したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

死刑制度についてひと言お願いします

1boro:2003/03/16(日) 14:16
死刑制度については他のサイトとかで
さんざんやってきたテーマだと思いますが
そのときの犯罪事情によっても意見が
違ってくると思います。そういう意味で
いま現在、どのように思っているかを
簡単でかまわないので意見をきかせてください。
場合によってはテキストを書く上で参考にさせて
いただくかもしれません。よろしくお願いします。

2307無精髭:2009/08/22(土) 02:28:56
誘導さんが仰るように、私も更正プログラムよりも社会復帰プログラムの方を重点において刑罰を調整
すべきだと思うのですが、いくら国が行刑施設を通じて社会復帰をバックアップしたところで当の社会
の側において元犯罪者を受け入れる体制はおろか、お勤めを終えた方々に対して何を勘違いしてか更に
社会的制裁を加えてようとするほどにまでモラルや良心の欠如が顕著であるならば、笊で水をすくうとは
正にこのことでしょう。要は、元犯罪者に対する社会・市民の許容度が低ければ全く話にならないわけです。
私はですね、、、「犯罪者の人権を度外視し、それを世間一般に広めることが抑止力につながり、結果的に
無用な犯罪を減らすことが出来るのではないか」と仰る誘導さんの気概には心底敬服いたしておりますが、
「犯罪者に人権などない」という考えを市民の間に浸透させることと元犯罪者の社会復帰・更正を促す
ことは容易には折り合いが付かないのではないかと思われてなりません。それどころか誘導さんの考えを
推し進めてしまうと、先述した社会における元犯罪者への許容度が著しく低下してしまう可能性が頭を
もたげて来るのではありませんか? このような事態もまた別の施策でフォローできるのなら良いのですが。

2308無精髭:2009/08/22(土) 02:29:39
>>犯罪者=軽度の知的障害者について
そうなんですよ。犯罪が割に合わぬものだという私たちにとって至極自明なことが理解できずに犯罪に走る
社会不適合者には、その自明すぎる道理を一から教えてやらねばなりません。そこで、犯罪者に対して彼ら
向きの社会教育を受ける権利とそれに付随する些細な権利(主に生きることと学習することのために最低限
必要な)くらいは保障してやっても構わないのではないかと思いましたので件のソースを挙げて見た次第です。
こちらの意図は伝わったみたいなので安心しました(笑)。さすがに「犯罪者になど人権イラネ」の一点張り
では不味いだろうと思っていたところでした。まあ、ここ二ヶ月位前の過去ログはもうお読みになったかと
思いますが、監獄で本来やるべきは何かということに関してはかなり突っ込んだ議論がされております。

ちなみに存置論者の方々に対しては、今のところ死刑廃止傾向にある国際社会において日本が存置国として
あり続け、しかも廃止諸国の理解を取り付けられるような十分に説得的な存置論を展開して戴きたいものです。
国際的な批判がありながらも死刑制度を存置するからにはちゃんと巧い言い訳が用意されているのでしょう。
万が一、諸外国から日本が死刑制度を存置する理由を問われた際に、下手なことを言って反感を買ってしまったり
したら。。。更にその反感を無視して刑罰制度に「下手な考え」を反映させたりしたら、、、私は国際社会で
孤立した国には住みたくありませんのでね。。。

こういう私は生粋の廃止論者ではありません。なので、国際的な廃止論―――人権思想に対抗できるような
存置論があるならば、内容次第ではそちらを支持しても良いと考えております。

>>死刑になりたい系の犯罪者について
何度も言うようですが、拷問はダメですよ。憲法の一部を改正・もしくは36条を抹消するというのなら話は
別ですが。拷問を是認するくらいなら、安楽死・尊厳死(自殺権)を合法化すべきだと思います。こちらの
方がハードルは低いでしょう。誘導さんの見解が正しければ、死刑になりたいという目的から悪事を働こう
と考える者もその方へ流れることでしょう。無論、この場合にも憲法を弄くる必要は出てくるでしょうけど。

2309ufloat:2009/08/22(土) 09:25:07
色々書きたいことはありますが、無精髭さんが大抵の疑問を書いてくださっているので、
私からは今のところ1つだけ。

>死刑になりたいと言う犯罪者は、あくまで殺してほしいのであって拷問を受けたいわけじゃないんですよ
>自分で死ぬ気力も無いから、他者に楽に殺してほしいだけ
>例えば死刑までの過程に長く不定期な拷問が待っているのであれば、彼らは実社会で社会不適合でありながらもなんとか暮らしていくか、自分で荒縄か崖までの旅費を用意するかどちらかだったでしょうね
>彼らは結局のところ生きていくよりも自殺よりも死刑の方が楽と判断して犯罪を犯してるのですから
これで本当にその種の犯行がなくなるのかどうか。
自分が死刑になる(= 自殺を遂げる)ために人を踏み台にすることもいとわない人間なら、
「1人で死にたくはない」「後に引けない状況を作る」などという(普通に考えると無茶な)理由により
無差別殺人を犯してから自殺する、あるいは自殺に失敗して逮捕されるケースが出そうな印象です。
それから、社会への怨恨型であれば、「死ぬ前に社会への恨みを晴らしてやる」などと考え、
最終的な死の形が死刑であれ自殺であれ犯行に及びそうな気がするのですが。
外国の事件では、立てこもった末に散々銃を乱射し、最後に自分の頭に一発、というケースが
たびたび報じられますし、もし大量殺人の末が拷問刑(日本では導入はあり得ませんが)
であったとしても、せいぜい結末が「死刑」から「自殺」に変化するだけではないでしょうか。

2310sienn:2009/08/23(日) 01:08:21
ただいま…と言っても、まだ忙しいのは変わらないんだけれども…(泣)

ufloatさんと完璧に重なるけれど、
>彼らは結局のところ生きていくよりも自殺よりも死刑の方が楽と判断して犯罪を犯してるのですから

うん、まぁ、そういう人も含まれるとは思うのですが、全てそういう人で構成されているとも思えないんですよね。。。

誘導さんの言うことを字面通りに受け取るとして「彼ら」はまず「死を熱望している」けれども「自殺するのが怖い」
「自分で自分を殺す度胸がない」故に「誰かに他殺されたい」と思うに至った被他殺願望の持ち主…ってことですよね?
ならば、銃なり包丁なり持って暴力団事務所に乱入した方が他殺してもらえる可能性は高そうなんですが…。
やっぱり暴力団事務所に乱入する度胸があれば自殺くらいワケナイって事でしょうかねぇ。

私はむしろ「彼ら」は「世間の脚光を浴びる」中で「自分勝手な主義主張を広く知らしめる」目的のためなら
「死刑になることを厭わない」人たちなのではないかなぁ…と感じています。つまり「死にたい」が先ではなくて
「自分を苦しめてきた世間を『ギャッ』と言わせたい、一泡吹かせたい」が先なのではないか?と思っています。

俺がひっそり自殺したところで、世間は自分たちが犯した罪(俺を苦しめてきたという罪)に気づきゃしない。
もはや生への執着もありゃしない。今こそ復讐の時は満ちたり!!差し違える(結果として死刑になる)とも
構ゃしない!でっかい花火を打ち上げて、華々しく散ってやろうぞ!そういう心理なのではないでしょうか…。
たとえば、宅間守元死刑囚も「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でも
わずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかった」と言っていますよね?これって遺族感情を
害して死刑判決の可能性を高めるための暴言ではなく、本当に犯行目的なのではないかな、と。

つまり「彼ら」にとって「自分が死ぬこと」は目的ではなくて交換条件なのだと思います。

従って、死刑を廃止し終身続く拷問刑なる物を導入することが可能になったとしても、この手の犯罪が減ると言うより、
この手の裁判が減る((自殺による)被疑者死亡により不起訴)に止まるのではないでしょうか?

2311紫煙狼:2009/08/23(日) 01:09:26
ごめん。
>>2310 は私の投稿。

2312誘導されて来た:2009/08/24(月) 22:09:21
>何の義務も義理もないにもかかわらず受刑者の身を案じてしまわざるを得ないという事情から
>結果的に不快な気持ちを招くものになるのではないですか?
悪いけど、そこまでは面倒見切れない
特定の行動を万人が見て、見た万人が満足行く行動を取れというのは不可能
現状ではソース先のやり方は、罰と言う面と、更生と言う面と、規範の土台固めという面から有益
行うのは、地元でなく多少路線的にも離れた場所で、駅前交番の前辺りで紙袋で顔隠して一人で行うのが良いでしょうね
それから、罵ったりするのは厳禁ですよ
どちらかと言えば、哀れんだ目でちら見ぐらいのほうが効きます

>「犯罪者に人権などない」という考えを市民の間に浸透させることと元犯罪者の社会復帰・更正を促す
>ことは容易には折り合いが付かないのではないかと思われてなりません。
正確には、営利や快楽目的などの自分の利益を図るために他人を殺傷するようなひとや、更生する気の無い人にはですね
それ以外の犯罪者には今までどおりで、別の施策で社会にパイを作っていく方向が良いです
非常にさじ加減が難しいとは思いますが、実際にそれに近いことは起こってます
駐車違反の取り締まり強化にはブーブー言いますが、飲酒運転の罰則強化は社会にすんなり受け入れられましたよね
特定の事件をスケープゴートにして、その事件に関連するものの社会的ウエイトのみをあげることは可能ですよ

>ちなみに存置論者の方々に対しては、今のところ死刑廃止傾向にある国際社会において日本が存置国として
>あり続け、しかも廃止諸国の理解を取り付けられるような十分に説得的な存置論を展開して戴きたいものです。
改めて聞きたいけど、なぜ刑の存在そのものが批判される対称になってるの?
人権思想というけど、中国なんかと違って日本では他人の人権を踏みにじるような事をしなければ死刑にはならないのが現状ですよ

>何度も言うようですが、拷問はダメですよ。憲法の一部を改正・もしくは36条を抹消するというのなら話は
何かを自白させるための拷問は当然ダメですよ
でも、残酷な刑罰って何を持って残酷とするの?かんかん踊りだって十分拷問だと思う人も多いでしょう
残酷な刑罰を法の取り決めなく起こすのではなく、最初から法制化して決めてあれば、それは唯の刑罰の一種類になってしまいますよ
別に爪を剥げとか、100叩きにしろとか言ってるわけじゃなく、「ああは成りたくない」という環境にするだけですよ
世界の例を見る限り、刑務所の環境で人権違反とみなされる事は、実情に比べてずっと少ないようですし
こっちの方がよっぽど批判受けそうですし実現性はないですけど、例えば「ベネズエラの刑務所にて3ヶ月」とか「北朝鮮の収容所で5ヶ月」とか言われたら、内情を知れば「殺してくれ」と言うかもしれませんね
そこまで行かなくとも、アメリカの刑務所は州の予算などによって大きく待遇が違うようですが、待遇が悪い施設でもそれは違法とはなりませんよね
再犯の場合、現在より1〜2ランク設備を無理やり落とした施設で生活していただいても批判の対称になるでしょうか?

2313誘導されて来た:2009/08/24(月) 22:10:02
>これで本当にその種の犯行がなくなるのかどうか。
完全にはなくならないでしょうね
10年位前に「人を殺す経験がしてみたかった」なんて馬鹿な理由で殺人を犯した人もいますから
また
>社会への怨恨型であれば、「死ぬ前に社会への恨みを晴らしてやる」などと考え、
とか
>私はむしろ「彼ら」は「世間の脚光を浴びる」中で「自分勝手な主義主張を広く知らしめる」目的のためなら
>「死刑になることを厭わない」人たちなのではないかなぁ…と感じています。
などの人にも完全な防止効果はいでしょうね
ただ、凶悪な犯罪が10件から7件に減るだけで、確実に人命は3名以上救われます
脚光を浴びる交換条件の対価が一定期間以上の「陰惨な」余生であれば、対価が高すぎると感じる人も出てくるでしょう
私は「10名の不幸な凶悪犯罪者を擁護する社会」よりも「7名の悲惨な凶悪犯罪者に目をつぶって3名の一般人と3名の犯罪者予備軍を不幸に落とさないようにする社会」の方を求めたいです

2314無精髭:2009/08/30(日) 19:40:40
>悪いけど、そこまでは面倒見切れない
>特定の行動を万人が見て、見た万人が満足行く行動を取れというのは不可能
それは誘導さんが単なる提案者・「アメリカ式晒しの刑」の賛同者に過ぎないから言える事ですよ。
どんな刑罰であれ、国家がそれを採用・運用するからには、どのような結果になるかを予測できない・
リスクを計算に入れられないなんてことは言ってられないはずでしょう。しかしながらそれ以上に私が
懸念していることは、国会で晒しの刑を導入するという話が真剣に議論されたときに、国民がどういう
感想を抱くのかということなんですよ。その時点で国民の大半が不快に感じるようでは、晒しの刑の制定が
実現するわけはないですよね。だから、国民の全てとは言わずとも大半が納得できるような弁論なり論理
なり構想なりで晒しの刑導入論を展開しなければならないだろうと思うのです。もちろん現在の日本の
国民性が晒しの刑のような刑罰の導入に対して寛容であろうということが分かっているのであれば、
国民の反応を窺う必要は余りなく計画を進めることができるでしょうが。

まぁ、仮に晒しの刑が新たな刑罰として制定・実施されたとして、その後、市民がどういう気持ちを抱くかは
自由と言うか統制することは確かに不可能ですので、心理面に関しては別に文句はないですよ。というか
ご指摘の箇所については一応冗談であると断ったはずなんですが…(苦笑)。但し、行動面においては
自己責任という条件付きで受刑者に危害を加えることが可能でありますから、その点の対処について十分に
議論する必要があるでしょう。罪状によっては受刑者襲撃の危険性は高まるとも考えられるわけですし。
私も全員が全員良心的・理想的な行動を取るように指導せよとまでは国に対して要求しませんし、国民が
皆そうならなければ晒しの刑を導入すべきでないとも主張しませんけれども、一般市民を巻き込んだ刑罰
論争であることに間違いはないわけですから、誘導さんも晒しの刑導入に積極的でいらっしゃるのなら、
国民をなだめすかす位の面倒事は避けて通れないのではないですか?

でも、誘導さんはきちんと対策を考えていらっしゃるので余計な心配は無用でしたね。交番前で執行させる
というのはナイスアイディアかも知れません。警官なり刑務官なりが付き添うことが可能ならもっと良いのですが。

あと、話には出ませんでしたが、次のことは重要なので付記しておきますね。例えば晒しの刑を受けている者に
対して何らかの危害を加えた場合は通常の罰則の他に、当の晒しの刑を妨害した罪にも問われなくてはならない
でしょう。……刑罰を妨害する罪とは何ぞや、と思われるかも知れませんが。しかし、晒しの刑に含まれるのでは
ないかと危惧される私刑的な要素を排除するためには、刑法におけるそこらへんの調整は致し方ない処置だと私は
考えております。

>現状ではソース先のやり方は、罰と言う面と、更生と言う面と、規範の土台固めという面から有益
更正というのは? 刑罰とは言え屈辱を与えることで却って国や社会に対して逆恨みをする兵六玉が
出てくるとも考えられますが。まぁですから、ソース先の例のように自らが受ける刑罰を選ばせる
というのも好い考えかなと思うのです。誘導さんは罰金や懲役などの従来の刑罰において更に晒しの刑を
付加すべきというお考えなのでしょうけど、それは晒しの刑は罰金や懲役や拘留といった刑罰から独立した
新たな刑罰として制定・運用するという理解で勿論宜しいのですよね? その場合併科と言うことになる
ようですが、こうなって参りますと、やはり刑法の根本的改正なり全体的改正は必須なのではないでしょうか。

2315人権:2009/09/01(火) 20:07:28
こんばんは。

民主党政権が成立するわけですが、死刑廃止の方向に向かうのでしょうか。
一気に廃止まで行かなくても、当面の執行停止ぐらいは可能性があるよう
にも思いますが。法務大臣に誰がなるかにもよるでしょうけれど。

2316Ken:2009/09/02(水) 13:48:05
>>2305
記事読んでみましたけど、ウォルマート(ドンキホーテみたいな安売りの小売店)でたった7ドルの商品万引きして捕まるいい年したおばさんって、悲惨だな、としか。ディープ・サウスのアラバマか。住みたかねーな。

これ読んで日本にも導入汁とか言ってる人、入り口に知らないおばさんが「私は万引きしました」って看板持って恥ずかしそうに立ってる店に入りたいんですかね。私はすごくいやな気分がしそうなんですけど...。

こういうの裏取らないと気が済まない性質なんですけど、実際にはこの「晒し刑」を受け入れるかどうかでウォルマート側と判事の間でぐだぐだしたみたいですね。
http://www.talkleft.com/story/2007/5/9/221635/8178
敷地内で物投げられたり車で轢かれたりしたら店の責任問題にもなりますし。万引きに困っている店の方がこの記事に快哉をおくるのは理解できるんですけど、小売業を営んでいるわけでもないのにこういうの見て「いやっほう!ざまあ!」とか思う人って万引きはしないんでしょうけど、なんだか別の問題を抱えていそうでちょっと近づきたくないです。

見せしめにして再犯予防や万引き犯予備軍の抑止にするってことなんでしょうけど、それより重要なのは店側が万引きには毅然とした対応をとることを実際に示すことでしょうね。判事さんもそういう旨のこと言ってます。
Judge Roberston Jr says yes, it will not only encourage the shoplifters and customers not to steal but show that the store is taking the law and their business seriously.
http://www.associatedcontent.com/article/237228/a_new_form_of_punishment_shoplifters_pg2.html?cat=17

万引きが減らないのは罰が軽いからじゃなくて、まず捕まらないし捕まっても警察に通報されないからです。効果的な対応は万引き犯を見つけたら必ず警察に突き出して裁判を受けさせることですね。駐車違反を減らしたかったら罰則を引き上げることよりも取締りを厳しくするほうがはるかに効果的なのと同じです。以下毎日新聞からの引用。

―――
引きなどの再犯者226人を詳しく調べたところ、発覚回数と通報回数を比べた通報率は21.5%で5回のうち4回は見逃されていた。同委員会は「万引きしても通報されなかった経験が安易な犯行の繰り返しにつながっている」と指摘している。

 少年に動機を尋ねたところ「ゲーム感覚」との回答が26.8%と最多で、高齢者を含む全検挙・補導者の約6割が「捕まると思っていなかった」「何も考えていなかった」と回答した。同委員会は、代金を弁償すれば警察に通報しない店側の対応も規範意識の乏しさの一因になっているとみて、店舗責任者に全被害を届け出るよう求めた。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090827k0000m040049000c.html
―――

いつも書きますけど、日本で凶悪犯罪が少ないのは死刑に代表されるような厳しい刑罰が抑止力になってるわけではなくて、検挙率が高いからですね。すごく悪いことしたらほぼ確実に捕まるんで。

日本の刑罰体系が多様化するのは歓迎しますけどね。江戸時代には、姦通の罪を働いた男女はござに座らされて晒し者にされたらしいです。米国はコモン・ローの国なんでこういうのもありですけど、日本は大陸法なんで法律にきっちり書いてないとダメなのでちょっと難しいかも。

2317Ken:2009/09/02(水) 14:48:38
>>2303犯罪者の人権を度外視し

中国なんかだと殺人じゃなくても覚醒剤とかでも死刑になりますよね。まさに犯罪者の人権が度外視されてますよね。

>>それを世間一般に広めることが抑止力につながり

北朝鮮なんかだと公開処刑がありますよね。まさしく、犯罪者の悲惨な末路が世間一般に広められてる。

>>結果的に無用な犯罪を減らすことが出来るのではないか

なるほど!日本も全体主義の独裁国家になれということか!

>>2302人権を尊重しない人の人権を擁護することにより、人権を尊重する人の人権が失われるのであれば、人権とは奪われることへの容認でしかない

この考え方が間違ってますね。人権って普遍的な権利ですから犯罪者・一般人の分け隔てはないですよ。中国や北朝鮮のような独裁国家では人権がそもそも大事にされてなくて、とりわけ犯罪者の人権はないがしろにされる。EUのような自由民主主義先進国では人権が大事にされているから、犯罪者もその恩恵に被れる、と。どっちかの人権を尊重するのと同時にどっちかの人権を無視するという事態はありえないです。

いつも紫煙狼さんが書いてますけど、刑罰というのは国家が秩序を維持する装置という側面が強いですから。秩序維持のためには犯罪者の人権なんてどうだっていいんだっていう国では、犯罪ではなくても国家の邪魔になるおそれがあるということで一般市民の権利もいろいろと制限されるでしょうねえ。そういう国はやだなあ。

というか、今の日本は過去や他国と比べて凶悪犯罪が多くなったということはないんで。なんかそういう印象・デマを振りまいてる人が多いんですよね。それで、無期懲役は15年で出てこれる軽い罰だとか。

2318ufloat:2009/09/16(水) 06:52:39
>>2317
「人権を尊重する国では、犯罪者もその恩恵を受ける。
犯罪者の人権が保証されない国では、一般人の人権も保証されない」。
これ、ものすごく重要な点ですね。
「犯罪者に人権はない」という状況は、すなわち政府にとって都合の悪い人間を
適当な罪状なり何なりで投獄したり、国家にとって役に立たない人間を取り締まる
規定を作ってしまえば、何でもありということですから。
北朝鮮のように、国家の役に立たない者、気に入らない者、政治的思想が政府に反する者は
労働所・収容所送りとなり、そのまま行方不明となるような世の中は御免こうむりたいです。
少なくとも北朝鮮より何倍もマシなはずの日本でも、冤罪事件では人権を完全に無視した
取調べが話題になったり、「転び公妨」などという言葉も存在するほどですので、
犯罪者の人権を度外視するのが、一般の人権を度外視することにつながるのは容易に理解できます。
死刑を存置するにせよ、廃止するにせよ、抑止効果を見込んだ何らかの刑罰を導入するにせよ、
犯罪者の人権が一般人より相対的に制限されるのは仕方ないとしても、最低限の基本的な人権は
保障されるのが前提でなくてはなりますまい。

>>2315
今のところ、法務大臣は千葉景子氏との記事が出ていました。Wikipediaの記事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%99%AF%E5%AD%90
によれば、氏はアムネスティ議員連盟所属などと書いてありますが、果たして
死刑に関して何らかの動きは生じるのでしょうか。

2319loveless:2009/09/17(木) 01:35:19
>>2315
法相が千葉氏になりました。
個人的には、ほぼ最悪の人選。。。

死刑は執行されないでしょう。
人権擁護法案は可決、執行されるでしょう。
不法滞在外国人の検挙は少なくなるでしょう。

てか、検察に圧力かかるかも。

2320紫煙狼:2009/09/17(木) 20:06:23
死文化し適応されることがなくなった刑罰が法律上残されていることには一定の意味が有ったとしても、
裁判の判決として下され確定したにもかかわらず、執行されない刑罰には全く意味がありません。
そういう意味ではlovelessさんの意見は無理からぬことだと思います。
ただ…無罪を主張する囚人の再審請求の門戸が針穴に身を通すよりは、いくばくかでも緩和されるのであれば、
唯一の救いと認めてもいいかな、とは思います。

とはいえ…今までは少数意見の代弁者としての役割が主な存在理由であった野党でも、多数意見を実現する役割を
担う与党となったからには、そして「善政を行う実力あり」と認められて与党の座を守り通すには、適切な落とし
どころを見つける技量が問われるのであって、少なくとも、今までどおりに少数派の意見だけを最重要視するが
ごとき政権運営を行えば、次は別の党に取って代わられること必定。最悪の場合、いつぞやのごとく、結局自民党に
与党を奪われ返されるという「あまりに恥ずかしくて見るに耐えない醜態」を晒すことになりかねません。

少なくとも現行法に則った法手続きの一環としての責務たる死刑執行命令書への自署を拒否する人物は
法務大臣として、ひいては国民の与えた責務を全うする閣僚としてふてきかくな人物であるという事だけは、
死刑存廃に対する考え方の差を越えてlovelessさんに前面同意できるものです。

2321Ken:2009/12/01(火) 13:50:39
あの人権後進国のロシアでさえ死刑が停止されてるんですね。知らんかった。

死刑執行の停止継続へ 憲法裁が判断
http://ruvr.ru/main.php?lng=jap&q=2101&cid=59&p=20.11.2009&pn=1

極東の島国でも陪審員(裁判員)制度は導入されたんですけどねえ。

日本はまだかいのう(きんさん風に)

2322kuro:2009/12/02(水) 10:30:10
世論の圧倒的な支持を理論によって飛び越えて死刑を廃止をしたいなら、
まずお互いに矛盾する複数の廃止論が存在する状態を解消しなければならない。
そこが死刑容認派と議論をするためのスタートラインだろう。

2323無精髭:2009/12/02(水) 23:35:22
世論を無視してまで死刑を廃止したいとは思わないですねぇ。その世論というのが
<実際の>社会の大多数の人の意見を反映しているのだとすればですが。時に、
廃止派の人たちというのは矛盾なき理論で死刑を廃止できるなんて考えを持って
いるのでしょうか? はたまた死刑を廃止するには死刑容認派と議論しなければ
ならないと考えているのでしょうか(笑)。

国に死刑を廃止させることと(結果として、国が死刑を廃止する)、国民に死刑を
廃止させること(結果として国民が死刑を廃止する)―――つまり死刑廃止の声を
上げるよう国民に呼びかけることは似ているようで違います。一応どちらの方法でも
廃止可能であるとして、「理論」が必要なのは果たしてどちらでしょう?

>(略)まずお互いに矛盾する複数の廃止論が存在する状態を解消しなければならない。

ある廃止論者個人の中で矛盾する考えをどうにかする、という話ではなく?

申し訳ありませんが、「複数の廃止論」というのが何を指すのかが分かりませんので
いくつか挙げていただけませんでしょうか。また、それらがどのように「矛盾する」
のかを教えていただけませんでしょうか。

>そこが死刑容認派と議論をするためのスタートラインだろう。

いやいや、廃止論者同士で意見調整して一つの矛盾なき理論を提出できなければ
議論してやらないもんねーという態度を取るような存置論者の方とは、理路整然
かつフェアな論客ですらちゃんと議論することができないでしょう。死刑容認派
においても「お互いに矛盾する複数の存置論が存在する」可能性は否定できない
わけで、そういうところに無自覚・無反省であればその者の言語活動に支障が
出てくることは明らかですから。

もし死刑容認派の皆さんがお互いに矛盾する複数の存置論が存在する状態を
「仲間内のことだから…」というなあなあな気持ちで放置しているのだとすれば、
それは世論の圧倒的な支持に胡坐をかいているだけと言われても仕方がないことです。

こんなことを言うと、「存置派の言論においては(もはや)矛盾は存在しない!
それぞれ特徴を持った・個性的な存置論が相当数あるにしても矛盾は生じていない!」
という反論(?)が返って来そうで恐い。まあ存置派が一枚岩であるかどうかとか、
その理論に欠陥があるかどうかということは抜きにして考えても、己の言論に矛盾は
ないということを理由に、議論してもいない相手に対し矛盾を失くせと要求するのは
相変わらず変な話です。議論をして行く中で矛盾を指摘してやれば済むでしょうから。
その方が、ただ矛盾を見つけただけでそれを失くせと言うよりは論理的でしょう。

自分が矛盾していなくて、しかも相手が矛盾しているから議論してやらないというのは、
自分が議論の中で矛盾したことを言うかも知れないということを棚に上げて議論を避けて
いるだけではないでしょうか。否、自分はマジョリティーに属するのだから・自分の考えは
世論と変わらないのだから、そういう理由で議論を拒絶しても構わないというのなら、
そんな人と好き好んで議論したいと思う人はまずいないでしょうね。議論したとしても
その傲慢な態度にうんざりさせられそうです。

議論を始める前から、専ら対立する側にのみ高度な論理性や主張の一貫性や立場の統一
といった制約を課そうとする姿勢については全く理解できません。相手が矛盾した考えを
持っていたり事実誤認をしている場合、繰り返しますが、議論の中で逐一その間違いを
指摘してやれば好いではありませんか? というか、そういうことをしなくっちゃ議論
する意味が薄れますよ。

「文法を守れ」とか「感情を排して論理的に話せ」とかいった議論において最低限守られる
べき規則なら相手に要求しても当然でしょうが、だからといって自分にはその規則を破る
ことが許されているのだとしたら、それは規則を相手に要求しているのではなく自分の
勝手な都合を相手に押し付けているだけに過ぎません。まずは自分が規則を守らなければ
相手に規則を守れと言う資格はないでしょうし、相手も実際に規則を守ってはくれないでしょう。

2324ufloat:2009/12/03(木) 05:00:37
>>2322
最大限好意的に解釈しまして・・・。
「日本では圧倒的多数が死刑に賛成しており、反対している人は極めて少ない。
ゆえに、反対派は意見を集約しなければ、まさに泡沫同然の状態であるので、
賛成派の側と理論的な話し合いを持つどころではない状況である」
このような意味でしょうか。

2325無精髭:2009/12/03(木) 08:35:20
kuroさんご自身が死刑容認派だとすれば>>2322の発言はゴーマンの極みですが、
kuroさんご自身が死刑廃止派だとすれば>>2322の発言は謙虚この上ないですね(笑)。

2326loveless:2009/12/03(木) 21:42:35
>>2321
気に入らないヤツは暗殺すればいいので死刑が不要なんでしょ。

こんな国が日本より人権意識が高いということはないですね。

2327きょくタン:2009/12/04(金) 09:13:49
権力者から見た邪魔者→暗殺すればよい(リトヴィネンコやユシュチェンコ)
民衆により引きずり落とされた権力者→法に守られたい

2328紫煙狼:2009/12/04(金) 23:42:02
>2322
あまりに説明がなく断片的に主観のみで書かれているのでkuroさんの仰る事の真意は
私にはわかりませんが、字面だけを追えば私も同じ表現を用いることが可能です。

以前、何度か書き込みましたが、死刑廃止運動をビジネスとしている団体は実在します。
これらの団体の活動は死刑容認派が死刑廃止に対して、より強く嫌悪感を抱くように、
犯罪被害に遭われた方々の神経を逆なでするような運動を繰り広げているのです。
これらの団体の幹部の本音はビジネスチャンスをつぶさぬように、死刑が廃止されて
新しい矛先、新しい運動のお題目、新しい支援者を探さなくてもすむように、表面的に
死刑廃止運動を繰り広げつつ、死刑廃止の実現可能性を一層弱めるのが上策という
わけです。

つまり「廃止を望む廃止派」と「廃止を望まない廃止派」という矛盾が廃止派という
大きなくくりの中には存在していることになります。この矛盾自体を解消しないことには
死刑容認派の見解を軟化させる土壌は生成しないと思いますので、
>まずお互いに矛盾する複数の廃止論が存在する状態を解消しなければならない。
には強く納得せざるをえません。以前、ここに現れた菊田何某のように死刑廃止派は
塀の中の人々の人権に偏重していたり人としてのマナーや人格に何らかの問題がある…。
という認識を強く植えつける活動家が多数いるのです。これは死刑廃止派内の自浄作用に
よって駆逐しなければなりませんね。そこがスタートライン、仰るとおりです。

ただし、複数の廃止論を比較したときに、A論はA論として前提条件から展開結論に至る
まで矛盾なく、B論はB論として前提条件から展開結論に至るまで矛盾ないものであれば、
A論とB論が矛盾し相反するものであっても、この二つなりそれ以上の廃止論がそれぞれ
潰しあう必要はまったくないと考えますので、それを求める意味合いでの忠告であるなら、
少々同意しかねます。

あまりに端的に表現すると、幅広い解釈が生まれますね。

2329無精髭:2009/12/07(月) 12:32:22
ある人々にとっては死刑廃止運動は思いのほか儲かる。でも、だからと言って
その活動を目的に向かってより推進させるようなことをして万一、死刑廃止が
実現してしまったら利得第一のビジネスとしては本末転倒なので、方針として
およそ死刑廃止とは程遠い趣旨の活動を展開する。(一)

他方、本当に死刑廃止を目的に活動する団体もあるが、先の人々にとっては
ビジネス上の競争相手であることはおろか、ビジネスそのものを終わらせて
しまいかねないものである以上、一言で言って邪魔な存在でしかないわけだから、
これに対して間接的に妨害乃至は足を引っ張るかのごとく振舞う。無論、直接的に
・表立ってそんなことをするわけにはいかないので、もう一つの方針として
己も含め死刑廃止派全体の評判が悪くなるような活動を展開するよう心がける。(二)

(一)をやりすぎたら「この組織では死刑廃止を実現することは不可能じゃないのか」
というムードが構成員の間で広がってしまいかねず、失望した者による脱退なんて
ケースが相次いで起こることも考えられます。(二)をやりすぎたらこの国の社会に
おいて死刑廃止運動そのものが許容されなくなる虞があります。(一)も(二)も
匙加減が難しそうですね。まぁそれは好いとして…。

「廃止を望まない廃止派」についてですが、これは端的に表現すると(肯定形に
直すと)「死刑存置派」に他なりません。従って問題なのは死刑廃止派の中に
死刑存置派が紛れ込んでいるということです。「廃止を望む廃止派」は己と
そういう存置的思想を有した団体なり人物を明確に区別するべきではありますが、
せいぜい可能なのは己からこれを駆逐するまでで、そこから先、つまり(『北斗
の拳』風に)滅殺に努めなければならないのは、むしろ実質的な同類である存置派
の方かと思われます。「どうも身内の中に表向きはこちらと親しくしていても陰で
悪口を言っている者がいるなと思っていたら実は身内ではなく他人で、しかも日頃
仲の悪い某々の仕業だった」というだけの話ですよ。身内の不始末は身内が処理
しなければならないと言うのでしたら、「廃止を望まない廃止派」の問題は存置派の
方々に片付けていただくのが筋ってものでしょう。余計な一言ですが、存置論者が
「世間≒存置派」という思い上がった考えを持つのなら猶更ではないかと思います。

2330無精髭:2009/12/07(月) 12:33:09
また、廃止派の自浄作用によって似非廃止派が駆逐されることで初めて死刑存置派に
論理的矛盾、元い言説的問題があることが世間に示されるわけですが、これはこの国で
死刑が廃止されても立場が逆転して再燃しうる問題ですよね。死刑復活運動をビジネス
とする団体の出現については簡単に予想できると思います。ですから、存置か廃止かを
選択する上でより儲かるのはどちらかという視点に立つ者の存在は死刑存廃問題の本質
には全く関わらないんですよ。存置後と廃止後いずれのビジョンにも付いて回る問題なので、
言わばこういう金儲けの手段や人に不快感を与える言動を是とする存在を許すべきか否か
といった、社会全体のモラルの問題だと思われます。

以上、全体としてみれば死刑廃止派は論理的矛盾を抱えていたのではなく、単に言動
不一致だったというだけで、議論で取り上げるべき問題ではあったとしても別に議論を
妨げる問題ではないです。kuroさんは「議論を可能にする問題」と「議論を不可能にする
問題」をごっちゃにされているみたいですねえ。

シェンさんが問題を感じていらっしゃるように、廃止派に対し理論を一本化するように
求めるのは無茶苦茶な話ですが、仮に理論的統一を以て議論をスタートさせる条件と
見なすなら存置派だって例外ではないでしょ、ということです。実際日本においては
存置派のほうが規模も人数も比較にならないほどでしょうし、私の感覚ではバリエーション
にも富んでいそうな気もするので、、、廃止を結論とするよりも存置を結論として
理論的統一を実現するほうがずっと困難だと私は思うのですがね(苦笑)。

2331無精髭:2009/12/07(月) 12:35:06
ところで気になったことが一つ。シェンさんが仰った「塀の中の人々の人権に偏重して
いたり人としてのマナーや人格に何らかの問題がある…。」ような廃止派については、
確信犯であるかそうでないかによって廃止派内でとことん処理すべきかどうかも変わる
のではないでしょうか。たとえば菊田先生氏やしげる様御一行は、「廃止すべきだ。
それしかありえない」と本気で思っている廃止派ではありませんかね?

 http://blogs.yahoo.co.jp/uandi_ooo/34615889.html
 ↑お金目的ならもっと賢いやり方がありそうなものですが。。。

 浜崎茂氏のブログ
 http://shigeeru.blog78.fc2.com/

 選挙に行く香具師は非国民byしげる Part162 (現行スレ)
 http://society6.2ch.net/test/read.cgi/soc/1248054087/l50

「本気で思っている」と書きましたが、「あの時は」そうだったのかも知れませんけど、
 http://shigeeru.blog78.fc2.com/blog-entry-426.html
今は違います。「死刑でしか罪の重さを自覚させられないのではないか」
「死刑は究極の情け」これは含蓄がありますよ。少なくともこの方には実質はなくとも
ポーズだけではないと思わせる何かがあります。「形式だけで内容がないというのに
他に何が残っているというのか?」ですって? 形式を支える(でも、中身がないから
色々と間違った)信念ですよ。つまり勢いだけですよ(笑)。

ビジネス目的の「廃止」(存置)派の場合だと幹部は論外だとしても、
組織の末端の人たちは「どんな手段を使ってでも廃止すべきなんだ」とか
「被害者遺族が言ってるほど加害者は悪くない。むしろある面では被害者と
言えるし、当の被害者にだって落ち度はあるかも知れないじゃないか」てな
信念で思考もスタンスも凝り固まっているかも知れませんよ。まあ、こういう
確信犯の人たちについては死刑廃止派内でどうにかしたほうが好いかも知れませんね。
理想は駆逐するよりも力の限りを尽くして説得することではないかと。
所詮キレイごとですがね。

2332Ken:2009/12/08(火) 13:06:58
しげる先生の近況...なんだか切ない気分っすね...

>>2326こんな国が日本より人権意識が高いということはないですね。

まさにその通り。しょっちゅうジャーナリストが暗殺されたり、大規模テロがあったり、内戦があったり。政府が強権的なロシアのほうが日本よりも人権意識が高いなんてことは絶対にないし、凶悪犯罪だってずっと多いでしょう。それでもいわゆる死刑廃止国になれてるんだから、日本にだってできないはずがない。

>>2322なんで?

2333loveless:2009/12/08(火) 20:37:26
>>2332
日本も民主党になったので、実質死刑廃止国ですよw
(私は納得いきませんが。。)

日本人的には、法改正という手段をとるよりも、
こんな形であいまいに決着するというのが死刑廃止への唯一の道なのかも?
(京都から東京に遷都したときみたいに。。)

2334森蔵:2009/12/11(金) 14:48:16
井上の死刑判決は少し残念でした。
自分手を下さず、決定権はすべて麻原・・・
もし改心したり反省していたら無期懲役が妥当かと・・・
実行犯の林郁夫が無期ですから。

2335泡麦:2009/12/13(日) 00:38:36
千葉さんが法務大臣になって、妨害がひどくなるかもと思っていたけど、やはり千葉さんは
そんなものには負けずに、しっかりと人の道に沿った対応をしてくれていて感動しています。
中学校の時に、出稼ぎブラジル人の娘さんが同級生にいたので、千葉さんの外国人への
対応には正直感激してますよ。
官僚の言いなりの自民党ではできなかったことを、民主党政権は行っていて政権交代の影響力に
驚いています。
まさに、明治維新ならぬ平成維新だと思います。

2336死刑已む無し:2010/01/27(水) 02:18:26
初めまして、私の死刑に対する意見を書かせて頂きます
まず、死刑制度としては存在するべきだと思っております
どれほどの悪意をもって、私利私欲を満たすことを目的とし、どれほどの規模のことを行ったとしても許される
これではいけないと思います

死刑には明確な抑止力が無いなどと仰られる廃止論者の方も見受けられますが
上記のことを犯罪者が事前に認識しているというだけで、犯行に拍車がかかることは明白です
「仏の顔も三度まで」 だと思っております
現在での日本人の古くからの考え方からみれば
「死刑制度に抑止力がある」 というよりもむしろ、「死刑を廃止することが犯罪者を増長増大させる」 ほうが正しい表現です

人権を理由に死刑に反対する方も見受けられます
が、民主主義においての人権とは、「何をしようとも国家が護ってくれるもの」 ではなく
「国民1人1人がお互いに尊重し合うもの」 であるべきだと思っております
死刑相当の罪を予め認識していて尚、その罪を犯すものとはつまり、「他人の人権を侵害し、自らの人権を放棄する」 者であると考えます
他人の生存権は、自らの私利私欲の為に冷酷に奪っておきながら、自分の権利(だけ)は護りたいと訴えても、許すにも限度というものがあるだろうし
訴えることそのものが倫理としては間違っているというものです
だが、人には情けというものもあります
あまりにやりすぎていなければ・・・・真に反省の心が見られるならば・・・・
犯人に生きて更生してもらいたい・・・・という気持ちもあるでしょう
だがここで、「どんなに利己的で残虐な殺人を犯した殺人鬼でも人権は護るべきだ!」 などと高圧的に論じる者も居られるが、これは逆効果であると思われます

冤罪を理由に廃止論を唱える方もいらっしゃいます
冤罪はあってはならないものです
それは懲役刑だろうが死刑だろうが、あるいは不起訴であったとしても、絶対にいけないものです
冤罪の可能性が無い場合に限り死刑適用するべきだとは思います
冤罪死刑は絶対に許せないが、冤罪懲役は仕方が無いなどという意見も聞きます
一つ例を挙げます
真犯人からの直接の依頼を受け、本人が了解した上で、証拠品と現場の状況説明をひっさげて身代わりで出頭した場合はどうなるのでしょうか?
真犯人から報酬を受け取り、代わりに懲役を務めるといった具合ですね
これでは死刑相当の罪を身代わりに引き受けるものは中々存在しなさそうです
このケースで身代わり出頭したものが、ある機を境に、無罪を訴えたとしたらどうなるでしょうか?
殺人犯本人しか知りえない情報を、本人から直接聞いて自供し、証拠とした者が突然無実を訴え、DNA鑑定を求める
当然、真犯人のDNAと一致するはずもなく・・・・
これは・・・・冤罪なのでしょうかね
どちらにしても、冤罪を理由に死刑廃止するとは本末転倒も甚だしいです
真の冤罪被害者にとっての加害者とはこれつまり殺人真犯人なのですから
司法や検察の過失も重く見なければいけないですがね

死刑の抑止力に話を戻します
外国人犯罪者などには強力に抑止力になると言えるでしょうね
廃止論者が例にとって挙げる・・・・世界的には廃止国が増えてきていると
だが皮肉なことに、外国で死刑が廃止されればされるほど、その国から日本にやってくる外国人犯罪者にとっては日本の死刑制度が脅威になることでしょう

ここまで、被害者遺族の感情には触れていません
もちろん、加害者やその家族の感情にも触れていません
「身寄りの無いものならば殺したとしても罪が軽い」 「身寄りの無いものは、情状酌量が認められるようなケースであっても死刑になってしまう」
などという事態になっては絶対にいけないですから
ですが、遺族の感情は、加害者の人権、感情よりは重く見られて当然だと思います
なぜ、廃止論者は加害者だけを擁護するのでしょうね・・・・
全くの身勝手に1人殺害したとしても、現状の基準では死刑適用されないというのに・・・
私はこれだけで十分犯罪者は擁護されてると考えるのですがどうでしょうか?

2337死刑已む無し:2010/01/27(水) 13:18:46
>>2323
>申し訳ありませんが、「複数の廃止論」というのが何を指すのかが分かりませんので
>いくつか挙げていただけませんでしょうか。また、それらがどのように「矛盾する」
>のかを教えていただけませんでしょうか。

そうですね、まずは廃止論をざっと挙げてみます
①人権は平等に与えられるものだから殺人犯にも平等に与えるべき
②世界的には死刑廃止に向かっているのだから日本も廃止すべき
③どんなに凶悪な殺人犯にもそれなりの生い立ちや社会的背景があり、そちらに非がある
④冤罪で死刑になるのだけは絶対に許せないので死刑廃止、冤罪懲役は仕方が無い
⑤誰でもが死刑囚になる可能性を持っているので死刑囚の立場に立って考えるべき、そうすると死刑廃止
⑥死刑制度には抑止力が無いので、死刑は必要が無い
⑦⑤と重複するが、被害者遺族感情、つまり恨みや憎しみからは何も生まれないので、加害者やその家族のことを考えるべき
⑧死刑とは国家による殺人も同然であって、やっていることは凶悪殺人犯と変わらない
⑨ただ殺すだけでは勿体無いので、なにか役に立てさせたい
⑩凶悪な殺人犯も、他の一般人と何も変わらない普通の人間である。だから死刑反対

まだあるでしょうかね・・・・
廃止論とは、これらを軸にして、それを証明するために理論の後付をしているように感じます
これだけ見てみても、どこが矛盾しているかと言うよりもむしろ、まるで整合性が無いように思えます
また、これらの廃止論者同士での意見調整をしなければ議論ができないなどとは私は思いません
ですが、廃止論者にとっては不利であるとは思います

>ある廃止論者個人の中で矛盾する考えをどうにかする、という話ではなく?

廃止論者にとってそれでいいのであればそれで良いと思います
あくまでも個人的な考えであって、他の廃止論者の意見などは自分とは関係ない
と仰られるのならばそれでも構わない
が、それで果たしてその意見が社会的に受け入れられるものになるのかどうかは私個人としては疑問に思うところです

2338紫煙狼:2010/01/27(水) 18:30:46
>どれほどの悪意を(中略)規模のことを行ったとしても許される
「処刑されない=許された」ではないですよね?犯した罪の内容によりますが、
未来永劫許すべきではない犯罪というのは掃いて捨てるほどあると思いますよ?
しかし、その加害者が処刑されるか否かと、許されるか否かは全く別問題です。

>>2337において「死刑已む無し」さんが挙げた10通りの典型的な死刑廃止論は
正当性は別として「処刑すべきではない理由」もしくは「処刑してはいけない理由」と
考えることが出来ます。別に「理由のバラエティー」で競うつもりは毛頭ありませんが、
「決定には慎重の上にも慎重を重ねた検討が必要な事案」に関しては
「現状を変更せざるを得ない理由」が満たされない限り「現状を維持させるべきだ」と
結論するのが無難ではないでしょうか?つまり「死刑を廃止する」には「廃止せざるを
得ない理由」を満たさない限り、現状を維持し「死刑を存続させる」のが無難な結論と
なります。

しかし相手が同情の余地のない凶悪犯であるからといって、その生命を奪うということには、
慎重の上にも慎重を重ねた検討が必要です。先ほどの論法をそのまま死刑囚の生命に当て
はめてはいかがでしょうか?「処刑せざるを得ない理由」が満たされない限り「現状を維持させ
生命を安直には奪わない」のが無難な結論となってしまいますね。
そこで「処刑せざるを得ない理由」を挙げれば、なんら支障なく処刑できるのですが、その際に
一番考慮すべき点は「処刑以外の方法では決して満たされない理由足りうるか」でしょう。

例えば再犯の可能性を例にするとして…。処刑してしまえば確かに再犯の可能性はゼロになり
ますね。しかし、終身拘禁刑でもその目的は達成できるはずです。このように突き詰めて行った場合、
「処刑以外の方法では決して満たされない」モノは何か?と考えたときに何が残りますでしょう??

2339死刑已む無し:2010/01/27(水) 19:09:58
>>2338
「満たす」 「満たされない」
と言う言葉をよく使用されますね
私が、何かを満たす為に死刑制度が必要であると申しましたでしょうか
「処刑されない=罪が完全に許された」 ではありませんが、生きて更生するチャンスを与えられると言うことは
少なくとも、他人の生命を奪った罪に関しては許されたと思えます
交通死亡事故を起こしてしまったドライバーは、とても重い十字架を背負っていかなくてはならないでしょう
が、それは、「死」を与えられた被害者の立場からみれば、許されているはずです
廃止論者には、被害者遺族や、その身内といえる人たちの感情論を否定する方が多く見受けられます
が、死刑を免れた加害者や、たとえば過失によって他人の生命を奪ってしまった人など
こういう人たちを最後に許すのは、「法」 では無いと思いますよ

2340死刑已む無し:2010/01/27(水) 19:14:50
廃止論には
「木を見て森を見ず」
「一本の枝が虫に食われていたら、その幹を切り倒す」
というような理論が多く見受けられるように感じます
私の主観ですが

2341紫煙狼:2010/01/27(水) 19:23:43
>私が、何かを満たす為に死刑制度が必要であると申しましたでしょうか
と、いうことは、死刑が目的を持たない…ということでしょうか?
私は死刑制度に「目的」があると捉え、それゆえに「満たす」という言葉を使用します。
逆に「目的を持たずに死刑にする」のであれば…それは空恐ろしいことだと思いますね。
そのあたり、ご教授いただければ幸いです。

なお…。
>廃止論には(中略)が多く見受けられるように感じます
に関しては、私は賛成論・存置論にも同じことが言えると思っています(^^)

2342死刑已む無し:2010/01/27(水) 19:36:13
廃止論者は、現場での射殺の判断は是であると言います
なぜでしょうか?
どんなに多くの人命を好き勝手に奪った凶悪犯だとしても、判断には慎重に慎重を重ね・・・というか死刑は絶対いけないと仰いますのに・・・
具体的に、どの程度危険が迫れば犯人を射殺しても許されるのでしょうか?
いえ、現場の判断が正しいと思えるのでしょうか?
いえ、現場の判断は已むを得なかったと思えるのでしょうか

私は、「死刑制度」 は「存在すべき」 だと言いました
だが、死刑執行が正義だとは思いません
あくまでも、「已むを得ない」 なのです
現在の死刑の適用基準について議論するというのならば良く理解できます
冤罪死刑を無くすため、その疑いを無くすために慎重に慎重を重ねる。これも良く理解できます
だが、どこまでいったとしても、どこかに、「限界点」 は設定すべきだと思います。それをどこに置くのかを慎重に議論すべきです
これが私の考え方です

2343死刑已む無し:2010/01/27(水) 19:39:01
>>2341
目的があったとしてそれをおこなったとしても、「満たす」 ことが出来ないものも存在すると思いますよ
あなたは世の中全てのことが綺麗に割り切れるとお思いですか?

2344死刑已む無し:2010/01/27(水) 19:44:06
最後に一言だけ言います
人の生死に関わることを議論する場で、気軽に(笑い)を表現されるのはどうかと思いますよ

2345ufloat:2010/01/27(水) 23:13:23
>>2342
>廃止論者は、現場での射殺の判断は是であると言います
>なぜでしょうか?

ここでは死刑についての私論を挟まず、あえて中立的な立場から申し上げます。
「死刑」と「現場での射殺」では、そもそも比較対象とはなり得ないのではないでしょうか。
現場での射殺は、犯人が抵抗または逃亡などをする恐れがある際の、周囲や社会への危険を
防ぐためのやむを得ない判断なのであって、犯人が明らかに無抵抗の状態で投降してきていて、
射殺する必要がないのに射殺した場合には、射殺した者が罪に問われる場合があります。
「必ずしも射殺した側の判断が正しいとは限らない」のはもっともですが、通常の法の範囲でも
「錯誤」による正当防衛や過剰防衛もあり得るわけで、錯誤による射殺が間違っていると
主張なさるのなら、その他の「錯誤」をも否定しなくては道理に合わないでしょう。
死刑問題に関しては、少なくとも「犯人が社会を危険にさらす恐れ」を防止する効果については
死刑でも仮釈放なし終身刑でも同等なのですから、「社会の危険」を理由に射殺を容認する者が
死刑に反対したとしても、全く何の矛盾も存在しないのではないでしょうか。

>>2343
失礼ながら、ものすごく恐ろしい書き込みに感じました・・・。
様々な死刑存置論の
「ある目的のため、人の命を奪うことはやむを得ない」
ことには共感・賛同できるとしても、
「目的が充足できなくても構わない」
ともなれば、いくらなんでも到底賛同できるものではありません。
「条件Xを満たすため、人の命を奪うのは仕方がない」
のであれば、
「条件Xは満たせなくてもよい」
わけにはいかないでしょう。
「人の命を奪う」という苦渋の選択をするからには、それなくしてはどうしても実現不可能な
「目的X」を充足してもらわなくては困ります。命を奪っても奪わなくても「目的X」を
充足できない、あるいは目的自体がないのであれば、命を奪う必要はありません。
私も結構死刑存廃論は読んできたはずですが、大抵の存置派の方々は「この目的のため、死刑は必要」
と主張なさっており、「目的を満たせなくてもよい」との主張をなさったのは、私が見てきた限りでは
(イタズラ・暴言を除いて)死刑已む無しさんが初めてです。もしよろしければ、その辺のところを
もう少しご教授願えないでしょうか。

2346死刑已む無し:2010/01/27(水) 23:40:59
>>2345
>失礼ながら、ものすごく恐ろしい書き込みに感じました・・・。

あなたには私の考えは伝わらないようですね
私は、「目的が満たせなくても構わない」 などとは一言も言っていません
私はむしろ、「我々にはこういう目的があるから、そのためにこれを行うことは正しい」
という考え方、つまり、「正義は我にあり」 という考え方に恐怖を感じます
これは、人の生死に関わる問題など、その判断によって周りに大きな影響を与えることほど言えることだと思いますが
是非を問う場合に於いて、「これは是である」 と断言することそのものが、「非」 であると考えるのです

たとえば、子供にゲンコツを落とすのは躾であるから正しいことだ!
これは当然、「非」 であると思います
逆に、子供は絶対に叱ってはいけない、優しく言って聞かせれば必ず分かる
これも、「非」 なのだと思います

こうすれば良い!これならば正しい!
と、断言した時点で、その判断に正義は無いと思います
人の命を算盤で弾くのは無理があると思うのです

目的としては当然、「満たすことに全力を傾ける」 わけですが、満たせないものは満たせないのです
無理に満たそうとすれば、逆に枯れる場所が新たに出現するでしょう
目的とは、この一箇所だけを満たすのではなく
「全体を潤す」 にはどうしたらいいのかではないでしょうか?

2347死刑已む無し:2010/01/27(水) 23:55:07
>>2345
この程度のお答えしか返すことが出来ずに申し訳ありません
これが私の考え方であって、「私の考え方が正しいのだ」 などとは言うつもりもありません
ただただ、私というちっぽけな一個人の主観を述べさせて頂いたに過ぎません
駄文、失礼いたしました

2348紫煙狼:2010/01/28(木) 01:23:43
>>2344
では、最初に一言。

>人の生死に関わることを議論する場で、気軽に(笑い)を表現されるのはどうかと思いますよ
はい、人の生死にかかわる議論の場です。人の生死にかかわる話題に笑いを挿入するつもりはありません。
人の生死にかかわる話題ではなく「自分は森を見ている」かの如き人の生死にかかわらぬ「蛇足の部分」で
笑いを挿入いたしました。その点ご了承いただきたく存じます。

>>2342
「現場での射殺」を比較対象として出した点についてはufloatさんがご指摘なさっているので
私から補足する部分はございませんが、そもそも並列に比較すべき問題ではないという点、
ご理解いただいた上で、両者の決定的な相違点として「緊急非難」という性質に着目なさっている点は
私も同じ意見であると賛同いたします。つまり…
・現場の(緊急であるとした)判断が正しいと思えるのでしょうか?
・現場の(緊急であるとして下した)判断は已むを得なかったと思えるのでしょうか
という部分ですね。ここについては「その後の裁判で緊急の正当性が問われる」と考えます。
ただし「現に目前に迫りつつある危険からの回避」の緊急性は認められても、
「身体の自由を拘束され、被害の拡大を防いだ状態」には緊急性が認められないと考えるのが
妥当であると私は考えます。

武器を捨て投降した凶悪犯に対して警官が銃撃するのも「現場の判断として許される」という変り種の
廃止論者には、まだお会いしたことがありません。(そういう廃止論者がいたら、私も絶句します)

>>2343
>目的があったとしてそれをおこなったとしても、「満たす」 ことが出来ないものも存在する
これを是とした場合、考えるべき点は大きく2点上げられると思います。
・「満たす」ことが出来ないとわかっていても目的のためにそれをおこなう
これは愚の骨頂ですね。方法論についてもう少し検討する余地があるでしょう。
・目的のために(考えうる最良の方法として)それをおこなったが「満たす」 ことが出来なかった
こういう経験を次に生かすことも大切です。

2349紫煙狼:2010/01/28(木) 01:49:38
私は「死刑已む無し」さんのご意見が「正しい」とか「誤っている」とか判断する立場にはありません。

死刑已む無しさんのご意見は、死刑已む無しさんにとっての正解であり、それに賛同する人も少なくないでしょう。
ただ…死刑廃止論を戯言と一笑に付すのと、数多さぶらう死刑廃止論の一つ一つに耳を傾け熟考を重ねるのと、
どちらが死刑已む無しさんの言葉に磨きをかけるでしょう?どちらの方がより多くの人の心を動かす意見を生むでしょう?

私は死刑存廃論というのは「(あるのかどうかわかりもしない)永久不変の真理」に近づくための論議と考えています。
永久不変の真理が存在しうるか否かも分からぬのに議論する意味はあるのか?といぶかしがる向きもよく分かります。
しかし、その永久不変の真理を求めなければ、永久に真理の存在・不存在は確認できません。

私は、すぐに結論は出せなくとも、議論し続け考え続け、探求し続けること、求め続ける事が、犯罪によって奪われた
多くの故人たちの魂を無駄にせぬため、私たちに残された責務であると思っています。

2350guest:2010/01/28(木) 03:30:12
>>2341
>>廃止論には(中略)が多く見受けられるように感じます
>に関しては、私は賛成論・存置論にも同じことが言えると思っています(^^)

同じことが言える、というのは、日本では廃止論側にとって不利な要素でしかありません。
口喧嘩にしても権力闘争にしても、お前が力押ししてるんだから俺もやっていい、
という理屈が有利に働くのは多数派の方のみです。

>>2323
>死刑容認派においても「お互いに矛盾する複数の存置論が存在する」可能性は否定できないわけで

という反論も同じ理由で、廃止論側は自分の首を締めているものです。
存廃論ともに「お互いに矛盾する論が存在していい」のであれば、
それは統一できるだけの客観的理論がそもそも無く(もしくは見つかってなく)、
納得性が最大の問題、ということになってしまい、
「死刑を存置しながら死刑を廃止する」ということはできない以上、
結局は多数決で決めることにならざるを得ません。

つまり、現在絶望的に少数派である廃止派は、最低限、相手ができないことをする、例えば
矛盾する論を廃して理論の整合性を確保する、
相手がどうあれ自分は卑怯な手を使わない、
等の信用面で対抗しなければ、少なくとも民主主義の日本では、
廃止論が実現できる要因は全くなくなってしまうということです。

2351ufloat:2010/01/28(木) 07:09:14
>>2346
私の愚問に真摯にお答えいただき、ありがとうございます。
その後の書き込みを見る限り、私が申しました「目的の充足」という言葉の定義は、
おそらく死刑已む無しさんの想定された定義とは異なる部分が多く、
紫煙狼さんと多くの共通項があるものではないかと考えています。
「私が想定する言葉の定義」について、以下に少し書いておきます。

人の命を奪うからには、それなりの目的がなくてはならないと私は考えています。
しかも死刑は、冤罪の人を殺してしまう可能性すらあるという、かなりリスキーな方法です。

冤罪の話が出ましたので、>>2336にも一応回答しておきますと、
1.死刑以外の冤罪は良いのか
良くはありませんが、死刑存置の方が「生命の重さ」を刑罰とする生命刑の存在にこだわって
いるように、私も「生命の重さ」は他のあらゆるものと異質であると考えています。
生命刑を特別扱いする余地があるように、冤罪による生命の損失を特別扱いしても矛盾はないでしょう。
2.身代わり出頭による冤罪
物損交通事故レベルならともかく、死刑or仮釈放なし終身刑レベルの罪にて、身代わり出頭が
容易に行われるとはとても思えませんし、まして「ごくまれに発生するかもしれない」レベルではなく、
冤罪死刑問題論を揺るがしかねないほどそれが大量に発生するとは、私には全く思えません。

本題に戻ります。
さて、人の命を奪う上、冤罪など各種リスクを引き受けても充足すべき目的とは何でしょう。
ここは死刑存置論者の間でも色々な主張が出るところですが、いくつか例を出すと
「凶悪犯は死刑にしないと社会が危ない」
「死刑には犯罪抑止効果がある」
「費用がかかる。その分の金で犯罪対策を行えば、被害者が減る」
といったところでしょうか(別に上記の死刑存置論を攻撃しようというのではなく、ただの例です)。
「これらの目的が満たされうるなら、死刑は仕方ないのでは?」というわけです。
しかしながら、それらの目的が満たされないと分かった場合、具体的には
1番上の例は仮釈放なし終身刑で同等の効果があるとして、もし2番目は抑止効果がないと立証され、
3番目はこちらも実は終身刑の方が安上がりであると判明したとしましょう。
そうすると、「目的が満たされうるなら」「死刑は仕方ない」の条件が崩れてしまうわけです。
もし「目的を満たさずとも」「死刑は仕方ない」とするなら、目的もなく死刑を行うことになります。
以上が私の想定する「目的の充足」の言葉の定義と、「目的の充足」にこだわる理由です。
いくつかの書き込みから察するに、おそらく紫煙狼さんの定義も、これにある程度近いのではないでしょうか。
ただ、死刑已む無しさんの定義とは異なる部分があるので、かみ合わない部分が生じているのでしょう。
各自の意見を尊重するのは大前提として、とりあえず死刑已む無しさんの意図を正しく理解しなくては
受け取れていない意見を尊重もできないので、意図をご説明いただき大変うれしく思います。

2352guest:2010/01/28(木) 11:48:17
>>2351
>しかも死刑は、冤罪の人を殺してしまう可能性すらあるという、かなりリスキーな方法です。

「罪の無い人を殺す可能性がある」という意味では、
A.死刑廃止後に死刑相当の受刑者の再犯で人が死ぬ可能性
B.自由刑で冤罪獄死
というのも同じリスクと言えます。

1.罪の無い人の死を減らすのが目的の二者択一であるなら、
 冤罪死刑の可能性とAを比較して犠牲の少ない方をとるべき、ということになります。
 現在の前科者の再犯率から見ても、思いついたら即実行可能の
 「受刑者の再犯による犠牲が出る可能性」の方が、
 数年から十数年かけた裁判をくぐり抜ける「冤罪死刑の可能性」よりも高くなることは
 廃止論者でも認めざるをえないはずです。

2.冤罪死刑という最悪の事態を想像して死刑に反対できるほど感性豊かなのであれば、
 Bの冤罪獄死での最悪の事態も想像できて然るべきです。
 終身刑は「緩慢な死刑」とも言われており、絞首でなくとも殺していると見ることは十分可能です。
 死刑でなければ冤罪が必ず晴れるというわけではない以上、当然長期勾留の後獄死する可能性もあり、
 生きていればこそ死刑よりも残酷になるという見方もできます。
  死刑の特別予防力を絶対的終身刑で代用する、というのはその観点から見ると整合性がありません。

 ドイツ等のように、実際にその観点から絶対的終身刑も廃止されている国々があります。
 彼らの廃止論が正しいとすれば、絶対的終身刑導入は制度の改悪ということになります。
 絶対的終身刑を導入することと導入しないことを同時にすることはできない以上、
 この時点で、抑止力と冤罪被害者への配慮を両取りしようとする廃止論は矛盾があることになります。

3.冤罪による生命の損失を特別扱いするがゆえに、再犯の殺人の犠牲よりも冤罪死刑犠牲者の方を重視する、
 というのであれば、それは反権力のような意識の土台の上に冤罪問題が乗っかっているに過ぎないため、
 「再犯犠牲を重視する」「どちらの犠牲も等価」というような、土台が違う人には、いくら冤罪からの問題を説いても
 説得力がありません。
 それどころか、命が別格であると言えば言うほど、その生命を私利私欲で奪った罪も重くなり、
 死刑の正当性も補強する事になります。

2353guest:2010/01/28(木) 11:58:03
つまり、いくら死刑をリスキーと見積もっても、その同じ理屈によって死刑廃止はさらにリスキーと見れてしまうということです。
それでは廃止できません。

2354Ken:2010/01/28(木) 14:03:35
死刑已む無しさん江
>>2336死刑には明確な抑止力が無いなどと仰られる廃止論者の方も見受けられますが上記のことを犯罪者が事前に認識しているというだけで、犯行に拍車がかかることは明白です

「明白」ということは、これは死刑の抑止力を是と断言しているんですよね。それでいて

>>2346是非を問う場合に於いて、「これは是である」 と断言することそのものが、「非」 であると考えるのです

というのは矛盾してないんですか?そんなこと言っちゃうと、死刑判決なんか「こいつが犯人だ!」とか断言してるんですけど、そういうのはオーケーなんでしょうか。自分の意見が100%正しいわけでもないし、それを誰かに押し付けたいわけでもない、というふうなことを言いたいだけなのかもしれないですが。

>>2344人の生死に関わることを議論する場で、気軽に(笑い)を表現されるのはどうかと思いますよ

私の好きな映画に『ライフ・イズ・ビューティフル』というのがあるのですが、それを観て、生死の関わる絶望的な状況ほど笑いが必要なんだなあ、という感想をもちました。

2355死刑已む無し:2010/01/28(木) 18:48:42
死刑の抑止力についての是非?・・・ですか?
これは、正しいか間違っているか、ではなく、存在するかしないかであって
人の行ないの是非とは違うものだと認識しています

私は死刑に抑止力はある!と考えます
だからと言ってこの時点では何を成すというわけでもありません
抑止力があるからというだけで死刑制度が存在するというわけでもないでしょうし・・・
そもそも私は、死刑執行を 「是」 であるとは言っていませんし
今の私の思うところでは、已むを得ないのではないか?
というものです

紫煙狼さんが仰っていましたが
死刑廃止論の一つ一つに耳を傾け熟考を重ねることが理論や思想の成熟に繋がる
全くもって同意見です
現在の私自身の考えも、廃止論者の言葉に耳を傾けている間に少しずつ整理されてきた感じがします
死刑は正しいのだ!と断言することは傲慢だと思います
でも、今すぐ死刑は廃止すべきだ!というのも危険だと思うのです

ufloatさんが挙げてくださった例・・・・
終身刑のほうがコストがかからなかった場合は死刑廃止で良いのではないのか・・・でしたね
どうなのでしょうね・・・・私もそう思っていたこともあるのですが
日本人の道徳・倫理観などを微妙なバランスにおいて形成してきたその大きな要素の一つを
何の前準備も無くいきなり無くしてしまう・・・・?
私は、長期的にみて一番大きな影響を受けるのは、これからの子供達に対する道徳教育ではないかと思います
近い例で言うと、「ゆとり教育」 ですね
これはもう悪い影響が如実に出てきていますね、社会問題になりつつあります
もっと早急な問題として、マフィアや暴力団、外国人犯罪者(集団)、テロ組織などに対してどう対応していけるのでしょうね
暴力団やマフィアの人間に対して無期だろうが終身刑だろうが、あまり変わらないような気もしますが・・・

それ以外にも、やはり最後に疑問は残るのです
死刑囚は、本当に自身の生死を選択する権利を剥奪されたのでしょうか・・・・?
もちろん殺害された被害者には自分の生死を選ぶ権利は無いですよね
でも、殺害する側は、死刑制度を理解した上で、自分の判断で殺人を選択しているはずですがね・・・・
バレなければ大丈夫と考えたとしても、自分で行動を選択したことは間違いないのです

2356死刑已む無し:2010/01/28(木) 18:58:46
上の書き込みをしながら思いついた考えを書いてみたいと思います

私が今の価値観倫理観のままに、ここに書き込みして下さっている廃止論者の方に意見を近づけるとするならば
『死刑制度廃止を公にしないままに、代わりに終身刑導入をし、実質死刑廃止とする』 でしょうか
もちろん終身刑のコスト面において条件クリア出来れば・・・なのでしょうが
これはもちろん民主主義国家においては中々難しいとは思いますけどね

2357ufloat:2010/01/28(木) 20:10:48
>>2352
うーむ、死刑已む無しさんとの相互理解は可能に思えていますが、
果たしてguestさんにご理解いただけるかどうか・・・。
とりあえず今の制度を現実的に変えるなら、まずはおそらく仮釈放のない終身刑を導入する
ことになるはずですが、それなら特別予防効果は死刑と同等ですから1と3は消せます。
2に関しては、確かに「死ぬまで閉じ込める」のと「死刑」は同じようではありますが、
少なくとも生存中に冤罪が証明される可能性はありますし、等価ではないでしょう。
その他の反権力だの、>>2350の力押しだの多数決だのといったことに関しては、
私からお答えすることは何もありません。

>>2355
死刑廃止によって道徳観が悪化するというのは、私には少々想像できないのですが、
確かに「死刑」というものが、生まれた時から当たり前に存在したことは確かですね。
ところで私、実際には以前に「死刑慎重派」と自称している通り、実際のところは
必ずしも死刑廃止派というわけではありません。これについては後述しようかと。
このスレッドが活発になると、どうでもいい横槍だの、言葉尻を捕らえる人だのが
生じてくるので、本当はもう少し流れが落ち着いた時に書く方がベターなのですが・・・。

2358ufloat:2010/01/28(木) 20:48:56
さて、これは特に死刑已む無しさんだけにあてた書き込みではありませんが、私のスタンスに関して。
私もかつては、よくある「特に理由はないが、大変頑強な」死刑存置論者でした。
当時の私に色々質問したら、きっと次のような答えが返ってくるでしょう。
「人を山ほど殺害した凶悪犯を死刑にしない?そんなバカな」
「死刑には特に抑止効果がない?くだらない冗談を」
「冤罪死刑?現代に冤罪なんか発生するの?」
お粗末な限りですが、「死刑のある日常」とはこのような感じなのかもしれません。
当時の私は、もはや「やむを得ない」の境地どころか、死刑積極派とさえ言えたでしょう。
しかしながら、色々と調べてみると、抑止効果は本当に有無が証明されていなかったり、
冤罪・冤罪疑いは意外なほど多くあったりと、考え直さなくてはならない点が多数ありました。
結果、最終的には次のように考えるに至りました。
「死刑は命を奪う刑罰である。また、社会は冤罪その他の各種リスクを背負わなくてはならない。
それらの点を補って余りあるだけの目的の充足が、死刑存続のためには必要である」。
別に存置派の方々に「補って余りある目的を持ってこい」と言っているのではなく、
自分を納得させるだけの目的が見つからなければ、私自身の納得がいかないわけです。
ただ、私には「そのようなものは世界のどこを探しても存在しない」と言い切るだけの材料もなく、
今のところ死刑は正しいとも間違っているとも判断できない立場にいます。
その点では、「死刑は正しくはないが、存置はやむを得ない」という存置派の人と
立場が非常に類似しているとさえいえます。
ただ、その私が廃止論者の真似事をして、存置論の方々に色々突っ込んで聞いてみようとするのは、
1.自分自身が存置に納得できるだけの材料をまだ持っていないのに、まして存置派として
 議論に参加し、他人を納得させられるわけがない。
2.いつか存置派の方が、目が覚めるような「目的」を提示してくれるかもしれない。
 存置派の方との議論を通して、目的を見つけることができるかもしれない。
この2つの理由によるものです。
ゆえに私は、死刑を存置すべしと主張するだけの材料を持っていないので「存置派」ではありませんし、
かといって死刑廃止を是としているのではなく、「存置論」の中から宝石を見つけようとしている、
あるいは宝石の存在の有無を確かめようとしているのですから、「廃止派」でもありません。
ゆえに、自分自身を「慎重派」としか称しようがなかったのです。

2359死刑已む無し:2010/01/28(木) 21:46:36
私は、どちらの側からであっても、それが宝石であるならば是非見つけてみたい・・・
でも、たぶんどちらの側にも、「宝石」 は存在するのだと思います・・・・
日本以外の死刑存置国では、人の生死に直接影響がない罪であっても死刑適用される国もありますね
でも、日本において死刑相当の罪とは、かなり凶悪な殺人罪のみです
それ以下の殺人罪や、過失致死罪などでも、毎年多くの犠牲者が発生していますが、
現状では、この場合においてのみ、加害者側の生命が危うくなるわけです
私は、死刑制度について考えるときに避けては通れないこと・・・つまり、「人の生死」 について考えると
どんどん想像が膨らんでいってしまいます・・・
人はどこから来て、どこに行くのか?
生命とは何か?
地球とは?宇宙とは何か?
死後の世界は存在するのか?肉体が消滅しても魂は存在するのか?
輪廻転生は存在するか?人は生まれ変わるのか?
・・・・・失礼。
でも、存在を完全に証明することも、否定することも出来ないものが、この世の中には多すぎます
こんなにも身近に存在することで、地球上の誰もがそれを明確に証明することが出来ないことが山ほどあるのですよね・・・
「死刑」 にしろ、「廃止」 にしろ、それを 『是』 であると完全に証明するには、これらのことが分かるくらいでないと難しいのではないでしょうか・・・・
ダラダラとまとまりのない文章で申し訳ありません

2360死刑已む無し:2010/01/28(木) 22:06:39
>>2348
揚げ足取りにもなるかと思い、意見するのを躊躇いましたが
私の考え方を誤解なく伝えたいので書き込みします

>・「満たす」ことが出来ないとわかっていても目的のためにそれをおこなう
>これは愚の骨頂ですね。方法論についてもう少し検討する余地があるでしょう。
>・目的のために(考えうる最良の方法として)それをおこなったが「満たす」 ことが出来なかった
>こういう経験を次に生かすことも大切です。

この、下のケースに於いて
『目的の為に、現在考え得る最良の方法』 を、「行う前」 から、「満たしきれない」 ことの見通しが出来た場合はどうなりますでしょうか?
現状では最良だと思えるが、完全には満たし切れないことが予め分かっているから、その方法が見つかるまでは何もしないのでしょうか?

2361無精髭:2010/01/29(金) 02:49:00
>>2336
>上記のことを犯罪者が事前に認識しているというだけで、犯行に拍車がかかることは明白です

それが全然明白ではなかったりして…(汗)。死刑廃止国における犯罪発生率の推移に関しては
各自ネットで簡単に調べられるかと思いますので、一々ここでそのソースを挙げる必要もない
でしょうが、念のため。
http://www.geocities.jp/aphros67/090620.htm
これを見ると、データなんてそれを扱う者の考え方次第でどうとでも解釈できるんじゃなかろうか、
と思ってしまいます。そのほか、ウィキペディアの「死刑存廃問題」の項にある「死刑制度の犯罪
抑止効果」の箇所をお読みになることをお勧めします。

2362無精髭:2010/01/29(金) 02:49:58
>が、民主主義においての人権とは、「何をしようとも国家が護ってくれるもの」 ではなく
>「国民1人1人がお互いに尊重し合うもの」 であるべきだと思っております

これは新しい見方ではないかと。人権は、法や国家によってではなく個々人の契約によって
保障される、ということでしょうか。

しかし、私だけですかね。人権について「国民1人1人がお互いに尊重し合う」と言われましても、
では具体的にどういった状況を思い描けば良いのかと途方に暮れてしまうのです。

たとえば私にとって親しい人々は、私が彼らの人権を尊重していることを暗黙のうちに了解してくれて
いるでしょうから、おそらく同時に私の人権も尊重してくれているのではないかと思っておりますけど、
単なる知り合いとか仕事上の付き合いの人などについては、私は尊重しているつもりなんだけど、向こうは
どうなんだろうと思うことは時々ですが、ありますね。ましてや同じ日本国民だからといって、見ず知らず
の他人ともなれば、私は最低限尊重する覚悟ですけど、会ったことも見たことも聞いたことも全くない人
全員からちゃんと尊重されるかどうかは、甚だ心もとないです。死刑已む無しさんの考えでは、自分が
他人の人権を尊重しているからといって、それと同じ人権を自分も持つことができることにはならない
のでしょう? そのためには自分の人権を他人が尊重してくれなければならないはずだから。

私を含む大概の人間は、自分は他人の人権を尊重するけど、他人から人権が尊重されているか確信が持て
ないといった不安を抱いているのだと思われますが、身寄りのない人、孤独な人の場合になりますと、
更に事態は深刻です。何せこういう人たちにとっては、人権を尊重し合うために不可欠な、自分以外の
個人との人間関係が希薄・ないし存在しないのですから。こういう人たちにとって死はとても身近なもの
でしょう。あるいは何らかの差別を被っている人は、一部の他人たちから人権を尊重されていないどころか、
むしろ侵害されていると言えますが、お互いの人権を尊重し合うことで人権が保障されるのなら、差別者
と被差別者との間においては、そういった人権の保障行為はありえないように思われます。差別される側
の人間が自分を差別する側の人権を認めるというのはちょっと考えられません。従って、差別―被差別の
関係においては人権は、契約の可能性が潰えているがゆえにそもそも発生し得ないのです。これは私見では、
忽せにはできない問題だと思われます。

以上申しましたように、こと弱者の人権に関しては、国民めいめいが自由に尊重し合うことで保たれたほう
が良いというふうにしてしまいますと、一部の人々が色々と理由をつけてそれを尊重しなくなったり、
あるいは尊重したくとも、弱者の弱者たる所以を看過してしまうことで充分に尊重できなくなるおそれが
出てくるのです。つまり「国民1人1人がお互いに尊重し合うもの」という物言いには、別の見方をすれば、
「めいめい気に入った相手とだけ尊重しあえば良い」というような、あまり好ましくない自由を読み取る
ことができるのです。この物言いでは、個々人の契約以前には人権は保障されていないと説かれているわけ
ですから、「お前が俺を尊重しなければ、俺はお前を尊重してやらないもんね」といった気まぐれや、
「俺はお前を尊重してるんだから、お前は俺を尊重すべきだろ」といった押しつけも横行することとなる
でしょう。人として生まれてきたのに、人間関係に何らかの支障を抱えているがために人権が保障されて
いるとは言えない人が、国民の中で潜在的に生まれてきてしまうのではないでしょうか。

だからこそ私は人権の保障について、国民1人1人にその責務を委ねるというような考えには賛同できません。
国民間の相互契約からは漏れてしまうだろう人たちのために、そもそも人権とは「何をしようとも国家が
護ってくれるもの」であるべきだと考えるのです。「俺の人権なんか誰も尊重してくれないんだ」「私の
人権は周囲から尊重されていると言えるのだろうか」などの苦しみを抱えている人たちのためにも、国家が、
法が、その人権を尊重する必要があるのだと。

2363無精髭:2010/01/29(金) 02:50:38
>死刑相当の罪を予め認識していて尚、その罪を犯すものとはつまり、「他人の人権を侵害し、自らの人権を放棄する」 者である

と言えるためには、「他人の人権を尊重しない者の人権は誰からも尊重されることがないし、本人も自身の
人権を軽んじている」ということが正しくなければなりません。ですが、世の中には物好きがいるもので、
他人の人権を侵害した者を擁護する団体・運動が存在します。あるいは、その人間の親類縁者や地縁者、
知己、仕事上の関係者などなどが、それぞれ程度の差はあれ、今までのように彼の人権を尊重することが
考えられます。(もともと自分の人権は侵害されたくなかったであろう)本人の方でも、それに応えよう
とするかも知れません。なので、他人の人権を侵害したからといって、誰からも人権を尊重されないとは
限りませんし、自らの人権を放棄する覚悟があったとも言い切れません。

私の考えでは、人として生まれて来る以上、誰にでも人権は備わっているもの、もしくは法の下に
個々人の人権は差別なく保障されているものだというのが前提としてありまして、そこから国家に
よってさまざまな制限が掛けられる―――己の人権を行使するにしても他の人権を害するまでは
行使してはならないとか、犯罪者であれば法の規定に則して拘束されたり刑罰を科されたりする
ことで人権が侵害されるといった具合に―――といった仕組みになっているものとばかり思って
いました。そこでは、例えば殺人犯にとりあえず人並みの人権を認めてやったとしても、裁判で
それを限りなく無に近づけることは可能なわけです。なので私は、犯罪者に人権はあるかどうか
といったことにこだわることで、自分の立場を固めたり主張を明らかにするよりも大事なのは、
犯罪者の人権は(犯罪を犯していない者の人権と比較して)どこまで法的に保障されるべきか、
犯罪を犯した者の人権について国家はどのような侵害を行うべきなのか、という問いを立場や
主張を脱却して考えることではないかと思う次第です。

しかし、それ以前の問題として、人権をどう定義したらよいか、とか、個人は人権をいかに持ち
始めるか、とかいったことに頭を悩ませるのはなかなか有意義なことではあるまいかと思います。

2364無精髭:2010/01/29(金) 02:55:45
>冤罪はあってはならないものです
>それは懲役刑だろうが死刑だろうが、あるいは不起訴であったとしても、絶対にいけないものです

「いける/いけない」という基準において、「ちょっとだけいけない」「だいぶいけない」と段々
進んでいって、上限に「絶対にいけない」という判断を設定した場合、冤罪であろうとなかろうと、
死刑と懲役刑がそれぞれもたらすであろう害における決定的な違いを見過ごしてしまう可能性が
出てきます。死刑と懲役刑とがもたらす害の違い、それは執行後における受刑者の存在のあるなし
です。冤罪被害が問題視される場合、当の冤罪被害者による生の声は、「冤罪はいけない」と主張
する者にとって、なくてはならないものでしょう。冤罪被害者自らがどのような辛い目にあってきた
かを伝えられることと、私たちがそれに耳を傾けなければならないことの意味は重大なのです。
しかし、冤罪被害者自らが体験談を語れなくなったら、、、その生の声を私たちが聴けなくなったら、、、
この喪失が冤罪問題に致命的な打撃をもたらすのは必至です※。こういった認識を万人が共有する
ためには、死刑已む無しさんが仰るような絶対的基準を捨てて、替わりに次のような操作をしなくては
なりません。すなわち「どのような冤罪も許されない」ということは至上命令であるにしても、
その上に「許される/許されない」の基準とは別に、刑罰の種類に応じてその害の大きさを定める
基準や、異なる刑罰の害を比較するための尺度を設定すること。

 ※そのほか、死刑は再審請求の可能性を摘んでしまう点で、冤罪者にとって計り知れない痛手となるでしょう。

懲役冤罪だった人に対して次のように話しかけてみたとします。社会から隔離された施設で過ごした
あの絶望の日々を、もしも懲役囚としてでなく死刑囚として過ごしたなら、冤罪の恥辱に耐える辛さ
とは別に、このまま疑いが晴らされないまま明日にも命を奪われてしまうのではないかとの思いから、
自分に残された時間を当てもなく勘定して、精神にやすりをかけられるような思いがしたのではあり
ませんか、と。誘導尋問っぽいかも知れませんが、きっと同意が得られるものと私は信じております。

2365無精髭:2010/01/29(金) 02:56:55
>冤罪死刑は絶対に許せないが、冤罪懲役は仕方が無いなどという意見も聞きます

そんなことを本気で考えている廃止論者はいないと思います。いや、死刑已む無しさんのような
存置派にとって都合の好い脳内変換であると思いたいです。

>なぜ、廃止論者は加害者だけを擁護するのでしょうね・・・・

これも誤解ではないでしょうか。死刑を廃することが加害者擁護に繋がるとお考えでしたら、
廃止論者の話をよくお聞きになっていないということになりそうです。でなければ、死刑已む無しさん
の知っている自称廃止論者は、実のところ廃止論者とは呼べないほど偏向していたとか。少なくとも
少し前までは、司法が被害者を度外視して加害者を擁護してきたかのごとき経緯がありました。それを
好いことに廃止論者の間で、被害者のことを脇に置いても構わないという傾向が半ば正当化されたやも
分かりません。

>>2337
そこで挙げられている廃止論は意図的に矮小化されている嫌いがあります。でなければ、にわか廃止論者
が先行の廃止論を良く理解しないままに要約した結果がそれではなかろうかと。

>廃止論とは、これらを軸にして、それを証明するために理論の後付をしているように感じます

そのことには何も問題はないです。むしろ、主張したいことを主張しておきながら理論の後付を
しないほうが問題です。どんなにおかしな結論でも、私がそう結論したのはこうこうこういった理由
からだといった報告がありさえすれば、議論の中で検証することができますが、論証部分が欠落して
いるなら、いくら主張が正しくても、それだけでは議論になりません。どんなに力強く、感性豊かに
表現してみせたところで、論証がないなら同じことです。

2366無精髭:2010/01/29(金) 03:01:43
>>2350
>同じことが言える、というのは、日本では廃止論側にとって不利な要素でしかありません。
>口喧嘩にしても権力闘争にしても、お前が力押ししてるんだから俺もやっていい、
>という理屈が有利に働くのは多数派の方のみです。

日本において多数決型民主主義を永遠不変の真理と捉えた場合、数で存置派を圧倒的に(笑)
下回る廃止派について有利か不利かで言えば、間違いなく後者でしょうなあ。しかしだからといって、
guestさんが仰るようなごり押しの正当性は、国民の前で声を大にして説けるような代物ではない
でしょう。死刑に賛成している大多数の国民も、存置派が廃止派を論破するために理論を磨くこと
よりも、多数決原理に適う言い回しを考え出すことを優先しているのだと知ったら、たとえ意見は
同じでも落胆してしまうのではないでしょうか。万が一形勢が逆転するようなことがあっても、
廃止派には、自らが圧倒的多数の意見であることを理由に、数によるごり押しを正当化するような
ゴーマンさを振りかざすことだけはどうかしないで欲しいなぁと思います。

>存廃論ともに「お互いに矛盾する論が存在していい」のであれば、
>それは統一できるだけの客観的理論がそもそも無く(もしくは見つかってなく)、
>納得性が最大の問題、ということになってしまい、

私は申し上げたかったのは、相手の考えが矛盾している(おかしなことを言っている)からといって
議論を避けようとするのは理論家としてどうなの?ってことです。また、自分の考えが矛盾している
(おかしい)かどうかも完全には分からないのに、他人から批判されたくないために議論を避ける
というのも、何だか変な気がします。あと、矛盾しているとか考え方がおかしいとかいったことは、
それ自体では議論を不可能する要因にはならないです。

ところで、個々の理論を統一できるだけの客観的理論がないなら納得性が最大の問題になる、という
ことを百歩譲って認めたとしても、

>結局は多数決で決めることにならざるを得ません。

と結論してしまうのはいかがなものかと。多勢に無勢だからしぶしぶ受け入れるふりはするけれども、
内心納得するどころかよけい反発が強くなるなんてケースはざらにあると思います。

guestさんの考えている民主主義って、全体主義のイメージに近いなぁと思うんですけど。私は民主
主義の精神は個人主義の理念に従うべきだと考えておりますから、多数決の場合もそうですが、少数
意見を汲まない・単に切り捨てるようなのは、民主主義のやり方としては論外だと思います。ある集団
で意見の一致が見込めないとしても、その集団を構成する個人全員を集団ごと否定するのではなく、
労をいとわず一人ひとりの声に耳を傾けるべきでしょう。

2367guest:2010/01/29(金) 03:29:41
>>2357
>それなら特別予防効果は死刑と同等ですから1と3は消せます。

死んだ人間が再犯をする可能性は完全にゼロなのに対し、
刑務所内であろうが生きている人間は再犯が可能です。
刑務所内の囚人や刑務官なら犠牲になっていいということはないですし、
奪還テロや天災による刑務所の破損等による脱走の可能性も確実大きくなります。
実例も枚挙に暇がありません。

つまり死刑と終身刑の特別予防効果は無と有の違いであり、明らかな別物です。
抑止力が理論的に「死刑>終身刑」で、絶対に逆転することはないにもかかわらず、
僅かな可能性だからとあなたが無視しているだけです。

僅かだと認定すれば無視していいのであれば、そもそも冤罪の可能性も僅かだと
認定してしまえばいいだけの話になってしまいます。

「ちょっとだからいいじゃない」という考え方は、廃止論に有利には働きません。

2368guest:2010/01/29(金) 03:47:48
>>2357
>その他の反権力だの、>>2350の力押しだの多数決だのといったことに関しては、
>私からお答えすることは何もありません。

では「冤罪による生命の損失を特別扱いする」とはどういう考え方なのでしょうか?
それは「反権力」という言葉で全く説明できないものですか?

また
「木を見て森を見ず」
「一本の枝が虫に食われていたら、その幹を切り倒す」
お互いにこれらで対抗する議論が力押しと呼ばないと思いますか?
廃止派内でも説得が行き渡らない理屈で、
まして結論が違う死刑容認派を説得できると思いますか?

理論統一できるだけの説得力を持った理論が無い現状では、
死刑存廃論は世論による力くらべに過ぎず、
結論の差を基準とした多数決で決めざるをえないのは事実です。
あなたの理屈もその内側の話なので、無関係ではありません。

いやむしろ何も答えることがないということは、それらに関しては肯定しているということでいいのでしょうか?

2369guest:2010/01/29(金) 04:02:26
>>2357
あなたは結局、長期勾留が受刑者本人にとって死刑より残酷になりうること
(実際にフランスやカナダでは受刑者当人からそういう告発がある)や、
抑止力と冤罪被害者への配慮を両取りしようとする廃止論は矛盾があるということ
には言及していませんが、死刑廃止という目的よりもそれらは小さいことですか?

冤罪被害者の大多数が助かるのだから、一部の例外には煮え湯を飲んでもらおうというのでは、
冤罪被害を無視する死刑容認論と同じロジックです。
つまりそのロジックを肯定するならば、その廃止論によって、死刑容認論も肯定されることになります。
あなたの廃止論では、死刑制度を否定するには不十分だと思われます。


読みづらくなると思い、レスを複数に分けました。連投失礼しました。

2370ufloat:2010/01/29(金) 06:25:21
>>2359
生命に関する事柄である以上、哲学的要素が絡んでしまうのも必然でしょうか。
真理に到達することが望めない以上、きっと私は死ぬまで試行錯誤を続けることでしょう。
仮に私が何か存置の目的を見つけ、存置派として論陣を張ることになったとしても、
今度は「廃止派に宝石が隠れていないか」「自分の宝石は実は石ころではないか」
という試行錯誤が続くはずです。
私が「目的の充足」にこだわった理由もそこにありまして、例えば私は
「冤罪死刑のリスクがある限り」「それは死刑存置のマイナス要因となりうる」
「死刑と代替刑の効果が同等である限り」「奪わなくても良い命を奪う必要はない」
と考えていますが、仮に冤罪死刑をなくす方策が見つかって、その上に
実は死刑の一般予防効果はかなり大きいと分かったら、上記の前提条件、
すなわち「廃止によって達成すべき目的」が充足できなくなりますので、
死刑存置の論陣に入ることをいとわないわけです。
一方、もし私が一般予防効果を理由に死刑存置に賛成していて、実は一般予防効果が
ない(目的が充足できない)ことが立証されたら、廃止の論陣に入ることになるでしょう。
>>2360の紫煙狼さんへのご質問にも重なる部分がありますが、以上が私の「目的」への意識です。
別に「真理なくして判断なし」と気張らずとも、今ある材料で判断し、さらに良い材料を得ようと努力し、
その過程で今の意見が最善でないとみたら変えることも否定しない、これでよいのではないでしょうか。

ちなみに、データの面からはKenさんや無精髭さんが提示されている通りなのですが、
死刑已む無しさんは何か感覚的な部分で、死刑の必要性というものを捉えていらっしゃるようですね。

>>2367以下
残念ながら、無精髭さんの真摯なご忠告はguestさんには全く響かなかったようですね。
何か反論すれば、「廃止論には有利にならない」「そんな風では多数をひっくり返せない」
「暴論では多数の方が有利だぞ」と数の横暴、さらには私の「廃止論」を「反権力」と
結びつける部分に至っては、紫煙狼さんらが問題視されている
「(反権力など)何か別の目的があっての死刑廃止論」すら連想させるもので、
私に論客としての真摯な姿勢を失わせるにはあまりにも十分すぎます。
これでは私自身の成長になりませんし、ここで返答しても閲覧された方を不快にするだけですので、
とりあえず今は見送らせていただきます。ただ、いずれの問題にも一応の答えは用意していますので、
もしかすると別の機会には書き込むことがあるかもしれません。

2371guest:2010/01/29(金) 07:54:20
>>2370
私は別に死刑存置のために言っているのではありません。
「俺はいいがお前はダメ」というアンフェアなルールでは、廃止派は自分の首を締めるだけだ、
ということを端的な例で、対称となる論を示して指摘しているに過ぎません。

つまり、論敵にも廃止論の正当性を認めてもらうために言っているのです。
具体的な方法も示しました。

正面からの反論なしに「横暴」と切り捨てるのも構いませんが、
多数派がそういうことをすれば、少数派には勝ち目がなくなってしまう
ということには気づかないと、事実上、理論による死刑廃止は不可能になってしまいますよ。
そこに気を使っている廃止派の足をひっぱることにもなります。

アンフェアだろうと勝ったものが正当なのだ、または正当だからアンフェアでも許されるのだ
というのなら別ですが、死刑廃止論の理念とはそういうものではないはずですよね?

2372Ken:2010/01/29(金) 13:24:46
>>2369長期勾留が受刑者本人にとって死刑より残酷になりうること(実際にフランスやカナダでは受刑者当人からそういう告発がある)

もうこういうフランスがとかカナダがとかイタリアがとかドイツがとか私はカレーライスでオナカイッパイでいちいち反論する気にもならんのですが...。

まず、フランスもカナダもドイツもイタリアも死刑ないです(イタリアは確か平時の犯罪に限って廃止のはず)。死刑存置派が死刑廃止国の例を持ち出すのが私にはいつも意味不明です。自爆なんじゃ...。

次に、「長期勾留」(勾留は用語として不適当だと思いますが)が「死刑より残酷」とのことですが、日本の未執行死刑囚の中には20年、30年と長期にわたって拘置されている人が相当数いますよね。名張毒ぶどう酒事件、袴田事件、亡くなりましたけど帝銀事件の平沢死刑囚とか。

「長期勾留」を問題視するのはいいですけど、まだ起きてもいない「長期勾留」を理由に死刑廃止に反対するくせに、「長期勾留」が実際に起きている日本の死刑制度には反対しないんでしょ?そんなのご都合主義で説得力ゼロですよ。

あと、この死刑を廃止して絶対的終身刑を新たに導入とかいう議論は実際上意味がないです。刑の執行に関して日本では行政の裁量が幅広く認められてて、今現在、無期懲役にはほぼ確実に仮釈放が認められておらず、実質上すでに絶対的終身刑として運用されているから。

>>2367奪還テロや天災による刑務所の破損等による脱走の可能性も確実大きくなります。実例も枚挙に暇がありません。

それ日本じゃないですよね。日本だと20年、30年、場合によっては40年も死刑囚を平穏無事に飼い殺しにしてるくらいなんでそんな心配しなくてもダイジョーブ。

2373Ken:2010/01/29(金) 13:31:55
>>2352「再犯犠牲を重視する」「どちらの犠牲も等価」というような、土台が違う人

そんな人はいません。(Kusakabeさん風に)

まあ、いたとしてもごく少数派かとても風変わりな人でしょう。再犯殺人の犠牲者も冤罪死刑犠牲者も無実の人の命が奪われている点において「等価」である、という人はつまりこういうことを主張しているのです。

死刑判決を受けるような殺人犯による殺人の再犯率が10%だとしてその犠牲者は1件に付き一人だと仮定しましょう。この場合、10人の殺人犯を処刑することによって一人の無実の人間の命を救っていることになります。「どちらの犠牲も等価」説を唱える人にとっては、これが冤罪死刑犠牲者と等価なわけですから、10件の死刑判決に付き一件の冤罪までが許容範囲、ということになります。たとえば、20件の処刑のうち一人が冤罪犠牲者だとわかったとしても、それ以外の19件の処刑によって約2人の命が助かってるわけだから許容できる、ということです。

え?再犯率が低すぎる?分かりました。100%と仮定しましょう。そうするともっとすごいことになります。「等価」説の人たちは死刑判決のうち半数が冤罪でも構わない、と考えていることになります。だって10件の死刑判決によって5人の無実の人が処刑されたとしても残り5人の処刑によって5人の再犯殺人犠牲者の命を救っているわけですから。

これら凶悪殺人犯が再犯で一人より多い人数を殺してくれるともっとすごいことになります。もう死刑判決のうち冤罪じゃない判決のほうが少なくたって構わないんですからね!

こう考えると「再犯犠牲を重視する」人というのはもっともっと風変わりな人だというのがわかるはずです。まあ、確かに世間一般の人とは土台がえらく違うとは言えますけど。

つまり、「再犯の殺人の犠牲よりも冤罪死刑犠牲者の方を重視する」人のほうがどう考えても一般的です。これは別に「反権力のような意識」でもないです。今のところ日本では処刑された後に冤罪が明白になった例はありませんが、実際にはたとえ一例でも冤罪処刑がはっきりすれば、死刑制度はとても持ちこたえられないでしょう。実際、イギリスはそうでした(エヴァンス事件)。

2374Ken:2010/01/29(金) 13:43:44
それで、こういうこと書くといつもそれは屁理屈だとかむりやり誤誘導しているとか俺の主張を故意に捻じ曲げているとか、あらぬ嫌疑をかけられるわけですよ、私は。まさに冤罪。それでもうちょっと具体的に

>>1.罪の無い人の死を減らすのが目的の二者択一であるなら、
 冤罪死刑の可能性とAを比較して犠牲の少ない方をとるべき、ということになります。
 現在の前科者の再犯率から見ても、思いついたら即実行可能の
 「受刑者の再犯による犠牲が出る可能性」の方が、
 数年から十数年かけた裁判をくぐり抜ける「冤罪死刑の可能性」よりも高くなること

が「廃止論者でも認めざるをえない」かどうかを検討してみましょう。

殺人の前科のあるものが再び殺人を犯す割合は調べるのは意外と難しかったのですが、平成19年版犯罪白書によると0.9%であり、これは「他の罪名に比べて相当低かった」そうです。意外でしょ?だから「現在の前科者の再犯率から見て」というのはミスリーディングです。
http://www.moj.go.jp/HOUSO/2007/hk1_7.pdf

一方、刑事訴訟法が改正された昭和24年から平成21年の間の死刑確定数は722名(ウィキペディア調べ)。このうち後に冤罪が証明されたのは免田、財田川、島田、松山の4事件4名。つまり約0.6%。

この4事件以外にも冤罪が疑われる事件はあるので、『「受刑者の再犯による犠牲が出る可能性」の方が、数年から十数年かけた裁判をくぐり抜ける「冤罪死刑の可能性」よりも高くなることが廃止論者でも認めざるをえない』ほど明白ではないです。というか、可能性としてはおそらく同じくらい。他の年における殺人犯による再犯殺人率や、死刑になるはずの殺人犯の再犯殺人率を推定する方法は宿題ということで。

ちなみに、平成18年の死刑確定数はウィキペディアによると20名。死刑が確定した人の再犯率は求めようがないので0.9%で代用すると死刑を廃止したせいで生じる再犯殺人は年に0.18件。5年に一件の換算です。平成14年から18年の5年間における殺人認知件数は平成19年版警察白書によると6,968件。死刑を廃止したせいで生じる再犯による犠牲というのは殺人全体に比して非常に小さいことがわかります。つまり、死刑廃止によって特別予防効果が失われたことが実感されることはないでしょう。
http://www.npa.go.jp/hakusyo/h19/toukei/t1-04.pdf

2375guest:2010/01/29(金) 14:00:18
>>2366
>guestさんが仰るようなごり押しの正当性は

ごり押しではありません。多数決が永遠普遍の真理でなくとも
多数決で決めざるを得なくなる理由は説明したのですが。

死刑存廃論に、論敵も認めざるを得ないような、
治安や更生などの問題と死刑存廃の相関において
科学的に証明できる事実が存在するというのでしょうか?

有識者の見解でも、死刑存廃を絡めたデータには必ず相反するものが存在する、
もしくは有用なデータ採取自体不可能で、実際のところは分からず、
理論上の問題と哲学的問題にとどまるというのが現状のはずです。
違いますか?

つまり死刑存廃問題はどう考えるのかが自然か、何を最重要視するかという
考え方ひとつの問題であり、であるからこそ、
「お互いに矛盾する複数の論が存在する」
ことが許されているのです。他に理由がありますか?

論敵も認めざるを得ないような客観的基準が存在しない二者択一の問題では、
国民の納得性で決めるしかありません。まして9:1という世論の差がある問題で、
ごく一部の思想をもつ人間が権力を握って思想のみをもってひっくり返す、というのは、
それこそ許されざるごり押しです。ある意味テロとさえ言えます。
このような問題で、多数決の他に方法があるというのでしょうか?

しかしだからこそ、信用面で対抗しさえすれば少数派でも実現の可能性も残るのですが
自分と意見の違う者を罵る、拒絶する、説明を面倒がる、相手と同じレベルの手段をとる、
そしてそれを誰もたしなめない、では成せるものも成せないのは自明です。

2376Ken:2010/01/29(金) 14:20:47
ちゅーか、死刑が廃止される上で死刑廃止派が多数派であることが必要条件なわけでもないでしょ。死刑存置派が多数派の国で死刑が廃止された例は世界にはいくらでも転がってまっせ。

事実、民主党政権が続く限り死刑存置派が多数の日本でも「見かけ上死刑廃止国」あるいは「死刑停止国」みたいな感じになるのでは。

2377guest:2010/01/29(金) 15:38:05
>>2366
>多数決原理に適う言い回しを考え出すことを優先しているのだと知ったら

これはむしろあなたが、現実のルールや相手の不利益を無視して
対等であるかのように振る舞える「理論上」舞台にしたいがために
編み出した不公正な言い回しに聞こえます。

>相手の考えが矛盾している(おかしなことを言っている)からといって
>議論を避けようとするのは理論家としてどうなの?ってことです

避ける以前に、議論に乗る理由が無いと言えます。
アンフェアでも無理でもなんでも議論であれば乗る、というのが理論家だとは思いません。
通常、議論は手段であって目的ではありません。
目的と外れた議論をしなければならない理由が不明確です。

必要であったり自らが望んだものならともかく、無数に売られる議論を、
矛盾を含むものまですべて受けろと言うのは、
受ける側に著しく不利であり、不合理かつ非論理的です。

私の考えでは、そもそも廃止論が自分に許可している手法が容認論にも正当性を与えている
(「矛盾する複数の廃止論が存在する状態」もその一つ)のが問題なので、
議論の相手の態度がいくら改善しても、問題は解決しないと思います。

>労をいとわず一人ひとりの声に耳を傾けるべきでしょう。

それを実行しながらでも、死刑も死刑廃止もしない、というわけには行かない以上、
暫定的な結論でも、出して実行しなければなりません。
現状では暫定的に死刑存置はやむを得ないと思います。


しかし、「労を厭わず一人ひとりの声に耳を傾ける」「議論は避けない」
というのを相手に要求するだけでなく廃止派もやるとなると、
結局廃止派には容認派を遥かに超える作業量と忍耐力が必要になります。
それは信用面で対抗するよりずっと難しいのではないでしょうか・・・

2378guest:2010/01/29(金) 15:54:35
>>2376
>死刑廃止派が多数派であることが必要条件なわけでもないでしょ。

確かにそうですが、あなたは
「論敵も認めざるを得ないような、死刑廃止のメリットの科学的・客観的資料を提示する」
以外で少数派の意見を通すまっとうな方法を挙げられますか?

ヨーロッパで死刑廃止が進んだのは、「EU加盟のため」という明確なメリットがあったからで、
それなしにフランスのような採決の仕方をすれば、それは単なる権力の暴走です。
死刑廃止の理念とも矛盾するものがあるでしょう。


個人的には民主党政権は長く続くとは思えませんし、続いて欲しく無いです。

2379死刑已む無し:2010/01/29(金) 17:50:18
>>2362
7行目
>たとえば私にとって親しい人々は、私が彼らの人権を尊重していることを暗黙のうちに了解してくれて

以下
>国家が、法が、その人権を尊重する必要があるのだと。

まで

少し、誤解があるようですね
私は、国民がめいめい好きなように自分の気に入った相手だけの人権を尊重すればいいなどとは一言も言っていません
「国民1人1人がお互いに尊重し合うもの」 と言っています
尊重してもらえるかどうか不安だ・・・・
その通りだと思います
身寄りのない人などはもっと不安だろう・・・・
その通りだと思います
だからこそ法律があるわけです
「国民1人1人がお互いに尊重し合うもの」 だという責務を法律で国民に課している訳です
象徴的かつ対極的な法律として
「保護責任者遺棄致死」 と、そして、「殺人罪」 などは有名ですね
助けられる立場にいながら、それを見殺しにした者の罪と (なにもやってはいないのに罪になる。つまり、他人の人権を尊重しなかった罪)
罪のない人を、自分の都合で殺害した者の罪ですね (他人の生存権を故意に犯した罪)
私が言いたいのは
人権は国家が護ってくれるという法ではなく
国家の一員たる国民1人1人に責任を与え、権利を護らせるように定めた法である
と、認識しているのです
だから、貴方の考えとは殆ど違いがないように思います
ただ、責任の所在に対する認識だけが少し違うかもですね

2380死刑已む無し:2010/01/29(金) 17:56:23
>>2370
>死刑已む無しさんは何か感覚的な部分で、死刑の必要性というものを捉えていらっしゃるようですね。

返す言葉も御座いません・・・
が、愚例ではございますが
サリバン先生が、ヘレンに水の冷たさ心地良さを教えた・・・理解させたものはけっして言葉でもなければ
ましてや理論などでもなかったのです
もっというならば、科学にも同じことが言えると思います
まずは 『それが存在するのでは!?』 ということが、理屈抜きにして 『わかる』 のです
それを、後から、世の中に証明する方法を模索していくのです
そう考えると、科学者ほどオカルト好きな人達もいないのでは・・・と思ってしまいます

2381ufloat:2010/01/29(金) 20:53:56
>>2380
あ、大変申し訳ございません。「感覚」のフレーズは決して非難ではありません。
いわゆる「クオリア」というものに共感するのは、何かの論拠に共感するよりも
困難なので、死刑已む無しさんがいかなる感覚を抱いているかを私が知るすべは
ありませんが、そういった感覚自体は何となく分からないでもありません。
死刑已む無しさんは「死刑が必要な感覚」を持っておられ、同時に多少なりとも
「死刑を嫌悪する感覚」も持っておられるので、死刑を「必要悪」であると
位置づけていらっしゃるのではないでしょうか。

>>2371以下
「すべての道はローマに通ず」という言葉がありますね。
さて、あなたは東でも西でも、北でも南でも、どれでも好きな道を通って構いません。
その途中で分岐点があったなら、いかなる方向に進んでも構いません。
これらの道はすべて、一本の例外もなく、必ずローマまで続いています。
しかし、やっとローマに到着しても、多数派の意見以外は
すべて切り捨てられますので、注意してくださいね。

ええ、歩き出す気力も失いましたよ。
私が我が物顔でローマを練り歩くことを望むなら、話は簡単です。
今すぐ死刑存置の論陣に入ればいい。
幸いなことに、私は死刑存置側の論陣に入る可能性も否定していない、
とても薄っぺらな意見の人間ですのでね。
確かに存置論にはもう一歩納得できてはいませんが、今までの様々な議論で
存廃両方の論客の方々からたくさんの宝石をいただきましたので、議論で
存置派に回ったとしても、ある程度ならまともな主張もできるはずですよ。
しかし、私の望みはそれではありません。
自分を研鑽したいがゆえに、あえて居心地のいい多数派の論陣を抜け出し、
少数派の論陣の一角に間借りしているのです。
その多数派が数に物を言わせてきたら、私はどうしようもないでしょうね。
guestさんの理屈が認められるなら、多数派は少数派に対して
「自分にも相手にも当てはまる問題」を委細にわたって探してはぶつければいい。
少数派は「双方に当てはまる問題」に対して自分のみ証明責任を負う羽目になるか、
「あなたたちもそうじゃないか」と主張して「こっちには何人いると思ってるんだ」と
数でつぶされるか、または返答の必要なしと判断して、対話拒否呼ばわりされるしかない。
私がいただいたご質問への返答を避けるのも、例えば「特別予防効果」のご質問に関して、
仮に「死刑囚が命をかけた脱走を企てる可能性もあるのでは」などと何らかの返答を
したとして、「そうだ」「いや違う」という仮定論や憶測、価値観の応酬になり、最終的には
「そんな不確かな理由で多数派を納得させられると思うか」となるのがオチでしょう。
まさにヤクザの抗争まがいの議論です。

それから、私は例えばguestさんなり、死刑已む無しさんなりを徹底的に論破し、死刑廃止派に
改宗させようなどと考えたことは一度もなく、仮に理屈屋(最大級の賛辞です)のKenさんが
存置派の誰かを徹底的に論破して、ぐうの音もでなくなったとして、その人が「感覚」など
論拠とならないことを理由として存置派の論陣にとどまったとしても、私はそれを受け入れます。
少なくとも紫煙狼さん、無精髭さんらも、その点は同じでしょう。
そんな我々に対して、「そんなので多数派が納得すると思うか」「暴論ではこっちが強いのだぞ」
なるものを理由にされても、それには何の価値もありません。

ゆえに私は、guestさんが「数の力」を本議論中で武器として用いている限り、「ローマへの道」を
進むことはないでしょう。これで自らの研鑽などできようはずがありませんから。
対話拒否と非難されても結構ですよ。これを読んでくださった存廃両方の論者の皆様には、
私の意図をご理解いただけているものと確信しておりますので。
無論、guestさんがこの武器を放棄された際、あるいはそれを武器としない別の論客の方との
議論に関しては、大歓迎であることを付記しておきます。

2382死刑已む無し:2010/01/29(金) 22:26:37
必要悪・・・ですか・・・・
私は、その言葉が好きではありません。いえ、その言葉の使われ方が好きではないのかもしれません
大抵は、私利私欲を目的として行っているものを正当化する言葉として使われている気がします
つまり、「結果オーライ」 です
だが、私の死刑に対する考え方が、実際にそれとどこがどう違うのかと問われれば
私には明確に答えを返すことは出来ないでしょう
私の考え方が、感覚に左右されるものであるからこそ、私自身の深層心理・・・・欲求などにも影響を受けかねないからです
つまり、『自分だけは正しいことを考えている』 と、思っていたいという欲求でしょうか
だからこそ私は、「是である」 ことを否定するのかもしれないです
常に、「私の考えは間違っている可能性があるぞ」 と自分に言い聞かせ、考えの見直しを繰り返していきたいと思います

ところで、私は、guestさんの書き込みなどには感心してしまいます
とても理路整然としていて、突っ込みどころが見当たらないです
だが、私もufloatさんの意見と同じような感想をもちます・・・
つまり、『死刑存置を目的として議論している』 です
私は少しずつこのスレッドを読み進めて、2か月ほどかかりました
本を一冊読みきったような感じです
その中で、(これも感覚の域を出ないのですが) それぞれの書き込みに4通りの目的を感じたのです
①死刑廃止を目的とする書き込み
②死刑存置を目的とする書き込み
③より良い世の中を目指すことを目的とした書き込み
④個人としての主観的な意見

私はここを読んでみて書き込んでみて本当に良かった
廃止論者側にたっていて、③の目的を持っていると思われる意見に初めて出会えたのだから
私は、この書き込みの冒頭でも触れたように、結果よりも、過程や目的に価値を感じる者です
死刑制度の議論においてそれでは話にならないでしょうが・・・
でも、こう思うのです。目的が正しければ、失敗を繰り返したとしても、いつかは重厚な成功に結びつくと
でも、人の歴史を見ると、正しい目的によって始められた制度が、時の権力者の欲望によって捻じ曲げられる・・・建前化することのなんと多いことか
『正しくあり続ける』 ことのなんと困難なことか

2383ufloat:2010/01/29(金) 23:19:38
>>2382
言葉の定義とは難しいもので・・・。
試しに「必要悪」を辞書で引いてみますと、

ない方が望ましいが、組織などの運営上また社会生活上、やむをえず必要とされる物事。

とのことでした。
私は死刑已む無しさんとは逆に、「必要悪」の言葉に次の印象を持っています。

1.「これは悪だ。しかし・・・」という苦渋の決断、決断に対する重い葛藤。
2.「必要」悪であるので、もし「必要」さえなくなれば、なくすことができる。

したがって、もし死刑已む無しさんが「必要悪」の言葉を不適当であるとお考えになるなら、
先の書き込みは

死刑已む無しさんは「死刑が必要な感覚」を持っておられ、同時に多少なりとも
「死刑を嫌悪する感覚」も持っておられるので、死刑を
「少なくとも現在の判断材料からすれば、正しくはないが否定できないもの」
であると位置づけていらっしゃるのではないでしょうか。

などのように解釈していただいて構いません。

2384guest:2010/01/30(土) 07:20:26
>>2381
私はなぜ多数決で決めざるを得ないか説明したはずです。
他に方法があるか、等の質問にも一切答えず、
ただ自分の望む未来予測だけを書き連ねても議論にはなりません。

私は死刑容認論も廃止論も両方正しい、理論的にはほぼ等価である、と考えています。
等価であるからこそ、特定の思想を理論で抑えつけることはせず、多数決なのです。
それは民主主義におけるひとつの大きな正当性です。
理論の研鑽は、現状を多数決で決めざるを得ない事と同時に実行出来ることです。

内的な理論の研鑽を否定してはいません。
が、それとは別に、外的な現実をどうするかという理論も必要です。


>>2382
あなたが求める議論とは方向が違うかもしれませんが、
>>2371でも書いた通り、私は論敵にも廃止論の正当性を認めてもらうために書いているのです。
その中で廃止論の欠点や死刑存置の正当性を認める趣旨の事を書いたら
「死刑存置を目的している」ことになってしまうのですか?

内省や論敵の存在への尊重が無い議論は、果たして研鑽と呼べるのでしょうか?
それらなくして論敵へ内省や尊重を促せると思いますか?

死刑廃止が有利になる世の中をひたすら待ち続けるのが廃止論ならそれでもいいでしょう。
しかし、自分から現実を動かそうと思うなら、廃止論で日本の現実が動かない原因は何か、
その原因はどうやったら除去出来るのか等を考える必要があります。

現実が現実であるにはそれなりの理由があり、法を動かすには手続きが必要です。
そして、死刑廃止論は法を変える為の条件が死刑容認論未満しか揃っていない、
と言うのが私の現状認識であり、まっとうな手段でその条件を満たす方法を考えているのが、
私の書き込みです。

2385guest:2010/01/30(土) 07:44:47
ここ数十年で死刑廃止の世論が40%近く減ったのは、廃止論に疑問を投げかけると
それが廃止論のためであれ、廃止論者から即存置論者認定され拒絶されがちである、
というのも原因としてあると思います。

2386guest:2010/01/30(土) 14:48:41
>>2382
>より良い世の中を目指すことを目的とした

これは何を「良い」とするかによって過程も結論も大きく変わりますね。
廃止論にせよ存置論にせよ、主観的にせよ客観的にせよ、
結局は、より「自分の考える道理」に近い世の中になって欲しい、
という部分では変わらないでしょう。

二律背反の道理がある時、それぞれの信念や願望に沿った取捨選択で
結論が変わってくるのは仕方の無いことであり、
結論が真逆でもどちらも正しい、という事はよくあることです。

ただそこに他者を巻き込むやり方で差がつくのだと思います。

私はその他者を巻き込む際の日本の物事の決め方や、
ルールの共通性・対称性・公平性を尊重した上で結論が出る世の中が
「より良い世の中」だと思っているので、結論が存置にせよ廃止にせよ、
まずはそこを重視しています。

2387無精髭:2010/01/30(土) 18:25:50
>>2362訂正
>だからこそ私は人権の保障について、国民1人1人にその責務を委ねるというような考えには賛同できません。

上記より前の文章では「めいめい気に入った相手とだけ尊重しあえば良い」という考えを問題視しているのですから、
上記「責務」は「権利」と記すべきでした(汗)。「人権の保障について、国民1人1人にその責務を委ねるという
ような考え」において、死刑已む無しさんが主張されるようにその責務を委ねるのが国家や法の役目であるとされて
いるのなら、概ね同意です。何はともあれ、私のように、他人の考えの受け売り、にわか法学知識を自己流に言い換
えているだけだと、いずれ「責務」と「権利」の違い(言葉としての使いどころ)さえも分からなくなるのでしょうなぁ。
飽くまでご自身の主観・感覚にこだわる死刑已む無しさんのスタンスを見習うべきでしょうね。反省しきりだ。

2388無精髭:2010/01/30(土) 18:28:44
>2375
>>guestさんが仰るようなごり押しの正当性は
>ごり押しではありません。(後略)

書き方が不適切だったかも知れないですが、私は多数決原理がごり押しの元凶だとまでは思っていません。
>2366中の「多数決の場合もそうですが、少数意見を汲まない・単に切り捨てるようなのは、民主主義の
やり方としては論外だと思います」という箇所でも、多数決は如何なる場合でも例外なく少数意見を蔑ろに
するから民主主義のやり方として論外だと言っているわけではなくて、多数決の中でも少数意見を蔑ろに
するような多数決は論外だと言っているのです。つまり民主主義(すなわち個人主義)の理念を反映した
多数決を行うよう気を遣うべきだと主張したかったわけです※。

 ※guestさんは「客観的基準が存在しない二者択一の問題」では、多数決以外に方法がありえない
 ということは力説されていますが、今のところ多数決の問題性を解消しようという姿勢が一向に
 見られないので、皆さんから賛同が得られないのだと思います。多数決の問題性については
 とりあえず「多数決」でググって、一番上に出ますウィキペディアの記事とその中の外部リンク、
 二番目の清水久ニ氏著「多数決原理を考える」(短い論文)を参考になさればよろしいかと。
 
「guestさんが仰るようなごり押しの正当性」云々と書いたのは、「口喧嘩にしても権力闘争にしても、
お前が力押ししてるんだから俺もやっていい、という理屈が有利に働くのは多数派の方のみです」と先に
guestさんがお書きになったことに対して、「そもそも民主主義的解決のための手段として多数決が選ば
れた以上、多数決による問題解決以前の段階においては、公平公正なルールに則った話し合いの土台が
既に整えられていなければならないはずなのに、口げんかや権力闘争といった例が出てくるのはどうして
だろう。有利・不利ということがいまさら問題にされるのもおかしい。少数派に許されていないことが
多数派には許されているとでも言うのだろうか」という疑問を抱いたからです。

しかしながら改めてguestさんの主張を確認して、それについては誤解があったと思いますので、
上記「ごり押しの正当性」の部分は「ごり押しの有効性」とでも書き換える必要があるかもしれません。

2389無精髭:2010/01/30(土) 18:29:34
ただ、いまだにguestさんの主張についてよく分からないのは、「俺のこと矛盾しているとか間違っている
とかいうけど、お前も人のこと言えた義理ではないよね」という単純なやり返しが、なぜかguestさんには
「口喧嘩にしても権力闘争にしても、お前が力押ししてるんだから俺もやっていい」というふうに受け取ら
れてしまうことです。はっきり言って、言語活動の弊害性を問う地平において、論旨における矛盾や間違いが
口げんかや権力闘争と類比されるという思考には全く付いていけませんが、千歩譲ってそれを認めたとしても、
対立する二つの思想的立場において、各々自分の理論に存する矛盾や間違いを修正せずに放置したまま相手
との議論に臨んだとしても、ただ単に自身にとって不利になるというだけで、相手の不利になるなんてことが
ありえないのは言うまでもないでしょう。いな、その人が単に自論の矛盾や間違いに気づいていないだけなら、
相手からの批判によって自論の矛盾や間違いが明らかになるかもしれませんので、有利・不利といったこと
とは別に、その人個人の(論理的思考力向上の)ためにならないとも限りません。一方、口げんかや権力闘争
の場合は、力押しを認める・認めない以前に力押しの原理が既に働いているので、存廃論ともに己の中に
矛盾する論が存在してはいるが力押しの原理とは無縁と言わざるをえない先の状況とは、まったく性質が
異なる状況なのだと判断できます。したがって、この二つの状況のどちらか一方から他方をを類推しよう
とするのは無謀というものです。(ちなみに死刑存廃議論そのものは口げんかや権力闘争と言えるので
しょうか? そういった側面がある、とは言えるかもしれませんが。とはいえ、口げんかや権力闘争が
存廃議論の本質でありえないことだけは確かでしょう。)

2390無精髭:2010/01/30(土) 18:30:06
また、guestさんは>2369で「冤罪被害者の大多数が助かるのだから、一部の例外には煮え湯を飲んで
もらおうというのでは、冤罪被害を無視する死刑容認論と同じロジックです」と書いておられますが、
そもそも同じロジックって何? と思うわけです。これについても先の指摘が当てはまるのではないで
しょうか。そこでは二つの状況(あるいは言説)、すなわち相対する立場において矛盾や間違いが許さ
れることと、口げんかや権力闘争において力押しが許されることは、類推を成り立たせぬほど異質である
ということが問題となっていました(guestさんが>2369の該当箇所でロジックと仰っているのは、
はたして「存廃議論における矛盾・間違いの許容(というか不可避性)」に関係したことなのか、
「力押しの原理」に関係したことなのかについては判然としませんけれども)。同様に、廃止論者が
冤罪を失くさねばならないということと、存置論者が再犯を防がねばならないということとは、一方が
刑事司法制度に関わる問題の解決を目指すものであり、他方がおおまかに言って刑事施設やその運営
方法に関わる問題の解決を目指すものである点で、これまた本来は別種の問題です。もっと簡単に言うと、
死刑を存置すべきであると結論する者にとっても、廃止すべきであると結論する者にとっても、この
二つの問題は区別して取り組めるし、だからこそ均等に取り組まなければならない課題でもあります。
ところがguestさんの手に掛かると、上述したようにこの二つは問題系が異なるにもかかわらず、
廃止論者の死刑による冤罪被害を食い止めるために制度そのものを失くそうという廃止論者の主張から、
「いついかなる場合でも命を犠牲にしてはならない」と「完全に防止しなければならない」の二つの
要素を取り出した後、存置論者の主張である「場合によっては命を犠牲にしても良い」と「再犯を
防がなければならない」という部分に関連付ける操作を行いさえすれば、廃止論と存置論は同じ
ロジックを共有することになるらしいのです(目的は不明)。したがって私たちが批判すべき点は、
一、guestさんの恣意的な解釈によって本来異なるべきであるはずの二つのロジックが同じロジック
とされてしまっていること。二、特に廃止論における「いついかなる場合でも命を犠牲にしてはならない」
という主張と、存置論における「場合によっては命を犠牲にしても良い」という主張は矛盾関係にある
にもかかわらず、存廃議論には矛盾や誤謬が許されているというこれまた恣意的な解釈※によって、
共通のロジックとして扱われていること。以上二点です。

 ※「自分の意に反して矛盾や誤謬を招いてしまい、たとえ自分でそれに気づいたとしても、自分や
 仲間の手に負えないのであれば矛盾や誤謬を放置しても良い」ということと「故意に矛盾や誤謬を
 主張に盛り込んでも良い(詭弁を用いても良い)」ということは明らかに違いますよね? 存廃議論
 においては両方とも許容されているのですか? あるロジックに詭弁で対抗することをロジックの
 相対化とは言わないです。

2391無精髭:2010/01/30(土) 18:30:47
さて、>2369の問題の箇所では続けて「つまりそのロジックを肯定するならば、その廃止論によって、
死刑容認論も肯定されることになります」と主張されていて、これについても理由がよく分からないです
(というか、論旨がくどくなるおそれがあるのだとしても肝心の理由部分を省かないで下さいよ)。
ただ、guestさんはおそらくご自身ではその理由を次のように考えておられるのではないかと推察
できないことはないですが。

 なぜなら>2350でも書いた通り「統一できるだけの客観的理論」がそもそも無い(もしくは
 見つかってない)ならば「納得性が最大の問題、ということになってしま」うからだ。

納得性―――つまり個々人の価値判断で存置か廃止かが決まるのであれば、その問題において相対化
できない議論などありえないのだということを自ら実践することで証明なさりたかったのでしょう。
しかしながら、>2377における「私の考えでは、そもそも廃止論が自分に許可している手法が容認論
にも正当性を与えている(「矛盾する複数の廃止論が存在する状態」もその一つ)のが問題」という
部分をよく読めば分かるかと思いますが、guestさんにおいては「矛盾する複数の廃止論が存在する
状態」が「廃止論が自分に許可している手法」の一つと強引に数えられているということを考慮に
入れれば、>2369で力説されている廃止論者の自滅行為についてはguestさんとは異なり、このよう
に判断すべきだということは自ずと知れるでしょう。存廃問題において解決への決め手となる
「統一できるだけの客観的理論」がありえないのを好いことに、まさにそういう現状だからこそ
「矛盾する複数の廃止論が存在する状態」が不可避であるにもかかわらず、相手の置かれた状況を
無視して、廃止派サイドにおいては「(存廃論ともに)お互いに矛盾する論が存在していい」という
主張がまかり通っているようだと楽観して、そんなことを言うんだったらこんなふうなことも肯定
できまっせ、と相手の主張を歪曲している、そんなguestさんお一人の妄想に過ぎないのであると。

2392無精髭:2010/01/30(土) 18:31:20
私も紫煙狼さんも「(存廃論ともに)お互いに矛盾する存廃論が存在するのはやむを得ないのではないか」
と言っているのですが、これに対し「(存廃論ともに)お互いに矛盾する論が存在していい」などと解釈
するのは、一論客として不誠実かつ不合理との非難は避けられないと思われます。あと、自らの流派
(派閥)において理論的統一が必要とされていないからといって、そこに属する個々の論においても
矛盾が許容されているとは限りませんのであしからず。

最後に、これはもはや致命的なミスだと思われるのですが、「存廃論ともに「お互いに矛盾する論が存在
していい」のであれば、」とか「論敵も認めざるを得ないような客観的基準が存在しないのであれば」
などと条件付きで論旨を展開されていらっしゃるのに、「私の考えでは、そもそも廃止論が自分に許可
している手法が容認論にも正当性を与えている(「矛盾する複数の廃止論が存在する状態」もその一つ)
のが問題」とか言っちゃうと、わざわざ条件文にした意味がないです。要するに、存廃議論に落とし所が
存在しないのはひとえに廃止論者に原因がある、と言っていることになります。むしろそれこそが真の
問題であるのに、それを論旨の最初の段階で、形を変えてあたかも存置論者にとっても共通の問題である
かのように糊塗して前提に組み込むことは、単に論点をはぐらかしているとしか言えません。それと、
論証すべき問いを論証せずに前提に組み込んで論旨を展開すること、これを論点先取りと言います。

>議論の相手の態度がいくら改善しても、問題は解決しないと思います。

>しかしだからこそ、信用面で対抗しさえすれば少数派でも実現の可能性も残るのですが(>>2375

どっちやねんW
「そもそも廃止論が自分に許可している手法が容認論にも正当性を与えている」というのは
廃止論者が自らの態度をいくら改善したところで変えられないことなのですね?
まさに八方塞がり(爆笑)。

2393無精髭:2010/01/30(土) 18:32:03
>2385
少なくともguestさんの主張が理解されないのは、guestさんお一人だけが存廃問題の内側と外側を
自由に往き来することが許されているかに見える超越者的な態度によるものと思われます。これは
ufloatさんにおける、決断を保留して思索と議論を優先するというスタンスとは似て非なるものです
(いや、全然似てないかもしれませんが。ただ、ufloatさんや紫煙狼さんが仰っていることと一見
似てはいますが、議論に対するスタンスからして全くの別物のようですね)。存廃問題の内部に留まり
続けることこそ、真に倫理的な態度だと私には思われます。おそらく紫煙狼さんだったら、「存廃問題」
の外に出て「この問題はしょせん○○に過ぎない」などと見切りはつけないでしょう。かくいう私は
過去に「私にとって死刑問題はあまり重要な問題とは思えない」という風な趣旨の書き込みをしたこと
がありますが、現在に至って若干スタンスが変わりました。死刑問題から派生する小さな問題、
たとえば刑罰を執行する立場に関する問題や、犯罪者の更正の問題などには少なからず興味が
あります(ちなみに被害者に関しては元々、同情の可能性と是非という観点から特別の関心が
ありました)。

先のレスで私が批判せずとも、Kenさんによる批判で既に明らかになったと思うのですが、guestさん
の主張(特にその問題提議)は一見論理的に見えても、肝心なところに飛躍と詭弁が紛れ込んでいるから
説得力に欠けると言わざるをえません。しかも、よりにもよってそれを、恥も外聞もなく「廃止論者の
ため・少数派のために主張しているんだ」などと仰っているわけです。そんな人から、やれルールだ
信用だと説かれても、相手からすれば「お前が言うなー」って感じじゃないでしょうか(これも私に
とっては不利な発言?)。皆さんから議論するに値しないとそっぽを向かれるのも無理ないです。

こういう人に対しては他の議論掲示板でも大抵スルー必至とされているようですね(私のような
よほど酔狂な人間でない限り相手にしない)。でないと議論が停滞、または横道にそれてしまうから。
今は議論が止まっているからおK

2394無精髭:2010/01/30(土) 18:32:41
>2386
>ただそこに他者を巻き込むやり方で差がつくのだと思います。

ちょwwwおまwwww

イポーンのYAKUZAってマジこわいね

2395ufloat:2010/01/30(土) 20:39:56
はい、酔狂な人間でございます。1人いると30人くらいはいるものですよ、きっと(笑)。

>guestさん
それは残念ですね。
民主主義を御旗とするならば、もう少し民主的な議論の方法を
模索していただければ、ありがたかったのですが・・・。
もし今後、気が変わることがありましたら、ぜひともおっしゃってください。
その際の議論であれば歓迎いたします。

さて、以下は決してguestさんに当てたものではなく、論客や閲覧者の方々に
私のスタンスをお伝えするものなのですが・・・。

>結局は、より「自分の考える道理」に近い世の中になって欲しい、
>という部分では変わらないでしょう。

これは私には当てはまりません。
何か実害がすでに生じていて、困っている人がいるのに、政治家どもが意味不明な理屈を
こね回したり、利権を求めたりするせいで、全く事態が改善されず、困っている人が置き去りに
なっている、といった状況の場合ならともかく、こと死刑存廃問題のような問題に関しては、
私がそのように考えたことは、ただの一度としてありません。

議論を行えば、自分自身に磨きがかかりますし、様々な意見に関して
自分だけでは及びもつかなかった利点や欠点を知ることもできます。
そして、その議論が世の中に何らかの影響を与えることも、もしかしたらあるかもしれません。
しかしながら、私は世の中を「自分の考える道理」にしようなどとは全く考えていません。
私は大変不完全な人間ですから、「白馬は馬ではない」の故事ではありませんが、
試行錯誤を繰り返して自分の意見を磨き上げ、完全無欠の論を作り上げたつもりが、
いざ議論に持ち込んでみると、議論相手の大変些細な、本当に何の意味もないような発言で
自分の論の致命的な矛盾に気づき、論を丸ごと取り潰すような状況さえ、まれに発生します。
こんな人間の道理なぞが「世の中」になった日には、大変なことになります。
ゆえに私は、こと死刑存廃問題のように議論を尽くすべき問題に関しては、
>より「自分の考える道理」に近い世の中になって欲しい
ということは一切ありません。
「より良い世の中を目指す」というのは、私にとって「自分の道理を世の中に適用すること」
と等価ではありません。いや、ある意味では全く正反対と言っても間違いではないでしょう。

>>雑談2708
>>2394
キリスト「イスラムさん、ジハードはダメですよ。
世界(BBS)の父なる存在に、これ以上ご負担をかけてはいけません」

2396紫煙狼:2010/01/31(日) 01:45:48
この母集団の傾向による影響をゼロにすることは不可能だし、必ずしもそれが
いけないものであるとは言えないまでも、母集団の傾向に影響されづらい、
母集団の傾向が変わっても影響を受けづらい(普遍的に近い)結論を出すために
多数決は採択されるべきであって、論議も民主的多数決も母集団の傾向を如実に
表面化させるためのものではない、そうであってはならないとさえ思いますね。

たとえば…guestさんを私の知る(そこそこ信頼できる)死刑廃止運動家の集まりに
guestとしてお招きしまして、その場で死刑存廃の多数決を取ったら?????
やるまでもなく100%guestさんの負けですよね。そしてguestさんは仰るでしょう。
「あなた方が何を採決しようと、日本という母集団では私が多数派だ」と。
それを死刑廃止運動家が「先進国という母集団では少数派だろ?」と嘲笑うなら、
どこに「納得性」という言葉が生まれるでしょう??

そもそも、廃止派内で矛盾が…なんて仰いますがね?結論には矛盾がないですよ。
結論に至るロジックに誤りのある派閥ならあるかもしれないですし、結論を実現
させるための方法論にいくつかの見解の相違があるやも知れませんがね。

2397紫煙狼:2010/01/31(日) 01:46:15
死刑賛成派厳罰化歓迎派という傾向の人が居ます。私が過去に会った人の中でも
極め付けに急先鋒だった人は

人には2種類の人が居る。良い人と悪い人だ。悪い人はいずれ何かをしでかす。
したがって、一番良いのは、その悪い芽が出る前に存在ごと摘み取る事だ。
DNAを解析したりして、人の成長後の傾向を知る術が確立した暁には、
出生と同時に鑑定を行い、悪い人間のモトはその場で優勢保護するべきだ。
そうすれば悪い芽を吹く可能性を持った人間に、芽吹かない教育をする経費が
削減され、治安は一層向上するであろう!

guestさんのロジックは、こういう人をも「多数派の一派閥だからアリ」とするわけで、
そのくせ少数派には「思想の統一を図り団結せよ」と仰る。いや、これはね、無理ですよ。
私だって「一緒にされると非常に憤慨せざるを得ない廃止論」ってのがありますからね。

ちなみに、その急先鋒の方、およそ半年ほど議論させていただきまして、結果的に
私の廃止論に「ご納得・ご賛同」いただいたのですが、こういう説得活動をguestさんは
マインドコントロールと表現なさるのではないかと、内心、非常に危惧しております。
廃止派内で行えば「団結」と許されることが賛成派を相手にしたとたんカルトと称される
のであれば、たまったものではありませんからね。

2398無精髭:2010/02/01(月) 06:43:19
>この母集団の傾向による影響をゼロにすることは不可能だし、
>(中略)そうであってはならないとさえ思いますね。

ほんとそうですよね。

ところで、guestさんが言う「納得性の問題」とは

・いかに布教するか(全ては多数決で勝つための信者(賛同者・理解者)集め)
・いかに諦めさせるか(所詮世の中は「多勢に無勢だ」と悟らせること)

の答えを論敵に対して実践することなんじゃないですかね。私たちは
「いかに相手を納得させるか」を問題にしたとしても、上のような方向で
解決策を考えたりはしないですよね。

2399無精髭:2010/02/01(月) 06:44:37
>2375
>ごり押しではありません。多数決が永遠普遍の真理でなくとも
>多数決で決めざるを得なくなる理由は説明したのですが。
>(下略)

もっと説明する必要があると思います。たとえば、guestさんが
このスレに初めて書き込んだ>2350はこんな調子です。

 >存廃論ともに「お互いに矛盾する論が存在していい」のであれば、
 >それは統一できるだけの客観的理論がそもそも無く(もしくは見つかってなく)、
 >納得性が最大の問題、ということになってしまい、
 >「死刑を存置しながら死刑を廃止する」ということはできない以上、
 >結局は多数決で決めることにならざるを得ません。

これで「多数決で決めざるを得なくなる理由」が理解できたら、その人は天才だと思います。
私には、こと必ず言語が関わってくる問題(そもそも「言語」と無関係な問いなんてありうるのか?
『「思想」「歴史」「社会」「政治(制度・権力)」に関わる問題』と言い換えてもよい)に
取り組む中で、死刑已む無しさんのように「理屈抜きにして 『わかる』」なんて経験をした
ことは一度もありません。今後そんな経験をすることがあったとしても、私はすぐにそれを疑う
(保留する)でしょう。理屈と違い、感覚は時としてその人自らを欺くことがあるから。
私は物分りが悪いから理屈を必要とせざるをえないのです。こんな私からしてみれば、
guestさんの主張は理路整然としているどころか、穴だらけに感じられます(上記のロジック
のおかしさについては>2392で指摘した通り。前件と後件が逆だったら良かったのに)。

以下、guestさんの主張を私なりに補正させていただきます。

 そこから唯一無二の結論が導かれるところの客観的基準というものは存在しない。
 したがって、主張の正しさ(良さ)・適切さ・妥当性等々は、価値観や感性などの
 主観的判断を基準に据えて導く他ない。言い換えれば、問題への解決手段として
 求められているものが、科学的証拠・客観的資料を拠り所とする議論ではなく、
 価値観・感性に訴えかける議論であることを意味する。そして理論を実践する
 ためには、さらにその議論を経て導かれたいくつかの理論を一つに絞り込む必要
 があるので、最終的な基準として多数決原理に拠らざるをえない。

ニュアンスが異なるバージョンも。

 存廃問題においては、客観的理論構築への道が閉ざされているという事情から、
 存置論者と廃止論者のロジックが相対化しているため、無駄な議論の応酬が
 起こりやすく、ともすれば存廃議論の価値が損なわれるおそれがある(存廃問題
 の宙吊り状態)。したがって死刑を廃止すべきか否かについて直接議論することは、
 問題解決の糸口とはならない。議論や思索による解決が望めない以上、また二者択一
 を迫られている現状においては結論を出さずに思索や議論を続けるという選択肢は
 許されない以上、問題解決の手段としてはもはや多数決しか残されていない。

議論において少数派を尊重しろというと、

>まして9:1という世論の差がある問題で、
>ごく一部の思想をもつ人間が権力を握って思想のみをもってひっくり返す、というのは、
>それこそ許されざるごり押しです。ある意味テロとさえ言えます。

と飛躍なさる。それは多数決の話。議論の話と一緒にしないこと。多数決において
少数派を尊重するやり方を模索する必要はあると思いますが、とりあえずこのスレ
にいる人たちがしたいのは、多数決の話ではなく、議論の話。そして議論の話を
早々に終わらせて、実際に存廃問題を議論すること。そこは分かっていただきたい。

2400無精髭:2010/02/01(月) 06:45:24
(百歩譲るのやめますよん。私の酔狂さ加減は常軌を逸してますからねw)

仰るように「納得性」が最大の問題になったとしても、個々人は一体何に対して
納得するのですか? 客観的理論がありえないのだとしても、理論そのものが
不要になるわけではないですよね。

ロジックが相対化したとしても(等価だとしても)、人々の間で、「納得性」に
適った理論に対する要求は消えないでしょう。むしろますます理論に対する要求が
増すのではないでしょうか。だから、話し合いに決着が付かない、両陣営とも妥協
しないのではないでしょうか。

客観、客観、と仰いますが、科学的データや統計資料にしかその性質を認めないのは
偏狭というものです。存廃問題は各自の主観によって答えが変わるなどと仰いますが、
それでも人々の間では客観性のある議論は求められているのはないでしょうか。
広義の客観性については、下記のスレッドの>32や>37をご覧下さい。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1203072153/l50

2401無精髭:2010/02/01(月) 06:45:50
多数決型民主主義において全体主義への誘惑を退けつつ個人主義を貫徹するなら、
国民の誰しも、たとえ自分と周囲の人々が同じ主張を行っているということが
自明であっても、思索または議論、もしくは投票(意志決定)の際には全体から
離れて個人(己自身)の立場に立って判断を下す、行動を起こすべきだと私は
考えます。また、他者に対する場合も同様に、当の者を全体から引き離した上で、
その思索または議論、もしくは投票(意志決定)行為を、一個人のそれとして
捉えるべきだと考えます。

しかし、たとえば次のような反論があるでしょう。死刑存廃問題においては賛成
(存続)か反対(廃止)かの二者択一しかありえないのに、どうやって個々人の
判断を区別してその一つ一つを尊重するんだ。多数決を採用する限り、最終的には
個人の判断は賛成と反対のいずれかにまとめられてしまう運命にあるのだ。独自の
判断だろうが他者の判断の受け売りだろうが党派的決断への追従だろうが、味噌も
糞も一緒だ。そもそも投票では個性なんて出しようがないし、二者択一の結果から
個性を抽出するなどというのは不可能だ。

その反論が多数決時点での、賛成か反対かといった二者択一時点でのことを指して
いるのなら確かにその通りです。しかし、それ以前の時点に行われる存廃議論に
おいては、そこへ参加しない者も、「長い物には巻かれろ」とか「寄らば大樹の陰」
とかいったことは忘れて、自分なりによく考えた上で賛否を決めるべきです。
その議論を参考にするなら、とりあえず今現在自分にとって正しいと思われている
結論を保留するなり、自分と同じ結論の者に対する共感を保留するなりし、むろん
自分の結論と逆の結論を出す者に対するこれまで評価をも保留して、単純に賛成
とか反対とか主張するだけでは意味がないようなまっさらなところで、自分と
自分以外の者との(考えや立場の)違いについて捉え直すべきです。

つまり存廃議論において、ある人が廃止論を唱えているとしても、その主張を
世に言う廃止派の立場から発せられた言説として読み込むことはすべきでない、
換言すれば、個人の廃止論を、既存の廃止派による言説の枠組みで理解しては
いけないということです。つまりあくまで個人レベルで扱ったほうが順当という
ことです。

この考えが国民に浸透しさえすれば、「お前は自分を廃止派というけれど、
他の廃止派の考えとは矛盾したことを言ってるゾ」と言うことに大した意味
はなくなるでしょう。

誰もが民主主義の精神を貫くなら(個人主義を重んじるのなら)、特定の派閥や
偏った思想集団から発せられた言説も、なるたけ個人レベルにまで分解して扱う
べきであり、派閥や集団を通して評価を下すのは避けなければならないのです。
そして、言説を発する者のほうは、組織や集団の考えに依拠せず自由に・自立的
に語るべきです。

2402無精髭:2010/02/01(月) 06:46:36
>2377
>これはむしろあなたが、現実のルールや相手の不利益を無視して
>対等であるかのように振る舞える「理論上」舞台にしたいがために
>編み出した不公正な言い回しに聞こえます。

確かに負け犬の遠吠えかもねw でも私の憶測が外れるとも限らないでしょう?
多少は論者の態度とか言論の調子が聴衆に与える影響ということにも気を配ってくださいな。
んな影響あるかいっ、と思う方がいたら、>>2289にある主婦Aさんの書き込みを
ぜひ読んでみて下さい。多数決については紫煙狼さんとトーフさんの議論でもその
是非が問われていましたよ。

ところで、存置派は国民の多数票に依存しているようですが、当の多数派の国民は存置派の理論に
依存しているのでしょうか? もし両者の関係において相互依存が成り立っていないのであれば
(存置派の片思いに過ぎないのであれば)、以下のような態度を存置派が表明したら、同志である
国民はどう感じるでしょうか(必ずしもguestさんの主張に全面的に該当するものとは言えませんが)。

 議論するもしまいも俺たち存置派の自由だ。なぜなら俺たちは多数派に属するから。
 しかも存廃問題は多数決によってしか答えが出せないから(逆に言えば、客観的な
 答えが出ないような問題は全て多数決で決めるのが順当とされる)、これについて
 議論する以前に俺たちの出す答えが適当とされることはあらかじめ決まっている。
 だから既に答えの出ている問題を議論するのは無駄というものだ。よって廃止派の
 相手なんぞしない。

注意していただきたいのは、国民の大多数は死刑に賛成しているが、必ずしも
存置派に賛同しているわけではないということです。言い換えれば、単に一国民
として死刑に賛成することは、存置論的に賛成することとは言えないということです。

それともguestさんは、国民大多数的に賛成すること(笑)は存置論的に賛成する
ことの十分条件であるとお思いですか? でしたら大変結構なことだと思います。

>避ける以前に、議論に乗る理由が無いと言えます。
>アンフェアでも無理でもなんでも議論であれば乗る、というのが理論家だとは思いません。

相手が矛盾や誤謬を犯していることだけが原因で、議論がアンフェアとか無理とかになるわけ
ではありません。その主要な原因は、身勝手な論者による無礼な態度・不公正な手段によって
議論の成立・進行が阻まれたからとか、提議された問題に対して論者間で必要最低限の共通了解
が生じえなかったからとかいったことでしょう。また、理論家であれば基本的に議論に積極的
であるべきだと思います。自論の出来をチェックするために、他者から批判を仰ぐ必要もあります。
自分と異なる考えを持つ者とでも、いなそういう者とこそ議論を行うべきです。

>通常、議論は手段であって目的ではありません。
>目的と外れた議論をしなければならない理由が不明確です。

guestさんにおいては目的が私的なものに化(堕)していますからね。分かります。

>必要であったり自らが望んだものならともかく、無数に売られる議論を、
>矛盾を含むものまですべて受けろと言うのは、
>受ける側に著しく不利であり、不合理かつ非論理的です。

売られる議論をすべて受けろとまではさすがに言いませんけど、議論の場で自論を
公開して、相手から批判されたら(矛盾を含むものであれ、批判の形になっているので
あれば)、きちんと応答すべきではないかと思いますが。自分に有利な議論しかしない。
ということは初めから勝ち負けにこだわっているわけですよね。あと、不合理になるか
どうかは知りませんけど、仰るようなことを実行したとしても非論理的にはなりえません。
行動においては論理的かどうかということは全く関わりません。そこで言われている
行動に言語活動が含まれないのであれば、論理的な行動、非論理的な行動、という
表現はナンセンスでしかありません。言動不一致は矛盾とは言いません。

>しかし、「労を厭わず一人ひとりの声に耳を傾ける」「議論は避けない」
>というのを相手に要求するだけでなく廃止派もやるとなると、
>結局廃止派には容認派を遥かに超える作業量と忍耐力が必要になります。
>それは信用面で対抗するよりずっと難しいのではないでしょうか・・・

(紫煙狼さんのように)一人の人間を説得するのに半年もかけるなんて非効率だよ、
時間資源の無駄遣いだ、ってことなんでしょうねぇ、結局。十分な議論もしないで
すぐに多数決をとりたがるわけだ。議論の蓄積っていうことの意義をお分かりなので
しょうか。

2403無精髭:2010/02/01(月) 06:47:03
>2350
>つまり、現在絶望的に少数派である廃止派は、最低限、相手ができないことをする、例えば
>矛盾する論を廃して理論の整合性を確保する、
>相手がどうあれ自分は卑怯な手を使わない、
>等の信用面で対抗しなければ(下略)

>2375
>自分と意見の違う者を罵る、拒絶する、説明を面倒がる、相手と同じレベルの手段をとる、
>そしてそれを誰もたしなめない、では成せるものも成せないのは自明です。

などと言いつつ、>2384では「死刑容認論も廃止論も両方正しい、理論的にはほぼ等価である」
とためらいもなく書けるんだからすごい。等価であるならなんで廃止論者だけ、相手と同じことを
してはいけないんですか? その点、説明がないので全く理解できません。guestさんの中では
二つの論は本当に等価として扱われているのでしょうか? 「口喧嘩にしても権力闘争にしても、
お前が力押ししてるんだから俺もやっていい、という理屈が有利に働くのは多数派の方のみです」
(>2350)とか「正面からの反論なしに「横暴」と切り捨てるのも構いませんが、多数派が
そういうことをすれば、少数派には勝ち目がなくなってしまう」(>2371)とかいった主張からは、
「存置派に限って力押し・横暴が許されている」ということが読み取れてしまうのですけど。
極めつけは「アンフェアだろうと勝ったものが正当なのだ、または正当だからアンフェアでも
許されるのだというのなら別ですが、死刑廃止論の理念とはそういうものではないはずですよね? 」
(>2371)という部分。guestさんの思い描く理念とやらを廃止派だけに押し付けているのだと
すれば、あまりに酷なことです。でも、もし存置派も同様に守らねばならない理念だとされている
のであれば、guestさんの心配とは裏腹に、存置派が力押し・横暴を自らに許すわけはないん
ですよね。それでこそ真の等価だと思います。guestさんのご忠告も全く意味がなかったという
ことになるわけですよ。しかし、もしguestさんの考える廃止論の理念とやらが存置論においては
理念とされていないとしたら・・・想像しただけでも怖ろしい。

>2350
>>死刑容認派においても「お互いに矛盾する複数の存置論が存在する」可能性は否定できないわけで
>という反論も同じ理由で、廃止論側は自分の首を締めているものです。

>2371
>私は別に死刑存置のために言っているのではありません。
>「俺はいいがお前はダメ」というアンフェアなルールでは、廃止派は自分の首を締めるだけだ、
>ということを端的な例で、対称となる論を示して指摘しているに過ぎません。

実のところ、首を絞めるのは存置派なんじゃぁ…。

ところで、上記のレスでは私の主張と「俺はいいがお前はダメ」というアンフェアなルールとに、
同じ評価を与えていらっしゃるようですが、私は>2323ではむしろ存置論者のアンフェアな態度
を批判していますし、これに対してguestさんも>2350では妙な解釈ですが「お前が力押ししてる
んだから俺もやっていい」と書いていて、ハテ、いつの間にそれが「俺はいいがお前はダメ」という
解釈に変化したのかスゴク気になっておるのですが。>2350では「お前が不正を働くなら俺にも
それが許される」と言っているのは廃止派だったはずですが、じゃあ「俺はいいがお前はダメ」は
いったい誰の主張なのでしょう? よもや廃止派なワケはないですよねぇ。存置派がアンフェアな
ことを言っている、ということでよろしいのかな? だとすれば、先述したような廃止派の理念を
存置派は持っていなかったわけですか。ぜんぜん等価じゃないジャン!

2404無精髭:2010/02/01(月) 06:47:35
>2384
>私は死刑容認論も廃止論も両方正しい、理論的にはほぼ等価である、と考えています。
>等価であるからこそ、特定の思想を理論で抑えつけることはせず、多数決なのです。
>それは民主主義におけるひとつの大きな正当性です。
>理論の研鑽は、現状を多数決で決めざるを得ない事と同時に実行出来ることです。

そんなふうに言い回しを変えても、もう騙されませんよお。

>2371
>私は別に死刑存置のために言っているのではありません。
>「俺はいいがお前はダメ」というアンフェアなルールでは、廃止派は自分の首を締めるだけだ、
>ということを端的な例で、対称となる論を示して指摘しているに過ぎません。
>
>つまり、論敵にも廃止論の正当性を認めてもらうために言っているのです。
>具体的な方法も示しました。

2352-2353を自ら極端な例と仰っているw そうだったら、廃止論のためにはなるわけがないし、
むしろ廃止派の首を絞めているのはguestさんですよ。

>2384
>その中で廃止論の欠点や死刑存置の正当性を認める趣旨の事を書いたら(下略)

>2371
>そこに気を使っている廃止派の足をひっぱることにもなります。

guestさんって存置派なんですよね? だったら、もう廃止派の味方なんかしなくて好いですから。
廃止派のために書いているとか言って、その足を引っぱっているのは実はguestさんだったりします。
その意味で、guestさんは廃止派にとって招かれざる客だったわけ。

でも、>2384-2386みたいに卑屈になることはないですよ。

>理論の研鑽は、現状を多数決で決めざるを得ない事と同時に実行出来ることです。
>
>内的な理論の研鑽を否定してはいません。

せっかくこう仰っているのだから、「外的な現実をどうするかという理論」なんて
脇に置いといて、私たちとの議論を通して「内的な理論の研鑽」を一緒にやりましょうよ(笑)。

2405ufloat:2010/02/01(月) 20:43:31
>私の酔狂さ加減は常軌を逸してますからね
いや全く、無精髭さんの酔狂さ(こちらも最大級の賛辞)には感心させられます。
粘り強く真摯であろうとする姿勢、私も見習わなくては。
それはともかく、紫煙狼さんの書き込みと、それに続く無精髭さんの書き込みをヒントに
色々考えてみて、guestさんの多数決理論が何となくですが分かってきました。

憲法9条改正問題というのがありますね。
無論、ここで本問題を論じるつもりはありませんが、私が各種意見を読んでみた限りでは、
論者の立場はおおむね以下の4つに大別できました。

(改正賛成派)
1.純粋な改正賛成派
2.現行の憲法が繰り返し拡大解釈されてしまっているので、現状の追認だけして
 これ以上の拡大解釈を困難にする改正を行うべきとの立場(いわゆる護憲的改正)

(反対派)
3.現行の憲法は非常に幅広い拡大解釈が可能であるので、下手に改正されると
 拡大解釈ができなくなる恐れがあり、望ましくないとの立場
4.純粋な改正反対派

この場合、1と3、2と4の立場がかなり類似しているわけですね。
二者択一なら論敵同士となるにもかかわらず。

さて、guestさんは存置派が圧倒的多数であるとか、9:1であるとか主張なさっていますが、
この数字にはまじめな死刑存置派も、詭弁屋も、紫煙狼さんがおっしゃるような極端な
存置論者も、「寄らば大樹」の人も、全部含まれているわけですね。
もしかしたら(もしかしなくても)、guestさんのような存置派は非常に少数かもしれないのに。
guestさんはそういう数字をもとに、「こっちが多数派だぞ」と力押しをしているわけですから、
「廃止派の側も味噌も糞もひっくるめて対抗せよ」と違和感なく言えるのではないでしょうか。

もし日本で「死刑存廃国民投票」が行われるのであれば、そしてここで投票について
論じているのであれば、このような考えも必ずしも間違いとは言い切れません。
しかし、議論の場においては、例えば護憲的改正派の人を純粋な改正派の人と組ませて
改正反対派に当たらせたり、拡大解釈温存のために改正を行いたくないとしている人を
純粋な改正反対派と組ませて改正派に当たらせたりしても、議論がまともに
進まないであろうことは容易に想像できます。
ことguestさんの場合、こちらから何か申し上げなくても、「友軍」のはずの存置派の人からも
「一緒にするな」とヤジが飛んでくる可能性が高いのではないかと。
こうなると、guestさんの論の問題点が見えてきますね。つまり、
1.政治的・妥協的な手段である多数決による手法を、どういうわけか「議論」の場に持ち込み
2.議論の場でありながら各論は無視し、「存置」か「廃止」の二者択一のみを絶対的な基準としている
これでどうして議論が成立しましょうか。

2406死刑已む無し:2010/02/01(月) 21:30:24
>>2350でguestさんが
>「死刑を存置しながら死刑を廃止する」ということはできない以上、
>結局は多数決で決めることにならざるを得ません。

と書き込んでいますね
私が少し上のほうで書き込みましたが
>>2356
>『死刑制度廃止を公にしないままに、代わりに終身刑導入をし、実質死刑廃止とする』

これは、このまま施行するにはかなり無理があるでしょうが、私の考えとしましては
「死刑を存置しながら死刑を廃止する」
ことと同義だと考えております

>>2374
>殺人の前科のあるものが再び殺人を犯す割合は調べるのは意外と難しかったのですが、平成19年版犯罪白書によると0.9%であり
>これは「他の罪名に比べて相当低かった」そうです。意外でしょ?だから「現在の前科者の再犯率から見て」というのはミスリーディングです。

リンク先を読ませて頂きました・・・
高いですね・・・再犯率・・・・
殺人の再犯率はそれに比べたら低いかもしれませんね・・・・
ここから死刑制度廃止したとしたならば・・・・どう変化するのか想像したくもありませんね・・・・

>>2387
>飽くまでご自身の主観・感覚にこだわる

ただの自己弁護になってしまいますが・・・・
私は、あくまでも客観視を目指しています。が、どんなに広い見聞を持ち、多くの経験を積んだとしても
完全に全ての人間の立場に立って感じる、考える、と言うことは不可能であると思うのです
どこまでいったとしてもそれは、「客観を目指した主観」 であると思うのです
屁理屈かもですね


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板