいだろう。だいいち、オレは人の下に付くのって好かないんだよな。もし、やるにしても、オレは野心家だから、日蓮から学ぶだけ学んで、もっと上を目指そうと思う。」
「あなたって人はバカね。大聖人さまといったらいちばん偉い仏さまなんだから、超えられるわけないじゃないの。」
「ああ、そうかい。じゃあ、やらねえーよ。」
折伏のエキスパート(?)たちは、ここからが勝負だというのであるが、わたくしもわたくしの先輩もわりに気が弱くて、だいたいがこんなところで諦めていたものだった。
上記、二つの話はまったく別個の話であって、何らの脈絡もないのであるが、このところ種脱相対について考えをめぐらせていて、それぞれ記憶によみがえってきたのだった。
すでに察しのいい人には話の落ちが見えてしまっているかもしれないが、ようするに日蓮大聖人は野心を御持ちだったか? というテーマである。
573
:
ガンコ
:2003/09/15(月) 11:41
種脱相対の魅力(エッセイ) 後編
そもそも、種脱相対ほど論理矛盾のはなはだしきはない、と思う。
なぜならば、申すまでもなく日蓮大聖人の仏法は釈迦仏法を土台にして成り立っているのである。釈迦仏法を否定して大聖人の仏法を立てるのは、土台のない構築物のようなもので、倒壊を免れない。ゆえに、仮に大聖人に野心がおありだったとしても、ただちに釈迦仏法を否定するわけにはいかない。そう考えると、むしろ御書全編を通して種脱相対の義がほとんど見られないのは自然のことであって、つねには婉曲な御表現をあそばす大聖人の、その御本意を容易に拝し得ないのは当然のことだかもしれない。
まさしく種脱相対の魅力とは、御書を拝しても容易に見つけることのできない、種脱相対の義を探し当てるという楽しみなのである。
「自讃には似たれども本文に任せて申す。余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。」(下山御消息)
同御書の後半には「教主釈尊より大事なる行者」との大胆な仰せがある。そして、すでに開目抄をはじめとして諸御書において「主師親」を仰せになられている。しかし、この御書では「主君の御使ひ」とやや控えめな御表現をあそばしているのである。まさに、こうしたところに大聖人の御苦心があらわれているものと拝するわけである。
先の子供の頃の遊びに振り当てるならば、大聖人の仏法ははじめ釈迦仏法におおわれていてほとんど正体をあらわしていないのだろう。すなわち、砂が釈迦仏法であり、棒が大聖人の仏法である。大聖人は御法門の展開にともなって、徐々にまわりの砂を除きはじめる。もちろん慎重に、御自身の仏法が瓦解しないように、用心深くまわりから砂を取り除いていく。どうにか大聖人の仏法は、御在世中にほぼその全容をあらわしたと思えるが、しかし、完全にはあらわれなかった。なぜなら、仏法における大事な要素たる知恩報恩のうえからも、釈尊を完全に否定することは不可能だったのである。ゆえに、大聖人はぎりぎりのところまで砂を取り除いたけれども、それには自ずと限界があった。ところが、しかし・・・
何と、大聖人の直系を主張する大石寺の歴代上人は、その後を受け取って恐れ気もなく、さらに砂を取り除きにかかったのだった。これは自殺行為である。どんなに巧みに砂を除こうと、棒はいつか必ず倒れるのである。
ところが、日寛上人の時代であろうか、砂は完全に除去されてしまい、しかも棒は倒れなかった。
土台と思えた釈迦仏法は見せかけに過ぎず、意外にも大聖人の仏法は大地に深く根を下ろしていたのだった。
「根ふかければ枝しげし」とはこのことであろうと、今さらながら御金言を深くかみしめているところである。
574
:
犀角独歩
:2003/09/15(月) 22:19
ガンコさん:
> 土台と思えた釈迦仏法は見せかけに過ぎず、意外にも大聖人の仏法は大地に深く根を下ろしていたのだった
なかなかロマンチストですね。
そうではなくて、所詮、日本の大地に根を下ろした日蓮本仏論は、釈迦仏法の本質を喪失したもので、仏(釈迦)教ではなく、日蓮教であったということでしょう。また、日蓮の教えでもなく、その後の相伝という名の捏造によって作られた蓮師の教えとも違う別物であったということでしょう。それのほうが、石山系という井戸の中では根を下ろしたと言うだけのことです。しかし、大海を見れば、ぜんぜん、そうではないということですね。
575
:
愚鈍凡夫
:2003/09/19(金) 23:12
唯授一人血脈付法に想う。
「応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし故に二に仏宝を信じ三に法宝を信じ四に僧宝を信ずと云ふなり」(「当流行事抄」 富士宗学要集第3巻P212)
「久遠元初の僧宝は即是開山上人なり」(「当流行事抄」 富士宗学要集第3巻P214)
と述べ、日寛師は更に展開して、
「南無本門弘通の大導師末法万年の総貫首開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師」(「当家三衣抄」 富士宗学要集第3巻P238)
といい、そして、
「此の如き三宝を一心に念じて唯当に南無妙法連華経と称へ乃ち一子を過すべし云々」(「当家三衣抄」 富士宗学要集第3巻P239)と述べている。
「嫡々付法歴代の諸師」をも含めて、「一心に念じて唯当に南無妙法連華経と称へ乃ち一子を過すべし」なのである。
諸師(歴代法主)に対しても題目を唱え、一生涯感謝の念を持って過ごせとのことである。
所詮、これが「六巻抄」の本当の結論ではないのか。
日蓮本仏論にこと寄せて、唯授一人血脈付法の歴代法主上人(石山では歴代住職をこう称する)に対しても一生涯南無せよとのことである。
これは、石山に宗門上の権威と権力の一切を集中させようとする目論見ではないのか。
要するに、歴代法主は日蓮大聖人の名代であって、御内証は御本仏なのであると言いたいのではないのか。
而るに蓮祖は、
「経に云く「諸の無智の人あつて悪口罵詈等し刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ」(「開目抄上」 学会版P202)
「日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」(「開目抄上」 学会版P203)
と言い、更に、
「されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(「南条兵衛七郎殿御書」学会版P1498)
と、宣言している。
法華経の行者であり、教主釈尊の意志を継ぐ者であり、その人生は法華経の未来記実現に捧げた人生なのである。
真蹟遺文に自身を本仏と称した箇所はない。日蓮正宗独自の解釈である。
多くの遺文に自分自身のことを「法華経の行者」と称しているのは、将来、信者が迷わないためではないのか。
まさか慧心流口伝法門を取り込んで、日蓮本仏論を言い出すとは夢にも思っていなかったのに違いない。
様々な証拠から、初期興門派に唯授一人血脈付法などなかったのは事実である。
その証拠の1つとして『二箇相承』は、武田勝頼に奪われるまで、石山ではなく重須(現在の北山本門寺)にあったといわれている。
もし、日興師→日目師へと血脈相承が行われたのであれば、偽書であっても相承書が石山にあって当然ではないのか。もし血脈相承があったのならば、日興師→日代師の流れが正統と言えまいか。
石山ではなく、重須にあったことが血脈相承を否定しているではないか。
残念ながら、日興師の遺文にも偽書が多数存在するという。従って、石山の主張を鵜呑みにはできないのである。『富士一跡門徒存知の事』、『日興跡條條事』は偽書の疑いが極めて高い、と言えるだろう。
そして、日興師は重須に居を移されてからも曼荼羅書写を行っていたし、重須での日興師の弟子も書写していた。勿論、日目師も書写していたのである。
果たして、バラモン教や密教まがいの一子相伝思想が蓮祖の理想だったのだろうか。もう一度見つめ直すべき課題であると思う。
以下は、諸師の曼荼羅書写年代である。
●本尊書写年代
日郎師1287(弘安10)年
富木常忍1295(永仁3)年
日向師1296(永仁4)年
日高師1301(正安3)年
日目師1326(嘉暦1)年
日法師1331(元弘1/元徳3)年
日仙師1332(元弘2年/正慶1)年
日道師1334(建武1)年
日妙師1334(建武1)年
日郷師1344(興国5年/康永3)年
日満師1357(正平12年/延文2)年
日大師1364(正平19年/貞治3)年
日代師1388(元中5年/嘉慶2)年
576
:
空き缶
:2003/09/20(土) 02:33
愚鈍凡夫さん
あらゆるスレッドでのご活躍すばらしいです。
日興門流における日蓮本仏論の起源は、日興上人が御影をご本尊としていた点が、後代の諸氏のアイデアになったとも推察しています。
日有上人が日隆上人の教えを受けて、本仏論の原型ができたとも思います。
板曼荼羅も京都にいかれている最中に要法寺(日目上人書写の本尊)でみて真似しようと思ったんでしょうか。
それとも法華宗との交流の中で、妙本寺の板曼荼羅(日法上人彫刻)でも拝観するチャンスがあったんでしょうか。
日寛上人の本仏論はまさしく中古天台そのものですね。本因妙抄の出現も加担してると思いますので、要法寺も片棒担いでいますかね。
私の手元にある「三大章疏七面相承弘決」(大正年間のものです)は面白いです。天台宗の書簡なのに日蓮宗の寺にある写本を使って補っているのです。
この寺とは身延山久遠寺です。写本の書き主は「日辰師」と出ています。久遠寺歴代の日辰か要法寺の日辰かはわかりませんが。
要法寺の日辰師のことであれば、本因妙抄を創った人も特定できそうですが・・・
577
:
犀角独歩
:2003/09/20(土) 06:46
わたしはかつて以下のように記しました。
*** 転載はじめ ***
5 名前: 独歩 投稿日: 2002/01/15(火) 23:42
― 大石寺問題提議から転載 ―
○六巻抄は何を説こうとしたのか
六巻抄を読もう、研究しようとなると、やはり、三重秘伝抄からというのは定石となるようです。
朗門から、近年では早坂鳳城師著「『六巻抄』に関する一考察―『三重秘伝抄』を中心に―」という小冊子が出ています。この内容については、追ってダイジェストします。
しかし、私は六巻抄の主題というのは実は当流行事抄、当家三衣抄にあると考えています。つまり、三重秘伝抄は、その導入に過ぎないという考えです。
久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益し給う。若し此の三宝の御力に非ずんば極悪不善の我等争でか即身成仏することを得ん(当流行事抄)
が、これです。そして、
南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大。
南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。(当家三衣抄)
これこそが、六巻抄のもっとも言いたい点でしょう。
下種三宝 ― 仏・日蓮聖人、法・戒壇之、僧・興師-目師-歴代諸師
ここから、読み戻っていくと、六巻抄の真の趣旨は理解できます。
「此くの如き(下種)三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし」とは、つまり、唱題の一念を具体的に限定しているわけです。ただ、ひたすらに日蓮本仏・戒壇之・興目歴代を念じる唱題をして一生を送れというのです。
ここで注意すべき点は、寛師教学は有師已来の日蓮本仏思想を集大成したものであるという点です。もっとも疑われる点は派祖本仏思想、あるいは代官思想なのであって、要師がいう「大聖冥益・当住顕益」思想が、その奈辺にひそんでいると疑う必要があると思います。
下種三宝を一歩進めるとき、唯受一人・興目両尊から連なる歴代住職(法主上人猊下)は日蓮本仏の内証を相承し、戒壇之と不ニの尊体であるという、いわば法主本仏論が、実は本音の結論ではないのかと思えるわけです。
つまり、六巻抄とは、日蓮聖人・戒壇之・興目両尊という聖滅400年に積み重ねられた権威の一切を石山住職が一手に握ることを宣言した書であると見るべきです。この結論を見るとき、冒頭の三重秘伝などという美名は吹き飛んでしまうと私には感じるのです。
もちろん、このような思想が聖人の祖意に見られるはずはありません。
皆さんのご意見をお聞かせください。
*** 転載おわり ***
奇しくも2年を経ず、愚鈍凡夫さんが575に同様の見解を述べられたことを嬉しく思います。
578
:
空き缶
:2003/09/20(土) 10:57
全く同感です。
目師滅後の大石寺は悲惨だったと思いますよ。
日有上人にしても、同時代の久遠常院日親師や身延の行学院日朝師、法華宗の日隆上人と比べれば大した存在とはいいがたいですね。
大石寺系では少しは有名らしいですが。
やはり鎌倉・京都で弘経を展開した朗師・昭師の門流からすれば、興門は主戦場から外れた場所での動きでした。
朝廷の帰依がなく、本門寺がたたなっか時点で聖人御霊蹟の身延にも差をつけられてしまった。
寛師のような論を展開してでも、独り善がりをするしかなかったのでしょう。
579
:
犀角独歩
:2003/09/20(土) 12:41
> 578
この論評は頷けます。
石山は有師前に廃寺同然まで廃れていたのではないのか、と想像しています。
寺地が売買され、住職権(あとで相承)も浄蓮が預かったのもあったことではないのか、それを復興したのが有師であったと考えます。しかし、仰るとおり、隆門に及ぶものはなかったでしょう。
帝都弘教も朗門像師が任を果たし、朝師、辰師などに比べ、石山教学は規模は小さいと思えます。ただ、寺内整備は精師がよく果たし、富士門に限る範囲ですが、寛師の巻き返しは要山にまでその影響は及ぼしたのは事実と思えます。しかし、所詮仰るとおり、「独り善がり」の域を出るものではなかったと見えます。
その第一の理由はアネモネさんのご見解にも見えますが、世間一般という尺度に叶わなかった点にあると、わたしは思っています。挙証義務云々を殊の外、強弁するのは、そこに理由があります。
580
:
アネモネ
:2003/09/20(土) 15:05
横レス失礼します。
>573
>土台と思えた釈迦仏法は見せかけに過ぎず、意外にも大聖人の仏法は大地に深く根を下ろしていたのだった。
日蓮本仏論の方々に共通して感じることは、誰よりも日蓮さんに心を合わせた信心を自負なさっている…ものとご自分を信じておられることかと。
そしてもうひとつ本仏論の方々に共通していることは、お釈迦さんを日蓮さんの下に置いて日蓮仏法を讃えているという点かと。
…でも日蓮さんって実際、お釈迦さんをそんなに下に見ていたんでしょうか。
なんか私にはどうもそんなふうには思えなくて…。
だから日蓮本仏論って、日蓮さんと心を合わせているようでありながら、実は、日蓮さんの心に違背しているってことはないんでしょうか。
だって、もしも日蓮さんの前で、お釈迦さまを軽んじるようなことを言ったら、なんだか恐ろしく叱責されそうな気がするのです。
そんな想像をするのは、私だけなのでしょうか。
581
:
アネモネ
:2003/09/20(土) 15:06
>579
>世間一般という尺度に叶わなかった点にあると
日蓮さんがどんな宗教家だっただろうかということを思い巡らせることは、今でも私はとても好きです。
心に釈尊を抱き、そして瞳に映るものは、苦しむ民衆の姿だったのではないかと…そんな日蓮さんへの思い入れは、信仰に距離を置いた今でも私の中に消えずに残っています。
だけど、その後の御歴代法主といわれる方々となると、心に抱くものや瞳に映るものが、日蓮さんのそれとは大きく違っていたんじゃないのかと思えてならないのです。
民衆の為にいったい何をしたんでしょう。天奏といったって、誰の為の天奏だったものやら。これも私の穿った見方というものかもしれませんが、苦しむ民衆そっちのけで、ただ自寺、自宗の権威性の為に奔走していただけなんじゃないかと思えてならないところです。
582
:
犀角独歩
:2003/09/20(土) 15:45
アネモネさん:
>> 世間一般という尺度に叶わなかった
> 民衆の為にいったい何をした…
そうですね。今日的な意義としては、世間一般というより、「民衆」、人々にとってという視点は大切であろうかと思います。
583
:
犀角独歩
:2003/09/20(土) 15:47
> 580
> 日蓮本仏論…日蓮さんと心を合わせているようで…日蓮さんの心に違背している
まったく同感です。
584
:
顕正居士
:2003/09/25(木) 04:30
犀角独歩さん。
>私は六巻抄の主題というのは実は当流行事抄、当家三衣抄にあると考えています。
>つまり、三重秘伝抄は、その導入に過ぎないという考えです。
(略)
>これこそが、六巻抄のもっとも言いたい点でしょう。
>下種三宝 ― 仏・日蓮聖人、法・戒壇之、僧・興師-目師-歴代諸師
さらに発達した『三宝抄』というのもあります。
「創価学会員のみなさんへ」に引用されています。
http://www.fsinet.or.jp/~shibuken/PAPER/1997/9-10-1.html
」
「日寛上人は、『当流行事抄』に 久遠元初の僧宝とは、即ち是れ開山上人なり と
示され、さらに『三宝抄』に 爾来日目日道代々咸く是れ僧宝なり、及び門流の
大衆亦爾なり云々 と」 *門流の大衆-門流の僧侶の意味
『三宝抄』
http://www.h4.dion.ne.jp/~hotaro/sanposyo.htm
585
:
犀角独歩
:2003/09/25(木) 11:03
顕正居士さん:
資料のご提示、有り難うございました。
朝から、久方に寛師文書をじっくりと読んでしまいました。
懐かしいです。同文は6年ぶりの再読です。
> 爾来日目日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也
この「大衆」は、他派に対すれば僧俗を問わず僧宝に当たると言った相対論をどこかで展開していたと記憶しています。
> 仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す
これが基本であるのに、本仏に限り、無始無終となり、その鉄則は通用しないと言うのが寛師の言うところなのかどうか、どうもこの点が曖昧だと何を読んでも感じます。
> 予が如く無智無戒も僧宝の一分
これが言いたいところなのでしょうね。
釈迦本仏としての蓮師教学から、天台本仏として恵心流口伝、日蓮本仏として日寛教学への改竄。一見すると、祖師信仰の暴走と見えますが、実の本音は祖師信仰から派祖信仰への転嫁の本音は、実は「法主本仏論」なのであって、寛師もその例外とは見えません。
以下の執行師の指摘、
― 宗祖本仏論はやがて貫主本尊論または己身本仏本尊論へと傾いている。即ち『類聚翰集私』には
「末法の本尊は日蓮聖人にて御座す也、然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法の相属して当代の法主の所に本尊の体有るべき也」
といい、『六人立義破立抄私記』には、師弟相対互為主伴の所へ本尊の実体を認めて
「当時の上人は日蓮聖人也」
といい、更に観心本尊とは
「吾身本尊に成る信成就すれば観心本尊也、観心は法華経、本尊は吾身なるべき也」
と論じているのである ― (初期の興門教学に於ける本尊意識の展開)
先頃の石山でも、石山住職、彼等が言う「御法主上人猊下」は「戒壇の大御本尊と不二の尊体」と再認するに至り、やはり教師已来培われた貫首本尊論は生き続けていたのだと感じました。
一方、「先生」と呼ばれる会指導者を絶対視する在家側では都合の悪い唯授一人をスポイルして、己身本仏論、あるいは凡夫本仏論、あるいは会長本仏論などと導くも、同様の祖型を使用していると再確認できました。
ひっくり返せば、みな「自分(たち)が絶対に正しい」。かくも肥大した自我意識に病的な偏向を感じるものです。
『三宝抄』もそんな病勢が散見できるよくできたフィクションと読みました。
586
:
仏法2099
:2003/09/26(金) 21:48
皆::正なるは「ワガ方、、」との賜るノー、、。 これが「強いものを残したいと言う”歴史”の誤りの原点」であろうか、、?
昔は「強い者の意見が通ったが、これからは”IT時代に耐えうる情報”だけ」が「庶民にも許容」されるでしょうか、、?
587
:
顕正居士
:2003/09/27(土) 02:44
大石寺には妙観講や顕正会だけでなく本門正宗、妙法蓮華宗、正理研究会、
ウィッピー文明等、分派といえないものを含め元信者、元会員のはじめた宗派が
たくさんあります。宗祖本仏−法主本仏−会長本仏−自分本仏という妄想の系列
がはぐくまれる宗旨であったとはいえるでしょう。
日寛師が蓮興目道以来嫡々の大石寺こそ富士門流の総本山なれば他山の相伝も
これ大石寺の相伝、八万四千の聖教悉く一秘総在の大本尊に帰す、大本尊とは
わが山の戒壇本尊是なり、嫡々の血脈と大本尊と眼前に在り、誰か是を疑わんや、
のような教義を集大成した。そんなことを云っても坊さんが百人もいない宗派で
気勢をあげているだけで本気にはされないから弊害も生じない。それが創価学会
が出て嘘が真に変じ、戒壇本尊は題経寺の板曼荼羅よりも有名になってしまった。
その時に都合良く日亨師が出ておられ、富士門流の趨勢大石寺に帰したのだから
今後は法螺話ではいかんと要集、全集を遺された。しかしもう真顔になっている
し、いまさら学問でもない、第一、葬式がいそがし過ぎると、信者が二百倍に
なっても少しも学問どころでない。それでは暖簾代はもう払わんと創価学会は
云い出すが、面倒なことは坊さんの仕事のはずだったから用意がない、「暗黒
の富士宗門史」をいうために少しだけ宗史の勉強係を任命する程度。肝心な所は
江戸時代のまま「当寺のお宝」信仰だから、間に変なのがいっぱい出て来る。
ということでしょう。
588
:
犀角独歩
:2003/09/27(土) 10:09
587 顕正居士さん:
このご説明、簡潔にして微を尽くしていると感嘆しました。
有り難うございます。
589
:
IT時代ー探求人
:2003/09/27(土) 21:33
、、::今後はIT情報時代の交差に”耐えうる”宗教だけが「勝ち残るのでは、、??」ないでしょうか、、?
590
:
空き缶
:2003/09/27(土) 22:02
現在、日我上人「一流相伝大事私」(興風談所)の研鑚中です。
日蓮本仏論の形成に妙本寺中興の祖も、かなり貢献してそうです。(笑)
中古天台の「二帖抄」を引用しながら天台宗としての解釈の仕方を示し、ついで日蓮門下の法華本門思想を展開しています。
八品派の日隆上人「法華天台両宗勝劣抄」(通称:四帖抄)の影響は、日興門流にとってかなり大きなものであったと思われます。
恐らく日隆上人なくんば日蓮本仏論もなかったのではと思われるくらいです。「種脱相対」は日隆教学が発信源ですね。
591
:
れん
:2003/10/03(金) 07:19
空き缶さん。保田妙本寺の文献で気になるのがあります。郷師の弟子の薩摩日叡師の著述「日叡類集記」には「仏三次第の事。大上人御出世御本懐御法門日目上人御相承ハ弘安五年正月一日也。日目上人ヨリ日郷上人御相伝ハ元弘元年十月一日也。又日叡此御法門日郷上人ヨリ相続ハ貞和元三月七日午時京都七条坊門ニシテ相伝。御奏聞ノ時ナリ。建武二年六月中旬大石寺御仏前ニシテ相伝。先後二度」とあります。これに関して同じく日叡師著述の後信抄には「師傳ニ又本佛、本戒、本尊等ノ大事アリ秘ス可シ秘ス可シ」とありますが、此等の法義が今の妙本寺に伝承されているのか、またその
592
:
れん
:2003/10/03(金) 07:27
内容は具体的に何なのか。またその内容は石山に伝わっていた通称三口一徹ノ御相伝(日目上人直授相承)とはたして同内容なのか。機会がありましたら、保田妙本寺の貫首上人にお聞きいただいて、ご教示ください。m(__)m
593
:
空き缶
:2003/10/03(金) 11:07
れんさん
宿題をありがとうございます。
鎌倉住職は御高齢で、正直言いまして何を話されているのか私には聴き取れません。
それから薩摩日叡師のことは、日向定善寺の方が詳しいのではないでしょうか。
594
:
れん
:2003/10/03(金) 11:58
空き缶さん。早速のご返事ありがとうございます。定善寺さんは今も石山を総本山とする日蓮正宗に所属しているでしょうから、他宗派への情報公開は望めないと思います。ちなみに後信抄正本は定善寺蔵、日叡類集記正本は保田妙本寺蔵です。「大上人御出世御本懐御法門日目上人御相承」が現在も妙本寺さんに伝承されているとしたら、また、それが公開されれば、いま一つはっきりしない上代における「本佛、本戒、本尊等の大事」が解明できるのではないかと思いレスさせていただきました。現貫首の日櫻師がご高齢でお説を聞き取れない由で残念です。
595
:
空き缶
:2003/10/03(金) 21:20
れんさん
それにしても大石寺の閉鎖性にはまいりますね。
「後信抄」は日蓮宗宗学全書2巻に掲載されていますが、「類集記」は大同小異のため不掲載となっています。
定本は大石寺の堀さんの写本だったと思うのですが、正本現存とはどこからの情報か御教授ください。
「千葉県の歴史」の妙本寺文書をざっと見ましたが、該当文書は掲載されていませんでした。
「類集記」はどんな書籍に掲載されていますか?興風談所出版物ですか?
私も興味が湧きました。
596
:
愚鈍凡夫
:2003/10/03(金) 22:49
空き缶さん。
保田妙本寺の『万年救護本尊』について、ずっと気になっていたことがあるので、質問させてください。
富士年表には、
1279弘安 2己卯後宇多北条時宗御歳 58歳
12.27日興に文永11年12月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う(聖613・保田妙本寺蔵)
となっていますが、重須に移住する時、日興師は何故持っていかなかったのでしょうか。
日目師は蓮祖から曼荼羅を授与されていますから(1279(弘安2)年3月21日)、置いていく理由はないように思うのですが、その辺の事情を記した書はないでしょうか。
597
:
れん
:2003/10/03(金) 22:58
空き缶さん。後信抄正本の所蔵が宮崎定善寺、類集記正本の所蔵が保田妙本寺であることは何れも興風談所発行の「日興門流上代事典」にあります。空き缶さんの仰る通り後信抄は日宗全書興門集に掲載されてますが、類集記の方は掲載されてませんね。事典でも内容概略が掲載されているだけで全文掲載ではありません。また、「千葉県の歴史」にも残念ながら類集記は漏れています。私は類集記についてはいずれ興風叢書のシリーズの中に収められて興風談所より活字刊行されるのではないかと思っています。もっともこれは半ば私の個人的希望ですが…。
598
:
空き缶
:2003/10/04(土) 01:07
愚鈍凡夫さん
お久しぶりです。宿題の事、ずっと気になっているのですが怠けものですみません。
『重須に移住する時、日興師は何故持っていかなかったのでしょうか。日目師は蓮祖から曼荼羅を授与されていますから(1279(弘安2)年3月21日)、置いていく理由はないように思うのですが、その辺の事情を記した書はないでしょうか。』
との事ですが、私の手元にはこれらの事由を明確に証明する文書はありません。
しかし、この謎が「北山・・・本門寺モデルルーム」「大石寺・・・本門寺建設予定地」の発想を生み出しています。
そして、園城寺申状・御下文への期待があります。
宗祖御影と万年救護本尊はセットです。本門寺建立の時に同所に安置する御本尊です。確か妙本寺上代の置文の中にこのようなことが書いてあったと思いますが、郷師か伝師かはたまたその後の人か、今は思い出せません。
しばらく脱線してましたが、もう一度調べなおしてみます。
599
:
空き缶
:2003/10/04(土) 01:12
れんさん
やはり興風談所は鋭いですね。
今は妙本寺とチョッと距離をおいていますが、郷門の寺院(匡真寺)が家の近くにあるので、そこで質問してみます。
妙本寺は行くまでに時間とお金がかかってしまうので、今度手紙でも書いて聞いてみます。
600
:
愚鈍凡夫
:2003/10/04(土) 11:43
空き缶さん、レス有り難うございます。
いや〜、う〜ん、例の『日代置状』がまだ引っかかっているんです。
あの書が事実を語っていたとして、日興師が他の重宝と共に『万年救護本尊』も重須に持っていったとしたら・・・・・。
これはどういう事なんだ。と思ったりして。
いきなり、問答迷人さんの説がリアリティーを持ったりするんですよ・・・・・。
601
:
空き缶
:2003/10/04(土) 16:24
愚鈍凡夫さん
『日代置状』そのものは偽書の疑い濃厚ですが、盗難の事実についてはほぼあったとみて疑いないと、思考を転換しました。
順師の著作類もかなり疑わしいものがありますが、「日順阿闍梨血脈」については、北山にあるものが真撰であると思われます。
いわゆる盗難に遭った御本尊は現西山本門寺の「万年救護本尊」です。こちらの本尊には授与書はありません。この本尊が盗難にあい、代替として「日禅授与」の本尊が北山の「万年救護本尊」になったと推察しています。
602
:
愚鈍凡夫
:2003/10/04(土) 22:29
空き缶さん。
以前にも言いましたが、北山の『万年救護本尊』が、どういう事情で日禅師から重須に亘ったのか?
そして、西山の『万年救護本尊』が文書上に現れるのはいつからなのか。またその曼荼羅は何時図顕されたものなのか?
この辺の検証が必要なようですね。
御遺文に「大曼荼羅」、「曼荼羅本尊」の言葉はありませんから、連祖は基本的に御自身の曼荼羅に優劣はつけていなかった、そして年代による差別化していなかった、と思っています。
従って、保田の『万年救護本尊』をも含めて、この3つの『万年救護本尊』の歴史を検証することで、富士門の違う一面が見えてくるように思うのです。
勿論、『万年救護本尊』の命名は蓮祖によるものではなく、後世のものであると思っています。
603
:
空き缶
:2003/10/04(土) 22:39
愚鈍凡夫さん
仰せの通りと思います。
西山の万年救護本尊は「健治二年二月五日」御図顕の曼荼羅です。こちらには宗祖の授与書はありません。しかし、これは日興上人御在世中の「正中二年十一月十二日」夜に盗難に遭いました。仕方なく代替として北山本門寺の「万年重宝」としたのが、「日禅授与」の曼荼羅本尊です。恐らく日禅滅後の日興上人入滅前と推察すれば、元弘元年か二年のころでしょう。
先にも書き込みましたが、西山・北山の万年救護本尊は日興上人の添書により、後世にそうよばれるようになったと思われます。
「本門寺に懸け奉るべし、万年重宝也」この全く同じ興尊の添書があるところに、私は確信しているのですが。
文献上のことについては、「れんさん」も協力してください。聖域なき求道で。私もがんばります。
604
:
犀角独歩
:2003/10/04(土) 23:28
横レス失礼。
「万年救護」という成句自体の検証から始められる必要があるのではないでしょうか。
そもそも該当の“本尊”は上行始顕の義を蓮祖は記すも、どこに万年救護の義があるのでしょうか。
「万年救護」という思想がどの時期から、どこから生じたかを考える必要があろうかと思います。ちなみに真跡では同成句はただの一度も現れず、富要で見る限りでは、遺誡置文、五人所破抄、血脉両抄、:百五十箇条、穆作抄、五人所破抄見聞、申状見聞私、五人所破抄一覽、日蓮聖人年譜、富士門家中見聞、富士大石寺明細誌などに現れる語であって、この起源を興師、あるいは蓮師の求められるのかと、わたしは訝しく思っております。
なお、禅師授与“漫荼羅”を万年救護と記す例は、たしかに『大石寺誑惑顕本書』にも見られます。
605
:
空き缶
:2003/10/05(日) 01:39
独歩さん
仰せの通りです。
恐らく当本尊所持の妙本寺が血脉両抄を元に展開したと思われます。
しかし、明確な文献を探すことは実に重要なことであると思います。
私は宗学全書2巻と千葉県の歴史から探してみます。何か良い情報があれば、御教授ください。
606
:
犀角独歩
:2003/10/05(日) 08:19
空き缶さん:
おはようございます。
いわゆる、万年救護本尊、しかしたしかに人を惹き付けて止まないところがあります。石山では大講堂にこの模刻板漫荼羅が安置されていますね。
ある時、わたしはこの意義を、ある有力僧に尋ねたことがあるのです。答えは
「おそらくは日精上人が造立されたものであると思う。その相貌は四大天王を記さないなど、礼拝対象の本尊ではない。しかし、この本尊は昔から講堂に安置されてきた」
そんな話でした。つまり、石山では興師弘安2年授与のこの文永9年本尊を拝まないと言うのです。
しかし、富士他山におけるこの本尊の崇重は記すまでもなく、著しいものがあります。
この理由は元来は、「上行始顕」、すなわち、蓮師自らが上行菩薩として初めて顕した本尊である如き、脇書き
大覚世尊御入滅後
経歴二千二百
二十余年
雖爾月漢
日三ヶ国之
間未有之
大
或知不弘之
或不知之
我慈父
以仏智
隠留之
為末代残之
後五百歳之時
上行菩薩出現於
世
始弘宣之
にありますね。わたしはしかし、過去に『井戸端すれっど「山門前」』などでも記しましたが、この記載を蓮師の自身上行の宣言であるとする見方には消極的です。
それはともかくとして、蓮師上行応化論から、万年救護思想との習合がついに富士全体に浸透していく経過にはたいへんに興味があります。
空き缶さんの更なるご研鑽を期待申し上げるものです。
607
:
愚鈍凡夫
:2003/10/05(日) 15:05
「万年救護本尊」資料
図顕 1274(文永11)年12月
寸法 3紙 丈:106㎝ 幅:56.7㎝
讃文 「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」
所蔵 千葉県保田妙本寺
http://www.lbis.jp/gohonzon/016.htm
図顕 1276(建治2)年2月5日
寸法 3紙 丈:93㎝ 幅:47㎝
讃文 「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所蔵 静岡県西山本門寺
http://www.lbis.jp/gohonzon/032.htm
※「日蓮聖人御本尊集」のHBでは「尼崎 本興寺」となっていますが、曼陀羅№32は「西山本門寺蔵」ですから、HBの記述が間違っていると思います。
608
:
空き缶
:2003/10/05(日) 16:04
愚鈍凡夫さん
下の曼荼羅は西山の物ではないです。恐らく「尼崎 本興寺」のものなのでしょう。
相貌は良く似ていますが、西山の物は主題の真下に「日蓮」とありません。若干左寄りの位置に「日蓮」と入っています。主題のすぐ下には日興上人添書にて「本門寺に懸け奉るべし、万年重宝也」と入っているのが西山の万年救護本尊です。
これはどちらかが本物でどちらかは模写版と思われます。紛失の際に模写されたのでしょうか。「日蓮」以外の相貌は、同一人物でも絶対に書くことはできないほど細部まで一致しています。間違いなくどちらかが模写でしょう。
609
:
愚鈍凡夫
:2003/10/05(日) 16:24
空き缶さん、先に訂正されてしまいました。有り難うございます。
念のために、もう1度調べてみたら、曼陀羅№32は、№32-1と№32-2の2つありました。
番号32-1
図顕1276(建治2)年2月
寸法3紙 丈:98.8㎝ 幅:51.8㎝
讃文「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所蔵兵庫県尼崎本興寺
番号32-2
図顕1276(建治2)年2月5日
寸法3紙 丈:93㎝ 幅:47㎝
讃文「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所蔵静岡県西山本門寺
です。したがって№32の写真は兵庫県尼崎本興寺所蔵の曼陀羅です。
小生の間違いでした。申し訳ございません。 m(_ _;)m
610
:
空き缶
:2003/10/05(日) 16:29
愚鈍凡夫さん
両方とも真筆だと思われますか。
611
:
れん
:2003/10/05(日) 17:54
空き缶さん。今携帯版の日蓮大聖人御真蹟御本尊集にて確認しましたが、尼崎本興寺所蔵NO.32の1の御本尊には右下に日興上人の御筆にて以下の添書が存します。「富士西山河合入道女子高橋六郎兵衛入道後家持妙尼仁日興申与之」つまり、相貌が似ているのは、おそらく両御本尊が同日御図顕で、しかも被授者が親子関係であるためと思います。故に両御本尊は原本・模本というものではなく、どちらも蓮祖の御真筆です。
612
:
犀角独歩
:2003/10/05(日) 18:08
【606の訂正】
愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
わたしの投稿、2箇所間違いがありましたね。
誤)文永9年
正)文永11年
誤)大
正)大本尊
606にわたしが挙げたのは写真から文字の配りをそのまま写したものです。
脇書きとしましたが、実際は相貌の下に、右「日蓮」から「花押」にの隙間を埋めるように記されていますね。この「大本尊」の文字こそ、実に大きな意味があるのでしょうね。
613
:
犀角独歩
:2003/10/05(日) 18:51
またもや横レスですが、サイトから32-1、32-2の漫荼羅をダウンロードして、重ねてみました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/32_1_2_mandara.jpg
赤字にしたほうが32-2です。サイト掲載の漫荼羅が原図版から取ったものであれば、間違いなく違うものでしょう。
れんさんが32-1について記されていたので、わたしは32-2について。こちらには「懸本門寺…」の文字が記されています。末尾が切れていて、全文はわかりませんが。
参)Nichiren Shonin Gohonzon shu
http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/001.html
616
:
愚鈍凡夫
:2003/10/05(日) 19:34
話はずれますが、この曼荼羅が四条金吾授与の大曼荼羅だと思うのですが、何故、堺にあるのかご存知の方がいらっしゃったら御教示下さいませんか。
番号71
図顕1280(弘安3)年2月1日
寸法3紙 丈:87.3㎝ 幅:46.4㎝
讃文「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書俗日頼授与之
所蔵大阪府堺妙国寺
http://www.lbis.jp/gohonzon/071.htm
617
:
空き缶
:2003/10/06(月) 00:02
独歩さん
さすがですね。どうやったんですか?
素人目では同じに見えましたが。
特に主題の「無」と「妙」の間の右側にある点で消されている諸尊の具合がよく似ているので、私は模写・もしくは形木を利用したものかと思ってしまいました。
618
:
犀角独歩
:2003/10/06(月) 17:49
空き缶さん:
大したことではないのです。
漫荼羅をダウンロードして、画像ソフトで重ねただけです。
まあ、ネットが発達したからこそできることですね。
619
:
れん
:2003/10/07(火) 19:47
確認の意味で。 32-1、建治二年太才丙子二月日、(興師添書)富士西山河合入道女子高橋六郎兵衛入道後家尼仁日興申与之。
32-2、建治二年太才丙子二月五日、(興師添書)日興祖父河合入道申与之、懸本門寺可為万年重宝也。入道孫由比五郎入道女 所譲得也。大宅氏女嫡子犬法師譲与也。
両御本尊に存する興師添書により、両御本尊の被授者が親子関係にあるのが明白になります。
620
:
れん
:2003/10/07(火) 20:01
愚鈍凡夫さん。御本尊集NO.71の御本尊は確かに四条金吾氏に授与された御本尊だと思います。本来は四条金吾氏が晩年隠棲された甲州の内船寺に伝来すべきものでしょうが、内船寺所蔵の開目抄御真筆も後世身延山に移蔵されたとのことで、おそらくその時に、四条金吾氏授与の御本尊も身延山に移蔵し、その後さらに堺の妙国寺に移蔵されたものと推定されます。四条金吾氏授与御本尊が妙国寺に所蔵されるにいたったその辺の事情は御本尊の裏書を調べてみればはっきりすると思います。 m(__)m
621
:
空き缶
:2003/10/07(火) 20:11
れんさん
日興上人添書とされているものの一部は「日代筆」らしき筆跡がみられるとの見解を、どこかの本で読んだような気がするんですが?
たしか「日興祖父河合入道申与之」か「入道孫由比五郎入道女 所譲得也。大宅氏女嫡子犬法師譲与也」のどちらかだと記憶しているのですが。
622
:
れん
:2003/10/07(火) 21:02
空き缶さん。堀日亨師は富士宗学要集にて「入道孫…」以下の添書を「代師か」と注記されていますが、御本尊集編者は添書の全文を興師の添書としています。一応、御本尊集編者の見解を尊重し全文興師の添書としましたが、堀日亨師の鑑定を採るならば「日興祖父河合入道申与之」「懸本門寺可為万年重宝也」が興師の添書で、「入道孫…犬法師譲与也」は異筆で日代師による添書と推定されるものです。m(__)m
623
:
犀角独歩
:2003/10/07(火) 23:11
れんさん:
32漫荼羅について、少し質問させてください。
この両漫荼羅は親子に与えられたということですが、32-2にのみ「懸本門寺」とある理由を、どのようにお考えになりますか。
添書からすると32-2の漫荼羅ばかりが重宝とされ、この二つに優劣が存していたように感じるのです。本尊集の番号では32-1から数えますが、実際は32-2が主であり、その複本の如くに32-1を扱い、こちらは子女に授与したという類推は的外れでしょうか。ご批正をいただければ有り難く存じます。
ただ、この類推の場合、蓮師がこの二舗の漫荼羅に図する段階で優劣を付けたというより、興師が申し与える段階で優劣を付けたとも感じるのですが、どうでしょうか。
624
:
れん
:2003/10/08(水) 22:56
独歩さん。32-2の添書に「重宝」とあって32-1の添書には「重宝」とないことについてですが、根拠はありませんが興師が蓮祖直筆の曼陀羅に「重宝」の添書を記されたのはおそらくは蓮祖御滅後の事と私は愚考しています。勝手な想像ですが32-1は蓮祖滅後興師の許に納められたことが無く「重宝也」と記される機会が無かったのではないでしょうか。もっとも、興師弟子に授与された蓮祖曼陀羅で、興師の添書があるべきにもかかわらず存しないのがありますから一概には言えません。ただ私としては、「重宝」の字の有無に優劣をみることには消極的です。m(__)m
625
:
愚鈍凡夫
:2003/10/09(木) 06:30
皆さん、お早うございます。横レス失礼します。
小生もれんさんとほぼ同様に受け止めています。
№32-1と№32-2の漫荼羅の相貌に、さほど違いがないので(諸尊の数も配置も同じ)、「重宝」の添書の有無は、日興師が書き込む機会があったかどうかの問題だと思います。
日興師が蓮祖漫荼羅に「重宝」と添書したのは、厳重に外護し、粗末に扱ってはいけないとの配慮だと思います。要は、蓮祖漫荼羅を1舗でも多く、後世に残したいと思われたのではないでしょうか。
626
:
犀角独歩
:2003/10/09(木) 08:48
れんさん:
愚鈍凡夫さん:
そうすると、興師が手にできた蓮師漫荼羅は等しく「重宝」としたということでしょうか。そうすると32-1、32-2の添書は両方とも興師であるのに、片方にしか「重宝」と記されていないことは説明がつかないと思いますが、この点はどうでしょうか。(32-2、「入道…」以下は「代師か」と亨師言う)
627
:
愚鈍凡夫
:2003/10/09(木) 20:26
日興師がいつ頃から蓮祖漫荼羅に「重宝」と書き込むようになったのか、資料がないので分かりませんが、№32-1の添書と№32-2の添書は書き込んだ時期が違うと考えられないでしょうか。言わんとしていることは、№32-1の添書は「重宝」と書き込む以前で、№32-2の添書が「重宝」と書き込むようになってからのものという発想ですが(勿論、証拠はないです)。
どうも、日興師が蓮祖漫荼羅に、故意に格付けするような真似をするとは思えないのですが。
628
:
れん
:2003/10/09(木) 21:58
独歩さん。私も愚鈍凡夫さんと同意見です。ただし、私見を申し上げれば、「…申与之」は弟子檀越からの曼陀羅下付の申請により興師が蓮祖に曼陀羅図顕をお願い申し上げ、蓮祖曼陀羅御図顕後、曼陀羅を弟子檀越に下付する際に師弟関係を明確にするために添書されたものと推定されるのに対し、「…重宝也」は蓮祖滅後、興師が富士に移転して後に、特に興師の所蔵に帰した曼陀羅に対して添書したものと推定できると存じます。まあ、これはあくまで添書からの類推で明確な根拠は何一つありませんが…。もしこの推定が史実ならば32-2は、蓮祖滅後興師の所蔵
629
:
れん
:2003/10/09(木) 22:13
に帰して興師は「…重宝也」の添書をなすことができましたが、32-1は蓮祖滅後、興師の所蔵に帰さなかったために、興師が「…重宝也」と添書される機会が無かったが故に「…重宝也」と添書なされなかったことを示しているのだろうと思います。ですから、興師の重宝也との添書の有無は直接的には曼陀羅の優劣を示すものでは無かろうと思っております。m(__)m
630
:
犀角独歩
:2003/10/10(金) 05:15
れんさん:
愚鈍凡夫さん:
あ、なるほど。お二人とも、わたしの漫荼羅につき「優劣」と記したところが特に気になられたようですね。興師は蓮祖漫荼羅に差異を認められるような方ではない、この興師像には基本的にわたしも賛同はします。また、蓮祖在世と滅後で添書の相違有りというご指摘はなかなかの慧眼と拝しました。
ただ、それとは別に蓮祖の図示については、蓮師ご自身は、所謂、漫荼羅、守本尊その他、用途の違いで記されている個別の差異はあったように見受けます。縦横無尽に種々の意味合いで図されていた。その点、興師は蓮師とは違う在り方のように思えます。興師も多くの漫荼羅を書写されていますが、そのご自身の書写漫荼羅と、蓮祖の御筆を明確に分ける意図が「重宝」という表現に表れているように感じます。
わたしは二箇相承が蓮師に係るものであるとは到底思いません。ですから、重宝である御筆曼荼羅を懸ける「本門寺」構想がいつのころにその濫觴があったのか、興味を持っています。「懸本門寺」と添え書きされた御筆曼荼羅の分与は、その授与の弟子に本門寺建立を促す意図なのか、あるいは本門寺建立の暁にはその漫荼羅を本門寺に返納せよという意味なのか、この点はどうなのでしょうか。いずれにしても、本門寺に懸けるのは蓮師の御筆曼荼羅である、この点は動かないようにも思えます。
631
:
犀角独歩
:2003/10/10(金) 05:26
【630の訂正】
誤)興師は蓮祖漫荼羅に差異を認められるような方ではない
正)興師は蓮祖漫荼羅に優劣を認められるような方ではない
632
:
¥¥℃℃99
:2003/10/12(日) 23:14
横からゴメンです、、。 皆様のご意見は「スッゲー」です、、。 でも当の「日蓮サン」が「遠慮したのか??」==いまだに???のようですか、、??
しかしながら=本仏に”値”をするか、否か?=性欲克服?=が一応の観点か、、??」。 不妻帯=禁欲とは??かも?? 本仏を名乗るなら=禁欲=仏、、」かもネ、、。
633
:
れん
:2003/10/30(木) 19:10
独歩さんの言われるごとくの使い分けはあったと思います。興師の本門寺構想ですが、嘉元年間以降の成立とされる本門弘通事に「迹門、比叡山、本ハ日枝山、吾山、御社。本門、富士山、蓮華山、大日山」の文があり、興師在世中の文保二年成立の順師撰の法華本門見聞に「先謗法等ヲ対治して後法門一閻浮提に流布せばやがて本門の大戒立つべきなり」とありますから、興師に一閻浮提流布の後、天皇の帰依を得て富士山に本門寺の戒壇を建立するという構想はあったと考えますm(__)m
634
:
れん
:2003/10/30(木) 19:18
誤、独歩さんのいわれるごとくの使い分けはあったと思います。
正、蓮祖における曼陀羅図顕において独歩さんの仰る通り、曼陀羅、守り本尊等の使い分けはあったのは事実と考えます。
635
:
愚鈍凡夫
:2003/10/30(木) 22:34
横レス失礼します。
小生も犀角独歩さん、れんさんのご意見。正鵠を射ているものと思います。
下記アドレスの2つの蓮祖漫荼羅を比較すれば、一目瞭然ではないでしょうか。
四条金吾授与漫荼羅(大阪府堺市妙国寺蔵)
http://www.lbis.jp/gohonzon/071.htm
日眼女授与護本尊(東京都向丘長元寺蔵)
http://www.lbis.jp/gohonzon/072.htm
636
:
犀角独歩
:2003/10/31(金) 14:28
れんさん:
愚鈍凡夫さん:
たぶん、過去にお読みいただいていると思うのですが、守本尊の相貌については『創価学会の携帯本尊について』でやや触れたことがあります。
*** 転載はじめ ***
43 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/22(火) 03:44
横レス、失礼します。
曼荼羅をもって「守」とする真跡は『日眼女釈迦仏供養事』にあります。
「御守り書きてまいらせ候」
という一節です。この書は弘安2年の述作でありながら先のが「三界の主(あるじ)教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女(にちげんにょ)」と続くために石山僧俗にはあまり拝読されないので気が付かれないのかもしれません。
また、実際の漫荼羅で「護(まもり)」と入るのは建治2年8月13日、14日の2日間に図示された3体です。
相貌は中尊題目、愛染不動の梵字、二仏、四菩薩。四隅に天王を拝せず、右下に毘沙門、持国を並べ、両肩に「病即消滅・不老不死」と記しています。
見ればわかるとおり、通常の…何を通常というかは議論が分かれるでしょうが…漫荼羅とは相貌が違っています。
http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/038.html
http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/039.html
http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/040.html
守本尊であるとわかるのは、花押の中に授与者の名と「護(まもり)也」と記されているからです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/mamori_honzon.gif
大きさは50×30センチほどで、今の守本尊と比べれば、かなり大きいと感じます。もちろん、こちらが原型でしょう。
【参】桐谷征一師『大曼荼羅の世界』
44 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/10/22(火) 04:04
43の守本尊の相貌を見てわかるとおり、単に四大天王が四隅に拝される通常の漫荼羅とは違うのであって、それをただ縮小すれば守本尊になるということではありません。
今度の学会のものは、新語「携帯本尊」というものらしいので、もちろん、聖人の守本尊とは、縁もゆかりもないものです。ですから、相貌その他が違うのは、むしろ、当然なのでしょう。こんなアクセサリーと日蓮聖人の守本尊の原型を比べること自体、ナンセンスかもしれません。
*** 転載おわり ***
639
:
ガンコ
:2003/12/28(日) 08:38
だいぶあいだが空きましたが、以前に「種脱相対の魅力」なる駄文を書きまして、その折にいくつか感想をいただきました。まずもって、お礼申し上げます。
じつは、あれにはわたくしなりの野心があったのです。つまり、大聖人は野心家であられる、などということは信仰者の立場ではまず言えないだろう、と思うのです。
おもに日蓮宗の方は・・・ことに顕本あたりでは、釈尊本仏・日蓮上行を言うわけで、大聖人が釈尊をこえた・こえようとしていたとは絶対に考えない・・・つまり、それは釈尊に対する冒とくであるのは無論のこと、釈尊を「我等が本師」と仰ぐ大聖人に対しても甚だしい冒とくである、ということになろうかと思います。
また、日蓮正宗であっても、大聖人を野心家とするような表現はしないだろうと思います。
なぜなら、
「提婆達多は、・・・阿闍世太子をかたらいて云はく、我は仏を殺して新仏となるべし。太子は父の王を殺して新王となり給へ。」(法華題目抄)
野心というと、なんとなく、この御文を彷彿させるものがあって、ひじょうに困ったことになるわけです。久遠元初思想からいえば、新仏ではなく古仏でなければならない、という難しい問題以前に、大聖人と提婆達多が同じになってしまうのはとても都合が悪いから、その意味で、野心という表現は使わないだろうと思ったわけです。
いわば、ここが信仰者の盲点であって、日蓮本仏論の新たな展開の可能性を感じるのです。つまり、宗学・僧学にとらわれない、まったくの非信仰者が大聖人の御書を読んで、「日蓮というのはものすごい野心家だった、釈尊をこえようとの意図がありありと見える」と、ここまで読み取ることができたならば大収穫ではないかと思うのです。
すでに、宗学・僧学にとらわれてしまっているわたくし達がどのように論じたところで、あまり説得力をもたないという面がありますので、まったくの第三者が上のような新説を発表されることを期待したいものです。
無論、これを本仏論者が、あるいは信仰者が、手放しで受け入れることはありえないですが、従来の本仏論が行き詰まり状態?である以上は、大胆な発想の転換が必要であることは言うまでもないでしょう。
なお、手元の御書には掲載されていないので永いこと気がつきませんでしたが、不動愛染感見記の「日蓮授新仏」あたりに、何か重大なヒントが隠されているのではないかと、わたくしは思っております。
640
:
愚鈍凡夫
:2003/12/28(日) 09:22
横レス失礼します。
ガンコさん、高森大乗師は「日蓮授新仏」について、次のように語っておられます。参考までに。
**************************************************
なお、『不動愛染感見記』の授与書きに「日蓮授新仏」とみえる「新仏」が何を指すのかは明らかではない。新たに仏弟子となった「新仏子」の意とも解釈できる。その人は、一説に当時の清澄寺の住僧であった肥前公日吽(一二二八~?)とも推測される(22)。しかしながら、日号は、真言僧の間でも多く用いられたことが知られるので、必ずしも日蓮の弟子とは考えにくい。あるいは、叡山修学時代の学友にあたる弁阿闍梨日昭(一二二一~一三二三)をさすものとも推測されているが、確証を得ていない。また先述の如き本書の伝来から、白蓮阿闍梨日興(一二四六~一三三三)とも推察されるが、宗門の所伝では日興は岩本実相寺入蔵を前後して日蓮聖人のもとに入門したとされており、時期的に合致しない。
**************************************************
「日蓮遺文『不動愛染感見記』小考」
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents40.html
尚、上記HPの緑色『不動愛染感見記』をクリックすると「不動・愛染」の絵が閲覧できます。
641
:
ガンコ
:2003/12/28(日) 11:09
愚鈍さん、どうもです。
ざっと読ませていただきましたが、なんだか難しいですね。
この書の伝来が、日興門流というのがすごい。
しかも日興上人の入門以前であるところの建長六年御述作の御書を日興上人に託された。
ところが今日、信仰に資するところ少なきとして、日蓮正宗系ではしりぞけている。
なんでだろう? ってなところです。
642
:
れん
:2003/12/28(日) 15:08
ガンコさん。横レス失礼します。故川澄勲師の著書によりますと不動愛染感見記を所蔵する保田妙本寺にはこの文書に関して「十(トウ)の口伝」というものがあるそうです。不動(月形)愛染(日形)の月と日の画数を合わせると十になる、これは十界本有常住事の一念三千を具足する妙法蓮華経をあらわし、また日は昼、月は夜で昼夜四六時悉く妙法蓮華経であることをあらわしているとのことです。右ご参考まで
m(__)m
643
:
ガンコ
:2003/12/28(日) 17:28
れんさん、ご教示どうもです。
「十(トウ)の口伝」とはきょうみぶかいですね。
しかし、いつから伝わるものなんでしょうか?
大石寺でいうところの御相伝類はすべて大聖人に由来するというたてまえですけど、この口伝は上代に記録があるのでしょうか?
644
:
Jルーカス
:2003/12/28(日) 18:43
> 636
独歩さん
古い投稿にレスを返して恐縮ですが、今初めて気づきましたので一言。
>大きさは50×30センチほどで、今の守本尊と比べれば、かなり大きいと
>感じます。もちろん、こちらが原型でしょう。
今でも石山の「常住御守御本尊」には、この大きさのものも存在します。
石山では、常住御守御本尊はある程度の大きさの希望が出せるそうです。
645
:
れん
:2003/12/28(日) 19:20
ガンコさん。十の口伝がいつ頃から伝わっているのかは知りません。保田の相伝書は奥書によると保田十二世日要師が収集されたものの様です。日要師は石山九世日有上人の許で法義を学ばれたので、要師の著書や聞書類には多少ながら日有上人のご指南が引用されています。有師と要師との関係から保田の相伝書の出所は石山や尊門(左京日教師など)ではないかと愚考しております。m(__)m
646
:
ガンコ
:2003/12/28(日) 20:48
れんさん、どうもでした。
さて、どこの門流だかわからないのですが、六大部という御書の選定がありまして、けっこうおどろいたものです。
その順次は、守護国家論・立正安国論・開目抄・観心本尊抄・撰時抄・報恩抄です。
富士一跡門徒存知事にもとづく十大部には、守護国家論はありません。
愚鈍さんご紹介のサイトには、
>日蓮聖人は法華経至上主義を生涯貫いたことで知られるが、立教開宗の当初は、まだ真言密教に傾注していたことが理解できるのである。それは、日蓮聖人の初期遺文である正元元年(一二五九)の『守護国家論』(21)に、法華真言斉等を容認するような教義が認められることからも明らかである。
とあって、シロウト考えを申せば、後年の撰時抄・報恩抄において大聖人は徹底的な真言批判を遊ばしておられ、その整合性から守護国家論は大部の御書ではあるけど十大部には含めなかった、と思われます。
しかし、思うに、いわゆる十大部が日興上人の御選定とすると、では、あの不動愛染感見記を日興上人はどのように拝しておられたのだろうか?
じつに、なんとも不思議な思いにかられます。
647
:
れん
:2003/12/28(日) 22:25
ガンコさん。六大部とは初めて聞きました。大聖人は鎌倉時代の仏教学の水準から考えて、密教典も仏説と捉えていたと思います。大聖人は出発点が台密僧ですから、密教の影響を受けているのは当然です。大聖人が批判したのは弘法大師の法華第三・慈覚智証両大師の理同事勝の教判に対してで密教仏典そのものに対してではないでしょう。ですから大聖人は法華第一を前提にした上で密教そのものは肯定していたと思います。それが初期の愛染不動感見記や守護国家論、後々に図顕された曼陀羅に不動愛染の梵字が記されるという形で表れていると思いますm(__)m
648
:
三吉
:2003/12/29(月) 07:02
「六大部という御書の選定がありまして、けっこうおどろいたものです。」
(。☉_☉)ん? 日蓮宗の昭和定本に「六大部」ってありますので、
私は日蓮門下では一般的と思ってましたが・・・。
正宗系では、おっしゃられないのね。 〆(. .)メモメモ
649
:
犀角独歩
:2003/12/29(月) 10:30
644 Jルーカスさん:
> 50×30センチ…
> 今でも石山…「常住御守御本尊…この大きさ…存在
ほお、そうですか。それは知りませんでした。
ところで真筆護本尊は、その保存状態から見ると、折り畳んで袋に入れ懐中に持していたと想像できるのです。
いまのものはどのように身に帯するのでしょうか。
あと、石山の守本尊の四大天王の相貌はどうなっているのか、ご教示いただけませんでしょうか。
650
:
犀角独歩
:2003/12/29(月) 10:44
639 ガンコさん:
いま、ちょっと資料を探したのですが、みつからないので記憶だけで申し上げます。
蓮師がどのような形で感見記を記されたかわかりませんが、真言灌頂を受けて、その際に弟子として、「新仏」を授かったという意味であるという説を唱えていた人がありました。ここでいう、「新仏」とは灌頂を授かった弟子の呼称であるとのことでした。わたしは説得性を感じました。
参考までに
こちらつぶやきですが、六大部ですか、五大部ではなくて?
そうですか。これは初耳です。
651
:
三吉
:2003/12/29(月) 15:53
私のは正確には昭和定本を基にテキストにされたのを
波木井坊さんのサイトから落としたものですが、
「法華経&御遺言文」というフォルダーの下に
「行道遺文」「経典」「定本遺文」とあり、
「定本遺文」の中に「六大部」とあります。
その最初のタイトル部は、以下の感じになります。ご参考まで
六大部
#0015-1K0守護国家論正元元年(1259)[p0089]
#0024-0K0立正安国論文応元年(1260)[p0209]
#0098-100開目抄文永九年(1272.02)[p0535]
#0118-0K0 如来滅後五五百歳始観心本尊抄文永10年(1273.04.26)[p0702]
#0181-000撰時抄建治元年(1275.06)[p1003]
#0223-000報恩抄建治二年(1276.07.21)[p1192]
652
:
三吉
:2003/12/29(月) 15:58
ついでに、
「行道遺文」の下に「五大部」ではありませんが目次に「主要書」という
分類があり、それは以下の五つになります。
この場合は、「守護国家論」がはずれるみたいです。
主要書
立正安国論 ・・・・・・・・・・・・・・ ( 一)
開目鈔 (上) ・・・・・・・・・・・ ( 二七)
開目鈔 (下) ・・・・・・・・・・・ ( 四九)
如来滅後五五百歳始観心本尊鈔 ・・・・・ ( 七三)
撰時鈔 (上) ・・・・・・・・・・・ ( 一〇二)
撰時鈔 (下) ・・・・・・・・・・・ ( 一二〇)
報恩鈔 (上) ・・・・・・・・・・・ ( 一三九)
報恩鈔 (下) ・・・・・・・・・・・ ( 一五七)
653
:
犀角独歩
:2003/12/29(月) 17:36
感見記、新仏、日月に関連して、“虚構山幻想寺”『太陽体験』のページ、参考に
*** 転載はじめ ***
不動愛染感見記
千葉・保田・妙本寺蔵。
「生身愛染明王拝見。正月一日日蝕之時。ウム・シツ・チ・シヤク・ウム・ハム・コク(以上梵字に ふりがな)。大日如来より日蓮に至る廿三代嫡々相承。建長六年六月廿五日。日蓮新仏に授く」 黒い鳥は古来日神の使いとされてきたカラス。これが日輪中の赤いカラスならば天皇(王権)の象徴ということになる。三本足ではないことに注目。
「生身不動明王拝見。十五日より十七日に至る。ナマク・サ・マム・タ・ホ・タ・ナム・カム(以上梵字 にふりがな)。大日如来より日蓮に至る廿三代嫡々相承。建長六年六月廿五日。日蓮新仏に授く」
不動の真言の方は「ナウマク・サマンダ・ボダナン・カン(あまねき諸仏に、とりわけ不動明王に帰命し奉る)」ということだろう。カンは不動の種子である。これは釈迦真言と同じスタイルだが、通常の不動の真言は「ナウマク・サマンダ・バザラダン・カン(あまねき諸金剛尊に帰命し奉る)」である。
日蓮は愛染は日蝕の黒い太陽の中に、不動は三日続けて月中に、見たという。新仏とは「しんぼとけ」ではなく「しんぶつ」と読むのだろうか。灌頂を受けた者を指すらしい。
建長6年の正月一日はおろか日蓮が清澄寺に上ってから一度も元旦に日蝕が無かったことから、この書は感見記ではなく、秘密相承の切紙ではないかという説があるが、真相は不明である。
「日ノ愛染」「月ノ不動」ということに関して、『四帖秘決』第四には、
「別事ニ非ス。凡夫ノ肉眼ヲ以テ生身ノ仏ヲ見奉(たてまつ)レル也。日ノ愛染、月ノ不動ト申テ日輪ノ中ニハ愛染王ノ現(うつつ)ニ御座スル也。……日ノ愛染、月ノ不動ト云事ハ大集経ニ見(みえ)タリトソ承ル云云。世俗ニハ日ノ烏、月ノ兎ト申ス。」
とあり、日蓮誕生以前に、すでにそのような説が比叡山にあったことがうかがえる。
また当時、一仏二明王(大日如来と不動・愛染)というシンプルなトリロジーが神道側の密教摂取の柱となっており、この感見記もそうした神仏習合の場で生まれた可能性も否定できない。
太陽と月は日蓮の名のりと深く関わっているといわれる。また日蓮自身は寿量品を日、迹門を月、爾前経を星に喩えている(薬王品得意抄)。
「日蓮をこいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり」(国府尼御前御返事)は本気か、言葉のあやか?
「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名也。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。(中略)月はひかりあきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五々百歳の長闇を照らすべき瑞相也」(諌暁八幡抄)とはやけに思わせぶりではないか。
文章だけなら暗喩、または故あっての韜晦とも云えようが、『不動・愛染感見記』には密教画風の絵が描かれている。これが後加されたのでなければ、かなりショッキングな書といえる。愛染・不動が密教尊そのままの愛染・不動であり、密教の真言(おそらく感見時に唱えたのだろう)まで書いてあるという事実……。
ということは、後年顕す曼陀羅本尊の中の愛染・不動も、この時の真言密教の愛染・不動なのではないか。(初期の本尊には首題と不動・愛染のみ、というものがある。)
霊山において会座に連なっている諸尊(または凡夫内在の諸尊)が三身の上から生身(=応身)を現じて何が悪いというかもしれないが、それこそ真言密教の義そのもので、天台大師の立義ではない。それなのに、立宗後にこのような神秘体験をしてしまう日蓮が、一方で空海や円仁(えんにん)の夢想霊験を、
「世間の念仏者、現に夢に智者見えたりけるなんど申候ぞ。天狗の見せたる夢なり。只道理と経文を本にすべし」(戒法門・22歳)
「通力をして智者愚者をばしるべからざるか……但法門の正邪をただすべし。利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄・39歳)
「仏に最後の禁めに通力を本とすべからずとみえたり」(題目弥陀名号勝劣事・43歳)
「是くの如き少分のしるしを以て奇特(きどく)とす。若し是を以て勝れたりといはゞ、彼の月氏の外道等にはすぎじ」(星名五郎太郎殿御返事・46歳)
と否定するのだから、日蓮によくある矛盾、手前勝手と言ってしまえばそれまでだが、どう和会疏通(わえそつう)してよいやら悩む人もいるだろう。なかには真書と認めながらことさら檀家の目からかくし、自らも無視する住職もいるとか。それほど、これはやっかいな書なのである。
(日蓮が否定するのは神秘現象によって正邪を判定することであって、神秘現象そのものを否定してはいない、ということなのだろうか。)
*** 転載おわり ***
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