したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

門下・門流史関係

1管理者:2004/05/08(土) 14:42
門下・門流史関係は此方へ。

2慎之輔:2004/05/10(月) 06:29
LEOさん直人さん、こちらです。(^_^)/
>「創価学会は国柱会の大衆版だとわたしはおもう。教義もアレンジも国柱会。
>けれど 牧口氏に「大善生活実験証明」というオリジナルの発想があった。

勝手に模倣されているのを流れを汲むように言われたり書かれるのは心外ですね。爆

牧口常三郎氏は戦前の田中智学先生の講演会を聞かれております。
また、本化聖典大辞林は宗門全体に普及しており日蓮系の方なら
座右の書にしておられますから、およそ日蓮聖人を信奉する教団
ならその影響を受けずにはおられないはずです。
明治中期から大正にかけて、およそ近代宗教団体の活動方法は、
ほとんど試みたのが国柱会ですから、当時のトーキー(映画)、
新聞、牛乳販売、大々的な施本、講演会。そういった意味では
オームですら影響を受けていますよ。

3直人:2004/05/10(月) 20:41
Leoさん、こんばんは。

>「創価学会は国柱会の大衆版だとわたしはおもう」との発言がありました。

 私は国柱会の思想については完全なる無知の段階です。ですので、詳細は
智学居士の思想に詳しい慎之輔さん、管理人さん、川蝉さんにお願いしたい
と思います。m(__)m
 顕正居士氏が何を論拠として論理展開しているか分からない以上、コメントの
しようがないですが、牧口氏は慎之輔さんの云われるように智学居士の講演会
に出ておられたようですね。

  ────────────────────────────────
  牧口常三郎は一九一六(大正五)年ごろ、田中智学の講演会に何度か出席
  している。だが、実際にその日蓮主義の思想に共鳴することはなかった。牧口
  の日蓮との邂逅は一九二八(昭和三)年、日蓮正宗の信徒であった三谷素啓
  (一八七八―一九三二)との出会いを待たなければならなかっった。

  (佐藤弘夫「近代と仏教―近代日本における日蓮の「発見」」『仏教と出会った
  日本』所収、法蔵館、P186−187、1998年)
  ────────────────────────────────

 慎之輔さんの書き込みと食い違っている箇所もありますがそれは筆者が学会員
であることによるものかもしれません。私としては智学居士は近代日蓮主義を確立
した人物であり、大石寺門流の諸師も多大な影響を受けていると認識しています。
例えば堀米日淳師・堀日亨師の戒壇論なんかは智学居士と同じでしょう。(この二
師の戒壇思想については「本門の戒壇について」で詳述したいと思います。)

4Leo:2004/05/11(火) 02:49
慎之輔さん。

レスありがとうございます。

>勝手に模倣されているのを流れを汲むように言われたり書かれるのは心外ですね。爆

当時不審に思ったので、続けて顕正居士さんに質問したところ、「直接の人的
関係は無かったと想像します。」との答えでした。

>牧口常三郎氏は戦前の田中智学先生の講演会を聞かれております。
>また、本化聖典大辞林は宗門全体に普及しており日蓮系の方なら
>座右の書にしておられますから、およそ日蓮聖人を信奉する教団
>ならその影響を受けずにはおられないはずです。
>明治中期から大正にかけて、およそ近代宗教団体の活動方法は、
>ほとんど試みたのが国柱会ですから、当時のトーキー(映画)、
>新聞、牛乳販売、大々的な施本、講演会。そういった意味では
>オームですら影響を受けていますよ。

なるほど、国柱会は近代宗教団体のパイオニアだったのですね。
ただ、模倣した側の創価学会とは異なって会員を無闇に増やすような
ことはしなかったそうですね(会員の選抜が厳しいそうですね)。

5Leo:2004/05/11(火) 03:01
直人さん、こんばんは。

>顕正居士氏が何を論拠として論理展開しているか分からない以上、コメントの
>しようがないですが、牧口氏は慎之輔さんの云われるように智学居士の講演会
>に出ておられたようですね

牧口氏が智学居士の講演会に出ておられたのは確かということですね。

>慎之輔さんの書き込みと食い違っている箇所もありますがそれは筆者が学会員
>であることによるものかもしれません。私としては智学居士は近代日蓮主義を確立

牧口氏の「日蓮主義の思想に共鳴することはなかった」に関する資料がないので
(私はそれほど資料がありませんが、もしなにか見つかったら連絡します)なんともいえない
のですが、佐藤氏は牧口氏が国柱会に入会せず(できず?)、後に日蓮正宗に入信したことを
述べたかっただけかもしれないですね。

(資料が明記されていなかったので議論にはなりにくいですが、以前牧口氏は国柱会に
 入れなかったあるいは日蓮正宗以外の寺院も尋ねたというような書き込みを掲示板
 でみたことがあります)

>した人物であり、大石寺門流の諸師も多大な影響を受けていると認識しています。
>例えば堀米日淳師・堀日亨師の戒壇論なんかは智学居士と同じでしょう。

やはり影響は大でしたか。「本門の戒壇について」のスレ拝見させていただきます。

6慎之輔:2004/05/11(火) 06:11
>会員を無闇に増やすような
>ことはしなかったそうですね(会員の選抜が厳しいそうですね)。
そんな秘密結社のような事はないですけど(笑)ただ、宗教の本来の目的は
帰属する会費を納める会員を増やす企業のような事ではなくて、その宗教が
伝えんとする本義を広める事ですからね。顧客ニーズに合せて教えを変化
させていくことは伝統的に、下手糞です。爆
そういえば書籍関連で紹介した、週刊朝日百科「仏教を歩く」\560の30号
は田中智学、鈴木大拙、清沢満之の特集でまだ本屋さんにあるはずです。
わかりやすいと思います。ただし、宮沢賢治に関して梅原氏の書かれている
内容には少しちょっとと思いますけど。

7直人:2004/05/11(火) 20:57
Leoさん、こんばんは。

>牧口氏が智学居士の講演会に出ておられたのは確かということですね。

 そのように判断しても差し支えないでしょうね。後、これは、智学居士とは
直接関係がありませんが牧口氏は重須本門寺にも行っているようですね。

  ─────────────────────────────
  富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口はそのうちの本門寺
  といふのに参り出した。

  (柳田國男「牧口君入信の動機」『定本柳田國男集』別冊第3、P、467、
  1964年)
  ─────────────────────────────

 これまた、Leoさんの質問とは直接関係がないのですが、伊藤瑞叡氏の
『三大秘法抄の真偽論争』(隆文館)によれば、創価学会の「三大秘法抄」
に関する『仏教哲学大辞典』の記述の大部分は智学居士の門下である山川
智應博士の論文の転用だと指摘されています。(P138〜144)
 そして、次のように結論付けています。

  ─────────────────────────────
  創価学会の立論の特色は、山川論文を批議しながらも、重要なものを自
  らの意見の如くに転用活用している点にある。

  (「日蓮正宗創価学会の立場」『三大秘法抄の真偽論争』P144、2003年)
  ─────────────────────────────

 これが真実でしたら、《『仏教哲学大辞典』の項目の多くが、『本化聖典大
辞林』を引き写したもの》であっても不思議ではないですね。

8Leo:2004/05/12(水) 02:16
慎之輔さん、こんばんは。

>そんな秘密結社のような事はないですけど(笑)ただ、宗教の本来の目的は
>帰属する会費を納める会員を増やす企業のような事ではなくて、その宗教が
>伝えんとする本義を広める事ですからね。顧客ニーズに合せて教えを変化
>させていくことは伝統的に、下手糞です。爆

確かに宗教の目的は本義を広める事ですね。創価学会は(ソースとして示せる
ものは思い浮かばないですが(名誉会長の指導がソースの可能性が高いです))
「わからなくても(教学を理解していなくても)折伏は出来る(=人を連れて
くればよい)」「悩みのある人を連れてきなさい(←これは折伏であるのだろうか?)」
となっており、活動のひとつの目標も「本尊流布(創価学会下付の曼荼羅の授与
(数の増加?))」ですし、どちらかというと「会員を増やす企業のような事」の傾向
があるのではないかと思います。(少々脱線しますが)創価学会で不思議なのが、
一般にビデオか会館の衛星中継でしか名誉会長(トップ)のスピーチを聞けない
ことです(これに限らず不思議なこと、疑問が多くあります)。
(紹介して頂いた「仏教を歩く」を拝見すると、智学居士は公衆の面前で
 スピーチされていますね)

>そういえば書籍関連で紹介した、週刊朝日百科「仏教を歩く」\560の30号
>は田中智学、鈴木大拙、清沢満之の特集でまだ本屋さんにあるはずです。
>わかりやすいと思います。ただし、宮沢賢治に関して梅原氏の書かれている
>内容には少しちょっとと思いますけど。

ご紹介ありがとうございます。本屋さんに行ってみました。シリーズの最後の号
なのですね(この朝日新聞社のシリーズは気がつかなかったです...)。

「(前略)、一時期ではあるが、創価教育学会(現・創価学会)の創設者・牧口常三郎
も国柱会主催の講習会や講演会に参加している(牧口は講演会のみ)。」とありました。

9Leo:2004/05/12(水) 02:55
直人さん、こんばんは。

> そのように判断しても差し支えないでしょうね。後、これは、智学居士とは
>直接関係がありませんが牧口氏は重須本門寺にも行っているようですね。
>(柳田國男「牧口君入信の動機」『定本柳田國男集』別冊第3、P、467、
>1964年)

ご紹介ありがとうございます。そうしますと牧口氏が重須本門寺の信徒にならず、
大石寺の信徒になったかという疑問が沸きます。もしご存知のことがござい
ましたらご紹介頂けましたら幸いと思います。(戒壇の本尊がキーではないかと
予想します...)

> これまた、Leoさんの質問とは直接関係がないのですが、伊藤瑞叡氏の
>『三大秘法抄の真偽論争』(隆文館)によれば、創価学会の「三大秘法抄」
>に関する『仏教哲学大辞典』の記述の大部分は智学居士の門下である山川
>智應博士の論文の転用だと指摘されています。(P138〜144)
> そして、次のように結論付けています。
> これが真実でしたら、《『仏教哲学大辞典』の項目の多くが、『本化聖典大
>辞林』を引き写したもの》であっても不思議ではないですね。

こちらも、ご紹介ありがとうございます。新たな事実が出てきましたね。

10Leo:2004/05/12(水) 03:21
直人さん、別の話題です。

直人さんの下記のご発言に注目しています。私としても(事情に左右される)
学会指導や教学に翻弄されることを良しとせず(心情としてはすっかり学会から
第三者的になっておりますが)、「行き着くところ」を見極めたいと思っています。

「創価学会の行き着くところは教学思想的には日蓮宗、組織的には立正
 佼成会であろう。その一つは日蓮正宗から破門された後の学会教学は日
 蓮宗と同じようになっていること。もっとも、これは当然の帰結である。
 真理は一つなのだから。」

この「真理」についてまた明日以降お伺いしたいと思います。

11直人:2004/05/12(水) 20:06
Leoさん、こんばんは。

>そうしますと牧口氏が重須本門寺の信徒にならず、大石寺の信徒になったかという疑問が沸き
>ます。

 牧口氏は重須本門寺への入信を希望したようですが、重須の僧侶である早川一三師に「あな
たの考えは宗祖の教えとまったく無関係である」と云われて入信を断られたそうです。

  ───────────────────────────────────
  北山本門寺の僧侶、故・早川達道師に聞いた話では、牧口は昭和二年ころに何度か北山
  本門寺を訪れ、創価教育と日蓮について自説をいろいろと話して、「本門寺の信徒になりた
  いといったが、あなたの考えは日蓮聖人の教えとは違う、といって帰ってもらった」というこ
  とであった。

  (「創価学会攻防史の研究」『福神』9号、P156、2004年)
  ───────────────────────────────────

 早川師の「日蓮聖人の教えとは違う」という証言を裏づけるように、牧口氏は尋問調書にお
いて、

  ───────────────────────────────────
  問 会員獲得の手段方法に就ては
  答 (中略)私の価値論をお寺に於て宣伝説教するわけには参りませんませんので私
  は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採り入れた処に私の価値論が
  ある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります。

  (『牧口常三郎全集』10巻、P188、2000年)
  ───────────────────────────────────

  ───────────────────────────────────
  問 創価教育学会の信仰理念の依拠する処は日蓮正宗に相違なきや。
  答 (中略)創価教育学会其ものは前に申上た通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造
  論を採入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります。

  (『牧口常三郎全集』10巻、P188、2000年)
  ───────────────────────────────────

と述べてます。つまり、牧口氏は寺院という組織力を利用して自説(価値論)を広めようとし
たのであったわけで、本門戒壇之大御本尊への強い渇仰はなかったようです。私の記憶で
は本門戒壇之大御本尊を前面に出したのは戦後の戸田城聖会長だったと思います。

>この「真理」についてまた明日以降お伺いしたいと思います。

 これは特に血脈論を意識して書いたものです。創価学会は今日でこそ、

  ───────────────────────────────────
  「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(「生死一大
  事血脈抄」、御書一三三七㌻)と仰せのように、仏になる血脈は万人に開かれたもの
  であり、一部の人が独占するものではありません。

  (『教学の基礎』P205、2002年)
  ───────────────────────────────────

と云うのですが、かつての創価学会は「貫首を通しての信心血脈」というようなことを云っ
ていました。こうした血脈論に対して日蓮宗は「生死一大事血脈抄」を依文として、そうし
た血脈論は間違っていると反論(『護持教報』)していたわけです。
 こうした教義解釈の日蓮宗化をさしたものです。「真理」というのは大袈裟かもしれませ
んが虚心坦懐に御文を拝して導かれる結論はひとつのはずです。そうしたことを云おうと
したものです。

12Leo[TRACKBACK]:2004/05/16(日) 02:44
直人さん、皆さんこんばんは。

直人さん、牧口会長の入信時の動機や情況を示していただいてありがとうございます。
話題はかわりまして...「創価学会をみんなで考えよう」掲示板
(http://jbbs.shitaraba.com/study/925/)で経悟空さんという方の興味深いご発言が
あり内容を吟味してみたいと思いますがいかがでしょうか。

経悟空さんのご発言(下記ご発言リストの※1部分)は大石寺教学批判(たとえば下の執行海秀師
の批判)への反論となる可能性があると思いました。

・興門教学の思想的展開の一考察 教学の本質を中心として(執行海秀)
「すなわち、興門の教学は、仏教の本義を解明しようとする、仏教内における一つの宗派
としての教学ではない。いわば、それは仏教そのものを批判し、これを否定することによって、
新たな一つの宗教をうち立てようと試みている。 」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_001.html、犀角独歩さんのサイト)

───────────────────────────────
○経悟空さんご発言リスト
(便宜上各ご発言に題名をつけさせて頂きました)

・3種類の「宗祖本仏思想」
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r196

「故福重照平さん(『日蓮本仏論』)、故松本佐一郎さん(『富士門徒の沿革と教義』)
は1-の釈尊宗祖同体が大石寺の伝統思想であるのに、変なのが流行していたり、変な
思想と誤解されたりしていると述べていました。」

・中国天台の「釈尊宗祖同体」思想
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r204

・日寛上人の「宗祖本仏思想」
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r206

・日寛上人の教学と日蓮聖人の教学
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r208

※1「日寛の宗学は仏教の一切を「発菩提心」に帰結するといえます。日蓮もまた久遠の
釈尊を永遠の菩薩として理解し、みづからと同一視し、人々に菩提心を発すことを勧めました。
「上行神話」が基本の宗学などは日蓮の信仰と最も反するものとわたしは考えます。」

・名字即の凡夫、理即の凡夫
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r213

・カルト化
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r214
───────────────────────────────

13直人[TRACKBACK]:2004/05/18(火) 21:22
Leoさん、こんばんは。

>経悟空さんという方の興味深いご発言

 私自身は経悟空氏の発言には然程興味は惹かれませんがちょっとだけ。

  >1-釈尊宗祖同体 末法に釈尊再度の出世。
  >2-釈尊脱仏・宗祖下種仏 すなわち上行本仏。
  >3-宗祖は宇宙の本体である仏 釈尊も分身の一仏。

  >故福重照平さん(『日蓮本仏論』)、故松本佐一郎さん(『富士門徒の沿革と教義』)
  >は1-の釈尊宗祖同体が大石寺の伝統思想である
  
  (http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r196

 1の説は近年では大橋慈譲氏が云うところの「釈尊上行一体不二説」ですね。さて、この
思想は上代大石寺には見られず、その初見は尊門から大石寺に帰伏した日教師によって
提唱されたものですね。「釈尊宗祖同体」が大石寺伝統的本仏論であると云うのであれば、
宗祖・日興上人の確実な文証によってその論理展開がなされなければなりません。
 2は昭和60年代頃まで創価学会によって強調されていた本仏論でしょうか。最近は3に移
行しているようですが。

  >「上行神話」が基本の宗学などは日蓮の信仰と最も反するもの

  (http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r208

 ここで云う「上行神話」とは如何なるものでしょうか。まさか、《宗祖=上行再誕》ととらえ
る事が誤りだというのでしょうか。《宗祖=上行再誕》は宗祖・日興上人の確実な文証によ
って論証できますが、「釈尊宗祖同体」はどうでしょうか。その説は日教師や日寛師の学説
にもとづいた場合にのみ展開できるのでしょう。
 真実、「釈尊宗祖同体」が大石寺伝統的本仏論であり、宗祖・日興上人の法義と同一で
あるというならば、それらの学説に依ることなく宗祖・日興上人の確実な文証によって論理
展開すべきでしょう。

14顕正居士:2004/05/18(火) 23:55
宗祖本仏論

は日興門流以外にもあるから、この門流の固有の特色とはまずいえません。
三秘中の題目を本因妙とするのも勝劣派には比較的共通のことであります。
(参考−望月歓厚『日蓮宗学説史』など)

大石寺の特色を堅樹日寛が祖述しているなら、彼の六巻抄その他の著述には「上行勝釈迦」
(上行本仏)を押さえ、「釈尊日蓮一体」もしくは「釈尊天台日蓮一体」の方向へ誘導する
傾向がわたしには認められます。堅樹日寛は教相の法華経を本迹ともに迹とし、久遠元初の
独一の本門を本宗の観心とするから、上行再誕論は教相の上のことになるのであります。

では上行再誕や上行本仏の否定は堅樹日寛の独創かというとそうではなく、
「譬へ地涌の菩薩也と云ふ共、地住已上の所見なれば末法我等が依用に非ず」
(『雑雑聞書』富要集2巻)と大石寺中興の祖である9世日有は述べたと伝えます。

直人さんは最近、電波なお友達とは訣別されたようですが、

>「釈尊宗祖同体」が大石寺伝統的本仏論であると云うのであれば、
>宗祖・日興上人の確実な文証によってその論理展開がなされなければなりません。

宗祖は日蓮聖人であります。日蓮聖人の遺文から発達した教義はそれぞれに合理性があれば
互いに尊重しあうべきですが、派祖日興を絶対とし、合わなければ日蓮聖人も後世の学徳も
一切経もお認めにならないのですか?

15直人:2004/05/19(水) 01:12
顕正居士さん、こんばんは。

>電波なお友達とは訣別

 波で始まるHNの人となら去年に訣別しています。現在はまったく関係ありません。

>宗祖は日蓮聖人であります。

 その通りです。誤解させたようですね。「宗祖・日興上人」は蓮興二祖−この掲示板では
相応しくない書き方ですから日蓮聖人、日興上人と云いましょう。−という意味で書いたも
のです。

>日蓮聖人の遺文から発達した教義はそれぞれに合理性があれば互いに尊重しあうべき

 これについても異論はないです。しかしあくまでも宗祖(日蓮聖人)が正、他の諸師は傍
でしょう。

>派祖日興を絶対とし、合わなければ日蓮聖人も後世の学徳も一切経もお認めにならない
>のですか?

 私は日興上人を絶対視したつもりはないですよ。上の「>日蓮聖人の遺文から発達した教
義」とも関連しますから一緒に云いましょう。例えば、今日の大石寺では貫首は宗祖人と同
格、或いは、代理人であるというようなことを言ったり、「貫首と大御本尊と一体である」という
人さえいますね。けれども、こうした思想の根源は日教師の学説であること、それを日寛師が
著書に引用しているだけであって、決して宗祖、日興上人に「貫首は大御本尊と一体である」
という思想を見出すことはできないでしょう。
 ただ、途中の貫首がこう云ったからこれが「伝統思想」と思うのはあまりにも危険でしょう。戒
壇論で云えば近代までは《天生原戒壇・六萬坊》が信じられてきましたが、史料を見たときそ
れは大石寺本来の伝統的戒壇論ではなく、興門他山の思想でした。つまり、宗祖、日興上人
にない思想を「伝統思想」であるというのは如何なものか、と問うているわけです。ゆえに私は
「大石寺伝統的本仏論であると云うのであれば、宗祖・日興上人の確実な文証によって」と述
べたのです。

16Leo:2004/05/19(水) 01:48
直人さん、顕正居士さんこんばんは。

>>12は従来気になっていたことのひとつです。

顕正居士さんが、>>14
>宗祖は日蓮聖人であります。日蓮聖人の遺文から発達した教義はそれぞれに合理性があれば
>互いに尊重しあうべきですが、派祖日興を絶対とし、合わなければ日蓮聖人も後世の学徳も
>一切経もお認めにならないのですか?

と仰ったように、日寛上人の教義(注目を日寛上人に絞りますが)が日蓮聖人や日興上人から
異流儀であっても(当然異流儀でないという主張は誤りです)、異流儀なりの妥当性があるので
はないかという素朴な疑問です(異流儀が判明の後に出てきそうな議論と思いました)。

(やや飛躍しますが)たとえば、日寛上人の教義では成仏は不可能と言えるでしょうか(日寛上人
の解釈・教義の信奉者は救いがないでしょうか)。

17Leo:2004/05/19(水) 01:51
直人さん、(まだ>>12〜議論の途中ですが、私の忘れないうちにm(_ _)m)別の件で
気になっていたことを紹介します。

戦時下における創価学会について(直人さん)
http://www.sincere.ne.jp/~naohito/k002.html

によりますと、牧口会長は必ずしも反戦ではなかったと思います。
直人さんは(もしかするとすでにご覧になっているかもしれませんが)
下記資料はどう思われますでしょうか。

下記資料は「牧口会長には反戦思想や反戦運動があった」ということを
大前提にして論をすすめ、それに反する資料を採用していないように見えます。

牧口初代会長の闘い
--『価値創造』廃刊を通して----論述者 生駒おろし
http://www.ginpa.com/karagura/makiguchi.html

「牧口初代会長は、今、奇妙な批判にさらされている。牧口は、
 単に宗教的信条から、神札を拒否しただけで、反戦思想や反戦運動は
 無かったとするものである。そうした疑難をも念頭において、
 機関誌『価値創造』廃刊の過程を追うことにより、牧口初代会長の
 戦いを見てみたい」

18顕正居士:2004/05/20(木) 03:14
日米戦争の際には日露戦争の時にあったような反戦言論がまずありませんでした。
ルーズベルト大統領がすでに開戦を決意していて日米交渉は時間稼ぎに過ぎなかったようで、
ハルノートは最後通牒と理解されました。この段階ではもうわが国に選択の余地がなかったのです。
次の文章の中に引用されている前田夕暮1883-1951の『大詔渙発の日』のような所感は
当時の日本知識人の多数に共通の感慨であったと想像されます。

http://home.att.ne.jp/wind/gakusan/niji/zengo/kako.html

しかしミッドウェー海戦敗北後は戦果は少なく、東条内閣の戦争指導力にも疑問が向けられます。
けれどもこの頃になるといわゆる「東条独裁」が出来て、言論統制はより厳格になっていきます。
サイパン島が陥落し、いわゆる絶対国防圏が崩壊して本土への空襲が可能になると、軍部には
東条暗殺計画も出て来ますが、伝家の宝刀、軍部大臣の入閣拒否で東条内閣は総辞職します。
小磯内閣は海相に米内光政、外相に重光葵をあて、講和を模索しますが、チャンスをつかめず、
まだ戦争は続きます。「大本営発表」によって国民は彼我の戦果を正しく認識できなかったと
いう方がいますが、今時のイラク戦争でもわかるように、リアルタイムでは前線からの報告のまま
に報道されるから、相当の時間が経たないと正確な戦果は「大本営」にもわかりません。
教育を受けた国民は戦果の発表よりも政情の変化や景気の変動によって大勢を予想します。

今日残っている戸田氏の発言からいえることは、戸田氏は当時一定の教育を受けた人々と戦争の認識
は変わっていないし、牧口氏も同様であったと想像します。この時期に存在しようのない空想的で
特殊な反戦思想を抱いた人々ではないことは確実であるとわたしはおもいます。

19川蝉:2004/05/20(木) 09:33
すでに御存知かも知れませんが、創価学会初代会長牧口氏が反戦運動家ではなかったという論文がフロム21(http://www.forum21.jp/contents/contents1-1.html)に掲示されています。
乙骨正生(ジャーナリスト)氏の《「創価教育学会は反戦団体」の虚偽》と云う論文です。

これを読むと、顕正居士さんが
>当時一定の教育を受けた人々と戦争の認識は変わっていないし、
>牧口氏も同様であったと想像します。この時期に存在しようのな
>い空想的で特殊な反戦思想を抱いた人々ではないことは確実であ
>るとわたしはおもいます。

と云われているとおりですね。

20直人:2004/05/20(木) 12:32
Leoさん、こんにちは。

>牧口会長は必ずしも反戦ではなかったと思います。(中略)下記資料はどう思われますで
>しょうか。

 「牧口初代会長の闘い--『価値創造』廃刊を通して----論述者 生駒おろし」の存在だけ
は知っています。数年前、ASCさんとお話していたときに提示されたましたが途中で読む気
力が失せてそれ以来です。
 当時の創価教育学会に「反戦思想」があったかどうかは下記の資料から判断されて下さい。

  ─────────────────────────────────────
  創価教育学会第五回總会は、昭和十七年十一月二十二日東京都神田区一ツ橋教育会
  館に於て開催された。出席会員は約六百名、午前十時宮城遥拝、黙祷の国民儀禮の後、
  稲葉理事による学会綱領の高唱があり(中略)吉田理事の指導にて遠く戦野にある牧口
  会長令息洋三君をしのぶ軍歌を高唱し、厳粛な会場に一抹の和気を送り、最後に西川理
  事の閉会の挨拶あり、次いで牧口会長の発声にて聖壽の萬歳を三唱し奉つて午後五時
  過ぎにめでたく散会した。

  (「第五回總会記録」『大善生活実証録−第五回總会報告−』P15、1942年)
  ─────────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────────
  大東亜戦争も一週年の垂んとして、陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、
  赫々たる戦果をあげてゐる事は、吾等の衷心より感激に堪えない次第であるが、然し一
  方世界の様相は層一層混乱の一路を辿るのみで、修羅地獄とはかう云ふ事を云ふもの
  との實感を與へる。我国としても、もう寸毫の妥協を許されず、勝つか負けるかの一事の
  み、否、断じて勝つの一手あるのみである。この渦中にある日本の大国難に際し、殉国
  の大精神にして世界の指導理念は何であらう。法華経である。法華経精神である。否、
  法華経の實践、即ち我が学会の提唱する大善生活のみである。我が創価教育学会に於
  ても、会長牧口先生には、この一大憂国運動に、挺身されてゐるは又宜べなるかなと肯
  づかれる。

  (理事・本間直四郎「開会の辞」『大善生活実証録−第五回總会報告−』P17、1942年)
  ─────────────────────────────────────

 #上掲資料は最近あるところから研究資料として出ています。

21顕正居士:2004/05/21(金) 11:19
「反戦」とは基本では「開戦反対」を唱えることで、すでに開戦した後なら「早期講和」を唱える、
言論も統制されているなら「徴兵拒否」など消極的最大の抵抗を示すことでしょう。そういう事実
があったと創価学会はいっておりませんから、牧口氏は「平和を愛する人」であったといいたいの
でしょう。この掲示板に参加の皆さんもおそらく皆さん、その意味では「反戦」主義者でしょう。

では「皇太神宮大麻不敬事件」は純粋に信仰上の事柄から生じたのでしょうか。創価教育学会幹部
の逮捕は大麻の焼却などを同会が会員に指示していた疑惑からであったようです。当時、国家神道
(官幣神社)は「宗教ではない」と規定されていました。したがって大麻不敬は国旗への不敬とか、
合衆国ならワシントン大統領の肖像を焼却するなどに相当し、法律による処罰の対象であった。

法華宗の「曼荼羅国神不敬事件」、「宗祖御遺文削除事件」などとは全然、性質を異にしています。
「曼荼羅国神不敬事件」は曼荼羅の下部におられる天照大神、八幡大菩薩が鬼子母神、十羅刹女と
同類の「鬼神」であるという説明が災いしたらしい。大石寺では「日蓮」の周辺にある諸尊が最も
地位が高いと説明して事無きを得たという。対応の巧拙はあるが、日蓮聖人の曼荼羅自体がいかん
とか、遺文に不穏思想があるから削除せよなどは、帝国憲法によって保障された信教の自由を侵す
不正な検挙であり、更に文化遺産の破壊の指示であって、タリバーンの古代仏像破壊と一緒である。

浄土真宗もインド人(阿弥陀仏)を本尊に祭るとはけしからんと、時局へ便乗した不平不満の徒の
落書投書の対象であった。こういう時期に神宮大麻を不敬に扱わないよう指示した大石寺に逆らい、
今日ではそれを勲功のように創価学会は誇っている。ただしこれは日蓮正宗に改宗した元会員への
宣伝で、一般の国民に対しては負の宣伝に過ぎないから大麻不敬を「反戦活動」だったとごまかす。
国民へは脱カルト、改宗会員へは重カルト、二様の作戦を遂行し、間の言論の一貫性は気にしない。
「反戦活動」は特に旧社会党系の議員や支持者が多い民主党プロパーへの対策であろう。自民党と
は直接に組む。それぞれが蛸壺に入っており、トータルには物事が見えないという洞察から、三様
の対策をとり、一貫性を全然気にしないのが最近の創価学会の政策の傾向であるように見えます。

22Leo:2004/05/22(土) 02:09
直人さん、こんばんは。

>>15 の件です。
>しかしあくまでも宗祖(日蓮聖人)が正、他の諸師は傍でしょう。

直人さんのスタンスを了解しました。

ここで疑問が生じました(疑問を思い出しました)。
日蓮聖人は何が何でも正でしょうか。(矛盾はまったくないでしょうか)

(参考資料)
タツノコさんとの対話 (Libraさん)
http://page.freett.com/Libra0000/z015.htm

「宗祖の中に、「縁起説(一念三千)」と「業報輪廻説(流転の十二因縁)」が
 併存したとするならば、それは、「宗祖にも矛盾があった」ということだろうと
 私は考えます。」

「『十二因縁』=「三世両重の因縁」=「有部の十二因縁“解釈”」→基体説
 ≠「空・無自性」=「“本来の”縁起思想」→反基体説」

23Leo:2004/05/22(土) 02:29
顕正居士さん、川蝉さん、直人さん、レスありがとうございます。>>18 >>19 >>20

一次資料を拝見し、創価学会史観(これはこれで信仰ですね)とはかなり違った当時の状況を
垣間見ることができました。

創価学会史観の例
ttp://www.sokagakkai.or.jp/data/history/

余談ですが私は最近まで乙骨正生氏等、学会で敵対者と見做された方の資料や
論文を見ない傾向にありました(非常に抵抗感がありました)。

24Leo:2004/05/22(土) 02:37
顕正居士さん

>>21
>それぞれが蛸壺に入っており、トータルには物事が見えないという洞察から、三様
>の対策をとり、一貫性を全然気にしないのが最近の創価学会の政策の傾向であるように見えます。

インターネットが普及すれば、トータルに物事を見ることが出来るようになる、なれる
ということを期待しますが、実際にはそうならないですね。
インターネットはあくまでも従来のコミュニケーションの延長線であり、
蛸壺(塹壕)に入っている人はいる。蛸壺(塹壕)から出やすくなったという利点はあるかも
しれません。

25慎之輔:2004/05/22(土) 09:04
みなさんおはようございます。
スレッドが違いますけど、「日蓮仏法」とは変な言葉ですね。仏法は仏法ですよね
ご指摘されるまで気が付きませんでした。ありがとうございます。

人というのはいかに多くの情報があっても己にとって都合の良い情報のみを無意識
のうちに選別収集してしまいますね。特にやっかいなのは相手の論文自体が己の主張
と相反するものであっても、部分的に都合の良い箇所のみコピー、ペーストして
利用する。はたまた過去まで捏造する。それを正義と思ってやる。
インターネット時代というのは情報の末法社会かもしれませんね。
その匿名性ゆえ、発言しやすく尊大になりやすいし虚偽も多い。しかし、有益なお話も
聞けるわけです。また、その中に本音や真実もある。ご聖人の教え、仏さまの智慧を
いただいて今後もよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

26慎之輔:2004/05/22(土) 09:07
訂正→ご聖人の教え、仏さまの智慧を教えていただいて信行に励みたい
と思います。<(_ _)>

27Leo:2004/05/23(日) 13:26
直人さん、こんにちは。

>>22の件ですが、やはり自ら学び、自ら考えるということですね。
安易に質問してしまいました。m(_ _)m

>「真理」というのは大袈裟かもしれませんが虚心坦懐に御文を拝して
>導かれる結論はひとつのはずです。

このような姿勢をみならいたいと思いました。

28Leo:2004/05/23(日) 13:29
慎之輔さん、こんにちは。

>スレッドが違いますけど、「日蓮仏法」とは変な言葉ですね。仏法は仏法ですよね
>ご指摘されるまで気が付きませんでした。ありがとうございます。

私も「仏法は仏法」と思いますが、創価学会は「日蓮大聖人の仏法」という言い方を
しており疑問な点ですね。

創価学会会則
ttp://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_29.htm
「創価学会は、日蓮大聖人の仏法を広宣流布することを使命とする仏意仏勅の教団である。 」

29顕正居士:2004/05/24(月) 06:38
「日蓮仏法」

という語句はわたしの知る範囲では創価学会と日蓮正宗系教団でしか使われない。日蓮正宗系教団
での使用例は比較的に少ないから、創価学会ではじめ使われ、Nichiren-Buddhismの訳語であった
のではないかと想像します。江戸時代までは「宗」という語は朝廷から公許の八宗・十宗の宗旨の
意味で、教団を指しません。宗教法人の制度のもとで各宗各派が「〜宗」を名乗り、今はこの語は
事実上、教団を指すものに変わりました。したがって日蓮聖人に系譜する思想を指す言葉が必要に
なります。日蓮教学の約束では「日蓮宗」をその意味に使い、教団としての日蓮宗を「単称日蓮宗」
といい、区別して来ました。しかしこの語法は一般にはたいへん分かりにくい。

*「日蓮宗という名前は固有名詞である。法華宗や大石寺系宗旨をひっくるめて日蓮宗と呼ぶ人が
いるがこれは間違いである」(間違いじゃないんだけどなあ)。
http://www.kosaiji.org/hokke/shushi.htm
だから「日蓮仏教」が今後は使われる傾向になるのではないでしょうか(渡辺宝陽・『日蓮仏教論』)。
思想としての「浄土真宗」を指す語句としては「親鸞仏教」がすでにひろく用いられています。

意味内容としては「日蓮仏法」の語句に問題はないし、「天台仏法」に倣った言い方です。しかし
Buddhismの意味には今は「仏教」を用い、「仏法」をまったく用いないから、実際に「日蓮仏法」
を使うと創価学会員であると誤解される可能性があります。

30川蝉:2004/05/24(月) 09:37

>だから「日蓮仏教」が今後は使われる傾向になるのではないでし
>ょうか
日蓮聖人の受容把握された仏教と云う意味で「日蓮仏教」と云う言葉はすでに使い始められています。特に日蓮宗霊断師会。

日蓮聖人の受容把握された仏教と云う意味で「日蓮仏法」といっても良いのですが、なにせ創価学会が日蓮本仏の立場で「日蓮仏法」と云う言葉を使用してしまっているので、
>「日蓮仏法」を使うと創価学会員であると誤解される可能性があ
>ります。
ですね。

31直人:2004/05/25(火) 10:52
■妙福寺事件―地蔵堂をめぐる紛争

 妙福寺は嘉元三年、要法寺開山日尊上人によって会津細工名に開創された興門派寺院
である。もとは尊門寺院であるが昭和十七年、要法寺との寺籍問題に決着がつき大石寺に
復帰したと云う。
 さて、ここで云う「妙福寺事件」とは妙福寺住持と妙福寺檀徒による地蔵信仰の是非をめぐ
って起こった紛争である。妙福寺は開基が尊門とは云え、大石寺末でありながらなぜ地蔵信
仰などあったのであろうか。所伝によれば次の如くである。

  嘉元二年に会津に入国され、若松にて久遠山実成寺を開かれ、次いで出羽の国に赴か
  んと熊倉まで進まれた時、後から一人の小僧が急ぎ追い付き、日尊に縋って云うには、
  「わが村に疫病流行し、全滅する許りであります。何卒御上人様の法力にて、御助け賜
  らん事を」と頼んだので、日尊も之を諾し、小僧を道案内にして、数里の道を引き返して来
  られたそうです。然るにあの御堂の側迄来たところ、忽ちに小僧の姿が消えたので、不審
  と思い、その御堂を訪れたら、堂守の云うのには「見らるる通りの破れ堂にて、小僧を置く
  余裕も無いが、唯霊顕灼かな尊像があります。或いはこの尊像の化身なるかも知れませ
  ん」とて日尊を案内して、堂内に入りて見れば、果たして小僧に預けた日尊の荷物が、尊
  像の経机の上にあったので、日尊上人は甚だ感激して、それより日夜役病退散の祈祷を
  こらした為、猖獗を極めた悪病も遂に衰え、一村全滅の悲運から救われ
  (『妙福寺事件』P15−16)

 昭和十七年に大石寺門流に復帰した妙福寺であるがその際に所謂「謗法払い」はなされな
かった。しかして、昭和二十一年、久保川法章氏が妙福寺住持として赴任した際に子安地蔵
は大石寺義に相応しくないとし撤廃を主張する。対して妙福寺檀徒は六百有余年続いてきた
信仰対象を撤廃することに反対する。
 かくして子安地蔵の撤廃をめぐる対立は激化の一途を辿る。昭和二十八年一月十一日、檀
徒ら三人は大石寺へ登山し嘆願書を提出している。その内容は、

  一、子安地蔵信仰は六百有余年にわたる伝統。
  一、したがって子安地蔵の撤廃は認められない。
  一、我ら(檀徒)の主張が通らなければ全檀徒が離檀する。
  (『妙福寺事件』P15−16・要旨)

というものであった。これに対して細井精道氏は「嘆願書提出の件について当院より何分の指
示があるから、今後指示に依って行動するようせられたい」と云うのみで宗務院は檀徒を相手
にしなかった。待てども宗務院から指示がない檀徒は警察への告訴、無許可での登記変更な
どの奸計をめぐらす。
 こうした対立過程で久保川氏は檀徒二十二名の離檀を決定し昭和二十八年二月二十四日、
「離檀承認願」を提出している。これについて三月十七日、細井氏が妙福寺に訪れ、檀徒らと
論議の結果、

  (1)地蔵と称している仏像は地蔵ではなく、日尊の像であるから置いてもよい。
  (2)此の像に対する礼拝は行わない。
  (3)住職は充分に檀徒に理解させないうちに謗法払いを行った事は、住職の手落ちであった
  ことを認める事。(『妙福寺事件』P49)

となり、離壇は見送られた。しかし、地蔵(日尊像)への礼拝はこの後も続く。
 四月十八日、久保川氏が妙福寺を空けると檀徒らは妙福寺に投石を行うなどの暴挙に出てい
る。この暴挙は十八・十九日の二回にわたって行われ、警察が介入する有様となっている。
 しかして、昭和二十八年四月三十日、水谷日昇師は「離檀承認願」を承認するに至るのである。
 大石寺は日蓮宗の守護神を誹謗する傾向があるが、その大石寺とて大石寺義からは逸脱した
地蔵信仰を認め、挙句は暴動沙汰である。大石寺の歴史は決して彼らが云う如く「富士の清流」
などではない。この事件がその最たる例と云えよう。

32直人:2004/05/27(木) 19:30
>>31[拾遺]

#資料は事件の当事者である久保川ていこ氏の手記『妙福寺事件』によった。
#妙福寺史に関する研究は大石寺からはなされていないようである。
#妙福寺は現在は日蓮正宗寺院ではなく無住の寺院と化しているようである。

33直人:2004/05/30(日) 19:46
■貫首絶対思想について

 今日における日蓮正宗と創価学会の対立紛争においてはしばしば「法主本仏論」(ここでは
貫首絶対思想と称す)が問題となることがある。ここで云う「貫首絶対思想」とは大石寺歴代諸
師が宗祖と同格、或いは、宗祖の代理人と位置づけられることによって時の大石寺貫首が現
時における日蓮聖人へと祀り上げられることを云う。換言すれば、貫首絶対思想は宗祖本仏思
想の悪しき弊害と云えよう。
 大石寺歴代諸師が宗祖と同格、或いは、宗祖の代理人であるという思想は「御本尊七箇相承」
に「代々の聖人悉く日蓮」と記されている如くであるが、「御本尊七箇相承」が後代の偽作である
以上、偽書を以っての依文は何ら意味をなさない。これによって、貫首絶対思想の初見は日教師
の時代を待たねばならないのであるが、日教師の貫首絶対思想については『大石寺教学の研究』
に譲り、ここでは日教師以降の貫首絶対思想を論点としてみる。
 日教師によって形成された貫首絶対思想はその後、日舜師が大石寺第十九代貫首として登座
した際に大石寺檀徒から反発があったため、日感師は、

  其の器量の善悪を簡ばず、但相承を以って貫主と定められ候、故を以つて一山皆貫主の下
  知に随い、貫主の座上を蹈まざる事悉く信の一字の修行にて候釈迦日蓮代代上人と相承の
  法水相流れ候えば、上代末代其の身の器は替われども法水の替わる事少しも之れなく候、
  此くの如く信ずる時は末代迄も仏法松柏の如くにて、常に寺檀仏種を植え、三宝の御威光鎮
  えに於閻浮提広令流布は疑いなき事に侯、此の旨を相知り侯上は如何様の僧貫主となると
  も相承伝受候上は、生身釈迦日蓮たるべきこと開山の御本意一門徒の肝要にて御座候
  (富要5−P271)

と云い、日舜師を「生身釈迦日蓮」とするのである。
 大石寺歴代諸師において貫首絶対思想を展開したのは大石寺教学を大成した日寛師その人
であった。日寛師は「當家御法則文抜書等」において、

  日蓮聖人御入滅有りて補処を定む、其の次々々に仏法を相続して当代の法主の処に本尊の
  体有る可きなり。此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に生身の聖人に値遇し
  結縁して師弟相対の題目を声を同じく唱え奉り、当代聖人の信心無二の処こそ生身の御本
  尊なれ。此の御本尊を口には云えども身に行ぜず能くよく本尊を取り定む可き也。釈尊聖人
  互為主伴したまふなり云々。(研教9−P740)

  持経者は又当代の法主に値ひ奉る時本仏に値ふ也。成仏の難きに非ず此経を持つの難き
  也。只知識に値ひ此の経を持つ処が本仏に値ふ也。(研教9−P748)

として、日教師の著述に見られる貫首絶対思想が記されている箇所を引用しているのである。こ
れは云わば日寛師が日教師の貫首絶対思想を継承しているということを意味しよう。

[この稿、続く]

34直人:2004/05/30(日) 19:47
>>33の続き

 また、日寛師は「当家三衣抄」において、

  南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主
  伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙
  法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし(宗全4−P126)

と云い、大石寺歴代諸師に対して「一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を
過ご」せとするのである。かかる思想は「血脈附法の貫首に背いて題目を挙げても無益」という
思想につながると云えよう。
 ところで、松戸行雄氏は『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』において、

  「血脈相承の法主への信がなければ、題目をあげても功徳がない」という威嚇的で、幼稚な主
  張に至っては、あきれるばかりである。理論的根拠が全くない珍説であるばかりではない。
  (『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』P14)

と云うのであるが、松戸氏が云うところの「威嚇的で、幼稚な主張」は日寛師の学説に求めること
ができるのである。しなし、当然のことながら、かかる日寛師の学説が宗祖・日興上人に見られな
い以上、日寛師の学説は己義でしかない。この点については松戸氏も、

  今回の宗門問題の根源は、教義上、つまり思想的には、期せずして、この奇怪な「法主血脈
  絶対論」・「法主本仏論」に代表されると思う。宗門が大聖人の民衆救済の精神を忘却してい
  るとか、大聖人の教えから逸脱しているだけではない。伝統的宗門教義そのものに問題の所
  在があると理解すべきなのである。(『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』P15)

と述べている如くである。しかし、だからとて、創価学会の正統性が認められるわけではない。なぜ
なら、「威嚇的で、幼稚な」「大聖人の教えから逸脱している」貫首絶対思想を現代に蘇らせ、創価
学会の教義としてきたのは戸田城聖氏であり、池田大作氏であるからである。
 戸田氏、池田氏の貫首絶対思想に関する発言を挙げると次の如くである。

  どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、
  いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ
  進んでいくだけである。 (『論文集』P346)

  遣使還告であられる御法主上人猊下は日蓮大聖人様であります。(『会長講演集』10−P43)

 近年、創価学会は日蓮宗教学を摂取しているが創価学会教学の根幹をなすものが日寛教学であ
る以上、いかに日蓮宗教学を摂取しようと異流義から脱却することはできない。日寛教学から脱却し
てこそ宗祖の原点に還る道が見えてくるのではないだろうか。

35直人:2004/06/01(火) 19:41
■宗史雑書
 
 今日の大石寺教学の理論体系を大成したのは云うまでもなく日寛師である。しかしながら、大石
寺教学の特徴でもある「宗祖本仏思想」「唯授一人血脈思想」の根源は大石寺僧ではなく、日順師
(重須学頭)によって形成されたものである。このことは『大石寺教学の研究』に譲るが、日順師の
学説については『大石寺教学の研究』では考究を尽くせなかった。したがって、日順師の学説は今
後の研究課題となった。日順師の学説については執行海秀先生が『興門教学の研究』において考
証されているが、私は執行先生とは別な観点−形成史、すなわち、その学説はいかなる理由によ
って形成されるに至ったのか、という観点から考証するものである。
 それにしても、
  
  伝統的正宗教義の「日蓮」即「久遠元初自受用身」という「日蓮久遠本仏論」は、遠く日興上人
  の弟子である三位日順にまで遡るようである。(『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』P167)

として、日順師の学説をそのまま大石寺教学と考える人がいるが、日順師は大石寺と直接関係が
ないことを把握すべきである。なぜなら把握しなければ「本尊書写は附弟一人に限る」という本尊論
とて誤解するであろうからである。
 例えば、日妙師、日満師、日代師、日大師、日郷師といった興門諸師が本尊書写を行っているこ
とを挙げて上代大石寺には唯授一人血脈思想はなかったと考える人がいるが、何れも大石寺と直
接関係がない、或いは、独立し教団(門流)を形成した諸師であって、これら諸師の本尊書写を以っ
て大石寺批判をしても正鵠を射ているとは云えまい。かかる批判の根源は、

  ○宗祖は日興上人にのみ血脈相承をした
  ○大石寺は日興門流の総本山的存在
  ○ゆえに大石寺こそ宗祖の正統門流

という思考、つまり大石寺歴代諸師のみが本尊書写を行うべきであるのに他の興門諸師が本尊書
写を行うのはおかしいのではないか、という思考によるものである。
 しかし、唯授一人血脈思想の根幹をなす二箇相承が偽作である以上、唯授一人血脈思想が宗祖
の本義であるとすることは許されないが、興門教学においての唯授一人血脈思想、とりわけ「本尊
書写は附弟一人に限る」という本尊論はあながちに否定されるべきものではないように思う。それは
日尊師が「尊師実録」において、

  富士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云、其の故は法燈を賞め以て根
  源を立てんが為なり云云、之に依て本尊の銘に云く、仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提
  内未曾有大曼荼羅也云云、予も又此の義を存ずる之所、日興上人御入滅後、一門跡に面面争
  論出来、互に偏執を成し邪論を起して、人人面面に之を書写し奉る云云、然れば則ち仏意は測
  り難く聖意恐れ有り所詮吾が一門に於ては、本義の如く一人之を書写し奉るべきか云云
  (宗全2−P418)

と述べていることによるものである。「吾が一門に於ては」とあることから「富士門跡」とは日興上人
の流れを汲む各門流をさすもの、と解すべきであると思うからである。
 例えば日郷師は1344年に本尊書写を、日大師は1364年に本尊書写を行っている。しかしながら、
日郷師は1335年に大石寺を退出し小泉久遠時、保田妙本寺を建立し日郷門流を形成しているし、
日大師の本尊書写は日尊師寂後20年を経てからであり、日尊師の後継者である日大師が本尊書
写をしても何ら問題あるまい。
 興門諸師を一括りにして大石寺と関連づけるのは正しくないように思う。それにしても、よく考えて
みると今日の大石寺教学というのは大石寺独自のものはほとんどなく、興門他山の思想によって形
成されていると感じるのは私だけであろうか。

36直人:2004/06/07(月) 19:31
>>35の補注

 「唯授一人血脈相承」思想の根幹をなす二箇相承が後代の偽作である以上、唯授一人血脈
相承思想にもとづく「本尊書写は附弟一人に限る」という本尊論が宗祖の本義であったとするこ
とは許されない。むしろ、上代においては誰もが本尊書写を行っていた。

  日向上人(歴代集成22)
  日朗上人(歴代集成23〜27)
  日常師(歴代集成16〜17)
  日高師(歴代集成18〜21)

 真実、大石寺が云う如く、宗祖が日興上人にのみ血脈相承したのであれば、当然、本尊書
写も日興上人一人に限られるであろうし、そうであれば、釈迦一体仏に対して批判した日興上
人であるから、当然、他の諸師が本尊書写を行ったことについて批判しているはずであるが、
そのような史実はない。

  一、 本尊書写の事 尊仰せに云く、大聖人御遷化の刻六人の老僧面面に之を書写し給へ
  り、然るに異議は無く其の後は面面末流、初心後心、戒行の有無、曾て以て之を糾明する
  事無し、面面に之を書写云云、此れ等の次第且は法滅の因縁か五人方は且く之を閣く富
  士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云(宗全2−P418)

 「尊師実録」の「本尊書写の事」を読んで思うに、誰人もが本尊書写を行うようになり、それは
法滅を招くだけでなく、本尊軽賤につながる恐れさえある。そこで、日興上人は興門においては
「附弟一人に限る」としたものではないだろうか。つまり、「附弟一人に限る」という本尊論は日
興上人が《本尊軽賤回避策》として形成したものであって、「尊師実録」に「六人の老僧・・・異議
は無く」とある如く「附弟一人に限る」という本尊論は決して宗祖の本義ではない。
 しかし、興門教学という観点から云うならば、「本尊書写は附弟一人に限る」という本尊論は一
種の妥当性があると云えるかもしれない。
 なお、かかる本尊論は大石寺独自のものではなく、興門諸山に共通するものである。『本門宗
宗制』には次の如く記されている。
  
  第二十八條 曼荼羅書写及開眼は現貫首に限る(『本門宗宗制』P8)

 結局、「聖人教学」「日興教学」「興門教学」という如くに分類した上で考証することが大事なの
だと思う。

 ※本門宗=北山本門寺、西山本門寺、京都要法寺、伊豆實成寺、上野妙蓮寺、小泉久遠寺、
        保田妙本寺

37直人:2004/06/22(火) 19:44
■宗史雑書(2)
 〔初期興門における本尊思想について〕

 日興上人の著述には一見すれば造像を厳誡されているように思える文もあれば、その一方で
造像を認めている文もある。川名義博氏は「日興における本尊論の一考察」において、

  第一に、『原殿御返事』等にみられるように釈尊と四菩薩の木像及び曼荼羅とを共に本尊
  としているもの。
  第二に、『富士一跡門徒存知事』に見られるように、釈尊と四菩薩の木像を本尊と認めず、
  曼荼羅を正意の本尊としているもの。(『日蓮教学研究所紀要』23−P81)

と云い、

  この『富士一跡門徒存知事』に見られる教義内容は、先に挙げた『与波木井実長書』『原
  殿御返事』と比較すると、仏像造立を明確に否定している点で、矛盾していることが解る。
  (『日蓮教学研究所紀要』23−P84)

と云うのである。しかし、川名氏の考えは正しくないように思う。確かに「富士一跡門徒存知事」
には、 

  日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず
  (宗全2−P124)

とあって、この文だけを読めば日興上人が仏像を本尊とすることを誡められた、ととれるであろう。
しかし、「富士一跡門徒存知事」はまず五老僧の立義を批判した上で「日興が云く」となっている。
上記の文は五老僧の立義とされる文に、

  五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那
  等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は
  普賢文殊を脇士とす(宗全2−P124)

とあって、ここで云う「釈迦如来」とは上行等の四菩薩を脇士としたものではなく「普賢文殊を脇士」
としたもの、脇士を欠いた釈尊一体仏である。日興上人が批判された仏像はあくまでも上行等の
四菩薩を欠いた釈尊一体仏や文殊普賢を脇士とした仏像であった。
 日興上人は「原殿御返事」において、

  日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来(中略)大国阿闍梨の
  奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を
  御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わばさも候いなん、それも
  その仏は上行等の脇士もなく始成の仏にて候き、その上其れは大国阿闍梨の奉取候ぬ、な
  にのほしさに第二転の始成無常の仏ほしく渡らせ給へ候べき、御力不契給御子孫の御中に
  作らせ給仁出来し給ふまでは聖人の文字にあそばして候を御安置候べし(宗全2−P172)

と述べている。ここで日興上人が批判されているのは波木井実長が造立しようとした仏像が脇士
のない一体仏であったからである。ゆえに、日興上人は上行等の四菩薩を添加すべしであると述
べているのである。

  仏は上行無辺行浄行安立行の脇士を造副進せて、久成之釈迦に造立し進せ給べし
  (宗全2−P169)

38直人:2004/06/22(火) 19:46
>>37の続き

 このように日興上人には造像思想は明確に認められるのである。それは日興上人の弟子の
本尊思想からも明白である。
 日順師は「本門心底抄」において、

  広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや仏像を安置することは本尊の図の如し
  (宗全2−P346)

と云い、日代師は「宰相阿闍梨御返事」において、

  仏像造立の事、本門寺建立の時也(宗全2−P234)

と云い、日尊師は「尊師実録」において、

  日興上人の仰せに云く(中略)広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉る(宗全2−P419)

と云い、仏像本尊は広宣流布が成され戒壇が建立されたときであるとするのである。それ以前は
大曼荼羅を本尊とすべしというのが日興上人の基本的な立場であった。しかし、広宣流布が成さ
れていない場合でも条件付きで造像を認められた。すなわち「五人所破抄」に、

  執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ
  (宗全2−P83)

とある如くである。かかる思想は「尊師実録」にも見られる。

  予が門弟相構て上行等の四菩薩相副ひ給へる、久成の釈迦略本尊、資援の出来、壇越の
  堪否に随て之を造立し奉りて広宣流布の裁断を相待ち奉るべき也(宗全2−P420)

 日尊師は仏像に執着する信徒にはその造立費用を捻出できる場合にのみ仏像の造立を認める
と云うのである。これは「五人所破抄」にみられる日興上人の教説に基づいたものである。
 日興上人の本尊思想は造像は基本的に広宣流布の時、それ以前は大曼荼羅であるが造立費
用があり一尊四士を造立することができるのであれば認めるというのが日興上人の本尊思想であ
る。したがって日興上人の著述に見られる本尊思想というのは次の如く考えるべきである。

  「五人所破抄」「富士一跡門徒存知事」は、脇士のない釈尊一体仏、文殊普賢を脇士とした
  仏像を批判されたもの。
  「與波木井実長書」「原殿御返事」は、造像する場合は上行等の四菩薩を添加すべしと教示
  されたもの。
  
 日道師は「御伝土代」において、

  脇士無き一体仏を本尊と崇るは謗法の事
  小乗の釈迦は舎利弗目蓮を脇士となし、権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華
  経本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす(宗全2−P255)

と云い、釈尊一体仏や文殊普賢を脇士とした仏像を「謗法」とは位置づけても一尊四士の造像を
「謗法」としていない。むしろ、日道師の本尊思想は日興上人と同じように上行等の四菩薩を添加
した一尊四士を認めるという立場であったことが「御伝土代」の文から窺うことができるのである。
 かくの如く造像、すなわち一尊四士は決して批判されるべき本尊義ではない。むしろ、日興上人
の著述を曲解し日興上人に造像思想はなかったと嘯く今日における大石寺門流の本尊義こそ批
判されるべき本尊義なのである。

39空き缶:2004/06/23(水) 00:37

 直人さん、お久しぶりです。

 ご投稿を閲覧させていただき感じることは、大石寺の歴代貫首の中で日興門流上代諸師の本尊思想に最も近いのは、日精師の「随宜論」のようですね。

40直人:2004/06/23(水) 02:08
空き缶さん、こんばんは。

>日精師の「随宜論」

 「随宜論」の存在は知っていますが、「随宜論」は『富士学林教科書研究教学書』『日蓮正宗
歴代法主全書』に所収されておらず読んだことがありません。しかし、日精師に造像思想が見
られることは「石要関係」に記されているように明らかですね。
 日精師の造像思想は《仏像不造》という大石寺教学から云えば問題かもしれませんがしかし、
興門教学という観点から云うならば日精師の造像思想は批判されるべきではないと考えます。
 結局、大石寺教学が上代興門教学と異質ゆえにこうした問題(日精師の造像は謗法云々)が
起こっているのでしょうね。
 仮令、日寛師が大石寺教学の大成者であっても所詮は日興上人や上代諸師の教説とは異
質なものであって、日寛師の学説が正しく興門教学を伝えているとは云えませんね。大石寺は
「祖道の恢復」を掲げているわけですから、いい加減、日寛教学から脱却して原点に還ってみ
ればよいと思うのです。

41空き缶:2004/06/23(水) 02:40

直人さん、返レスありがとうございます。

「随宜論」は大石寺からいわせれば「当座前の書」ということで、歴代法主全書第2巻には収録されていないようです。

日蓮正宗聖典や富士宗学要集などを含め、確かに既刊書籍には不掲載のようですね。よっぽど大石寺教学にとって不都合なんでしょう。

「随宜論」ですが、最も安価な書籍では、創価学会系の海賊誌「地涌からの通信」第5巻の巻末に全文が収録されています。原文と通解の両方が掲載されており、読みやすかったです。

直人さんには、是非ご一読いただければと思います。

42直人:2004/06/23(水) 22:08
空き缶さん、こんばんは。

>歴代法主全書

 『日蓮正宗歴代法主全書』は当初、30巻くらい刊行する予定だったそうですが、7巻までしか
出ていませんね。8巻は宗内の一部の人が持っているようですが。

>大石寺教学にとって不都合なんでしょう。

 不都合を敢えて公開したのが堀日亨師でした。『日蓮宗宗学全書』第2巻に「家中抄」を掲
載して欲しいと日蓮宗から注文がついたようですが、やはり不都合な記述があるためか掲載
を見送りました。しかし、後年、『富士宗学要集』において公開していますね。今の大石寺に
堀師のような人がいればまだよいのでしょうが。

>創価学会系の海賊誌「地涌からの通信」第5巻

 『地涌からの通信』って大石寺門徒に嫌われていますね。ちょっと引用とかはしにくいかな
って感じますね。興門資料刊行会さんが出版してくれればよいのですが。とりあえず探して
読んでみます。

43直人:2004/06/24(木) 07:59
>>37の補注

 ところで、「富士門家中見聞中」には、

  日興御さくの釈迦一そん一ふく(富要5−P213)

とあって、日興上人が造像したことを伝えている。しかしながら、この記述は正しくない。なぜなら、
日尹師は「日代上人に遣す状」において、

  富士門流ども、出家在家の人来て難じて云、凡そ聖人の御代も自ら道場に仏像造立の義無
  し故〈日興〉上人上野〈日目〉上人の御時も造立無きをや(宗全2−P408)

と伝えているからである。造像思想が明確に認められる日興上人であるが、日興上人は広宣流
布が成されるまでは大曼荼羅を安置するという立場であったから、信徒には条件付きで造立を
認めても自らは造立しなかったものであろう。
 「釈迦一そん一ふく」が釈尊一体仏でなく四菩薩の添加された一尊四士であったならばその
造立者はおそらくは日道師であったと思う。それは、「五人所破抄」伝日時本には「執者尚強欲
致帰依須加四菩薩敢勿用一仏」の十八字がなく、上代と比べて造像思想が比較的薄まってい
ること、日時師の時代には大石寺門流においても宗祖本仏思想が形成されていたと思うからで
ある。とすれば、造立者は日道師・日行師の何れかということになる。日行師の本尊思想は今
日の史料からは窺えないが、しかし、日道師の本尊思想は日興上人と同様に一尊四士を認め
ており、日道師が一尊四士を造立したことは考えられるのである。それを日精師が日興上人の
「御さく」とすることによって自身の造像思想の正当化を図ったものかもしれない。
 ただ、「日代上人に遣す状」は日道師寂後三年の文書であるが、《蓮興目尊…》という日尹師
の系譜からすれば、大石寺日道師の本尊義に言及していなくとも当然と云えよう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板