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近現代史綜合スレ

550とはずがたり:2015/02/26(木) 00:52:33
2006-06-10 告発される近代の悲劇
■[書評]原武史『大正天皇』朝日選書
http://d.hatena.ne.jp/pentaxx/20060610/1151723618

 ここで大正天皇の病歴を推測を交えて記述してみよう(用語は現代のものに変換してある)。明宮(大正天皇)は生後間もなく髄膜炎に罹患し、その後遺症に生涯苦しんだ。後遺症の重篤さを考えるとおそらくウィルス性で、脳炎も伴っていたのではないか。抗生剤のない時代でもあり、漢方治療のみでは十分な治療効果は得られなかったであろう。一〇代はほとんど持病のようになった感冒のほか、気管支カタル、腸カタル、胸膜炎などにしばしば罹患した。

 二〇代は後述するように健康を回復したが、天皇即位後は髄膜炎の後遺症とおぼしい脳器質性障害にもとづく言語障害、歩行障害などが進行した。知能の障害がどの程度であったかは判然としないが、記銘力の減退や一過性ながら幻視の訴えもみられている。裕仁皇太子が摂政となった一九二二年以降は、静養に徹したものの、病状は徐々に進行する。不整脈、浮腫、脳虚血発作などがたびたび見られ、慢性的な発熱が続く。おそらく脳虚血発作は多発性脳梗塞をもたらしていたであろう。一九二六年一二月二五日、「肺炎に伴う心臓麻痺(宮内省発表)」にて死去。四七歳の若さだった。  

 以上は身体医学の側からの所見である。しかし本書を読んで驚かされるのは、その病状がきわめて状況依存的である点だ。つまり環境要因、心理的要因によって病状が大きく影響されていた可能性が高いのである。本書の主題の一つも、実はそこにある。  

白粉(おしろい)と明治天皇
http://ohsawa.exblog.jp/17213822/

明治天皇が生まれ育った京都の宮廷文化は純和風で、遷都となって東京に来るまでは、洋装して各国の外交官達と社交するなどということはまったく考えられなかった。ある観菊会でも、外交団を皇居に招きながら1時間も待たせた挙句、一人馬に乗って現れ、彼らと直接挨拶もまじ合わせなかったという(オットマール・フォン・モール「ドイツ貴族の明治宮廷記」金森誠也訳 - 講談社学術文庫)。これにポルトガル公使夫人が激怒し、そのあとの宮廷行事をポルトガル公使館全員がボイコットしたらしい(同書)。これ以外にも、皇后と一緒に並んで歩かないなど男尊女卑の傾向があったという(同書)。

そんなことで明治天皇に興味を持った。調べてみて不思議なことを見つけた。側室が 5人、生まれた子供が 15人、内 2名が死産、6名が夭逝だという。日本も以前は乳幼児死亡率が高かったことは知っていた。でも、生まれた子供の半数以上が 1-2年で亡くなっているというのはかなり多い。側室は皆公家の系統だから、何か家系的な遺伝性の病気でもあるのかとも思った。ちょうど、「ドイツ貴族の明治宮廷記」に謎めいた次の文が出てきてますます気になった。

「 ---- 宮中で天皇の一番下の皇子昭宮猷仁親王が歯と関連のある脳の病気、脳膜炎にかかられた。皇太子明宮を除き、天皇のすべての皇子がこの病気で亡くなられている。この病気は日本の高位の貴族の家系に秘められた悲惨な伝統である。実にこの病気は日本の平民の間ではなく、とくに五摂家や大名家に多く発生している。」

そこで更に調べてみた。すると、明治天皇の皇子女は 10名が脳膜炎(現在の髄膜炎)で亡くなっているらしいことがわかった。その原因は白粉(おしろい)だという。大正の頃まで、高い身分の女性(明治以降は一般人も)はお化粧として首から胸まで白粉を塗っていた(公家や一部武家では男性も)。当時、白粉は鉛白 = 2PbCO3Pb(OH)2 を使っていて、それを使う女性は鉛毒を患っていた。その粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取してしまうわけだ。存命した皇子の一人、明宮嘉仁親王(後の大正天皇)には乳母がいたが、彼さえも、その乳母から鉛を摂取し、結局脳膜炎にかかったと言われている(後年、病弱天皇として知られる)。


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