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近現代史綜合スレ

539とはずがたり:2014/09/21(日) 19:23:33

開戦前夜 「なと波風のたちさわくらむ」 御製読まれ暫時の沈黙
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140921/imp14092111040001-n1.htm
2014.9.21 11:04

 《会議のまさに終了せんとする時、天皇より御発言あり。(中略)天皇は、毎日拝誦(はいしょう)されている明治天皇の御製(ぎょせい)「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」が記された紙片を懐中より取り出し、これを読み上げられ、(陸海)両統帥部長の意向を質(ただ)される。満座は暫時沈黙の後、軍令部総長は、(第一に外交努力を尽くすとした)枢密院議長の発言の趣旨と同じ考えであり、(中略)参謀総長よりも軍令部総長の発言と全然同じである旨の奉答あり》

 対米開戦の準備方針などを決めた昭和16年9月6日の御前会議。昭和天皇実録には、軍靴の響きを高める陸海軍を何とか抑えようとする昭和天皇の姿が、克明に記されている。

 その前日、(1)自衛のため10月下旬をめどに戦争準備を完成する(2)外交手段を尽くして日本の要求を英米に認めさせる−とした「帝国国策遂行要領」の報告を受けた昭和天皇は、(1)と(2)の順序を入れ替えるよう要求。急きょ参内(さんだい)した杉山元参謀総長らを叱責した。

 《参謀総長より(中略)南方作戦は約五箇(か)月にて終了の見込みである旨を奉答するも、天皇は納得されず、(中略)支那事変当初、(杉山は)陸相として連戦即決と述べたにもかかわらず、未(いま)だに事変は継続している点を御指摘になる。参謀総長より、支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し(中略)と論難(ろんなん)され、強き御言葉を以(もっ)て参謀総長を御叱責になる》(同年9月5日)

 天皇の要求もむなしく、翌日の御前会議で同要領は原案通り決定された。この時の昭和天皇の思いは、明治天皇の御製を読んだ冒頭の場面からうかがえる。

 この御前会議の決定を、覆した人物がいる。開戦時の首相、東条英機だ。同年10月18日の組閣の際、天皇の意向に従い、同要綱を白紙に戻してぎりぎりまで外交交渉に努めた。

 開戦の最大の責任者とされた東条を、昭和天皇はあまり批判しなかった。そこにはこうした経緯もあったようだ。

540とはずがたり:2015/01/03(土) 17:06:18
こんなことがあったのか。

スエズ危機の教訓、ロシアがIMF支援を求めない理由
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141222-00000004-bloom_st-bus_all&pos=3
Bloomberg 2014年12月22日(月)7時0分配信

  (ブルームバーグ):軍事進攻が米国の逆鱗(げきりん)に触れ、通貨防衛で準備は枯渇し、ついに国際通貨基金(IMF)に支援を要請することになった。

21世紀の世界地図に描かれたロシアの青写真ではない。1956年に英国が残した足跡だ。衝突の地はウクライナではなく、スエズ運河だった。

IMF融資はロシアが入り込んでしまった金融海峡を抜け出すための明白な手段だが、プーチン大統領は当面これを求めない、求めたくてもできないのは歴史が物語っている。当時も今も、IMF融資には米国の拒否権という不吉な影が差しているからだ。

「IMFに関与を求めるべき状況に至っている」と指摘するのは、メリーランド大学のフィリップ・スウェイゲル教授。IMFと米財務省での勤務歴がある同教授は、「ロシアは助けを必要としているが、プーチン大統領が助けを求める図は想像しにくい。そんなことをすれば屈服したも同然と考えるだろう。それにロシアが支援を要請すれば、米国はそれをレバレッジとして利用する可能性がある」と分析した。

約60年前に当時のアイゼンハワー米大統領が取った行動が、まさにそうだった。

世界貿易のライフラインであったスエズ運河をエジプトのナセル大統領が強引に国有化し、同運河を運営していた企業連合を追い出した後、英国は1956年、フランスを引き連れてイスラエルに加勢し、エジプトに侵攻した。

スエズ危機、ポンド危機

ポンドが投機家の攻撃を受け、英国は窮地に追い込まれた。イングランド銀行(英中央銀行)は自国通貨の防衛で準備を取り崩すしかなかった。

英国にとって「スエズ危機は金融危機でもあった」と、IMFの歴史に詳しいジェイムズ・M・バウトン氏は2001年の研究で指摘した。

ポンド切り下げを回避するために最低限必要とされる20億ドルの準備の維持が困難をきたし、英国は助け舟を探し始めた。米国からの直接援助はなさそうだと判断し、創立から約10年のIMFに目を向けた。

英国の望みはかなえられなかった。ジョージ・ハンフリー米財務長官は英国に対し、IMFの枠組みの中でしか支援はしないと言い放った。当時のIMFは「米国に抵抗するどころか、米国寄りの姿勢にあった」。

エジプト撤退、ルーブル急降下

準備が20億ドルを割り込みそうになった英国はついに折れ、エジプトからの軍撤退を発表した。これによって13億ドルの融資を受けられるようになり、ポンドは救済された。

バウトン氏によれば、「英国が金融支援を必要としていた状況は、米国にこれ以上望みようのないレバレッジを与えた」。

今も同じことが言えるだろうか。

ウクライナに対するロシアの関与が国際的な制裁を招き、これに原油価格の急落が重なり、通貨ルーブルは急降下した。2013年末に4700億ドルあった外貨準備からは、約1000億ドルが消えた。

ブリュッセルの調査グループ、リスボン・カウンシルのチーフエコノミスト、アレッサンドロ・ライポルド氏は「IMFが関与する経済状況と政治的な現実の二つは、全く相いれないものだ」と指摘する。元IMF当局者でもある同氏は、「経済的ケースは昔から新興国にはよくあることで、教科書通りと言っても過言ではない。しかしこれがすぐに起きる政治的なリアリティというのは実際のところ、ゼロに等しい」と述べた。

原題:Cold War-Era Lesson of Suez Crisis as Russia Burns Through Cash(抜粋)

541とはずがたり:2015/01/12(月) 09:14:38

旧ソ連から帰国したがなじめず、2人が永住断念
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150101-OYT1T50078.html?from=ycont_navr_os
2015年01月02日 14時54分

 第2次世界大戦末期、旧ソ連侵攻後にシベリアなどに抑留され帰国できなかったり、戦後も樺太(現サハリン)に残ったりして、ソ連崩壊の1991年度以降に永住帰国を果たした邦人のうち、少なくとも2人が旧ソ連やサハリンに戻っていたことが、読売新聞の取材でわかった。


 高齢で日本の生活になじめないことなどが理由で、戦後70年近くがたち、帰国した邦人支援の在り方が課題になっている。

 45年8月9日、旧ソ連は満州(現中国東北部)や日本領だった南樺太などに侵攻し、計約60万人を抑留。多くは日ソの国交が回復した56年までに帰国したが、帰国の手段がなかったり、現地にできた家族の事情があったりして、残留を余儀なくされる人もいた。

 厚生労働省によると、91年まで同国内に残っていた邦人のうち、これまでに計108人(サハリン85人、旧ソ連本土23人)が政府の支援などで永住帰国した。

 樺太生まれで60年以上、旧ソ連・カザフスタンで過ごした阿彦哲郎さん(84)は、現地で結婚した妻(78)と2012年から札幌市に住んだが、昨年6月、同国に戻った。同12月、現地で読売新聞の取材に「湿気の多い日本の気候が合わなかった」などと語ったが、知人の一人は「日本語を話せない奥さんが、生活になじめなかったのが原因では」と話す。

 また、残留邦人の帰国を支援する「日本サハリン協会」(東京)によると、04年にサハリンから北海道函館市に永住帰国した女性(97)も、近所にいた別の永住帰国者が亡くなるなどして孤独感を募らせ、13年、親族のいるサハリンに戻ったという。

 厚労省では、永住帰国した残留邦人がその後、旧ソ連領内に戻ったケースについて統計がないという。

 同協会の斎藤弘美会長は、「高齢でも永住帰国を願う残留邦人は多いが、頼れる日本の親戚は高齢化し、生活環境への適応も難しいのが現実。日本にずっと住めるよう支援を見直す時期に来ている」と指摘している。

2015年01月02日 14時54分

542名無しさん:2015/02/11(水) 13:28:01
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150210-00000558-san-pol
日本総領事館が米教科書執筆者に「事実誤認」指摘 「言論の自由侵害された」ハワイ大准教授主張
産経新聞 2月10日(火)19時33分配信

 【ワシントン=加納宏幸】米国の公立高校で使用されている世界史の教科書に「旧日本軍による慰安婦強制連行」など事実と異なる記述がある問題で、ハワイ州ホノルルの日本総領事館は9日、教科書の共著者のハーバート・ジーグラー・ハワイ大学准教授に対し、事実誤認を指摘するなどの申し入れを昨年12月に行ったことを明らかにした。

 申し入れについて報じた9日の米紙ワシントン・ポスト(電子版)によると、ジーグラー氏は日本政府から接触を受けたことを明かし、「私の言論と学問の自由を侵害した」と批判した。昨年暮れに日本総領事館の職員から教科書の記述について協議したいとの申し出があり、これを断ったが、2人の職員が大学を訪れ、教科書の文章を削除するよう求めたとしている。

 一方、日本総領事館は9日、産経新聞の取材に対し、ジーグラー氏とのやり取りの詳細は明かせないとしながらも「昨年12月に慰安婦問題に関して執筆者に申し入れを行い、事実誤認や、わが国の立場と相いれない部分が存在することを指摘した」と述べた。

 米歴史学者19人が発表した、教科書に関する「いかなる修正にも応じない」との声明をまとめたコネティカット大のアレクシス・ダデン教授もポスト紙に「声明は日本たたきではなく、日本の仲間を支援するためのものだ」と述べた。

 記事は、慰安婦問題で日本政府の責任を追及する吉見義明・中央大教授の研究が声明の根拠になっていると紹介。教科書を出版した米大手教育出版社マグロウヒルが「記述は史的事実に基づく」として修正を拒否したことも伝えている。

543名無しさん:2015/02/11(水) 17:26:22
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015021100237
日中韓の歴史修正主義に懸念=アジアの将来は多極化-米専門家

10日、ニューヨークで時事通信のインタビューに答える米外交評議会のシーラ・スミス上級研究員
 【ニューヨーク時事】米国の有力シンクタンク、外交評議会のシーラ・スミス上級研究員(日本担当)は10日、時事通信とのインタビューで、日中韓とも歴史を見直そうとする「修正主義者」(リビジョニスト)であり、米政府は「日米の利益に合わない状況が北東アジアに生まれる恐れ」を強く感じていると語った。安倍晋三首相が発表する戦後70年談話に関しては、村山富市首相談話を継承すべきだとの考えを示した。主な発言は次の通り。
-米国は東アジアの歴史論争をどうみているか。
 歴史問題には、危険なため触れてはならない側面がある。日本の政治指導者が過去をどう考え、それが近隣諸国との関係に与える影響をどう考えるかを、米国人は問題にしている。戦争の記憶の問題は中国にも韓国にもある。3国とも歴史修正主義であり、それを声高に語る指導者を持つ。
 背景には力のバランスの変化がある。現状に不満を抱き、異なるバランスへの希求は極めて強い。歴史問題のため、米国と日本の利益にならない状況が北東アジアにつくりだされるかもしれない。それを米政府は強く感じている。
-戦後70年談話への期待は。
 安倍氏は(過去の)謝罪の基礎から離れたがっているように見える。村山談話が今でも尊重されるのは、日本の深い反省を直接に認めたからで、これを原則の一つとすべきだ。70年談話で日本の将来像をどう描くかに関心が高いが、村山談話を放棄するのは誤りだ。ただ、(慰安婦問題に関する)河野洋平官房長官談話の扱いは難問になるだろう。
-中国がアジア新秩序づくりに乗りだした。
 中国がどこに行くのか、まだわからない。経済的にダイナミックな巨大な国だが、将来アジアが中国中心になると思い込む必要はない。周りには日本、インドネシア、マレーシアなど活力あふれる国が多い。アジアは一つの重心ではなく、複数の重心を持つことになるだろう。米国もこの活力ある社会の一員となるべきであり、それがアジアの将来にとっても重要だ。 (2015/02/11-14:22)

544名無しさん:2015/02/15(日) 20:04:12
法学論集スレ、中華スレ、警察スレ、差別スレに跨りそうなこの話題。
後半部分が残留邦人中心だったのでこのスレへ書き込んでみます。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150215-00043615-playboyz-soci
“半グレ”として語られる犯罪集団「怒羅権(チャイニーズ・ドラゴン)」の有名無実化した存在とは
週プレNEWS 2月15日(日)6時0分配信

正直、よくわからない…というのが実情だろう。限りなく暴力団に近い犯罪組織=半グレとして語られる「怒羅権(チャイニーズ・ドラゴン)」。

中国残留邦人2世、3世という出自からメディアは彼らを「日本社会への怒り」と「差別への憤(いきどお)り」が生んだ“悪”として紋切り型に報じることが多かった。

しかし、その里帰りを密着する中でまったく別の顔が確かに見えてきた。常軌を逸するような凶悪犯罪の根っこにあるものとは?

■関東連合と怒羅権

「府中の不良にTという奴がいるんですが、怒羅権らしいんですよ。別に中国人じゃないんですけどね。川崎のM、知っているでしょ? あいつ、去年からいなくなったじゃないですか。

“飛んだ”って言われていますけど、そうじゃなくて。Tのグループにバラされて、青梅の山の中に埋められちゃったみたいなんです。これ、ヤバイ話なんで週刊誌でもいけると思います。全然書いてもらって構わないので。ちょっとTの素性を調べてもらえませんか?」

新宿の喫茶店で、ブローカーが言った。「取材の足しに」と続けて、5万円入りの封筒を差し出してきたので、金主付きの依頼なのだろう。僕は私立探偵ではないので封筒は断り、「詳しい筋に尋ねてみます」とだけ答えた。

彼のようなロートルのブローカーが現金を差し出してくるのは珍しく、与太話(よたばなし)ではないと思ったが、その府中のTなる男が怒羅権だという話は信じなかった。

週刊誌の世界では、定期的に「魔法の言葉」が入れ替わる。毎週、ネタ出しを迫られる週刊誌記者を使って、別の情報を集めたいと目論(もくろ)む人々は、まったく関係のない人物に「魔法の言葉」を塗(まぶ)すことで、記者をタダ働きさせようとする。古びることなく使われているスパイスは「内調」と「公安」で、この10年ほど流行っているのが「怒羅権」と「関東連合」だ。

「なぜ、フジノさんが関東連合ではなく、怒羅権に興味を持ったのか。その動機を書いてください」と担当編集者は言うが、それは、ただの偶然だ。僕が知っている関東連合と怒羅権の関係者を比較した場合、現時点で、より信憑(しんぴょう)性の高い言葉や行動の裏づけを提供してくれるのが、怒羅権の関係者だったというだけで、それ以上の動機はない。

545名無しさん:2015/02/15(日) 20:04:27
>>544

2013年3月。警視庁は怒羅権と関東連合を準暴力団に指定した。準暴力団とは、組長や若頭など整然と階級区分された犯罪組織としての暴力団ではないが、限りなく暴力団に近い「犯罪集団」を指す新しい概念だという。溝口敦が著書『ヤクザ崩壊』(2011年、講談社)で提唱した「半グレ」を官僚風に言い換えた名称だと考えて、特に不足はないだろう。

しかし、その直後、警視庁は準暴力団としての怒羅権の呼称を、実質的には「チャイニーズ・ドラゴン」という呼び方に切り替えている。それは、なぜか。

実のところ、怒羅権という存在はすでに有名無実化しており、警視庁が当初、「怒羅権のメンバー(OB)」と呼んでいた者たちは別段、「怒羅権の者たち」ばかりではなく、その多くが「怒羅権的なる者たち」であったことを悟ったからだ。準暴力団という造語が現れる前から、警視庁はこのふたつの呼称の間を右往左往していた。

「自分は怒羅権じゃないですね。もちろん、絡みはありますけど。最初は暴走族をやっていて、その後、10人ちょっとの義兄弟たちと契(ちぎ)りを交わして『自分らのグループ』をつくったとき、怒羅権の知れている幹部から連絡がありました。『(怒羅権の)傘下にならないか?』って。

でも、ハッキリ断りましたから。それから200人近くメンバーが増えましたけど、怒羅権の下に入ったことはありません。自分らは“ファミリー”なんで、怒羅権じゃないんです」

警視庁の捜査資料で、かつては怒羅権のメンバーだとされ、後にチャイニーズ・ドラゴンに立場を書き換えられた男は、僕に言った。一方、取り締まる側である警視庁の捜査員は、呼称への拘(こだわ)りを持っていない様子だった。

「彼らがどう考えるかなんてのは、どうでもいいですね。一応、リストは別々に作成していますが、結局、怒羅権もチャイニーズ・ドラゴンも、ただの呼び方です。

明らかに、彼らには以前から特定の人間関係が構築されていて、その人間関係を通じて継続的に犯罪が起きているなら、ワッパかけたとき、どうやって報道しますか? なんらかの名称をつけないと、“普通の犯罪”と同じになっちゃうでしょ」

■中国残留邦人という存在

そもそも怒羅権とは何か。80年代後半に結成されたとき、怒羅権は、いわゆる暴走族のひとつにすぎなかった。仮に、この時点で怒羅権に“独自性”を見いだすとすれば、話は第2次世界大戦以前に遡(さかのぼ)らねばならない。

1932年。日本は、現在の吉林省を中心とする中華民国の東北部に満州国を建国し、満蒙開拓団を筆頭に20万人を超える開拓民を送り込んだ。国策として、大規模な海外移民を推進した背景には、それ以前に開始されていたハワイ移民やブラジル移民と同じように、近代化による日本国内の急激な人口増加と、産業革命による農村の貧困問題があったが、満州入植の要因はそれだけにとどまらない。

かの地への入植が特に重要だったのは、中華民国の東北部がソビエト連邦(現ロシア)と国境を接するアジアの要衝だったからである。日本は、巨大な関東軍と国内で養えなくなった貧農を東北部に入植させることで植民地戦略の要衝を保持しようと考え、最終的に、100万人を超える日本人が満州で暮らすようになった。

しかし、すでに僕らが知るとおり、日本は第2次世界大戦に敗れる。玉音放送が流れる直前の1945年8月9日、ソ連軍は満州に侵攻し、怒りに燃える中国(中華民国、のちに中華人民共和国)人たちは、日本人を襲撃した。

全盛期には70万人ともいわれた関東軍は戦況の悪化にともない、大部分が満州の外の戦地に送り込まれており、また農民として入植した日本人男性も多くが徴兵されていたため、ソ連軍の侵攻時に兵士自身の家族を含む残留邦人を守る余力は残されていなかった。

その後の混乱は凄惨を極めたといわれる。ある者は殺され、ある者は自決し、ある者は信頼を寄せる中国人にわが子を託し、また、ある者は足手まといだとして自らの子を畑に捨て、残された日本人は離合集散を繰り返した。

これが「中国残留邦人」の起源である。日本政府のカテゴライズに従えば、中国残留邦人の対象者は「残留孤児」と「残留婦人」のふたつに区分される。残留孤児は、日本の敗戦当時、0歳から12歳の男・女児。残留婦人は、13歳以上の女性を指す。

彼らの大部分は、1946年から断続的に1958年まで行なわれた「集団引き揚げ」で日本に帰国したが、その網から漏れた1万人を超える残留邦人の帰国は、日中国交正常化後から開始された公開調査(1975年)まで待たねばならなかった。

●この続き、怒羅権の出自と里帰り密着ルポは明日配信予定!

(取材・文/藤野眞功)

546名無しさん:2015/02/19(木) 06:58:39
http://jp.wsj.com/articles/SB11442920196806124664104580468653993571856
安倍首相の歴史観で日米関係にかげり 訪日米議員が漏らす
By JACOB M. SCHLESINGER
2015 年 2 月 18 日 11:14 JST

 【東京】今週東京を訪れている米国の議員らによると、安倍晋三首相の歴史観が日米関係の将来にとって最大の懸念材料になっているという。

 ダイアナ・デゲット下院議員(民主)は16日、一部の記者団との会見で、「第2次世界大戦終戦70周年に関連したこれらの問題の一部が両国関係にひびをもたらす可能性がある」と述べた。

 同議員は「日本が慰安婦問題やその他の終戦時期あたりのいくつかの問題で逆戻りをしていると見なされないことが本当に重要だ」とし、慰安婦問題に関する米国歴史学者と日本政府の間の論争に言及した。

 デゲット議員らとともに10人の超党派訪日下院議員団に参加したジェームズ・センセンブレナー議員(共和)は「われわれの道にはでこぼこがあったが、今はこれを平らにする時だ」とし、安倍首相の「修正主義歴史観」は「近隣諸国との関係」に打撃を与えていると述べた。その上で、「これはクールダウンさせなければならない」と付け加えた。

 議員団の訪日は、米国議会日本研究グループと笹川平和財団USAがスポンサーとなった。前者の共同座長を務めるデゲット議員は、今回の訪問について、同グループが1993年に設立されてから行われている訪日の一環だとし、人数は1年前の4人の倍以上になったと指摘した。

 参加者は民主党が6人、共和党が4人で、この中にはジョセフ・ケネディ議員(民主)もいて、同議員は日本で特にキャロライン・ケネディ駐日大使に会いたいとしている。ケネディ議員は、大使の父である故ケネディ大統領の弟、故ロバート・F・ケネディ氏の孫。

 これとは別の、ポール・ライアン下院歳入委員長(共和)を代表とする議員団も今週、日本を訪れ環太平洋連携協定(TPP)について協議する予定だ。

 センセンブレナー議員は「今では日本に多大な関心が持たれている」とし、10年前に日本に継続的な関心を抱いていたのは同議員らほんの一部で、当時はほとんどの議員は「北京に向かう3万5000フィート(1万0500メートル)上空の飛行機の中から日本を見下ろすだけだった」と述べた。

 日本を訪れた議員らはおおよそ、両国関係が健全だとし、特に四半世紀前の通商問題で緊張状態にあった時に比べてそうだとしている。

 デゲット議員は「米国で圧倒的に語られているのは相互防衛と安全保障、アベノミクスの成功への期待、条約交渉などについてだ」とし、「だから、なぜ第2次大戦のころの問題がまだ現れてきているのか困惑させられる」と話した。

 同議員は特に、安倍首相の言葉が4月末か5月初めに予定されている首相の訪米に暗影を投げかける可能性があるとしている。同議員は「この訪米にわれわれは懸念している」とし、「首相はこれらのネガティブなセンチメントを引き起こすようなことはしてはならない」と語った。

 日系のマーク・タカノ議員(民主)は、ひどく2極化された米国の政治環境の中でさえ、安倍氏の歴史観は超党派の反発を引き起こしかねないと警告した。同議員の両親と祖父母は戦中に拘束されていた。同議員は「これは党を問わず反発を呼ぶ」としている。

 訪問団は16日に記者会見したあと、安倍首相と会った。参加者によると、デゲット議員はこの場で、訪米の際に米議会で演説をしてくれれば光栄だと首相に伝えた。実現すれば1961年の池田首相以来の日本首相による議会演説となる。演説するには下院議長の正式な招待が必要だが、歴史問題での韓国との関係悪化に対して一部議員が懸念していることから、招待は簡単にいきそうもない。

 韓国の朴槿恵大統領は13年5月にワシントンを訪問した際に議会演説を行い、この中で安倍氏の歴史観を批判した。

547名無しさん:2015/02/19(木) 06:58:52
>>546

 安倍氏は、前民主党政権下で悪化したと同氏が指摘する日米同盟を強化すると繰り返し表明している。同氏は、自衛隊が米軍とともにもっと活動できるようにすることや、中国によって形作られつつあるアジア太平洋地域での米国のリーダーシップを確立する上で不可欠のステップと米国が見るTPPの受け入れなど、米政府が働きかけてくる多くの政策を実現しようとしている。

 しかし、安倍氏とその多くの側近や支持者は、大戦中の日本の行為についての米国の取り上げ方に反論し、日本は国家の名誉にかけてこうした取り上げ方と公に論争することが必要だとしている。日本の外務省は昨年12月、教科書に載っている大戦中の「慰安婦」に関する説明を変えるよう、出版元のマグロウヒル・エデュケーションに申し入れた。

 これに対して米国の著名な歴史家から成るグループは抗議の書簡を日本に送った。この批判に対して外務省の伊藤恭子報道官は「われわれはより正確にわれわれの見解を表明する機会を持ちたい」と述べた。安倍首相が日本の戦争記録を修正しようとして関係を悪化させているとの批判について同報道官は「慰安婦問題についてわれわれは何度も何度も、これまでの政権の考えを支持すると言ってきた。戦後70周年での政府談話は、大戦中に日本がしたことへの反省、この70年間に日本が成し遂げてきたこと、それに将来日本が行うことという三つの要素を反映させたものになる」と語った。

 センセンブレナー議員は、安倍首相と朴槿恵大統領の首脳会談がまだ行われおらず、アジアにおける米国の二つの主要な同盟国同士の協力が困難になっていることなど、米国のアジアでの安保活動が歴史的緊張によって難しくなっていることに懸念を表明した。同議員は「北アジアの平和という観点からはこれは本当に不要なことだ」と述べた。特に北朝鮮が脅威となる可能性に対して「米国と韓国と日本はこれが一触即発の状態にならないように協力しなければならない」と話した。

 伊藤氏は、日韓間の緊張が日本のせいだとの指摘に反論し、「両首脳は無条件で会うべきだというのが日本の姿勢だ」とし、「日本側からはドアは常に開かれており、そのメッセージは多くの機会に出されている」と語った。

***

ジェイコブ・スレシンジャー


ウォール・ストリート・ジャーナル アジア経済主席特派員・中央銀行担当エディター

 ハーバード大学経済学部卒業。St. Petersburg Times 記者を経て、1986年ウォール・ストリート・ジャーナルデトロイト支局に記者として入社。89〜94年東京支局特派員。その時の取材をもとに日本の政治についての『Shadow Shoguns:The Rise and Fall of Japan's Postwar Political Machine』を執筆。帰国後ワシントンで経済記者、政治記者、ワシントン支局副支局長を経て2010年東京支局長に就任。2014年より現職。03年、特別報道チームの一員として企業不祥事を暴いて解明した報道シリーズでピュリツァー賞を受賞。14年、スタンフォード大学「2014年ショレンスタイン・ジャーナリズム賞」を授与された。

Twitter @JMSchles

548荷主研究者:2015/02/21(土) 18:37:16

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201502/20150215_15012.html
2015年02月15日日曜日 河北新報
<被災資料>鴎外、漱石らの生原稿を初公開

被災家屋から救出後、初めて公開された文豪の肉筆に見入る来館者

 亘理町教委と文化財の研究者が東日本大震災の津波や揺れで損壊した町内の家屋から救出した資料を集めた企画展「東日本大震災と救い出された資料」が14日、町郷土資料館で始まった。旧家や神社など7戸が収蔵していた美術品や日用品など200点を展示。明治、大正時代の文豪の肉筆など貴重な資料が並ぶ。

 肉筆は、森鴎外の晩年の傑作「北条霞亭」、夏目漱石の「文鳥」、武者小路実篤の「なにかと」などの生原稿、石川啄木、島崎藤村、坪内逍遙らの書簡など。竹久夢二のデザイン画や岸田劉生のデッサンも公開した。

 展示品の多くは、同町荒浜の旧荒浜村村長の江戸清吉氏(1938年没、享年52歳)が収集した2万点の一部。津波被害に遭った倉庫から救い出し、応急的な修復を施した。一般に公開されるのは初めてという。

 東京から駆け付けた日本学術振興会特別研究員で日本近代文学を専攻する多田蔵人さん(31)は「個人でこれだけ多くの作家の肉筆を趣味で収集するのは、めったにない。津波での流失を免れたのも奇跡だ」と驚く。

 このほか、同じ荒浜の旧家が収蔵した亘理伊達家の初代当主伊達成実の書状、揺れで損壊した内陸の家屋に眠っていた家電、津波で損壊した神社のみこしなどもある。

 企画展は3月29日まで。観覧料は一般100円、高校生50円。郷土資料館はJR亘理駅東側の悠里館1階にある。連絡先は資料館0223(34)8701。

549とはずがたり:2015/02/25(水) 22:39:29

【借金に追われて】日本が太平洋戦争に突入した理由が悲しすぎる【原発・靖国まで】
http://matome.naver.jp/odai/2136214578373977801
日露戦争で日本は、米国系ユダヤ人らから借金をして戦争を行い、「ロシアに勝利」しました。しかし、実際には、同じユダヤ人がソビエトに金を回し、ロシアの崩壊を誘導していたと言われます。そして、やがて太平洋戦争で米国に敗戦した日本ですが、太平洋戦争開戦時も日本は米国の借金を負っていました。
更新日: 2015年01月17日

借金につかまった日本

日露戦争で日本は、米国系ユダヤ人から借金をして戦争を行い、「ロシアに勝利」しました。

しかし、実際には同じユダヤ人銀行家がソビエトに金を回し、ロシアの崩壊を誘導していたとも言われます。
太平洋戦争開戦時もまだ、日本は米国のユダヤ系資本に莫大な借金を負っていました。終戦後、米国は同盟国に戦争賠償金を課さないことを呼びかける一方で、結局、しっかり昭和の終わりまでかけて金利を加えて日本から借金を回収したのです。

"日露戦争遂行のためのポンド建て日本国債は、借換債を発行しながら1986年(昭和61年)にようやく完済した"

最終的に返済を完了したのは82年経ってからでした。82年前の人の借金をせっせと返済していたと、団塊世代の何割が意識していたでしょう。

"日本人は戦後賠償よりも負債返済を優先「させられた」"

アメリカ合衆国は、戦争賠償金を大きくしないよう各国に要求しました。「第一次世界大戦でのドイツへの多額の賠償金請求に対する反省」などと言われますが、その一方で、日本から戦前の借金を取り立てを続けていました。日本からの回収率を上げるために、他国への賠償をしないよう圧力をかけていたのです。

結果的に現在の日本人は、隣国から領土問題をもちかけられ、さらなる戦後賠償を要求され、実際に政府開発援助や円借款という名の事実上の賠償金支払いを継続しています。そして、自分たちは、さらに大きな負債を抱えることが正義だと錯覚しています。

550とはずがたり:2015/02/26(木) 00:52:33
2006-06-10 告発される近代の悲劇
■[書評]原武史『大正天皇』朝日選書
http://d.hatena.ne.jp/pentaxx/20060610/1151723618

 ここで大正天皇の病歴を推測を交えて記述してみよう(用語は現代のものに変換してある)。明宮(大正天皇)は生後間もなく髄膜炎に罹患し、その後遺症に生涯苦しんだ。後遺症の重篤さを考えるとおそらくウィルス性で、脳炎も伴っていたのではないか。抗生剤のない時代でもあり、漢方治療のみでは十分な治療効果は得られなかったであろう。一〇代はほとんど持病のようになった感冒のほか、気管支カタル、腸カタル、胸膜炎などにしばしば罹患した。

 二〇代は後述するように健康を回復したが、天皇即位後は髄膜炎の後遺症とおぼしい脳器質性障害にもとづく言語障害、歩行障害などが進行した。知能の障害がどの程度であったかは判然としないが、記銘力の減退や一過性ながら幻視の訴えもみられている。裕仁皇太子が摂政となった一九二二年以降は、静養に徹したものの、病状は徐々に進行する。不整脈、浮腫、脳虚血発作などがたびたび見られ、慢性的な発熱が続く。おそらく脳虚血発作は多発性脳梗塞をもたらしていたであろう。一九二六年一二月二五日、「肺炎に伴う心臓麻痺(宮内省発表)」にて死去。四七歳の若さだった。  

 以上は身体医学の側からの所見である。しかし本書を読んで驚かされるのは、その病状がきわめて状況依存的である点だ。つまり環境要因、心理的要因によって病状が大きく影響されていた可能性が高いのである。本書の主題の一つも、実はそこにある。  

白粉(おしろい)と明治天皇
http://ohsawa.exblog.jp/17213822/

明治天皇が生まれ育った京都の宮廷文化は純和風で、遷都となって東京に来るまでは、洋装して各国の外交官達と社交するなどということはまったく考えられなかった。ある観菊会でも、外交団を皇居に招きながら1時間も待たせた挙句、一人馬に乗って現れ、彼らと直接挨拶もまじ合わせなかったという(オットマール・フォン・モール「ドイツ貴族の明治宮廷記」金森誠也訳 - 講談社学術文庫)。これにポルトガル公使夫人が激怒し、そのあとの宮廷行事をポルトガル公使館全員がボイコットしたらしい(同書)。これ以外にも、皇后と一緒に並んで歩かないなど男尊女卑の傾向があったという(同書)。

そんなことで明治天皇に興味を持った。調べてみて不思議なことを見つけた。側室が 5人、生まれた子供が 15人、内 2名が死産、6名が夭逝だという。日本も以前は乳幼児死亡率が高かったことは知っていた。でも、生まれた子供の半数以上が 1-2年で亡くなっているというのはかなり多い。側室は皆公家の系統だから、何か家系的な遺伝性の病気でもあるのかとも思った。ちょうど、「ドイツ貴族の明治宮廷記」に謎めいた次の文が出てきてますます気になった。

「 ---- 宮中で天皇の一番下の皇子昭宮猷仁親王が歯と関連のある脳の病気、脳膜炎にかかられた。皇太子明宮を除き、天皇のすべての皇子がこの病気で亡くなられている。この病気は日本の高位の貴族の家系に秘められた悲惨な伝統である。実にこの病気は日本の平民の間ではなく、とくに五摂家や大名家に多く発生している。」

そこで更に調べてみた。すると、明治天皇の皇子女は 10名が脳膜炎(現在の髄膜炎)で亡くなっているらしいことがわかった。その原因は白粉(おしろい)だという。大正の頃まで、高い身分の女性(明治以降は一般人も)はお化粧として首から胸まで白粉を塗っていた(公家や一部武家では男性も)。当時、白粉は鉛白 = 2PbCO3Pb(OH)2 を使っていて、それを使う女性は鉛毒を患っていた。その粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取してしまうわけだ。存命した皇子の一人、明宮嘉仁親王(後の大正天皇)には乳母がいたが、彼さえも、その乳母から鉛を摂取し、結局脳膜炎にかかったと言われている(後年、病弱天皇として知られる)。

551とはずがたり:2015/02/26(木) 01:04:03
明治天皇は元田永孚や佐々木高行の影響下に伊藤博文らと対立して親政を試みた様だが,結局折れて機務六条となったそうな。何が折れるきっかけになったのかwikiの記述ではよおわからんが,立憲君主を選んだのは賢明だったと云えよう。明治天皇の皇子皇女が夭逝が多かったのはどうやら白粉のせい>>550という意見も。まあゆうても明治時代やからなぁ。

機務六条
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%99%E5%85%AD%E6%9D%A1

機務六条(きむろくじょう)とは、1886年(明治19年)9月7日に明治天皇と伊藤博文(内閣総理大臣兼宮内大臣)が内閣を代表する形で交わした約束事。これによって、天皇と内閣の関係を規定すると同時に、明治天皇が親政の意思を事実上放棄して、天皇の立憲君主としての立場を受け入れることを表明した。

明治天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。
教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである[4]。

男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。また成人した皇子女も、房子内親王(北白川宮妃)と聡子内親王(東久邇妃)を除き、皆40〜50代の若さで亡くなっている。

552名無しさん:2015/02/28(土) 02:58:07
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150227-00010002-agora-pol
大正デモクラシーはなぜ自壊したのか --- 池田 信夫
アゴラ 2月27日(金)15時50分配信

衆議院予算委員会は、西川農相の辞任騒動で紛糾し、予算の年度内成立が困難になったようだ。予算委員会が予算と無関係なスキャンダルで止まるのは、戦前から続く悪習である。

「大正デモクラシー」で政友会と民政党の二大政党が交代する慣行ができたが、予算は内閣がつくるので、帝国議会は予算に「協賛」するだけで修正する権限がなかった。このため注目を集める予算審議が、スキャンダル暴露の場になった。

こういう状況は、1928年の普通選挙で悪化した。高畠素之は「普選法による有権者は有象無象が多く、政党や政策を見て賛否を決するよりも、候補者の閲歴や声望に基づく有名無名が、彼らの判定する人物的上下の標準となる場合が多い」と評している。

普通選挙で巨額の選挙資金が必要になったため、政治腐敗が拡大し、各官庁の官僚や全国の地方官庁が政党に系列化された。一般の有権者は政策なんか知らないので、誰でもわかる金銭スキャンダルが投票に大きな影響を及ぼし、議会はその暴露合戦になった。

政治がこのように「劇場型」になると、新聞の役割が大きくなった。当時の新聞は「リベラル」な姿勢で反軍的な論調を取ることが多く、1930年のロンドン軍縮条約までは軍事支出の抑制を求めて軍部と対立していたが、1931年の満州事変以降、戦争報道で部数を拡大すると、新聞は軍を美化する報道に転じた。

腐敗して何も決められない二大政党に代わって「第三極」による「維新」運動が盛り上がり、その結果が青年将校のクーデタや大政翼賛会による「近衛新体制」だった。つまり大正デモクラシーは、それを弾圧する治安維持法や軍部につぶされたのではなく、デモクラシーの担い手だった議会と新聞によって自壊したのだ。

新憲法では国会の権限が強化されたが、野党に予算を修正する権限も能力もないのは同じだ。このため野党やマスコミは、スキャンダル叩きに奔走する。これに対して首相が「日教組はどうなってるんだ」などとヤジで応酬するようでは、昭和初期のように政党政治も終わりに近づいているのではないか。

池田 信夫

553名無しさん:2015/02/28(土) 13:36:52
田原総一朗「戦後レジームの正体」
安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」を提唱している。70年前、GHQによって作り上げられた日本の制度は、どこに向かおうとしているのか。「戦後」を一貫して見つめ続けてきた著者、畢生の新連載!

【第2回】 東京裁判で問われたもの---日中戦争、真珠湾攻撃は正当だったか2015.02.27
田原 総一朗
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42280

【第1回】 GHQと東京裁判2015.01.27
田原 総一朗
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41864

554名無しさん:2015/03/07(土) 12:34:19
http://www.sankei.com/politics/news/150306/plt1503060023-n1.html
2015.3.6 12:41
独立国かは「回答困難」 琉球王国で政府答弁書

 政府は6日の閣議で、かつての琉球王国が独立国だったかどうかについて「『琉球王国』をめぐる当時の状況が必ずしも明らかでなく、確定的なことを述べるのは困難」とする答弁書を決定した。社民党の照屋寛徳衆院議員(沖縄2区)の質問主意書に答えた。

 琉球王国が米国、フランスなどと結んだ条約を国際的な合意文書と位置付けるかどうかについては「日本国として締結した国際約束でなく、確定的なことを述べるのは困難」とした。

555名無しさん:2015/03/08(日) 15:53:02
統帥権干犯問題で国策誤り、安倍首相「その通り」
朝日新聞デジタル 3月4日(水)1時0分配信
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/3129

 戦前に軍部の台頭を招いたとされる統帥権干犯問題などの歴史認識をめぐり、民主党の枝野幸男幹事長が3日の衆院予算委員会で、安倍晋三首相らの見解をただした。

 枝野氏が「統帥権干犯問題と、(陸・海相を現役軍人のみから選任する)軍部大臣現役武官制で、我が国が国策を誤った。教訓にすべきだと思うか」などと質問。首相は「その通りだと思う」と述べた。

 中谷元・防衛相も「その通りだと思う」と述べた。そのうえで、戦後の自衛隊の文民統制(シビリアンコントロール)について「国民から選ばれた政治家が軍事組織をコントロールすると改めたわけで、大事な原則だ」と説明した。

 統帥権干犯問題は、1930年にロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対し、軍の指揮権を握る天皇の統帥権を犯すものだと軍部などが批判。政党政治が衰退する一因となった。

朝日新聞社

556名無しさん:2015/03/14(土) 17:11:01
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150310-00813995-sspa-soci
資産2兆円のポール・アレン氏「戦艦武蔵は日本に寄贈したい」
週刊SPA! 3月10日(火)16時21分配信

 マイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏が発見した旧帝国海軍の戦艦「武蔵」が、戦中・戦後世代はもとより、往年の軍艦ファン、ミリオタまで多くの人を興奮のるつぼに巻き込んでいる。

 なにせ、武蔵はあの「大和」の姉妹艦にして、旧帝国海軍が建造した最後の戦艦だ。両艦に搭載された46cm砲は世界最大を誇り、40km先の標的を攻撃できたというから、世界最強の艦に偽りなし。武蔵は竣工から2年足らずのレイテ沖海戦であえなく撃沈されてしまったが、「魚雷20本、爆弾17発、さらに無数の至近弾という、他に類を見ない集中攻撃を受けても10時間近く沈まなかった」(SPA!きってのミリオタ)と、その逸話は今でも語り草となっているのだ。

 3/10発売の週刊SPA!では、『宇宙戦艦ヤマト』で知られる松本零士氏が武蔵に対する思いを熱く語っているのだが、気になるのは今回、武蔵を発見したポール・アレン氏のこと。なぜ、当時の敵国の、それもマイクロソフト共同創業者というまったく畑違いの人物が発見するにいたったのか?

 その背景を知るのは、SPA!の連載陣としてもお馴染みの中年金融マンことぐっちー氏だ。「日本人は彼のことを“アレン”って呼びますけど、本当は『アラン』です。彼はアレンと呼ばれるのを嫌がるから注意してください」と前置きしつつ、アラン氏との出会いを振り返る。

「僕がモルガン・スタンレーに勤めていたときから、アランとは友人です。当時のマイクロソフトはお金がなくて、困窮していた。それで、日本からも出資を募ろうと来日したときに、僕が50億円集めたんです。そのことを、アランは今でも恩義に感じてくれている。それ以降、何度もアランの自宅には遊びに行きました。もう、サンダーバードの基地のような自宅ですよ(笑)。2010年のバンクーバー五輪のときなんかは、その自宅の前の湖から、自家用水上ジェットを飛ばして、五輪会場に連れて行ってもらいました。今回、武蔵を発見するのに使った『オクトパス』という名のクルーザーにも何度も乗りました。僕も昔、お金を貯めて3億円のクルーザーを買ったんですけど、アランにオクトパスを見せられたときは唖然としましたね。僕の船の何倍もの大きさですから。4階建てだから、もう客船クラス。当然のようにプールが備付で、ヘリも積んでいて、無人潜水艇も搭載しています。それと、シャンパンを山ほど(笑)。沖に出ては、何日もシャンパンを飲んだくれて過ごすわけです」

 米経済紙『Forbs』の2015年版長者番付によれば、アラン氏の資産額は175億ドル。日本円にして2兆1000億円! マイクロソフト以外にも複数の企業の大株主となっているほか、6つの財団を傘下に率いるポール・G・アレン財団を運営し、NFLのシアトル・シーホークス、NBAのポートランド・トレイルブレイザーズ、プロサッカーリーグのシアトル・サウンダーズのオーナーも務めているのだ。そんな超資産家にはもう1つの顔があった。

557名無しさん:2015/03/14(土) 17:12:15
>>556

「マイクロソフトのイメージからアランをエンジニアだと思っている人がいると思いますけど、彼が大学時代に専攻していたのは考古学です。昔からトレジャーハンターになりたかったとよく話していました。あまり知られていませんが、過去にアランは1898年のアメリカ=スペイン戦争のときの沈没船を引き上げています。そのときに見つかった財宝で200億円手に入れた、という話をしていました。今回、武蔵を探した理由について、『父親が太平洋戦争に従軍していたから興味があった』と話しているようですが、実際には一番になりたかったっていうのが理由でしょう。彼は『大和はすでに発見されているから、俺は武蔵を見つけたいんだ』と10年ほど前から話していましたから。アランはものすごい負けず嫌いなんですよ。共同創業者なのにビル・ゲイツにも対抗心丸出し。というのも、ビル・ゲイツを口説いたのはアランですからね。だから、『なんで、ビルばかり注目を集めるんだ……』と悔しがってた時期もあるようです(笑)」

 そんなアラン氏に、今回、ぐっちー氏は祝福のメッセージを送ったという。

「『おめでとう』メールを送ったら、アランから『日本に寄贈したいと思っているんだけど、フィリピン政府が介入してきて困っている』という返信がありました。どうやら、自腹で引き上げて、無償で日本政府に寄付するつもりだったみたいですよ?(笑)。どれだけ太っ腹なんだ!って話ですけど、彼にとっては数百億円の引き上げコストなんて屁でもないのでしょう。『フィリピン政府から買い取ってでも寄付する』とメールをくれました。本当にスケールの大きすぎる男です!」

 武蔵が日本に帰還する日はそう遠くない!? アラン氏の心からのご活躍をお祈り申し上げます! <取材・文/池垣 完(本誌) 写真/AP アフロ>

日刊SPA!

558名無しさん:2015/03/15(日) 08:53:11
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date1&k=2015031400360
日韓は「独仏と異なる」=歴史問題で見解-仏外相

 フランスのファビウス外相は14日、東京都内の仏大使公邸で記者会見し、フランスとドイツを引き合いに、日本に歴史認識での反省を求めた韓国外務省当局者の発言に関し、「(仏独と)アジアでは取り巻く状況も地理的条件も異なることを忘れてはいけない」と述べ、単純に比較できないとの見解を示した。
 ファビウス外相は「仏独は(歴史上)互いを侵略したが、第2次大戦終結を機に和解した。今では世界で最も仲の良い国だ」と強調。「そこから何か感じてもらえると思う」と語った。 
 また、ウクライナ政府軍と親ロシア派の新たな停戦合意から1カ月を迎えるウクライナ東部情勢について、ファビウス外相は「おおむね停戦は守られている」と評価。その上で「緊張感が残るのは事実だ。ウクライナ東部に独立性を持たせることが求められる」と指摘し、東部への自治権付与を盛り込む停戦合意の着実な履行を訴えた。(時事)(2015/03/14-20:45)

559名無しさん:2015/03/21(土) 20:00:10
http://news.infoseek.co.jp/article/21kyodo2015032101001296
硫黄島戦で日米合同の慰霊式典 戦後70年、閣僚が初参列- 共同通信(2015年3月21日13時47分)

 太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)で日米合同の慰霊式典が21日、開かれた。初参列した塩崎恭久厚生労働相は「先の大戦の記憶を次世代に継承する」と誓った。ほかに中谷元・防衛相ら両国政府高官、遺族ら約550人が参列し、日米計約2万9千人の戦没者を追悼した。

 今年は戦後70年の節目となるため、参列者数を昨年の式典より大幅に増やし、規模を拡大した。遺族らでつくる硫黄島協会によると、閣僚の出席は初めて。

 塩崎氏は「大戦から学んだ教訓を深く心に刻み、悲惨な戦争を繰り返さない」と指摘。中谷氏は「日米同盟の一層強化に努力する」と表明した。

560名無しさん:2015/03/21(土) 22:31:23
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150317-00000536-san-pol
民主・細野氏「東京大空襲は米軍による残虐行為」 記者から問われて言及
産経新聞 3月17日(火)15時33分配信

 民主党の細野豪志政調会長は17日の記者会見で、東京大空襲について「10万人以上が短い期間で命を落としたことは、米軍による非常に残虐な行為だと考えている」と述べた。細野氏は10日の記者会見で、東京大空襲が非戦闘員の殺(さつ)戮(りく)を目的とした米軍の無差別爆撃であることには一切言及していなかった。

 17日の記者会見で、無差別爆撃である事実に言及しなかった理由について質問されると、細野氏は「それは当然のことだ」と語った。

 その上で当時の状況について「日本は制空権、制海権も完全に失っていた。いかんともし難い状況になっていても戦争を終結できなかった。政府の国策の誤りであることは明らかだ」と指摘した。

 細野氏は10日の記者会見で東京大空襲について「国策の誤りを反映した結果だ」と述べていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150317-00000557-san-pol
「いかんともし難い状況になっていても、戦争終結ができなかった」民主・細野氏の東京大空襲発言詳報
産経新聞 3月17日(火)18時46分配信

 民主党の細野豪志政調会長の東京大空襲をめぐる発言の詳報は以下の通り。

 【17日の定例記者会見】

 --先週の東京大空襲についての発言で「国策の誤りの反映」といわれたが、なぜ無差別爆撃という点に触れなかったのか、改めて認識を聞きたい

 「東京大空襲は10万人以上の方が本当に短い期間であれだけ命を落とした。それ自体は、米軍による非常に残虐な行為だと私は考えている。ただ、それは当然のことであって、日本としてはそういう認識だ」

 「もう一ついえることは制空権、制海権も完全に失っていた。もはや、いかんともし難い状況になっていても、戦争終結ができなかったことも含めて、わが国の政府の国策の誤りということは明らかだと。この間(先週は)そういう説明をした」

 【10日の定例記者会見】

 (冒頭発言)

 「今日は東京大空襲からちょうど70年だ。10万人の方々が命を落としたといわれる。やはり、あれだけの犠牲を出したこと自体、わが国としてしっかりと胸に刻まなければならないし、国策の誤りを反映した結果だと思っている」

561とはずがたり:2015/04/08(水) 10:29:00
メルケルがこの前日本にやってきて偉そうに講釈垂れていたが,独逸も第二次大戦の精算が済んで居ないんじゃないか!?(笑)

其れは兎も角,ギリシャと独逸の間に正式な第二次大戦の決着を付ける条約的なものは結ばれていないのか?
>、欧州の複数の国の政府との合意の一部として1960年に支払われた賠償金や、1990年にかつての東西ドイツと連合国が調印した第2次世界大戦を正式に終結させる条約により、賠償問題は解決済みだとしている

ギリシャからの戦時賠償請求は「ばかげた話」、独副首相
http://www.afpbb.com/articles/-/3044789
2015年04月08日 08:11 発信地:ベルリン/ドイツ

【4月8日 AFP】ギリシャがドイツに対し、第2次世界大戦(World War II)の賠償として2780億ユーロ(約36兆円)以上の請求権があるとしていることについて、ドイツの副首相兼経済相は7日、戦時賠償の請求とギリシャのさらなる融資交渉を混同するのは「ばかげた話」だと一蹴した。

?ジグマル・ガブリエル(Sigmar Gabriel)独副首相兼経済・エネルギー相は、同日ドイツの首都ベルリン(Berlin)で開かれた行事で発言し、ナチス・ドイツ(Nazis)による4年に及ぶ非道なギリシャ占領に対しギリシャが賠償請求を行えば、巨額の債務を抱えるギリシャへの金融支援を継続していこうとする努力の進展を阻害するものでしかないと指摘した。

?さらにガブリエル氏は、ギリシャの返済能力を高めるためのギリシャと債権者との協議を「1ミリ」たりとも前進させるものではないとして、「正直に言って、ばかげた話だと思っている」と苦言を呈した。

?ギリシャの新しい急進左派政府は、自らの政策を遂行していく「余地」を確保しておきたい考えなのだとガブリエル氏はみており、「政策が転換されたこととそのための余地の確保は、第2次世界大戦やその時の賠償金の支払いとは一切関係がない」と断じた。

?今年1月に発足したばかりのギリシャ急進左派政府は戦時賠償を、解決を要する「倫理問題」と位置付けている。感情に訴え論争を巻き起こすこの問題を持ち出すことで、ギリシャはドイツに対する圧力を強めている。

?ギリシャの債務危機をめぐり、ギリシャとドイツとの間で意見対立が続く中、ナチスがギリシャを残虐かつ壊滅的な形で占領していた1941年からの4年間という痛ましい歴史の記憶が、改めて呼び覚まされてきた。

?ギリシャの財務副大臣が6日議会に対し、ドイツが負担すべき賠償額は2780億ユーロを超えると報告。これにはナチス占領軍によって強要された融資額およそ100億ユーロ(約1兆3000億円)も含まれている。

?ドイツ側は、欧州の複数の国の政府との合意の一部として1960年に支払われた賠償金や、1990年にかつての東西ドイツと連合国が調印した第2次世界大戦を正式に終結させる条約により、賠償問題は解決済みだとしている。(c)AFP/Kate Millar

562とはずがたり:2015/04/09(木) 12:44:54
>>561
ドイツが歴史の清算をちゃんとやってきたってのはやや美化しすぎで,ちゃんと体制内の枠組みにはめ込めれてただけだし,右翼がどっかで云ってたけど日本人は中韓と違って米ソの残虐行為に賠償を求めるような気質がないなんてのも東京大空襲への賠償を求める動きがあったし(アメリカを訴えたかったけどアメリカでは政府を訴えられない仕組みみたい)同じく嘘っぱちである。

ナチス戦後賠償は36兆円とギリシャ、独は否定
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150408-OYT1T50104.html
2015年04月09日 08時08分

 【ローマ=青木佐知子】ギリシャのマルダス副財務相は6日、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるギリシャ占領の損害賠償の推計額は2787億ユーロ(約36兆円)に上るとの見解を議会で明らかにした。

 緊縮財政と景気低迷にあえぐギリシャでは、財政規律を重視するドイツに対する国民の反発が高まっており、戦後賠償を求める動きが議会などで活発化。地元紙によると、銀行が強制された貸付金の返済分や占領下で生じた施設、個人に対する損害賠償だという。

 これに対し、ドイツは「賠償問題は法的に解決済み」との立場で、ガブリエル経済相は7日、「ばかげている」と述べ、ギリシャの訴えを否定した。

2015年04月09日 08時08分

563名無しさん:2015/04/11(土) 20:38:38
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150408-00000010-pseven-int
両陛下ご訪問のパラオ 親日国で国旗も日章旗に因むデザイン
NEWS ポストセブン 4月8日(水)7時6分配信

 日本の南3200kmに浮かぶ島国パラオを、天皇皇后両陛下が4月8日から慰霊に訪れる。この地は、ペリリューの戦いなど日米の激戦が繰り広げられ、約1万8000人が戦死した、太平洋戦争の大激戦地のひとつだ。

 世界屈指の美しい海に囲まれた島には、戦争の爪痕が今も数多く残されている。最後まで戦い抜いた日本将兵が籠もっていた戦闘壕。守備隊を率いた中川州男(くにお)大佐が自決した山頂の司令部壕。ジャングルに一歩足を踏み入れれば、不発弾や兵器の残骸が緑に埋もれている。兵器や基地の跡だけではない。パラオにはいまだ7000柱以上の日本兵の遺骨が眠っているのだ。

 第1次大戦後、委任統治を認められた日本政府は教育とインフラ整備に力を入れ、今日のパラオの基礎を作った。この地を計4度訪れたジャーナリストの井上和彦氏は「パラオの人たちはそのことに今も感謝している」と話す。

「日本に親近感を持っているためか、1994年に独立して国旗を決める際に、日本の国旗にちなんだデザインが住民投票で選ばれました」(井上氏)

 親日国家パラオ──英霊たちが眠る彼の地のことを、もう一度、思い起こす必要がある。

写真◆『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』(井上和彦著、PHP研究所)より

※週刊ポスト2015年4月17日号

564名無しさん:2015/04/11(土) 20:39:28
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150404-00000016-pseven-cn
日本人200人超虐殺の通州事件 中国指摘する南京事件と酷似
NEWS ポストセブン 4月4日(土)16時6分配信

 日本に対して、「歴史の直視」を訴える中国政府の急所は、自国の歴史認識に他ならない。1937年に北京郊外で発生した通州事件と1946年に吉林省で発生した通化事件。いずれも多くの日本の民間人が虐殺されたが、中国共産党は、現在に到るまで隠蔽し続けている。戦後70年の今年、中国は戦勝国としての「面子」と「立場」を盛んに強調するが、自国の戦争犯罪を検証できない国に未来はないとジャーナリストの櫻井よしこ氏は指摘する。

 * * *
 今年に入って中国が、日本に対して次々と「歴史カード」をきってきています。最近では、虐殺の事実を確認できない南京事件の犠牲者を「40万人」とまで言い始め、「日本兵の残忍さ」を世界中に宣伝しています。3月21日の日中韓外相会談でも中国の王毅外相は日本の岸田文雄外相に「歴史を直視せよ」と述べ、安倍政権を厳しく牽制しました。

 しかしこの言葉は、中国にこそ向けて発せられるべき言葉だと、私は思います。

 中国の地で日本人が及んだとされる残虐な行為のほとんどは根拠に乏しいからです。たとえば南京では「赤ん坊を空中に投げ、落下するところを剣で刺した」という話を中国政府は広めています。日本の先人たちが、その種の暴虐に及んだとは俄(にわか)には信じがたいのです。

 調べてみると、そうした蛮行はむしろ中国人が日本人に対して及んだ行為であることが分かってきました。日本ではなぜかあまり知られていませんが中国では日本人に対する虐殺事件が幾度も起きています。代表的な事例が1937年7月29日の通州事件です。

 通州事件では約400人の在留日本人のうち200数十人が虐殺されました。女性たちは辱められ、遺体を切り刻まれ、中国兵たちは切り落とした頭部で遊んだとさえいいます。首を固定して吊るされている人たちも目撃されました。彼らは食事も水も与えられず放置され、何日間もの長い間苦しんで死に至ったのでしょう。

 気付かれたでしょうか。これらは、南京で日本人が犯した残虐行為だと中国政府が主張するものと酷似しています。

 人間は、自分の行動や価値観に基づいて、他人の行動を推し量ろうとする生き物です。中国政府が、日本軍が南京で及んだと主張する行為には裏付けがない。それどころか、日本人の犯罪を後からでっちあげるべく、自らの過去の蛮行を参考にした可能性があるのです。その一つが通州事件だったと私は考えています。

 通州事件は中国人の民族性の一端を表していますが、それは100年や200年のスパンで築かれたわけではありません。紀元前500年から紀元1000年までの約1500年の中国の歴史を、北宋の学者・政治家だった司馬光がまとめた『資治通鑑』という歴史書があります。

 1万ページに及ぶこの大著の中に中国人が長い歴史のなかですさまじい拷問を編み出し、政敵や反逆者たちへの罰として、繰り返してきたことが書かれています。中国では刑は残酷であることをもって是とされ、捕らえた者をより多く、より長く苦しませなければ、逆に刑吏が罰せられました。通州事件で日本人が受けた残虐な行為は、いずれも同書に繰り返し繰り返し登場する刑罰そのものでした。

 そうした民族性は、戦後も綿々と受け継がれました。 『資治通鑑』を17回も読んだとされる毛沢東は、大躍進政策で約2000万人の農民を餓死させ、文化大革命で3000万人以上の知識人や富裕層を死に追いやりました。

 現在も、反政府の活動家や中国共産党内の不満分子に対して、人を人とも思わないようなすさまじい拷問が繰り広げられている、国家主席をはじめとする中国の指導者層は、同書に書かれていた恐怖政治を体制安定のために敷いているのです。

※SAPIO2015年5月号

565とはずがたり:2015/04/27(月) 22:53:55
与党中にやっとくべきだったよなぁ

民主党:「反軍演説」復活働きかけへ
http://mainichi.jp/select/news/20150424k0000m010052000c.html
毎日新聞 2015年04月23日 20時38分(最終更新 04月23日 21時39分)

 民主党の長妻昭代表代行は23日の記者会見で、戦前の帝国議会で軍国主義に反対した「反軍演説」など議事録から削除され非公開になっている部分の公開に向け、衆院議院運営委員会で各党に働きかける考えを示した。自民党が社民党の福島瑞穂副党首の「戦争法案」発言の修正を求めた動きを念頭に、「野党が声を上げないと自由の範囲が狭くなる危機感がある」と懸念を表明した。

 衆院記録部によると、反軍で知られた戦前の政治家、斎藤隆夫(1870?1949年)が帝国議会で40年に日中戦争への疑問を表明した「支那事変処理に関する質問演説」(反軍演説)の削除部分を含む12件が非公開になっている。これらの議事録は95年に公開を検討したが、見送られたという。

566名無しさん:2015/05/03(日) 15:07:39
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1061910652/643
ブラジルでひっそりと逝った「明治天皇の孫」〈週刊新潮〉
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 4月29日(水)8時1分配信

 ブラジルに日本人移民が初めて到着したのは、1908年のこと。以来、移民は戦前に19万人弱、戦後に5万人余を数えるが、中には明治天皇の孫もいた。

 4月15日、サンパウロの自宅で逝去した多羅間(たらま)俊彦さんがそのお方だ。享年86。

 1929年、後に首相を務めた東久邇宮稔彦(なるひこ)王の四男として誕生。母親は明治天皇第九皇女の聰子内親王。つまり明治天皇の孫で昭和天皇の従弟にあたる。

 47年10月、秩父、高松、三笠の三直宮(じきみや)を除く11宮家、51人が皇籍を離脱。俊彦さんは慶應義塾大学法学部を卒業後、51年に元サンパウロ総領事の多羅間鉄輔さんの未亡人で、広大なコーヒー園を持つキヌさんの養子になり、ブラジルに渡った。

 俊彦さん本人は、小誌に〈皇籍を剥奪されても、特に何も感じませんでした。これでようやく身軽になれると思いました〉などと当時を振り返っている。

 皇籍を離れ、一農民になる意志で移民になったのに、ブラジルの日本人社会は天孫降臨だと大騒ぎで迎えた。

「日本人同士で敗戦を信じない『勝ち組』と『負け組』の対立がありましたから、元皇族が移民で来たことで、本当に負けたと悲しむ人もいたそうです」(ブラジルに詳しいジャーナリスト)

 コーヒー園の経営の後、外国からブラジルに進出する企業向けの不動産業を手がけた。沖縄出身の移民の娘と現地で結婚、1男を授かる。迷わずブラジルに帰化、普段はポルトガル語を使う。

「腰が低く、日系人の親睦会のまとめ役をなさったりして、尊敬を集めていた」(同)

 2008年、皇太子殿下のブラジル御訪問の際には、懇談の席で「両陛下からよろしくとのことでした」とお言葉を賜っている。

 日本よりブラジルが落ち着くと言いながらも、皇室の慶弔に礼を尽くしてきた。

※「週刊新潮」2015年4月30日号

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567名無しさん:2015/05/03(日) 15:14:54
>>566
>首相を務めた東久邇宮稔彦(なるひこ)王

東久邇宮稔彦王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B

第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。
東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。

1915年(大正4年)に予定通り明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)からフランスに留学。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ広く学んだ。そして、後述するように、この留学時代、フランスの自由な気風に馴染み、クロード・モネやクレマンソーと親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。

日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入にはきわめて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部というポジションにもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。
1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇と会談した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、明治憲法の枠を越してでも天皇の大権によって陸軍の暴走を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、英国訪問時に感銘を受けた立憲君主制への拘りから、昭和天皇には宮の助言は届かなかったという。

米軍占領直後には「終戦」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸軍大臣に国民の混乱を防ぎ、時局収拾を円滑にするため「終戦」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。
当時は、まだ制度上は帝国内閣だったにも関わらず、東久邇宮は国民の意見を国政に反映したいと考え「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。参考としたい」と呼びかけたという。すると毎日数百通に上る国民からの手紙が舞い込んできたという。

568名無しさん:2015/05/03(日) 16:51:14
>>555
>>567
統帥権干犯問題って、
濱口雄幸内閣に対して、野党・政友会の犬養毅と鳩山一郎が、
ある意味党利党略のために、統帥権干犯論を利用して、
「批判のための批判」をしたことが、きっかけだったんですね。
五・一五事件で軍部に犬養が殺されたのは皮肉だ。

統帥権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
濱口雄幸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8
犬養毅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
鳩山一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E
森恪
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA
佐郷屋留雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%83%B7%E5%B1%8B%E7%95%99%E9%9B%84
藩閥
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E9%96%A5

569とはずがたり:2015/05/04(月) 07:08:52
>>567
おお,俺も,2,3日前たまたまなんか調べてて東久邇宮稔彦王に辿り着いたところでした♪

治安維持法の廃止とかGHQに迫られて国体が維持出来ないと直ぐに内閣を投げ出して総辞職した印象だったのでもっと皇室出身でごりごりの人物かと思ってたけど自由主義者だったんですねぇ。

571名無しさん:2015/05/16(土) 23:13:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150513-00010000-bjournal-soci
歴史認識で知日派研究者187人が声明 安倍首相は忠告を受け入れられるか?
Business Journal 5月13日(水)6時1分配信

 米国を中心とした日本研究者、歴史学者ら187人が連名で、日本側の歴史認識を憂慮する「日本の歴史家を支持する声明」と題する文書が公表された。

 署名者の中には、『ジャパン・アズ・ナンバー1』で知られる社会学者のエズラ・ヴォーゲル(ハーバード大名誉教授)、日本近代史が専門で『敗北を抱きしめて』などを書いたジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)、日本の経済や社会構造を専門に研究しているイギリスの社会学者ロナルド・ドーア(ロンドン大名誉教授)ら、著名な知日派学者も含まれている。

●知日派からの愛ある忠告

 書面は「戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察犬の節度ある運用と、政治的な寛容さ」「科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきた」点を称賛したうえで、歴史認識、とりわけ慰安婦問題について、昨今の日本から発せられる主張に強い懸念を示している。

 慰安婦制度については、(1)その規模の大きさ、(2)軍による組織的な監理が行われた点、(3)植民地と占領地から貧しく弱い立場の女性を搾取した――という点で、戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春の中でも、「特筆すべきもの」と指摘。「強制連行はなかった」という点を強調し、あたかも朝鮮半島で女性たちが自発的に慰安婦になったかのような主張に対しては、「大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、すでに資料と証言が明らかにしている」として、被害者が受けた残忍な行為から目を背けないよう、たしなめている。

 この文書が重い意味を持つのは、いわゆる「反日」的な人たちからではなく、日本に好意を持ち、日本をよく知る専門家から出されているからだ。書面の冒頭には、「私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります」と、“日本愛”が吐露されている。アメリカで奴隷制度を廃止した後も今なお人種差別が残っていることや、欧米を含めた人種差別や植民地支配についても言及されていて、決して「上から目線」で日本を非難している内容ではない。

 しかも、慰安婦問題をめぐっては、「日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにもゆがめられてきました」として、日本だけに問題があるわけではないことも、明記している。この声明は英語と日本語で発せられているが、できれば韓国語と中国語のヴァージョンも発表してもらいたいと思う。

572名無しさん:2015/05/16(土) 23:14:03
>>571
●現政権による出版社や記者への圧力

 書面全体から強く伝わってくるのは、日本に対する「批判」より、「懸念」「心配」「落胆」と、それでも捨てきれない「好意」「願望」「期待」だ。

 こうした知日派の意見が今の時期に発せられたのは、過去の日本の「侵略」を認める発言を避け続ける安倍晋三首相の歴史認識への懸念や、この夏に出される戦後70年の首相談話への関心が高まっていることに加え、日本政府の歴史認識に関する対外発信のやり方に対する違和感が強まっているからだろう。

 例えば、日本の外務省は昨年11月、米国の高校向けの教科書に慰安婦についての誤った記載があるとして、出版社に訂正を求めた。米国では、日本の教科書検定制度のように国が教科書に関与する制度はないため、この訂正要求は「国家による出版に対する圧力」と受け止められた。今年に入ってから、ウォールストリート・ジャーナルなどの有力紙が、日本政府に批判的にこの問題を報じている。3月には、米歴史学者らが日本政府を批判する声明を発している。

 この問題については、その後、日本の歴史学者らが、誤った記載を指摘し訂正を求める要求を出版社に行っている。このように、間違いがあれば、学者同士の議論の中で正されるのが望ましい。いきなり政府が要求を突きつけたことは、出版や学問の場に権力がずかずかと踏み込んでくる印象を強く与えたに違いない。

 こうしたやり方は、米国においては逆効果であり国益に反する結果を招くと駐米外交官がわからないはずはないだろう。それでも抗えないほど首相官邸の指示が強力なのか。それとも日本の外交官の主体的判断力が著しく低下しているのか。あるいは、その両方なのか……。

 現政権は、欧米のメディアに対しても積極的に“意見表明”を行っているようだ。

 4月には、日本に滞在する海外メディアの特派員らで作る日本海外特派員協会の機関誌に、5年間の東京勤務を終えて帰国する独フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイツゥング紙のカーステン・ゲルミス氏が寄せた手記が話題になった。ゲルミス氏も、「私のこの国への愛情は募るばかりだ」と述べたうえで、日本の政府が海外メディアに対して閉鎖的になっている一方で、批判的な報道に対して高圧的な対応をとるとして、次のような経験を書いている。

573名無しさん:2015/05/16(土) 23:14:19
>>572
「私が安倍政権の歴史修正主義に批判的に書いた記事が掲載されると、フランクフルトの日本総領事が、新聞本紙の外交担当のデスクを訪ねてきて、『東京』からの異議を伝えた。中国がこの記事を反日プロパガンダに利用していると抗議したのだ。

 冷え切った90分間の会談の終わりに、デスクは記事が間違えているという事実を証明する情報を総領事に求めたが、それは無駄に終わった。『金が絡んでいると疑わざるを得ない』と外交官は言った。それは、私を、デスクを、そして新聞社全体を侮辱することにほかならない。そして、私の記事の切り抜きのフォルダーを引き出しながら、『中国のプロパガンダ記事を書く必要があるとは、ご愁傷様ですな』と続けた。私がビザ申請の承認を得るためにその記事を書く必要があったらしいと考えているようだった。

 私が? 北京の雇われスパイだって? そこに行ったこともなければ、ビザの申請をしたこともないというのに」(編註:日本語版原文ママ)

 このような対応で、記者や新聞社の論調を変えることができると政府が考えているとしたら、愚かなことだ。

●安倍首相は忠告に耳を傾けるか

 しかし安倍首相自身は、このような手法によるマイナス面には、まったく目を向けないようである。1月29日の衆院予算委員会で、先の米国の教科書の問題について問われると、「主張すべき点をしっかりと主張してこなかった結果、このような教科書が米国で使われている」と述べ、「国際社会においては、決してつつましくしていることによって評価されることはないわけでありまして、主張すべき点はしっかりと主張していく」と意気軒昂だ。

 ところで、米国の大学やシンクタンクでは、中国に対する関心が高まる一方で、日本研究の衰退が著しいという。これが米政権にも影響を与えているのではないかという危機感から、安倍首相は今回の訪米で、ハーバード大、マサチューセッツ工科大、スタンフォード大と相次いで大学を訪問して講演を行った。さらに日本研究への支援のため、マサチューセッツ工科大とコロンビア大、ジョージタウン大に対して、政府予算から約16億円を拠出することを明らかにした。

 日米政府だけでなく、国民同士の理解を深めるためにも、日本をよく知る専門家は大切な存在だ。知日派の研究者を増やしていく努力は必要だろう。ただ、そうであればなおのこと、日本の最もよい理解者である人たちの忠告には、真摯に耳を傾ける必要があるのではないか。

 今回、知日派研究者らが出した書面は、安倍首相の体面にも、十分に配慮している。安倍首相が米国議会での演説の中で、「人権」や「アジア諸国民に苦しみを与えた事実」に触れたことを高く評価。「過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる」ことへの期待が述べられている。

 書面は発表前に、首相官邸にも届けられた、とのことだ。友人たちからの心のこもった忠告は、安倍首相の心に届くのだろうか……。

江川紹子/ジャーナリスト

574名無しさん:2015/05/16(土) 23:16:23
http://www.asahi.com/articles/ASH575KGGH57UHBI01Y.html
日本の歴史家を支持する声明(全文)
2015年5月7日21時22分

 米国の歴史研究者らが公表した声明の全文は次の通り。(原文のまま)

     ◇

 日本の歴史家を支持する声明

 下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。

 また、この声明は戦後70年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに70年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。

 しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。

 元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりすることも、また受け入れることはできません。20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。

 「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなりの部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘されていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。

 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。

 歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。

 日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。

575名無しさん:2015/05/16(土) 23:16:51
>>574

 多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいことです。第2次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに40年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに1世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。

 今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、第2次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するようなことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事実です。しかし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。

 今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。4月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。

 過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。

 私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。

576名無しさん:2015/05/16(土) 23:17:15
>>575

署名者一覧(名字アルファベット順)

ダニエル・オードリッジ(パデュー大学教授)

ジェフリー・アレクサンダー(ウィスコンシン大学パークサイド校准教授)

アン・アリソン(デューク大学教授)

マーニー・アンダーソン(スミス大学准教授)

E・テイラー・アトキンズ(北イリノイ大学教授)

ポール・バークレー(ラファエット大学准教授)

ジャン・バーズレイ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)

ジェームズ・R・バーソロミュー(オハイオ州立大学教授)

ブレット・ド・バリー(コーネル大学教授)

マイケル・バスケット(カンザス大学准教授)

アラン・バウムラー(ペンシルバニア・インディアナ大学教授)

アレキサンダー・ベイ(チャップマン大学准教授)

テオドル・ベスター(ハーバード大学教授)

ビクトリア・ベスター(北米日本研究資料調整協議会専務理事)

ダビンダー・ボーミック(ワシントン大学准教授)

ハーバート・ビックス(ニューヨーク州立大学ビンガムトン校名誉教授)

ダニエル・ボツマン(イェール大学教授)

マイケル・ボーダッシュ(シカゴ大学教授)

トマス・バークマン(ニューヨーク州立大学バッファロー校名誉教授)

スーザン・L・バーンズ(シカゴ大学准教授)

エリック・カズディン(トロント大学教授)

パークス・コブル(ネブラスカ大学リンカーン校教授)

ハルコ・タヤ・クック(ウイリアム・パターソン大学講師)

セオドア・クック(ウイリアム・パターソン大学教授)

ブルース・カミングス(シカゴ大学教授)

カタルジナ・シュエルトカ(ライデン大学教授)

チャロ・ディエチェベリー(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)

エリック・ディンモア(ハンプデン・シドニー大学准教授)

ルシア・ドルセ(ロンドン大学准教授)

ロナルド・P・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス名誉フェロー)

ジョン・W・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)

マーク・ドリスコル(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)

プラセンジット・ドアラ(シンガポール国立大学教授)

アレクシス・ダデン(コネチカット大学教授)

マーティン・デューゼンベリ(チューリッヒ大学教授)

ピーター・ドウス(スタンフォード大学名誉教授)

スティーブ・エリクソン(ダートマス大学准教授)

エリサ・フェイソン(オクラホマ大学准教授)

ノーマ・フィールド(シカゴ大学名誉教授)

マイルズ・フレッチャー(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)

ペトリス・フラワーズ(ハワイ大学准教授)

ジョシュア・A・フォーゲル(ヨーク大学教授)

セーラ・フレドリック(ボストン大学准教授)

デニス・フロスト(カラマズー大学准教授)

サビーネ・フリューシュトゥック(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

ジェームス・フジイ(カリフォルニア大学アーバイン校准教授)

タカシ・フジタニ(トロント大学教授)

シェルドン・M・ガロン(プリンストン大学教授)

ティモシー・S・ジョージ(ロードアイランド大学教授)

クリストファー・ガータイス(ロンドン大学准教授)

キャロル・グラック(コロンビア大学教授)

アンドルー・ゴードン(ハーバード大学教授)

ヘレン・ハーデーカー(ハーバード大学教授)

ハリー・ハルトゥニアン(ニューヨーク大学名誉教授)

長谷川毅(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

橋本明子(ピッツバーグ大学教授)

サリー・ヘイスティングズ(パデュー大学准教授)

トム・ヘイブンズ(ノースイースタン大学教授)

早尾健二(ボストンカレッジ准教授)

ローラ・ハイン(ノースウェスタン大学教授)

ロバート・ヘリヤー(ウェイクフォレスト大学准教授)

マンフレッド・ヘニングソン(ハワイ大学マノア校教授)

クリストファー・ヒル(ミシガン大学助教授)

平野克弥(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)

デビッド・ハウエル(ハーバード大学教授)

ダグラス・ハウランド(ウィスコンシン大学ミルウォーキー校教授)

ジェムス・ハフマン(ウイッテンバーグ大学名誉教授)

ジャネット・ハンター(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス教授)

入江昭(ハーバード大学名誉教授)

577名無しさん:2015/05/16(土) 23:17:38
>>576

レベッカ・ジェニスン(京都精華大学教授)

ウィリアム・ジョンストン(ウェズリアン大学教授)

ジャン・ユンカーマン(ドキュメンタリー映画監督)

イクミ・カミニシ(タフツ大学准教授)

ケン・カワシマ(トロント大学准教授)

ウィリアム・W・ケリー(イェール大学教授)

ジェームス・ケテラー(シカゴ大学教授)

ケラー・キンブロー(コロラド大学ボルダー校准教授)

ミリアム・キングスバーグ(コロラド大学助教授)

ジェフ・キングストン(テンプル大学ジャパン教授)

ヴィキター・コシュマン(コーネル大学教授)

エミ・コヤマ(独立研究者)

エリス・クラウス(カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授)

ヨーゼフ・クライナー(ボン大学名誉教授)

栗山茂久(ハーバード大学教授)

ピーター・カズニック(アメリカン大学教授)

トーマス・ラマール(マギル大学教授)

アンドルー・レビディス(ハーバード大学研究員)

イルセ・レンツ(ルール大学ボーフム名誉教授)

マーク・リンシカム(ホーリークロス大学准教授)

セップ・リンハルト(ウィーン大学名誉教授)

ユキオ・リピット(ハーバード大学教授)

アンガス・ロッキャー(ロンドン大学准教授)

スーザン・オルペット・ロング(ジョンキャロル大学教授)

ディビッド・ルーリー(コロンビア大学准教授)

ヴェラ・マッキー(ウーロンゴン大学教授)

ウォルフラム・マンツェンライター(ウィーン大学教授)

ウィリアム・マロッティ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)

松阪慶久(ウェルズリー大学教授)

トレント・マクシー(アマースト大学准教授)

ジェームス・L・マクレーン(ブラウン大学教授)

ガビン・マコーマック(オーストラリア国立大学名誉教授)

メリッサ・マコーミック(ハーバード大学教授)

デイビッド・マクニール(上智大学講師、ジャーナリスト)

マーク・メッツラー(テキサス大学オースティン校教授)

イアン・J・ミラー(ハーバード大学教授)

ローラ・ミラー(ミズーリ大学セントルイス校教授)

ジャニス・ミムラ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校准教授)

リチャード・マイニア(マサチューセッツ州立大学名誉教授)

中村美理(ウェズリアン大学准教授)

ユキ・ミヤモト(デポール大学准教授)

バーバラ・モロニー(サンタクララ大学教授)

文有美(スタンフォード大学准教授)

アーロン・ムーア(マンチェスター大学准教授)

テッサ・モーリス=スズキ(オーストラリア国立大学教授)

オーレリア・ジョージ・マルガン(ニューサウスウェールズ大学教授)

リチャード・タガート・マーフィー(筑波大学教授)

テツオ・ナジタ(シカゴ大学名誉教授)

ジョン・ネイスン(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

クリストファー・ネルソン(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)

サトコ・オカ・ノリマツ(『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター)

マーク・ノーネス(ミシガン大学教授)

デビッド・桃原・オバミラー(グスタフ・アドルフ大学准教授)

尾竹永子(ウエズリアン大学特別講師、アーティスト)

サイモン・パートナー(デューク大学教授)

T・J・ペンペル(カリフォルニア大学バークレー校教授)

マシュー・ペニー(コンコルディア大学准教授)

サミュエル・ペリー(ブラウン大学准教授)

578名無しさん:2015/05/16(土) 23:17:50
>>577

キャサリン・フィップス(メンフィス大学准教授)

レスリー・ピンカス(ミシガン大学准教授)

モーガン・ピテルカ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校准教授)

ジャネット・プール(トロント大学准教授)

ロジャー・パルバース(作家・翻訳家)

スティーブ・ラブソン(ブラウン大学名誉教授)

ファビオ・ランベッリ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

マーク・ラビナ(エモリー大学教授)

シュテフィ・リヒター(ライプチヒ大学教授)

ルーク・ロバーツ(カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

ジェニファー・ロバートソン(ミシガン大学教授)

ジェイ・ルービン(ハーバード大学名誉教授)

ケネス・ルオフ(ポートランド州立大学教授)

ジョルダン・サンド(ジョージタウン大学教授)

ウエスリー・佐々木・植村(ユタ州立大学准教授)

エレン・シャッツナイダー(ブランダイス大学准教授)

アンドレ・シュミット(トロント大学准教授)

アマンダ・C・シーマン(マサチューセッツ州立大学アマースト校准教授)

イーサン・セーガル(ミシガン州立大学准教授)

ブォルフガング・ザイフェルト(ハイデルベルク大学名誉教授)

マーク・セルデン(コーネル大学上級研究員)

フランツイスカ・セラフイン(ボストンカレッジ准教授)

さゆり・ガスリー・清水(ライス大学教授)

英子・丸子・シナワ(ウィリアムス大学准教授)

パトリシア・スイッペル(東洋英和女学院大学教授)

リチャード・スミスハースト(ピッツバーグ大学名誉教授)

ケリー・スミス(ブラウン大学准教授)

ダニエル・スナイダー(スタンフォード大学アジア太平洋研究センター副所長)

M・ウイリアム・スティール(国際基督教大学教授)

ブリギッテ・シテーガ(ケンブリッジ大学准教授)

ステファン・タナカ(カリフォルニア大学サンディエゴ校教授)

アラン・タンスマン(カリフォルニア大学バークレー校教授)

セーラ・タール(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)

マイケル・ティース(カリフォルニア大学ロサンゼルス校准教授)

マーク・ティルトン(パデュー大学准教授)

ジュリア・トマス(ノートルダム大学准教授)

ジョン・W・トリート(イェール大学名誉教授)

ヒトミ・トノムラ(ミシガン大学教授)

内田じゅん(スタンフォード大学准教授)

J・キース・ヴィンセント(ボストン大学准教授)

スティーブン・ブラストス(アイオワ大学教授)

エズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学名誉教授)

クラウス・フォルマー(ミュンヘン大学教授)

アン・ウォルソール(カリフォルニア大学アーバイン校名誉教授)

マックス・ウォード(ミドルベリー大学助教授)

ローリー・ワット(ワシントン大学(セントルイス)準教授)

ジェニファー・ワイゼンフェルド(デューク大学教授)

マイケル・ワート(マルケット大学准教授)

カレン・ウイゲン(スタンフォード大学教授)

山口智美(モンタナ州立大学准教授)

山下サムエル秀雄(ポモナ大学教授)

ダーチン・ヤン(ジョージ・ワシントン大学准教授)

クリスティン・ヤノ(ハワイ州立大学マノア校教授)

マーシャ・ヨネモト(コロラド大学ボルダー校准教授)

米山リサ(トロント大学教授)

セオドア・ジュン・ユウ(ハワイ大学准教授)

吉田俊(西ミシガン大学教授)

ルイーズ・ヤング(ウィスコンシン大学マディソン校教授)

イヴ・ジマーマン(ウェルズリー大学准教授)

ラインハルト・ツェルナー(ボン大学教授)

この声明は、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会のなかの公開フォーラムと、その後にメール会議の形で行われた日本研究者コミュニティ内の広範な議論によって生まれたものです。ここに表明されている意見は、いかなる組織や機関を代表したものではなく、署名した個々の研究者の総意にすぎません。

579名無しさん:2015/05/24(日) 20:05:14
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150522-00000024-asahi-pol
ポツダム宣言「本当に読んでないようだ」 志位氏が皮肉
朝日新聞デジタル 5月22日(金)8時36分配信

 「事実誤認がある。本当に読んでいなかったことがうかがえる」。共産党の志位和夫委員長は21日の記者会見で、安倍晋三首相が20日の党首討論の際、第2次世界大戦で米・英・中の三国が日本に降伏を勧告したポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」と答弁したことについて、こんな皮肉を飛ばした。

 志位氏は、自民党幹事長代理だった首相が月刊誌「Voice」2005年7月号の対談で、「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ」と語っていたと指摘。だが、宣言は1945年7月26日に米英中の名で発表され、同8月6日と9日の原爆投下後、日本が同14日に受諾を決定した。志位氏は「(宣言は)二つ原爆が落ちた後に『たたきつけられた』ものではない。事実誤認がある」と述べた。

 20日の党首討論では、志位氏がポツダム宣言について「日本の戦争について世界征服のための戦争であったと明瞭に判定している。総理はこのポツダム宣言の認識を認めないのか」と質問。首相は直接答えず、「その部分をつまびらかに読んでいないので、直ちに論評することは差し控えたい。先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがある」と述べていた。

朝日新聞社

580とはずがたり:2015/05/25(月) 12:55:05

「大戦の結果ロシア領」根拠ない…菅長官が反論
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150520-OYT1T50122.html?from=yartcl_outbrain1
2015年05月20日 21時11分
 菅官房長官は20日の記者会見で、ロシアのラブロフ外相が北方領土が第2次大戦の結果としてロシア(旧ソ連)領になったと述べたことについて、「日露間において第2次世界大戦の結果は確定しておらず、ロシア側の主張に根拠はない。米国も日本の立場を支持しており、北方領土に対する日本の主張を認めていると認識している」と不快感を示した。


 日本と旧ソ連は1956年に「日ソ共同宣言」に調印し、戦争状態を終結させたが、北方領土問題は解決できなかった。菅氏は「領土問題の全面的解決が困難であったために、平和条約の締結交渉を継続することとし、日ソ共同宣言という国際約束が締結された。そういう意味で、日露間で第2次大戦の結果は確定していない」と述べ、ラブロフ氏の主張に反論した。

2015年05月20日 21時11分

581名無しさん:2015/06/07(日) 17:04:15
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150603-00050110-yom-soci
陛下「深い痛恨」大戦に言及…歓迎の宮中晩餐会
読売新聞 6月3日(水)22時52分配信

 国賓として来日したフィリピンのアキノ大統領を歓迎する天皇、皇后両陛下主催の宮中晩餐会(ばんさんかい)が3日夜、皇居・宮殿で開かれた。

 天皇陛下は冒頭のあいさつで、先の大戦時にフィリピンで多くの国民が犠牲となったことに触れ、「私ども日本人が深い痛恨の心と共に長く忘れてはならないことであり、戦後70年を迎える本年、犠牲者へ深く哀悼の意を表します」と述べられた。

 これに対し、アキノ大統領は「過去に経験した痛みや悲劇は、相互尊重や尊厳に根ざした関係構築に努めるという貴国の約束によって癒やされてきました」と英語でスピーチした。

 フィリピンの国賓を迎えた晩餐会は平成に入って3回目で、陛下が戦争被害に言及されたのは初めて。

 晩餐会には、皇太子、秋篠宮両ご夫妻や安倍首相ら149人が出席。昨年12月に20歳となった秋篠宮ご夫妻の次女佳子さまも初めて出席し、笑顔で乾杯された。皇太子妃雅子さまも昨年10月に続いて晩餐会に出席され、会場は華やいだ雰囲気に包まれた。

最終更新:6月4日(木)9時15分

582名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:32
http://blogos.com/article/115859/
幻冬舎plus2015年06月10日 06:00「日本人難民」という戦後史の闇第5回 - 日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉 - 井上卓弥

今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
?本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。

?郭山疎開隊をはじめ、大戦後の混乱のなかで朝鮮半島の北部に放置された日本人は、世界史のなかでもまれにみる悲惨な難民生活を強いられました。しかし、1949年に刊行されてベストセラーとなった『流れる星は生きている』(藤原てい著)などを除いて、これまでその史実が語られ、検証されることは、ほとんどありませんでした。
?本書の著者・井上卓弥さんは、戦争取材や難民取材など国際報道に携わったジャーナリストであり、また郭山疎開隊の「当事者」でもありました。

*?*?*

?この本に登場する井上寅吉と喜代の長女、泰子は、私の父で井上家の長男、昌平の姉である。つまり私にとって伯母になる。喜代は私の祖母にあたり、泰子にとって私は甥になる。伯母は結婚して長谷部姓となり、両親と同じく小、中学校の教壇に立った。退職後、戦後五十年にあたる一九九五年、手記『北朝鮮・郭山への墓標』を自費出版し、父母と私、三つ下の妹あてに一冊ずつ送ってくれた。私は当時、新聞社に入社して五年目だった。

?のちに知ったことだが、その手記は祖母、喜代が戦後間もない四七年に手書きの原稿用紙一〇〇枚にまとめて製本した『新京(満洲国)より終戦時北鮮に疎開して』を下敷きにして、伯母らの体験や思いが書き加えられていた。二〇〇五年には、父昌平が満洲に戻った一家の引き揚げまでの苦闘も含めて自伝『追想のわが来し方』を著した。

?父が保管していた祖母の手記とともに、父の半生記を読み終えた時、私は「当事者」になっていた。家族の歴史を何らかのかたちで残すことは、八五歳になる伯母との二十年越しの約束になっていたのかもしれない。

?日本に引き揚げてから建てた家の庭に、祖父母は離れをつくり、近所の子どもたちを集めて小さな書道教室をはじめた。私と妹も習いに行ったが、教室での祖母は厳しい先生だった。常に身近にいた祖母と祖父は、私が高校在学中の一九八一年に相次いでこの世を去った。孫の私に満洲や北朝鮮の話をすることはなかった。

?それだけに、伯母の手記で初めて知った飢餓地獄の事実は重かった。それなりに幸せに暮らしている自分の家族は半世紀ほど前にこんな恐ろしい体験をし、それでも何とか命をつないで日本に帰ってきていた。叔父にあたる末弟は満洲の地で亡くなった。もし父が同じような目に遭っていたら、私たちきょうだいはこの世に生まれて来なかった。

?その後、国際報道に携わった私は、紛争や難民受け入れの現場に立つ機会を得た。最初は九九年、旧ユーゴスラビア・コソボ紛争のアルバニア系難民の取材だった。国境を越えて隣国アルバニアに逃れてくる難民の姿が、半世紀前の家族に重なって見えた。しかし、近年に至るまで、先の大戦に伴って満洲から北朝鮮に疎開した日本人の記録はほとんど見当たらなかった。日頃の大々的な難民報道に比べても、明らかに悲惨な状況に置かれた北朝鮮の日本人難民たちの証言がなぜ表に出て来ないのかと、もどかしい思いにとらわれた。

?二〇一〇年代に入ると、当時を知る人々が次々に亡くなりはじめた。政治・外交交渉に期待を見いだせず、民間の独自ルートを通じて北朝鮮への墓参が動きだした。

583名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:43
>>582

?一四年一月、偶然チャンネルを合わせたBS ― TBSの二時間特集番組に引き込まれた。番組の最後になって、予想しなかった地名「郭山」が初めて現れた。疎開隊の名簿は、私の故郷を遠く離れた九州の地で保管されていた。東京周辺でそれなりに問いかけてきたにもかかわらず、反応を得られなかったわけも納得できた。私のなかで歯車がカチッと音を立てて?み合い、二十年近くも揺るがなかった厚い壁が一気に崩れた。「当事者」として行動しなければならないと思った。

一人の視聴者としてTBS「報道特番」にメールを送り、祖母が書き残した「一三班」の名簿の確認をお願いした。ほどなく宮本晴代ディレクターから返信をいただいた。

「昨夜、郭山疎開隊員名簿を見ましたところ、一三班のところに確かに井上さんご一家のお名前があり、ボロボロの紙を持つ指先が震えました。あの名簿の持つ重みを、改めて認識させられたような気が致します」。番組に出演した鹿児島県在住の田中友太郎さんは私の面会の願いを聞き入れてくれた。持参した伯母の手記も読み、事情を理解してくださった。

?田中さんの紹介で福岡県在住の扇京一さん、熊本県在住の白石ヤス子さん、中尾(田中)陽子さんとお会いできた。私の家族が言葉を交わしたかもしれない方々である。故松本健次郎さんの妻幸子さんにも話をうかがった。私が「当事者」であることを知った扇さんは、七十年近く大事に保管してきた二冊の「郭山避難民団の記録」のファイルを妻サカヘさんに託し、手紙を添えて送ってくださった。

?松本さんの手による「疎開日誌?其ノ二」の最初のページには、祖母のそばで亡くなった木幡とも子さんを含む三人の仮葬の記録が正確に書き込まれていた。のちにお会いした白石さんは、祖母の手記を繰りながら病室の場面で手を止め、小さく声を上げた。「脊椎(せきつい)カリエスの女性……。これ、私だ!」。手記の内容は裏付けられた。

?この本のなかでやってきたのは、一〇〇〇人超の郭山疎開隊のうち、北緯三八度線を越えて日本に引き揚げたほぼ半数の「南下班」と満洲に戻ったやはり半数の「北上者」の間に横たわる歳月と距離を乗り越えて、全体をつなぎ直す作業だったかもしれない。


?井上さんは本書「終章」の最後で、次のように綴ります。


?郭山疎開隊を引率し、本書に記したような詳細な記録を残した満洲国経済部官吏一〇人のうち、すに八人はこの世にいない。残留班を率いて最後に三八度線を越えた山谷橘雄(やまやきつお)医師も二〇一三年に他界している。朝鮮北部の日本人が「難民」として辛酸を嘗(な)め尽くした被害者としての記録は、今、日本の現代史のなかにきちんと位置づけておかなければ、永遠に消え去ってしまうだろう。そして遠からず、また同じような被害がくり返されることを危惧する。

?それはまた、昨今の靖國神社公式参拝の是非をめぐる議論からはじかれ、やはり置き去りにされようとしている民間人被害者の存在を再認識することにもなるはずである。その認識こそが、唯一の本土決戦を経験した沖縄はもとより、原爆投下や無差別空襲によって、国内外を問わず無数の民間人が犠牲となった先の大戦の本質を捉えることにつながるものと信じたい。

*?*?*

?作家の半藤一利さんは本書を読み、「国に棄てられた人々の過酷な運命に、驚き、涙し、憤った。戦後70年の今、この悲劇に光が当てられた意義は、はかりしれなく大きい」というコメントをお寄せくださいました。
『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』をぜひお読みいただけると幸いです。

584名無しさん:2015/06/14(日) 21:35:57
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150609-00000026-rcdc-cn
イタリアの戦争指導者は公開処刑されたが、日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ首相や閣僚が参拝している―千葉大教授が批判
Record China 6月9日(火)9時57分配信

2015年6月4日、石田憲・千葉大教授が「戦後70年」と題して講演し、イタリアと日本の戦中・戦後について解説し、記者の質問に答えた。日独伊枢軸体制は、3カ国がともに後発帝国主義国であり、利害関係で結びついた「病」としてのファシズムだった、と指摘。広場で処刑された独裁者ムッソリーニらイタリアの戦争指導者と異なり、「日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ、祀られている靖国神社に首相や閣僚が参拝している」と批判した。

戦前の日独伊枢軸体制は、3カ国がともに後発帝国主義国だったことと関係する。(理念のない)利害関係で結びついた「病」としてのファシズムであり、3国それぞれの思惑が異なっただけでなく相互不信を深めつつ、背反する利益追求へと走った。枢軸3国の関係はリアリズム的観点からすれば矛盾としか言えない性質を持っていた。

イタリアの侵略した諸国への補償としては、バルカン諸国に対しては賠償条約を締結して保障した。日本がアジア諸国と個別に補償したのと同様だ。エチオピア、リビアなどアフリカ諸国に対しては、カダフィ政権末期のリビアにベルルスコーニ政権が賠償協定を結んだ。石油など国益が優先している。

イタリアでは独裁者ムッソリーニら戦争指導者は広場で処刑されたが、日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ、祀られている靖国神社に首相や閣僚が参拝している。指導者の過ちをはっきり認めてけじめをつけ、補償をきちんとしなければ、最終的に信頼関係をアジアの国々と結ぶことはできない。難しい対応だが、どの政権でもきちんと対応していかなければ将来的に危うくなる。(八牧浩行)

585名無しさん:2015/06/20(土) 21:20:38
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150615-00000002-wordleafv-soci
元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」
THE PAGE 6月15日(月)16時50分配信

 私ほど人の命をあやめた人間はいない――。元ゼロ戦パイロットで戦争反対を訴え続けている原田要さんは、14日に長野市内で開かれた講演会でこう告白した。「お国のために」と命を投げ出す覚悟で海軍に入ったが、気がついたら「世界一、非人道的な人間になってしまった」と悔いる。折しも国会で安保関連法制の審議が熱を帯びる中、集まった300人の市民を前に、「戦争という苦しいことがもうない世の中に」と語りかけた。現在98歳と高齢のため、今回が「最後の講演」になるという。

<原田要さんの講演要旨>
 8月で99歳になる老兵、原田要です。戦闘機の実戦の体験者ですが、70年も前のことで記憶も薄れがちです。

 17歳のときに一生をお国のために海軍の一兵卒として使ってもらおうと考えました。それから12年余、いろいろなことがありましたが、私は世界一、非人道的な人間になってしまったのです。その間約10年の航空生活を通じ8000時間余の飛行時間、その私ほど人の命をあやめた人間はいないのです。

 結局は戦争という罪悪のために、こうしたみじめな人間が生まれてくるのです。だから戦争をなくしてほしいと感じるわけです。もうだめだと思ったことが4回ありました。それを皆さんに伝えて、こうした苦しいことがもうない世の中になるようにと最後のお願いにあがりました。

 昭和11年にパイロットになり、さっそく中国の南京陥落に関係する作戦で戦闘機に乗りました、ところが中国船に交じっていた米英の船舶を攻撃したことが国際問題になり、下士官にまで及ぶ処分が行われて、私も内地に戻って操縦の指導に当たっていました。

 そのうち日米の関係が悪化し昭和16年の秋、海軍の大艦隊はひそかに移動を開始。北に向かうのでいぶかしく思っていましたが数日後の朝、気がつくと周りが雪に覆われた湾に入っていました。エトロフ島でした。赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴の航空母艦、潜水艦などの大艦隊が集結したのです。

586名無しさん:2015/06/20(土) 21:21:39
>>585
 そして12月8日の真珠湾攻撃に向け艦隊の幹部が作戦室に集められ、「日米交渉が駄目になったら宣戦布告の上、ハワイを攻撃する」と説明があり、艦隊には「いよいよか」の空気が広がりました。真珠湾攻撃の際、私は攻撃隊の小隊長になるつもりでしたが、艦隊の警護に回されたのです。

 私は攻撃隊への参加を主張したのですが、「艦隊を守るのも大事だ。これは命令だ」と言われて、380機を超える攻撃機を見送りました。

 攻撃から帰ってきたパイロットたちは戦果を語り、戦勝気分で「バンザイ」まで出ていました。ただ、彼らに「真珠湾に空母は何隻いたのか」と聞くと「1隻もいなかった」という返事で、心配でした。結果的にアメリカの空母艦隊は温存されていたわけで、それが戦争の結末につながってしまった。

 その後、インドの南、セイロン島ではイギリスの戦闘機ホーカーハリケーンと戦い、私の小隊で5機、全体では100機近い敵機を落としたこともあります。追われた敵機のパイロットは手で「もうやめてくれ」というそぶりをするのですが、それを見逃すと自分がやられる。それが戦争なのです。

 オランダの植民地だったスラバヤでも戦闘がありました。ゼロ戦は脅威だったため敵は2〜3機で1機のゼロ戦と戦う作戦に出てきました。7・7ミリ機銃と破壊力の大きい20ミリ機銃を使い分けたり、相手がまぶしくなるように太陽を背に攻撃に出るなどさまざまな戦法を駆使しました。

 ミッドウエー海戦で日本は空母と多くの優秀なパイロットを失いました。そしてガダルカナルで私はアメリカのF4F戦闘機との戦いで左腕に被弾、ヤシ林に突っ込み気を失いました。2日間ほど山中をさまよっていたら、墜落した艦上攻撃機の乗員の佐藤さんという人が顔を血だらけにして歩いて来ました。

 一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。海軍の基地だったんです。15〜16歳の少年兵たちがいました。
 
 私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。日本の看護婦さんでした。

 何回も命拾いをしてきました。私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。

(高越良一/ライター)

587とはずがたり:2015/06/22(月) 08:32:33
やりたい放題やった当時の列強に対する痛烈な批判となっているし韓国の主張には敬意を表する。日本憎しでそんな事考えてないのかも知れないけど。

世界遺産登録、日韓協力で一致 「徴用工」記載で調整
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASH6P7J7WH6PUTFK00R.html
03:03朝日新聞

 岸田文雄外相は21日、韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と東京都内で開いた会談で、日韓で課題となっていた「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録について、協力することで一致した。韓国は「強制労働」の問題があるとして反発していたが、日本側が関連する資産の説明文に、徴用工の歴史的事実を記載する方向で調整する。

 岸田氏は会談後、「両国の推薦案件『明治日本の産業革命遺産』『百済の歴史(遺跡)地区』がともに登録されるよう協力していくことで完全に一致した」と記者団に語った。世界遺産登録は実現に向けて前進することになる。

 韓国は日本が申請している23資産のうち7資産で朝鮮半島出身者計5万7900人が「強制労働させられた」と主張。歴史的な事実を対外的に説明するよう日本に求めていた。日本は、戦時中に朝鮮半島から労働者が動員された徴用工の問題は、遺産が対象とする時期より後だとして、当初はこうした説明も必要ないとの立場だった。ただ、世界遺産の登録には韓国の理解が欠かせないと判断し、韓国の主張に配慮。一部の施設で徴用工が働いていた事実を日本が自発的に説明し、韓国も反対しない方向で調整することになった。

588とはずがたり:2015/06/24(水) 18:46:00
中国、戦時中の役割「過小評価」修正狙う-9月の軍事パレードで
http://jp.wsj.com/articles/SB11377468785266573983404581065443503383276?mod=WSJ_article_EditorsPicks
By TE-PING CHEN原文(英語)
2015 年 6 月 23 日 19:17 JST

 「歴史は勝者によって書かれる」という。だが近年――少なくとも第2次世界大戦に関しては――中国は適切な書き方をしなかったと感じている。

 中国政府は今秋、それが修正されることを期待している。この9月に盛大な軍事パレードが北京の天安門広場で予定されており、習近平国家主席がそこで演説することになっている。反ファシズム戦争勝利70周年の記念式典と軍事パレードの当局者によると、パレードは「中国国民が払った多大な犠牲と、世界的な反ファシズム戦争への歴史的な貢献を示すものになる」という。 

 中国は1937年から数十万人規模の日本軍に侵攻され、西側の同盟諸国よりも一足先に戦争に突入した。日本軍は「南京大虐殺」のような残虐行為に及び、現在に至るも中国と日本の関係に深い傷跡を残したままだ。中国の犠牲者は1400万人に達したほか、鉄道網や工場など多くが破壊された。

 軍事パレードの詳細に関する23日の記者発表では、そのテーマについても説明があった。軍事パレードは今回で15回目だ。

 中国共産党中央宣伝部の王世明・副部長は「反ファシズム戦争における中国の位置づけと役割という点に関して、一部の西側諸国は常に客観性と公平な理解を欠いてきた」と話す。

 王氏は1931年の満州事変に言及し、「中国の抗日戦争はどこよりも早く始まり、最も長く続いた」と指摘。さらに「14年間も続いた中国の抗日戦争は最も長かった。欧州の戦闘は5年余りで、太平洋戦争は約4年だった」と述べた。

 王氏は、統計によると中国の直接的および間接的な経済損失額はそれぞれ約1000億ドル(現在のレートで約12兆3000億円)、5000億ドルにのぼると述べた。

 中国政府によると、記念式典には第2次世界大戦に関係した主要国首脳が招待される。日本が招待されるかどうかは23日時点では明らかにされなかった。軍事パレードに加え、戦勝を記念する演劇や映画、テレビ番組のほか、愛国的な合唱イベントなどが予定されている。

 中国史の専門家ラナ・ミター氏が近著「Forgotten Ally(忘れられた同盟国)」で書いているように、戦時中の中国の貢献度については長い間、過小評価されてきた。「中国が考慮されることがあったとしても、米国やソ連、英国などがはるかに大きな役割を果たした戦争でごくわずかな出番しかなかった脇役として捉えられるだけだ」

 とはいえ、中国共産党によるこうした歴史観の修正の試みに対しては批判もある。台湾の国防部(国防省)の報道官は今年、中国共産党は同党の軍隊による戦争貢献を強調しているように見えるが、それよりも大きな役割を果たした当時の与党・国民党の貢献を見落としていると述べた。国民党は国共内戦で共産党に敗れた後、台湾に拠点を移した。

 かつての国民党の人たちは戦勝イベントに参加するだろうか。当局者は早口でこう言った。「国民党は戦時中に重要な役割を果たした。中には参加する人もいるだろう」と。

589名無しさん:2015/06/27(土) 22:28:23
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00000063-jij-soci
強制連行で国を提訴=中国人元労働者と遺族―大阪地裁
時事通信 6月26日(金)11時52分配信

 第2次大戦中に日本に強制連行され、河川改修など過酷な労働をさせられたとして、張広勲さん(87)ら中国人元労働者2人と遺族11人が26日、国を相手に総額7150万円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を大阪地裁に起こした。
 訴状によると、張さんら元労働者は1943〜45年、中国華北地方などから強制連行され、秋田県大館市の花岡地区や大阪港で、地下溝を掘ったり土砂や荷物を運んだりする労働をさせられた。国の政策に基づいて連行され、劣悪な労働環境や虐待を国が放置したとしている。
 戦時中の中国人強制連行をめぐる訴訟では、最高裁が2007年、「日中共同声明により個人の賠償請求権は放棄された」との判断を示している。原告側は、この共同声明の解釈は誤りで、中国が放棄したのは国家間の賠償だと主張している。
 張さんは45年6月、花岡で中国人が蜂起し多くの死者が出た「花岡事件」に参加した。提訴後の記者会見で「毎年6月30日になれば悲しい気持ちになる。日本政府は何の賠償も行っていない」と訴えた。
 外務省の話 訴状が送達されていないのでコメントは差し控えたい。

590とはずがたり:2015/06/27(土) 23:08:03
日本軍の原爆開発資料発見 京大、GHQの押収免れる
http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20150625000018

サイクロトロンの図面。昭和17年12月の印がある(京都大総合博物館所蔵)

 太平洋戦争中に旧日本海軍から原爆研究を委託された京都帝国大(現京都大)の荒勝文策研究室が、ウラン濃縮の遠心分離装置開発に取り組んでいたことを示すノート3冊や関連資料が24日までに、京大放射性同位元素総合センター(京都市左京区)で見つかった。京都帝大による原爆開発の全容は、終戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)が一切のデータや研究ノート類の提出を命じ、押収した資料は米国で機密指定されていたため、明らかになっていない。なぜ押収を免れたかは不明だが、秘められた日本の原爆開発と科学技術史を検証する上で、貴重な発見といえる。

■秘められた歴史に一石

 研究ノート類は、戦時中に荒勝研究室に講師として所属していた故清水栄・京大名誉教授の研究室があった同センター分館書庫で見つかった。表紙に英語で「超遠心分離」の表題と清水氏の署名がある。日付は皇紀で記され、戦争末期の1944年10月、11月に書いたとみられる。

 原爆の開発にはウランを濃縮する過程が必要だが、当時の日本では技術が確立していなかった。清水氏のノートには、遠心分離装置の回転数を計算した表が書き込まれ、海外の関連論文を写真撮影し貼り付けた資料などがある。「超遠心分離装置製作資材大要」は資材のリストで、軽量合金「超々ジュラルミン」など材料の直径や長さなどが指定されている。

 京都帝大の原爆開発は43年に旧海軍が委託し、fission(核分裂)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれていた。海軍がウラン鉱石を提供したとの複数の記録や証言がある。遠心分離法によるウラン濃縮を目指したが、終戦までに完成しなかった。

 京都帝大は戦中、原子核物理の研究に用いる円形加速器「サイクロトロン」の建造中だった。終戦後にGHQは「原爆開発につながる」と破壊し、荒勝研のデータやノート類は米軍が持ち去ったとされる。戦後見つかった荒勝研資料は、米議会図書館で2006年に発見された清水氏らの加速器開発過程のノート2冊など、ごく限られている。

 また京大総合博物館では関係者遺族が寄贈した資料の中から、サイクロトロンの図面を見つけた。

 日本における戦中の原子核研究に詳しい政池明京大名誉教授は「荒勝教授らは、この戦争中に原爆は完成しないだろうと考えていたようだ。一方で、ノートと資材リストの発見はウラン235の分離、濃縮に向けて実際に遠心分離装置を作ろうとしていたことを裏付ける貴重な証拠となる」と話している。

 <原爆とウラン濃縮>第2次大戦中に旧日本陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に、海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託。原爆の製造には原料のウラン鉱石から、ウラン235の濃度を90%以上に分離・濃縮する過程が必要と言われる。仁科研究室は「熱拡散法」で、荒勝研究室は「遠心分離法」で分離を試みようとしたとされる。戦局の悪化で、海外から十分な量のウラン鉱物確保が難しく、京大は終戦までに完成しなかったとの見方が通説になっている。

【 2015年06月25日 07時41分 】

591名無しさん:2015/06/28(日) 10:35:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150619-00000017-pseven-int
引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など
NEWS ポストセブン 6月19日(金)16時6分配信

 果たして韓国の言う「私たちは常に被害者」という姿勢は、本当にその通りなのか。歴史を振り返れば、韓国は過去幾度となく、日本人への蛮行を繰り返してきた。

 11歳の時、朝鮮北部から命からがら京城に脱出した日系米国人作家、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(旧名・川嶋擁子)の自伝『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』(ハート出版刊)。引揚の記録をありのままに綴った同書は、今から約30年前の1986年に米国で出版され、後に一部の州で中学校の教材になった。

 だが、韓国人と韓国系米国人がこれに猛反発。執拗な抗議活動を繰り返し、韓国外交通商部が州政府に是正を求める事態に発展した。実は同書は、2005年に韓国でも翻訳出版されているが、こちらも発売禁止に追い込まれている。韓国主要紙も「間違った『ヨーコの話』学びたくない」(朝鮮日報)、「『ヨーコの話』の最大の過ちは加害者と被害者を入れ替えた点」(中央日報)と題した特集記事を掲載し、メディアを挙げてネガティブ・キャンペーンを行った。
 
 在留邦人、引揚者を襲った悲劇の痕跡は、日本国内にも残されていた。福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にかつて存在した『二日市保養所』の存在だ。この保養所は、引揚の途中に朝鮮人らに犯され妊娠した女性の救済施設堕胎手術を秘密裏に行う病院だった。当時、堕胎手術は違法(*)であったが、施設は引揚援護庁が1946年2月に開設したもので、厚生省が「超法規的措置」として黙認していた側面がある。

【*現在も刑法上の堕胎罪は存置されているが、母体保護法では「妊娠の継続、分娩が身体的・経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある者」、「暴行・脅迫により抵抗、拒絶できず姦淫され妊娠した者」などに対する指定医の処置が認められている】

 同施設の医務主任・橋爪将氏による1946年6月10日付の報告書によれば、施設の開設から2か月間で強姦被害者47人を治療し、加害男性の国籍内訳は「朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人」だった。1947年の施設閉鎖まで、堕胎手術件数は500件に及んだという。

 戦時中の日本人の残虐性を世界中で訴えている韓国人は、この事実をどう受け止めるのだろうか。

 日本人が戦時中に犯した罪は、真摯に反省しなければならない。しかし、だからといって、日本人が受けた残虐行為を、歴史から消し去ることもできぬ。正しき歴史を知ることが、真の日韓友好につながるのではないか。

※SAPIO2015年7月号

592とはずがたり:2015/07/02(木) 01:20:41
大正天皇実録、大半の黒塗り開示 「一時人事不省」判明
http://www.asahi.com/articles/ASH713G64H71UTIL009.html?ref=goonews
島康彦2015年7月1日19時52分

 大正天皇(1879〜1926)の日々の行動などを記した「大正天皇実録」について、宮内庁は2002〜11年に公開した際に「個人識別情報」として一部を黒塗りにした方針を見直し、その大半を開示した。宮内庁は「歴史的文書の公開・非公開の判断にあたり、時の経過を考慮した結果」と説明している。

特集:昭和天皇実録「激動の87年」
 大正天皇実録は1937年に完成し、計95冊で構成される。朝日新聞社の情報公開請求を契機に、2002年から4回に分けて開示された。しかし、全体の約3%が黒塗りにされ、専門家からは「歴史への冒?(ぼうとく)」という批判の声があがっていた。

 宮内庁によると、昨年公開された昭和天皇実録では、11年に施行された公文書管理法の「時の経過」を踏まえて検討し、黒塗りされなかった。今回の見直しでも同様の水準を適用し、黒塗りは全体の0・5%ほどに減ったという。

593とはずがたり:2015/07/03(金) 12:31:38
「火垂るの墓」登場の病棟取り壊し…苦渋の決断
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150629-OYT1T50023.html?from=yartcl_outbrain1
2015年06月29日 10時22分

 西宮回生病院(兵庫県西宮市大浜町)の旧病棟が老朽化による建て替えのため、7月に取り壊される。

 病院は戦時下の西宮市などを舞台に、アニメ映画にもなった小説「火垂るの墓」(原作・野坂昭如)にも登場しており、市民やファンからは惜しむ声が上がりそうだ。

 同病院は1907年に創立。34年の室戸台風で当時の病棟が流出し、37年にアニメにも描かれた木造一部2階建ての旧病棟(約600平方メートル)が建設された。弧のような曲線を描いているのが特徴で、84年に現在の病棟を建設した際も病院の象徴として、そのままの形で残した。

 アニメでは、空襲で母親を亡くした主人公の清太が幼い妹の節子と、病院とみられる建物をバックに香櫨園浜で遊ぶシーンや、病院の玄関前で無事を喜び抱き合う家族を見て、2人がうらやましがる様子などが描かれている。

 だが、すでに旧病棟建設から80年近くが経過し、南海トラフ巨大地震の発生なども懸念される中、病院側はこれ以上使い続けるのは困難と判断した。同病院を運営する平成医療福祉グループの武久敬洋副代表(35)は「内部でも保存すべきとの意見も多かった。苦渋の決断だった」と心情を吐露する。

 毎年夏に、アニメゆかりの地をファンらと巡っている「火垂るの墓を歩く会実行委員会」の辻川敦さん(55)は「病院の事情があり、取り壊しは仕方がない。当時の雰囲気がそのまま残る場所だっただけに残念」と悲しんだ。

 同病院によると、7月上旬に取り壊しを開始。跡地には新病棟を建設する。来年8月の完成予定で、過去の病棟の写真などを展示する記念館を設けるほか、現在の建物の柱をベンチなどに活用するという。

 病院は7月4日午後2時から見学会を開く。井上馨院長(58)は「皆さんに愛された場所で、三脚を持って写真に収めるファンもいる。最後の姿を多くの人に見てほしい」と話している。入場無料。問い合わせは同病院(0798・33・0601)へ。(清家俊生)

594名無しさん:2015/07/04(土) 11:32:27
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150629-00000030-jnn-pol
先の大戦「国策の誤り」か、防衛相も明言せず
TBS系(JNN) 6月29日(月)17時18分配信
 日中戦争や太平洋戦争などの一連の戦争をめぐって、「国策を誤った」と認めるかどうか、29日の国会の委員会で質された中谷防衛大臣は、「歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」などと繰り返し、「国策の誤り」については明言しませんでした。

 「70年前の戦争、これは政策を誤ったと、間違った戦争であったと、こういうことから戦後出発したと理解してるんですが、間違えた戦争だった、政策が誤ったということは、なんで言葉としておっしゃらないんですか。明確に言えないわけですか」(民主党 長妻昭 代表代行)
 「これはこの内閣として申し上げておりますけれども、村山談話を含めて歴史認識に関する歴代の内閣の立場は全体として引き継いでおり、今後も引き継いでいくと。そして累次申し上げてきたように、基本的には歴史の問題等につきましては、歴史家に任せるべきであるということでございます」(中谷元 防衛相)

 民主党の長妻代表代行は、今回の安全保障関連法案が成立した場合、間違った戦争を始めないためには、運用を担当する防衛大臣が過去の戦争の教訓を正しく認識することの重要性を指摘しました。

 その上で、柳条湖事件から満州事変、太平洋戦争へとつながる一連の戦争に踏み込んだ当時の政府の政策判断について、「国策を誤った」と考えるかどうかを質しました。

 これに対し、中谷大臣は「政治が軍をコントロールできなかったことは問題」だとする一方で、「国策の誤り」については明確に答えず、「安倍内閣として、過去の内閣の立場を全体で引き継いでいる」などと繰り返しました。

 長妻氏は、一連の戦争に対する「国策の誤り」をめぐっては、同じように安倍総理も明言していないことを指摘したうえで、「安倍内閣の体質なのかと疑う。“間違った戦争だと思いたくない”というふうに受け取られても仕方のない答弁だ」と批判しました。(29日11:30)
最終更新:6月29日(月)19時0分TBS News i

595名無しさん:2015/07/06(月) 01:17:36
http://www.47news.jp/FN/201507/FN2015070501001658.html
日本政府、労働の強制性認める 

産業革命遺産の審査の席で日本側は、朝鮮半島出身者が「自らの意思に反して労働を強いられた」と述べた。

2015/07/05 22:59 【共同通信】

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015070500084
改善ムード維持へ妥協=日韓関係、望みつなぐ-世界遺産

 【ソウル時事】「明治日本の産業革命遺産」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産登録をめぐる日韓の交渉はぎりぎりまで難航した。最終的に決定にこぎ着け、登録への協力で一致した先の日韓外相会談の結果が生かされた。今後の関係改善に望みをつないだ。
 韓国の尹炳世外相は5日夜、ソウルで記者会見し「円満解決」と評価。「韓国の懸念が忠実に反映された形で決定されたことをうれしく思う」と満足感を表明した。
 日韓の詰めの交渉は、世界遺産委員会で韓国代表が行う発言内容などをめぐって難航した。韓国国内ではこの問題をめぐり、外務省の対応が遅れたという批判が強く、韓国はぎりぎりまで強気の対応を継続。この結果、「1940年代に意思に反して韓国人らが動員され、強制的に働かされた」と日本側が発表することで合意。韓国としては、ほぼ望み通りの対応を引き出した。
 尹氏は6月21日、韓国外相として約4年ぶりに訪日し、岸田文雄外相と会談。登録へ協力することで一致した。「政治決着した」(日韓関係筋)と受け止められ、同月22日の国交正常化50周年記念行事に両国首脳が出席したことと合わせ、関係改善ムードを高める大きな要因となった。
 決裂なら、外相訪日の効果は吹き飛んでいた。決裂の責任をめぐって両国が応酬する事態になれば、関係改善の機運に水を差すのは必至だった。こうした危機感が、最終的に両国を妥協に向かわせたとみられる。(2015/07/05-23:47)

596名無しさん:2015/07/06(月) 01:18:24
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2015070500214
岸田外相、請求権問題は解決済み=世界遺産

 岸田文雄外相は5日、明治日本の産業革命遺産の世界文化遺産登録決定後に日本のユネスコ代表部大使が「朝鮮半島の多くの人々が意思に反して働かされたことへの理解を進める措置を取る」などと演説したことに関し、「これまでの日本政府の認識を述べたもの」であり、「朝鮮半島出身者の徴用の問題を含め、日韓間の財産・請求権の問題は解決済みだ」とする談話を発表した。(2015/07/06-00:09)

597とはずがたり:2015/07/09(木) 12:01:03
何で空襲で亡くなった遺族が泣き寝入りしてるのに国からカネ貰ってきた戦没者遺族が威張ってんだ?( ゜д゜)、 Peッ

戦闘機10年お蔵入り…展示予算、当面はゼロ?
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150703-OYT1T50055.html?from=yartcl_outbrain1
2015年07月03日 11時30分

 10年前、県民から県に寄贈された戦闘機が解体され、倉庫に保管されたままになっていることが、2日の滋賀県議会一般質問で明らかになった。

 「平和を考えるシンボルに」と県平和祈念館(東近江市)での展示を求める県議に対し、三日月知事は「鑑定に多額の費用がかかる」と、当面、展示は難しいとの認識を示した。

 県健康福祉政策課によると、戦闘機は全長約8・5メートル、両翼約11メートル。戦没者遺族が県外から購入し、2005年8月、当時建設が計画されていた同館で零式艦上戦闘機(零戦)として展示してもらおうと、県に寄贈した。

 しかし、「来歴など正確な情報が不明」として、県は12年の同館開館後も展示せず、東近江市に借りた倉庫で解体して保管。調査や展示は、数百万から数千万円が見込まれるとして見送っている。現在の倉庫は老朽化により改修が必要で、同市が別の場所での保管を求めているという。

 一般質問では、木沢成人県議(良知会)が「展示の要望が戦没者遺族らから出ている」と指摘。三日月知事は「展示の経費や場所の課題もあり、活用は慎重に検討したい」と述べるにとどめた。(小野圭二郎)

598とはずがたり:2015/07/16(木) 09:47:23

サハリンで朝鮮人強制労働の証拠発見か!? 世界遺産登録で歴史問題にあらたな火種
日刊サイゾー 2015年7月14日 15時00分 (2015年7月15日 20時30分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150714/Cyzo_201507_post_18700.html

 軍艦島をはじめとする「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録をめぐり、日韓関係の混迷がさらに深まりつつある。そんな中、韓国では「サハリンで、日本人に強制労働させられた朝鮮人の資料が発掘された」というニュースが、大きな話題となっている。同ニュースは、世界遺産登録が決定する2日前の7月3日に、中央日報、東亜日報など、大手メディアによって一斉に報じられた。現在、韓国では日本政府が「強制連行」を認めたという解釈が一般になり、そのため、あらためて注目を浴び始めた形だ。

 戦前のサハリンで、日本政府や企業による朝鮮人の強制労働があったという資料は、韓国の「対日抗争期・強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」によって発表された。同委員会は、韓国・国務総理(首相)室所属の委員会である。

 同委員会は、昨年にロシアの国立サハリン州歴史記録保存所などから、朝鮮人の名簿や関連記録物を入手。強制性が明確だと考えられる846人を、同委員会の「強制動員名簿」に記載したとしている。収集された資料の中には、1941〜44年までの間に、豊原警察署が作成したものも含まれるとされる。

 同委員会の調査に立ち会った、韓国外国語大学中央アジア研究所のパク・イルグォン教授は、豊平警察署とその資料について、次のように指摘している。

「もともと豊平は、日帝時代に南サハリンの植民地を担当していた樺太庁があった場所。現在のユジノサハリンスク地域に当たります。そこで書かれた警察文書なので、植民地時代の日本の治安行政担当部署の内部資料といえます」

 豊平警察署の資料には、“朝鮮人関連”という資料が多く残されているという。内容としては、一般手配者や、要注意人物の監視、所在不明者に関する手配、捜査資料などがある。これらの資料は、日本人の立場からすると、治安関連の資料ということになる。

「ただ、この資料を他の資料と併せて読むと、他の文脈が出てくる。そのひとつに、朝鮮人労働者の逃走に対する手配と関連した文献があるでしょう。ここには、サハリンだけではなく、北海道、九州などの地名が出てきます。それらの労働現場で、多くの朝鮮人労働者が現場から脱出を試みているのです。その数は、1941年だけでも1,400人。当時、彼らが逃げるのを、日本側が治安対象として取り締まっていたということになる。強制的に働かせていないのであれば、なぜそもそもそのような過酷な場所に、朝鮮人労働者が集団で移動することができたのか。また、自分の意志で辞めたとして、治安対象となり追われなければならなかったのか。そういう事実からは、当時の朝鮮人労働者たちが、意思とは無関係に抑圧的な状況にいたということが見えてくるでしょう」(パク教授)

 世界遺産登録を皮切りに、あらためて歴史問題の論争に火がつこうとしている日韓関係。果たして、同資料が新しい火種となるのだろうか?
(取材・文=河鐘基)

599名無しさん:2015/07/20(月) 11:30:57
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150716-00000073-san-pol
クマラスワミ氏を礼賛 女性自衛官ブログ削除へ
産経新聞 7月16日(木)7時55分配信

 政府は15日、北大西洋条約機構(NATO)に派遣している女性自衛官が在ベルギー日本大使館のホームページで公開しているブログの一部を、近く削除する方針を固めた。ブログは慰安婦を「性奴隷」とする国連報告書をまとめたクマラスワミ氏との会談について「光栄」とし、「とても穏やかで徳が感じられる方」と礼賛している。

 ブログは今年3月に公開された。歴史認識をめぐり日本政府と相いれない立場を取るクマラスワミ氏をたたえる内容のため、自民党国防部会で「軽率だ」などの声が上がっていた。ある議員は「自衛官にも表現の自由はあるが、大使館ホームページで公開する以上、国際社会からは政府の公式文書とみられる。内容をチェックしない防衛省にも責任がある」と指摘する。

 女性自衛官は昨年12月からNATO本部に勤務。自身の活動を定期的にブログで紹介している。政府が削除するのはクマラスワミ氏に関する記述があるブログのみの方向だ。

 クマラスワミ氏が平成8年に国連人権委員会に提出した報告書は、朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏の虚偽の証言を引用しながら慰安婦を「性奴隷」と定義し、日本政府に法的責任の受け入れや元慰安婦への補償などを勧告している。

 朝日新聞が吉田氏の証言を引用した記事の誤報を認めたことを受け、政府は昨年10月、クマラスワミ氏に報告書の一部を修正するよう求めた。クマラスワミ氏は拒否している。

600とはずがたり:2015/08/05(水) 18:07:00
村山談話、複数国が見解確認 政府、閣議決定と強調
http://www.asahi.com/articles/ASH845GNVH84UTFK00R.html?iref=com_alist_6_02
冨名腰隆
2015年8月5日05時11分

 戦後50年の「村山談話」が発表された直後の1995年8月、談話が政府の公式見解かどうかをめぐり複数の国から疑問が出ていたことが、朝日新聞が外務省への情報公開請求で得た文書や外交記録でわかった。日本政府は閣議決定した談話であり、政府の公式な見解だと強調。各国に理解を求めていた。安倍晋三首相が近く出す戦後70年の談話(安倍談話)でも、その内容に加えて閣議決定の有無が焦点となっている。

特集:戦後70年
 当時の文書によると、8月15日の村山談話の発表を受けて、外務省は各国政府の反応をまとめた。同省総合外交政策局は翌16日、各国首脳らの発言などから「総じていえば、過去の植民地支配と侵略に対し、深い反省とおわびの気持ちが率直に述べられたことを評価した」と分析した。

 ただ、一部の国には異なる反応もあった。

 豪州では、21日に当時の長谷川和年駐豪大使がエバンス外相と面会。外相は「おわびが総理個人としての気持ちか内閣全体としてなのかについては、若干の微妙な問題がある」と指摘した。大使は内閣として決定した点を念押ししたが、外相は「内閣は総理個人の発言として承認したのではないか」と返した。

 インドネシアでは24日、日本大使館職員と接触した大統領補佐官が「首相が一人称で語っていることから政府の立場ではないとの見方がある」と言及。職員は「談話は閣議決定を経て初めて発表されたものであり、政府の見解だ。一人称なのは政府を代表して総理が述べたからであり、通常のこと」と説明した。野坂浩賢官房長官も23日、中国共産党機関紙の人民日報のインタビューに対し、「村山談話は内閣の決定を経ている」と強調した。

601とはずがたり:2015/08/06(木) 22:36:15
>この中から何をくみとってどうするかは、首相にお任せする
こんなんでは安倍が汲み取るのは韓国への植民地支配は完全に合法(キリッ)ぐらいやん。

<有識者懇>「満州事変以後、侵略拡大」70年談話へ報告書
毎日新聞社 2015年8月6日 21時40分 (2015年8月6日 22時18分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20150806/Mainichi_20150807k0000m010098000c.html

21世紀構想懇談会の西室泰三座長(左)から報告書を受け取る安倍晋三首相=首相官邸で2015年8月6日午後4時33分、藤井太郎撮影
[拡大写真]

 安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)は6日、「戦後70年談話」に関する報告書を首相に提出した。日本が1931年の満州事変以後、大陸への侵略を拡大したことを認め、30年代後半からは植民地支配も過酷化したと指摘。一方で、戦後の日本は先の大戦の「痛切な反省」のもとに発展を遂げたと評価した。

 首相は同日、首相官邸で西室氏から報告書を受け取り「この報告書を基に、先の大戦から何を学び、どのような道のりを進んでいくべきかを世界に発信する談話を作成したい」と述べた。14日にも談話を発表する。

 首相は2月、懇談会の初会合で(1)日本が20世紀の経験からくむべき教訓(2)戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献への評価(3)中国、韓国などアジア諸国とどのような和解の道を歩んできたか??など5項目を諮問。懇談会はこれに沿って議論し、報告書にまとめた。

 焦点の歴史認識を巡っては、報告書は「侵略」の範囲を満州事変以後と明記。「世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた」として、「30年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重い」と指摘した。ただ、「侵略」の記述に関しては複数のメンバーから異議が出たことを脚注で紹介した。

 戦後50年の村山富市首相談話(95年)、戦後60年の小泉純一郎首相談話(2005年)に盛り込まれた「おわび」を70年談話でどう扱うかには踏み込まず、北岡伸一座長代理は6日の記者会見で「おわびするかどうかは首相の判断だ」と述べた。西室氏も「この中から何をくみとってどうするかは、首相にお任せする」と語った。

 報告書では「中国、韓国、東南アジアとの和解」に関する記述が全体の4分の1を占めた。中国、韓国との間では「和解が完全に達成されたとはいえない」と総括し、今後の地道な話し合いを求めた。

 一方、安全保障分野では積極的平和主義の推進や防衛体制の再検討、日米同盟の強化などを提唱した。

 報告書は英訳版も公表された。【当山幸都、松本晃】

 ◇21世紀構想懇談会の報告書・骨子◇
・日本は満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、無謀な戦争でアジア諸国に多くの被害を与えた
・1930年代後半から植民地支配が過酷化
・日本は先の大戦への痛切な反省に基づき、20世紀前半とはまったく異なる国に生まれ変わった
・戦後70年の日本の平和主義・国際貢献路線は国際社会と日本国民から高い評価
・中国、韓国との和解は完全に達成されたとはいえない

602名無しさん:2015/08/08(土) 22:14:43
http://news.infoseek.co.jp/article/20150808_yol_oyt1t50088/
樺太の日本人墓地調査へ…民間人4000人犠牲
読売新聞 / 2015年8月8日 16時51分

 政府は、第2次世界大戦末期にソ連の侵攻を受け多数の住民が犠牲になった樺太(サハリン)で、民間人の戦没者らが埋葬された墓地の調査を行う方針を固めた。

 当時、日本領だった南樺太には約40万人が住んでいたが、戦後はソ連、ロシアが支配し、日本人の墓地は荒廃しているという。

 ソ連は1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して対日参戦。南樺太にも侵攻し、終戦後も攻撃を続け、同25日に占領を完了した。一連の戦いで樺太では民間人約4000人、軍人約1000人の計約5000人が犠牲になったとされる。

 これまで政府は、戦後ソ連に抑留されて死亡した軍人・軍属や、アジアや南洋などの戦闘地域で亡くなった将兵らの遺骨を収集してきた。南樺太でも、ソ連が停戦交渉の軍使を射殺し、 執拗 しつように日本軍を攻撃した真岡(ホルムスク)付近の激戦地など一部で遺骨の収集活動を実施してきた。だが、厚生労働省や、樺太出身者でつくる「全国樺太連盟」(東京)によると、南樺太で民間人の墓地を中心に調査した記録は残っておらず、今回の調査が初めてとみられるという。

603とはずがたり:2015/08/09(日) 09:57:04
日韓は,日韓併合を合法的に強行できて日韓基本条約で補償が完全に解消されたとできた欧米列強主体の帝国主義体制そのものを批判するというより高い水準の批判で共闘すべく連携しないとあかんねー。
その欧米列強主体の帝国主義体制の延長上に戦後レジームや現代の世界秩序があるからこの批判はチャレンジングで危険ですらあるのかも知れないけど。。

<70年談話報告書>韓国紙、批判強める 併合過程触れず
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20150809k0000m030114000c.html
08月08日 22:43毎日新聞

 【ソウル米村耕一】安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」が6日に公表した「戦後70年談話」に関する報告書について、韓国メディアは「侵略」や「植民地支配」について明記されたことを評価する一方、報告書が1910年の日韓併合の過程に触れず、また「謝罪」の表現が含まれていないことを一斉に批判している。

 中央日報は8日付の社説で、報告書は「朝鮮半島の強制併合の過程を省略した」と指摘。そのうえで、列強が「未開」の地域を文明化するために植民地化するという構図を世界で普遍化しようとした、との報告書の表現についても「帝国主義によって日本の責任を覆い隠したもので、植民地支配については謝罪する必要はないとの認識をさらけ出した」と強く批判している。

 また、京郷新聞の8日付社説も、朝鮮半島植民地化の過程が省かれている一方、台湾の植民地化は明記されていることについて「韓国と中国の間を離間させようという意図だ」と、疑念を示した。

 7日付朝鮮日報は「韓日関係悪化を韓国のせいにする安倍談話の準備会合」とする社説を掲載。14日発表される予定の安倍首相の戦後70年談話について「報告書の内容そのままなら韓日関係の将来は暗い。談話に期待するのはやめて、その後の対日戦略について頭を悩ますほうが賢明だ」と主張した。

 報告書について韓国外務省は6日に「両国関係を発展させようというわが国の意思と努力に逆行するだけでなく、歴代内閣の歴史認識を受け継ぐとの日本政府の公式発言と相いれないものだ」などと批判するコメントを発表している。

604名無しさん:2015/08/10(月) 15:19:32
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000002-withnews-soci
「86を次世代に伝える」 広島のテレビ局が8月6日のラテ欄に込めた思い
withnews 8月6日(木)5時14分配信

 広島での原爆投下から70年となる「原爆の日」の6日夜、プロ野球・広島カープはホームのマツダスタジアムで阪神と戦います。球団と地元テレビ局・中国放送(RCC)の主催試合。新聞のテレビ番組表(ラテ欄)をよーく凝視すると、そこには彼らの熱い思いが込められていました。

昨年は「カープ応援できる平和に感謝」
 広島県内に6日に配達される朝日新聞朝刊のラテ欄。午後6時50分からのRCCの放送内容の左端の文字列を「縦読み」すると、「86を次世代に伝える」というメッセージが浮かび上がります。

 この縦読みメッセージ、RCCは昨年の8月6日も当日のラテ欄に用意していました。「カープ応援できる平和に感謝」。このメッセージを仕込んだ同社の担当者は、昨年のウィズニュースの取材に「平和だからこそ、みんなでカープを応援できる。そんな喜びを、ファンの目線で伝えたかった。来年以降も8月6日に中継する機会があれば、ぜひメッセージを込めたい」と語っていました。

胸に「PEACE」掲げて試合
 今年は5日から、「ピースナイター」と銘打っての対阪神戦。5日のラテ欄では「広島の勇気と希望カープ」と鼓舞しました。
 惜しくも阪神に敗れたものの、五回終了後にジョン・レノンの「イマジン」を流し、原爆ドームとほぼ同じ高さ(約25メートル)の2階最上段席付近に座る観客が赤い新聞紙を掲げて「ピースライン」を形作る演出がありました。

 6日の試合では、胸に「PEACE」(平和)、背中に個々の名前ではなく「HIROSHIMA」の文字、そして全員同じ背番号「86」が入ったユニホームで、選手らが記憶の継承を訴えます。

「子供たちの大好きなカープを通じて考えるきっかけに」
【8月6日20時30分に追記】
 昨年に続いて今回の縦読みを考案したRCCの桑田ディレクターは、同社のツイッターで「8月6日に原爆が投下されたことを知らない子供たちが増えていく中で、子供たちの大好きなカープを通じて8月6日について考えるきっかけになれば」と、ラテ欄に込めた思いを語っています。

605名無しさん:2015/08/10(月) 15:20:08
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000023-mai-soci
<広島原爆の日>ケネディ大使らも…過去最多の参列国
毎日新聞 8月6日(木)10時55分配信

 ◇広島市の平和記念式典に

 被爆70年の節目となる広島市の平和記念式典には6日、海外から過去最多の100カ国と欧州連合(EU)代表部の代表が参列した。アフガニスタンやスリランカ、フィリピン、モナコなど初参加の7カ国の大使らも祈りをささげた。

 核保有5大国からは米英仏露が出席。広島市は1998年から核保有国を招待しているが、2009年にオバマ米大統領がプラハで行った核廃絶演説を受けて、翌10年には当時最多の74カ国が参列し、西側の核保有国として初めて米英仏3国が出席した。一方、中国は08年に初めて出席したが、それ以降は欠席が続いている。

 米国からは昨年に引き続きキャロライン・ケネディ駐日大使と、米政府高官では初参加となるローズ・ガテマラー国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)が出席した。式典中は終始硬い表情を崩さず、足早に会場を後にした。

 一方、英仏両国は式典を前に報道陣の取材に応じ、原爆被害者へ哀悼の意を示すとともに、核廃絶へ向けた自国の取り組み姿勢をアピールした。

 英国のティム・ヒッチンズ駐日大使は「核拡散防止条約(NPT)実現のためには、他国との交渉とともに、我々核保有国が削減の努力をしないといけない」と述べた。

 ポールベルトラン・バレッツ駐日仏臨時代理大使も「フランスは核兵器の削減目標を掲げており、NPTの一員としてその枠組みをより具体化することに注力している」と強調した。【立野将弘、菅沼舞】

606名無しさん:2015/08/10(月) 15:51:46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150809-00000036-san-pol
対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書
産経新聞 8月9日(日)7時55分配信

 ■1時間後に満州・樺太侵攻…日本政府は4時間後に報道で把握

 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。宣戦布告を通告された佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州(中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。(編集委員 岡部伸)

                ◇

日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯(ひきょう)な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。

 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したもの。この文書は英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された。

 電報を要約すると、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などと書かれている。外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。

 ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。

 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。

 ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。

 正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。

 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。日本は最後までソ連に宣戦布告していない。

607名無しさん:2015/08/10(月) 15:52:23
>>606

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150809-00000037-san-pol
公電ソ連遮断 日本をだまし討ち、事実上の無通告
産経新聞 8月9日(日)7時55分配信

 ソ連の対日宣戦布告を伝える佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使の公電がソ連当局に封鎖され、日本に届かなかったのは事実上の「無通告」であり、満州などに武力侵攻したソ連が和平仲介の望みをつなぐ日本をだまし討ちしたことになる。ソ連の後継国家であるロシアは北方領土の領有を「第二次大戦の結果」と主張するが、スターリン首相が日露戦争の報復と領土拡張のため、中立条約を無視して踏み切った「侵略」戦争の側面があったことは否定できない。 (編集委員 岡部伸)

                   ◇

 「ソは遂ニ起チタリ、予ノ判断ハ外レタリ」

 昭和20年8月9日午前6時(日本時間)、大本営からの電話でソ連の参戦を知った河辺虎四郎陸軍参謀次長は日記にこう記している。「中立」を信じてソ連の仲介による戦争終結を構想していた日本には、ソ連の宣戦布告はまさに寝耳に水だった。

                  ×  × 

 敗色濃厚となった日本の中枢は、最後の頼みの綱としてソ連を仲介役に米英との和平を模索していた。日本にとってソ連は中立条約を結んでいる唯一の大国だった。20年4月5日にソ連は日本政府に中立条約を延長しないことを通告してきたものの、条約は翌21年4月まで有効で、20年6月中旬からソ連を仲介役とする米英との和平工作がひそかに進められていた。

 ところが、2月のヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連は侵攻の準備を進めていた。日本の甘い見通しにソ連は明確な態度を示さず、参戦準備を察知されないように在欧日本人の帰国の便宜を図るといった隠蔽(いんぺい)工作も行っている。

 ソ連に傾斜した日本は近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣することを決め、7月12日、天皇から親しく命を受け、東郷茂徳外相はモスクワの佐藤大使に「ソ連の意向を調整するよう」訓電を送っている。

                  ×  × 

 外務省欧亜局東欧課作成の「戦時日ソ交渉史」によると、佐藤大使は近衛特使派遣をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めた。ポツダム会談から首脳が帰国した8月7日、クレムリンから「8日午後8時(日本時間9日午前2時)にモロトフが会う」と連絡があり、その後「8日午後5時(同8日午後11時)」に前倒しされた。

 佐藤大使は近衛特使派遣をソ連が受け入れたと期待して8日、クレムリンを訪れたところ、モロトフ外相から渡されたのは宣戦布告文だった。最後にどんでんがえしを食らった格好だ。

 9月2日、スターリンは対日「戦勝」記念演説で次のように語った。

 「1904年の日露戦争でのロシア軍の敗北は国民の意識に重苦しい思い出を残した。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は日本が粉砕され、汚点が一掃される日が来ることを信じ、そして待っていた。その日は訪れた。このことは、南樺太と千島列島がソ連に移ることを意味する」

 スターリンのこの演説は日露戦争への報復と領土拡張が日本との戦争の目的だったことを示している。

608名無しさん:2015/08/10(月) 16:24:03
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150807-00000045-rcdc-cn
三菱マテリアル、米国人元捕虜への謝罪、事前に日本政府に報告=韓国ネット「日本は独裁国家」「日本政府はなぜそんなに韓国を嫌う?」
Record China 8月7日(金)17時24分配信

2015年8月6日、韓国・聯合ニュースによると、三菱マテリアルが先月19日、第2次世界大戦中に強制労働させられた米国人捕虜に謝罪した問題で、訪米に先立ち日本政府に報告していたことが分かった。

元米国人捕虜への謝罪に同席した三菱マテリアルの岡本行夫社外取締役は最近、韓国メディアとのインタビューで「謝罪に先立ち、日本政府に報告をした」と明らかにした。岡本氏はまた、「請求権問題はすでに解決しているので、賠償金を支払うことはできないというのが日本政府の立場だ」と強調した。

三菱マテリアルが第2次世界大戦中に強制徴用された元中国人労働者に謝罪し、賠償金を支払うと報じられていることについては、「賠償金を支払うとしても、企業や人として謝罪するという意味であり、元中国人労働者との請求権は解決済みだ」と述べた。また、元韓国人労働者については「韓国人労働者を働かせた事実はまだ確認されていない」とし、「強制労働の事実が確認されたら、当然謝罪するべきだ」との考えを示した。

岡本氏は自身の発言が三菱マテリアルの公の立場ではないと述べたが、韓国メディアは「三菱マテリアルが元韓国人労働者に謝罪しないのは、日本政府の態度が影響を及ぼしているのではないか」と懸念している。

これについて、韓国のネットユーザーは以下のようなコメントを寄せている。

「韓国人労働者を働かせた証拠はたくさんあるはず。写真もたくさん残っているでしょ?」
「韓国人強制徴用の事実を歪曲(わいきょく)するために、日本政府は『韓国が提示する証拠は全て偽物だ』と国民に教えている。国民はだませても神様はだませない!」

「日本政府はなぜそんなに韓国を嫌う?」
「日本人の多くは今でも米国の原爆投下を憎んでいる。いつか日本は米国を裏切るだろう」
「日本政府の主張は正しい。韓国人がいくら賠償金を要求しても、2度は支払わないよ」

「不買運動をして韓国の力を見せつけよう」
「弱者に強く、強者に弱い日本。本当に卑怯な国だ。いつか必ず、後悔する日が来るはず」
「三菱のエレベーターを見ると腹が立ち、壊してしまいたくなる」

「日本は独裁国家だ。そして今、安倍首相は日本に嫌韓を広めようとしている。本当に恐ろしい国」
「日本人は韓国の車を買わないのに、どうして韓国にはこんなに日本車があふれているの?」
「韓国政府は恥を知れ。どれだけ日本になめられているんだ?」(翻訳・編集/堂本)

609名無しさん:2015/08/10(月) 16:24:55
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150807-00000039-rcdc-cn
「日本に標準時間を奪われた」北朝鮮、15日から標準時間を変更=韓国ネット「無知なやつほど勇敢だ」「韓国も見習うべき!」
Record China 8月7日(金)14時38分配信

2015年8月7日、韓国・聯合ニュースによると、北朝鮮の最高人民会議常任委員会は、光復(解放)70年を迎える8月15日から標準時間を30分遅らせると発表した。

北朝鮮は日本の植民地時代から東経135度を基準とする「東京時間」を使用してきたが、15日以降は東経127度30分を基準とする「平壌時間」を使用すると明らかにした。これにより、15日以降は日本と北朝鮮の間に30分の時差が生じることになる。

「平壌時間」を使用する理由について、朝鮮中央通信は「日本帝国主義者は朝鮮半島を踏みにじり、標準時間まで奪う許しがたい犯罪行為を行った」と説明した。

一方、韓国は社会的費用や在韓米軍の軍事作戦などを理由に、現在も「東京時間」を使用している。

これについて、韓国のネットユーザーはさまざまなコメントを寄せている。

「国ごとに時間を定めたらかなり面倒くさいことになる」
「日本植民地時代と何の関係がある?スペインが『英国と同じ時間を使用するのはプライドが傷つく』と言ったことがあるか?」

「無知なやつほど勇敢だ」
「そんな細かいことまで気にしていたらきりがないよ。30分遅らせる利点が1つも見つからない」

「北朝鮮もたまには正しいことをする。韓国も標準時間を変えなければならない」
「それならクリスマスもなくすべき!東アジアの中でクリスマスを祝日にしているのは韓国だけだよ」

「韓国も見習って!韓国の時間を決めて、日帝残滓(ざんし)を消し去ろう!」
「小さい朝鮮半島の中に2つの時間が存在するなんておかしくない?南北統一がどんどん遠ざかっていく…」(翻訳・編集/堂本)

610名無しさん:2015/08/13(木) 15:23:09
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150813-00044509-jbpressz-bus_all
日本にもいた?原爆投下を必要としていた者たち
JBpress 8月13日(木)6時25分配信

 ロシア政府が、アメリカによる広島と長崎への原爆攻撃について検討する会議を開催した。そのなかで、プーチン大統領の側近として知られるナルイシキン下院議長が「軍事的に必要のなかった原爆攻撃は人道的に許されるものではない。アメリカの原爆攻撃はこれまでのところ国際法廷で裁かれてはいないが、人道に対する罪には時効はない」とアメリカを痛烈に非難した。

 この時期において、なぜロシア政府は対米非難をしたのか。背景に、アメリカが原爆による大量虐殺という重大な戦争犯罪を犯していたことを宣伝することによって、ロシアによるウクライナ侵出に対する国際的非難を軽減させようとする意図があるのは見え見えである。現に、ロシア自身がウクライナ情勢の悪化に伴って核兵器の使用を考えていたことを公言している。

 それに加えて、日本国内では“低調”な原爆攻撃に対する議論を喚起して反米感情を煽り、日米同盟に打撃を与えようとする意図もまた明らかである。

 そのような意味で、日本は被害国であるからといってロシアなどが対米訴追を提唱しても軽々に加担してはならない。

■ アメリカで広く浸透している「原爆攻撃免罪論」

 「原爆攻撃に対する議論が低調」というのは日本の人々が「広島」や「長崎」に関心がないことを意味しているわけではない。日本では、とりわけ8月6日と9日が近づくと、多くのメディアが原爆特集を組む。今年は70周年ということに加えて安保法制の審議も行われているためか例年以上に力が入っているようである。

 しかしながら、それらの報道や特集の多くは、原爆がもたらした悲惨な状況を伝えることにのみ焦点を当てている。もちろん、核兵器の恐ろしさや非人道性を啓蒙することは欠かせないのであるが、「なぜ原爆攻撃が必要だったのか?」といった被害国ならば関心を持ってしかるべき疑問に対しての関心は極めて低調である。

 そして、多くの日本の人々が「原爆投下によって戦争が終結することになった。確かに広島と長崎ではおびただしい人々が犠牲になったが、戦争が継続されていた場合に生じたであろう犠牲はその比ではなかったであろう」というアメリカでまことしやかに語られている「原爆攻撃免罪論」を、積極的にではないものの、受け入れてしまっている感も否めない。

 もっとも、原爆投下による大虐殺を敢行した当事国であるアメリカでは、一般的には原爆の話題は好まれない。原爆に限らず嫌な歴史には触れたがらないのだ。そしてアメリカ社会には、上記の「原爆攻撃免罪論」が広く浸透しており、核兵器の非人道性は認めつつも対日原爆攻撃は「戦争においての必要悪」であったということで“納得”している。

■ 原爆攻撃は必要ではなかった

 しかし国防戦略に関与する人々にとっては「原爆攻撃が必要であったのか」という命題はそう簡単に“納得”してしまうようなテーマではない。もちろん、アメリカ政府や軍部としても公的には「原爆攻撃免罪論」に固執している。しかし、少なからぬアメリカ海軍関係戦略家たちは、以下のように考えて原爆攻撃は不必要であったとしている。

 「1945年春には、アメリカ海軍によって日本海軍はほぼ壊滅させられていた。そのため、日本と太平洋方面の間の補給線はほぼ完全に遮断され、満州や中国大陸それに朝鮮と日本の間の補給すら寸断されていた。もはや日本列島は完全に孤立する寸前であった。本土決戦と叫んだところで弾薬兵器が不足しているだけでなく、食糧自給も欠乏していたため、1945年末までには数多くの餓死者が出ても不思議ではない状況であった。したがって、日本指導層に少しでも理性が残っていたならば、原爆攻撃など敢行しなくても間違いなくポツダム宣言を受諾したであろう」

611名無しさん:2015/08/13(木) 15:24:10
>>610

 さらに、原爆使用決定過程において何人かのアメリカ海軍首脳部が原爆攻撃に強く反対していたという事実を根拠にして、以下のように当時の海軍を擁護する海軍関係者も少なくない。

 「海軍首脳の多くは原爆攻撃について軍事的理由からも人道的理由からも反対した。ただし、もし原爆攻撃なしで日本が降伏した場合、勝利の主役はアメリカ海軍ということになる。なんといっても、海軍が反撃に転じたミッドウェイはじめ数々の海戦や、ガダルカナルやタラワを皮切りにした数多くの島嶼攻防戦によって、日本海軍や島嶼守備隊をほぼ全滅に追い込んだのは海軍と海兵隊(海軍と海兵隊はともに海軍省が管轄する)だった。したがって、陸軍陣営は海軍(と海兵隊)に太平洋戦域での手柄を独り占めにされるのを嫌って、硫黄島攻略戦以上に強烈な決定打が欲しかったのだ。まさに原爆攻撃はうってつけであった」

■ 戦争を終わらせたのはソ連の満州侵攻だった

 このように「原爆攻撃は不要であった」とする人々も、2発の原爆によって「少なくとも終戦が決定的になった」という点では「原爆攻撃免罪論」と五十歩百歩である。

 しかし、「原爆によって終戦がもたらされた」という説明を“神話”であると退ける人々もいる。

 例えば、以下のような理由で、日本がポツダム宣言を受け入れたのは原爆攻撃を受けたからではなく、ソ連が対日戦に踏み切ったからであると主張する人々もいる(例えば、Ward Wilsonの「爆弾ではなくスターリンが日本を打倒した」Foreign Policy、2013年5月30日)。

 日本の最高戦争指導部、とりわけ1945年当時に最も権力を掌握していた陸軍首脳は、さすがに敗戦は避けられないとは感じていたものの、「国体護持」と「軍指導者の戦争犯罪人裁判回避」という条件のもとでの終戦実現に関心を集中させていた。アメリカによる対日無差別都市爆撃での日本国民の犠牲は、最も重視すべき関心事というわけではなかったようである。

612名無しさん:2015/08/13(木) 15:25:08
>>611

 実際に、広島攻撃前の3週間だけでも17の都市がB-29の絨毯爆撃攻撃を受け壊滅的損害を受けている。しかし、戦争指導部にとって衝撃であったのは、そのような国民の多大な犠牲よりは、8月9日午前0時から開始されたソ連軍の満州侵攻であった。これによって、戦争指導部にとり最後の望みであったソ連を通しての停戦工作の望みが完全に絶たれたからである。

 そして、最高戦争指導会議がソ連侵攻後の8月9日に開催され、昭和天皇の「ご聖断」を仰ぐことになった御前会議が8月10日午前0時3分から開催されたのであった。

 このような時系列から判断しても、日本の戦争指導部に終戦の決意を促したのは、原爆というよりはソ連であったということができる。

■ アメリカにも日本にも都合が良かったという説

 日本降伏の直接的な引き金は原爆だったのか?  ソ連だったのか?  という議論をより進化させて、「原爆攻撃は、日本の戦争指導部にとっても“タイミングが良い”出来事であった」という考え方も存在する。

 すなわち、原爆攻撃以前にも多数の都市が絨毯爆撃攻撃や艦砲射撃によって破壊され、数多くの国民が犠牲になっていったが、日本の戦争指導部はそのことに対してあまりに無能であった。

 ところが、「残虐なる新型爆弾」による「想像を絶する損害」を口実にポツダム宣言を受け入れることにすれば、自らの無能な戦争指導から原子爆弾に責任を転化することができるというわけだ。

 つまり、「原爆攻撃免罪論」はアメリカのリーダーたちにとっても日本の最高戦争指導部にとっても、それぞれ自身が抱える罪悪感を軽減するために好都合な説明ということになる。

 もちろん、このような解釈も数ある「原爆攻撃に対する議論」の1つにしか過ぎない。しかし、被爆国である日本がさしたる疑問も抱かずにアメリカでの定説であるからというだけで「原爆攻撃免罪論」を受け入れているようでは、犠牲になった人々に対して無責任であるとの誹りを免れないであろう。

北村 淳

613とはずがたり:2015/08/15(土) 20:52:50

細川護熙元首相「祖父、近衛文麿の“遺書”が裏付けた侵略戦争」〈週刊朝日〉
dot. 2015年8月14日 07時00分 (2015年8月15日 15時52分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150814/asahi_20150814_0000.html

 元熊本県知事、第79代首相の細川護熙(もりひろ)氏は、戦後70年の談話(安倍談話)について持論をこう語る。

*  *  *
 私の祖父の近衛文麿は、亡くなる前の晩に次男の通隆に宛てて遺書のようなものを残していますが、その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は自分の政治的誤りであったということを言っています。先の大戦は侵略戦争であったということを裏付けるような発言です。当時その責にあった人がそう言っているわけで、その言葉は重く受け止めざるをえない。

 だから首相に就任した1993年8月の最初の記者会見で記者の質問に答え、先の大戦について侵略戦争だったと、間違った戦争だったと認識していると、首相として初めて明言しました。私が言わなかったら村山談話も小泉談話もあそこまで踏み込んだものにならなかったかもしれません。それまで歴代の総理は、戦争を通じて多大な損害を与えたことに対する真摯な反省の気持ちを述べられていましたが、「侵略」に関しては政権の内外とも奥歯にものが挟まったような発言が繰り返されていました。しかし、私には明確な歴史認識を示すことで、近隣諸国の対日不信感を払しょくする一助になるのではないかという信念がありました。

 私の発言は、中国と韓国はもちろん欧米の首脳にも広く歓迎されました。ロシアのエリツィンさんは、首脳会談で来日されたとき、私のあの発言がなかったら、自分はここにいなかったとはっきりと言われました。

 おそらくあのときが一番、日本とほかの国との関係が外交的にはうまくいっていたときだと思います。

 でも自民党からは、もう総攻撃でした。石原慎太郎さんや橋本龍太郎さんらから予算委員会でも徹底的に追及されました。当時の与党のみなさんもびっくりされたと思います。与党の人たちからは特になにも言われなかったんですが「よく言った、そのとおりだ」と真っ先に言ってくれたのは小泉(純一郎)さんだったというのも意外でしたね。

 安倍さんが戦後70年談話を出されるということですが、私の考えは極めて簡単で、村山、小泉談話をそのまま継承すればいいということです。いささかでも私の発言や村山談話から外れてその精神を損なうものであれば、それは有害なものになるでしょう。「侵略」とか「植民地」とかいくつかのキーワードを継承していかないと、「未来志向」と言っても意味がない。

 そもそも10年ごとに談話を出す必要もないと思っています。過去に対して向き合うのが10年ごとに変わるのでは困ります。そして日本と中国、韓国との関係においては、平和友好以外の選択肢はありえません。

(構成 本誌・長倉克枝)

※週刊朝日 2015年8月21日号

614名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:33
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00044645-gendaibiz-soci
日本人はヒトラーをどう見ていたか?〜ファシズムへの共感が広がった理由 【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』4
現代ビジネス 8月14日(金)9時1分配信

 日本はなぜファシズムに傾斜していったのか? モデルとなったのはもちろんヒトラーのナチスドイツ。当時の日本人はこれをどう見ていたのだろう。ヒトラーのナチズムが「先進的な模範モデル」として徐々に共感を広げていった様子を追う。

 (*井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』より「Ⅳ章 カリスマ待望と戦争」を4回に分けて特別公開。最終回)

ファシズムへの共感

ヒトラー・ユーゲントの一大旋風
 日本国民に枢軸国に対する親近感を抱かせるうえで、大きな政治的・社会的役割をはたしたイベントとして、ヒトラー・ユーゲント(ドイツ青少年団)の来日がある。

 1938(昭和13)年8月、横浜港にグナイゼナウ号で来日した一行30名余は、11月に神戸から帰国の途につくまでの約3ヵ月間、日本に一大旋風を巻き起こすことになる。

 写真壁新聞も逐一、報道する。8月19日号「ようこそ!! 若き盟友!! /青年日本の歓迎裡に憧れの帝都へ」は、「バンザイバンザイの熱狂的な青年日本の歓迎陣に迎えられて……防共の誓新たなるを覚える中に宮城へ堂々と行進を起した」として、宮城前を行進するヒトラー・ユーゲントの写真を載せる。その写真は東京駅から宮城へとハーケンクロイツの旗を先頭に行進するヒトラー・ユーゲントを取り巻く人びとが埋め尽くしている。

 写真壁新聞は、他方でドイツを訪問する日本の青少年団の様子も伝えている。8月21日号「独逸各地で歓迎攻め/我が訪独青少年団代表一行」は、港に到着した直後の行進風景の写真である。

 ヒトラー・ユーゲントの足跡を追う写真壁新聞は、9月21日号で大島の三原山を登山する一行の姿を伝えている。「活火山を持たぬドイツ国民とて火山ではすっかり驚嘆〝凄い凄い〟を連発して下山」したという。

 ヒトラー・ユーゲントの来日の政治的・社会的影響は大きかった。一行の様子は多くのメディアが報じた。『ホーム・ライフ』もそうである。1938年10月号は、3頁の特集を組んでいる。「万歳・ヒットラー青年」は、靖国神社を参拝する一行の写真である。横浜港上陸から東京駅前、富士登山、山中湖畔での「日本青少年団交歓キャンプ」の写真がつづく。

615名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:59
>>614

模範国としてのナチス・ドイツ
 注目すべきことに、亀井貫一郎「この世界観──自由主義を揚棄する所以」が同じ号に掲載されている。亀井貫一郎とは、社会大衆党の幹部のひとりで、近衛内閣の成立に協力した人物である。当時、亀井は前年に訪問したドイツから帰国し、近衛新党の結成を画策していた。

 亀井は同論考において、「日本はナチス・ドイツの真似をしているとよくいわれる」と言う。ところが亀井によれば「これはまちがいで、実はナチス以前の統制の真似をやっているにすぎない」。日本はナチス・ドイツと同様に「新らしい文化を建設するために、自由主義を揚棄するのである」と力説する。

 「そのためには男性も婦人も『性』を超越し、一つの目的へ向わねばならない、この世界観さえしっかりしていれば、末梢的な梅干弁当や、見当違いの勤労奉仕などから起る矛盾も解消すると思う」。

 ナチス・ドイツは男女間の格差を是正する新しい文化と生活様式を創造する国である。亀井にとってヒトラーのドイツは、この意味で日本の模範国だった。

 ドイツの社会的な影響は『ホーム・ライフ』にもおよんでいる。その具体的な現われの一つが日本の「民族優生保護法案」への関心である。大和民族をより強く、より立派にしようとする法律にもとづく民族強化政策は、明らかにナチス・ドイツに範を求めたものだった。

 同誌の1939(昭和14)年12月号は、「京大講師・医学博士藤森速水」に「ドイツに留学中何かと見聞したナチス・ドイツの民族強化政策」を語らせている。藤森は言う。

 「国家が権力をもって人たるの本能を奪うのは怪しからんと説く人があるが、これは大変な誤解である。今日の進歩せる手術をもって断種法を施す場合、被手術者に何らの苦痛を与えず、しかも手術後も何ら人生の本能を阻害することなく生殖能力を差止めることができる」。

ヒトラーの下での平等──山田耕筰がみたドイツ
 ヒトラー・ユーゲントをとおして生まれた共感のさきにあったのは、優生学への関心だけではなかった。以下ではドイツで見聞を広めたふたりの人物に注目する。

 ひとりは音楽家の山田耕筰である。山田は1938(昭和13)年1月13日から15日の『東京朝日新聞』に「ナチ独逸人を語る」を連載している。このなかで山田は、ベルリンフィルハーモニーによる自作の曲の演奏会のことにふれる。山田は見逃さなかった。入場券には「この演奏会、ユダヤ人の入場を許さず」と記されていた。

 しかし山田はユダヤ人差別の是非を論じることなく、別の点でドイツ人を賞賛する。「独逸人の性格でまた最も尊敬すべきものの一つに身の程を知るという美点がある」。「身の程を知る」とは何か。「床屋は床屋として、下僕は下僕として其職を蔑まない。あらゆるものがその与えられた職分を守って精進する」。これがドイツ人にとって「身の程を知る」ということだった。

 他方で日本においては、山田によれば、たとえば「車夫」が弁護士になるといった「成功線上を彷徨して夢の成功を握」ろうとするという。これではいけない。ドイツ国民の「健康性」は「吾が国の現状には移し植えて培うべき特性である」と山田は言う。

 要するに山田が感嘆したのは、ヒトラーの下でのドイツ国民の平等だった。ヒトラーの下で職業の貴賤はない。ヒトラーの下で社会的な格差が是正される。

 「持たざりし大多数の者が持ち得ざりしあるものを与えられて、はじめて僅なる陽の目を喜び楽しんでいる……。国家社会主義ナチの現象としてはこれはあまりにも当然すぎる事実である」。

 山田は叫ぶ。「この勝れた盟邦独逸と独逸国民の上により多き祝福の加えられんことを祈念し、Heil Hitler!」(『東京朝日新聞』1938年1月15日)。山田はヒトラーの国家社会主義による社会の平等化に日本の理想を見出した。

616名無しさん:2015/08/15(土) 21:12:22
>>615

新しい生活様式のモデル
 もうひとりは「東京聯合少年団中央健児女子部長藤村千良女史」である。藤村のドイツ見聞録は、「新興の意気が到る処に満ち満ちて居ることでした。何を見ても唯感心する他なく、学ぶべきことが実に沢山ありました」とはじまる(『東京朝日新聞』1938〈昭和13〉年9月16日、17日)。

 藤村は日本の女性に伝える。

 「ドイツに於ける赤ちゃんの大切にされていることは日本の婦人には想像だに出来ないことです。/汽車などに乗る時でも、お母さんが腰をかけているその前に、赤ちゃんは乳母車ごとそのまま乗れるようになって居ります。/地下鉄などでも赤ちゃんの乳母車の上げ下ろしを男子までが、自分の子供よりも大切にして手伝うのです」。

 藤村は乳幼児と母親が社会的に大切にされている理由がわかっていた。「よい体格の女子とよい体格の男子との結婚によってよき子を生むことに依って強き第二国民に将来の大使命を負わせよう」とするためである。それでも藤村にとって、ヒトラーのドイツの下では、男女は平等だった。

 藤村は言う。「ドイツの婦人全体に真に国家のためと云う観念が生活の凡ゆる方面に漲って、緊張した生活をしています」。藤村はこのような緊張感を日本の銃後社会に持ち込もうとした。「盟邦ドイツに学んで、更に一層銃後の婦人の緊張に拍車をかけなければならないと思います」。

 ヒトラーのドイツは日本の新しい生活様式のモデル国家となった。

ファシズム優生学への「期待」
 日本はドイツのようなファシズム体制をめざす。そうは言っても日本は日本である。ドイツを真似したところで同じようになれるわけがなかった。

 たとえばナチス・ドイツ流の優生学を導入するといっても、限界があった。この点に関して、医学博士の林髞は言う。

 「この事変以来、日満支の一体が叫ばれ、日本人の進出を多く見るようになったが、その場合結局一番問題になるのは異種族間の結婚……だが恐らくこの問題は、近親結婚よりこの方が数からいって少くはないかと思う。異種族間の結婚問題は、ある程度の弊害はあるとしても、要は増殖率が多いかどうかにあると思う」(『ホーム・ライフ』1939〈昭和14〉年12月号)。

 日本はドイツのようにユダヤ人を排除しアーリア民族の優秀性を唱えたくても唱えることができなかった。日中と「五族協和」を掲げる満州国の三国が「東亜協同体」をめざす立場からすれば、「五族」の異種族間の結婚は、推奨すべきではあっても、禁止すべきことではなかったからである。

 この背景にはつぎのような日独のちがいがあった。ドイツは第一次欧州大戦に敗れて植民地を失った。対する日本は形式的ではあれ、戦勝国である。しかも台湾を領有し、韓国を併合している。日本はすでに多民族国家だった。多民族国家日本が一方的に大和民族の優越性を強調するわけにはいかなかった。

 優生学の導入は、日本の文脈において再解釈される。当時の日本では、法律によって、伯父・叔父と姪、伯母・叔母と甥の結婚は禁止されていた。それを従兄妹同士にまで広げようというのである。

 林は言う。「日本で問題になる近親結婚としては、この従兄妹同士というのが一番多いわけだから、時代が経つと禁止になるかも知れないと、私は思っている」。

 近親結婚は、自由主義的な結婚観の立場からであっても、忌避されるべきだろう。これはナチス・ドイツ流の優生学とは異なる。医学の発達段階にともなう近代的な常識にもとづく判断である。

 それでもファシズムが持つ平準化作用の魅力は失われない。林は結婚した者には独身者の二倍の賃金を与えろと提言する。戦争景気の下で高賃金を得た独身の若い労働者が贅沢をしている。「この弊害を改める上にも、妻のある者には二倍の高賃金を払うか、独身者には普通の賃金しか払わないとなれば、独身者はそんなに遊びまわる余裕がなくなり、早く結婚して平和な生活をしようと工夫するようになると思う」。

 ファシズムの優生学は賃金格差の是正と「平和な生活」への期待を抱かせた。

617名無しさん:2015/08/15(土) 21:13:00
>>616

近衛新体制の末路
 日本は日本的なファシズム体制をめざす。日本的とはいっても、ファシズム体制である以上、大衆に支持される「独裁者」が必要だった。日本の場合、その「独裁者」は近衛以外に見当たらない。本章1節(→こちら)でふれたように、近衛は三度、政権の座に就くことになる。

 近衛に対する大衆の期待は変わることがなかった。「近衛氏のほかに、人なしとして、同氏にだけ、のぞみをつないでいるというありさま」だった(筒井清忠『近衛文麿』)。

 その近衛は第二次組閣に際してのラジオ放送において、政府と国民が一体となって社会の平準化(より正確には戦時下における下方平準化)をめざすべきことを訴えた。

 「国民の全部が皆私心を去り、一面積極的増産に力を致すと共に、他方大節約に努めなければならない。/凡そ奢侈逸楽を事として興隆せる国家は未だ曽て之を見ない。政府に於ても予算に出来るだけ削減を加え、不急を除き、冗費を節したい」(1940〈昭和15〉年7月23日放送)。

 大衆が支持したのは、近衛の下での社会の下方平準化だった。

 新体制の確立をめざす近衛を勇気づけたのは欧州情勢である。ヒトラーの電撃戦の成功は欧州新体制をもたらしつつあるようにみえた。近衛にとってヒトラーのドイツは、近衛の「弱い性格」を補完する。仮装パーティでヒトラーに扮した近衛の写真がある。この写真は近衛の二面性を示唆する。

 一方では近衛はヒトラーを揶揄しないではいられなかっただろう。ヒトラーの出自と野蛮な暴力主義の権力奪取の手法は、近衛とは相容れないところがあった。他方では、ヒトラーの存在は近衛の決断力不足、優柔不断さの心理的補償作用となった。

 近衛がめざしたのは、そのヒトラー(とムッソリーニ)との三国同盟による国際新体制およびこの国際新体制と連動する国内新体制の確立だった。

 近衛にとっての国内新体制とは、ナチズム体制に類似した一国一党体制のことである。しかしこの国家路線を追求する過程で、近衛は帝国憲法の改正という難問に直面する。憲法改正をためらった近衛が作ったのは大政翼賛会だった。大政翼賛会は、一国一党体制とはほど遠い、諸政治勢力の寄せ集めにすぎなかった。

 他方で国際新体制に関しても、元老西園寺がさきの近衛のラジオ放送を評して「実にパラドックスに充ちていた」と述べたように、三国同盟と日米関係の調整を両立するのは困難だった。三国同盟は近衛の主観的な意図とは異なり、客観的な結果としてはアメリカに対日戦争の覚悟を固めさせることになったからである。第三次近衛内閣は総辞職する。

 それでも写真壁新聞の1941(昭和16)年10月28日号は「大活躍の我が野村駐米大使」との記事において、ワシントンで対米交渉をつづける野村(吉三郎)大使の写真を掲載している。依然として政府は、国民に対米国交調整の努力を伝えていた。

 しかし日米交渉は不調に終わる。政党内閣崩壊後、残されたほとんど唯一の切り札だった近衛を失った日本に真の危機が迫っていた。

 (了)

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井上 寿一(いのうえ・としかず)
1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程などを経て、現在、学習院大学法学部教授。法学博士。専攻は日本政治外交 史。主な著書に『危機のなかの協調外交』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)がある。
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井上寿一

618名無しさん:2015/08/16(日) 18:19:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150814-00003107-kana-l14
戦死の誤報で母再婚 父2人のはざまで娘は…
カナロコ by 神奈川新聞 8月14日(金)7時0分配信

 父の腕に抱かれ、ハンカチで口元を押さえる少女。BC級戦犯としてフィリピンで死刑判決を受けながらも恩赦によって横浜港に帰還した元日本兵と、約10年ぶりに再会した子どもたちの写真が、1953年7月23日の本紙に載った。その少女、尾畑慶子さん(76)=旧姓前川、横浜市鶴見区=は「これで元に戻れる、と思いました」と当時の心境を振り返る。けれども、そこに母の姿はなかった。夫が戦死したとの誤報を信じて再婚していたからだ。市井の人の「戦争」は続いていた。

 「私は覚えていないんですが、お葬式をしたと母から聞きました」と慶子さんは話す。終戦から2、3年後に父・前川治助さんの戦死公報が届いた。母の邦子さんは、生活を案じた近所の人の紹介で再婚した。2人の幼い弟は新潟の父方の実家に引き取られ、母は新しい父との間に妹と弟をもうけた。

 治助さんがフィリピンの刑務所で健在だと分かると、邦子さんは煩悶(はんもん)した。日本人戦犯の減刑のために奔走した横浜出身の歌手、渡辺はま子さんにしたためた手紙に「再婚したものゝ、前川が生存して居ると知つた其の時から、此の帰りを待ちわびて来た私でした」と真情を吐露した。

 帰国がかなった53年7月の恩赦に加えて同年12月、さらなる恩赦で釈放されるまで、治助さんは東京・巣鴨刑務所で服役した。その間、邦子さんは再婚した夫とともに巣鴨を訪れ面談した。結局、邦子さんが選んだのは治助さんだった。その気持ちを慶子さんは推し量る。「あんたが大人になったら分かる、とだけ言っていました。結局、好きだったということでしょうね。母は大恋愛で結ばれ、16で私を生んだんです」

 治助さんは邦子さんを許し、新潟の弟たちも一緒に暮らすことになった。横浜港で慶子さんが見せた涙には、新潟、横浜と離れ離れだった弟に再会した喜びもあった。「うれしくてしょうがなかったんです」

 一方で、新しい父は身を引き、妹と弟を連れて家を出た。慶子さんにとって、その2人も大切なきょうだいだった。内職に忙しかった母に代わり、赤ん坊のころから銭湯へ連れて行き、かわいがったのだ。「会いたくて、親に黙って顔を見に行ったこともあります」

 その弟は病で早世し、妹は慶子さんが20代前半のころ奉公に出されることになった。そのことを慶子さんが伝えると、治助さんは自分が引き取ると言った。戦後十数年、戦争に翻弄(ほんろう)された慶子さんのきょうだいが一つ屋根の下に集まった。「私たちを育ててくれた新しいお父さんにも恩返しができたと思いました」

 治助さんが亡くなったのは90年。フィリピンでのことは口を閉ざしたままだったが、かの地で10年間、家族を思い続けたことだけは確かだった。慶子さんは、横浜港で父が最初に発した言葉を忘れない。「お前、腕は大丈夫か」。ごく幼いころ腕に負ったやけどを、ずっと心配していたのだ。

 ◆フィリピンのBC級戦犯 非戦闘員や捕虜などを殺害、虐待したなどの容疑でフィリピン政府が起訴した日本兵151人を指す。79人が死刑判決を受け17人が刑死。エルピディオ・キリノ大統領の恩赦で帰国できたのは108人だった。戦犯は首都マニラ郊外のモンテンルパにあるニュービリビッド刑務所に収監された。教誨(きょうかい)師の加賀尾秀忍や、戦犯が作詞作曲した「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌った歌手の渡辺はま子らが減刑を嘆願した一方、日米両軍が激突し約10万人の民間人の命を奪った1945年のマニラ市街戦などを背景に、日本兵に対する住民の憎悪は根深かった。自身も妻子4人を日本兵に殺されたキリノは、キリスト教精神に基づき恩赦を決断したが、必ずしも国民の共感は得られず、直後の大統領選で落選した。

619とはずがたり:2015/08/20(木) 12:28:24
イタリアもエチオピアやリビアへの侵掠の罪を直視してんだろーねー。
そしてその先には当然宏大な土地を侵掠した英仏の罪がある筈である。狂った帝国主義時代を反省すべくガンガンやろう♪

イタリア、「日本の中国侵略の罪」を歴史教科書で明確に・・中国への関心高まり―中国メディア
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150820/Xinhua_26689.html
フォーカス・アジア 2015年8月20日 12時05分 (2015年8月20日 12時20分 更新)

中国・新華網は19日、イタリアの小学校から高校で使用する歴史の教科書で近年、「日本の中国侵略の罪」が明確に記述されるようになったと伝えた。イタリアで中国への関心が高まったことが背景にあるという。
報道によると、10年前、イタリアの歴史教科書では中国に関する記述があまりなかったが、今ではさまざまな教科書が日本の中国侵略について記し、「満州国の成立」や「南京大虐殺」にも言及するようになった。ある教科書では「日本は歴史修正主義で、虐殺の罪を認めることを拒絶しているだけでなく、中国で犯した罪について教科書の中で大きく扱わないようになってきた」と指摘している。
ローマのある歴史教育専門家は、イタリアの歴史教科書で中国に関する内容が増えた背景について、中国が世界第2位の経済体となり、その歴史を理解することの重要性が高まったこと、中華系住民が増えたこと、また同国の歴史教育が欧州中心主義ではなくなってきたことがあると語った。
(編集翻訳 恩田有紀)

620とはずがたり:2015/08/27(木) 11:16:12

日本は謝罪も経済支援もした!中国のくどい“お詫び要求”に根拠などない―仏メディア
レコードチャイナ 2015年8月26日 19時14分 (2015年8月27日 11時02分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150826/Recordchina_20150826057.html

17日、仏メディアRFI中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。写真は中国人民抗日戦争記念館。(Record China)

2015年8月17日、仏国際ラジオ放送ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。

同記事は中国の作家らの文章を引用し、中国の寛大さに感謝を示した安倍談話を「中国への尊重」と評価。過去の戦争を反省し、永遠の不戦を誓った日本に比べ、日本による侵略、植民地化をくどくどと訴える中韓はあまりにも遅れていると指摘する。さらに、田中角栄元首相が初めて毛沢東国家主席(当時)に会った際、頭を下げたことに触れ、「日本が中国に謝罪していないなどということはない」「反省や謝罪だけでなく、罪を償うための賠償もしている」と巨額の対中支援や対中投資を例に挙げた。

さらに、「平和主義を掲げる日本が軍事拡張路線を進む中国に服従するはずがなく、民主主義の日本が権威主義の中国に屈することはない。国際主義の日本が民族主義の中国の配下となることもない」と述べ、現実的な中国人は日本人とむやみに張り合おうとすべきではないと指摘した。

このほか、「人類にとって戦争は日常茶飯事で、侵略者と被侵略者の違いは、どちらが勝ったかで判断される」「領土割譲や賠償、戦勝国による一定期間の占領、戦争裁判などが終われば、敗戦国の謝罪や清算も終わりを告げられる」との意見を紹介し、償いを終えた敗戦国にいつまでも戦争問題を訴え続けることに疑問を呈した。

その上で、日本の首相が替わるたびに中国が謝罪を求めている点を挙げ、同じ敗戦国であるドイツやイタリアでは見られない事態だと指摘。また、「日本人と中国人では謝罪の捉え方が違う」と説明し、「中国人にとっての謝罪は負けや失敗を意味するがゆえに中国人は謝罪問題に対して強い姿勢に出る」との見方を紹介した。そして最後に「安倍談話に盛り込まれた“謝罪”というキーワードは、表面上は中国の勝ちのように思われがちだが、国際世論を考えれば本当の勝者は安倍首相だ」とまとめた。(翻訳・編集/野谷)

621名無しさん:2015/08/28(金) 00:05:10
http://news.livedoor.com/article/detail/10503441/
【戦後70年首相談話】橋下氏、「謝罪の宿命負わせない」に同意 「指導者と国民は別。政治家は謝罪し続けなければ」とも… 
2015年8月24日 8時7分 産経新聞

 橋下徹大阪市長(維新の党最高顧問)が23日、安倍晋三首相の戦後70年談話に初めて言及した。

 「戦争責任は国家の指導者と国民を分ける二分論で整理すべき」と述べ、「政治家は反省を前面に出し、まだ謝罪をし続けなければいけない。中国や韓国には謝罪の意はきちっと表明しなければいけない」との持論を展開した。

 市内で行われた市主催の戦後70年記念行事のあいさつでの発言。橋下氏の言う「二分論」は、「二分法」として知られる戦争指導者と国民を分ける中国の論理で、橋下氏は日中国交正常化で中国が国内の説得に使った論理として引用した。

 ただ、この二分法の論理は「A級戦犯」をまつる靖国神社への首相参拝を批判する根拠にもなっており、国政政党の幹部でもある橋下氏が中国側の論理を引いて戦争責任のあり方に言及したことで波紋を広げる可能性もある。

 また、橋下氏は「変なところで過去の歴史を正当化したり、謝罪はもういらないと言ったりするのはあり得ない」と述べ、「戦争の一番の歯止めは指導者に常に反省の気持ちを持ち続けさせること」と語った。

 一方、安倍談話が「(将来世代に)謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言及した部分には同意。「日本だけでなく、いろんな国が帝国主義だった時代だ。原爆投下や大阪大空襲など民間人無差別攻撃も問題提起しなければならない」とも指摘した。

622名無しさん:2015/08/30(日) 14:57:33
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150826-00000004-jct-soci
山本太郎議員の国会質問がまた話題 「原爆投下や大空襲は米軍の戦争犯罪では?」
J-CASTニュース 8月26日(水)19時50分配信

 山本太郎参院議員(40)が国会でした質問がまた、反響を呼んでいる。今度も、「米軍による日本への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪ではないのか」という単刀直入なものだった。

 山本太郎氏は、誰もが持つ素朴な疑問を次々に安倍晋三首相にぶつけている。2015年7月29日には、「原発がミサイル攻撃されたら?」と質問して、ネット上でもその内容が賛否両論になった。

■イラク戦争での米軍による「一家銃殺事件」を取り上げる

 今回質問したのも、安保関連法案を審議した同じ参院平和安全法制特別委員会だった。「生活の党と山本太郎となかまたち」共同代表として、山本氏は8月25日の委員会で、安倍首相の見解を問いただした。

 民間人の殺害などを禁じるジュネーブ諸条約、国際人道法は、日本も批准している。山本氏はまず、日本がこうした国際法に違反する行為をしている他国への支援、協力は行わないかへの確認を求めた。

 答弁に立った安倍首相は、自衛隊が国際法違反の行為への支援は行わないのは当然だとし、もしある国がこうした行為をしたとき、日本がその行為を支援することはないと明言した。それは、同盟国でも米軍でも同じで、日本は共犯者になることはないと言い切った。

 そこで、山本氏は、フリージャーナリストの志葉玲さんが4月28日にヤフー・ニュースに投稿した記事を元に、イラク戦争のケースを取り上げた。記事では、06年3月15日にイシャキ村で米軍が一家銃殺事件を起こしたと紹介し、安保法案について、こうした戦争犯罪でも日本は支援するのかと疑問を投げかけている。山本氏は、この記事内容について、「総理、これ戦争犯罪ですよね? 国際法違反ですよね?」とただした。

 これに対し、安倍首相は、事実確認のしようがないので、論評は差し控えたいと述べるに留まった。

「必要な議論」「政治で通じない」賛否分かれる
 米軍のほかの行為について、安倍首相と同様なやり取りをした後、山本太郎氏は、「もっと分かりやすい例え」を持ち出した。それは、多くの一般市民が犠牲になった広島や長崎への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪であり国際法違反ではないかということだ。

 この点については、民主党議員からもすでに質問があり、政府は8月14日の臨時閣議で、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものであった」などとする答弁書を決定している。そのことを踏まえ、岸田文雄外相は、山本氏の質問に「国際法の思想的基盤にあります人道主義の精神に合致しない」とだけ述べた。

 これに対し、山本氏は、安倍首相に聞いており外相は呼んでいないと不満を漏らし、「過去の米軍の過ちを認められないものが、どうやって戦争犯罪常習国である米国の行動をこの先ジャッジできるんですか」と批判した。最後に、山本氏は、「自衛隊は、米軍の2軍ではないんですよ」と指摘して、安保法案に対して反対する考えを強調した。

 国会での山本氏の質問については、今回もネット上で、賛否両論になっている。質問に共感する声としては、「よく言ってくれた」「これは必要な議論でしょ」「割と痛い所ついてくるよなw」といった書き込みがあった。一方で、「安保法案を理解してないね」「正論が政治で通じるとは限らんのよ」「アメリカを敵に回して何かいいコトあるんか?」といった疑問や批判も出ていた。

623名無しさん:2015/08/31(月) 18:10:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015083100531
戦後70年談話を評価=「侵略、一人称が望ましかった」-北岡座長代理

 安倍晋三首相の戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一国際大学長は31日、東京都内の日本記者クラブで会見し、談話について「基本的には、懇談会の報告は大体踏まえていただいて、ほぼ満足している」と評価した。
 一方、談話に盛り込まれた「侵略」に関しては、「ここは(首相に)一人称でできれば言ってほしかった」とも指摘。「植民地支配の犠牲者についても、もうちょっと触れてもよかった」と述べた。
 北岡氏は、談話を受けた中国と韓国の反応にも言及。韓国に関しては「非常に理性的で抑制されたものだった」としたが、中国については「こんなに書いたんだから、もう少し良く受け止めてくれるかと思った」と感想を語った。 (2015/08/31-15:44)

624とはずがたり:2015/09/01(火) 16:42:08
その金は何処へ行ったんだ?戦後汚いカネでのし上がった日本の新興企業も多そうだ。

日本が戦争中に中国から奪った金は6000トン、日本はこれで戦後復興した=中国ネット「中国は戦争に勝ったのに…」「侵略者よ、ありがとう!」
配信日時:2015年8月30日(日) 21時22分
http://www.recordchina.co.jp/a117764.html

2015年8月27日、広州日報は「第2次世界大戦中に日本が中国で略奪した文物は10万点、金は6000トンに上る」とする記事を掲載した。これに中国のネットユーザーが反応を示している。

記事は、日本が大戦中に中国を含むアジア各地から洗いざらい持ち出したと説明。「中国から奪った金は6000トン、東南アジアでは1万トンに上る。これらは日本の戦後復興を支えた基盤となり、奪われた側のアジア諸国は貧困に苦しんだ」と指摘し、当時これに関わった人の話として「日本の手段は卑劣極まりない。墓に埋葬された人が身に付けていた金品まで持ち去った」と伝えた。さらに、現在でも日本各地の博物館で当時の略奪物が展示されていると紹介し、なかには重要文化財として展示されている文物もあると説明した。

625とはずがたり:2015/09/02(水) 08:29:30
習氏、抗日勝利「国民党も貢献」…中台連帯演出
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E7%BF%92%E6%B0%8F%E3%80%81%E6%8A%97%E6%97%A5%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%80%8C%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%82%82%E8%B2%A2%E7%8C%AE%E3%80%8D%E2%80%A6%E4%B8%AD%E5%8F%B0%E9%80%A3%E5%B8%AF%E6%BC%94%E5%87%BA/ar-AAdPuQu
読売新聞 9 時間前

【北京=竹内誠一郎、台北=向井ゆう子】中国の習近平国家主席は1日、「抗日戦争勝利70年」の軍事パレード出席のため北京を訪問している台湾与党・国民党の連戦元党主席らと会談し、中国国営新華社通信によると、共産党と国民党が「ともに抗日勝利に重要な貢献をした」と強調した。

国民党が反発してきた「共産党が抗日戦争の主体だった」とする従来の主張は控え、パレード開催に向け、中華民族としての連帯を演出した形だ。連氏も「国民党は正面作戦で日本軍に大きな打撃を与え、共産党はゲリラ作戦で日本軍をけん制、壊滅させた」と中国側に歩調を合わせた。

連氏の発言に対し、台湾の総統府報道官は1日、「すべては国民党が指導した。史実を否定することは許されない」と批判した。

626名無しさん:2015/09/03(木) 22:40:43
http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&k=2015082900152
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年2月、米英とのヤルタ会談で、対日参戦の見返りに南樺太(サハリン)と千島列島を占領する極東密約を結んだ。ドイツ降伏3カ月後の8月9日、日ソ中立条約を破棄して満州(中国東北部)に侵攻。樺太では11日、千島では18日から戦闘を始めた。日本兵はシベリアに連行・抑留され、逃げ遅れた在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を終えた。(モスクワ時事)(2015/08/29-14:43)

http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&k=2015090200100
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年8月9日から、米英との極東密約(ヤルタ協定)に基づき、日ソ中立条約を破って満州(中国東北部)、南樺太(サハリン)、千島列島に順次侵攻。日本兵はシベリアに連行・抑留され、在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を完了。ロシアはこれら地域を「日本軍からソ連軍が解放した」という歴史観を持つ。(モスクワ時事)(2015/09/02-07:33)

627とはずがたり:2015/09/04(金) 18:47:50
>>619-620

中国は日本に「謝罪迫る資格」なし・・・莫大なODAを忘れたか? ドイツもイタリアも侵略の謝罪はせず=仏メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%80%8C%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E8%BF%AB%E3%82%8B%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%97%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E8%8E%AB%E5%A4%A7%E3%81%AA%EF%BD%8F%EF%BD%84%EF%BD%81%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%82%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%82%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AF%E3%81%9B%E3%81%9A%EF%BC%9D%E4%BB%8F%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2/ar-BBm5RzF#page=2
サーチナ サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/25

 フランス国際放送、RFIはこのほど、運営するニュースサイト(中国語版)で、中国が歴史問題で日本に毎年謝罪を迫るのは根拠がないなどの主張を紹介する記事を掲載した。日本が莫大(ばくだい)なODAなどで中国を支援してきたことにも触れた。

 記事は、複数の中国人が示した意見を紹介する形で書かれている。まず日本が戦争行為を反省し、永遠の不戦の誓いをしていることは「だれでも知っている」と指摘。一方で、中国人と韓国人が毎日のように「日本の侵略と植民の歴史」を唱えているのは「見劣りがする」と断じた。

 謝罪については、田中角栄元首相が国交正常化のために訪中した際にすでに、「深々と頭を下げた」と指摘。日本は「贖罪のための賠償もした」として、ODAなどによる巨額の対中経済援助を挙げた。

 記事は続けて「今の平和主義の日本が、軍拡主義の中国に服従することはない。民主主義の日本が権威主義の中国に服従することはない。国際主義の日本が民族主義の中国に服従することはない」と論じた。

 戦争については、人類の歴史で「日常茶飯事」だったと主張。侵略行為の認定も勝利国によるもので、敗戦国は領土喪失、賠償、一定期間の占領、戦争犯罪者の裁判などが強いられるが、「これらが終了すれば、謝罪や清算はすべて完結したことになる」と論じた。

 さらにドイツやイタリアも侵略国であり敗戦国だが、「何度も繰り返して相手国に謝罪するのは見たことがない」、「国際法でもそんなことは定められていない。中国以外の世界中の第二次世界大戦の“被害国”は、そんなことをしない」と論じた。

**********

◆解説◆ 中国では「ドイツは戦争についてきちんと謝罪」が“常識”になっている。しかし、中国でよく例となるワルシャワにおけるブラント首相(1970年当時)の謝罪も、ユダヤ人の迫害に対するもので、ポーランド侵攻を含む戦争発動に対するものではない。

 1985年の終戦40周年式典でのフォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説では「われわれ全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされている」と述べたが、「反省」や「謝罪」の言葉はなかった。

 イタリアは日独と同盟する枢軸国として第二次世界大戦に加わったが、戦局が不利になると指導者のムッソリーニを排除し(最終的に処刑)、連合国側に加わり日本にも宣戦布告した。このため、他の連合国と同格ではないが、敗戦国扱いは受けていない。(編集担当:如月隼人)

628とはずがたり:2015/09/04(金) 18:50:03
>イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった
笑。ここhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1165050511/6-7参照

抗日戦で「本当に頑張った」のは国民党の広西軍・・・日本軍から学ぶ柔軟性もあった、「共産党軍は軽部隊」と中国人専門家
http://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E6%8A%97%E6%97%A5%E6%88%A6%E3%81%A7%E3%80%8C%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E9%A0%91%E5%BC%B5%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%BB%8D%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%9F%94%E8%BB%9F%E6%80%A7%E3%82%82%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%81%E3%80%8C%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E8%BB%8D%E3%81%AF%E8%BB%BD%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%8D%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AE%B6/ar-BBm6qCp#page=2
サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/26

 中華民国研究の専門家で、江蘇行政学院(南京市)で教授を務める李継鋒氏は、日中戦争で日本軍と最も頑強に戦い成果を上げたのは、広西省(現、広西チワン族自治区)の国民党軍だったと論じる文章を発表した。日本軍の戦い方を直ちに採用するなどの柔軟性もあったという。共産党も戦意は旺盛だったが、「軽部隊」だったという。

 李教授は、当時、ファシスト国家であったドイツや日本は戦力が高かったと主張。ただし「イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった」と論じた。

 日本については、「武器もすごかった。精神面も頑強。そのため、中国軍は死傷率が極めて高かった」と論じた。第2次上海事変で「日本軍の損害は4万人。中国軍は25万人。25万人です。どう考えたらよいのか」と論じた。

 当時の中国は徴兵制の定着前だ。「人さらい」で兵員を補充した。李教授は、「民族自衛戦争なのに、人さらい。本来ならば、自ら喜んで兵になるはずだが、そうは簡単にいかなかった」と論じた。

 李教授は、日本には徴兵制が確立していたと指摘。日本兵と異なり中国兵は多くが字も読めず、先進的な武器は扱えず、組織生活も軍事訓練も経験していなかったと説明した。

 李教授によると、戦意が高かったのは共産党の支配地域と広西省だった。広西省は中国で最も早く徴兵制度を導入し、兵士の戦闘能力は高かったという。

 広西軍は第2次上海事変にも参加した。大損害を受けたが、指導者の白崇禧、李宗仁らは日本軍の「塹壕戦」を直ちに取り入れた。広西軍は戦いが始まって数カ月で、日本軍から戦術を学習し能力を大いに向上させたという。

 共産党軍については「軽部隊。重火器もあまりない。そのため、大量補給も必要なかった」と指摘。国民党軍については重砲、戦車、航空機、自動車などを使っての戦いであり、ガソリンや弾薬の補充が絶対に必要だったと説明。組織的に大規模な戦いを進めたと指摘した。

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◆解説◆ 白崇禧は1893年生まれ。広西軍の指導者のひとり。蒋介石に日本軍の補給線を崩壊させる「総力戦」を提案した。日本の敗戦により接収した台湾で反国民党の暴動(1947年、2.28事件)が発生すると、現地に乗り込み庶民から聞き込み調査をした上で国民党側の非を認め、捕えられた学生の恩赦を行うなどした。

 蒋介石とは1946年ごろから疎遠になり、48年には防衛大臣を罷免された。国共内戦で国民党が敗北すると、大陸を離れる最後の部隊を率いて台湾に渡った。1966年に台北で没した。(編集担当:如月隼人)

629名無しさん:2015/09/06(日) 11:57:23
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015090502000251.html
新選組 斎藤一に新史料 西南戦争従軍歴など国立公文書館に恩給関係文書
2015年9月5日 夕刊

 西南戦争で右肋骨(ろっこつ)に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官-。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。
 文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の一八九三年一月十九日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。
 これによると、斎藤は七七年二月二十日に内務省の警視局で警部補となり、同五月十七日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。四日後の同五月二十一日に大分県の嵯峨へ着き、同七月十二日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同八月十五日で、戦闘終結後の同十月二十四日に臼杵で乗船。帰京後の七九年十月八日に勲七等を与えられた。
 八一年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年十一月十一日に巡査部長となり、翌年十二月に月給が十二円から十五円へ昇給した。階級は八五年七月三日に警部補、八八年十一月一日に警部へ上がり、九二年十二月十四日に退職。当時四十八歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、十六年間の勤務に対する恩給は年四十六円だった。
 これらは、妻トキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
◆実像知る手掛かり
 歴史研究家のあさくらゆうさんの話 人気漫画やゲームのキャラクターにも描かれるなど、歴史に興味がある人以外にも斎藤一の人気が広がっているが、残されている史料は少なく、足跡には謎が多い。警視庁時代のこともスパイや暗殺者として書籍に書かれるなど、怪しいイメージがつきまとうが、見つかった史料は公文書で、実像を知る手掛かりになる記録が出てきた意義は大きい。
 <斎藤一> 1844〜1915年。江戸生まれとされる。1863年に近藤勇らが京都で結成した壬生浪士組に入り、新選組となった後は最年少幹部で副長助勤に。沖田総司と並ぶ剣豪とされた。会津藩主松平容保が務めた京都守護職の下、反幕府派を襲撃した池田屋事件などのほか、新選組を離れた元隊士の暗殺にも関わったとされる。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽伏見の戦いを経験し、近藤が投降後も会津藩に合流し新政府軍に抵抗した。明治維新後は、松平家が斗南藩として再興した青森の五戸へ移り、後に上京した。

630名無しさん:2015/09/06(日) 13:08:47
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150903-00045078-gendaibiz-pol
ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
現代ビジネス 9月3日(木)6時2分配信

 なぜ、文明国ドイツにヒトラー独裁政権は誕生したのか。『ヒトラーとナチ・ドイツ』を著した東京大学大学院総合文化研究科教授の石田勇治氏に、ヒトラー政権誕生の歴史から、わたしたちはどのような教訓を導き出すことができるのか、話を聞いた。

はじめは有権者の26%しかナチ党に投票していなかった
 ーーヴァイマル憲法という民主的憲法をもったドイツに、なぜ民主主義を否定する政権が誕生したのでしょうか? 
 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」とよく言われますね。たしかにヒトラー率いるナチ党はヴァイマル共和国末期の経済的危機、社会的混乱に乗じて台頭し、1932年7月の国会選挙で第一党(得票率は37%)になりました。

 しかしナチ党の勢いはここまででした。その年の11月の国会選挙で約200万票を失い、得票率も33%に下落します。地方選挙でも大敗を喫し、12月には党のあり方をめぐって分裂の危機に直面します。

 経済はこのころ好転の兆しが見られ、このままいけば民意はさらに離れ、ヒトラーもナチ党もやがて政界から消え去るのではないかとの観測も出てきます。ヒトラーが大統領によってドイツの首相に任命されたのはその直後、33年1月30日のことでした。

 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」という言い方は事柄の本質を半分しか言いあてておらず、なぜヒトラーが首相になったのかという問いへの答えとしては不十分です。

 いま述べた32年11月の国会選挙の投票率は80%でしたから、ヒトラーが首相になる直近の国会選挙で有権者の26%しかナチ党に投票していなかったことになります。

 大衆はヒトラーの虜になっていたように言われますが、ヒトラー政権が誕生するまではそれほどではなかった。大衆はそんなに愚かではなかったのです。

 むしろ落ち目のヒトラーを救い出し首相の座に引き上げた大統領と、その周りに集まった既成の権力者たちの行動が問題でした。

「大統領の大権」で国会が形骸化
 ーーヴァイマル共和国末期の国会はすでに形骸化していたようですが、具体的にどのような状況だったのでしょうか。

 ヴァイマル憲法は、現在のドイツや日本と同じように、国会に基礎をおく議院内閣制を定めていました。しかしヴァイマル共和国末期の国会には、政党間のイデオロギー対立と相互不信が深刻化し、妥協と調整による多数派(合意)形成能力がすっかり失われていました。

 ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン、シュライヒャーといった共和国末期の政権はどれも国会に基盤らしい基盤のない少数派政権で、まともな議会運営ができません。そこで「大統領の大権」が用いられたのです。

 ヴァイマル憲法は大統領に大きな権限(首相・閣僚の任免権、国会の解散権、非常時の緊急命令権)を与えていました。この時期の政権は、その力を借りて政権運営をはかります。

 たとえば国会で否決された法案は大統領緊急令として公布されました。国会がその緊急令を否決すると、大統領が国会を解散することもありました。大統領の大権をこのように行使することは憲法が想定したものではないのですが、非常時を乗り切るためと称して頻繁に用いられ、これが国会の形骸化をもたらしました。

 ナチ党が国会第一党となり、第三党となった共産党とあわせて議席の過半数をおさえた1932年の後半には、国会はもう何も決められない状況に陥ります。

 当時の共産党はソ連型独裁を志向しており、議会制民主主義をブルジョワ支配の道具だといって攻撃していました。政府は国会を解散して大統領緊急令による統治を続けますが、世論はいっそう反発し、国会不要論が噴出してきます。

 当時の大統領はヒンデンブルクという人物です。ドイツ帝国陸軍元帥で、プロイセンの伝統を引く帝政主義者でした。25年に大統領に初当選。32年春に再選されたとき、すでに84歳でした。共和国の大衆民主主義を衆愚政治とみなし、それに代わる権威主義的な新国家の建設をめざして大統領緊急令を出していきます。

 ヒンデンブルクがヒトラーを「ボヘミアの一兵卒」と呼んで見下していたことは有名な話ですが、共産党の躍進を恐れる財界の要請をうけてヒトラーをついに首相に任命しました。

631名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:16
>>630

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

632名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:42
>>631

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

633とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:04
>>630-633
姑息な手段で「授権法」成立
 授権法成立には国会議員総数の3分の2の出席と、出席議員の3分の2の賛成が必要です。この選挙(33年3月5日)でナチ党は44%、国家人民党は8%をとり、政府は過半数の議席を手に入れます。しかしまだ十分ではありません。

 政府は共産党の国会議員81名全員と一部の社会民主党議員を国会議事堂炎上事件の容疑者として拘束(逃亡を含む)していましたが、議決にあたり社会民主党の「欠席戦術」を防ぐため、議長が認めない事由の欠席は出席とみなすという議院運営規則改正案を直前に国会に提出して、賛成多数で通過させます。じつに姑息な手段です。議場内に入ったナチの突撃隊員が見守るなか、授権法案は可決成立します。結局、反対投票したのは社会民主党だけでした。

 成立した授権法には、「国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる」(第1条)、「政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる」(第2条)と記されています。ヴァイマル憲法はこうして改正されることも廃止されることもなく形骸と化したのです。

 ナチ体制下のドイツではおびただしい数の法律が制定されました。かつては議論が百出して日の目をみることのなかった法案も易々と成立します。「決められる政治」が実現したのです。ホロコーストへいたるユダヤ人迫害は合法的に進みましたが、それはこの授権法によって可能になったのです。

 授権法の成立は1933年3月23日。ヒトラー政権の誕生からわずか50日あまりで、ドイツはもはや民主主義国家に戻れない不可逆地点を乗り越えてしまったのです。

ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
写真:現代ビジネス
権力者の恣意的な憲法解釈を許していいのか
 ーーいまの日本を考えるうえで、ヒトラーの「政権掌握」やナチ・ドイツの歴史から何が言えるでしょうか? 
 当時のドイツといまの日本とでは、それぞれを成り立たせている前提条件が違います。ヒトラー独裁政権は、第一次世界大戦から間もない、世界恐慌の最中に起きたものです。当時のドイツには議会制民主主義の考え方が十分に定着しておらず、民主主義と独裁は矛盾しないとまで言われていました。

 これに対して現在の日本では、日本国憲法が定めた議会制民主主義は少なくとも制度として広く国民に支持され、浸透しています。ただ「決められない政治」に嫌気がさして、強い首相や「決められる政治」を待ち望む声はいまの日本にも存在しますね。

 そして一昔前は考えられなかったヘイトスピーチや排外主義的な風潮の広がりは、日本の社会から寛容さが失われつつあることを物語っています。これがエスカレートすればどのような事態に行き着くか、ヒトラーとナチ・ドイツの歴史はそのあたりをよく示しています。

 さらに気がかりなのは、日本の政治指導者の誤った歴史認識です。一昨年夏の「麻生発言」は私にとって大きなショックでした。

 「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」

 麻生氏は撤回しましたが、更迭されたわけではありません。この発言で日本が失った国際的な信頼は計り知れないと思います。政治家こそ歴史をしっかり学んでほしいですね。

 最後にひとこと。

 ヴァイマル憲法は大統領の大権について「詳細は、共和国の法律でこれを定める」(第48条第5項)としながら、結局それを定めず、時の権力者の恣意的な解釈を許しました。それが大統領の大権の濫用につながり、国会の形骸化を招き、ひいてはヒトラー政権をもたらしたのです。

 憲法の条文を時の政府が勝手に解釈して、憲法の実質的な骨抜き=形骸化をはかることなどあってはならないことです。戦後70年、道を誤って独裁と戦争を招来することがないよう、過去の人類の失敗の歴史をふりかえることは、大切なことのように思います。

 読書人の雑誌「本」2015年9月号より

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石田 勇治(いしだ ゆうじ)
1957年、京都市生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)修士課程修了、マールブルク大学社会科学哲学部博士課程修了、Ph.D. 取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻)教授。専門は、ドイツ近現代史、ジェノサイド研究。著書に『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』『20世紀ドイツ史』(ともに白水社)、『図説 ドイツの歴史』(編著、河出書房新社)、『ジェノサイドと現代世界』(共編、勉誠出版)などがある。

634とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:43

東アジアの「最先進国」は韓国か?
「一君万民」で読みとく、日清戦争から大統領選挙まで
http://toyokeizai.net/articles/-/14480
與那覇 潤 :歴史学者

…しばしば「近くて遠い国」とも呼ばれるように、多くの日本人にとって、朝鮮史の知識は乏しい(おそらくは、逆もまたしかりだろうが)。

この問題について「意識の高い」人々のあいだでも、注目されるのは目下の従軍慰安婦問題のような、植民地化以降の話題に限られがちだ。そのことがかえって、韓国との歴史問題といえば「解決不可能なもの」、いつまでもそれに熱くなる韓国人は「理解できない人々」といった印象を、強くしているようにも思う。

昭和史を先取りした、併合以前の朝鮮王朝

しかし当たり前のことだが、朝鮮に植民地化される以前の歴史がないわけではない。むしろ、近現代でも互いに「国と国」の立場で対峙した時代を紐解く方が、「対等」の関係に近づくがゆえにこそ修復が困難をきわめる、今日の日韓関係への、ヒントを得られるかもしれない。

趙景達『近代朝鮮と日本』は、朝鮮民衆史の第一人者による併合「以前」の通史だ。平明な新書でありつつも専門研究を踏まえた筆致からは、時として私たちにも似た、朝鮮王朝下の人々の相貌さえ浮かび上がる。

併合以前の朝鮮王朝の特徴は、「民本主義」を「一君万民」の形式で実現しようとする、儒教的な政治文化にあった。

民本主義と聞くと、大正時代に吉野作造がデモクラシーにあてた訳語を連想するが、元来は西洋思想と関係はない。

『書経』の「民は惟れ邦の本(たみはこれくにのもと)」に由来し、民衆の生活を安んずることを政治の本義におく、儒教の統治理念だ。その担い手を、貴族や官僚といった中間搾取者を排して、衆庶の声に直接耳を傾けてくれる英明な君主に求めるのが「一君万民」の発想である。

日本の世界史教科書で習うと、頑迷な鎖国主義者にしかみえない大院君(執政1864〜73年)は、実はこの理念に最も忠実たらんとした君主であった。

既往の地方官の収奪を取り締まり、エリート階級たる両班(ヤンバン)の特権を削減する政治を行い、民衆からも熱狂的な支持を得ていた。その人気が、失脚以降の日朝関係史の画期にも関わっているという。

たとえば1882年の壬午軍乱は、大院君に代わった閔氏政権が中間搾取を復活させたという不満のもと、一部軍人が困窮民と合流しつつ、閔氏打倒を訴えて大院君を担ぎだすクーデターだった。いわば、貧農救済のために天皇親政を標榜して、「君側の奸」を殺害した昭和の五・一五、二・二六事件の先駆けである。

実際に大院君の一時復権を勝ち取った点では、後の青年将校よりも優越するが、その鎮圧にあたって強大な隣国(清国)の介入を招かざるをえなかった点に、島国日本と異なる朝鮮半島の悲劇があった。

日清戦争の契機となった甲午農民戦争(1894年)でも、大院君は自身の人気を利用し、密書を発して農民軍を抗日蜂起に導く脇役を演じる。「忠君愛国」ゆえにこれに応じた全?準の人となりは日本人にも感銘を与え、井上馨も助命運動を支援したという。

おおむね武士層限定だった幕末の「尊王攘夷」と異なり、実際に民衆を動員しえた点に、朝鮮の志士の力を見たのかもしれない。

一君万民という本来、天皇制の冠絶性を説くはずの国体論の用語が、田中正造の直訴が弾圧された明治日本よりも、国王への直訴が広く認められた朝鮮王朝の方に当てはまるとは、原武史『直訴と王権?朝鮮・日本の「一君万民」思想史』の指摘でもある。とすれば意外にも、植民地化「した」日本の方が、「された」朝鮮の伝統を追いかける形で、両国の近代史は展開したことになろう。

635とはずがたり:2015/09/07(月) 03:04:04
>>634-635
大統領制の政治は日本の未来の予兆か

それはひょっとすると、日韓の未来にも当てはまるのかもしれない。浅羽祐樹『したたかな韓国?朴槿恵時代の戦略を探る』が描く大統領選挙のダイナミクスには、ふとそんな思いを感じてしまう。

今日の韓国では与野党とも、党公認候補を決定するための予備選挙で、党員以外からの投票も受けつけるほか、世論調査での支持率まで票数に換算して組み込んでいるという。後者は世界に類例がないというが、まさしく現代版の「一君万民」であろう。

しかも本番の大統領選挙は全国を一選挙区とするシンプルな勝負で、相対的に一票でも多い方の勝ちだ。さらに直接議会に法案を出せるなど、当選後の権限も強い。

米国に比べても、民意を大統領一人に集約する度合いが高いわけだが、首相公選制や国民投票といった「直接民意を代表させる」体験への期待が高まる日本人が望む政治のあり方と、それは実のところ近似していないだろうか。

民主政下の「一君万民」はポピュリズムに堕すのか


木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』(2008年、中公新書)
事実、木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』は、前代の李明博(イミョンバク)氏が就任するまでの各大統領の人生から描く戦後史だが、民主化以降の描写は近年の日本と対照しても示唆が深い。

根深い地域ごとの党派対立を克服し、インターネットを駆使して特定の派閥によらない国民統合を模索したのは、前々代の盧武鉉(ノムヒョン)大統領。

自身の支持者で固めた新党で臨み、守旧派議員を放逐して圧勝した2004年の国会議員選挙は、小泉純一郎首相の郵政解散に一年以上先行する。

もっとも、その後の盧武鉉政権の急速な失墜を、木村氏は「改革」すれば必ず社会の進歩につながるという国民の期待と、政治の力で起こせる変化はすでに尽きていた同国の現実との、落差に求める。

そもそも一君万民とはポピュリズムの異名でもあり、大院君も民衆へのバラマキのツケとして悪貨鋳造によるインフレを招いたとは、趙氏の著書にも見える。過度な改革幻想や成長神話に基づく、民衆側の統治者への無批判な一体化を戒める上で、わが国にとっても益するところの多い挿話だろう。

むろん、史実の解釈は多様であっていい。しかしいたずらに自国の栄光を誇り、他国の失敗をあげつらう関係は虚しいだけだ。

これまでも、これからも多くの課題を共有する両国であればこそ、互いに相手の経験を鏡とするような、成熟した歴史の語りを持ちたいものである。

【初出:2013.6.8「週刊東洋経済(マンション時限爆弾)」】

636名無しさん:2015/09/07(月) 19:19:23
>>633
とはさん、貼り忘れのフォローありがとうございます。
記事読みながら貼っていたら、貼ったつもりになっていたようです。。。

637とはずがたり:2015/09/07(月) 19:42:37
>>636
いえいえ,こちらの方こそいつも興味深い記事有り難うございます!

638名無しさん:2015/09/12(土) 16:00:57
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150912-00083211-toyo-soci
それでも「君が代」が国歌であり続ける理由
東洋経済オンライン 9月12日(土)6時0分配信

議論の絶えない国歌「君が代」。近代日本を背負った140年余のその生命力とは。『ふしぎな君が代』著者の辻田真佐憲氏に聞いた。

 ──政治と芸術の視点から「君が代」の歴史をひもとくと、新しい理解ができるのですか。

 合意が取れていない議論を延々と繰り返すのはあまりに不毛だ。なぜ問題になるのか。一言で言えばこの歌は近代日本そのものなのだ。1869(明治2)年に誕生して、今まで国歌であり続けている。近代日本のいいところも悪いところも象徴している。まず政治と芸術の視点から、知られざる歴史に迫ったらどうか。

■ 「君が代」が国歌になるまで

 ──誕生秘話にも定説がありませんね。

 明治早々、英国王子の来日で急きょ国歌が必要になる。急場しのぎで、『古今和歌集』の詠み人知らずの短歌に鹿児島で愛唱されていた「蓬莱山」の節をつけて間に合わせたというのが、維新の元勲、大山巌の回想を基にした有力説だが、真説とは断定しにくい。

 ──探究すると説は八つに及ぶとか。

 ここ20年、近代音楽史の研究は進み、「君が代」の論文も最新の研究がいくつか出ている。国歌がこんなに問題になるとは思っていないので、誕生にまつわる資料は皆無だ。昭和になってから伝聞が記述され残っている。誰が歌詞を選んだかは特定できないが、明治政府の誰かが選んだ。それを英国人が作曲し、日本語で歌えるように雅楽の若き専門家の奥好義(よしいさ)らが改訂し、ドイツ人が五線譜に直して1880年に今の「君が代」ができたことはわかっている。

 当時、日本には国歌という概念自体がなかった。だが、なくては文明国扱いされないので、急きょ作らなければならない。いい歌詞はないかと既成のものを探し、最終的に絞られたのが和歌の「君が代」で、『古今和歌集』に載っているもの。『古今和歌集』では、「我が君は」で始まる。それが平安時代末期に「君が代は」に言い換えられたといわれる。


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