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TK師との会話

1TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

58TK:2013/09/21(土) 05:19:00
私も誤認覚者と同じことをしていたことがあります。

確かにその時には、
それはとても理想にかなったこれより先は無いと思えるような素晴らしいものだと思っていました。

この時期には理屈(理想)が全ての原動力になります。

出来るだけ、高い理屈(理想)を持つことです。

多くの者たちをこの高い理屈(理想)の元に先導し、
これから幸せな世界、社会を作っていくのだと言う大志がありました。

良いですね。

出来るだけ高い理屈(理想)が良い、それがこの段階の人の正しい進み方です。

ラピ。さんにもこのような時期があったと思います。

もちろん進む先には、障害が多数出てくる事でしょう。

しかし、精一杯頑張れば、やりとおせる、みんなで力を合わせればやりとおせる、
そう思います。

そして、幸せな社会を作って下さい。

もちろん、これより上の次元から見たら、これはエセ実践者の世界ですが、
気にすることはありません、障害に立ち向かい進んでいきましょう。

きっと立派な社会が出来上がる、そのように思います。

賛同する人も多数出てくる事でしょう。

正しい社会を作る、方向性は良いです、頑張って下さい。

今のはかなり低い人の次元向けの教えですが、
私やラピ。さんが多く多くここで語っていたのはこの上の次元の人向けの話しでした。

次元によって説く内容が変わるのです。

私もこのような色々な人の次元向けの内容をごちゃまぜに語ってますが、
聞く人は混乱するかもしれませんね。

59ラピ。:2013/09/21(土) 07:14:15
☆TK師

いつもありがとうございます!

そうですね。確かに人それぞれに段階がありますね。
私もいろんな段階を経て至りました。

ちなみに参考になるかもしれないので
私のことについて書いてみます。(何度もかいてますが、、、)

まず、第一の実践のきっかけは
わがままな自分を反省して
(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
得た答えでした。

この時の自分は
「こんな私ではダメだ。ダメだ!」という感じで
実は「下から」ができていたように思います。

とことんしました。
なぜなら私はダメな人間だから
努力するしかなかったからです。

そして第2の実践。
この実践のきっかけは
それまでの実践を否定される出来事が起こったからであり、
私はこれまたどう生きていけばいいか、との問いから得た
いわゆる「能力開発」のための実践でした。

自分の存在の価値が欲しかったのもあるかも。
なんてったって、私を否定する出来事があったから。
(この否定された私こそ、幻なんだけどね)

そして人の限界はどこまでなのか、
この世界の人々の限界を私が証明しよう!
なんて偉そうに思い(笑)でも、だからこそ、しつこく実践できました。

なぜなら人類代表としての実践だったからです。やめるわけにはいかない。
(めちゃくちゃ 妄想入ってます。)
でもこれが大きな原動力でした。

ちなみに私は一人っきりの実践でした。
孤独に実践です。

その実践から彼岸に渡りかけてその実践も終了しました。
それがある意味限界だ、と思っていました。
(至るとはどういうことなのか、わかっていなかったので)

そして第3の実践。
このきっかけは思い出すと、
「なぜ、私は覚醒を求めていたのだろう。
(よく、「覚醒するんだ!」って言ってました)
そうか、幸せになりたいから求めているんだ。
それなら直接幸せになればいいじゃない?
覚醒なんて目指さなくていい」
これでした。

だからここから「私は幸せ!!!」と言い続ける道を歩き始めます。
絶対的幸せがいいのだから
そしてどんな瞬間も幸せ!がいいのだから
今からそうであるよう、存在するのだ!

だから常に「幸せ〜!」なんて言ってました。
かつてのブログにもそう書き続けてましたね。

そして割と幸せな状態が保てていたので
(気持ちを切り替えるのが上手になっていました)
なかなかいい場所(覚醒に近い場所)にいるのではないか
なんて思ってました。

そこで師との出会い。

私のこの妄想が打ち砕かれました。
一からのやり直し。

第1の実践を一からやり直し、ということになりました。
私はまだまだで、まったくだめで もっとも下から実践しなければならない
という姿勢です。

ここでさらに師から厳しいことを言われました。
その時の私の正直な気持ちは
「それするの?嫌だなぁ、、、。でもすると決めたんだからやるのだ!」
というものでした。

かなりの葛藤が起こりました。

そしてこの葛藤から逃げず、葛藤する方向へ進みました。
葛藤できなくなるまで葛藤し続ける、という感じですかね。

そして葛藤の限界が来たとき、
ふとそれは訪れました。

@(*・ω・*)ポッ

60TK:2013/09/21(土) 11:11:15
この低い次元の第一次実践はそれより先の次元に進むためには必要なプロセスです。

特徴は、エゴを精一杯自分の良いと思う方向で利用すると言う実践なのです。

もちろん、これは今我らの次元からの目で見た解説ですから、
実際はこの低い次元の実践が必要な段階の人は、
我らと違ってエゴの動きが見えません。

これをイエスは「盲人」と言う表現を使っていましたが。


マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

今になって考えてみたら放っておくことには意味がありました。

穴に落ち込んでから次が始まるのですから。

私ももがく以外に身動きのできない、真っ暗な穴に落ちた経験者です。

その後にイエスの教えに出会いました。


>まず、第一の実践のきっかけは
>わがままな自分を反省して
>(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
>でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
>「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
>得た答えでした。



第1次実践時のラピ。さんもそうでしたが、それまでの散漫なエゴの在り方に、
一定の正しい方向性(目的)を持たせることが特徴です。

主な特徴はエゴの中の人間でエゴの動きが見えていないので、
エゴを利用して正しさを実現しようとする点ですね。

最初はやはりここからです。

「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」、ラピ。さんの話しを聞いて、
この言葉を私が最初に目にした時には完璧過ぎてうまくないだろうと思いました。

なぜなら、最初からエゴ殺しの完璧な内容になっていたからです。

ただ、当然ながらエゴの動きが見えてない上での実践なので、
実践の不完全実行になっていましたから、結局同じ事だったのです。

ただ、精一杯があったから、
やがて盲人が落ちる真っ暗闇の穴に落ちることが出来ました。

穴に落ちる事も出来ない「盲人」は同じ盲人でもダメ「盲人」です、
箸にも棒にも落ちる穴にさえも見放されています。

我々の教えの次元は、ほとんど、「穴」に落ちた段階の者にしか用が無いものです。

ラピ。さんにもう一度私がこの実践を踏ませた時には、
エゴの動きを見抜ける私の悟った目を使いましたから、
エゴ殺しの手段であるこの実践内容の完全実行が行われました。

しかし、この完全実行をさせるかどうかのために、
約4カ月の期間を費やしましたが。

(続きます)

61TK:2013/09/21(土) 11:12:01
(続きです)

私自身のエゴ殺し、すなわち第2次実践段階は、
私は私の特殊性で実践段階で悟った者と同精度に近い自分のエゴを見抜ける目があった事によります。

私に自分を見抜く高い精度の目が無かったら、
今の所に至るのは無理だったと思います。

スピ。系で言えばワクワクと言う実践が、
「ワクワク(思い)」を拠り所に散漫になっているエゴに方向性づけると言う点で、
この第1次実践にあたります。

まず、第1次実践段階を要約すれば、
物質として正しい方向で生きると言う表現が近いものですね。

第2次実践は、物質である自分を捨てて、
自分の精神だけにターゲットを合わせて進む実践で、
第1次実践では思いを拠り所に正しさの追求ですから、
楽しいことも多くありますし、生きがいも付随しますが、
第2次実践ではそれはありません、一言でいえば地獄(激流)です。

第2次実践ではワクワクしない時に意識的にワクワクさせ行動したり、
喜べないような出来事に喜んで行動したり、このレベルの実践になりますから、
自然に心から喜べるような生き方はありません。

「意識的に」心をワクワクさせたり喜ばせたり、
自然な状態の悲しんだり喜んだりワクワクしたりの心の動きを「意志」の制御下で、
はっきり言えば撲滅する為の実践なのです。

人間の多くはそれを楽しみにし、生きる支え拠り所として生きていますので、
つまり、あなたは生きる支えを一切放棄して、
死んだものと思って生きて下さいと同じレベルの事をやらなければだめなのです。

ですから、
ラピ。さんにそれをやって良いものかどうか見極めるために4カ月かかりました。

今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

釈迦の言葉の中の「激流」と言う表現を甘く見てはなりません、
「緩流」とは釈迦は言っていませんよね。

生き地獄のことを指すのです。

そして、釈迦とイエスの教えがそれにあたるのですが、
まともな実践をできている人など見たことがありません。

はっきり言ってみんな「緩流」です。

即ちほとんど全てエセ実践者です。

釈迦は「緩流」で水浴をしながら彼岸に渡れ等と言ってないのに、
ちょっとは自分のやってることに疑問を持ったらどうですか。

あえて渡りがたい「激流」と言う表現を使っているのですから、
仲良しクラブで渡れたら、釈迦より天才ですよその人は。

スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。


ラピ。さんの成就に関わる中で私が学べた点は、
現代社会の中に至るための正しい教えはある、しかし、
いくら正しい教えだけが有ったとしても、後他に、
悟った者に近い高精度な自分を見抜く目が必要であると言う点です。

そして、実際に会わずともネットを介した接し方でそれは事足りました。

62ラピ。:2013/09/21(土) 15:45:39
☆TK師

私が初めて師にメールしたのは今年の1月14日でした。

そして彼岸に渡ったのが5月13日でした。
ほぼ、4か月ぴったりです!

そうですね。
激流について師が書かれていますが
私の渡った激流もそういう感じです。

彼岸への道でここは避けて通れません。

>今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

まさしく私はそうでした。
もう精一杯頑張って いろいろ経験したので何も怖いものがなく
ただ「師のいるところへ行くんだ!」
それしかなかった。

だからみなさん、今を思いっきり生きるといいです。
精一杯がんばって生きることは素晴らしく、
そうすることで勝手に道が開けてきます。

どうぞ、自分の人生を精一杯、限界まで思いっ切り
がんばって生きてください。そこからです。

この相対的世界だからこそ、頑張れるんです。
頑張れるからこそ、チャンスなんです。

ちなみに至ってしまえば、頑張る私はいなくなります。

あと、
「本物から教えをいただくチャンスなんてめったにない。
これを逃したらもうないかもしれない。これが最後だ。」

という思いもあり決心したのもあります。

師匠、いつもありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

63TK:2013/09/28(土) 17:16:05
あなたの前に私はいる。しかし私の前にはあなたはいない。

世界の人々の前に私はいる。しかし私の前に世界は無い。

私の前に神はいない、神とは人知ではかり知ることが出来るものでは無い、
これがすなわち「それそのもの」なのだ。

マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


しかし、放っておきなさい、とはうまく表現したものです。

これは悪い意味ではありません、しかし、
実際に穴に落ちる事が出来るのは手引きをした方だけです。

結局は茶番ですね、
手引きをされた方は手引きをする者が穴に落ちるための材料にしかなれないのです。

結局は手引きをした方だけが何とかなるための、他は全て材料でしかありません。

だから、みんな頑張って手引きをする方の側になって下さい。


マザー・テレサ
>「導いてくれる人を待っていてはいけません あなたが人々を導いていくのです」


手引きをされる方は結局穴にも落ちることが出来ず、
手引きをする者のダシに使われるだけなのですから。

結局は手引きをする側の盲人にならなければ、次の扉は開かれません。

みんな頑張って手引きをする側の盲人になりなさい。

すなわちそれは、
人を頼らず他人から頼りにされる側の人間(盲人)になれという事です。

今の「盲人しかいない末法の世」においては、
アセンションするためには、それしか手がありません。

釈迦の教え通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


人の理想を教えてもらっているようではだめです。

自分自身の命がけの理想として下さい。

多くの中途半端な姿勢の者の、その姿勢にこそ、問題があります。

理想のために命もかけず、その者は一体何のために生きているのでしょう、
あなたはただ欲望を満たす事を目的に生きているのですか、ただ無駄に飯を食い、
ただ無駄に命を長らえ、
そんな無駄な事の為に折角の寿命を費やし生きているのなら、
その者は生きている価値などこれっぽっちもありません、
死んだ方がましだと言われないような生き方をして下さい、
折角方向性を持ち生きて行くことの重要性を掴もうとしているのなら。

同じ盲人でも命がけで走っている盲人は、
「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」に落ちることが出来ます。

その「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」が、上の次元への入り口です。

命がけで走らなければ、
そこの「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」には辿り着く事も出来はしません。

手引きをする盲人のダシのままでだらだら生きて行くのか、
自らの命を懸けた生き方にするのか、
その姿勢こそが見えない先を進ませるための地図なのです。

私がラピ。さんに接して分かった事は、私やらラピ。さんに有った特殊性は、
挫けない意志、その部分でした。

そもそも挫けない意志、と表現できるような生き方もしていない者など、
最初からどんな道であったとしても歩む資格すらありません。

家でずっと死ぬまで昼寝していた方がましですよ。

私が無師だった理由は、人のペースになど合わせられないほどの、
エゴを理想の方向性に絞った上で突き進んだ結果です。

どんな団体も組織も、およそ生きている人間から教えを受けるなど、
全て手ぬるそうに見えて、
理想の実現に向けてエゴを精一杯生きて限界にぶち当たった私の求めているそれには見えなかった事によります。

そのようなものより私にはいつかは開けなければならないだろう扉がありました。

私は以前その扉を開けようとしましたが、まだその時ではありませんでした、
私が扉の向こうに逃避しようとしていたからです、しかし、
この時には再びその扉を開けてみるより他には残されていませんでした。

扉を開けて一歩踏み出したそこは文字通りの地獄でしたが、
一歩踏み出してしまった私に、もはや後戻りしようにも扉は閉じられていました。

地獄、地獄、地獄、気が狂おうが何をしようが、自殺をしたところで、
そこは脱出不可能な地獄でした。

その地獄の正体は我々の「心(内側)」の事でした。

豊かな心とか、心を美化した表現は数あったとしても、
そもそもにその心(内側)が地獄の別表現だったのです。

(続きます)

64TK:2013/09/28(土) 17:19:33
(続きです)

綺麗な心(内側)があるのではなく、そもそも心(内側)というものそのものが、
不浄なものだったのです。


マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。


私は地獄(心)を滅ぼすことに成功しました。

しかし、これは結果論で、内側を滅ぼすつもりなど最初からありませんでしたし、
清い内側が出来るものとばかり思っていました、しかし、
現実には内側は無くなったのです。

慣れた今となっては、全く当たり前のどうという事の無いものなのですが、
至った当初は結構珍しかったです。

きっと至った間もないラピ。さんは現在さぞ珍しいものと感じている事でしょう。



「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。


>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。


バーナーデッド・ロバーツの記述の中で一点欠落している点を私が語るなら、
実は「祈り」も我々の意識状態では逆立ちしてもできない行為です。


「エックハルト説教集」 マイスター・エックハルト
>離脱した純粋性には祈りというものはありえない。


なお、私がここで語るのは、一つには自らの誤認による覚者に対してです。

まだ、その者の居る所より先があります。

もちろん、他者に教えを説くと称して、
たんたんと自らの理想論を展開していくのは構いませんが、
それをしながら先に進めるものならそれも手です。

ところが、その教えの本質は、
やがて精一杯に動けば、真っ暗闇の穴が待っている次元なのです。

なにより、その程度の教えで人を先導する行為をやめなければ、
その者がそれより先に進めないことを意味しています。

正しい教えであろうが無かろうが、そもそもに教える行為そのものが、
道に反しているのですから。

教えを聞くことは良いです、しかし、
教えを説く行為自身はエゴを増強する行為なのです。

マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。

(続きです)

65TK:2013/09/28(土) 17:25:41
(続きます)

教えの内容も全く低次元ですが、教えを説けるようになるためには、
教えと言う行為そのものから受けるその悪影響を、
さらに上の次元に上昇し次のようになるのでなければ駄目なのです。

私はこの上の次元の者の教えの説き方を疑似エゴイズムと呼んでいます。


「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


もちろん今は何を言っても駄目でしょう。

誤認覚者の特徴の一つに、人には自分の事を聞かせようとするが、
人の言う事は聞きたくありません、何を言いたいかと言うと、
典型的なエゴの強い人間の特徴そのものだからです。

もっとも、だからこそ、
怠惰でさえなければその者には穴に落ちるチャンスがあるとも言えます。

よって私が語るのは、その者が精一杯さが実り、めでたくこの先穴に落ちたとして、
それは大変な真っ暗闇の穴なのですが、
そこで少しでも私の話している事がその者の中で気に留まっていて、
灯明として花開くように今は種をまいているようなものなのです。

ラピ。さんも色々とやっていたようですが、
確かに我々がつまずきのための石になれるのならそれは幸いなことなのですが、
それが本物の理想主義者ならそんなに生易しいものではありません。

だからこそそれ自身が進めるチャンスであるともいえます。


それより、マザー・テレサの公開された書簡を見て、これこそ問題だと思います。

釈迦は実践を激流を渡るイカダに譬えて、激流を渡り終わったらイカダ(実践)を手放せと説きましたが。


スッタニパータ21
>師は答えた、
> 「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、
>すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。


ところが、キリスト教に伝承されている教えの中にはそれが無くて、
渡り終わってそれでも無理やりイカダ(実践)にしがみ付こうとしてマザー・テレサがもがいているのです、
いや、真実はもがこうとしてももがけない訳なんです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm


紛れもなく、ラピ。さんが大喜びしている我々の意識状態なのですが、
このマザー・テレサに起こっている意識状態が、
我々が説明している意識変容の真実です。

もしも師がいる者なら、このマザー・テレサの状態を尋ねてみると良いでしょう、
これが至った者の状態であると理論的な解説ができる者は本物ですから、
このような著名人の件でもあるので、
自分の師を本物か偽物か判断するための良い材料となりますから、
真剣に求めるものは騙されたと思ってお尋ねになってみて下さい。

マザー・テレサは本物です。

教えの内容も次元が高いですし、愛の反対は無関心であると説いていました。

しかし、
これはかっての至る前のマザー・テレサの実践方法を思い出して人に説いているのであって、
これを説いているマザー・テレサ自身は、
無関心の状況に至っているのが真実のはずです。

このギャップをマザーは自らの心の闇と呼び、
何とかしようにも出来ないと嘆こうとしていますが、
書簡の上だけは嘆いていますが、
実際は嘆くこともできないと言う事であったと思います。

嘆こうとしても言葉の上でしか嘆くことが出来ないので、
なおさら表現だけしか嘆けないから、
精一杯の物凄い深刻そうな表現になっているのではないでしょうか。

これこそあまりにも変過ぎますよ。

さすがに至った人に対して可哀そう等と身の程知らずの大それたことを言うバカもいないと思いますが、
しかし実際には多くいたようですが、無理もありませんね、
書簡を読んだ人にとっては深刻になります。

これ、絶対に言葉の通りではないと思います、嘆くことを初め何もできないので、
もがいている分だけ過剰表現になっているだけだと思います。

折角素晴らしい実践方法があり、
マザー・テレサのような素晴らしい実践者がいて、
当たり前が如くに成就に至ったとしてもこれではね。

それともなに、マザー・テレサは日ごろの行いが悪く実践がなってないから、
罰が当たってこのように嘆いているのだと、
妄想を膨らませる身の程知らずの大それた人もいるのでしょうか。

(続きです)

66TK:2013/09/28(土) 17:35:42
(続きます)

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」


マザー・テレサは紛れもなく優秀な実践者でありイエスの教えの優れた成就者で
あったことがこの書簡から全てわかりますが、本人も中身が闇だと話していますが、
表現だけで中身(内面)の無い本人なので、
実際は表現しているほどの深刻さはどこか普通の人の捉えているものとは違うと思います。

ただ、深刻さを現そうとする言葉だけの過剰表現になったのではないでしょうか。

実は、このような真実と表現が食い違うちぐはぐな状況は、
バーナーデット・ロバーツの記述の中にも見られます。

今までの自分ならすごく怖がりたい状況ではあるが、
肝心の怖がる心が無いと言うような。

「私のほほえみは仮面である」 とマザー・テレサの書簡にあったと言われていますが、
こんなのも我々にとって全然珍しくないですよ、
私は自分の事をよく「私は張りぼてだ」と言ってました、
なぜなら中身が無いのですから。

よく心にもないことを言うなと、悪い事の一つとして語られたりしますが、
至った者の通常がそれですから。

だから、
私が至った者の状態など至る前の者には害にこそなれ何の役にも立たないと良く言うのです。


ラピ。さんならよく知っていると思いますが、
至った者の意識状態では、逆立ちしても隣人を愛する事も出来なければ、
神に祈りをささげる事も出来なければ、信仰を持つこともできないという事を、
しかし、現在のキリスト教の組織の中でこのような事を語ったらどうなります、
これは大変な事ですね、異端者にされますよ、確実に。

しかも、この問題を解決できるのは至った者以外にはいないと言うのも真実です。

この件についても地球は丸いのに平らであると信じられています。

マザー・テレサのような著名人であるから、
この件にいつて公になった事にも価値があるのかもしれません。


これはキリスト教の伝承されてきている教えの中に、
至った者に対する「激流を渡り終わったら信仰を捨てろ」などの教えが欠けている事によるものです。

ただし、イエスの教えそのものは現されている内容だけを捉えて言うなら、
釈迦の教えより遥かに現代に適合する形にカスタマイズされている、
優れた内容です。

しかし、アンバランスにも、至った後の者に対する教えが無い。

だから、イエスの教えで至った者は、
ラピ。さんのように両手ばなしで喜ぶわけにもいかない、
マザー・テレサの書簡のように組織から成就を印可される事も無い複雑な状況が出てくることになります。


これはひとえに、
イエスの教えは釈迦に比べて遥かに短い期間しか説く事が出来なかったことに起因するものと思われます。


ナザレのイエス - Wikipedia (2013年9月11日 (水) 17:17 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9

>いずれにしても、没年や福音書に記録されている祭典の回数などを信用すれば、
>イエスが宣教を行った期間は、1年か2年、
>長くても3年ほどという非常に短い期間だったことになる。

(続きます)

67TK:2013/09/28(土) 17:37:44
(続きです)

あと、最後に、変すぎるのは、キリスト教と言う組織にあります。

マザー・テレサからこの書簡を受け取ったマザー・テレサに対しての指導的な者たちの間抜けな対応にも、
何じゃこりゃと思うのは私だけでしょうか。

私には、どうみても指導的という名前の盲人にしか見えません。

神が何たらかんたら、イエスが何たらかんたら、
これ典型的な盲人の特徴なのですが。

バーナーデッド・ロバーツの記述の中に出てくる神父の存在も、
はっきり言ってしまえば盲人ですよね、なぜこんな者たちが、
教え導く立場にいるのか、変すぎですよ、なぜなら、イエスの教えとは、
そもそも盲人であるうちは手引きをしてはならないと言うものなのですから。

キリスト教組織はイエスの教えに反逆していますね。

マザー・テレサ自身にしても、修道生活が18の時からとなれば、
私の経験に照らせば、40よりもっと前に闇が出ても良かったのではないでしょうか。

組織的なキリスト教と言われる者たちの所にはイエスの教えではないものが
入り込んでいるような気がしてなりません。

盲人が人を手引きしている、そもそもここがおかしいのです。

マザー・テレサも言ってますので、
私もマザー・テレサに賛同する形で改めて言いますが、
聖書に従って実践する者ならイエスと1対1の関係位になれなければエセ実践者という事になります。


マザー・テレサが言うように、
本当に聖書のイエスの教えに従って実践が行われれば、
イエスはその者の前に現れます。

この奇瑞は本当です。

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。


霊能力とか関係ありません、こちらが全く意図していない状況下で向こうから、
その力でアクセスしてくるのですから。

何もわかりもしない盲人が、
分かったふりして有ることない事べらべら言うものではないですよね、
実はこういう行為は非常に迷惑です。


さらに、これはイエスだけに限ったものではありません。

それが本物の実践なら、神仏が皆で示し合わせたように、
例えば釈迦の教えの実践者なら仏が前に姿を現したりしますから。

そのかわり、命がけの実践でなければなりません。

ただ、頑張ってます位の実践では駄目です。

失礼ですが、私はその者たちをエセ実践者と呼ぶ。

このような奇瑞が現れない者は、
自らの実践がエセであることをもう一度振り返ってみなさい。

誤認覚者にしてもそうです、その者が至るまでに大変したと言う、
こちらにしてみればその程度で、へ、みたいなものなのですから、
大仰すぎると思います。

なぜ、そこまで言えるのかですが、
その者のメンタルの状態があるがままの目を持つ我らには全て丸裸に見えてます、
さらけ出しです隠せませんから。

その思い高ぶった状態を一旦すっかり捨てて白紙に戻して下さい。

(続きます)

68TK:2013/09/28(土) 17:39:00
(続きです)

神仏が感動するレベルの実践をすれば、必ずや、
拠り所としている信仰の対象の方から姿を現してくる事でしょう、
心当たりの人たちはマザー・テレサもそう勧めています、
もう一度焼き直しをして下さい。

アストラルの特性は私は良く知っているのですが、
明らかにこの奇瑞については、
こちらはまるっきり意図していない向こうからのアプローチなのです。

私は新約聖書と原始仏典をテキストにしましたので、
時を分けて両方からありました、
私の実践法はどちらからも承認されているものなのです。


イエスともう一方は確かに釈迦なのですよ。

イエスは声が光になって飛ぶ世界からアクセスしてきましたし、
釈迦は身を起こすことが出来ない凄い圧力のある普通ではありえない金色の光を放っていました。

私の場合は生きている師はいませんでしたが、
この奇瑞のおかげで死ぬ覚悟が出来ました。

生命に危険な実践内容もいくつか取り入れてましたし、
私はこの実践で死ぬかもしれないが、死ぬのなら死ぬのでいい、
この命は神仏に預けます、実践とはこのレベルのものでなければ駄目なのです。

私は覚者になりたかったとかではありませんが、後戻りが出来なかった、しかし、
覚者と名乗りたければこれくらいは必要だと思います、
神仏が感動して自ら動き出すくらいの実践内容とは、このレベルです。


私はこの現象に対しての説明されている文章を、第1次実践の際に、
阿含宗の教祖の本の中に見た覚えがありました。

言っておきますが、私は何の信者でもありません。

生きている人間の師はいませんと何度も言っている通りです。

書籍が残っていましたので、引用だけしておきます。

ただし、この人にしても学者と同様で豊富に仕入れた知識は有難いですが、
イカダ(法)を手放す段階の話が出てこないというのがね。


「1999年カルマと霊障からの脱出」桐山靖雄
>まずなによりもその法が正しいという事です。法が正しくて、さらに、
>仏さまが感動されるなにかがなければならない。いうまでもないことであるが、
>仏が感動されるなんてめったにあることではない。
>めったにあることではないどころか、古今を通じて稀である。
>奇蹟といってもいい。その奇蹟を起こすだけのなにかがなければならない。
>それがあると、仏さまが感応してくださる。

中 略

>仏が感応されますと、かならず「現形」という現象(または現証)があらわれます。
>
>これは、元来、神道の方から出たことばです。神霊が感応されますと、そこに、
>はっきりと、なんの神であるとわかるお姿を顕現される。



ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。


マザー・テレサもそう言っているので、今回は私もこの件について話をしてみました。

(続きます)

69TK:2013/09/28(土) 17:39:33
(続きです)

ただし、
マザー・テレサにしてもバーナーデット・ロバーツにしてもイエスの教えの
肝心な点に気が付いていないみたいでしたね。

イエスの教えも、釈迦の教えもさらに上の表現が度々出てくるのですが、
お気づきでないのですかね、
釈迦の教えでは「ニルヴァーナ」イエスの教えの中には「父」と言うイエスから見て上の表現が必ず頻出しているのですよ。

釈迦は我々から見たらニルヴァーナではなくて、
イカダなのです。

イエスも然りです。

マザー・テレサはイエスが消えて虚無が出てきたと、
これこそイエスの教えの実践でアセンションしイエスの表現する「父」の近くにいるという事です。

マザー・テレサの修道歴に照らしたら、それが起こるのは遅いと思います、
つまり、イエスが現れ指示の通りに行動し始めたことが、
本当のイエスの教え通りの実践だったのであり、それまでは、やはり、
どこかが違っていたという事ですから、
イエスが出てきて実践内容が説かれるまでそれが起きなかったと私は思います。

http://sharejapan.org/sinews/magazines/33116k/vep55f/ln5rds

ですから、マザー・テレサの教えは本物です、
そのへんのキリスト教組織の中で神父と言う名前の盲人とは違うのです。

ちなみに、私はイエスから実践内容など説かれていません、ですが至りました、
私にとってイエスは、実践内容が間違いないことを承認する意味でした。

マザー・テレサのように説かれる必要が無かったのです。

マザー・テレサと私の違いは、私は釈迦にも実践内容を承認されたと言う点が違います。

イエスの教えと釈迦の教え、
この2つは一緒に食べ合わせをしても問題はありません、補完し合う関係です、
しかし、出家至上主義時代に説かれた釈迦の教えより、
イエスの教えの方が遥かに現代の社会に合うようにカスタマイズされていて優れている、
しかし、双方同一線上にある教えではあるが、釈迦の方が視点的に上まで説いています。

これは、イエスの教えの説ける期間の短さに主な原因があり、
渡る方法を説く事が最重要だったことが主な原因だったと思います。

自分がいてイエスがいて、話を聞いて、
イエスの教えは元々自分がいて他者がいてと言う、
このような相対の低次元から相対を超えた次元に上昇するための教えなのです。

ただ、私の場合は釈迦の教えを取り入れていましたので、
それから間もなくして、イエスも釈迦も遥かに超えた究極の「それ」まで行ったのです。

私に今師がいるとしたら、イエスでも釈迦でもなく究極の「それ」です。

そこは、イエスも釈迦も一切を捨てて、さらに先にあります。

善悪の彼岸がアダムとイブが禁断の実を食べる前に戻る事であるとすると、
究極の「それ」は光と闇が分かれる前です、
つまり光でさえも捨てて行かなければなりません。


原罪 - Wikipedia(2013年7月16日 (火) 00:32 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
>神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 - 17節)、
>善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。
>しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、
>女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 - 7節)。


天地創造 - Wikipedia_A0(2013年4月17日 (水) 14:48 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E5%89%B5%E9%80%A0#.E5.89.B5.E4.B8.96.E8.A8.98.E3.81.AE.E5.A4.A9.E5.9C.B0.E5.89.B5.E9.80.A0
>1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。

そこに至ったなら、イエスも釈迦もどんな神も、
この宇宙でさえ全て「妄想の産物」だったのだという事になってしまうのです。


スッタニパータ9
>走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、
>「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、
>この世とかの世とをともに捨て去る。
>──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

70ラピ。:2013/09/29(日) 08:57:11
☆TK師

貴重なお話 いつもありがとうございます!

私は釈迦やイエスの教えについては
有名な言葉は知っていましたがほとんど知りませんでした。

でも自分の不屈の(ある意味しつこい(笑)精神で
教えがなくてもある程度までは進んでいました。

でも、最終的に私を彼岸に導いたのは
師から教えてもらった「激流」でした。

その時の私にとって必要な教えでした。

まさか、激流の中に彼岸の道があるとは、、、。

師から教えてもらった「激流」

直感的に「これだ!」というものがありました。

だから最終的に激流が起こった時に
それに向かって進む決心をし、
無事渡り終えました。

ちなみに私の第2の実践は、
師も「地獄」だと言われているのと同じように
まさしく大変な状況でした。

でもあきらめなかった。
どんな状況でもそれを極めるために
(そしてその実践の限界を知るために)
なにがあっても続けました。

実践している自分が何度も消えそうになったけど
(何度もその瞬間を体験しました)
それでもやめなかった。

、、、しつこいのです。(笑)

実践をとことんやってると
もう引き返そうにも引き返せないのですけどね、、、。

(それまでの自分がどんなものであったか忘れてしまったのです。)

だからもう進むしかなく 何が起こっても
さらに実践をしてました。

そしてある瞬間、最終的に闇に放り出されました。

そこから必死に帰ってきたのです。
(「必死」という言葉はまさしくこの状況にぴったりでした)

自分が消えてしまったらどうなってしまうのか
怖かったです。

闇に放り出されたときは怖さに関係なく
勝手に放り出されてしまったのですが。

この放り出された時は「怖い」というよりは
時間が止まった感じで、なにもありませんでした。
あるとしたら闇?
時間にすると一瞬です。

そしてまだまだ至る時ではなかったからか、
彼岸に少し触れたけど 至ることはできませんでした。

でも、私は一歩足を踏み込んだ彼岸から
あるものを得て帰ってきました。

あるものとは
その闇の時に体得したもので
うまく表現できない「それの一部」です。

その経験のおかげで「からっぽ」でいることができるようになりました。
でもこの「からっぽ」はまだ意図が必要でした。
=まだ至れていない、ということです。

その時は「からっぽ」そのものではなかった。

でもそれのおかげか
最終の激流を1日で渡り終えることができました。

どんな経験も無駄ではありません。

どうぞ、不屈の精神で日々をがんばってください。

するなら「徹底的に」です。

私は実践に自分の人生をかけました。

もう生まれ変わらない、と決心していたので
「今世でしかもうがんばることはできない。
今世できなかったから来世でがんばる、という選択肢はない。
今しかない。」

まさしく、今世をかけていました。


>「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。

ほんと、そうなんですよね。

「何も起こってないけど話せる。」

そんな感じですかね。

この状態で初めて何にも影響されず
純粋に表現できると思います。


まだまだ至りたてほやほやなので
この状況にもっと慣れていきたいと思います。

「ほやほや」の様子について、
またいつか書けるかもしれません!
@(*・ω・*)ポッ

71滝沢:2013/09/29(日) 22:36:09

TKさま、ラピさま

はじめまして
お忙しい所、失礼します。

一昨日に非常に似た経験をしたので、
書き込まさせていただきます。

色々な体験を通して、それである無、空、愛は、知っています。
いつもは、愛というよりは、無そのものになる事をワークをしていました。

一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
身動きができるようになってから何とか抜け出しました。
ここで感じられた虚無感というのは、
普段感じられる、愛である無であるといった存在意識至福といったものではなく、
圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。

前兆は、3日前の無を感じる瞑想で、普段は意識そのものになるのですが、
その時は意識が粉々になって無に散らばってしまい、
何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。

ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑
私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。
あの闇を考えると精神探求自体何もない可能性高いですが、
まだあの闇の世界は何かあるのではと恐いもの見たさの興味が出てきています。
なのでマインドも無くなってないです。直したいのですが、人嫌いな所は変わらないですし。。

72滝沢:2013/09/29(日) 22:38:09
すいません。
3:悟りを目指している方(143) : に書くべきでした。
間違えてしまい、ごめんなさい。。

73TK:2013/09/29(日) 23:53:20
滝沢さん

>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えて
>いき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。


良い経験が出来たのではないでしょうか。

ここはなかなか興味深い物を感じます。

最初に光があった事を考えるなら、何かを体験させられたと言う感じに思えます。

ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
この時に得た感覚は、
これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。


>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。
>
>ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑

悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。

>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。

この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。

探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。

探して見えてくるものは、全てまやかしです。

74ラピ。:2013/09/30(月) 00:29:58
☆滝沢たん

書き込みありがとうございます!

滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
それを体験したことがある、ということでしょうか?

「無、空と一体であると経験できる瞑想」
みたいなのがあるのかな?

瞑想はほとんどしていないので
なんといも言えないところもあるのですが
私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
徐々に消えていく感じではなかったです。
(第2次実践の時も第4次の時も)

滝沢たんは闇を経験したかもしれないけど
それそのものではないかもですね。

なぜならまだ興味があるからです。
そのものになってしまえば興味を持つ必要もないし、
そもそも興味も出ません。

そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
必ず、至ったとわかります。

もしかしたら今回の経験は
私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
どうなんだろう、、。

私の場合 かつての2次の探究の時は
確かに闇を経験したけど
その時はそれがどういうことなのかわかっていませんでした。

>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。

その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
ここが気になります。

滝沢たんは目指すもののために日々瞑想をしている、
という感じでいいのかな?

@(*・ω・*)ポッ

75滝沢:2013/09/30(月) 07:18:01
TKさん、ラピさん

お返事ありがとうございます。
以下、マインドを使って書かさせていただきます。
ただ、、言い回し上、ぶっきらぼうな所があるかもしれません。
マインドを使おうとすると意識が飛び散っている状態で、
細かい事に注意が向けないため、気にしないでいただけると助かります。

>ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
>この時に得た感覚は、
>これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。

はい、そう思います。
闇の体験後は、
意識が周りに飛び散った状態で、自分をつかもうにもつかめない状態です。
自分が何なのか分かりません。ただの石ころでもあるし、全てでもあります。
何かの思考は出てきますが、それも無に混ざるチリのようです。

> 悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。

はい、闇の体験の前の日は、マインドが出てきました。
ただ、それも今となっては、過ぎ去った他人事のようです。

>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。

>この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。
>探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
>探して見えてくるものは、全てまやかしです。

マインドは他人事のように闇は凄いぞ。存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。
今思えば、闇は存在そのもので、存在の無限性を表現していただけにすぎないという理解です。
マインドの観点ではなく、それの観点では
闇でも愛でも至福でもなく、私は、ただのそれで、ただの物です。
石ころと同じ何の意味もなさないただの物です。

ラピさん

>滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
>それを体験したことがある、ということでしょうか?

体験というとより、
存在意識至福がそれの性質で、
闇の体験前は、時系列?でそれが起こっていたのですが、
体験後は、それが無限ループで3つ同時に起こっている感じです。

>私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
>徐々に消えていく感じではなかったです。
>(第2次実践の時も第4次の時も)
>もしかしたら今回の経験は
>私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
>どうなんだろう、、。

第2次、第4次の記事あったりましますでしょうか?
ブログ探してみたのですが、見つかりませんでした。

>そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
>必ず、至ったとわかります。

1。自分は一切なくなりますでしょうか?
2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?
私の状態としては、2の方が近いと思います。
自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。

>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。
>その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
>これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
>ここが気になります。

はい、体験そのものです。
それを後付けの思考で言葉で表現しただけで、
無味乾燥、闇の中に死神はいるというのは、思考です。

76TK:2013/09/30(月) 17:38:46
滝沢さん

至ったかどうか、私もあなた本人ではないので、
この表現を通して計り知る限りではかなりいい線で進んでいると思います。

しかし、私も前にも言いましたが、
本当に至ったのならマザー・テレサのようにそれまで続けてきた祈り等の実践をしようにも実践できない、
実践不能と言う状況がやってきますから、まず、その方向で進まれることをお勧めします。

ちなみに、
ラピ。さんは至った時には、私が印可して至った事を認めたとかよりも先に自身で至ったことが分かったのです。

どんなに逆立ちしても、
今まで必死にやっていた実践が出来ない実践不能と言う状況がやってきます、
それを成就か否かの判定にして下さい。

それが一番の判定法なのです。

>次は至った直後のラピ。さんの言葉です。
>
>[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html
>
>>この私はだれですか?
>>
>>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>>
>>何もできないのですが
>>この私はなんですか?
>>
>>師匠、これはなんですか?
>>
>>と送りました。
>
>実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。
>
>アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>>私は無だ。
>>
>>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

77滝沢:2013/09/30(月) 19:01:29
TKさま

これ以上ない愛ありがとうございます
ただ沈黙せざる得ません

仰られますように行為自体が何の意味もなさず、為される事が完璧です
全ての行為は起こっては消えて行きます

行為者がチリとして残っていることも事実です

頂いた示唆を胸に
自然に進もうと思います

失礼いたします

78TK:2013/09/30(月) 19:07:11
滝沢さん

>マインドは他人事のように闇は凄いぞ。
>存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。

これもかなり、曲者ですね。

闇は求めないで下さい、あきらかに無色貪(精神的欲望)です。

これだと、真実とは別物の妄想による闇を作り上げてしまいますね。

マザー・テレサやバーナーデット・ロバーツ等クリスチャンの闇と表現している、
神が消えた、現象について解説すると、マザー・テレサの言葉の中にありましたが、
実践においては横たわっている具合の悪い病人を主イエスが横たわっているのだと言うつもりで接しなさい、
私たちは看病ではなく修道の実践をしているのです的な表現が出てきてましたね。

これが、マザー・テレサの言う主イエスとの一対一の関係性の構築です。

このように修道では自分の取り組む対象に対して、信仰しているイエスや神を、
妄想を駆使したオーバーラップと言う手段を使います。

所が、至ってしまうと、目の前から「対象」となるものが一切消えてしまいます。

よって、何も無いとしか言いようが無くなる、
妄想を駆使した対象物に対しての神のイメージのオーバーラップと言う実践手法も不可能となる、
これが神が消える現象、この人たちにとって神を光に譬えているので、
神が消えたのですから実践者にとってはつまり闇そのものと表現するような状況なのです。

79TK:2013/09/30(月) 19:47:08
色々な話が出てくると良いですね。

それにまつわるような部分の、今まで明らかにできていなかった所の、より、
明確な表現が出せますね。

ラピ。の原点│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1727.html

>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!


これ実はここにはあらわされていない、一つ重要なポイントがあります。

>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!

この為に、「私は、まずは私を使っていろいろ実験して、
みんなが使える方法を開発するのだ!」と言う思いを捨てて実践するのだ、
と言うのが真実の実践法です。

実践とは私は死ぬまで、この実践を続けて行くのだ、これが至るための方法です。

結果を僅かにでも想定して実践したら、至れません。

命ある限り死ぬまで永遠に実践する、これがポイントです。

色々と至るための必須のポイントがあるのです、
これらが分からないといつまでも迷路の中で終いには世に沢山うようよいる酔っ払いの一員になる訳です。

例えば世界の人たちのためにと思ったら、
世界の人たちのためにと言うその思いを捨てて、実践する、
複雑ですが必要な事なのです。

善であろうと悪であろうと、とにかく「一切の願望」を捨てる、これが至るためのポイントです。

そうすると、しばらくして一人でに至って、自由に色々な事が出来るようになります。

80滝沢:2013/09/30(月) 20:28:24
TKさま

闇を求めたというよりは、自然に起きました。
それは、私の底深くにあった想念であり過去生なのかもしれません。
ただレットゴーを極限まで行った結果がゾンビ状態で闇でした。

あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。

闇を解明したいという事よりも本当に大切な事は、
何ももとめないで、起きる事をただ受け入れる事が大切な事だなと思います。

失礼いたします。

81ラピ。:2013/09/30(月) 23:26:07
☆滝沢たん

私の言葉もぶっきらぼうに見える時があるかもですが
単なる言葉ですのでよろしくです。

第2、第4の実践についての記事はいろんなところに書いてて
まとまってないかもですが
このスレッドでは38番から書き込んでます。

また「悟りを目指している方」のスレッドでは
111から書き込んでます。

あとブログでは第2の実践の状況をちょこっと表している記事があります。

「至る」
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1722.html


>1。自分は一切なくなりますでしょうか?
>2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?

えっと、私が書いたのは
「今まで自分だと思っていた自分」が消滅した
ということです。

そして付け加えると、その更なる自分がいた、ということです。

その更なる自分をどう表現していいか、、、。
いまだにできません、、、。

表現しようとすると、ただただ無心になってしまう
という感じです。

ちなみに至る前まで「本当の私」だと思ってた自分は
一般的に言われている「エゴ」と言われているものだったのだ
とわかりました。

それまで「エゴ」というものが
(いろんなところでその言葉をよく聞いてましたが)
どういうものかよくわかっていませんでした。

「それまで自分だと思ってた自分」が消えて初めて
「あ、これがエゴというものだったんだ。エゴが消えたんだ。」
とわかりました。

ちなみに第2次実践の時の私の言う「闇」も
いまだにどう表現していいかわかりません。
表現しようがないので「闇」と言ってます。

だから滝沢たんがその闇に対して表現できていることに
「ん?」と思いました。

>私の状態としては、2の方が近いと思います。
>自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。

そのただ起きて過ぎていっている自分を見ている「自分」
が存在していますか?

そしてもうひとつ。

もし至ってるとしたら。
そしてそれがつい最近のことだとしたら
ここまで その状況をすぐに明確に言葉には表せないと思います。

至ればそれまでと全く違う次元ですので、
私の場合その状況がどういうことなのか、
初めはただただ味わうことしかできなかったから。

本などで読んだ情報と照らし合わせて
「そんな感じなんだろう」という感じで表現されている感じがしました。

もし至ってしばらく経っていて
その状況に慣れていらっしゃっる方の表現だとすると
それもありなのかなと思いますが。

@(*・ω・*)ポッ

82ラピ。:2013/09/30(月) 23:35:21
☆TK師

ありがとうございます!

確かに実践の動機は
「まずは私を使っていろいろ実験して
みんなが使える方法を開発するのだ!」
でしたが
実践してる時はそんなことも忘れてひたすら実践でした。

その動機により、決めた実践をひたすらやってました。

決心したら ひたすら実践です@(*・ω・*)ポッ

83TK:2013/09/30(月) 23:47:52
滝沢さん

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。

可能性は強いですよ。


>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、
>自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。


ただ、ここで曲者なのが次の部分。

>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

ただ、光の存在に体験させられただけみたいにとれるのです。

なぜかと言うと、

>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

光をあなたの意志で消し、さらに真っ暗な虚無に突入したと言うのであれば、
あなたの取ったプロセスがヒットしたと言えるのでしょうが、
そのように思えないのですね。

でも、貴重な体験であるとは思います。

これからの、あなたの進むための手掛かりになるのではないでしょうか。

また、同じような経験が踏めると良いですね。

84滝沢:2013/10/01(火) 06:43:29
おはようございます。
TKさま

私の一過性なる体験談に付き合っていただき、
色々なご意見ありがとうございます。

それそのものであり、それから意識と思考、世界が、ただ起きていき消えていく無限ループ三昧で、
今自分の状況を説明できる状態にはなくなっています。

また機会があればお邪魔させていただければと思います。

失礼します。

85TK:2013/10/03(木) 07:06:46
エゴにはエゴを増強する作用の悪玉エゴと、
エゴを減らす(殺す)作用の善玉エゴの2種類があるのです。

方向的にヒットしているのではないでしょうか。

ちなみに私は自然が良いなどとどこかの間抜けみたいな事は言いません、
無理やりこそが鍵なのだと説く者ですから。

釈迦も「激流」だと説いてましたが、
「緩流」に対する「激流」とはそう言う事ですよ。

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。


>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

読解力を駆使してみましたが、これが恐らく次元上昇のプロセスですね。

光はあなたが確認しているので自他がある、
つまり恐らく一般的にコーザルと呼ばれている次元なのでしょう。

>瞑想中に無、空と一体でいる

つまり、この段階ではまだ、無、空では無く残り物(形態)があるのです。

光が出た後に光が消える、これも次元上昇のプロセスです、
実際はこの光が消えた後が「形」を突破した「一体(合一)」と表現できるプロセスになると思います。

その後は、プロセス的には空間が滅び去る段階へと続きます。

経験できたプロセスを手掛かりとして、
繰り返しトレースできるように心がけると良いと思います。

やがて、自我が消滅します。

肉体はメンタルが物質化したものと考えるとちょうどいいようなものですから、
実際はメンタルの変化に応じた肉体の変化が出てこないと、
メンタルもしっくりしたものにならないと思いますが、
肉体は物質なのでメンタルと違って変化に時間がかかり、
その間メンタルは低次元に縛られますから、繰り返しの鍛錬が必要です。

86滝沢:2013/10/03(木) 12:35:03
TK様

ご教示ありがとうございます

長い時間、頭を使おうとすると、締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

今は、自我の思考も含めた体験が起こり、消えていく。
生活していて楽になったという思いが出てはそれも消えていく。
というような無限ループです。
そのループがあたりまえになってきて、大分余裕になったという思いが出て消えていく。。
こうして書く事、表現する事自体に無意味さを感じ、TVを見るようにただ見ている聞いている方が楽に感じます。

ここ数日で気づいたら何かがシフトしており、自我が主人公となる事は無くなっており何かやろうという意味込みを作る事も難しくなってきています 頑張ればできるのですが
起こった事をただこなすのが楽で良いです。
今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、ただ座ろうと思います。

また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

失礼いたします。

87TK:2013/10/04(金) 23:25:15
>行為者がチリとして残っていることも事実です

エゴがあるという事ですが、しかし、
そのエゴが究極に向かうためには推進力として使えます。

>長い時間、頭を使おうとすると、
>締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

そのスタンスが良いです。

ここまでくれば、いい線です。

ラピ。さんにした指導と同じに言えますから、常時、
頭の中を空っぽで居るようにして下さい。

憶えておかなければならない事とかは、紙とペンを使って、筆記して、
度々見るようにして、頭の中はそう言う事も含めて常に一切空っぽにするのです。

あなたの前には先人が二人、私もラピ。さんも歩いた道です。

ここは、受け売り知識ではない自分の経験の話しをする場ですから。

ここでは「理解は低次元な行為」なのです、「理解を捨てて下さい」、
誤認覚者は「理解したことで悟ったと勘違い」している人たちですがあなたにはこの事が通じそうですね。

ラピ。さんはあなたと違って、
瞑想ではなく公開はできませんがあるヨーガの技法を利用したのです。

これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

感情の無い力のこもらない、まるでロボットのような動き方や話し方、
全体として意志の無い生きる屍のようなと表現するとちょうどいいような動き方になります。

感情の無いロボットのようなシンプルな行為です。


これは、至る前の人は思いに基づき行動をし思いに基づき対話をし、
このように全て「思い」に基づいて行為をしている、
その行為の元である「思い」を捨てる事により全ての動きが出来なくなることに起因しますが、
やがて、至った後には、
「思い」に基づくどのような行為より優れた瞬間的な行為がそれにとって代わって出現します。


>今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、
>ただ座ろうと思います。

ちなみに、ヴィパッサナ等の日常生活を利用した実践はしてないのですか。

釈迦も教えてますが、こちらにも重要な価値があるのです。

>また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。

悲しいマインド程度で良かったですね、
私は瞑想時には開けてはならないパンドラの箱を開けたがごとく、
幼いころに負った罪悪感のトラウマが巨大な怪物の形となって来る日も来る日も私に襲いかかり、
感受性は極めて鋭敏になった危険な状態で、
ポルターガイスト現象なども発生し、逃げ場の無い地獄の日々を耐え抜きました。

頑張って下さい。

日常実践は至る方法としては重要なウエイトのものです。

やるかやらないか選択肢の問題ですが、
私はそれをやらないわけにはいきませんでした。

なぜなら、
その時の私は肉体としての自分では無く精神体としての自分を生きていたからです。

修行のステージを上げて行くと言うのはこういう事を言うのです。

88ラピ。:2013/10/05(土) 04:36:25
☆TK師

師匠、いろいろありがとうございます。
補足させていただきます。

私のそのヨーガの技法は第2の実践なのですが
これは起きている間中ずっとしていました。

もちろん、普通に生活してましたので
(山に籠ったりはしてません(笑)
ご飯を食べてる時も、仕事をしてる時も
何かをしてる時もずっとです。
それが実践です。例外なしの日常での実践です。

この実践により、私は闇に放り出され
自分が消えそうになりました。

実際、消えた瞬間がありました。

でも完璧に消えることができませんでした。

ただ、この時に得たものが「からっぽ」でした。

でもこのからっぽも簡単に得た物ではありません。

闇から帰ってた時に、精神と体が分離した状態になっていて
今までどうやって体を動かしていたかわからなくなってました。

ちなみに闇に突入する前にも分離した状態であり、
(第1の実践で自分が否定さる出来事があり、どん底状態でした。
そこから第2の実践が始まりましたので)
日常の生活をするのが常に意識的でしかできなくて
(そうでないと、腕一本、あげることすらできなかった)
常に実践せざる得ない状況でありました。

ただ究極の消える体験をしてからは、その実践ができなくなりましたので
ただただ、相対的世界(此岸)に一生懸命帰ってきました。

ちなみに究極の消える体験の前も
何度も消えそうになる体験はしています。
それでも実践はやめなかったので究極の消える体験までいきました。

究極の消える体験をしてからは
赤ちゃんに戻って全ての行動を一からやり直していく感じでした。
そうやって帰ってきました。
ある意味、一度死んで、生まれ変わった感じですかね。
「私」をもったまま それを体験した、という感じです。

この一からのやり直しのおかげで
「私」はまだいましたが純粋に行動することができるようになりました。

(普通、赤ちゃんから成長してすべてできるようになるのは
いつの間にか だと思いますが
この時の新たなる私の誕生の時は
「私」があるままで全てを始めました。

ひとつひとつの行動を「私」が存在しているままできるようになっていった
という感じですかね。
無意識ではなく、意識的に、という感じです。

赤ちゃんの頃は「私=エゴ」はある意味いなくて
いつのまにかできるようになる感じ、
気付いたらできていた、という感じですよね。

私の場合、「私」という意識を持ったまま生まれ変わった経験ができた、
という感じですかね。

1つの行動があたり前にできるって、
ほんと実はすごいことなんですよね。
それがどうやってできるようになったのか、
考えてもわかりませんよね。)

今できる当たり前の行動を
ひとつひとつ、意図的にするようにしたらわかるのですが

私たちは実は何もしていなかった。

無意識に思考のまま生きていたのです。

そして赤ちゃんの状態から「私」をもったまま歩き始めて
思いに頼らない動き=純粋なる動きができるようになりました。
=からっぽです。

ただし、まだ「私」はおりました。

そのからっぽは「私」が意図しなければ空っぽではなかった。
その意図する私がまだいた。

私は「からっぽ」そのものではなかった。
その「からっぽ」そのものになることが悟りであるのだろう、
と直感的に思いました。

それになるために、最後の激流を渡る決心をし
それを達成しました。

からっぽなる私を超えて
からっぽそのものになりました。

@(*・ω・*)ポッ

89滝沢:2013/10/05(土) 16:19:50
TKさま、ラピさま

愛のこもったメッセージありがとうございます。
色々とありがとうございます。
メッセージからくる波動に、ただただ、感謝です。

ご返信しようと色々書いてみたものの、
どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

すいません。表現できず。。

失礼します。

90TK:2013/10/06(日) 08:48:47
滝沢さん

>ご返信しようと色々書いてみたものの、
>どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

まともな実践とはそういうものです。

質問すら出てこない。

なぜなら、質問も疑問も捨てられてしまうのですから。

私は今まで対話のピンポン遊びをやってる、
自称実践者といういかがわしい事をして遊んでいるエセ実践者を多くみました。

あの者たちは、
低次元のアストラルと言う次元での住人として楽しんでいるのですが、
絶対にあの者たちがそれより上の次元に上がれることはありません、断言します。

生きているうちよりあの者たちが死んだ後にその違いは明らかとなります。

あなたには分かるでしょうが、あの者たちの善も悪も無いと言っているのと、
私が善と悪が無いと言っているのは、表現だけは同じでまるっきり別物です。

それを知っている我々は、釈迦もそうでしたが、あえて善も悪もあると言うのです。

ただ、似非賢者の特徴は善も悪も無いと説きますから、
この辺が判断基準になるところです。

我々は善と悪はあると説きます、似非賢者は善と悪は無いと説きます、
なぜこのような違いが出るかと言うと、
我々は善と悪を無くするための善と悪の利用の仕方を知っているからです。

似非賢者はこれを知りません、ですから、
本からの受け売り知識しかないので善と悪は無いと理屈をこねまわして説いているのです。

しかし、真実は理屈が無いから善も悪も無いのですが。

私は実践時に幽体離脱と言うツールが使えましたので、
どんな実践をすると肉体を抜けた後はどうなるか、
繰り返し繰り返し確認する術がありましたが、
肉体と言う異次元交流のための便利ツールをまとっていると、
違いがはっきりしませんが、死んだ後には大違いです、しかし、
その時には後の祭りです。

あなたは、確実に次元上昇のプロセスを上がっている、
アセンションを果たすべく本物の実践者です。

次元上昇による行動方式が変更される過渡期はあなたのようになります。

これが本当の次元上昇です。

マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

あなたのような本物の実践者のために我々がいるのですから。

エセ実践者は、
目的が違いますから自らの誤認による覚者と戯れているとちょうどいい、
その二つがバランス的に釣り合うものですから、
両者ともそれで楽しい時期なのです。

堂々巡りを回っていても自分たちもそれで楽しいのですから、れはそれ。

「理解」と言うキーワードで結びつくのが、誤認やエセの結びつきですが、
本物は「理解と言う低次元行為をすっかり捨てて」合一に向かうのです

「理解を捨てて」、
この一言はあの酔っ払い(恐らく死ぬまで)の人たちには通じないキーワードなのです。

私は激流の実践時は「理屈」はすべて捨てました。

我々本当に次元上昇した者は「理屈」がありません。

今ここで述べているものも、
聞く者にとって理屈でも我々にとっては「理屈」ではなく、ただの言葉なのです。

これが次元の違いなのですが、エセ実践者も自らの誤認による覚者も、
本当にこれが分からない。

好きで酔っぱらっているのですから、
それはそのまま構わないでおくことが賢明なのでしょう。

エセ実践者ばかりを目にしてましたので、
あなたのような本物の実践者を見るとこちらもうれしくなります。

91TK:2013/10/06(日) 09:16:06
地獄と言う表現について、なるべくわかりやすい言葉で説明するならば、
一例で言えば悪いことをして刑務所に入るのにかなり似ていますね。

実際は恐らく刑務所などと言うそんな生易しいレベルのものでは無いと思いますが、
しかし、規則正しい生活を送らされてお勤めをさせられる、
禅寺などの修行環境と、刑務所はどこか似ている点があると思います。

そもそも刑務所も、人間を修養するための施設の一つと言う意味では、
似ていても不思議ではありません。

私が激流や地獄と表現するものは、
これらの機能をさらに倍増させたようなものなのです。

よく、囚人生活の映画とか見たことがありますが、
実際は刑務所と言えども懲役で働かせられているだけではなくて自由時間もある事でしょう、
しかし、これに対して私が激流や地獄と言うものに対しては、
就寝時以外の意識のある限りは、マインドに自由を一切与えない、
このような実践になります。

標準的な人間の感覚なら、
マインドのままに自由にできる時間を自由時間とか休憩時間とか表現していますが、
それを一切自分の生きている生活の中から排除するという事を指します。

マザー・テレサは愛の反対は無関心であると言いましたが、
この意味をさらに詳しく解説するなら、
自分のマインドの動きに無関心で居てはならないという事なのです。

至る前の人間は必ず、遭遇する出来事に対してマインドが動きます。

無視してもマインドは動いているのです、なぜなら、その「無視」そのものが、
既にマインドが動いているという事なのですから。

本当に至った者の辿り着いた状態としての無関心は、無視すらしないのです、
一般の人には逆立ちしてもこのような事は出来ません。

善と言う判断が僅かにでも起きたなら「必ず」無視しないで実行に移しなさい、
悪と言う判断が僅かにでも起きたなら必ず無視せずに絶対にそれをしてはいけません。

就寝時以外の意識のある限りにおいて常にこれを実行しなさい。

これ本当に口で言うのは簡単ですが、実行に移すと偉く困難性の高いものなのです。

肉体上の行動の自由を規制するのが刑務所なり禅寺などの修養機関であるとすると、
更に突き進んで、
メンタルの自由を就寝時以外の意識ある限り規制するのが激流の実践なのです。

更に激流の実践では善とマインドに僅かにでも浮かんだら、
100パーセントの行動を起こさなければなりません。

つまり、マインドも、行動も生きている生において一切の自由が無い、
これが実践の真実です。

刑務所は生易しいと思いますよ、
いくら行動を規制されても大元のマインドまでは規制されませんから。

所が、大元のマインドを自らで100パーセント規制したら、
行動の自由も一切ありません。

つまり、行動、メンタルともに牢獄の中という事です。

この実践で重要なのは例外無しの100パーセントと言う言葉にあるのです。

生きている意味が無いと感じますよ、でも、
それが至ると生きている事の最も重要な意味だったのだと言う事が分かります。

至った我々には生きている意味はありません、
この状態で楽々生きているのです。

至る前の者は変な所は真似せずに、
このような所こそ至った者の真似をしなければならないのです。

一般の人には意味なく生きる事はこの上なく苦痛です、
至った我々はそのような状況に常に楽々生きていますが、
これが次元の違いからくる苦痛なのです。

この、「意味なく生きる」事こそ真似して、
そのことから受ける苦しみを充分に味わって下さい、
それこそが真実の「激流」の実践なのです。

92ラピ。:2013/10/06(日) 11:40:42
TK師 滝沢さん
貴重なお話、いつもありがとうございます!

私がかつて実践していたときは
はじめは何も疑わず、自分を信じての実践でした。

そのあと、信じていた自分が信じられなくなる出来事がありましたが
それでもあきらめずに実践を行いました。
(ちなみに至ると 信じてた「自分」は消えます)

実は「師」はいらないと思ってました。

、、、本物の師なんて いない って思ってました。

だから自分だけで長年歩いてました。

TK師に初めてメールをしたのも
師匠を探していたのではなく
私が今どの位置にいるのかを知りたくてコンタクトしました。

でも最終的にTK師は「本物」であると確信しましたので
師を信じ、激流に飛び込みました。

実践中にいろんな疑いが出てくるかもしれませんが
それはすべて「エゴ」の声で
もし、その声に従って疑問をもって実践がおろそかになってしまったなら
それこそ、「エゴ」の思うつぼです。

だからひとつのことを決めたならどんなことがあっても
最後までやり通す、できなくなるまで続ける
くらいの決心が必要です。

ひたすら清き道を進んでください。
疑う時間を持つ暇もないほどに。

大丈夫です。

清き道を歩かれているすべての皆様。

@(*・ω・*)ポッ

93滝沢:2013/10/06(日) 18:46:40
TKさま、ラピさま

精妙なニュアンスに共感いたします。
何も言えないです。
ただ、受け取らさせていただきました。

失礼いたします。

ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
そのままコメントしないでおこうと思います。
掲示板は毎日チェックさせていただいておりますので。。

94TK:2013/10/06(日) 19:30:11
滝沢さん

>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

もし、
あなたに対してのコメントであるとあなたの中に判断が起きた時にはコメントは返してください。

理由は分かるでしょうか。

あなたの徹底できていない部分の実践が、
ここで明らかになったのです。

あなたは、あなた独自の意思表示について、
非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。

あなた独自の意志表示をしてもらっては実践上は駄目なのです。

この場合はコメントを返さない事があなた独自の意思表示となってしまうのです。

至った我々には意志と言うものがありません。

しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

「緩流」では無く「激流」であると言う意味は、
細かい部分に至ってまで神経質なほどに見逃してはならないという事です。

95TK:2013/10/06(日) 20:08:54
滝沢さん

>至った我々には意志と言うものがありません。
>
>しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

この件について少し。

マタイの福音書 5章39-42

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
>
>あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。
>
>求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。

イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。

紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。

>ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

マインドを働かせすぎです。

ラピ。さんから掲示板が汚れて迷惑とでも言われましたか。

これは紛れもなく、あなたの保身混ざりの妄想(マインド)です。

丸見えですよ。

96滝沢:2013/10/06(日) 23:57:50
tkさん
愛をありがとうございます

そうですね。状況書いてみようと思います。
さらなる激流現れてきません。
自分を意図的にいじめられなくなっています。なので生活を淡々としていく感じです。
頭はからで意識は頭上遠くに拡散されております。
完全にぽっかりサハスラーラ大きく空いている感じです。
体も虚無の真っ黒な空間に感じられます。実際に視界に入れば肌色です。
自分の思考が来てもどんどん高速に過ぎ去って行くように感じられます。
道の真ん中に立って車が200キロぐらいで頭の中をヒュンヒュンと通り抜ける感じです
自然の素晴らしさに関しては全身で愛や慈悲を感じ、散歩中に自然をじっと見ているとサマディ起こります。

97滝沢:2013/10/07(月) 06:33:06
tkさま

あのメッセージを書き込んだ後、
体に震えがおきまして、
一晩中意識がどこにあるかも分からず、
体は死んで思考も死んで、あの虚無空間の中ただいる中、
虚無空間そのもので、赤ん坊のように丸まって過ごしました。
まさに赤ん坊のように丸まるのが一番落ち着き、必然的にそうなりました。

いくつか意識がある時の感覚を思い出せます。
虚無空間に対する恐れ
お腹の中が洗濯機でグルグルかきまわされて気持ち悪さ。
頭の中は光の高速な点滅、もうろうとする意識。

2、3時間は、眠りについていたようです。
幸いな事に眠くありません。

虚無空間にこれほど長くいたのは初めてです。
理解を超えた体験でした。

98滝沢:2013/10/07(月) 06:52:03
tkさま

私にメッセージを出すよう促していただいた事、感謝いたします。
メッセージを読んだ時に一つのリミッタが外れ、震えの後、虚無が一気に吹き出したたように感じました。

99TK:2013/10/07(月) 07:15:47
滝沢さん

私の言葉に反応が起きるのは、あなたにはまだ確実に、自我があるという事です。

この残った自我こそが、
激流を渡るイカダの正体ですからうまく利用しないと駄目なんです。

私に出会う前のラピ。さんの段階に似てますね。

自我が少なくなってかなりの楽が実現できているのです。

ラピ。さんは私に会う前にその段階で、悟ったと誤認してました。

とにかくまずは空っぽを確実なものにして下さい。

それと、実践できる限りは実践するという事です。

本当に激流を渡り終えたら、実践はいくらやりたくても不可能になるので、
ラピ。さんのように

おのずとわかります。

今のあなたの段階でも充分に楽は実現できている、
その先に進むかはあなたの問題です。

ラピ。さんは進みたいと言う強い意志がありましたから。

100ラピ。:2013/10/07(月) 07:40:20
みなさまおはようございます!

☆滝沢たん

掲示板に書き込むことで気付くこともあると思いますので
どうぞ、思うものがあれば書き込んでね。

ちなみに彼岸の前には必ず激流があります。


☆TK師

そうですね。
ということは滝沢たんは今まさしく
チャンスの時、ということですね。

@(*・ω・*)ポッ

101滝沢:2013/10/07(月) 09:18:56
自我をイカダに激流を乗り越え至るですね
了解いたしました

102TK:2013/10/13(日) 11:01:39
私は決死の状況で激流を渡ったが、
はたしてこのような道を他の者が渡れるものだろうかと思った。

何人もの自称道の者と言う者たちに出会ったが、どれもこれも、
私が折角命がけで見つけたものだったが、
いつしか私はもう誰にも道案内などしなくて良いと思っていた。

しかし、少なくとも一人道案内したら至ったんだ、
だからもう一度ここで少し話をしてみている。

ただし、至れる者とそうでない者の違いで気が付いた部分がある、
三止三請と言う言葉を聞いたことがあるが至れる者と言うのは
私が教えないと言えば三度でも四度でも教えてくれと迫ってくる者だ。


大パリニッバーナスッタンタ3・40(ブッダ最後の旅)
>もしお前が修行完成者に懇請したならば、
>修行完成者(=ブッダ)はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、
>しかし三度まで言ったならば、それを承認したであろう。


それくらいの意志の強さの無い者には、教えても無駄だと言うことが分かった、
これは「激流」なのだから、
意志の強さの至らない者は「激流」の流れの方が勝って流されていく。

私は本物の「激流」を説く者だ、
あちらこちらの「緩流」で一生涯賢者ごっこを続けたいような者に私は用はない。


マタイの福音書 16章21-23
>その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、
>律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、
>そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
>
>するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。
>「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
>
>しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。
>「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。
>あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」


ヨハネの福音書 13章8-9
>ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」
>イエスは答えられた。
>「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
>
>シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」


「あなたはわたしと何の関係もありません。」はすなわち
「下がれ。サタン。」と同じ言葉として使われている。

ペテロと言う人物の中に住んでいる者がイエスから「サタン」と呼ばれている者だ。

そして、それを釈迦も「悪魔」と呼んでいた。

実は私が実践者だった頃に、私はペテロと言う人物とは違って、
イエスに言われるまでもなく自分で自分の中の「サタンと言う者」を見抜く精度の目があった。

つまり、ペテロがここで述べたような事は私は他者から指摘されるまでもなく、
自らで出来なかったという事だ。

このペテロの言葉の中のどこがサタンだと言うんだと思う者も多いだろう、
私ははっきり言うが、そう思う者が既に「サタンという者」に乗っ取られているからそう思うのだ。

「サタンという者」に自らを乗っ取られていて、それを自分だと思い込んでいて、
さらに気持ち良いとか言っているんだ。

これは、私が述べているみんな次の内容にかかってきているものだ。

>イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。
>
>紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。


他者の意志を自分の独自の意志表現で妨げてはならないという事だ、
これをペテロと言う人物がやった、
だからこの者は「サタン」に乗っ取られた者とイエスから呼ばれた。

イエスが盲人に手引きをさせないのは、
この盲人の独自の意志表現がイエスが話した「サタンという者」に乗っ取られた行為になるからだ。

至った我々に意志はない、すなわち、このようにならなければ、
語る言葉には細心の注意が必要なのだ。

>「あなたはわたしと何の関係もありません。」「下がれ。サタン。」

(続きます)

103TK:2013/10/13(日) 11:02:20
(続きです)

以前も自称道の者と言うバカな者に、あなたの表現するそれは「識別」ですとか、
間抜けさらけ出しまくりの、
ヨーガやってるとかインドで習ったとか言うエセ実践者がいたが、
その者こそ私に対しての独自の意志表現すなわち「サタンという者」に乗っ取られていた。

私と対等に議論などしたら、カルマを背負うのは相手だけだ。

イエスの説いた「従順」の実践、
この実践を私がやっていた時に時々私をある種の不安が襲った。

私は自ら進んで私の持っている個性とか独自性とかオリジナリティーとかアイデンティティとか、
そのようなものを完膚無きまで意図的に意志を振るってことごとく徹底的に私の中から潰して排除する行為をしているのだが、
このような方向性の道を歩んでいる私はどうなるのだろうか、
「このままでは私は私で無くなってしまう」。

しかし、
私には進むしかなかった、私には「サタン」を見抜く目が与えられていたからだ。

「このままでは私は私で無くなってしまう」この声がサタンという者の声だと私には見えているのでこの声を無視する、
すなわち進むしか手が無いという事になる。

「サタンという者」と一緒にいて、
それで良しとして気分が良いと言うものたちの私には気がしれないがね。

私の話を聞いて進む者は、
私と言う結果を見て実践するのだからまだ進んでいく事にためらいはないだろうが、
私の場合は文字通り自分自身を実験台そのもので率先して個性、独自性、
アイデンティティなるものを自らで片っ端から徹底的に潰していくと言う行為は私には非常に恐怖だったよ。

ただし、「私はとても大変だった」、この表現は好ましい表現なのだ、
大変な環境が作り出せれば作り出せるほど、
激流度合いが増して早く渡れる事に繋がる、
知っててやるより知らないでやる方が激流度合いが増して早く進めることになる。

このような理由から、有能な指導者と言うものがもしいるのなら、
理由を説明せずに理不尽を無理やりやらせる、
このような手段を取り入れる事だろう。

大変(激流)を避けて通りたい者など、
所詮、彼岸(神の国)へのアセンションは無理だからやめておくことです。


マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

ここで述べた実践がイエスの説いた子どもたちのようになるための実践にあたります。


あとネット上でエセ賢者とエセ実践者も良く目にしたが、彼らの特徴は指導する、
それを受けると言う事を利用して、
その正体はその場の雰囲気を楽しんでいる者たちだった。

そして、時々、自分たちはこのような真理を学んでいない多くの者たちと違って、
学んでいる分だけ優れているんだ的な無意識の固定観念を自分自身の中に宿している。

エセ実践者とはこう言うものだ、しかし、
真実の実践とは私が何度もここで話している通りで、
この自分は世界の中で一番劣った者で他は全て自分より優れた人たちなのだと言うポジションこそが、
アセンションの入り口なのだから全く違うのです。

エセは善も悪もないとか言っていますが、これも、本質とは全くの別物で、
至った後の賢者の状態をあの頭の悪い人にわかるようにカスタマイズしなおすと、
善の想いも、悪の想いも、善も悪も無いと言う想いも、
そもそも「想い」そのものがないと言う意味なのです。

善も悪もないと言う想いを抱けなどと、誰も説いていないのですよ。

善も悪も、善も悪も無いという想いも無いと説いているのです。

エセ賢者が「理解」を説くが、これはエセと言う証です。

最終的に「理解」は消えますが、
実践段階でも「理解」無く進む事に優れた価値があるのです。

104ラピ。:2013/10/13(日) 23:24:41
☆TK師

いつもありがとうございます。

私の通った道も、どの瞬間も気を抜かず、抜けず
必死の道でした。

ある意味、「エゴ」との勝負です。
エゴに自由にさせる時間は全く持たせず、
徹底的にやっていくのです。

この道は簡単、楽ちんではありません。

自らその選択をする人だけが
誰かに何も言われなくてもその道を選んで進んでいくのだと思います。

彼岸の前に激流があると言われていますが
まさしくこれは激流です。

彼岸に渡ろうとする者に対して 
大きな抵抗が彼岸の前に立ちふさがっています。

でもあきらめなければ門は開かれます。
あきらめればそれで終わり。

本気で真剣に実践してる人にとっては
「あきらめる」という選択はできないと思いますが。

ちなみに師とのかつてのやり取りについて
参考になるかもしれないのでちょっと書いてみます。

初めの頃は 自分のそれまでの「知識」というもので
師にメールしていましたが
それらはことごとく否定されてしまいました。
(ちなみにこの知識は必要ありません。
道の妨げになります)

いろいろ否定されて、何がなんだかわからなくなり
どうしていいかわからなくなりました。

最終的には
「あの、私わからなくなりました。
どうしたらいいですか?どうしたらいいですか?」
という言葉になりました。

師は「本物」である、という直感がありましたので
師を信じて実践することにしました。

今までの知識をすべて捨てて一からのやり直し。
まさしく何も知らない一番低いものとして実践させていただくと決心し
やりとげました。

@(*・ω・*)ポッ

105TK:2013/10/14(月) 18:31:49
マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。


誰も子供時代が無い者はいません、つまり、
成長する過程でだんだんとカルマの世界にはまってくるという事です。

「子どもたちのようにならない限り」、
ここからわかる事は科学さえ進めばこの世界全体の次元上昇は可能だと言う理論も浮上してくることになるかもしれません。

つまり、生まれた最初は良かったのに、
成長の過程で低次元になってくるという事なのですから。

まず、生まれてくる子供に罪はないと言いたい所ですが、
貧困地域に生まれる子供もいれば、裕福な資産家の家に生まれる者もいるし、
人には生まれながらにして差があります。

カルマと言うものがあるとして、そのほとんどがどのような環境に生まれるかで、
決定づけられると言っても良いです。

例えばどこに行っても虐められる者がいるて、
虐められない者はどこでも虐められないと言う現象がある点を捉えれば、
虐められる者の中に虐められるための原因があると考えるのはこれ以上無いくらとても科学的な考え方です。

人の一生の幸、不幸を左右する性格はほとんど全て生後に親から収集したものです。

つまり、どの親の元に生まれるか、
カルマと言うものがあるとしたらここでかなりの部分が決定づけられます。

エゴの無い子供の段階からどんどんとエゴを収集して、
幸福なあるいは不幸な人間になって行く。

子は親の背中を見て育つとか、三つ子の魂百までもと言う言葉がありますが、
これが一生を左右していく事になります。

私などの悟った人間であったとしても、出力形態としての行動パターンはやはり、
親から収集したようなものが基本となっています。

これは、日本人であれば日本語を出力して表現するのと同じことで、
悟った者も何らかの行動パターンで行為を出力する以上、
その基本は親から収集したパターンで編成されるという事になると思います。

ただ、収集元の親との大きな違いは、
悟った者の場合はあくまでも仮の出力形態でしかないという事なのです。

私はこれを疑似エゴイズムと呼んでいますが、
即ち行為はあくまで我々の仮の姿なので状況に応じてパターンの編成は自在と言う意味です。

ただし、
悟る前の者は親から授けられたそれそのものの狭い中で右往左往するしか手がありません。

親を呪ったところで仕方がありません、
もっと親が金持ちだったら自分はこんなに苦労しなくてよかったのにとか、
親がもっと出来た人間だったら自分はもっと良かったに違いないとか、
あんな親のようにはなりたくないと反発しながら、その、
反発を通して親と同じ特性を身に着けて行くと言うエゴの特性があります。

自分は親とは全く正反対だと思っているのは本人ばかりで、
思考のパターンはほとんど親と同じようになって行きます。

まず、実践者の取らなければならない第一の方法は、
自分の「理想」と言うものをしっかりと持ち、
それの実現に向けて精一杯生きる事です。

親と話し合いと称した議論するも良し、対立する事もあるかもしれませんが、
そうやって、「理想」を精一杯生きてみることです。

これがすなわち「ワクワク」の次元の実践段階です。

(続きです)

106TK:2013/10/14(月) 18:32:26
(続きます)

「ワクワク」は私が見る限り低次元アストラルで、
釈迦やイエスの教えのレベルと比べれば、それより遥かに下の次元の内容です。

物事には順番と言うものがあって、
この「ワクワク」と言う低次元の段階を精一杯やりもしない者は、
その先には進む事はできません。

その意味で「ワクワク」と言う低次元の段階の実践は必要な実践という事になります。

ここだけはスピ系は当たりだったと思います。

自分の親から与えられた「エゴ」のコマを充分に利用して「理想的」な生き方をしてみるという事です。

釈迦やイエスの教えは、「ワクワク」の実践を終了した段階の者のための教えです。

もちろん当人は釈迦やイエスの教えの実践に入るまで、
自分は親とは正反対だと思い込んではいるのですが。

ワクワクの次の段階に進んだ者の実践内容を記します。

マタイの福音書 15章4
>神は『あなたの父と母を敬え』、
>また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。

反発する事で同じエゴを収集して来たのですから、
「従順」にする事によってエゴが解けていくのです。

エゴの中にいる人にはこの理論分かりませんね。

この実践をしていると面白いように、
自分の反発は親の特性とそっくり同じであったことをまざまざと思い知らされます。

この実践では親に神をオーバーラップさせて、敬い従順を実践する形となります。

親に対して馴れ合いでは無く、礼儀を重んじた他人行儀の接し方となります。

自らの中のエゴを落す手段は、
自分の外の人のエゴを利用するしか手が無いと言う原理があります。

即ち、自分にエゴをふるってくれる人が居なかったら、
自分の中のエゴは落とす事は出来ません。

自分に対してエゴをふるってくれるその振るわれたエゴに対抗せず、
従順に接する事によって、エゴは落ちるのです。

これはすごく科学的な理論です。

「従順」と言う行為そのものが、
「対抗」があって初めて成立する相対の原理でエゴを減らす作用の善玉エゴですから。

これは、本当に凄い実践でしたね、親からも気持ち悪がられるし、
反対にやめろと言われるし、
それでも実践は最優先なのでこの場合は実践を優先していいのです。

「従順」の実践中であったとしても、方向性のぶつかり合った選択肢の場合は、
優先順位を付けた選択と言う手段が許されます。

実践者を続けたければ実践は命に代えても最優先事項です。

親を神のように敬い他人行儀に礼節をもって従順にするたびに、
親のこの性格が自分の中にもあった、親のあの性格が自分の中にもあったと、
次々と親から収集した自分の性格の客体化が自らの中で起きてきます。

間違ってもこの実践の際は、駄目親と言う判断は許されません。

どんな親の行為に対しても神として敬い従順です。

実践とは「激流」なので、当然危険も付きまといますし、
アセンションを志す者はそれを自己責任でやってもらうしかありません。

いやなら、アセンションはあきらめる事です。

このような奥義の数々を、気安くさらしていいものかとも思うのですが。

この先を、どうしてもという者は、メールという事になりますが、しかし、
それほどの志の者がいるとも思えませんし。

危険な部分も無いような行法など、
真実の行法とは言えないしそれをあえて仰々しく「激流」などと呼びはしません。

聖書というものがほとんどどこの書店でも売られていますが、
あれを真実に解釈できたなら、
あのような危険な本を良くどこの書店でも置きますねの話しになると思います。

つまり、いかに真実は何も伝わっていないという事を指します。

至った者は至れるような読み方をしているわけですが、
至れない者は至れるはずの無いような読み方をしています。

本質的にあの聖書に記載されている実践法をやれば誰でも至れるはずなんですが、
ただし「激流」です。

イエスは磔にされましたし、踏み絵を踏めなくて拷問にあった者も過去に居たし、
この「激流」と言う言葉は生易しいものでは無いと言いたいのです。

107実践マン:2013/10/15(火) 19:55:58
TK先生

上記のお話、たいへん有難いです。
親に反発して、自分の理想を実現しようと気のすむとこまでやりました。
今は、親に従順であろうと奮闘中です。

一年ほど前に親の満足する家(親の近所)に引っ越しました。
それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。
それがきっかけで、エゴが出てこないように、他人行儀な態度に変わりました。
介護をする覚悟です。

時々、親と主人との意見が割れます。
基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。

108TK:2013/10/15(火) 22:23:45
実践マンさん

>それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。

何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?

ここが問題なのです。

これ次第で私の回答が変わるのですよ。

109実践マン:2013/10/16(水) 05:04:04
TK先生

ありがとうございます。

>何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?

他の家族のために、私がこの怒りをおさめなくてはならないと感じました。
「私の」親と思うと怒りを感じたので、他人と思い、甘えを無くすようにつとめました。
他人と思うことにより、感謝の気持ちが出てきました。
再度、怒りの気持ちが湧くこともありますが、親がいてくれるからこそ怒りが湧くことに感謝しています。

110滝沢:2013/10/16(水) 07:04:40
TK様、ラピ様

ご無沙汰しています。

突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。

ラピさんの至った後のおっしゃっている事がよく分かりました。
また、TKさんの自我への考え方がよく分かりました。
お二人の愛に感謝いたします。

今は、子供のように、淡々と平穏な生活を送っております。
本当に普通で、戻ってきたという感じです。

色々とありがとうございました。

111TK:2013/10/16(水) 18:05:46
実践マンさん

>時々、親と主人との意見が割れます。
>基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。

実践マンさんの場合理屈の範疇で生きてますから、
実践と言っても理屈で解決する実践ですね。

どちらと決めてしまうよりも、状況に応じてという判断が的確だと思います。

理屈で解決できなくなったその時には、その先の進み方がありますから。

精一杯に実践すると言う事さえあれば、いかなる場合でも先に進めると思います。

112TK:2013/10/16(水) 18:08:13
滝沢さん

>突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。

僅かのこの文章から、私なりの判定は不可能ですが、たとえ、
誤認であったとしてもあなたなら、自分だけでも進んでいけると私は思います。

とりあえず、良かったですね。

113滝沢:2013/10/16(水) 18:33:50
TKさま

光明の後、起こるがままにtkさんおすすめの聖書、ブッダの2冊を買いました
何度も読み返したここの記事を広く理解したいなと思いまして
正直、光明起こってもそれで探求は終わりですが覚者の物語、深い理解こそが、この生を全うすることだなと思っております

114ラピ。:2013/10/16(水) 23:01:40
☆滝沢たん

今、平穏な生活を送られているのですね。
ほんと、よかったです!

ちなみに至りますと、
もう自我がありませんので
勝手に自我がどういうものだったのかわかってしまいます。

今まであったものがなくなってしまうので
その違いというのですかね、それが分かってしまいます。

至ってしまえば
自分の存在が真実そのものになりますので
どうぞ、いろいろ表現してみてくださいね!

@(*・ω・*)ポッ

115TK:2013/10/16(水) 23:22:59
滝沢さん

>光明起こってもそれで探求は終わりですが

この言葉が誤認ではなかったとしても、
あなたにはまだ明らかにしていかなければならないものがあるはずです。

まず、あなたの今いる所はまだ、私やラピ。さんの居る彼岸ではないですね。

実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。

あなたが怠ることなく実践を続けたなら、必ず成就出来る事でしょう。

釈迦もそうでしたし、私もそのようなプロセスを踏んでいますが、
自分で辿り着けた光明を師として進んでいけばいいのです。

私の紹介した本を持っているのなら、
悟りを開いた間もない頃の釈迦の言葉が載っています。
まだ、悟りを確実なものに出来ていないことが分かります。


悪魔との対話(相応部経典6−1−2)

>3.そのとき尊師は次のように思った、−−−「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に
> 実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実
> 践している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したい
> のであるが。
>4.未だ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>5.まだだ完全に実践していない智慧の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>6.まだ完全に実践していない解脱の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>7.まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)〉の体系を完全に
> 体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めてのすべての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱し
> たと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び
> 敬いたよって生活したいのであるが。
>8.むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだ
> ろう。」

116滝沢:2013/10/17(木) 05:46:38
おはようございます

ラピさん
おしゃるとおりです
自我がわかってしまいました。

TKさん
読んでみようと思います
まだ1ページも開けてないです。。

117滝沢:2013/10/17(木) 07:45:03
http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html
TKさんラピさんのおしゃる事に近いと感じました

今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!

118実践マン:2013/10/17(木) 09:45:30
TK先生

はい、理屈で解決する実践を精一杯頑張ります。
ありがとうございましたm(_ _m)

119TK:2013/10/17(木) 17:48:06
滝沢さん

>今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!

これを今あなたがやったら、私やラピ。さんの所へは至れませんが。

しかし、あなたの選択肢ですから。

今のあなたは、私に出会う前のラピ。さんですね。

私はこの人に出会って更なる地獄に突き落としたのですから。

あなたには空間があるでしょ。

我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。

120滝沢:2013/10/17(木) 18:36:46
実践がある実践もないも含めた
生を楽しむという表現をさせていただきました。
というのも実践が分からなくなってしまったためです。
もし、実践がはっきりすれば実践したいと思っています。
光明後、サタンが愛であると体験しました。
サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

>あなたには空間があるでしょ。
>我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。

見られるものは見るものになります。
これを空間がないと呼べますでしょうか?

121TK:2013/10/17(木) 18:56:50
滝沢さん

>見られるものは見るものになります。
>これを空間がないと呼べますでしょうか?

よべません。

今のラピ。さんもあなたのこの言葉には異次元から生じる違和感があるはずです。

まるで、私と出会ったころのラピ。さんのようですね。

彼女は私と出会う前のかなり過酷な実践をした成果で、
あなたの言う空っぽを実現して、私がまだまだ全然、
と言うのが分からなくてね、悟っていると言い張ってましたから。

122滝沢:2013/10/17(木) 20:13:17
書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

123ラピ。:2013/10/17(木) 21:41:16
☆滝沢さん

掲示板を見られている皆さんの
気づきのヒントになるかもなので
ちょっと話は戻りますが
書かせていただきますね。

滝沢さんの表現された言葉
「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」

ここなんですがTK師は「自我への考え」については
一度も書かれていません。

考えとは、人それぞれによって違うものであり、
正しい、正しくないというもの含んでいます。

人によって正しくなったり、正しくなかったりします。

師は「自我」という事実について述べられているのみであり、
それは絶対的なものであり、師の考えではありません。

そもそも至ってしまえば真実そのものになるので
表現することは「考え」ではなく「真実」なのです。


そして滝沢さんの引用されていたサイトですが

http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html

だから滝沢さんは「光明を得た」と宣言したのでしょうか?

この内容は「実践者」に対しての方便が書かれていると思います。

>もしかしたら光明を得ているかもしれないし、もしかしたら得ていないのかもしれない。
>そこに「もし」や「だが」はなかった。それは単純な言明だった。もう一度、繰り返そう。
 >あなたは光明を得ているし、そうであるしかない。

「もし」とか「だが」とか疑うことなく
光明を得ているものとして実践しなさい、ということです。

光明を探したり、求めたりするのではなく。

だから滝沢さんは「光明を得た」として
これから実践をしていく、ということですかね。


>もっと別の言い方をしてみよう。
>自分自身を光明を得た存在として敬うようになった瞬間から、あなたは誰しもをあるがままで光明を得た存在として敬うほかはなくなってしまう。

このように実践しなさい、ということです。

実際、至ってしまえば敬う対象は消滅するのです。

だから実践者にそう語られているのでしょう。


>見られるものは見るものになります。

この表現が滝沢さんの状態であるなら
残念ながら私たちの状態に至ってはないですね、、。

私たちの状態ではそんな表現はできません。


>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

かつての私も似たようなことを師匠に言っていました。

滝沢さんは自分の言っていることが
私たちに伝わっていないとお思いでしょうが
実は丸見えなんです。

@(*・ω・*)ポッ

124TK:2013/10/17(木) 23:06:20
滝沢さん

>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

滝沢さん、あなたはまだです。

実は私やラピ。さんは、同次元の者同士、打ち合わせなどしなくても、
この次元の者にしか通じない対話というものが分かります。

それは、本当に至っているからなのです。

ですから、あなたが限界を感じるのは、異次元だからです。

これが結論です。

ちなみにあなたの次元はこちらからは丸見えです。

125TK:2013/10/18(金) 00:21:22
滝沢さん

私はあえて至った後の状態がどのようにあなたの表現と
相違しているのかというようなことをあなたには語りません。

理由は、あなたの悟りの誤認の元になってしまうからです。

私はここで前にも述べているつもりなのですが、至る前の者に、
至った後の者の状態を述べる事は害にこそなれ参考にはならないのです。

ただ、あなたはまだなのです。

あなたの特性も大体掴めています。

とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。

それはそれで構わないと思います。

あなたがここで明らかにした経験から、
あなたならそれでも進んでいけると思えるからです。

ここで、至ったと誤認して甘んじてしまう事さえなければです。

私も究極が明らかになった時には、その後退転して、まだ此の岸の者でした。

その後になって次々と明らかになったものがあったのです。

なぜ、このような事が起きるのかと言うと、
エゴの力を悟りに至る推進力として使っているからなのです。

126滝沢:2013/10/18(金) 05:18:38
Tk様

ありがとうございます
真摯に受け取りたいと思います
道なき道ですね
全て計画済みで起こるがままパーフェクトに感じます

127滝沢:2013/10/18(金) 09:18:02
あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう

ラピさま
Oshoのページで響いたのはあなたは釈迦でもないという部分とダンスするという部分です
Tkさんの釈迦の悪魔との対話の引用に通じる部分やラピさんの表現してくださいという部分に通じるなと思っています
また、光明が起きてから検索でoshoのページを見つけました

おっしゃる通り自我の考え方というより過去に起きた事の事例から受け取った私の理解という表現が正しいですね
言葉は難しいですね

Tkさま
私は独自の道を歩んでるわけではありません
ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、それが縁で色々な事実を教えていただきました
そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を受けて今があると考えています

128ラピ。:2013/10/18(金) 20:09:42
☆滝沢さん

ここを見つけてくださって、そして書き込んでくださって
ほんとうにありがとうございます。

ほんとこれもご縁かもしれないですね。

Oshoの記事に関してですが、了解です。


>「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」

実はこの表現からも滝沢さんの状態がわかったのです。
私たちの状態では使えない言葉をつかってらっしゃるから。

普通に使っている言葉にその人の次元が現れています。

どうやってもそれは隠せないのです。
私たちはそれを見抜いてしまいます。

滝沢さん、かつての私と同じ状態であるとしたら
あと少し、でも遠いあと少しです。
次元を超えるには激流が必ず必要です。

穏やかなままで次元上昇はあり得ません。
私がそれを経験していますから断言します。

今回の光明に、激流はありましたでしょうか?


滝沢さん,私はかつて師の言葉が分かりませんでした。

自分の知っていると思っている言葉を使っても
ちっとも伝わってない気がしたし、
「何言ってるの??え・・??なんで???」という状態でした。
「????」でした。

だから、ついに降参し、一から始めさせていただく
と決心しました。

今まで得たものをすべて捨てて
初心者としての実践です。

この時の動機は実は
「師匠のいる次元に行きたい!」これでした。

ちなみにこの「師匠の次元に行きたい!」というのは動機であり、
実践するときはそれすらも捨てて、
ひたすら実践です。

おかげさまで今に至ることができました。

願望を抱いた実践では、至ることができません。

ひたすら実践することが大切です。

129TK:2013/10/18(金) 20:38:30
滝沢さん

>あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう

この辺もあなたは実践中の人のスタンスではないのですね。

つまり、シンプルではないという事です。

あなたは思考(マインド)的な振る舞い方が非常に多いのではありませんか。

実践者はシンプルがもっとうなのです。

マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。


実践中の私にはとてもあなたが今ここでしているような振る舞い方は出来ませんでした。

私はラピ。さんに関しては、かなり私への接し方で戒めた部分があります。

私は何度も宣言していますが実践者ではありませんので、
我々と同じつもりになって至る前の人が振る舞っていたら絶対に至れません。

あなたの立ち位置が高いという意味ですよ。

>Tkさま
>私は独自の道を歩んでるわけではありません
>ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
>たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、>それが縁で色々な事実を教えていただきました
>そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を>受けて今があると考えています

実践者にはとてもできないような受け答えの数々ですね。

>あなたは、あなた独自の意思表示について、
>非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。

>実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。

この言葉、厠にでも捨てられたようですね。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

わかりましたか、
あなたが私の話すのとは違う独自の道を歩んでいるという意味が。

どうぞどうぞ、ご自由に。

130滝沢:2013/10/19(土) 08:28:04
TKさま

ありがとうございます

おっしゃられる通りです
やはり私は、まだまだ修行僧の身ですね
精進させてください

131TK:2013/10/19(土) 10:31:05
滝沢さん

今、あなたがなにをもって光明と言っているのか私には分かりませんが、
前にあなたがここで公開された体験については、
束の間体験であれ相当のものと判断しています。

ですから、
その経験で辿りつけたものを師として確実なものにするべく歩めば良いと話をしたのです。

以前のラピ。さん同様の空っぽが実現できた程度なら、
実は以前のラピ。さんもあなたもそうですが、
私の目には全然空っぽではありません。

つまり、感覚が鈍い鈍感がもたらした空っぽの誤認と言う意味です。

ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。

132ラピ。:2013/10/19(土) 20:32:12
確かに今と比べるとかつてのからっぽは今とはまったく違います。

ただ、これからの道、
このからっぽも活かしてていけると思います。


>ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。

師には、自分の状況をお伝えしていました。
そしてその都度、言葉をいただきました。

滝沢さんも状態がどうであるかなどを表現されたら
師からの言葉があると思いますよ。

だから表現をおすすめしたのです。

至っていれば、表現でそうであるとわかるし、
至ってなくても今の状況について
言葉を頂けると思います。

私もなにか言葉にできるかもしれません。

そしてあとは実践あるのみです。

133TK:2013/10/19(土) 23:39:26
滝沢さん

あなたは、私に出会ったばかりの至る前のラピ。さんの状況に近いですね。

私に出会ったころのラピ。さんは、空間認識の中に住んでいて、
空っぽの内面と外側があるというようなところで精神世間の知識をしこたま仕入れて楽々生きていたのです。

それで、私には自分は悟っているんだと言ってたんですね。

滝沢さん、あなたの表現の端々が、
私はそのあたりにいますと私には聞こえてくるのです。

ラピ。さんも私に出会ったとき、私の指示する内容が、
全く楽で屁でもないみたいな状況でした、
これ悪魔の声がかなり少なかったことを意味していました。

でもね、これ残念ながらラピ。さんが至ったと言う激流の彼岸ではありません。


>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

あなたの鈍感な目で空っぽと思えても、空っぽではない(サタンはいる)のですから、実践はあります。

私はそれをラピ。さんの中からあぶり出しました。

これがラピ。さんの言う激流ですが、実はあなたの中からもしこたまあぶりだせるのですがね、一杯いますよ。

どんなに微細な内面も見抜いていかなければ彼岸には渡れずいつまでもいつまでも此の岸の人のままです。

ここで光明だと語られると誤認覚者になってしまいます。

もちろん現代ではあなたのような方も珍しくはないので、
お好きなようにとは思います。

134滝沢:2013/10/20(日) 09:39:35
光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております
非常に平穏になりました
そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
そしてひっかかった場合、即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しです

135TK:2013/10/20(日) 17:46:16
滝沢さん

>光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております

そのレベルの意識を、純粋意識とは言いませんが。

あえて言えば空間認識の次元の意識というのです。

つまり、空間と言う「対象」がしっかりとあなたにはあると言う意味です。

意識の拡散現象すなわち「ありのままに見える」とは、
「対象」が目の前にぶら下がっているうちは起きません。

あなたのそれはまだ、空っぽではないのですから。

>非常に平穏になりました

以前のあなたに比べたらの条件付きで、そうでしょうね。

>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、
>その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
>そしてひっかかった場合、
>即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しですそうでしょうね。

あなたは、まだ、彼岸ではありません。

私に出会う前のラピ。さんですね。

>とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

私があなたに対して自分独自の方法と述べるのには、主な理由がまだあるのです。

私はあなたに対して今の所導師ではありません。

あなたの私に対する接し方と言うのは、当然そういう人はいると思いますが、
自分が拾いたい情報が出てきたらもらって行こう、そういうスタンスですね。

つまり、
それだけ私の把握していないあなた独自の方法があなたにあるという事であると私は把握しています。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

このように、何が独自で何が独自でないかこれは主観の問題ですから、
あなたが私は独自に進んでいるわけではありませんと言われても、
私が独自と言っている事とは食い違ったりしますよね。

私は別に何が正しくて何が正しくないかなどという事を
ここで弁じようなどと言う気はないのです。

あなたの、視野の狭さを指摘したいのです。

悟った者の「あるがままの見え方」とはまるで正反対の視野の狭さで、
自分は光明を得たのだと、あなたの光明は誤認ですと私は言いたいのです。

私などあなたが光明を得た、探究は終わった、と言った直後位に、
あなたが誤認の光明である事を見抜きました。

あなたはこの時点で何の情報も流してないですよ、しかしそれでもわかるのです、
これが本当のあるがままに見えるというものですから、
誤認の光明のあなたと違いますね。

(続きます)

136TK:2013/10/20(日) 17:46:46
(続きです)

実践者は自分の捉え方と違うものが相手から出てきた時に、
まず相手が正しくて自分が違うのだ、あるいは自分が理解できないだけなのだ、
最悪保留と言うスタンスを取りながらも、
自分は相手の言うのとは違うと言う内面の声の方を殺すのです。

たとえ相手が間違っていて自分が実際は正しくても、実践者はそうするのです。

そもそも、内容が正しかろうが正しくなかろうが、
内面の声そのものが悟った者のそれではないのですから、
殺さなければその上の次元には行けません。

ですから、私はあなたはまだだよ、
そこで甘んじたらエセ賢者(偽キリスト)になてしまいますよとだけ言うのです。

基本姿勢として、私はあなたの取っている私の把握していない方法については、
私が教えたものではありませんから何か言う事はできません。

よってあなた独自に進んでいると私が述べるのです。

ただ、あなたの独自性の部分で当然ヒットしている部分もあると思います。

>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

それにしても、
あなたの内面にまだいっぱいありそうなのに悪魔をそのままにして悪魔退治以外に実践はありますかとはね。

はっきり言いますが、ありません。

>光明後、サタンが愛であると体験しました。

あなたの場合は、サタンといつまでも同化している事が愛です、と聞こえてしまうのです。

はっきり言いますが、あなたの取っている振る舞い方の数々では、
あなたに同化している悪魔とあなたは対面すらできません。

私はちなみに実践中は、サタンを親の仇同様に思ってました。

それくらいにけ嫌って同化から離れました。

だから戦いと言うのです。

釈迦の言葉にもよく「勝者」とか「激流」とか言う言葉が出てきますが、
激流の相手はただ自らと同化している悪魔だけです。


スッタニパータ439-443
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
>(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
>
>このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? 
>(敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。
>わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
>
>或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、
>姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
>
>軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、
>わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。
>わたくしをこの場所から退けることなかれ。
>
>神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、
>わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。
>──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。


イエスの言葉を取ってみてもほとんどそのような感じですよね。

>「下がれ。サタン。」
>「あなたはわたしと何の関係もありません。」

あなたは悪魔と仲良くしたいのだったら、もう実践者では無いですね。

至る前のラピ。さんにも言いましたが、
私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
あなたの一生の中でもそうあるものではありません。

私も、いつここのサイトからいなくなるかもしれませんし。

137ラピ。:2013/10/20(日) 19:28:44
☆滝沢さん

師の言葉から、いろんな感情が起こってると予想します。

それとも何も変わらずでしょうか?

ちなみに私の時の師の言葉はもっと厳しかったですよ。
まだまだ甘いかもです。

>私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
>あなたの一生の中でもそうあるものではありません。

私の場合、この言葉を聞いて「はっ!」とし、
このチャンスを逃してはならない、と思い、
素直に師の言葉を聞くようになりました。

138TK:2013/10/20(日) 20:51:12
ラピ。さん、
もともとラピ。さんの言語化練習に付き合う形での私の参加でしたから、
それでは、次の事をラピ。さんの言葉で説明してあげたらどうでしょう。

>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

これ、ラピ。さんが私に出会う前のまだ彼岸に渡る前の、
空っぽ実現時の次元の内容ですが、
この事についてラピ。さんの言葉で経験談とか話してみられると参考になると思いますよ。

>これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

これ、ラピ。さんが彼岸に渡る前の此の岸での内容ですね。

ようやく、滝沢さんは今、
私に出会う前のラピ。さんの居たところに来たという事のようですから。

もちろん、ラピ。さんにとってこれは光明ではなかったわけですし、
これが光明の誤認である事が理解できると思います。

139ラピ。:2013/10/20(日) 22:31:10
師匠、いつもありがとうございます!

はい!


>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

まず、この表現からもまだ、至られてないことが分かります。

私もかつて、「からっぽである」と師に宣言していました。
この時点でのからっぽとは
確かにいろんな思いが浮かばなくなっている状態でありましたが、
肝心なものに気づいていませんでした。

でも、その肝心なものに気付いてないときは
とりあえず、「からっぽ」でいることにしました。

さて、滝沢さんのおっしゃっている「からっぽ」も
私のかつての「からっぽ」も
どんなからっぽでしょうか?

本当にからっぽでしょうか?

確かに思考は止まっているかもしれませんが
止まっているのですよね。

止まっているだけで「思考」そのものはまだ存在してるわけです。

消滅してからっぽ ではなくて
それを「選択する自分」がいるからからっぽ、ではありませんか?

「からっぽである!」と宣言する私がいて
そのからっぽを意図的にしているからこそのからっぽではないですか?

私はそれに気づきました。

私はからっぽそのものではなく、
からっぽをを意図する私がいる「からっぽ」でした。

「からっぽ」という対象が存在する状態、
「からっぽ」を実践している状態です。

まだ実践できていたわけです。
からっぽを、、。

エゴがまだ存在していたのです。

ここから実際に師に送ったメールをそのまま転記します。


師匠、
「頭が空っぽの状態であること」と「からっぽそのものであること」
は全く違いますよね?

私は彼岸がよいです。
空っぽの状態を保つ自分がまだいます、私には。

空っぽそのものがいいです。

今、空っぽの状態はわかりますが
あまりに穏やかすぎます。
だって空っぽですから。


師匠、「激流」が必要だとおっしゃってましたよね?

☆(ここまで)


ここで私は激流に飛び込みました。

滝沢さんも今、かつての私のように穏やかな状態でしょうか。

でも、何かをきっかけに暴れだす「自我」がまだいますね。

いや、それには負けないくらい
「穏やかである自分」を選択し続けるでしょうか。

では、穏やかであることに集中したり意図したりする自分はいませんでしょうか?

その「自分」を野放しにしても、ずっと穏やかでいられるでしょうか?


あと、「激流は起こりましたか?」
この問いの答えをいただいていません。

ということは、滝沢さんに激流は起こっていなかった
と捉えてもいいですね?

140TK:2013/10/20(日) 23:25:08
ラピ。さん

彼岸に渡る前の此の岸の空っぽ時に、体が動かせなくなる現象も起こりましたよね。

そこから徐々に体が動かせる状態になる過程も少し説明してもらえますか。

つまり、思いか無い状態で体を動かすコツと言いますか、そのようなものですね。

これもみな私に出会う前の此の岸での出来事ですからね。

141ラピ。:2013/10/21(月) 01:07:22
はい!

まず師に送ったメールをそのまま紹介します。


(ここから)
ひとは行動するとき
本当は行動していない。

習慣的に、なんとなくで行動している。

そしてそれは純粋な行動ではなく
(変な表現ですが)いろんなことを考えながらの行動なので
はて、この手をどうやって動かしてたかな?
と純粋に考えるとわからなくなるし、
多分純粋に動かせない。


私の第2のスタートです。

それまでのことがそぎ落とされて
空っぽになった状態です。=闇でもあります。恐怖です。
だから、「わからない」としか言いようがないですよね。

とことん頭を空っぽにして
(だから、動けなくなりました。わからなくなりました。)
一つの動作を意図的にできるよう、日々をすごしました。
手を上げる事も
なんとなくではなく
純粋に上げるという事。

同じ動きでも
意識がまったく違う。


どう言ったらいいか、わかんないけど

頭が空っぽというか
手を動かすなら、それのみ純粋に行うこと。

ちなみに今は「頭がからっぽ」といっても
恐怖はありません。

空っぽといいながら
いろんな情報処理はできる。
決してなにもできない状態ではない。

オートマチックに「ぱぱぱ!」って感じです。

瞬間より早い瞬間がありますよね。

それが徐々にできるようになりました。

だんだん普通に出来るようになりました。

それまでの動きとは同じことをしていても質が違いますね。

純粋になにかに影響される事なく動ける。

(この今私が動いている状態は
どうやって説明したらいいか、わかりませんが
ある一つの点だけ(点ではないかもしれない。これはなんと言ったらいいでしょう?)
ですべてが動くという感じです。

動きの始まりを知っていて
そこに軽く命令というか、インスピレーションを送るというか
信号を送るというか、それを意図しただけというか、、、。
そんな感じで動く、という感じですかね?)

(ここまで)


このメールを書いてる私にはまだ「エゴ」があります。

かつて、本当に体が「思い通り」に動かせなくなってしまいました。
今まで普通にできていた(と思っていた)ことができなくなった。

今までは「なんとなく」で動き、
「思い」により動いていた。

動く前に思いがありました。

では、その動く前の思いがなくなってしまったら?
からっぽで思いがなくなってしまったら?

動けません、、、。

でも私は日常を普通に生きていたので
「動けません」
これでは済まないと思いました。

だって、ご飯を食べるお箸を持ち上げるのも大変なんです。
ある意味、命がけでしょうか(笑)

「かつて動けていたではないか。
動けるはずだ。」

この意志のみでがんばって動きました。

「どうやって動いてたのだろう。」

そんな考える暇はなく
「動け!」と頑張りました。
考えても仕方ないのです。

この頃はまだ意志がありました。
だから頑張りました。

「できるはずだ」「できて当然なんだ」

と頑張りました。

そして初めはギクシャクしていた動きも
少しずつスムーズに動けるようになりました。
(時間はかかりました)

意志を振り絞っての努力でした。
どんな動きにも気を抜くことができませんでした。

正直言って、どうして動けるようになったのか
その時の具体的なメカニズムはうまく説明できません。

ただ、その時の私の
「できるはずだ」
「できて当たり前だったじゃないか」
この言葉が私を奮い立たせました。

「できない」という言葉は私にはありませんでした。

「つべこべ言わずにやれ!できるだろ!」
これでした。

そして徐々に「思いなく」動けるようになりました。

単に「動く」ということです。

手を動かそうとしたら動かせる、そんな感じです。

何にも影響されていない純粋な「動かそう」という思いと
「動き」が直結してるような感じでした。
時間差がない感じですかね。

昔の話ですが、、、。

142TK:2013/10/21(月) 19:10:53
>昔の話ですが、、、。

ラピ。さんはかなりの年数、
此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

私に最初に出会った時には、
確か私から悟りの印可をもらいたかったような動機でしたが、
私に全く相手にされてませんでしたからね。

こちらも、少しでも悟っているなどと言う思いが僅かにでもあると、
これより先に進む事は不可能なことであることを知っているのでそのようになったのですが。

思い出しますね、「あなたは死ぬまで停滞確定です」、
と何度か私に言われましたね。

もう少しで、激流の彼岸に至るチャンスすら失う所でした。

143ラピ。:2013/10/21(月) 22:33:58
はい!

ちょっといろいろ思い出してみますので
少々時間をくださいね。


>「あなたは死ぬまで停滞確定です」

はい、よく言われました。
初めは意味が分かりませんでした。

途中は何度も言われるので
「なんでそんなこと言われなくちゃならんの」と思いました。

そして最後は
「そうかもしれない。
でもできる限りのことをやらせていただこう。後悔の無いように」
でした。

師匠、厳しくも真実に導く言葉を
本当にありがとうございました。

144TK:2013/10/21(月) 23:39:59
ラピ。さん

>此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
>何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

これややデリカシーの無い質問でしたね。

失礼しました。

何が言いたかったかと言いますと、
ここから先に進むためには釈迦も言っている通りで「激流」が必要です。

それでも、釈迦は彼岸に渡るのに激流を渡らなければならないと言ったが、
私は緩流で渡った見せるとか言う釈迦以上の天才がいるのでしょうか。

そう言う人はまず、誤認の悟りです。

楽を実現したという分、
エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので停滞と言う事が起こりやすい段階です。

つまり、死ぬまで彼岸には渡れずに此の岸のままが起こったりします。

ラピ。さんも何年とは言いませんが、
相当長い期間ずっとそこの此の岸のポイントで停滞していたと伺ったように思います。

ですから、
ここから先は悟った者のありのままの目(意識の拡散現象)でエゴの動きを捉えた、
的を得た激流を作り出すためのテクニックが必要となります。

私などは1年ほどの短期間の実践で激流を渡りましたが、
実はラピ。さんや滝沢さんとはプロセスが違っています。

彼岸に渡る前の此の岸のラピ。さんと今の滝沢さんが同じような段階にいますが、
私には悟る前に悟った者に近い、
エゴを見抜く目があったので、異なるプロセスで進みました。

なので、私の体験談は話しても滝沢さんの参考にはなりません。

しかし、以前のラピ。さんに対してもそうですが、
悟った者のありのままの私の目(意識の拡散現象)には空っぽではありませんでした。

そこから、数々の実践法が繰り出されますから、彼岸に渡る事は可能なのです。

私は良くラピ。さんに、
いくら敬語で武装しようが君のメンタルの状態など私の前では丸裸同然だと述べてました。

つまり、その甘さの部分を、
悟った者のありのままの視点(意識の拡散現象)で見抜いて行けば、
彼岸に渡れます。

ただし、再び激流の地獄など来ないと思ったいただろう、
その地獄が再びやって来ることになります。

釈迦の言葉の通り、激流を渡って彼岸に至るのです。

145ラピ。:2013/10/22(火) 07:52:14
おはようございます!

>楽を実現したという分、
>エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので
>停滞と言う事が起こりやすい段階です。

師はある程度楽に生きている私のエゴを見抜き、
それをあらわにしてくださいました。

その「エゴ」こそ、激流を起こすものであり
彼岸へ導くものですね。

私は停滞していたのは何年もの間です。

師に出会う前に第3の実践をしていましたが
第3の本格的な実践はブログを始める前からとほぼ同じです。
なので2006年の年末前から2013年の5月すぎまで。
6年以上、やってました。

師に出会えなかったらずっとそのままだった可能性が高いです。

なぜなら初めは師に「停滞確定」と言われても
意味が分からなかったからです。

そこまで、鈍かったのです。

エゴに気づけず、エゴのまま
「幸せ〜」とか「すばらし〜!」とか言ってましたね。

ま、その時は本気でした、、、。
自分の状態を疑っていませんでした。
何も見えていない状態です。

でも今の私からすると、
確かに酔っ払いの何者でもありません。

師から私はビンタをいただき、目が覚めました。
そのおかげで今があります。

いろんなスピリチュアルな知識を詰め込んで
永遠に続かない幸せとそうでない時を繰り返す日々。

「幸せ!」と言っているその本性を見抜かなければなりません。

心地よい言葉だけを求めて
自分を受け入れてくれる環境にぬくぬくといること。

それでは「停滞確定」です。
永遠にそのまま。ほんとそうですね。

でも本人がそれでもいいと言うのならそれもありでしょうね。

師も何度も言っていますが
「激流」は必要です。

そこから進みたいというのであれば
激流は避けられません。

「楽ちんな場所」で次元上昇はあり得ません。

146名無しさん:2013/10/27(日) 04:55:45
はっきり言っておきます

あなたがたは単なる詐欺師です

知恵ある者は私の言葉に従いなさい

147ラピ。:2013/10/27(日) 06:33:33
>146さん

そこで表現されている「あなたがた」や「私」は
誰のことでしょうか?

148TK:2013/10/27(日) 07:01:42
>あなたがたは単なる詐欺師です

詐欺師、はて?

誰か従ってくるの、へ?

149名無しさん:2013/10/27(日) 08:28:21
悟ったんですか?

スピリチュアルって意味無いんですか?

貴方たちもまだ途中なんでしょ?

150ラピ。:2013/10/27(日) 16:40:36
>149さん

かつてはスピリチュアルやってましたが
もう卒業しました。

今、スピリチュアルが必要な方も
いらっしゃると思いますので
それでいいと思いますよ。

151TK:2013/10/27(日) 17:35:36
>悟ったんですか?

さあねえ。

あなたの妄想で考えてみたらわかるかもよ。

>スピリチュアルって意味無いんですか?

スピ系、さてねえ。意味って一体なんだっけ。

スピ系では、全てに意味が無いとか聞いたことがあるぞ。

>貴方たちもまだ途中なんでしょ?

途中ってどっからどこにいく途中なんだっけ。

どこも目指してないんだけど。

152TK:2013/10/29(火) 10:15:28
ワクワクの実践と次の激流の実践の大きな違いです。

ワクワクの実践は外の現象に対して自分の中の理想というものを基準にして精一杯取り組む事です。

この段階では生きがいや楽しみというものも味わう事の出来る実践となります。


次の激流の実践は、取り組む相手は自分の内面です。

無理やりワクワクと言う手段はあったとしても、
本当の意味でのワクワクはここではありません。

この段階では、外を絶対的なものとして、中を滅ぼしていくのです。

人を裁いてはならないとか、実践マンさんが話しした、
ウソをつこうとする人のウソを見破ってはなりませんとかは、
実践する盲人にとっては、ただ、訳も分からず実践するしかないわけですが、
この理論上にかなった実践法の一つなのです。

そして、これにカルマ論を重ねると、
外の現象は自らのカルマの実現そのものと言う捉え方ですから、
この実践がダイレクトに自らのカルマ落しという事になるのです。

騙されて損をした、
実践者のスタンスであれば自分の実践を貫けてよかったとなる訳ですが、
これにカルマ論を重ねると、
騙されたことで自分のカルマが一つ解消されたと捉えるわけです。

繰り返し述べますがこれは危険な実践法なのでやれとは言わないですが、
やる人は自分の自己責任でやるしか手がありません。

従順の実践をどこまで完璧にこなせるかは本人の機根にかかってくるものですが、
一つの重要なポイントがあります、それは、
自分にとってどんなものより最優先する戒律を設けておくのです。

前に話しましたが、自分の方向性を放棄して、
外の方向性に合わせた従順の実践時に、
互いにぶつかり合う方向性に出会う事があります。

この場合は優先順位による選択という事になります。

前の例で言えば、実践はどんな場合にも最優先なので、
実践をやめなさいと誰かに言われても実践を続けることになります。

これと同じで、
一例ですが私が実践時に風俗店の前を通りかかった時に店の呼び込みの人に声をかけられましたが、
私は不邪淫戒に触れると判断して、
声をかけてくれた呼び込みの人の行為には非常に感謝するが私は今は入れないのです、
あなたのお気持ちは非常にありがたい、
私はあなたにお金だけ払いますと申し出たが、
あなたのような方からお金はいただけませんと丁重に断られました。

このような選択肢になるのです。

この場合に重要な事は、
相手を自分を横道にそれるようにたぶらかす悪い者と識別してしまうのではなく、
あくまで自分に善意を働いてくれた人と捉えると言う点です。

このような時に利用できるツールが相手の行為に対しての「感謝」です。

常に意識的にふるまうと言うのはこういう事を言うのです。

この辺が実践者としてやっていけるか、
単なる世俗の人として生きて行くしかないかを見極める分岐点ですから、
駄目な人は駄目です。

たとえば、実践者という事で私があえて反応を起こすような言葉をぶつけると、
とたんに私を裁きまくったり、何度か繰り返して様子を見たことはありますが、
信念というものにかけている人はやっぱり駄目だと判断できました。

このような人の場合は人に指示を求めるのではなく、
自分なりの理論で精一杯やってみるという事なんです、
エゴの世界でも何でも精一杯がないから「信念(意志の力)」というものが鍛えられないのですね。

人に従うのではなく、「精一杯の高い理想」を持って、
自分が中心になって人を導こうとする者の立場をとる事です。

まず、この課題がクリアーできない者に、次はありません。

「意志の力」の劣った者は激流は渡れません。

153実践マン:2013/10/29(火) 16:52:07
あらゆる人を神とみなし、神のお金は神に返すのが当然であるという実践をしていこうと思います。
ウソを見破らない実践と合わせて、やっていきます。
この実践をしようと心から思えるようにしてくれた過去数年間の出来事の数々に感謝の気持ちでいっぱいです。
騙してくれた方々、損をさせてくれた方々、不貞行為をしてくれた方々!ありがとうございます。
私の強いエゴをあぶり出していただきました。
恨みつらみの苦しみはもうこりごり、苦しみから抜けるために、
神のお金と思うしか道は無いという体験、嘘は真実であると思うしか道はないという体験をさせてもらいました。
次に、心を揺さぶる出来事があっても、乗り越えます!
TK先生のご指導のおかげで、決意がいっそう固まりました。
ありがとうございます。

154ラピ。:2013/10/29(火) 22:47:27
なにがあっても感謝。

私もやっていました。

騙されても、ひどいことをされても 何をされても
(どんだけのことがあったのだ(笑)
「私のためにしてくれているのだ。」
「私のために起こっているのだ。」
と、すべてに感謝でした。

いわゆる「ポジティブシンキング」やってました。

どんな時も
「ありがとう!」「幸せ!」と言い続けていましたよ。

@(*・ω・*)ポッ

155149:2013/10/31(木) 22:27:54
TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。あなたの通った道 あなたの悟り方。

156149:2013/10/31(木) 23:03:01
どーしたんですか?

157TK:2013/10/31(木) 23:20:04
>TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。

はて?

>あなたの通った道 あなたの悟り方。

どこも通ってないよ。悟りって、はて?

>どーしたんですか?

どーしたんですか?


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