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TK師との会話

1TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

179ラピ。:2013/12/01(日) 16:21:29
☆TK師

いつもありがとうございます!

私はスピ系にはまってましたが
(そのおかげでブログがあり、掲示板があるのですが 笑)
それ以前にしっかり実践していましたので
その経験があったおかげで
スピ系を捨ててわりとすぐに至ることができました。

今振り返ってみて スピ系で得たものはなにか?と言えば
いろんな経験ですかね。

私にとってスピ系の教えは至るのに役に立つものではなく、
逆に邪魔をするものとなってました。

私はかつてスピ系で言われていることが本当であるかを
実験していました。

スピ系で言われていることが本当なのか
実際自分で試していたのです。

これはブログだけでなく、
私の日常でもやってました。

スピ系の怖いところは
善悪の判断ができなくなる、ということです。

まだこの次元にいる方は
善悪の判断が実は必要です。

子供を思ってみてください。
子供に何かを教えるとき、
やはり善悪抜きでは教えられませんよね。

子供に「なんでもあり」、なんて教えることができるでしょうか。
いけないときは叱らなければなりません。

でもスピ系は「なんでもあり」を説いていることがあります。

さて、本当なのでしょうか。

単にバカな大人になってしまいますよ、それでは。

そしてスピ系の教えは出来事を都合よく解釈をしてしまう可能性があり、
現実が見えなくなります。

スピ系は一種の現実逃避です。

私はスピ系を経験して、それまでにない経験をたくさんしました。

そしてさて、スピ系で言われていたことは
本当だったのだろうか、、、、。

はてな? です。

私が至る直前に至るのを邪魔していたのは
スピ系のへんてこりんな知識でした。

師とのメールのやり取りも初めのほうは
ほんとうに私は素っ頓狂で
バカ丸出しでした。

常識のない、ポジティブシンキングに近いもので
お気楽、能天気、
ほんとうに失礼な礼儀知らずでした。

そんな私にもお返事をくれたTK師なのです。

TK師を師と呼ぶと決めてからは
TK師の教えに従いました。

スピ系を捨てろといえば捨て、
(その時点ではなにもわかっていませんでしたが
師の教えに従いました。
なぜ?と聞く必要なんてありません。
師と呼ぶからには絶対なのです。
これがほんとの師弟関係というものです。)

その他、師に言われたことは絶対でそれに従っていくと決めました。

そのおかげで今があります。

まずは今までの自分を捨てなければ。
それまでの知識というものを捨てなければ。

そうでなければ自分を飛び越えることはできません。

そしてなにもなくなった 何よりも一番低いものとして
師の教えに従う。

これにより、彼岸への門は開かれたのでした。

これは激流段階での実践です。

TK師、ありがとうございます。


ちなみに私はもともと師を求めてはいませんでした。
同じ次元の人間を師とすることはできませんでした。

でもTK師は違ってました。

TK師以外は私は
決して師と呼ばなかったと思います。

TK師に出会わなければ
私に師はいませんでした。

断言できます。

180名無しさん:2013/12/02(月) 08:40:41
TK師、みなさまおはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

>スピリチュアルと言う言葉こそ使わないで、
>全く同じような事をやっている者たちを見て、
>確かラピ。さんは何度かアプローチを試みたようでしたが、

はい試みました。

自称覚者さんが教えを説いてるところがあるのですが
その教えがこちらからしたら屁理屈だらけのでたらめで
次元上昇してない人の表現でした。

でもその人に「それは違う」、と私がお伝えしても
全く伝わらなかった。

自称覚者は言葉で納得させよう、理解させようとしてました。
そして「自覚」という言葉も普通に使われています。

何度も言ってるけど納得や理解をしていたら彼岸に渡れないのです。
自覚することが悟りだなんて、かつての私と同じレベルです。

悟りについてかつて私は 「悟りとは知ること」
とブログに書いたことがあります。

それは私がまだ彼岸に渡ってない時で、
悟りってこういうものかな
という感じで書いたのですが
まだ至ってない次元にいた私ならそうとしか書けなかったでしょう。

悟りは私にはその頃は異次元だったからです。
そんな私が書いてはいけなかった。

書くなら、まずは悟ってから、でした。

自称覚者さんのもとに集まる人は
彼岸には渡れません。
渡れるどころか、道から大きく離れてしまう可能性があります。

そもそもその自称覚者が彼岸に渡れていないのに
導くことなんてできないでしょう。

自称覚者が悟りについてきちんと語れないのだから。

この「悟りとは気付くこと」を自称覚者がみんなに伝え
みんながその自称覚者を本物だと思い、
「悟りとは気付くことなんだ!」と理解したとする。

全く駄目ですね。
ダメな集団になってしまいます。

彼岸への道は気付きでは通れません。
知ることでも通れません。

やはり激流が必要なんです。

激流とは、自我との戦いです。

自我を納得させたりするのでは自我を消滅させることはできないのです。

静かにすることはできても。

本気で彼岸へ渡りたいのならやるしかありません。
実践しかありません。

理解や納得、自覚なんてしていたら
その場どまり。
永遠に次元上昇はできず、同じ処をぐるぐる回るだけ。

どうにかしてあげたいのだけど無理ですね。

実際、試みたけど無理でした。

それなら、それをとことんすればいい、と思います。

どうなるかは知りませんが自由ですよね。

181ラピ。:2013/12/02(月) 08:41:41
また名前を入れ忘れました(;´▽`A‘‘

180の聞き込みはラピ。です。
@(*・ω・*)ポッ

182大介:2013/12/03(火) 19:49:00
ラピさま

はじめまして
自称覚者というのはどなたの事でしょうか?
でも、それを明かすのは御法度でしょうかね。。。

スピ系の例で、ニューエイジをあげていただきましたが、そのようなものであれば私でも分かりますが仮面をかぶった場合、微妙な場合分かりません。
どの辺りで見分ければよいものでしょうか?

183ラピ。:2013/12/03(火) 21:32:25
☆大介さん

ようこそいらっしゃいました!

なぜその人が「自称覚者である」と言えるのかというと
私たちの状態では使えない言葉を普通に使っているからです。

私たちの状態をきちんと表現できていない。
悟りについて的外れな表現になっており
その人の想像内での言葉になっています。

ただ、ほんとうの本物は
いろんな言葉を使いまわしますので
普通の方は言葉だけでは簡単には見抜けないかもしれません。

でも、私たちと同じ次元同士であるのなら
対話で私たちはお互いが分かると思います。

大介さん
まずはそんな本物かどうかわからない人の話を信じるよりも
自分を信じてがんばったほうがいいと思いますよ。

私も自分を信じて理想実現のためとことんがんばりました。

大介さん自身の人生、
一度きりの人生、思いっきりがんばられるほうが
得るものがたくさんあると思います。

184大介:2013/12/03(火) 21:42:30
ラピさま

本当にそうですね!
自分さえも持っていれば何にも惑わされないですよね。
大変ありがたい言葉ありがとうございました。
本やブログを読んで知識をつけるより自分の置かれている状況に真剣に取り組んで知恵をつけようと思います。

185TK:2013/12/22(日) 08:45:36
仕事上と言う部分でも、世情の動きなどで緊急、
切羽詰まった状況など様々なシーンがありますが、
そういう時こそが我々の本領発揮なのだなとつくづく思う事が良くあります。

楽しいですよね。

我々より深い読みが出来る人間はまずいないでしょう。

昔の時代であれば剣禅一致で真剣勝負の所が、
今は仕事上の業務に変わったわけです。

切羽詰まった緊急事態、とっさの判断が必要とされるシーン、
これこそ我々の得意中の得意です。

我々こそは「瞬間」を極めた者ですから。

我々にはいかなる時も、見えています、他の者の何倍もが、
このような時の他の者たちの動き、取っている行動、
判断して出した結論こういうものを目にすると本当に微笑ましい。

私はこのような時には全然、
同業他社みたいなところの動きなど参考にしたいと思いません、
どう見てもメクラみたいな動きしかしてないですし、
見る価値も値打もありませんよ、
やっぱり我々の基準で全然見えてない者の動き方しかしてないのですから。

実に私の売りの部分は悟りというものより、
能力的部分の増大と言う所の方が大きいのがスタンスです。

物事に対する処理能力さえ数段アップすれば、その事実だけで、
世の中の苦悩は消滅します。

悟り等と言う現代科学からみたら迷信めいたものなど振り回して、
それに一体どんな価値があるのですかの世界です、しかし、
誰もが認めざる得ない能力を身に着けられるとなれば話は別ですね。

物事に対する処理能力さえ増大すれば、苦悩はそれだけで減るのです。

これは科学的と言うより当たり前ですね。

剣禅一致と言う言葉は、本質的には能力増大という意味なのです。


どの方面から見ても良いことずくめのようなものです。

ここまで来てしまうと、余裕で笑いが止まらない。

お分かりでしょうが、
「理解」だなんだとか云々言っている妄想狂一族と私は呼びますが、
あのような誤認の者やそれに着き従う者たちには永遠にこれはありません、
屁理屈で納得したい者は世の中にそういうものを教えてくれる人は多そうですから
そのような屁理屈で納得したりしないだりする次元で楽しんでいたらいいと思います。

しかし、
ここで沢庵禅師が述べている「剣禅一致」で説く能力増大は絶対に起こりません。

それは、それが人のエゴの動きを見抜く能力すらない偽者による教えで、
メンタルに変容が起きない与太話しだからです。

着き従っている者たちでも、今自分たちがをやっている事は、
屁理屈の次元で能力が増大するはずが無いと思えるものであるはずです。

違うのですよ、
その者たちのやっているそれは偽物で
沢庵禅師の述べている剣と一致する「禅」というものとは似ても似つかないものなのです。

世の中暇人が多いですね。

くだらない屁理屈の言葉のやり取りに、よくも、熱中できるものです。

これは不健全ですね。

私はあのような妄想狂を信じているような人たちは、
気持ち悪い人たちだと思います。

スピ系だか精神世界だか、
そのような不健全な妄想みたいなことはきっぱり捨てて、
そう言ったものから一切離れてもっと地に足つけて現実に生きたらどうですかと、
その者たちの横っ面引っぱたいてやると良いのだと時々思います。

これが、私が至った者としてその者たちに向ける言葉です。

馬鹿げています。

もちろんその者たちの自由ではあるのですが。

186ラピ。:2013/12/22(日) 10:02:44
TK師、いつもありがとうございます!


私たちは苦悩から解放されています。

その苦悩のもととなるものが消滅したからです。

どうしてそうなったのか。

私の場合、徹底的に自分と向き合いました。

ごまかすことなく。
なにかでごまかすことなく。

自分としっかり向き合いました。

逃げることなく。

ちなみに私は悟りを求めていませんでした。

ただ自分が人間として生きていくうえで
逃げることなくしっかりと自分と向き合った結果起こったものです。

だから「悟りたい」では悟れません。

どうやったら悟れるかなんて方法を探したってそんなものありません。

そんな生易しい考えでは無理なんです。

そんな「悟れる方法」なんて非現実なことを探す暇があったら
今の自分から逃げることなく
しっかりと生きてください。

ごまかすことなくしっかりと「人間」を生きてください。

人として当たり前に生きていったらいいと思います。

精一杯生きるって素晴らしいと思います。

私は精一杯生きたおかげで
いつのまにかこうなりました。

でもそれができない人が多い。

しみじみそう思います。


>スピ系だか精神世界だか、
>そのような不健全な妄想みたいなことはきっぱり捨てて、
>そう言ったものから一切離れてもっと地に足つけて現実に生きたらどうですかと、

ほんとそうだと思います。

私も道の途中スピ系にはまってしまい
スピ系やってましたし、スピ系のブログも書いてました。

(今、かつつての記事を読み返すと、何とも言えません(笑)
それをかつては一生懸命やっていたのです)

でもそれをすべて捨てて、再びしっかり現実に生きる決心をしたから
今があるのです。

私がスピ系を続けていたらずっとそのままだったでしょうね。

その世界がすべてだと思って生きていたと思います。
(そう思っている人の多いこと!)

でも実はそうではなかった。

ほんとうによかったです。
ほんとうによかった。

TK師にほっぺたをひっぱたかれたおかげで
今があります。

はい!

187名無しさん:2013/12/23(月) 00:15:46
>私たちは苦悩から解放されています。

私たち“2人”は苦悩から解放されています。
ですよね・・?

解放、おめでとうございます。
ところで、全く苦悩のない人生って、楽しいですか?

188ラピ。:2013/12/23(月) 07:53:35
☆187さん

はい、もちろん。

ただし。
187さんの言われている「楽しいですか?」の問いの「楽しい」は
苦悩があってこその相対的な「楽しい」でしょうから
わたしの「それ」とは違います。

でも言葉に表すとすると
「楽しい」とも言えると思います。

187さんの言われている「楽しい」とは違いますが
「楽しい」と言えるでしょうね。

快適です。

189TK:2013/12/23(月) 10:48:47
>ところで、全く苦悩のない人生って、楽しいですか?

はっきり言う、
我々の次元に君がごときの意識のままで飛び込んだらそれは苦悩以外の何物でもない。

およそ耐えられるものでは無い、これが次元の違いだ。

190TK:2013/12/23(月) 10:54:44
例えるならば、例えば麻薬中毒者がいて、中毒から抜けられれば楽になれる。

しかし、中毒者にとっては抜けようとする行為が苦(激流)で、
それに比べたら中毒状態の方が楽なのさ。

だからこそ、抜けるのが「激流」となる。

「激流」を渡れば彼岸(高次元)だ。

191TK:2013/12/23(月) 11:00:45
悟る前の者にとって、人生がつらいものである事は分かります。

宗教を求めたりスピ系、精神世界、
そこには自分を助けてくれるものがあるに違いない。

このような動機が主なものだと思います。

私もこれは経験があるのです、しかし、私の場合は光の存在が出てきましたから、
結論から行くとそれは止めることになったのです。

ある意味し方が無い事ではありますが、もしも、
宗教やスピ系や精神世界が無かったら自分はどうしているだろうと少し考えてみて下さい。

現実の世界で苦しさの解決の手段を見つけるより仕方が無くなりますよね、
その方向性が出なければ駄目なのです。

釈迦の教えにしろイエスにしろ、
スピ系や精神世界や誤認の覚者による手当たり次第その辺から取ってきた、
でたらめな多種多様の段階のゴチャゴチャ混ぜ内容のなんじゃありゃ教え。

もし、
このようなものが自分の生活の中に一切なかったとしたらどういう行動をとっているでしょうか。

必ずそれ無しで解決を図りますよね、これが健全な生き方なのです。

じつは、釈迦の教えもイエスの教えもこれが当たり前にできていて、
その次の者にこそ有効に作用する内容に作られています。

私は釈迦、イエスの教えを利用して命がけの「激流」の戦いを繰り広げました。

これらの教えをバカにするなと言いたいですよ、
これらの教えの内容は寝ぼけたバカがお気楽な気分で振り回すものではありません、
その者達のようなまだその段階に達してもいない者が気楽に振り回すなど、
教えに詫びろと言いたいものです、
やがてその者たちには天罰が下る事と私は確信しています。

その者たちのために説かれた内容ではないのです。

その者たち程度の者の妄想ネタにされたら教えの方が汚されます。

少なくとも私が利用した釈迦やイエスの教えは、その者たちのおもちゃにされて、
「豚に真珠」とはまさにこのこと事です。

豚に真珠とは的を得た、良い言葉だと思いますが、聖書の中のイエスの言葉なのです。

釈迦やイエスの言葉は豚には用がありません。

まず、豚小屋の中の豚的な生き方を卒業した者は、
やっと手にすることが許される教えだという事です。

この場合の豚とは、スピ系とか精神世界とか、
誤認の覚者関係の妄想に憑りつかれた一派の者たちの事です。

豚が持つことは許されないものなのです。

豚に真珠を与えてはならないとは聖書の中のイエスの言葉ですが的を得ていると思います。

ちなみに、
我々本当に至った者の眼は書籍などにある本物の言葉は本物の言葉として当然区別がつきますが、
それと、
それらの巷にばら撒かれている精神世界の知識を適当にチョイスして使い回している偽者は、
いくら同じ言葉を引っ張り出して装っていても、
そのような「受け売り言葉」で我々の眼はごまかせません。

私も今度は偽物ハンターとでも名乗りましょうか。

人々のためになりそうですね。

192名無しさん:2013/12/23(月) 13:25:18
> 私も今度は偽物ハンターとでも名乗りましょうか。

非常に助かります。
この世の中情報がありすぎて、偽物にすぐに捕まってしまうので

現存していて、ましてや日本人だとハントするのは難しいと思うので、
ハントしても問題ない所で適当にリストアップしましたが、線を引くとどんな感じですか?


マハルシ
マハラジ
osho
クリシュナムルティ
マハリシ・マヘッシ・ヨーギ
パパジ
空海
井上ぎえん
沢庵
エックハルト・トール
ガンガジ
ダンテスダイジ
親鸞
ドランヴァロ・メルキゼデク
引き寄せの法則、ヒックス夫妻

193名無しさん:2013/12/23(月) 13:35:35
>現存していて、ましてや日本人だとハントするのは難しいと思うので、
>ハントしても問題ない所で適当にリストアップしましたが、線を引くとどんな感じですか?

私はあなたのスピ系趣味におつきあいするつもりはありません。

私は本当は偽物実践者ハンターだったんですよ。

あなたが偽者なのです。

さようなら。(笑)

194TK:2013/12/23(月) 13:41:10
私は真剣さの欠けた者に、このような場所で相手するつもりはない。

そのような者は、ある意味誤認の覚者以下だ。

誤認の覚者やその一派でさえ、そのような者よりまだましだ。

世の中には下の下という者がいるものなのだな。

195名無しさん:2013/12/23(月) 14:36:57
>それらの巷にばら撒かれている精神世界の知識を適当にチョイスして使い回している偽者は、
いくら同じ言葉を引っ張り出して装っていても、
そのような「受け売り言葉」で我々の眼はごまかせません。

例を挙げていただかないと、分かりません
単なる妄想でしたらスルーします

196ラピ。:2013/12/23(月) 15:02:39
☆192さん

リストアップされた人、
どんな人か知らないし、対話したことないので
わかりようがありません。

197ラピ。:2013/12/23(月) 15:06:56
☆195さん

こちらから具体的に誰か例を挙げて、
どうこう言うつもりはありません。

でも「我こそ覚者である」という人がいたら
対話してみたいものです。

198名無しさん:2013/12/23(月) 15:14:46
リストアップは例に過ぎないのでどうでもよいです
私もほとんど名前しか知らないと同じなので、それぞれの違いがわからないです

何と何がごちゃまぜなのか
どの方が誤認覚者なのか
例をあげていただかないと、なるほどと思えなく。
なるほどと思う必要もないのであればスルーしようと思います。

199192 & 195:2013/12/23(月) 15:38:54
TKさん、ラピさん

>でも「我こそ覚者である」という人がいたら
対話してみたいものです。

そういう事だったのですね。

私の完全な勘違いでした。

失礼します。

200TK:2013/12/23(月) 16:05:12
>単なる妄想でしたらスルーします

全然かまいません。

あなたのような偽物実践者が逆立ちしようが、寝ころぼうが、ほえようが、
トイレでウンコしようがそれが私に何の関係があるのですか。

あなたのような偽物実践者に、分かってもらう必要が全くないのですが。

全くくだらない。

ラピ。さん、この輩達にまともにかまうのよしなさい。

構う価値もない人たちなのです。


私はたとえ名前だけでも、
そのような知識を豊富に掲げるような人たちが大嫌いなのです。

以上。

201ラピ。:2013/12/23(月) 16:10:07
☆198さん

スルー、どうぞ!

@(*・ω・*)ポッ

202ラピ。:2013/12/23(月) 16:11:21
☆TK師

はい!

@(*・ω・*)ポッ

203名無しさん:2013/12/23(月) 16:46:25
どうでも良い質問なのですが、某ブログでコメントしていらっしゃるtkという方とtkさんは同じ方なのでしょうか?
そちらのtkさんは知識がすごいあるんです

204TK:2013/12/23(月) 17:14:15
ラピ。さん

191
>ある意味し方が無い事ではありますが、もしも、
>宗教やスピ系や精神世界が無かったら自分はどうしているだろうと少し考えてみて下さい。
>
>現実の世界で苦しさの解決の手段を見つけるより仕方が無くなりますよね、
>その方向性が出なければ駄目なのです。

私がこのように語った直後に、
ベラベラと精神世間著名人と思しき名前をズラズラ掲げてどうですかと聞いてくるあたりが、
もう何もその者は私の話を聞いてないのです。

このような狭い世界だけでも聞く姿勢の無い者の何と多い事か。

何を言っても意味が無い、
イコールその者たちは相手にしてはならないという事なのです。

191
>「豚に真珠」とはまさにこのこと事です。

なぜこのような現象が起きるのかと言うと、
この者たちのエゴは膨大も無く大きく、
語っているものの内容の本質を掴むとかでは無く、
自分の気に入った言葉だけを掴むと言う習性の元に行動しているからです。

これもエゴの強い者の特徴です。

つまりこの者、
社会や組織の中に居ればひどく苦悩するタイプという事さらけ出しと言うわけです。

丸見えですね。

>某ブログでコメントしていらっしゃるtkという方とtkさんは同じ方なのでしょうか?

名無しもウヨウヨいるのに、自分を棚に上げた質問そのものが間抜けでしょ。

205ラピ。:2013/12/23(月) 21:38:16
☆TK師

そうですね。

聞かない人は伝えても聞かないでしょうから
伝える必要がありませんね。


かつての私もそうでしたが
今あるスピ系などの知識がすべてだと思うと
それ以外の話をきちんと聞けません。

その持っている知識こそが
その次元に自分を縛り付けている原因です。

だからかつて私は 知識を捨てて
一からやり直したのです。

「至らぬ初心者」の姿勢で
やり直したんです。

@(*・ω・*)ポッ

206名無しさん:2013/12/23(月) 23:56:02
>私たち“2人”は苦悩から解放されています。ですよね・・?

この質問に対して、お答えいただけますか?
ここでいう彼岸に至った人というのは、ここのお2人以外にもいるのでしょうか?

207通りすがりの206:2013/12/24(火) 00:04:31
ちなみに、私は187さんでも192さんでも195さんでもありません。
ただ、聞きたい内容は、非常に近いと思いますので、宜しくお願いいたします。

208ラピ。:2013/12/24(火) 22:04:10
☆通りすがりの206さん

ふむ。
それが知りたいのですね。
なぜ知りたいのですか?

それを知ってどうなるのでしょう。

かつての私ならそんなこと
まったく興味なかったです。
(今もないですが)

それよりも私自身が「それそのもの」になるよう
日々、がんばっていましたよ。

知識を得て満足、なんてことはなかったです。

209名無しさん:2013/12/24(火) 23:57:46
>それを知ってどうなるのでしょう。

全くだ、情けないね。

こんな者相手にしていても、何にもなりゃしない。

>ここでいう彼岸に至った人というのは、ここのお2人以外にもいるのでしょうか?

こういう私の話を全く聞かない者たちの連続と言うのは
どういう者たちを我々は相手にしているのでしょうか。

こっちは、誰も信用しなくていいんだよ、自分だけを信用していれば、
これしか言ってないのに、そろいもそろって、
ここにはこういうのしか来ないのかよ。

信者になりたきゃ、
その辺に誤認覚者が一杯いるからそっちに行って妄想の世界で
死ぬまで楽しんだり苦しんだりしていて下さい。

あなたたちには私は用が無いのです。

210TK:2013/12/24(火) 23:58:22
上のTKです。

211TK:2013/12/25(水) 00:04:06
彼岸とか悟りとか、だから一体それがどうしたのと言うような人にこそ、
私は関心があるのです。

次から次へと世の中の、変な人たちの集まり過ぎだよここは。

地に足がついてない幽霊たちを相手にしているのか。

こんな所でいくら話しても、意味が無い。

妄想、やめろよ、それ。

212通りすがりの206:2013/12/25(水) 00:22:47
悟りを開いたとかおっしゃている御二方

ご回答、ありがとうございました

>妄想、やめろよ、それ。

あんた方もなw

213:2013/12/25(水) 01:01:02
tkさん、ラピ。さん初めまして。

私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。よろしくお願いします。

もう酔っ払いをやめたいのです。
けれど今までに仕入れてしまった知識が実践の妨げなります。

その文言を知った頃は、いわゆるマインドが静かになり、ストレスが消えるので重宝していましたが、今は不要です。

下からやり直したいのですが、記憶がある以上思い出してしまいます。
どうすればいいのかわかりません。

こんな場合の対処法を教えていただければ幸いです。

214ラピ。:2013/12/25(水) 03:24:44
☆通りすがりの206さん

妄想を使えるのと
妄想に使われるのでは
大きなお〜きな違いがあります。

妄想だとわかっていて妄想を使うのと
妄想だと気付けず妄想を使う(=妄想に使われている)のでは
同じ妄想を言っていても
全く次元が違うんですよ。

妄想を妄想だとわかっていれば
妄想によって妄想を打ち砕けますが
妄想を妄想だとわからなければ
それは単なる妄想です。

215ラピ。:2013/12/25(水) 03:29:14
☆楓さん

初めまして。ようこそいらっしゃいました。

>私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。

この掲示板に出会う前から
脱スピリチュアルを目指されていた、ということでしょうか?

>今は不要です。

なぜ、今は不要だと思われるのですか?

216TK:2013/12/25(水) 04:50:32
>>妄想、やめろよ、それ。
>
>あんた方もなw

ラピ。さん、もっと決定的な違いを教えてあげないとね。

こちらは、逆立ちしても「妄想」が出来ませんよね。

何しろ我々には「対象」がないのですから。

妄想に憑りつかれるのはいつの場合も、この者たちの方だけなのです。

これが我々とこの者たちとの決定的な差なのですよ。

「妄想」の使い手とは自らが「妄想」の中にいる者には出来ないのです。

これが誤認覚者と本物との決定的な違いでもありますよね。

217ラピ。:2013/12/25(水) 07:55:14
☆TK師

はい!


私たちは妄想する「もの」がないんですね。

その「もの」がないんです。

だからTK師が言われているように
妄想しようがありません。

だからこそ 妄想を妄想だとわかるのですよ。

私たちは妄想を使いますが妄想できません。

でもそうでない方は妄想真っただ中、
どうやっても妄想してしまっているので
それが妄想だって気づけないし、
妄想と気づいたところで対処できないでしょう。
実はその気づくことそのものも妄想だからです。

妄想する「もの」が存在していますから
どんなに妄想から抜け出そうとしても
妄想どまりなのです。

これはある意味、無限ループです。
その無限ループを絶つために必要なのが
激流と言われるものです。

私は激流を渡り終えることによって
その「もの」が消滅しました。

いや、その「もの」が消滅したから
激流を渡り終えた とわかりました。

ちなみにこの「激流」という言葉は例えですよ。
(わかっていらっしゃると思いますが)

私にとっての激流は「葛藤」でした。

「葛藤」という激流に飛び込み
「葛藤」を飛び越えたのでした。

葛藤し続けて、ついに、葛藤が終了したのです。

葛藤する「もの」が消滅したからです。

(その消滅したときは「なんじゃこりゃ?」でしたね。
そうとしか言いようがなかったです。)

それが「至った」ということです。
実践終了、ということです。



>>妄想、やめろよ、それ。
>
>あんた方もなw

これを言われたところで私たちは妄想していませんので
なんともないですが(そういわれたところでしようがない)
それを発した本人は
さらに妄想ループ、ということになりかねませんね。

だって私たちが妄想しているという妄想を
すでにしていますからね。残念ですが。

ということで、しっかり自分の人生生きて
がんばってください、そんな妄想に時間を費やさず。

218TK:2013/12/25(水) 17:23:48
至った我々の状態を、私は疑似エゴイズムと表現しています。

アナログ対デジタル。

どう見てもエゴイズムのように見えるのに、
しかしそれは方向性の無い単なるドットの集まりでしかない、
これが我々ですから、至ってしまえばあまりにも開放的過ぎて、
へへら笑ってしまいそうですね。

ここに至るまでは、激流だったのですから、
こんな毎日へヘラ笑いそうな快適な状態で能力も効率的に最大に発揮できて、
こんな日が来ようとは当時は夢にも思いませんでした。

少なくとも、ここで私に相手にされなかったような者たちは可能性はありませんので、
でも、くれぐれも我々に原因があるわけではありませんから勘違いしないように、
ずーっと笑ったり苦しんだりしながら生きて行って下さい、
その者たち自身が望んで進んでいく生き方ですから仕方ありません、
人の言う事が耳に入らないどうにもならない人たちですから。

この者たちには話をしても耳に入らず意味がないのです。

我々が無駄な話をした分だけ、
一般的には我々がやった事が徒労に終わって我々が
損をしたと表現できるものなのかもしれません。

一般的にはそうだがと断っておく所が、これまた我々の特異なところなのです。

219:2013/12/25(水) 17:51:27
ラピ。さんこんにちは。

いいえ。正確にはこの掲示板に来てから、脱スピリチュアルへ考えを変えた。と言うべきですね。
言葉の使い方が正直ではありませんでした。

今は不要な理由は、私がその言葉を思い出して使っている限り、激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。
至れなくても、誤魔化したまま酔っ払いのまま終わりたく無いからです。

220TK:2013/12/25(水) 18:01:36
楓さん

>私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。よろしくお願いします。
>もう酔っ払いをやめたいのです。
>けれど今までに仕入れてしまった知識が実践の妨げなります。
>その文言を知った頃は、いわゆるマインドが静かになり、ストレスが消えるので重宝していましたが

イワシの頭も信心、プラセボ効果があったのですね。

偽薬 - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E8%96%AC

>偽薬を処方しても、薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられる事を言う。


>下からやり直したいのですが、記憶がある以上思い出してしまいます。
>どうすればいいのかわかりません。
>
>こんな場合の対処法を教えていただければ幸いです。

まず手元にある一切の精神世界系書籍等をもったいながらずに処分する事。

ここからです。

私は激流段階の実践時でさえ、
今たまに引用している「スッタニパータ」であろうが「ダンマパダ」であろうが次から次へと人にやったり処分しました。

従って今の引用はネット上から拾ってきていました。

次に人の為、善をなす、悪をなさない等の生きていく上での
理想を持ちそれを生きている目的とする事。

221ラピ。:2013/12/26(木) 00:39:01
☆楓さん

なるほどです。

ちょっと思ったのですが
楓さんがスピリチュアルにはまったきっかけは何だったのでしょうか。

そこにヒントがあるかもしれません。

>私がその言葉を思い出して使っている限り、
>激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。

ええ、そうですね。

スピ系の言葉は「いろんなことを誤魔化す言葉」であることが多い。

例えば愛でないものを「これは愛だ」と言うことによって
誤魔化してしまう。

本当は愛だなんて思っていなくても。

だからそんな言葉で誤魔化すことなく
しっかりと自分と向き合わなければなりません。

222:2013/12/26(木) 19:33:21
TKさん こんばんは。

書籍等処分します。偽薬でも私には劇薬でしたね。エゴが弱くなりましたから。
そして理想と目標にします。


ラピさん こんばんは。

直接のきっかけは、私に近しい人との別れによる喪失感、絶望感から。でしょうか。
ただそれ以前から、人間としての理想的な生き方や在り方に興味があったのは事実です。

223ラピ。:2013/12/27(金) 07:51:12
☆楓さん

エゴが弱くなったのですね。

>激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。

その通りでエゴが弱まる=激流が起こらない
ということです。


>近しい人との別れによる喪失感、絶望感から。

喪失感や絶望感をスピ系によって紛らわせたということですかね。

私は昔から
喪失感や絶望感などが来たら
何かで誤魔化すことなく
それらを思いっきり味わい尽くす人でした。

自分に起こる感情をなにかで誤魔化すよりは
反対に増幅してそれを知ろうとする人でした。

変な人ですね(笑)

でも、誤魔化すのが大嫌いだったのです。

なぜ、絶望感があるのだろう、とか
この喪失感はなんだろうと思いめぐらせる人でした。

これは私の特性であって
他の人にお勧めできませんが
少なくとも私のその特性は今の私につながっていました。

(何かのご参考までに書いてみました。
でも、真似はしないほうがいいと思います。)

楓さんは自分の理想を実現するために
どうぞ、これからもがんばってくださいね。

楓さんには楓さんの道があります。
自分を信じることです。

スピ系を信じるのではなく
自分を信じることです。

スピ系の教えよりも自分を信じ、
自分の信じる善なる道を進むことです。

スピ系に自分の判断を
預けてはいけません。

自分の「善」を信じることです。

どうぞ清き道を。

224:2013/12/27(金) 20:55:02
ラピ。さん こんばんは。

はい。その通りです。
余りの孤独感から、他の解決策を求めたのです。そこでマインドやエゴの働き等を知りました。

今は感情を味わい尽くすことに抵抗はありませんが、その頃は中途半端な姿勢でした。
とことんでは何かが永久に変わる気がして、戻れなくなりそうで、怖かったのです。

現在は、勝手に起こるそれらが一時的なものでしかないとの理解と、
それらと『自分』との隙間、選択の余地から、反射的な言動は無くなっています。


傍目には私が成長したように見えるでしょうね。
ただ、降参してラクにはなったけれど迷子にもなったような…
方向感覚を失った心許なさがありました。

返信ありがとう。
書籍等処分しました。自分の善を信じます。

225ラピ。:2013/12/27(金) 22:18:31
☆楓さん

楓さんはもしかしたら
かつて「激流」を経験したことがあったりしますか?

それについてなにか心当たりはありますか?


>偽薬でも私には劇薬でしたね。

この出来事はいつ頃の話でしょう?
スピ系にはまってからの話ですか?

それともスピ系にはまる前の出来事ですか?

226TK:2013/12/28(土) 09:14:12
精神世界系の中ではワクワクの教えが一番的を得た教えであると評価しています。

ただし、
説いている者と聞いている我々の環境との違いをつくづく感ずるものではあるのです。

それ以外は、聞く者の段階とピントの合ってない教えです。

私は、探求の結果光の存在から、精神世界への関心を捨てさせられました。

そこでは確実に一つの教えを与えられましたが、それは、
激流の段階の教えと比較すると、完璧な教えでは無く落ち度のある教えであり、
しかし、その時の私には当然そのような事などわからず、
ただ有難い教えなのだろうと思って信じて歩みを進めました。

それが「理想的な生き方」を拠り所として自分の足で人生を切り開いて生きる生き方です。

それから自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。

生きていると言うのはなんと素晴らしい事か、このような生き方が広がってきたのです。

なぜ、私がこの時に完璧な激流レベルの教えでは無く、
程度の下の不完全な教えを光の存在から与えられたのでしょうか。

光の存在が、
程度の低い存在でその程度の教えしか私に教えられなかったという事なのでしょうか。

しかし、これは、聖書レベルの教えをこの当時の私程度の精神で実践したら、
完璧な酔っ払いとして一生死ぬまで生きる事になるからなのです。

世間の多くの酔っ払いの者達と自らの誤認による覚者を目にし、
それとは対照的にラピ。さんの成就と、至った本物が稀という事実で、
それはほぼ確実である事が確信できました。

光の存在の導きは正しかったのです。

それは全くもって表現上は聖書のイエスの教えとは正反対の内容となるものです。

聖書のイエスの教えでは「裁いてはならない」ですが、
この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
というものなのです。

スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。

このように正反対の教えですが、
実はEO氏という賢者もまず悟りの実践よりも前にサバイバル能力の実践が必要なのだと説いていました。

悟った我々の所では永遠の戦いの放棄の実現なので、
サバイバル能力のような戦闘力は一見まるで逆の内容ですが、
これこそがまずは必要なのであると説いているのです。

理由として、この実践をする事でチャクラの機能が成熟して整うのだと言うことです。

チャクラはともかく、考えてみても人間らしいまともな生き方ですよね。

この実践こそ必要なのです。

EO氏によるとこの過程を飛ばして行法に飛びつくような者においては、
頭がぼけてゆきそれを安心と勘違いし、
その者には何ら知的成熟すらも起こることは無いという事である。

私が酔っ払いと表現する状態と酷似しています。

私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。

何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。

ワクワクの実践は「知的」な実践であるのに対して、
激流の実践とは正反対の「バカ」になる実践なのです。

いい気になってやってますが、
スピ系の振り回している実践内容はバカになる要素のものですから、
自らの誤認による覚者にしても、
ドンキホーテとその従者のサンチョ達に譬えるとちょうどぴったりの状況に傍からは見えるのですよ、
本人たちは酔っ払っているからまともだと思い込んでいる、
まさにドンキホーテとその従者のサンチョです。

私はバカになる事の恐怖に打ち勝ちながら、実践に臨んだものですが、しかし、
私は過程を飛ばす事無く踏んでいたので、酔っ払いにはならずに、今に至りました。

EO氏のような私が覚者と認める方は、このように私が言う酔っ払い現象について、
同じように語っているのです。

今も誤認の覚者とその関係の一派が一生懸命に死ぬまで酔っ払いコースで歩んでますが、
その者たちにはこの事実を知る術はありません。

(続きます)

227TK:2013/12/28(土) 09:16:32

(続きです)

聞く耳は無いでしょうから、寿命に達して死ぬ時に後悔する事になります。

悟りに至るためには、単純ではないこのような入り組んだ仕組みがあるのです。

この前段の実践を終了出来た者だけが次の釈迦並びイエスの教えが実践できる状態が整うのです。

人間としての基本的な生き方ができてもいないのに、
手を出すことは絶対に厳禁です。

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。

これで私はイエスからも釈迦からもこの聖書の言葉のような奇瑞を得ることができました。

これは私自身の奇瑞経験ではありますが、
私の述べている事がイエス本人から承認されている内容である事の根拠として下さい。

誤認の者はいくら一生懸命にやっても、
その一派も含めてイエスが目の前に現れるなど、絶対にこれは起きません。

誤認の者は同じまともな感覚を麻痺させられた者同士で、ドンキホーテとサンチョを演じるのみです。

間違っている内容を目の前で繰り広げられるのを目にするのも切ないものがあります。

なぜなら、自らの誤認による覚者と私との違いは、
単なる運が良くて私は自らの誤認による覚者と同じ道を歩まなくて良かっただけのようなものですから。

それは僅かな違いなのですが、
しかしその僅かな違いが両者の明暗を大きく分けたのです。

なぜなら、片方は一生誤認の者として生き、そしてまた、
係わる多くの人たちに対して虚偽を説き罪を積み続けるからです。

仏罰と言う文字が頭に浮かびます。

私は迷路を抜けた稀な一人という事になってしまいました。

決して望んでなったわけではありません、
なぜなら望んだら永遠になれない原理のものだったのですから。

私ごときには大それた事だとも思うのですが、それでも、
一生自らの誤認による覚者で生きて行こうとしている者たちに対しての、
気付かせるためのチャンスを握る僅かな者の中の一人なのです。

この私が、釈迦やイエスの眼鏡にかなった実践において奇瑞を得た者なのです。

私と接する誤認の者の中には、そうである事に気付くことができた者もいました。

また、私の力が及ばなかった自らの誤認による覚者のままの者もいます。

適当な口実を作って、私の前から逃げた誤認の者もいました。

ラピ。さんのように私の導きで至った者もいます。

私は現在は「釈迦もイエスも一切を信じていません。」

これこそが至った者だからこそ宣言できる真実の言葉ですが、
誤認による者たちよ、自ら、この宣言が出来るか、もしできなくば、
それがお前たち自らの誤認による覚者であることの証なのだ。

(続きます)

228TK:2013/12/28(土) 09:17:09
(続きです)

また、信者は導師にたずねてみるがよい、
あなたは「釈迦とイエスを現在も信じていますか」と、
これが至った本物か至っていない偽物導師かの踏絵であり判定法です。

私はよく聖典を引用しますが、
それは決して今現在私が釈迦やイエスを信じているからと言う理由では無く、
かって実践時の成就する前の段階において私もその教えを信じていたと言う対機の一手段です。

私自身はもう信じる事はありません。

だからこそ、方便として説けるのですよ、信じている真っ最中の者が、
方便としてこれらを使い回すことができると思っているのですか、
思い上がるのも休み休みなさい。

覚者ごっこ、ふざけるんじゃない、一刻も早くそのような茶番は止めろと命じたい、
全然至ってもいない者が、
我々のような本物と対当の気になって本で得た知識で覚者を装い気分だけでそのような事をやって恐れ多い事です。

至った本物は信じていませんと、はっきりと答えることができるのです。


スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


さて、信者の方も本物の釈迦やイエス本人を信じるのか、
本人は信じずに誤認によるエセ覚者を取るのか、仏罰レベルの選択です。

ラピ。さんは私の説く真実の教えによって至りましたが、
これが私に出会うよりも前に、
自らの誤認による覚者に出会わなかったことが不幸中の幸いでした。

折角の素養のある者が、みすみす死ぬまで酔っ払いになるのですから、
それは今の至った後のラピ。さんが一番よく知っているはずです。

自らの誤認による覚者は多いですが、
今の世で私とラピ。さんのような者に出会えるのは稀なのです。

何度も言いますが私は望んで至ったわけではありません。

次の者には要注意です。

不用意に、
「裁いてはならない」とか「感謝して受け入れて」と言う内容を多くの者にばら撒いている者。

これはEO氏説く必須のサバイバル能力と言う点に照らしても、
感覚を麻痺させる、頭がぼける事を平安と勘違いする酔っ払いとなる要素なのですから、
はっきりと言いますがその人物は偽物です。

実際に多くの人に必要な教えは、知的水準を上げるワクワクの実践です。

229:2013/12/28(土) 19:42:02
らぴ。さん こんばんは。

激流だったかどうかはわかりませんが、劇薬のような体験はスピ系に関わって以降です。


きっかけであろう喪失感からスピ系をかじり、
始まったものを感じ切る事を許可し(偽薬2) 実際にそこへ飛び込み、起こるままに任せた体験があり、
その後、大喧嘩による葛藤でとてつもなく気分が悪くなりました。

ちなみに、その時巻き込まれた口論ですが、人一倍エゴの強かった以前の私なら、とばっちりだろうと何だろうと、論破の上に倍返ししていましたが(苦笑)

興奮してまくし立てる相手を他所に、私自身はアドレナリンに悪酔い、吐き気がしていて。後でしばらく座り込みましたね。

激流に似た葛藤の心当たりについては、以上三回です。

230:2013/12/28(土) 19:45:17
TKさん こんばんは。

こちらにお邪魔するようになって以降、書かれた事が答え合わせのように理解出来ます。
だからもう私にはスピ系以外でも要らないのです。

私は狡さから酔っ払ってしまったけれど、人としてまともな道に戻る気になりました。
ありがとうございます。

231ゆうこ:2013/12/28(土) 19:56:37
皆さまこんばんわ(*^_^*)

楓さんのように私も(聖書と仏典以外の)書籍を捨て、
神棚も片づけて自分を信じて歩み始めておりますm(__)m

職業柄、繁忙期に突入しており、年末年始ノンストップですが
風邪ひとつひかず、心身ともに充実している昨今です。

らぴさんからのアドバイスで
「人を裁かず」なんて甘いこと言ってて仕事ができるか?という問いも
最初は戸惑いがありましたが
全体の向上のために、という気持ちで取り組んでいます。

そこには、まだ感情が絡んでいて
本当に全体の為か、自分の気が済まないから裁いているのか
見極めに注意を払いつつですが・・。

>この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
>というものなのです。

>スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
>この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
>「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。

上記の言葉は
この掲示板で最初に歩みかけた実践の考えとは反対のことなので
確かに戸惑いもありましたが
らぴさんからもTK師からも
私の段階に対するアドバイスの修正を頂いたので整理して進路変更しました。

現在は、毎日一緒の先輩が『結果主義』の人で精神世界に無縁のため
問題の解決法のよい勉強ができています。

おそらく、以前の『ごちゃ混ぜ』の目だったら
つい見えない世界に照らしてしまい、
この先輩すらも、心のどこかで過小評価のままだったと思います。

今は、自分の可動域と行動の結果が全てなので
忘れていた特技まで持ち出して問題解決(=営業結果)に取り組めており、
状況としては、TK師の書かれている

>自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。

に近い心境です。

そこで、今、ふと質問が湧いたので書き込ませて頂いております。

「このまま現実主義でベストを尽くしていく日々を送っても
いずれ壁にぶちあたる。
そこで自分の力ではどうにもならなくなった時に
聖典などを開くのが
タイミングとして適切」
ということでしょうか?

これまでも多くの挫折や失敗のたびに
聖書を含めたいろんな本に答えを求めてきましたが
「同じ聖書(聖典)でも、他の情報と混ぜずに実践すること」が大きな違いを生む、
ということなのでしょうか?

実は、この掲示板でブッダの言葉を初めて知って感動したため、
今でもつい開いてしまって
「自分の善は、この戒めを原型としているから」と言い訳しています。

実際、仕事や家事での集中に役だってもいます。

この状態は、OKでしょうか?

232TK:2013/12/28(土) 21:12:11
ゆうこさん

>聖書と仏典以外の)書籍を捨て

これも捨てた方が良いです。

この害の部分があなたに顕著に作用して、
あなたが見る見る酔っ払いになるのを目にしたので、教えを変えたのです。

あなたの変貌ぶりは、かなりのものでした。

かなりの危機感を覚えました。

これは「バカ」になるための教えが記載されているものなのです。

よほどの使い方が出来るもの以外は、係わってはなりません。

このようなものに後ろ髪惹かれて何らかの価値を認めている内は、
この段階の生き方ではありません。

私などは聖書は一冊焼却炉にぶち込んで燃やしました。

今手元にある聖書は、その後本当に学ぶべき時が来たので、
再び手に入れたものです。

スッタニパータにダンマパダは職場の人に上げました。

これは、至るまで必要なかった書籍なので今はネット上から拾って引用しています。

つまり、
スッタニパータやダンマパダに役に立つ内容が無かったわけではなかったのですが、
多くのものを読む事は、いかなる段階の実践においても害になるものなのです。

内容だけ知って、賢者のつもりの他のサイトのバカのようになりたければ、
多くの本を読んで下さい。

私は手に入れて少ししか読まずに手放した本は多いです。

>「このまま現実主義でベストを尽くしていく日々を送っても
>いずれ壁にぶちあたる。
>そこで自分の力ではどうにもならなくなった時に
>聖典などを開くのが
>タイミングとして適切」
>ということでしょうか?

何と自信の無い発想をしているのです、
あなたはずっと自分のみを信じて生きていくので、
精神世間の心配など無用なのです。

233ゆうこ:2013/12/28(土) 21:32:36
TK様

>害の部分
これは、びっくりします^^;(聖典に害とは・・)

聖書は若い頃の物なので既読感があってほとんど開きませんが
ブッダは、最近知ったために
正直、どこから読んでも感動で、

「八正道さえ踏み外さなければ間違いない」という指針が
芽生えたところでして・・・。

>何と自信の無い発想をしているのです

おっしゃる通り
ダメなところだらけの自分のまま行け、
と言われることに抵抗感を感じます。

謙遜が美徳の教育も価値観として根強く作用してます。

>あなたはずっと自分のみを信じて生きていくので

・・・これまで好き放題生きて来て反省してここにたどり着いたのに
また逆戻り?という戸惑いを感じますが


まったく、前のままに戻るわけではないですもんね・・・。

愛人も酒もケンカも「自分の善の道」にはないですし。

・・・・・毎日、家族と会社のために生活して
少しの時間、ブッダに触れることを日課の楽しみにしていたので
かなり残念ですが・・・

「ブッダを拠り所にしている状態」を断つために
アドバイスに従ってみます。ツライですけど・・・

あ、ツライ、って思ったってことは、それくらい頼ってたんですね、
ブッダに。

自分の自信のなさを「エセ・ブッディスト感」でごまかしてたと。

なるほどです。

明日から、赤裸々な、
「ザ・ゆうこLIFE」スタートしてみます。
また人に迷惑かけたりすると思いますが!

ビート板なしで泳ぐのは、今考えると、30年ぶりくらいかもです!
子供の頃の気持ちに戻ってがんばってみます。

お返事ありがとうございますm(__)m

234TK:2013/12/28(土) 21:41:18
楓さん

>こちらにお邪魔するようになって以降、書かれた事が答え合わせのように理解出来ます。
>だからもう私にはスピ系以外でも要らないのです。

良い方向性です。

ただ、常に拠り所にできる「理想」だけは持って進んでください。

人々の為、善をなすなど。

>私は狡さから酔っ払ってしまったけれど、人としてまともな道に戻る気になりました。
>ありがとうございます。

泥沼から脱出良かったですね。

235名無しさん:2013/12/28(土) 21:55:48
☆楓さん

スピ系にもいろいろあるんですね。

楓さん、どうぞこれからも頑張ってくださいね。

236ラピ。:2013/12/28(土) 21:56:23
235の書き込みはラピ。です。

@(*・ω・*)ポッ

237ラピ。:2013/12/28(土) 22:06:04
☆ゆうこさん

ゆうこたん、日々頑張ってますね。

>ビート板なしで泳ぐのは、今考えると、30年ぶりくらいかもです!
>子供の頃の気持ちに戻ってがんばってみます。

自分の信念をもとに泳いでいくといいと思います。

子供の頃の気持ち。
まさしく私も第一の実践は子供の時で
素直に自分の「善」を信じて実践していました。

まっしぐらに。

ゆうこたん、どうぞ善なる道を!

@(*・ω・*)ポッ

238TK:2013/12/28(土) 22:29:22
ゆうこさん

>ブッダは、最近知ったために
>正直、どこから読んでも感動で、

あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。

あなたごときに、分かる内容ではありません。

誤読です。

あなたは元々妄想壁の強い酔っ払いになる傾向にあった人です。

そのようなものに一切近づかないように心がけないとなりません。

あなたにはとても危険な匂いがします。

>・・・これまで好き放題生きて来て反省してここにたどり着いたのに
>また逆戻り?という戸惑いを感じますが

放逸に生きろと言っているのではありません。

出来るだけ高い「理想」を持ってください。

人の為、善をなすなどです。

そうすると、生き方がしっかりしてくるのです。

239ゆうこ:2013/12/29(日) 07:03:18
TK様

>あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。

・・・すみません、おっしゃっている酔っ払いの定義が
まだよく理解できておりません・・

が。

>そのようなものに一切近づかない

という生き方を標榜した事がない
(むしろ求めたり、無意識に慣習として取り入れたりしてきた)
ので、新しいチャレンジとして努力したいと思います。

>出来るだけ高い「理想」

その理想に、
すでに感動して標榜としている聖典の言葉
・ウソをつかない・無駄口をたたかない・淫を行わない等
人の生活の上で、まっとうと思われる戒めはそのまま標榜したいと思いますm(__)m

今朝は目覚めて、少し心もとない気分です。

手を合わせる神棚もないし
ちら見する聖典もない・・

それらは、
日々、自分を律することを意識できる大切な時間と思っていました。

いかに何かに依存していたか、という証拠
ということになるんでしょうね・・

お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?
(腹を立てたりした時に悩みます)
そもそも、これまで仕入れて無意識になっている知識を無くせないし・・

などなど、ちょっと弱いスタートダッシュですが・・・

>人の為、善をなす

頂いたアドバイスを帰ってからもう少しじっくり考えますm(__)m

時間なので、今日も1日がんばってきます!!
Reありがとうございます。

240ラピ。:2013/12/29(日) 09:52:01
みなさまおはようございます!

@(*・ω・*)ポッ

ゆうこたんのコメントを見て
なるほど〜と思いました。

酔っ払いとは「信者」とも言えます。

自分以外の人や教えを信じて生きるという状態です。

例えばですがスピ系酔っ払いであれば
スピの教えを盲目的に信じて
自分の判断をスピ系に任せてしまう、といった状態です。

それでは的確な判断ができません。

TK師がこういわれていましたね。

>私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。

>何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
>物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。

まさしくその通りでした。
初めの師とのやり取りを今見ると
「私ってあほやな」としか言いようがない状態だとわかります。

でもその時は気づいていなかった。
スピ系信者で、変なものを信じていたために
きちんと人の話が聞けていませんでした。

私は「ポジティブシンキング」信者だったのです。
(昔の私のブログを見たらわかりますね(笑)

でもさらなる昔の私にはそれがありませんでした。
(途中スピ系信者になってましたが、
私はもともと そんなこと、大っ嫌いでした。)

なぜなら自分の「善」というものを信じていて
それ以外の教えは必要なかったからです。
(仏教もスピ系の教えもその頃は一切知りませんでした)

もし、自分以外のものに「善」の判断を預けてしまうと
自分の「善」と「自分以外の教えによる善」にずれが必ず生じます。

そういう時、どうしましょう?

教えをとって、自分の「善なる判断」を無視しますか?

いいえ。

それでは自分を生きていることになりません。

そんなときは迷わず、「自分の善」です。

それが自分を生きるということ。

自分以外のものに自分の「善なる判断」を任せてはいけない、ということです。

私は第一の実践の前に
自分にとってどういう生き方がいいか、
何日もじっくり問いました。

そしてしっかり問うて得た答えを指針に
生きることを決心しました。

>お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
>自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?

自分は今までの経験から何を感じたか。
自分は人がそれをしていてどう思うか?
自分は人に何をしてもらったらうれしいだろうか。
自分がどう生きれば納得できるだろうか。
自分が周りの人のためにできることはなんだろうか。

いろんな問い方があると思いますが
「自分」によく問うてみるといいと思います。

理想は人それぞれなので人の数だけあります。

自分の善なる納得する答えを得たら
迷わずその生き方をするといいと思います。

私はそうでした。

それが
「自分を捨てて喜んで何でもしよう」という指針です。

単純なこの言葉のみを指針に生きました。

この指針は自分がじっくり問うて得たものでした。

そして私は私の人生をかけてそれを実践したのでした。

241TK:2013/12/29(日) 09:55:05
ゆうこさん

>>あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。
>
>>・・・すみません、おっしゃっている酔っ払いの定義が
>>まだよく理解できておりません・・


強度の妄想癖の持ち主であるという事だ。

譬えるなら、ドンキホーテとその従者のサンチョ、それが君だ。

物凄く気色の悪い人物という事だ。


>>そのようなものに一切近づかない
>
>という生き方を標榜した事がない
>(むしろ求めたり、無意識に慣習として取り入れたりしてきた)
>ので、新しいチャレンジとして努力したいと思います。

君は今までの自分の生き方を承認してもらいたくて私の話を聞いているのかね。

こちらには君の癌の部分が丸見えなんだよ。


>出来るだけ高い「理想」


>その理想に、
>すでに感動して標榜としている聖典の言葉
>・ウソをつかない・無駄口をたたかない・淫を行わない等
>人の生活の上で、まっとうと思われる戒めはそのまま標榜したいと思いますm(__)m


このままで泥酔状態から抜けられるとでも思っているのか。

177
>激流段階の実践では規制が主になりますが、
>ワクワク段階の実践では自由が主体となるのです。

あの内容は自らの「自由意志」の成長を阻害して「バカ」になるための教だ。

そのようなものを一切頼りにせずに、もっと自分の「自由意志」を伸ばせ。

それが「自分の足で」地に足つけて、歩くという事だ


>今朝は目覚めて、少し心もとない気分です。

>手を合わせる神棚もないし
>ちら見する聖典もない・・

依存対象が無い事による、禁断状態だ。

中毒症状が重度である事を表している。


>それらは、
>日々、自分を律することを意識できる大切な時間と思っていました。

「自由意志」の成長が阻害されて、ほとんどバカだな。


>お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
>自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?

自分の中に最低でも「善悪」と言う基準があるだろう。

酔っぱらっているのもいい加減にしろ。

>(腹を立てたりした時に悩みます)

他とのバトルを避けちゃだめなんだよ。

酔っ払いの典型だな。

スピ系汚染もここまで来ると、死ぬまで酔っ払いだ。

気色悪い。

まともな人間と話をしている気がしない。

自分自身では無く、自分の外を頼りすぎたことが全ての原因だ。

242TK:2013/12/29(日) 10:39:12
ラピ。さん、コメントが良い。

さすが「元」だけある。

>自分自身では無く、自分の外を頼りすぎたことが全ての原因だ。

自分を信頼できれば、その分外は頼らなくてよくなる。

外に依存するから、自分自身に自信が持てない。

この二つは相関関係だ。

ここがパズルのピースだ。

もっと自分自身に自信を持って、自分の思考に自信を持って、
どんな問題でも解決できるのだ、不可能はないとこのように自分自身を信じて、
そうやって歩みを進めていく。

「余の辞書に不可能の文字はない」これだ。

ナポレオン・ボナパルト - Wikiquote
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88

243ラピ。:2013/12/29(日) 14:14:25
☆TK師

>さすが「元」だけある。

てへ。(まったく自慢できませんね(笑)

私はどちらの生き方も精一杯して
どちらの状況の状態も経験しています。
(スピ系も本当の実践も 両方)

ちょっと前までは両方、「とことん」ということは同じだったので
両方の生き方が表現上でごちゃ混ぜになっていましたが
なんだかわかってきました。

実践の姿勢としては
第1の実践を例にするといいみたいですね。

第3の実践はいわゆる「とことんスピ系」でした。

しかし、「とことんスピ系」を 私がとことんしたところで
単なるスピ系信者どまりで終わりだったでしょう。

私の基本は「とことん」でしたが
方向性が間違っていれば
「とことん」も意味がないことがわかりました。

だから実践前に自分の方向性、基準をしっかり決めることが大切ですね。

それはスピ系などで言われていることを基準にするのではなく
自分自身の中にある「よいこと」を基準にする、ということです。

そして決心したら「とことん」です。


、、、TK師に出会えなければ
私はとことんスピ系やったんかな、、、、。

出会えてよかったです、、、、。

チャンスを逃さなくてよかったです。

@(*・ω・*)ポッ

244ゆうこ:2013/12/29(日) 19:56:59
TK様ラピ様

コメントありがとうございますm(__)m

出直してきます!

245TK:2013/12/30(月) 07:40:03
ラピ。さん

>TK師に出会えなければ
>私はとことんスピ系やったんかな、、、、。

一寸先は闇で、怖いのはやはり次のケースだったろう。

>ラピ。さんは私の説く真実の教えによって至りましたが、
>これが私に出会うよりも前に、
>自らの誤認による覚者に出会わなかったことが不幸中の幸いでした。
>
>折角の素養のある者が、みすみす死ぬまで酔っ払いになるのですから、
>それは今の至った後のラピ。さんが一番よく知っているはずです。

君の当初のピントのずれ方は、
自らの悟りの誤認による他の酔っ払いサイトの者と、
一緒に酒を飲みあいながら同調してしまうレベルだった。


http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。
>
>
>この世界の真実を知る!


凄い酔っ払い。

私は全く君の事を酔っ払い以上の評価などしてなかったが、
他の酔っ払いサイトでは、よく来て下さいましたとか挨拶された後、
君はニセの成就認定まがいの印可を授けられて、
他のサイトのエセ自称覚者とその一派に仲間入りで、
死ぬまで永遠にカクセンジャーだ。

世界を救うんだとか言いながら、同調している事だろうな。

世界を救う、笑える〜、これが覚者の言葉だと、爆笑だ、
地球防衛軍の間違いじゃないのか。

あのような酔っ払いにならずに良かったな。

今君の前に取り組む世界などあるのかね、良かったな。

このように、君も一歩間違えば、他のサイトの酔っ払いのようになっていた、
その差など、「運」だ、僅かなものなのだ。

君も彼岸に至ってその獲得した眼で周りを見渡して、
至れた事が「まれ」な現象だと言うことが分かったろ。

酔っ払いの彼らは一生懸命なだけにお気の毒なのだが、
あれで死ぬまで永遠にあれやって酔っ払いのままでこの世界を終えるんだ。

その者たちの聞く姿勢の無さは、
私に出会った当初の君の私に対しての聞く姿勢の無さと同じようなものだ。


マタイの福音書 7章13-14
>狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
>そして、そこから入って行く者が多いのです。
>
>いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

スッタニパータ559-560
>わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。
>もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。
>
>かれは(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、
>そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、わたしは、
>その<さとった人>なのである。
>バラモンよ、わたしは(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。

246TK:2013/12/30(月) 08:04:23
>私は「ポジティブシンキング」信者だったのです。
>(昔の私のブログを見たらわかりますね(笑)

実際はポジティブシンキングに問題があったわけではない。

実は、全うな精度の実践が出来ていなかったと言うのが原因だ。

私の指導の下でなら、ポジティブシンキングでも「激流」は起きる。

ポジティブシンキングも、ポジとネガの立派な相対の原理の上での実践だ。

スッタニパータを読んで感動しますとかほざいている酔っ払いも、完全に誤読だ。

自分の良いように解釈して、劣った精度で取り入れて、
分かった気になっているんだ。

元々が激流の実践のその正体は「妄想を駆使したバカを極める為の実践」なのだ。

つまり、激流の実践は鈍った精度の実践をすることにより、それは緩流となり、
何ら効果を得る事もできず、そのバカになる害の部分だけが作用して頭がボケ、
それを平安を得たと勘違いする一生何かに憑りつかれた亡者のような酔っ払いの人生を送る事になるのだ。

これが世にゾンビのようにうごめく、あのエセ覚者も含めた気持ち悪い者達、
妄想狂の酔っ払い現象のからくりだ。

あの者たちを見ていると、世界を救うとか、妄想に踊らされて気持ち悪いだろ、
あんな風に亡者のようにはなりたくないものだな。

つまり、激流の実践に必要不可欠は、精度の高い眼力だ。

自分に無ければ、導師にそれを求める以外に無い。


マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
>自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>
>兄弟に向かって、
>『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。


ただし、激流の実践に突入するためには精神の面での資格が必要だ、
人間としての幸せを掴むための生き方で限界まで行って、
もうそれ以上にどうしても先に進む事の出来なくなったと認められた者だ。

その者にとっては、それがどんなに地獄でも、進むしか他に手が無いのだから、
その者はこちらが指示しなくても自分でその先に進む事だろう。

君も、そして私も独力でその先に歩みを進めたように。

運よく私の方が彼岸に到着できた、そして君にもその方法を教えたんだ。

だから、重要な事は人間としての幸せの掴み方の限界まで突き進む事だ。

この方向で歩めたなら、たとえ限界まで行きつかなくても、
それはそれで幸せな人生を送れる。

247ラピ。:2013/12/30(月) 16:10:06
☆TK師匠

私は師は求めていませんでしたので
誤認覚者を師とは絶対しなかったと思います。

そもそも覚者に興味がありませんでしたから。(笑)

だから私の場合、それは大丈夫です。

ただ、最近 誤認覚者に
せっかく素質のありそうな人がはまってしまっているケースを見ました。

どうなるんでしょうね。もったいない。


思い出すものがあったので書きます。
(同じようなことを書くかもですが)

私は第一の実践をやり遂げ、第二の実践に飛び込まざるを得ませんでした。

この第二の実践はまさしく相対原理を使ったものでした。
その頃はそうであることも知らず
どんな瞬間も実践し続けました。

そしてついに彼岸へ。
しかし、その時自我がすべて消滅することはありませんでした。

命がけで彼岸に足を踏み入れたけど
渡り切れませんでした。

ちなみにこの経験が最後の激流の時に
かなり役に立ちました。

この第一の激流に何年も私はいたので
(よくやったなぁと思います(笑)
激流がどういうものかわかっていました。

(ちなみにこの頃だったらブログなんて書けなかったと思います。
皆さんの知らないラピ。です(笑)

だから師に出会って激流が起こった時
「これだ!」とわかり
師に伝える前に勝手に激流に飛び込みました。

そしてついに残っていた自我が消滅しました。


話は戻りますが第二の実践で至ることができず帰ってきた私ですが
第二の実践が終了した後、
「もうがんばった、十分頑張った。もういいやろ」
と思い、実践から離れ
幸せや楽しみを味わう決心をしました。
(こう決心するあたり、実践の名残がありますが)

そしてブログを書き始めました。

このおかげでネット上でいろんなお友達ができました。

そうですね、いろんなことにわくわくしていたと思います。

ただただその瞬間を楽しもうと思い
(これもスピの教えのひとつですね)
楽しもうとしていました。

ブログでの出来事は楽しかった出来事の一つです。

そしてこのネット上でのいろんな出来事があったからこそ、TK師に出会えました。

そうでなければ私はTK師の存在を知ることはなかったです。

すべてはつながっていてどの出来事も私にとって必要だったと思っています。


第二の実践の終了後、
私は中途半端な状態でした。

下手をしたら私は永遠にそのまんま中途半端でした。

でもTK師に出会うことができました。

TK師とのやり取りの中でも私はもう、
「今のままで十分」というのがありましたので
そして今の状態が「正しい」状態だと思っていたので
TK師に否定されたとき正直腹が立ちました。

そして訳が分かりませんでした。

でももし、かつての私が本当にその状態でいいと思ってしまったのなら
今の私はありません。

そこで終了です。

でも私はまだまだで まだ先があったのでした。

その先にこそ、本当は私が
本当に求めているものがあったのでした。

でもそれすらもわかっていなかった。

覚者から見たら、私はまだまだで
でもその「まだまだ」がわかっていない状態。

掲示板でもそのような人がたまに現れていましたね。

もったいない。

まだまだ先があるのですよ。

でも私もそうなってたかもしれなかった。

そう思うと、今の状態が「最高である」と思っている人に
「まだその先があるのよ」と伝えたい。

そもそも「最高」なんてないのですよ。

、、と話がそれました、てへ。



>その者にとっては、それがどんなに地獄でも、進むしか他に手が無いのだから、
>その者はこちらが指示しなくても自分でその先に進む事だろう。

はい。そうなったら進むしかありません。

もう後ろに道はなかったので戻ることもできず
進むしかありませんでした。

248TK:2013/12/30(月) 18:18:25
>私は師は求めていませんでしたので
>誤認覚者を師とは絶対しなかったと思います。

確かに君は最初に師は求めていなかった。

しかし、何も求めていなくて私の所へ来たわけではなかった。

君は自分が如何ほどの状態に居るのかの評価を「求めて」いたんだ。

「求める」ものがある以上、君の期待に応えうる回答をする者が現れたら、
エゴの世界の人間の特性で、
君のエゴの期待にかなうような回答をする者には同調がおきる。

私は君に対しては酔っ払い以上の評価はしなかったから、


>TK師に否定されたとき正直腹が立ちました。
>
>そして訳が分かりませんでした。

あの時の君がもし私では無く誤認覚者を尋ねたら、
君はかなりの評価をされ酔っ払い同士の納得のいく状況がその場で出現していた。

なぜなら、滑稽な話だが、同レベルの者同士だから話が通じるのさ。

私とその時の君とでは異次元だ。

例えば自らの誤認による覚者が「理解」と言う言葉をやたら連呼するが、
今の君なら「理解」それ自身すでに異次元ですとなるなだろ。

ところが、最初の君なら誤認の者と同レベルだから、
評価などエゴの喜ぶ行為をされようものなら、
喜んで意気投合しみんなで一緒に酔っ払い戦隊カクセンジャーで世界の為に取り組みをしたりするんだよ。(笑)

君が本当に最初から何も求めるものが一切なくて私の所に来たのなら、
こうはならないのだろうが「求める」ものが僅かにでもあればそうはいかないものだ。


http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。
>
>
>この世界の真実を知る!


これ、自らの誤認による覚者と同じ次元ですよ、今思えばバカみたいでしょうが、
話通じますよ。

ところがこれが異次元の私が相手だと、
あなたは凄い妄想狂ですねと言う単なる酔っ払いである評価しかされない事になる。

自らの誤認による覚者と私と二人が同時に君の目の前にいたら、
恐らく私は君から選択される事はありませんでしたね。

運とタイミングで、大きく人の進路は異なるものです。

249ラピ。:2013/12/30(月) 18:40:44
☆TK師

>君は自分が如何ほどの状態に居るのかの評価を「求めて」いたんだ。

はい。その通りです。
私はTK師に 私が今どんな状態であるかを見てほしくてメールしました。
それが始まりでした。

ただし、これはTK師にしか問うことはありませんでした。

なぜなら、それまでにTK師の実践された内容を知り、
「私のやってきたことと共通するものがある。
この方なら私についてなにかわかるかもしれない」と思ったからです。

私のような実践をしている方を
それまでは見たことがなかったんです。

そしてTK師はその実践をやり遂げて至ったと!

私はその頃、自分の実践の意味が分かっていませんでしたから
TK師ならわかってくださるかもしれない、と思いました。

だからこの時点ですでに
TK師以外の人に「評価を求める」選択はありませんでした。

今こうやって思い出してみると、
やはり、私はTK師にしか求めなかったし
教えを請うことはなかったと思います!

はい!

TK師!ありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

250TK:2013/12/30(月) 19:21:19
>私のような実践をしている方を
>それまでは見たことがなかったんです。

確かに君は当初から私と自分は同じだと表現していた。

君のような変わり者と私のような変わり者が生きている間に話しできる確率など稀中の稀のようなものだ。

私も君には感謝している、
他の者のために私が達成したものが役立てることができたのだから。

251名無しさん:2013/12/30(月) 20:36:42
☆TK師

出会えてよかったです。

ほんとうに、ほんとうにありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

252ラピ。:2013/12/30(月) 20:43:15
251の書き込みはラピ。です〜。

@(*・ω・*)ポッ

253TK:2014/01/02(木) 08:32:37
あけましておめでとうごさいます。

昨年は、私にとってもラピ。さんと言う成就した人が出たので、
記念すべき年だったと思います。

色々とズラズラ書いてきましたが、実際にメンタルの成長と言う点において、
人より抜きんでたと言う事実はあります。

自分で言うのもなんですが、能力、ストレス、様々な点において、
悟った者は既に他者と対当ではありませんが、しかし、これが、
今の劣った科学では全く認知されているものではありませんから、
一般社会生活においても、他からは単に出来る人とか、
本人とっても当たり前ですけが能力的にもゆとりで生活していける、と言うものです。

特に業務上等での特徴は「瞬間」的な行動が極まっています。

例えば業務上においては「言葉」は仕事の道具、
真剣勝負の昔においては剣に値するものとも言えるのですが、
恐らく太刀打ち出来る人と言うのは居ないでしょうね。

これ、かなり一般の人より抜きんでています。

自分自身でも知らない間に、対話相手と決着がついたりしていますから。

ほとんど本人も知らない間にですよ。(笑)

これは、他者は太刀打ちできるはずはないですよね。

後、主な気付く点と言うと、利き腕では無い方の手とかも、
知らない間に効果的な動き方をしていて利き腕と差が無くなって来たりしていて、
かなり行動面において効率さが増しています。

悟る前の利き腕に負担のかかる行動形態の時より、
物事をこなすのに体をひねる事が少なくなったなあと思います。

これ、みなほとんど本人も知らない間に、
行動や言葉の方が勝手に自動的に適格な動き方をしていきます。

これが、悟った者のメンタル状態で獲得できた「フロー」というものの一端です。


フロー (心理学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)


悟りとはこのように人類においては良いことづくめの素晴らしいものなのですね。

悟りとはこのようなものですから、これが早く科学的に解明されれば、
さらに輝かしい人類の歴史が広がってくると思います。

もちろん、他者の文章から、他者の人相から、
他者を見抜けるあるがままの「眼」というものも獲得できますね。

このような現象を早く科学的にはっきりとした位置付をしてもらいたいものです。

特にこのような事を語るのも、資格制度にしてもらえれば、
世の中の自らの誤認による覚者というものはいなくなるのです。

あれは、世の中の一番の混乱の元ですよ。

こちらからみると、世界を救うのだとか、
物凄く滑稽極まりない妄想狂のドンキホーテみたいな言葉のやり取りしているのですが、
見ているこちらとは裏腹に、
本人同士はあの酔っ払い行動に真面目になってしがみ付いているわけで、
これ、本当に良くないと思います。

悟りと言うのは、私がここに掲げた能力面のアップ等の面が必ず付随するものであり、
屁理屈で納得したりしているような、そんなものでは無いのです。

沢庵禅師が説いた「剣禅一致(不動智神妙録)」、即ち剣が技術の修得、
禅はメンタルの修得、この二つが一致すると能力は格段のアップをします。

この修得度合こそを例えば、企業が人材を登用する基準に据えられたら、
その企業の発展において、かなりの期待に資する事ができるものであると思います。

また、従業員研修などにも、
これを獲得できるような要素を効果的に取り入れる手段があったなら、
業務成績がアップする事請け合いですね。

そのためには、この現象を現代の遅れた科学がもっと理論的な解明をしてくれなければ、
先へは進みません。

254ラピ。:2014/01/02(木) 10:03:25
みなさま、あけましておめでとうございます!

TK師、いつもありがとうございます。
私にとっても去年は今までにない素晴らしい年でした。


私は、悟りを目的とせず
日常、自分が感じたことに対して
真剣に取り組んだ結果、今があります。

ちなみに悟りについて思いを巡らせていた時は
全く見当違いになっていました。
だからそれは必要ありませんでした。(笑)


人それぞれ道があると思います。

それをしっかり極めてくださいね。

あ、でも方向性は大切ですよ。

方向が反対だと
頑張れば頑張るほど離れてしまいますからね。

皆様、今年も充実した年になりますようお祈りしています。

二度とないこの時を、後悔ないよう、がんばってくださいね。

255wai kei:2014/01/02(木) 11:45:03
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

一日足らずで終わりました。とりあえず、ご報告まで。
益々のご健勝をお喜び申し上げます。

敬具

256ラピ。:2014/01/02(木) 21:27:06
☆wai keiさん

waiさん、ご訪問&書き込み、ありがとうございます.!

とてもうれしいです。
@(*・ω・*)ポッ

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

257TK:2014/01/02(木) 22:25:57
wai keiさん

明けましておめでとうございます。

お久しぶりです。

旧ハンドルatomです。

たまにサイトは見させていただいてます。

私は実際の経典知識については大して無いもので、大変詳しく説明されていて、
とても参考になります。

今年もよろしくお願いします。

258349:2014/01/03(金) 10:36:58
waikeiさんのサイト
もしよろしければ、教えてください。

259ラピ。:2014/01/03(金) 22:35:48
☆349さん

はい!

wai keiさん、私からお伝えさせていただきますね。


釈尊は何を教えたのか?@和井恵流
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008

260349:2014/01/04(土) 14:59:45
ラピさん、wai keiさん

ありがとうございます。
実践の参考にさせていただきます!

261TK:2014/01/05(日) 12:02:12
wai keiさんと以前話をしていた頃は、
私は私自身を途上の者と表現しておりました。

この表現は結構好きだったのですが、
最近自らの誤認によるエセ覚者とその一派のサイトを訪れた際、
この表現にケチを付けられましてね。

至っているのに、
途上の者とわけの分から無い頓珍漢な矛盾したことを言ってるなみたいな、
文句を言われたのです。

それでここでは、
此の岸から激流を渡って彼岸に至った者を略して「至った者」と言う表現になっています。

悟った者と言う表現も、私やラピ。さんの段階なら誤表現ではありません。

途上の者と言う表現を使っていたのは、
実は今私が確実に至っていると表現できる所のまだ先があります。

私はその所までたどり着けた経験は持っていますが、まだ確実なものと言えません。

それが以前wai keiさんにお話しした「0」の領域です。

しかし、ここまで来て対話を交わした者の中で、
誰一人私の足元にも及ばないものばかりの現実に照らしたら、
この前の自らの誤認によるエセ覚者に文句を言われた通り、
「至った者」と言う表現の方が混乱が起きなくていいと思いました。

なぜなら、私が途上と称しいるその先の段階の話など、ラピ。さん以外は誰一人、
一切必要な者などいないのですから。

ラピ。さん自身はこのことは話をしてありますから。

誤認のエセが「至った者」で本物の私が「途上の者」と言う表現と言うのも、
以前は内容によるガチンコ勝負を実験的にやっていた部分はあるのですが、
今は誤認のエセ本人はともかくとして、
それ以外の人には紛らわしい表現だろうと思いました。

必要な者がいて初めてできる話も、必要な者がいなければ用がありません。

このような不必要な先まで話をすると、
また酔っ払いのゾンビー人間が多数出現するだけです。

私はこの者たちが出現しても一切無視(無記)としますから。

私は気のふれた者たちを相手にするほど、物好きではありません。

ちなみに、仏典で言う彼岸を聖書では神の国と言いますが、
新約聖書ではここに至るまでの方法しか載っていませんが、
釈迦の仏典では私が述べるその先をターゲットとした話になっています。

これは決して聖書の教えが劣っているとかというものでは無く、
ここで前にも話しましたが、イエスの伝道期間の短さに起因すると思います。

恐らくイエスの活動期間は3年未満、
そうすればおのずと多くの者に必要である部分に話のターゲットは絞られるわけです。


スッタニパータ725
>かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
>かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

解脱も色々な分類法があるようなのですが、おおまかに二つあるのです。

これは、「個の存在の解脱」と「マインドの解脱」と表現を変えても良い。

激流の彼岸とは「マインドの解脱」で成就できるのです。

(続きます)

262TK:2014/01/05(日) 12:04:16
(続きです)

「マインドの解脱」は悪魔即ちサンスカーラに打撃を与え続ける事で、
激流が発生し、やがて善悪の彼岸に至ることが出来ます。

「マインドの解脱」は善悪識別を超えると言う意味です。

識別作用の消滅すなわち意識の焦点化機能の消滅で「対象」が消滅します。

つまり、私やラピ。さんの前には世界も無ければ、あなたもいない、
「対象」の一切が消滅した何も無い境地、
すなわち釈迦の言う識無辺処の次の「無所有処」です。

これ物質的な肉体をまとってこれを述べてるから、話が通じないのですが、
物質的な肉体が無くなってしまえば、
現象化させるための「対象」が無いのでこれそのものです。


善悪の超越、
これをヴェーダの奥義書であるウパニシャッドでは知者の解脱であると記述がありました。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89


知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。



実は心臓から「個の存在」と言う、
マインドレベルよりもっと深い位置の感覚が発せられていました。

サンスカーラの作用の影響を受けるレベルより、ずっと深部です。

これは深い瞑想に入ると遭遇することが出来ますが、マインドレベルを滅却し、
さらにさまざまな既成の固定観念も次々と見つけだし滅却し、
そうすると最後残ったものとしてこの心臓から発せられているある種の感覚に突き当りました。

この感覚を取り外すと、
頭のてっぺんから足の先まで自分自身が消失し「個の存在」と言う
マインドレベルの我よりさらに深い位置のものが消滅する事でもう一つの解脱に達しました。


アートマン - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

>ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。


これが心臓すなわちサンスクリットでフリダヤ(hrdaya 心臓あるいは心)の解脱です。

そして、さらにその先がある、
それが釈迦が究極としているニルヴァーナすなわち「0」です。

私はここまで一通り辿り着け自らの中で実証できましたが、
それをまだ確実なものに出来ていない、それが以前の途上の者の表現の根拠ですね。

場合によっては、今頃生きてなかったかもしれませんが。

今の私の所まで来ると、エゴの推進力が利用できないので、ま、
のんびり行くしかないわけです。

263ラピ。:2014/01/06(月) 00:08:52
☆TK師

はい!

まだまだ途上ではありますが
今は激流を渡り終えて ある意味終了しましたので
今のこの状況に慣れつつ、
しばらくはくつろいでいようと思います。

言語化もまだまだですが
これからも表現させていただきます。

TK師、いつもいろいろ表現してくださってありがとうございます。

@(*・ω・*)ポッ

264TK:2014/01/06(月) 07:03:12
ラピ。さん

>まだまだ途上ではありますが
>今は激流を渡り終えて ある意味終了しましたので
>今のこの状況に慣れつつ、
>しばらくはくつろいでいようと思います。


釈迦の言葉で五上分結と言うもので言えば、1色貪、2無色貪、3掉挙、4慢、5無明、
マインドの解脱で1〜4までは成就したことになる。

残る5番目、無明の構成要素が次のものだ。

知覚と言う名前の紙が敷いてあるとすると、
その上に個の存在と言う名前の皿が置いてあって、
その皿にマインドの我という名前の物が入っている。

君の場合は、この中のマインドの我という名前の物を撤去する事に成功したんだ。

あと残る二つだが、EO氏の話によれば、生命維持に絡むものだから解脱死と隣り合わせだ。

ま、ここまで来るとエゴも無し無理なトライも出来るはずも無し、と言う所だ。

265ラピ。:2014/01/07(火) 23:30:18
☆TK師

はい!

いつもありがとうございます!

もう、私の大好きだった実践(笑)はできませんが
それそのものの状態に慣れつつ
それものであります。

それだけで今は十分です。

でもそのうちに この微妙な違和感、
それを頼りに進んでいくかもしれませんし、
進まないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

266TK:2014/01/09(木) 00:15:14
ラヒ。さん

二つの解脱。

まずは善悪の超越。

ターイッティリーヤ・ウパニシャッド
知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。


君が成就したんだよ。

常住できるのはこの解脱までだ。

次は心臓(フリダヤ 心臓又は心)の解脱だ。

この先は解脱死と隣り合わせだし。

カータカ・ウパニシャツド
解脱
 >〔14〕己が心臓の中に巣喰える一切の欲望が放ち逐われし時、応死の身は不死となり、この世ながらに梵を得るなり。
 >〔15〕この世ながらも、心臓の繋縛のすべてが断尽せられし時、応死の身は不死となる。以上にて教説終わる。


>もう、私の大好きだった実践(笑)はできませんが
>それそのものの状態に慣れつつ
>それものであります。
>
>それだけで今は十分です。


解脱死でオシャカになったらシャレにもならないかもね。

大パリニッバーナ経6・10(ブッダ最後の旅)
>「心の安住せるかくのごとき人はすでに呼吸がなかった。
> 欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。
>ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。
>あたかも灯火の消え失せるように、心が解脱したのである。」

267TK:2014/01/09(木) 19:43:14
他の誤認のニセ物覚者のサイトを見て回っていましたが、
いい加減やめたらどうなんだと言いたくなりました。

「相対と言う原理」はニセ者が理解する事はたやすくありません。

世の中を変えたければ、ニセ者はもう一度修練して本物になれば良いだけです。

ニセ者のままで進もうとしない事です。

それは世にデタラメをまき散らすことになり、
世の中にとって害になる行為でもありますが、
それより自分自身にとって良くありません。

釈迦も2度師を変えたくらいですから、至ったと思っても、
少し経ってみたらまだそれでは無かったという事はあるでしょうし、
自分で僅かにでも疑いが出てきた時には、
その僅かな疑いをそのままにして突き進んではなりません。

それは自分自身にとっても害をなす行為です。

それでは、相対の原理について話しますが、ただし、
理屈だけ取って行くような真似はしないでください、これは、
解脱による識別の超越により自ら体現できるものなのです。

仏典を良く読むと矛盾した二つの内容が出てくる事に気づくはずです。


スッタニパータ969
>智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。
>奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

スッタニパータ520
>安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、
>生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。


同じスッタニパータの中のこの「善」について、
捨て去れと言ったり喜べと言ったり、
一体どっちを取ればいいのだろうかと思いませんか。

ちなみに「善悪を捨て去り」と言う方を取った人は外れです。

見て回った自称覚者と言う人の中には、こういう人もいましたよ。

ポジとネガ、両方に偏らないで中間で行くのが良いのですみたいな者が。(笑)

これは相対の原理と言います。

善と悪、肯定的と否定的、正しいと正しくない、自己と世界、
これ等は全てこの関係性の所のものです。

善行を実行し悪行を無くせば、その実践の成果は善悪の両者が無くなるのです。

善行だけになりはしないのです。

肯定的を採用し、否定的を無くしていけば、
最終的にこの肯定的否定的の両者は無くなります。

全てが肯定的だけになることはありません。

(続きます)

268TK:2014/01/09(木) 19:43:46
(続きです)

私も実践時には全てが善になるものと思って善行を行っておりましたが、
最終的に善行も悪行も、
そもそも目の前から全ての「対象」が消えたもので何もできなくなりました。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。


善行をやって行くはずなのに、善行をやっていたらある時、善悪が消滅して、
すなわち経典にある内容「善悪を捨て去り」の通りになったのです。

私は決して初めからこれが分かっていたわけではありません、
最終的にそのようになって、
初めて善を為し悪を為さない行為の実践で善も悪も何もできなくなることで成就を迎えるものだな、
と言うことが、実現して初めてわかりました。

「為すべき事を為し終える」と言う事の成就です。

為そうと思えば為すことが出来るにもかかわらず、
善も悪も無いとか救いようのないデマの教えに従って、
善行を為さないのとは訳が違うのです。

私とて善行を為せるものなら、まだ、為しますよ、
為したくてももう為せないのです、このようにはっきり断言できなければ、
善も悪も捨て去っての成就、すなわちその人は覚者ではありません。

つまり、私は善行を為す行為は捨てていません、
どこまでもどこまでも善行を為そうとするその方向性で、
最終的に「行為そのものが」消えたのです。

これは、はっきり言いますが知者の解脱です、
理屈でわかった気になって持って行ってもそれは違いますから、
そのような事は絶対にやらないで下さい。

それよりも、至った我々から見たら、
全然至っていない人たちのそれは覚者のフリをしても、
丸裸同然にこちらには丸見えですから、どうか、
覚者のフリをして人々に間違いを教えばら撒くのではなく、
もう一度最初から修行をやり直してください。

特に商売をされている方なら、
背に腹は変えられません等の理由もあるかもしれませんが、
単なる覚者気分を味わいたい、そのようなつまらないエゴを捨てられずに、
自らを汚すことは愚かな事だと思います。

特に私の書込みを見るなりあわてて次々に削除する事で必死に逃げ回った自称覚者と名乗る方などは、
お早めにお気づきになられた方がよろしいかと思います。

はたで見ている分には皆がそろいもそろって妄想の中で遊び泳いでいる姿を目にするのは
ほのぼのとする部分が無いわけではありませんが、
本来激流の実践法に対してほのぼのとか楽しみ半分で接していたら、
その報いは必ず自らに永遠の罰と言う形で帰ってきます。

そのような姿勢や実践精度で接するものでは無いのですから。

まさに、豚に真珠を与えてはならないとイエスが言っていた通りです。

269ラピ。:2014/01/09(木) 23:11:22
☆TK師

まさしくその通りです。

自称覚者、 もっともらしく書いてるけど
こちらからしたらでたらめばかり。

自称覚者をグルとして信じている人たちが
あまりにも哀れです。
正直、かわいそうに、と思います。

(ま、信じている人たちも
自分がその自称覚者をグルとしているので
自業自得と言えばそうなんですが)

そして自称覚者は自分が至っていると信じ込んでいるので
堂々と偽の教えをばらまいているのですね。

でも、それらの言葉ってズバリ、受け売りなんですよね。

んでもって覚者の言葉を引用して
それを解説してるものの、
とっても的外れとなっております。

それでいいんですかね?自称覚者さん。
あなた自身が
よくないカルマを生み出していますよ。


>解脱死でオシャカになったらシャレにもならないかもね。

はい〜!
@(*・ω・*)ポッ

270TK:2014/01/11(土) 09:35:23
誤認の覚者の前には確実に「対象」がある。

「世界」がある。

つまり、無所有処(何も無い境地)ですらないという事だ。

そして、その者には確実に「我」がある。

しかし、その者は風車が怪物に見えてしまうドン・キホーテだ。

したがって、これは我では無いとか勝手な妄想に埋もれて、
我があるにもかかわらず我が無いと言う妄想に浸っている。

なぜこのような事が起こったのか、その一番の原因は、
自らの劣った精度の眼による実践に主な原因がある。

実は本来激流の実践法であるべきものが、
同じ実践方法を言っているのに緩流になってしまう事に起因している。

これでは、悟れるとは反対のただ単に、感謝できないものに感謝したり、
人間としての感覚を麻痺させて頭がボケる事を平安と勘違いした、
悟りとは別物を悟りと勘違いした妄想狂、風車が怪物に見えてしまう、
ドン・キホーテと従者のサンチョだ。

私がここで、このような者とは逆行する教えを説いているのは、
このような酔っ払いになってしまってはその者の一生が、酔っ払いのままで、
それで人生お終いになる事を知っているからだ。

そして、
その者は広くその自分が落居っている酔っ払いの酒を広く世間にばら撒こうとしている、
酔っ払い人間を多数産出しようとしている。

まさに、「末法の世」だ。

世の中には人々に危害を及ぼす怪物を倒す正義の味方ウルトラマンと言うのがいるとすると、
もう一方は風車が怪物になって見えてしまうドン・キホーテと言うものがいる。

自らの誤認によるエセ覚者とは、この風車が怪物になって見えてしまうドン・キホーテの事を言う。

つまり、自分が酔っ払った同じ酒をまた、世界に振る舞おうとしているのだ。

私がここで、大いに裁いて結構とか、感謝できないものに感謝しなくて良いと言うのは、
単なる風車が怪物に見えてしまい従者をその巻き沿いにするドン・キホーテではなくて、
前者の正義の味方ウルトラマンの方になってもらおうとしているからだ。

激流の彼岸とは、常に戦士である事をやめたら辿りつけない所だ。

私は達成するまで戦士である事を決して捨てなかった、
達成したら戦士が捨てることなく勝手に消えた、これが完全勝利だ。

ラピ。さんは、第2次激流の実践がうまくヒットしたので、そこで得るものもあり、
私の導きのもと彼岸へは僅か一日で至ることが出来た。

もし、この第2次激流が精度の劣った実践だったなら、
それは激流にすらならず緩流となり、単なる酔っ払いのままで何ら達成する事も無く、
やがて自らの誤認により何ら達成してもいないのに達成したと妄想を抱き、
酔っ払いの者になっていた。

その場合に今のラピ。さんはない。

何が誤認覚者とラピ。さんの大きな違いだったか、それは、第1次実践の際、
宗教書やスピ系に一切かかわっていなかったことが不幸中の幸いだったことだろう。

つまり、実践の内容は何ら精神世界の知識も無く、
純粋に自分の中から導き出されたものだ、
それが第2次実践の激流を創る事に大きく起因している。

つまり、多くの者たちは激流どころか、
激流に飛び込む崖っぷちにすら立っていない者たちが、激流の実践法を振り回し、
それでは、単に人間としての感覚がマヒして頭がボケた死ぬまで妄想狂だ。

宗教書やスピ系知識や誤認の覚者が無くとも、一たび激流にさえ飛び込んでしまえば、
あとはその者には進むしか手が無くなる。

バカな者たちよ、バカな者たちよ、
折角人間として生まれてきたと言うのに酔っ払いになるために生まれてきたのか、
お前たちは。

271ラピ。:2014/01/11(土) 11:21:30
☆TK師

>何が誤認覚者とラピ。さんの大きな違いだったか、それは、第1次実践の際、
>宗教書やスピ系に一切かかわっていなかったことが不幸中の幸いだったことだろう。

はい。確実にそうです。
本当にそうだと思います。
そんなもん、知らなかったですから。

でも普通に生きていて、自分自身の疑問にぶつかり、
自然に実践していました。

私が小学生の時でした。

これが私の後悔しない生き方でした。
それをしただけ。
それがいわゆる「実践」となりました。

実践、小学生でもできたんですよ。

これから言えることは、
スピ系は一度捨てて、
人間らしく人間として
自分の「善」を拠り所に
精一杯日々を生きることです。

スピ系の理論を振りかざして
のらりくらり
きれいごとを並べるだけ。

その時は心地よいかもしれませんが、、、、。

そんな楽ちん路線を行く人に激流が起こるはずがありません。
(それでいいという人には何も言うことはありません)

でも、せっかく人間の世界に生まれてこれたのだから
このチャンスを逃さないほうがいいのではないでしょうか。

頭で考えるのではなく
しっかり自分らしく精一杯頑張ってください。

単にそれだけ。

スピ系の本を買わなくてもいい。
自分の「善」を信じて頑張るだけ。

今世で至れなくても
その経験が次の世でそれが生かせるはずです。

無駄なことはありません。

私は常に精一杯やりました。

本当に精一杯やってよかった。

必死になってがんばってよかった。

ほんとうによかったと
今思います。

本当にあきらめず
精一杯がんばってよかったです。

ほんとうによかったです。


TK師、本当にありがとうございます。

TK師のかつての実践の書き込みがなかったら
TK師の実践を知ることもなく、
私がTK師にコンタクトすることもなかったと思います。

272ラピ。:2014/01/11(土) 12:18:25
ちなみに、
人それぞれに道がありますので
私の方法そのものが適していない方もいるかもしれません。

でも、少なくとも、
今、自分の中にある問題に対して
それを誤魔化すのではなく
ちゃんと向き合い、よく考えれば
どの様な方も今の状況でできることがあります。

人それぞれの段階があります。

私の精一杯も、その都度
自分のその時の精一杯でした。

激流の実践に比べたら
小学校から始めた第一の実践は
とても甘いです。
(でも それすらもできない人もいますが)

でも、それでもその実践が必要だったのです。

だから、まずは今の自分の問題がいったい何なのかを知り、
それに対して
今、できることからやっていく。

それが大切だと思います。

どんな時も「自分の善」を信じてくださいね。

私も自分を信じてがんばりました。

273TK:2014/01/12(日) 10:34:17
激流の実践、これを私は約1年間で渡り彼岸を成就した。

ラピ。さんの激流はもっと長かったと言う。

この差は、たまたまテキストとしたものの違いであったと言える。

私はここにも書いたが、新約聖書と釈迦の僅か2冊の仏典。

私はあえて最低限を心がけ、これだけになった。

理論的に分かっていてそのテキストを利用したわけではなかった。

私にとっての一番の取り組み課題は、「悪魔(サタン)」対策だったのだ。

私は悪魔と戦う手段を探して、このテキストを取り入れる事としたのだった。

日常実践、禅定にタパス(苦行)。

ラピ。さんとの激流期間の違いは、
たまたま取り入れたテキストの違いによる先達が残した手掛かりの違いと言える。

例えば私は激流の実践時、釈迦の経典をテキストにしていたので、
有る時は純粋に空間認識を利用する実践をしていた。

空間を認識し、その空間に自分の思考を含む感覚が浮かんでいる、
そのような実践法です。

これは、この空間認識を利用する事により、
肉体と空間との境界線を無効にする実践でした。

形のある世界を脱出する第一プロセスですね。

つまり、ラピ。さんの激流時の実践より、
私は釈迦の経典と言う先達の手掛かりをもとに進めた分だけ、
効果的に進む事が出来たと言えることでしょう。

今の私やラピ。さんには私がこの際に利用した空間認識すらありませんが。

誤認覚者の前には世界はおろか空間すらあるのですよ。

完璧にふざけた、あれは従者を引き連れたちんどん屋の世界ですね。

こんな者が覚者と言う事態、バカも休み休みです。

「対象」を超えるためには、まず最初に空間認識は消滅させなければならないのです。

私が一番面食らったものは、私はある時、
全ての次元を次々と上昇し突き進んでいき、最終的にある領域に突入した。

突入したと言う表現より、様々な次元を突き進んだその果てに、
最終的にこの宇宙を全て脱ぎ捨ててしまったと表現するとちょうどピッタリの表現だ。

帰還した後、この経験がなんだったのか、文献類を探したが見当たらない。

至高体験のあの光のチャラチャラみたいな世界は、それとは違うし、
なんでそんな究極でもないまがい物を人々はさも究極の至高のように表現したりしているのだろうと思いました。

私はそれまで、世界各地に存在する様々な教えの究極はみな、
同一の所を指していて、至れば自分もそれが分かると思っていたからです。

それはこの宇宙に存在する言葉では一切表す事は出来ないものなのだが、
あえて便宜上「ゼロ」と表現するのが一番近い表現だ。

旧約聖書の光と闇が分かれるより以前だ。

そこでは時間が無い、僅か0.1秒も100億年も皆一緒だ、今すらない。

これが釈迦の教えを取り入れた結果として明らかになった究極だ。

それは、そこに至るまでの過程としての否定語でしか表すことが出来ない。

下手すれば、生還すら出来ない。

私は一旦死んで生き返ったんだ。

私の場合はその後に、フリダヤ(心臓又は心)の解脱、
次いで今いるマインドの解脱が明らかになった。

新約聖書だけでは、マインドの解脱までしか明らかには出来なかったんだ。

確かにイエスの3年未満の活動期間で取り上げるような内容では無い。

274ラピ。:2014/01/12(日) 18:12:10
☆TK師

いつもありがとうございます!


私はすっごく長〜い激流でしたね。
激流では一瞬も気が抜けなくて命がけです。

激流だからちょっとでも気を抜いたら流されてしまう。
気を抜いたら溺れ死んでしまう、ということです。

他人事みたいですが、よくやりましたねぇ(笑)

しかしかなりの遠回りをしていました。


師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
大変貴重だと思われます。

しかし私にはそれは明らかになっていないので
それを想像すれば、誤解しかねません。

だから、そうなんだ、とそのまま受け止めておきます。
あとで、分かるかもですしね。

師匠、ありがとうございます!

しかし、経典ってほんと見事ですね。

275名無しさん:2014/01/12(日) 19:04:29
>273、274
あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?

276ラピ。:2014/01/12(日) 20:48:25
☆273さん

次元なんてありませんよ。

277TK:2014/01/12(日) 21:18:17
面白い。

名無し
>>273、274
>あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?


>師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
>大変貴重だと思われます。
>
>しかし私にはそれは明らかになっていないので
>それを想像すれば、誤解しかねません。

対照的だ、しかし、ラピ。さんは想像できないから安心ですよね。

278ラピ。:2014/01/12(日) 21:46:40
☆TK師

はい、妄想できません。

@(*・ω・*)ポッ


ちなみに そうでないことを想像しても
それは単なる妄想になってしまいますので
それよりは現実的にしっかり生きて
日々、精進されたほうがいいと思いますよ。

はい!


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