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スピノザ『エチカ』読書会

1ムラタ:2019/04/22(月) 22:16:33
6月23日(日)よりスピノザ『エチカ』の読書会を新たにはじめることになりました。
新規参加者を募集します。
参加希望者はこの掲示板に書き込むか、久保またはムラタに連絡を下さい。大阪哲学同好会以外の方であっても、どなたでも歓迎いたします。

テキストは中公クラシックスの翻訳『エティカ』(工藤・斎藤訳)を標準のものとして使用しますが、どうしてもこの訳本でなければならないというわけではありません。
第一回の範囲は第一部のはじめから定理15まで(P3〜34)です。
各自読んだ上で参加されることが推奨されます。

日時:6月23日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部最初〜定理15(p3〜34)
会場費1000円を参加者で等分して負担

101久保共生:2019/09/23(月) 23:20:47
横山さんにも、無限様態が議論になった経緯をご説明しておきます。
スピノザは「無限」という語を、多くの場合「他のものに限定されない」というような意味で用いています。
あるいは、定義2において、有限とは、他のものによって限定されるもののことだと述べています。

ところで、様態とは、定義5より、他のもののうちに存在し、他のものによって考えられるもののことを意味します。
しかし、それならば、様態は他のものによって限定されていると解釈されねばならないのではないか。
だがそうだとすれば、様態は常に有限でなくてはならないのであり、「無限様態」なる表現そのものが語義矛盾になりはしないか?

今日の読書会では、このようなことが問題になりました。
結局、未解決のままになったのですが。

102横山信幸:2019/09/23(月) 23:28:23
久保さん、ありがとうございます

103横山信幸:2019/09/23(月) 23:46:58
実体と様態とではまったく別な話なので、それに対応する無限もまったく別のものになる、っていう風に単純に無限の語義が異なると考えてはつまらないですか。

それだけのことと解釈しても良いのかなと、何となく感覚的な思いとして思いました。

104久保共生:2019/09/23(月) 23:54:47
>103

本文を少し読み返してみて、僕もそう思いました。
おっしゃる通りだと思います。
ただ、無限の語義が具体的にどのように違うのかは、結構難しい問題ですが。

105横山信幸:2019/09/24(火) 00:09:03
実体の原因てある無限は、定義からすでにその個物の原因であるので、すでに無限の向こう側まで到達した実無限としての無限を備えているはずである。
それに対して、様態の方はそれをあとから一般化された概念として分節するだけのものなので、どんなに頑張っても無限の向こう側には到達することができない可能無限としての無限でしかない。

という感じではどうでしょう?

106ウラサキ:2019/09/24(火) 08:15:59
横山さん、
「実無限」と「可能無限」の違いをもう少し(出来れば実例を挙げて)説明していただけませんか?

107横山信幸:2019/09/24(火) 10:34:21
【実無限】たとえば、2の平方根1.414…の「…」において無限に続いていく先の「全て」がすでに決定しているのだとする立場。この1.414…の先は終わりがなく無限に続いている。そして終わりがない永遠のその「全て」がすでに決まっているのだとする。限りなくどこまでも終わらないはずの無限の、その無限の全てがすでに実在しているのだとされるので、この無限は「実無限」と呼ばれる。
【可能無限】たとえば、1.414…の「…」の先は、どこまでも続いているというのは同じだが、それはどこまでも計算できる可能性があるというだけで、無限の答えが初めから決定されているわけではない。終わりがない永遠のその「全て」がすでにあるというのは、矛盾でしかなく、神であろうとそれを知ることはできないとするのである。無限とは、その全てが初めからあるのではなく、どこまでも掘り起こすことができるその手順や可能性だとされるので、この無限は「可能無限」と呼ばれる。

という感じです

108ウラサキ:2019/09/24(火) 14:11:17
横山さん、
とすると、同じ2の平方根の値を、実無限とみる立場と可能無限と取る立場があるわけでしょうか?
で、スピノザはその2つの立場を使い分けている、という事でしょうか?

109横山信幸:2019/09/24(火) 15:37:00
ウラサキさん、
スピノザが実無限と可能無限を、意識的に使い分けて分析してたというのは考えにくいかもしれません。でも、
神であるところの実体における無限と、その単なる別のものとしての属性でしかないところの様態における無限とは、異なるイメージを持っていたとは十分に考えられますし、
それが実無限と可能無限に当たるものだったのではないかとする解釈ももしかすると結構妥当なものなんじゃないか、
と、ちらっと思ってるのです。
でも、これは、単なる思い付きですので、僕も確信があって言ってるものでもありません

110ウラサキ:2019/09/24(火) 16:59:18
横山さん、
『エチカ』読んでて思うのですが、「幾何学的秩序に従って論証された」と題しているにも関わらず、
あまり論理的とは思えない記述があちこちに散見されるという事です。
何しろ17世紀のヨーロッパで書かれた文書ですから、語彙が現在とは異なった意味で使用されていたり、
「神」の存在が大前提とされているなど、すんなりとは理解できません。

111久保共生:2019/09/24(火) 17:46:57
横山さん

神=実体を実無限と解釈するのはなんとなく理解できますが、無限様態を可能無限と解釈するのは適切ではないような気がします。
横山さんの可能無限の説明で「無限の答えが初めから決定されているわけではない」と書かれていますが、スピノザは決定論なので、可能無限的な無限の捉え方は支持しないのではないでしょうか。

112横山信幸:2019/09/24(火) 18:47:36
久保さん、
僕の理解がずいぶんと自分勝手に偏っているのだと思います。それで僕は、

スピノザの世界では、実体は神としての原因であることによって、すべてがすでにして無限に決定しているというのはその通りだと思います。でも、
様態は、神ではない他のものとして(人の視点におけるものとして)の世界認識のアイテムなのじゃないかと、僕は考えてるのです。
そして、もしそうであれば、様態に対しては、実体の無限がストレートに対応するものであるとは限らないのじゃないか。それはまたストレートに決定論的に確定されるものだとも限らないのではないか。と疑われそうな気もしています。

確かに、久保さんの言われる通り、無限様態の無限が可能無限だとするのは、短絡的すぎてまずいように思います。(無闇に可能無限を採ってしまったら、排中律を排除する世界モデルになってしまうかもしれません。)
でも、(実体の無限には認知と無関係な無限であるけれども、)様態の無限には、認知との関連を考える余地がありそうにも思われて、しかたありません。

113横山信幸:2019/09/24(火) 21:01:10
そう考えると、
神の「絶対無限」はまさしく「実無限そのもの」を意味するのに対し、
「自己の類において無限」の方は、「人間のコントロールの下で扱えるように処理した実無限」を意味する、
とするのはどうでしょう?

それは、デルタイプシロン論法みたいな仕組みで可能無限として扱えるようにした実無限的なもの、と捉えるとするなら、
「自己の類において無限」を可能無限だとしたのは言い過ぎだったとしても、あながち間違いとも言い切れないとも、考えられるような気もします。

すいません。エライしつこく強引な書き込みになってしまいました。

114ムラタ:2019/09/24(火) 23:14:44
「神=実体=自然に関わる無限」と「無限様態に関わる無限」が異なるというということはスピノザ自身も述べていることですし、実際何となくそうかもな、そうだよなという感じです。

ただ、>>97で紹介したスピノザの手紙の内容自体が難解で、何が言いたいのかいまいち不明瞭です。

久保くんと横山さんは「絶対無限の無限」と「自己の類における無限」を分けて考えていますが(私もそのように考えたいのですが)スピノザに言わせると、それらは共に>>97の(1)の無限に相当するようです。

ついてにちょっと訂正ですが、>>97の(3)の無限は間接無限様態だけでなく有限様態に関わる無限性でもあるようです。なんじゃそりゃという感じですが、そう分類されています。

115久保共生:2019/09/25(水) 00:41:42
>>114

>久保くんと横山さんは「絶対無限の無限」と「自己の類における無限」を分けて考えていますが(私もそのように考えたいのですが)スピノザに言わせると、それらは共に>>97の(1)の無限に相当するようです。

いや、もしかすると少し分かったかもしれません。

まず神は絶対無限であり、本性上、限界を持たないものです。そして、それは無限の属性から成り立っています。
一方神の属性は、自己の類における無限ですが、例えば延長という属性は、同じ本性を持つ如何なるものからも限定されないので、やはり、本性上、限界を持たないものと言えると思います。

ところで、神=実体は、延長という属性のみにおいて考察されるではなく、他の属性、例えば思惟という属性においても考察されえます。
とすれば、神の属性の無限性とは、各々の属性が、それぞれその属性の本性上限界を持たないということになるはずです。(延長なら延長の本性上限界を持たないし、思惟ならば思惟の本性上限界を持たない)
思うに、これが「自己の類における無限」ということなのではないか。
一方、これら無限の属性を全て包摂した唯一の実体が神であり、それこそが「絶対無限」ということになるのではないか。

いかがでしょうか?

116久保共生:2019/09/25(水) 07:34:18
もう一点。
直接無限様態に相当する>>97

(2)その原因ゆえに限界を持たないもの 

についてですが、まず直接無限様態とは、属性の絶対的本性から生ずるものですよね。
そして、属性はその本性上、無限なので、その本性が直接的原因となって生ずる直接無限様態もやはり無限だということになるのではないでしょうか。
原因が無限ならば、その結果も無限という理屈は、少し疑問ではありますが、属性の本性がそのまま反映されたものが直接無限様態だと考えると、一応納得できそうには思えます。
(3)はよく分かりません。

117久保共生:2019/09/25(水) 07:48:07
横山さん

>様態は、神ではない他のものとして(人の視点におけるものとして)の世界認識のアイテムなのじゃないかと、僕は考えてるのです。

横山さんの解釈では、人間の認識は神という実無限には到達できないというふうになりはしないでしょうか?
しかしスピノザは、人間精神は、神の本質に到達しうると考えていると思われます。
というのも、スピノザの神は超越的ではなく、内在的だからです。(第1部定理18)
実際、第2部の定理47では、

人間精神は、神の永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている。

と述べられています。
ですから、横山さんの言い方で言えば、人間の認識はむしろ実無限に到達しうるということになるのではないでしょうか。

118横山信幸:2019/09/25(水) 14:12:38
久保さん、
たしかにスピノザは、様態がことごとく実体に対応するとしているようで、その無限には違いがないと言ってるように思えます。
しかし、中公クラシックス「エティカ」4ページの図のスピノザの属性について「神の属性は無限に多くあるが人間に認識しうる属性は思惟と延長だけ」とし、様態について「思惟の様態」と「延長の様態」としてるのをみると、
様態はやはり人間の認識アイテムであって、実体の無限と様態の無限には明らかにレベルの違いがあるようにも思われます。

そうすると、「定理47人間は永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている」の「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって考えたのですがどうでしょうか。
もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。
という風な感じの話のような気がしました。

来月の大阪哲学同好会ドゥルーズの発表で、「存在の一義性」についても取り上げたいと思ってるのですが、この「十全な認識」は個物や神や存在自体が一義的ではないとしたアリストテレスやトマスに対して、つまり、世界の個物を語る言葉は一般的な存在者を語る言葉で語れるものだけがそのすべてだと、つまり一義的でなければならないはずだということを言っている「存在の一義性」についての主張なのではないのかって、思ったのですがどうなのでしょうか。

119久保共生:2019/09/25(水) 17:26:43
横山さん

>様態はやはり人間の認識アイテムであって、実体の無限と様態の無限には明らかにレベルの違いがあるようにも思われます。

様態が人間の認識アイテムとはどういう意味ですか?よく分かりません。

>そうすると、「定理47人間は永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている」の「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって考えたのですがどうでしょうか。

スピノザが言いそうにもないことだと思うのですが。
本文のどこの記述を根拠におっしゃっていますか?

120久保共生:2019/09/25(水) 17:31:16
それと、

>もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。

というのも、全く意味が分かりません。
上でも言いましたが、スピノザの神は超越的ではなく内在的ですよ。

121横山信幸:2019/09/25(水) 19:36:45
久保さん

>様態が人間の認識アイテムとはどういう意味ですか?

実体は分割されず部分を持たない。だから、実体の、ここの部分がどうだとか何個あるとか何色でどのくらいの量があるとか、それについて語ることも考えることもできないですよね。なので、人間が世界を認知し認識するためには、そこから延長や思惟のついての属性を取り上げて考えて語るしかなく、それを為すことが認識することになるだろうと、そしてだから、それを為すには様態が必須アイテムになるだろうと考えました

>>「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって……
>スピノザが言いそうにもないことだと思うのですが。本文のどこの記述を根拠におっしゃっていますか?

中公クラシックス「エティカ」p17図2「属性はその存在に関して言えば実体と見なされる。しかし、その実体を認識するために側から見れば属性は一つの面を表しているに過ぎない。従って、知性が実体について延長と私意の二つの属性を認識するならば、その二つの属性は二つの実体の存在を表すのではなく、同一の実体の二つの面を表している。つまり、属性は実体の部分ではない。同一の実体は異なる見地あるいは異なる面から考察される」
とあります。僕はここで語られていることを表現したかったのですが、具合の悪い表現をしてしまってたみたいで、申し訳ないです。
表現しなおしてたところで、さらに泥沼のぐだくだになりそうですが、無謀に挑戦してみます。
「人間がそこで認識した世界がすでに無限の本質そのものの実体であるのだから、人間はその世界の外側を認識できることはあり得ない。その意味で人間の認識としては十全だといえるものだ。ただし、それは、実体の無限性に対する認識としての十全である」
ということを言いたかったのです。ダメですね。やっぱりぐだぐたになってしまいました。これは、もう無視してください。


>>もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。
>というのも、全く意味が分かりません。上でも言いましたが、スピノザの神は超越的ではなく内在的ですよ。

これについても、超越者の存在は全然想定してない話だったのに変な言い方をしてしまって上手くなかったです。
すみません。
ここで、僕はウィトゲンシュタイン「論考」を思い浮かべながら語っています。様態が人間の認識アイテムであったとすると、言語が存在そのものに到達すると言った「論考」と考え方が馴染むもののように思ったのです。「論考」の「語り得ないもの」というのは、私秘的な心的内容や個物を語り得ないと解釈されることが多いですが、僕はウィトが「到達する」と言ったのは個物にまで届き得るものだと考えています。なので、まるで、スピノザの汎神論とウィトの世界モデルとがまるで似通った話だと思えたのです。
しかし、ウィト「論考」の分析においては、世界の認識は必ず文によって為され、それは文によるものであるがゆえに必ず有限な範囲かあるいは可能無限の範囲までしかカバーすることができません。
もし、スピノザの様態が認識アイテムという捉え方が正しくて、その認識が人間の考える文によって構成されるものとするのであれば、そこで扱われ得る情報量はたかだか可能無限でしかないのじゃないか、とそう考えた訳です。
一方、実体の方はそのような可能無限とは一線を画した、まさに実無限の情報量かあるいは情報量という捉え方からはみ出してしまうような、レベルの違うものとして考えるものなのじゃないかって気がして仕方ないのです。

もう、僕の考察というよりほとんど妄想ですので、伝わらなくて当たり前なことを言ってしまってると思います。笑って流してください。

122久保共生:2019/09/25(水) 21:13:13
横山さん

丁寧な説明ありがとうございます。おかげで少し分かってきました。

>「人間がそこで認識した世界がすでに無限の本質そのものの実体であるのだから、人間はその世界の外側を認識できることはあり得ない。その意味で人間の認識としては十全だといえるものだ。ただし、それは、実体の無限性に対する認識としての十全である」

なるほど、そういうことが仰りたかったのですか!そして、その通りかもしれません。
つまり横山さんの考えは、人間が神=実体の本質を認識するとは言っても、その都度、何らかの特定の属性において考察するしかなく、無限の属性全てを包摂してしまうような認識は不可能ではないか、ということですよね?
本文をちゃんと読んでいないので断言はできませんが、その考えは僕もおそらく正しいと思います。
そして、おそらく実体それ自体と、人間がその都度認識する実体とのレベルの差が、絶対無限と自己の類における無限の差に当たるのだと思います。

ただそれならば、「様態は人間の認識アイテム」というよりも、「属性は人間の認識アイテム」といった方がよいのではないでしょうか?

123横山信幸:2019/09/25(水) 21:59:23
久保さん、

「属性は人間の認識アイテム」でも正しいとおもいます。でも、

中公クラシックス「エティカ」4ページの図はスピノザの属性について、「神の属性は無限に多くあるが人間に認識しうる属性は思惟と延長だけ」とし、また、様態について「思惟の様態」と「延長の様態」があるとしてます。

それをみて、属性のなかでも人間の認識アイテムとして使えるのは、結果的に様態だけしかないのじゃないかと考えました。それで、「様態は人間の認識アイテム」と言ったわけですが、どうなのでしょうか。

124ムラタ:2019/09/25(水) 22:46:35
僕には自己の類における無限と無限様態の無限の違いがいまひとつ飲み込めません。
それらは共に様態の無限とはならないのでしょうか?

自己の類における無限というのは、例えば延長に関していうと、ある延長A、それを包括するより大きなB、さらにその延長Bを包括する延長C・・・と続いていって、その究極にあるところの、他の何者によっても限界付けられることのない延長の無限性を言うでしょう。
それはあくまで、神における、ある類に限定された無限であるわけで、神に限定されているという意味では有限とも言えると思います。
そして一方、無限様態の無限というのも、直接無限様態にしろ、間接無限様態にしろ、それは神の絶対無限(字義通り、本当にあまねくすべてであるところの無限)とは違って、それは神に含まれているので、やはりその意味では有限と言っていいように思います。

そして、スピノザは>>97の手紙において前者(自己の類における無限)を本性上の限界を持たない無限ということで絶対無限と共に>>97の(1)の無限にカテゴライズし、後者(無限様態の無限)とは別物と考えているようです。
多分その根拠は、無限様態は神という原因の結果として生じている様態だからでしょうが、無限様態を神が原因で生じたものというなら、自己の類における無限(例えば無限延長)だって神が原因といっていいようにも思えます。

「神から生ずる」ということの意味が分からないというのがこの疑問の根底にある気がします。

125久保共生:2019/09/25(水) 23:15:47
>>124

様態は、実体から産出されるので、実体を原因とするものと言えますが、一方で、属性は実体の本質を構成するものですから、実体をその原因と見做すべきではないのではないでしょうか。
神の属性は、神から産出された結果ではなく、神そのものの本質を構成していると見るべきだと思います。

126ムラタ:2019/09/25(水) 23:40:07
>>125
スピノザがそのように考えていることは分かるのですが、無限様態が実体を原因として産出されるということの意味がよくわからないんです。
このことはとりわけ直接無限様態についてそう思います。
スピノザは思惟の属性の直接無限様態が「絶対無限知性」で、延長の属性のそれが「運動」と「静止」と言っています。(定理21の注)
これらが実体を原因として産出されるとは?
このことの意味がよく分からないという感じです。

127久保共生:2019/09/26(木) 00:03:16
>>126

延長という属性の本性から必然的に「運動」や「静止」といったことが帰結してくるということでしょう。
抽象的過ぎていまいち実感が湧かないですが、一応形式的には理解できます。

128ムラタ:2019/09/26(木) 00:49:49
>>127
フーム・・・・
ありがとうございます。
もうちょっと考えてみます。

129横山信幸:2019/09/26(木) 16:45:15
また、思い付きで書き込みます。自分の思考を深く確かめないまま言ってしまってますので、使えそうじゃなかったら、即、笑い流してください。

「自己の類において無限」というのは「無限にある属性のうちの、一つの類としての一属性の中だけでしか言えない無限」で、「絶対無限」が「実体そのものが無限であるゆえに、あらゆる属性のすべてについて言える無限」と解釈するのはどうでしょう?
つまり、「自己の類において無限」と「絶対無限」の違いは無限のサイズや濃度の違いなのじゃなくて、その適応範囲の違いと考えるわけです。
定義6を素直に読もうとすると、どうもそのように読める気がするのです。
なので、これまでの僕の採っていた、無限のサイズ的な違いとする解釈は考え直した方が良いかと知れないと思っています。

「定義6説明 私は絶対無限と言い、自己の類において無限とは言わない。なぜなら自己の類においてのみ無限なものについては、無限に多くの属性を否定できるからである。だか絶対に無限なものについては、本質を表現しいかなる否定も含まないあらゆるものがその本質に属している」

130横山信幸:2019/09/26(木) 17:17:20
そして、

でも僕には、
実体の無限と無限様態の無限のあり方については、〈実体を認識するものとして様態がある〉という、実体と様態の成り立ちを考えるとスピノザの世界においても、〈実体が実無限で様態が可能無限である〉と言えるように思えます。
スピノザが「実体から属性が生じる」と言っていることも、その成り立ちの違いと何かしらの関係がありそうなことを言っているようにも思えます。

しかし、スピノザは、
その〈「実無限」と僕が解釈しているところの「実体の無限」〉と、〈「可能無限」と僕が解釈しているところの「直接無限様態ならびに間接無限様態」〉の無限のサイズや濃度には、それぞれどれも違いがない
と考えているのだ、

という風に考えられるようにも思われています。
「同様に必然的に無限に存在せねばならない」というのは、そういうことなのじゃないか、と考えました。

131横山信幸:2019/09/26(木) 18:13:30
つまり、

実体の無限と
直接無限様態の無限と
間接無限様態の無限には、
成り立ちの違いや様々なとらえられ方の違いがあり、もしかすると、実無限や可能無限とも関連する違いがあるかもしれない。
けれども、
サイズや濃度の違いはない。

と、解釈してみました。

132久保共生:2019/09/26(木) 18:47:05
横山さん

>>129 については、僕もほぼ同じ解釈です。
しかし、>>130については、理解できません。
なぜ直接無限様態ないしは、間接無限様態は、可能無限になるのでしょう?
そもそも可能無限と決定論は両立しうるのですか?

133横山信幸:2019/09/26(木) 19:01:25
久保さんは、可能無限と決定論は両立しないと考えられるのですね。

僕はそれが両立するのに不都合があるとは思われないのですが、なぜ両立できないのですか?

134久保共生:2019/09/26(木) 19:09:28
まず、可能無限なるものがよく分かっていないのですが、少なくとも横山さんの可能無限の説明では

>たとえば、1.414…の「…」の先は、どこまでも続いているというのは同じだが、それはどこまでも計算できる可能性があるというだけで、無限の答えが初めから決定されているわけではない。

と書いています。これは決定論に反しないのですか?

135横山信幸:2019/09/26(木) 19:15:13
なぜ無限様態が可能無限だと考えるのかというと、昨日書き込んだとおり僕は、様態が必ず人間の認識に関わるものだと考えているからです。
それが人間の言語による認識に関わるものである限りにおいて、という話ですが、実体の無限の奥の奥の方は言語の揺らぎでゆらめいて見えてしまわざるを得ないという考え方をしてるからです。
「様態」というものは、そのような捉え方をするのが適当であるような気がするのです

136久保共生:2019/09/26(木) 20:13:51
>>135
「様態が必ず人間の認識に関わる」と取り立てて主張される意図がよく分かりません。
確かに様態は人間の認識に関わると思いますが、それなら実体だって当然人間の認識に関わるでしょう。
様態だけを取り上げる意味が分からないです。

>それが人間の言語による認識に関わるものである限りにおいて、という話ですが、実体の無限の奥の奥の方は言語の揺らぎでゆらめいて見えてしまわざるを得ないという考え方をしてるからです。

何故、言語の話が出てくるのですか?
いくら何でも、ウィトゲンシュタインの『論考』に解釈が引っ張られ過ぎではないですか?
上で

>ウィト「論考」の分析においては、世界の認識は必ず文によって為され、それは文によるものであるがゆえに必ず有限な範囲かあるいは可能無限の範囲までしかカバーすることができません。

と書かれていますが、『エチカ』第2部を読む限り、スピノザの考える世界認識は、『論考』における文(命題)と世界とを対応付けるような見方とは全然別物だと思います。
少なくともこの点においては、両者は全然アナロジカルではないと思います。

137久保共生:2019/09/26(木) 20:23:20
だって、スピノザは、「人間精神は、身体の観念である」というような、かなり独特な認識論を展開するんですよ。
『論考』とは全然違うじゃないですか。

138横山信幸:2019/09/26(木) 20:51:45
>>134
これはまた、僕の表現のまずさのために不要な混乱を招いてしまいました。ご迷惑をお掛けしてすみません。
可能無限が決定論と両立できないとは限らないと僕が考えている理由を説明します。またさらにまずい説明をして、いよいよぐだぐたにしてしまうかもしれませんが、そこは大目に見てください。



野矢茂樹「無限論の教室」では、
実無限を土中から化石を発掘することに例えていて、
可能無限を木材から像を切り出すことに例えていたと思います。(細かいところは違ってたかも知れません。)
ここで、掘り出し切り出す作業は、数値化などの人間による分析作業を比喩します。

つまり、
実無限では掘り出されるべき分析結果が最初から決定しているとするのに対して、
可能無限ではそこにある素材ははじめから決定しているのだけれども、そこから切り出される分析結果は人間の分析方法や分析能力に左右されるものであるから、分析される以前に決定しているものではないとします。



スピノザの世界における実体が木材であるとしてみると、それは切り出されることなどなくても世界がどんなであるかを完全に決定しているものだと言える。
でも、人間が、そこにある世界が何者かを知るためにはそれを自らの言語というナイフで切り刻み、人間が理解できるような意味を切り出す必要がある。ところが人間は己のナイフの分析可能性をはじめから無限に知っているわけではないので、実際に切り出されるまではそこに何者が切り出されるのかが決定しているわけではない。
というイメージで考えるわけです。

「実体」は、決定論的に、はじめからしっかりと固定的なものとして存在してるのだけれども、それを認識し分析するナイフとしてのアイテム「様態」の切り方は必ずしも事前に決定されてないかも知れず、分析されてみて初めてはっきりするだけである。

というように、可能無限とスピノザの世界がとてもしっくりするようにイメージできると思えました。

そんな感じで、僕はスピノザの世界を決定論として捉え、その決定論と可能無限とがとても馴染むものだと考えたのです。

139横山信幸:2019/09/26(木) 20:54:09
>>137
そうですね。「論考」に引っ張られすぎというのはそのとおりかも知れません

140横山信幸:2019/09/26(木) 21:03:20
>>136
そうですか。2部をみると、スピノザの考える人間の認識は「論考」的言語観とは無関係ですか。

これは、ずいぶんと早とちりな考えをしてしまってました。失礼しました。
その辺りの僕の主張をごっそりと忘れてください。
ちゃんと2部を読んでからまた考え直してみたいと思います。

141久保共生:2019/09/26(木) 21:23:07
>「実体」は、決定論的に、はじめからしっかりと固定的なものとして存在してるのだけれども、それを認識し分析するナイフとしてのアイテム「様態」の切り方は必ずしも事前に決定されてないかも知れず、分析されてみて初めてはっきりするだけである。

様態というのは、実体の本性の必然性から生じてくるものですよね。スピノザは、

第一部定理29 自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない、いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている。

とまで言っているのですから、やはり様態が可能無限だというのはしっくりきません。
様態は実体から産出された結果であり、その結果は実体の本性の必然性によってあらかじめ決定されているのであれば、様態は人間の認識能力に左右されるわけではないということになるのではないでしょうか。

142横山信幸:2019/09/26(木) 22:10:17
>>141
久保さん、ありがとうございます。
なるほど、様態が可能無限ではないこと、少しわかってきたかもしれません。
しかし、もう少しこだわって可能無限的な捉え方ができないかという考えを無理して引っ張ってみます。


人間自身も世界のなかにある実体であるところの存在者なのであるから、その認識の仕方も認識の内容も最初から無限に完全に決定されている。だから人間の認識の様式としての様態も、(ある意味では人間の側の視点による「偶有性」があるとすることができたとしても、)すべてこの世界において完全に必然的なものである。
しかし、それはもしかすると「その人間の認識がその世界をどう理解するかが不完全で不十分なものでしかない」ということが、完全な必然性において決定されているものかもしれない。

そのように考えたとき、
その「様態の偶有性」というものは、
我々が神の視点にたって語ろうとするときには必然的な決定として語られ、
我々が幼子の視点にたって語ろうとするときには決定されるかどうか分からない偶然的なものとして語られるものになるでしょう。

そのように捉えるとするなら、そこで語られる「様態の偶有性」は、すでに決定されているわけですから、
もはや「可能無限」とされるべきものではないかも知れません。

しかし、僕はそこに、実無限でありながら、可能無限でもあるとするような捉え方が残されてるような気がして仕方ないのです。
木材から像を切り出す時のその切り出し方がすでにはじめっから決定されていたのだとしても、それでも、切り出す人間にとっては、切り出されない限りそこに像は隠されていず、発掘されるのではなく、切り出されて初めて発明される。



という捉え方は無理筋でしょうか。ある意味で、「様態の偶有性」を掴めてるんじゃないかって気も、まだちょっぴりとしてるのですが、ダメですかねえ。

143横山信幸:2019/09/26(木) 22:21:16
ずいぶんお騒がせな書き込みをしてしまっていますが、皆さんにご迷惑をお掛けしてしまったお陰で、僕としてはかなり理解が深められた感じがしています。(理解が進んだかどうかは怪しいですが。)僕としては、ずいぶん良い討論ができたと嬉しがっています。

なんか申し訳ですが、ご勘弁ください。

144ムラタ:2019/09/27(金) 00:13:24
横からスミマセン

ちょっと読み返していてびっくりしたのですが、中公クラシックスの『エティカ』のp.33の注に、しっかりとスピノザが無限を4つの種類に分けて考えているという説明があるのですね。

それによると無限様態の無限は
2.みずからの本性によってでなく、原因によって無限であるもの
とされています。
つまり、神の無限性によって無限であるのが無限様態の無限というわけですね。

さて、
「実無限」とは無限のものがそこにあるのだという立場から捉えたときの無限で、
「可能無限」とは可能性としてのみ考えられる無限
のことでしょう。

例えば、線分に無限の点がそこに含まれると考えるのが実無限派の無限解釈で、
線分から無限の点を切り取ることができると考えるのが可能無限派の無限解釈です。

なので、無限様態の無限は可能無限のことであるとか実無限のことであるという話は、スピノザからすると「そんな話をしてるんじゃない」ということになるのではないでしょうか?

145ムラタ:2019/09/27(金) 00:23:14
ただ、無限様態の原因である神の無限性はあきらかにスピノザは実無限的に考えていると僕には思われます。
すなわち、神が絶対無限の存在者というときの無限は実無限的な無限、つまり、そこには無限のものがあるのだと捉えられているでしょう。

146ムラタ:2019/09/27(金) 00:28:51
>>145の根拠は定義6です。

147横山信幸:2019/09/27(金) 01:18:51
ムラタさん、久保さん、ありがとうございます。
僕の可能無限による解釈はやはり無理があるようですね。
何かしら当たりのある読解アイデアかと思ってたのてすが、あきらめて考え直します。
僕は何でもウィトゲンシュタインに引っ張って読む癖があるので、どうといけませんね。

ドゥルーズ「差異と反復」のスピノザ論が、様態に深く関わることを言ってまして、そこでも僕の読みがウィトゲンシュタインに引っ張って読んでいましたので、そのままの勢いで、可能無限を問うてしまいました。
そこで僕が考えていたのは、スピノザの「神=自然」という世界把握によって、「実体と様態」と「個体と一般」の関係がそれぞれ双方向的なものとなったのじゃないかというものだったのですが、「可能無限」では、そこのところの問いと上手くリンクすることは難しいみたいです。再度、考え直します。

「差異と反復」のスピノザ論をウィトゲンシュタインに引っ張った僕の問いは、次回の同好会例会でも紹介させてもらいたいと思っています。
ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-13cc.html
にも挙げてますので、よろしければご覧ください。

148則天去私:2019/10/05(土) 18:40:56
かなり勝手な思いつきですが、唯物論と無神論は関係あるのでしょうか?もし関係あるならば、ヒュームは確か無神論だったので、唯物論になるのでしょうか?

149久保共生:2019/10/05(土) 19:28:45
>>148

ヒュームについてはよく知らないので何とも言えませんが、少なくとも無神論者だからといって、唯物論者とは限らないでしょう。
たとえば独我論は、普通無神論でしょうが、だからといって唯物論ではないですから。

150ウラサキ:2019/10/06(日) 05:06:56
ヒュームは無神論ですが、唯物論ではありません。感覚一元論という経験論の一種です。
また、バークリは独我論的な観念論ですが、有神論です。
唯物論者は定義上、「神」という精神的な存在は認めないので、無神論に傾きますが、
スピノザのように、「神=自然」という汎神論の立場を取る者も居ます。

151則天去私:2019/10/15(火) 05:34:49
おはようございます。
またかじりかけの知識ですみませんが、デカルトの『方法序説』は、平明な言葉で書かれているのに、スピノザの『エチカ』は、スコラ哲学の用語をふんだんにちりばめて、幾何学的構成という難しい構成にしたのは何故でしょう?用語や文体が時代に逆行している印象を受けます。スピノザの時代は、オランダ的用語改革や、オランダ的文体改革が進んでなかったのでしょうか?

152ウラサキ:2019/10/15(火) 07:52:36
スピノザの個人的趣味ではないでしょうか?
あるいは彼の思想の無神論的な側面を隠匿する目的もあったのかも知れません。

153おぐす:2019/10/26(土) 11:59:55
風邪をこじらせたようで明日10月27日(日)の読書会を欠席します。
該当範囲は読んだのですが難解でした。
掲示板では久保さん、ムラタさん、横山さんの鼎談風の論議にずいぶん啓蒙されました。
文章だと、ご意見を反芻できるのでうれしいです。

154久保共生:2019/10/26(土) 18:28:00
了解しました。
お大事になさってください。
次回の日程はまたここに書き込みます。

155ムラタ:2019/10/27(日) 21:53:01
次回の詳細です。よろしくお願いします。

日時:12月1日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部付録〜第2部公理5(中公クラシックス p.68〜85)
会場費1000円を参加者で等分して負担

156ムラタ:2019/10/27(日) 22:02:32
完全に私事で恐縮ですが、どこかで家の鍵を紛失してしまいました。
もし教会内に落ちていたら、一報いただけないでしょうか。
ここに書き込んでも無意義な気もしますが。

157おぐす:2019/12/01(日) 19:40:52
エチカ読書会2月、3月の会場を下記の日時で予約しました。

2月エチカ読書会
場所 大阪市立浪速区民センター
    第6会議室
日時 2月23日(日)
    午後2時〜午後5時

3月エチカ読書会
場所 大阪市立浪速区民センター
    第6会議室
日時 3月20日(金)春分の日
    午後2時〜午後5時

いずれも使用時間は午後1時からの予約です。
訂正があればお願いします。

158ムラタ:2019/12/01(日) 22:22:58
次回の詳細をお知らせします。

日時:1月5日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第2部冒頭〜第2部定理13(中公クラシックス p.82〜105)
会場費1000円を参加者で等分して負担

159ムラタ:2019/12/01(日) 22:30:33
おぐすさんさん、早速ありがとうございます。

予約も取れたということで、
2月の会は2月23日(日)14時〜17時
3月の会は3月20日(金・祝)14時〜17時

となります。

2月より会場が浪速区民センターに変更になりますのでご注意を。
現在参加者5名程度ですが、新規参加者も引き続き募集中です。

160ムラタ:2019/12/03(火) 07:23:30
先の会で、因果関係について興味深い議論が起こりました。
神を直接原因として様態が産出されたという場合の因果関係をどのように理解すべきかという議論です。これは流れてしまうには勿体ない重要な論点だと思われますので、ここに僕の疑問と管見を書き残しておきます。

どのような疑問かというと、
疑問1.「スピノザは2種類の因果関係を想定あるいは混同しているのではないか?」また、
疑問2.「もし2種類の因果関係が認められるとすると、そのうちのひとつである、神を直接原因としてある様態が生じたというタイプの因果関係(下の因果関係B)についてはどのように理解すればいいか?」
というものです。

2つの因果関係について説明します。

因果関係のうち、ひとつはある有限様態を原因とし、その結果、ある有限様態が生じた因果関係(因果関係Aとします)です。これはふつう因果関係と呼ばれているものを指すものです。例えば、ビリヤードで運動する3番の球が静止した7番の球に衝突した結果7番の球が動き出す、といったような、因果関係です。
『エティカ(中公クラシックス)』では例えば定理28
「あらゆる個物、あるいは有限でかぎられた存在をもつあらゆるものは、自分と同じように有限でかぎられた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることによって、はじめて存在することができるし(以下略)」
として語られる因果関係です。

もう一方の因果関係(因果関係Bとします)は、神から直接様態が産出されるという因果関係です。『エティカ(同)』においては、例えば、上と同じく定理28の注解において
「神は、神自身が直接に産出したものの絶対的な最近原因となる。」
として語られている因果関係です。

思うに、因果関係AとBは別に考えなければ、神を直接原因として産出するという因果関係Bの方が理解不可能、あるいはナンセンスなおとぎ話に堕ちてしまいます。では因果関係AとBにどのような相違があるかというと、今の所の僕の管見を述べさせてもらうと、因果関係Aは時間的な因果関係で、スピノザの用語を使えば持続的なものですが、それに対し、因果関係Bは無時間的な因果関係で、永遠的なものとして理解すべきではないかということです。無時間的な因果関係というのが著しく抽象的かつ形而上学的なのですが、そう捉えるしかないのではと考えています。しかしこのあたりはいまひとつ腑に落ちた感じがせず、また、自信もありません。
どなたか、特に疑問2についてご教示あれば幸いです。

161横山信幸:2019/12/07(土) 08:59:43
>>160
ムラタさん、

その議論をきちんと捉えられてないままに思い付きで返信していますので、
まったく見当外れの話をしてしまうかも知れませんが「またか」と笑い流してください。

もしかすると、そのAとBの因果は、必然性と偶然性のレベルの違いではないでしようか?
Aは有限なレベルで法則として捉えられているけれども神の無限のレベルから見るならまったく不確かな仮説的必然としての因果関係。
Bは神の無限から見ても確実で絶対的必然としての因果関係。みたいな感じて考えるのはどうでしょうか。

メイヤスーは偶然を次の2つに分けてました。
【hasardアザー 】その状況を実現させる諸法則を想定した上での可能性のランダムさ。何が起こるかは偶然だがその偶然は必然的法則に支配される
【contingenceコンタンジョンス 】アザーによって出来事が起こることを可能にする条件に影響を与える偶然性。アザーのカテゴリーに包摂することができない

それで、この2つの偶然性でもって判別して、

Aは、アザーを支配するけどコンタンジョンスを支配することはできない。
で、
Bは、コンタンジョンスさえ支配するかもしれない。
というような、「必然性の程度の違い」という感じで区別するってのはどうでしょう

162ムラタ:2019/12/07(土) 12:00:06
>>161 横山さん


>(因果関係)Aは、アザーを支配するけどコンタンジョンスを支配することはできない。で、
>(因果関係)Bは、コンタンジョンスさえ支配するかもしれない。
というような、「必然性の程度の違い」という感じで区別するってのはどうでしょう

hasardやcontingenceといった偶然性の概念でもってスピノザのふたつの因果関係の相違を理解するのは不合理だと思います。
というのも、スピノザの理論は偶然性を一切認めず、すべては必然と捉えているからです。

定理29「自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない、いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている」

163横山信幸:2019/12/07(土) 13:38:46
>>162
違いましたか("⌒∇⌒")

164ムラタ:2019/12/07(土) 19:59:49
>>163
いえ、今後もご意見いただけたらと存じます。

165則天去私:2020/01/03(金) 07:48:10
久々に投稿します。
どうもスピノザはエチカで、神が思惟する物と言ったり観念と言ったり、人間精神の観念の対象は身体と言ったり、物と観念を区別していないところが、デカルトと違うのかな、と思いました。

166ムラタ:2020/01/04(土) 09:01:49
やはり実家の用事で明後日5日は欠席します。
久保君、申し訳ないですが、次回の範囲ここに書き込んでおいてもらえますか。

167久保共生:2020/01/04(土) 18:50:16
ムラタさん

了解しました。

168久保共生:2020/01/06(月) 19:28:53
次回の詳細をお知らせします。

日時:2月23日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第6会議室
範囲:第2部定理8〜補助定理7(中公クラシックス p.93〜113)
会場費1560円を参加者で等分して負担

169ウラサキ:2020/02/22(土) 11:18:57
すみません。学年末考査問題を作らなくてはなりませんので、2月23日(日)は途中退席させて頂くことになりそうです(^^;)

170ムラタ:2020/02/22(土) 11:41:42
ウラサキさん

了解いたしました

171ムラタ:2020/02/23(日) 19:55:47
次回の詳細をお知らせします。

日時:3月20日(金・春分の日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第6会議室
範囲:第2部定理12〜定理17(中公クラシックス p.100〜120)
会場費1560円を参加者で等分して負担

172おぐす:2020/02/24(月) 15:50:44
ムラタさん

次回の日時の告知をありがとうございます。

余談ですが休憩時に芥川龍之介と漱石の全集が現代仮名遣いになっているという話を伺って、もはや世も末か(笑)とショックでした。
私蔵の全集は歴史的仮名遣いですが、以前のものなのでまさかと思いつつも、近所のジュンク堂で芥川龍之介全集と漱石全集の岩波の
最新版をおそるおそる覗いてみると、ふつうに歴史的仮名遣いになっていたのでホッとしました。

ただし漢字字体が新字体になっていたのでムラタさんのおっしゃっていたのは字体のことだったのだろうと思いました。
ちなみに昭和50年代に筑摩が「全集類聚」と銘打って現代仮名遣いで、日記、書簡もない全集とはほど遠い代物を出したことがあり、
営業のためとはいえ筑摩の見識を疑ったものでしたが、まだふつうの全集は安泰のようです。

現代仮名遣いの文庫本を卒論の底本にする剛の若者もいるらしい昨今(もちろん認められません)ですが、これからデータベースはネットで
という時代になっていくのかもしれません。自分みたくネット音痴のガラパゴスには世の中何が起こっても文句は言えないなあと慨嘆して
います。

173ムラタ:2020/02/24(月) 19:09:18
おぐすさん

新字新仮名か旧字旧仮名のどちらかだと思ってましたが、まさか新字旧仮名だったとは。新字の記憶があったのでてっきり仮名も新仮名だろうと思い込んでいました。すいません。
全集なんて読もうと思うのは研究目的かよほどのマニアなので旧字旧仮名で良いのでは?と思いますが、どうして岩波は新字旧かななんて中途半端なものを作ってしまったのでしょうか。自分も確か芥川全集を敢えて古いものを購入したのは旧字で読みたかったからでした。

昔の作家は今と違って一字一句に心血を注いでいるので、作家のためにもせめて全集は旧字旧仮名であってほしいですね。文庫本が新字新仮名なのは仕方がないですが。
特に芥川なんて極度に一字一句こだわって書いた作家だと思うのですが。彼の言葉遣いは精厳を極めています。

174ムラタ:2020/03/20(金) 21:29:56
次回の詳細をお知らせします。

日時:4月26日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第6会議室
範囲:補助定理6〜定理26(中公クラシックス p.111〜130)
会場費1560円を参加者で等分して負担

175ムラタ:2020/03/20(金) 21:34:08
今回、ニュートンの方がスピノザよりも先の人だという旨の発言をしましたが、
調べたところ事実はそれと反対でニュートン1643年生まれ、スピノザ1632年生まれでしたので訂正させていただきます。

176ムラタ:2020/04/11(土) 12:53:40
浪速区民センターのホームページに記載されていますが、4/11から5/6までの期間は施設の利用自粛を強くお願いするとのことです。
次回の4月26日はこの期間に該当しますが、予定通り開催しますか?それとも延期にしますか?
皆様のご意見承りたく存じます。
4/11現在、大阪府の人口882万人に対して感染者数589人、死者6人なので少なくとも現状は自粛するほど高いリスクだとは私には思われませんが、国・府・市・施設が自粛をお願いするのならそれに従ってもいいようにも思えます。

177ウラサキ:2020/04/11(土) 15:22:29
私は個人的には5〜6人の会合を自粛するまでも無いと思いますが、
もし高齢の方々が気になさるのなら延期でも構いません。

178久保共生:2020/04/11(土) 21:16:46
僕自身も、千人を超えるような大規模なイベントではない限り、今のところ大したリスクはないと考えています。
ただ、一応緊急事態宣言が出ていますし、高齢の方もおられますし、何より別に急ぎの用でもないので、念のため延期してもよいとは思います。

179ムラタ:2020/04/12(日) 12:16:42
野口さんとおぐすさん読んでないかな?

180おぐす:2020/04/12(日) 12:27:33
区民会館のホームページを見ました。
自粛に法的な制約ではないので無暗に従うことはないと思いますが「誓約書」を書かされる
のは個人的には厭ですね。
合意、了解すればいいレベルなのに「誓約書」を出せと言われる筋合いはないよという気持
ちです。「誓約書」を提出するくらいなら延期がいいです。

あとキャンセル料を免除、という物言いもおかしい。
キャンセル料というのは不履行に対するペナルティ、罰金の意味合いなので、今回の場合、
キャンセル料を免除というより、自粛をお願いする方から利用者に対して贖われるのが
ふつうでしょう。
単にキャンセル料は発生しませんとすればよいところを、免除とはなんぞや(笑)。こうい
うところで役所の体質というのは出るものです。

日本の感染者数は当てになりませんね。今月になってずっと喉の痛みと微熱があって、妻や
身内に感染させるのは避けたいので、検査をお願いしましたがダメでした。帰国者や濃厚接
触者でない限り、陽性が判明した時点で、その人は重篤の可能性がある。つまり重篤の入口
にある人しか検査は受けられません(笑)。
現在、自分が感染者であってもいたしかたないですが、他人に移すのは忍びないという思い
です。

オーストリア、クラーゲンフルト在住の知人によれば、外出禁止令が出ていて、許可なく街
中に出て職質にひっかかれば4000ユーロの罰金を徴収されるとのことです。日本円でなんと
約50万円です。クラーゲンフルトはイタリアに近いという事情があるのかもしれません
が。今は解除されているかも。

数日前から無聊を慰めるために「ペスト」を読んでいます。カミュではなくデフォーの方で
す。かの「ロビンソン・クルーソー」の著者ですね。「ペスト」といえばこちらが本元です
がなぜかあまり読まれていない。
1665年、ロンドンがペストに襲われ街は死臭の中に沈みます。生粋のロンドン子であった
デフォーは「死亡週報」等の資料を参照して「ペスト」というノンフィクション作品として
出版しました。ほぼ事実による惨事なので資料としての価値もあります。

ロンドン疫癘に病みたり
時に1665年
鬼籍に入る者、その数十万
されど、われ生きながらえてあり。

メメント・モリという言葉がリアリティを持っていた時代でした。

181おぐす:2020/04/12(日) 13:00:23
前のコメントの後ろに余白が大きくなってすみません。

もし延期にするのであれば区民センターは自宅に近いのでいつでも窓口には行けます。
5月は24日(日)を予約していますが、みなさんの都合がつく日で、次々回、6月の部屋をおさえるのであればやっておきます。

182ウラサキ:2020/04/12(日) 15:18:01
おぐすさんの体調を考えれば、延期した方が良いのではないかと思います。

183ムラタ:2020/04/12(日) 16:07:55
4月の会は中止にしておきましょうか。
あとは野口さんの意見ですが、ここを見られない可能性もあるので、
久保君、もし本日中に野口さんの書き込みがなければ、
申し訳ないですが野口さんに連絡入れてくれませんか?
僕は連絡先を知らないので。

184野口:2020/04/12(日) 21:20:44
野口です。皆さんのコメント読みました。
延期に賛成です。癌で免疫が下がっているようですので。
日時はお任せします。いつでもokです。

185久保共生:2020/04/12(日) 21:28:20
了解しました。
では4月の読書会は中止ということでお願いします。
念のため野口さんには連絡を入れておきます。

おぐすさん、体調が優れない中申し訳ありませんが、4月分のキャンセルをお願いしてもよろしいでしょうか?

186おぐす:2020/04/13(月) 08:55:27
わかりました。今日にでも4月26日(日)のキャンセルをしておきます。

適当に運動しないとだめなのでけっこう散歩はしています。区民センターあたりが距離的にちょうどいいんです。
たぶん風邪が治りきらずにぐずついているのだと思うのですが、もともと蒲柳の質なので見極めがややこしい(笑)。
人前で咳をしないように気をつけています。

こういう時期なので皆さんも風邪など召しませんようにご自愛ください。

187ムラタ:2020/04/13(月) 11:34:24
>>186
お手数かけます。
おぐすさんもご自愛下さい。

188ムラタ:2020/05/15(金) 21:38:11
明日から浪速区民センターが開館するようなので、次回の会は開けそうですね。

詳細を貼っておきます。
日時:5月24日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第9会議室
範囲:補助定理6〜定理26(中公クラシックス p.111〜130)
会場費1560円を参加者で等分して負担

189おぐす:2020/05/16(土) 11:13:39
区民センターが開館したので6月以降の使用の受付も今日から可能になりました。
今なら6月7日(日)、14日(日)、21日(日)は空室があります、早めにおさえた方がよいかもしれません。
14日、21日あたりが適当かと思いますがいかがでしょうか。
皆さんのご都合が分かれば予約しておきますが。

190おぐす:2020/05/16(土) 11:21:45
失礼しました。
6月14日(日)は「カントの先天総合判断について」ですね。
なので7日、21日のいずれかではないかと思います。

191ムラタ:2020/05/16(土) 16:29:52
僕は6月はいつでも構いません。
ただ7日は少々早すぎるように感じます。
21日か、あるいは28日はいけないのでしょうか?
今、区民センターのHPで調べたら6/28は第5、第9、和室は空いているようでしたが。
これらは何らかの理由でよろしくない部屋なんでしたっけ?

192ウラサキ:2020/05/16(土) 18:22:30
6月28日(日)はPragmatism読書会につき、私は参加できません。
又、第5会議室と和室は利用料金が2,160円になります。

193ムラタ:2020/05/16(土) 18:34:02
なるほど、では21日がベストなのでしょうか。
ほかの方の都合はどうでしょう?

194おぐす:2020/05/16(土) 21:12:24
ムラタさんは21日がベストということですね。
わたしは7日でも21日でもOKです。
久保さん、野口さん、参加予定の方のご都合はいかがでしょうか。

195久保共生:2020/05/16(土) 22:22:52
僕も父も21日でOKです。
よろしくお願いします。

196野口:2020/05/17(日) 21:59:15
21日でOKです。お願いします。

197ムラタ:2020/05/18(月) 15:17:55
では6月は21日にしておきましょうか。
おぐすさん、毎度申し訳ありませんが、可能ならば予約のほうよろしくお願いします。

198おぐす:2020/05/18(月) 19:48:02
6月のエチカ読書会は6月21日(日)で本日予約しました。
2F第4会議室です。

ひとつ馬鹿げた情報です。
大阪府の緊急事態宣言は延長、ただし使用制限の一部解除により、5月末まで区民センター
の施設は「会議」での利用でのみ許可するが、読書会、研究会は許可できない旨を窓口で告げ
られました。
読書会、研究会はイベントの類いに該当するので不可で、「会議」はそれにあらず使用許可
ということです。
催しの規模、人数等は検討せず、議題によってはよほど三密、大声、唾き飛び交うの可能性
もあるいかなる「会議」であっても「会議」であればよろしいというわけ。

以上の経緯により5月24日(日)のエチカ読書会は「読書会」にあらず名目上は「会議」です。
読書会の「会議」に利用する旨の書面を提出すると、あっさり許可されました。議題はエチカ
ということで。やれやれ(笑)
まったく噴飯もののお役所仕事ですが、窓口の職員と議論しても疲れるだけなので止しました。
ただし小生の勝手な判断なので、読書会の皆様は了とせられるでしょうか。ダメなら取り消し
ます。

199ムラタ:2020/05/18(月) 21:27:55
>>198
おぐすさん

早速の予約ありがとうございました。
おぐすさんの対応で良かったと思います。
見事なまでの形式主義で、ちょっと笑ってしまいました。

僕は役人や政治家にも少し同情しています。
だって、役人は政治家の指示に従うしかないし、
政治家は票のため国民の感情におもねるしかないからです。
やっぱり国民が実際のリスク以上に怖がりすぎているのが根本的な問題のように思います。
死者数でいえばインフルエンザの十分の一以下なのですが、インフルエンザの十倍以上恐れているように見えます。

200久保共生:2020/05/19(火) 00:51:58
>>198

おぐすさん、ありがとうございます。
緊急事態宣言下とは言え、あまりにバカバカし過ぎて笑ってしまいました。

まあ今回はエチカ会議ということでやりましょう。(笑)


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