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自殺は正しい?

81e4:2009/04/19(日) 16:56:36 ID:V12x6fAg
ososoさん

僕なりにososoさんが所持している世界観というのを、記述してみたいと思います。
自己は追究するほどに新たな主体(自己)を生み、同時にどこまでも「具体的な自己」であることを拒む。
そしてその合わせ鏡のように無限連鎖する自己の根源に存在するものは、実は全生物が普遍的に共有している、「実態のない何か」
なのではないか?その「何か」というものは全ての存在の根源であるわけですから、自分という人間は、
逆説的に、どんな生物にでもなれる(なれた)、しかし(そして)今は「自分」をやっている。
だから、その根源の何かを「エネルギーの泉」として、その「エネルギーの泉」を「海」に、エネルギーを「海水(水)」に譬えます。
僕達は本来海という「一つの存在」なわけです。そして、その海の海水の一部が、たとえば「四角いコップ」だったり、「星型のフラスコ」だったり、
そうした「器」に入ることで「自己」として誕生する。そして、「死」というのは、様々な容器に入った「形ある海水」が、再び海へと戻っていくことを意味している。
だから、そうしたマクロな視点に立つならば、たとえば、僕は僕でありながらososoさんでもあり、ososoさんはososoさんでありながら僕でもあるわけです。
エネルギーの泉としての「一つの存在」が、ある場所では、「その一部」が「僕という形」で現れ、ある場所では「ososoさんという形」で現れているに過ぎない。
よって、本来僕は存在する全てでありえるし、逆に何者でもありえない。
僕はベランダのサボテンでもあり、隣の部屋の住人でもあり、毎朝近所の歩道を散歩している犬でもある。

しかし、ここで疑問なのは、僕がエネルギーの泉(海)という一つの存在であるならば、他者を思いやる心に「そもそもの意味」があるのか?ということです。
僕は本質的に僕ではなく、同時に全てであるならば、他者と自己との関係性は「巧妙に作られた一人芝居」でしかない。
いずれ全ての容器の海水が海へと統合され、また容器に入り「海の一部として」誕生する。
が、そもそも、他者への愛というのは、自己との「確実な差別」が成立して初めて可能なことのように思えるのですが・・・
海という一つの存在という立場に立つなら、むしろ「自殺」はより一層「個人の自由」を促進してしまうことにはならないでしょうか?
四角いコップの水である僕も、それ以外の容器に入った他者という海水も、全てが「同じ自己」であるならば、たとえば「死んで無になりたい」
というのは「四角いコップとしての自分の死と無」ではなく「エネルギーの泉としての自分の死と無」になるわけで、
そこには「他者を思いやる心」は必要なければ、そもそもの他者が「存在しない」。
これについてはososoさんはどう考えますか?
そしてまた、自分がエネルギーの泉としての存在であるならば、僕達は(僕は)永遠の存在なわけですから、
無を願う「容器の海水」にとってはこれ以上ない理不尽な現実だと思うのですが、どうでしょうか?・・・


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