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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
573
:
ガンコ
:2003/09/15(月) 11:41
種脱相対の魅力(エッセイ) 後編
そもそも、種脱相対ほど論理矛盾のはなはだしきはない、と思う。
なぜならば、申すまでもなく日蓮大聖人の仏法は釈迦仏法を土台にして成り立っているのである。釈迦仏法を否定して大聖人の仏法を立てるのは、土台のない構築物のようなもので、倒壊を免れない。ゆえに、仮に大聖人に野心がおありだったとしても、ただちに釈迦仏法を否定するわけにはいかない。そう考えると、むしろ御書全編を通して種脱相対の義がほとんど見られないのは自然のことであって、つねには婉曲な御表現をあそばす大聖人の、その御本意を容易に拝し得ないのは当然のことだかもしれない。
まさしく種脱相対の魅力とは、御書を拝しても容易に見つけることのできない、種脱相対の義を探し当てるという楽しみなのである。
「自讃には似たれども本文に任せて申す。余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。」(下山御消息)
同御書の後半には「教主釈尊より大事なる行者」との大胆な仰せがある。そして、すでに開目抄をはじめとして諸御書において「主師親」を仰せになられている。しかし、この御書では「主君の御使ひ」とやや控えめな御表現をあそばしているのである。まさに、こうしたところに大聖人の御苦心があらわれているものと拝するわけである。
先の子供の頃の遊びに振り当てるならば、大聖人の仏法ははじめ釈迦仏法におおわれていてほとんど正体をあらわしていないのだろう。すなわち、砂が釈迦仏法であり、棒が大聖人の仏法である。大聖人は御法門の展開にともなって、徐々にまわりの砂を除きはじめる。もちろん慎重に、御自身の仏法が瓦解しないように、用心深くまわりから砂を取り除いていく。どうにか大聖人の仏法は、御在世中にほぼその全容をあらわしたと思えるが、しかし、完全にはあらわれなかった。なぜなら、仏法における大事な要素たる知恩報恩のうえからも、釈尊を完全に否定することは不可能だったのである。ゆえに、大聖人はぎりぎりのところまで砂を取り除いたけれども、それには自ずと限界があった。ところが、しかし・・・
何と、大聖人の直系を主張する大石寺の歴代上人は、その後を受け取って恐れ気もなく、さらに砂を取り除きにかかったのだった。これは自殺行為である。どんなに巧みに砂を除こうと、棒はいつか必ず倒れるのである。
ところが、日寛上人の時代であろうか、砂は完全に除去されてしまい、しかも棒は倒れなかった。
土台と思えた釈迦仏法は見せかけに過ぎず、意外にも大聖人の仏法は大地に深く根を下ろしていたのだった。
「根ふかければ枝しげし」とはこのことであろうと、今さらながら御金言を深くかみしめているところである。
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