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日本の城郭

367名無しさん:2017/12/17(日) 13:09:27
>>366

34位(↓) 弘前城(青森県弘前市)*
35位(↓) 和歌山城(和歌山県和歌山市)*
36位(↓) 金沢城(石川県金沢市)*
37位(↓) 熊本城(熊本県熊本市)*
38位(↑) 福井城(福井県福井市)#
39位(↓) 今治城(愛媛県今治市)*
40位(↓) 忍城(埼玉県行田市)#
41位(↓) 津山城(岡山県津山市)*
42位(↑) 川越城(埼玉県川越市)*
43位(↑) 長篠城(愛知県新城市)*
44位(↑) 府内城(大分県大分市)*
45位(↑) 高島城(長野県諏訪市)#
46位(↑) 岸和田城(大阪府岸和田市)#
47位(↓) 白河小峰城(福島県白河市)*
48位(↓) 伊賀上野城(三重県伊賀市)*
49位(↓) 篠山城(兵庫県篠山市)*
50位(↑) 福知山城(京都府福知山市)#
51位(↓) 松代城(長野県長野市)*
52位(↑) 大洲城(愛媛県大洲市)*
53位(↑) 米沢城(山形県米沢市)#
54位(↓) 江戸城(東京都千代田区)*
55位(↓) 郡上八幡城(岐阜県郡上市)#
56位(↑) 盛岡城(岩手県盛岡市)*
57位(↓) 高遠城(長野県伊那市)*
58位(↓) 小諸城(長野県小諸市)*
59位(↑) 佐賀城(佐賀県佐賀市)*
60位(↑) 大和郡山城(奈良県大和郡山市)#
61位(↑) 足利氏館(栃木県足利市)*
62位(―) 明石城(兵庫県明石市)*
63位(↓) 安土城(滋賀県近江八幡市)*
64位(↑) 湯築城(愛媛県松山市)*
65位(↓) 越前大野城(福井県大野市)#
66位(↑) 佐土原城(宮崎県宮崎市)#
67位(↓) 一乗谷城(福井県福井市)*
68位(↑) 七尾城(石川県七尾市)*
69位(↑) 白石城(宮城県白石市)#
70位(↑) 小倉城(福岡県北九州市)#
71位(―) 大垣城(岐阜県大垣市)#
72位(↓) 鳥取城(鳥取県鳥取市)*
73位(↑) 島原城(長崎県島原市)*
74位(↑) 延岡城(宮崎県延岡市)#
75位(↑) 土浦城(茨城県土浦市)#
76位(↑) 小牧山城(愛知県小牧市)#
77位(↓) 新発田城(新潟県新発田市)*
78位(↑) 赤穂城(兵庫県赤穂市)*
79位(↓) 新田金山城(群馬県太田市)*
80位(↑) 吉田城(愛知県豊橋市)#
81位(↓) 福岡城(福岡県福岡市)*
82位(↑) 田中城(静岡県藤枝市)
83位(↑) 鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)*
84位(↑) 小机城(神奈川県横浜市)#
85位(↑) 松前城(北海道松前町)*
86位(↓) 沼田城(群馬県沼田市)#
87位(↑) 出石城(兵庫県豊岡市)#
88位(↑) 井伊谷城(静岡県浜松市)
89位(↑) 美濃金山城(岐阜県可児市)#
90位(↓) 福山城(広島県福山市)*
91位(↑) 三原城(広島県三原市)#
92位(↑) 唐津城(佐賀県唐津市)#
93位(↓) 富山城(富山県富山市)#
94位(↓) 山中城(静岡県三島市)*
95位(↓) 春日山城(新潟県上越市)*
96位(初) 棚倉城(福島県棚倉町)
97位(↑) 高田城(新潟県上越市)#
98位(↑) 五稜郭(北海道函館市)*
99位(↑) 平戸城(長崎県平戸市)*
100位(↓) 名胡桃城(群馬県みなかみ町)#
※ 順位横の()内は昨年のランキングからの変動を表します。
(―)変動なし、 (↑)上昇、 (↓)下降、 (初)初登場
※ 101位以降のランキングは「発見!ニッポン城めぐり」webサイト( https://cmeg.jp/ )に掲載。

368とはずがたり:2017/12/27(水) 15:24:25
城や寺の「うぐいす張り」、実は「忍び返し」ではない?
https://www.asahi.com/articles/ASKD90045KD8PTFC012.html?iref=com_alist_8_05
岡田匠2017年12月27日12時05分

敵の侵入を知らせるためと言われてきた「うぐいす張り」は長い年月がたって金具が緩んだことが原因だった。京都・知恩院では修理したことで鳴っていた廊下が鳴らなくなり、老朽化によって鳴っていなかった廊下が鳴るようになった。
写真・図版
ウグイスの鳴き声に似た音が鳴る知恩院の廊下=京都市東山区、楠本涼撮影

 浄土宗総本山知恩院や世界遺産・二条城(いずれも京都市)で知られる「うぐいす張り」。廊下を歩くとキュッキュッと音が鳴るため、「忍び返し」とも言われ、侵入者を知らせるための工夫とされてきた。だが、その説に疑問符がついているという。

 「平成の大修理」が進む知恩院。江戸前期にできた御影堂(みえいどう、国宝)など建物四つをつなぐ廊下(約550メートル)が、うぐいす張りだ。案内板で「侵入者を防ぐための工夫を凝らしたもので(中略)長さも音色も日本一」と説明している。

 だが、建物の一つは2011年に修理を終えて以降、廊下を歩いても音が鳴らなくなった。一方、別の場所にある阿弥陀堂はうぐいす張りと呼ばれていなかったが、再建から100年余りたった近年、音が出るようになった。

 音の原因は、床板を固定する金具「目かすがい」と釘にある。

 建築当初、金具は釘でしっかり…

369荷主研究者:2018/01/28(日) 10:03:34

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201801/20180107_13011.html
2018年01月07日日曜日 河北新報
<みやぎの平成30年>(6)白石城復元 歴史継承、活性化の核に

白石城本丸広場で、2代目城主片倉小十郎重長の軍勢と真田幸村軍の大坂夏の陣(1615年)での激闘を再現する「鬼小十郎まつり」=昨年10月

三階櫓と同時期に復元された大手二ノ門前での落成式でテープカットする関係者=1995年5月2日、白石市益岡公園

 新年は「平成30年」の節目の年。バブル経済真っ盛りに始まった「平成」は来春、天皇陛下の退位によって幕が引かれようとしている。「平成」はわれわれにとってどんな時代だったのか? 宮城県内であったこの29年の出来事を振り返りながら、今を見つめて、次代へとつなごう。

◎〜結ぶ、つながる〜 ◆平成7年

 そこかしこから望める白壁の威容が、城下町白石の風情を醸し出す。

 1995(平成7)年、白石城が約120年ぶりによみがえった。

 「独眼竜」と称された伊達政宗の股肱(ここう)の臣、片倉小十郎景綱に始まり、260年余にわたって片倉家が居城にした。徳川幕府の一国一城令にあっても仙台城の支城として存続し、明治維新後の1874年に解体された。

 「市民が心の過疎に陥らないよう志を高めたい。観光だけでなく、白石再生へのシンボルになる」と当時の市長川井貞一さん(84)。住民が減り、産業にも漂う衰退ムードを打破しようと、20億円を要する木造での本格復元に踏み切った。

 天守閣に当たる三階櫓(やぐら)は高さ16.72メートルで前例のない規模。人口4万強、年間予算100億円前後の小都市が法規制や財源の対応に知恵を絞り、成し遂げた事業は全国的にも注目された。

 ハザマ(現安藤ハザマ)東北支店で白石城作業所長を務めた外舘寛さん(63)は「白石で示された先例が本物志向の城郭復元の流れをつくった。壊れたら修理することで技術も伝承される」と意義を語る。

 青森ヒバやヒノキといった国産材をふんだんに使い、宮大工や石工ら全国の職人技の粋を集めた。伝統の知恵は災害にも強かった。2011(平成23)年3月の東日本大震災。土壁が揺れを吸収して柱や梁(はり)を守り、内側に栗石(ぐりいし)という玉石を積んだ石垣はびくともしなかった。

 さまざまな困難を乗り越えた白石城。仙台藩の南の要衝は今、県南地域の観光や文化活動の一大拠点となった。初日の出や花見、日本舞踊、茶会など多様な催事で年中にぎわう。勇壮に合戦を再現する「鬼小十郎まつり」は秋の恒例行事として昨年10回目を迎え、各地から人を呼び込む。

 景綱に扮(ふん)して市内外で白石をPRするのは、大宮宗雄さん(56)。普段は白石城管理事務所で働く。

 大宮さんは「小十郎が生きた時代にタイムスリップした気分を味わえるのは、リアルに再現された城ならではの魅力。子どもや外国人など客層も年々広がっている」と胸を張る。

 城周辺に活気は生まれたが、市内を見渡せば人口は減る一方で苦境が続く。「武家文化が息づくまちとして、気骨を持ち続けてほしい」。川井さんは白石城に次代への願いを託す。(白石支局・村上俊)

[メモ]白石城は江戸時代に何度か建て直され、1823(文政6)年に完成した最終形を再現した。復元事業は1988年策定の第3次白石市総合計画で打ち出され、92(平成4)年度に着工。三階櫓は建築基準法が定める木造建築物の高さ制限(13メートル以内)に抵触するため、構造や防災面の安全性を立証し、当時の建設大臣認定という全国初の特例を得た。入館者は95年度の約28万人が最多。東日本大震災後の2011年度は約4万2000人に落ち込んだが、16年度は約7万1000人となった。

370名無しさん:2018/03/10(土) 17:23:32
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/14412751/

テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き!城好きロンブー淳が直々オファー、念願叶う

スポニチアネックス
[画像] テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き!城好きロンブー淳が直々オファー、念願叶う
 池の水を抜くだけのテレビ東京の異色企画「池の水ぜんぶ抜く」で、大の城好きとして知られる番組MCのロンドンブーツ1号2号・田村淳(44)の念願が叶い、小田原城(神奈川県小田原市)のお堀の水を抜くことが10日、分かった。11日に放送されるシリーズ第7弾「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦7〜巨大怪物も絶滅危惧種も出た!出た!〜」(後7・54)の収録がこのほど同所で行われ、淳が企画実現までの裏側を明かした。

 昨年1年間で全21の池の水を抜いてきたが、ついに舞台は城へとスケールアップ。城のお堀の水を抜くのは番組史上初となる。

 1417年に築城され、室町〜戦国時代にかけて北条氏の本拠地として栄えた小田原城。上杉謙信らの武将の攻めにも耐えたことから“難攻不落の城”として知られているが、7〜8年前から南米原産の水草で、要注意外来生物にも指定されている「オオカナダモ」(トチカガミ科)がお堀の中に大繁殖。悪臭などの問題に頭を抱えていたという。

 以前、別番組の収録で同所を訪れる機会があったという淳は「お掘があまりきれいな色じゃなかったんで『抜かせてください、抜かせてください』と何度かお願いしてたんですよね」と水抜きを懇願していたことを告白。

 「『(観光課の方が)うちとしても抜きたいんでけど、お城なのでGOサインがなかなか出しづらいんです。けど、またそういう機会があれば、ぜひ!』という話を5カ月くらい前にしていたんですが、この番組が育つとともに『あの番組なら任せていいんじゃないか』となったんじゃないかと」。第6弾(今年1月2日放送)に中川雅治環境大臣が出演し、番組に感謝したが「相当大きかった気はします。『お城を管理している偉い方も、そういう番組だったらいいんじゃない?』となったんだと思います」とオファーが実現するまでの経緯を語った。

 城の管理者によると、お堀の水抜きを行ったのは38年前が最後。当時はお堀の汚れを清掃するために水を抜き、ヘドロを除去したという。

 今回は約1週間かけ、お堀の水をすべて抜き切る。願いが叶った淳は「福岡県の観光課の方や三重県の伊勢市の方にも『池の水を抜かせてください』と言ったら『ぜひぜひ』と言われました。たくさん歴史的な神社があって、そこには池もありますから」と、さらなるオファー実現にも含みを持たせた。

 11日放送の第7弾は、お堀の水抜きがスタートする模様をオンエア。水を抜き切り、生物の捕獲などをする様子は4月のレギュラー放送(月1回、日曜後7・54)1回目で詳しく伝える。

372とはずがたり:2018/06/21(木) 14:29:23
熊本城も地震で被害 写真特集
https://www.jiji.com/jc/d4?p=iku415&d=d4_qq

 倒壊した熊本城の元太鼓櫓=2018年6月20日[熊本市提供]【時事通信社】
 熊本市は20日、熊本地震で傾くなどの被害が出た熊本城の元太鼓櫓(やぐら)が倒壊したと発表した。前日からの大雨の影響とみられる。周辺は震災後、立ち入り規制されており、けが人はいなかった。
 元太鼓櫓は2003年度に復元された木造の櫓。倒壊の危険があったため今年8月以降の解体復旧が予定されていた。市は当初の予定通り作業を進める。

373荷主研究者:2018/07/07(土) 23:43:25

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180626/CK2018062602000036.html
2018年6月26日 中日新聞
土塁再確認へ発掘調査 深志城の謎、解明目指す

深志城を築いた島立貞永を祭る神社跡の若宮八幡(正面)=松本市丸の内で

 国宝松本城(松本市丸の内)の南・西外堀復元事業で同市教育委員会は二十五日から、西外堀に面した二の丸の土塁確認に向けて発掘調査を始めた。土塁は城の周囲に設けられた防御用の盛り土で、三月の調査で確認した土塁下部に、同城の前身とされる深志城の土塁の可能性がある土層が見つかったため、今回の調査で再確認したい考え。十六世紀初めの戦国時代初期に築造されたとされる深志城については謎が多く、松本城のルーツ解明に期待が寄せられる。 

 市教委文化財課の竹内靖長課長補佐によると、今回の調査は九月末までの予定。二の丸西端に幅三メートル、長さ十メートル、深さ二・五メートルの試掘溝を掘り、土塁の位置と規模を確認する。また、今春の調査で課題となった深志城の土塁解明を目指す。

 竹内課長補佐は「現場は前回調査の約十五メートル北なので、引き続き土塁は検出できるはず」と期待する。深志城時代の古い土塁については「十月からは今回よりさらに北へ三十メートルほど離れた地点に試掘溝を掘り、状況を確かめたい」と、意欲を見せた。

 松本城管理事務所によると、戦国時代の松本は信濃守護の小笠原氏が統治した。同氏は井川の館(同市井川城)を拠点にしていたが、有事に備えて山城の林城(同市里山辺)に移り、林を中心に一族が守る城を各地に配置した。

深志城を造った島立貞永を祭る若宮八幡の古い社殿=松本市筑摩三才で

 深志城はその一つで、島立貞永(しまだちさだなが)が一五〇四(永正元)年に造ったと伝えられる。しかし、五〇(天文十九)年に武田信玄が侵攻して深志城を拠点と定め、島立氏の城を拡充整備したとされる。しかし、信玄がどのように城を造り替えたかの記録はないという。

 同事務所の後藤芳孝研究専門員は「深志城の遺構は何も残されておらず、謎に包まれている。古い土塁が確認されても、島立氏の時代か武田氏か、その後に整備されたものかを特定するのは難しい。ただ、近世松本城以前の城が、どのように築かれてきたかが見えてくる」と評価する。

 同専門員によると、深志城の痕跡は松本城二の丸北西隅にある「若宮八幡」に残っている。深志城を造った島立貞永を松本城の守り神として祭った神社跡。一六七〇(寛文十)年に建て替えられ、古い社(国の重要文化財)は同市筑摩三才に移されて往

374荷主研究者:2018/08/01(水) 23:11:55

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180711/CK2018071102000038.html
2018年7月11日 中日新聞
松本城の外堀復元を断念 土壌汚染確認で

南・西外堀の平面整備イメージ図=松本城管理事務所提供

 国宝松本城(松本市丸の内)で進められている南・西外堀復元事業で、用地の一部で土壌汚染が確認されたことを受けて市は十日、従来の堀の復元計画を見直し、平面整備とする方針を明らかにした。同日の市議会議員協議会で提示し、了承された。二〇二四年度末の完成予定に変更はないという。

 市は一七年度、事業用地の土壌汚染調査を実施。その結果、一部から基準値を上回る自然由来の「鉛及びその化合物」が検出された。

 市によると、土壌汚染が確認された範囲は用地全体(約一万一千平方メートル)の34%に当たる約三千八百平方メートル。周辺にある飲用井戸の水質検査では、基準値を下回った。

 同事業ではこれまで、現在残っている外堀に加え、今は家屋などが立っている城の南側と西側に、幕末・維新期にあった姿と近い形で外堀を復元することを目指してきた。市は一三年度から用地取得を進め、一七年度末時点で取得率は約48%。

 市によると、汚染土壌の処理費用として四億円以上が見込まれるが、土壌汚染対策法に基づくと、処理費用は売り主側に請求することが前提。このため、市は土地の権利者にかかる金銭的な負担責任などを考慮し、汚染土壌の処理を必要としない平面整備に切り替えることにした。

 例としては、芝生を敷くなどして、かつての南・西外堀の範囲が分かるような形での整備を行う。堀の復元はしないが、「史跡の保全」や「景観の整備」などを目的に、引き続き用地取得を進める考えだ。

 同事業をめぐっては、長年にわたって外堀復元の構想があった中、市制施行百周年に当たる〇七年度に事業着手している。菅谷昭市長は「堀復元という当初の目的を断念せざるを得ないことは誠にじくじたる思い。とりわけ、住み慣れた場所を離れることに理解と協力をしていただいた方には重ねて、心からおわびを申し上げる」と謝罪。

 その上で「松本市が史跡地を保有し、平面整備により価値ある史跡松本城を保存していくことを新たな目標とすることを理解してもらい、用地取得を含めた事業の継続に取り組んでいきたい」と述べた。

 市は事業の方針見直しが了承されたことを受けて、今後地元の権利関係者らに個別の説明を行っていく。

 (水田百合子)

377荷主研究者:2018/09/29(土) 22:05:10

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180915/CK2018091502000014.html
2018年9月15日 中日新聞
松本城大手門枡形跡地を国史跡申請へ 市方針

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2018091402100294_size0.jpg

 松本市は十四日、同市大手の松本城大手門枡形(ますがた)跡地を国史跡に申請する考えを明らかにした。近くの新博物館建設予定地南側を通る土手小路も再整備する方針を示した。同日の市議会九月定例会の建設環境委員協議会で報告した。

 いずれも国宝松本城を中心に歴史や文化を感じながら街歩きできる都市を目指す「松本城三の丸地区整備基本方針」に基づく施策。

 大手門枡形は、江戸時代の松本城への正面入り口で、現在の大名町通り南端にあった。松本城大手門枡形跡広場の地下に東端の遺構が残っており、西端は八十二銀行(長野市)松本営業部が入る松本ビル地下にあるとみられる。

 松本ビルは土手小路北側の新博物館建設予定地とともに八十二銀行などが所有しており、市は取得に向けて協議している。代替地確保が条件で時期は未定だが、市は取得後にビル地下を発掘調査する。

 その後、枡形跡広場と合わせて大手門枡形として文化庁に史跡指定を申請し、江戸時代の様子がわかるよう一体的に整備する方針。

 土手小路の整備は、新博物館の開館と小路西側で十一月に開場する市営の新平面駐車場による歩行者増に対応するため。松本城や縄手通り、中町通りなどの観光地への利便性を向上させる狙いもあり、歩道拡幅などを行う。二〇二三年秋までに整備する。

 市都市政策課の担当者は「地元住民と協議しながら景観などを踏まえて進めたい」と話した。

 (川添智史)

378荷主研究者:2018/11/03(土) 16:47:35

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=469333&comment_sub_id=0&category_id=256
2018/9/29 中国新聞
鳥取城の擬宝珠橋復元完了 明治150年を記念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20180929chugoku01.JPG
復元がほぼ完了した鳥取城跡の擬宝珠橋。欄干に立つ擬宝珠も忠実に再現した

 国史跡の鳥取城跡(鳥取市)の玄関口となる擬宝珠(ぎぼし)橋の復元工事が、ほぼ完了した。市教委が進める城跡の復元整備事業の第1弾で、明治150年を記念。全長36メートル、幅6メートルで、城郭の復元木造橋では国内最長級となる。明治維新で大きな役割を果たした鳥取藩の権勢の象徴をよみがえらせ、観光振興につなげる。10月8日に渡り初めの式典がある。

 擬宝珠橋は1621年、鳥取藩主の池田光政が正面玄関である大手登城路の入り口に創建。仏教の装飾金具の擬宝珠を欄干の親柱12カ所に配置し。32万石の藩の威信を示した。参勤交代時の玄関となり、月見の宴なども催されたという。1897年に取り壊されて一般の木造橋が架かり、後にコンクリート橋となった。

 市教委は2005年度、城跡の保存整備基本計画を策定し、07年度に発掘調査を本格化。16年度から橋の復元工事に着手した。コンクリート橋を撤去し、水中で発見した橋脚の痕跡などを基に、クリ、ヒノキ材で幕末時の姿を再現。青銅製の擬宝珠は当時の製法を採用し黒色に仕上げた。橋の復元整備費は5億5千万円。

379荷主研究者:2018/11/03(土) 16:52:11

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180930/CK2018093002000031.html
2018年9月30日 中日新聞
「旅好きが選ぶ!日本の城」 岩村城跡が初ランクイン

「旅好きが選ぶ!日本の城ランキング」で10位に入った岩村城跡=恵那市岩村町で

 大手旅行サイト「トリップアドバイザー」が発表した今年の「旅好きが選ぶ! 日本の城ランキング」で、恵那市岩村町の岩村城跡が初めてランク入りし、十位になった。NHK連続テレビ小説「半分、青い。」のロケ地として城下町がにぎわい、効果が城跡にも波及した。

 ランキングの発表は六回目で、サイトに投稿された五段階の評価や口コミの件数が基準になる。公表された「トップ20」では姫路城(兵庫県姫路市)や二条城(京都市)、松山城(松山市)、松本城(長野県松本市)など、国宝や全国的に有名な城が上位を占め、岩村城跡は城跡としては五位の岡城跡(大分県竹田市)、六位の中城(なかぐすく)城跡(沖縄県中城村・北中城村)に次ぐ上位に入った。岩村城跡について「石垣が素晴らしく、散策が楽しめた」といった口コミが投稿されている。

 恵那市観光協会岩村支部の加藤勝也事務局長(66)は「山城できれいに石垣が残っている場所は貴重で、魅力を評価してもらえた」と受け止める。

 岩村城は備中松山城(岡山県高梁市)や大和高取城(奈良県高取町)と並んで「日本三大山城」に挙げられ、二〇〇六年には日本城郭協会の「日本百名城」にも選ばれた。それでも「日本の城ランキング」に入るような知名度はなかった。加藤さんは「これまでも名前を売り込もうと努力してきたが、やはり朝ドラの効果は大きい」とみる。

 「半分、青い。」の放送が始まってから、城下町は観光客が前年の四倍に増えた。県が昨年、岩村城跡を苗木城跡(中津川市)や美濃金山城跡(可児市)と並び「ひがしみのの山城」として「岐阜の宝もの」に認定した直後に追い風が吹いた。加藤さんは「新しく作ったパンフレットなどを活用できた。城跡は山の上にあるので城下町に来た人がついでに行くことは少ないが、ロケ地と併せて雑誌などに紹介される機会が増えた」と振り返る。

観光案内所などで販売している「御朱印シール」=恵那市岩村町で

 PRの好機を生かそうと観光協会岩村支部の案内所などでは八月、シール式の御朱印(三百円)の販売が始まった。城を訪れた記念に御朱印を集めるのが流行しており、好調な売れ行きを見せている。

 二年後にはNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」で、東濃や可児にゆかりの地とされる史跡が多い明智光秀が主人公になる。加藤さんは「岩村城も光秀や織田家と関わりがあり、チャンスが続く。うまく活用して宣伝したい」と話した。

 (吉岡雅幸)

 <岩村城> 源頼朝の家臣の加藤景廉(かげかど)が1185年以降に築いたと伝わる。高低差180メートルの地形を生かした山城で、本丸の標高は717メートルと江戸時代の諸藩の城で最も高かった。戦国時代に織田信長の叔母が実質的な城主を務めた時期があるとされる。江戸時代は岩村藩主の居城となり、明治時代初期に政府の廃城令で石垣を残して解体された。

380荷主研究者:2018/11/03(土) 17:10:34

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/234634?rct=n_hokkaido
2018年10/04 05:00 北海道新聞
五稜郭に「外郭」あった 奈良女子大名誉教授が指摘 跡地含め保存訴え

箱館奉行所の周りに、内郭の五稜郭のほかに、外郭の土塁があることを示す「箱館亀田 一円切絵図」(上部が南)。中央下から右上にかけて蛇行しているのは亀田川=戸祭名誉教授の著書より(函館市中央図書館所蔵)

箱館奉行所の外郭跡地に残る樹林地。「一円切絵図」の左上に当たる。現在は国有林になっている=函館市柳町の市道「柏が丘通」

 「五稜郭の箱館奉行所は、江戸幕府が置いた17の遠国奉行所の中で唯一、外側を囲うように造られた土塁の『外郭』もあった」―。奈良女子大学の戸祭由美夫名誉教授が、箱館奉行所の外郭に着目した著書を出版した。戸祭名誉教授は、外郭内部の面積が約1平方キロに及ぶ規模の大きさの特異さも強調。現在は樹林地や草地になっている外郭跡地も含めた保護や保全の必要性を訴えている。

 この著書は「絵図にみる幕末の北辺防備」(古今書院)。戸祭名誉教授は1987年から、中世、近世の城下町や陣屋町など、土塁や石垣や堀などに囲まれた集落を研究する中で、幕末に描かれた箱館奉行所の資料を調査。1862年(文久2年)作製の「箱館亀田 一円切絵図(いちえんきりえず)」など、幕末の絵図を調べていた時に、箱館奉行所には、五稜郭周辺を囲うように植林された土塁が建造されていることに気付き、五稜郭が内側に築かれた「内郭」、周辺の土塁が「外郭」に当たると整理した。

 著書では、この土塁が、亀田川が流れる五稜郭の北西方向を除き、東、西、南の三方に築かれているほか、土塁内部には役人用宅地も整備され、面積が約1平方キロに及ぶことも指摘。代表的な遠国奉行所として知られる長崎奉行所の約60倍の敷地があることを説明した。さらに、これらの土塁は時代とともに宅地や畑などに変化し、当時の面影を残すのは、函館市本通1や柳町などの樹林地や草地だけになっていることを示した。

 戸祭名誉教授は「土塁跡の樹林地や草地も歴史的な文化遺産として保存していくとともに、今は宅地化した場所にも箱館奉行所に外郭があったことを示す案内板などを設置すべきだ」と話している。

 A5判、248ページ、税込み4104円。問い合わせは古今書院(電)03・3291・2757へ。(青山修二)

383荷主研究者:2018/11/03(土) 19:02:24

http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/554085.html
2018/10/17 07:39 静岡新聞
「幻の城」姿現す 家康追いやった後の駿府、秀吉の天守台 静岡

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20181017shizuoka03.JPG

豊臣秀吉が築かせた天守台の石垣を説明する調査員(右)=16日午後、静岡市葵区の駿府城公園内発掘調査現場

出土した金箔瓦=16日午後、静岡市葵区

 静岡市の駿府城(同市葵区)発掘調査で、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の跡を発見したことを受け、市は16日、出土した天守台の石垣や金箔(きんぱく)瓦などの全容を報道関係者に公開した。専門家は「徳川家康の城の下に豊臣政権下で築かれた城があったのは大発見」と評価。市は、秀吉が江戸へ追いやった家康を威嚇するため駿府に豪華絢爛(けんらん)な城を築いたとみている。

 豊臣方の築いた城の存在は推測されていたが、裏付ける遺構や史料はなく、「幻の城」とされていた。

 発掘調査は2016年度から4年計画で実施。市によると、家康は1588(天正16)年に駿府城を築いたが、秀吉の命で江戸に領地を移した。家康に代わって秀吉家臣の中村一氏が90(同18)〜1601(慶長6)年に城主を務めた。新たに見つかった城跡は、この間に築かれたとみられる。天下統一を果たした家康は駿府に戻り、10(同15)年に駿府城を完成させた。

 2018年度の調査で、家康が築いた天守台の南東部の土中から、古い石垣が見つかった。自然石を積み上げる「野面積み」で、家康の城に使われていた表面の石が平らな「打ち込み接(は)ぎ」とは異なる形状。傾斜も家康の石垣よりも緩やかだった。

 石垣の隣の敷地からは、約330点に及ぶ金箔瓦が見つかった。考古学が専門の中井均・滋賀県立大教授によると「金箔瓦の造瓦技術が豊臣時代の特徴を示している」という。これらの事実が「秀吉の城」であることを決定づけた。

 ■20、21日に臨時公開
 静岡市は20、21の両日、午前9時〜午後4時に、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の遺構を臨時公開する。調査員が随時説明をする。金箔瓦の展示はない。参加無料。希望者は直接、駿府城公園内の発掘調査現場へ。通常公開は11月22日を予定している。

 問い合わせは市歴史文化課<電054(221)1085>へ。

384荷主研究者:2018/11/03(土) 19:26:27
>>383
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20181019/CK2018101902000030.html
2018年10月19日 中日新聞
秀吉の天守台発見 駿府城跡地

◆日本城郭協・理事 加藤さん分析

一般公開されている駿府城の発掘現場=静岡市駿河区で

 徳川家康が晩年を過ごした駿府(すんぷ)城の跡地(静岡市葵区)で、家康が築城した城の下層から、豊臣秀吉が建てさせた城の天守台が見つかった。関係者を驚喜させた「世紀の大発見」(田辺信宏・静岡市長)だ。日本城郭協会理事の加藤理文さん(60)は、秀吉、家康は駿府城を拠点に、それぞれ東へ、西へと、にらみを利かせていたと分析する。

 加藤さんは袋井市浅羽中学校の教諭で、静岡市の発掘調査にも携わった。秀吉からすると、関東へ転封させた江戸城の家康が、天下人になった家康からすると、なお大坂城に残る秀吉の遺児・秀頼が、目の上のたんこぶだった。

 二人の天下人が築城した駿府城は、「互いに駿府よりもこちらに来るなという『抑止力』の象徴だったのでは」と分析する。

 加藤さんによると、今回の発掘調査で大量に出土した金箔(きんぱく)瓦は、豊臣一族か前田家や毛利家のように、豊臣政権の中でも重要な位置を占める大名の城のみで使うことが許された。秀吉が建てさせた駿府城の規模は小さいが、同程度の甲府(山梨県)、上田、松本、小諸(長野県)の各城でも金箔瓦が出土している。

 この五つの城はそれぞれ徳川領に近く、東海道や東山道(中山道)など当時の主要道沿いに築城されたこともあり、「領土を守る重要な拠点として金箔瓦の使用を認めたはず。経済力を誇示し、『逆らうのは得策じゃない』と思わせる効果もあったのでは」と指摘する。

 関ケ原の合戦で勝利した家康が一六〇七年から駿府に再び築城したのも、復権を狙う豊臣方から江戸幕府を守るための防衛拠点としての意味合いが大きい。加藤さんは「天下人二人がくしくも駿府を重要視していたのが興味深い」と話す。

 加藤さんは、今回の発見により、秀吉が建てさせた城の様子や、秀吉の家臣で当時の駿府城主・中村一氏(かずうじ)の解明にもつながると期待している。秀吉からの信頼が厚く、相談役といえる「三中老」だった一氏だが、子孫が続かずに二代で断絶されたため、史料が少ないという。

 加藤さんは「一氏時代の遺構があるとは思っていなかった。天守台や小天守の位置など、より精密に調べてほしい」と語る。
    ☆ ☆
 秀吉が築かせた駿府城の天守台発見を受け、駿府城公園(静岡市葵区)の発掘現場は連日、歴史愛好家らでにぎわっている。

 現場を案内する「発掘情報館 きゃっしる」によると、発表があった十六日以降、来場者は激増。秀吉の城の天守台は見学ルートが整備されていないため、間近で見ることができないが、十七日は二百七十二人、十八日は三百二人と、普段よりも約三倍の人が訪れている。

 城めぐりが趣味で、千葉県への出張帰りに訪れた岡山市の会社員、宮岡勝さん(51)は「ニュースを見て急きょ来た。家康のイメージが強い場所だったので、秀吉時代のことが少し解明されて良かった」と話した。

 二十、二十一日には秀吉の城を間近で見られる見学会を実施。調査員のガイドもある。

(広田和也)

385荷主研究者:2018/11/03(土) 19:29:49

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20181019/CK2018101902000055.html
2018年10月19日 中日新聞
石垣4000個積み直しへ 名古屋城「搦手馬出」

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石垣の解体工事が始まる前の本丸搦手馬出=名古屋城総合事務所提供

 国の特別史跡に指定されている名古屋城跡に数ある遺構の中で、十五年越しで大規模な石垣の修復事業が続いている地点がある。かつての軍勢の出撃拠点で、天守閣東側の堀に面した「本丸搦手馬出(からめてうまだし)」。崩落の危険を防ぐための解体作業にめどがたち、四千個を超す石の積み直しが来年度にも始められる見通しだ。貴重な価値を知ってもらおうと、名古屋市は二十一日に見学会を開く。

 「ほお、こうなっているんですか」

 昨年六月に放映されたNHKの人気街歩き番組「ブラタモリ」。石垣を案内されたタレントのタモリさんが興味深げにうなった。

 「搦手」とは城の裏口、「馬出」とは出撃準備をする人馬を敵軍から隠す区画のことで、戦では攻守の要となる。豊臣勢との最終決戦を控えた徳川家康が江戸初期の一六一〇(慶長十五)年、浅野幸長や黒田長政ら西国大名七人に命じて築かせた一帯の石垣は、名古屋城の強さの象徴として語られることが多い。

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石垣の解体が進んでいる今年4月時点の本丸搦手馬出=名古屋城総合事務所提供

 市は一九七〇年代から城内の石垣を順次修復してきたが、崩落の危険が迫っているとして二〇〇六年、搦手馬出に着手。かつてない大事業を前に助言を受けるため招集したのが、城郭の専門家でつくる有識者会議「石垣部会」だった。木造復元事業に絡む天守台石垣の修復方針を巡って市側と話し合いを続ける石垣部会の、原点の事業でもある。

 堀に面した石垣を解体する難しさや修復方針の検討で歳月を要したが、今月上旬の部会で、解体面積が千五百平方メートルに上る石垣を積み直す計画を本年度中に策定し、来年度にも作業着手する方針が固まった。江戸時代から残る図面や同時代の他城の例も参考に、築城当時の積み方にできる限り近づけていくことになる。

 座長の北垣聡一郎・石川県金沢城調査研究所名誉所長は「時間はかかったが、名古屋城らしさを持った積み方で修復できるめどがようやく見えた」、宮武正登・佐賀大教授は「江戸時代の資料を基に復元を検討した、これほど大規模な例は他にない」と評価する。

 名古屋城総合事務所の西野輝一所長は「天守台の石垣も重要だが、新しいステージに入った搦手馬出の事業も市としてしっかり進めていく、という決意で臨んでいる」と話す。

◆21日に見学会
 二十一日の現地見学会は午前十時、午後一時半、午後三時からいずれも三十分間。本丸搦手馬出を軸に総延長八・二キロに及ぶ石垣の価値を学芸員が解説する。

 申し込み不要。無料。先着三十人ずつ。受け付けは二之丸庭園南側で各回の三十分前から始める。(問)名古屋城総合事務所=052(231)1700

 (谷悠己)

386荷主研究者:2018/11/06(火) 21:46:53

https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181022000077
2018年10月22日 15時08分 京都新聞
彦根城24年世界遺産目指す 本年度中に推薦書原案提出へ

武士が鑑賞や茶の湯などを通じて教養を高めたとされる彦根城の大名庭園・玄宮楽々園。武家統治の象徴として、天守などと一体で世界遺産登録を目指す(滋賀県彦根市)

 滋賀県彦根市は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録を目指す彦根城について、登録に必要な推薦書の原案を本年度中に政府に提出することを21日までに決めた。市は、国宝の天守のほか、重臣屋敷や大名庭園などを一体とした「江戸期の武士の統治を表す複合体」をコンセプトに打ち出して2024年の登録を目指したいとしている。

 彦根城は、日本が同遺産条約を締結した1992年、候補地として同遺産暫定リストに記載されたが、その後、登録に向けた手続きが進んでいなかった。原案が提出されれば、暫定リスト記載後初となる。

 城一帯には、天守のほか鑑賞や茶の湯を通じて武士が教養を高めた大名庭園、重臣屋敷や藩校などの遺跡が残る。市は江戸期から残る200以上の全国の城跡を調査した結果、「武家の成熟した統治を説明する史跡がこれだけそろっている場所はほかにない」(世界遺産登録推進課)と判断した。武士が教養を身に付け、武芸中心から文武両道へと価値観を変えていった時代の象徴として、同城の貴重さをアピールしていく。

 推薦書は、市が提出する原案をたたき台に国が市と協議する中で作成を進め、国の文化審議会などで認められれば国内候補としてユネスコに提出する。ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の審査と世界遺産委員会の審議を通れば同城は世界遺産に登録される。

 推薦書がユネスコに提出された場合、イコモスによる現地調査が行われる。調査では同城に対する市民の意識も評価のポイントになることから、市は今後、市民向けのセミナーを開くなどして市民意識の醸成を図りたい考えだ。

387荷主研究者:2018/11/06(火) 22:10:41

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20181025/CK2018102502000027.html
2018年10月25日 中日新聞
岐阜城の石垣、いざ発掘! 山上部の本格的な発掘は初

発掘調査が始まった山上部の石垣。登山道沿いから作業を見ることができる=岐阜市の金華山で

 岐阜市教委は二十四日、岐阜城山上部に残る戦国時代の石垣の発掘調査を始めた。山上部の本格的な発掘は初めてで、当面は約一カ月間かけ、石垣の広がりや基礎構造を明らかにする方針。柴橋正直市長は記者会見で「数年かけて調査し、岐阜城の姿を明らかにしていきたい」と述べた。

 石垣は金華山山頂とロープウエー山頂駅の中間付近にあり、以前から一部が露出していた。石の大きさや積み方から、約四百五十年前に織田信長が入城した後、築かれたとみられる。

 発掘の対象は石垣周辺の二十五平方メートル。近くの斜面約百十五平方メートルでも表面の落ち葉などを取り除き、石垣や歩道の痕跡がないか調べる。作業は月曜日と火曜日を除いて実施される見通しで、現場沿いの登山道から観光客らが見学できる。

樹木が伐採された石垣(手前)。天守閣がよく見えるようになった=岐阜市の金華山で

 初日は、作業を担当する市埋蔵文化財調査事務所の六人が、周辺に発掘をPRするのぼり旗を立てた。

 一方、市教委は今月上旬、山頂近くの別の石垣の隙間から伸びていた樹木約二十本を、安全対策のために伐採した。三月に一部の石が落下したため調べたところ、風雨で樹木が根元から揺れると、石垣が崩れやすい状態になっていた。

 この石垣は一段の高さが三・五メートルの二段積みで、約四メートルの岩盤の上に築かれている。樹木の伐採は文化庁などの許可を得て実施され、付近から石垣と天守閣がよく見えるようになった。

 (近藤統義)

389荷主研究者:2018/12/07(金) 22:12:00

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20181107/CK2018110702000019.html
2018年11月7日 中日新聞
県に1万6676人分の署名 福井城跡の櫓復元

西川知事(左)に署名を手渡す「福井城の復元をすすめる会」の吉田会長=県庁で

 市民団体「福井城の復元をすすめる会」など七団体は六日、明治時代初期まで福井城本丸の南西側に位置していた坤櫓(ひつじさるやぐら)と土塀の復元整備を要望する一万六千六百七十六人分の署名を、県庁で西川知事に提出した。知事は福井城跡の西側で山里口御門(やまさとぐちごもん)などの復元が完了したことを踏まえ「次をどうするか、見通しを立てることが必要だ」と検討に前向きな姿勢を示した。

 福井城跡では、福井しあわせ元気国体などに合わせて県が山里口御門を約百五十年ぶりに復元し、三月に完成式があった。西隣の市中央公園でも、市が堀跡などを再現する整備を八月に完了。七団体は坤櫓などの整備で中央公園やJR福井駅からの眺望が一層魅力的になるとして、七月から署名活動を行っていた。署名提出には七団体の代表者らが出席。同会の吉田純一会長(福井工業大福井城郭研究所長)が「これだけの県民が同じ思いで復元を願っている」と話し、西川知事に署名を渡した。知事は「福井市と話し合って役割分担を考えるべき時期だ。整備費に国のどんな制度が使えるか、展開も考える必要がある」と応じた。

 県と市は二〇五〇年を目標に城跡の整備を進める「県都デザイン戦略」を定めている。他県では石川県が金沢城公園(金沢市)で鼠多門(ねずみたもん)の復元工事中。静岡市は駿府(すんぷ)城公園で一四年に福井城と同名の坤櫓を約十一億円で復元した。

 (今井智文)

390荷主研究者:2018/12/09(日) 19:06:44

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20181129/CK2018112902000024.html
2018年11月29日 中日新聞
かつての丸岡城の姿が明らかに 北海道の民家で写真発見

昭和17〜23年ごろに撮影された丸岡城=坂井市提供

 坂井市の丸岡城を写した昭和初期の写真などが北海道内の民家で見つかり、市に寄贈された。写真は、一九四八(昭和二十三)年の福井地震で天守が倒壊する前の昭和初期を含む三種類計四枚。市丸岡城国宝化推進室では「城郭としての保全や整備、活用に役立つ」としている。

 寄贈したのは、丸岡城近くで酒店を営んでいた故小林政夫さんの家族。写真は昭和十六年以前、十七〜二十三年、三十年以降の三種類で、いずれも小林さんが生前に撮影したと思われる。現在のお天守前公園側からと思われる写真には、階段や石垣、天守以外の建物も写っている。同推進室の担当者は「それぞれ年代が異なっており、資料的価値は高い」と話し、写真を分析、精査していく。

 写真のほか、丸岡藩最後の藩主・有馬道純の息子の有馬純文(すみあき)子爵(一八六八〜一九三三年)が大正五(一九一六)年に書いた額も譲り受けた。「不忘敬(敬うを忘るべからず)」の文字と「圓陵(えんりょう)子爵」の署名と落款がある。

 小林さんの家族から八月ごろ連絡があり、今月寄贈を受けた。市では機会があれば、企画展などで展示する方針。

 (中田誠司)

391荷主研究者:2019/01/01(火) 16:10:04

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201812/0011875330.shtml
2018/12/4 15:00 神戸新聞NEXT
純白再び築城400年 明石城、土塀塗り直しお披露目へ

明石城の石垣に組んだ足場から土塀の漆喰を塗り直す作業員=明石市明石公園

土塀に発生した黒カビ=明石市明石公園

 2019年に築城400年を迎える明石城(兵庫県明石市)で、大規模なお色直しが進められている。明治末期に取り壊され、阪神・淡路大震災後、約100年ぶりに復元された土塀の全面塗り直しは初めて。近年はカビによる黒ずみが目立っていた。記念の年を前に青空に映える白さを取り戻そうと、漆喰(しっくい)を塗り直す作業が本格化している。

 土塀は、城主の御殿があった本丸の南側にある石垣の上に、国の重要文化財に指定されている巽櫓(たつみやぐら)と坤(ひつじさる)櫓をつなぐ形で作られた。明治末期に取り壊され、正確な構造が不明だったため長らく復元できなかった。震災で被害を受けた櫓を修復中、土塀に関する資料が見つかり、2000年に高さ約2・3メートル、長さ約96メートルを復元した。

 今回は、土塀に黒く広がるカビを除去する。10年にも一部の漆喰を塗り直したが、石垣に近い部分に黒いカビが再び発生。土塀と石垣のすき間から菌が侵入した可能性もあり、全体を塗り直すことにした。事業費は約1500万円。

 管理する兵庫県園芸・公園協会などによると、カビの原因は不明だが、城の南側は明石海峡から吹く風や雨にさらされている上、高さ20メートル以上の石垣の上にあるため、日常的な手入れが難しいのも一因という。

 作業は来年3月まで。石垣に足場を組んで土塀の漆喰をはがし、中の土壁や砂漆喰など3重の層を塗り直す。石垣を含む城全体の景観が楽しめるよう、伸びた樹木を伐採し、石垣の雑草を取り除く。

 土塀の塗り直しは年内完了を目指す。来年春、夏のライトアップなど築城400年の記念行事を企画する県公園緑地課の宮崎貴久課長は「来年は記念の年。可能な限り築城当初の雄大な姿に近づけ、その風格を多くの人に楽しんでほしい」と話す。(小西隆久)

【明石城】 江戸幕府の直轄事業として1619年、徳川家康のひ孫で初代城主の小笠原忠政(後に忠真と改名)が、義父で姫路城主の本多忠政とともに築城を始めた。西国諸藩に対する備えを担う姫路城の後詰めが役割とされ、明石海峡を通る船が見渡せるよう人丸山に築いた。天守台は造られたが、天守閣は建てられなかった。現存する2基の櫓(やぐら)は1957年、国の重要文化財に指定。城跡は2004年、国史跡に指定された。

392荷主研究者:2019/01/02(水) 21:03:23

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/256079?rct=n_hokkaido
2018年12/09 05:00 北海道新聞
史跡・松前城、木造復元へ 江戸末期を再現 35年完成目指す

木造での復元が計画されている松前城の天守

 【松前】渡島管内松前町は、国指定史跡の松前城(福山城)について、現在は鉄筋コンクリート造りの天守(地上3階、地下1階建て)を、江戸末期の建設当時の木造で復元する方針を決めた。来年度から基本構想の策定に着手し、最短で2035年度の完成を目指す。総事業費は概算で30億円と見込まれ、国の補助を得たい考え。

 松前城天守は北方警備の拠点として1854年に完成。道内唯一の日本式城郭で、1941年に国宝に指定されたが、49年に火事で焼失した。現在の天守は61年に建設され、資料館として一般公開されているが、老朽化が進んで耐震性の問題が確認されていた。

 復元する木造天守は3階建て。江戸時代の図面やメモ書き、焼失前の写真などを基に、内部構造も忠実に再現する方針で、木材も当時と同様にヒバなどを使う。国指定史跡の建て替えには文化庁の許可が必要で、町教委は来年度から2〜3年かけて基本構想や年次計画などをまとめ、同庁に計画を申請する。

 松前藩が執務や会議に使っていた天守隣の「本丸表御殿」も6億円を費やして復元し、文化財展示施設として活用する計画だ。

 国内では、名古屋城(名古屋市)が22年12月の完成を目指して木造復元計画が進められている。(高野渡)

393荷主研究者:2019/02/09(土) 23:33:58

https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190101000037
2019年01月01日 12時10分 京都新聞
高まるブーム、安土城も再建? 復元向け滋賀県が調査

建築史家の研究に基づく安土城の模型。建造時の全容が分かる資料は見つかっていない(滋賀県近江八幡市安土町小中・安土城郭資料館)

 戦国時代に織田信長が築き、豪壮華麗な天主を誇ったとされる安土城(滋賀県近江八幡市)の復元に向け、滋賀県が新年度から本格的な検討に乗り出す。全容の分かる資料がない「幻の城」で、海外の資料も調査してきたが実を結んでこなかった。近年の「城ブーム」などを追い風に民間団体の再建熱も高まり、県は調査団の再派遣も視野に、名城復活への道を探る。

 安土城は築城から3年後の1582(天正10)年、天主が焼失した。長年復元を望む声がある一方、城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには建造当時の設計図や絵図などをそろえる必要があった。

 そのため県と旧安土町は1984年、信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探す調査団をバチカンに派遣。その後も調査は続けられたが、発見には至っていない。

 一方で全国的に城巡り観光が注目され、信長を討った武将明智光秀が主人公のNHK大河ドラマの2020年放映が決定。国も文化財の保護から活用へかじを切る中、県は経済効果が大きいとみて、復元の糸口を探ることにした。

 ただ、仮に屏風絵が見つかっても、耐震性の観点などから木造での復元は難しいとの見方が優勢だ。そのため県庁内には、城跡に近く、かつ史跡指定外の場所に、信頼性が高いとされる復元図面で再建するのが最も現実的とする意見もある。いずれにせよ巨額を要するため、民間と連携して可能性を探る方針だ。

 昨年、県に再建を提言した滋賀経済産業協会はコンクリート造りの場合、工費は300億円程度と試算。商業施設の併設も構想し「長期的に考えれば費用面はクリアできる」とする。

 NPO法人「安土城再建を夢見る会」(近江八幡市)は今年からシンポジウムなどを通じ、全国的に再建の機運を高める方針という。尾﨑信一郎理事長は「安土城は普通の城ではなく、天下統一を目指した信長の思想が込められている。観光資源としてだけでなく日本の宝になる」と再建の意義を訴えている。

394荷主研究者:2019/03/17(日) 11:42:40
>>393
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20190212000025
2019年02月12日 10時52分 京都新聞
安土城「復元」に大きな壁 設計や外観不明、滋賀県が調査法検討

安土城跡の大手道。滋賀県は城の復元に向けた取り組みを本格化させる(近江八幡市安土町下豊浦)

 滋賀県は新年度から、安土城(近江八幡市)の復元に向けた取り組みを本格化させる。2026年の築城450年祭に照準を合わせ、映像技術の活用を含めた「目に見える形での復元」を目指す。新年度は県民の機運を高める講座を開くほか、全容の分かっていない城の実像に迫るための調査手法を検討する。

 安土城を巡っては、県内の経済団体やNPO法人の間で再建熱が高まっており、年初に三日月大造知事が復元を目指す方針を表明した。その後「想定以上の反応がある」(三日月知事)として、急きょ新年度当初予算案に計900万円を確保。復元の方向性を探ることにした。

 ただ最大のネックは、城の設計図や外観が分かる絵図が見つかっていないことだ。城跡は国指定特別史跡のため、文化庁の許可を得るには当時の姿を正確に再現する必要がある。これまでにも、築城した織田信長が天正遣欧使節を通じてローマ法王に献上したとされる屏風(びょうぶ)絵「安土城之図」を探すため、調査団をバチカンへ派遣するなどしてきたが、発見には至っていない。

 そのため、県は19年度に調査に携わった人への聞き取りなどを行い、復元に向けた課題や調査方法を検討する。また、小説家らによる講演会や過去の発掘成果を紹介する映像制作を通じて、県民の関心や理解を広げる方針だ。

 調査団の再派遣も視野に入れ、20年度には関連資料の調査や専門家の意見集約を行う予定。城跡での再建築の可否に加え、VR(仮想現実)技術や映像投影などの手法も検討し、21年度に具体的な復元方法や実施主体を決める。民間にも参加を呼び掛ける。

 三日月知事は「いたずらに天主を建てるのではなく、城を大切に思う方々とよく議論をしていきたい。第1段階は知恵を集めるために、夢を膨らませる取り組みを目指したい」としている。

395荷主研究者:2019/03/31(日) 10:18:19

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20190219/CK2019021902000050.html
2019年2月19日 中日新聞
現天守解体準備9億円超 名古屋市、完成スケジュール維持

 名古屋城天守の木造復元事業で、名古屋市は現天守を解体する準備工事費として九億六千万円を二〇一九年度の当初予算案に盛り込んだ。文化庁から復元事業の許可が得られない中、五月の文化審議会で解体許可を先行して得られなければ二二年末の完成スケジュールの維持が不可能となるだけに、河村たかし市長は新年度を「正念場」と位置付けている。

 現天守の解体には、内堀の中に解体片を仮置きしたりトラックで搬送したりする作業場「構台」を築く必要がある。内堀にすっぽり埋まる寸法で、トラック搬送路として北側の名城公園へ桟橋をかける工事と合わせ、二〇年度までに二十一億円を計上する計画だ。

 文化庁が復元許可に先駆けて解体許可を出すかは前例がないため未知数だが、市は許可が得られ次第、解体の本工事費も予算化する方針。逆に、許可が得られない場合は準備工事費を執行できず、翌年度に繰り越される可能性もある。

 復元天守のバリアフリー問題では、エレベーターに代わる新技術を募る国際コンペ開催費に四千万円、新技術の実証実験の場となる実物大(幅一・八メートル、高さ二十四メートル)の階段の制作費九千万円も計上した。階段は、正門南側の東海農政局に隣接する市管理の広場に設置し、二階建ての建物で覆って市民が上ったり実験を見学したりできるようにする。

 ほかにも天守内部の詳細な設計費に六億九千万円、木材の調達費に十七億一千万円など、計三十五億円を復元事業に充てた。

 北西側の外堀に船を浮かべたり、重要文化財の本丸表二之門を大規模修繕したりするための調査費や、本丸御殿の本来の場所にはめ込んで展示する重文障壁画を増やす費用など、観光施設としての名古屋城の魅力を向上させるための取り組みも予算化した。

 (谷悠己)

396とはずがたり:2019/04/09(火) 22:55:44
個人的には戦国スレの此処へ

https://bushoojapan.com/scandal/2017/12/14/107399
伊達政宗の手紙(書状)が、本人に気の毒なぐらい面白い件につきまして

397荷主研究者:2019/04/21(日) 23:35:33

https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/823523
2019年3月27日 午前7時30分 福井新聞
丸岡城の天守、最古でない可能性
戦国時代でなく江戸時代の建築

江戸時代の寛永年間に建築されたとの調査結果が出された丸岡城天守=3月26日、福井県坂井市丸岡町上空から日本空撮・小型無人機ドローンで撮影

 戦国時代の創建とされてきた福井県坂井市の丸岡城天守の整備時期が、江戸時代の寛永年間(1624〜44年)と推定されることが3月26日、市教委の調査結果で明らかになった。全国には1615年の一国一城令以前に建てられた天守が姫路城など複数残っており、「現存する最古の天守」としてきたアピールの手法が軌道修正を迫られそうだ。

 ⇒「価値不変」国宝化運動は継続

 市教委から委嘱を受けた丸岡城調査研究委員会の吉田純一会長(福井工業大学客員教授)が同日、坂本憲男市長に報告した。

 天守に使われている部材について、年輪や放射性炭素濃度、酸素同位体比から年代調査を行った結果、多くは1620年代後半以降に伐採されたと結論付けた。

 丸岡城の創建時期については、戦国武将・柴田勝家のおいの柴田勝豊による1576(天正4)年と、初代丸岡藩主の本多成重が入城した1613(慶長18)年以降の2説があった。調査結果を受け市教委は、丸岡藩が24年に立藩したことを契機として、成重の代に整備された可能性が高いと判断した。

 天守台の石垣が自然石をそのまま積んだ野面(のづら)積みで、16世紀後半に伐採された部材も天守の一部にあることなどから、吉田会長は、現存の天守が建築される以前に「前身となる天守が存在した可能性は高い」と指摘。ただ、構造的に重要な役割を持つ通し柱が1626年以降に伐採されたとの判定が出ており、天正期の天守を改修したのではなく、寛永年間に新たに建てられた可能性が高いとした。

 一方で吉田会長は、丸岡城は下層部の建築後に物見櫓の「望楼」部分を載せる望楼型であり、一国一城令以前の城に多く見られる天守草創期の造りであるとし「建築様式が移り変わる時期に、(当時としては古い様式の)望楼型で建てられたことは逆に意義がある」と述べた。

398荷主研究者:2019/07/10(水) 22:55:42

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20190621/CK2019062102000025.html
2019年6月21日 中日新聞
「浜松城二の丸」に迫る 旧元城小跡地を市が発掘調査

浜松城二の丸の発掘調査を始めた職員ら=浜松市中区の旧元城小跡地で

 浜松市は二十日、浜松城二の丸があったとされる同市中区の旧元城小学校跡地で発掘調査を始めた。江戸時代を通じて浜松藩政の中心だったといい、市は、徳川家康が浜松城に居城していた頃の遺物が出てくる可能性があると期待する。 

 来年度以降の本格調査に向けた試験的な発掘で、二〇二〇年一月末までを予定する。対象は跡地約一万六千平方メートルのうち約三千平方メートルで、幅二メートルの溝を網目状に縦横にショベルカーで掘り進める。数十センチから一メートル超の深さまで掘る予定で、江戸時代の地層まで調べる。

 市によると、二の丸には藩の政務を行い、藩主が日常生活を営む御殿があった。残された「二の丸御殿絵図」を見ると、御殿の北東側に台所、北西側に寝間があったことがうかがえる。

 絵図と照合しながら調査を進める。市は一一年にも跡地の一部で試験的に調査し、徳川家康が浜松城を居城にしていた一五七〇〜八六年ごろに使われた可能性がある井戸跡を確認している。

 旧元城小跡地は、明治時代は民家があり、戦後は小学校用地に整備されたとされる。二の丸のほか、浜松城本丸の石垣や堀があったとされる場所もある。市文化財課の担当者は「江戸時代よりもっと古い遺物や遺構が出土する可能性もある」と語る。

(篠塚辰徳)

399とはずがたり:2019/10/19(土) 21:53:35
勿体ない!

大きすぎてお蔵入り? 精巧な城模型、展示先決まらず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191019-00000004-kobenext-l28
10/19(土) 10:00配信神戸新聞NEXT

 兵庫県の三木市高齢者大学大学院の地域活動講座内のグループ「三木城再現模型を創る会」が昨年末に完成させた三つの模型の展示先がいまだに見つかっていない。模型やパネルなど1メートルを超える大きさがネックになっており、現在は一時的にまなびの郷みずほ(三木市細川町瑞穂)に置かれているが、このままでは文字通りお蔵入りに。同会会長の勝丸桂二郎さん(73)=三木市=は「官民問わず、三木の活性化に役立ててもらいたい」と願う。(大橋凜太郎

 模型の作製は2016年秋に勝丸さんが発案。みき歴史資料館主任の金松誠さんが描いた配置図を参考に、メンバーが図面を起こし、模型会社に依頼した。ところが、提示された制作費の試算は一つが約500万円。それなら自分たちで作ろうと、18年4月から制作に取りかかった。

 力を尽くしたのは、メンバーで設計会社やメーカーの元技術者ら。郷土史家の助言も受けながら想像を巡らせ、築城、降伏開城、廃城と3時代の姿を形にした。精巧な造りながら、制作費用は模型会社の試算の40分の1以下に抑えた。

 今年1月、三木市役所3階プロムナードを皮切りに、緑が丘町公民館(同市緑が丘町中3)、中央図書館(同市福井)で展示会を開催。延べ約2500人が見学したが、5月以降の展示実績はない。

 常設のネックになっているのはその大きさ。模型はそれぞれ縦横110センチで、3世代の歴史を紹介するパネルも1枚が縦110センチ横80センチと幅を取る。市教育委員会生涯学習課の担当者は「所管する施設などに声を掛けたが、期間限定の展示が前提。常設は難しい」と話す。

 勝丸さんは「常設でなくても、巡回展示や学校園への貸し出しで郷土史の勉強に生かしてもらえないか。展示スペースを持つ会社にも活用の検討をお願いしたい」と期待を掛ける。

400荷主研究者:2020/01/12(日) 12:50:58

https://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20200103101.htm
2020/01/03 01:10 北國新聞
金沢城二の丸御殿復元に着手 詳細史料確認受け知事が表明

 石川県が復元の可能性を探る金沢城二の丸御殿で最大の謎だった内外装の詳細を記した史料が確認されたことを受け、谷本正憲知事は2日、北國新聞社の取材に「あれだけのデータが見つかれば取り掛からざるを得ない。全部完成させるには20年ぐらいかかるのではないか」と述べ、復元に着手する意向を示した。県は専門家による調査検討委員会に諮る方針で、金沢城整備の総仕上げとなる御殿の復元計画が加速しそうだ。

 谷本知事は2日に金沢市内のホテルで開かれた自身の新年互礼会の席上、馳浩衆院議員や福村章県議会議長に御殿復元に前向きな考えを伝え、馳、福村両氏は復元計画に協力することを約束した。

 史料「二之御丸御殿御(にのおまるごてんご)造(ぞう)営(えい)内装等覚(おぼえ)及び見本・絵(え)形(がた)」は、金沢市立玉川図書館に所蔵される加越能文庫で見つかった。御殿で使われた全ての金具の意匠が描かれ、壁紙は説明に加えて実物見本も付いていた。

 谷本知事は取材に「史料そのものにも一流の価値がある。カラーで描かれており、御殿の内装が全て再現できる」と評価した。実物や写真がない障(しょう)壁(へき)画(が)や欄間(らんま)についても「作者が誰で、どんな絵かも全て書いてある」と述べ、作者と題材の類例を調べることで復元は可能との見方を示した。

 二の丸御殿は加賀藩政の役所機能を備えながら藩主らの生活の場でもある城内最大規模の建物だった。谷本知事は「これまで復元してきた櫓(やぐら)や門とは違う」と話し、加賀百万石の威容を示す精緻な内外装の再現が重要になると強調した。

 建坪約3200坪(約1万600平方メートル)に及ぶことにも触れ、「一度に復元することは無理だ。これから計画を作っていくことも念頭に置くと、全部完成させるには20年ぐらいかかるのではないか」と指摘した。

 県が2018年度に設置した金沢城二の丸御殿調査検討委員会は、19年2月、二の丸御殿のうち、藩主が政務を執った「表向(おもてむき)」を中心に「御殿の復元を具体的に検討することは可能」とする中間報告をしている。国史跡「金沢城跡」内であり、「史実に沿った建物」の復元計画を立てた上で、文化庁の許可を得る必要がある。

401荷主研究者:2020/01/12(日) 16:23:21

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54121610X00C20A1CR8000/
2020/1/7 17:23 日本経済新聞 南関東・静岡
駿府城跡で新たな石垣遺構 小天守、江戸時代前で初

402荷主研究者:2020/01/12(日) 16:27:35

https://www.gifu-np.co.jp/news/20200108/20200108-204895.html
2020年01月08日 08:05 岐阜新聞
信長築いた石垣確認 岐阜城天守が日本最古?

今回発見された織田信長が築いた岐阜城の天守台の石垣=7日午後2時20分、岐阜市、金華山

 岐阜市教育委員会は7日、市内の金華山山上部で行った発掘調査で、戦国武将織田信長が築いた岐阜城の天守の土台(天守台)の石垣が初めて見つかった、と発表した。市教委などによると、これまで文献では山上部の建築物に触れられていたが、今回、信長が造ったとみられる天守に相当する高層建築物が実在したことが裏付けられた。信長が築いた天守は、1579年完成の安土城が最初に築かれたといわれているが、岐阜城が最古の可能性が高くなったという。市教委は「天守の起源を考える上で重要な発見」とし、今後も調査を進める。

 市教委は昨年10月から、現在の天守西側や二ノ門周辺、岐阜城資料館南側の山上部3カ所で発掘調査を実施。今回、現在の天守西側で、天守の北西隅の石垣を確認した。

 天守台の石垣は、1910年に初代の復興天守の建設時に積み直されたものがあるが、信長期の石垣は現存しないとみられていた。だが今回、石垣の一部が地表に露出していたことから、周辺の約5平方メートルを発掘し、長さ約180センチ、高さ約70センチのチャートでできた3段の石垣が見つかった。

 石垣を斜めに積み上げているほか、石材の隙間に小さな「間詰め石」が詰められていたり、石材の合わせ目が奥側にあったりする信長期の石垣の特徴が見られ、改修した形跡もない。市教委はこれらを基に、1567年に信長が岐阜城に入城した直後に築造されたと判断した。

 江戸中期の元禄年間に描かれた絵図「稲葉城趾之図」(伊奈波神社所蔵)には、今回石垣の見つかった場所に「天守台」と記され、位置や形も合致していた。絵図によると、天守台石垣は長さ約16メートル、高さは約4メートルとされる。

 山上部の建築物について、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書では、信長期に山上部に豪華な座敷があったという旨の記述があったが、詳細が分からず、天守が実在したことは証明されていなかった。

 今回の調査では1600年の廃城時に埋められた天守の屋根瓦も見つかったが、信長期のものかは不明という。二ノ門や岐阜城資料館周辺でも信長期の石垣が確認された。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「(岐阜城天守は)日本最古の可能性が高く、日本の城郭の変遷や天守の成立を考える上で意義がある」、柴橋正直市長は「大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』の放送の年に今回の大発見が重なったことは、貴重な出来事」と話す。

 市教委は今月14〜18日に石垣などを現地で公開する。公開は午前10時〜正午、午後1時〜同3時。雨天中止。

403荷主研究者:2020/02/02(日) 23:17:17

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54633150R20C20A1CE0000/
2020/1/21 11:35 日本経済新聞 電子版 中部
天守の木造再建に高い壁 文化財保護や史料確保

404荷主研究者:2020/02/03(月) 21:28:51

https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20200123/CK2020012302000033.html
2020年1月23日 中日新聞
二俣、鳥羽山城跡 浜松市が保存活用計画概要

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2020012202100318_size0.jpg
石垣が残る二俣城跡=浜松市天竜区で(同市提供)

 浜松市は、天竜区二俣町にある国史跡の二俣城跡と鳥羽山城跡について、二月中旬に国への申請を予定する「保存活用計画」の概要をまとめた。基本方針には、周辺の歴史遺産や文化施設を含めた活用を盛り込んだ。

 二十二日の市議会市民文教委員会で報告した。

 市文化財課によると、二〇一九年四月の文化財保護法改正に伴い、史跡の管理団体が保存活用計画を作成し、国に申請できるようになった。認定されると、補助金交付手続きの円滑化などが期待できる。二つの城跡を管理する市が計画を申請し、順調に進めば五月中に認定される見込み。

 市はこれまで、有識者の協議や住民の意見を参考に保存活用計画の作成を進めてきた。概要には、史跡が目指す姿として「城郭の推移と特徴が理解できる場としての魅力を高め、歴史の重層性が体感できる城跡を目指す」と明記。基本方針として調査研究、保存、活用、整備、運営体制の五項目を挙げた。

 保存では「周辺環境との調和を図りながら史跡全体の保存管理に努める」、活用については国史跡に指定される光明山古墳(天竜区山東)、秋野不矩(あきのふく)美術館(同区二俣町)など周辺の遺産や施設も含めて「関連する歴史文化資源と一体で行う」とした。

 整備は「山城の姿を顕在化させるとともに、都市公園としての機能と自然学習や市民憩いの場としての価値に留意する」との考え方を示した。

 これらに関連し、二つの城跡の整備計画を想定し、地図の複数箇所に「土塁の復元検討」といった課題を記した。市は、将来の整備指針となる「整備基本計画」を二一年度末までに策定する予定。

 二俣城跡と鳥羽山城跡は戦国時代の山城で、徳川軍と武田軍が攻防戦を繰り広げた。一八年二月、国史跡に指定された。

(原一文)

405荷主研究者:2020/02/03(月) 22:05:02

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=607338&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/1/25 中国新聞
広島城にぎわい拠点に 20年度試掘に着手方針

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200125chugoku01.JPG
広島市が飲食・物販施設などの導入を検討し、現在はバス駐車場となっている広島城の三の丸(手前)

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200125chugoku02.JPG

 広島市は、広島城(中区)を囲む「三の丸」がかつてあり、現在は観光バス用の駐車場として使う場所に飲食・物販施設などを整備するため、2020年度に試掘、発掘調査に着手する方針を固めた。国内外からの観光客でにぎわう拠点にしようと、関連経費を20年度の当初予算案に盛り込む方針でいる。24年度をめどに施設の開業を目指す。

 市は、三の丸のあった場所に飲食・物販施設のほか、観光案内所や広島城の収蔵品の一部の展示場、イベント広場、バスの乗降場を整備する構想を描く。調査と並行して、具体的な整備計画の策定を進める。

 天守閣や二の丸のある広島城跡は国史跡で、駐車場は市が管理する国有地。地下に文化財が埋まっている可能性がある土地として市が指定しており、文化財保護法に基づき、開発の際には調査する必要がある。発掘調査で遺構を保存する必要性が出た場合は、導入する機能や施設を柔軟に見直すという。

 三の丸は江戸時代、旧広島藩主浅野家の屋敷などがあり、近親者たちが暮らしていたとみられている。明治以降は旧陸軍の施設が建てられ、戦後は観光バス駐車場や噴水広場などに改変されていた。

 市は広島城全体の見直しを議論する有識者会議を27日に開き、基本構想の素案を示す。素案では広島城を「広島観光のネットワーク拠点」などと位置付ける。観光客に広島城で原爆により壊滅する前の広島の歴史や文化を理解してもらった上で、平和記念公園(中区)やサッカースタジアムができる中央公園自由・芝生広場(同)への回遊を促す想定でいる。

 広島城を巡っては、昨年度の入館者数が約30万人で、約152万人訪れた原爆資料館(同)に比べ、観光客を誘導できていないことが課題となっていた。市は昨年10月に建築や観光の専門家たちを集めた有識者会議を設け、再建から62年を迎える天守閣の老朽化対策を含めた魅力の向上策などを議論している。(永山啓一)

 <クリック>広島城 1589年、毛利輝元が中国地方一帯を治める拠点として築城を始めた。天守閣は1931年に国宝に指定されたが、45年8月6日の米国による原爆投下によって倒壊。58年に鉄筋5階建てで復元された。94年に「二の丸」の表御門や櫓(やぐら)の復元工事を終えた。天守閣は現在、城下町の模型、武家屋敷や商家を再現した部屋のほか、刀ややりなどを展示している。

406荷主研究者:2020/02/16(日) 11:38:44

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=607848&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/1/27 中国新聞
広島城天守閣、耐震性不足 市、有識者会議で中間報告

公共施設に必要な耐震性の不足が判明した広島城天守閣

 広島市は27日、耐震診断をしていた築62年の広島城天守閣(中区)について、震度6〜7程度の大規模地震で「倒壊、または崩壊する危険性が高い」とする中間報告を公表した。城内への立ち入り制限をするかどうかは現時点で未定で、専門家の意見などを踏まえて判断する。耐震改修などの具体的な対策は、2020年度に有識者会議などで検討する。

 広島城天守閣は原爆により倒壊した後、1958年に地上5階建てのコンクリート造で復元された。耐震診断の速報値によると、耐震指標(Is値)の最小値が0・3未満となり、「危険性が低い」とされる0・6や、市が多数の人が利用する公共施設が満たすべき基準としている0・75を大幅に下回った。

 市役所で開いた広島城の魅力づくりを考える有識者会議の中で説明した。市は3月下旬をめどに天守閣入り口の木造部分を含めたより詳細な診断結果を公表。その後、有識者会議を中心に耐震改修の方法を検討する。市議会の一部などから要望のある木造再建の選択肢も残しつつ、費用面の試算を踏まえて議論する。

 城内への立ち入り制限については、市文化振興課の後藤和隆・文化のまちづくり担当課長は「専門家の意見や詳細な診断結果を見て判断したい」とした。

 戦後、コンクリートで再建された天守閣を巡っては全国で老朽化が課題となっている。中国地方では岡山城(岡山市北区)や福山城(福山市)が17年度に耐震診断を実施。いずれも耐震性の不足が判明し、補強工事を進める方針を示している。一方、名古屋市は耐震性の不足した名古屋城天守閣について、総工費約500億円をかけ木造での復元を目指している。

 市はこの日、広島城の魅力づくりの方策をまとめた基本構想の素案も公表。現在、観光バス駐車場となっている三の丸への飲食・物販施設やイベント広場などの導入に向け、20年度に基本計画を策定する方針を示した。国史跡の本丸や二の丸内で仮想現実(VR)を使った往時の建物の再現なども検討するとした。(永山啓一)

 <クリック>広島城 1589年、毛利輝元が中国地方一帯を治める拠点として築城を始めた。天守閣は1931年に国宝に指定されたが、45年8月6日の米国による原爆投下によって倒壊した。94年に「二の丸」の表御門や櫓(やぐら)の復元工事を終えた。天守閣は現在、城下町の模型、武家屋敷や商家を再現した部屋のほか、刀ややりなどを展示している。

407荷主研究者:2020/02/16(日) 13:25:47

https://www.chunichi.co.jp/article/toyama/toku/isan/CK2020020202000200.html
2020年2月2日 中日新聞
利長築城時の姿残す 高岡城跡の石垣

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2020020202100187_size0.jpg
高岡市博物館前から見える水濠と石垣(内堀側)=高岡市の高岡城跡で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2020020202100188_size0.jpg

 江戸時代初期の一六〇九(慶長十四)年、高岡開町の祖・前田利長が築城した当時の石垣や水濠が残る国史跡高岡城跡(高岡古城公園)。石垣は本丸と二の丸をつなぐ土橋の内堀側と外堀側に見ることができる。

 石を割る時にくさびを打ち込んだ矢穴の跡がある「切石積み」。積み上げられた石数は内堀側が八百六十三個、外堀側は八百三十七個。全体の54・8%を占める砂岩は氷見市の灘浦海岸や虻(あぶ)が島、高岡市の雨晴海岸の石切丁場から運び込まれた。雨晴海岸の義経岩も丁場で、矢穴の跡が見られる岩が残っている。

 面白いのは「φ」「+」「田」など石の表面に刻まれている刻印。石工集団が付けた目印で文字や象形など八分類百二十七種類が確認されている。中には串団子のような印も。

 内堀側は、縦目地に見える所があり、近代に積み直したとの説もある。公園内の朝陽橋の橋台にも石垣の痕跡が見受けられる。

 公園内の市博物館前は石垣のビューポイント。市博物館の仁ケ竹(にがたけ)亮介副主幹学芸員(44)は「郭がすべて馬出しで最強防護の縄張(なわばり)(設計)と言われています。水濠と石垣の風景は城らしい。高岡城跡は語りだしたら切りがない魅力があります」と話す。 (武田寛史)

408荷主研究者:2020/03/14(土) 20:27:19

https://www.chunichi.co.jp/article/mie/20200224/CK2020022402000016.html
2020年2月24日 中日新聞
景観と利便、どう両立 松坂城跡、石段舗装や手すり整備検討

石段の舗装や手すりの整備が検討されている松坂城跡=松阪市で

 安土桃山から江戸時代にかけて軍事や行政の拠点だった松阪市の国史跡「松坂城跡」。築城から四百年以上がたつ史跡で、石段の段差を小さくする舗装や手すりの整備が検討されている。映画の撮影地にもなり多くの人が訪れる一方で、高齢者を中心に「石段が高く登りづらい」という声が出ている。史跡の「保存」と「活用」が全国で注目される中、市にも難しい判断が求められている。

 「景観的にも十分配慮した石段が必要」。昨年六月に市教育委員会事務局で開かれた整備検討委員会。市が路面舗装や手すりの整備を盛り込んだ園路整備案を示すと、委員を務める専門家や地元関係者らから、歴史的価値を有する「城」と誰もが利用できる「公園」の両面のバランスを求める意見が多く出された。

 古い歴史があり、城下町の面影を残す松坂城跡は一九五二(昭和二十七)年、県史跡に指定された。一方で、敷地が広く市民らが集う場所で、藤棚や野外劇場が設置されるなど、公園としての整備が優先された。

 八九、九〇年度には本丸上段の発掘調査が行われ、やぐら跡の礎石や排水施設、金箔(きんぱく)の瓦など貴重な遺跡が見つかった。前後して、史跡保護の観点から八八年度から十六年間、石垣の修復が進められ、二〇一一年に国史跡になった。これらを踏まえ、市は翌一二年三月、大まかな保存管理計画を策定し、一六年三月には計画を基に具体的な「整備基本計画」を作った。

 計画の園路整備案では、三十センチほどの大きな段差が目立つ二の丸から本丸上段までの石段十五段の舗装と、手すりや補足階段の設置が示されている。築城当時からの石段や、明治時代以降に修復された石段の舗装は、土や砂を主な材料にする「土系舗装」で行う。元々の土の色や質感を保ちながら段差を小さくする方法で、検討委でも理解を示す意見が多かった。

舗装されて手すりや補足階段も設置された石段のイメージ図=松阪市提供

 一方、補足階段や手すりの設置には慎重な意見がある。検討委でも「階段はかなり景観に与える影響が大きいのでは」「全ての石段に手すりが必要なのか」と史跡の価値を損ねないか危惧する指摘があった。市の担当者は「松坂城跡は中心市街地にあり、松阪のシンボルにもなっている。だからこそ議論を深めていかなければならない」と話す。

 検討事項は他にもある。車いすなどを乗せた福祉車両が安全に通れるように、進路の一部を拡張したり、舗装が荒い表門側の入り口付近を土色のアスファルト舗装にしたりする案も盛り込まれている。これらの整備案は詳細な発掘調査が必要で、先行きは不透明だ。

 史跡のバリアフリー化は松坂城跡だけの課題ではない。名古屋市の名古屋城では、復元する木造天守でエレベーターの設置も検討されたが、市はそれを見送り、ロボットなど新たな昇降技術の開発で対応することを決めた。国際コンペで世界から新技術を公募するという。

 委員長を務める奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)は昨年十月の検討委で補足階段や手すりの設置について「文化庁でも近年、バリアフリーの充実はうたっている。史跡にふさわしい部分と共存できるものとして、手だてを打つことは大いにあり得ること」と指摘した。勾配が急な場所は本丸付近だけではなく「全体的な計画を示し、そこで検討する必要がある」とも話した。

 (冨田章午)
 <松坂城跡> 戦国武将の蒲生氏郷(1556〜95年)が1585年に築城を始めた。標高40メートル近い丘陵にあり、天守が建設された「本丸」や御殿があった「二の丸」、やぐらが建てられた「きたい丸」などで構成されている。自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)積み」による築城当時の石垣が残っている。江戸時代、紀州藩領のうち勢州三領を治める役所が置かれていた。2006年に日本城郭協会の「日本百名城」に選ばれた。

409荷主研究者:2020/03/14(土) 20:42:42

https://www.sanyonews.jp/article/988640?rct=syuyo
2020年02月27日 18時53分 山陽新聞
岡山城天守閣、22年秋改装開業 21年度から耐震化の大規模改修

大規模改修が行われる岡山城

 岡山市の大森雅夫市長は27日、2021年度から大規模改修に着手する岡山城天守閣について、22年秋ごろの改装オープンを予定していると明らかにした。

 市議会代表質問の難波満津留氏への答弁で「岡山城や城下町の成り立ちを分かりやすく展示し、入場者数は改装前の130〜150%増を期待する」とも述べた。

 改修計画では、フロアごとにテーマを設けて池田家による城下町の発展、関ケ原の戦いにほんろうされた宇喜多家、小早川家の歩み、戦国時代の岡山などを紹介する。市出身の歴史学者で国際日本文化研究センターの磯田道史准教授に監修を依頼している。

 市は3月末までに基本設計をまとめ、20年度に実施設計を進める。21年夏から秋ごろの着工を想定している。

 天守閣は震度6強から7程度の地震で倒壊・崩壊の恐れがあるため耐震改修する。手すりの設置などバリアフリー化にも取り組む。

410荷主研究者:2020/03/29(日) 16:13:19

https://www.at-s.com/news/article/local/west/748181.html
2020/3/19 13:50 静岡新聞
浜松城 堀の規模克明 幕末の絵図発見、袋井の収集家保管

新たに見つかった浜松城絵図の複製を手に解説する神谷昌志さん=浜松市中区

絵図に記された浜松城の堀の規模

 江戸時代末期ごろとみられる浜松城(浜松市中区)の堀の幅や長さが記入された絵図がこのほど、袋井市の個人宅で確認された。絵図の記述は、過去の地籍図から推定された堀の位置や規模とほぼ合致するという。浜松城整備専門委員を務める郷土史家神谷昌志さん(90)=同区=は「堀の規模が克明に記された絵図を初めて見た。堀があった中心市街地は考古学調査が難しく、貴重な史料」と意義を説明する。

 堀は同区連尺町の国道交差点近くにあった大手門の周囲に掘られていた。「遠州濱松」と題した絵図によると、堀の幅16メートル、長さは大手門の西側111メートル、同東側102メートル。現在の市道(通称二俣街道)に沿って造られた空堀は291メートル、瓦門北側の水堀は55メートルだったことが分かる。

 絵図は古文書の収集家鈴木邦彦さん(73)=袋井市=が保管していた。浜松市が城の図面や写真を集めているのを受け、神谷さんが親交のある鈴木さんに連絡し、存在が判明した。

 鈴木さんと神谷さんによると、絵図は幕末期に描かれ、討幕の動きに関わりがあるとみられる。鈴木さんが絵図とともに入手した古文書によると、官軍が江戸に向かう際、浜松城下の商人に兵士の配置や宿泊場所を告知していた。城下に迎えるにあたり、「浜松側から絵図を渡したのでは」(鈴木さん)と推測できるという。

 鈴木さんは似た形式で描かれた東海道沿いにある他の城の絵図も複数持っていて、官軍の進軍に伴い他藩で同様の動きがあった可能性があるとみている。磐田市歴史文書館の木村弘之館長は「絵図を作った目的や時期はまだ断定できない。官軍が宛てた文書が他地域で見つかれば、進軍と関連があった可能性が高まる」と話した。

 浜松市博物館によると、浜松城の堀の規模を記した絵図は他にも存在する。担当者は「収集家が持っている絵図は多く、さらに表に出てくる可能性がある」と期待を寄せる。

411荷主研究者:2020/06/20(土) 22:10:28

http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1583890328822/index.html
2020年3月11日 山陰中央新報
月山富田城跡の竹伐採 大土塁、全長130メートル一望

伐採後に見えるようになった大土塁の北端部を指し示す長谷川弘治さん

 国史跡・月山富田城跡(島根県安来市広瀬町富田)近くに住む農業長谷川弘治さん(72)が、かつて城の防御機能を担った大土塁の全容を見てもらおうと、北側部分に繁茂していた竹を約2カ月かけて伐採した。全長130メートルの土塁が見渡せるようになり、長谷川さんは「全国屈指の広さと堅さを誇った山城に思いをはせてほしい」と願う。

412荷主研究者:2020/06/20(土) 23:13:36

https://this.kiji.is/616044326708937825?c=92619697908483575
2020/3/27 08:00 (JST)熊本日日新聞社
熊本城の宇土櫓、解体復旧へ 熊本市が方針

熊本城の宇土櫓(右)。熊本地震で倒壊は免れたものの、建物全体が傾いているという。奥左は小天守、奥右は大天守=1月、熊本市中央区本丸

 熊本市は、熊本地震で被災した熊本城の国重要文化財・宇土櫓[やぐら]を全て解体した上で復旧する方針を固めた。市役所で26日開いた第2回熊本城文化財修復検討委員会(12人)で報告した。

 宇土櫓(高さ19メートル)は慶長年間(1596〜1615年)の創建とされ、3層5階・地下1階。既に解体した続[つづき]櫓が付属している。当時から唯一残る多層櫓で、全て解体されれば1927年の大規模な解体修理以来となる。

 市によると、宇土櫓は地震による倒壊は免れたものの、基礎や柱の破損が地階と1階に集中して42カ所ある。柱の傾斜も各階で見られ、1階は東側に、4・5階は北側に傾き、全体が変形している。

 櫓の石垣は一部が変形しており、復旧方法を検討中。このため櫓の解体着手時期は未定。市は「部分的な修理での復旧は難しい。解体を進めながら調査し最終的に判断するが、全ての解体を見据えて進める方針」と説明した。

 委員からは「激しい破損状況なので、解体による修理はやむを得ない」「石垣の復旧は造形も守る必要があるのではないか」などの意見が出た。

 熊本城には国重文が13棟あり、これまで7棟を解体している。(園田琢磨)

413荷主研究者:2020/07/14(火) 21:57:08

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=653266&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/6/17 中国新聞
福山城北面の鉄板復元、400年事業 21年度完成予定、市が7月からCF

福山城天守の北側。今後、鉄板張りが施される

鉄板張りが施された往時の福山城天守を再現したCG(福山市提供)

 福山市は、かつて福山城天守の北側の壁に施されていた鉄板張りの「復元」に乗り出す。7月から、必要な資金をふるさと納税制度を使ったクラウドファンディング(CF)で募る。寄付した人には、返礼品の代わりに鉄板の裏に自分の名前や城への思いを書いてもらう。2022年の築城400年に向けた事業の一環で、21年度の完成を予定する。

 市によると、1622年に築城された福山城の天守北側には最上階を除く壁一面に黒色の鉄板が張られていた。北側は防御が弱く、砲撃から城を守るためだったとされる。福山空襲で焼失した後の1966年に天守は再建されたが、鉄板は張っていなかった。

 市が今秋から始める耐震工事の計画段階で、城の専門家が「鉄板が張られた城は唯一無二。耐震化に合わせて復元してはどうか」と提案。市も城の魅力向上につながると判断した。

 市は復元と同時に、劣化したり、割れたりした瓦約4千枚も取り換える計画で同様に寄付を募る。鉄板が1口10万円で600口、瓦は同1万円で4千口とし、目標額は計1億円。寄付した人を21年夏ごろに城周辺で開くイベントに招待し、鉄板と瓦の裏面に自分の名前や城の思いを書いてもらう。鉄板などは寄付の口数に応じて割り当てる。

 市によると、天守を再建した当時の事業費1億8千万円のうち、約9割の1億6千万円は寄付で賄ったという。渡辺真悟・築城400年事業推進担当課長は「城の知名度を高めるとともに、市民や全国の城のファンに親しんでほしい」と意気込む。CFによる寄付は市のホームページなどで募り、21年3月末に締め切る予定。(門戸隆彦)

414名無しさん:2021/03/30(火) 13:09:45
国宝 犬山城の天守 調査で現存する最古の天守との裏付け 愛知
2021年3月29日 18時26分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210329/k10012942841000.html

愛知県の国宝 犬山城の天守は、秀吉と家康が争った小牧長久手の戦いの直後に建てられたとみられ、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、現存する最も古い天守であることが裏付けられたことが名古屋工業大学大学院などが行った建築材の調査で分かりました。

愛知県犬山市にある犬山城の天守は、昭和36年から行われた大規模な修理に伴う調査の結果、2階までの下層階は1537年ごろに織田信長の叔父の信康が建築し、3、4階はそのおよそ60年後に増築されたという説が有力でした。

犬山市の依頼を受けた名古屋工業大学大学院の麓和善教授らが、おととしから初めて年輪年代法という手法で分析したところ、柱やはり、床板など天守の主な建築材は、いずれも西暦1585年からの3年間に伐採されていて、1階から4階まで一気に建設されたとみられることが分かったということです。
この時期は、豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いの直後で、犬山城は信長の次男の信雄の勢力圏にあったということです。

市によりますと、これまで考えられていたより50年ほど新しいものの、関ヶ原の戦いより前にあたり、現存する天守の中では最も古い天守であることが裏付けられたということです。

専門家「今回の調査は非常に重要な意味を持つ画期的な成果」
調査にあたった名古屋工業大学大学院の麓和善教授は「今回の調査によって犬山城の天守が最初からほぼ、今の形で建てられたことが分かった。年代が科学的に特定できたので非常に重要な意味を持つ画期的な成果だ」と話しています。

また、調査に協力した奈良文化財研究所の光谷拓実客員研究員は「犬山城の目に見える建材をすべて調査した。創建の経緯の解明に役割を果たせたと思う」と話していました。

415名無しさん:2021/04/03(土) 07:59:26
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1d57ba96e99c908233e5b3c11f138f005a413ae
幻となった不遇の城・江戸城4代天守はなぜ再建されなかったのか?
4/3(土) 6:09配信
サライ.jp
【第4代幻の天守】明暦3年(1657)の大火で3代天守は焼失。天守の再建計画が立てられた。しかし保科正之が中止した。3代天守と同じ構造とされる。CG制作/中村宣夫。

家綱の叔父・保科正之が天守無用論を唱えて中止
3代将軍家光が没し、嫡男家綱が4代将軍となってから6年が経過した明暦3年(1657)正月の大火により江戸の四分の三が灰燼に帰した。江戸城も免れることができず、西の丸を残して焼き尽くされ、家光が造営した寛永度天守も類焼した。幕府は江戸城の再建を修復程度に止め、町人地と武家地の屋敷復興に努めている。ようやく9月になってから、幕府は、江戸城本丸の再建工事を来年に行なうこと、御手伝普請(天下普請)の助役大名は1万石に100人の人夫を出すことを命じた。天守台の担当となったのは、加賀金沢藩主前田綱紀だった。

翌明暦4年(万治元年、1658)正月に諸老臣とともに将軍補佐役の井伊直孝と保科正之が本丸工事を監視することになる。前田家による天守台の築造工事は5月に始まった。6月になると、将軍家綱が本丸工事の進捗を見舞い、前田綱紀・細川綱利ら助役大名に炎暑慰労の詞を掛けたという。8月18日に天守台の角石が据えられたことにより、10月初めに至り完工した。現在、本丸跡に残る天守台はこの時のもので、天守台本体はすべて御影石からなるが、南側の小天守台は伊豆石の安山岩である。御影石は瀬戸内海の小豆島と犬島から運ばれたものという。石垣の高さは6間である。「加賀百万石」の前田家は、人夫1万人を動員し、天守台築造を行なった計算になる。

天守台は成ったが、天守は築かれていない。あるいは、天守台のみ築く計画だったのか、それとも計画はあったがなんらかの理由で工事が中止となったのか、いずれであったとしても史実を語る史料は残っていない。これに関しては、保科正之(陸奥会津藩主)が天守無用論を唱えたという逸話がある。正之は将軍家綱の叔父に当たり、補佐役の立場を考慮すると可能性は高いといえる。明暦3年は家光の法会の年にあたり、4月20日の7回忌法会の前後に決断したのかもしれない。当日の正之は、本丸の留守居を務めており、上野寛永寺に赴いていない。

その時から40年以上が過ぎ、6代将軍家宣の正徳2年(1712)に儒者新井白石の建言によって天守の再建計画が進められ、5層の「江戸御城御殿守正面之絵図」が伝来する。また、翌正徳3年(1713)の「御天守絵図」も伝存する。後者は詳細な図面で、南側(正面)の妻側と平側の5層の外観図と、穴蔵の地階、高さ6間の天守台上の初重から5重目までの平面図があり、階段も描かれており、穴蔵の図には小天守台もある。再建が検討されたが、正徳2年10月の家宣没により中断し、翌正徳3年に再度再度俎上に上ったものの、家宣の子の7代将軍家継が正徳6年に没してしまい、4代天守は実現に至らなかったのだろう。

江戸城天守の高さと形状比較
【初代天守】

家康が建てた初代天守は大天守と小天守を伴う連立式。壁は白漆喰総塗籠でまるで姫路城のような白亜の天守だった。高さ22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【2代天守】

家康が死去すると2代将軍秀忠は家康が築いた天守を取り壊し、本丸御殿を大幅に拡張し、天守は北側に設けた天守台に新たに築いた。家康の連立式天守ではなく、独立した天守だった。元和9年(1623)に完成。五重五階で壁面は白漆喰。層塔型で下階から上階になるに従い、間口と奥行きが狭くなっていく。高さは22間5尺。CG制作/中村宣夫。

【3代天守】

秀忠死後の寛永14年(1637)、2代天守を解体して造る。権威を誇示する独立式大天守。基部に入母屋(いりもや)屋根はなく、最上階のみが入母屋造り。青海波(せいがいは)という文様を打ち出した銅張の千鳥破風が12個あるのも特徴である。瓦はすべて銅瓦で、最上部に金鯱があった。各階に銅板張の突上窓がある。高さは22間5尺と現代の15階建てのビルに相当。CG制作/中村宣夫。

徳川家康が築城した初代江戸城は「日本最強の要塞」だった!に続きます。

監修・文/菅野俊輔
早稲田大学政治経済学部卒業。江戸文化研究家。早稲田大学エクステンションセンター講師。現在、江戸のくずし字や江戸学など“江戸を楽しむ講座”の講師を務めながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍。主な著書に『図説世界を驚かせた 頭のいい江戸のエコ生活』『古地図と名所図会で味わう 江戸の落語』『江戸の長者番付』(以上、新書、青春出版社)、『書いておぼえる 江戸のくずし字いろは入門』(柏書房)、『江戸っ子が惚れた忠臣蔵』(小学館)などがある。

サライ.jp

416とはずがたり:2021/08/28(土) 12:03:38
安土桃山の話なので此処で。

信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕
8/28(土) 7:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/827ec400e767b88cea6dedff1946c4c88fab7a5e
毎日新聞

 戦国武将・織田信長の最愛の女性で、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓がある久昌寺(きゅうしょうじ)(愛知県江南市田代町)が近く取り壊されることが分かった。老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込み。市民や歴史ファンらからは「貴重な歴史遺産を残してほしかった」と惜しむ声が上がるが、630年以上とされる歴史に幕を下ろすことになる。【川瀬慎一朗】

 「江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。寺は1384年創立で生駒家の菩提寺にあたる。吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となった。長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。信長は正室、濃姫との間に子どもがおらず、吉乃は織田家の中で存在感があったとみられる。若くして亡くなったとされ、冷酷非情とされる信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。信長は香華料として660石を寺に与えたという。

 寺の現在の本堂は1925年建築。庫裏は不明だが、江戸期とみられる。寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており、今回の取り壊しや売買の対象にはならない。しかし、寺がなくなった後にも墓標は立ち続けることになり、どのように保存、継承していくかが課題となる。

 寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)によると、寺には約60年前から専属住職はおらず、檀家も約10軒という。長年維持管理が課題になっており、約5年前から取り壊しを検討。耐震化や雨漏りの問題があるが、費用面から改修は困難だったという。本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、英夫さんは「信長ゆかりで先祖の菩提寺でもある歴史的な寺なので残したい思いはあったが、檀家も少なく財政的にやむを得ない」と話した。

 市によると、寺の境内南側は92年、北側は2012年から市に無料貸与され久昌寺公園として整備。20年8月、所有者側がこの無料貸与している土地を無償で市に譲渡し、本堂と庫裏の取り壊し後の跡地約1600平方メートルの買い取りを要望。市は所有者側と交渉を重ね購入の方針を決めた。

 9月2日開会の9月定例議会に土地鑑定、測量予算約59万円を計上する。22年度中に取り壊し・購入、23年度に公園として整備するという。

 同寺の案内もするボランティア団体「市歴史ガイドの会」の川田圭一会長は「歴史を伝える寺が無くなることは寂しい。皆で維持費を集められれば良かったが」と肩を落とした。その上で、「忘れ去られてしまわないよう、どこかに寺のことを伝える場を作ってほしい」と望んだ。

417荷主研究者:2022/01/09(日) 15:48:06

https://www.chunichi.co.jp/article/164837
2020年12月4日 05時00分 (12月4日 09時50分更新)
二の丸御殿 復元へ一歩 金沢城 基礎部分を発見 石川県教委

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi01.JPG
発見された金沢城・二の丸御殿の基礎部分=3日、金沢城公園で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20201204chunichi02.JPG

位置、規模を把握へ

 江戸時代に金沢城の中心だった二の丸御殿の玄関口に当たる北東地点で、建物の基礎部分が金沢城公園(金沢市)で見つかった。三日に発表した石川県教委の金沢城調査研究所は、御殿の正確な位置や規模の把握につながるとみている。御殿の復元整備を目指す石川県は、年度内にまとめる復元整備の基本方針に生かす。

 発見されたのは、二の丸御殿の中でも公務の場である「表向(おもてむき)」の一角。柱を支えた礎石は撤去されていたが、礎石を安定させるための川原石や戸室(とむろ)石を詰めた土台部分が複数にわたり並んでいた。公式行事用の玄関「表式台(おもてしきだい)」と大広間につながる廊下「広縁(ひろえん)」に対応する部分という。

 一八〇八(文化五)年に火災で焼失した後の一八一〇年に再建され、一八八一(明治十四)年まであった二の丸御殿の基礎部分とみられている。古絵図や、再建時の古文書と照合した。

 今回の成果について、谷本正憲知事は三日の県議会代表質問の答弁で「史実に沿った二の丸御殿復元の精度をより高めるものと考えている。復元は県の最大の個性である文化の集積にさらなる厚みを加える」と強調した。復元整備の基本方針には事業の進め方や御殿内部の活用方法、事業全体の日程などを盛り込む。

 二の丸御殿は東から、公務の場である「表向」、藩主が住む「御居間廻(おいままわ)り」、藩主の母親や側室らが住む「奥向(おくむき)」で構成される。復元を巡っては、今年二月に有識者でつくる検討委員会が「表向の復元整備を進めることは可能」、御居間廻り、奥向は「引き続き調査検討が必要」と報告した。

 このほか、一九六九年度に県教委と金沢大が発掘調査した遺構の一部も再検出。表向の主要部と南に位置する台所の境にあり、中庭に出入りした通路「くぐり抜け階段」や表向と御居間廻りの境にあった排水施設なども姿を現した。

 一般市民向けの現地説明会は五日午後一時半から。参加無料。

【メモ】金沢城二の丸御殿=加賀藩主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。1631(寛永8)年の大火を機に本丸から移って建築され、2度の焼失を経験しながら、幕末まで機能を保った。明治期に入り、陸軍の兵舎として利用されたが、1881年の失火で失われた。

418とはずがたり:2022/05/10(火) 13:42:57

彦根城天守前でラジオ体操続けたい 市「文化財保護のため場所変更を」
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/776604
2022年4月24日 6:00

 2024年の世界遺産登録を目指す彦根城(滋賀県彦根市)の国宝・天守前で、早朝にラジオ体操をしている市民に対し、市が場所を変えて行うよう求めている。開場時間外で文化財の管理面などが理由。参加者らは陳情書を提出し、継続できる環境づくりを求めている。

 天守前には広場があり、市民らが一年中集い、毎朝6時半にラジオ体操を始める。30年前から続ける男性(80)によると、市民らが自然に集まるようになり、昨年は家族連れや高齢者ら延べ約6800人が足を運んだ。

 琵琶湖や城下町の町並みの眺望も魅力で、男性は「城はもちろん、朝日を受けた一帯の景色を見ることができる超一流の場所で健康増進ができ、値打ちがある」と話す。これまで大きなけが人が出るなどトラブルはないという。

 世界遺産登録活動を進める中、市は3月中旬、参加者側に口頭で場所を変えるよう求めた。文化財課は「そもそも開場時間(午前8時半〜午後5時)外」とし、国宝や重要文化財の保全や防災・防犯面から、城の内堀沿いの金亀児童公園などでの活動に移行するよう伝えた。

 これに対し、男性らは「天守で健康づくりをする会」(仮称)を立ち上げ、4月4日、市に陳情書を提出。約140人分の署名を添え、「長年ラジオ体操を通じ、生活リズムや郷土愛を育んできた。城内の異変や不審者にも注意を払い、一定の防犯、抑止効果も担っている」とし、理解を求めている。

 市も、市民らの長年の生活習慣を突然断ち切るような事態は避けたいとし、対応に頭を痛める。

 井伊岳夫文化財課長は「参加者の方々の城を大切にされる思いはありがたい」とする一方、各地の社寺で液体がまかれた事件や3年前の首里城(沖縄)での火災などを念頭に、「市としても国宝などの文化財を保護し、将来に伝えなければならない。何とか場所を変えてお願いできないか」とし、今後、参加者との話し合いの場を設けるとしている。

419とはずがたり:2023/04/07(金) 22:54:22

美術よりこっちが近いんちゃうか。

刀剣は行方不明の旧国宝・伝則重か? 「刀剣乱舞」俳優も驚き
石田宗久
https://mainichi.jp/articles/20230106/k00/00m/040/117000c?cx_testId=0&cx_testVariant=cx_0&cx_artPos=4#cxrecs_s
毎日新聞 2023/1/8 07:00(最終更新 1/19 17:06) 有料記事 1897文字

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)により接収され所在不明だった旧国宝の日本刀「無銘伝則重(のりしげ)」と刀身や装具の特徴が一致する刀剣が、オーストラリアで確認された。かつて鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)が保有していた実物の可能性が高いとみられる。ネットオークションで落札した愛刀家の男性が、史料を分析するなどしてその来歴に迫った。

ある刀剣との出合い

 「これまで見た刀剣の中では最も質が良い」。メルボルン在住の弁護士、イアン・ブルックスさん(66)は、10代からの日本刀ファンだ。日課であるオークションサイトのチェックをしていた2018年10月、一振りの刀剣に目を奪われた。

 刀剣は、米ニューヨークの個人が出品していた脇差しだという。刀装具である鐔(つば)は柳の木の下を走る馬の群れの細工があり、「桂永寿」の銘があった。ブルックスさんは迷わず落札し、コレクションに加えた。翌19年1月、何気なく愛好家団体の会報を眺めていると「行方不明の重要な日本刀一覧」の記事があった。記載されたリストを見て、落札した刀剣を急いで取り出した。
一致した特徴

 リストの記述は、手元の刀に当てはまった。さらに日本の旧国宝の刀剣に関する別の文献に照らすと、約60センチの刀長や刀を納める鞘(さや)、握るための柄(つか)といった刀装具の特徴が一致した。「私は行方不明の刀剣を手に入れた」との思いに至った。

 調べると、伝則重は鎌倉時代に活動した刀工、則重の作で、松の木肌のような見た目から「松皮肌」と呼ばれる太い鍛え肌が特徴だという。桂永寿が福岡県出身の優れた刀装具職人だったことも分かった。また、落札した刀剣に添えられたラベルは、判別が難しい2文字を挟むように「官幣大社……島神宮」の文字や「三二」などの数字が読み取れた。

 刀剣が鹿児島神宮に関係すると考えたブルックスさんは、来日して文部科学省や文化庁に照会した…
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