したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

近現代史綜合スレ

551とはずがたり:2015/02/26(木) 01:04:03
明治天皇は元田永孚や佐々木高行の影響下に伊藤博文らと対立して親政を試みた様だが,結局折れて機務六条となったそうな。何が折れるきっかけになったのかwikiの記述ではよおわからんが,立憲君主を選んだのは賢明だったと云えよう。明治天皇の皇子皇女が夭逝が多かったのはどうやら白粉のせい>>550という意見も。まあゆうても明治時代やからなぁ。

機務六条
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%99%E5%85%AD%E6%9D%A1

機務六条(きむろくじょう)とは、1886年(明治19年)9月7日に明治天皇と伊藤博文(内閣総理大臣兼宮内大臣)が内閣を代表する形で交わした約束事。これによって、天皇と内閣の関係を規定すると同時に、明治天皇が親政の意思を事実上放棄して、天皇の立憲君主としての立場を受け入れることを表明した。

明治天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。
教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである[4]。

男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。また成人した皇子女も、房子内親王(北白川宮妃)と聡子内親王(東久邇妃)を除き、皆40〜50代の若さで亡くなっている。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板