したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

鷹目遊里史板

39鷹目:2006/05/01(月) 00:07:17
古書会館で
>yutakaさん
 古書会館のほうは昼からか夕方ぐらいに時間が有ればとか考えている程度です。もしかしたら御互いそうとは知らず、遭遇するかもしれませんね(笑)。
 多分即売会にいければ、遊里本とオカルト本を漁ります〜。

40ナカムラ:2006/05/03(水) 08:32:53
岐阜行
墨俣へ移動すべく、新幹線の車中です。

今里どの
金津園では、本能や本性が出て、入浴に至らぬよう、無用の路銀は持たず出てきました。(笑)

金津園ではクレジットカードが使えないようですし・・・。

41今里X:2006/05/04(木) 22:21:34
敏馬(みるめ)花街
秘湯探検家「t」さんの情報によると大垣にも現役営業中が2件あるそうですから、危ういところでしたね。

ところで、ぼくは敏馬神社の周辺にあったとされる敏馬花街を見てきました。
といっても現在は国道とビルですが…
もとは敏馬の浦という古くからの行楽地で、料理屋、芝居小屋、海水浴場などがありました。
敏馬と書いて一般的には「みるめ」と読んでたようですが、現在は正式に「みぬめ」に統一されてるみたいです。

発祥は芸妓置屋が明治32年には存在していたようです。
最後がどうなったのかをみると、昭和6年頃から阪神電車岩屋三ノ宮間のトンネル工事の残土で、敏間神社の前に広がる敏馬の浜を埋め立てられ、昭和20年の戦災によって行楽地としての敏馬の浦は荒廃してしまったそうです。

現在はきれいなオフィスビルと整備された広い車道と新しい高層マンションの町に変貌していました。

42夕凪:2006/05/06(土) 01:07:53
酒の本場は 痛●の里よ
 花柳界の要の検番は、痛●の場合、地理的にも花街の中心に位置していた。
痛●本町から東へ湊町に入ると、最初の四つ辻の角が検番で、
そこから北へたどると置屋の「今井」、さらに右回りに東へ折れると「寺本」があり、
南へ下がった突き当りが「千玉」、その並びの西に「初音」、ちょっと離れた南東に
「鳥新」と「石井」が軒を並べる。

 そんな時代も、昭和16年に太平洋戦争が始まって、ついえた。
戦後の痛●に、花柳界が復活するほどの経済力はもうなかった。

置屋「今井」痛●1丁目3の16
検番;痛●1丁目4の2(痛●陸●の南半分あたり)

ある本より・・・・・・

43今里X:2006/05/06(土) 11:34:41
痛●の湊町
維新前の遊所の中心とは4〜500メートル離れた湊町に検番がありました。
現地は住宅街化してしまってるのと道路が大幅に拡張されたりで訳のわからんことになってました。
お客さんはやはり酒造家関係だったそうです。
というか花街と酒造工場がくっついてる状態ですから…

44鷹目:2006/05/14(日) 23:01:13
写真展反省会
 終了から一ヶ月以上経ってしまったのですが反省会を。
 自分が体験しての反省は、?もう少しテーマを絞ればよかったのでは??指摘されてコメントを付けるのではなく、写真展示と同時に付けるべきだった。?HP及びMIXIで告知し、ネット見て訪れた人も結構いたそうですが、それに対する反応(書き込み等)がほとんど返ってこなかった。?宣伝の手段はネットとセンセのチラシだけでよかったのか?という4点です。
 ?は展示して今回はあれで良かったかもしれませんが、和風洋風とまとまりが無いように感じたのもありましたので。
 ?は現存する建物もあるのでそれに配慮したのとどこだろうと想像して貰うのも面白いかなと思っていましたが、見る人に対しての配慮が掛けていました。
 ??は表裏だと思ってます。反応が判らないというのは困ったもんです。きちんとバックできる方法を考えなければいけないですね。
 でも一番の反省点は、ララさんの客寄せに貢献できたかということです。私自身の力不足も露呈させてしまいました。ただただ反省するばかり・・・。
 でもこの失敗を糧に次回はより良くしたいものです(笑)。

45鷹目:2006/05/14(日) 23:16:38
遅報GW
 写真板にはポイントを絞ってGWの成果をアップしていますが、こちらでも報告を少々。
 ?旧千住柳新地。カフェ風の建物が3軒ほど。『赤線跡を歩く』掲載の建物の多くはすでに無し。痕跡もなくなるのは時間の問題ではないかと。それよりも気になるのは駅から途中のTぶき町。ある路地の雰囲気が少し違っていました。
 ?玉の井。町会名で玉の井の名前は残っています。建物残存率はまあまあと言うべきでしょうか?外壁を吹きなおしている家や無人で朽ちかけている建物もあります。徐々に建物がなくなっていくでしょうが、路地が入り組み、道も狭いのでそれほど急激に変化するとは思えません。
 ?鳩の街。以前は6号側にあったアーチは無し。でも鳩のオブジェを付けたポールと商店街の名称として鳩の街の名は残っています。建物の残存率は非常にいいです。特にマメタイルが綺麗に残っている建物が結構あります。こちらも細い路地が多いので急激に変化することは少ないと思います。商店街の裏手、またお暇な方が多いようで人の出入りがあるので写真を撮るにはちょいと苦労があるかも。
 向島。見番通りにビル化された見番あり。古い建物は若干残っていますが、多くの料亭もビル化されています。現役ながら花街の雰囲気があまり感じられませんでした。
 芝浦。こちらもほとんどはビル化されており、古い建物は3軒ほど。そのうちの一軒が旧検番。現在は無人で鳥除けと思しきネットで全体を覆われています。所々痛んでいる個所があり、そんなに長くは持たないのでは?
 品川。今は商店街。路地にはそれなりに古い建物もあるが、遊里時代のものか判断できず。近くの荏原神社に玉垣でも残っていないか訪れるもなし。夕方だったのでさらっと流しただけなんでなげ込み寺まで行けば当時の痕跡が見つかるかもしれません。
 以上です。

46:2006/05/15(月) 02:17:02
少しだけ…
>鷹目様 その他写真アルバムをご覧いただいた皆様
遊所写真のスライドショーをご覧頂き、ありがとうございました。
まずはお礼のみにて。

>鷹目様
写真展のプリント料金がそのままになっております。
いかがいたしましょうか?

47鷹目:2006/05/15(月) 12:26:47
プリント
>まめタイルさん
 毎度です。プリント料金は実行委員長さんから連絡が行くと思います。

48夕凪:2006/05/20(土) 20:25:54
南地五花街の場所
●宗右衛門町・・・・・道頓堀川の北岸戎橋より東日本橋に至るまでの間にして
 島の内と称へ大阪芸妓の本場なり、屈指の貸座敷多し五花街中第一位に居る
●九郎右衛門町・・・・・道頓堀川の南岸戎橋南詰より西、大黒橋に至る間と芝居裏一帯の地、
 宗右衛門町に次ぐ
●櫓町・・・・・九郎右衛門町に続き戎橋南詰より東、日本橋までの間にして東櫓、西櫓の
 二ヶ町に分る繁華熱閙大阪第一の地たり
●難波新地・・・・・・五花街中区域最も広く戎橋筋の東方より西、新川に亘り北は西櫓町及び
 九郎右衛門町に接して裏芝居裏に起り一番町より六番町までを数へ直ちに難波停車場に
 隣る中筋、相生町などの旧称あり
●阪町・・・・・道頓堀川より南へ二筋即ち芝居裏の南通及び其の総称にして難波新地の東に
 接せり此南の町を俗に南阪町又は裏阪町といふ、因に難波新地戎橋筋に設くる演舞場は
 南地の芸妓が晴れの舞台とする所にして時々舞踏の催あり。

                           大正3年発行の資料より

49鷹目:2006/05/20(土) 23:22:30
難波新地
>夕凪さん
 毎度です。今は無き難波新地は日本橋に石碑がありました。でも花街としての南地も寂しいようですよね。

50夕凪:2006/05/21(日) 07:27:14
三重県の貸座敷組合
全国貸座敷連合会臨時大会(昭和10年)参加の三重県下の貸座敷組合としては
下記組合の名前が見えます。

 ?津市組合?四日市組合?久居組合?桑名組合?松坂市組合
 ?宇治山田市組合?菰野組合?上野組合?長島組合

                           以上

51鷹目:2006/05/21(日) 16:40:01
糸屋
 本日、天気も良かったので半年以上も放っていた白崎糸屋遊廓探索に赴きました。結果は建物残存なし、土地の人に聞いて所在地の確認は出来ました。現在も営業中の旅館が里の中心のようでその両隣に見世が並んでいたそうです。今はもう取り壊されて痕跡はまったくありません。元々小規模な遊里であり、すぐ背後は山、目の前は海という立地条件を考えれば、台風、高潮、塩害などで建物の傷みが早かったのではないかと推測できます。
 取り敢えず、所在地確認できただけでも良しですね。和歌山県内、南部以外で未確認の土地は、存在がはっきりと判らない橋本を除き、おそらく粉河のみとなりました。ただ歴史的にはほとんど判明していない遊里が多いので今後の課題も山積みです。

 下道で片道2時間半。一人でドライブはひまだった。あう・・・。

52banana:2006/05/29(月) 00:35:59
無用の路銀
土曜日の夜、大阪に用があったのですが、その前に京都の隣りの寂れた県庁所在地に行ってきました。
そこを通っている大手私鉄の支線もかなり経営が厳しいという話ですが、町全体が活気がなく、元花街は小さいスナック(「会員制」の看板を掲げているところが多かったですが)が多くありましたが、3分の1ぐらいが不動産業者の管理地となっていました。
建物は、カフェー調が2件ある以外は和風の妓楼が中心でした。

夜行バスで帰ることになっていたのですが、難波で変に2時間ほど時間が余ってしまい、何を間違ったのか地下鉄で南下してしまいました。カフェー調の建物で有名な「○生」(姫路と岡山の間)が営業しており、内部の装飾もちょっと気になりました(その店には上がってはいません)。

53鷹目:2006/05/29(月) 23:20:08
元林院の舞妓さん
 ニュースでも流れていたのでご存知の方も多いかと思いますが、奈良の元林院花街で1年ぶりに舞妓さんが誕生されたそうです。前にいらした舞妓さんが辞めてから舞妓不在な状態が続いていたそうです。ですので今回の新舞妓さんの誕生は花街としてはメデタイ話ですね。
 元林院も今は人数も少ないですが、上手くやればまだまだ伝統ある花街して全国的にアピールできると思うのですが。

ttp://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000605290001

54鷹目:2006/05/30(火) 22:39:15
と言うことは
>bananaさん
 遅レス、すみません。モニターが非常に不安定なので休ましながらPC使っています(怖)。
 無用の路銀と言うことは淡海の御風呂じゃなくて、鳶印の料亭をご利用された訳ですね。大門改修後以来、偵察も行っていないです。いや、マジで(笑)。

55yutaka:2006/05/31(水) 18:57:28
近江探索
ご無沙汰しております。4月に新潟、先々週に秋田を探索してきました。
明日、お天気も良さそうなので、久々に東海道新幹線に乗って滋賀県、近江・大津界隈を探索してこようと思います。JR東海ツアーズ「1day近江」利用です。
この時期って日が長いので、晴れていると探索には良いですね。

56鷹目:2006/05/31(水) 22:37:32
近江散策
>yutakaさん
 毎度です。新潟、秋田の写真楽しませていただきました。関西在住のものとしては、東北方面は交通の便で非常に不利なのでこうして写真をアップして貰えると現状がよく解り助かります。
 明日から近江方面散策だそうですが、どうやら天気も良さそうで何よりです。少し汗ばむかもしれませんね。残存率はそれほどでもないようですが、特徴ある建物が残っているそうです。
 実は滋賀は八日市しか行ってません(笑)。そろそろ北上していこうかな・・・。

57鷹目:2006/06/03(土) 22:30:54
福知山の遊里
 本日福知山に行ってまいりました。以前訪問した方のお話だと建物の軒数が明らかに減っているとか・・・。でもそれなりに建物は残っていました。
 別の場所で遊里に関して面白い話を少し聞くことが出来ました。元は下柳町に花街として存在していたのが、明治頃に対岸に移転させられたと言う事。ありがちな事ですが、遊里関係の話になるとその方々、少し歯切れが悪いしゃべりになったように感じました。なかなか難しいですね。
 時間の都合で図書館で資料調べは出来ませんでしたが、こちらも歴史的な裏づけを取っていきたいですね。

58yutaka:2006/06/09(金) 13:27:22
近江画像
こんにちは。先日の近江画像アップしてみました。暇つぶしに覗いて見て下さい。
長浜・彦根・近江八幡・大津を1日で廻る探索でしたが(広く浅くになってしまいました)、梅雨入り前、お天気にも恵まれ久々の関西方面を愉しみました。
梅雨に入ってしまいましたが、再来週に福井に行って来ようと思います。仏閣巡りも好きなので、永平寺散策後、三国探索です。

59鷹目:2006/06/09(金) 23:34:30
近江も良いですね。
>yutakaさん
 毎度です。近江写真、良いですね。写真板のbananaさんの写真に続き、yutakaさんの写真見て、近江行きたくなりました。先だっての散策会の時、今里センセと話していたんですが、次ぎやるとしたら大津あたりかなと。このyuatakaさんの写真見て秋の散策会目的地に決定です。
 私的に福井と言えば、八百比丘尼ですかね〜(笑)。

60yutaka:2006/06/10(土) 09:49:57
近江路
おはようございます。大津は滋賀県の県庁所在地があるとは思えないほど静かでしたね。
京阪の支線(チンチン電車ではなく)が路面を走っているにはちょつとビックリしました。
近江界隈は寂れているからこそ、散策するには面白いと思います。
自宅に帰ってから色々ググッテ見たところ、彦根(旧袋町)に明治時代から続く旅館があるそうです。
サイトもありましたので、載せておきますね。
 ttp://www.tobaya.jp/

61鷹目:2006/06/11(日) 23:24:04
近江で
>yutakaさん
 毎度です。旅館良い雰囲気ですね。近江の旧遊里で同じように風情のある転業料理屋あればオフ会に使えるんですよね。八日市にはありますが、予算的なもので除外するしかないので。
 次々回の定例オフ会用に会場探さないと。次は何処で探そうかな〜。楽園の歌舞練場でも借りてやりますか(笑)。

62k_taii:2006/06/26(月) 00:48:14
久しぶりに
旅にでました。松山空港から伊予鉄三津駅へ、西へ2丁とのことですがやはりよく
わからない。途中図書館を発見し郷土史コーナーへ、写真と場所が特定できる資料を
司書さんにだしてもらうも、残念ながら建物は1つも残っていませんでした。
 それから今治へ。廃墟かと思うばかりの建物ばかり、以前来た時にあったホール
併設の転業旅館は残念ながら駐車場になっていました。スナックとして営業中みたい
のは3−4軒、あとは入り口が塞がれていました。
 道後温泉のネオン坂は思っていたほど建物は残っていませんでしたが、裏道に面する
方は昔しのままで、趣がありました。夜、ホテルに戻るとき入り口を通ると情報どおり
オバチャンから遊んでと、言われましたが前の日寝てなかったのでパスしてしまいました。
少し残念でした。

63今里X:2006/06/26(月) 01:34:13
伊予・近江
>k_taiiさん
お疲れさまでした。
三津浜の稲荷新地は不可解ですね。
実際に稲荷新地と呼ばれてたはずの場所は数軒の飲食店跡があるのみで、船溜まりをはさんで反対側に古い旅館風・妓楼風の建物がならんでますが、木村聡先生の赤本か青本に掲載されてるのは後者の方です。
転業旅館が無くなってたのは今治の青線の新開地の方ですか?
そうなら、ぼくが何年か前に行った時は更地になった直後でした。(´Д⊂グスン
ネオン坂残念でしたね。次回は元気なうちに旅の最初にまわるとか…

>yutakaさん
遅レスですみません。
大津の柴屋町は島原・吉原・新町とならんで四曲輪といわれたほどの遊里だったようですので、規模としては大きいですよね。
公許は後ですが、発祥は島原・吉原・新町より早かったんじゃないかと思います。
花街として現在あるようですけど交通の便が良すぎるせいか京都に取られてわりをくってるじゃないかと思いました。
長浜はちょっとウマそうな店が数軒あるのでいつか入ってみたいです。

64k_taii:2006/06/27(火) 01:08:57
今里Xさんへ
三津浜は対岸にも遊所があったのですか?青本の写真と雰囲気が違うので、おかしい
とは思ったのですが、生州(發々園)の場所という小冊子にしっかりと住所がでていた
のでそこで諦めてしまいました。三津のメインストリートの銀天街から稲荷新地まで
小規模の飲み屋街、料亭も1軒あり確かに存在はしていたようには、思われました。
 今治のあの場所は青線街でしたか、そういえば規模が小さかったですね、2軒
あった(現存1)転業旅館からそこが遊郭のあった場所だと思っていましたが、
そうなると、遊郭があった場所が他にあるのですね、また探しに行かなくてはなら
なくなりました。駅と港の中間の飲み屋街でしょうか?
 ネオン坂や徳島では営業中なので、興味がありますが、以前信田山で経験して以来
機会がありません(旅館の部屋は朱色と金色でした。)今度はガンバッテみたいと
思います。

65鷹目:2006/06/29(木) 23:29:23
情報求む
 『全国女性ガイド』の渡辺寛氏が書かれた赤線に関する記事が掲載されている本、または著作物の情報をお持ちの方がいらしたら、情報をお願い致します。
 前出の『全国女性街ガイド』の他『旅行の手帖NO.20 NO.23』『東京案内第一集〜第三集』までは確認しています。タイトル名と出版社、刊行年月だけでも判れば結構ありがたいです。

66:2006/07/20(木) 03:05:34
ミナミの帝王 V版25 誘惑の華
少し前のVシネマの作品で掲示板で話題になったかも知れませんが・・カブっていたら済みません。(~_~)

今日TVで見た竹内力主演の「ミナミの帝王 V版25 誘惑の華」は飛田新地が舞台です。(名前は「豊田新地」の設定ですが、クレジットの協力で「飛田料理組合」と入ってます)
店の表通りや裏通りが多数がロケ地で、「嘆きの壁」付近も撮影されています。
表通りでは女の子が座って、呼び込んでいるシーンもあります。
また、店の内部もしっかり撮影されています。(Hなシーンはありません。常連役のぼんちおさむさんはあくまで料理を楽しむだけです。)
料金表も11000円と正確な表示です。
「百番」のロケもあり中々楽しめますョ。
Vシネマなのでレンタル店にあるとおもいます。

http://www.ikoma-e.com

67鷹目:2006/07/22(土) 00:44:35
ミナミの帝王
>氷之助さん
 お久です。TVでやっていたんですか!チェックするの忘れた。私は導入部しか見ていないですが、ご指摘の通り組合が全面協力しているのが特徴ですよね。未見の方は是非見てください。

68今里X:2006/07/03(月) 21:17:32
(無題)
>k_taiiさん
今治は遊廓としては明治初めまでで、明治十八年には貸座敷と娼妓の営業場所から外されています。
その後は芸妓・雇仲居の花街となり大正十二年に移転、昭和五十年ごろまで賑わってたそうです。

>氷之助さん
誘惑の華、テレビでやってたんですか・・・(´・ω・`)ショボーン
レンタルするしかないかな。

あくまで料理を楽しむだけなのは、じつに正確な表現で胸を撫でおろしました。Σ(^∀^;)

69yutaka:2006/07/05(水) 11:36:47
「ミナミの帝王」見ました
>氷之助さん
情報ありがとうございました。未見でしたので、早速レンタルしてきました。
冒頭のシーンから、表通り(裏通りは訪れたことがないので、わかりませんが)の風景描写は良くできていますね。セットではなくロケのならではの雰囲気が好きです。
あの店の内部もセットではなく、ロケなのですかね。
その手に関しては余り詳しくないもので・・・。

70今里X:2006/07/05(水) 15:00:25
内部は…
料亭の室内は一万なんぼ払って見学しましょう。Σ(^∀^;)

71夕凪:2006/07/05(水) 22:40:47
著者略歴
大正2年5月18日(1913年)東京下谷に生る。
最終学務はアテネフランセ。

昭和10年(1935年)亀井勝一郎のすすめで日本浪漫派に参加。
文学評論にのせた小説「詫びる」が第1回芥川賞の候補となった。

20年間記者生活と旅の空に送る。
日本経済新聞記者などを経て現在は東京通信編集局長。
交通記者連盟・労農記者会員。

主な著書は「こけし風土記」「おんなの味」など。
現在、産経よみものに「おんなの旅」執筆中。

  現住所・葛飾区柴又○ノ57。


渡辺寛著『鄙びた湯・古い湯治場』(昭和31年6月1日、万記書房)より

72夕凪:2006/07/05(水) 23:58:43
にっぽんぱらだいす
赤本にも紹介されていた桜原遊廓を舞台にした「にっぽんぱらだいす」(松竹、1964)が
新世界の日劇会館で7月8日(土)〜7月14日(金)まで上映されます。
ご覧になってない方は、ぜひこの機会に!

あらすじ ttp://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD21487/story.html

同時上映は「すっ飛び五十三次」(松竹、1958) 出演は高田浩吉、花菱アチャコ

入場料は900円(安い!)

73今里X:2006/07/07(金) 23:33:52
まさか…
ま、ま、まさかハッテン映画館じゃないですよね。
高校時代、映画好きの友人が新世界の映画館にいくたびに手を握られたり、いろんなところを触られたりしたそうなので… (゚Д゚;)

櫻新地蔦屋さん●●支店に大島渚監督『太陽の墓場』があったので借りようと思ってます。

74夕凪:2006/07/09(日) 14:49:22
にっぽんぱらだいす?
 昨日、見てきましたが、内容的には、
敗戦(復員)→R・A・A→赤線再建→公娼廃止→転業と言った
一連の時代背景に、コミカルな味付けと、
赤線の中でしか生きれなかった一人の娼婦の短い一生を絡めた
興味深い作品でした。
でも、あまりにもステレオタイプだったような気もしますが。
あのテーマソングが暫く頭から離れそうにありません?

 「高校時代の映画好きの友人」が♀であれば問題は無い(?)気もしますが、
そんな訳はないですよね。

75今里X:2006/07/13(木) 00:03:45
二本立て
「高校時代の映画好きの友人」はオンタです。
オンタがオンタの太腿や手を撫で摩ってくるそうです。
高校生だっただけにどう断ってよいか分からなかったみたいで、黙って映画を見てたようですが…
一度ぼくもいっしょに見に行ったんですが、ぼくはなにごともなく、その友人は手を握られたそうです。
やってた映画は『スターウォーズ』と『魔界転生』の二本立てでした。( ;∀;) カンドーシタ

76夕凪:2006/07/16(日) 14:16:17
東京案内 №4
『東京案内』(第4号、昭和29年10月1日、黄土社)

 1.渋谷特集
  ?谷底の盛り場?道玄坂附近?鐘の音
  ?街のこえをきく座談会?澁谷センターを科学する

 2.青線コッソリ案内記・・・・・成野一夫

 ※残念ながら、渡辺寛氏の赤線記事は掲載されていませんでした。

77鷹目:2006/07/16(日) 17:49:44
RE:東京案内 №4
>夕凪さん
 毎度です。『東京案内 №4』には渡辺氏は執筆していないとか・・・。う〜む、他の号はどうなんでしょう。でも渡辺氏ではないけれど青線案内も面白そうですね(笑)。

78夕凪:2006/07/16(日) 18:41:07
東京案内 №5 次号予告
『東京案内』(第5集 クリスマス号、昭和29年11月初旬発売予定、黄土社)

 特集☆歳末経済学☆金になる東京、金にならぬ東京
 東京港特集−クリスマス随筆−
 盛り場特集 東京の裏玄関−上野特集− (その他満載)

次号の予告を見る限り、渡辺寛氏の記事らしいものは無さそうです。

『東京案内』自体何号まで発行されたのかは分かりませんでした。

79鷹目:2006/07/16(日) 20:01:24
東京案内
 1〜3集まで季刊で、4以降月刊になったですよね。今同じような内容の本って出しても宝○社ぐらいですかね。そう考えると昭和30年代高度成長期は面白い時代ですね。

80しにょ〜る:2006/07/28(金) 00:08:42
島原
大変ご無沙汰しています。こんなムックが出ていました。

田沢裕賀 『遊楽図と歌舞伎図 日本の美術 No.483』 至文堂
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4784334831/249-1520046-2151549?v=glance&n=465392

洛中洛外図屏風や四条河原図屏風など、近世初期の京の遊里を描いた美術を解説したものですが、巻末に、著者と輪違屋主人・高橋利樹さんとの対談「島原の太夫とその文化」が収録されています。

81鷹目:2006/07/28(金) 23:57:53
お久しぶりです。
>しにょ〜るさん
 お久しぶりです。
 本の情報ありがとうございました。早速注文しました。見る、読む、考えると三つ楽しめそうな本ですね。来るのが楽しみです。

 私個人ではセブン&ワイで注文しますけどアマゾン利用者ってやっぱり多いのかな・・・。

82yutaka:2006/08/05(土) 11:00:07
荷風!vol 9
にちぶんムック「荷風!vol 9」創刊の新宿特集から数年経っていますが、今回も新宿特集です。
赤線時代の2丁目など未見の画像もありました。ちょっとお勧めです。

http://www.nihonbungeisha.co.jp/books/pages/ISBN4-537-11444-4.html

83鷹目:2006/08/10(木) 00:14:02
RE:荷風!vol 9
>yutakaさん
 毎度です。すみません、遅レスで・・・。
 荷風!も9号目なんですね。6号までしかまだ購入していないので急いで残りを揃えます(笑)。遊里関係の記事がなくてもこのムックは結構楽しんで読んでいます。

84夕凪:2006/08/19(土) 23:45:50
住吉大社 夏越の祓 
●名越女の記念帳を成すにあたりて

 抑も我が住吉新地の開発は大正11年5月5日、
菖蒲帷子風薫り、浅沢沼の杜若ゆかりの色も類なき、
目出度き端午の日にそありける、

かくて年と共に発達し、席貸料理屋の数も加はり、
南大阪の人気を茲指定地の一角に集め、
芸妓舞妓に美人あり、妓昌の向上やむ時なき勢ひとなりたり、
これしかしながら挙廓一致の力とは云へ、
まさに驚異に値すと餘品たゝへも無理ならず、

されど新開の地なればこそと云ふ重き行事もなきに
占部寺岡正副取締以下議員役員の面々、
何をかふところの賑わひともなりぬべき事をこそと
思案し居たる折から昭和4年7月30日、
住吉大社にて名越の祓再興の事ありたり(以下略)

※本書には住吉新地の席貸料理屋、芸妓等の写真多数あり

85:2006/09/30(土) 08:21:16
木江遊郭跡 他
ご無沙汰しております。

近々、瀬戸内海の島の遊郭跡を散歩し、銭湯にいくつか入って来ようと考えています。
予定しているのは、以下の遊郭跡&銭湯ですが、何か情報をお持ちの方があれば、ぜひご教示下さい。。。

大崎上島   : さくら湯 〜木江遊郭跡散策
大崎下島豊島 : 豊島温泉 〜御手洗遊郭跡散策
倉橋島室尾  : 西の湯、さくら湯 〜音戸遊郭跡散策
呉      : 石川湯 〜呉・朝日町、吉浦新地跡散策

86嶋原G:2006/09/06(水) 23:15:03
木江はすごいらしい
木造高層ファンの私としましたら、木江は凄いらしいです。
木造5階建てもあるとのことです。

道幅が狭いのに木造3階が乱立する町並みは素晴らしいと思います。

87夕凪:2006/09/07(木) 01:11:01
おちょろ舟
 夕やみ迫るころ、港の両岸の突堤に赤旗が高く掲げられると、
ラッパの合図と共に数十隻の屋形式のおちょろ舟がいっせいに
沖合いの泊まり船をめがけて漕ぎ出し、先陣争いをした。

 船に着くや女は猿(マシラ)のように身軽く船によじ登り、
船人と直接交渉のあげく一夜妻となる。
そして翌朝、迎えのおちょろ舟に乗り、別れを惜しむ。

 船内での遊興が別段航海に支障がないこと、
或はともすれば荒みがちな船員の心に人間味を取戻させる
ということで人気を呼んだ。(中略)

 一隻のおちょろ舟に平均五、六人の遊女が乗り合わせ、
ちょろ押しと称する船員くずれの男によって操船される。
遊女たちの置屋は普通の人家とかわらず点々と散在していたものである。

                   某本ヨリノ孫引キデス

 被免許地廓接岸の船舶に出稼ぎは構わないが、
二十四時間を越えてはならないとの規定があったそうです。

 既に江戸末期、大崎下島・御手洗等からの遠征おちょろ群と
尾道妓楼衆との間でもめごとが絶えなかったそうな。
 ※おちょろはオジョロ(女郎)の転訛だそうです。

 ○比較的入手しやすいモノとしては
  加太こうじ編『色街−日本の名随筆 別巻?』(1992年、作品社)に
  井伏鱒二の「消えたオチヨロ船」と言う一文が興味深いかと思います。

88黄線:2006/09/07(木) 15:50:59
木江のチョロ
鷹目様と皆様、初めて書き込みさせていただきます。

ナカムラ様
瀬戸内の遊女の風、チョロについて某本より引用いたします。

木江では遊女をおく置屋があり、チョロはその楼主の所属の場合もあり、チョロをのみ持っている人もあった。置屋にチョロを持っているものの場合、チョロ押しは、おかにいる時は、船を洗ったり、水をくんだり、風呂を焚いたりし、それがすむと、寝ている。夕方になると女たちをのせて沖へ出て行く。沖からは霧笛を吹く。その吹き方によって何楼の誰をよんでいるかが判る。(某本より)

広島木ノ江名物のチョロですが、もとは瀬戸内の各港にあり、制度は港々で多少違ったそうです。大崎上島のある古い港では、今は勿論考えられないことですが、時には良家の子女も加わることがあったそうです。娘が嫁に行って恥をかくことがあってはならぬと、一通りのことを覚えさせるために、そういうことをさせた親も時にいた時代もあったそうです。相手をした船乗りもなじんだ女が豪家へ嫁に行ったと聞くと、いつまでも懐かしがったそうです。なんだかホノボノとするエピソードですが、さらにに引用しておきます。

周防では上関に一番いい女郎がいたそうで、そこの女たちは、声の修行のために、チョロで沖の方へ出かけ、師走の時雨空の下で、カン(寒)の声をとるとて長襦袢一枚に三味線をかかえて唄ったものだという。チョロオシにはなかなかの権力があって、声が出ねば鞭打ったものだときいた。毎日毎日寒い日を出て行くので、喉はさけて血を吐くことも多かったという。そうして一人前になったとか。遊女の話には、こうした痛ましいものが多いい。(某本より)

海の交易が活発な時代、交易船だけでなく時には海賊たちも、相手にしたかもしれない、瀬戸内ならでは独特の遊郭巡りの旅が、好天といい湯に恵まれるといいですね。

89:2006/09/07(木) 23:45:33
おちょろ舟
>島原Gどの

そうなんです。木造の造船技術なのでしょうか、木造の高層の建物があるようです。
木造3階建の徳森旅館に泊まろうとしたら、廃業でした・・・。
でも、洋風の映画館だった建物などもあり、楽しみにしています。
日曜日から、3〜4箔で回ることにしました。


>夕凪どの

わざわざ、文献を転記していただき有難うございます。
相変わらず、考証(高尚)的ですね・・・。
昨冬尾道に行ったのですが、尾道辺りと競合したとは、興味を持ちました。

>黄線どの

>沖からは霧笛を吹く。その吹き方によって何楼の誰をよんでいるかが判る。
実に詩的で、優雅ですね。。。
御手洗には、掘り出された、遊女の墓があるそうです。
投げ込みではなく、墓を建ててもらえたということは、それなりの扱いをされたということなんでしょうか。

90風俗散歩:2006/09/09(土) 19:54:09
雑誌新刊
本屋で、「別冊歴史読本 歴史の中の遊女・被差別民 謎と真相」という本を見かけました。巻頭カラー2頁と本文50頁ぐらいを木村聡さんが執筆しています。「秋田紀行 遊廓跡を訪ねて」は、新しい部分でしょうか。

http://huusan.exblog.jp/

91:2006/09/10(日) 00:53:26
ちょっと気づいたので・・・・
鷹目さん、皆さん、たいへん、ご無沙汰しております。

夕凪さんの「おちょろ舟」についての引用、原典は、

沖浦和光『瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて』
(岩波新書 1998年7月)
だと思います。
この本、民俗学者による「おちょろ舟」に関する聞き取りして、
貴重です。

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200602170000/

92黄線:2006/09/11(月) 02:26:32
黄線
>ナカムラ様

私の引用は民俗学者、宮本常一氏の「〜周防大島を中心としたる〜海の生活誌」からです。
遊女に関する内容は数頁ですが、観察眼に優れ、文章がまた素晴らしいので、時々ページをめくっています。

>墓を建ててもらえたということは、それなりの扱いをされたということなんでしょうか。
どうなのでしょうか?瀬戸内のそういった島に住む港の女には、くろうとだけでなく、港に船が入ったときだけ遊女になる女など、いろいろな種類の女がいたようです。大崎上島へ行ったことがないので想像ですが、遊女塚でなく墓なら近隣に親族がいたのでしょうか?その後、血縁が絶えてしまったのでしょうが、島の人間模様が関係するのかもしれないですね。

鷹目様
入院されていたとは全く知りませんでした。
楽しみのこの掲示板に、鷹目様の書き込みが無かったのはそういう事だったのですね。
どうぞお大事に。これからも時々書き込みさせていただきます。よろしくお願い致します。

93k_taii:2006/09/11(月) 23:42:46
写真がなくなって
しまったので、今回温泉旅行を兼ねて上田に行ってきました。昔しあった遊郭は戦時中に
閉鎖されたようなので、誰に聞いても場所がわかりませんでした。廃止された上田花園駅
の近くで北国街道沿いにあったそうなのですが、現在は市街地なので場所の特定はできませんでした。戦後の盛り場であった旧袋町ではスナック、風俗店などが隙間なく立っており
古い建物はありませんでした。次にしなの線の坂城駅へ。ここには 坂木宿 ふるさと
歴史館 がありますが、その建物が一時期遊郭として使用されていたとのことでした。
建物は三階建てでキレイに修復されていますが、遊郭として使用されていた雰囲気は
いっさいありませんでした。近くにも古い建物はいくつかありましたが、これが元遊郭
というものありませんでした。泊まったのは長野 善光寺 の精進落としで賑わった
戸倉上山田温泉です。朝早くかつて赤線があった場所を歩きましたが、その当時の建物
で残っていたのは3軒ぐらいでした。以前はこれこそ赤線という和風の建物がありましたが、もう残っていませんでした。最後にしなの鉄道の大屋駅の近くにあった遊郭の建物に
行きましたが、残念!1月前に取り壊された後でした。しかし近くに雰囲気のいい料理屋
の建物があり見る価値のあるものでした。温泉でお年寄りの何人かに赤線のことを聞いた
ところ更埴にもあったそうですが、場所は教えてくれませんでした。

94夕凪:2006/09/19(火) 02:38:18
おちょろ舟 の引用
??遅レスですみません。

●先日の書込みの原典は、小川吾一『木ノ江町通俗史』および古老からの
 聞き書きのようです。また引用した本自体は2000年発行のものです。

 (参考)ttp://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0247020/top3.html

●この関係は、先人も「特殊な世界だけに記録は少なく、随筆家が何かに書いている位です。
 (中略、極一部の廓を除いて)組合にも記録は残っておりません。」と記しており、

 木村聡さんも単行本や月刊誌の記事の中に市史の中の記事を引用しているものが
 見られると嘆いておられ、同時に御自分を戒めてられますね。

 いずれにしても大部分の人は体験した事の無い世界であり、触れられたくない部分
 でもありますので、その記録等はごく限られたものしか残っておらず、
 同じものの使い回しになってしまうのも、止むを得ないことかもしれませんね。
 もちろん引用等にはルールがありますが。


●ゆまに書房より下記の資料モノが今年の12月より刊行開始されます。

  コレクション・モダン都市文化  第2期 全20巻
  昭和初期に花開いたモダン都市文化の魅力が満載。
  詳細な年表も付したモダニズム研究の基本文献。

 ■第22巻 花街と芸妓
 松川二郎『三都花街めぐり』(1932)/ 三宅孤軒『芸妓読本』(1935年)/
 エッセイ「モダン都市の花街と芸妓」

 ■第34巻 遊廓と売春
 『全国遊廓案内』(1930)/ 市川伊三郎・他編『新吉原遊廓略史』(1936)/
 エッセイ「モダン都市の遊廓と売春」

?? (参考)ttp://www.yumani.co.jp/detail.php?docid=311

95鷹目 :2006/09/20(水) 00:41:19
長文随時復帰
 遅レスすみません。さらっと掲示板なり、メールなりを見る分にはさほど問題ないのですが、長文書き込みはまだ少し疲れますので暫くは遅レスになると思うのでご容赦ください。。

>ナカムラさん
 お久です。伝言板での速報、ありがとうございました。
 大崎上島、木江はで3階建の妓楼跡に出会えたようでよかったです。しかし廃墟化が進んでいるとは残念です。

>風俗散歩さん
 お久しぶりです。
 『別冊歴史読本 歴史の中の遊女・被差別民 謎と真相』の木村さんが書かれている秋田紀行は新しくかかれたものだと思いますよ。それ以外でもこの本は読んでいて面白いのでお薦めですよね。

>順子さん
 お久しぶりです。
 私も沖浦氏の『瀬戸内の民俗誌』持っています。良書ですよね。現在春に沖浦氏がだされた『「悪所」の民俗誌』を疲れない程度で読んでいます。こちらも面白いですね。

>黄線さん
 はじめまして。遅レスですみません。
 おちょろ舟、木ノ江について書き込みありがとうございました。未読の本なので非常に興味を覚えました。
 ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。今後とも宜しくお願い致します。

>k_taiiさん
 お久です。信州遊里の旅、お疲れ様でした。 建物の残存率もすくなく、寂しい様子ですね。以外と信州方面、みなさん手薄な感じですよね。もっと資料が手元にあれば、もう少し面白いかも知れない場所ですね。


>夕凪さん
 毎度です。おちょろ舟文献の紹介ありがとうございます。私も夕凪さん、木村さんと同じ意見です。それとは別に記録が少ない現状を何とか変えていきたいものです。なかなか難しいことですけどね。
ゆまに書房、面白そうですね。12月が待ちどおしいです。

96夕凪:2006/09/23(土) 10:11:12
飛田遊廓 
飛田遊廓はその字を音で読んで「ヒデン」、略して「ビタ」、
又は「ジャンプ」と呼ばれる。

大阪のずっと南、例の林芙美子の書いたジャンジャン横丁を南へ、
関西線のガードを抜けて、飛田の大門まで5・6町あろう。
飛田は遊廓としての面白さより、この5・6町の飛田道に、
より特長があり、生彩があるといえよう。

同じ大阪の遊廓である松島に比して、歴史も浅いし、規模も小さい。
が、すでに古色をおびて老衰に近かった松島にくらべると、
新興の飛田は、建築や調度も新鮮味あふらせ、昭和のはじめ、
ダンスホールやネオンサインのモダニティーを採入れたのも、
全国で飛田がその嚆矢であった。

そして、その間の戦争で松島は全焼したが、飛田は半焼にとどまって、
その面影をのこした。

            1950年頃の長谷川幸延の小説より抄録

 ※一応、特別OFF会協賛のつもり?

97夕凪:2006/09/27(水) 08:13:28
海の赤線部隊
  ― 木ノ江港に灯のつくころは 沖へ沖へとチョロがでる ―

絵のように美しい瀬戸内海をつっ走って大崎上島木ノ江の港につく。
夕暮れが港を包むころ波止場に待機していたおちょろ船20隻が湾になった
港の中央を目指して?おでまし?になる。

以前は碇泊船めがけて激しい客取りの先陣争いをしたものだが芸者(女郎衆)が
争いすぎたため船と船の間に挟まって死んだり、海に落ちたりしたもので
あるので、戦後は先陣争いはやめることになった。

だが沖に向かって集結するおちょろ舟は芸者たちが女とは思えない腰つきで
舟を漕ぎながら夜の獲物をあさっていく情景はまさに奇観であり壮観、
薄暗い海に咲いた花のようだ。

                  1955年頃のグラフ雑誌より抄録

98:2006/10/11(水) 02:36:23
木江
ナカムラです。

木江の写真をアップしました。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~masayuki/kinoe20060911_12.html

99嶋原G:2006/10/07(土) 18:53:59
ありがとうございます
ナカムラさん、木江写真拝見させていただきました。
木江には「広角レンズを手に入れてから」と思ってましたが、
急に行きたくなりました。ありがとうございました。

100彷徨人:2006/11/12(日) 11:02:21
橋本の火事について
 京都府八幡市橋本で火事があり,3棟全焼というニュースをききましたが,旧遊廓街は大丈夫
だったでしょうか?

101ナカムラ:2006/11/12(日) 16:40:57
北近畿、小樽行
ナカムラです。
11月下旬に向けて、以下の遊郭跡地(銭湯も)散策する予定でおりす。
何か、アドバイスをいただけないでしょうか。恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

●宮津:万年町新地、魚屋町、新浜町新地界隈
●東舞鶴:市場竜宮町界隈
●西舞鶴:朝代神社界隈
●綾部:若松町界隈
●福知山:猪崎界隈、中ノ町界隈

●小樽:手宮タヌキ小路界隈
    日蓄小路界隈
    旧北郭(梅ヶ枝町界隈)
    旧南郭(松ヶ枝町界隈)

102鷹目:2006/11/12(日) 17:40:27
(無題)
>彷徨人さん
 毎度です。
 橋本の火事はこれですね。↓

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061109i501.htm?from=main5

 番地までは判りませんが、ずばりその地かその近隣なのは確かです。でも木造平屋が現場だったみたいなので多分大丈夫かと。

>ナカムラさん
 毎度です。
 福知山に関しては初夏に訪れました。猪崎は6、7軒残っています。そのうちいい感じの旧楼が3軒ほどというところですね。中ノ町は旅館や風俗店、飲み屋がある小さな歓楽街となっています。

 その他地域は私は未見なので、ほかの人のアドバイスをお待ちします。

103嶋原G:2006/11/12(日) 21:15:55
ナカムラさんへ
こんばんは。
去年に朝代へ行ったとき、5〜6軒残存でした。
木造三階建てが1軒ありました。

ついでに、綾部の旧郡是(グンゼ)本社は見応えあります。

104ナカムラ:2006/11/14(火) 21:17:01
北近畿行
>鷹目どの
>嶋原Gどの

有難うございます。

明日、新幹線の始発で出発します。

北近畿・京都行の最終日は、中書島の旅館に泊まって、「新地湯」に浸かります。
翌日は、撞木町遊郭、橋本遊郭、枚方新地と廻ろうと考えています。

105鷹目:2006/11/16(木) 17:00:16

 先日、今里Xセンセより下った指令により堺竜神栄橋に行ってきました。ここにも訪れる方々が最近堺方面を訪れ写真に収めていました。その中で前に見たある物件の写真が見当たらないために下った指令でした。
 まず阪堺電車の御陵前でおり臨江時へ。こちらには乳守之旧跡なる石碑と乳守の遊女に崇められた乳女郎さま(乳守宮)の確認のためです。その二つ境内にありましたが、それ以上に乳守遊廓との関連がある遺物は見つかりませんでした。
 そのまま、徒歩で竜神栄橋へ。問題の物件は物の見事に建売住宅へと変貌しておりました。星型の窓が印象的な建物だっただけに非常に残念です。

106今里X:2006/11/17(金) 10:23:22
いろいろ
>ナカムラさん
小樽は北廓・南廓の両遊里とも昔の面影はないです。
色内・手宮もニオイを感じないくらいの変わり様です。
ところで綾部の若松町は何かあるんでしょうか?

>鷹目さん
お疲れ様でした。
龍神栄橋は空襲を受けた関係か戦後に急拵えで建てたような建築が多いような感じだったので仕方ないですね。
乳守も現在建ってる住宅の前の時代の建築物が残っていれば良かったんですが、まるごと同時期に建て替えられたようで残念です。

107今里X:2006/11/17(金) 10:39:00
回禄の災
>彷徨人さん
先程下記のURLからニュースを見ましたが、現場は橋本遊廓とは駅を挟んでの反対側の町名なのでだいじょうぶかと…
これから冬場はこわいですよね。
うちも近くに倉庫に使われてるあばら家があるので近くで出火するとヤバいです。・・・(;´Д`)ウウッ…

108彷徨人:2006/11/18(土) 22:49:33
お礼
>今里Xさん
わざわざお知らせありがとうございました。今年の初めにこの橋本遊廓を訪れ,立派な建物と町並みが好きになってしまいました。先日たまたま車の中でこの火事のことを知り,驚いたものですからさっそくおたずねした次第です。ありがとうございました。また機会があれば,行きたいと思います。

109ナカムラ:2006/11/18(土) 23:34:35
綾部・月見町
>今里Xどの

今さっき、3泊4日の京都行から帰館しました。

綾部は若松町をウロウロしていても何も見つからず・・・。
歩いている古老をつかまえ確認すると「月見町」とのこと。
数軒それらしい建物がありました。
松本湯の奥に明治時代の旧松本湯が曳家で移され、残っていました。

木村氏も書いていましたが、「北」は収穫が少ないようですね。
一応、小樽は以前から気になっているので、とりあえず見てきます。

今朝、橋本を2時間くらい歩いたのですが、洋風の印象深い一軒が新築の家に変っていました。3年振りですが、他にもいくつか建物が減った気がします。

多津美のダンスのステンドグラスとアーチ型の張見世の跡(?)を見ることができました。

110ナカムラ:2006/11/25(土) 00:47:48
小樽行
>今里Xどの

小樽行から帰館しました。
やはり、南郭、北郭、手宮タヌキ小路、日蓄小路、信香町と「ニオイ」もしてませんでした・・・。(笑)

強いていえば、花園町の飲食店街の奥に怪しい雰囲気が残っているというくらい・・・。
その代わり、銭湯と寿司を堪能してきました。

111今里X:2006/11/27(月) 18:56:49
小樽遊里史 幕末〜明治
●遊里のはじまり
『小樽海路にお神威なくば 連れて行きたい奥地まで』
小樽の町は松前藩政時代にオタルナイ河口(小樽市東端)の漁港を現在の小樽市住吉町辺りに移転させ漁港を開いたことに始まるそうで、移転後もオタルナイの地名はそのまま引き継ぎました。
漁港移転では出稼ぎの和人の漁師たちとともにおそらくアイヌ人も移住してきたようです。
当時は海路しかない上に、江差から小樽に船で渡る途中に海上の難所でアイヌが崇める神威(カモイ)岬があり、和人の女は通るのを戒められていました。
安政2年、幕府の役人が妻を伴い神威岬を越え小樽に無事到着、このできごとで迷信は払拭されることになり、和人の女の渡航が解禁となると旅籠などに飯盛りが現れ、飯盛りとともに『浜千鳥』などと呼ばれる賎娼もあらわれました。
安政4年、無宿者や博徒たちが悪事の魂胆をめぐらすことから後の金曇町となるコンタン小路という通りができましたが、アイヌも移住していましたので、古くはアイヌ人集落のコタンだったのではないかと思います。
役人も取締りをしましたがなかなか改善できず、コンタン小路を無くすことはできませんでした。
本土から渡ってきた無宿渡世の者が根を下ろし小樽最初の侠客となり、この頃から飯盛りや浜千鳥をコンタン町に束ねて管理された売春街いわゆる遊廓をつくりあげていったのではないかと思います。
安政6年にはコンタン町という遊所として存在していました。
コンタン町は金曇(コンドン)町と改められましたが住人達はコンタンと呼びつづけ、金曇町と書いてコンタンチョウと呼ぶようになります。

●金曇町遊廓
明治2年、オタルナイを小樽に。
明治4年、開拓使は金曇町の遊女屋や料理屋を遊廓と指定、資金援助をしたり見番制度を整えようとします。
明治6年2月「娼妓解放令」布告で遊女屋が貸座敷となり、金曇町および新地町が貸座敷の免許を受けます。
しかし、この時点での実際の営業地域は特に金曇町に集娼されていた訳ではなかったようです。
明治10年5月「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」により貸座敷を金曇町と新地町に限定し集娼。
当時は廓内に17〜8軒、芸妓、娼妓、二枚鑑札で遊廓花街の区別はなく、廓外の料理屋・旅籠では貸座敷いわゆる遊廓の営業ができなくなってしまいました。
明治10年11月再び料理屋の貸座敷営業を3年に限り許可し、入船町辺りを中心に再び散娼状態に…
見番の始まりは、この頃、明治10年もしくは明治11年の浮田見番からだそうですが、まだ芸娼妓を管理する見番としての機能は備えていませんでした。

●住ノ江町遊廓
散娼状態にもどったため、民家や商家と貸座敷が軒を連ねることとなり、住民の陳情等で遊廓を移転することになったようですが、明治14年大火で金曇町新地町遊廓を含め焼失。
焼失戸数は560戸とも580戸とも伝わっています。
『かわい金曇町何して焼けた 寝てて金取った其の罰で 三十三軒ばらっと焼けた』
明治14年5月芝居町から出火、明治14年5月21日金曇町から出火、明治14年4月8日廓内から出火、などの諸説あり、新暦旧暦としても食い違うのでもう少し調査の必要あります。
また、焼失した妓楼数を23軒と俗謡を紹介している文献もあり、後に新遊廓移転時の業者数26名に含まれた入船町の2〜3の支店を引くと近い数字になるので、1名1軒という計算では23軒焼けたというのも可能性のある数字です。
明治16年、新たに切り開いた土地を住ノ江町と名付け新遊廓指定地とし、金曇町と新地町以外の貸座敷もすべてここに移転させることとなり、入船町の2〜3の支店も含めて26名の貸座敷業者が移転完了。
当時の妓楼は、南部屋、丸立(おそらく丸辰のこと)、大友楼、小林楼などがあったそうです。
明治17年、曲北、柳川、丸辰、早川などの貸座敷が共同で本格的な見番である住ノ江見番を発足するがすぐに解散、その中の1人が個人経営ではじめた曙見番が長続きし、これを小樽の見番の元祖とするようです。
この年あたりから芸妓は廓内に居住しないこととなり、緩やかに遊廓と花街が分かれていったのではないかと思います。
住ノ江町遊廓はかなり繁昌したようで営業者数も増加していきました。
住ノ江町とは別に、明治25年頃、廓外の妙見町に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番発足。

●松ヶ枝町遊廓
明治29年4月27日、住ノ江町遊廓の南楼から出火し遊廓とその付近がまたもや焼失。
同年、新遊廓指定地として入船町奥が指定されますが、当時は人家と離れた土地であり、貸座敷業者の移転反対運動により移転延期、一部は住ノ江町で営業を続けていたようです。
明治33年7月、入船町の奥地を造成し住ノ江町遊廓の業者が移転、小樽の町から遠くて淋しい場所だったので新遊廓に移転せず廃業する者もいたそうです。
今までの文献や資料であまり取り上げられていないですが、この明治33年7月の移転でかなり明確に遊廓と花街が、貸座敷と料理屋が分かれたのではないかと思います。
この新遊廓は小樽の町側から柳町・京町・仲ノ町・辨天町・羽衣町と5つの区画でできており、一辺が300メートル弱のやや変型した四角形で、大阪の飛田新地とほぼ同じ形・面積で、姿は大遊廓ですが実際に移転した時の軒数は30軒足らずではないかと思います。
松ヶ枝町の町名は大正4年の町名大改正で名付けられたもので、それより前の明治40年に北廓ができてからは北廓に対して南廓と呼ばれたのは確かですが、さらに以前の開業当初は単なる遊廓とでも呼ばれていたんでしょうか?
全国遊廓案内(昭和5年)に小樽南仲桝遊廓と書かれていることも合わせて謎が残ります。
実際に小樽の市街地から歩いてみましたが、築港から約2.5km、当時の町の中心の南小樽駅周辺から約2km、だらだらとした上り坂が続くので、遊びに行くのもかなり億劫な場所だったと思われ、住ノ江町とくらべると立地条件は圧倒的に不利です。

●花街の変遷
先にも書きましたが、明治25年あたりから妙見町方面に曖昧屋ができはじめ、明治27年に色内見番も発足します。
明治29年、住ノ江町遊廓が焼失した後から妙見町方面が発展し料理屋が多数できたそうです。
貸座敷営業の許可はされていないはずなので、芸妓中心の花街という建前で営業していたのでしょう。
しかし、料理屋とは別に曖昧屋の酌婦が娼妓の役割をしていたと思われます。
明治30年、丘陵地帯で民家も少なかった花園町を地主の依頼で入船町の見番業者が開発をはじめます。
明治31年、花園町の料理屋、見番などが竣工、その後も周辺の開発が進み一大歓楽街となっていきます。
同年には稲穂町にも見番ができ、明治33年に入船町の奥地に貸座敷が移転してからは、歓楽街は妙見町方面となり、その後、入船町・妙見町・稲穂町の中央に誕生した生まれながらの花街である花園町が小樽の歓楽街の中心となってゆき、この状況は100年以上経った現在まで続いています。

●梅ヶ枝町遊廓
明治30年代は、貸座敷が移転した後に料理屋が残った入船町花街、新たに発展した妙見町花街、それに続く稲穂町花街、その三ケ所の中心に産声をあげた花園町花街など、料理屋と曖昧屋の体勢で、ほぼ遊廓と変わらない状況が旧小樽の北に広がっていました。
明治13年に開通した鉄道ともに整備され拡大されつつある小樽港(旧手宮港)が手宮方面にあったので、市街地の発達していく方向は誰の目にも明らかだったからだと思います。
明治44年には石炭積出し用の世界最大級の高架桟橋が完成、全長約400m、海上部分約300m、高さ19mの偉容だったといいます。
小樽港の発展とともに船員工員や沖仲仕相手に飲食店において密売淫が行われ、それを防止するためか遊興税を当込んでか、手宮裡の原野を切り開き新遊廓が誘致されます。
明治40年3月28日遊廓指定地に許可され、明治41年に貸座敷業者16軒開業、先に存在する遊廓に対して北側にあるので北廓と呼ばれます。
大正4年、町名大改正が行われ花見町との案もあったそうですが、南廓が松ヶ枝町と名付けたのに呼応して梅ヶ枝町と名付けられます。

------------------------------------

幕末のコンタン町に始まった小樽の歓楽街は、明治の終わり頃、南廓北廓の2遊廓、花園町を中心として広がる花街、点在する曖昧屋や後家屋と呼ばれる私娼窟、という形で完成したのではないかと思われます。
大正〜現代は校正中、しばしの御猶予を…

112今里X:2006/11/27(月) 19:23:50
小樽
>ナカムラさん
ナカムラさん小樽行に合わせて協賛企画(笑)です。
後編はかなり軟らかい内容になりそうです。(゚Д゚;)

ところで月見新地は遊廓というより花街だと思います。

113ナカムラ:2006/11/27(月) 22:04:05
郡山・赤木町
>今里Xどの

何か、凄いですねぇ・・・・・・。
花園、妙見だけでなく、稲穂や色内にも見番があったのですね。

「消えた赤線跡放浪記」にあった、郡山・赤木町と堂前町を歩いてきました。
赤木町は、木村氏の記した通りです。
堂前町にも当時の建物は見当たりませんでしたが、路地の奥に風俗店があったりと、かなり怪しい感じが残る街でした。

114今里X:2006/11/27(月) 22:35:26
『はるか、ノスタルジィ』
下記のようなわけで、花園町の独特の雰囲気は起源そのものが歓楽街だからみたいです。
あれだけノスタルジックな市街地なのに遊里の名残りが少ないのは惜しいですね。
『蟹工船』&「特高に虐殺」でおなじみのプロレタリア作家小林多喜二氏の元カノは色内・稲穂あたりの曖昧屋の酌婦だったそうです。
日蓄小路がそれらの名残りではないかと考えてるんですが、確証はないです。
たまには文学作品を読んでみないといけないなぁと思いつつ買いもしてないです。

115今里X:2006/11/30(木) 16:49:12
感想文?
エメラルドの砂・石田ピカりさん主演の『はるか、ノスタルジィ』見ました。
以前に小樽に行った前後に見ようかと思ったけど3時間近くの長い映画なのでめんどくさくて見ないままでした。
大林宣彦監督作品は結構知ってたつもりですが、呉一郎の松田洋治氏が主演の1人だとは恥ずかしながら見るまで気付いてませんでした。
学制服姿の松田洋治氏、記憶喪失、離魂病、作中作、記憶の転生などなど、「軽めの『ドクラマグラ』かよ!」とツッコミたくなる内容…
主人公の義母が勤める私娼街のシーンはセット撮影みたいですが、曖昧屋の密集する路地風に自然な感じで仕上げられてたのでおもしろかったです。

116ナカムラ:2006/11/30(木) 20:45:29
『はるか、ノスタルジィ』
『はるか、ノスタルジィ』はロードショウで見て、ビデオも買って何回か見ました。
セットに気合を入れている映画で、今里Xどのが言われているように、曖昧屋の雰囲気がいいですね。映画のパンフレットでは、日畜小路の辺りだとコメントしていた気がします。

原作者(山中恒)が撮影現場に訪れた時、大林監督がカメラを立てていた場所が、まさしく原作者の住んでいた場所だったそうです。大林監督はそれを知らなかったそうで、山中は運命的なものを感じだそうです。

117:2006/12/01(金) 20:54:36
新吉原・伏見町通りの現況
ご無沙汰しております。
ちょっと報告です。

11月28日「三の酉」で1年ぶりに新吉原に行き、
伏見町通りに残っている赤線時代の娼館を見てきました。

昨年まで健在だった1軒(旧:金よし)が更地になっていて、
とうとう残るは1軒(旧:プリンセス)だけになっていました。
もはや「風前の灯火」といった感じです。

築60年近い老朽建築だし、行政も文化人も、
娼館なんて目もくれませんから、保存は無理なのですけど、
時代の生き証人が消えていくのはやはり残念です。

http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200602170000/

118今里X:2006/12/06(水) 22:43:18
鷹目小唄(大阪編)
鷹目小唄(大阪編)

チンチン電車の今池降りて
おばちゃん花売る本通り
大門はいった角の派出所
おまわりさんと目が合った

上本町から鶴橋こせば
ここは猪飼野湿地帯
アーチのネオンに吸い寄せられて
新地公園盆踊り

秋風しみて人恋しくば
尋ね来てみよ和泉なる
信太の森の葛の葉きつね
山と呼べども町に住む

ミドリの各停ひらりと乗って
ボーナス片手に千林
月も見てます今宵の出会い
裏の滝井の運試し

九条新道ぶらりと歩きゃ
茨住吉初もうで
松島新地をぶらりと歩きゃ
おとそ気分で姫はじめ


飛田・今里・信太山・滝井・松島の順です。
季節ははっきりしないのもありますけど、春・夏・秋・冬・お正月に設定しました。
上から四つは花・鳥・風・月を取り入れてみました。
7・7・7・5を2回連ねて1コーラスにしました。
思い立って2、3時間で書いたのでいい加減なものですが、マニアックなネタも入れることができ、ちょっぴり自己満足してます。

なにも鷹目さんの普段の行状を書いたものではありません??

119夕凪:2006/12/10(日) 23:52:58
築港大潮湯
大正3年(1914年)大阪市港区に大潮湯と言う海水を利用した一大ヘルスセンターがありました。
その規模たるや建坪3千坪、延坪1万坪、南欧風の4層の大建築だったそうです。
この大潮湯の別館に温泉割烹・ご宴会場の「志ほゆ花壇」と言う施設があり
そこのパンフレットに下記のような記述がありました。

 ○舞妓サービス・・・御宴會、御席貸、いづれも志ほゆ花壇御利用の場合は
          花の如き舞妓姿のサービスガールが皆様の御手傳いをします。
 ●藝妓有藝仲居・・・弊舘有藝仲居と港新地の美妓連は御豫算以内で即座に・・・・・・・・。

   ※現物のパンフレットでも「即座に」の後は「・・・・・」となっています。

舞妓・有藝仲居はともかく、港新地の美妓連とありますが、
港新地は御存知の通り、芸妓居住指定地として許可を受けましたが、
芸妓って指定地以外でも出張営業が可能だったんでしょうか?
そして、そこでまさか・・・・・・・

※志ほゆ花壇には大は千人収容可能な部屋から、小は2〜5人用の部屋10数室がありました。

120今里X:2006/12/14(木) 00:43:30
即○即●ッド???
ま、まさか「志ほゆ花壇」で即○即●ッドですか?
大潮湯ってやはり大阪港の海水を湧かしてたんでしょうか?
古い大潮湯の写真を見たら紅葉パラダイスを思い出しました。

芸妓は居住指定地以外にも料理屋や旅館の宴会には出れるんじゃないですか?
即座に自由恋愛は無理でしょうけど…ノ(´д`*)

121鷹目:2006/12/15(金) 10:06:32
久々にカキコ
>順子さん
 お久です。
 吉原もひどい状態のようですね。今年は全国的に見ても取壊、荒廃が加速したと感じている年だけに来年が心配です。
 また吉原も散策に出かけたいものです。

>夕凪さん
 毎度です。
 やはり港新地から派遣ですかね。出花をつけるという手もあるとは思います。芸妓取締規則が、どれかの本の巻末に載っていたような気がしたんで探したのですが、スミマセン不明です。

>今里Xさん
 鷹目小唄ありがとうございます(笑)。よくきれいにまとめられたと感心しています。しかし、背後に気を付けねば、いつどこで監視されているか判らないですね(爆)。
 浜千鳥、語源は不明です。昭和57年の『花柳風俗語辞典』には、その名前が記載されているようですが。『日本花街史』にちょろっとそこから典拠で載っていましたが、小樽地方の売春婦の名称とだけコメントされていました。

122夕凪:2006/12/30(土) 23:35:03
遊廓と橋本
明治10年(1877)3月19日、淀川対岸(=右岸=山崎側)の
東海道線京都大阪間の鉄道開通により、京阪間の通運は大きな変化を遂げた。

それまで淀川通船を利用する八幡神宮参詣者によって盛況を呈していた
京街道沿いの宿場町である橋本は決定的な衰微に見舞われた。

元遊廓の復興は必要悪として、明治20年(1887)6月京都府知事の許可を受け、
木津警察署の監督のもとに、小字北○町、中○町、○金川に遊廓地域が設定された。

楼主たちは貸座敷・芸妓・娼妓・引手茶屋・紹介業の五業種関係者で五業組合を組織し、
事務所を中○町に娼妓検黴場を兼ねて設立した。
・明治30年(1897)許可されたのは貸座敷7軒、芸妓9名、娼妓9名であった。

その後八幡紡績会社をはじめ工場などの設立もあり近隣人口も増加し、
・明治30年(1897)6月には貸座敷13軒、芸妓10名、娼妓23名となった。

明治33年(1900)11月8日京都府から貸座敷取締規則が出され、
五業組合を橋本地域貸座敷組合と改称した。
・貸座敷21軒、芸妓16名、娼妓30名の規模であった。

明治43年(1910)4月京阪電車の開通(淀川左岸=橋本側)により
京都・大阪から1時間以内で来れるようになり、
男山八幡宮への参詣者の増加によって、橋本も次第に賑わいをみせるようになった。

そして第1次大戦による空前の好景気により
・大正12年(1923)時で貸座敷46軒、芸妓60名、娼妓127名を数えるに至った。
 同年7月時焼野に10万円の費用で歌舞練場兼芸娼慰安余興場を建設

しかし金融恐慌による全世界的な不況の中で(芸妓は激減し)娼妓の数だけが増え続け、
・昭和12年(1937) 貸座敷業者81名、芸妓3名、娼妓675名と数の上での全盛期を迎える。

 ※橋本は明治元年(1868)に戊辰戦争で大半が焼亡したそうです。

                       八幡市誌(1984年)より要約

123夕凪:2006/12/31(日) 00:59:21
売防法・観光開発と橋本
昭和30年12月に男山ケーブルが11年ぶりに復活した。
昭和32年(1957)1月八幡宮を中心に観光と信仰のオアシス−男山府立公園の
開発を目指し、八幡町が中心となり観光協会を設立した。

観光開発に力を入れた背景には、昭和31年(1956)5月に成立した売春防止法によって、
2年後の昭和33年(1958)に廃止が決定づけられた橋本遊廓への対処も含まれていた。

町当局としては年間町民税の3分の1が減少するのであるから、大きな痛手であり、
新しい財源を見つける意味からも観光客の導入に力を入れていたのである。

昭和31年(1956)当時80軒あった貸席は橋本貸席組合を通じて、
自民党に集団入党し法案の実施延期を要望したり、
府立公園の一環に温泉旅館に衣替えして人工温泉設置等の転業対策を講じてはいたが
2年間の猶予期間と法案の抜け穴が多い事を見越して積極的な対策は出ず、
成り行きを見守る態度が強かった。

また売春防止法完全施行後の昭和34年(1959)には温泉発掘を目指したボーリング調査を
行い、その水質を調査した結果、炭酸鉄泉(23℃)で神経痛やリウマチに効果ありと判定され、
転業者を中心に橋本温泉開発協議会を結成し、7月京都府知事から温泉利用許可が下りた。

昭和35年(1960)4月から各旅館に送水管が敷設され、「淀川温泉」として
数軒が手始めに開業する事になって、協議会も「淀川温泉三業組合」と改められた。
組合長が「転業3年目に温泉街で出直しできる」と張り切っている新聞記事も出たりしたが、
再開発できるほどの効果は上がらなかった。

                            前掲書より要約

124夕凪:2006/12/31(日) 10:07:58
八幡町遊廓
京都府綴喜郡八幡町字橋本にあって、
京阪電鉄橋本駅以西が全部遊廓の許可地になっている。
明治10年の創立で、歌舞伎で有名な「引窓」の「橋本の里」が今遊廓の在る所だ。

淀川、桂川、宇治川の三川の合流に沿って居るので、風景もよく夏は涼しく、
多数の綱船が出漁して、夜間の不夜城、川岸にさんざめく辺りは実に別世界の感じがある。

丁度京、阪の中間に位置しているので、こうした情景を慕い寄って来る者が多いので
花街はめきめきと繁昌し、今では貸座敷の組合員が75人おり、娼妓は470人、芸妓は30名と
言う大舞台になっている。女は主に中国、四国、九州方面が多い。

店は陰店式で、娼妓は居稼ぎもやれば、また送り込みもやっている。
遊興はもちろん時間花制または通し花制で廻しは絶対に取らない。
費用は1時間遊びが1円で、引継ぎからの一泊は56円だ。台の物は付かない。

芸妓の玉代は1時間が1円50銭で、2時間目からは1円あてである。

主なる妓楼は第二中川楼、第一勝山楼、第一成駒楼、辻本楼、第一友栄楼、藤井楼、森田楼、
辻よし、大金楼である。
                       昭和8年(1933)発行の雑誌より

125夕凪:2006/12/31(日) 10:53:00
京阪沿線の遊廓
先に書き込んだ『八幡町遊廓』なる一文は、
郷土研究「上方」上方遊廓号(昭和8年発行)の99ページに記載されている
『京阪沿線の遊廓』と言う記事からの100%転載です。
この記事の中で、八幡町遊廓は、伏見撞木町遊廓、伏見中書島遊廓と共に紹介されています。

でもこの記事自体が、あの『全国遊廓案内』(日本遊覧社刊、昭和5年(1930)発行)の
該当遊廓記事の極々々一部を省略し、表現も全く同じまま転載したものです。

両書とも直接の執筆者の氏名の記載はありません。
したがって同じ方が書いたものかどうかは判りませんが一応紹介しておきます。

※当時他紙の記事の転用等は多数(?)見られますのでその辺の事情を斟酌願います。
※橋本遊廓の許可・開設年度等に齟齬がありますが、検証はしていませんので悪しからず。
※既知の事でしたら年の瀬の座興として御笑納下さい。

126鷹目:2006/12/31(日) 11:50:12
橋本発祥は?
>夕凪さん
 毎度です。
 橋本についてカキコありがとう御座います。「あと2年で売防法成立50周年だから」と某X氏に各遊里史を充実するようプレッシャー掛けられているので(笑)大いに参考にさせて頂きます。

≫※橋本遊廓の許可・開設年度等に齟齬がありますが、検証はしていませんので悪しからず。
 その点が悩みの種ですね。再開を決めた年なのか、許可が出来た年なのか、組合が出来た年なのかはっきりしない点が多いです。そもそも宿場遊里として産声を上げたようですが、それがいつ頃なのかも漠然として判明しないのも事実です。
 旧妓楼が橋本の地から消えてしまう前に解明したいものですね。

127夕凪:2006/12/31(日) 12:56:55
橋本遊廓沿革誌
●橋本遊廓に関しては、橋本地域貸座敷組合が1937年に発行した標題の本が
 R大学のF図書館にあるので、そのうち見てきたいと思っています。

●売春防止法は昭和31年(1956)5月12日に衆議院法務委員会で可決され、
 5月21日に国会で可決されたそうです(公布は昭和31年5月24日)。

 その後昭和32年(1957)4月1日に一部施行され、
 そして昭和33年(1958)4月1日に刑事処分規定が施行され、
 全面施行となったそうです。

 このため昭和33年(1958)3月31日が赤線最後の日となる訳です。

 したがって458日後の2008年4月1日は売春防止法の全面施行50周年となります。

●山崎の渡しは、広瀬の渡し分も吸収し、対岸への唯一の足として
 戦後も細々と続けられたが、橋本遊廓の消滅(?)等により、利用者が激減し、
 昭和37年頃には全く廃止されてしまったそうです。
                   (昭和62年のある雑誌より)

?? (参考)ttp://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/watasi3.htm

不精な私には某X氏のように足で稼ぐ事は、現役・跡地ともできませんが
資料の紹介でもさせて頂けたらと思っております。

128某X:2006/12/31(日) 16:35:43
あと458日
来年はがんばりマッスル!

129夕凪:2007/01/01(月) 09:12:52
十二月 (じゅうにつき) 手まり唄
先ず初春の、暦開けば心地よいぞや皆姫はじめ、
ひとつ正月年を重ねて、弱いお客はつい門口で、お礼申すや、

心いきいきついお戎と、じっと手に手を〆の内とて、
奥も二階も羽根や手まりで拍子そろえて、
音もトンドと突いてもらえば、骨正月や、
こたえかねつついく如月(きさらぎ)の、

●明治時代まで、色町でも町家でも盛んに歌われた手まり唄。
 1年12ヶ月の季節の変化や大阪の年中行事を読み込んであり
 上方趣味の最もよく現れたもの。
 特に花街では正月の座興として芸妓がこれを弾いた。

と、ある本に書かれていました。 ※歌詞はもちろん一部です。

さすが色町で歌われただけあって粋と言うか、意味深な歌詞ですよね。
でも町家でも普通の女の子が手まり唄として歌ってた言うのは本当でしょうか?
それとも替え歌があったんでしょうか?
また正月の寄席でも出囃子として使われたそうです。

●私も門口で、お礼申す年になってしましました!?

 元気な皆様、本年もよろしくお願い致します。

130今里X:2007/01/01(月) 12:00:47
謹賀新年
あけましておめでとうございます。

今年はもっと元気になりますように。(´∀`*)ウフフ

131T-レッド:2007/01/02(火) 18:09:50
淀川?温泉?
「淀川温泉」の謎が解けました。ありがとうございました。

132鷹目:2007/01/03(水) 16:57:40
新年
 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。皆様今年も宜しくお願い致します。

133夕凪:2007/01/05(金) 01:17:04
自由国民バイブル版 と 旅行の手帖
●毎号好評の「旅行のバイブル」はいよいよ「旅行の手帖」と改題大飛躍します

??“旅行のバイブル”の第1集「一度は行きたい名所と温泉のバイブル」を出してから、
 この“全国都市特集”で、ちょうど6冊分をお送りしたことになりますが
 号は号を逐うて創刊当時は夢想もしなかったほど読者層がひろがり、
 おそらく発行部数から云っても、広範な大衆性を持つ点から云っても、
 殆ど唯一の旅行雑誌に発展しました。皆様に心から御礼申し上げます。

 つきましては甚だ不満足という読者諸兄の声にこたえ御支援に励まされまして、
 次号から「旅行の手帖」と改題、春夏秋冬の季刊発行といたします。
 新年号、桜月号を加え、年6回発行の計画を進めております。

 なお本誌は知名の旅行専門家ばかりでなく、各地方の愛読者の御協力を得て
 「旅行の手帖通信員システム」を確立する予定です。

 なにとぞ皆様の倍旧の御声援を御待ちしております。
                             編集部



?? ※上記は自由国民社が発行した『自由国民バイブル版』(昭和28年)と言う
   雑誌の最終ページにある編集後記(?)です。

134嶋原G:2007/01/06(土) 15:11:22
橋本について
 文禄年間(1592〜96)、豊臣秀吉は治水のため淀川に堤防を築き、そこに京都と大坂(大阪)とを結ぶ京街道を設けた。伏見宿と枚方宿との間に位置する橋本には、いくつかの宿泊施設と共に遊廓も存在した。明治初期、公娼制度を採らなかった橋本は衰退したが、1887年(明治20年)に遊廓街として再興された。対岸の水無瀬(みなせ)と繋いだ渡船、更に1910年(明治43年)に京阪電鉄の開業に伴って橋本駅が開業すると、遊廓を訪れる人々が多くなった。1935年(昭和10年)頃に橋本遊廓街は最盛期を迎え、86軒の妓楼、81名の妓楼経営者、3名の芸妓と675名の娼妓を数えるに至った。

 街道に沿っては、平入りの木造二階建ての妓楼が建ち並んでいた。遊廓には、街道に面した一階の半分に張り見世と呼ばれる格子に囲まれた突出部があり、ここに娼妓たちが顔見せのために並んだ。代表的な妓楼の一つであるA楼では、その奥に娼妓用の食堂、経営者用の座敷が続いた。

 経営者の多くはかつて淀川沿いの山崎や樟葉などで舟運業に関わっていたため、一角には金比羅が祀られていた。通り庭を挟んで井戸やクド(かまど)を備えた台所、そして便所や洗面所の他に、娼妓が身体を洗う洗浄場も設けられていた。螺旋(らせん)階段を上がった二階には、4畳半の小部屋が約10部屋程連なり、8畳と10畳の宴会場もあった。A楼のように、ステンドグラスや鏡などを張り巡らされたダンスホールが設置されたのも多く、昭和初期には木造建築に代わってコンクリート造のものも見られるようになった。

 1958年(昭和33年)の売春防止法の施行後、下宿屋や料理旅館などに転業した妓楼もあったが、往事の面影を残すものは僅かである。それらは、軒先の菊や蓮の花をかたどった電灯の笠、淀川を往来した三十石舟のほか、鯉(「客よ来い」の意味)や水車(「客が来る、来る」と「水車がクルクル回る」とを掛けている)等が彫刻された欄間、社交ダンスをする男女が描かれたステンドグラスなどから伺える。

 また、検番を兼ねた歌舞練場は、一時は紡績工場に改築されたが現存し、その庭先には弁天と稲荷を祀った祠が佇んでいる。

2005年発行建築系大辞典より抜粋。

※尚、この文章の参考文献は、1930年発行書籍、1937年発行書籍(夕凪さんの書かれてる課題の本)である。

135鷹目:2007/01/06(土) 21:32:21
爆勝宣言(意味判りますかww)
 これで橋本もある程度、歴史の道筋はまとめられそうです。ありがとう御座います。

136夕凪:2007/01/07(日) 02:53:04
八幡山から橋本見れば 赤い女が出て招く
淀川三十石船の舟唄にも歌われたほど有名な遊廓であったが、
いつ頃できたのかわよくわからない。

史料によると江戸初期の1649年正月20日に
橋本で荷物を盗んだ者があり淀で捕まえられた。
この時橋本には遊女を置く店が20軒ばかりあり、
盗人がしばしば出入りするので、以後は遊女を置かないようにと、
京都所司代から橋本町の年寄りに申し渡しがあった。

この事から街道筋の往来も賑やかで、遊廓も繁昌し、
治安はかなり乱れていたのだろうとの推測も成り立つ。

                  1984年発行の本より


※上記の記述は、淀川両岸のガイドブックからの引用、要約です。
 単に遊女を置く店が、複数軒在る地区=遊廓としている可能性もあります。
※淀川三十石船の舟唄には、伏見中書島、撞木町、枚方、鍵屋浦や
 水車(ミズグルルマ)=淀の名物の川瀬の水車も唄い込まれています。
 (参考)ttp://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu047.html
※舟唄の節を知りたい方は、落語の『三十石』(但し、長時間バージョン)を聴かれるのが
 手っ取り早いかと思います。
 (参考)ttp://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/bunkazai_hunauta.html

137楽天地:2007/01/07(日) 13:40:39
小沢昭一さんの本
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

調べものをしていたらこんな本(復刊?)が出てきました。

『珍奇絶倫小沢大写真館』

ttp://www.7andy.jp/books/detail?accd=31785172

138鷹目:2007/01/07(日) 16:21:55
『珍奇絶倫小沢大写真館』
>楽天地さん
 おめでとう御座います。今年もよろしくお願いします。

 面白そうな本をご紹介頂き、ありがとう御座います。早速本屋に行ってみたいと思います。

 追伸
 実行するかは未定ですが、五條楽園歌舞練場でのオフ会を春頃企画中です。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板