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自殺は正しい?
27
:
tenkan001
:2009/03/21(土) 11:53:16 ID:BVNXULSM
人間である限り考えるんです。人間の脳はすごいですよ。縋りたくなくてもこの体がこの世界、宇宙のひとつの生命体である限り、燃え尽きるまで生きなければなりません。
28
:
ososo
:2009/03/21(土) 17:59:55 ID:BNMzwBns
自殺は正しいとも、また間違っているとも思えません。僕には何とも言えません。
どう考えてもその絶対的な理由が見当たらないからです。
ただ時折、僕には生きるということが個人的なことではないように思えます。
自分、家族、友達、恋人、嫌いな上司、ペットの猫、通り過ぎる人々、尊敬する偉人、
花、木々、動物、空、風、海、地球、星、宇宙。
僕らは生まれてから一度たりとも一人で生きてきたことはありません。
それは直接的な繋がりという意味だけではなく、間接的にも様々なものと繋がって生きてきました。
宇宙がなければ地球がないように、地球がなければ僕らはいません。
多様なものが、多様なままに、共に生きてきました。
想像もつかないような壮大な繋がりの中に、僕らは生きていると思うのです。
僕は長い間、人は一人生まれ一人で死んでいくものだと思っていました。
しかしその考えはひどく傲慢だったと気付きました。
僕らは一人ではなく一つ。宇宙の一部、もしくは宇宙そのもの。
そう考えることは、別に哲学的でも妄信的でも非論理的でもないと考えます。
それが事実だと思うからです。
だから、そんな広い視点を持つと、生きることがとても神秘的で、また普遍的に思えて
自殺したいという発想がどこかに消えてしまうと言うか。
別に生きても死んでも、それは自由なのでどっちでもいいですが、僕は生きることをお勧めしますよ。
どうせ死ぬにしても、出来たら生命の本質を知ってからの方がいいと思いませんか?
29
:
いきてまーす
:2009/04/05(日) 13:33:09 ID:JiKC0WbM
人殺しがいけないように自分殺しもいけない。そう思います。
30
:
いきてまーす
:2009/04/05(日) 13:33:48 ID:JiKC0WbM
人殺しがいけないように自分殺しもいけない。そう思います。
31
:
B
:2009/04/07(火) 14:20:31 ID:x/h9Rd/Y
死にたくないのに死んでしまう人もいるのに自分から死ぬっていうのはいけないと思う。
32
:
e4
:2009/04/10(金) 23:43:05 ID:V12x6fAg
僕は死ぬ自由を肯定しますね。
「死にたくないのに死んでしまう人もいるのに自分から死ぬっていうのはいけないと思う」しかし逆に「生きたくないのに死ねず、惰性で生き続けざるを得ない人間」もいるわけですし、
そもそも「死にたくないのに死んでしまう人間」にとっての人生には「自身の人生に価値を見出している」という前提が存在しています。
一方「生きたくないのに死ねない人間」は自身の人生に何ら価値を見出していない、もしくは見出した価値を喪失したわけですから、前者と後者の命を同列に扱うことにはいささか無理があるように思えます。
「死にたくないのに死んでしまう人間」にとっての人生とは「主観的に生きるに値する人生」なのであり、「生きたくないのに死ねない人間」にとっての人生とは「主観的に生きるに値しない人生」なわけですから。
人殺しが許されない理由は「死を望まない人間の生を強制的に奪うから」です。自殺の場合は「死を望む人間の生を自由意思で奪う」ことですから、これも同列には扱えません。
宗教的、宇宙的なことに関しては、主観的真実に過ぎませんから(もし客観的真実であるとしても、証明が現段階ではなされていない以上、千段階では主観的真実として一般的に考えれば扱うのが自然且つ妥当でしょう。)
それらの極めて個人的な体験を引き合いに出して自殺志願者を説得するのは非常に困難だと僕は思います。
33
:
いきてまーす
:2009/04/11(土) 19:48:45 ID:JiKC0WbM
死にたくなるのは、私親のせいではないかと思うんです。
死を肯定してはルール違反ではないでしょうか。
ただ、孤独は死に近くなりますね。だから、支えが人はいる。
親は一番身近な人。
私は子を守る。夫からも。かけがえのない息子達を
34
:
e4
:2009/04/11(土) 21:32:11 ID:V12x6fAg
たしかに親の影響は無視できないものがありますね。
僕自身虐待を受けて育ちましたから、健全に育てられた人間と比較すれば、
ずっと自身の存在や人生について苦悩し、思索してきたという自負はあります。
いや、厳密にはいきてまーすさんが言うように親は勿論のこと、
親以外の第三者の支えすら無かったことが起因しているのでしょう。
死を肯定することがルール違反か否かは「死を主観的にどう解釈しているか」によりますので
極めて個人的なルールを持ち出すのは、僕からすれば、それこそルール違反以外の何物でもないように思えます。
僕はまだ学生であり、いきてまーすさんのように「守るべき他者」「愛する他者」がいないことが、
死を肯定出来る大きな要因になっている感は否めません。そして、何より、僕は他人を信用しないし、そしてまた愛したこともない。
つまり、あなたと僕は端的に言って「生きている世界」が違う。他者との肯定的な共有行為を経験した人間のフィルターを通して、
そうした経験を持たない人間の「自殺」を否定するのは少し順序が違う気がします。
いてきまーすさんは、レスを読む限りは旦那様のDVに悩まれているような印象を受けます。
(僕の中では「夫からも」の部分をそれ以外に解釈出来ませんでした。不快にしてしまったら申し訳ありません。)
しかし、あなたには「愛する人間」という支えが「生きる意味」として機能しているように思います。
他者を支えに出来ない、もしくは意図的に他者を支えとしない人間にとって、死とは「立派な最終手段」です。
生きている世界(厳密には個人の主観的世界観)が違うと、分かり合うのは非常に困難ですね。まあ、仕方のないことではあるんですが・・・・・
35
:
いきてまーす
:2009/04/13(月) 20:11:40 ID:JiKC0WbM
掲示板は勝手な世界です。言いたい事をいいっぱなし、DVというほどのものはないです。
ただ、子供が発達障害という見た目に分かりにくいので、夫がうまく息子と関われなかったりで時々悩みます。
発達障害を持って生まれた子供は、親から虐待を受けやすいと聞きます。
言っても聞かないから躾のつもりがだんだんエスカレートして、暴力へと、
そしてとめれない自分がいる。親も、愛情豊かに育っていないせいもあるだろう。
決して最少は憎いわけではない、可愛いと思ったはず、我が子の顔をみて、子供と関われないのだ。おそらく、
育っていないのだ。親自身が。
e4さんあなたにどんな辛い事があったのだろう? 聞いてもいいですか?
36
:
いきてまーす
:2009/04/13(月) 20:14:59 ID:JiKC0WbM
自殺は逃げだ。辛くても生きる事に価値がある。
どんな生き方をするかそれだけだ。
37
:
e4
:2009/04/13(月) 23:33:54 ID:V12x6fAg
確かにおっしゃる通りです。
掲示板の世界というのは匿名を盾に言いたい放題言える側面はありますからね。
感受性の強い方はネットを利用することで傷ついてしまう経験は非常に多いと思います。
それから、DVという解釈、大変申し訳ありませんでした。僕はあなたの旦那様を中傷してしまったようですね。
無礼をお許しください。
僕の虐待についてですが、僕はまず、親から名前で呼ばれていませんでした。
「カス、起きろ、朝だぞ」それが毎日の始まりです。(ゴミ、クズ等もありましたね。)
そして、刃物での切り付け、残飯を食べさせられた経験、性的虐待(僕は男ですが。)、端的に言えばこうしたことがほぼ毎日、
3歳から17歳まで継続して行われていました。
親には成人後復讐し、彼等は復讐によるトラウマ、精神疾患で、今でも甚大な苦痛に満ちた日々を送っています。(勿論僕は反省などしていません)
しかし、僕が死にたくなる重大な要因は親ではありません。それに関しては今は書きませんが・・・
もし、気になるようでしたら、また質問してください。
発達障害に関しては僕は無知なので、何も言えることはないし、言われることを望んでもいないとは思いますが、
いきてますさーんが自分の信念を全うすること、「死に屈服せず生き抜くこと」を心より願います。
38
:
いきてまーす
:2009/04/14(火) 04:27:05 ID:JiKC0WbM
そう、若い頃は無駄に時間が長く感じた。今は、あと30年〜40年位のもんだろうと、楽になってますね。そう考えると。
死に憧れを抱く時があるけれど、やはり、怖い。
e4さんは不幸な環境で生きて来たんですね。 気の毒。言葉が見つかりません。
ただ、あなたのような方は一人ではない。 同じ経験をした方と、知り会える努力をされたらと思いました。
あなたが経験した世の中は、人が安全に住めない所だと表明して欲しいです。
あなたの存在理由はそんなとこにあるかもしれません。今は。
39
:
名無しさん@生きる意味
:2009/04/14(火) 18:54:31 ID:u1yb1AJ.
自殺が正しいか?と゛うかより 今、現在生きている現状での選択枝の一つに過ぎないのです。極端に例えたら、あなたはYES NOがあっても!YESしか選んではいけないといっているようなもの。如何なる時でもYESが正しいか?なんてない。 苦しみ悲しみそして死ぬほど悩んだ結果 NOを選択したといって、私はいけないとは言うことが出来ない。ただ、本当にその選択枝しか無いのか!周りが見えなくなって思い込んでいるだけではないか!考えたり相談したりすることは良いと思うのです。 別に、自殺したから地獄があるとは言わない。またあっても問題無いこと。もっと苦しいことがあると知ることが出来るだけでしょう。 人とは言う迄も無いのだが愚かで〜す。阿呆です。馬鹿です。 自分さえ律せないのでございます。 正しいか正しくないか決めへんかったら前も後ろも分からねー。 まー、これが人類! と、知ればそれなりに生きて・…死んでいくことさえ出来るように治まる。 自分をよく見て・考えてください。自分は自分に・他人に・観られて恥ずかしい生き方を選択していませんか!!
40
:
いきてまーす
:2009/04/14(火) 22:28:30 ID:JiKC0WbM
人間、恥をたくさん掻いた方がいいといいます。
すったもんだするのが、人生。辛い事を克服して、強くそして優しくなれるんではないだろうか。
もし目の前で死のうとする人がいたら、止めようとするだろう。
41
:
e4
:2009/04/16(木) 08:04:36 ID:V12x6fAg
もう一度書きますが、僕は他者を信用しないし、他者を愛したこともない。
「出逢うための努力」というのは、まだ僅かにでも他者に肯定的な可能性を見出している人間が選択することです。
そしてまた、「安全な場所ではなかったことの表明」など何の意味も持ちません。
昨今の親殺し、子殺し、無差別大量殺人等、安全な場所で自我を形成出来なかった人間の残虐な事件、鬱病、人格障害、
そうした、世界や人間の闇、闇に生きる人間そのもの、そうしたものは、もうすでに十分すぎるほど社会に溢れ返っているわけです。
表明するまでもなく、社会が「無視できないレベル」でそれらは、そこにあります。
しかし、多くの人間は「見たくない」「関わりたくない」「面倒だから」蓋をする。
「意図的に目を背けている人間達」に何かを表明することの無駄は「自分自身の実体験から」過去に思い知っているんですよ僕は。
勿論そんな人間ばかりじゃないでしょう。しかし個人的実感として、
その絶対数は先に挙げたマジョリティーサイドの絶対数と比較すると、圧倒的少数です。
過半数の人間が重い腰を上げない限り、世界が肯定的ベクトルを以て変化することはない。
「変化とは、まず一人の人間が立ち上がることから始まる」ことも事実ではありますが、
他人を信用しない、そして社会を憎悪する僕にとって、長い目で見た場合の「他者との団結」の可能性が希薄であることは自明ですから、
そもそもの「一人立つ」意味と価値が前提として崩壊しているわけです。
「あれこれ理屈をこねてないで、行動しろ」という方もいますが、
行動とは何らかの具体的なベクトルとプラン、プラン達成の手段が自身の中である程度明確になって初めて可能なものです。
僕にとっては、こうしたネットを通しての関係性も、情報収集、人間分析以上の意味はほとんど持ちません。
そうした、ある種奇妙な方向性を以て達観した人間の心というのは、
僕のようにその達観に「正当性」を実感している前提が機能していれば、まず覆ることはありません。
失礼ですが、あなたのレスは、やはり「生きている世界」、厳密には「見ている世界」があまりに違いすぎることを思い知るような内容でした。
(あなたはは勿論何も悪くはありませんが。)
僕は、これから生きてゆく中で何かを選択するとしたら、自分の死か、自分の死を前提とした社会への私的制裁か、恐らくそのどちらかになるだろうと思います。
しかし、そこに後悔や虚しさはありません。これは虚勢ではなく「事実」です。
自殺することが虚しくない、むしろ死に充足感を見出せる人間の心理は理解出来ますか?
自殺する人間というのは、何も限界まで追い詰められた人間だけではない。
本当に広く膨大なんですよ、死の世界観というものは。
「他人を求めていないのなら、なぜここまで自分を語ろうとするのか。やはり、あなたは他者に飢えているのではないか?」
長文を書くと、そうした表層的且つステレオタイプな解釈をされる方が必ず出て来ますが、
そうではないことが理解出来ないそうした人間に僕は心底ウンザリしています。
「やはり、(僕達の世界は)見えないか」そうして世界への現在の認識が一層強固になてゆくだけのことが皆理解出来ない。
長々と書きましたが、以上です。
あなたが考える以上に死を選択する人間の思想というものは個体によっては深いものです。僕が伝えたいのはそれだけです。
42
:
ososo
:2009/04/16(木) 18:40:39 ID:LoQKJesU
僕が僕なのは僕が僕を僕として認識しているからです。
本質的には確定された自分というものは存在しません。
微小ながら自分と呼んでいるその存在は一瞬一瞬変化し、生まれてから一度も同じ存在であったことはありません。
何故自分というものを認識しなくてはならないかと言えば、そうしないと混乱するからです。
もし宇宙中に僕しか存在しないのなら、自分という概念自体必要ないかもしれません。
ただこの宇宙には実に多くの生物がいて、それぞれに自我というものをもっています。
なのでこの世界で生きていくためには、他者と自分とを区別しないとうまくいきません。
そしてそれをやっているのは脳です。
つまり僕とは脳だと言っても言い過ぎではないと思います。
では僕らが心とか魂と言っているものとは何なんでしょう?
心や魂にも僕というパーソナリティがあるんじゃないかと思うのが一般的かもしれません。
でも僕の考えでは、心や魂と言うものにはパーソナリティーはないと思っています。
あくまでパーソナリティを作り出しているのは脳やDNA。
心や魂と言うものは僕らを動かすエネルギーのようなものだと思います。
そしてそれはすべての生物が共有しているものだと思います。
僕もあなたもペットも植物も地球も宇宙もすべてが同じ心(エネルギー)を共有していると思うのです。
自分の一番奥そこ、自分を自分たらしめるものは、皆同じ。
こう考えると、他者を信じないと言うことは自分を信じないということかなぁと思ってしまいます。
現代人は個人とか自己というものに執着しすぎるように思います。
しかし自分の奥の更にに本質が皆同じであるなら、本当に大事なのは個人よりも全体ということになります。
我欲がよくないとされてきたのは、そういった本質に習ってのことかもしれません。
最終的に何が言いたいのかといえば、人との繋がりは悪いものじゃないと言うことです。
僕はジブリの映画が好きなのですが、何が好きなのかといえば話の中の人と人との関係です。
助け合うのが自然で、個人主義は不自然。
皆が自然と助け合おうと思って生きていたら、それが悪い世の中なわけありませんから。
個人という視点からではなく、もっと大きな視点で見ることが出来たら世界は変わります。
43
:
e4
:2009/04/16(木) 19:58:52 ID:V12x6fAg
本質的に確定された自己というのは客観的に不変不滅の「自己」ということでしょうか?
自己が常に変化し続けることは事実ですが、変化の前提となる「自己そのもの」は不変であり、
主観的客観的認識の変化の影響を混合させることは少々不自然である気がしますがどうでしょう?
自分という認識は他者との相対性の中で機能する概念ですが、
他者と自己の具体的区別を成立させることと、本質的な自己の有無とは何ら関係性がないように僕は思うのですが・・・
世界とは全ての自我、主観的精神世界の集合体として物理的な変革と共に存在しています。
全主観のネットワークが世界である、(少なくとも人間社会である)これは事実ですが、
しかし、ネットワークをどう駆使するかは、これは個々の精神世界のルールにより千差万別変化しますし、
ネットワークを拒否(厳密には部分的拒)する人間の精神世界すらも他者にとっての客観的精神世界として機能する側面を考えるなら、
世界の成立、自己の発展にとって、それらが否定的に解釈される理由や道理は無いわけです。
あなたは宇宙論的観点から精神考察を試みているようですが、それらは、あくまで「そのような解釈も可能である」という域を逸脱するものはなく、
そうした解釈が普遍的に適切か否かということとは無関係であり、加えて僕の精神世界を上記のレスからの断片的に把握したという前提を考慮しても、
妥当なラインまで論理的に理解出来たとは到底思えないし、
不完全な理解状態で「個人という視点からではなく、もっと大きな視点で見ることが出来たら世界は変わります」
というのは、こうした場合肝要な判断保留を思考停止によって放棄しているように僕には思えます。
他者との繋がりが希薄であることと、個人的見地からの信念、
アイデンティティーの確立とはリンクすることはあれ、イコールでないことは明白ですが分かりますよね?
僕とあなたは立っている世界がまるで違う。そして、世界とは立ち位置の異なる無数の主観同士が強弱、長短、正負、
それぞれの要素の総合的性質を以てリンクしている。
しかし、こうした繋がりというのは、「一般的に解釈される繋がり」のみを適用して語ろうとすると、必然的に無理が生じます。
たとえば独我論的見地から言えば、自己を除く全ての存在は意識現象としての夢幻的な「繋がり」でしかない。
よって、他我を自我と同列に扱うことそのものが、独我論においては前提として破綻する。
しかし、夢幻的であれそうした意識現象の中に自己のコントロールを超越した領域が存在することで、「繋がり」を実感出来るわけです。
(完全な独我論者の場合不可能ですが。)
しかし、物理的世界や他我を自我と同等に評価する人間にとっては、こうした繋がりは到底繋がりとして肯定可能なものではないし、奇人変人の類と認識されるのが関の山でしょう。
(当然のことではありますが。)
繋がりや自我、他我というものは、無条件に混合して語ることが可能なものではなく、
思想、経験、ベクトルの個体差を考慮把握した前提を以て語られなければならないと僕は思いますよ。
44
:
いきてまーす
:2009/04/16(木) 20:02:14 ID:JiKC0WbM
e4さんは心の傷つきによって、今のあなたが存在していらっしゃるのだと感じました。
あなたらしくいられたらいい。
しかし、あなたのような経験をした事のない者には、分からないことがたくさんある。
私は安らかの死を考えています。 その為に、ため込んだ苦しみ悲しみを言葉に行動にして、生きているかな。
現実の世界で。
45
:
いきてまーす
:2009/04/16(木) 20:16:29 ID:JiKC0WbM
信じるとか愛するとかって、言葉で使われているだけで、分かってないと思うよ。
人を信じるなんてしない方がいい。
むしろ自分が信じられる人であるかがなんて言うか・・・重要。
親なんて、所詮愚かな人間。子供から学んでない親はろくでもない。
そう、考える。親に感謝そんなのできない。むしろ、子供に感謝しろと言ってる、心の中は。
とことん憎んで生きたらいい。
46
:
名無しさん@生きる意味
:2009/04/16(木) 20:19:30 ID:uRZT2oXE
私は、まず先に自分を信用しない!としている。そして、他人を信用する?が、信用しない自分が信用する他人を信用している? 可笑しいこと。僕、は僕により僕を僕と言う… 仮定により仮定して……仮定した世界の中で仮定があるきだしていく。 さも、夢の世界のように治まる。 さて夢の中で僕を演じる僕…っつてなんぞ?
47
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/04/16(木) 22:44:25 ID:i.TZOdDE
久しぶりに来たけど・・・ また重くなってますな。
>e4
凄い人生だね。「貴方の気持ち、少しはわかるよ」みたいな曖昧で無力な言葉しか掛けてあげられない。
だけど、不幸を理由にするのはちょっと違うかな、個人の不幸ってあんまり意味はないんだよね。
両親に捨てられて苦労した子供からしてみれば、たとえ虐待をする親でも側に居て欲しいと思うのが心理だ。
e4さんは「そんなことはない」と思うかもしれないけど、人間ってやつは無い物ねだりだからねー。
しかしまあ、e4さんは自分の経緯としてデータを提供しただけで、他意はないんだろうけど
やはり一般的には不幸自慢をしている様に見えてしまう。
だから「あれこれ理屈をこねてないで、行動しろ」といった答えが返ってくるんでしょうな。
e4さんの言うと売り、「貴方とは生きている世界が違う」という表現は実に正しい。
こういう個人の価値観の違いというのはそこら辺にごく普通に転がっている物だ。
男女の喧嘩別れ、理由を聞くと実にくだらない。 でも人それぞれ退けない部分がある。
その人にとってはとっても重要な事なんだろうけど、でも私にとってはどうでもよい事。
しかし、そんなどうでもいいことがきっかけで、自殺したり殺人に走ったり・・・
そういう世界が存在する事実を知ることは出来ても、理解は出来ない。
理解できないから「普通じゃない」の一言で済ませてしまう。
その普通とは、自分だけの世界なのに、、、 である。
となると個人の思想を元に、自殺は正しいか正しくないかを決めるのには矛盾が生じてしまう。
個人個人の考えにはばらつきがあるのでデジタルのように単純にyes、noで答えが出せない。
皆が言っていることが正しいという多数決論も間違い。
多数の意見は尊重されるべきというのは一つの真理であるが、
多数の意見というのは、その時代や背景によって答えが異なるため真理ではない。
どんなに時代が移り変わろうとも1=1、この不変の答えこそが真理だ。
では、フォースのように「命は全てつながっている、命宇宙論」みたいな
人間の手から命についての議題を分離して客観的考察から物事を考えると、どうなるのだろうか?
地球の自然界から命の理を学ぶとすると、答えは「命の存続」という事になる。
最終的には生命が存続するために決定される答えが正しい。
多数が優先されるわけではなく、個でもない、あくまで命の存続が優先される。
蟻や蜂などの社会性の昆虫は女王一匹を守るために多数の命を犠牲にする。
その他には自分の体を子供の餌として提供する親がいるかと思えば子を食べる親もいる。
ウサギなどは、増えすぎると親が生んだ子供を兄姉が噛み殺してしまう、子が子を殺すのだ。
また、増えすぎると自ら命を絶つ、自殺をする動物までいる。カッコウの子殺しも有名だ。
それらの命の営みは、命の繁栄ではなく、命の継承の一点に絞られる。
我々人間の持つ「価値観の違い」や「住む世界の違い」も
命の継承をする為の多様性の一つに過ぎないのかもしれない。
そう考えると、命の存続の為の自殺には正当性が出てくる。
ただし、個人の考えによる自殺には正統性はない事になってしまう。
48
:
ososo
:2009/04/17(金) 00:25:56 ID:EDOlX9nE
僕が言いたかったのは、自己を自己たらしめる存在についてです。
僕を僕と呼ぶのは自分であり、その自分を自分と呼ぶのが例えば自己であるなら、その自己を自己と呼ぶのは誰かということ。
自己は自己である前に存在ですから、その存在を存在と呼ぶのは誰でしょうか。
その問いはどこまでも自分が誰かであることを拒みます。
自分はもはや自分じゃなくなってしまいます。自己の枠から出て行ってしまう。
誰かではない。つまり誰でもないところの「何か」が自分をやっている。
そうやって掘り下げていった地点は、皆同じなのではないかと思います。
誰でもないのなら誰でもあるということ。
そういうすべてを含む宇宙みたいなモノのうえに自分が存在すると思います。
そういう考えのうえで述べたつもりです。
僕がもう少し頭がよければ、もう少しうまく伝えられると思うのですが。
もう少し勉強してきまっす。
49
:
e4
:2009/04/17(金) 00:46:31 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん
僕は「自身の死」か「自信の死を前提とした社会への私的制裁」か
今後、選択する方向性として、恐らく両者のどちらかであろうと書きました。
しかし、それは、既に人生というものを放棄しているからではないんです。
人間というものは目標、プランを構築する際に「望む未来」を具体的にイメージしようとしますよね?
たとえば「A大学に進学したい」という欲求を抱き、それを自己の中に目標として設定する時、
オープンキャンパスで感じた大学内の空気や、先輩との対話から得た情報、ドラマやアニメの誇張された学園物語の世界観、
そうしたものを自身の中で融合させて「肯定的な大学生活のイメージ」を構築するわけです。
そして、そのイメージが自身の中でモチベーションへとリンクし、精力的に前進することが可能となる。
でも、たとえば「幸せを知らない人間」にとって、不幸の底から這い上がる為に「肯定的な未来」をモチベーションへとリンクさせようと試行しても、
幸せな感覚を知らないことが起因して、幸せな状態をリアルにイメージ出来ず、
結果、極めて漠然とした、存在感のない空虚なヴィジョンを前に挫折することになる。
逆に「否定的なイメージ」というのは実体験の濃度や、それによるトラウマから、
恐ろしい程簡単にリアリティーを持たせることが出来てしまいます。
そうなると、リアリティーを持たせられない前向きなイメージよりも、
実体験を根拠としたリアリティーあるネガティブなヴィジョンに「足を引っ張られてしまう」ことになるわけです。
たとえば僕は「恋愛」や「友情」というものをイメージ出来ない。知らない上にイメージに必要な材料が存在しないからです。
恋愛感情や友情は、入試問題や、絵画の技法、そうした客観的に体感可能なものとは全く異質ですよね?
そして、イメージ出来ないことによって、そうした体感を欲求することにも僕は淡白になってしまっている。
たとえば「空腹」「乾き」「尿意」のように誰もが例外なく時間の経過さえあれば実感可能な感覚とは、どうやら違う。
具体的にイメージし、モチベーションへとリンクさせない限り、恐らく僕は今後何十年経過しようが経験出来ないでしょう。
僕にとって、未来や幸せというものは、知らないものを如何にして知るか、そして欲求するかという、ある種無謀な闘争です。
知らないものを、如何にして欲しがればいいのか。どんな状況であれ、現状に満足出来ない人間が、自身の世界を変革する為に出来ること、やるべきことは一つです。
「未経験の世界」に飛び込むこと、未知を体験を通して既知に変換することで自身の世界を拡大する。
しかし、これは勝算の不明瞭なギャンブルでもあります。未知を体験することで自身の世界が「肯定的に拡大する」か「肯定的に覆るか」
「現状の世界観をより一層強固にするだけに終わる」か「否定的に崩壊する」か・・・、
そうした変化の質や濃度は未知数ですから、知らないものを知ることには、それ相応のリスクが伴うわけです。
そうした未知に挑戦していけるだけの精神力や、信じようとする力が、僕の中に今どれだけ残っているのか、
また、絶望的な残量であるとしても、覚悟を決められるのか、
「自身の死」か「自身の死を前提とした社会への私的制裁」か以外の第三、第四の選択肢を僕が掴めるかどうか、掴むことを欲求出来るかどうかが、
そこに懸かっていること、今僕はそれを恐ろしいほどに実感していますよ。
50
:
e4
:2009/04/17(金) 00:47:07 ID:V12x6fAg
名無しさん@生きる意味さん
難解ですが、これは自分は自身を信用出来ないが、他者を信用することで、「他者を信用出来る自分」を信用出来るようになる、
端的にこのようなことでいいのでしょうか?
いや、違うのか?・・・・・
(,,゚Д゚) 隊員3号さん
親切に長文をありがとうございます。(皮肉ではなく純粋に)
隊員三号さんの肯定的な感情を実感したレス内容でした。
命の継承、マクロな視点で見ればそうしたことも当然言えてくるでしょうね。
ただ、人間は、そうした「自然の摂理に反すること」が可能な唯一の生物です。
子孫の繁栄、種の存続、そうした摂理に、人間以外の動物は「本能的に」従いますが、
人間は「理性的に」選択する向きがある気がします。
そうした摂理に従順になることが生物に施された根本的なプログラムなのだとすれば、
摂理に刃向うことが可能な人間というのは「刃向うという選択肢、可能性」をプログラミングされた、
超越的生物と呼称可能でしょう。
繁栄や存続という強固な運命から解放された人間、そこに超越者の意図や、進化論的的な意味があるとしたら、
あながち「主観的信念による死の選択」も無意味とは言えないのではないか、と僕は思ったりするんですよ。
勿論、「では、そこにどのような具体的意味や価値が存在するのか」と問われて、回答出来るほどの何かを、
現在の僕は何ら所持していないわけではあるんですが・・・
おっしゃるように、僕は不幸自慢をしているわけではありません。
(そういったアイデンティティーの確立法が脆弱であることは僕自身知っているし、
他者に欲求しない僕が、不幸自慢を展開するそもそもの理由がないのは理解いただけると思います。)
ただ、こうした他者との接触を通して「僅かな未知の体験」が実現出来れば、
先に書いた第三、第四の選択肢に繋がる可能性が増すと考えてのことです。
隊員三号さん、あなたにとって「世界」とは何ですか?
そして、現在「死への欲求」、つまり「世界の放棄の可能性」はありますか?
気が向いたら回答していただけると嬉しいです。
51
:
e4
:2009/04/17(金) 02:08:15 ID:V12x6fAg
ososoさん
前提の前提を追究する行為には際限がありませんね。(僕は好んでやりますが。)
僕がまだ哲学のド素人だった頃、哲学書の難解な記述に「なぜもっと簡潔に記述出来ないのか?」
という疑問を覚えたことがあります。しかし、哲学とは言語を駆使して語ることの出来る限界を極める学問ですから、
表現や語彙を限界まで吟味選択して記述した結果、難解な内容となることは極めて必然的なことです。
僕が哲学に関する書籍に初めて触れたのはヨースタイン・ゴルデンの「ソフィーの世界」でした。
そして、本格的に哲学に触れていくきっかけとなったのがNHK出版の「哲学のエッセンス」です。
当時の僕としては、それでも難解に感じましたが、「存在と時間」や「カント全集」を読み始めてからは、
あれでも、簡潔に記述していたのだと実感させられましたよ。
本来、具体的に記述するには難解になりざるを得ない哲学書を、入門者向けに簡潔に加工することは、
多くの重要なエッセンスを吟味しながら削いでいく作業に他なりません。
結果、対象となる哲学者の主要なメッセージや哲学の「骨組」を漠然と理解出来る程度の内容を構築するのが、
入門書では関の山となるわけです。
ですから、ososoさんのように哲学用語や難解な単語を使用せず、且つ専門的な記述を回避して、
哲学的メッセージを「具体的に」伝達しようとする行為は、どうしても抽象論になりざるを得ず、
非常に無理があることだと、僕は思っています。
ですから、決してososoさんの論理的思考力の問題ではありませんよ。
これはもう哲学の根本的な性質故の運命でしょう。
ososoさんのレスを読んでいて、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考を思い出しました。
論理哲学論考5・631
思考し表象する主体は、存在しない。
「私が見出した世界」という一冊の本を私が書くとするならば、その中では私の身体についても報告がなされ、
身体のどの部位が私の意志に従い、どの部位がそうではないかなどが語られるべきであろう。
これはすなわち、主体を孤立させる方法、というよりむしろ、ある重要な意味において主体が存在しないということを、示す方法なのである。
すなわち、主体についてだけは、この本の中で話題になることがあり得ない。
5・632
主体は世界に属するのではなく、それは世界の限界である。
5・621
世界と生とは一つである。(私=私の世界=世界=生とい等式)
「思考し表象する主体が世界の限界である。」とウィトゲンシュタインは言いましたが、
「主体」という、書き込み不可能な、不在としての存在、
ososoさんの言う消去された自己に近似している気がしますね。
勉強してくる必要性はありませんよ。僕も最善を尽くして読み込みますので、またレスをください。
52
:
いきてまーす
:2009/04/17(金) 05:05:26 ID:JiKC0WbM
ごめんなさい。理屈が多いので若さを感じてしまいます。
イメージすることと現実は違います。恐れないで、やるしかない。失敗はあるある。
過去の悲劇をこれから、今の人生に味付けていくか。
みんないろいろあるんだねー。
53
:
ososo
:2009/04/17(金) 12:37:10 ID:iRyd.Utw
前提の前提を追究する行為には際限がありませんね。←正にその通りです。
荘子の「胡蝶の夢」で、夢で蝶になって飛んでいるのは自分であった、目が覚めたら荘子という自分であった、
というのがあって、どっちも自分なら自分とは一体何なのかと。
夢の話なのでこれまた抽象的ですが、とても不思議に思いました。
主体は世界に属するのではなく、それは世界の限界である。
世界と生とは一つである。(私=私の世界=世界=生とい等式)
僕の考えに近似していると思います。
ただ言葉にしてしまうと何か言いたいことと違うような気もしてしまうんです。
例えば月を指す指が月ではないように、言葉はそれ自体ではないので言葉には限界があると思ってます。
語れないことは、沈黙するほかないというか。
そもそもお恥ずかしい話、哲学用語もあまり知らないのですが...。
というかこれ自殺は正しいかというスレなので、方向が違うほうへ行っっちゃていますね。
54
:
e4
:2009/04/17(金) 14:53:06 ID:V12x6fAg
確かに、本題から逸脱してしまったようです・・・
「自殺は正しいか」
>>1
さんのレスを読んだ時、僕はこの人は自殺願望に賛同共感して欲しい、というよりも、
何故人生はこんなにも不可解なのか、という漠然とした怒りが決して個人的な被害妄想ではないことを確認したかったのではないか、
と思いました。
僕個人としては、そもそも生や自己、世界というものは不可解であると実感していますから、不可解に対する怒りは所持していないんです。
でも、基本的に大多数の人間って、世界や自己がそこに存在していることを自明の前提として生きていますから、
たとえば「世界とは何か?」「自分はどこから来たのか?」「生まれるとはどういうことか?」
そうした根源的な問いに対しては、「生まれながらにして思考停止している」向きがあると思うんです。
だから、そうした人達にとって、世界というものは客観的に共有可能な「具体像」があって当然であり、
必然的に、具体的な世界で生きている自分にも「具体的な何か」が与えられなければならない、という欲求に直結してしまう。
しかし、この世界が具体的なものであるという前提に立った時、そこで人間は必ず主観的に理不尽な体験をするわけです。
すでに完成された(完成されていたはずの)世界の欠陥を垣間見てしまう。
そこで初めて、思考停止したマジョリティーサイドの中から、その主観的理不尽と真摯に対峙する人間が出てくるわけです。(いわゆる哲学する人間の誕生ですね)
しかし多くの人間は「世の中そんなこともあるさ」と割り切るか、あるいはこの複雑な社会システムの中のゼロサムゲームに埋没することで、
思考停止を継続する。
僕はいつも思うのですが、多くの人間が先に挙げた根源的な問いと対峙しないのは、
「答えが出ない問いに向き合うことの無駄(自問自答の堂々巡り)」を口実にしてはいるものの、
本当は、こうした問いと対峙することで「自明の前提としてそこに存在していた具体的な世界」が崩壊してしまうことを
潜在的に畏怖しているからではないかと思うんです。
「自分とは何か?」と問う時、追究するほどに自己は具体像を奪われていくし、
「世界とは何か?」と問う時、世界は驚くほどの多様性を見せ、結果自分の信仰していた具体的世界という神を喪失することになる。
こうした問いの先にある答は「我々は物理的に有でありながら、実質的には無に等しい」という悲劇的結末でしょう。
自殺を選択する人間の全員がそうでないにしろ、「存在の未知」に理性的に苦悩している方は多いと思います。
しかし、この思考停止社会では、そうした根源的問いはタブーであり、
そこに対峙する人間は不適応者として排除される運命を負わねばならなくなる。
そして、世界の根源に対峙する人間が増えていくことを望んでも、そらは絶望的でしょう。
何故なら、「そこ」に対峙せずとも「多くの人間」は生きてゆけるからです。
思考停止は悪か否か、個人の自由であるという前提を肯定しつつも、僕はそこをどうしても考えてしまうんですよ。
個人の根源的問いへの思考停止は他者を追い詰める、しかし個人の根源的問いへの対峙は個人そのものを追い詰めてしまう・・・
こうしたジレンマが存在する以上、(現在の)僕としては思考停止を極端に否定することは出来ないのですが・・。
苦悩からの解放、自殺は全ての否定的肯定的現在と可能性を放棄する行為ですが、
僕は願望として死後の結末に「無」を望む時がありますが(精神的に不安定な為、流動的です)、
色々と考えていくと真の幸福とは完全な思考停止世界である(思考することで、つまり存在と真摯に対峙することで人間は苦悩するわけですから)「無」の中にこそあるのではないかと思うことがあります。
人間は誰もが幸福を望むものですが、ある特定の個人にとって「幸福を葬り去ることで、それとセットである不幸をも葬り去る」つまり幸福の放棄という幸福、が「無」という絶対的な結果を残すならば、
そこには奇妙な価値が存在するとは思いませんか?
55
:
e4
:2009/04/17(金) 15:24:14 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん
理屈っぽいこと本当に申し訳なく思います。
(実際、僕との会話は非常に疲れるという方が多いんですよ。)
いきてまーすさんが言うようにイメージと現実が違うのなら、
まだ僕は死を選択すべきではないのかもしれませんね・・・
心配しないでください。
僕はまだ人生を完全に捨ててはいませんから。
僕の今後の選択次第でしょうね、全てはの結末は。
56
:
名無しさん@生きる意味
:2009/04/17(金) 20:31:16 ID:u1yb1AJ.
私には確固たる世界幹がない 持とうとしない。持てない。自分を信用しない。自信を持たない。確固たる世界、芯、心と言うようなものか?正しいか間違いかはともかく突き進んでいくから信用?任せてもいい。 思考することに絶望してないならばそれだけでもいいでしょうか? あなたの世界考を知るものがあるかもしれないでしょう? 送迎バスにひかれ…子供が死んでしまうようなことがあるが、運転手の所為だけでないと思う。そのような前例はいくらでもある。ならば親は身を守ること…バスが去ってから移動するなどのしつけはして当然のこと…親の監督不行き届きで死んでいます。と思います。 子供が上手く生きていけるかは親次第と言える部分は大きいでしょう。
57
:
いきてまーす
:2009/04/17(金) 20:35:05 ID:JiKC0WbM
生きるとは選択ばかりじゃないでようか?
失敗を苦にしない、学びとして、また、前にすすむ。
行きつく所は最終的に死です。
生きていて苦しい時は苦しいと言えばいい。 憎らしい時は憎めばいい。
感情を殺して生きることは、自分を否定していないかな。
そう 素直さ、せめて自分の時間は素直でありたい。
58
:
ososo
:2009/04/17(金) 22:07:08 ID:wNDL5e6w
死ぬとは何かと考えると、僕らは経験的に生きていることしか知らないのでそれについて本当は語れません。
死んでしまった人から、死とは何か聞くことは絶対に出来ませんし。
他人の死を見てそれを死かなぁと思うことは出来ても、自分の死については知りようがないので、あくまで仮定で語るほかはない。
死は無になることなのかなぁと長いこと思っていましたが、そもそも無とは何かと考えると厄介です。
無は文字通り無い。無が在ったらそれは無ではなくなってしまう。
死=無だとすると死は無いことになってしまう。ですが死は在りますから死は無になることではない。
かなり謎ですが死んでも在るということになってしまいます。
とすると死によって誰それではなくなるかもしれませんが、存在としては在る。
ここからは完全に仮説ですが、僕は死んだら生まれるんじゃないかと思っています。
何にかはわかりませんが、人間かもしれないし、花かもしれないし、風になっているかもしれません。
記憶が無いだけで僕らはずっと在り続けているんじゃないかと。
結局、生きることしかないんじゃないかと。
ニーチェの永遠回帰の考え方とはちょっと違うかもしれませんが、一切の苦しみや喜びは同じ流れの中にあるんじゃないかと思います。
ずっと在るのならば、得た喜びや悲しみも同じ永遠の座標軸に刻まれるというか。
だからある幸福な瞬間を欲するのであれば、それは一切を欲することになると。
ある瞬間を肯定するのなら、それは一切を肯定することになるのではないかと。
結局、在ることしかないのなら、生きるしかないんだったら、僕は今生きたほうがいいんじゃないかと思います。
自殺して、自然に逆らってみても、結局僕らはまた自然の中に在るんじゃないでしょうか。
そういう大きな流れの中に在るんだったら、あまり自分というものに拘らなくてもいいし、思い詰めることもないのかなぁとも思います。
そんなに肩に力を入れなくてもいいのかなぁと。
実際はなかなかそうはいきませんけど。人間ですから。
また話が抽象的になったかもしれません。。。
59
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/04/17(金) 23:26:29 ID:i.TZOdDE
>>48
>僕を僕と呼ぶのは自分であり、その自分を自分と呼ぶのが例えば自己であるなら、その自己を自己と呼ぶのは誰かということ。
自己と呼ぶのは誰か、 誰か=他人なんじゃないでしょうか?
「誰かー」と助けを呼ぶ時、その「誰か」は、自分以外の人物に対するメッセージ。
>その存在を存在と呼ぶのは誰でしょうか。
存在を確定してもらうためには自分、もしくは他人から認識してもらうしかないですね。
>誰かではない。つまり誰でもないところの「何か」が自分をやっている。
人の精神は、単一の言葉では言い表せないそうです。
人の精神には、外面や内面、深層心理など、不確定要素が多数あり
しかも、それぞれが区別できるほどに、見事に分離しています。
例えば、食べたいという欲求、食べたいのは誰でもない自分自身です。
しかし、「今はダイエットをしているから」と食事を抑制するのも自分なのです。
食べたい自分と、食べたくない自分が同居しているのです。
もしも単一の精神であったなら、まるでCPUのように「食べない」という答えだけしか出てきません。
そこには、食べたいと食べないのせめぎ合いはありません。
この事から、精神は一つではないと言われています。
つまり、食べたい自分を食べたくない自分が認識している事になりますから
自分と言う精神は単一のものではないと考える事が出来ます。
自分で自分を認識する事も十分に可能なわけです。
60
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/04/17(金) 23:47:09 ID:i.TZOdDE
>>50
>ただ、人間は、そうした「自然の摂理に反すること」が可能な唯一の生物です。
摂理とは、言い換えれば一種の法則ですよね。
数学で正解が出るのは、計算の決まり事を守っているためです。
もしも決まり事を無視して、個人個人の考えで自由に計算してしまったら、
一応答えは出ますが、みんな答えはバラバラで、どれが正解とはいえなくなるでしょう。
まさか、多数決で正解を決めるなんて無意味な事はしないでしょう?
前回、多数決論では正解は出ないとしたのはこのためです。
「
>>1
自殺は正しい?」その判断は正解か? 正しいのか?
答えは個人個人で色々出ますが、「どの答えが正しいのか」と問われると
決まり事を無視して自由に計算して出した答えと一緒で、ほとんど無意味です。
正解、真理、不変、誰もが認める、認めさせる事が出来る、認めざるを得ない回答。
それを求めるためには、皆で共通できる普遍的法則が必要になります。
その法則は、誰かが決めた物では無意味です。
そこで、前回では人の手から議題を離し、自然の摂理を元に説明したわけです。
人間として摂理に反した場合、e4さん独自の答えは出ますが、
それが正解である事を立証することはでききません。
と同時に、それが間違いであることも立証できません。
つまり、今までどうり可能性の域に留まることになります。
61
:
ososo
:2009/04/18(土) 00:36:13 ID:wNDL5e6w
隊員3号さんへ
僕の言い方が悪かったのかもしれません。
僕が言いたかったのは
僕は僕以前に誰であるかということです。もっと内側のことです。存在の不思議というか。
僕は僕である前に名前のない存在です。
その存在が、その存在をとりあえず「自分」とした。
どうやら周りにも他の存在がいるからです。
他の存在と区別する為に「自分」として、周りの存在を自分以外のものとします。
どうやら自分のことを「○△」というふうに周りの存在が呼ぶので自分は「O△」という名前らしい。
そんなふうにして自分を認識していきます。
僕がやっているのはその認識作業の逆で、遡っっていったとき自分は誰でもない、名前のない存在になってしまうということです。
その誰にでもなれたはずの存在が、何故か自分で、何だか「○△」という人間をやっている。
本来誰にでもなれたはずの存在が、自分の肉体、脳、DNAが持っている性質や周りの影響などを受けオリジナルの自分になっていく。
確かに自分は自分で、自分で様々な自分を認識する訳ですが、更にその奥でその自分を認識している存在について語ったわけです。
62
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/04/18(土) 00:38:36 ID:i.TZOdDE
>隊員三号さん、あなたにとって「世界」とは何ですか?
うーん、難しい質問だなー。
その「世界」が何を指すのかで答えが変わりそうです。
自分が実際に感じ、イメージする、自分の周りを構成する世界か、
それとも自分を切り離して、そこに存在する世界か…
曖昧な回答になるけれど、私にとって世界とは、今の自分ですね。
住んでいる家も、今着ている服も、食べている物もすべて私を取り巻く環境、
つまり世界から供給されているものです。時間ですらも、です。
それらによって今の自分が構成されている。
こんな感じでしょうかね。
その時の自分が置かれている状況によって
世界が自分にとって味方に見えるのか、敵に見えるのか
世界は自分の一部なのか、それとも自分は世界を構成している一部に過ぎないのか
ころころと可変していくので「私の世界はこれだー」と言う回答は持っていないです。
>そして、現在「死への欲求」、つまり「世界の放棄の可能性」はありますか?
今現在においては結果としては、ありませんでした。
ただし、自分を構成している精神の一部が死ぬ事はあります。
世界と自分に絶望し、生きる気力を失うほどに追い詰められた時。
先ず、普段のまじめな性格の自分が徐々に失われて死んでいくのです。
そして、生と言う欲望に取り付かれた邪悪な心が残るのです。
借金を踏み倒したりと言った、今まで真面目に生きてきた
以前の自分では考えられない様なことを平気で出来るようになります。
昔の自分を知る人たちに、「変わったね」といわれた時、
ひょっとして自分はすでに死んで・・・
考えるだけ無駄か。
63
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/04/18(土) 01:07:40 ID:i.TZOdDE
>>52
いきてまーすさんへ。
>ごめんなさい。理屈が多いので若さを感じてしまいます。
一般的に、「若いな」という表現は「精神的に幼い、無知だ」という意味で使われます。
一般の社交場において、理屈というのは、言い換えれば知識です。
年をとっていろいろな知識を身に付けて、その知識が経験によって確信に近くなると
いわゆるこだわりというものが生まれて、一つの考えに固執するようになります。
つまり頑固者や偏屈者、理屈詰め、論理的な人ってなるわけです。
ですから一般に理屈が多いと思われる人物を「若さを感じる」と表現する事はありません。
では、ネット上での場合はどうかというと、
議論をしている相手の顔も分からない状況ですから
この場合も肉体の若さは無関係となるでしょう。
対象を評価する時は、相手の考え方、思想などを元に判断されるので
一般の社交場と比べて、より精神的な部分が大きくなります。
つまり、ネットにおいて、相手を評価するというのは、相手の精神を評価する事になります。
どんなに肉体が年をとっていたとしても、無知では長寿の知恵足らないでしょう。
たとえ肉体年齢が若くとも、多くの経験と知識を蓄えた人物は、精神的に熟成していると言えます。
あらゆる表現を駆使して対話できるだけの知識を持つ者に対して
「若さを感じてしまいます。」という表現は適性を欠きますね。
少なくとも、相手を若いと表現するならば、
相手以上の理屈で制することが出来るほどのレスを付けるべきです。
この様に直接的に指摘する自分も未熟ではありますが
未熟者ということでお許しください。<(_ _)>
>イメージすることと現実は違います。恐れないで、やるしかない。失敗はあるある。
これからの人生において、明るく幸せな未来と、
絶望と苦痛に満ちた世界、どちらも同じだけの可能性を秘めている。
誰にも将来がどうなるかなんて分からない。
実際に失敗した事がある、絶望的な時期があった。
特に自分の意思や責任の範疇外の力、例えば親からの暴行
などの理不尽な経験を持っている人にとっては、
イメージは、時としてリアルを超える恐怖を生み出します。
なぜなら、これから先、過去の出来事以上の苦痛と絶望をその身に浴びる可能性があるからです。
負の記憶が、さらに巨大な負の可能性をイメージさせ、恐怖に魂を焼かれるのです。
しかも、自身の責任と行動の結果から来る負の可能性ではないので、
何の前触れもなく唐突に苦痛と絶望に襲われるという不安が、
恐怖と混ざり合って混沌とした精神状態を生み出します。
そういった事をe4さんが
>>49
で分かりやすく丁寧に長文で自身の心境を説明してくれているのに
「失敗はあるある」などと軽々しくレスを付けられると、本当に住む世界が違うんだなと実感させられます。
とはいえ、いきてまーすさんの発言からは、「人間らしい」「前向き」「勇気」を感じることが出来る。
悪いレスではないと言う事も付け加えておきます。
64
:
名無しさん@生きる意味
:2009/04/18(土) 01:41:59 ID:uRZT2oXE
無といゆのわね〜!? 空っぽの器のことでゅ〜考えてみ〜ゅ 〜 ナンニデモ成れる可能性があるのにまだ無いにょ〜 そこに何かが注がれて初めて何かになれりゅ〜ニャ
65
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/04/18(土) 02:04:27 ID:i.TZOdDE
>>58
ososoさんへ
「死」とは生命活動の停止を意味します。
死=無ではないとする考えには賛成です。
死んだからと言ってリセットされるわけではなく。
その人が死ぬまでやって来た事は、他人の記憶に残ることで
例えば友人であるA氏の行動に何らかの影響を与え、
そのA氏の行動により、今度はB氏が影響を受けると言った感じで
歴史の一部として継承されていきます。
名画などは作者の死後も、歴史に強い影響力を持ち続けています。
輪廻や永遠のレコードは、私は否定的ですね。
永遠の喜びは、永遠の悲しみももたらすからです。
私が個人的に嫌だから否定しているに過ぎず
何かしらの論拠があるわけではありません。
>>61
>僕は僕である前に名前のない存在です。
もしも貴方が、誰にも知られずに自然発生した生命体、精神体であったなら
貴方の疑問には納得できます。
しかし、我々は生まれてきた存在なので、名前を付けられる以前、
つまり、他人に認識される以前には、将来「○△」となる存在は、存在しません。
貴方の元となる母親の卵子にも、父親の精子にも精神と呼べる高度なものはありません。
そして、貴方の高度な精神が発生する前に、母親は体の変調で貴方の存在に気づいており、
そこですでに貴方は母親によって認識を受けています。
つまり、誰でもない、他人によって認識されていない期間はありません。
そうではなく、もっと根本的な何か、神秘の領域を語っているのだとしたら、
他人とを区別する自分と言う表現そのものが、教育と言う外界の影響の賜物なので、
他にまったく影響を受けていない精神体には、「自分」と言う個を認識する必然性が無く
よって、深遠なる闇から別の世界の存在である自分を認識することは出来ないでしょう。
貴方を認識している誰かは、「深遠なる闇の存在」ではなく、あなた自身です。
深遠なる闇と自分との間には、いわゆる心の壁というやつが存在するはずです。
でなければ、深遠なる闇は外界からの影響を受けてしまい、存在できなくなってしまうからです。
66
:
e4
:2009/04/18(土) 02:45:38 ID:V12x6fAg
(,,゚Д゚) 隊員3号さん
勿論それは理解しているつもりです。
僕が言ったのは
>我々人間の持つ「価値観の違い」や「住む世界の違い」も命の継承をする為の多様性の一つに過ぎないのかもしれない。
つまるところ、この一文と本質的には同じことなんです。
つまり、基本的な「生物としての」存在理由である存続や繁栄、という観点から見れば、自殺という行為はそうした摂理とは矛盾しますが、
「人間としての」存在理由という観点に立てば、人間が取りうる全ての行動パターンが「(現段階では未知の)人類の存在理由」に内包されるのではないか・・・
端的に僕はそう考えたわけです。(、「では、そこにどのような具体的意味や価値が存在するのか」と問われて、回答出来るほどの何かを、
現在の僕は何ら所持していないわけではあるんですが・・・」と書いたのは、それら多様性を持つ全人類の普遍的な存在理由が、隊員3号さんも言うように、
現段階では全く不明瞭だからです。)
たとえば、僕が何らかの主観的信念によって自殺する時、その信念とは「僕にとってのみの極めて限定的な答」でしかありません。
しかし、マクロな視点で解釈し直すならば、その主観的信念による死すらも「人類の存在理由」の一部として機能しているのかもしれない・・・
ただ、「それ」が何なのかが今の僕は勿論、誰にも分からないわけです。
ですから、自殺の正否に関する結論は現段階では出せません。
現段階で僕が思うのは、高等な動物ほど選択出来る手段や選択肢の質は向上し、
結果として「種そのものの存続を危うくする類の失敗」をするリスクも格段に上がるのではないか、ということ。
しかし、たとえば「一部の人間」の戦争によって、戦争の愚かさを「人類」が学び、思想の発展にその経験を有効利用するように、
「一部」の自殺者が存在することで、自殺者を生産しない(厳密には最小限に食い止められる)社会を構築しようと「人類」が進化を目指すように、
そうしたマクロな視点に立つ時、人類が取りうる全ての行動は、人類の「精神的、社会的進化」の為の重要な要素として機能しているのではないか、
僕はそう考えるわけです。そして、そうした個人の主観的信念と行動、特定のコミュニティーの暴走等から、
「全体としての人類」が進化の為に学習したものを「歴史」と呼ぶのではないかと・・・
ですから端的に言って、個体としての限定的な自殺の正当性も、残された人間の「精神的、社会的進化の為の学習教材」的意味をもって機能するなら、
「普遍的な正当性」を持つとも解釈可能だと思うわけです。
しかし、これに関しては、僕も現段階では追究し切れていない底の見えないテーマですから、
今後も個人的に発展させていきたいところではあるんですけどね・・・
67
:
e4
:2009/04/18(土) 02:48:42 ID:V12x6fAg
(,,゚Д゚) 隊員3号さん(2)
「あなたにとって「世界」とは何ですか?」僕が具体的に世界を定義せず、極めて抽象的なまま「世界」という概念を用いてこの問いを提示したのは、
抽象的なままの方が、隊員3号さんにとっての「世界の解釈」を明確に知ることが出来ると思ったからです。
「自分にとっての精神世界」「自分にとっての物理世界」「自分にとっての精神世界、物理世界を含めた全体としての世界」具体的に世界を定義することで、
定義された世界以外の世界を排除し、隊員3号さんの回答を制限したくなかったのです。
回答者側としては回答が困難になる側面はますが、それに関しては申し訳ありませんでした・・・
>曖昧な回答になるけれど、私にとって世界とは、今の自分ですね
僕も同じです。ただ、僕にとって未知の世界、関係性のない世界を、世界の一部として認識するのは個人的に不思議な感覚ですよ。
それを実感するのは、たとえば今日で言えば満員電車の中の溢れんばかりの人間だったり、
この前で言えば、「現在関係性を持っている他者も、僅かに時を遡れば関係性のない世界だったんだな」と、ふと思ったことだったり・・・
たとえば、全ての人間にとって、99%の人間は「名前も顔も知らない関係性のない他者」ですよね?
つまり、僕という人間は極めて限定されたコミュニティーの中に生きていて、99パーセントの他者というのは確実に世界として存在しながらも、
同時に僕にとっての世界には確実に存在していない。
コンビニでレシートと共に手渡されるお釣りの100円硬貨は僕の手に渡るまでに、多くの世界(個人)を経由して来ているわけですが、
しかし、僕にとって、この100円硬貨にまつわる世界は、レジの店員と僕という極めて限定的なもので、且つその限定性をもって世界は十分に機能する。
存在する99パーセントの他者を存在しないものとして扱いながらも、自身の世界が問題なく機能するという、そしてそれを世界と確かに呼べるという、
更に、たった1パーセントの世界だけが自分の世界にとってのリアリティーであるという、そうした現実を僕は本当に不思議に思ってしまいます。
>ただし、自分を構成している精神の一部が死ぬ事はあります
僕は抑鬱状態になった時、世界が否定的に変化する感覚を味わいましたが、
恐らく隊員3号の言う「部分的な死」と呼べるレベルではなかったでしょう。
邪悪な心が残るか否かはわかりませんが、たとえそれが部分的な死であっても、
それにより全体の調和が崩壊し、結果として全体としての自分が、これまでとは異質な存在に変化してしまう・・・
これは、「これまでの世界」を「喪失」した感覚ですか?それとも一時的に「見失っている」「見えなくなっている」感覚ですか?
どちらも紙一重ではあるんですが、いずれにせよ甚だしい苦痛の世界なのでしょうね・・・
(,,゚Д゚) ←これ可愛いですね。
68
:
e4
:2009/04/18(土) 03:20:26 ID:V12x6fAg
>>50
の書き方が拙かったですね。
隊員3号さん、失礼しました。
69
:
e4
:2009/04/18(土) 05:30:34 ID:V12x6fAg
ososoさん
僕は以前、「無」のイメージを試みたことがあります。
(勿論イメージを試みることそのものが不可能且つ矛盾するわけではあるんですが。)
しかし、どうしても、最後に「色彩」が残ってしまいました。色彩を消去した先にあるのは無色透明ですが、
(無職透明すらも厳密には色彩という概念、カテゴリーに属するものではあるんですけど)
、現実的に無色透明というのは、色彩との対比によって、その存在が認識可能となりますから、
単体としての無色透明を認識することはまず不可能です。水や氷、スケルトンカラーといった無色透明の類が単体でも認識可能なのは、
僅かな濁り等、色彩と同等の「対比としての役目」を担う存在があるからであって、無職透明の認識に成功したわけではないでしょう。
しかし、僕がそうしたイメージ作業の中で感じたのは、「無のイメージに成功することは、無の性質からして不可能である、
しかし、無のイメージに挫折するということは逆説的に無のイメージに成功しているとは言えないだろうか?」ということでした。
イメージというのは例外なく「有」を対象とした行為になりざるを得ませんから、そこで強制的に無のイメージを試み、必然的に挫折し、
その挫折を受け入れた時、想像力の敗北と同時に無のイメージは成立するのではないか。勿論、これは極めて結果論臭い、イメージの成立と呼称するよりは、
「論理的解釈の成立」に過ぎないことの自覚はあったわけですが、僕としては、それが虚像であるとしても無に接触できた気がした貴重な体験にはなったわけです。
そこで、死と無の関係性について、僕が考えるのは、「無とは体感のない世界」なのではないかということです。
(絶対無に関しては、僕自身がそれを切望することがあると記しただけなので、自殺後の結末としてあり得るか否かという点に関しては、今は沈黙させてください。)
僕が僕を僕として認識出来るのは、僕自身は「痛覚」「喜怒哀楽」「空腹感」「恐怖」そうした「僕だけの体感」が「継続して」起こっているからではないかと思うんです。
だから、たとえば点滴を受ける時、腕に痛みを感じる主体が存在しているのではなく、「腕の痛み=自己」なのであり、
空腹感を感じる時、空腹感を感じる主体という解釈ではなく、言語化不可能な空腹感そのものが自分なのであり、
そうした空腹感や痛みを認識している「認識感覚」そのものが自己なのではないかと僕は思うわけです。
(この体感も、主体の追究と同じく永遠に前提が残存し続けるわけではあるんですが。)
そうした多種多様な体感が継続して起こることで、人間は自己や「時間の流れ」を体感出来るわけです。
だから、たとえば睡眠中、就寝後意識が途絶えてから翌朝目覚めるまでの間、夢を見て、夢を「認識している」場合を除いて自己は停止している。
その延長線上で考えるなら、脳死患者もある意味では自己の停止、回復の見込みが物理的にゼロなのであれば「無」と呼称出来なくもないように思えます。
自殺願望を持つ人間が「このままずっと眠っていたい」「来世は植物に生まれ変わりたい」等、無の渇望と解釈出来ることを口にするのは、
「体感そのもの=自己」であることを「体感として」知っており、体感としての自己を放棄しない限り自己が救われないことを確信しているが故のことでしょう。
一切の体感が無い世界、僕らが世界に絶望した時渇望するのは、概念上の無というよりも、体感の不在としての疑似的無ですよね?
(たとえば植物そのもは「存在」ではありますが、体感の存在しない世界である以上、実質的には「無」と同義でしょう。)
自己が認識そのものであるならば、物理的に存在し続けようとも、同時に無であることは可能だし、
そこに「救いを求める余地」は十分に僕はある気がします。
ただ、無意識野を含め、解明されていない脳や精神の領域を無視した結論ですから、不完全ではあるかも知れませんが・・・
70
:
いきてまーす
:2009/04/18(土) 05:57:11 ID:JiKC0WbM
学生時代は理屈を知るのが毎日の仕事のよなもの、社会に出て働くとなると、理屈は通用しないことの方が結構ある。
知識ばかりが先行して、仕事できない人多いいと思う。
やって初めて分かる事の方が、実になる。
精神世界は無限で答えは個々違っていいんじゃないのかな。
自分の足元を見て、一歩また一歩。 その空のような世界ただよっていられるのは、心の傷のせいなのかな。
71
:
ososo
:2009/04/18(土) 10:24:14 ID:SNBtarZY
イメージとして僕も無とは体感のない世界ではないかということに賛同です。
無をどう捕らえるかということになるかと言うことだと思うのですが。
絶対無として捕らえるなら、はじめから無いはずですし、どこまでいっても無いはずですからイメージすることすら出来ないはずです。
イメージしてしまったらそういうイメージとして「在る」ことになってしまいます。
僕らは「在る」の対として無を置いているわけですが、実はそうではないのではないか。
無と僕らが言っているのは「在る」じゃない状態のことだと思います。
それは「在る」じゃない状態として在る訳で、それは存在の一つの形と言えないでしょうか。
言い換えれば不在というか、非在とでもいうのか。
なので「在る」対として「在る」じゃない状態と置いてみます。
「在る」じゃない状態から「在る」になる。
「在る」から「在る」じゃない状態になる。
存在に起こっているのこういうことですよね。
もし「在る」じゃない状態=無(絶対無)とするなら、つまりそれは「在る」じゃない状態は無いということになってしまう。
「在る」じゃない状態が無いのなら、対になる「在る」もまた無いことになってしまいます。
「在る」は「在る」じゃない状態への移行、その逆も然りで両者は切っても切れない関係ですから。
しかし「在る」は確かに「在る」訳なので、「在る」じゃない状態も在るということになる。
僕らがイメージしている無とはこの「在る」じゃない状態、存在の一つの形態ではないでしょうか。
そのイメージとして体感の無い世界というのはしっくりきます。
無はやはり無なので、どこまでいっても無い。
本当に無いものについてはやっぱり、どうしても語れないはずです。
イメージとしてでも語ってしまったら、やっぱり在ることになってしまうんですよね。
ですから、やっぱり「在る」しかないのかなぁと思っちゃうのですが。
何だか僕よくわからないこと言ってますかね(笑)
72
:
ososo
:2009/04/18(土) 11:55:25 ID:SNBtarZY
(,,゚Д゚) 隊員3号さん
僕は根本的なことについて言ったつもりです。
何て言ったらいいのか難しいのですが。
今自分を自分だと認識している自分を認識しているところの絶対的な主語というか(これは自分とも言えますが)。
自分の精神とか性格とかは生きていれば、ころころと変わりますが
そのころころと変わる自分を認識している絶対的な主語というのがいつもある訳です。
他にまったく影響を受けていない精神体(例えば自分しか世界に存在しない場合を言うのでしょうか)には、
「自分」と言う個を認識する必然性が無くても、そうゆう存在として存在しているという認識はある訳です。
その絶対的な主語としての認識がある訳です。
それは何なのかと。
普通は自分というものを、名前とか肉体と同一視して、自分とは誰それ、あるいはこの肉体であると思っていますが
そう思っているところの自分とは何か、自分とは誰それだとか思っているこの自分とは誰なのかと。
どこか別の場所に自分の存在を認識している神秘的な何かがあると言っている訳ではなく
あくまで自分も含む、そん延長線上としての絶対的な主語、認識について言っているつもりです。
僕は精神とはその絶対的な主語にはならないと思っています。
あくまで述語だと。
例えば脳に障害があった場合、その人のパーソナリティーや思考にも影響が出ますし、自分を自分だと認識することが困難になるかもしれません。
脳死した場合、思考することが出来なくなるので、おそらく僕らが精神と呼んでいるものも機能しなくなります。(専門家ではないので、間違っているかもしれません。)
そういう精神というものがなくなっても、存在としては在る。
あくまで精神とは脳が作り出しているものなのではないでしょうか。あくまで肉体であると。
今までこの肉体から離れて僕であった経験はありませんし。
ならば精神以前に存在としての自分が在るということです。
この肉体や精神を動かしている存在、絶対的な主語があるということです。
それを一体何なのだということです。
73
:
e4
:2009/04/18(土) 18:46:44 ID:V12x6fAg
ososoさん
おっしゃる意味は理解出来ます。つまり絶対無なるものがあるのなら、
今僕がここにこうして「在ること」そのものが成立せず矛盾するということですよね?
よって、「在るもの」として望み、イメージすることが出来る無というのは、
必然的に「在る状態」を否定するだけの極めて不完全な「無という名の錯覚」になりざるを得ない、
それがososoさんの言う「在るではない」なのだと解釈しました。
ただ、僕は
>>69
において睡眠中の体感の喪失と無は同義であると書きましたが、
睡眠中の「空白」を「空白として認識出来る」のは、覚醒という体感の再開があるからこそ成立するものですよね?
体感の再開によって、その直前の体感との間に睡眠という選択による時間差があったことを認識する。
しかし、ここには「空白という概念」のイメージが成立してしまう為、ososoさん的に言うなら「無」とは呼べないでしょう。
ただ、空白の中にリアルタイムで自己が存在する時、そこには「空白の体感」も無ければ、「空白という認識」も無い。
つまりそれは、睡眠時に生じた空白の想像行為の不可能性を示唆するものであり、同時に「あらゆるイメージが及ばない世界」として、
空白が無と定義出来るだけの資格を所持することの証左になりはしないかと、僕は思うんです。
睡眠時の空白中の自己にとって「在るか」「在る状態ではないか」という概念は機能していない。だからこそ、その空白を、僕達はイメージ出来ないし、
空白として以外解釈出来ないわけです。この空白というのは僕達にとって、ososoさんの言う「語りえないもの」
すなわち「無」と呼称することは出来ないでしょうか?
それから、一つお尋ねしたいのですが、感覚そのものが自己であると定義した場合、
感覚の主体の不在は、同時且つ自然に成立するものだと思いますか?
感覚そのものが自己であり、感覚を感覚として認識するという、その認識感覚も自己であり、
認識感覚を認識する認識感覚も自己であるならば、自己とは、そうして「追究することにより新たに誕生する」わけで、
追究を止めてしまえば、止めたその最終地点が「殻としての自己」と定義出来なくもないように思うのですが、暴論ですかね?・・・
、
74
:
e4
:2009/04/18(土) 18:49:01 ID:V12x6fAg
訂正
誤 殻としての自己
正 核としての自己
75
:
e4
:2009/04/18(土) 19:22:46 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん
僕は基本的に、こうした哲学的思索は「知識」というよりも「知識の利用法」だと思っています。
ですから、社会(これは、特定の組織に属し労働に従事することでいいんですよね?)において、
こうした思索や理屈そのものが無用の長物であるとしても、そうした「思索力」「論理的思考力」というものは、
組織における自己の発展に十分応用可能なものだと思うわけです。
ある特定の場所での特定の人間関係において、どういった知識を、どのように駆使するかは、
その集団の規模や性質、自身と集団との相性等により、変化するのは明白でしょう。
だからたとえば、仕事をする時に「仕事とは何か?」「この作業の根本的価値は何か?」といった思考は、
作業をこなす上で有用でないどころか、極めて場違いな不純物でしかない。
そうしたことを十分に認識した上で、仕事というカテゴリーにおいて通用する「思考法」を選択するのなら、
理屈が通用しないとは一概に言えないのではないかと思うわけです。
精神世界が個々に違うことは勿論肯定しています。ただ、「人それぞれ違う」で思考停止してしまうと、
それ以上、僕という世界は広がらないでしょう?だから、こうした他者との関係性においては、
「人それぞれ精神世界は違うから、答は出ない」ことを、前提として認識した上で、コミュニケーションに参加するわけです。
つまり何らかの答えを直接的に出す為や、コミュニケーションに参加している他者に出してもらう為の会話ではなく、
そうした会話から世界を広げて答えを出す為の「材料」を入手する為の会話なんですね。
僕が「自身の死」か「自身の死を前提とした社会への私的制裁」か以外の選択肢を見つけ出す為には、こうした「結論の出ない会話」における
「材料集め」が非常に重要なんです。
勿論、そうした材料を、いきてまーすさんが言うように「行動に繋げなければ」意味がないのも事実です。
ただ、今はもう少し「材料が必要」なんです。
僕は決して世界との関係性を遮断して、空想に耽っているだけの奇人ではありません。
物理的行動は僕なりに起こしてはいるし、タイミングとして今は「非常に危険なポイント」にいるだけなんです。
だから、いきてまーすさんが言うように、僕は自分の足元を見て進んでいるつもりです。
ただ、本当に世界というのは、僕にとってそんなにシンプルなものではないんです。
シンプルな世界に生きられなかった過去がそうした僕の世界を作ってしまったのかもしれませんけど・・・
76
:
e4
:2009/04/18(土) 19:34:37 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん(2)
毎度毎度、カタイ文章になってしまい申し訳ありません。
いつもありがとうございます・・・
77
:
e4
:2009/04/18(土) 21:39:25 ID:V12x6fAg
申し訳ありません。
>>75
の前半部分、恐ろしく内容が破綻してしまっていますが、
理屈の通用しないことも含めて論理的対策を練り、通用しない現実を克服するか、改革するか、
そうしたことは理論的に可能だと僕は思うわけです。
つまり、理屈の通じない現実も含めて、論理的対策の対象になりえる、ということですね。
ですから、自身が適切と判断した論理を適用して行動を選択する、それによる物理的行動から得た体験を以て、自身の論理を改良、修正する、この反復作業によって、
理屈の通用しない社会というものを僕なりに超越出来ると、僕は考えているんです。
それから、ある組織において求められる思考法や行動があるとして、しかし、それはいつだってベターであってベストではない。
(結果としてその時点でのベストではあったのかも知れませんが。)
自分の思考法や行動の選択が、そうしたベターを超えるもので、なおかつベターの性質に反する場合、それを論理的に展開しても、
組織に受容されるとは限りません。しかし、僕はそうした「通用しない部分」に対して、通用させることをあきらめたくはない。
「行動により理解出来るもの」が「無条件に行動させられることで、組織にとって都合のいい方向に理解させられている」だけなんだとしたら、
僕は通用しない理屈の方こそ、仕事を含めた自身の人生を「総合的に考えた時」、大事にすべきものなのではないかと思うんですよ。
78
:
ososo
:2009/04/18(土) 22:39:04 ID:mLIbCoR6
e4さん
僕が、あらゆるすべての存在は実は同じ一つの存在なのではないか、と思う理由でもあるのですが。
自己を認識する認識を追及する行為は際限なく続き、
e4さんのおっしゃるとおり自己とは、そうして追究することにより新たに誕生してしまうわけです。
追究を止めてしまえば、止めたその最終地点が「核としての自己」として定義できるのかもしれない。
しかし追求をやめなければ自己はどこまでいっても「こういうものだ」と定義することはできないわけです。
そうすることをどこまでも拒み続ける。
つまりそれは、確定した何かであることをどこまでも拒み続けるわけです。
「これだ」と定義してもまたその定義を探すわけですから、なんとも終わりが見えない。
この永遠に終わりが無いということに、僕は答えがあるような気がしていて、
どこまでいっても何かであることを拒み続けると言うことは、どこまでも何かでないわけです。
何かでないということは、何ものでもないということ。
何ものでもないのならば、言い換えれば何ものにでもなれるということです。
そういう実にオールマイティーな存在が自己を追求していったら現れるわけです。
自己という一点を追求、掘り下げていったら、宇宙のような果てしなく広い空間に出てしまったと言うか。
それは追求していった最終地点に現れたわけではなく、その追求する過程の中にも常に在ったんです。
何でもないのなら何でもある。これは「すべて」ということです。一は全になってしまった。
だから僕は、あらゆるすべての存在は実は同じ一つの存在なのではないかと思うわけです。
これも結構、暴論っぽいですね。
無についてです。
僕は自分以前に意識以前に体感以前に存在としては在ると考えているので
「空白の体感」も無ければ、「空白という認識」も無いところにも、やはり在ると思いたいわけです。
しかし
睡眠時の空白中の自己にとって「在るか」「在る状態ではないか」という概念は機能していない。だからこそ、その空白を、僕達はイメージ出来ないし、
空白として以外解釈出来ないわけです。
→はおっしゃる通りでその空白をどう考えればいいかと言えば「無」がしっくりきますね。
例えば意識や体感の無い存在として在った場合、どうやって在るということを認識するのかと考えてみたのですが、
どう考えればいいか困ってしまいました。
もう少しこの問題については考察してみたいと思います。
79
:
いきてまーす
:2009/04/19(日) 06:29:15 ID:JiKC0WbM
e4さんの趣味はなんですか?
好きな女性と付き合った事ありますか?
好物はなんですか?
夜空を見つめたりしませんか? 私はよくします。きのうは星がたくさん出ていたなー。
80
:
e4
:2009/04/19(日) 16:20:02 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん
趣味はチェスですね。(将棋もやりますが、今はチェスがメインです)
僕は「知恵比べ」が好きなのと、あの底の見えなさ、極めるという言葉が意味を持たないくらい本当に奥が深いところは、
どこまでも考えてしまう僕には合っているのかもしれません。
(海外のトーナメントで優勝したこともあります)
ただ、日本はチェスよりも将棋囲碁が主流ですから(レジャー白書によると衰退の一途を辿っているようですが・・・)、
対人戦をやる時は海外のサイト、アメリカyahooやPlayOK.com等を利用しいています。
将棋よりも駒の再利用が出来ない分簡単というイメージがあるかも知れませんが、実は見方によっては将棋以上にチェスは難しいゲームですよ。
僕は洋服や車、バイク等にお金はかけません。ただ、チェスには非常にこだわりますね。
チェス駒とチェスボード、チェステーブルに五十万円以上は使いましたから・・・
The House of Staunton(ザ・ハウス・オブ・スタントン)
Italfama(イタルファマ)
この2ブランドが僕の愛用しているものです。(この掲示板はURLが貼れないので、興味があったら検索してみてください。)
個人輸入代行業者を利用して購入するので、現地で直接買うよりも若干高くなるのが痛いですが・・・
あと、もう一つはアニメですかね・・・
最近は「機動戦士ガンダムoo」のブルーレイディスクを集めてます。
(アニメのDVDは相当持っていますよ。基本的にシリアスなもの、ダークなものが多いですが。)
好きな食べ物はイカ刺しですかね。基本的に僕は好き嫌いがほとんどないので、(ハチミツは駄目ですが。)、
何でも好きと言えば好きになります。
好きな女性とは付き合ったことはありませんね。付き合う以前の問題として「恋愛感情」を体験したことがありませんから。
容姿が綺麗だとか可愛いだとか、性格がいいだとか、女らしいだとか、そうしたことを女性に対して感じることはありますよ。
ただ、それが個人的な欲望に結びついていかないので、恋愛に発展しないわけです。
夜空の星は眺めることはあります。僕は今大学で「分子生物学」を専攻していますが、
専攻がはっきり自分の中で決まる前は「天文学」厳密には「天体物理学」も候補として持っていたんです。
宇宙の神秘や果てに非常に僕は興味があったし、それは今も変わりませんが、
現在の僕はそうしたことにしみじみと浸っているだけの余裕がない。
星を綺麗だと感じながら、同時に「死」について哲学することをやめることが出来ないわけです。
ですから、純粋に、そうした存在を感じることから、ここ何年も僕は遠ざかってしまっています。
悲しいことではありますが・・・
81
:
e4
:2009/04/19(日) 16:56:36 ID:V12x6fAg
ososoさん
僕なりにososoさんが所持している世界観というのを、記述してみたいと思います。
自己は追究するほどに新たな主体(自己)を生み、同時にどこまでも「具体的な自己」であることを拒む。
そしてその合わせ鏡のように無限連鎖する自己の根源に存在するものは、実は全生物が普遍的に共有している、「実態のない何か」
なのではないか?その「何か」というものは全ての存在の根源であるわけですから、自分という人間は、
逆説的に、どんな生物にでもなれる(なれた)、しかし(そして)今は「自分」をやっている。
だから、その根源の何かを「エネルギーの泉」として、その「エネルギーの泉」を「海」に、エネルギーを「海水(水)」に譬えます。
僕達は本来海という「一つの存在」なわけです。そして、その海の海水の一部が、たとえば「四角いコップ」だったり、「星型のフラスコ」だったり、
そうした「器」に入ることで「自己」として誕生する。そして、「死」というのは、様々な容器に入った「形ある海水」が、再び海へと戻っていくことを意味している。
だから、そうしたマクロな視点に立つならば、たとえば、僕は僕でありながらososoさんでもあり、ososoさんはososoさんでありながら僕でもあるわけです。
エネルギーの泉としての「一つの存在」が、ある場所では、「その一部」が「僕という形」で現れ、ある場所では「ososoさんという形」で現れているに過ぎない。
よって、本来僕は存在する全てでありえるし、逆に何者でもありえない。
僕はベランダのサボテンでもあり、隣の部屋の住人でもあり、毎朝近所の歩道を散歩している犬でもある。
しかし、ここで疑問なのは、僕がエネルギーの泉(海)という一つの存在であるならば、他者を思いやる心に「そもそもの意味」があるのか?ということです。
僕は本質的に僕ではなく、同時に全てであるならば、他者と自己との関係性は「巧妙に作られた一人芝居」でしかない。
いずれ全ての容器の海水が海へと統合され、また容器に入り「海の一部として」誕生する。
が、そもそも、他者への愛というのは、自己との「確実な差別」が成立して初めて可能なことのように思えるのですが・・・
海という一つの存在という立場に立つなら、むしろ「自殺」はより一層「個人の自由」を促進してしまうことにはならないでしょうか?
四角いコップの水である僕も、それ以外の容器に入った他者という海水も、全てが「同じ自己」であるならば、たとえば「死んで無になりたい」
というのは「四角いコップとしての自分の死と無」ではなく「エネルギーの泉としての自分の死と無」になるわけで、
そこには「他者を思いやる心」は必要なければ、そもそもの他者が「存在しない」。
これについてはososoさんはどう考えますか?
そしてまた、自分がエネルギーの泉としての存在であるならば、僕達は(僕は)永遠の存在なわけですから、
無を願う「容器の海水」にとってはこれ以上ない理不尽な現実だと思うのですが、どうでしょうか?・・・
82
:
ososo
:2009/04/19(日) 21:56:39 ID:mWPhgkVE
e4さんなりに僕の世界観を記述して下さってありがとうございます。
自分で自分の考えを言葉にしようとすると、自分が本当に言いたいこととマッチしていないような気がすることも多いのですが
e4さんの譬えもわかりやすかったので、自分の考えを再理解できました。
e4さんの疑問は、そのまま僕の疑問でもあります。
答えになるかわかりませんが、僕なりに答えてみたいと思います。
不完全な考えだと思って読んで下さい。
e4さんのエネルギーの泉や海、コップなどの譬えはとても気に入ったので、使わさせて下さい。
僕が注目しているのは、僕はエネルギーの泉という一つの存在であるのにもかかわらず、実際は僕という一人の人間だということです。
何にでもなれたはずなのに、何故だか僕であるという事実です。
一つの存在のままでもいいはずなのに、何故だか実際、世界には実に多様な形で様々なものとして現れている。
海のままでもいいのに、「四角いコップ」だったり、「星型のフラスコ」だったりと様々な容器に入って現実世界に現れている。
一つのままでもいいのに、あえて多様であるということに、僕は意味があると思うんです。
愛についてですが、僕は人間のどこかに、本来は同じ一つのものだという直感があるから愛するのかなと思います。
例えば僕は、忌み嫌っていた人が、ふと人間味や弱さを見せたとき、あるいは自分と同じような境遇で苦しんでいると知ったとき
「ああ、この人も同じ人間だったのか」と気付き、親しみや愛情のようなものがわきます。
そもそも個々の存在がそれぞれ独立した存在であるのなら、一緒に在る必要が無いように思います。
共存と言う形をとる必要が無いと。最初から一緒に在る必要が無いと。
共存する為には、そもそも一つの存在から派生したのでなければ、その必要性は生まれないわけです。
どこまでも個別の存在なら、どこまでも個別の存在のままでもいいわけですよね。
にもかかわらず同じ世界で僕らは共存しているわけです。
だからこそ人は愛するんじゃないでしょうか。誰かと一緒にいたいと思えるんじゃないでしょうか。
そんな世界で僕は僕として生きている。
僕の考えは確かに自殺を抑制するものではありません。
僕自身、自殺に関しては個人の自由だと思いますし、正しいとも正しくないとも言えませんし。
ただ僕は、どんな存在でもあれたはずなのに、あえて僕という存在であることがとても不思議で奇跡的なことだと思うわけですね。
一期一会と言うか。そしてこの世界に存在するのは、そんな希少な存在ばかりだということです。
だからせっかくの自分との出会い、他者との出会いを大事にしたほうがいいのかなと思うわけです。
無を願う「容器の海水」にとっては確かに、これ以上ない理不尽な現実かもしれません。
ただ無を願う前に、他のいろんな容器に入っている海水と混ざってみるのもいいのかなと思います。
いろいろと考えてみましたが、結局存在とは謎だなぁと思います。
83
:
いきてまーす
:2009/04/19(日) 22:02:18 ID:JiKC0WbM
中学の長男もチェスを一人でしています。ガンダムも好きです。そして、アスペルガー症候群です。
特徴は人ととの関わりが乏しい、運動が苦手、友達が少ない。そして、親に認めてもらいにくい、かわってるから。
84
:
ososo
:2009/04/19(日) 23:20:42 ID:mWPhgkVE
僕は自分のことを全然語っていなかったので語らさせて下さい。
僕の友達で知能障害を抱えている友達がいます。
その友達は親友のお兄さんで昔からよく一緒に遊びました。20年来の付き合いになります。
彼はアニメとドラマと仮面ライダーとウルトラマンが好きでそれが生活の基本になっています。
彼にはルールがあり、頑固なまでにそのルールを守ります。人の言うことはあまり聞きません。
手に麻痺があり字がうまく書けません。計算が苦手です。人混みが苦手です。
結婚相手の理想は自分のことを面倒見てくれる人だそうです(笑)
とても自己中なのですが、僕の悩みを聞いてくれます。僕のことを心配してくれます。
僕は絵が好きで、彼も絵が好きなのでよく一緒に描いたりします。
おしゃべりが好きで遊ぶのが好きで、話題も豊富で本当に楽しい人間なんですよ。
そんな彼が、年齢を重ねるとともに、自殺したいなんて言い出したんですよ。
自分はこんなに中途半端で、生まれてこなければよかったと。もっと何もわからないくらいバカに生まれてくればよかったと。
僕は考えました。彼に一体何て説得すればいいのかと。上っ面な考えでは誤魔化せないと思いました。
どんな人間だって生き物だって生きていちゃ悪い理由なんてないと思ったんですよ。
在りのままで何が悪いのかと。人間が思う優劣なんて、所詮人間が考えたことじゃないかと。
それが絶対なわけがないと。ただ僕も人間で、僕にもどこか優越感があった。
僕も年を重ねるにつれそんな葛藤が深まり、だから本当の生きる意味、存在の理由を知りたくなりました。
それが今の僕の考えに繋がっています。
僕は彼と死ぬまで友達であるし、悩んでいたら話を聞くし、困っていたら助けます。
結構世話が焼けるんですけどね(笑)。だからたまには怒ります、ケンカもします。
彼の存在が僕を存在させるわけです。
また僕の存在が彼を存在させていると思ってくれるならいいなと思っています。
存在の相互関係。一期一会。
そんな僕はまだまだ人生の途中です。
85
:
e4
:2009/04/20(月) 04:05:51 ID:V12x6fAg
[宇宙生命体、人間を超えた知的生命体、(容器の海水)]
自己の誕生 ↑ ↓ 自己の死滅
(容器の海水⇒海)・・・? ↓ [海水(エネルギー)] ↑ (海⇒容器の海水) ・・・?
海水としての発生 ↑ ↓ 海への回帰
[海(エネルギーの泉)] = これが神や仏、あるいは絶対者と呼ばれる存在
海への回帰 ↑ ↓ 海水としての発生
(容器の海水⇒海)・・・仏教的な悟り、霊視 ↑ [海水(エネルギー)] ↓(海⇒容器の海水)・・・神の啓示、守護霊の守護
自己の死滅 ↑ ↓ 自己の誕生
[人間、動植物、地球上の生命体(容器の海水)]
86
:
e4
:2009/04/20(月) 04:12:48 ID:V12x6fAg
ososoさん
すいません、個人的に考えを発展させて図を作ってみたのですが、思いっきりズレてしまいました。
今から睡眠を取って、また後ほど書き込みますが、図は、これで理解していただけると助かります・・・
(アスキーアート的な書き込み方は初めてなものですから・・・)
87
:
いきてまーす
:2009/04/20(月) 05:11:45 ID:JiKC0WbM
私はいざこざが嫌いで、家庭内のささやかなトラブルに神経を遣い、周りに振り回されたりで、自分がどうしたいのか分からなくなります。
相手を思いやりつつ、自分を大切に生きるが私のテーマです。
人は平等に生れ出ていません。そういうものだと思おう。人と比較するから辛くなる、いやになる。見えない所で、人もいろいろあるのだ。
人は今置かれた状況で、いかに生きるか、その事が尊いのではないだろうか。
と今、感じている。
88
:
e4
:2009/04/20(月) 07:52:57 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん
あれから、僕なりにアスペルガー症候群について調べてみました。
アスペルガーの方というのは、人とのコミュニケーションが上手くとれない傾向があるようですが、
自分が興味を持ったものに関しては、普通の人以上の集中力と能力を発揮するそうです。
そして、「理論的なもの」が興味の対象になりやすいとも書いてありました。(逆に理論的ではないものは苦手な傾向があると・・・)
調べていて僕が思ったのは、コミュニケーションというのは理屈では語れない曖昧な部分が多いものですよね?
白黒つけられるものではなく、答がない。だから、混乱してしまうのかと思いました。その一方で学問やチェスのように「具体的なもの」はどんなに複雑であっても、
「具体的だから」混乱せず吸収出来てしまう。
息子さんは、チェスをやる時、とても集中して取り組んでいませんか?
僕自身がチェスをやっているのでよく分かるのですが、チェスは非常に複雑なゲームで、本気でやる場合には、とてつもない集中力を必要とします。
どれだけのめり込んでも極めることが出来ない。だからのめり込める。
そうした複雑で奥深いものにアスペルガーの方がのめりこんだ時、一般の人以上の才能を開花させる確率は決して低くないそうです。
(僕らが普段発揮している集中力とは比べ物にならないレベルの集中力だそうですし・・・)
ですから、たとえばチェスのプロになることや、何らかの研究者になるといったことは、
実はアスペルガーの方のほうが一般の人よりもはるかに向いているのかもしれない。
一つの専門的なことを極めることに長けた才能を伸ばせれば、社会的な成功に関しては、普通の人を軽く超えるかも知れません
人間関係に関しては、息子さん自身が悩まれているようなら、一人でも多くの理解者を増やしていくことが勿論望ましいのでしょうが、
現実的に、一般の人からの理解を得るのは難しいとも書いてありました・・・
ろくな事を書けませんでしたが、最後に。
アスペルガーの方の爆発的な集中力がうまく引き出せたなら、僕は息子さんはもしかしたら「チェスのプロ」に(チェスじゃなくても構いませんが)なれるのではないかと思いました。
理解者さえいれば、(これが難しいのだそうですが)、息子さんは非常に個性的な何かを成し遂げるのかも知れません。
今現在、僕の中で情報が少ないので、これ以上具体的なことは書けませんが、僕は息子さんの才能が、息子さんの幸せにつながればいいと、そう思いました・・・
89
:
いきてまーす
:2009/04/20(月) 08:32:29 ID:JiKC0WbM
e4さんありがとうございます。 本を読むりか、e4さんのコメントの方が
私にはスーッとはいりました。不思議と。
好きな事をやらせてあげよう、見守ってあげようと思いました。ただ、思春期で、時々ビビってます。
コツをわかったようで、ケースバイケースで、弟に当たられるのが、いやで。とほほ。
早くおおきくなーれ。
90
:
e4
:2009/04/20(月) 09:38:48 ID:V12x6fAg
ososoさん
一つの存在でいいのに、あえて多様な現れ方をしている点に関して、そして、海と海水と世界の関係に関して、
僕があれから考えたことを記述します。(例のズレた図を見ながら読んでもらえると助かります。)
エネルギーというのは「エネルギーそのもの」では「物理世界」に干渉出来ず、僕やososoさんのような媒体を通す必要がある。
これに関して、「僕という媒体(物理的な脳や肉体)に干渉することそのものがエネルギーに出来ている以上、それは矛盾しないか?」
という疑問が当然提起されますが、僕は生物(有機体)と無生物(有機体)という同じ物理的存在の本質的差異がそこに作用しているのだと考えました。
だから、たとえば地球の自転公転や、引力等の「無生物のエネルギー」は、喜怒哀楽や思考といった「生物のエネルギー」とは次元が違うもので、
思考や感情といった生物のエネルギーが前レスの「海」にやがて還元されるように、それら無生物のエネルギーも、どこかに根本的な「海」を持っているのかも知れない。
(勿論、生物のそれとは性質が異なるかも知れませんが。)
生物の「エネルギーの泉」を単一の存在と定義し、無生物の「エネルギーの泉」も同じく単一の存在と定義しましょう。
両者は互いに異質な性質を所持しており、本来干渉し合えなかった。ただ、単一の存在として「生物側」が「進化する為に」何らかの手段で有機物という干渉媒体を生み出した。(あるいは無生物側に生み出させた。)
結果生物として無生物世界をコントロール出来る可能性を手に入れたわけです。
ただ、人間というのは、そうした可能性の一つに過ぎない。
たとえばこの無機的宇宙には、人間の科学では攻略できない世界も存在していて、そうした次元を攻略する為には、人間とは異なる知的生命体と科学とは異なる論理的手段が必要となる。
そうした、それぞれの「場所」を攻略する為に、それぞれの場所に適した生命体と論理を、海が作り出した結果が「多様性」なのではないか。
即席の推論ではありますが、こうした解釈も可能かと僕は思いました。
論理が飛躍していることは自身で自覚していますが、この推論は整合性を厳密に問うものではなく、
あくまで、大まかなイメージ、つまり「言わんとしていること」を伝える為のものなので、ご理解ください・・・
僕は思うのですが、エネルギーの泉というのは地球上の生物は勿論、地球外生命体のエネルギーも内包しているはずで、
地球外生命体には、人間を超越した高等生物も確実に存在するはずでしょう。
つまり、海や海を構成する海水というのは、人間のそれを遥かに超えた能力(あるいはそれを生み出す可能性)を内包していると言える。
だから、僕らが神の啓示や霊視と呼ぶものは、そうした超越性を内包した海から、僕達容器に発信されたものなのではないでしょうか。
宗教において「神は自身の内にある」と言いながら、自分の外側に巨大な神を感じるという矛盾は、前者は海と海水の本質的一致を考えれば筋は通るし、
後者は「海が、人間を超越した高等生物としての要素も内包している事実」を見れば筋が通っていると思うわけです。
逆に仏教的な悟りは、容器の海水の方から、海の超越性にアプローチする行為に等しいのではないかと。
愛に関しては、僕は共存する理由があるとしても、そこに従わなければならない道理がどうしても納得できません。
「同じ人間だったのか」という以前に「全ての生物が単一の存在である」わけですから、
人間という物理的同族にだけ、そうした共感性が機能するのは非常に不自然な気もします。
もし共存する必要性があるのなら、たとえば「ゴキブリ」や「蠅」等のような一般的に嫌悪される生物にも、
同じく何らかの共通点を見出せなければ(本来は同じ一つのものだという直感が作用しなければ)不自然でしょう?
しかし、僕等は日常において「彼等」とは共存するどころか「排除」してさえいる。
動物でも「絶滅危惧種」と呼ばれる動物は人間による環境破壊によって「危惧種」となってしまっているわけで、その中から実際に絶滅してしまった動物も存在します。
(これは、同じ絶滅でも白亜紀の恐竜の絶滅とはわけが違いますよね?)
単一の生物として存在を捉える時、こうしたことは「共存の必要性」と矛盾してしまう気がするのですがどうでしょうか?
僕等は「共存していない」からこそ他の動物を「実際に排除出来た」し「今も排除している」のではないですか?
人間というコミュニティーにおいても人種差別や戦争がありながらも存在していられるのは、
共存というよりも「道具としての個人的コントロール」に過ぎないと僕は思ってしまうんですよ。
このテーマは非常に複雑なので、僕も更に追究してはいくつもりです。
91
:
e4
:2009/04/20(月) 11:21:27 ID:V12x6fAg
ososoさん(2)
僕が初期のレス
>>43
で「僕とあなたは立っている世界がまるで違う」と書いたのを覚えていますか?
あの言葉のニュアンスは僕にとって「僕はあなたとは分かり合えない」という否定的な、そして極めて攻撃的なものでした。
それはososoさんのレス
>>42
の「個人という視点からではなく、もっと大きな視点で見ることが出来たら世界は変わります」
という記述に世界観の押し付けと、僕の世界観を理解しているかのような前提を感じてしまったからです。
だから、あの時僕は「ososoさんに自分の無知を理解させてやろう」という一種の闘争心からしか記述していませんでした。
しかし、あれから4日が経って、随分と、僕のososoさんとの「会話の質」は変化した気がしています。
単純な反駁の応酬から「答探し」に向けての自然な協調へ、そんな変化です。
世界観が異なる人間の相互理解は非常に困難なものです。(表層的協力関係の構築は可能ですが)特に一方が相互理解を拒否するか諦めている場合においては。
僕もそうでした。そもそも、僕は他者との相互理解を求めてこの掲示板に来たわけではありませんでしたから。
存在や死の意味を前に思考停止している人間が書き込む「存在についてのレス」は僕にとって本当に空虚なものだし、そして、そのような掲示板は端的に言って死んでいる。
だから、そうした人たちの反応が見たくて、僕は思考を継続している人間として
>>32
を書き込みました。
だから、もう一度
>>32
を読んでみてください。「僕は死を肯定しますね」と記述しながら、その後に続く内容は「他者の主張への論理的否定」だけでしょう?
あそこには僕が死を肯定する理由は「何一つ」書かれていない。
あれを読んで、「誰かが」どう反応してくるのかだけが僕にとっての関心だったからです。
自身の思考停止に気付くか、それとも破綻した反駁を展開するか、感情的なレスになるのか、あるいはスルーか・・・
しかし、僕がこの4日で得たものによると、どうやら、僕が使用している「思考の次元」(思考のレベルではなく)とは違う次元の思考法が存在するようです。
そしてまた、この世界は思考停止による弊害ばかりではないのかも知れないということを「体感として」分かってきた気がします。
前者はososoさんだし、後者はいきてまーすさんですね。
いきてまーすさんは失礼ながら論理的なことは苦手でいらっしゃるようですが、
しかし複雑な思考を持たない中でも、レスが決して「死んでいない」し、
ososoさんは、既存の宗教や哲学をベースとして自分の理論を構築しているというよりも、
そもそものベースから自力で構築しようとしているような、そんな存在への真摯な姿勢を感じます。
僕の推測ですが、友達を助ける為には、あくまでも「自分の言葉」で「存在を悟らなければ」ならない、そう考えたのではありませんか?
自分の言葉で悟らなければ「自分が」友達を救うことにはならないからです。
だから、たとえ歴史上の偉人達が、「自分以上に」存在と向き合っていたとしても、それをベースとしてすらも用いたくなかった。
僕はそんな気がしました。
僕は友情というものがイメージ出来ないので何とも言えませんが、
ososoさんが、自分の言葉で存在を追究する為に(延いては友達を助ける為に)僕とのこの関係が僅かでも役立つのであれば、嬉しく思います。
ところで、アニメは、その友達の影響で見始めたものですか?
それとも絵という共通点から推測すると2人とも好きだったのでしょうか?
それから、存在の追究をするにしろ、なぜまた、この掲示板を選択したのですか?
検索から偶然?それとも、こうした掲示板は複数利用しているのでしょうか?
92
:
e4
:2009/04/20(月) 12:07:24 ID:V12x6fAg
>>90
「単一の存在として「生物側」が「進化する為に」何らかの手段で有機物という干渉媒体を生み出した。(あるいは無生物側に生み出させた。)
書き直します。
元々有機的存在というのは、少なくともこの地球上においては、極小の微生物から始まっていますよね?
(具体的には生命誕生以前の地球は二酸化炭素、窒素、水という無機的な物体だった、そこからアミノ酸等の低分子有機物が出来て、
第二段階として結合反応し、タンパク質などの高分子有機物が出来た、更にヌクレオチドが連続結合し高分子の核酸に、ポリペプチドが連続結合し、より高度なタンパク質が発生した、
そうして、核酸、タンパク質の生命の根源となる二大要素がそろったことで、有機物が発生した・・・生物学的にはこうしたプロセスを経たわけです)
僕はこの流れこそが、「生物側の海」が自己の進化の為に「無生物側の領域(物理世界)」に干渉した瞬間だと思うわけです。
存在がエネルギーとしての次元と物理的世界の壁を超越した瞬間ですね。
つまり、端的に言えば有機物は無機物から発生したわけですが、発生させるような「因果を働かせた」のは「エネルギーとしての生物」の何らかの干渉によるものだと思うわけです。
そこが、不可解なところではあるんですが。
93
:
ososo
:2009/04/20(月) 13:38:59 ID:BMD4D5cM
e4さん
いろいろと考察して頂いてありがとうございます。表まで作って頂いて。
興味深く読まさせて頂きました。
僕もエネルギーの泉とは「すべて」なので、人知を超えた神秘的なものも含むと思っています。
「すべて」は言い換えれば無限。人間の想像も及ばないエネルギーを、エネルギーの泉は内包している。
そう考えれば、いろいろと筋が通ってくることもあるわけですね。
最近、仏教で言っていることが、こういうことを言っていたのかと納得するがあったりします。(あくまで僕の勝手な解釈でですが)
こういうことを考えることは、宇宙を考えることに似ていますね。非常に奥が深い。
共存についての僕の考え方ですが。共存とは存在の一つの形で
共存とは文字通り「共に存在する」ということです。
協力して手と手を取り合って一緒にいようということではなく
多様なものがこの同じ世界に存在しているということを共存と言いたいわけです。
そういう意味で、生まれてから一度も共存以外の形で僕らは存在したことはありません。
宇宙があって、地球があって、いろんな生物がいて、そんな世界でしか存在していたことがありません。
僕一人だけで存在していたことはないわけです。僕以外の存在が確かに在るわけです。
多様なものが同じ世界を共有している。存在は常に共存している。
僕は、同じ一つのものだという直感が作用するから、差別や争いもまたあってしまうのかなと思います。
弱肉強食という生物の習性も、戦争も、排除も、やり方は違えどこの世界を一つにしようとする行為ではないでしょうか。
共存していなければ、一つの存在しかなければ、そもそも排除すらできないわけです。
「同じ一つのものだから」という直感と同時に「同じ一つのものなのに」という直感も働くのではないのでしょうか。
戦争や差別はなかなかなくなりませんし、そんな中で親から子へ抱く無条件の愛情のようなものも生物にはあるわけです。
存在はそういうことを繰り返して、現実世界で存在の本質に近づこうとしているのではないでしょうか。
何か戦争や差別を肯定するような言い方になってしまったかもしれませんが
僕自身は、それぞれの違いを認め合って共に生きていけるような世界を望んでいます。
存在(世界)は、いろいろなやり方ではあっても、この世界がより善い世界であるようにずっと巡ってきたのではないのでしょうか。
僕がこの掲示板に来たのは偶然といえば偶然です。ある意味必然だったのかもしれませんが。
生きる意味かなんかで検索して、ここに何だか辿り着いたという感じでしょうか。
生きる意味というのを、他の人がどう考えているのか知りたかった。
僕の周りにはそういうことを真摯に考えている人はいなかったですし。
自分の考え、直感が、おこがましいながら生きる意味を考えている人達の役に立てればとも思っていました。
何様ですね(笑)
自分の考えをもっと深めたかったというのも勿論あります。
e4さんとのやりとりの中で、自分の曖昧だった部分が大分具体化できました。
e4さんとのやりとりは僕にとって、とても尊いものになりましたよ。
最初この掲示板に来たときは、まさか自分がこんなに頭を使うことになるとは思ってもみませんでしたが(笑)
歴史上の偉人達の考えが全くベースにないかと言われれば、全然嘘になっちゃいますが
僕はただ自分の言葉で語らなければ、理解できたことにならないと思ったんですよね。
掲示板はここしか利用していませんよ。
絵とかアニメとかは個人的に昔から好きでしたよ。
好きなのはジブリアニメですね。世界観が好きだし、内容が普遍的で。
94
:
e4
:2009/04/20(月) 19:23:38 ID:V12x6fAg
ososoさん
自分のレスを点検してみましたが、やはり例の推論は破綻していました。
非科学的という意味においてではなく、論述としての矛盾に満ちていた、ということです。
会話を続ける中で思ったことですが、僕はososoさんに同じ説明を何度もさせてしまっている気がするのですが、非常に困ってしまいました。
それに関して、非常に申し訳なく思うと同時にこれは理解力の問題ではない気が、つまりもっと根本的な問題であるように思っています。
共存にしろ、存在にしろ、会話の中で度々使用されるこれらの概念の認識が、
僕とososoさんとの間で乖離してしまっている気がするんですね。
たとえばある芸術作品を、芸術として客観的にどう評価するかという時、評価者の芸術という概念の認識や定義に差異があれば、
それはもはや、議論としては噛み合わなくなってしまうでしょう?
あくまでも、互いが共有する言葉というのは、同じ認識において個性的に利用されるべきで、(議論においてはです)、
そうでないなら、互いの認識の差異はある程度把握した上でなければ、互いに混乱するし、話も噛み合わなくなってしまう。
僕がososoさんに同じ記述を繰り返させてしまうのは、そうしたところに原因があるのではないかと個人的には感じています。
これをどうすべきか非常に悩むところなのですが、僕等の間で乖離している概念は、たとえば「食べる」「飲む」
というような僅かな説明で事足りるような単純で具体的で、言語化可能なものではないと思うんですね。
「意味」という単語は僕等は日常において頻繁に使用しますよね?ではここで質問なんですが「意味の意味」について厳密な言語化はは可能だと思いますか?
ちなみに僕は意味の説明を展開する為に意味という概念を用いずにはいられない為、これは不可能と認識しているんです。
しかし、僕等は日常において、「意味」という言語化不可能な概念を共通の認識を持って使用している。
しかし、これそのものは問題ではないんです。問題なのは、そこに会話に支障を来すほどの認識の乖離があった場合です。
言語化不可能か、あるいは言語化困難か、そうした現実を前に、意思疎通のモチベーションはありながらも、どう疎通してゆくべきか、
僕はそこで今悩んでいます・・・
95
:
ososo
:2009/04/20(月) 21:40:29 ID:BMD4D5cM
e4さん
僕も語るのに自分の言語、認識に固執してしまっているとところがあるので申し訳ないです。
いつか書いたと思うんですが、月を指す指は月ではないと。
月が言いたい事で、指が言葉。言葉はそれ自体ではない。
なので言葉にはやっぱり限界はあると思うんですよね。
単語の絶対数が足りないと思うんですが(僕の中のですが)、同じ単語にいくつかの意味を含ませてしまいますし。
語りたい認識に対して、新しく共通の単語をつくっちゃえばいいのかなとも思いますが。
更に難解にもなりそうですが。。。
もどかしいですが、でも少しずつでも確実に歩み寄ってはいますよね?
思ったんですけど、そもそもコミュニケーションってこういうもどかしいものなんですよね。
96
:
e4
:2009/04/20(月) 22:31:02 ID:V12x6fAg
ososoさん
>もどかしいですが、でも少しずつでも確実に歩み寄ってはいますよね?
いや、勿論それは僕自身も感じていることではあるんですが、言語表現の限界を迎えてしまうと、
そこから先は感覚的な把握に頼りざるを得なくなってしまうわけです。(シックスセンス的なものと言えばいいのか・・・)
僕は初期の頃、ososoさんの世界観というのを言語的領域では「具体的に」把握出来なくて、半理解の抽象的な世界観を、ある時、感覚的に掴んだんですね。
(言語的理解の欠陥(限界)を感覚により補完した、ということです。)
だから、あのような譬えが僕の中から出て来たわけです。
ただ、そうした、インスピレーションっていつでも、言語的限界への到達時に機能するわけではないじゃないですか?
インスピレーションが働く「法則性」が脳科学的にはあるとしても、僕はそれを知らないし駆使できない。
だから、ある一点から先に進めずに会話が停滞することが僕としては非常に「もったいない」わけです。
こうした「もったいなさ」というのは、日常の抽象的会話においてはほとんど起こり得ません。
何故なら、「結論や答を出す為」の会話ではないからです。
ただ、こうした、結論や答を出す為の過程に真摯に向き合う時、会話の内容は「具体的になりざるを得ない」し、途中で放棄することも許されません。
だから、たとえば「まあ、人それぞれじゃない?」「答が無いのが答だ」などという発言は体のいい逃げ口上でしかなくなるでしょう。
まあ、いいでしょう。
ところで、一つ質問ですが、何故ososoさんは自分の世界観を述べながら、人(僕を含めた、掲示板の参加者)に何かを尋ねることがないのですか?
尋ねる必要性があるわけではありませんが、他者の考えを知る為に来ている側面があるなら、たとえば隊員3号さんでも僕でも、何か質問する方が自然なのかなと・・・
97
:
ososo
:2009/04/21(火) 13:39:38 ID:K1MG1.dI
そういえば、ほとんど質問してないですね。
あまり意識していませんでした。
基本的には皆さんの考えを読みにきているんですよ。
皆さんのスレッドを読んで、そうだなぁと思えばそれで納得してしまいますし。
ちょっと違うんじゃないかなぁと思えば、それに対して自分の世界観を書いてみて質問した気になっていたんだと思います。
自分の世界観を述べることが質問というか。
でもそれじゃ単なる独り言になってしまいますね。。
98
:
e4
:2009/04/21(火) 19:41:59 ID:V12x6fAg
いや、独り言だとは思いませんよ。
僕が感じているのは、ososoさんの世界観というのは非常に独特で深いものがあるとは思うのですが、
「自殺は正しいか」というこのスレのテーマを考えた時に、失礼ながら非常に説得力に欠けるのではないかと思ってしまうんです。
ososoさん個人が生きることには「一種の真実」として機能するのかもしれませんが、自殺を試みる人間を前に(少なくとも僕にとっては)、
非論理的に感じられるわけです。たとえば宗教というのは、その宗教を肯定した上で分析すれば筋の通った理論ではあるんですが、
その宗教という土台に立たない、立てない人間にとっては、恐ろしく妄想的なものですよね?
ですから、それは突き詰めれば「自殺との個人的な対峙」ではあっても「自殺との普遍性を内包した対峙」にはならないのかなと・・・
ですから、そうした意味においてはこのスレの利用にマッチした世界観ではないのかも知れません。
世界観そのものが個人個人異なるわけで、そうした前提において普遍性が機能するのかと、そうした反論は可能ですが、
僕が言っている普遍性というのは「語り得ないものには沈黙する」つまり、大多数が共通認識として所持している事実をベースに、
そこから個性的な見解を展開すべきなのかなと。(その方が「自殺は正しいか」というテーマに有益な答が僕は出ると思うわけです。)
そうなると、ososoさんの世界観はすでに「正しさを論じる」土俵からは逸脱してしまっている気がするんですね。
失礼すぎることを書いているのは承知していますが、たとえばososoさんの「友達のため」という背景等を考えると、
お友達がososoさんの世界観に近い思想を前提として持っていない限り、根本的な救いを実現するのは困難である気がします。
そして、だから「自殺はよくない」や「生命は尊い」「他者や自己に価値がある」には繋がっていない気がします。
僕はososoさんの世界観を理解するよう努力はして来ましたが、しかし、やはり個人的には「そのような解釈もありますね」としか思えないわけです。
そしてもう一つ。
「自殺は正しいか」というテーマにおいて、自殺を否定した上で、自殺者志願者を救えるような答を直接的に出す努力も肝要ではあるでしょうが、
たとえば極端な方向性として「自殺の価値を肯定した上で、それ以上に生きる価値を見出させる」回答を考えることもまた重要なのかなと思っているのですがどうですかね?
(決してososoさんが前者だと言っているわけではなく、問いへの対峙の方向性としてです。)
つまり、「自殺は無価値、生きることにこそ価値がある」ではなく「自殺にも十分価値はあるが、それ以上に生きることには価値があるのではないか?」ということですね。
99
:
Detc
:2009/04/23(木) 23:41:01 ID:SCOFgttI
その人が自殺しても 誰にも影響しない、与えない(苦しみ悲しみそして絶望したりする人がいない)ならばそれは正しいとは言わないが、問題無いでしょう。 だが、逆に苦しめたり悲しませたりする人(他人や家族関係無く)が例え一人でもいるのなら、絶対に正しいことではありません。残される者が自殺は間違い、絶対に正しくないことです。と言うからです! 基本的に正しいか?間違いか?は、生きている人(残された人たち)が決めます。
100
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/05/06(水) 12:56:04 ID:i.TZOdDE
正しいか、正しくないか、この問題は結果からは判断できない。
結果というのは時間軸のどこを基準とするかで内容が異なるためだ。
例えば戦争終了直後であれば、敗戦国の国民は戦争は負の遺産しかもたらさないと考えるだろう。
しかし、日本の様に敗戦から50年後、戦前よりも豊かな暮らしを手に入れて
果たして国民は戦争は負の遺産しかもたらさないと考えるだろうか?
別の可能性として、もしも日本が勝ったとしたら・・・
勝利した軍事国家のやることは独裁と相場は決まっている。
今現在の道徳を基準に置いて、大日本帝国は果たして正しいといえるか?
結果から自殺の正当性を語ることはできない。
さて、どうすれば答えが出るのだろうか?
101
:
名無しさん@生きる意味
:2009/05/06(水) 20:36:26 ID:U/jhczVI
自殺は正しいか、正しくないか?自分が決めることです、
他人が判断することではありません。
102
:
アンジェリカ
:2009/05/07(木) 16:23:58 ID:iXZqDpoM
つまりどちらでもないと言うこと!!
103
:
U
:2009/05/08(金) 20:37:04 ID:tdMwSOXs
自殺が正しいわけがないだろう?
自ら命を断つことに正当性なんか微塵もない。
104
:
mahow
:2009/05/09(土) 02:05:38 ID:sU9eyq/g
私もスレ主さんの文を読んで、分かる部分がありました。
昔から、精神的に人に頼れず、自分の存在価値も見出せず、誰かの役立ちたい と思っても
真意が上手く伝わらず、非難され、苦しいです。
ですが、自殺報道を見る度に、悲しくて、何とかならなかったのか と自分を棚に上げて考えてしまいます。
魂が見える方によれば、自殺するとその時の苦しさがずっと続き、来世に行けても
また同じ人生をやり直す事になる とか。 真実は分かりませんが、もし本当なら恐ろしく思います;
私自身も生き辛く、何度も今も挫けそうになりますが、そうなった時の自分を客観的に見ると、
今まで苦しみながらも何とか生きてきた人生の最期が「無念の自殺」では
「今までの苦悩や頑張りの対価」としては「悔しい」…とも思います。
本当は理想のように生きたいけれど それが叶わないから、生きる事を止めたくなる のだと考えたりします…。
この件に関しては、誰か心を痛める人間が生まれる事柄が、正しい物であって欲しくない と思います。
…分かり辛くてすみません;
105
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/05/09(土) 12:07:52 ID:i.TZOdDE
私の思想では、人は自分のために生きていると考えているので
天涯孤独の人間が自分の生死を自分で決めるというのはOKだと思っている。
ただ学生とか、生かされている立場の人間は自殺は駄目だと思ってる。
思想とかは関係なく、人としての願いだな。
106
:
名無しさん@生きる意味
:2009/05/11(月) 00:15:49 ID:U/jhczVI
>103
なぜ?理由は?
107
:
U
:2009/05/11(月) 10:04:17 ID:C29LvE3M
>106
人を悲しませる事にどうして正しいことだと、胸を張って言えるんだ?
自分の生死を自分で決めるってのは、個人の自由だが
絶対に正しい選択ではない。
「悲しむ人なんかいない」なんて、死ぬ前にわかるわけないだろう?
108
:
名無しさん@生きる意味
:2009/05/11(月) 20:08:13 ID:U/jhczVI
自殺でも病死でも人が死ぬと悲しむ人がいますが、
それが正しくない理由とは言えませんね。
>自分の生死を自分で決めるってのは、個人の自由だが
自由なんでしょ、正しくないことを自由にできる訳はないと思いませんか?
109
:
U
:2009/05/11(月) 20:17:40 ID:uSltfxJA
人を悲しませることを、自ら進んで行うことが正しいとは思えないけど?
病気や事故で亡くなった人と一緒にしてはいけないよ。
110
:
w、m
:2009/05/12(火) 13:02:08 ID:5/iVyqsg
自殺は正しいか、正しくないか?。
正しい、間違いと決める前に、感情や私的立場、利害、世論などを出来るだけ入れないで、自殺と思われる行為に該当する事実を元に考えて見ました。
『自殺に至る。』これは一つの結果です。社会生活は原因と結果の繰り返しで生活しています。道理的に単純に考えれば、原因があるから結果がある。私達の生活も現在は過去の結果であるし、現在は未来の原因になる。馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことです。
誰でも知っていると思われますが、一本の木は土の表面を基点にして、上に幹や枝葉があるように、土の中にもそれに匹敵する同じ物が有る。とよく言われています。
現在や今迄の歴史を見ても自殺行為に近いものが多く見受けられます。例えば特攻隊、自爆テロ、負ける事を覚悟の戦い、人を助ける為に、自らが犠牲になっていく。
これらの自殺的行為から共通して考えられるのは、其々に死に匹敵する理由があれば命を捨てるということのように感じられるのです。
例えば、いじめにあって自殺をした場合に考えられるのは、周りの人に対して、訴える、いじめた相手に罪の重さを生きている限り忘れさせない恨みの行為、いじめの行為からは良い結果は出ない。まだ他にも考えれば色々と意味が有るでしょう。
どんな死に方で有っても、一人の人間が死ぬという事には軽い、重い、の理由は無いと思われます。
そして人間の自殺という行為を(匹敵する理由があれば死を選ぶ)という起点から考えてみると人間一人一人に其々違った、命より重い目的、義務、使命を持たされていると考えると解るような気がします。それでないと他の生き物と同じように身を守ることに専念するだけでいいと思えるのです。
好きな人が出来て親兄弟を捨ててでも愛する人の所に行く。これらの行為から考えても人間は本能によって生かされているといえるのではないでしょうか。
それからすれば、ここで議論されている『生きる意味を知りたい』という事は大きな意義が有ると言えるでしょう。『なぜ』もし、あなたが人間の目的や義務、使命、習性を知れば、今後の社会がどうなるか、何を求めているか、が、解ることになりますから、先手を打っていけば、人間社会を好き放題に何でも出来ることになってしまいます。自殺から考えた、私の意見です。どう思われますか?。
111
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2009/05/14(木) 05:24:02 ID:i.TZOdDE
>>110
私の個人的感想としては、意味や理由を意識するあまりに少々理想に傾いた文章と感じました。
現実的には他人の死は人にとって思ったほど重要ではなく、重くもありません。
私自身、人の死には何度か立ち会っていますが、私も含め皆それほど感じてはいませんでした。
仮にクラスメイトの死 程度では、私なら影響は皆無と言ってもよいでしょう。
他のクラスメイトも次の日には普通に登校して勉強するでしょうし、
人の死によって影響を受ける人は現実にはなかなかいないでしょう。
人というのは自分が生きる上で不利益な状態に立たされると
本能的に自己の防衛が優先されて、自己の精神の安定を図ります。
それは自己の正当化であったり、別の何かに意識を集中したり、究極は忘れる事ですかね。
なのでいじめ問題に置いても加害者に罪の重さを自覚させることはかなり難しく、現実的ではありません。
w、m さんが指摘するように、感情や私的立場、利害、世論などを排除するならば
理由さえあれば自殺できるとする考え方は「感情、私的立場、利害、世論」
そのものであるので、真っ先に排除しなければならない対象です。
理由があろうがなかろうが関係なく、自殺というものを単体で考えないと
自殺という行為を正当化しているだけに過ぎないという結論にしか行き着けません。
なにせ本人にとっては確証を持てずに行為に及ぶことになりますし
その後の確認も取れないことから、自分に言い聞かせている状態…
つまり自己の正当化ですね。
これらを踏まえた上で、あらためてw、m さんの考えを聞いてみたいですね。
112
:
w、m
:2009/05/16(土) 08:34:06 ID:GsOhYpWg
(,,゚Д゚) 隊員3号さん、ご意見ありがとうございます。
私の考えですが、その前に少し隊員三号さんにお聞きしたいのですが、結婚をして子孫を残す、本能的行為。この意味を考えられたことは有りませんか。遺伝子についてどう思われますか?。
文章からは自殺した本人自身と受け取る側の現実的現状の事だけを言っておられるように思いますが、意味は幅広く有ると思われます。人類的立場や遺伝子による多重人格、人間の目的の事を考えられた事は有りませんか。
人間を考える時は人間的と人類的見解によっても違うように考えられます。それだけに関係している事実や歴史、その事実や歴史から出た結果、などを長い目で見なければ真実は見えないと思います。
私が真実を見つける方法の一つとして持っているのが、「直ぐに嘘と分るのは冗談。時間が経って分るのが嘘。永遠に分らないのは嘘ではなく真実」この考えを元に疑問を解いていきます。
飛躍していると思われるかも知れませんが、私は本人の意志とは別に、人類は生き残る為の本能と共に遺伝子の中からでも助けと期待が出ているのではないかと思っています。
人が結婚をして子供を作る行為は世界共通の事です。世界共通の場合は人類的な見方が必要ではないかと思われます。結婚、それは、現在を生きる者が、現在、もしくは近い将来を生き貫いていく為の一種の遺伝子の組み換えに似ていると思えるのです。
先に書いたように現在の私達を一本の木に例えると、原因と結果の関係から思えば、私達は地上に出ている幹や枝葉に当たると思うのです。そして根の部分が私達を作り出してきた先祖と考えてみたのです。(只、先祖といっても、家系や祖父母、など血縁の濃さを重視した先祖の事を言っているのでは有りません。私の見方の理由は血縁といっても、我が子であっても半分他人です。孫にいたっては四分の一。曾孫となると八分の一しか血縁は残りません。親や祖父母は人類を生き続けさせる為と今の社会を生きる方法を教えるだけの途中の目先にある一つの歯車でしかないと思いますから、家系や血縁重視という、そんなものに意味も興味も私には有りません。)
それから思うと人類として、遺伝子を入れて考えると、今迄選ばれ、世代を超えて、生き残って来たにもかかわらず、此処で終りにする事の辛さを合わせて考えるのです。
本人の後ろにいる、根の部分の人達は、「私達は信じ、考えてきたものが間違っていた。人類である人間の義務、目的を果たす事が出来ず、途中で挫折するのか。」と、無念差を感じているように思えるのです。
一般的には確かに誰が死のうと、生きようと無関係のように見えます。又、現実社会生活から見れば誰にしても自分の事で精一杯です。しかし、自殺のメッセ−イジを人類的立場から考えると、無差別に送っているとは思えません。言い換えれば自殺は暗号のようなもので、似た環境、義務、目的を持っている仲間に向けて危険を発していると考えられるのです。
それだけに受け取った人の中には自分には関係ないと見向きもしないでしょう。しかし、同じ条件や環境にいる人にとっては、生き残る為の警告のメッセージとして、身に摘まされる思いもし、又、準備もするでしょう。その点から考えれば、死は決して軽いものではないと思えるのです。
どんな出来事も考え方の基点の置き方一つで、悪にも、善にも取れます。立場と環境によって、どのように取ってもいいと思いますが、自分を大切にするのであれば、必ず矛先が『共存共栄』の方向に向くように考え、努力する事が、生き残りと、満足した人生を送る為の最大の条件だと思っています。(日本人の多くが『共存共栄』を考えなかった結果がでかけています。『注』)
皆さんは、この考え、どう思われますか?。
113
:
なんだかなー
:2009/05/16(土) 14:46:17 ID:U/jhczVI
>w、m
(,,゚Д゚) 隊員3号さんの発言に対する答えになってません。意味が理解できないの?
あなたの意見は論点が定まっていません。ただ長文なだけで支離滅裂です。
114
:
w、m
:2009/05/16(土) 20:37:53 ID:.u05s/rs
なんだかなーさん、意見有難うございます。
只、長文と支離滅裂と言われては返す言葉が有りません。どうも失礼しました。
後はあなた方にお任せして、私は消えることにします。今迄に私の考えを書き込んでいいものかどうか迷っていましたが、これで肩の荷が下りました。私が今後書きこむ事は無いでしょう。私だけの人生を考えて送る事ができます。
皆さん。有難うございました。
115
:
九
:2009/05/16(土) 23:27:56 ID:SCOFgttI
長文、支離滅裂!そして… 始まり。まー、いいでしょ。短い文で色々考えていることに表しきれないこと?か、まだ納得できるといったところまで考え、思いが届いていなかった?などのことでしょう。 取り巻きのファン?がどういったところで、当人がどう受けるか? だけ… 人間がなぜ一つの個だけで生命を後世へ伝えていけないのでしょう?今の私たちには臆…以上の遺伝子の混じりがあってそこに生きている。しかし1000年前の私たちと今の私たちは〜どこが進化した?(変わったのでしょう?) … は〜…! 別に〜背中に羽根が生えて空へ行くことも出来ません。 絵…なんのって、当人しか判りませねー 他人に与えるイメージ?結果色々意味が届いていなかった?などというもの、支離滅裂になったからといった事でしょう。 いい言葉あります。百聞は一見にしかず。
116
:
e4
:2009/07/19(日) 01:08:24 ID:2V5CI6/o
ここに来るのも久しぶりですね。
あれから自殺チャットだとか、哲学系のブログだとか色々回ったり、自助グループ関係に参加したりしましたが、
相変わらず僕の中で肯定出来るような変化はありません。
他者に何らかの回答を求めるスタンスで新たなコミュニティーに参加するようなことは当然無く、あくまで自問に対して自答する為の材料を手にする為、
僕なりに能動的にアクションを起こしてきたつもりですが、結果は惨敗。
いや、惨敗という表現は適切ではないかもしれません。
他者に干渉出来るギリギリのラインでの自己主張、それが成功したのか否かは結局のところ明確には出来ないわけですから。
一つ思ったことがあります。
今現在死を望んでいる人との関わりの中で、互いに背景は違えど同じ結末を想定しているはずなのに、
そして可能なら、その結末の直前まで付随するであろう感情を共有したいはずなのに、皆なぜか「核心」について語ろうとはしない。
何故死にたいのか、何故自分は今こんな場所にいるのか、それは自分自身の責任なのか、本当の敵は誰か、何故かそこを省略して体感している苦痛だけを訴え共有を試みる。
自分を語りたくないのか、語るほどの自分ではないのか、それとも自分が何者なのか本当は知らないのか。
救いがあるとするなら向き合い続けてきた「自己」を互いがさらけ出し共有する以外にないというのに、なぜだろう、極めて表層的な慰め合いに終始してしまう。
恐らく考えたくないのだろう。死が何なのか、それを考えずに漠然とした苦痛の中で死を選択しようとしている。
家庭、友情、学校、職場、これらのコミュニティーの中で自分が何を体験し感じて来たか、その原因は何か、それらをはっきりさせることを恐れている。
「しょうがないんですよ。自分が弱いからいけないんです」・・・本当にそれが答えなんですか?
「生まれてきたことが間違っていた」・・・それは、あなたが自身の本質の中に確かに見出したものですか?
みんな自分が見えていない。そして何故か見えたことにして、見えないまま死を選択しようとしている。
僕はまだもう少し歩いてみることにします。
117
:
e4
:2009/07/19(日) 22:12:03 ID:2V5CI6/o
「死にたい」僕がそう思うとき、僕は本当に死にたいんだろうか?
精神的な余裕というものを失いかけた中で僕が感じたことは、どうやら自分が本当に望んでいるのは「死」ではないようだということだった。
いや、矛盾しているようだが、実のところこれは全く矛盾していない。
僕は「死にたかった」というよりも「生きていたくなかった」。そして厳密には「何かを感じ続けること」に心底ウンザリしてしまっていた。
喜怒哀楽のバランスが主観的に取れている人生において、そこに見出されるのは幸福感、さもなくば充実感。
だが、そのバランスが、著しく否定的な方向性をもって偏向している人間にとって、それは刺激的なものではあるにせよ、「濃厚な人生」などになりはしない。
無機質な苦痛。たとえば宗教的に苦悩することを一つの試練と解釈するなら、それはもはや「苦痛」ではないし、苦痛を超えた先に存在する何かがイメージ出来るのなら、もはやそれは肯定的プロセスと呼称すべきものになるだろう。
僕は何も見出せない。今までの自分や、こうして書き込みを行っている今の自分、そしてPCの電源を落としした後のこれからの自分、それら全刹那の中に連続して起こり続ける、あらゆる対象に対する半ば強制的な反応、そこには実は何もない。
意味だったり、価値だったり・・・ せいぜい分析する価値もない「理由」が僅かに存在するだけだ。
ただ、感情の起伏だけがそこには存在している。高尚な内的事実などというものはそこにはない。
だから、結局のところ効率よく快楽を摂取する技術と狡猾さ、そして運が「生きる意味らしきもの」を感じさせるし、自分という存在の価値を認識させる。
中途半端だが、続きはまた今度。
それから、最後に一つ。「何かを感じ続けたくない」そう感じ続けてきた人間にとって選択肢は一つしかない。
「死」だ。
生きながらにして、同時に世界を都合よく感じ続ける手段など、現実逃避する以外(それも極めて高度な、狂人と言って差し支えないような)ありはしないし、
感じながら生きることを選択するなら、もはや「悟りの境地」に入る以外ないだろう。そして、そのどちらもに「才能」と「努力」「モチベーション」が必要だ。
死の選択は「そうした意味において」全く正しい。なぜなら、「感じない方法」に対する「唯一つの解」だから。
唯一つだけ、故に「解釈」は成り立たない。絶望的なほどに。
118
:
九
:2009/07/20(月) 02:39:38 ID:SCOFgttI
生きることが苦しみで、生きて居たくない… 苦しみがあるから生きて居たくないわけでなく、生きていることが苦しみであるから生きて居たくない!私、思う… 人と関わっていることが苦しみであり喜びである、人々と関わっていくことが嫌になってくる!そして心…が干からびてくる。
119
:
女16
:2010/01/12(火) 21:44:19 ID:OslDJKOI
私は自殺は正しい事だとは思いません。しかし、間違っているとも思いません。
何故なら正しいとか間違ってるはその人の立場、状況で変わるからです。
この日本と言う国では殺人は犯罪になり、一般的に考えて「人殺し」は間違っている事となっていますが、もし戦争になれば逆に殺せと言われるのです。
何を言いたいかというと、「人を殺す事」は「間違っている」と言っておきながら
戦争になれば「人を殺す事」は「正しい」となるのです。
つまり正しいとか間違っているは明日にもコロッと変わってしまう曖昧なものなのです。
だから私は正しいとも間違っているとも思いません。
それに最終的に自殺を決めるのは、選ぶのは、自由です。
そして、「自殺は正しい」と言う人も「自殺は間違っている」と言う人も
私はどちらの考えでもその人なりの価値観でそう思ってるわけだからそれでいいと思います。
どんな意見も考えも自由だと思うんですよ。
ただ、自分の意見が正しいと他者に認めさせようとするのはいかがなものかと思います。
私が自分なりに自由に意見するように誰にでもその自由はあるのです。
だから「自殺は正しい?」の質問に対しての私なりの答えは「それはその人の価値観で決める事であり、どんな意見を持とうとも自由だと思います。ので正しいとかの問題ではないと思います」になります。
ただ例えば、今自殺しようとしてる人が目の前にいて、
その理由がどんな事であれ私はとめます。
こんな事を言うと矛盾していると思われるかもしれないけど、
それは正しいとか間違っているの問題ではなく、私が止めるのも自由です。
それに自殺はあくまで手段であって解決策だとは全く思えません。だから私は止めます。
最後に、私はかなり未熟な人格であり、まだ16の子供です。
それに義務教育を放棄してきたので知識もありません。
矛盾してる所があるかもしれませんが、どうかそこら辺はご理解下さい。
120
:
案の運が好き
:2010/01/15(金) 23:35:58 ID:vsqTlhUM
//義務教育を放棄してきたので知識もありません
なれば、いまから、自分から学ぶことをはじめればよい。
//最後に、私はかなり未熟な人格であり、まだ16の子供です。
ならば、そのほうには、いまだ長い時間と成長が多大にあることを解ればよい。
//この日本と言う国では殺人は犯罪になり
あなたが、この国の人で、あなたが他人を殺せば、それはどこの国であっても
人殺しという犯罪になる。
//戦争になれば「人を殺す事」は「正しい」となるのです
結果、人を殺すことが戦争であると思われているようです。戦争が正しいと
あなたが思っているのかが重要であると考えます。
みんなが、ためらいも無く人殺しになれるか?そして終わったあと普通に
生活できるか?殺人狂が殺人をしない生活を普通と出来るか?出来ないこと
にするために理由?納得させられることが必要でしょう。人を殺しまくつた
けど戦争だから仕方が無い。殺さなければ殺されるから、正しいと偽って、
偉い人たちが笑っていられるためにでしょ。
//自分の意見が正しいと他者に認めさせようとするのはいかがなものかと
思います。
自分の意見がある。もしくは自分は絶対、正しいと思い込んでいるのなら
それでよい。どんぐりの背比べ? より取り込んでなお自分の意見を
もつほうが好いのではないか? 昨日の自分と変わらぬ今日の自分?
永遠にかわらぬモノ、変えられぬモノ、より好く出来ることが重要でわ無いか
と
まあ、心の芯に変わらぬ強い想いをもつのは大切じゃ。
//私は正しいとも間違っているとも思いません
間違ってしまうかもしれないから、ことばにしませんということかな?
自分のすぐ隣で大切な人が殺されようとしている時。けど人殺しは正しい
とも間違いとも思えないからどっちでもいいか?とか?
間違ってしまうかもしれないでも言ってみないと合ってるのか間違っている
のか? なぞがなぞを呼ぶ。間違いを恐れては本当に選択するべき時に
決められない。解らないんだよ。
根本的問題を言えば人は間違える生き物?なのでそれでいいのだ。と私
が考えます。
121
:
(,,゚Д゚) 隊員3号
:2010/01/23(土) 01:44:51 ID:i.TZOdDE
>>119
現在の日本の憲法では、戦時中であろうと民間人が人を殺せば犯罪となります。
また、戦争になっても民間人が人を殺せと言われる事はありません。
また、貴方の判断基準が不明瞭ですね。
何を持って“それ”が正しいのか、曖昧ですね。
犯罪に関しては法律なので確かな基準がありますが
法律で犯罪とされているから間違いであるとするなら
法律で犯罪とされていない「いじめ」は正しいという事になる。
よって、「犯罪 = 間違い」という論理は成立しない。
人殺しは間違いではなく、正しくもなく、犯罪なのです。
つまり、戦争になれば「人を殺す事」は「正しい」とはならない。
貴方の世界観は「正しい」と「間違い」の二極化に陥っているようですね。
現実の世界は「正しい」と「間違い」の中間に存在するのです。
122
:
女16
:2010/03/25(木) 12:44:34 ID:OslDJKOI
あれからここに来ていなかったので、自分のレスに対して
返事をしてくれた人がいる事に気づきませんでした。すみません。
お二人のレスを読んで、あの時の私は「自分の考え」の整理が出来ていない事に
改めて気づきました。
私の考えの矛盾には、書き込む前から分かってはいました。
それでも書き込んだ理由は、「自分の考えが矛盾している」と
分かっているのにどこが矛盾しているのか分からないからでした。
お二人にレスして頂いて私はやはりもっと自分の考えを具体的に明確に
すべきだと思いました。
それと、このレスはお二人のレスに対しての返答にはなっていませんが、
今は「自殺は正しい?」について考えられるだけの考えが
自分には出来ないと思うので、そのことに対しての返答はしません。
(自分勝手ですみません。)
ただ、お二人のレスを読んで私の矛盾している部分が
なんとなくどこが矛盾しているのか分かったような気がしました。
私の考えに対して返答して下さって、どうもありがとうございます。
123
:
HIDEYA
:2011/04/01(金) 21:37:18 ID:MizuFR/g
生きてるだけで丸儲け。
124
:
天使or悪魔
:2011/07/07(木) 23:06:31 ID:bHKEBZoE
死んでも、自分が辛いだけ。だから、生きてて、楽しいこと見つけよ。あきらめずに。
125
:
n
:2012/10/18(木) 14:26:54 ID:Bu2zA3vA
人口動態統計の自殺対策への活用
わが国の自殺死亡に関する統計には、厚生労働省の人口動態統計と警察庁の自殺統計の2つがある。このうち、平成23年の人口動態統計が先日公表された。23年の人口動態統計では全国の自殺死亡数は男性19,904人、女性8,992人の計28,896人となっている。女性に限れば死亡数・死亡率(人口10万対)ともに22年から若干の増加がみられるものの、自殺死亡総数が2万9千人を割り込んだのは平成10年の自殺死亡急増以降初めてのことである。
近年の人口動態統計では、平成10年の急増初期と比較して中高年〜高齢男性の死亡率に低下傾向がみられる一方、若年層の死亡率は上昇傾向にあることが示唆される。
人口動態統計に関連して、われわれは数年前から情報システム研究機構 統計数理研究所と連携し、地域における自殺対策の立案・推進に資するため、人口動態調査死亡票を用いて地域別・要因別の自殺傾向をまとめた『自殺対策のための自殺死亡の地域統計』を作成し、本ホームページ内で公表してきた。この地域統計では、全国の二次医療圏および市区町村ごとに、市区町村再編も反映しつつ昭和48 年まで遡って自殺関連指標の推移が把握できる。また、ベイズ統計学という手法を用いることにより、地域の人口変動の影響を調整した安定性の高い指標を算出している。この地域統計については、統計数理研究所と連携し、行政担当者・研究者にとってより使いやすいものになるよう検討を進めているところである。
本年8月に見直しが行われた自殺総合対策大綱では、地域レベルの「実践的な」取組を中心とする自殺対策への転換が大きな柱として謳われている。今回紹介した地域統計も含め、われわれは今後も地域の自殺対策の立案と実践に活用できる信頼性の高い基礎資料の提供を継続していく。
126
:
D-MIKI
:2013/03/02(土) 03:13:33 ID:M9Fj7fjg
自殺が正しいかを問う時点で、その人の本当の問題が生きるか死ぬかではないことがわかります。
自殺がしたければ、正しさとは関係なく、すればいいからです。
正しいかを問うということは、その人は、自分の行動を肯定してもらうことを欲している、そういうように見えます。
そのような自分の中核にある悩みをクリアにして、それと向き合いましょう。
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