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日+京】 景行・・・景教天皇?光の信仰?
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けい‐せい 【景星】 太白(たいはく・金星の異称)
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Re: けい‐せい 【景星】 太白(たいはく・金星の異称)
棘の紀氏さんへのお返事です。
日本書紀に記された大伯海、船路をご存知ですか。金星ではありません。
日本書紀は記す。「御船(みふね)、大伯海に至る。時に大田皇女、女子を産む。よりて、この皇女を名付けて、大伯皇女と云う」と。時に斉明女帝の七年、この時、女帝は百済救援のために自ら大軍を率いて西に向かう。その大船団には、皇太子はじめ王族の子女ことごとくが乗船し親征に従った。大伯皇女はその船路の途上で生まれたのであった。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/ohku.htm
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、さっそく情報ありがとうございます。
>会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。
>
> この文章の『入海行遭風』の訳に総てが隠されている。
> 管理人さんは『入海行遭風』をどう訳しますか。
>
>
> 1.東鯷人があり、二十余国 九州
> 2. 夷洲 四国
> 3. 澶洲 本州
>
> 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊>神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭
>風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
この澶洲というのは、中国の會稽から海流と風で流されてたどり着く場所と感じますね。
つまり、夷洲より先に一番最初に流れ着く場所になるでしょう。
そうすると、澶洲のほうが中国にちかくて琉球、夷洲は次で先の中国文献で記しているように、筑紫・秦王国より西か南の領域となるでしょうか。
> 彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿?、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。
この新唐書の話はおもしろいですね。過去にも読んだ覚えがありますが、天皇の記載に記紀と多くの相違があります。
「大和州」という書き方がまた先の関連で気になりますね。古い大和の水の多い風景を思い起こさせます。
「彦瀲」は「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」の略のようですが、筑紫城の記載からみても、魏志に見える対馬・壱岐・・・の官職「卑狗(ヒコ)」と関係するように感じます。
後代の「別(ワケ)」も、皇族の分枝の意味だそうです。この新唐書の記載に、「真人」のカバネを、官職によるものと記載している点が重要です。古代の称号は多かれ少なかれ、官職や役職に関係してます。
崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」の「ミマ」も装飾的な意味があるとされてますが、「ミマ」は魏志の女王国に出てくる官職「彌馬」かもしれません。「彌馬」のいた城?。親族の「トヨキイリヒコ」の「トヨ」にも意味があります。「豊」という地名が対馬や九州北部にありますね。
さらにいえば、ニギハヤヒの「ニギ」は以前お話したとおり、伊都国の官職「爾支」ですね。
「入」は、出雲の豪族にもついている名称で何か共通した意味がある。確かに通説のように「侵入」の意味かもしれません。
こう考えていくと、これらの名称は、300年代の天皇名にしても、100年前の魏志の時代のそれををそのままひきづっているように見えますね。
王号などは、匈奴の事例などでも何百年も継承されていくものでしょうから、よほど文化・言語的な入れ替わりがないかぎり、引き継ぐのは当然だとも感じます。
邪馬台国時代末期に、九州北部の豪族たちが、奈良の大和に進出した可能性は高いと感じますね。そして断片的な情報が、天孫降臨・神武条あたりに残っているかもしれない。
系譜とか氏姓なんていうのは、ある意味一番の残りやすいもののひとつで、もっとも集団のアイデンティティーの根幹にいたる部分ですから、あまりでっちあげたくないという心理も当然あるでしょう。旧約聖書などでもそうですね。その辺を犯すのは、逆に今度は不敬という観念にいたってきます。
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Re: 日+京】 景行・・・景教天皇?光の信仰?
棘の紀氏さんへのお返事です。
キシさん、情報ありがとうございます。いつもながら思わず削除してしまいそうになるのですが、下記の引用は重要です。
> 後漢書に、
> 「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
>
> 「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した」
> 安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年〜180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年〜161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側の史書には使者を派遣したという記述が見られず、・・・・」
ローマとベトナム方面とのかかわりが見えて面白いですね。南海のシルクロードでしょう。もちろんその売買を担当した人たちには当然ユダヤ商人も多くいたでしょうね。ベトナムから海路で上海つまり会稽方面へ向かったのではないでしょうか。琉球・九州・朝鮮南部方面へ流れついたこともありえたかな?
ただ、この手の使者の航海は、漂流じゃないんですね。しっかり前提となる航路が航海民なり商人によって確立されていて、安全性が確認されてこそ、宝物を抱えて向かえるわけです。
日南郡
http://ja.wikipedia.org/wiki/日南郡
韓国の博物館とかいくと、海のシルクロードは積極的に評価されてますね。その辺あまり興味ないのは、日本くらいでしょう。
>?? 魏略には
> 「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」と書かれており、これは共和政ローマにおける独裁官に関する記述であると考えられる。
... http://ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇
古代の新羅地域の共和制のあり方は、由水さんの本を読んで以来、興味深く感じてます。秦韓の辰王との関連ですね。馬韓の王が、天下りみたいにやってきて辰王になったらしいですが、ちょうどユダヤ人地域にきたローマの派遣官ピラトとかが来たようなものでしょう。血族的な祭祀王、合議制の議長、この辺の是非がきになるところです。
秦韓の民族意識とか、官職関連だと、
「相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。」
お互いを「徒」つまり「ともがら」と意識している点も面白いところです。普通は上下の身分差があったり、いろいろあるものですが、平等的な観念が集団内にひろがっていたことが伺えそうです。
「有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥(ゴスイ・キョスイ)、大者名臣智(シンチ)、次有儉側(ケンソク・シキ)、次有樊秖(ハン(ボン)ギ?)、次有殺奚(セツゲ・サイケイ)、次有邑借(イフシャ・オフシャ)」
中国的な名称が混じってますが、後の研究課題。
「始有六國、稍分為十二國。」
国をすべて二つに分離するあたりが、かなり整った集団支配形態だったことが伺えます。軍隊組織のような感じですね。地理的条件・勢力云々で国を分割してないことは確かです。
あと魏略は魏の時代の文献を拾ったものらしく、下記の点が注目されているとのことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏略
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
旧語に聞こえたというのも、九州各地の中国語の名残を聞いたからでしょう。太伯の後というのも、呉と習俗的なつながりを示すものと感じますが、残念ながらキシさんご指摘の金星のことではなさそうです(^_^;)
http://ja.wikipedia.org/wiki/太伯・虞仲
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Re: 三韓
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
http://
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
> 会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。と理解していますな。文中の『遭風』を整理する。
> 清代沿海帆船に搭乗した日本漂流民(松浦 章)の文章から遭を遭遇としている。
> 十一月初一日在洋遭風砍桅失舵、直訳:11月初一日に大海で舵を失い、マストが折れ、に遭遇し、航行をする。から『入海行遭風』は何者かに遭遇し出帆と理解するのが妥当と思われる。
>
> 全文を訳すと、以下
>
> 會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。直訳:會稽東冶縣人、澶洲者に遭遇、澶洲者の水先案内で入海行し澶洲にいたる。尚、航行し風に遭い、漂流して・・は誤訳になる。
おそらく、「者」は「てへり」という読みで、「と言う」との意味だと思います・・・・。
http://kotobank.jp/word/てえり
それから「大和州」の件が気になってます。
> > 1.東鯷人があり、二十余国 九州
> > 2. 夷洲 四国
> > 3. 澶洲 本州
> >
思うに、まず「澶洲」があって、次に「夷洲」があり、これらは東鯷人。その東に「大和州」があって倭人の島という観念があったのではないでしょうか。
もっとも「大和州」の件は、だいぶ後代の話だとおもいますけど、「大倭州」みたいな島を表すことばがあったかもしれません。
「海東諸国紀」という1400年代の朝鮮の記録に、「大倭州」が見えますね。もっとも「紀伊州」「近江州」とあるので、大和国のことだと想いますけど、ちょっと他にも面白い記載があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/海東諸国紀
ここでも、先の「彦瀲」の子の神武の名前を「狭野」と言ってますね。スサノオでしょうか。
それで話はもどって、女王国より北には「一大率」後の「本率」という軍隊がいて、それ以外のところもしくは、全体に「大倭」という文官が派遣されていたわけです。
魏率とか、奈率とかの率で、本率は、本の率と言う意味ですね。それで「日本」という語が出てくるのが気になります。小さい日本が倭を併合したという旧唐書ところです。「日本率」とすれば、日本という領域を治めた官職とも理解できます。
対馬や伊都国にあった「一大」の用語が、後に「本」に変化する。日本は「ジツホン」、呉音で「ニッホン」
「伊都(イツ)」から「ジツ」・・・。
筑紫・秦王国より東を倭とする、それ以西は中国と風俗がにていて「(東)夷の州」と解釈した例の記載が、やはりその辺で響いてきます。九州が「夷州」ではないでしょうか。倭王武は「西夷」と言ってますね。
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Re: 三韓
管理人さんへのお返事です。
徐福伝説を読むと、注意するところは九州の宮崎まで痕跡」があることです。
結論は九州は「夷州」でも「澶洲」ないのです。「夷州」「澶洲」が目的地になっている。
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
筑紫は九州の筑紫とみていますが、韓半島にも存在します。これは、あとで、
> 筑紫・秦王国より東を倭とする、それ以西は中国と風俗がにていて「(東)夷の州」と解釈した例の記載が、やはりその辺で響いてきます。九州が「夷州」ではないでしょうか。倭王武は「西夷」と言ってますね。
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真番郡
ちょっと秦韓関連で、調べたことがあったので追記しておきます。
辰国つまり秦韓の起源ですが、ウィキによると、
辰国(しんこく)は紀元前3世紀〜紀元前2世紀の間朝鮮半島南部の一部を領有したとされる鉄器時代国家。民族系統は不明。
『史記』では「真番旁衆国」または版本により「真番傍辰国」、『漢書』では「真番辰国」。したがって、辰国の前身や起源は真番郡とも考えらる。『資治通鑑』では「辰國」として登場する。『三国志』においては「辰韓者古之辰國也」とあり
http://ja.wikipedia.org/wiki/辰国
このように、前漢代の真番郡が起源らしいです。漢四郡についてはこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/漢四郡
それで、箕氏朝鮮について調べてみると、
「朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/箕子朝鮮
とあるごとく、秦に追われて朝鮮半島には、燕・斉・趙の人民が亡命した伝承記録がすでにあったので、後代の魏志の著者が「秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。」と注釈を入れたようです。
また秦語というのは、どうも秦地域の言葉ではなく、前漢代の長安を首都としていたときの標準語だそうで、その前漢代に亡命してきた移民なので、古い前漢・秦訛りを、後代秦韓地域に残したと考えうるかもしれません。
おそらく彼らは前漢代にどこからか漢四郡の真番(ソウル近辺)に移動したのでしょう。ところが真番郡廃止とともに、北の楽浪(ピョンヤン方面)に残るものと、東南の秦韓地域へと移住するものがでてきたものと考えます。
そして
「楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。」
とあるのも、その民族分離のことを指しているものとみるべきかもしれません。
倭人には呉の訛りが見えるのと同様に、秦韓人には前漢の訛りが見えたので、その辺の聞き分けを著者はよく捕らえているようですね。
もっとも、秦にアイデンティティーを持ち、起源前後の秦韓地域の遺跡からも遊牧民系の遺物が多くでてきていることを考慮すると、先の扁平頭の習俗のごとく、彼らがどこかしら前漢代の西域の亀慈・月氏・サカあたりの遊牧民族だった可能性も否定できないわけです。
まずはこの真番国について、調査を進めることが、その起源の解明につながるのではないかと感じます。ソウル周辺の前漢代の城柵とか土城あたりの諸遺跡ですね。
一部は弥生時代中期の北九州から瀬戸内あたりの遺跡や遺物と絡んでくることでしょうし、当時のきわめて精度の高い方位ライン形成ともかかわってくるかもしれません。
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遭風 箕氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/曹
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 遭風 箕氏
棘の紀氏さんへのお返事です。
失礼ですが、質問の内容と投稿内容に相当のズレがあります。
混乱の元のなるので日本古代史掲示版、世界史掲示板で頑張ってください。
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Re: 真番郡
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
http://
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、こんばんは。
> 徐福伝説を読むと、注意するところは九州の宮崎まで痕跡」があることです。
> 結論は九州は「夷州」でも「澶洲」ないのです。「夷州」「澶洲」が目的地になっている。。
確かに,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」との記載は、琉球諸島というよりは、もっと広い地を想起させるものがあります。
「夷州」「澶洲」「大和州」の問題は、再度新唐書を確認しておきたいところです。
日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。
京師から日本までの距離を「萬ニ千里」から「萬四千里」へ変化させてますね。洛陽・長安間を二千里と数えたのでしょうか。
「置本率一人、檢察諸部。」で魏志の「一大率」が「本率」へ変化する。
「一大率」と「大倭」はともに魏志によれば、倭の検察官で、「大」に共通性がある。
後に「倭」は「日本」と書き換えられたので、「大倭(率)」の官職名も「本率」へと移行したとの類推ができますね。
「一」を「日」と意味交換できれば、理解しやすくなるかもしれません。
詳しくはないのですが。両方ともコリア語では「イル」と読むそうです。
壱岐は「一大国」、伊都国にいたのは「一大率」で、韓国南岸に近いことを考慮すると、あるいは「一大」の用語にすくなからずコリア語的な要素が入った可能性も考慮すべきかもしれません。
下記のサイトで、「大率」と記紀に記された「帥」の語を比較しています。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono102.htm
ちなみに、「渠帥」は、魏志等で朝鮮・匈奴関連でよく出てくる言葉で、「首長」の意味です。
キシさんご指摘の「曰は自己詛 盟としての誓約を入れる器。」との件は、時代的な解釈が含まれてないので、あまり参考にならない感じです。漢字の解釈については、その時代と地域を限定して、お知らせいただけると助かります。
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「其國」とは「邪馬臺國」。
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_5297.html
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
> 「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」
>
> 「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。」
の件ですが、
A「方可」を「面積」ととると1辺が63里の四方区画。
B「方可」を差し渡し(斜辺)ととると、 1辺が2800里で東西の沿岸巡航距離は5600里。
C「方可」を四方区画の2辺の合計と捉えると、1辺が2000里。
秦野さん的には、Cということになるでしょうか。
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弁韓
続いて、弁韓についても調べはじめてます。参考まで。
『三国志魏書』弁辰伝
弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。
有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
こうみると、弁韓12国と辰韓12国は地域的にも、重複しているように見えますね。制度面でも同様なので、一緒に6国が12国に分割されたりするのでしょう。
そして特に下記の記載が興味深いです。
国は鉄を産出し、韓、濊、倭など國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸?買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
皆、これを採りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくである。また二郡で供給する。
「以供給二郡」の訳ですが、「二郡(楽浪・帯方郡)に供給する」という意味ではないでしょうか。帯方までの供給輸送ルートが確立しているんです。
商人が何度となく行き来しているわけですね。倭とも馬韓とも同様で、だから九州からは山のように鉄器がでてくるのでしょう。対馬・壱岐経由で九州の隅々まで運ぶ輸送ルートがしっかり確立してあるんです。
鉄器の出るところは弁秦・辰王と常にかかわりをもっていたでしょうし、見返りも送っていたはずです。その輸送ルートの目安が、その時代の九州各地に見られる厳密な方位ラインということかもしれませんね。
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
A,B,Cではありません。D
方可四千里を中国語で説明すると一辺四千里の四角をさす。
別の文章で完全な四角でない旨の文章がある。また、実測すると、
韓は帯方郡の南に在り、『東西は海で尽きる。』南に倭と接し、より
韓半島を東西に距離を測ると219kmで4100里になる。
帯方郡から南4000里が暦韓国(クンサン)になる。現在のクンサンから南が倭国になる。
D「方可四千里」方は方位で可はできるの意味。東西、南北に4000里。1辺、212km
馬韓伝、扶余伝を見る限り方位があり、方可となる。
『三国志魏書』馬韓伝
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。
韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。
『三国志魏書』扶余伝
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。
扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に挹婁、西に鮮卑族と接し、北には弱水(アムール河)があり、方形は二千里。秦野北斗の古代史、扶余は長方形になっている。二千里の四角が正しいようだ。近い内に修正する。議論の成果です。
http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano4.htm
>
> > 「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」
> >
> > 「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。」
>
> の件ですが、
>
> A「方可」を「面積」ととると1辺が63里の四方区画。
> B「方可」を差し渡し(斜辺)ととると、 1辺が2800里で東西の沿岸巡航距離は5600里。
> C「方可」を四方区画の2辺の合計と捉えると、1辺が2000里。
>
> 秦野さん的には、Cということになるでしょうか。
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Re: 真番郡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000172M.jpg
http://inoues.net/study/rakuroh3.html
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
楽浪四郡の位置は現在の比定とは相当ずれています。中国史籍から特定すると現在の楽浪郡が玄菟郡、楽浪郡は開城ケソンで帯方郡が江華島になる。秦野距離で特定、当時の文章の帯方郡の帯水は漢江下流の帯方郡の前の江、の意味になる。他の郡は特定していない。
> こちらのサイトが楽浪四郡の位置について理解しやすいです。
京師は楽浪郡へ2000里、玄菟郡も2000里程度と思われる。魏志倭人伝から三角縁神獣鏡は京師また玄菟郡で製作された模様。玄菟郡を楽浪郡と間違えている。画紋帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も神獣鏡でしょう。三角縁神獣鏡は卑弥呼のために陳寿が制作した鏡、特注ですな。注意することは三角縁神獣鏡の銘文には皇帝に相当する保子(開花天皇)が記されている。
中国の一般人は持つことはできない。まあ一般人は画紋帯神獣鏡が限度でしょう。尚、開花天皇は日本神話、古事記の説明が必要。
http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano2.htm
> それで、楽浪郡と画紋帯神獣鏡との関係について興味深いサイトを見つけました。
> 特にホケノ山古墳などから出る画文帯同向式神獣鏡は、ほとんど楽浪と日本しか出土がないそうで、「吾作」の銘文があるそうです。同様に楽浪の木カク墓と、初期古墳との関連も指摘されてます。
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Re: 真番郡
http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥弓呼
http://
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訂正
先に引用しました漢書・楽浪郡条に写し間違いがあり訂正しました。失礼しました。「邪頭昧(ヤトウバイ)」が正解です。訂正よろしくお願いします。
それで、楽浪郡条をよく見ると「帯方」がすでに見えることがありますね。帯方の位置関係を考える上で重要です。
あと、同じく先の文中で触れた烏孫の王号「昆弥」は、「クニ」より「キミ」のほうが意味的には近いかもしれません。
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馬王堆漢墓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000178M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000178_2M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/馬王堆漢墓
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
> 楽浪四郡の位置は現在の比定とは相当ずれています。
とりあえず、今漢書の楽浪郡条に見える各地域を再確認してます。
それで条文の最後のほうに見える東部都尉が治めた「不而・華麗・邪頭昧・蠶台・夫租・前莫」といった地域は、玄兎郡にあたると解釈されてようです。
ワイや扶余の地域です。ただ名称からみると、カヤや邪馬台国のそれとも近いものがあり、その秦野さんご指摘の位置関係や、その南下の動きが気になるところですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/沃沮
後漢時代初期に、夷狄(濊貊・沃沮)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたとのことです。
それで扶余人が百済・新羅方面へ流れて三韓ができあがったわけですね。
その大元はするとその条文にある「華麗」。「邪頭昧・蠶台」も同様に朝鮮各地に散ったとすると、邪馬台国のルーツもわかってくるかもしれません。
特に習俗的な部分で、後の日本と共通するのは、「病気や死者が出ると、そのたびごとにもとの住家を棄てて、新しい住居を作り直す。」は式年遷宮との関連が指摘されてます。神社の木造建築が、その辺の地域の記載と似てますね。
また「男女の上衣はともに曲領(まるくび)のものをつけ、男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとする。」の記載は気になりますね。曲袖とか袖飾りも、どうなのでしょう。
君主を持たない記載も、弁・秦韓の制度と類似します。
あと、沃沮関連で、『三国志』東夷伝東沃沮の条の倭人記載が気になります。「その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます。」「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」の部分は、魏志倭人伝で女性が多いとの記載と一致しますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/沃沮
おそらく、たとえば先の扁平頭の習俗で注目された疏勒では、六指の子供しか育てないような習俗もあったそうで、あるいは上記にある童女の生贄など、そういう産児・養育にかかわる問題で、男子がいなくなった可能性も感じます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/疏勒
それで楽浪郡条に戻って、南部都尉が治めた「渾濔」「提奚」といったあたりは、楽浪郡でもかなり南のほうにあって、おそらくは「真番郡」の下にあったものと感じます。そしてそれらの地域の住民も、秦韓方面へ流れて、「軍彌國(弁軍彌國)」、「冉奚國」となっていったのでしょう。
これらの国が南下した背景には、やはり楽浪郡支配の縮小と、扶余・高句麗の騒乱があったのかもしれません。
ただ後の馬韓となる原住民がいたので、東部や南部を裂いてもらいながら南下することになったのでしょうか。
そうすると元は楽浪支配時代の前漢文化・前漢方言つまり秦語に影響された人たちだったとも思われますし、前漢時代の墳墓の形式も有していたかもしれないですね。一部は倭にも渡っていった。弥生中期から、九州北部・瀬戸内の遺物に変化が出てくるのもその関連かと感じます。
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
> もうお解かりとおもいますが、クンサンから南が倭国、音表記で邪馬壱(ヤマト)に成るのです。狗奴国は狗耶韓国(狗=弓、耶=邪)、弓邪韓国の男王卑弥弓呼素と不和、卑弥呼
> 弓邪韓国と卑弥弓呼の弓が共通する。狗耶韓国と卑弥弓呼が結びつきました。
> この弓奴国、倭奴国から倭国の武器は弓のようです。アイヌに関係があるのですが、アイヌ語で矢をアイと言います。整理するとアイヌ=矢奴になる。アイヌ文化に古代史が眠っている可能性がある。
弓音と狗音について、ちょっと面白い記載があります。
秦野さん注目の扶余関連の記載に、「官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加,牛加,豬加,狗加の諸加とその下に位置する大使,大使者,使者の諸使がある。」
とあります。
ここで「馬」「狗(ク・コウ)」の語が見えますね。「狗」は犬の意味です。
それで、また関連の言語系統についてなのですが、
「夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説」
http://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
があるそうです。私も同感で先の楽浪の東部都尉下の各国の名称が、倭や三韓のそれに近いことがあります。だから元の「狗」の語源は、扶余から南下した流民の言葉にあると感じますね。
また体格非常に大きいとの記載も、弁韓人の特徴と一致してくるのですが、あるいは遊牧民・トルコ系の可能性も感じます。
扶余というと、朝鮮北東部の未開人のイメージあったのですが、どうもそうではなく、三国時代の東夷でもっとも先進の文化と技術を持っていた国のようです。
金銀・製鉄・養蚕・法律・祭祀・衣食住・・どれをとっても隣国のそれとは比較にならない感じです。どこかの先進国に属していた亡民と考えるが筋で、実際亡民の伝承があるそうです。
刑罰・血縁関連でちょっと特徴があって、殷歴の正月(2月4日ごろ?)の祭天、その際の罪人の解放とか、「12倍」の刑罰、妬みによる極刑、レビラト婚。
殷暦
http://ja.wikipedia.org/wiki/古六暦
葬送・祭祀関連は、日本の邪馬台国や古墳時代のそれと共通性が強いですね。
「有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。
殉葬が多いのは女王国の記載と一致してきますし、モガリの期間も類似します。「棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。」も魏志の記載と一致。
「その亡くなった者を祭るのに「生」と「熟」がある。喪主は速やかなるを欲せずして他人がこれを強制し、常に諍引してこれを節とする。男女は皆純白の喪服を着用し、婦人は布面衣(布製のベール)を着用し、環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす。これらのことは大体中国と似ている。」
祭服に白を重視するのも神道のそれと似てます。ベールのあたりも、先進国の習俗を想起させますね。
当地で取れる大きな玉関連の記載は、三種の神器にあるヤサカニの勾玉を想起させます。おおむね神道祭祀は扶余経由で着ているのではないでしょうか。
あと、アイヌと弓の関連は、扶余の隣国の挹婁に弓の記載が多くあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/挹婁
扶余とは、食物や玉の関連は同じなのですが、その他は非常に異なるようで、扶余の特殊性を浮き立たせます。
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Re: 真番郡
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
http://
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくお返事ありがとうございます!
> 狗耶韓国の名称は夫余語系説ですが、夫余以前の名称です。
扶余族南下の件ですが、いつ南下したかについて調査中です。
漢書の楽浪条(東部都尉配下)にみえている扶余と華麗(高句麗・加羅)+原日本語は、言語的に同族だそうで、後漢初期に、何らかの理由で南下したようです。技術的にもずば抜けていたので、勢力がすぐに広がったのかもしれせん。
ただ、その際には、まだ真番郡・後の楽浪郡にいた秦韓の同族は、秦韓地域へは南下していなかったのかもしれません。
だから、馬韓条に、秦韓人が遅れて南下してくる記載がでてくるのでしょう。
まず扶余系の馬韓・弁韓・後の邪馬台国の支配層が南下して、その後、秦韓系が東部へと遅れて南下する。そして秦韓は宗教も言語も、扶余系と異なるので秦語と記載されたようです。
それでどうも玄兎郡は、秦野さんのおっしゃるとおり、もっと楽浪・遼東よりだったようですね。
下記のウィキの図が正しいのではないかと感じます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Map_of_The_east_barbarian_0.png
この地図を見ると予想以上に「真番郡」つまり後の帯方郡が南に延びていることがわかります。
そして倭のほうは、逆に韓半島へ予想以上に進出していたとするならば、あるいは、双方はかなりダイレクトなつきあいをした可能性も感じますね。
おそらく秦韓・弁韓がその間に入って、仲介役をしていたことかと感じますが、帯方と秦韓とのつながりがどのくらいだったか、その辺が課題です。
> 卑彌呼と公孫氏が主役になる。扶余と公孫度が結びつく。当時の韓半島は馬韓、辰韓、弁韓、濊、倭=倭国=やまと。
> 倭国の大乱(146−189年)、卑彌呼が京師から三公と共に来て卑弥弓呼と共立し、倭国の大乱を収める。建安年間(196年−220年)扶余と公孫度が韓(馬韓)、濊を討伐。つぎに、倭、韓(辰韓、弁韓)を討伐。帯方に帰属させた。
> 建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。
公孫氏の件はとても重要です。特に上記の公孫度の倭、韓討伐の実態が気になります。
200年ごろを境に、平原・ホタテ貝式・・・といった墳墓形式に変化がおきてくるのには、あるいは公孫氏の進出を考慮すべきなのかもしれませんね。
楽浪の遺物で興味深いのは、四川系の漆器が多いことです。四川から先の馬王堆王墓のあった長沙、あるいは長安・洛陽経由で、山東半島から海を渡って楽浪にいたる商業ルートがあったものと感じます。
だから楽浪の文化は、多分に華南系の影響も受けていて、それが楽浪の親戚・秦韓へと流れていったのかもしれません。そのルートも課題です。
その秦韓の影響は、壱岐や出雲系にもみられるとのことで、元は華南系とされ、出雲に多い銅鐸との関連も気になります。
銅鐸に見えるようなドンソン文化系の文様は、多かれ少なかれ画像鏡・画紋帯神獣鏡等にも影響していて、特に三角鋸歯紋などは顕著です。山東の銅鏡製造ともながら、海を越えて楽浪にその技術者たちが進出していく。それで三角縁神獣鏡が製造されていく過程で、さらに秦韓方面へと製銅技術者が移動していくわけですね。
秦韓の彼らは、楽浪人を同族である「残阿」と呼んだのですが、一部は新羅東岸から海流に乗って、倭の出雲方面に渡ったのでしょう。だから似たような銅鐸を作ることができた。
そして、残ったものは、後代5世紀に、秦氏として渡ってきて、その製銅技術を伝播したのかもしれません。
最終的には渡来人研究会なので、秦氏に論を進めたいのですが、まずはその前に楽浪・公孫氏と秦韓・弁韓・倭との関係をもう少し洗い出しておきたいところですね。
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Re: 真番郡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000186M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝
http://
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Re: 「其國」とは「邪馬臺國」。
棘の紀氏さんへのお返事です。
棘の紀氏さん、馬韓は衛氏朝鮮の領地ようです。衛満朝鮮の満がない、何処へ行ったのか?
衛満朝鮮の満、何処へ行ったか捜査できませんか。
> 少々 お付き合いください。
> 「邪馬臺國」・「拘邪韓國」の位置関係。
> 其大倭王居邪馬臺國 樂郡浪徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪 韓國七千餘里 其地大較在會稽・東冶之東」 における「邪馬臺國」・「拘邪韓國」の位置 関係。 説文解字に「徼」は『循(めぐ)るなり』とある。 「去」は『行く
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくご意見ありがとうございます。
> 楽浪四郡の位置は現在の比定とは相当ずれています。
>
> 楽浪四郡を中国史籍から描きました。
ありがとうございます。
> 滄海郡が京師、馬韓は衛氏朝鮮の領地ようです。衛満朝鮮の満がない、何処へ行ったのか?
この辺、ちょっと引用の馬韓伝とその注釈を読んでいるのですが、注釈のほうに興味深い記載がありますね。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
より。
注記? 魏略に曰く。・・・・漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は?水と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の?水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢兵が十道に至り、宿衛に入ることを求めている」と準に告げさせ、帰還した準を攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。
おそらく、この中国からの亡命者を集めた満が、扶余方面に向かったのではないかと感じます。「徐々に衆をなす」という語が、後の「真番旁衆」を想起させますが、ただここでは楽浪の東部?の出来事なので、楽浪南部とされた「真番郡」と関係するかどうかが疑問ですね。扶余のほうが近い。
注記? 魏略に曰く、初め右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めたが用いられず、東の辰国に亡命した、そのとき彼に随行して国を出た住民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに往来しなかった。
「貢蕃」の用語が見えますね。「真番」にちょっと似た語ですが逆の意味になりますね。東とされている辰国に向かった二千戸が真番か?確かに秦野さんご指摘のとおり、東に辰韓が位置してます。
王莽の地皇年間(20年−22年)、廉斯(れんし=地名)の鑡(さく)は辰韓の右渠帥となり、楽浪郡の土地が肥沃で、人民は豊かで安楽に暮らしていると聞き、逃亡して降伏することを望んだ。(そして、鑡が)その邑落を出ると、田中で雀を追い払っている一人の男と出会ったが、言葉が韓人とは違っていた。彼に問うと、男が言うには「我らは漢人で、名を戸来と言い、我らは仲間の千五百人と材木の伐採しているところを韓に襲われ、全員が断髪され、奴隷にされた。もう三年にもなるかな」と応えた。
鑡は「私は今から漢の楽浪郡に降るところだが、おまえは行きたくないか?」と言った。
戸来は「よし。(行こう)」と応えた。
ここで出てくる「戸来(コ・グ・ライ)」という人物が、後の(辰)秦韓人の記載と同様に、他の韓人とは別の言葉を話していると記載してます。元は漢人で集団を大きな意味しているようです。
鑡は戸来を連れて辰韓を出て、含資県に詣でると、県は郡に伝え、郡は鑡を通訳として、芩中から大船に乗って辰韓に入り、戸来を迎え受けた。とともに降った仲間の千人を奪還したが、すでに残り五百人は死んでいた。鑡は辰韓に諭して言った。「汝ら五百人を還せ。もし返還しなければ、楽浪郡は万余の兵を船に乗せて、汝を攻撃しに来るだろう」
辰韓は「五百人はすでに死に、我は人数に値する弁償をするしかない」と言った。
辰韓は一万五千人、弁韓は布を一万五千匹、それぞれが提出した。鑡は値を徴収して郡に還る。郡は鑡の功義を表し、冠幘(かんさく=帽子の名)と田と家宅を賜う。子孫は数世、安帝の延光四年(125年)に至って、故事に対して再び除を受ける。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
なぜかこの「戸来」の背後にある集団を巡って、楽浪と辰韓・弁韓との間に大きな騒乱が起こっている様子が伺えます。
思うにこの「戸来」に象徴される異国語(秦語?)を話す集団は、金属精錬のような何か特殊な技術を持っていて、その技術者争いを象徴した伝承なのではないでしょうか。
後に公孫氏が、やはりかつて真番郡のあった帯方郡を再開拓し、倭・韓に遠征してまで、「旧民」を探していますね。
建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
この「旧民」を探すことに、大きな利益なり意義があったので、あえて倭まで遠征したということは、ただの漢人ではなかったと周囲からもみなされていたことがわかります。
ただ後韓末になると、そのほとんどはするとどこかへ移住してしまったということになるでしょうか。秦韓と楽浪・帯方との同族つながりも薄れていたのかな?
ともあれ、この辺の秦韓人の動きを追う上でも、漢四郡や周辺民族の位置や敵対・同族関係を確認しておくことが重要ですね。公孫氏については、図書館から楽浪の本を数冊借りてきたので、また何かわかり次第お知らせいたします。
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
これまでに述べた事は総が日本人の先祖の歴史なんです。管理人さんの先祖も登場せてますよ。総て、古事記が起源になる。
> 建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。
旧民は総が日本人の先祖、卑弥呼も同様です。公孫康に追われたのです。
> 注記? 魏略に曰く。・・・・漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は?水と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の?水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢兵が十道に至り、宿衛に入ることを求めている」と準に告げさせ、帰還した準を攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。
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Re: 真番郡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000191M.jpg
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15)ではこの辺に多いから、こんなかな、では何の説明のもならない。文献、歴史で流れを掴んでからHLAで初めて確認できるのです。へたをすると、本末転倒、子供と親がひっくり帰ります。管理人さんのHLAの流れは秦野の古代史の流れとは多く違う。
> 「このハプロタイプが、日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度であることから、弥生時代開始前後に、遼河流域周辺から、半島西岸を一気に南下して、半島南部に到達し、更に間を措かずに、主力が渡海して北九州〜山口方面に上陸・移住し、瀬戸内から近畿に弥生文化とともに拡がって、ついに国家形成・民族形成・日本語を形成するに至った集団「倭人」の民族移動を表わすものと考えています。」
簡単な話が、なぜこんな小さな島国に多種のHLAが存在するかです。常識の範囲では説明ができません。
秦野の古代史の流れに対応させると50世代が限界のようですな。百世代から数百世代はオーバーです。
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楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
>
> ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15)ではこの辺に多いから、こんなかな、では何の説明のもならない。文献、歴史で流れを掴んでからHLAで初めて確認できるのです。へたをすると、本末転倒、子供と親がひっくり帰ります。管理人さんのHLAの流れは秦野の古代史の流れとは多く違う。
>
さっそくお返事ありがとうございます。HLAにしても、確かに文献・歴史の流れを元に、双方でつきあわせて考えていくことが重要ですね。
もうひとつ、昨日から考古面で、楽浪・韓・倭の動きを追ってます。
田村晃一氏の『楽浪と高句麗の考古学』と、全浩天氏『楽浪文化と古代日本』を読み始めました。
確かに、漢四郡の資料が少なく、四郡の位置推定は困難を極めているようです。
管理人が注目している「真番郡」についても、北在説と南在説があり、はっきりと決着がついてないようですね。ソウル周辺との見方にも十分な論証には至ってないようです。「真番旁衆国」が後に「真番旁辰国」と書き換えられていて、辰国が東部にあったことからして、その位置が推定されているそうです。
次の「臨屯郡」ですが、郡治が東・県、そこが嶺東七県であるから、おおむね半島中央部の背梁山脈の東だろうとのことです。ただ資料が少ないのでなんともいえない感じですね。
また帯方郡については、「昭明王」の記載が入った遺物や、「守長岑長王」(墓)が北朝鮮の南西部にある黄海南道信川郡とのことです。
それで先の楽浪郡条をみると、それらが「南部都尉」の収める地域となっていることを考慮すると、楽浪郡の位置がわかってきますし、それに併記された「帯方」の地名、さらには帯方郡の位置ともかかわってきます。ただ時代によって楽浪や帯方の領域も拡大縮小してますから、その辺との兼ね合いが課題です。
その他、前漢代の北西部から出た「明刀銭」や、遼東から出て帯方郡と関係するという「逸民合資王君」銘の墓の存在は、亡命移民とのかかわりで重要でしょう。
前者の関連では、燕の亡命移民が、北朝鮮北部の鴨緑江付近に集まったことが指摘されていたそうですが、この辺は商人たちが「朝鮮・真番の利」を求めて集まった場所でもあり、高句麗と関係する原住民がそれを扱ったとの見方もあるそうです。
それで楽浪「残阿」と秦韓「阿」の関係ですが、こちらは考古的にも木カク墓の構造から明確なつながりが見えるそうです。一部は金官カヤ(つまり狗邪韓国)方面へとその流れがあるそうです。
それでその契機としては、全氏はAD37年に、高句麗が楽浪を滅亡させたという記載をあげてます。おそらくこの辺が、馬韓に遅れて秦韓人が南下する記載に至ったものと感じます。
あと、倭とのかかわりですが、全氏によると「遼東ー楽浪郡」と「平壌ー楽浪郡」の2種があり、岡本遺跡や前原遺跡の前・後漢鏡との比較で、これらの鏡が平壌から出土しないことを考慮すると、遼東出土のそれらととの兼ね合いを考えるのが自然であることを指摘しています。
また日本の方形周溝墓(前3世紀〜)と、韓国中西部にある忠清南道(前2〜1世紀)の41基の方形周溝墓との比較が重要です。木棺の痕跡があるとのことで、楽浪や日本のそれとのかかわりを指摘してます。
上記を整理していくと、燕の時代にすでに貢納記載がある「真番」については、秦末の燕などからの亡命移民というよりは、それ以前からの「真番の利」を求めた商人集団との兼ね合いがあって、それが後に前漢時代の楽浪郡そばに真番郡が出来上がる契機となったものと感じます。
そして、後漢初頭の楽浪の高句麗による攻撃によって、馬韓の東を裂くかたちで、朝鮮東南部領域へと移住していったのでしょう。
もちろん別の流れも複数あって、あるいは朝鮮中南部の方形周溝墓と倭人の弥生文化との兼ね合いもあったのかもしれませんが、秦野さんのその辺の課題ともかかわってくるのではないでしょうか。
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Re: 楽浪考古
管理人さんへのお返事です。
秦野の考えは単純で魏志倭人伝の行程を距離で割り出す方法です。今回、漢四郡の位置を探るのは考えていませんでした。中国史籍の威力を知りました。
陳寿のすごさを垣間見ました。また、狗耶韓国の位置と卑弥呼の痕跡が『釜山に帰れ』の詩に隠されているのはご存知ですか。
> それでその契機としては、全氏はAD37年に、高句麗が楽浪を滅亡させたという記載をあげてます。おそらくこの辺が、馬韓に遅れて秦韓人が南下する記載に至ったものと感じます。
高句麗が楽浪を滅亡は衛氏朝鮮の記録でこれが馬韓になった模様です。武帝との取引が考えられます。
提案ですが秦野書、徐福と邪馬台国を読みませんか。議論は倭国に戻りたい、伊都国と邪馬台国の住所が両者とも字になっている。古事記の国生み、神武東征を紐解きたいですね。
> そして、後漢初頭の楽浪の高句麗による攻撃によって、馬韓の東を裂くかたちで、朝鮮東南部領域へと移住していったのでしょう。
> もちろん別の流れも複数あって、あるいは朝鮮中南部の方形周溝墓と倭人の弥生文化との兼ね合いもあったのかもしれませんが、秦野さんのその辺の課題ともかかわってくるのではないでしょうか。
これらは神武兄弟とその末裔の歴史です。ピンとこないと思います。私の先祖もどうも韓半島に行き卑弥呼の年代に瑞穂の国に帰ってきた模様。糸口は家紋です。1700年はバックできる。
管理人さんの家紋があれば知らせください。簡単ですが先祖を調査します。だいたいですがね。
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地理について 「一里=435メートル」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tabana=tango.htm
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
> 陳寿のすごさを垣間見ました。また、狗耶韓国の位置と卑弥呼の痕跡が『釜山に帰れ』の詩に隠されているのはご存知ですか。
その詩は知らないですね〜(^_^;)
> 高句麗が楽浪を滅亡は衛氏朝鮮の記録でこれが馬韓になった模様です。武帝との取引が考えられます。
馬韓の件は課題ですね。扶余やその系統の高句麗・馬韓と楽浪との間で取引があったことは確かでしょう。郡を撤退させて、その代わりに「候」扱いに格上げしましたからね。
> 提案ですが秦野書、徐福と邪馬台国を読みませんか。議論は倭国に戻りたい、伊都国と邪馬台国の住所が両者とも字になっている。古事記の国生み、神武東征を紐解きたいですね。
今金欠なので、秦野さんのHPのほうを後で確認させていただきます。とりあえず、それでは弁韓と北九州に戻りましょう。
日本の方形周溝墓について、先の韓国中西部の方形周溝墓とどう関係するのかが気になってます。
また同じく北九州の弥生遺跡にみられる前後漢鏡と楽浪との兼ね合いですね。
会報にも掲載しましたが、吉野ヶ里・岡本・平原・宇佐風土記の丘の赤塚方形周溝墓郡は、ともに方位ラインの上にありまして、そのほか九州の弥生遺跡は76.5メートルを単位とした短里で割り切れる距離に正確に位置してます。
もちろん、それらは魏志の長里でもなくて、秦野さんの超短里でもないわけでして、紀元前のある時期に、それらの遺跡を作った集団が使っていた尺度を考えてます。ご指摘の伊都国もそこに関係してくることでしょう。
平原・岡本・赤塚には方形周溝墓が見えますし、銅鏡や木棺がそこに関係してきます。
吉野ヶ里はBC4世紀台からとかなり古いようですが、弥生中期に大型墳丘墓があらわれてきますね。
それらが、もし先のBC2世紀ごろとされる朝鮮中西部の方形周溝墓と木棺の組み合わせと関係してくるとなると、楽浪南部にいた真番郡(衆)あるいは馬韓あたりと関係してくるかもしれません。
ただ平壌方面からは前漢鏡が出土しないとすると、遼東とのかかわりか、あるいは山東半島経由で先の半島中西部に位置した地域(楽浪南部か真番郡)とのかかわりで、前漢鏡が倭のその地域にもたらされた可能性を感じます。
いずれにせよ、彼らはどこからか方形周溝墓と割竹型木棺、前漢鏡という組み合わせを持って、やってきて、近畿や伊勢方面にまで足を運んでいったわけですが、きわめて正確な測量を行うことができたわけです。そしていわゆる短里を使っていた・・・。
朝鮮中西部は馬韓地域にもさしかかるので、扶余系の墓制とのかかわりも調べてみたいところですが、一方で山東方面の漢墓との関わりのほうが有力かもしれません。
扶余については「諸加が死ねば、夏季は皆、氷で腐敗を防ぎ、人を殺して殉葬する。多いときには百を数える。手厚く葬り、墳墓には槨(木組みの墓室)はあるが棺(かんおけ=石棺)はない。」
とあり、棺を持たないようですし、方形周溝墓が他の扶余系の韓地域から出てこないことを考慮すると、違う感じがしますね。馬韓というのは、扶余の諸加のひとつにある馬加ではないでしょうか。
古い話だと、稲作について、すでに山東半島と朝鮮中西部へのルートがあったようです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/inasakutoraimin.htm
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html
それで、弥生中期のころですが、下記のサイトに朝鮮のある時期からの青銅器が山東半島の鉱山からもたらされた鉛を原料にしており、それらが弥生中期の北九州の遺跡に影響を与えたことが明示されてます。
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2011-10-08-3
そうすると、楽浪南部から馬韓北部との間にあった真番郡(衆)あたりにて、海上ルートで山東半島から商人が運んでくるものを受け取るシステムがあって、それが後に真番の親戚である秦韓・金官カヤ(狗邪韓国)経由で、北九州や出雲瀬戸内方面へと流れていくケースがあったのではないでしょうか。
もっとつきつめると雲南・四川・長沙方面の商業ルートともかかわってくるので、楽浪郡から四川系の漆器ばかりが出てくることになるのでしょう。先のHLAの流れとも一致してくることと感じます。
> これらは神武兄弟とその末裔の歴史です。ピンとこないと思います。私の先祖もどうも韓半島に行き卑弥呼の年代に瑞穂の国に帰ってきた模様。糸口は家紋です。1700年はバックできる。
> 管理人さんの家紋があれば知らせください。簡単ですが先祖を調査します。だいたいですがね。
そうですね、墓の紋章は忘れましたが、うちの先祖は福島の三春田村氏です。今原発の件で、親戚がみな疎開しているあたりですね。たぶん、下記の家紋、五七桐だと思うのですが・・・(^_^;)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/田村氏
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Re: 楽浪考古
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000197M.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/candy211jp30000/28991562.html
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Re: 楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
> 興味深いのは兄弟なんです。卑弥呼と弟ではないか。
ま、プサンについては、どうしてもあそこを通らないと、日本へは簡単にはこれなかったでしょうからねー。
> 76.5メートルが秦野距離を証明しいます。76.5を斜辺の長さとすると辺の長さは54になります。方位ラインは東西、南北を正確に測ったのでしょうか。簡単な作図を添付しました。
> 方位ラインは大切だが正確に方位を知ってほしい。秦野の超短里が短里なんです。
なるほど、ご指摘の54メートルがそれでは正解ですね。あとは、その公倍数やルート関連となるでしょうか。
斜辺と正辺との関係は、九州の遺跡において相互依存の関係にあります。まだオフレコですが、次回の会報あたりで詳細図をお知らせできると思います。
> 管理人さんの先祖は蘇我、聖徳太子系、源氏の可能性がある。どうりで只者でない。
>
> 常陸の少し上ですな、五七桐、桐紋は蘇我、聖徳太子系です。源氏にもなる。堺の羽曳野が河内源氏で木瓜紋の家紋がありました。宗教は仏教系でしょうか。
家紋はちょっと先ほど調べてみてびっくりしました。思ったより古くまで遡れるようですね。
その五七桐も嵯峨天皇あたりから使用されていたとのことです。三春田村氏は渡来系漢氏の族長坂上田村麻呂の子孫を称して、代々使用してきたらしいのですが、田村麻呂は、ちょうど嵯峨天皇の前の桓武時代の人です。
奇しくも後代の皇室の副紋、征夷大将軍の紋章というのは、田村麻呂にぴったりですね。
ちなみにうちの先祖の土地は、確かに常陸から北に向かって先の原発のあるところから内陸に向かい、三春田村に向かう途中の土地で、熊沢天皇とかで有名な南朝系の土地です。真言宗ですが・・・曽祖父は宮大工とのこと。今でも江戸時代の木造家が残ってます(ただ避難区域なので・・)。
蘇我まで遡れるとするとまた面白いですね!
五七紋の七の枝分かれした房が、石上神宮の七支刀をイメージさせる感じで、百済とかかわりを感じさせます。菊紋も百済と関係深いですね。
> 因みに揚羽蝶紋は平氏で源氏より200年は古い、中部に多い
平安初期までは確実にさかのぼれるようですから、奈良時代の紋章の様子がわかってくると、家紋研究も古代史学に入れそうですね。その辺の資料はないのでしょうか。
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Re: 地理について 「一里=435メートル」
棘の紀氏さんへのお返事です。
> で、千里とはどのくらいかといいますと、仮に昔のシナの里を使っていたとしますと、魏の時代の里は、
> 「一里=435メートル」
> ――なので、
> 「千里=435キロメートル」
ふとおもいついたのですが、先の短里の話の続きで、斜辺76.5メートルの正辺が54.1メートルとすると、その8倍が432.8メートルになりますよね。
あるいは76・9メートルにして、54・4で、435・2ですね。
何かその辺の関係なのではないでしょうか。8倍(あるいは2倍・4倍)に意味が見出せるかどうかですが・・・。
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Re: 楽浪考古
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000200M.jpg
管理人さんへのお返事です。
その辺の資料はないのでしょうか。未だ整理していないのです。資料そのものが古代史です。秦野が家紋に興味をもったのは、神武東征の解読中のことです。先祖に遡る手法は古代の人種移動と種族の特徴を整理します。その後、先祖から大事にしている家紋で特定するのです。揚羽蝶は神功皇后の紋になる。一例ですが雅楽(胡蝶の舞)に出てくる。紋を元に神功皇后が遊戯し伝えている模様。揚羽蝶は中近東、ヨーロッパではキリストの復活になる。三韓征伐は復活になる。家紋は歴史の痕跡になっていると言えます。早く古代史を整理したいものです。『釜山港へ帰れ』の詩が其のもののように感じる。
参考ですが、中近東にはヤタガラスの紋が沢山あるとのことです。
> 平安初期までは確実にさかのぼれるようですから、奈良時代の紋章の様子がわかってくると、家紋研究も古代史学に入れそうですね。その辺の資料はないのでしょうか。
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Re: 地理について 「一里=435メートル」
棘の紀氏さんへのお返事です。
朝鮮最古の史書『三国史記』(1145年成立)の新羅本紀には、第四代の王について、つぎのように書かれています。
「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」
多婆那國は秦野距離で東北一千里、新羅にあり、現在の蔚山[ウルサン]になる。
> 『三国史記』には「倭国の東北千里」とあります。
> 倭国とは日本のことですが、弥生時代においては、北九州の国々を主として倭国(一部朝鮮半島南端部を含む)と呼んでいたようです。
> それは、『三国志』の東夷伝を読めばわかります。
> だとしますと、北九州を起点にして「東北へ千里」の場所で脱解尼師今は生まれたことになります。
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Re: 地理について 「一里=435メートル」
今回、里について検討します。どうも、文献データーは政権の影響が見え隠れしていますな。実際の距離があり、掛け率で分配があったと考えるべきではないか。【周・春秋戦国・前漢(BC10〜1世紀)】〜【明(14〜17世紀)】までの里を見ると里は405〜559.8mまで154m増加している。領土の拡大と政策によるもと考えると政権ごとに領地の拡大が生じることになる。【唐(7〜10世紀)】には歩が300→360歩に成っている。何か、政策変更あったと思われる。尚、政策で変化するなれば、実際の里とはズレが生じている。しかし、地図上の距離は変化しないので政権里(文献データー)とは別物と考えるのが自然。地図上の距離は単里を使用していたと考えるのがよい。ややこしい。
里(り)は、尺貫法における長さの単位である。現在の日本では約4km、中国では500m、朝鮮では約400mに相当する。
里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。1里は1800尺(360歩、6町)四方の面積を表しており、後にこの1辺の長さが距離の単位「里」となった。1尺を30cmとすると1800尺は540mとなる。その後、時代により変動があるが、今日の中国では500mを1里としているので、周代の里に戻ったことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/里
【周・春秋戦国・前漢(BC10〜1世紀)】
寸:2.25cm/尺:22.5cm/丈:2.25m/歩:1.35m/里:405m
【新・後漢(1〜3世紀)】
分:0.2304cm/寸:2.304cm/尺:24.12cm/丈:2.304m/
歩:1.3824m(6尺)/里:414.72m(300歩)
【魏(3世紀)】
分:0.2413cm/寸:2.412cm/尺:23.04cm/丈:2.412m/
歩:1.4472m(6尺)/里:434.12m(300歩)
【隋(6〜7世紀)】
分:0.2951cm/寸:2.951cm/尺:29.51cm/丈:2.951m/
歩:1.7706m(6尺)/里:531.18m(300歩)
【唐(7〜10世紀)】
分:0.311cm/寸:3.11cm/尺:31.1cm/丈:3.11m/
歩:1.555m(5尺)/里:559.8m(360歩)
【宋・元(10〜14世紀)】
分:0.3072cm/寸:3.072cm/尺:30.72cm/丈:3.072m/
歩:1.536m(5尺)/里:552.96m(360歩)
【明(14〜17世紀)】
分:0.311cm/寸:3.11cm/尺:31.1cm/丈:3.11m/
歩:1.555m(6尺)/里:559.8m(360歩)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1324898093
>
> ふとおもいついたのですが、先の短里の話の続きで、斜辺76.5メートルの正辺が54.1メートルとすると、その8倍が432.8メートルになりますよね。
>
> あるいは76・9メートルにして、54・4で、435・2ですね。
>
> 何かその辺の関係なのではないでしょうか。8倍(あるいは2倍・4倍)に意味が見出せるかどうかですが・・・。
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Re: 楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
> その辺の資料はないのでしょうか。未だ整理していないのです。資料そのものが古代史です。秦野が家紋に興味をもったのは、神武東征の解読中のことです。先祖に遡る手法は古代の人種移動と種族の特徴を整理します。その後、先祖から大事にしている家紋で特定するのです。
さっそくお返事ありがとうございます。平安初期から家紋が作成されはじめた理由は、ご指摘のとおり、源氏の発生や、系譜観念の変化が影響していると感じます。それ以前から、類似したものはあっただろうと感じますね。
それなりに、その氏族なり家なりの象徴が、家紋に刻まれているはずです。五七桐紋は、七支刀にも似てますが、百済・新羅の樹木冠を想起いたします。田村後宮をとおしての桓武・嵯峨が百済と深いつながりがあるのも関係しているかもしれません。ご紹介いただいた「胡蝶の舞」の写真にも、舞人の頭に似たよなものが見えますよね。
その百済については、通典に興味深い記載があります。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/tuden.html
まず、先に倭韓関連で、特に注目したい記載を下記に列挙しておきます。
●馬韓条
馬韓最大、共立其種爲辰王、都目支國。
※目支國は月支國とも書かれてますね。
撃破朝鮮王準、居秦故空地上下障、稍役屬真蕃、朝鮮諸夷、反故燕、齊亡命者王之、都王險。
※「真番」を「真蕃」と書き換えてます。「燕、齊亡命者」とありますが、齊はや山東半島にあるので、あるいは、直接海をわたって朝鮮中部に渡ったケースも想定すべきでしょう。
遼東太守即約滿爲外臣、保塞外、以故滿得兵威財物、侵降其旁小邑、真蕃、臨屯皆來服屬、地方數千里。傳子至孫右渠、所誘漢亡人滋多、
※「真蕃、臨屯皆來服屬」とあることから、「真蕃」に加えて「臨屯」も、特定集団の名称だったことがわかります。
●辰韓条
以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。
※これは四川・雲南方面の習俗で、元は月氏・サカなどの遊牧民系が、中国南西部に南下したことによります。その残りがチベットに分離・南下した小月氏。
後漢光武建武中、韓人廉斯人蘇馬[言是]等詣樂浪貢獻。【[言是]音是】帝封蘇馬[言是]爲漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。
※「韓人廉斯人蘇馬[言是]」の「廉斯(レンシ)人」についてですが、先の月氏の城が「監氏(ラン)氏」です。韓人というのは馬韓でしょうから、「月支国」から「辰王」を出すとの記載と関係しそうです。
大月氏の都は『漢書』では監氏(ランシ)城、『後漢書』では藍氏城、『魏書』では盧監(ロラン)氏城から薄羅(バクラ)城となっている。
于闐の「尉遅(うっち)氏」も月氏姓との説があり、中国の官人として各地で進出していました。
于闐関連。
http://dsr.nii.ac.jp/narratives/discovery/02/
大者名臣智、其次有險側、次有樊wai[偏水旁歳]、次有殺奚、次有邑借。
●百済条
百濟 、即漢末夫餘王尉仇台之後、【後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」】初以百家濟海、因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。【
※扶余の王族は「尉」氏。「初以百家濟海、因號百濟」ですが、「濟」に「渡る」の意味がありますが、別に「百濟亦據有遼西」とあるのが気になります。高句麗よりさらに西北に拠点があるとのことで、「百家濟海」の「百家」は、あるいは中国系の亡命移民あるいは商人集団を指していた可能性を感じます。
●新羅条
其俗呼城曰「健牟羅(ケンムラ)」、其邑在内曰「喙評(クァイヘィ)」【喙、呼穢反】、在外曰「邑勒」、亦中國之言郡縣也。國有六喙評、五十二邑勒。
※この辰韓の「評・邑」制度は、中国の郡・県(ケン)制度をもとにしており、日本の郡評制度と関係するか。「健牟羅(ケンムラ)」は日本の「ムラ」?
先の辰韓条の「大者名臣智、其次有險側、次有樊wai[偏水旁歳]、次有殺奚、次有邑借。」と比較すると、險側が健牟羅、樊waiが喙評(クァイヘィ)、邑勒が邑借と対応。
秦韓人の元はおそらく伝承どおり、楽浪・中国系。
官有十六等、其一曰伊罰于、貴如相、次伊尺于、次迎于、次破彌于、次大河尺于、次河尺于、次乙吉于、次沙大河尺于、次沙咄于【咄、都骨反】、次及伏于、次大奈摩、次大舎、次小舎、次吉土、次大烏、次小烏、次達位。外有郡縣。
「次吉土、次大烏」は、吉士集団と関連。鳥は先の秦韓の葬送観念に関係するか。
●日本条
有軍尼百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如里長也;十伊尼翼屬一軍尼。
※「軍尼」は辰(秦)韓の軍彌国(弁軍彌国)と同音。
倭王姓阿毎、名多利思比孤、其國號「阿輩[奚隹]彌」、華言天兒也、
※「阿毎(アバイ)」「阿輩[奚隹]彌」は「アハイ(スイ)ビ(ビ)」は「アワミ」か。
王遣小徳阿輩臺、從數百人、設儀仗、
※「阿輩臺(アバタイ)」は「粟田・アワタ」(真人)のこと。
秦韓人は自分たちのことを「阿」とよび、仲間のことを「徒」と呼ぶ。
※首冠進徳冠、其頂有花、分而四散、
4つの分かれた花弁条の樹木冠をかぶっていたということか。百済・新羅の樹木冠、先の桐紋に類似?
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1里
http://dic.nicovideo.jp/a/里
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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偶然でしょうか?
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban10.htm
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 地理について 「一里=435メートル」
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく情報感謝します!
> 今回、里について検討します。どうも、文献データーは政権の影響が見え隠れしていますな。実際の距離があり、掛け率で分配があったと考えるべきではないか。【周・春秋戦国・前漢(BC10〜1世紀)】〜【明(14〜17世紀)】までの里を見ると里は405〜559.8mまで154m増加している。領土の拡大と政策によるもと考えると政権ごとに領地の拡大が生じることになる
> 【周・春秋戦国・前漢(BC10〜1世紀)】
> 寸:2.25cm/尺:22.5cm/丈:2.25m/歩:1.35m/里:405m
> 【新・後漢(1〜3世紀)】
> 分:0.2304cm/寸:2.304cm/尺:24.12cm/丈:2.304m/
> 歩:1.3824m(6尺)/里:414.72m(300歩)
> 【魏(3世紀)】
> 分:0.2413cm/寸:2.412cm/尺:23.04cm/丈:2.412m/
> 歩:1.4472m(6尺)/里:434.12m(300歩)
なるほど、こう見ると、魏の尺度の数分の1がやはり九州諸遺跡に関係する尺度に近くなりますね。でもあの遺跡は弥生中期のものですから、本来は漢代もしくは以前のものが使われるべきですよね。
ただ、大工が使う曲尺というのがあって、これはあまり変化しなかったそうです。
漢代は23.09cm
http://ja.wikipedia.org/wiki/尺#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
あと、先の435を8で割ってルートで77になる件ですが、8に関する観念としては、八尺鏡の件があります。
「従って 1 咫は 0.8 尺である。日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、現在 4 枚の出土例がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/咫
23.04cmの鏡の8倍もしくは8分の1あたりを、1つの測量の基準単位として、九州で測量していったのではないでしょうか。
そうすると、鏡は大工の定規とかコンパスとかいう使用法になりますね。鏡を車輪みたいに転がしていけば、正確な距離が測れたはずです。角度は周囲の文様なり、キョ歯紋で計ればいいわけですね。
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1里の長さ
http://home.c07.itscom.net/sampei/wijin/wijin.html
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 1里の長さ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000208M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000208_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000208_3M.jpg
棘の紀氏さんへのお返事です。
さっそく情報ありがとうございます。
> 影の測定から南北の距離を計算する方法が、文献記録と矛盾しないか検証する必要があると考えます。「魏志倭人伝」は格好の材料です。私が後日の挿入と考えた部分を除いて検証した結果は全く矛盾しないことが明らかとなりました。
> 中国の魏の時代にはこの測量法が行われていたことが証明されたと考えます。
なるほど、かなり説得力がありそうな論説ですね。
すると九州の遺跡は76.5ですから、プサンの少し北あたりの数値を元にした定規を使ったということになるでしょうか。秦韓から狗邪韓国あたりですね。
あと当時の測量精度を考える上で、先の前漢・長沙の馬王堆墓出土の軍事地図の測量精度を確認したいと考えてます。17〜19万分の1の地図と高精度で重なるそうですが、いまいち地理がわからないので、うまく重ねられないんです。
下記に現在の地図と、その出土地図を添付しておきます。重なるかどうか実験してみてください。最後の図は、その縮尺の九州地図です。当時の軍事測量がいかに広大な地域を正確に測量していったかがお分かりなるかと感じます。そして弥生時代中期の九州にも同じ技術が導入されて測量されていったわけです。
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Re: 1里の長さ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000209M.jpg
http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/michikusa23ginotanri.html
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Re: 1里の長さ
わたしも、その影をもたらす太陽光の角度とか時期とか、その辺の精密な情報が知りたいように感じます。この辺は数学問題なので、数式が出れば、あとはそこにすぐに緯度と時期を入力して回答の是非が出てくるはずです。毎週日曜はちょっと出かけますでは、今日はこの辺で失礼します。
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Re: 1里の長さ
棘の紀氏さんへのお返事です。
今日は早めに戻りましたので、引き続き、キシさんご紹介の下記の三瓶精二氏の論説を読み進めてます。
http://home.c07.itscom.net/sampei/wijin/wijin.html
紀元前2世紀ころの下記の算術書の測量理論を参考にされているようですね。下記に三瓶氏の論説の要点を引用しておきます。
周髀算経
http://ja.wikipedia.org/wiki/周髀算経
「第1に太陽の影を測定して距離を計算する方法です。夏至の太陽が高く昇った時に8尺の棒を垂直に立てるとその影は16寸になる。南に行きこの8尺の棒の影が1寸縮んで15寸になる地点と16寸の地点の間を1,000里とする。同じように北に行き影が1寸伸びて17寸になる地点との間を1,000里とすると定義していることです。」
※夏至の太陽が基準とされているようです。理論的には緯度と影の長さとの関係は問題ないようですね。特に周髀算経で「8尺、16寸」という8の倍数が出てきていることが、先に掲示板で指摘した長里・435/8×(1.414・ルート)=短里:77メートルとなる原因かもしれません。
「夏至に8尺の棒の影が16寸となる地点は北緯34度46分付近となります。これに近い古い都市は、黄河に沿って点在する都市が幾つかあります。洛陽もその中の一つです。
地軸の傾きを23.452度として、夏至に北緯34度46分から南に影が1寸短くなる地点までの1里の長さは約76.8メートルです。北緯40°から南に影が1寸短くなる地点までの1里の長さは約73.5メートルになります。北緯30°から北に影が1寸長くなる地点までの1里の長さは約78.6メートルになります。これらは、理論上のもので太陽の影が最短になる日と時間に測定した場合です。このように、丸い地球上では緯度により影の長さが違っています。
このように、「周髀算経」の1里の長さは緯度による変化があるために、南北に移動すると伸縮する里をメートルに換算して検証することは適当ではありません。」
※そうするとやはり洛陽あたりが定規(鏡)の基準だったのかもしれませんね。
ちなみに上記の基点・洛陽の34度46分は日本でいえば奈良の椿井大塚山あたりになりますから、あそこにひとつだけポツンと大塚山古墳があったり、それが桜井方面からの方位ライン上に乗っていて、大量の鏡が出たりしていることと関係あるかもしれません。鏡=定規という観点からもうすこし周髀算経を手がかりに考えを整理してみます。
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会報
あと、下記の椿井大塚山関連の方位ライン、九州各地の遺跡を結んだ方位ラインについては、会報ページからPDF版がダウンロードできるので、2号、3号あたりをご参照ください。
渡来人研究会の会報ページ
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kenkyuu.htm
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Re: 1里の長さ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000213M.jpg
http://inoues.net/enjoy/mirrorindex.html
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Re: 会報
管理人さんへのお返事です。
方位ライン、秦野は古事記の文章に同様のものが存在するのを確認しています。
中国史籍にも、同様の文章がある。まだ、実証確認はしていない。
少し、公開すると、出雲から漢半津の筑紫、瑞穂の国から黄泉、葦原中国。
> あと、下記の椿井大塚山関連の方位ライン、九州各地の遺跡を結んだ方位ラインについては、会報ページからPDF版がダウンロードできるので、2号、3号あたりをご参照ください。
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Re: 会報
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000215_2M.jpg
秦野北斗さんへのお返事です。
> 方位ライン、秦野は古事記の文章に同様のものが存在するのを確認しています。
> 中国史籍にも、同様の文章がある。まだ、実証確認はしていない。
さっそくお知らせありがとうございます。記紀でもすでに見えますが、いつの時代も測量してたようですから、神話や、中国・朝鮮文献にも、方位ライン、つまり測量記載はあるはずだと感じますね。
それで、再度九州の方位ラインと遺跡距離を確認してみました。その方位ラインの最新図を添付いたします。
わかりにくいと思うのですが、縦横斜めの方位ラインと、その上に乗る遺跡、そしてライン上の数値がその遺跡間距離です。以前把握して数値よりさらに正確な数値がでてきて、ちょっと1里の距離解釈が変わりそうです。
要約すると、九州の弥生中期の遺跡を結ぶ方位ラインの四方区画は、下記の数値(距離)を「7倍」あるいは数等分した距離に相当します。下記のようにそれらの距離が多数出てきてます。東西を基礎距離として、それに特定の角度をつけて測量したようです。
(東西)15.0×7=105KM → 30 → 6
(斜辺)27.5×7=192.5KM → 55 → 11
(南北)22.57×7=158KM
6:11(斜辺)の直角三角形(55度角)
27.5〜7KM ×3 = 82.5KM ×5 = 412.5KM が 1単位
ということになります。したがって、先の引用資料によれば、前漢後半の尺が。その412.5キロメートルに該当するとおもわれますので、これらの弥生中期の遺跡年代と一致してきます。先の楽浪漢人の流れでしょう。
> 【周・春秋戦国・前漢(BC10〜1世紀)】
> 寸:2.25cm/尺:22.5cm/丈:2.25m/歩:1.35m/里:405m
> 【新・後漢(1〜3世紀)】
> 分:0.2304cm/寸:2.304cm/尺:24.12cm/丈:2.304m/
> 歩:1.3824m(6尺)/里:414.72m(300歩)
> 【魏(3世紀)】
> 分:0.2413cm/寸:2.412cm/尺:23.04cm/丈:2.412m/
> 歩:1.4472m(6尺)/里:434.12m(300歩)
ただ、問題は魏の測量は、上記の前漢代・弥生中期のそれとまったく違うということですね。434KMやその8分割のルート値で76・5KM、ここにはやはり周髀算経の8尺関連の数値も関係しそうですし、そして指南魚・車という、漢代にはなかった方位磁針が絡んでくるので、奈良の古墳や遺跡の方位は、東西にブレはじめるわけです。
方位ラインの痕跡を見つけるのは、あらゆる時代で測量してますから、実はたやすいのですが、方位磁針を使用したかどうかの証明は正直、まだ十分な確信を得れてません。
ご指摘の指南車もあったでしょうし、魏の文献にはすでに方位磁針が見えるものの、それを軍事測量や風水関連で使ったかどうか、その辺の裏づけが取れてないんです。何か頭を一ひねりしたいところですね。
あと、秦野さんのご本を一両日中に購入いたします。また研究会のHPのほうでも、推薦図書として紹介させていただきたく感じてますので、よろしくお願いします。
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指南針 和銅6年(713年)の続日本記?
http://momotaroublog.blog39.fc2.com/blog-entry-161.html
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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慈石 1里はおよそ650メートル? 一里は約、七五〜九○メ−トルの範囲?
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2693
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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訂正
先の九州方位ライン図で、宇佐(赤塚遺跡)から鎌田原遺跡までの距離が間違っていましたので、訂正しました。56.9KMが正解です。
須玖岡本遺跡→(27.7KM)鎌田原→(56.9KM)宇佐(赤塚)
27.7×2=56.4となります。
したがって下記のとおり、27.5〜7KMを1単位として宇佐を基点にして東西を計っていることがここでもわかります。
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Re: 慈石 1里はおよそ650メートル? 一里は約、七五〜九○メ−トルの範囲?
棘の紀氏さんへのお返事です。
慈鳥と磁石はて、銅鐸の舞が『三国志魏書』馬韓伝に出てくる。
烏 踊り、盆踊りのルーツなのか。
『其舞、數十人倶起相隨、踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞。』
『その舞いは数十人でともに相手に従って大地を高低に踏み、手足の動作をあわせ、音頭は銅鐸の舞に似ている。』
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
> 、「カラスの漢字は、烏、鴉、慈鳥をあてることが普通です。」
>
> 慈鳥の由来は、「カラスに反哺(はんぽ)の孝あり」といわれ、カラスの子どもが成長 すると、親に餌を運んで慈しむことから、育ててもらった親を養う孝行な鳥という言い伝え があるから。
> 「烏 踊り(からすおどり)」について
> 烏踊りは、長野県北部から新潟県南部一帯に広く分布する民族芸能の一つであります。 中世長野県北部 .... 手を叩き、地を踏む動作は、修験道における善霊を目覚めさせ、 悪霊を踏み鎮めるとする「反閉」(へんばい)の考え方にあると思われます。 「反閉」(へん ...
> この踊りの名称については、元来山岳信仰に源をもつ修験道では、カラスを神の使いとしてきたことから、それに因んでこの名前がついたのではないかと見られています。
> 野良着姿に手ぬぐいで頬かぶりをした男性が、酒を酌み交わしながら「踏む」「蹴る」の動作が中心の素朴な踊りで、前唄、中唄、後唄からなっているので、七五三踊りともいわれています。
棘の紀氏の1里、「三舎を避(さ)く」、一丈八尺はバラバラですよ、どこかで線を引いたら。
■林冲の丈八蛇矛の長さ いったい何メートル?■
蛇矛の長さ、一丈八尺を宋代の尺寸法で計算してみます。
宋代の1尺は30.9センチとも一説には32.9センチともいわれています。
1尺の長さが30.9cmのとき1丈8尺の長さは、30.9×18=556.2cm。
あるいは、1尺の長さが32.9cmのとき1丈8尺の長さは、32.9×18=592.2cm。
ということになり、林師範の蛇矛の長さは、5メートル半から6メートル位と考えられます。
ちなみに張飛オリジナルの丈八蛇矛の長さは、後漢代の1尺の長さ23.75センチ、
三国曹魏の1尺が24.12センチということから、1尺の長さが23.75cmのとき1丈8尺の長さは、
23.75×18=427.5cm、もしくは、1尺の長さが24.12cmのとき1丈8尺の長さは、
24.12×18=434.16cmです。こちらの方が武器としては手ごろな長さですよね。
参考までに現代中国の1尺は、33.33センチなので 33.33×18=599.94となり、ほぼ6メートルとなります。
http://my3594.net/wiki/蛇矛
http://homepage2.nifty.com/tonglaya/shuihu/labo/labo_02.html
> 指南車は磁石の応用 で、車に載せた木製の人形が挙げている右手の指が、いつも南を指すようになってい ました
> 中国で発明された、紀元3世紀ころの「記里鼓車」、 つまり走行計です。日本では卑弥呼(ひみこ)のころです。 車の回転を歯車で縦 ... 後世、 指南車とともにいろいろな人によって改良されました。 【1里】 このころの中国の1里は
> 【1里】
> このころの中国の1里はおよそ650メートルです。
> 30里を1舎(しゃ)(20キロ弱)と呼んで、軍隊が1日に進軍する行程(こうてい)でした。日本でも、相手を恐れたり相手に敬意を表して近づかないとき、比較にならないときなどに「三舎を避(さ)く」と使われます。
>
> 方角を指し示す方法で、われわれが普通に想像できるものは唯一”磁石”だけであろう、だが今日にあって明らかなことは、いずれも木製の原始的な噛み合わせ式の歯車だけで設計され制作されたことである。このような機械をいかにして作ることが可能であったのだろうか?
>
> 、「長里」が 記里鼓車を使用しなくても計測可能だったのは里値算出の方法が「日行○○里」という“ 時間計算”だったからだ
> 【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩以古法六尺為歩三百歩為里】
> 周知の通り、一里は三○○歩。一歩の歩幅は平均して二五〜三○センチメ−トル。“一尺一歩”で概算スルと一里は約、七五〜九○メ−トルの範囲にナルが、換算の誤差を最小限に抑える為に本書では魏時代の“六尺一歩”での一里430メ−トルの“六分の一”約、70メ−トルとスル。
> 、『魏志倭人伝』の里値が「短里」である決定的証拠を提示して置く。
>
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Re: 訂正
管理人さんへのお返事です。
でかい、これはただ事ではない。これと同じ事が奈良でもあったのか。秦野は魏志倭人伝の通過地点と思っていた。まず、魏志倭人伝をかたずけ、古事記から古代史の大筋を書きたい。お付き合い宜しく。
先の九州方位ライン図で、宇佐(赤塚遺跡)から鎌田原遺跡までの距離が間違っていましたので、訂正しました。56.9KMが正解です。
>
> 須玖岡本遺跡→(27.7KM)鎌田原→(56.9KM)宇佐(赤塚)
>
> 27.7×2=56.4となります。
>
> したがって下記のとおり、27.5〜7KMを1単位として宇佐を基点にして東西を計っていることがここでもわかります。
>
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指南魚
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000221M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000221_2M.jpg
http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/tetsu/070218.htm
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Re: 訂正
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000222M.jpg
管理人さんへのお返事です。
方位に興味がでたので、素人ですがおおよその線を引きました。
検討が不十分なのでミスってるかもしません。
韓半島が面白い。釜山、モッポ、クンサン、百済の固麻城になる。
クンサン:白村江、モッポ:倭奴国、釜山、百済の固麻城は新羅と接している
尚、常陸は引いていません。方位は54の倍数
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Re: 指南魚
管理人さんへのお返事です。
山幸神話は魏志倭人伝終了後、秦野も議論したい。磁石も面白いですな。海神の娘の豊玉毘売命が
海神の娘、・・・。
> 指南魚と引用画像についてはこちら。(図のヒシャクの部分は、鏡の丑の部分に覆いかぶさるよう上下が逆にとりつけられていたのでは?)
>
> それで、再度、会報で紹介した山幸神話と、方位磁針との関係を調べてみました。
>
> まず古事記のみですが、下記のような記載があります。
>
> 「教えられた通り綿津見神の宮殿へ行き、そこで待っていると、海神の娘の豊玉毘売命の侍女が水を汲みに外に出て来た。火遠理命が水が欲しいと求めたので、侍女は水を汲み器に入れて火遠理命に差し上げると、火遠理命は水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れた。すると玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女は玉のついた器を豊玉毘売命に差し上げて、事情を話した。不思議に思って外に出てみた豊玉毘売命は、火遠理命を見て一目惚れした。」
>
>
> この箇所の器から離れない玉というのが、つまり磁石のことではないかと考えます。
> 書記のほうでは、玉の器(壷)と表現されています。
>
> それで、今回気づいたのは、山幸彦自体を浮き木に糸でつるしてカゴのような容器にいれて水に沈める記載があるんです。
>
> 「そして海辺に行き、彷徨い嗟嘆(なげ)いていると、一人の長老(おきな)がたちまちにして現れた。自ら塩土老翁と名乗り、「君はこれ誰ぞ。何の故にかここに患(うれ)うるや」と尋ねたので、彦火火出見尊は詳しくその事情を話した。老翁が袋の中の玄櫛(くろくし)を取り、地面に投げつけると、五百箇竹林(いほつたかはら)と化成った。そこで竹を取り、大目麁籠(おおまあらこ)を作り、火火出見尊(ほほでみ)を籠の中に入れ、海に投げ入れる。あるいは、無目堅間(まなしかたま)(竹の籠)を以ちて浮木(うけき)(浮かぶ木舟)を作り、細い縄で彦火火出見尊を結びつけて沈めたと言う、とある。
>
> すると、海の底に自ずから可怜小汀があり、浜の尋(まにま)進むと、すぐに海神の豊玉彦(とよたまひこ)の宮に辿り着いた。」
>
>
> 大目麁籠、無目堅間と呼ばれる容器に、細い縄で山幸彦を、水に浮かぶ木に結びつけて、沈めるんですね。そのおかげで自然と無事航海できたという内容なんです。羅針盤=航海の関係ですね。
>
> 山幸彦は彦火火出見尊とも呼ばれて、火の燃え盛る様子をイメージしていると言われますが、いわゆる製鉄関連だと思います。その最後に出来上がったのが山幸彦、鉄のことなので、神話でも鉄の刀から1000本の鉄針を作る話が出てくるのでしょう。鉄;鉄の針=山幸彦なんですね。そしてその山幸が容器から離れない磁石のような玉を吐き出すわけです。
>
> そして、その鉄針は、下記の伝承のように、赤魚のノドに刺さっていたのですが、これが先の指南魚なんです。魚型の木片に磁化された鉄針が刺さっています。
>
> 「海神は海の魚たちをすべて集め、その釣針を求め尋ねると、一尾の魚が「赤女(あかめ)久しく口の疾(やまい)有り。 或は云う、赤鯛。 疑うらくはこれが呑めるか」と答えた。そこで赤女を呼んでその口を見ると、釣針がまだ口の中にあった。」
>
> 古事記では特に下記のように呪術的な要素も表現しています。針を手に持っていく表現に留意したいところです。
>
> 「海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を火遠理命に差し出し、「この釣針を兄に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。」
> 『此鉤者、淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤』云而、於後手賜【於煩及須須、亦宇流六字以音
>
> また書記の一書では、先の玉碗が、鏡のように左右逆に顔を映し出すことが見えます。
>
> 「あるいは、豊玉姫の侍者が玉壼に水を汲もうとしたが、満たすことができなかった。井戸の中を覗き込むと、逆さまに人の咲う顔(笑顔)が映っていた。そこで仰ぎ見ると、一人の美しい神がいて杜樹に寄り立っていた。」
>
> これが三角縁神獣鏡の背面に水を溜めた様子を表現したのではないかと先の会報で考えました。その玉碗・つまり鏡が砕け散るというこんな記載もあります。
>
> 「、門の前に一つの良い井戸があり、井戸のほとりに百枝(ももえ)の杜樹(かつらのき)があった。 そこで彦火火出見尊その樹に跳び昇りて立る。すると海神の女(むすめ)手に玉鋺(たまのまり)を持ちやって来て水を汲まんとする。人の影が井戸の中にあるのを見て、仰ぎ見るや、驚いてお椀を落とした。お椀は砕け散ったが、顧(かえりみ)ずして帰り戻り、父(かぞ)母(いろは)に、「妾、一の人、井の邊(ほとり)の樹の上に在るを見たり。」
>
> どこか多くの三角縁神獣鏡が破砕されている様子を想起させますね。砕け散るのを無視して常世の国の父母、つまり西王母・東王父?に報告することで、その鏡に映し出された墓の主もその世界へ案内されるわけです。
>
> よって、山幸神話というのは、羅針盤をもって航海した民族の伝承によるものだといえるでしょう。それが神武天皇の祖先にあたるわけでして、先述の椿井大塚山古墳から釣り針と三角縁神獣鏡がたくさん出てくる所以と考えます。
>
> そしてその三角縁神獣鏡の背面に水をいれて、さらに指南魚を浮かべることで、羅針盤をつくりだしたのでしょう。
>
>
> もともと鏡は、先のとおり定規だったものの、それに魏の時代になって新たに方位磁針の要素を背面に加えることで、活用性が広がって、古墳の方位決定や測量に関係していったのだろうと感じますね。
>
>
>
>
>
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Re: 訂正
秦野北斗さんへのお返事です。
> 方位に興味がでたので、素人ですがおおよその線を引きました。
> 検討が不十分なのでミスってるかもしません。
>
> 韓半島が面白い。釜山、モッポ、クンサン、百済の固麻城になる。
> クンサン:白村江、モッポ:倭奴国、釜山、百済の固麻城は新羅と接している
なるほど、韓国にもありそうですね。私は韓国の遺跡には無知ですが、秦野さんのように知識のある方が、まじめに方位ラインについて調べ始めれば、いろいろ出てくると思います。
もう少し方位ラインへの理解者が増えてきたら、一度電子地図から方位ラインの引き方についての講習会でも開きたいところです。古代人の測量は数十キロ離れていても、100メートル圏内でピタっとあわせてきますよ。狂っているとしたら、おそらく古代人のミスではなく、おおよそは、われわれの理解がミスっているか、本来の遺跡の場所を発掘し切れてないかのどちらかです。
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Re: 指南魚
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000225M.jpg
ちょっとフロに入っていて、あれこれ指南魚と山幸神話の関係でわかってきたことがあるので、とりあえず忘れぬ前にメモしておきます。
一つ目は、豊玉毘売命の侍女がもっていた容器に種類があることです。古事記および書記・一書で、それぞれ持ち物が違うんですね。玉の碗だったり、壷だったり、井戸だったりする。
どれも結局は女性の顔を映すもの、かつまた指南魚(方位磁針)を浮かべるための器とのことで、同じ機能なのですが、氏族や地域の系統でことなるので、伝承も少しづつ異なっているのでしょう。
元は三角縁神獣鏡の背面を、水を入れる器代わりにしたと考えているのですが、一方で壷をその器とする系統もあったのでしょう。だから、初期古墳から三角縁と特殊器台・壷(円筒埴輪)つまり「壷」は一緒にに出土しないんですね。機能が同じなんです。
後代、装飾古墳の事例で、やはり鏡が出土しなくなった代わりに、鏡の絵つまり同心円紋が描かれはじめる事例が指摘されているそうです。
二つ目は、山幸彦に浮き木と縄を結んでカゴや小船に浮かべる件ですね。これも先のとおり鉄針が刺さった指南魚とみなしうることがありましたが、思うに古墳の形自体が魚に類似していることと関係あるのではないでしょうか。
初期の前方後円墳は、三角縁神獣鏡とともに、船型の木棺が出てきます。船に入った埋葬者=山幸彦(の子孫:皇族)という観念があったのではないでしょうか。
ただ個人的には、初期のホタテ貝式古墳の形は、男狭穂塚やそれを模した鬼の磐屋古墳のように、鏡をイメージしたのではないかと考えてますが、そのうちに方形の橋の部分が大きくなって魚形へと変化していきます。
そしてその魚形の古墳=指南魚であり、指南魚の指す磁北に向けて、古墳の軸をあわせることで、被葬者=山幸彦が、常世の国(海神の国)へと旅立つことを示したのかもしれません。
ただ、会報でも書きましたが、よく古墳軸をみていくと、しばしば同じ古墳群に、他の古墳の向きと垂直になっている古墳が見つかります。おそらく、女性の被葬者ではないかと感じているのですが、ここにも何か葬送観念があるのでしょう。
山幸彦と、妻の豊玉ヒメの関係は、鉄針+魚に対するおなかを広げているワニの関係なんですね。この正反対の観念が、垂直に軸を向けていることと関係してくるのかもしれません。出土人骨の性別がわかれば証明されると思います。
この山幸神話は、現実世界と常世の国という、生死を意味した葬送観念と強く結びついているのではないでしょうか。後代、これらは崇神条の埴輪・石棺・土師氏関連や、さらには黄泉平坂と横穴石室あたりに取って代われるのですが、それ以前の主流な葬送儀式と結びついていたのでしょう。
だから、何気ない日向の山幸神話が、天皇家の祖先伝承の最後という最も重要な部分にダイレクトに割り込んでくるわけです。その点で隼人や関係氏族と葬送儀礼の関係は重要です。
ともあれ、初期古墳の古墳軸は、このようなわけで、三角縁神獣鏡や壷に浮かべた指南魚の向きとかかわってくることが、会報で示したとおり実測データともそこそこ一致してくるのです。
この辺は、栃木の古墳の事例を示した図を添付します。曲線が磁北の角度変化をあらわしたもので、それにあわせるように、同一古墳群の古墳軸が時間とともに、((反)時計回り)に変化していく様子が伺えると思います。
しかしながら、やや次代が下ると、磁北に加えて、始祖となる祖先の古墳の向き(方位ライン)を考慮し始めるので、さらに古墳軸の向きが複雑な様相を呈してくることになります。
この辺は、遁甲占術の世界にも似ていて、日時・干支・・といういろんな要素が加わって、数重の複合円から割り出された方角を、善しとする世界に似てきます。一部は三角縁神獣鏡の鋸歯紋が数重にもなっていることと関係してくるかもしれません。漢鏡の元は八卦などとも関係する方位盤の意味もあったかと感じます。そしてその方位を元に、測量をしていったわけですね。
会報で紹介した華南系の民族では、海を表す三角鋸歯紋の重文様を刻んだ銅鼓や神殿祭祀がありますが、海と三角縁神獣鏡と指南魚・山幸彦との関係も重要です。
その山幸神話にある出エジプトを思わせるような潮の満ち干きによる退治伝承も、あるいは中東から華南方面は流れたそれらの伝承とどこかで関係してくるのかもしれません。
それが後の斉の地域に伝わっていって、そこから出てきた方士占術や諸葛孔明の兵法とかにも関係したかもしれませんし、そこに方形壇における皇帝祭祀も一枚噛んでいるので、長沙の馬王堆墓のような方形壇をした墳墓の様相も影響していったのかもしれません。
ただ、基本的な葬送観念は、山幸彦・指南魚伝承だったので、古墳時代末期まで前方後円墳の形がかわらず、主に磁北を向いていたものと感じます。
ところがその後、ある時期から方墳や八角墳に取って代わられる出来事があって、その辺からまた葬送観念も変化していって、鏡とか指南魚の意味が、忘れ去られてしまったので、いまいち詳しい記載がなされていないのではないでしょうか。
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Re: 指南魚
管理人さんへのお返事です。
古墳の形状が指南魚、また船なのか。
どうも、古墳の方向は古道の道しるべを指南している模様。近い内に地図を添付します。方位も・・
>
> その山幸神話にある出エジプトを思わせるような潮の満ち干きによる退治伝承も、あるいは中東から華南方面は流れたそれらの伝承とどこかで関係してくるのかもしれません。
>
> それが後の斉の地域に伝わっていって、そこから出てきた方士占術や諸葛孔明の兵法とかにも関係したかもしれませんし、そこに方形壇における皇帝祭祀も一枚噛んでいるので、長沙の馬王堆墓のような方形壇をした墳墓の様相も影響していったのかもしれません。
>
> ただ、基本的な葬送観念は、山幸彦・指南魚伝承だったので、古墳時代末期まで前方後円墳の形がかわらず、主に磁北を向いていたものと感じます。
>
> ところがその後、ある時期から方墳や八角墳に取って代わられる出来事があって、その辺からまた葬送観念も変化していって、鏡とか指南魚の意味が、忘れ去られてしまったので、いまいち詳しい記載がなされていないのではないでしょうか。
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Re: 指南魚
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、こんばんは。昨日アマゾンで秦野さんのご本を注文しました。明日あたり届く予定です。
> 古墳の形状が指南魚、また船なのか。
>
> どうも、古墳の方向は古道の道しるべを指南している模様。近い内に地図を添付します。方位も・・
確かに古墳の形=指南魚かどうかは、微妙ですね。初期のホタテ貝式古墳は、形状が鏡型でその周りを水(海の意?)で埋めたように見えます。そこに円墳の上にある墓室まで向かう低い橋がかかっていて、その橋の部分が徐々に高く長くなっていったのが、前方後円墳と理解してます。
おそらくはご指摘のとおり、その橋までは、人が向かう道があったと感じますし、あるいは街道に通じていたかもしれません。
ただだんだん橋部だったはずの前方部が、高くなっていき、橋としての機能が別のものに変わるんですね。中国の古墳の方形壇みたいな形になって、祭祀の場のようにも見えます。
しかしながら、最後まで方位ラインと前方後円墳の関係では、会報で記したとおり、かならず方位ラインは後円部を通過しています。前方部はあくまでもその橋の延長線なのですが、そのかわり、いつも特定の方位を指南してます。
おそらくその方位に向けて整然と近親者が並んで儀式をしたはずですね。祖先の古墳を向いた方位ラインにあるものは、祖先を敬う儀式をしたかもしれません。
もともとは特別なモガリ場のないケースでは、棺をその橋・前方部を渡って円墳部分の頂上に埋葬したでしょうから、前方部には棺が向かう道としての役割もあったでしょうし、棺が進む方角=常世の国のある方角ということもありえたかもしれません。それが方位磁針たる指南魚の指し示す山幸彦が向かった常世国という見方もできそうです。
鏡とか壷、井戸というのは、山幸神話を元にすれば、この世の世界に対するあの世の世界なので、山幸の顔を反対に映し出すわけです。鏡に映る自分の姿は、もはや異次元のあの世の姿なんですね。それで古墳の被葬者の周りに鏡や壷を並べて、被葬者を映し出すことで、あの世の演出する、そんなイメージもできるかもしれません。映し出すのは、鏡でなくても、壷でも長い井戸型の土器でもいいわけです。
ただ、三角縁の場合は、黒塚のケースだと、鏡の背面を被葬者にむけているんですね。あの世を演出するなら、表面のほうがいいと思うのですが、父母のいる神仙世界を見せたかったのでしょうか。この辺の表裏の是非は統計を取らないとなんともいえません。
ともあれ先の中国史籍に、船形木棺を引きづったり担いでいる倭人の姿が描かれていることには注目すべきで、特定の道をずっと引きずって、古墳まで運んだことは確かです。お神輿をかつぐ祭りみたいにですね。ご指摘のとおり、その辺の道との関連を調べていけば、何かわかってくるかもしれません。
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Re: 指南魚
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000228_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000228_3M.jpg
管理人さんへのお返事です。
購入ありがとうございます。話しが早くなります。
古墳の方向は古道の道しるべを指南している模様です。古代の難波宮から奈良への道(茅渟の道)と竹之内街道の方向が古墳の方向とほぼ一致する。
三蔵法師の砂漠で行き倒れた獣の骨や、亡くなられた方々のお骨を道しるべにして・・
の文章を思い出す。
古墳も古代の道の道しるべならば。未発見の古道が発見できるかも。
それと方位ラインですが仁徳陵から伊勢神宮に走っている。距離約110km、約54×2km
思うに、方位ラインで囲まれる範囲は一つの国ではないか。4方の遺跡は何を意味するかが問題です。
> 秦野さん、こんばんは。昨日アマゾンで秦野さんのご本を注文しました。明日あたり届く予定です。
>
> > 古墳の形状が指南魚、また船なのか。
> >
> > どうも、古墳の方向は古道の道しるべを指南している模様。近い内に地図を添付します。
>
> 確かに古墳の形=指南魚かどうかは、微妙ですね。初期のホタテ貝式古墳は、形状が鏡型でその周りを水(海の意?)で埋めたように見えます。そこに円墳の上にある墓室まで向かう低い橋がかかっていて、その橋の部分が徐々に高く長くなっていったのが、前方後円墳と理解してます。
>
> おそらくはご指摘のとおり、その橋までは、人が向かう道があったと感じますし、あるいは街道に通じていたかもしれません。
>
> ただだんだん橋部だったはずの前方部が、高くなっていき、橋としての機能げ別のものに変わるんですね。中国の古墳の方形壇みたいな形になって、祭祀の場のようにも見えます。
。
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Re: 指南魚
秦野北斗さんへのお返事です。
先ほどようやく秦野さんの本が届きました。まだ昨年刊行したばかりなのですね!
後でじっくり拝読させていただきます
> 古墳の方向は古道の道しるべを指南している模様です。古代の難波宮から奈良への道(茅渟の道)と竹之内街道の方向が古墳の方向とほぼ一致する。
添付の図を拝見しました。古道と古墳軸との関連は、非常に面白い視点だと感じますね。
方位ラインは古墳軸と関係してきますが、そのラインは、つまりヤタノカラスが飛ぶ道でして、あるいはそれにそう形で人間の歩く道もあったかもしれません。キシさんの著書『古墳のこころ』に、目印としての古墳のあり方について書いてありますので、ご参考にされるとよいかと感じます。
> 古墳も古代の道の道しるべならば。未発見の古道が発見できるかも。
個人的には、そこに注目しています。方位ラインで見ていくと、どうしてもここにこういう遺跡があるべきだということが多々あるんですね。考古学者がまじめに方位ラインについて考えはじめれば、もっとお宝探しは楽しくなりますよ。発掘コストの無駄も省けるでしょうし・・・。
> それと方位ラインですが仁徳陵から伊勢神宮に走っている。距離約110km、約54×2km
ちょっと調べさせていただきました。南北に2〜3キロずれているので、なんともいえませんが、100メートル圏内までに収まってくれば、方位ラインの可能性が高くなります。10年前までは人工衛星でも10メートルの誤差が出たというのに、古代の測量士が100メートルにつけるなんて無理と考えがちなのですが、調べれば調べるほど、恐ろしく精度が高いことに気づかされていきます。
いまだに、なぜそこまで高いのかは、わからないのですが、何かそれを可能にする「手段」があったんですね。個人的には鏡にその手段のヒントを追ってます。火をつかった狼煙通信は弥生時代から、鏡を加えた光通信も中世にはあったのですが、その辺との兼ね合いも重要です。秦野さんも機械にかかわるお仕事をされているとのことで、その経験を生かされれば、何か見えてくるものがあるのではないかと期待いたします。
> 思うに、方位ラインで囲まれる範囲は一つの国ではないか。4方の遺跡は何を意味するかが問題です。
境目に方位ラインにかかわる古墳や遺跡があるという点は同感ですね。有名なところでは、旧約聖書とかでも、国の境目に石を積んで目印にした記載などもありますし、古代史の詩歌あたりにもその辺のことは描かれていることでしょう。
古代の道が整理されてない時期で、土地の境がはっきりしない場合は、何かが目印にならないといけないはずなんですね。それがないと、部族同士の争いにもなりかねないですし、収穫の是非にもかかわってくる。大きく目立つ必要があると思います。
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ハシヤスメ
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 指南魚
管理人さんへのお返事です。
徐福と邪馬台国で紹介している卑弥呼の墓、円墳ですが、仁徳陵から伊勢神宮の方位ライン上にあるのに驚いている所です。
話しは変わりますが、キシさんの著書『古墳のこころ』とは、多く議論することになると思います。もう方位ラインでぶつかっていますな。
魏志倭人伝で少し議論して、問題がなければ、古事記、日本神話にはいります。
> 方位ラインは古墳軸と関係してきますが、そのラインは、つまりヤタノカラスが飛ぶ道でして、あるいはそれにそう形で人間の歩く道もあったかもしれません。キシさんの著書『古墳のこころ』に、目印としての古墳のあり方について書いてありますので、ご参考にされるとよいかと感じます。
日本神話の文章中に相当数の光通信に関する項目を発見しています。期待してください。
> いまだに、なぜそこまで高いのかは、わからないのですが、何かそれを可能にする「手段」があったんですね。個人的には鏡にその手段のヒントを追ってます。火をつかった狼煙通信は弥生時代から、鏡を加えた光通信も中世にはあったのですが、その辺との兼ね合いも重要です。秦野さんも機械にかかわるお仕事をされているとのことで、その経験を生かされれば、何か見えてくるものがあるのではないかと期待いたします。
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Re: 指南魚
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000232M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000232_2M.jpg
秦野北斗さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
> 徐福と邪馬台国で紹介している卑弥呼の墓、円墳ですが、仁徳陵から伊勢神宮の方位ライン上にあるのに驚いている所です
まだ前半しか読んでませんが、秦野さんご指摘の仁徳→伊勢ラインの正確な距離はご指摘の110ではなく、106キロです。この辺もヒントになるのではないでしょうか?彼らは予想以上に方位や距離には厳密ですからね・・・。
> 話しは変わりますが、キシさんの著書『古墳のこころ』とは、多く議論することになると思います。もう方位ラインでぶつかっていますな。
方位ラインと古墳軸との関係について、この際、今後の論議のために、もう少し詳しく説明をしておきたいと思います。
下記最初の添付図は、会報に掲載した高崎方面の各古墳群における古墳軸と、方位ラインとの関係です。
まず古墳群の中でも、始祖的な古墳の古墳軸の向きが、方位ライン、おそらくは秦野さんご指摘の「道」などと関連して決定されます。
次にその始祖的な古墳の古墳軸を元にして、同じ古墳群(四角で拡大した部分)の中にある親族の古墳の古墳軸の向きも決定されていきます。
その際、古墳群の各古墳は、方位ラインに対して、水平、もしくは垂直に古墳軸をもっていきます。
このようにして、古墳軸が古墳群単位で整然と整っていくことがお分かりになられるかと感じます。
その上で、さらにその古墳軸の決定法の詳細を下記に説明いたします。
2番目の添付の図でいきますと、まず古墳を造成する予定地に三角縁神獣鏡もしくは、水を入れた壷をおき、その背面もしくは容器に水を満たしておきます。
次にそこに方位磁針である「海幸が与えた魔法の釣り針」を口に加えた指南魚を浮かべます。
そしてその指南魚が指す磁北と、あらかじめ鏡で決めておいた「北」を示す印(黄色の丸印)とをあわせます。
最後に、以前始祖の古墳を造営さいた際に、その古墳軸の「磁北に対しての」向きを記しておいた目印(赤い丸印)とをあわせることで、子孫の古墳も、始祖の古墳と同じ古墳軸の向きで造営することができるわけです。
この方法を使えば、いちいち古墳群のほかの古墳を作る際に、始祖の古墳軸の向きを計らなくても、鏡か壷ひとつ用意すれば、すぐに同じ向きで作成できるはずです。
ところが、ひとつだけ欠点があって、指南魚の示す磁北は時代によって、東西15度近くずれてしまうことがあります。
したがって子孫の古墳の向きも、すこしづつバラバラの向きを示していくこととなります。それが前方後円墳の古墳軸の角度がバラバラな理由のひとつだと考えてます。そしてその磁北のズレ具合を調べて、偏磁曲線と対比することで、その古墳の時代が特定できるわけです。
あとでひとつ古墳群と古墳軸の向きについてのわかりやすい事例をお知らせいたします。
> 日本神話の文章中に相当数の光通信に関する項目を発見しています。期待してください。
楽しみにしてます!
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古墳軸と偏磁気曲線
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000233M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000233_2M.jpg
先ほど指南魚つまり方位磁針が指す向きと、古墳軸の向きとの対応関係についてお知らせいたしました。
続いて、偏磁気曲線との兼ね合いについてお知らせいたします。
下記の最初の図は西都原古墳群です。古墳とその古墳軸の向きが矢印で示されてます。
またこの古墳群の編年表を合わせて、添付いたします。編年表の上に描かれた曲線が、偏磁(気)曲線です。時代によって東西に15度前後まで磁北の向きが変化していきます。オレンジ色の部分は、最近の研究で81号などのホタテ貝式古墳を3世紀代まで遡らせた場合の偏磁曲線です。
これらの両図を見ると、81号、92号といったホタテ貝式の古墳がもっとも古いのですが、他の古墳に比べて西に古墳軸を傾けていることがわかります。そして同じ向きを男狭穂塚も向いていることから、この古墳が通説とは異なり、初期のホタテ貝式古墳であることがわかります。
その後、編年表によれば、35号、13号、90号あたりが、4世紀前半から中葉にかけてになり、偏磁曲線どおりに、古墳軸を東に傾いていきます。
ところが、その後4世紀末になると99号、109号、46号と、それぞれまた再び西に古墳軸を傾けはじめるのですが、これも偏磁曲線が西に傾いていく動きと対応しています。
そして最後に時代が下った女狭穂塚がでてきて、偏磁曲線どおりに大きく古墳軸を西に傾いた形となるので、隣の男狭穂塚とはぜんぜん向きが異なるように見えるわけです。
ただし、西都原にある複数の古墳群があるので、それぞれの古墳群で使用した鏡(角度)も異なるかもしれませんし、前述のとおり、始祖的古墳の古墳軸の角度が当初から異なる場合もありますので、その辺も考慮すべきでしょう。
古墳群ごとにみればもっとわかりやすいでしょう。
つまり、下記のようになります。
第2−B群ならば、92号(西へ傾く)→100号(やや東へ傾く)→95号(東へ)→99号(西へ戻る)
第1−A群ならば、72号(西)→35号(東)→13号(東)→46号(西に戻る)
第2−A群ならば、81号(西)→91号(やや東)→83号(西に戻る)
ともあれ、このような形で、同じ古墳群に属する古墳軸の角度も、偏磁曲線の傾きにしたがって、東西に微妙に変化していくことがあります。
そしてその古墳軸の角度変化を分析することで、古墳の年代が逆算されていくので、先の男狭穂塚など、内部が公開されない古墳についてもある程度年代を特定することができるようになってきます。他の古墳群の事例も多くありますが、詳細は会報をご確認ください。
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Re: 古墳軸と偏磁気曲線
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000234_3M.jpg
http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_05.html
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Re: ハシヤスメ
棘の紀氏さんへのお返事です。
「邪馬壹国」「邪馬臺国」の"壹、臺"台の字には根拠があります。卑弥呼の出生がかかわってくる。
日本神話の議論の後で述べたい。秦野は卑弥呼の両親の特定まで遡っています。お楽しみに・・。
> 魏志倭人伝」では「邪馬壹国」と表記されているが、『後漢書』には「邪馬臺国」とある。「 邪馬台国」の通称は、「邪馬臺国」の"臺"の字を、"台"をもって代用したものである。また 、耶馬台国とも記述される。 弥生時代の1〜3世紀に倭国にあったと推定されている。
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指南魚
つい先ほど、指南魚と偏磁で補正・・・、ひらめき、
魏志倭人伝の東西南北の測定に指南魚を使用していたら偏磁曲線の補正が必要なのでは。
また、伊都国から奴国で数度のズレがある、これは、地域特有の磁気の偏りと思われる。
指南魚はいろいろ疑問とヒントを提供してくれます。まさに指南魚ですな。
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「110ではなく、106キロ」 間の 「108」 に 拘りました・・・
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs?
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 「110ではなく、106キロ」 間の 「108」 に 拘りました・・・
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000239M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000239_2M.jpg
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_177597-1.html
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Re: 指南魚
秦野北斗さんへのお返事です。
> つい先ほど、指南魚と偏磁で補正・・・、ひらめき、
>
> 魏志倭人伝の東西南北の測定に指南魚を使用していたら偏磁曲線の補正が必要なのでは。
>
> また、伊都国から奴国で数度のズレがある、これは、地域特有の磁気の偏りと思われる。
>
> 指南魚はいろいろ疑問とヒントを提供してくれます。まさに指南魚ですな。
なるほど、面白い視点だと思います、3世紀初頭の磁北は、東に少し傾いているはずです。
ともあれ、方位ラインにしろ、指南魚つまり方位磁針にしろ、会報ではすでに指摘しましたが、もう少しみなさんにとっても引用しやすいように、どこかでまとめて公表しないと、いつまでたってもその技法をつかって論を先に進めないでしょう。
昨年から今年にかけて、おかげさまで会報第3号の論証が不足していた部分も、だいぶ埋まってきたように感じます。とりあえず、その成果をまとめて春に第4号で記したいとは考えていますが、秦野さんやキシさんは、最近の成果をまとめて記事にして投稿してみませんか?
あるいは今回の対談形式のまま、記事にまとめてみるというのも面白そうです。最終的にはそれらもまとめて本にしたいですね。
ちょっとそんなことも考えはじめてます。
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Re: 「110ではなく、106キロ」 間の 「108」 に 拘りました・・・
棘の紀氏さんへのお返事です。
ダブルペンタ構造(前方後円墳形)説を堺の地名に入れ確認したところ、結果はメタメタでした。
ダブルペンタ構造が前方後円墳に対応しるかは疑問である。秦野はダブルペンタ説は候補から外す。
> メートル法では赤道から北極までの距離を10000kmと定義したために、グラード度で緯度を表せば1グラード度がそのまま地表の100kmに対応している。したがって23.4度のところにある南回帰線(北回帰線)は26グラード度だから赤道から2600kmのところに位置しているし、<90−23.4=66.6>度の南極圏(北極圏)もまた、極から半径2600kmの円(正確には地球表面)の中にある地域のことだということもすぐ分かるのである。
>
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Re: 指南魚
管理人さんへのお返事です。
了解。方位ライン、指南車、指南魚つまり方位磁針は掲示板の成果です。
管理人さんの成果が大きいので、お任せします。
秦野は方位ラインで日本神話の糸口が明確になりました。徐福と日本神話で方位ラインを使用しても宜しいでしょうか。それと、秦野距離と著書の紹介してくれれば十分です。
徐福と邪馬台国の文中の単里等を引用して下さい。管理人さんの単里も説明には必須になります。古事記の文中に6国、方位ラインは5つと韓半島に1つ計6つ。必要な範囲で提供します。
> なるほど、面白い視点だと思います、3世紀初頭の磁北は、東に少し傾いているはずです。
>
> ともあれ、方位ラインにしろ、指南魚つまり方位磁針にしろ、会報ではすでに指摘しましたが、もう少しみなさんにとっても引用しやすいように、どこかでまとめて公表しないと、いつまでたってもその技法をつかって論を先に進めないでしょう。
>
> 昨年から今年にかけて、おかげさまで会報第3号の論証が不足していた部分も、だいぶ埋まってきたように感じます。とりあえず、その成果をまとめて春に第4号で記したいとは考えていますが、秦野さんやキシさんは、最近の成果をまとめて記事にして投稿してみませんか?
>
> あるいは今回の対談形式のまま、記事にまとめてみるというのも面白そうです。最終的にはそれらもまとめて本にしたいですね。
>
> ちょっとそんなことも考えはじめてます。
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Re: 指南魚
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくお返事ありがとうございます。
> 了解。方位ライン、指南車、指南魚つまり方位磁針は掲示板の成果です。
> 管理人さんの成果が大きいので、お任せします。
> 秦野は方位ラインで日本神話の糸口が明確になりました。徐福と日本神話で方位ラインを使用しても宜しいでしょうか。それと、秦野距離と著書の紹介してくれれば十分です。
了解しました。方位ライン関係は、方位線関連でいくらか類似した書籍もあるかと感じますが、会報のほうで、とりあげた方位ラインについては、そのまま「渡来人研究・第 号・・・論文」と引用をつけていただければ、引用については一向に構いません。そうすれば、他の方も国会図書館の雑誌検索で、会報の詳細を調べることができるようになります。
こちらも秦野さんの著作『徐福と邪馬台国』について、引用する場合は、かならず引用をつけさせていただきます。加えて秦野距離、および関連のご意見についても、第4号で概略を紹介させていただきます。
また、研究会HPの新刊紹介ページにて、秦野さんの著作を紹介させていただきました。下記ご確認ください。アマゾンにリンクしてあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/sinkan.htm
> 徐福と邪馬台国の文中の単里等を引用して下さい。管理人さんの単里も説明には必須になります。古事記の文中に6国、方位ラインは5つと韓半島に1つ計6つ。必要な範囲で提供します。
了解しました。また詳細は後日別途連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします。
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Re: 「110ではなく、106キロ」 間の 「108」 に 拘りました・・・
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000244M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000244_2M.jpg
> 棘の紀氏さんへのお返事です。
>
> ペンタの肩から肩までの距離5.325kmでほぼ秦野距離の100里に当たる。前方後円墳形は秦野距離を基準にしている。ダブルペンタ構造が何処まで対応するかが問題になる。
百舌古墳群と、五房星ラインの件ですが、個人的な方位ラインの経験からいくと、古墳時代当時の方位ラインは、縦横斜め、せいぜい三角どまりではないかと考えてます。
要するに、五・六角形とかを採用する場合は、中国の風水占術関連に深くかかわってこないといけません。測量するだけなら、そこまでは必要ないですし、円形はコンパスで足りる計算です。
ただ古事記を見ていくと、五行説に応じて、神名が配置されていくこともあり、当然紙の上には、五角形の図を描いていたであろうことは想像に難くないですね。問題は、それが、仁徳なりの伝承にかかわってくるかどうか、その辺の是非が気になるところです。
後の飛鳥時代になると、六角から八角まで古墳の形にもバラエティーが出てきますが、その端境期があるのかどうか、その辺も課題ですね。
あと余談ですが、百舌の方位ラインと古墳軸の傾きについては、下記を会報に掲載した図をご参照ください。
あまり築造年代に差がないので、古墳群内の各古墳軸の向きにも差が出てない模様です。
ただ、図のように?→?→?→?と時代が新しくなるにつれて、やはり西に古墳軸を倒していくのがわかります。これも偏磁曲線と対応している一例です。感じ的には仁徳陵が東に一番傾いているので、これが始祖古墳で最も古い感じですね。
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訂正;マキムク古墳群の古墳軸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000245M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000245_2M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/纏向古墳群
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Re: 訂正;マキムク古墳群の古墳軸
管理人さんへのお返事です。
前方後円墳は大きく分けると東向き、東南、北西の3種類になる。
東向き
長崎のユダヤ人墓だが、キリスト教とは墓の作り方まで違っている。竿石と寝墓を思わせる墓石。墓石は、同じ大きさのものが全くない。故人の身長に合わせて作っているのだろうか。方位がすべて東向であったのが印象的だ。
http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/07-8.html
仏教は東南、北西。秦野の先祖の墓は北西になる。
東南
http://www.asakawadera.net/haka/ohaka.html
北西
http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/02-22.html
古墳を前方後円墳にしたのは266年で、これ以後にユダヤ人を確認している。中国史籍、伝説の解読から堺(百済)、羽曳野に居た模様。266年以前は円墳、一部、天皇家で例外あり
どうも、東向きはユダヤ系で東南、北西は瑞穂の国、倭国系になる。
東向きは266〜500年、東南、北西は500〜古墳終焉まで。
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参考?
http://hinatabokkomura.com/yomoyama/nishinihonplot1.pdf#search='
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 訂正;マキムク古墳群の古墳軸
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000248M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000248_2M.jpg
http://www.neomag.jp/magnet_history/history_3.html
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Re: 訂正;マキムク古墳群の古墳軸
http://kiyond.blogspot.jp/2010/10/blog-post_10.html
http://
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3種類の尺の中の「4:5」及び「5:6」
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/post/exec/
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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秋津島宮の関連施設が出土している
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000251M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000251_2M.jpg
秋津遺跡から特異な遺構が出土していることはご存知と思う。
橿考研はこの遺構の年代を四世紀前半とする。
だが私はそこから出土している多孔銅鏃などの年代から、三世紀前半にさかのぼると考えている。
ここは秋津嶋宮の伝承地である。秋津島宮もしくはその関連施設であっても不思議は無い。
そして秋津島宮は六代孝安の宮である。私は「男弟ありて佐けて国を治む」とする男弟は孝安と考えている。
秋津島宮は卑弥呼の王宮でもある。
発掘調査は継続して行われるこの調査に注目してくれ。
http://yamatai.sblo.jp/
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日本一の古墳であることを実証するプロジェクト
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000252M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000252_2M.jpg
写真は御所市玉手山、孝安天皇陵の隣の尾根である。
尾根の中心に築かれる墳丘は直径22m程度の円墳である。
だが私は尾根全体が墓域と考えている。尾根の裾は人為的に整形されている。
日本一の円墳と考えている。それを実証するプロジェクトを立ち上げる。
興味のある方は応援してくれ。
http://yamatai.sblo.jp/article/42520853.html
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Re: 日本一の古墳であることを実証するプロジェクト
曲学の徒さんへのお返事です。
御所市玉手山は小さい、秦野は尾根幅500m、墳丘は直径180m程度の円墳を見つけている。
奈良のど真中です。秦野著書、徐福と邪馬台国で紹介している。
> 写真は御所市玉手山、孝安天皇陵の隣の尾根である。
> 尾根の中心に築かれる墳丘は直径22m程度の円墳である。
> だが私は尾根全体が墓域と考えている。尾根の裾は人為的に整形されている。
> 日本一の円墳と考えている。それを実証するプロジェクトを立ち上げる。
> 興味のある方は応援してくれ。
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Re: 秋津島宮の関連施設が出土している
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000254M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000254_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000254_3M.jpg
曲学の徒さん、秦野さん、キシさん
こんばんは。都内に出かけてました。
秋津遺跡について情報ありがとうございます。
> 秋津遺跡から特異な遺構が出土していることはご存知と思う。
> 橿考研はこの遺構の年代を四世紀前半とする。
> だが私はそこから出土している多孔銅鏃などの年代から、三世紀前半にさかのぼると考えている。
> ここは秋津嶋宮の伝承地である。秋津島宮もしくはその関連施設であっても不思議は無い。
> そして秋津島宮は六代孝安の宮である。私は「男弟ありて佐けて国を治む」とする男弟は孝安と考えている。
> 秋津島宮は卑弥呼の王宮でもある。
ひとつ方位ライン面から、情報提供できます。
この秋津遺跡から東300メートルほどの地点から、北東52度角方向にて、纏向石塚古墳へ至る方位ラインが、考安天皇陵の南部(曲学さんご指摘の円丘部分)、威徳天皇陵、畝傍山、耳成山を通過することがわかります。耳成山は秦野さんも注目されているそうですね。先ほど秦野さんの著作読み終えました。
またそのライン周辺に、神武・綏靖陵もあるので、何らかの関連伝承による位置推定なのではないかと感じます。
詳細は図を添付しますのでご確認ください。
あともうひとつ情報提供できるとすると、前述の偏磁曲線の関係で、この遺跡が磁北を10〜15度、西に傾けていることがあります。
先述の偏磁曲線つまり方位磁針との兼ね合いを感じますが、秋津遺跡の各住居の立替時期と、その向きとの対応関係が出てくれば、あるいは年代推定も可能になってくるのではないかと感じます。後代の方位磁針を使った住居建築の事例では、時代とともに、その角度が変化することが知られています。
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奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000255M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000255_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000255_3M.jpg
ちょっと徹夜して、奈良の古墳と遺跡を結んだ方位ライン図を作成してみました。
先の秋津遺跡の関連も理解しやすくなると思います。
東西10・5キロ、南北12・7キロ(斜め16.0)の四方区画になります。
10・5キロは先に論議したように里:420/4の漢尺です。
55度角の直角三角形も、先の九州の遺跡方位ラインの角度と同じですので、緯度と太陽の関連で測量したのかもしれません。
奇しくもキシが下記でご指摘いただいた10:12の曲尺関連と一致してきます。
巣山古墳、崇神陵の東西ラインをはじめとして、メスリ山古墳、宮塚古墳、マキムク石塚古墳、そして秋津遺跡を載せたラインですので、おそらくそれらの遺跡年代以前に作成されたものと感じます。
ご指摘の孝安陵等もラインに載ってくるでしょうし、後代の石舞台や飛鳥の宮関係も載ってくることを考慮すると、そのラインに乗る畝傍山・耳成山・甘糟丘と関連づけられて伝承された可能性を感じます。
下記ご指摘の秋津(宮)遺跡の中心部の位置は、これらの方位ラインのどれかに乗ってくると感じますので、よろしくご参照ください。後日もう少し誤差を修正した図をご提供いたします。
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Re: 奈良の方位ライン図
管理人さんへのお返事です。
おみごと、日本神話に入りたいぐらいです。
アマテラスは日本神話で、・・。
注)仁徳陵-伊勢神宮の方位ラインの仁徳陵は年代が合わないので堺の辺りに
方位にあたる遺跡が存在する。
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「指南亀」 戦国時代(紀元前5世紀末以降)
http://8906.teacup.com/toraijin/bbs
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000259_3M.jpg
管理人さんへのお返事です。
堺の方位ラインの位置がほぼ狭山池になりそうだ。狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮
ほぼ106kmになる。
秦野も遺跡方位ラインを引きました。管理人さんとほぼ同じで斜め16.0km:300里になる。
ラフに引くと東西:200里、南北:250里、斜め:320里どうも1km程度の誤差が出る。
> ちょっと徹夜して、奈良の古墳と遺跡を結んだ方位ライン図を作成してみました。
> 先の秋津遺跡の関連も理解しやすくなると思います。
>
> 東西10・5キロ、南北12・7キロ(斜め16.0)の四方区画になります。
> 10・5キロは先に論議したように里:420/4の漢尺です。
>
> 55度角の直角三角形も、先の九州の遺跡方位ラインの角度と同じですので、緯度と太陽の関連で測量したのかもしれません。
>
> ご指摘の孝安陵等もラインに載ってくるでしょうし、後代の石舞台や飛鳥の宮関係も載ってくることを考慮すると、そのラインに乗る畝傍山・耳成山・甘糟丘と関連づけられて伝承された可能性を感じます。
>
> 下記ご指摘の秋津(宮)遺跡の中心部の位置は、これらの方位ラインのどれかに乗ってくると感じますので、よろしくご参照ください。後日もう少し誤差を修正した図をご提供いたします。
>
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Re: 奈良の方位ライン図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000260M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000260_2M.jpg
秦野北斗さんへのお返事です。
> 堺の方位ラインの位置がほぼ狭山池になりそうだ。狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮
> ほぼ106kmになる。
>
> 秦野も遺跡方位ラインを引きました。管理人さんとほぼ同じで斜め16.0kmは300里になる。
>
お返事ありがとうございます。私のほうで使用しているものは、電子地図データなので、距離・方位ともにほぼ間違いありませんので、確認しなおさなくても大丈夫です(^_^)
ただ、ご指摘の仁徳→伊勢間の遺跡や尺・距離関係は重要ですね。
尺度的には、今回の四方区画の距離は、九州の四方区画と同様に前漢時代あたりの尺度で、楽浪・秦韓移民系のそれと感じます。
また以前お知らせした九州の四方区画に比して、やや南北の比率が短くなっています。角度が2度くらい変化しており、これはもしかすると先に論議した周碑算径の件で、基準とする緯度によって、できあがってくる影の長さが変化することと関係するのではないでしょうか。九州のほうが奈良に比して、やや南に位置しているので、南北に長く伸びたのかもしれません。
ただ、確かに畿内説を考慮すると、邪馬台国の中心地やヒミコの墓が、これらのラインの上にあってもおかしくはないのかもしれませんが、問題はこれらの四方区画の遺跡の年代ですね。崇神陵・巣山古墳・メスリ山・宮塚・秋津遺跡等は、どれも4世紀代です。
おそらく、同時期に一気に計画して、四方に古墳を作り出した可能性を感じます。後代の関東の八角墳と方位ラインの関係で同様な事例があることは、会報で記載しましたが、今まで通説のように、大和→・・馬見→・・・というふうに、王朝や王宮が順に地域を変えて交代していったという段階説だけでは、理解しがたいように感じます。非常に計画的に古墳が配置されています。
3世紀代にこの方位ラインをもっていくとしたら、やはり同じ方位ライン上に乗るマキムク遺跡との関係を確認していくしかないでしょう。
ただ3世紀代のラインについては、奈良には別に存在している件も会報で紹介したとおりですが、下記に添付しておきます。桜井茶臼山→崇神陵→中山大塚→椿井大塚山へ向かう方位ラインです。
この方位ラインは、北から数度西に傾いた、いわゆる指南魚つまり方位磁針を使用したタイプの設計をしています。
それに対して、今回取り上げた四方区画は、きっちり東西南北を計ったもので、測量方法に相違があります。
ただ秋津遺跡の住居角度には、やはり偏角ができていますから、マキムク遺跡の同様な偏角を持つ住居跡と共通性があります。
もともと2つの測量方法をしっていて使い分けをしていたのか?あるいは4世紀台から使い分けができたのか?その辺も課題です。
あと、添付していなかった秋津遺跡周辺のラインの拡大図を添付しておきます。
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Re: 奈良の方位ライン図
管理人さんへのお返事です。
狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮、桜井茶臼山→崇神陵→中山大塚→椿井大塚山へ向かう方位ラインは日本神話、徐福伝説にかかわる方位と場所になります。桜井茶臼山→椿井大塚山の延長が小浜に抜けます。狭山池-畝傍山-伊勢神宮内宮の方位ラインで狭山池から日本海側へ引くと小浜に行き着きます。これらは小浜ラインになる。壮大な日本神話になります。しかし、方位ラインは凄いですな。ちなみに卑弥呼の墓、耳成山は高さでピラミッドより7m低いが世界最大の墓だろう。
仁徳天皇陵古墳 全長486m、 高さ35.8m
クフ王のピラミッド全長230m、 高さ146m
秦の始皇帝陵(中国)全長350m、 高さ76m
卑弥呼の墓 全長 500m、 高さ139m
http://www.city.sakai.lg.jp/city/_rekibun/mozu/ancient/index.html
> ただ3世紀代のラインについては、奈良には別に存在している件も会報で紹介したとおりですが、下記に添付しておきます。桜井茶臼山→崇神陵→中山大塚→椿井大塚山へ向かう方位ラインです。
>
> この方位ラインは、北から数度西に傾いた、いわゆる指南魚つまり方位磁針を使用したタイプの設計をしています。
>
> それに対して、今回取り上げた四方区画は、きっちり東西南北を計ったもので、測量方法に相違があります。
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