したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

web誌友会参考文献板

195復興G:2013/12/12(木) 16:52:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十九

 「神癒祈願」 の申し込みの内容をどう観るか。神は如何に観じ給うていられるであろうか。イエス・キリストは、病者を前にして 「この病は誰の罪の結果ならんか」 と問う弟子たちに向かって 「神の栄光あらわれんがためなり」 と言い切っておられるのである。

 神の栄光はいずくにあらわれるのであるか。イエス・キリストの中に神の栄光はあるのである。それが更に更に輝きあらわれんがために、その栄光を祝福し、礼拝せんがためにイエスの前に天降り、あらわれられた観世音菩薩すなわち尽十方無礙光如来がイエスの前に立つ人であったのである。更にイエスにとって、そのように問うている弟子たちをも含めてすべてイエスの内なる栄光を祝福せんがためにあらわれた、それこそ神の栄光そのものであったのである。ただただ、すべては、イエスの内なる愛なるものの光りが更に更に輝きあらわれんがためであったのである。

 如何なる姿をとって現れ、如何なる姿になって行くかは、み心のままであって、イエスはそこに輝いている、實在の實相なる中身だけを観じつづけられていたのである。それが全托の姿ともなってい給うたのである。

 「み心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」 とイエスは祈り給うていたであろう。また、「わが意をなさんとにはあらず、み心のごとくならせ給え」 と祈り給うていたであろう。

 しかしながら、このお姿は、そこに既に成っている天なる栄光を観給い、自分は既になく、み心のみが渾(すべ)ての渾てであり給う上に立ってのお姿であり給うたのである。

 神なる栄光のみが渾ての渾てなのである。神の栄光のみ独在なのである。

 「この地上に、不幸、災難があるのは、誰れの罪によるのか」

 との問いに対しても、やはり、

 「誰の罪にも非ず、神の栄光あらわれんがためなり」

 と言い切っているのが、生長の家なのである。即ち聖経 『甘露の法雨』

  此の世界に犯されたる罪もなく
  報いらるべき罪もなきことを教えよ。

 となっているのであり、

  善のみ唯一の實在

 とうたわれているのである。(これは決して同慈同悲の自然な心を無視せよ、ということではないのである。同慈同悲の自然な心こそ観世音菩薩の観世音菩薩たる輝きなのであり、神の栄光そのものなのである)

 ここにおいて、神癒祈願申込者の名簿なるものは、観世音菩薩の名簿であり、尽十方無礙光如来の名簿であり、生長の家の大神の名簿であるということになっているのである。それはそのまま、神なる栄光そのものであるということになっているのであり、それを表現、祝福して、人型はただただ 『實相円満』 とだけ書かれているのである。そして、祈らせて頂くものの内なる神なる栄光が更に更に生長、展開せんがために、天降り給うた名簿であるということになっていると拝察させて頂けるということは何という光栄なることであろう。

 ただただ為すべきことは、神の栄光そのものなる 「實相円満」 をひたすら、一体となって讃え、悦ぶことにある、という想いがつよくなるのを憶(おぼ)えるのである。

 實相円満を観じ、憶念することが全托ということなのである。

 神は如何に観給うか。神はただただ神ご自身を観給うのみなのである。(1998.11.16)

196復興G:2013/12/14(土) 18:31:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十

 みずからにして、おのずからなるものとは、「現象無し」 と、捨てて捨てて、超えて超えて、死んで死んで、死に切って、はじめに帰って帰って、そして、その 「現象なし」 と捨てることも、超えることも、死に切ることも、はじめに帰ることも 「無し」 と超えて超えて超え切った 「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無し」 として、神、仏、實相も 「無し」 として、その 「無し」 も 「無し」 としている、そこにそのままがあり、それがみずから、おのずからなのである。それが、實相なるもの、神なるもの、仏なるもの、創造するものなのである。

 そこにおのずからなる、みずからなる、そのままなる光明化運動なるものが久遠(くおん)を流れているのである。久遠なるものとしての生長の家人類光明化運動のすがたがそこにあるのである。

 みずから、おのずからなるものこそが創造であり、生長であり、唯一の善であり、価値なのである。自然(じねん)、法然(ほうねん)、天然(てんねん)なる光明化運動なるものの発進である。

 斯(か)くのごとき発進は久遠の発進なるものであり、「今」 なる発進なるものなのであり、すべてのすべてなる発進である。

 これは過去、現在、未来の流れの中の発進ではなく、「久遠」 なる、「今」 なる、「渾(すべ)ての渾て」 なる発進なのである。この渾ての渾てなるものが、みずからであり、おのずからなるものなのである。時空超脱の発進である。

 「発心(ほっしん)正しからざれば万行(ばんぎょう)空(むな)しく施す」 というよろこびの言葉はまことにも、みずから、おのずからなる発進、すべてのすべてなる発進の久遠なる実体がそこに鳴っている言葉なのである。

 五官の世界すなわち現象には、みずから、おのずからはないのである。それはすべて外より来たったものによって成り立っている、相対的にして、有限、局限なるものなのである。それは時間的にして、空間的なるものであるが故に、「久遠」 ではなく 「今」 ではなく、「渾ての渾て」 なるものでは有り得ないのであり、みずから、おのずからでは有り得ないのであり、そのままではないのである。

 みずからはおのずからなるが故に、相対を超えて 「在りて在る」 ものであるが故に、未だかつて崩れたることは無いのである。「今」 起った、みずから、おのずからそのものなる生長の家人類光明化運動なるもののまことのすがたがここにあるのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 に於いて 「欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自(おのず)から去る」

 と観じ念ずる。この如意宝珠なるもののはたらきを称して、おのずからと言い、みずからと言うのである。おのずから、みずからがすべてのすべてであり、おのずから、みずからのみがあるのである。
 みずから、おのずからが神なのであり、天国なのであり、龍宮そのものなのである。

 去るも来るも、欲するも、欲しないも、好むも好まざるも、すべておのずから、みずからなのであり、神ばかり、光りばかり、善ばかりなのである。おのずから、みずからが、そのままであるから、「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、」 と 「『生長の家』 信徒行持要目」 には「そのまま」について解説されているのである。

 みずから、おのずから、そのままの、如意なる運動が生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.17)

197復興G:2013/12/16(月) 14:32:00 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十一

 何ごとのおわしますかは解らないのであるが、「吾れ今、神癒(しんゆ)の社(やしろ)、無の門関に坐して、癒(いや)しなる、甦(よみがえ)りなる大いなるものの中にいることを感ずる」 という安らかにして安らかなる想いの湧くのを憶(おぼ)ゆるのである。たしかに神秘なるあるものの中に、吾れもまた神秘なる存在(もの)としてあることを嬉しく想い、座を解いて書きつけざるを得ないのである。

 祈願の申込者と偕(とも)に、すべてのものと偕にその大いなるものの中にいる、ということも書きつけておきたくなるのである。これは私の大いなる発進の基なるものを成していることを想うのである。

 「吾れはまた全宇宙という社(やしろ)すなわち神癒なるもの、甦りなるものの中にいる」 ということも想えるのであり、不思議な想いであるが、宇宙すべてとひとつとなって大いなるものの中にいると同時に、宇宙をすべてのすべてとして、大いなるものとして、その中に自分が抱(いだ)かれていることも想えるのである。そして、「これでよい」 という安らかなるものに満たされているのである。

 「祈願申込書に書いてある祈りの内容はすべて私が摂取する。ただ實相の円満完全を祈れ」

 という声を内にたしかに聴いたのである。そして、申込者と一体である相(すがた)において龍宮海に入り、龍宮に坐して本来の實相(じっそう)の姿を観ずることが浄まるということだと拝察しているのである。それ故に、入龍宮幽斎殿における神想観では、次のように念ずるのである。

 「吾ら現象界の妄想悉(ことごと)く浄められて本来の如意自在(にょいじざい)の實相顕(あら)わる」

 “吾ら” となっていることは却ってこの場合、一体のいのちということをあらわしているのである。それ故、つづいては、一体であることにおいての今度は 「吾れ」 となっているのである。すなわち

 「わが全身如意宝珠(にょいほうじゅ)なり、一切の宝、吾が掌中(しょうちゅう)にあり」

 と。この吾れはすべてとひとつなる吾れなのである。

 入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)は 「神癒の社(やしろ)」 となっているのである。これは 「社」 なるものが癒しそのものであるということなのである。社の中に入る、ということは、ここにおいては癒しの中に入ること、甦(よみがえ)りの中に入ることを意味しているのである。そして宇宙全体が神なる癒しの中にあると同時に、宇宙全体もまた癒しそのものであり、吾れを包んでいるのである。

 この意味において、「世界平和の祈り」 の中の、神の愛が 「全地上を覆(おお)い」 というその蔽(おお)い具合の中身の安らかさ、いうことを想わざるを得ないのである。

 また、 「伊勢神宮の神前(しんぜん)に於ける神想観」 の中の

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう。

 その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う。

 …………

 天照大御神われに流れ入り給いて、その愛の霊光燦然(れいこうさんぜん)として宇宙を照らしたまい、その光いよいよ輝きを増して全人類を引きつつみ、全地上既に愛と平和と地上天国を実現せり」

 という。これは結局、イザナギのミコトが全宇宙を蔽い給うていることをあらわしているのである。そのイザナギのミコトの御はたらきが 「神癒」 ということになっているのであった。

 宇宙の大神とは、宇宙が大神であり、大神が宇宙である。宇宙それ自体のみずから、おのずからなる、それがそれらしくある宇宙自体の甦りが、畏くも宇宙の大神イザナギのミコトの禊(みそ)ぎ祓(はら)いとして表現せられているのである。(1998.11.18)

198復興G:2013/12/25(水) 14:42:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十二

 神癒とは、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚した時に、あらわれるよろこばしき何かであるということである。自性円満なるもの(神=實相)はみずからあらわれるということなのであれば、神癒とは、内より神が癒しなるものがみずから、おのずからあらわれて実現するものであるということなのである。

 例えば、神癒祈願の申込みにおいても、申込みたくなること、そのことが既に内より神があらわれられ、神癒なるものがみずから、おのずからあらわれて申込書を書いているということになっているのである。

 はじめからある神そのものであればこそ、人型の 「實相円満」 という言葉があるのである。「實相円満」 がみずからあらわれて申込書となっているということなのである。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の 「信心よろこぶその人を如來とひとしと説き給う。大信心は佛性なり。佛性即ち如來なり」 という言葉は、このあたりのことを表現しているとも言えるであろう。神癒祈願の申込書を書いただけで病気が消えてしまって、お礼状だけが来るというようなことがあるのもまた、あるいはこのことの側面を教えているとも言えるのである。

 生長の家の人類光明化運動の出現は、宇宙的癒しの周期がめぐって来たことを意味していると言えるのである。宇宙の實相がみずから、おのずから顕れ給いて、生長の家人類光明化運動の出現となっているということである。

 ここにおいて、吾々は、二度三度、 「それを為し終ったのが生長の家だよ」 という声を聴くのであり、この 「為し終わり」 より発しているのが生長の家人類光明化運動なるものなのであることに、心を新たにしなければならないのである。

 そして 「こと完成せり」 「こと終われり」 の完全持続として、宇宙的自性円満の自己顕現のすがたとして、神癒なる光明化運動が實在していることを讃嘆し、拝みまつりたく 斯(か)く書かずにはいられないのである。

 斯く、繰り返し、繰り返し言いたくなるのは、生長の家人類光明化運動は神であり、實在そのものである、ということを讃嘆したい願いによるのである。

 生長の家人類光明化運動は實相そのものであって、實相と現象との中間あたりにあって實相を現象に持ち来たすための仲介の役目をする中有的な存在では決してあり得ないのである。

 神は暗(やみ)を知り給わず、悩みを知り給わないのである。それ故、神である生長の家人類光明化運動なるものは、暗を知らず、悩みを知らないのである。癒しそのものであり、甦(よみがえ)りそのものなのである。

 癒しと言えば、病悩を前提とした言葉のようであるが、 「神癒」 ということは、神である癒しなのであるから、この癒しとは、相対的なるものではなくして、神は絶対なるが如く 「神癒」 の癒なるものは、病悩に対する相対の癒しではなく、絶対の癒しそのものなのである。それはみずから、おのずからの新生そのものである、甦りというものなのである。

 それは、生長の家人類光明化運動と言えば、暗を光明化するという、相対の光明のように見えているままに、生長の家という言葉がついている以上は、神そのものであり、この光明も絶対の光明であり、相対の光明ではないということと同じように 「神癒」 もまた同じすがたなのである。(1998.11.19)

199「訊」:2014/12/17(水) 16:19:50 ID:???

『幸福をひらく鍵』55頁より謹写――

 都合が悪いときにも感謝できる者でないと本当に幸福な者になれないのである。誰でも順潮に事が運ぶような時には勇気が出るが、一つつまづくと勇気が無くなり勝(がち)である。順潮に事が運ばず困難が重なる時にも勇気を失わず、正念を失わず、前進する者が最後の勝者となるのである。
 「失敗」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。「病気」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。イエスはそのように教えたのである。即ち盲目の少年がイエスに近づいて来たときに「この少年が盲目にて生まれたのはこの少年の罪であるか、親の罪であるか」とたづねたときに、「本人の罪にもあらず、親の罪にも非ず、神の御業の顕れんがためである」とイエスは答えているのである。神の御業にて出来た世界が「實相」であるから、「神の御業の顕れんがため」とは「實相をあらわす好機会だ」という意味である。罪を見ないのがキリストの愛である。
 あなたの心の奥底ふかく湧き上がってくるところの願いは、既に「實相」に於て在るものが表現を求めて浮かび上がって来つつあるのである。だから、それは必ず実現すると信じて努力すれば必ず実現する。しかしその願いが実現した場合、他の人が不幸になったり、損害を受けたり、他の人への愛に背くような願いは、「我」の願いであって「實相」の底深く既に在るものではないのである。このような我の願いは必ずしも実現するものではない。

200「訊」:2014/12/17(水) 16:20:44 ID:???


『生命の實相』第三十八巻・8月23日頁より謹写――

 不満足さえも、またまことにありがたいことではある。不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、救われることができたのである。不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。
 
 陰極陽転の理は昭々として明らかである。資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。不足は増大の本である。窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。 


『人類無罪宣言』133頁より謹写――

罪を解放する道

 罪がなぜその姿を現象界の不幸として、具象化して現わすかといいますと、罪それ自身がその存在を主張するためではないのであります。罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」でありますから、理解の便宜上「包み」という字を当てはめて考えてください。「包み」が形にあらわしているのは、「包み」を開いて中の進物(実相)をただ「ありがとう」と受け取ってもらうためであって、「包み」そのもの「包装」そのものに執着してもらうためではありません。(中略)罪が形を顕わすのは、罪自身が自壊するためである。「包み」が形を顕わすのは「包み」自身がその結びのほどかれんがためである。病状が形をあらわすのは病自身が治らんためである。足が痺(しび)れたと気づく不快感は、足の痺れの治ろうとする時起こる――そのように罪が現象界に不幸としてその姿をあらわすのは罪それ自身が存在を主張するためではなく、「神の創造り給いし実相のあらわれんためである」といいうるのであります。
 
 以上の叙述で解明されましたごとく、「罪」が現実的不幸として客観化して現れるのは、罪自身がその存在権を主張するのではなく、神のみ業――すなわち神の創造り給いし完全なる実相のあらわれんためであるとしますと、「悔改める」すなわち心が「実相の方」へ完全に転回(コンヴァージョン)してしまいますと、さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と「神の創造り給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」の模様はもう問題とならない。「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。

201「訊」 1:2014/12/18(木) 10:39:35 ID:???


『常楽への道』(吉田國太郎先生著)185頁より謹写――

◆ 幼な児のこころ

 生長の家では何でも思う通りになると申します。思う通りになると云われたら、『ハイそうですか思う通りになるのですか、有難うございます』、と受けたらそれでよいのです。それを、ただ思うだけでよいのだろうか、などと余計な分別の心をさしはさむ、これだけの一寸した気持の相違が、実は本当に思う通りになるか、ならないかの天と地の岐(わか)れ路になってまいるのであります。

202「訊」 2:2014/12/18(木) 10:41:04 ID:???

 ある日、福田さんが何でも思う通りになると云う話をしておりますと集りの中にいた、村田宗一さんと云われます方が、『先生思うだけでよいのですか、思う位ならば私にだって思える』と云うのだそうです。『本当に思うだけでよいのですね。思う位ならば、皆さん、それ位出来るではありませんか。自分は神の子必ず幸福になる、それだけでよいのですね。これ位ならば出來るじゃありませんか。さあ皆さん思いましょうよ』と申したそうです。(笑声)実際涙が出るほど、澄み切った素直さだと思うのです。先程導かれる者として及第することだけが大切だと申しましたが、これは完全にそこが及第しております。重味があります。その村上さんは永い間の風邪なのですが思えばよいと云われた通り、風邪は無いと思っていたら、そういう意味のことを思っていたら、その風邪が治ってしまったのです。御教を受けさえすればそこに結果がちゃんと現れる。だから力を入れずに、努力もせずに、本当に七つの灯台の点灯者の御言葉の開かれている、その中へすっと私達は入って行ったら、力を入れず努力もせず自分がすっかり変わってしまう。生長の家はそう云う救いであります。自力で励んで苦しみもだえて、やっと救われる救いではない。こちらの力の要らない救いであります。ここが生長の家の真面目であります。その辺には塩田が多く、村上さんは、塩浜の浜子と云う仕事をして居られた。浜子と云うのはどんな仕事か存じませんが、農村の小作人か、あるいは使用人の様な立場に当られるのかと思います。ある日、この村上さんが奥さんの代りに八百屋さんへ買物に行きますと、店頭に松茸がならべられてある。如何にもその松茸が美味しそうなので買って帰りたいと思われたのですが、値段が如何にも高い。これは駄目だと断念して帰られたのですが、その時、思う通りになると云う生長の家の話を思い出されて、松茸は食べられる松茸は食べられると思っていたそうです。何でも無いことですが素直にすーっとそのまま行じた処が尊いと思います。つまり御教の中に融(と)けこんだのですね。するとその翌々日とか翌々々日とか云いましたが、久しぶりに訪ねて来た友人がこれはお土産だと云って放り出したものを開けてみると、それが松茸なのです。やはり思う通りになったのです。それから思う通りになることがぼつぼつ出て来る。あまり有難いので鎮守さまにもお礼詣りに行ったのです。もう霜の来る頃の事でして、鎮守様の鳥居の前に一本の柿の木があって、真赤にすき透る程に熟した一箇の柿が梢についていて、実に美味そうな色をしている。それをみた時に、あれを食べたいなあと思われたそうです。しかし落したらべしゃんこにつぶれてしまうしと思って参詣を済ませて帰って来て、柿を仰いだ時に、又食べたいなあと思ったそうです。

203「訊」 3(終):2014/12/18(木) 10:41:48 ID:???

 しかし手がとどかない。落とせばつぶれてしまう。これは少々無理な願だと思って帰りかけたのですが、その時、そうそう思う通りになるのだったと思い出して、その柿を眺めながら、これは食べられるのだと思われたそうです。その状景を思い、柿の木の下でこの柿は食べられるのだと、素直に念じている村上さんの姿に何とも云えない尊い光がみえる様な気がするのであります。こういうことを馬鹿馬鹿しいとか、薄ッぺらだなどと思わないことです。そんなこと余り馬鹿馬鹿しいとか、お伽噺じみているとかそんな風に思う心が自分を殺してしまうのであります。村上さんはそんな風には思わなかった。そこが偉いところです。食べられるのだと思い、思う通りになると思って、四五歩歩いていきますと、その柿の木の下にせまい溝があってそこを綺麗な水がさらさらと流れているのですが、素直にいまのように思って四五歩歩いた時に後でバシャッと音がした。ひょっと振返っていたら、その熟柿が水の中へ落ちて(笑声)水の中を流れている。それを拾いあげた。その時に村上さんの心に何でも思う通りになると云う心がサーッと入って来て、強い強い信念となったのであります。そして今迄にない信念のこもった心で、力強く何でも思う通りになるぞと思ったのです。思う通りになるのだと云われたら、そんな気がしてもしなくても、思う通りになるのだと、一応乗って行ってみたらちゃんとこうした信念に入ったのです。素直な心根に神のはからいが自然と与えられて、こうなってきたのであります。その時村上さんはようし何でも思う通りになるのだ、俺はいつ迄も浜子ではいない、必ず浜親方になるのだと信念を固めたのであります。そして自分の信じた通り遂にこの村上さんは浜親方になりまして、西伯方村北浦の二番浜と云う浜を自分のものとしたのであります。ところが二番浜という浜は今まで扱った人が誰も成績をあげたことがない。しかし、俺はこの浜でも必ずよい成績をあげる、欠損などはしない、と云う信念で通しました処が、今まで三番塩も取れないようなところから一番塩ばかりが採れるようになった、と云うのであります。本当にこの世界は心ばかりが生きている世界で物質と云うものは無い世界であって心の内容通り、その通りに現われてくるのであります。

 この体験談でも証明されているように御教の中へすーっと自分を入れて行く、後は神が好いようにして下さいます。

<了>

211「訊」:2014/12/18(木) 14:37:55 ID:???

 思わしくないのは貴殿のメンタルであって、私の方はなんともございません。ですんで、

>>>4年経っても神がよくしてくれない人は単なる能書きマンの証明して
るのでしょうか?<<<

 とは、意味がわかりませんね。

 以上です。

 あとこちらは「WEB誌友会用の資料」を、確認するための場所です。痴呆症である点を考慮し「後日の削除要請」と致しましょう。

 それでは、がんばってください。

221神の子さん:2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMk
web誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ

やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン あらし

またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ

227トンチンカン:2014/12/19(金) 19:38:34 ID:r6TJQSCM

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
221 :神の子さん :2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMkweb

誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ
やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン
 あらし
またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・「どこかしこ関係なく鬱憤晴らしている」のは、<曳馬野お爺さん>の方ですよ!!


・八方破れの <八つ当たり> なのですよね、、、 マサノブ爺さん・・・

228トンチンカン:2014/12/19(金) 19:44:20 ID:r6TJQSCM

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『総裁追放』というコトバに ピリピリ している、マサノブ爺さん・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・講習会の「受講者数」の、減少に次ぐ減少・・


・マサノブ爺さんを非難する「外部組織」の、急激な拡大・・


・「教団組織」から「外部組織」への、「信徒達の流出」が止まらないばかりか、尚一層
 加速してきたのであります・・


・マサノブ爺さんに迫り来る『総裁追放』の声を、今までのように <無視> 出来なく
 なってきたのであります。


・独裁者としての強がりを演じてはおりますが、「小心者のマサノブ爺さん」にとっては、
 内心 ビクビク しているのです、、、 居ても立ってもおられないのであります。


・「人間智」の限界に来ているのであります・・・




(参考) web誌友会参考文献板
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
213 :神の子さん :2014/12/19(金) 18:42:43 ID:pF4uezM2

只今 訊けさん推薦で広報活動に参っています 耳触りのいい話で釣っておいて 実はこ
こだけの話ですが 版が荒れ 教団と本流両方にダメージを与えて 漁夫の利を狙ってい
るのよ 私たち嘘つきトキ&訊けは

この最後のところは 雅宣総裁が承知で、訊けとして出てきているか、知らないとすれば、
総裁追放を狙いその後の教団でおいしい目を見ようとする奸臣でしょう。訊けのすること
を100%肯定するトキの態度が解せない
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

229るん吉:2014/12/20(土) 07:38:16 ID:p..UGkhA
復興G様

何と膨大な量の御文章!!こんな大変な作業をして下さって
ホントにほんとに有難うございます。
保存させて頂きました。外に出たときでも、いつでも見れるように印刷しておきます。

有難うございます。大事にします!!

230るん吉:2014/12/20(土) 08:27:40 ID:p..UGkhA
訊けさん

読ませて頂きました。
また、お邪魔しますね。ブログ。そいで、また保存させてもらおうっと。
有難うございまーす。

231「訊」:2014/12/20(土) 08:53:20 ID:???

>>るん吉

 作戦成功です。るん吉みたいな人が現れてくれるのが、私の目的でした。復興Gさまの御文章が過去送りではもったいなかったので、曳馬野サマにご協力頂いたのです。(曳馬野サマは私が書くとドンドン、そのスレを上げてくださる有難い方です)

 素晴らしい御文章ですんで、一緒に読みましょうね。また、ご協力頂いた曳馬野サマには、深甚なる謝意を表し挨拶とさせて頂きます。



244トンチンカン:2014/12/20(土) 20:23:13 ID:r6TJQSCM


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   嵐吹く  荒れる大地に  意地張るも

                 爺さん一人じゃ  踏ん張れぬ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



・また始まったのかい?  マサノブ爺さん・・・


・「アラシ」していて、楽しいのかい?  マサノブ爺さん・・・


・空(むな)しいね〜〜〜  マサノブ爺さん・・・

245神の子さん:2014/12/20(土) 20:29:52 ID:y7odNOw2
>>るん吉

 作戦成功です。るん吉みたいな人が現れてくれるのが、私の目的でした。復興Gさまの御文章が過去送りではもったいなかったので、曳馬野サマにご協力頂いたのです。
(曳馬野サマは私が書くとドンドン、そのスレを上げてくださる有難い方です)

>>199 までは誰も荒していない それを引っ張り出してわざと荒れる版に仕向けた この嘘つきトキ&訊けの狡猾さを見よ 
過去送りではもったいないからと うまくるん吉さんをひっかけて 掲示板運営の目的を隠したわけだ

嘘つきトキ&訊け は 一人二役で雅宣総裁なのかな〜  一人二役で雅宣総裁なのかな〜  一人二役で雅宣総裁なのかな〜

246神の子さん:2014/12/20(土) 20:34:36 ID:UYKi0.kA
ばかだねーとんちししょう

あんたの書くのは、彼らの目的にかなっているから消さないの

私のは都合が悪いからすぐ消すの

この違いも解らないおバカさん

と云いつつ嘘つきトキ&訊けに協力してるんだけどね

247「訊」:2014/12/25(木) 08:42:42 ID:???

『幸福の原理』127頁より謹写――

 歯痛というものが、現に存在すると自分に感じられる場合に、「歯痛は存在しない」と本当にパッと心を三百六十度回転して、「歯痛なき世界」にするりと這入り得る人はいいけれども、そうでない人には「自分は病気でないことを欲する。自分は病気のないことを欲する。自分は病気を断じて放逐する」とこう大声に叫ぶことも一つの方法であることは前に述べた通りであります。しかしこれは最高のやり方ではない。第二善のやり方であります。第一義諦の真理は「病気本来無し」でありますけれども、現象の相に執われている人には病気なしと考えられないものですから、「私は病気の〝ない〟ことを欲する。自分は神から完全なる自由を与えられているのである。だから、病気を放逐する権利がある。自分は断じてそれを放逐する!」こう心に、又は言葉に唱えることは合理的に感じられるものですから、不合理だと思いながら念じることよりも、合理的だと信じながら念ずる方が、その思念が実現し易いので「病気無し」と信じられない人はこう念じて、これによって病気は完全に放逐されつつあると信ずれば好いのであります。兎も角、吾々の心の世界にある業というものは、形に現われたら消えて行くのであります。それは丁度、時計のネジを廻して置くと、その時計がチンチンチンと時鐘を打つ音を出し、感覚に触れる姿となって現われる毎に、そのゼンマイに潜在する業の力は消えて行きつつあるのであります。それで何日間も度々チンチンチンと鳴ったら、その時計は新しくゼンマイを巻き返さない限り、音を立てなくなるのであります。それと同じく、吾々が心の世界で、例えば腹が立って、ブツブツ言いたくなる。口惜しい、残念だ、と思っていると、そのブツブツがおできになったり、蕁麻疹が出て来たり、口惜しい、残念な思いが、神経痛や、胃痙攣や、いろいろの慢性病になってあらわれてくる。そのあらわれるのは業の力が消えて行きつつあるのです。併し、その時、業のゼンマイを新たに巻き直したらどうなるでありましょう。ゼンマイを新たに巻くとは、新たにブツブツの心を起こす。「こんな病気になってつまらない」とブツブツの心を起こす。「こんなに病気をしているのに、誰も深切にしてくれない、口惜しい」と「口惜しい、残念だ」の業を起こす。こんなに毎度ゼンマイを巻き直したら、幾らチンチンと時鐘が鳴っても、ゼンマイの力は無くなりませぬ。そこで業を消す道は、悪いことが形に現われたら、「ああ有難うございます」とその儘素直に受けることであります。俗に「病気が出る」と申しますが、まことによく請ったものでありまして、病気は業が出て行くのですから、有難いわけであります。病気が入るのだったら可(い)かぬでしょうが、病気が出たのなら「ああ有難うございます」とこう思って、消えて行きつつある病気に感謝すれば好いのであります。感謝致しますと、感謝の心は一番素直な心、そのまますっと受ける心でありますから、反動を伴わないで、エネルギーがそのままそこに止まってしまうのであります。・・・(中略)・・・すっとそれを受けとって反抗しないのであります。「ハイ、有難うございます」の精神であります。そのまま素直の精神で受けないで、「苦しい、痛い」と反抗的に受ければ、業は消えないで、益々増えるばかりであります。ですからその儘に受けるのですね。そのままに受けたら、ボールは手を痛くならせない。病気もそのまま受けたら、病気が断じて苦痛でなしに、業が消えてしまうということになるのであります。

<了>

249曳馬野:2014/12/25(木) 17:52:48 ID:PbwQ2xXs

曳馬野様

 私は、あなたが総裁でないと思っています。それは繰り返して申し上げます。

 それより、総裁を援護する人が、アラシ投稿を繰り返すと、結果として、総裁にも多大なご迷惑がかかります。

 以後、アラシ投稿はご遠慮願います。
****************************************************************************************************************

『トンチンカン』に誰々は「マサノブ爺さん」と云うカキコは止めて下さいと云い、従わなければ書き込み禁止をせよ

あらぬ事に引っ掛けて非難中傷しているだけ、これをアラシト云わずして何という

250トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/16(木) 22:10:13 ID:fRQPK2Kc
 ここで私が読者諸賢に申し上げたいのは、真理はそれが真理だから貴いのであって、
お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。
宗教的真理の悟りは、学究的研究や、典拠の渉猟とは何の関係もないことである。

 天理教祖は「学者とさとき者には隠し給う」というような意味をいっておられ、
アダムとイヴとは「知識の樹の実」を食したためにエデンの楽園から追放されて
いるのである。色々の聖句を寄集めて楽しむことは、良い趣味ではあるけれど、
一種の高級な蒐集癖にすぎないのである。

「新版 女の生き甲斐」 谷口雅春先生著、248p より謹写

251トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/16(木) 22:12:38 ID:fRQPK2Kc
*以下はトキの感想です。

web誌友会で、真理を知ることの大切さを学んでおりますが、
大事なのは知識の量でなく、信仰の深さなのですね。

 本日、この部分を拝読し、感じたので、書きました。

合掌 ありがとうございます

252a hope:2015/07/03(金) 10:10:26 ID:brQxC10.

Web誌友会板 >5596 の補足です
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/5596


「生命の實相」第23巻 p114 3行目〜

谷口――ご質問は「実相人間」と「肉体人間」を混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。

釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように「肉体人間の迷いの心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります)

存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。

存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。

あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」は、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。


この辺の消息は議論をもって押し進めても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。

ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を淡(うす)くすることによって、霧が破れて日光の輝き出(い)ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。

この「虚」の暗(やみ)を破って実相智の光線の射しはじめることを、「直観」によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。


肉体人間の知恵は「暗(やみ)」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。

「暗(やみ)」はそれを淡(うす)くすることによって光の存在を知るのであります。

「暗(やみ)の無知無明はなぜあるかと」とあなたは論議されますが、暗(やみ)とは「光の虚(きょ)」であります。

「光の虚」が光を知らないのは当然であります。

光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。

だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。

あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵――迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。

これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなくて、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したであります。

肉体人間の知恵、はからいをいっさい捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのです。

253a hope:2015/07/03(金) 10:14:10 ID:cEpBaIdo

>>252 a hope所感)

雅宣先生は、「自分のコトバは神のコトバではない」という内容をブログで公言されています。
(出典がなくすみませんが、このことは有名ですよね)

ということは雅宣先生は、ご自分の書かれた文章、つまり讃歌、祈りの言葉等はすべて人間知で書いたと、
ご自分自身でお認めになっているのです。

上の参考文献の中に、
<<だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。>>

とありますが、この『人間知は真理を知らない』という聖典の言葉は真理ですから、
そうすると「人間知で書かれた雅宣先生のコトバは真理ではない」ということになりますよね?

つまり、聖典「生命の實相」の真理によれば、雅宣先生の祈りの言葉、お経等は本来無い「光の虚」つまり、「虚説」であり、
それをご本人が認めてしまっておられるのです。

聖経 聖典などの、「聖」という言葉がつく文章は、神のコトバであり、「光」であり、
一方、人間知で書かれた「経」「祈りの言葉」などは本来無い「暗(やみ)」であり、虚説なのですから、
わたしたち「生長の家」の信徒は「虚説」には和解してはいけないということになるのだと思います。

だって、「虚説」に和解したら、とうぜん「迷い」ますものね。

みなさま、神のコトバである聖典をもっともっと拝読して、虚説は排撃していきましょう!

254神の子さん:2015/07/03(金) 12:33:12 ID:kEnG6jMo
250 251 をそのまま差し上げます

真理はそれが真理だから貴いのであって、お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。

255Sue:2016/02/04(木) 05:51:45 ID:ijlEEPpo
復興G さん  よろしければ もっと 投稿お願いします。

256志恩:2016/02/04(木) 06:38:06 ID:6hRUvSRg
254 の ID:kEnG6jMoさんは、曵馬野様ですよ。過去に 曵馬野様は、このIDで 何度も ご投稿されてます。

257神の子さん:2016/02/04(木) 08:27:19 ID:P0aFguZs
>>256志恩さん 早とちりじゃないかね  >>255のSueさんは復興Gさんに書いて欲しいといっているだけかもよ

ついでに書いておこう

 だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。・・・生命の実相

 この『人間知は真理を知らない』という聖典の言葉は真理ですから、そうすると「人間知で書かれた雅宣先生のコトバは真理ではない」ということになりますよね?・・・a hopeさん

こう判断したのは肉体人間の a hope さんじゃないのかな

 
ここで私が読者諸賢に申し上げたいのは、真理はそれが真理だから貴いのであって、お経にあるから貴いのでもなく、誰々が語ったから貴いのでもないということである。・・・「新版 女の生き甲斐」 

 お経にあるから貴い(生命の実相、聖経と云われるもの)誰々が語ったから貴い(雅春先生、神)のでもないということである。とも読めますね。

258神の子さん:2016/02/04(木) 08:43:44 ID:P0aFguZs
「肉体人間の迷いの心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。
「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。


生長の家に触れ始めたころの肉体人間の迷い心と、此処で色々利口に語っている真理を知っているという心、は同じものではありませんか?

ただ完全なるもののみが存在するのであります。に成っている人はいないと思われますが。

259トンチンカン:2016/02/04(木) 08:55:25 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「曳馬野」爺さんが、「神の子さん」で出てくる理由は・・・

 ID:kEnG6jMo = 「曳馬野」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




(参考) 本流対策室/6
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
410 :曳馬野 :2015/06/15(月) 19:46:45 ID:kEnG6jMo

あれっ、アレッ、、もう恥ずかしくなって?  また『神の子さん』で出てきたの・・


あなたのように誰が言ったからどうこうだ、と云うように先入観相携えてしかものを考えられない人間に対して、名無しで書くんだよ、文の意味だけを考えられるようにね。それを態々余分な想像ばかりして考える、救いようがないね
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

260神の子さん:2016/02/04(木) 08:56:26 ID:P0aFguZs
もっと簡単に言えば

「こうしたらよいとか真理の言葉に従えばいい」とか考えるのはそうすればもっとよくなると云っているのでしょう?

「存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。」の生命の実相の言葉で言えば不完全を自認している心です。

 完全なるものがこうすればもっとよくなるなんて考えますか?

此処でもっともらしいことを言っている心はどんな心でしょうか?

261トキ ◆UMw6UoGELo:2016/02/04(木) 10:03:25 ID:3u7tF7hI
 すみませんが、板の趣旨と違う投稿はご遠慮してください。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

262神の子さん:2016/02/04(木) 10:34:25 ID:P0aFguZs
a hope さんが自分の感想を書いていても何も言わずに、私がそれへの感想を書くと関係ないものとなるのですね。

面白い言い分です。本当に関係ないのは>>259みたいなのではないのかな。

263神の子さん:2016/02/04(木) 10:34:55 ID:P0aFguZs
a hope さんが自分の感想を書いていても何も言わずに、私がそれへの感想を書くと関係ないものとなるのですね。

面白い言い分です。本当に関係ないのは>>259みたいなのではないのかな。

264a hope:2016/02/05(金) 01:11:23 ID:cEpBaIdo

web誌友会板でも紹介させていただきましたが、最近、雅宣先生がFBで、短いお言葉をたくさん紹介してくださっています。

>>6095 に紹介させていただいた3つは、とても率直な祈りだったので感動しました。


ですが、正直に感想を言わせていただければ、他の多くのお言葉はわたしの魂にはまったく響いてきません。

その理由ですが、そのお言葉の内容が現象や肉体を認めてしまっている二元論だからなんだと思います。



「有限の現象世界には、無限なる神は存在しない。しかし、神そのものは存在しなくとも、“神の痕跡”はあらゆるところに満ち溢れている。」(雅宣先生)

は、本来の唯神実相の生長の家の教えなら、

「有限の現象世界など本来無い、無限なる神(実相)しかない。神しか存在しないので、すべての物には神が満ち溢れている」

となるのではないでしょうか?

また、

「私は内に無限を蔵しているから、有限な肉体をもちながらも、その肉体で捉えた世界の奥に無限を感じることができるのである。」(雅宣先生)

は、本来の生長の家の教えなら、

「私は神の子であり、有限な肉体などではないのだから、 常に無限を感じることができるのである」

となりませんか?


ご意見、反論をお待ちしていますm(__)m

265a hope:2016/02/05(金) 07:39:52 ID:cEpBaIdo

「神は悪を創り給わず。悪は妄想の産物であり実在でないから、私はそれに執着せず、攻撃せず、戦いません。」(雅宣先生)

本来の生長の家の教えでは、

「神は悪を創り給わず。実相世界は善一元である。
だから実相世界の投影である現象世界において『悪』と見えることも、本来は『悪』ではないのである。
現象世界でのすべての出来事は自分にとって魂を磨くための大切な経験ですから、すべてに感謝して善処します。」


となりませんか?


わたしは、「神の子として生きる」ということは、現象世界の『悪』と見える出来事を見て見ぬふりをすることでは決してないと思います。

268a hope:2016/02/05(金) 08:03:26 ID:cEpBaIdo
>>266志恩さま

さっそくのご意見をありがとうございます!

>>267
<<元教団の幹部や講師でいらした本流の先生方のご意見も伺いたいですね。>>

同感です。

どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

270a hope:2016/02/05(金) 08:09:59 ID:cEpBaIdo

本流の先生方だけではなくて、「生命の實相」を拝読している「生長の家」の信徒さんのご意見ならどなたのご意見でも大歓迎です。

ただし、ここは「生命の實相」の真理を学ぶweb誌友会の参考文献板ですから、
「生命の實相」を拝読していない方のご意見はご遠慮願います。

272志恩:2016/02/05(金) 08:35:07 ID:6hRUvSRg
a hope様

うっかりしていましたが、ここは、web誌友会参考文献板でした。

シャンソンさんから、そう御指摘がございましたので、気がつきました。
それで、
会話部分の・・266〜271は、本流対策室板の方へ移動しましたので、よろしくお願いします。

273a hope:2016/02/05(金) 08:35:43 ID:cEpBaIdo
>>271 志恩さま 

②は、雅春先生のお言葉ではありません(;'∀')

a hopeが、雅宣先生のお言葉を、「実相一元」風にアレンジしたものです。

わたしは、①の雅宣先生のお言葉は、「悪を実在でない」と表現しながらも、「悪」の存在を認めてしまっている二元論だと感じます。

今日は、これから仕事なのでこれ以上書き込みはできません。

夜、戻ります。

275a hope:2016/02/07(日) 00:02:07 ID:cEpBaIdo

「無限なる「神」というイメージは、神自身が私の心に植えつけられたものです。私はそれに感謝し、さらに大きく育て、表現してまいります。」(雅宣先生のFBより)

本当に『無限なる「神」のイメージを育て、それを表現していくこと』がわたしたち「生長の家」の信徒の使命なのでしょうか?
わたしは、雅宣先生のこのような難解なお言葉を拝読するたびに、すごく混乱してしまいますが、みなさんはいかがですか?

どうして、「私は神の子です。私はそのことに感謝し、神の子らしく生活します。(a hope)」ともっと「生長の家の教え」らしいわかりやすい表現でご教示くださらないのでしょう…。

ところで、

<<このスレッドは、同じ掲示板の「web誌友会」の参考になるような聖典やご高弟様の誤文章を紹介するための専門の板です。
原則として、web誌友会の指導講師や司会の方以外の方の投稿はご遠慮下さい。
どうしても投稿を希望される場合は、事前に、場合によっては事後に、講師、司会または管理人の許可を得て下さい。
許可のない投稿は、他の適当な板へ移します。>>

とこのスレッドの一番最初にトキさまが書いて下さってあります。

わたしは、現生長の家総裁であり、法灯継承者である雅宣先生のこのようなご思想が、
本来の「生長の家の教え」、つまり「生命の實相」の真理であるとはどうしても思えないのです。
また、従来の「教え」を現代風にアレンジされたものだとも思えません。
ですから、今回、このスレッドでそのわたしの疑問をぶつけさせていただきました。

本流関係の先生方、また生長の家の講師の方、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

277a hope:2016/02/13(土) 09:03:39 ID:cEpBaIdo

『悪とは善の非存在、または不足である。だから悪を語っても善は生まれない。私たちはもっと善を語り、表現する努力を続けなければならない。』(雅宣先生のFBより)


上の雅宣先生の善悪二元論を、生長の家の「実相一元」風に言いかえると、


『悪なし。だから語る悪もなし。「生命の実相」を悟れば、おのずと善一元の世界が現れるのである。』( a hope)


となりませんでしょうか?


現象世界で「悪」とみなされることや「善」とみなされることは、その時代やその国の風習で大きく異なります。


例えば、かつての日本では、切腹(自殺)が美徳とされていた時代があります。
ですが、現代においては、社会的にも、信仰的にも、自殺は決して「善」ではありませんよね?

また、あるカルト宗教の教祖は、殺人をも「善」とみなしていたからこそ、平然と信者に殺人を指示できたのだと思います。


肉食はどうでしょうか? 原発はどうでしょうか? 集団的自衛権の行使はどうでしょうか?北朝鮮問題はどうでしょうか?


何が「善」であるかを語るのはいいとしても、一成人が自己判断を放棄して、他人の「善」「悪」の判断に依存して行動するのはとても危険だと感じています。

谷口雅春先生は「生命の實相」の中で、『外の何かに依存せず、自分の中の神(実相)を信じなさい』と教えてくださっています。

わたしは、毎日「生命の實相」を拝読し、神想観をしていれば、わたしたちはしぜんにまことの善行がなせるようになるのだと心から信じています。

278曳馬野:2016/02/13(土) 12:00:46 ID:WCwkcPdg
『悪とは善の非存在、または不足である。だから悪を語っても善は生まれない。私たちはもっと善を語り、表現する努力を続けなければならない。』(雅宣先生のFBより)『悪なし。だから語る悪もなし。「生命の実相」を悟れば、おのずと善一元の世界が現れるのである。』( a hope)   あなたが感想というか真理を語っていないという総裁の言葉を取り上げるから私も述べます


八月六日 娑婆即寂光土と悟る日 けれども生長の家は世界には何ら非道なことは存在しないというのである。それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、それが「善」でない限りに於いて、それは如何に存在するように見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに過ぎないとするのである。・・・凡て心の眼を開いてみれば「悪」なるものは存在しない。これ第一にして最後の真理てある。

これは吉田国太郎講師が現象実相の二元論に落ちていたところを救ってくれた言葉であるそうです。これの言い替えたものが総裁の言葉でしょう。こんな言葉もある。「神のなかには不幸はない。不幸は神が完全に表現されていないからある。」

八月十日 善き言葉のみ使う日 「現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉の通りになる。」生命の実相六巻  『全ての人間の中には「自分」の念が映っている。彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念の鏡である。・・・私の責任ではないなどと云うのは、三界唯心の真理を撥無するものである。凡そ三界唯心の真理は『類は類を呼ぶ』の真理を伴うものなのである。・・・かくの如くして・・・自分の念の展開であるがゆえに、ただ「有難く受ける」ことである。』

悪なし。だから語る悪もなし。は言葉としてはそうなんですが、あなた自身が総裁を悪として語っていることに気が付いていない。「生命の実相」を悟れば、おのずと善一元の世界が現れるのである。は、自称本流の本部講師級の方々が私たちの真理の体得の方が正しいと「生命の実相」の真理を判定できるほどに、悟っているのに10年経っても善一元の世界は顕れていない。これは総裁の「だから悪を語っても善は生まれない。私たちはもっと善を語り、表現する努力を続けなければならない。」を実践していないからではないでしょうか。

彼らにしてそうですから、あなたの悟りを待つのでは何時のことやら。

『人の悪を咎めるよりも、自己が俱に泣くの愛の欠乏していることを恥じよ。「愛」の中にこそ聖泉がある。それは智慧が如何にきり開いても発見することの出来ないところの聖泉である。その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒やされるのである。』『人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った聲、憎む表情、そんなものを伴うならばこれを指摘しない方がよい。』との雅春先生の言葉もある。

279a hope:2016/02/14(日) 19:21:48 ID:cEpBaIdo

>>278 曳馬野さま

「聖典」等の文章を引用をされるときは、出典、著者を明記してください。
よろしくお願いいたします。

280a hope:2016/02/21(日) 09:33:35 ID:cEpBaIdo

『死は死にあらず、生の始まりである。腐敗は腐敗にあらず、豊饒の母である。病は病にあらず、生命の方向転換である。挫折は挫折にあらず、新たな機会の到来である』(雅宣先生のFBより)

「生命の実相(不生不滅?)」風に↓

『死なし、生命は生きとおしである。 肉体なし、腐敗なし 病なしが「生命の実相」である。挫折なし、人生は希望に満ちている』(a hope)



『命あるもののみが命を感じ、知恵あるもののみが知恵を感じ、愛あるもののみが愛を感じるのである。』(雅宣先生のFBより)

「唯神実相」風に↓

『人間はみな神の子だ、全てを生かし、すべてを知り、すべてを愛す。』(a hope)



『外界は内界の映しである。自然の営みの中に神の無限の知恵と愛と生命を感じる者は、その知恵と、愛と、生命力とを内部に包蔵しているのである』(雅宣先生のFBより)

↑理解不能です。



『一の拡大でなく、多の共存が美しいのである。単一性でなく多様性が美しいのである。自然界は多様であるから美しく、宇宙も多様であるから美しい。』(雅宣先生のFBより)

↑理解不能です。



『人生の「+」の時には「ー」の人がいることを思い、余剰分を他に与えよう。人生が「ー」に転じた時は、すでにある「+」に感謝し、さらに他に与えよう。』(雅宣先生のFBより)

「善一元」風に↓

『人生に「-」なし。すべての経験に感謝して魂を生長させるのが「生長の家の教え」である』(a hope)


『善とは、一つの個体が他を征服して伸び広がることではなく、個体と個体とが扶け合いながら共存し、全体の多様性が増すことである。』(雅宣先生のFBより)

↑理解不能です。



『常住不変、常に一定の結果を生むものを「真」という。神は真なり。泣きついて御心を曲げようと思うな。人間の側が神の御心に近づくことだ。』(雅宣先生のFBより)

「唯神実相」風に↓

『神は「真」なり。神の子も「真」なり。人間の実相は神そのものである』(a hope)

281a hope:2016/02/21(日) 09:35:03 ID:cEpBaIdo
>>280

雅宣先生のご文章は、常に「実相・現象」「善・悪」「人間・神」「真・偽」「+・-」…という二元的ご思想がベースになって表現されています。

ですが、本来の「生長の家」の教えは、神・実相以外なしの「唯神実相」であり、「実相一元」です。

Web誌友会板 >>6011 参照
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/6100-n

ですから、雅宣先生のご文章は本来の生長の家の教え(雅春先生の真理のお言葉)に茶々を入れたものだとわたしは思っています。

ですが、わたしは雅宣先生を「悪」であるとは思っていません。
雅宣先生はわたしたち「生長の家」のすべての信徒に何が本当の「生長の家の教え」であるかを、自ら考えさせてくださる貴重な機会をくださっている、

282a hope:2016/02/21(日) 09:36:35 ID:cEpBaIdo
>>281 つづき

大観世音菩薩さまだと思って、心から感謝しています。

283a hope:2016/02/21(日) 09:45:19 ID:cEpBaIdo

以下の聖典の文章に、何が「茶々」であるかの説明があります。

―――――――――――――――――――――――

薬剤に併用禁忌(きんき)の薬があります。

たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で「病気はない、老死はない、あるように見えても現象はない」と言いきるところに飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、その「ない」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、そのタンニンがせっかくの「ない」という言葉の鉄剤と結合して吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。


近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。

そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。

キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。

生長の家と、それらの宗教とどこが違うかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の開放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

―――――――――――――――――――――――

「生命の實相」第24巻 p97 2行目〜

284a hope:2016/03/02(水) 10:11:31 ID:cEpBaIdo

web誌友会板>>6118 6119の参考文献として「明鏡」さまのご投稿を紹介させていただきます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/6118-n

_______________


日時:2016年02月29日 (月) 14時17分
名前:明鏡



>新経本については、立場上、どうしても読まざるを得ない人もいます。

>そういう人に尋ねると、例えば、教化部で新経本を1回あげると、

>自宅に帰ってから甘露の法雨を2回以上は あげて、新経本の悪影響と

>甘露の法雨の功徳を相殺するという話も聞いています。



‘ 一緒に使う ’ と危険なものに、アルカリ性タイプの洗剤 と 酸性タイプの洗剤があります。

‘ 一緒に使う ’と  “ 有害な塩素ガス ” が出て、危険であります。

死亡した事例もありますので、洗剤の容器には、【 まぜるな 危険 】 と書かれています。


“ 人間は 自然の一部 ” という あやふやな「 新経本 」を読誦することは、

現象を捉えて 因縁因果の世界を呼び込むことになります。

現象を捉えていますから、焦点が定まらず、精神的な不安を引き起こしているように思います。


‘ 裁判 ’ や ‘ 争い ’ の念に満ちている心境で、書かれている「 新経本 」 は、

どうしても 潜在意識に 二元論が 「 新経本 」 の根底にあります。


やはり「 新経本 」の読誦は 中止するべきであります。

______________

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=150

285a hope:2016/03/02(水) 10:18:19 ID:cEpBaIdo

>>284 a hope所感)

わたしも経験がありますから、雅宣先生のご文章を雅春先生の説かれた「唯神実相」の真理と同じだと思って読むのはとても危険だと思っています。

信じれば信じるほど「迷い」が深くなり、なにか「真実」なのかわからなくなり気が狂いそうになりました。

それだけ、「真理」は神聖で穢すことのできないものだという証拠なのだと思います。

286トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/03/04(金) 17:41:25 ID:aj0ShO5U
>>284

 余談ですが、「新経本」が発売された当時、本部から教区へ、

 「新経本を読んで、何か奇蹟か体験が出たら、教えて下さい。」

と問い合わせがありました。後で聞いたら、他の教区や練成道場にも同じ問い合わせがあったみたいです。
おそらくは、全国の教区や練成道場に問い合わせがあったのでしょう。

 しかし、その後、機関誌にも普及誌にも、新経本を読んで、何か奇蹟か体験が出たという記事はついぞ掲載されませんでした。
と、言うことは、新経本を読んでも、どこにも奇蹟も体験もなかったと言うことかと思います。

 私の所属する教区でも、読んでいる人が悲惨な状態になったという事例を複数見聞しましたが、これについては、「偶然」という
ことで処理されてしまいました。

 仄聞するところでは、「新経本」を真面目に誦んでいる本部員の間に、いろいろと問題が広まっているみたいですが、これも
きっと「偶然」かと思います。

287るん吉:2016/03/13(日) 00:51:50 ID:Jo.00maY
a hopeさま
私は、雅春先生の本以外読みません。
そして、うぅぅうんと・・・家にある「生命の実相」や「真理」の本の中でも
どっちかというと・・横の真理っぽいことが書いてある部分より、実相独在的な部分、要するに根本真理の部分を好んで読んでます。
この「物質無し、現象無し、実相独在」この部分がもう耐えられないくらいの凄さ!なんですもの!
こんなすごいを書きてくださる方がいはるでしょうか?雅春先生は昭和5年?に書き始めてくださいました。
それ以前もそしてその後ももう何十年もたつのにここまでの真理を書いてくださる方は出てきません。
「自分は紙と同体だ」という説を書いてある本などは案外あるんですけどね。でも「物質無し」は考えもつかないのでしょうね、
その辺がうやむやですねんね。だから全然「うわぁー凄い」て、ならない。或は大体、心の法則 系統の本ですよね。
ちょっと前の「引き寄せ」なんかも単なる心の法則。マーフイの時代となんにも変わってないんですね。
とか何とか云いながら、実は私は祖父が亡くなってから、そう切羽詰まったことがなかったので
雅春先生の御本から離れてました。何年も。バカでした。前は必死で読んでたのに。
毎日読んでも「物質無し」は難しいのに・・今、猛省して読み始めてます。
a hope様のように毎日毎日拝読せねば。いつも毎日、毎日謹写ありがとうございます。
有難く思ってます。
>>雅宣先生のご文章を雅春先生の説かれた「唯神実相」の真理と同じだと思って読むのはとても危険だと思っています。
>>信じれば信じるほど「迷い」が深くなり、なにか「真実」なのかわからなくなり気が狂いそうになりました。

ほんとですね。読んだらダメですね。「奇跡」なぞ起こらない。「物質無し」「実相独在」がわかりやすく書いてない限り。

長々と何を書いてんにゃろ。ごめんなさいです。有難うございます!

288a hope:2016/03/13(日) 17:55:59 ID:cEpBaIdo

>>487 るん吉さま

うれしいご投稿をありがとうございます!

<<どっちかというと・・横の真理っぽいことが書いてある部分より、実相独在的な部分、要するに根本真理の部分を好んで読んでます。
この「物質無し、現象無し、実相独在」この部分がもう耐えられないくらいの凄さ!なんですもの!
こんなすごいを書きてくださる方がいはるでしょうか?雅春先生は昭和5年?に書き始めてくださいました。
それ以前もそしてその後ももう何十年もたつのにここまでの真理を書いてくださる方は出てきません。>>

わたしはこの掲示板で書き込みを始めた当初は「縦の真理」も「横の真理」もよくわかりませんでした。

でも、「生命の實相」や他の雅春先生の聖典を拝読していると、なぜか気分がよくなって、元気になってくるし、運気も上がってくるので、
「生命の實相」の波動がとてもよいというのは最初からわかっていましたが・・・。

ですが「生命の實相」を読み進めるうちにだんだん理解が深まってきて、その真理がわかってくると、
なぜ、波動がよいのかもわかるようになってきました。

それは、著者である谷口雅春先生が「縦の真理」である「唯神実相」「実相独在」を大悟されたまことの宗教者(覚者)だったからなんですよね!

谷口雅春先生だから、魂に響く「真理の言葉」が書けるのであって、頭で「真理」のしくみを理解しただけ人間がそれを真似てみようとしても絶対無理です。

無理どころか、(聖典にも説明がありますが)「真理」に茶々を入れることになって、その茶々の入った文章を読むと、
読んだ人の魂を迷わし、精神を不安定にして、運気も落とすことになってしまうようです。

今回、宇治別格本山の職員さんが亡くなられましたが、お仕事で雅宣先生の経本を読まれ精神を病んでいらしたそうですね。

雅春先生の「生命の実相」の真理だけを信仰されていたのならば、「生きとおしの生命」を信じられるはずですから、
間違っても自分から命を絶つようなことはしなかったと思います。

その方の純粋な信仰に「茶々」をいれられたためにおこった悲劇だと感じています。

宇治の職員さまのご冥福を心からお祈りしています。

289るん吉:2016/03/14(月) 09:00:15 ID:Jo.00maY
a hope さま

レスありがとうございます。
「物質無し、実相独在」これですよね。これ以外の説は気分が高揚しません。
悟るのは難しくても、だれでもこの「根本」の部分を読んだ時
絶対「うわーーす、すごい」ってちょっとした歓喜をあじわえる。はずですよね。
雅春先生の本8或は雅春先生の根本真理を把握した人が書いた本とかしか読まない。今藤原先生の本をよんでるのです)
そしてその本は死ぬまで離しません。死んでからも、です。離さないのです。
いつも謹写ありがとうございます、感謝してます。お体をご自愛くださいね。

290宇治大好きだった者:2016/03/14(月) 21:59:58 ID:xnscMkgM
あれほど多くの人を救い、教団を発展させ、宇治=K先生だったお方のご一家の
現況を仄聞しますと、真理とは?と悩んでしまいます。何を信じたら良いのか・・・

292a hope:2016/03/15(火) 00:27:07 ID:cEpBaIdo

>>290宇治大好きだった者さま

わたしも宇治が大好きでした。(過去形で表現するのが悲しいですが・・・)
そして、K先生(たぶん同じ方)も大好きです。

宇治の現状がどうであれ、K先生ご一家の現況がどうであれ、「真理」はなにも変わらないのではないでしょうか?

他に頼る信仰は、本物ではないと思います。

「生長の家」の聖典は「生命の實相」ですから、「真理」が知りたかったら聖典を拝読し自ら悟るしか方法はないと思います。

294トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:06:43 ID:lgv9ASqI
謹告

 web誌友会板が閉鎖されますと、『web誌友会参考文献板』の必要性もなくなってしまいますので、
代わりに、『web「生命の實相」輪読会参考文献』板を開設します。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板