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Yahoo!知恵袋 名Q&A集

1Hart Bel:2022/08/04(木) 03:49:28


Q:
フランス語ができる方にお尋ねします。英語よりもフランス語の方が簡単だと思う点を挙げていただけないでしょうか。

私自身は発音、綴り字の読み方の点でフランス語の方が簡単だと思います。
また、フランス語は必要語彙が少ないと聞きますが、一方で1つの単語に複数意味があって覚えにくい、という話も聞きます。この点はいかがでしょうか。単語数が少なくて1つの単語に意味が複数あるほうが楽か、それとも意味ごとに単語が異なっている方が楽なのか。

語彙の点も含め、総合的に見てフランス語の方が楽だなと思った点を色々挙げていただけるとありがたいです。

フランス語の方が英語より難しい点については質問の対象としておりませんので、今回の回答に含めることはご遠慮いただければと存じます。


A:
発音に関しては、小さい時から英語に親しんでいて 発音の上手な人と、英語の発音を疎かにしていて 下手な人が口を揃えて「フランス語の方が発音が難しい
」と言うんです。でも、当然 両者が理由は違います。

さて、animalとい単語ですが、これは 英語もフランス語もスペルが同じで、意味もほぼ一致します。

ところで、↓の動画の 5:48頃をお聴きください。

www.youtube.com/watch?v=QpcmwopGDxw&t=357s

動画の女性は animalを「アニマる」と、ほぼスペル通りに発音しています。
でも、英語だと 発音記号では【ˈænəm(ə)l】で、むしろ「エナモ」みたいに聞こえます。

ja.forvo.com/search/animal/en/

ちなみに、こちらが フランス語の発音です。

ja.forvo.com/search/animal/fr/

つまり、↑の動画の女性は 後者に属し、ホントは難しい英語の発音を認識していないということになります。
しかし、英語の学習サイトなのに、フランス語に近い発音というのも 何とも皮肉ですね。

・・・・・・

wan********さんに代わって フランス語の方が文法がしっかりしている点を挙げます。

例えば、次の英文です。

① I must go out today.

ここで、todayをyesterdayに変えて過去形にしてみます。mustには過去形がないので、have toに置き換え、これを過去形にします。

② I had to go out yesterday.

次は todayをtomorrowに変えて 未来形にしてみます。

③ I will have go out tomorrow.

それでは、今度は 否定形です。mustの否定形は禁止を現します。

④ I must not go out today.

これも、 todayをyesterdayに変えて 過去形にしてみます。 これも、mustをhave toに変えて... ちょっと待って、have toの否定形は mustと違って禁止を現さないので どうしよう?

⑤ I didn't ・・・ go out yesterday.

それじゃ、todayをtomorrowに変えて 未来形に....

⑥ I will not ・・・go out tomorrow.

困っちゃったなあ....
でも、フランス語なら 何ら悩む必要がありません。

① Je dois sortir aujourd'hui.
② J'ai dû sortir hier.
③ Je devrai sortir demain.
④ Je ne dois pas sortir aoujourd'hui.
⑤ Je n'ai pas dû sortir hier.
⑥ Je ne devrai pas sortir demain.

ちなみに、kam********さんは フランス語もロクに知らないし、↑の英語の問題も解けないはずです。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11265701181

680Hart Bel:2025/06/21(土) 04:38:48
Q:
英語の学び方について考えていると、実は学ぶ側の資質以上に「教え方の違い」が成果に大きく影響しているのではないか、と思うことがあります。
どんな分野でもそうですが、教え方によっては、学習初期に手応えを感じやすくなる一方で、ある地点を境に伸び悩むこともあります。逆に、最初は地味でも、後になって大きく実力が伸びていくような指導法も存在します。

そこで、例えば、テニスを教える教室がAとBの2つあるとします。B教室のインストラクターの方がテニスの腕は はるかに上です。そこで、AとBの教室に同時期に入会した生徒たちがおります。最初のうちは A教室の生徒たちの方が上達が速く、A教室とB教室の生徒たちに対抗試合をさせたら、A教室の生徒たちの方が強かったのに、ある時期を境に、逆転してしまいました。テニスだけでなく、他のスポーツや 楽器なんかも 似たようなことが多々あると思います。そして、それは 英語にも同じことが言えるような気がします。

さて、↓のサイトをご覧ください。

makki-english.moo.jp/1howtotranslate.html

このサイトでは、徹底して 直訳とスラッシュリーディングに拘っています。一部頷ける点もありますが、首を傾げる箇所が多いです。

① 速読と精読は必ずしも対立するものではないのでは?
② 英文を和訳するのは 手段の1つであって 目的ではないのでは?
③ 直訳できるだけでは 英文を理解しているとは言えないのでは?
④ スラッシュリーディングは 第2外国語の裏技としては有効かもしれませんが、私たちにとって初めての外国語である英語には向かないのでは?
⑤ 英語を習う側よりも、教える側の方が 和訳に頼る傾向にあるのでは?
⑥ 文法重視で 発信型の傾向が強くないでしょうか?
⑦ 英語にカナを振るのは 邪道ではないか?

自分の中では 違和感を感じるものの、またはっきり纏まっていません。
そこで質問ですが、英語学習においても、最初に「直訳・スラッシュリーディング」を徹底するA教室型の学び方と、文脈や感覚も含めて自然に理解するB教室型の学び方があるとすれば、どちらが長期的に「使える英語力」につながるのでしょうか? また、直訳偏重が、かえって英語の本質的な構造理解を妨げる危険はないのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11316350791

681Hart Bel:2025/06/23(月) 07:33:48
Q:
昨日も似たような質問を出したんですが、戴いた回答を元に再整理して 新たに質問を出させて頂きました。
さて、外国語学習において、対象外国語を自国語に訳す練習をフランス語で ヴェルシオン(version)、そして、その反対を テーム(thème)と言います。それで、日本人の英語学習なら、英文和訳が ヴェルシオンで、和文英訳が テームになります。
また、日本人のヴェルシオンとテームには 大きく3つの役割があります。

① 英語の理解度や習熟度を確認するため。
② 英会話をしたり、英語で読み書きする足掛かりのため。
③ 英日の 通訳や翻訳の練習のため。

そこで、とあるサイト(makki-english.moo.jp/1howtotranslate.html )では 英文和訳を最重要視しています。

<引用開始>
≪英語を日本語に訳す時、...気を付けて欲しいのは、英文を「直訳」することです。これは、英単語や英熟語など、1つ1つの意味を、しっかり日本語に直す訳し方です。特に、主語と動詞が何かわかるように直訳することが大切です。
英語と日本語は文章の作り方が違うので、直訳すると変な日本語になることもありますが、意味は理解できると思います。気にしないでそのまま訳してください。≫
<引用終了>

ここで、そのサイトでは ②を想定し、ヴェルシオンに関しては 時間的制約と即効性を重視するために、一貫した直訳を推奨しています。例えば "We have a lot of rain in June."という文なら「私達は6月にたくさんの雨を持っています。」と訳す徹底ぶりです。もちろん ③を視野に入れたら 全く使い物になりません。

ところで、直訳にもいろいろありますが、ここでは直訳=中学式直訳だと考えます。

I want to use your bathroom.「私はあなたの浴室を使うことを欲します。」
「あなたの家のトイレを借りたい」は意訳なのでダメです。
これを丁寧形に変換すると、
I would like to use your bathroom.「私はあなたの浴室を使うことを
好むであろうに。」(笑)
「気にしないでそのまま訳してください」の精神に則っております。

この先生は「これを(英和ペアで)(スラスラ言えるまで)暗記する」
ことを勧めてます。
そうすると、英和、和英両方向で訳できるわけです。
そして「私はあなたの浴室を使うことを欲します。」が頭に入る訳です。
しかし、英和ペアで覚えてないものが出現すると、例えば、
「お宅のトイレを拝借してもよろしいですか?」
みたいな日本文に遭遇すると、
"May I borrow your house's toilet?"みたいにやりかねません。
先生の添削を受けなければ、これでいいと思い込む可能性が高いです。

この先生のお勧め英和ペアをたくさん覚えてるので、
「私はあなたの浴室を使うことを欲します。」が出て来ないかな、
出て来たら瞬時に訳してやるのに!と待ち侘びてたりもします。
しかし、そんな日本語は10年や20年では出て来ないでしょう(笑)
そうして、ここで ヴェルシオンとテームの非対称性ができてしまい、英語学習として かなり いびつなものになってしまっております。

そこで質問ですが、
このように、徹底した「中学式直訳」によるヴェルシオンばかりを繰り返すことで、確かに「英文の構造をそのまま捉える力」は鍛えられるかもしれませんが、いざテーム――つまり自然な日本語から自然な英語に訳す場面では、その訓練がかえって足かせになったり、誤訳の温床となることはないのでしょうか?
また、英語運用力の育成という観点から見たとき、ヴェルシオンとテームの練習量や方法のバランスは、本来どのように考えるべきなのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13316506888

682Hart Bel:2025/06/23(月) 20:43:19
Q:
英語を学ぶ際、つい単語ごとに一対一で意味を対応させようとしてしまいますが、それがかえって訳文の不自然さを生む原因になることも少なくありません。
特に「choose」のような日常語は、文脈によって多様なニュアンスを帯びるため、表面的な意味だけでは捉えきれないことがあります。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。さて、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。
そこで、次の英文です。

e① "The parrot chose to attack my ear."
e② "Why did you choose to say such a thing to her?"
e③ "What hole will you choose?"

諭吉なら、「エゲレス語の chooseは 蘭語で kiezenと言ふなり」という感じで すんなり訳せたでしょう。

n① "De papegaai koos ervoor om mijn oor aan te vallen.”
n② "Waarom koos je ervoor om zoiets tegen haar te zeggen?”
n③ "Welk gat zul je kiezen?"

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

j①「オウムのヤツ、どこをって、耳を攻撃して来た。」
j②「なんで、わざわざ、彼女にそんなこと言ったの?」

ここで、choose=選ぶ と訳していては しっくり来にくいかと思います。
そこで質問ですが、「choose」を常に「選ぶ」と直訳せずに、文脈に応じて柔軟に訳すためには、どのような発想の転換や言い換えの工夫が必要だと思われますか?また、そのためには英文のどこに着目すべきなのでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10316631335

683Hart Bel:2025/06/25(水) 20:38:30
Q:
6月といえば雨。雨といえば梅雨。そして梅雨といえば、外では傘を、家では湿気対策を、そして中学の英語の授業では「飴、もとい、雨を持つ」練習を始める季節です。
飴でも舐めながら気長にやりましょう、ということなのでしょうか。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。
そこで、例えば、次の文です。

j①「こちらでは6月は雨が多いです。」

諭吉なら、先ずは オランダ語に訳してみたでしょう。

n② "Het regent hier veel in juni."
n③ "We hebben veel regen in juni."

そして、これらを英語に直訳すれば、そのまま正しい英語になります。

e② "It rains a lot here in June."
e③ "We have a lot of rain in June."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、直接 英訳するしかありません。そこで、例えば とあるサイト(makki-english.moo.jp/1howtotranslate.html )では オランダ語のように 直訳すれば、そのまま正しい英語になるように 予め 日本語をデフォルメする方法を推奨しています。

j②「6月には、ここではたくさん、雨が降ります。」
j③「私達は6月にたくさんの雨を持っています。」

ここで 傑作なのは 何と言っても j③です。そのサイトでは このように直訳しておくと、「We have rain.」という、英語らしい英文が、すぐに頭に浮かぶようになると思います と書いていますが 甚だ疑問です。

そこで質問ですが、「雨を持っている」という不思議な日本語を脳内で経由しないと出てこない英語表現って、果たして“自然に話せる英語”と呼べるのでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14316713609

684Hart Bel:2025/06/25(水) 22:49:51
Q:
素人の英語学習サイトには、ときに“オブセッション”と呼びたくなるようなこだわりが見られます。「have=持っている」もその一例です。
辞書に書いてある意味を忠実に守ろうとするあまり、言葉が本来持つ柔軟さや文脈による意味の揺れを無視してしまう――これはもう、ただの翻訳の問題というより、“意味の呪縛”と言ったほうがよいかもしれません。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。
そこで、例えば、とあるサイト(makki-english.moo.jp/1howtotranslate.html )から 英文を拝借しました。

① "We have a lot of rain in June."

諭吉なら 日本語よりも 次のように オランダ語に訳した方が分かりやすかったでしょう。

② "We hebben veel regen in juni."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③ 「私達は6月にたくさんの雨を持っています。」

ここで、"We have rain."=「私たちは雨を持つ。」はオブセッションになります。
こう覚えた子供は、受動態を習う時に、
"A lot of rain is had here in June."とやらかします。
「持つ」ことができるのはrainだけじゃありません。
"We have a beautiful rainbow this morning."
「今朝、私たちは美しい虹を持ってます。」
また、
"They had an earthquake there."だと
「彼らはそこで1つの地震を持った。」とやらかします。
"We had a big tornado."だと
「私たちは大きな竜巻を持った。」です。
自然現象のみか、
"I had a quarrel with her."
「彼女と一緒に喧嘩を持った。」になります。

このように、「have」を「持っている」と杓子定規に覚えてしまうと、自然現象から人間関係まで、あらゆる状況がちぐはぐな表現になってしまいます。英語の「have」が持つ意味の広さや、文脈によるニュアンスの違いを捉えきれていないがゆえの、なんとも言えない「珍訳」が生まれてしまうのです。

そこで質問ですが、このような「have」の誤解を招かないために、日本の英語教育において、どのようなアプローチが考えられるでしょうか? 特に、子供たちが早い段階で「have」の多様な意味と使い方を自然に習得できるよう、具体的な指導法や教材の工夫があれば教えていただけますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12316734557

685Hart Bel:2025/06/26(木) 15:51:01
Q:
あなたには、得意な歌ってありますか?
ふと気分が乗ったとき、つい口ずさんでしまう一曲――そんな“いつもの歌”を持っている人も多いのではないでしょうか。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。
そこで、例えば、次の文です。

j①「彼女は歌が上手です。」

諭吉なら、先ずは オランダ語に訳してみたでしょう。

n② "Ze is goed in zingen."
n③ "Ze zingt goed."

そして、これらを英語に直訳すれば、そのまま正しい英語になります。

e② "She is good at singing."
e③ "She sings well."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、直接 英訳するしかありません。そこで、例えば とあるサイト(makki-english.moo.jp/1howtotranslate.html )では オランダ語のように 直訳すれば、そのまま正しい英語になるように 時には 日本語を予め調整する方法を推奨しています。

j② 「彼女は歌うことが得意です。(上手です)」
j③ 「彼女は上手に歌います。」

ここで、そのサイトによると、e③をj①のように訳すと、意訳になってしまうそうなのです。動詞がsings「歌います」をちゃんと訳していないからだそうです。もし直訳する癖をつけておかないと、文章が複雑になった時、英文の構造も意味も理解できなくなってしまう生徒を多く見てきており、英作文をする時も、直訳した日本語からならば、割と簡単に英文を作ることができるそうなのです。
しかし、日本語として j②はまあいいとして、問題は j③です。この日本語からは
彼女が どんな歌をいつ歌うのか 甚だ不完全な印象を与え、意味が 非常にぼやけてしまっております。でも、e③は 彼女は 歌全般が上手いことを示しています。

そこで質問ですが、e③のような シンプルな英文でも、それを直訳しようとすると意味がぼやけたりすることがあります。このように、安易な直訳では正確な意味が伝わらないリスクがある中で、学習者はどの程度“自然な訳し方”と“原文の忠実さ”のバランスを意識すべきなのでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11316747396

686Hart Bel:2025/06/26(木) 18:06:30
Q:
「ニュース」といえば、私たちが日々目にする情報のかたまりですが、その受け取り方一つで言葉の使い方にも大きな差が出るものです。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは 英作文にも オランダ語の知識を駆使したと思われます。
そこで、例えば、次の文です。

☆「そのニュース聞いて、嬉しかったよ。」

諭吉なら、先ずは オランダ語に訳してみたでしょう。

e① "Ik was blij om het nieuws te horen."
e② "Het nieuws maakte me blij."

そして、これらを英語に直訳すれば、そのまま正しい英語になります。

e① "I was happy to hear the news."
e② "The news made me happy."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、直接 英訳するしかありません。そこで、例えば とあるサイト(makki-english.moo.jp/1howtotranslate.html )では オランダ語のように 直訳すれば、そのまま正しい英語になるように 時には 日本語を予めデフォルメする方法を推奨しています。

j① 「私はそのニュースを聞いて嬉しかった。」
j② 「そのニュースは私を嬉しくさせました。」

ここで、そのサイトでは j②は 日本語に直訳すると少し不自然ですが、とても英語らしい表現です、直訳をしておけば、その日本語から英文を作ることは、それほどむずかしくありません、初めから意訳をして欲しくない理由です と書いています。
しかし、英語を話すのに なぜ 和文英訳が必要なのか 疑問です。つまり、どうして、必ず 日本語から英語を起こさなければならないのか 疑問です。

そこで質問ですが、日本語から無理に英語をひねり出す訓練が、果たして実用的な英語力の育成に繋がるのでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12316754102

687Hart Bel:2025/06/26(木) 20:00:51
Q:
英語の発音が上手くなるためにはどのようなことを意識するべきなのでしょうか

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11316741091

688Hart Bel:2025/06/27(金) 05:55:59
Q:
「ねぇ、今日ちょっと元気ない?てか、さっきから3回あくびしてるの見逃してないからね?
」――そんなふうに、休み時間に友だちを気づかうことって、ありますよね。でも、その一言を英語で言おうとした瞬間、こっちまで“脳みそ休憩中”になったりして…。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは 英作文にも オランダ語の知識を駆使したと思われます。
そこで、例えば、次の文です。

☆「君には、いくらか休憩が必要だ。」

諭吉なら、先ずは オランダ語に訳してみたでしょう。

n① "Je hebt wat rust nodig."
n② "Wat je nodig hebt is wat rust."

そして、これらを英語に直訳すれば、そのまま正しい英語になります。

e① "You need some rest."
e② "What you need is some rest."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、直接 英訳するしかありません。そこで、例えば とあるサイト(makki-english.moo.jp/1howtotranslate.html )では オランダ語のように 直訳すれば、そのまま正しい英語になるように 時には 日本語を予めデフォルメする方法を推奨しています。

j① 「あなたは、いくらかの休憩が必要です。」
j② 「あなたが必要としているものはいくらかの休憩です。」

ここで、 j①は 「〜は〜が・・・」という形の 所謂「ハガ構文」で、日本語では二重主語の文になります。↑のサイトの主自身が、「特に、主語と動詞が何かわかるように直訳することが大切です」と言っておきながら、日本語の訳文だけを見ると、「あなた」と「いくらかの休憩」のどっちが主語なのか分かりませんし、動詞も不在です。まあ、ここでは 元の英文は「あなた」が主語になっていますが、もし、「いくらかの休憩」が主語になるなら、元の英文は

e#① "Some rest is necessary for you.”

となるはずです。また、j②に対する英語の直訳は

e#② "It's some rest that you need."

とも考えられます。

そこで質問ですが、こうした「英語に直訳しやすくするために日本語をデフォルメする」手法は、本当に言語運用力の向上に繋がるのでしょうか。むしろ、日本語として不自然な文に慣れてしまうことで、かえって思考や表現が歪められるリスクはないのでしょうか。私たちは、自然な日本語を土台にして、正しい英語構文を学ぶことはできないのでしょうか。みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10316770585

689Hart Bel:2025/07/01(火) 09:28:22
Q:
親の引退にともない、退職して 家業を引き継ぐ――そんな場面は日本でも珍しくありませんが、英語ではこの出来事をわずか一文でさらりと描写してしまいます。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です。

① "Sally quit her old job to work at her family's business. She took over for her mother, who retired."

諭吉なら 次のように 日本語よりも オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

② "Sally gaf haar oude baan op om in het bedrijf van haar familie te gaan werken. Ze nam het over van haar moeder, die met pensioen ging."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③ 「サリーは、ファミリービジネスで働くために今までの仕事を辞めました。彼女は引退した母親の仕事を受け継ぎました。」

ここで、「, who retired.」 ですが、和訳では"彼女は引退した母親の仕事を受け継ぎました"となっていますが、実際はカンマで区切っているから "彼女は母親の役目を引き継いだ、ちなみに母親は引退しました"と言っているわけだと思います、英語として自然なのかもしれませんが、日本語として考えると不自然に感じてしまいます という人もいるでしょう。

そこで質問ですが、
このように、英語の「, who retired.」のような構文は、日本語の語感とは異なる文の運び方をしますが、私たちはこの“言い回しのズレ”をどう捉えるべきなのでしょうか? 英語の自然さを尊重するあまり、日本語としての自然さを犠牲にしても良いのか、それとも、訳文はあくまで日本語としての読みやすさを優先すべきなのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12316926452

690Hart Bel:2025/07/01(火) 18:05:03
Q:
「私の妻が出産した」と言えば平和な日常の報告ですが、「愛人が出産したのに妻が元気そう」となると、いきなり波乱含みの物語が始まります。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって初めての、そして、半数強の人にとっては唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えば オランダ語が主流だったのは みなさん ご存知かと思います。

それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を習得していて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も小さく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、とあるサイト(makki-english.moo.jp/5relativepronoun5.html )から英文を拝借しました。

① "My wife, who was delivered of a boy yesterday, looks well now."

諭吉なら、日本語よりも 次のように オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

② "Mijn vrouw, die gisteren bevallen is van een jongetje, ziet er nu goed uit."

ところが、明治になると オランダ語は途端に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③ 「私の妻、そして彼女は昨日男の子を出産したのですが、今、元気そうに見えます。」

ここで、「私の妻、そして彼女は…」
素直に読むなら、
「私の妻と愛人が同日出産!」と取れますよね(笑)
これはおかしい!と思ったら、考え直して、
「彼女(愛人)が出産したけど、妻は平気で元気!」
と取れます(笑)
この訳で「妻=彼女」と取るのは、そのサイトの主と価値観をシェアする
人でけでしょう(笑)
「父親が誰か?」ならありきたりですが、
「出産したのは誰か?」は革命的推理小説になりますよ!(笑)
まるで関係詞が一つ狂っただけで「家庭円満→修羅場→推理小説」と展開してしまうこのスリリングさ、英語学習とはかくも命がけなのでしょうか(笑)。

そこで質問ですが、関係詞を含む英文を自然な日本語に訳す際、「私の妻、そして彼女は…」のような“二重主語”にならないコツや、訳出の呼吸を整えるポイントがあれば、ご教示いただけないでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10316946820

691Hart Bel:2025/07/03(木) 09:48:15
地域の魅力を海外の方々に発見してもらう方法として、無料の半日ツアーを企画し、その内容を英語で案内するという取り組みは、近年さまざまな自治体で見られるようになってきました。
英語による情報発信は、単なる翻訳にとどまらず、文化や価値観の違いを乗り越えて魅力を伝えるための工夫が求められます。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは 英作文をするにも オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の文です。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6advertisement.html )から拝借しました。

① 「私どもA市役所は、日本人ではない方々に、A市の魅力を知って頂きたいので、次のように、無料の半日ツアーを計画しました。もしあなたが計画に興味がありましたら、どうぞ遠慮なく私どもにご連絡ください。」

諭吉なら、先ずは オランダ語に訳してみたでしょう。

② "Omdat we graag willen dat overzeese bezoekers de charme van Stad A ontdekken, hebben we de volgende gratis excursie van een halve dag gepland. Als het plan je interesseert, aarzel dan niet om contact met ons op te nemen."

そして、これを英語に直訳します。

③ "Since we wish overseas visitors to discover the charm of the City A, we have planned the following free half-day excursion. If the plan interests you, don't hesitate to contact us."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、直接 英訳するしかありません。

④ "As we would like non-Japanese people to know the charm of A city, we, A City Office, have planned a half-day tour free of charge as follows. If you are interested in the plan, please feel free to contact us. "

そこで質問ですが、"non-Japanese people" という表現は、英語として一般的によく使われるのでしょうか。また、"we, A City Office" のように、1人称複数と3人称単数が混在する形で主語を立てることは、英語として許容される構文なのでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14316828389

692Hart Bel:2025/07/03(木) 11:23:13
Q:
東京近郊、みずみずしい緑に囲まれた街へ、急行電車に揺られて梨狩りに出かける――そんな旅情あふれる一文を英語に訳そうとすると、思わぬ表現の壁にぶつかることがあります。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは 英作文をするにも オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の文です。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6advertisement.html )から拝借しました。

①「A市は、みずみずしい緑に囲まれ、おいしい梨で知られています。
すがすがしい環境だけでなく、B駅で交わる3つの鉄道のため、とても便利です。もし(あなたが)急行電車に乗れば、(あなたは)50分以内に東京に行くことができます。」

諭吉なら、先ずは オランダ語に訳してみたでしょう。(この時代に 鉄道なんて まだ走ってなかっただろ という突っ込みは ご勘弁ください)

② "De stad A wordt omringd door weelderig groen en staat bekend om zijn smakelijke nashi-peren. De stad heeft niet alleen een verfrissende sfeer, maar is ook gemakkelijk bereikbaar dankzij drie spoorlijnen die aftakken op station B. Met een sneltrein kun je Tokio in ongeveer drie kwartier bereiken."

そして、これを英語に直訳します。

③ "The city A is surrounded by lush greenery and is known for its tasty nashi pears. Not only does the city have a refreshing atmoshere, it is easily accessible thanks to three railway lines branching off at the station B. Taking a rapid train, you can get Tokyo about three quaters of hour."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、直接 英訳するしかありません。

④ "A City is surrounded with lush greenery and is known for its good Nashi pears. As well as refreshing environment, it is very convenient because of three railways intersecting at B Station. You can get to Tokyo within 50 minutes if you take a rapid train."

ここで、as well asの使い方が間違っています。それと convenientも少し違います。そこで 質問ですが、「as well as」や「convenient」のように、つい日本語感覚で使ってしまいがちな表現については、どのように学ぶのが効果的だと思われますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14316822434

693Hart Bel:2025/07/03(木) 11:44:34
Q:
鳥になりたい」と言えば、ロマンチックに聞こえるかもしれませんが――なってみたら意外とニワトリだった、なんてこともあるんです。空を自由に飛ぶつもりが、朝4時にコケコッコー。
そんな落とし穴を踏まえつつ、「If I were a bird」の“鳥”がどんな鳥かをめぐる、言語の大喜利がここに始まります。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、とあるサイト(makki-english.moo.jp/5subjunctive1.html )から英文を拝借しました。

"If I were a bird, I could fly to him."

諭吉なら 次のように 日本語よりも オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

“Als ik een vogel was, zou ik naar hem toe kunnen vliegen.”

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。そのサイトでは「今」を挿入しています。

「もし私が今鳥であったなら、私は今彼の所に飛んでいけるのになあ。」

という「イマイマしい」訳ですが、
この「今、今」コンビもどんな災難をもたらすか、怖いです。

仮定法過去完了だと、
"If I had been a bird, I could have flown to him."
「もし私がかつて鳥だったら、かつて彼の所に飛んでいけたのになあ。」と
とんでもなく勝手勝手な訳になります。

これがもしも仮定法未来であれば、
"Should I be a bird, I could fly to him."
「もし私が近々鳥になれれば、近々彼の所に飛んでいけるのになあ。」と
耳がキンキンしそうな訳になります。

もうお気づきと思いますが、
この様なテクニックを用いた訳は、訳のみが毒を含んでるのみならず、
翻訳依頼者も、その翻訳を読む人間にも、毒が回るんです。
こんな訳を見てて、まだなにかあるぞ!絶対にタダでは済まんぞ!と
思ってると、ここでいう「鳥」が「ニワトリ」であった、なんて
アンチクライマックスがついてたりもするんです!(笑)

そこで質問ですが、あなたならこの仮定法の「鳥」、いったい何の鳥だと思って訳しますか? ハトですか?ワシですか?それとも…やっぱりニワトリ? そして、訳すときに「今」や「かつて」などの時間マーカーをどこまで許容しますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317001866

694Hart Bel:2025/07/06(日) 04:16:38
Q:
英語の haveには 色んな意味があります。それで、代表的な訳語は「持っている」ですが、これは ほんの一部をカバーしているにすぎません。そこで、例えば 次の英文です。
とあるサイト(makki-english.moo.jp/2imperative.html )から英文と和訳を拝借しました。

≪ Have a nice day.
良い1日を持ってください。≫

そこで質問です、
「Have a nice day.」を文字通り「良い1日を持ってください」と訳すのは面白いですが、もし誰かが本気で「持つ」ことにこだわったら、
添付の画像みたいなこと 想像しちゃいますよね。みなさんは どう思いますか?

A:
"Have a nice day."を「良い1日を持ってください。」と訳す人は、
添付画像みたいにしか想像できない人に出会うと、まさに、
我が意を得たり!と感じ、打ち解け、親友になると思います(笑)

"We have a lot of rain."についても、
「そうだよね『雨が多い』でなくて『多くの雨を持ってる』だよ!」
とhave論議に花が咲くでしょう。
徹夜で話し込むかもしれません。

そういう人種は「have=持つ」を信奉し、内容は二の次なので、
"How many eyes do you have?"
なんて質問を平気でし、何か悪いことを言ったとは思いません。
片方が義眼のピーター・フォークみたいな人にこの質問をしてはいけない
なんてことには一生、思い当たりません。

こちらは同じ人種でないとしても、続けて
"Have a safe journey!"と感嘆符つきで言われ、なおかつ、
「安全な旅行を持ってください」と解説されると、
一瞬、それってお菓子の空箱に入ってるのか?それとも、
電池レンジで温めて食べる物か?迷ったりします(笑)
その一瞬が過ぎると「もしかして、可哀想な人?」と思います。
また、have a nice day, a lot of rain, two eyes, a safe journeyとこれだけ
多いと、「全部持ち切れるんですか?」と尋ねたくなります(笑)
でも、相手の目がすわってるのを確認すると、
「そんなこと尋ねてはいけない!」と自制します。

これは私だけの反応でなく、世の中の大多数の人の反応だと思います。
なので「良い1日を持ってください。」と言われても、
わざわざダメ出しなどせず、黙ってます。
この人のために、誰か勇気のある人、隣人思いの人が出現し、
「良い1日を持つ?でも、それって冷凍保存きくんですか?」とか
「どこのコンビニで売ってますか?」ぐらい
言ってあげることを心から願っております。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317098291

695Hart Bel:2025/07/06(日) 10:20:31
Q:
英語を学んでいると、「騒がしい」は noisy、「内気な」は shy だと教わるものの、それが実際の英文の中で “Don't be 〜” のような形で出てくると、
ただの語彙の知識では対応しきれないと感じることがあります。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です。とあるサイト(makki-english.moo.jp/2imperative.html )から 英文と その和訳を拝借しました。

e① "Don't be noisy."
e② "Don't be shy."

諭吉なら 「エゲレス語の "Don't be〜"は "Wees niet〜"と蘭語に譯せるなり」という感じて 呑み込みも早かったでしょう、

n① “Wees niet luidruchtig.”
n② “Wees niet verlegen.”

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

j① 「うるさくしてはいけません。」
j② 「恥ずかしがらないで!」

ここで、beは英語で最も重要な動詞でありながら、日本語の動詞に対応しないことの方が多く、ここでは 命令形になっており、しかも 否定です。そして、そのサイトの主は 直訳を金科玉条にしておきながら、ようやく 直訳を断念した珍しい例です。というのは 「noisy=ノイズィー =騒がしい」、「shy=シャイ =内気な、はにかんだ」と 解説しておきながら、和訳には それらの訳語が現れていないからです。

そこで質問ですが、"Don't be 〜" のような構文に出会ったとき、英語学習者はまず構文そのものを捉えるべきなのか、それとも意味の自然な理解を優先すべきなのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12317107967

696Hart Bel:2025/07/06(日) 18:10:22
Q:
あなたは 彼女にデートの約束をすっぽかされたことはありませんか?
デートの待ち合わせ時間になっても現れず、すると、彼女から電話が来て、
「ごめん、お母さんが急に倒れで、デートに行けなくなったの。」
でも、後日 あなたは 彼女が他の男性とデートしていることを知り、 失望と怒りで 狂いそう.......

ところで、とあるサイト(makki-english.moo.jp/3auxverb2.html )から
英文と和訳を拾いました。

≪She could come here yesterday.

彼女は、昨日、ここに来ることができました。≫

そこで質問ですが、"She could come here yesterday." という英文は、彼女が実際に来たという事実を示しているのか、それとも「来ることができたのに来なかった」という、ある種の失望や皮肉を含んだ文なのでしょうか?

Q:
そのサイトのこの英文は文法的に間違いです。
過去の一回の行為をcouldを用いて表すことはできません。
was/were able toを使わないといけないのです。
She could come here. という文であれば、「今(から)彼女がここに来ることができれば(な)」と言ったニュアンスになります。つまり仮定法過去です。
若しくは「彼女がここに来れるかも」という推量を表します。
yesterdayを使うなら、She was able to come here yesterday. となります。
此方は、彼女は昨日実際にここに来ることができた、というニュアンスです。
つまり「達成した」ことを表しているのです。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317137911

697Hart Bel:2025/07/06(日) 21:58:31
Q:
結婚は、ある意味「状態」の変化でもあります。
それまでは独身という状態にあり、ある日を境に法的にも社会的にも「既婚者」という新たな状態に移行する——この変化は、英語の動詞の扱いにも似ているかもしれません。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です。

① "She knew that he was married."

諭吉なら 「エゲレス語の knowは 蘭語で wetenと言ふなり」という感じで 呑み込みも早かったでしょう。

② "Ze wist dat hij getrouwd was."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③「彼女は彼が結婚しているということを知っていた。」

ここで、中には なぜ「知った」っていう過去のニュアンスじゃなくて完了のニュアンスがでるのか 疑問に思う人もいるかもしれません。しかし、knowは知っているという状態を表します。I knewはすでに知っていたことを示します。

そこで質問ですが、
私たちが現在、英語の「know」のような“状態を表す動詞”に出会ったとき、それが「すでに知っていた」という意味なのか、「その時点で初めて知った」という意味なのかを、どのように文脈で判断すればよいのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14317144149

698Hart Bel:2025/07/07(月) 18:01:24
Q:
テニスと卓球は、どちらもラケットを使うスポーツですが、その雰囲気も技術もまったく異なります。
そしてこの違いは、単なる競技の話にとどまらず、言語表現にも通じるところがあるように思えます。たとえば、テニスが好きだけれど卓球は苦手という人の気持ちを、英語でどう表現するか――そんな一見単純に見える文章の中にも、翻訳の落とし穴が潜んでいます。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは 英作文をするにも オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の文です。よそのナレッジサイトの質問(oshiete.goo.ne.jp/qa/11371448.html )から拝借しました。

① 「彼女はテニスが大好きです。しかし卓球は好きではありません。なぜなら卓球ができないからです」

諭吉なら、先ずは オランダ語に訳してみたでしょう。

② "Ze houdt van tennis. Maar ze houdt niet van tafeltennis. Omdat ze niet goed is in tafeltennis."

これを 英語に直訳します。

③ "She loves tennis. But she doesn't like table tennis. Because she is not good at table tennis."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、直接 英訳するしかありません。
ここでは、No.5の方が スペルミスもなく、ある意味 忠実に訳しています。

④ "She loves tennis but she doesn't like table tennis, because she can't play it (=table tennis)."

しかし、No.8の方が仰るように、中学の課題の英作文なら 正解でしょうけど、意味的に少し変ですね。というのは、テニスのラケットをスイングして コートの中を走れる人が、卓球のラケットを握って 卓球台の前に立って構えるのが 不可能だとは考えにくいからです。ここでの「できない」は 「下手」とか「苦手」と解釈するのが妥当だと思います。

そこで質問ですが、"彼女は卓球が苦手だから好きではない"というニュアンスを、ネイティブらしい自然な英語で表現するには、どんな言い回しがふさわしいのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13317078208

699Hart Bel:2025/07/08(火) 21:50:35
Q:
日本語を学ぶ外国人にとって、最大の難所の一つは「こと」や「の」など、見た目は簡単でも意味が多層的な語句かもしれません。
単語も文法も“説明すればするほど謎が深まる”──そう感じたことのある方も多いでしょう。
日本語という言語の構造が、英語話者にとっていかに異質か。
そして、その逆もまた然りです。

ところで、日本における英語学習の先駆者と言えば、ジョン・万次郎と福沢諭吉が挙げられるかと思います。そこで、ここでは 福沢諭吉を取り上げたいと思います。
諭吉はご存じの通り、江戸時代に熱心にオランダ語を習得し、明治になって英語に鞍替えしたことで有名ですね。当時は 日本語で説明された英語の学習書は皆無だったので、諭吉たちは オランダ語で書かれた英語を学習書を使いました。そこで、英文を区切りながら、区切り毎にオランダ語に訳していきました。では、手順を見ていきましょう。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6NewspaperBlogJapaneseGrammar.html )から 英文とその和訳を拝借しました。

ここで引用する題材は 日本語の文法についての外国人のブログですが、プロセスは感じて頂けるかと思います。(予め スラッシュを入れています)

"As it’s one of the first words/ most students learn,// it can be surprising/ to discover/ just how tricky all the uses of こと in Japanese/ actually are.
While it’s in most beginner’s textbooks, //this critical particle will also be waiting for them/ when they reach the intermediate- to advanced-level Japanese, too!"

区切り毎にオランダ語に訳していきます。そのまま ほぼ正しいオランダ語になります。

"Omdat het een van de eerste woorden is/ die de meeste studenten leren,// kan het verrassend zijn/ om te ontdekken/ hoe zojuist lastig alle gebruiken van こと in het Japans/ eigenlijk zijn.
Hoewel het in de meeste leerboeken voor beginners staat, //dit kritische partikel ook op hen te wachten/ als ze Japans van gemiddeld tot gevorderd niveau bereiken, ook!"

今度は、オランダ語の部分を日本語に置き換えます。

「それは最初の言葉のひとつであるので/ほとんどの生徒が学ぶ//(次のことは)驚くべきことです/(次のことを)発見することは/日本語の「こと」の使い方がどれだけ難しいかを(発見することが)。
それは、ほとんどの初心者のテキストにあり(→載っていて)//この重大な接尾辞(=「こと」)は彼ら(=生徒達)を待っている/中級から上級レベルの日本語に到達した時にも。」

ここで、英語とオランダ語は近縁の言語同士なので、英文を区切って、区切り毎にオランダ語に訳すのは理に適っていました。しかし、英語と日本語では全く違うので、分かりにくく、英文を区切って 区切り毎に和訳していく方法は廃れてしまいました。そこで、丁寧に和訳していくスタイルが主流になるのですが、いちいち返り読みするので 時間がかかるという難点がありました。
そこで、諭吉の時代から 100年以上経った後、通訳や一部の受験生の間で 「スラッシュリーディング」という名前で この手法が復活するのですが、分かりにくいというデメリットは克服できませんでした。

そこで質問ですが、福沢諭吉が行っていたような、近縁言語間での“逐次翻訳”による学習法は、現代の英語教育にどこまで応用可能だと考えられるでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10316950310

700Hart Bel:2025/07/11(金) 09:48:05
Q:
急に英語を学びたくなりました。

もちろん基礎からやりますが、まず何からスタートした方が良いでしょうか?
単語?リスニング?その他?
あと、映画等を観るときは、字幕スーパーか、逆の日本語ボイス英語字幕か、どっちが覚えやすい、馴染みやすいでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10317255230

701Hart Bel:2025/07/13(日) 08:46:58

Q:
言語とは本来、思考や感情を伝達するための道具であるはずなのに、ひとたび「操作」という言葉が加わると、意味は急にきな臭くなります。誰がどう操るのか、どこまでが自然でどこからが意図的なのか——。
単語の意味をなぞるだけでは、もはや“言語”そのものが、別の力に「操作」されてしまうのではないかと感じることもあります。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )から英文を拝借しました。とある ネットニュース記事を開設しています。予め スラッシュを入れています。

"Hearing the language used for its intended purpose/ would open a student’s eyes (and ears!)/ to how native English speakers manipulate language/ to express themselves, create social connections and explore their personality."

諭吉なら 次のように 日本語よりも オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

"De taal horen zoals die bedoeld is te worden gebruikt,/ zou de ogen (en oren!) van een student openen/ voor hoe moedertaalsprekers van het Engels de taal manipuleren/ om zichzelf uit te drukken, sociale contacten te leggen en hun persoonlijkheid te verkennen."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

「それの意図された目的のために使われる言葉を聞くことは、《used〜purposeはlanguageを修飾する分詞句》/3 生徒の目を(そして耳を)開くでしょう。/2 ネイティブの英語の話し手がどのように言語を操作しているかに対しての(目を)/1 彼ら自身を表現し、社会的つながりを作り、彼らの個性を切り開くために。」

ここで、「言語を操作」とは何でしょう。「特定のイメージを植え付けたり、世論を誘導したりするために、意図的に言葉を選ぶ」ことや、或いは、コンピュータが言語データを解析、生成、翻訳したりする」することを彷彿とさせます。他にも、「個性を切り開く」という訳には 笑っちゃいました。

そこで質問ですが、
単語帳に載っている意味をそのまま当てはめ、文法どおりに機械的に訳した結果が「言語を操作して個性を切り開く」だとしたら、私たちはいったい何を読まされているのでしょうか。
もはや英文の意味というより、訳文の“暴走”を味わう読解練習になっていないでしょうか?
こうした訳のズレや滑稽さを回避しつつ、自然な日本語に落とし込むには、どんな視点や感覚が求められるのでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13317375883

702Hart Bel:2025/07/13(日) 17:33:46
Q:
“声”とは、単なる音ではなく、その人自身の思考や感情、そして存在そのものの表現です。では、英語を学ぶとき、私たちはどこでその“声”を見つけることができるのでしょうか?
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次のフレーズです。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )から拝借していました。そのサイトで解説している ネットニュース記事のタイトルになります。

① "How to help students of English find their voice"

諭吉なら 次のように 日本語よりも オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

② "Hoe je Engelslerende studenten kunt helpen hun stem te vinden"

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。そのサイトでは 次のように訳しています。

③ 「英語の生徒が、思い切って声を出せるように手助けする方法」

ここで、③だけを見たら、引用元の記事の著者のTuckerさんとやらは声楽家か、音声学者か!と
思います。
また そのサイトの主は「直訳、直訳」と言ってるのに、この「思い切って」に当たる英語は
どこにありますか?
そして、"find their voice"は「(思い切って)声を出す」ことなんですか?

タイトルが「きっちり読めて」ない人が本文を「きっちり読めて」いる
のでしょうか?
直訳信奉すると、タイトルすら読めなくなることを証明してないでしょうか?
みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13317414513

703Hart Bel:2025/07/13(日) 18:32:09


Q:
マドリッドには、パリやロンドンとはまた違った、控えめで穏やかな美しさがあります。中世の面影がそのまま街の輪郭となり、訪れる者を静かに迎えてくれるようです。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です。とあるサイト(makki-english.moo.jp/5relativepronoun5.html )から ①と③の文を拝借しました。

① "Madrid, where he first met her, is the capital of Spain and a beautiful city."

諭吉なら 次のように 日本語よりも オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

② "Madrid, waar hij haar voor het eerst ontmoette, is de hoofdstad van Spanje en een prachtige stad."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③ 「マドリッドは、そして、そこで彼は初めて彼女に会いましたが、スペインの首都で美しい町です。」

ここで、①は関係詞を用いた文ですが、先行詞の Madridが固有名詞のため、関係詞の前に、カンマ「,」を置く用法になります。そして、「そして」には 前の内容に続いて、さらに何かを加えたり、同じような種類の情報を、つなげる働きがあります。ところが、①の文は先行詞が主語なので、そのサイトの主にとっては 苦肉の策だとは 思われますが、まだ、内容すら 言及していないのに、「そして」て続けるのは 日本語として 甚だ奇妙です。

そこで質問ですが、日本語母語話者の視点からすると、このような訳文は不自然に感じられることが多いと思われます。英語の論理構造を損なわずに、より日本語らしい訳し方をするには、どのようなアプローチが適切でしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13317352268

704Hart Bel:2025/07/14(月) 15:58:25
Q:
英語の“会話”とは、本来キャッチボールのようなものです。
投げたら返ってくる、言えば応じてもらえる——そんな往復運動の中で、意味が立ち上がってきます。けれども、私たちが教室で英語に触れるとき、それはむしろ、壁に向かってボールを投げているような感覚になることも少なくありません。相手はいるのに、会話にならない。それは単語の意味がわからないからでしょうか? それとも——

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次のフレーズです。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )から拝借していました。予め、スラッシュを入れています。

"It is true/ that native speakers are often made available in the classroom,/ but their presence alone/ is unlikely to spark the sort of conversational tennis/ that the student will encounter in the English-speaking world."

諭吉なら 「エゲレス語の aloneは 蘭語の alleenに当たるなり」という感じで すんなり理解できたでしょう。

“Het is waar/ dat moedertaalsprekers vaak beschikbaar worden gesteld in de klas,/ maar hun aanwezigheid alleen/ zal waarschijnlijk niet het soort conversatie-tennis aanwakkeren/ dat de student zal tegenkomen in de Engelstalige wereld.”

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。そこで、そのサイトでは 次のように訳しています。

「つぎのことは、本当です。.../ネイティブの話し手が教室でしばしば・利用される(→授業に参加する≒are often available・ availableはよく使われる英単語ですが、使用法が難しいので注意が必要です)ということは。/しかし、・彼らの単独での存在...は/2会話のテニスのようなものを引き起こしません。.../1生徒が英語を話す世界の中で偶然会うであろう(テニスを)。」

ここで、availableは使用法が難しいのではなく、無理に直訳しようとすると、ピッタリする訳語がないだけです。それと、「their presence alone is...
彼らの単独での存在は → 彼らがいるだけでは」です。aloneは 中学でも出てくるような単語でありながら、ここでは 副詞でありながら their presenceにかかって 形容詞的な働きをしています。それから、 会話のテニスでは 日本人には ピンと来ないでしょう。それに、日本人がテニスでイメージするのは、プレイヤー同士がボールを打ち合い続けるラリーよりも、むしろ、高く上がったボールを相手コートに強く打ち込む スマッシュかもしれません。

そこで質問ですが、
英語が初めての外国語である私たちは、「available」や「alone」のような単語に出会うたびに、まず日本語訳を探し、その訳語にどうにか意味を押し込めようとしがちです。でも、こうした訳のプロセスが、かえって理解を遠回りにしていると感じたことはありませんか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14317429299

705Hart Bel:2025/07/15(火) 12:36:52
Q:
異なる言語に向き合うとき、私たちがまず直面するのは「理解の困難」ではなく、じわじわと広がる「当惑」かもしれません。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次のフレーズです。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )から拝借していました。とある ネットニュース記事を解説しています。第2パラグラフの文です。予め、スラッシュを入れています。

① "Tackling written assignments/ allows time for reflection and editing,/
but the on-the-spot nature of communicating verbally/ leaves the speaker/ vulnerable to embarrassing mistakes."

諭吉な、日本語よりも オランダ語に訳した方が分かりやすかったでしょう。

② "Het aanpakken van schriftelijke opdrachten/ biedt tijd voor reflectie en herziening,/ maar de spontane aard van mondelinge communicatie/ maakt de spreker kwetsbaar voor gênante fouten."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。そのサイトでは 次のように訳しています。

③ 「書かれた宿題に取り組むことは《動名詞から導かれる文が主語》/熟考と校正することのための時間を認めます。/
しかし、言葉で意見を伝え合うことの現場の性質は、/話し手を、当惑させるような間違えに傷つきやすいままにしてしまいます。」

しかし、ここで、
【- editing 校正する → 編集するとか、まとめる
- allows time 時間を認めます → 時間の余裕がある
- leaves the speaker/vulnerable to embarrassing mistakes
話し手を、当惑させるような間違えに傷つきやすいままにしてしまいます。
→ 赤面する様なミスが残ったままにしてしまう】
です。

そこで質問ですが、
このように英文の構造や語法が日本語とは大きく異なる場合、単に日本語に訳すだけでは、本来のニュアンスや機能まで掴みきれないこともあるのではないでしょうか。
では、私たちはどのような姿勢で英語に向き合えば、「訳す」だけにとどまらず、より深くその意味や運用を理解していくことができるのでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10317493980

706Hart Bel:2025/07/15(火) 19:33:20
Q:
言葉への自信は、ただ辞書的な意味を知っているだけでは育ちません。むしろ、文脈の中でどう息づいているかを感じ取る力こそが、本当の理解に近づく鍵です。
さて、とある英語学習のサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )によると、

≪速読していて、「あれ?意味が微妙にわからない!」と感じた時は、一度止まって、スラッシュリーディングしながら直訳してみてください。正しく文章が理解できるようになります。これを怠ると、あやふやに英語を読む癖が抜けなくなります。
・・・・・
直訳をするのは、あくまで、きっちり読めているかを確認するためです。時間をかけて丁寧に訳す翻訳に近い意訳とは、全く違います。意訳していては時間ばかりかかってしまい、速読できるようになりません。直訳と意訳を、くれぐれも混同しないでください。≫

だそうです。でも、直訳しても あやふやに英語を読む癖が抜けていないようです。
確かに 一文一文丁寧に解読しており、文法的な解釈ミスも 2,3か所に留まっていますが、木を見て森を見ず の状態になっており、文章全体の趣旨を掴んでいるようには思えません。そのサイトでは とあるネットニュース記事を解説していますが、最後の文です。

≪To paraphrase the novelist Edmund de Waal, /with a confident grasp of languages,/ you are at home anywhere.
*paraphrase=言いかえる=in other words(しばしば要約する時に用いられる)
*grasp=つかむこと[→理解]
*be at home=くつろぐ
小説家のエドマンド・ドゥ・ヴァールに言いかえると[→要約するために、小説家のエドマンド・ドゥ・ヴァールの言葉を借りると?]/言葉の自信に満ちた理解があれば、/あなたは、どこででも、くつろげるのです。≫

そこで質問ですが、「you are at home」のような表現を、文脈を無視してただ辞書から拾った訳語で置き換えようとすると、かえって本来のニュアンスを取り違えてしまう危険もあります。では、この表現を意味として最も近い形に言い換えると、次のうちどれになるでしょうか?

① you can rest at ease
② you are in a homely atmosphere
③ you don't have to be embarrassed.
④ you are in your house
⑤ you are familiar with English

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12317498217

707Hart Bel:2025/07/16(水) 09:09:45
Q:
英語を学んでいると、「available=利用可能な」と覚えたはずなのに、いざ英文を読んでみると、その訳ではどうも意味が通らない、そんな経験をした方も多いのではないでしょうか。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です

e① "I tried every available method."
e② "The product is not available any longer."
e③ "At what time is he available?"

諭吉なら、「エゲレス語の availableは 蘭語で beschikbaarと言ふなり」という感じで すんなり呑み込めたでしょう。

n① "Ik heb alle beschikbare methodes geprobeerd."
n② "Het product is niet meer beschikbaar.”
n③ "Op welke tijd is hij beschikbaar?"

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。しかし、ここで、availableは「=利用可能な」では意味をなしません。

j① 「私はありとあらゆる方法を試しました。」
j② 「その商品はもう手に入りません。」
j③ 「彼はいつなら空いていますか?」

このように、「availableはよく使われる英単語ですが、使用法が難しいので注意が必要です」 とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )でも誤解され、中学の英語では登場せず、高校の英語でも 敬遠されがちな単語の1つです。

そこで質問ですが、availableのように、日常英語では頻繁に登場するのに、意味の捉えづらさから敬遠されがちな単語に対して、私たちはどう向き合っていくべきなのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13317509148

708Hart Bel:2025/07/16(水) 22:14:16
Q:
英語を学んでいると、「available=利用可能な」と覚えたはずなのに、いざ英文を読んでみると、その訳ではどうも意味が通らない、そんな経験をした方も多いのではないでしょうか。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です

e① "I tried every available method."
e② "The product is not available any longer."
e③ "At what time is he available?"

諭吉なら、「エゲレス語の availableは 蘭語で beschikbaarと言ふなり」という感じで すんなり呑み込めたでしょう。

n① "Ik heb alle beschikbare methodes geprobeerd."
n② "Het product is niet meer beschikbaar.”
n③ "Op welke tijd is hij beschikbaar?"

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。しかし、ここで、availableは「=利用可能な」では意味をなしません。

j① 「私はありとあらゆる方法を試しました。」
j② 「その商品はもう手に入りません。」
j③ 「彼はいつなら空いていますか?」

このように、「availableはよく使われる英単語ですが、使用法が難しいので注意が必要です」 とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )でも誤解され、中学の英語では登場せず、高校の英語でも 敬遠されがちな単語の1つです。

そこで質問ですが、availableのように、日常英語では頻繁に登場するのに、意味の捉えづらさから敬遠されがちな単語に対して、私たちはどう向き合っていくべきなのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13317509148

709Hart Bel:2025/07/16(水) 22:15:43
Q:
「animal」は誰でも知ってる——と思っていたら、耳では出会ったことのない“珍獣”だった、なんてことありませんか?.........

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12317474482

710Hart Bel:2025/07/16(水) 22:17:04
Q:
私が中学生の時、英語の和訳の問題で、bagをバッグと訳したら 減点された思い出があります。「かばん」と訳さなければならないようなのです。
でも、日本語の「かばん」には bagだけでなく、 briefcaseやsuitcaseも含まれる一方、bagには「かばん」の他にも「袋」という意味もあります。でも、Christmasは流石に「降誕祭」ではなく「クリスマス」でOKでした。
それでは、とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )からの引用です。

‹引用開始›
≪直訳をするのは、あくまで、きっちり読めているかを確認するためです。時間をかけて丁寧に訳す翻訳に近い意訳とは、全く違います。意訳していては時間ばかりかかってしまい、速読できるようになりません。直訳と意訳を、くれぐれも混同しないでください。≫
‹引用終了›

しかし、直訳したところで、きっちり読めているか 確認できるとは 限らないのでは ないでしょうか? その サイトでは とあるネットニュース記事を解説しています。

第6パラグラフの文です。
≪In my view,/ what the teaching of languages currently seems to lack/ is the necessary context/ for what language is.
*context=文脈、背景
私の見解では《=in my opinion》/言語の指導が現在のところ欠けているように見えるものは、《what=the thing which〜の関係代名詞》/2 必要な背景です。/1 言語が何のためにあるかの。≫

第10パラグラフの文です。
≪They can understand the context/ for employing certain colloquialisms/ and how to utilize them/ to express their personality in a second language.
*context=文脈、背景≒meaning
*colloquialism=コろウクィアリズム=口語的表現、方言
彼らは、5 文脈[→意味]を理解できます/1 ある方言を使用する[←雇用する]ことに対する/2そ して、4どのようにそれらを利用するかに対する 《"for employing"is in apposition (同格)with "(for) how to".》/3 第二言語で彼らの人格(個性)を表現するために。≫

両方に contextという単語が登場しますが、第6パラグラフの文では「背景」、第10パラグラフの文では「文脈」と訳されていますが、大切なのは 訳語を当てることではなく、contextの概念を理解することだと思います。

そこで質問ですが、
直訳や訳語の選定よりも、「context」という語が指している考え方や背景そのものを理解することの方が、語学学習としては重要なのではないでしょうか? みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14317532154

711Hart Bel:2025/07/17(木) 19:13:37
Q:
小説家の言葉を要約するという行為は、しばしばその言葉の奥にある文脈や感情、さらには語り手の思想までも含めて、凝縮し直すという繊細な営みです。
ましてや、そこに「くつろぐ」といった語を当てはめるとなれば、なおさら注意が必要です。それは単に身体を休めることを指しているのか、それとも精神的な安心感や、異文化における自己肯定のような深い意味合いを含んでいるのか。訳す側の解釈次第で、読み手の受け取る印象も大きく変わってしまうのです。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次のフレーズです。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )から拝借していました。とある ネットニュース記事を解説しています。最後の文です。予め、スラッシュを入れています。

① "To paraphrase the novelist Edmund de Waal, /with a confident grasp of languages,/ you are at home anywhere."

この文では at homeが曲者ですが、諭吉なら「エゲレス語の at homeは 蘭語で thuisと言ふなり」という感じで すんなり理解できたできたでしょう。

② "Om de romanschrijver Edmund de Waal te parafraseren, /met een zelfverzekerde talenkennis,/ ben je overal thuis."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。そのサイトでは 次のように訳しています。

③ 「小説家のエドマンド・ドゥ・ヴァールに言いかえると[→要約するために、小説家のエドマンド・ドゥ・ヴァールの言葉を借りると?]/言葉の自信に満ちた理解があれば、/あなたは、どこででも、くつろげるのです。」

そこで質問ですが、"at home " を「くつろげる」と訳すのは、果たして文脈に即していると言えるのでしょうか?
言葉への自信がテーマである以上、「くつろぎ」よりも「恐れがない」「自信がある」「自在にふるまえる」などの方が本旨に近いようにも思えます。どのように捉えるのが最も適切なのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13317548108

712Hart Bel:2025/07/18(金) 16:13:07
Q:
言語を“訳す”ことと、“わかる”ことは、必ずしも一致しません。
むしろ時に、翻訳という作業は、原文の意味やニュアンスを“きれいに”整えるあまり、かえって本来の姿をぼかしてしまうことさえあります。
ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次のフレーズです。とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )から拝借していました。予め、スラッシュを入れています。

① "It’s not helpful/ that the assessment of English at schools/ normally focuses on grammar,/ while building competence in spoken English/ can be neglected."

諭吉なら 「エゲレス語の itは 蘭語で hetと言ふなり」という感じで 形式主語の itも すんなり呑み込めたでしょう。

② "Het helpt niet/ dat de beoordeling van Engels op scholen/ zich normaal gesproken richt op grammatica,/ terwijl het opbouwen van competentie in gesproken Engels/ verwaarloosd kan worden."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。そのサイトでは 次のように訳しています。

③「次のことは有益ではありません。(仕方がありません?It's not useful/It can't be avoided [helped]?)《It-thatの構文、Itがthat以下を指す仮主語》/学校での英語の評価が/普通、文法に焦点を合わせているということは。/だが一方、口語英語の能力を確立することは《while=対比を表し、だが一方》/無視され得るのです(→時には無視されかねないのです)。」

ここで、先ず 気になったのは、そのサイトの主は 形式主語の itを「次のことは」と訳していることです。でも、まあ、それはともかく、
"building competence
能力を確立することは → 実力を積み重ねる"
です。
そこで質問ですが、
日本語を介して英語を理解しようとするこのアプローチは、本当に英語の「本質」に迫れているのでしょうか?
たとえば、“building competence” という表現を「能力を確立する」と訳すと、「積み重ねて身につけていく」という本来のニュアンスが薄れてしまいますし、“neglected” を「無視される」と訳すと、意図的な拒絶(=ignore)のようにも受け取られかねません。
こうした訳語のズレを積み重ねた先に、果たして英語で「話せる」「伝えられる」力が育つのか——少し立ち止まって考えてみる必要があるのではないでしょうか。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317419166

713Hart Bel:2025/07/19(土) 13:05:59

Q:
大学入試共通試験の英語は、英文を日本語で考える習慣がある人は得意で、
英語を英語のまんま考える人は不得意ですか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12317461757

714Hart Bel:2025/07/20(日) 18:09:53
Q:
英語を訳すとは、本来、単語の意味を移すだけではなく、その背後にある文化や感情、語感までも汲み取る繊細な営みのはずです。
にもかかわらず、私たちはしばしば、辞書にある語義をそのまま当てはめることで、言葉の厚みや余韻を削ぎ落とし、訳した「つもり」になってしまうことがあります。それは、理解の助けではなく、むしろ思考の停止を招いてはいないでしょうか。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です。齋藤秀三郎氏の「熟語本位斎藤英和中辞典」から 例文を拝借しました。

e① "A society woman makes you feel at home with her."
e② "He makes himself at home everywhere."

諭吉なら、「エゲレス語の at homeは 蘭語で thuisと言ふなり」という感じで すんなり理解できたでしょう。
(秀三郎氏が 先述の辞書を世に出したのは 諭吉の没後14年後になりますが.....)

n① "Een vrouw uit de maatschappij zorgt ervoor dat je je thuis voelt bij haar."
n② "Hij voelt zich overal thuis."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

j①「交際家は人に気兼させぬ。」
j②「至る處で不遠慮だ(傍若無人)」

ここでは、at homeの訳し方がポイントになります。流石、秀三郎氏、和訳が秀逸です。一方で、とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )の主のように、題材にしている論説文の最後の文で 「くつろげる」というように間抜けな訳し方をしている人もおります。

"At home"は文字通りには「家に(いる)」です。
辞書を引かず、考えてみます。
「家にいる」はどんな比喩になり得るのか?
「言葉を自分のモノにしてれば、自信があれば、」
「あなたは、どこに行っても…」:

大丈夫です。/不安が消えます。
(内弁慶みたいに)強くなれます。
物おじしなくて済むんです。/落ち着いていられます。
(もう前みたいに)震えてなくていいんです。
しどろもどろにならなくて済みます。
悩まなくていいんです。/憂えなしです。
ドンと構えていられます。/ドシッとしてられます。/ぐらつきません。
余裕ですからね。/余裕しゃくしゃくです。
大船に乗った気分ですよ。/鬼に金棒ですよ。/水を得た魚ですよ。
無敵になります。/ここは我が城!です。
誰でもかかって来い!ですよ。/あんたが大将!です。
矢でも鉄砲でも持って来い!と言えます。

そこで質問ですが、
「at home」という語に込められた、言語的・心理的な深層をすべて削ぎ落とし、「くつろぐ」の一語で済ませてしまうような訳は、本当に正当と言えるのでしょうか?
それは単に、読者の思考力と感受性を信じることを放棄した、“分かった気にさせる訳”に過ぎないのではないでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14317623834

715Hart Bel:2025/07/21(月) 13:28:45
Q;
たとえば、目の前に一本の鉛筆があるとします。形や色はもちろん、その用途も明快で、誰もが知っているありふれた文房具です。
しかし、この何の変哲もない鉛筆一つを指すとき、日本語では「これ」「それ」「あれ」といった言葉を、場面や距離感、人間関係などに応じて使い分けます。まさに、空気のように自然に、そして無意識に。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えば オランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の英文です。

e① "This is a nice pencil."
e② "That is a nice pencil."
e③ "It is a nice pencil."

諭吉なら、「エゲレス語の thisは蘭語の ditに、thatは datに、また、itは hetに各〻對應するものと見ゆ。」という感じで、理解しやすかったでしょう。

n① "Dit is een mooi potlood."
n② "Dat is een mooi potlood."
n③ "Het is een mooi potlood."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

j① 「これはすてきな鉛筆です。」
j② 「あれはすてきな鉛筆です。」
j③ 「それはすてきな鉛筆です。」

そこで質問ですが、
たとえば、生徒が「それはすてきな鉛筆ですね」と言いたい場面で、聞き手が鉛筆を手に持っていて、まだ会話の中でそれに一度も触れていないとします。このようなケースでは、つい日本語の「それ」に引きずられて、e③のようにと言ってしまう子も少なくないかもしれません。実際には "that" を使うべき場面ですが、「それ=it」といった1対1対応の意識があると、英語本来の使い分けに気づきにくいのではないでしょうか?

英語と日本語の代名詞を無理に対応づけようとすると、かえって誤用の原因になってしまう—— これは たとえば とある英語学習のサイト(makki-english.moo.jp/8beverb2b.html )とて 例外ではありません。それに、このサイトは とりわけ 机の上での 英文和訳や和文英訳に極端に偏っています。
そこで、このような言葉のズレを、限られた授業時間の中でどう伝え、どうすれば子どもたちに自然な感覚として身につけてもらえるのか。
現場の先生方はどのような工夫をされているでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14317731359

716Hart Bel:2025/07/21(月) 20:19:30
Q:
みなさんは ロシアのチェブラーシカってご存じですか? ミッキーマウスと比べたら、知名度には雲泥の差がありますが、ミッキーマウスみたいに スレてなくて、
知る人ぞ知るの隠れたアイドルです。そこで、チェブラーシカは ワニのゲーナに出会います。ゲーナは一人ぼっちで 友達を募集していました。そして、チェブラーシカと仲良しになったゲーナはチェブラーシカに "Мы хорошие друзья.(We are good friends.)"と言って 友情を分かち合います。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた文化人としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば、次の2つの英文です。

I want to speak English more. We are good friends.

諭吉なら、日本語よりも 次のように オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

Ik wil meer Engels spreken. We zijn goede vrienden.

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。これは、"We Can!"という小学生向けの英語教材にあった英文ですが、とあるサイト(makki-english.moo.jp/contentsfirst2elementaryschool2.html#WeCan )では この教材を「文法的に見ると、初心者が学ぶには、あり得ないむずかしさと思いました。」と酷評し、具体例として 先程の英文を挙げています。

≪We can! 1 (5年生)
Unit2のStory Time
I want to speak English more. We are good friends.
…不定詞の名詞的用法(中2の2学期)、we/friends複数が出てきます。「どうしてこうなるんですか?」と生徒に聞かれたら、どう答えますか?説明にものすごく時間がかかると思いますが、説明しなければ納得できなく、英語嫌いな生徒も出てくると思います。こんなむずかしい文法のが、この時期に必要でしょうか。リスニングもリーディングも、習った文法で対応できる教材にするべきと思います。応用は中学に入ってからで十分では?≫

でも、"We can!"は 生徒よりも先生を選ぶ教材なのではないでしょうか? それで、昔ながらの文法訳読法で中学生にしか英語を教えられない力不足の人間の愚痴のようにも聞こえます。というのは、この手の英文は 幼児向けの英語教室でも 必ず出で来ますが、このサイトの主から英語を教わる小学生たちは、こんな簡単な英文も 中学までお預けになり、英語を通して 誰とも仲良くなれず ホントに可哀想です。

そこで質問ですが、
“we”が使えない英語って、いったい何を誰と話せばいいのでしょう?
“We are good friends.”——たったこれだけの文で、子どもたちは「わたし」と「あなた」のあいだにある、あたたかなつながりを感じることができます。
それなのに、「不定詞が…」「複数形が…」と難癖をつけて、それを封印してしまうなんて、まるで“友情禁止令”みたいじゃありませんか?
言葉は本来、誰かと何かを共有するための道具のはず。
なのに、“we”すら許されない英語教育の中で、子どもたちは何をどう共有すればいいのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317747341

717Hart Bel:2025/07/22(火) 13:35:40
Q:
宿題というのは、ただでさえ生徒を悩ませる存在ですが、どうやら翻訳者にとってもなかなか手強い相手のようです。
そこで、とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )から 英文を拝借しました。とある ネットニュース記事を解説していますが、第2パラグラフの文です。

"Tackling written assignments/ allows time for reflection and editing,/
but the on-the-spot nature of communicating verbally/ leaves the speaker/ vulnerable to embarrassing mistakes."

そのサイトの主は 得意のスラッシュリーディングと直訳で 次のように解釈しています。

「書かれた宿題に取り組むことは《動名詞から導かれる文が主語》/熟考と校正することのための時間を認めます。/
しかし、言葉で意見を伝え合うことの現場の性質は、/話し手を、当惑させるような間違えに傷つきやすいままにしてしまいます。」

ここで、特に

≪Tackling written assignments allows time for reflection and editing.
「書かれた宿題に取り組みことは熟考と校正することのための時間を
認めます。」≫

の部分が気になります。というのは そのサイトの主が 別のページ(makki-english.moo.jp/contentfirst2translation.html )では

"Help homework"で「宿題さんを助ける!」なんて言って笑ってた
先生が、ここでは「宿題に取り組むさんが認める」ですからね!
これはダメでこれはOK!
一体、誰が決めるんですか?
言葉の独裁者は怖いですよ(笑)
「我が単語帳」を使い、自分が好きな様に擬人法を使って、
他人がそれをすると許さない!
基準がないんですよ。
「我こそが法なり」ですよ(笑)

要するに、「宿題さんを助ける」はNGだけど、「宿題さんが時間を認める」はOKという、この選別基準のあやふやさ――。
そこで質問ですが、「Tackling written assignments allows time...」という英文において、"Tackling" を「取り組むこと」と無難に訳すのはよいとしても、"allows" を「認めます」と訳すのは、果たして自然な日本語と言えるのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10317461565

718Hart Bel:2025/07/22(火) 21:29:03
Q:
直訳というのは、英語を“訳した気になる”には手っ取り早い方法です。とりあえず日本語が並べば、それっぽく見えますし、「自分、読めてるかも」と思えて安心です。
でも、そうやって安心しきったまま、英語の“コンテキスト”ごと置き去りにしてしまう人も、案外少なくないようです。

ところで、私が中学生の時、英語の和訳の問題で、bagをバッグと訳したら 減点された思い出があります。「かばん」と訳さなければならないようなのです。
でも、日本語の「かばん」には bagだけでなく、 briefcaseやsuitcaseも含まれる一方、bagには「かばん」の他にも「袋」という意味もあります。でも、Christmasは流石に「降誕祭」ではなく「クリスマス」でOKでした。
それでは、とあるサイト(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )からの引用です。

‹引用開始›
≪直訳をするのは、あくまで、きっちり読めているかを確認するためです。時間をかけて丁寧に訳す翻訳に近い意訳とは、全く違います。意訳していては時間ばかりかかってしまい、速読できるようになりません。直訳と意訳を、くれぐれも混同しないでください。≫
‹引用終了›

しかし、直訳したところで、きっちり読めているか 確認できるとは 限らないのでは ないでしょうか?
そこで、第10パラグラフにある文です。

They can understand the context for employing certain colloquialisms and how to utilize them to express their personality in a second language.

そのサイトの主は 得意のスラッシュリーディングと直訳で次のように解釈しています。

≪They can understand the context/ for employing certain colloquialisms/ and how to utilize them/ to express their personality in a second language.
*context=文脈、背景≒meaning
*colloquialism=コろウクィアリズム=口語的表現、方言
彼らは、5 文脈[→意味]を理解できます/1 ある方言を使用する[←雇用する]ことに対する/2そ して、4どのようにそれらを利用するかに対する 《"for employing"is in apposition (同格)with "(for) how to".》/3 第二言語で彼らの人格(個性)を表現するために。≫

とょっと、問題個所だらけですが、ここでは contextを取り上げたいと思います。
そのサイトの主は contextを「文脈」と訳していますが、contextの意味をよく分かっていないようです。contextは「コンテキスト」のままでもいいでしょう。大事なのは bagの例もしかり、訳語を当てることではなく 概念を理解することではないでしょうか。

そこで質問ですが、「直訳」という方法は、本当に語学習得において“きっちり読めているかどうか”を測る適切な手段と言えるのでしょうか? また、文中の “context” のような語に対して、安直に「文脈」といった訳語を当てることが、本質的な理解を妨げてはいないでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317469061

719Hart Bel:2025/07/25(金) 06:41:25
Q:
中学校の英語だと、教科書にならってないことを書いたらばつにされます。それは、不公平じゃないですか?

私は生まれたときからバイリンガルです。
テストで、
おもしろい=fun
それよさそうですね=sounds good
私の家=my place
カレー= curry and rice

全部ばつでした。

あとよくわからない受動ってのは、すごくおかしな言い方してて、意味わからないです。そんな言い方しないので。

点数落ちて80点台しかとれないです。

英語できる人、これどう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11317606591

720Hart Bel:2025/07/27(日) 20:12:11
Q:
英語の和訳問題って
意訳よりも、不自然な日本語でも直訳の方がいいですよね?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14317775534

721Hart Bel:2025/07/29(火) 12:34:23
Q:
「宿題」という言葉を聞いて、皆さんはまず何を思い浮かべるでしょうか。
先生に言われて仕方なくこなすもの、やらなければ叱られるもの、あるいは、勉強の理解を深めるための大切な復習手段。立場や経験によって、その印象はさまざまだと思います。しかし、本来「宿題」とは、“自分で考え、工夫し、つまずきながら乗り越えていく”プロセスそのものだったはずです。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた文化人としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器すら存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、とあるサイト(makki-english.moo.jp/contentfirst2translation.html )から英文を借りました。

"I'll help him with his homework tonight."

諭吉なら、次のように オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

“Ik zal hem vanavond helpen met zijn huiswerk.”

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。そこで、そのサイトでは 次のように 説明しています。

<引用開始>
≪これは、中学2年の初めに、ある教科書に載っていた英文です。この訳を、「私は今晩、彼の宿題を手伝うつもりです。」と訳す先生が多いです。英語教材の訳も、そうなっているものが多いです。しかし、これは意訳です。

もし、この意訳から英文を起こそうとすると、
"I'll help his homework tonight."
という文ができてしまいます。生徒たちは、どうしてこれが間違えか理解できません。先生方は、どのように説明されますか?

私がとても役立つと感じているスラッシュリーディングをしてみます。

"I'll help him/with his homework/tonight."

「私は彼を手伝うつもりです。/彼の宿題で/今晩」

このようにしておけば、helpの後に「手伝ってあげる相手」を、withの後に「仕事の内容」を入れ、便宜上withを「〜で」と訳すと、生徒に教えやすいです。そして、I'll help his homework…としてしまうと、homeworkという生き物(?)を手伝うような、とんでもない感じの文になってしまうと説明すると、生徒は納得してくれます。しかし、ここまで説明する先生は、私の知るかぎりではいませんでした。真面目な生徒に限って、混乱しています。そもそも、この難しい英文を、中学2年の1学期に教えること自体、問題があるとは思いますが…≫
<引用終了>

しかし、最初からミスを犯さない学び方をするのでなく、
ミスはなるべく早く直せる様な学び方をするのがいいと思います。

そこで質問ですが、
そもそも英語は、現代の日本人にとって初めて触れる外国語であるにもかかわらず、特に そのサイトとでは 文字や文法の学習が先行し、「英語を聞いて、それを真似て発音する」という基本的な音声模倣のプロセスが極端に軽視されています。また、十分なインプットがないまま、いきなり「正しい英作文」を求めたり、動詞と前置詞を個別の単語として機械的に理解させたり、日本語の「手伝う/助ける」などの語法の整理も曖昧なままにしています。
このような状態で、「I'll help him with his homework tonight.」の文法説明を細かくしても、本質的な理解にはつながらず、むしろ混乱を深めてしまうだけではないかとも思えます。果たして、こうした説明を中学2年生の段階で与えることは、英語教育として本当に有効なのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14318027504

722Hart Bel:2025/07/29(火) 18:36:53
Q:
「末期」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。
病の終わり、体制の崩壊、あるいは理性の限界──。
何かが本来のかたちを失い、修復もままならなくなった状態を、私たちはそう呼ぶのかもしれません。
にもかかわらず、なぜか当事者たちはそれに気づかず、むしろ自信たっぷりに“正しさ”を振りかざしていたりするのです。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えば オランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば 次のフレーズです。とあるサイト(makki-english.moo.jp/index2.html )のタイトルです。

① "Makki's Let's Speak English"

諭吉なら 日本語よりも 次のように オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。(当時はパソコンやネットはなくとも ハイテクに関する用語や表現は含まれていません。)

② "Makki's Laten we Engels spreken"

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③ 「マッキーの英語を話そう」

特に 難しいことはないかと思います。このサイトは タイトルだけを見ると 英会話を主眼にしているようですが、実際は 小学生から 文法と直訳を叩き込もうとする 羊頭狗肉、いや、恐ろしいサイトです。でも、それだけに、体系的な順序立てを意識しているようです。それで、別のページ(makki-english.moo.jp/8main.html )では 《複数形は扱いません》と書いています。このチャプターは小学生向けのようですが、そのサイトの主の方針では 複数形は中学まで お預けのようです。ところが、このタイトルにすでに しっかり複数形が使われているではありませんか。そう、Let'sです。Let'sは ご存じの通り、Let usの短縮形で、しっかり weという1人称複数代名詞の目的格が入っています。しかも、letは放任を表す助動詞で 原形不定詞を伴います。
あと、 Makkiも Mackieとか Mackeyにしないところが、何とも uncoolですね。(笑)

そこで質問ですが、小学生に英語を教える際に「複数形は扱いません」と宣言しておきながら、そのサイトのタイトルに堂々と“Let's”という1人称複数を含んだ表現を使ってしまうのは、いったいどういう教育方針なのでしょうか。複数形は禁じ手でも、決まり文句なら無罪放免なのでしょうか。それとも、これは“複数形”には含まれないという、苦しい言い訳が用意されているのでしょうか。みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10318013955

723Hart Bel:2025/07/29(火) 22:22:26
Q:
“まだ終えている”…うーん、これはどういうことなんでしょうか。終わったのに、まだ終わっている。
まるで『夏休みの宿題は7月中に全部やったはずなんだけど、なんとなく達成感がなくて、8月31日にもう一度確認しちゃう』みたいな、あの不思議な感覚に似ています。いや、やったんです。確かにやった。ノートにも書いたし、親にも見せた。でも、心のどこかで“終わった気がしない”…。それが“まだ終えている”。一種の思春期的未練、あるいは文法界の幽霊部員みたいな存在かもしれません。終わってるけど、まだ名簿に名前はある。完全に終わったようで、どこか余韻を残して漂っている。“まだ終えている”──これはもはや文法の話というより、人生の態度の話かもしれません。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた文化人としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を習得していて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も小さく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、とある英語塾の元講師は 自身のページ(makki-english.moo.jp/6newspaperothershowtohelpstudents1.html )でとあるネットニュースの記事を解説していますが、第2パラグラフの文です。(予め スラッシュを入れています。)

"However, /many students still complete their studies/ without confidence in their ability/ to hold a conversation."

諭吉なら、日本語よりも 次のように オランダ語に訳した方が 分かりやすかったでしょう。

"Toch, /maken veel studenten hun studie nog steeds af/ zonder het vertrouwen in hun vermogen/ om een ​​gesprek te voeren."

ところが、明治になると オランダ語は途端に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

「しかしながら/多くの生徒は、3まだ彼らの勉強を終えています。/2彼らの能力に自信なしで.../1会話をする(能力)。...≫」

そこで、「まだ彼らの勉強を終えています。」とは一体何でしょうか? ここで、stillは否定文でよく用いられ、「まだ」という意味ですが、この文は肯定文です。でも、withoutが否定的な意味を持ち、さらに stillは withoutと相関関係にあり、意味の力点も completeという動詞よりも without以下の句に置かれています。しかし、withoutの前でスラッシュで区切っていますので、stillとwithoutの呼応関係も見事に見逃し、completeを含むチャンクの直訳が支離滅裂になっています。

そこで質問ですが、このように「still」と「without」の意味的な連携や、意味の重心が動詞ではなく後続の句に置かれるような英文において、逐語訳やチャンクごとの直訳に頼る姿勢は、果たして学習者にとって有益なのでしょうか?
また、英語に対する「最初の外国語」としての感覚を持ち得ない現代の日本人にとって、文構造や論理展開の重心の置き方を、どうすれば効果的に理解・定着させることができるのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10318054320

724Hart Bel:2025/08/03(日) 07:44:58
Q:
キャロライン・ディキンソンの事件は、その痛ましさと共に、言葉の壁を越えて報じられ、多くの人々の記憶に刻まれました。
その英文を読み解く中で、私たちは改めて「言語の違い」がもたらす理解のズレや難しさに直面することになります。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えば オランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた文化人としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を習得していて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も小さく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、次の英文です。

① "In the case of Caroline Dickinson there was the added mystery of how this young girl had been raped and murdered in the same room as her sleeping school friends without them being woken up."

諭吉なら、「エゲレス語の asは 蘭語の alsに当たるなり」という感じで 割とすんなり理解できたでしょう。


② "In het geval van Caroline Dickinson was er het extra mysterie hoe dit jonge meisje was verkracht en vermoord in dezelfde kamer als haar slapende schoolvriendinnen zonder dat zij wakker werden."

ところが、明治になると オランダ語は途端に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③「キャロライン・ディキンソンの事件をめぐる謎は、この少女が学校の友人と同じ部屋で寝ている間に起こされることなく強姦され殺害されたという事実によってさらに複雑になっている。」

そこで質問ですが、「as her sleeping school friends」の部分に使われている as の意味や役割について、みなさんはすぐにピンときたでしょうか?
一見すると「比較」の as にも見えますし、「一緒にいたこと」を示すようにも感じられて、英語にあまり慣れていない人にとっては少し戸惑いやすい箇所かもしれません。
「同じ部屋」と言っているのに、なぜ with や in the same room together with... のような表現ではないのか?——そんな疑問も湧いてきます。
こうした一語の使い方ひとつでも、文全体のイメージが大きく変わることがありますよね。みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10318213550

725Hart Bel:2025/08/04(月) 08:48:09
Q:
2025年夏現在、海外からの観光客を含む渡航者も増えていますが、約7割が英語が母国語でないとのことです。でも、私たちは 道案内などでも 英語を仲介言語にすることが 多いのではないでしょうか?
しかし、英語を話すにしても 母国語の訛りが英語に出ますよね。
それでは、とある英文を カタカナで表記してみました。

「ゴー・ストレート、ターン・レフト・アット・ザ・セカンド・トラフィック・ライト。」

でも、大半の人は 次のように 英語にスペルアウトできるのではないでしょうか。

"Go straight, turn left at the second traffic light."

日本語には rとlの区別はありませんが、それでも、コンテキストも手伝い、日本人は日本語の癖を知っているので、問題はなさそうです。しかし、英語を仲介言語とするということは、非ネイティブの話す英語も理解しなければなりません。それでは、先程とは違う英文を ハングルとタイ文字で表記してみました。Google Translate、または、いつも お使いの読み上げソフトで 音声を確認してみて下さい。

①ハングル: 하우 캔 아이 겟 투 시티 홀 온 풋?

②タイ文字: ฮาว แคน ไอ เก็ท ทู ซิตี้ ฮอล ออน ฟุต?

元の英文に起こせたでしょうか。

そこで質問ですが、「英語を仲介言語にする」という選択は、本当に最適なのでしょうか?
特に発音に注目してみると、英語が母語でない者同士が、それぞれ自国の訛りを引きずった“通じにくい英語”を使ってやり取りする場面も少なくありません。
むしろ、お互いに拙い英語で苦労して伝え合うより、いっそ翻訳アプリや音声翻訳機を介したほうが、よほどスムーズに意思疎通できるのでは――そんな疑問も浮かんできます。

実際、非ネイティブ同士の会話では、「正しい単語を使っているのに、発音の違いから意味が通じない」といったことも少なくありません。たとえば、"light"と"right"、"truck"と"track"、"ball"と"ball"など、微妙な母音や子音の違いが、意図しない誤解を招くことがあります。
話し手は自分が通じていると思っていても、聞き手の耳にはまったく違う単語として届いている――そんな「発音の認識のズレ」が、実際の対話では思った以上に深刻な壁になるのです。

そう考えると、AI翻訳機のように、発音に左右されず正確に意味を届けられるツールの方が、観光地や緊急時の案内などでは、むしろ実用的なのかもしれません。
これからの国際コミュニケーションにおいて、「通じる英語」とはどのようなものなのか、改めて考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10318249245

726Hart Bel:2025/08/04(月) 17:17:09
Q:
たとえば、ある町の紹介文で「すがすがしい環境」と「便利さ」が同じ文の中に並べられているのを見かけることがあります。
緑に囲まれて、空気が澄んでいて、鳥のさえずりが聞こえてきそうな場所――そうした自然環境は、確かに多くの人にとって魅力的です。一方で、三本の鉄道路線が交差し、快速電車に乗れば都心まで50分――それもまた、現代の生活においては大きな価値があります。
でも、だからといって「すがすがしい環境」と「交通の便のよさ」を、まるで同じカテゴリーに属するかのように“ひとまとめ”にして語ってしまうと、読み手はふと首をかしげたくなってしまいます。そもそも、森林浴をして心が洗われることと、都心までのアクセスが良好なこととは、気持ちの流れも利便性の尺度もまったく異なる次元の話だからです。

さて、学校の先生は五文型を教えるのに必死で、次は冠詞を教えようとするので、
日本人が非常に苦手とする「同等性」については教えません。
As well as、exceptなどが代表格です。
なので、多くの日本人は下の様な英語を平気で使います。たとえば、とあるサイト(makki-english.moo.jp/6advertisement.html )でも ご多分に漏れず、As well asの使い方を見事に間違えております。

"A City is surrounded with lush greenery and is known for its good Nashi pears. As well as refreshing environment, it is very convenient because of three railways intersecting at B Station. You can get to Tokyo within 50 minutes if you take a rapid train."

ここで、itは A City を指していると思われます。しかし、それだと A Cityと refreshing environmentが同等性を表すことになるんですが、そうすると、refreshing environmentも convenientなんでしょうか。この covenientも少し変だけど、refreshing environmentと three railways intersecting at B Stationも因果関係はないでしょう。

そこで質問ですが、このように「A市」と「すがすがしい環境」が As well as によって同列に並べられてしまうと、「すがすがしい環境も、鉄道が三本通っていて便利だからです」といった、因果関係としては明らかに成り立たない印象を与えてしまわないでしょうか?
本来、便利である理由は“鉄道の交差”にあるはずなのに、「すがすがしい環境」がそこに紛れ込むことで、読み手は“何が何と並列なのか”“何に何がかかっているのか”を見失ってしまいます。
このような文の構造のまずさが生まれる背景には、やはり「As well as」が同列の対象をつなぐという感覚を、日本人学習者があまり深く理解せずに、なんとなく「〜も」という語感で使ってしまっている問題があるように思われます。
こうした同等構文の誤用、つまり“つないではいけないものをつないでしまう”ミスは、文法的には一見正しく見えてしまうだけに、英語学習においてもっと早い段階で丁寧に扱われるべきではないでしょうか? みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14318265534

727Hart Bel:2025/08/06(水) 21:22:54
Q:
「小学生には複数形なんて難しすぎるっしょ?」──そうつぶやいた瞬間、少女の目はひとつになった。
家庭で英語を教えようと張り切る親や、手製の教材で近所の子に教え始める“素人先生”たち。
その熱意は否定しないが、ときに暴走し、「複数形は中学からでいいよね」という謎ルールを発動させる。
結果、目がふたつあると説明が面倒なので、少女は一つ目に加工され、教材の中で奇妙に微笑む。
これを“やさしさ”と呼ぶのか、それとも現実の改ざんと呼ぶべきか──
気づけばそこには、“two eyes”が禁句となった世界が広がっている。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えばオランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた文化人としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器すら存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を学んでいて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も少なく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、例えば 次の英文です。小学校の英語でも出てきそうですね。 当たり前すぎる文ですが、イラストや実物を見ながら なるべく日本語を解さず 英語で ダイレクトに体の名称を覚えたり、パターンプラクティスの練習として よく登場するようです。

① "The girl has two eyes."

諭吉にとっては 単数複数の概念は オランダ語でも お馴染みだったので、なんら造作もなかったでしょう。

② "Het meisje heeft twee ogen."

ところが、明治になると オランダ語は急激に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

③ 「その女の子には 目が2つあります。」

特に難しい点はありませんが、haveの訳し方、数詞の訳し方、和訳に反映されない 複数形の問題がありますが、今回は 特に 複数形の問題に焦点を置こうと思います。そこで、こちらのサイトのページ(makki-english.moo.jp/8main.html#subject )では 小学生を対象にしていますが、「複数形は扱いません」と宣言しているので、①の文は 中学まで お預けになってしまいます、そこで、単数形だけで 頑張らなくてはいけません。それでは、次の英文です。

④ "The girl has only a single eye."

その サイトの主は妖術を使うようですが、女の子が 本当に一つ目では可哀想なので、生徒たちに幻覚を見せます。

そこで質問ですが、「The girl has two eyes.」という文にすら“複数形”という魔物が潜んでいるがゆえに、それを教室から追放し、小学生たちには単眼の幻影を見せるというこの指導法は、いったい何を守ろうとしているのでしょうか?
子どもたちの知的成長でしょうか、それとも大人たちの安心感でしょうか? みなさんは どう思いますか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10318050570

728Hart Bel:2025/08/08(金) 05:37:16
Q:
外国語の勉強は異文化の勉強とも言えると思いますが、英語を勉強する動機が日本の文化を世界に紹介したいなんて(そういう人も必要かもしれませんが)外国語の勉強の意味が逆になってませんか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14318386554

729Hart Bel:2025/08/09(土) 18:28:36
Q:
チキンほど、世界中で幅広く親しまれている食べ物も珍しいかもしれません。牛や豚のように宗教的なタブーに引っかかることも少なく、誰もが気兼ねなく口にできる存在です。
フライドチキンやチキンカレー、チキンサラダにローストチキン…子どもも大人も、日常の食卓から特別なごちそうまで、さまざまな場面で登場します。国や文化を問わず、チキンは“安心して出せる料理”の代表格とも言えるでしょう。そんなチキンですが、たったひとつの言葉の違いで、その「姿かたち」ががらりと変わってしまうことがあります。

ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えば オランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。
それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた文化人としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を習得していて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も小さく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、次の英文です。

e① “I ate chicken.”
e② “I ate a chicken.”

諭吉なら、日本語よりも オランダ語に訳した方が 違いが分かりやすかったでしょう。

n① "Ik at kip."
n② "Ik at een kip."

ところが、明治になると オランダ語は途端に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。

j①② 「私は鶏肉を食べた。」

ここで、e①なら丸ごと1匹、e②だったら鶏肉の何か(料理)を食べたってことです。チキンサラダかもしれないしソテーかもしれない。
英語が母国語の人は子供でも無意識に使い分けてます。

そこで質問ですが、私たち日本人の多くは、英語が人生で初めて触れる外国語であり、その文法や語感にはどうしても馴染みづらさがあります。特に、冠詞の「ある・なし」によって意味が変わってしまうような表現は、日本語にはない感覚であるため、単にルールとして覚えるだけでは、なかなか実際の会話や読解に活かすことができません。
このような微妙なニュアンスの違いを、頭ではなく“感覚”として自然に身につけるためには、どのような学び方が有効なのでしょうか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12318149422


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