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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

585犀角独歩:2003/09/25(木) 11:03

顕正居士さん:

資料のご提示、有り難うございました。
朝から、久方に寛師文書をじっくりと読んでしまいました。
懐かしいです。同文は6年ぶりの再読です。

> 爾来日目日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也

この「大衆」は、他派に対すれば僧俗を問わず僧宝に当たると言った相対論をどこかで展開していたと記憶しています。

> 仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す

これが基本であるのに、本仏に限り、無始無終となり、その鉄則は通用しないと言うのが寛師の言うところなのかどうか、どうもこの点が曖昧だと何を読んでも感じます。

> 予が如く無智無戒も僧宝の一分

これが言いたいところなのでしょうね。
釈迦本仏としての蓮師教学から、天台本仏として恵心流口伝、日蓮本仏として日寛教学への改竄。一見すると、祖師信仰の暴走と見えますが、実の本音は祖師信仰から派祖信仰への転嫁の本音は、実は「法主本仏論」なのであって、寛師もその例外とは見えません。
以下の執行師の指摘、

― 宗祖本仏論はやがて貫主本尊論または己身本仏本尊論へと傾いている。即ち『類聚翰集私』には

「末法の本尊は日蓮聖人にて御座す也、然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法の相属して当代の法主の所に本尊の体有るべき也」

といい、『六人立義破立抄私記』には、師弟相対互為主伴の所へ本尊の実体を認めて

「当時の上人は日蓮聖人也」

といい、更に観心本尊とは

「吾身本尊に成る信成就すれば観心本尊也、観心は法華経、本尊は吾身なるべき也」

と論じているのである ― (初期の興門教学に於ける本尊意識の展開)

先頃の石山でも、石山住職、彼等が言う「御法主上人猊下」は「戒壇の大御本尊と不二の尊体」と再認するに至り、やはり教師已来培われた貫首本尊論は生き続けていたのだと感じました。

一方、「先生」と呼ばれる会指導者を絶対視する在家側では都合の悪い唯授一人をスポイルして、己身本仏論、あるいは凡夫本仏論、あるいは会長本仏論などと導くも、同様の祖型を使用していると再確認できました。

ひっくり返せば、みな「自分(たち)が絶対に正しい」。かくも肥大した自我意識に病的な偏向を感じるものです。

『三宝抄』もそんな病勢が散見できるよくできたフィクションと読みました。


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