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仏教
1
:
無名
:2010/06/12(土) 21:46:26
仏教に関して
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
2
:
無名
:2013/08/26(月) 22:10:50
霊供養 祖霊信仰 祖先崇拝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%85%88%E5%B4%87%E6%8B%9D
仏教 祖霊信仰 祖先崇拝
http://www.jiin.or.jp/turezure/senzo.htm
日本人の霊魂観には、死後まもない魂は、ケガレが多くそのままにしておいては、祟りやすく恐ろしいと言う観念が濃厚に存在していた事を前提にしなければならない
仏教の伝来に伴って、教理としての仏教と言うよりは、お経や念仏の力によって生前の罪を滅ぼす事が出来ると信じた
それは、仏教の『慈悲』の教えと共に、日本人の運命共同体の意識から出たものであろう
日本人は、死者の霊魂の存在を強く信じたのである。これを慰めたり、鎮めたりして、やがてその恩恵を受ける事を祈念する民族であった
仏教の説く『ほとけ』は、即ち覚者であり、正覚を得た者、悟りを得た者と、同列に無限・永遠・万能になった霊は、同じと解した
3
:
無名
:2013/08/26(月) 23:30:34
信仰を捨て去れ
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。(スッタニパータ 1146、中村元訳)
というような言葉は、もっとも旧い層に属する仏典に残されています。原始仏典研究の中村元氏も、仏教はもともと信仰なるものを説かなかった、と語られています。
「信仰を捨て去れ」という表現は、パーリ仏典のうちにしばしば散見する。釈尊がさとりを開いたあとで梵天が説法を勧めるが、そのときに釈尊が梵天に向かって説いた詩のうちに「不死の門は開かれた」と言って、「信仰を捨てよ」(pamuncantu saddham)という(Vinaya, Mahavagga, I, 5, 12)。この同じ文句は、成道後の経過を述べるところに出てくる(DN, XIV, 3 ,7)……。最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。(中村元『ブッダのことば』p.430-431)
そのため、神々への祈願や呪文、犠牲や祭祀、運命判断、胡麻たき、まじないなど、すべて神秘的な力に預かろうとする宗教的行為は、原始仏典の中ではことごとく否定されています。
たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいでよ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。・・・
たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、大勢の人々が集まり来て、「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。
(相応部経典42.6 増谷文雄訳)
4
:
無名
:2013/08/27(火) 04:29:18
読経は仏教ではない
http://www.shinrankai.or.jp/qa/qa0202.htm
葬式や法事の読経が、亡くなった人のためになるという信心は、世間の常識のようになっています。 しかし、そのような迷信を徹底的に打破なされたのが、実に、仏教を説かれた釈尊であったのです。 読経や儀式で死者が救われるという信仰は、もともと仏教にはなかったのです。
それどころか、そんな迷信を打ち破って、生きている時に、絶対の幸福に導くのが仏教の目的なのです。
まず、このような人たちは、お経が、どうしてできたのかということを全く知らないのです。 では、葬式や法事や読経は、全く無意味なことかといいますと、それは勤める人の精神の如何にかかっています。
5
:
無名
:2013/08/27(火) 04:37:09
「誰のためにお経をあげるのか?」
http://www.mgs-basket.com/?p=199
お経は、お釈迦様の説法(今なら講演)を、お弟子たちが後世のために書き残した、いわば講演録です。
お釈迦様は、死人相手に話をされたことはありません。もちろん、葬式も法事もされたことはないのです。
「でも、お経を読んだら、死んだ人が苦しみの世界から浮かぶと、みんな言いますよ」
常識のように言われていることですが、「常識=正しいこと」とは言えません。
読経で死者が救われるという迷信は、もともと仏教にはなかったのです。それどころか、そんな俗信を打ち破って、生きている時に、本当の幸福に導く教えが仏教なのです。
6
:
無名
:2013/08/27(火) 04:40:33
「葬式や法事は何のためにするの?」
http://www.mgs-basket.com/?p=201
葬式や法事を死者を救うためだと思ってすれば、迷信で終わります。
しかし心掛けさえ間違えなければ、葬式も法事も、有り難い仏縁とすることができるのです。
仕事も休んで親戚一同集まる貴重な時間。故人を縁として無常を念じ、真剣に仏法を聞かせていただくご縁にしなければ、もったいないことです。
またそれが、最も亡くなられた方の喜ばれることになるのです。
亡き先祖が何を望んでいるか。
それはあえて、亡くなった先祖を呼び出して尋ねてみるまでもなく、私たちが子供に何を望み願っているかを考えてみれば分かります。
それは「正しく生きよ、幸福になれかし」ということしかありません。
そうと分かれば、私たちが正しく生き抜き、”よくぞ人間に生まれたものぞ”という生命の大歓喜を得ることこそ、最も親に対して、先祖に対しての恩返しということになります。
では、正しく生き抜き、真実の幸福を得るにはどうすればよいのか。それを教えられているのが、真実の仏法なのです。
7
:
無名
:2013/08/27(火) 23:58:54
ブッダの教えは私たちが知っている仏教とかなり違います。
http://www.geocities.jp/kytyparis/kyty9.html
大乗仏教は釈迦(ブッダ)が説いた根本仏教ではありません。釈迦は、仏陀になるための修行法を説いたのであって、仏を神様のように信仰することを説いたのではありません。 またブッダは死後生の「霊魂や輪廻や仏性」については無記、つまり答えていません。なぜならブッダはあくまで現世における苦しみの克服をめざしたのであり、輪廻の主体が何であるかとか、自己の本性は有限なのか無限なのかといった観念的な議論や形而上学的な問題については、「我ナシ」の価値観ですから、測る物差しがないのです。したがってブッダは沈黙しました。(中村元・ブッダの人と思想P183)
来世や極楽浄土の存在については何も言っていない。それらは後世の人が創作したものです。「生まれ変わり」というものは、肉体と別個の何らかの主体、つまり「霊魂」を想定しています。しかし、ブッダは無常・生滅縁起・無我、永遠に変滅しない実体は一切存在しないと説いた。そうすると、一体輪廻する主体「霊魂」とは何か、となります。ブッダは当時の常識であるバラモン輪廻思想に対して、無記という消極的なものであったればこそ、自ら主張した「無我」という偉大な考えと矛盾なく整合性をもって、教えを人々に説き示すことができたのです。
ブッダは自分の正当性を誇張したり、信仰を強要したり、教祖的に大言壮語したりするような方ではなく、ただ「真理」という一条の光に向かって自ら進み、また弟子たちの自覚を促し、修行への熱意を奮起させるようなアプローチをされていた人でした。ブッダが説いたものは宗教ではなく、哲学でもなく、真理そのものでした。
「たとえ末端の修行僧でも、堕落から身を守れば、聖者の流れに入り、現世において、至高の智慧に到達できる」と説きました。他力ではなく自力を説いています。
「さあ、皆にもう一度思い出させよう。一切の事象は過ぎ去るものであることを。(自分を信じて、戒を守り)怠ることなく(無我と無所有で)修行に励みなさい」(自灯明・法灯明)これがブッダの最後の言葉でした。
日本仏教 中国経由で輸入した日本の各宗祖師たちは、その大乗仏教を誤ってブッダの仏教であると信じました。日本の仏教では、戒律はまったくと言っていいほど重要視されていません。小乗仏教では無我と無所有が根本ですが、日本仏教では中観・中道と唯識・心が主流となっています。日本では仏法僧の三宝を信じて帰依することが戒です。三帰依という精神的な戒めです。戒よりも信心、つまり信が徹底すればおのずと戒が身に備わってくるであろうと期待するわけです。例えば、浄土真宗では戒律を認めていません。日蓮宗においても信者に戒を授けることはない。戒名ではなく法名となります。それ以外の宗派は戒名ですが、戒律は大乗戒というゆるゆるの戒律です。またブッダはお題目や念仏など祈りで苦の問題が解決しするとは言っていません。日本仏教は小乗仏教とは極めて大きな差があります。
8
:
無名
:2013/08/31(土) 04:37:14
魂や霊魂や来世、過去世 はあるか。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、もっと根本的な批判だったのです。つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。
素晴らしいかな大徳、素晴らしいかな大徳、たとえば、倒れたるものを起こすがことく、覆われたるを現すがごとく、迷えるものに道を示すがごとく、あるいは、暗闇の中に燈火をもたらして、「眼あるものは見よ」というがごとく、世尊はさまざまな方便をもって法を示したもうた。
(増谷文雄、『新しい仏教のこころ』、講談社、71頁)
この定型句によれば、ブッダの教えは、それを聞いた人々にとって、「眼あるものは見よ」というがごときだったと言うのです。それがブッダの教えを聞いた人々の印象だったのです。つまり、ブッダは、人知でははかりえない神秘的なことを権威的態度で「信じよ」と説いたのではなく、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。同じような定型句として、また、次のようなものもあります。
教法は世尊によりて善く説かれた。すなわち、この教法は、現に証せられるもの、時を隔てずして果報あるもの、来り見よというべきもの、よく涅槃に導くもの、知者がそれぞれに自ら知るべきものである。
(同上、74頁)
ブッダの教えは、「現に証せられるもの」、つまり、現実の世界で実証できるものであり、「時を隔てずして果報あるもの」、つまり、未来の果報を約束するものではなく、今ここでその結果が現れるものであり、また、上記と同じように、「来り見よというべきもの」、つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。それが、ブッダの教えに感動した人々の印象でした。このようなブッダの教えに感動した人々の印象は、神秘的形而上学的な問題に対するブッダの沈黙という態度とまったく一致するものです。
9
:
無名
:2013/08/31(土) 07:06:58
如来蔵思想は仏教ではない(松本史朗)
http://fallibilis
m.web.fc2.com/001.html
『涅槃経』の有名な「一切衆生は、仏性をもつ」という経文は、“一切の生きものは、仏に成ることができる”という意味に解されたり、果ては、仏教の平等思想の宣言だとまで解釈されることがあるが、簡単にそのように考えることのできない問題を有している。というのも、『涅槃経』に多く現れる「一切衆生は、仏性をもつ」という経文の後には、必ず「一闡堤(いつせんだい)(icchantika)を除く」という語が付加されていて、“「一闡堤」と呼ばれるある種の人々は、永久に仏に成ることができない”という差別的な立場が明記されているからである。
仏教の開祖である釈尊は「縁起」を説いた、つまり、“仏教”とは縁起説であるが、この縁起説とは、ヒンドゥー教の「アートマン」(a(_)tman 我)〔霊魂〕の思想を根底から否定したものである。従って、“仏教”としての縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、これが仏教の旗印ともなる。しかるに、これに対して、「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』には「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠不変の実在である」と明記されているのである。従って、如来蔵思想の「我の思想」、「有の思想」が仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場であることは明らかである。
“釈尊は呪術を禁じた”という伝承は多くの律蔵に認められ、呪術否定が原始仏教の基本的な立場だと思われるが、「空の思想」を説くとされる大乗経典『般若心経』の末尾には、「羯諦羯諦(ぎやていぎやてい)」(gate gate)云々という呪文があり、これを『般若心経』自体では「呪」(mantra)と呼んでいる。ここで「呪」と訳された「マントラ」という語は、一般には「真言」と漢訳されることが多いが、本来はヒンドゥー教最古の宗教文献であるヴェーダ(Veda)聖典本集の聖句を意味していたのである。つまり、『般若心経』は、「五蘊皆空」とか「色即是空」とかの経文においては、「一切法は空である」という「空の思想」を説いているが、最も重要なその末尾の部分において、ヒンドゥー教の「マントラ」という呪術的世界に全面的に没入しているのである。
10
:
無名
:2013/09/02(月) 20:43:14
施餓鬼(せがき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E9%A4%93%E9%AC%BC
由来
目連の施餓鬼は「盂蘭盆経」によるといわれる。この経典によると、釈迦仏の十大弟子で神通第一と称される目連尊者が、神通力により亡き母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていた。目連は神通力で母を供養しようとしたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できない。目連尊者は釈迦に何とか母を救う手だてがないかたずねた。すると釈迦は『お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちた』として、『多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、ご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。』と言った。目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われた。これが盂蘭盆の起源とされる(ただしこの経典は後世、中国において創作された偽経であるという説が有力である)。
これに対し、阿難の施餓鬼は「救抜焔口陀羅尼経」に依るものである。釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。これが施餓鬼の起源とされる。
この2つの話が混同され、多くの寺院において盂蘭盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれる。
11
:
無名
:2013/09/02(月) 20:44:33
盂蘭盆経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86%E7%B5%8C
盂蘭盆経(うらぼんきょう)は、『父母恩重経』などと同様に、中国で孝の倫理を中心にして成立した偽経である。釈迦十大弟子の一人である目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母を救うために衆僧供養を行なったところ、母にも供養の施物が届いた、という事柄が説かれている。死者に対する廻向の思想そのものはパーリ語経典『餓鬼事経』にも見られる。
12
:
無名
:2013/09/02(月) 23:44:00
偽経 中国撰述経典 日本撰述経典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E7%B5%8C
偽経(ぎきょう)、疑経あるいは疑偽経とは、中国や日本などにおいて、漢訳された仏教経典を分類し研究する際に、インドまたは中央アジアの原典から翻訳されたのではなく、中国人が漢語で撰述したり、あるいは長大な漢訳経典から抄出して創った経典に対して用いられた、歴史的な用語である。「中国撰述経典」という用語で表現される場合もあるが、同義語である。 また、日本人による日本撰述経典の場合も敷衍して偽経ということがある。
東晋(317年〜420年)の釈道安(314年〜385年)『疑経録』に始まるとされる、偽経あるいは疑経として認定された経典類は、経録中で「疑経類(偽経類)」として著録され、それらは大蔵経に入蔵されることはなかった。それに対して、正しい仏典として認定されたものは真経として、大蔵経の体系を形成することとなった。
大蔵経 だいぞうきょう
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%B5%8C
仏教聖典を総集したもの。〈一切経(いつさいきよう)〉〈三蔵(さんぞう)〉とも呼ぶ。元来,〈大蔵経〉の呼称は漢訳の〈三蔵〉に若干の中国人の撰述書を加えたものを指したが,現在ではその他の国語によるものも広く総称する。すなわち,漢語のほかに,パーリ語,チベット語,モンゴル語,満州語のものがあり,西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じて扱われる。また,元来は〈大蔵経〉に編入される書物の基準は厳格に決められ,それ以外のものは〈蔵外(ぞうがい)〉と称されたが,近年日本で編纂されたものでは,より広範囲のものも含めている。
13
:
無名
:2013/09/02(月) 23:52:18
一切経 法華経
http://enlighten.fc2web.com/jigage.html
お釈迦様の説かれた膨大な一切経で、法華経以外のお経は随他意のお経といって、相手の機根に合わせて説かれたお経で、法華経のみが随自意のお経として、つまり釈尊のお悟りそのものを相手に合わせるのではなく、釈尊の御心のままに説かれました。
さらに法華経において「世尊は法久しくして後、かならずまさに真実を説くべし。」「正直に方便をすてて、ただ無上道を説く。」「わが説くところの諸経、しかもこの経において法華最も第一なり。」………等、つまり法華経は釈尊の悟りそのものであり、そこには最高の真理が説かれているわけです。
中でも如来壽量品第十六に、釈尊の壽命は始まりも無い久遠の昔より未来永劫まで無量であり、今も常に滅せず我々衆生を仏道に入らしめ、仏に成らしめんと大慈大悲で教え導いてくださっているということが説かれています。そのことを心から一念でも信じるとその功徳ははかることができないともあります。悟りを開くために永い間にわたり布施などの修行を積んだ功徳も、釈尊の寿命が無量であることを聞いて一念も信ずる功徳に比べるなら、百千万億分の一にも及ばずとあります。
14
:
無名
:2013/09/03(火) 03:42:45
南無阿弥陀仏って、正しいの?間違ってるの?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3355705.html
仏教をいろいろ調べてみたところ、三蔵の量が莫大すぎて、また宗派がわかれすぎて、どれを信じたらいいのかわかりません。
また、いろいろな経の中に、「この経が最高である」という表記があるようで、判断に困っています。
日蓮と法然が、一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。
逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
(たとえば、親鸞、竜樹、世親、天台、伝教、空海、空也、カタエンニシ、などなど)
法然上人は五回一切経を読み、大切だと思うところをそこから三度読み直したといわれています。
法然上人が一切経を読破したという記述は『醍醐本』の中に載っています。
「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」というような、浄土に生まれてはい終わりというのでは不十分です。極楽浄土は死んだ後行けるパラダイスではなく、死しても自分を高めて悟りを開こうという修行上のニュアンスが強いように思います。
15
:
無名
:2013/09/04(水) 00:58:56
自灯明・法灯明
http://www.geocities.jp/chandi1813/ess20jitoumyou.html
弟子のアーナンダにとって、生についての根本的な教えを説き、そして常に自分を教え導いてくれる釈尊は、
彼が心から頼りとする偉大なる師であったのでしょう。
自分が心から頼りとし、自分を教え導いてくれるその師が亡くなってしまったならば、
そのあと自分は、誰から教えを受け、どうやって生きていったらよいのかと、彼は途方に暮れてしまったようです。
そのようなアーナンダの問いに答えて、仏陀は、
「私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ。」と、仏教において重要な教えを説いたのです。
アーナンダ 阿難
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%9B%A3
釈迦の十大弟子の一人。多聞第一と称せられた。
十大弟子の1人アーナンダでさえも、仏教の真理を得ていなかった。
仏道とは 自ら思惟し清め真理に至ることが眼目なのであり、師が居ようが居まいが無関係。 言わば、万物が師である。
16
:
無名
:2013/09/04(水) 00:59:32
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、
「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである」
と説法したとされる。これが「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教えである。
17
:
無名
:2013/09/04(水) 01:01:10
自灯明・法灯明
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/gensi2.html
ブッダは旅の途中でヴェーサーリー近辺のベールヴァ村で病に伏した。その時侍者アーナンダ(阿難、ブッダの従弟)は不安と期待に心が揺れた。アーナンダ(阿難)はブッダに近侍していたにもかかわらず「まだ悟りを得て」いなかった。「このままブッダが死去したら自分はどうしたらよいのか」という不安である。期待とは「ブッダが死ぬ前に何か秘密のすばらしい教えを自分だけにこっそり教えてくれるのではないか」という期待感であった。当時のインドでは死の直前に、秘密の教えを特別の弟子にこっそり教える師がいたためである。
このようなアーナンダの心を読んで、ブッダは次のように言う。「アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とか思うところがない。
向上につとめた人が一切の相を心にとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
1.ブッダの教えには握拳(秘密の教え)はない。
2.ブッダには「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」という考えがない。
3.この世で自らを島とし自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
4.心を始め諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気を付けて、念じていて、貪欲と憂いを除くべきである。
の4つである。
1はブッダの教えには秘密の教えはないことを言っている。しかし大乗仏教では秘密の教えを強調し始める。後期大乗仏教である密教はその秘密の教えである。そこにはブッダが禁止した呪術やマントラが麗々しく取り入れられている。
2のブッダの言葉はブッダが無我の教えを完全に自分のものにしていたことを示している。普通新興宗教の教祖は「死ぬ前にその教団をいかにして発展させ、その教勢を保持するか」に腐心する。「後継者を指名したり、有力な弟子達に教団の維持発展について」言い残す。しかし、この経典を読む限り、ブッダには自分が創設した教団に対する我執や<我がもの>という我欲の思いがなかった。我執を去る、わがものという思いを捨てる<無我の思想>は仏教の核心である。教祖自身が完全に自分のものにしていたことが分かる。
3の「この世で自らを島とし自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」 という言葉は<自帰依>、<法帰依>の教えとして有名である。 <自帰依>、<法帰依>の教えはブッダの教えの核心をなすと言えるだろう。 ここで、ブッダは「他のものをよりどころとせずにあれ」と言っていることが注目される。
この言葉は「神や神々へのを信仰して生きる」ことも否定しているからである。ここには神や諸仏への信仰は何も説かれていない。これはブッダの教えがいかに時代を超えた合理的なものであったことを示している。
4でブッダは「心を始め諸々の事象について熱心に、よく気を付けて観察し、貪欲と憂いを除くべきだ。」と言っている。
客観的観察の姿勢は科学者(特に実験科学者)の姿勢である。ブッダは現代の科学者にも通じる合理的心性を持っていた人だと分かる。 キリスト教やイスラム教など他の高等宗教では自己への帰依は説かない。唯一神への絶対的な帰依を説く。 これと反対に、ブッダは神などの超越者に帰依することではなく自己と法(理法=真理)に帰依する道を説いているのだ。
マハー・パリニッバーナ経はブッダの最後の教えとして「法帰依」と「自帰依」を伝える経典として有名である。 「わたしは自己に帰依することをなしとげた。」という言葉は、 「自帰依」の教えをブッダ自身が実践し、なしとげたことを高らかに表明していることが分かる。
18
:
無名
:2013/09/04(水) 01:36:23
自灯明、法灯明
http://www.myourenji.com/tomoshibi/sa/397.html
お釈迦さまがご往生をむかえられた時のことです。お弟子たちは、お釈迦さまが亡くなられたら、さてあとは誰をたよりにしたらよいかと心配しました。そのことを気づかれたお釈迦さまは「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよ」(涅槃経)と語られました。これが「自灯明、法灯明」の教えです。
とかく私たちは、人の言ったことに左右されがちです。とくに権威ある人の言葉に追随しがちです。その方が安易だからです。しかし、結局、「信用していたのにだまされた」ということがしばしばです。人間が人間を信じるということは危険をともなうことなのです。だから、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、何が正しいかを見定めることのできる自分を確立せよということを、「自らを灯明とせよ」と教えられたのです。
それでは、私たちは何を根拠に正しいと判断すればよいのでしょうか。それを「法を灯明とせよ」と教えられたのです。法とは、物ごとの本当のあり方のことです。たとえば、すべてのものは変化し、永久に続くものではありません。この事実が無常という真理なのです。この疑いようのない真理を法といいます。
このことは誰でも認める真理ですが、この明白な事実でも、自分自身のこととなると素直に認めようとはしません。他人は死んでも自分はいつまでも元気でいると思っています。これが迷いなのです。自分だけは例外だと無意識に思いこんでる誤りに気づき、迷いから抜け出すには、この法に根拠をおき、法に教えられ、自分自身が目覚めるよりほかに道はないのです。そこを「自灯明、法灯明」と教えられました。
二月二十五日はこの説かれた涅槃会(お釈迦さまの命日)なのです。
19
:
無名
:2013/09/04(水) 01:46:16
自灯明法灯明 洲
[PDF]自灯明・法灯明(自帰依・法帰依、自洲 ・法 洲 など)
http://ponto.cs.kyoto-wu.ac.jp/~akimoto/JikieHokie_Nakamura_Haya.pdf
20
:
無名
:2013/09/04(水) 05:36:57
【法悦】涅槃会 お釈迦さまのご入滅
自灯明 法灯明|今月の法話|京都花園 臨済宗大本山 妙心寺 公式サイト
http://www.myoshinji.or.jp/houwa/houwa_01/201202.html
他の教えをよりどころとしてはならない
21
:
無名
:2013/09/04(水) 06:13:01
第9章 原始仏教:その2
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/gensi2.html
例5 マントラ(神呪、陀羅尼)に対するブッダの態度
古くヴェーダの宗教的儀式においてマントラ(真言、呪)が神歌として用いられた。マントラはバラモン出身の修行僧によって仏教に持ち込まれた。ブッダは始めこれを禁じた。後に毒蛇を避けたり、歯痛・腹痛を治療させるための呪は方便として使用を許したと考えられている。
この例にもブッダの科学的合理的態度は読みとれる。後に大乗仏教や密教がダーラニー(陀羅尼、神呪)を取り入れたのはブッダの本意とは異なると考えて良い。紀元一世紀に諸仏を信仰する大乗仏教が誕生する。
初期仏教僧(出家修行僧)の少欲知足を理念とする修行生活は「頭陀行(ずだぎょう)」と呼ばれる。
1.糞掃衣支(ふんぞうえし): ぼろ布を綴り合せた衣を着用する。
2.三衣支(さんねし): 大衣、 上衣、 大衣、だけを着用する。2.三(さん)衣支(ねし)。 大衣、 上衣、 大衣、だけを着用する。
3.常乞食支(じょうこつじきし): 食は乞食のみによって得る。招待の食事はとらない。
4.次第乞食支(しだいこつじきし): 家を順にまわって乞食する。好みの家を選ばない。
5.一坐食支(いちざじきし): 坐をいったん立ったらもう食事をしない。
6.一鉢食支(いっぱつじきし): おかわりしない。
7.時後不食支(じごふじきし): 食事は午前中一回のみ。
8.阿蘭若住支(あらんにゃじゅうし): 人里離れたさびしいところに住む。
9.樹下住支(じゅかじゅうし): 大樹の下に住む。
10.露地住支(ろじじゅうし): 床の上や屋根の下には住まない。露地の上に住む。
11.塚間住支(ちょうげんじゅうし): 死体捨て場に住む。
12.随所住支(ずいしょじゅうし): たまたま手に入れた座具や場で満足する。
13.常坐不臥支(じょうじふがし): いつも坐ったままでおり、決して横にならない。
大乗経典には阿弥陀如来や薬師如来、観世音菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩など多くの仏や諸菩薩が登場する。しかし、大乗経典で創作されたそのような諸仏・諸菩薩は原始仏典には登場しない。
ブッダは大乗経典に登場する諸仏・諸菩薩を説いていないのである。ブッダの死後500年の間に仏教に何か大きな変化があったと考えるしかない。
多くの高僧達の伝記を読むと、彼等は例外なく慎み深い。自我への執着を離れているからであろう。 マハー・パリニッバーナ経で見たようにブッダには教団の指導者である(自分が指導している)という意識を持たなかった。 教団の創始者であるという意識はあったろうが教団は我がものであるという意識はなかった。 教主として教団への執着はなかったから、死後の教団維持についてもブッダには執着心はなかったのである。 ブッダ以降、インドの仏教教団には、教団の実質的な指導者はいたかも知れないが、代々の指導者を立てることはなかったのである。
22
:
無名
:2013/09/04(水) 06:22:14
http://www.geocities.jp/chandi1813/ess20jitoumyou.html
アーナンダにとって、生についての根本的な教えを説き、そして常に自分を教え導いてくれる釈尊は、彼が心から頼りとする偉大なる師であったのでしょう。自分が心から頼りとし、自分を教え導いてくれるその師が亡くなってしまったならば、そのあと自分は、誰から教えを受け、どうやって生きていったらよいのかと、彼は途方に暮れてしまったようです。そのようなアーナンダの問いに答えて、仏陀は、「私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ。」と、仏教において重要な教えを説いたのです。
真意は、「自己の裡のアートマン(真実の自己、神我)を拠りどころとし、ダルマ(理法、ブラーフマン(究極絶対神))を拠りどころとせよ」ということだったでしょう。
23
:
無名
:2013/09/04(水) 06:47:58
「自らを灯とせよ」
http://www.ccv.ne.jp/home/osagami/text8-10.html
お釈迦さまが晩年に病気にかかられたときのことです。お弟子たちは、お釈迦さまがなくなられたら、あとは誰れをたよりにしたらよいだろうかと心配しました。そのことに気づかれて、お釈迦さまは、
「自(みずか)らを灯明(とうみょう)とし、自らをたよりとして、他をたよりとせず、法(ほう)を灯明(とうみょう)とし、法をたよりとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と語られたといいます。「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」の教えとして、有名なお言葉です。
とかく私たちは、人の言ったことに左右されがちです。とくに権威(けんい)ある人に追随(ついずい)して、自分で考え、自分で何が正しいかを見定めようとはしません。実はその方が安易(あんい)だからです。しかし、結局、「信用していたのにだまされた」ということになりがちです。人間が人間を信じるということは危険性をともうことなのです。人の言葉を鵜呑(うの)みにして頼るのではなく、何が正しいかを、はっきり見定めることのできる自分を確立してゆくことが、大切であることを、お釈迦さまは「自らを灯明(とうみょう)(ともしび)とせよ」と教えられたのでした。
それでは、私どもは何を根拠(こんきょ)に正しいと判断すればいのでしょうか。それをお釈迦さまは「法を灯明(とうみょう)(ともしび)とせよ」と教えられたのです。法とは、物ごとの本当のあり方のことです。たとえば、すべてのものは変化し、永久に続くものは一つとしてありません。この事実が無常という真理なのです。この疑いようのない真理を法といいます。
また、すべてのものは依(よ)りあって成り立っています。この事実が「縁起(えんぎ)」という法です。これらのことは誰れでも認める真理ですが、しかし、私たちはこの明白な事実でも、自分自身のこととなるとなかなか認めようとしません。他人は死んでも、自分はいつまでも元気でいると思っています。これが、迷いそのものなのです。私たちが自分だけは例外だ、と無意識に思いこんでいる誤りに気づき、迷いから抜け出すには、この法に根拠をおき、法に教えられて、自分自身が目覚(めざ)めていくことが大切です。そのことをお釈迦さまは「自らを灯明(とうみょう)(ともしび)とせよ」と教えられたのです。
24
:
無名
:2013/09/04(水) 06:50:14
自灯明・法灯明
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/gensi2.html
2.ブッダには「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」という考えがない。
普通新興宗教の教祖は「死ぬ前にその教団をいかにして発展させ、その教勢を保持するか」に腐心する。「後継者を指名したり、有力な弟子達に教団の維持発展について」言い残す。しかし、この経典を読む限り、ブッダには自分が創設した教団に対する我執や<我がもの>という我欲の思いがなかった。我執を去る、わがものという思いを捨てる<無我の思想>は仏教の核心である。教祖自身が完全に自分のものにしていたことが分かる。
25
:
無名
:2013/09/04(水) 06:56:16
「自らを灯とせよ」
http://www.ccv.ne.jp/home/osagami/text8-10.html
私たちは、人の言ったことに左右されがちです。とくに権威(けんい)ある人に追随(ついずい)して、自分で考え、自分で何が正しいかを見定めようとはしません。実はその方が安易(あんい)だからです。しかし、結局、「信用していたのにだまされた」ということになりがちです。人間が人間を信じるということは危険性をともうことなのです。人の言葉を鵜呑(うの)みにして頼るのではなく、何が正しいかを、はっきり見定めることのできる自分を確立してゆくことが、大切であることを、お釈迦さまは「自らを灯明(とうみょう)(ともしび)とせよ」と教えられたのでした。
それでは、私どもは何を根拠(こんきょ)に正しいと判断すればいのでしょうか。それをお釈迦さまは「法を灯明(とうみょう)(ともしび)とせよ」と教えられたのです。法とは、物ごとの本当のあり方のことです。たとえば、すべてのものは変化し、永久に続くものは一つとしてありません。この事実が「無常」という真理なのです。この「疑いようのない真理」を「法」といいます。
26
:
無名
:2013/09/04(水) 18:28:49
如来蔵思想は仏教ではない(松本史朗)
http://fallibilis
m.web.fc2.com/001.html
仏教の開祖である釈尊は「縁起」を説いた、つまり、“仏教”とは縁起説である、というのが筆者の理解であるが、この縁起説とは、ヒンドゥー教の「アートマン」(a(_)tman 我)〔霊魂〕の思想を根底から否定したものなのである。従って、“仏教”としての縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、これが仏教の旗印ともなる。しかるに、これに対して、「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』には「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠不変の実在である」と明記されているのである。
従って、如来蔵思想の「我の思想」、「有の思想」が仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場であることは明らかであり、この意味で筆者は、“如来蔵思想は仏教(縁起説)ではない”と論じるのである。
27
:
無名
:2013/09/04(水) 19:59:09
「われを善き友として」(増谷文雄)
http://fallibilis
m.web.fc2.com/012.html
ブッダがサキャ(釈迦)族のすむある村にいた時のこと、侍者のアーナンダ(阿難)がこのような質問を提した。「大徳よ、よくよく考えてみると、われらが善き友をもち、善き仲間のなかにあるということは、すでにこの聖なる道のなかばを成就したにひとしいと思われる。このことはいかがであろうか」
このような質問を提したアーナンダは、おそらく、善き友をもつことの重大さが、ようやく身にしみてわかってきたところで、その重きことは、このくらいに考えてもよいかと問うたのであろう。しかるに、ブッダはその考え方を否定して、それは「なかば」どころではない、この道の「すべて」であるということであった。そして、その例証をつぎのように語った。
「アーナンダよ、それはこのことを考えてみてもわかるではないか。人々は、わたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより自由になることができる。病まねばならぬ身にして病いより自由になることができる。また、死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になることができる。アーナンダよ、このことを考えても、善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてであるという意味がわかるではないか」 そこでは、まず、ブッダが、その弟子たちにたいして、自分自身を「善き友」といっていることが注意されねばならぬ。
28
:
無名
:2013/09/04(水) 20:03:50
仲間が仲間にたずねるようにたずねなさい(『大パリニッバーナ経』)
http://fallibilis
m.web.fc2.com/045.html
修行僧たちよ。(そのときには)問いなさい。あとになって、〈わたしたちは師に目のあたりお目にかかっていた。それなのにわたしたちは尊師に目のあたりおたずねすることができなかった〉と言って後悔することの無いように」と。 このように言われたときに、かの修行僧たちは黙っていた。 再び尊師は…乃至…三たびも尊師は告げられた。
「修行僧たちよ。お前たちは師を尊崇するが故にたずねないということがあるかもしれない。修行僧たちよ。仲間が仲間に(たずねるように)たずねなさい。」
このように言われても、修行僧たちは黙っていた。
六 そこで若き人アーナンダは尊師にこのように言った。 「尊い方よ。不思議であります。珍らしいことであります。わたくしは、この修行僧の集いをこのように喜んで信じています。ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関し、一人の修行僧にも、疑い、疑惑が起っていません。」 「アーナンダよ。お前は浄らかな信仰からそのように語る。ところが、修行完成者には、こういう智がある、〈この修行僧の集いにおいては、ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関して、一人の修行僧にも、疑い、疑惑が起っていない。この五百人の修行僧のうちの最後の修行僧でも、聖者の流れに入り、退堕しないはずのものであり、必ず正しいさとりに達する〉と。」
七 そこで尊師は修行僧たちに告げた。───
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。
(『大パリニッバーナ経』第六章第五 〜 七詩、中村元訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)、岩波書店、1980年、pp. 156-158)
29
:
無名
:2013/09/05(木) 06:48:35
神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
http://fallibilis
m.web.fc2.com/046.html
みずからの中に本来もっている聖なるものを見つけ出すためには、理性はまったく役にはたたない。いくら経典とか論書を学んでも、すばらしい講義を聞いても、どれほど苦しい行を積み重ねても、悟りに入る直接の原因とはならないのである。 それぞれの人はみんな仏性という宝を、みずからの内に秘めている。平常は煩悩という雲に覆われて、それが自覚されることは少ない。みずからの内にひそむ宝に気づき、それを見出す最も有効な方法は、密教ではヨーガ(瑜伽)の観法なのである。
ヨーガの観法は、みずからが修することが必要であるが、そのためには、宗教体験を積んだ師匠から、その方法が伝授されねばならない。このような意味から、神秘主義的な傾向をもつ宗教は、宗教的な生活だけではなく、日常生活においても、師に対して絶対的な服従を求めるのである。
古代インドにおいても、ヴェーダとかウパニシャッドの秘儀は、師と弟子とが相対して直接伝授されるたてまえとなっている。ウパニシャッド(upanis・ad)というサンスクリット語は、もともと「師匠の近くに坐す」という意味をもち、秘儀の伝授のありかたを示す言葉でもある。サンスクリット語では、師匠を意味する言葉は「グル」(guru)という。それはもともと、「重い」とか「尊敬すべき」という形容詞で、それからさらに名詞に転じたものである。尊敬に価する人という意味で用いられる。
(松長有慶『密教』(岩波新書・新赤版179)、岩波書店、1991年、pp. 95-96)
--------------------------------------------------------------------------------
インドの後期密教では、一切の世俗的な倫理に対しては大胆に挑戦し、否認するが、ただ師匠に対する非礼だけは絶対許さない。一般社会の倫理、道徳だけではなく、殺、盗、淫、妄語等の仏教の戒律を徹底して無視し、それらに反逆する姿勢が貫かれている中で、師匠に対する非礼の行為をきびしく禁ずる記述は、かなり異様な感じがしないでもない。しかし神秘的な宗教のありかたを示すという点ではきわめて特色をもち、興味深い記述といってよいであろう。 (同上、p. 97)
30
:
無名
:2013/09/05(木) 07:34:09
創価学会では教団内に権威主義が保持されている(島薗進)
http://fallibilis
m.web.fc2.com/056.html
霊友会や創価学会では、ときに強力な集団的統合が実現している。 もっともそもそも宗教的な向上を実現するためには、上位者の権威に無条件に従う場面が生じることは当然のことであるが、権威への従順が宗教的指導の範囲を超え、生活のすみずみにまで及んでいるようにみえるのである。とくに創価学会の池田名誉会長崇拝にはそうした傾向が強い。このような自立の抑制はどのように正当化されているのだろうか。
両教団の場合、教団および単位組織(とくに後者)の指導的位置に立つ人々は、多くの回心者を得たとか多くの信徒を有効に動員したというような実績をもつ人々であることが多い。業績主義、達成主義の論理がかなり強力に働いている。
(島薗進「新宗教の大衆自立思想と権威主義─昭和期の教団を中心に」、島薗進編著『何のための〈宗教〉か? 現代宗教の抑圧と自由』、青弓社、1994年、pp. 221-222)
31
:
無名
:2013/09/05(木) 07:52:47
弟子ならば、師匠に対し異体同心で、言われるがままに、何らの疑問を持つこともなく、
丸呑みで、上意下達で従うのは当然なのかも知れませんが、 自分の頭で考えることを否定したら、師匠を越えることは、有り得ませんよね?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10101837560
それ以前に、自分で考えて簡単に越えられるなら師匠なんか
いらんだろ(笑)
dakara_daisuki_dayo_to_meさんとは
http://my.chiebukuro.yahoo.co.jp/my/dakara_daisuki_dayo_to_me
33
:
無名
:2013/09/06(金) 05:59:26
http://kikoubunka.jugem.jp/?eid=295
釈迦は護摩も否定していた。これはバラモンの呪術から真言密教などに伝わったものである。釈迦は「火によって汚れがなくなるというのなら、鍛冶屋がなぜ最下層に位置づけられているのだ」と言った。釈迦は沐浴も否定した。水で清められるなら、蛙のほうが解脱しているのかと問うた。
仏教、本当の教え 植木雅俊著 中公新書2135 800円+税
34
:
無名
:2013/09/06(金) 06:04:48
「仏教の本当の教え」感想:水垢離と護摩 2012-01-06 13:29:44
http://ameblo.jp/bunjinsan/entry-11128223461.html
ガンジス川で水で浄めているバラモンに対する、釈迦の弟子(プンニーカ尼:「水汲み女で非常にカースト制では低い身分の女性)の痛烈な批判である。いわく、「じゃあ、魚や亀や鰐や蛙は生涯、水につかりっぱなしです。ということは、魚や亀や鰐や蛙のほうが、より解脱しているはずですね。それなのに、畜生として人間より低く見られているのはなぜでしょうか。あるいは、水には何が善業で、何が悪業かを判断する能力もあるのですね。」
「風邪をひかないように頑張ってください。」 この痛烈な批判に、そのバラモンは仏教に帰依したという。
護摩についても、釈迦在世当時のバラモンが呪術的な祭儀として行っていたのがホーマ(=護摩)であったことを明かしている。いけにえや穀物などの供物を火の中に投じて、その煙が天上の神に届くという教義であり、釈迦はアヒンサー(不殺生)の考えから堕落した祭儀として否定したという。(中村元:原始仏教を読む)
これが、真言密教として生き返り、仏教の荒行のひとつとして年末、年始の報道で、仏教の象徴的行事として取り上げられているのは笑止の至りである。 植木さんは、その他にも、北枕が忌むべきことということの過ちや、めでたい席での蓮の花は避けるという日本的習慣も、インド、中国、日本とわたってきた中で、教義が歪められたり、誤って伝えられたことを指摘している。
35
:
無名
:2013/09/06(金) 06:21:44
五木寛之さんの『ブッダ最後の旅』1
http://itukisan2.seesaa.net/article/168092856.html
五木さん: 仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があります。非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんですけどね。それは その、もしも自分に何かあったならば、そのことで自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任が、問われる様なことになりはしないか、彼はけっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の念に悩まされ、自分に悪徳がないのではないのかと、こういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれと、当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カーストの人だという人々にも、全く平等に、自分の思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたような気がして、感動しないわ訳にはいきません。
36
:
無名
:2013/09/06(金) 12:20:31
読経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E7%B5%8C
「読誦」ともいうが、「読経」は経文を見ながら読唱すること、「誦経」は経文を暗誦すること 経典の読誦は、本来、経典の意義を理解し実践するため、また経典を記憶し流布するためのものであったが、大乗仏教になると、しばしば「読誦」そのものに宗教的意義を認めるようになった。
智邈の『法華玄義』(巻5上)には、大乗経典の読誦を観行五品(ごほん)の修行の一つに数えでおり、また善導の『観無量寿経疏(観経疏)』(巻4)では、浄土三部経の読誦を、念仏などとともに浄土へ往生するための正行の一つに数えている。 また中国・日本では、死者供養・祈雨(きう)(雨乞〈あまごい〉、請雨〈しょうう〉)・鎮護国家(ちんごこっか)などを目的とする経の読誦も行われた。ラップへの影響も認められる。
37
:
無名
:2013/09/06(金) 13:20:53
釈迦 護摩
バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。それは単に外側に関することであるからである。外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない、と真理に熟達した人々は語る。バラモンよ。わたしは外的に木片を焼くことをやめて、内面的にのみ光輝を燃焼させる。永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。怒りは煙であり、虚言は灰である。舌は木杓であり、心臓は光炎の場所である。 よく自己をととのえた人が人間の光輝である。バラモンよ。戒めに安住している人は法の湖である。濁りなく、常に立派な人々から立派な人々に向かって称賛されている。そこで水浴した、知識に精通している人々、肢体がまつわられることのない人々は、彼岸に渡る。真実と法と自制と清浄行、これは中道に依るものであり、ブラフマンを体得することである。バラモンよ。善にして真っ直ぐな人々を敬え。その人をわたしは法に従っている人であると説く。
(「ブッダ悪魔との対話」中村元、p.147)
(サンユッタ・ニカーヤ7.1.9.17)
「比丘たちよ、われは、知るもの、見るものの、有漏(煩悩)の滅尽を説く。知らざるもの、見ざるものにはあらず。」
(如是語経典、『近代仏教への道』増谷文雄、189頁)
38
:
無名
:2013/09/06(金) 13:25:46
比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。・・・
譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。
かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。なんじらはそれをどうおもうか?そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?
そうではありません、師よ。
・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。
(マッジマ・ニカーヤ 22)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/okawa.html
39
:
無名
:2013/09/06(金) 13:26:21
(4)信仰について ブッダ自身の思想のなかに信仰の場所はありません
信仰についてはお話がだいぶ脱線しておられますが、わたしが指摘したのは、「神々への祈願や呪文、犠牲や祭祀、運命判断、胡麻たき、まじないなど、すべて神秘的な力に預かろうとする宗教的行為」、すなわち信仰、がブッダによって否定されたということです。したがって、ブッダへの崇拝も当然その否定にふくまれますが、それだけでなく、すべて「神秘的な力に預かろうとする宗教的行為」の否定と見るべきだ、というのがわたしの理解です。
これを、「旧い信仰を捨てて、新しい信仰を取れ」などとしたのでは、ブッダのドグマ批判の姿勢と一致しません。ブッダの立場は、「お前のドグマはだめだが、おれのドグマはよい」などというものではなく、ドグマそのものを否定するものだったからです。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(903)
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(904)
もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。(905)
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それゆえに、諸々の論争を超越している・・・。(906)
(中村元訳、『ブッダのことば スッタニパータ』、岩波文庫、197〜198頁)
したがって、ブッダの「信仰を捨てよ」という言葉を、「旧い信仰を捨てて、新しい信仰を取れ」「お前のドグマはだめだが、おれのドグマはよい」と言う意味に取ることは不可能です。「神々への祈願や呪文、犠牲や祭祀、運命判断、胡麻たき、まじないなど、すべて神秘的な力に預かろうとする宗教的行為」全体への否定と理解すべきだと思います。
それは、他のブッダの言葉とも一致するものです。
ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。(スッタニパータ 1064)
アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに八十となった。たとえばアーナンダよ、古き車が革ひもの助けによって行くがごとく、そのごとくアーナンダよ、思うに、わたしの身体は、革ひもの助けによって、わずかに保っているに過ぎない・・・。それゆえ、アーナンダよ。なんじらは、これからは、自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、他を拠り所とせず、生きていきなさい。
(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)
神々やッダの神秘的力に依存して救われるのではなく、一人一人が真理を理解することによって救われる、というのがブッダの教えです。それは、人間の知識の届かない領域に関する事柄には沈黙を守ったというブッダの姿勢と一致するものでもあります。ブッダを超人化した後代の人びとがブッダの超越的な力に依存するようになったことは歴史的事実ですが、ブッダ自身の思想のなかに信仰の場所はありません。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism30.html
40
:
無名
:2013/09/06(金) 16:22:10
スッタニパータ
http://sugano.us/butu/buuta0.htm
供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり超えてはいない
◆<4、学生プンナカの質問>◆
1043 プンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか? 先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」
1044 師(ブッタ)は答えた、
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」
1045 プンナカさんがいった、
「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか? わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」
1046 師は答えた、
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」
1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか? 先生! あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」
1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──かれは生と老衰とを乗り越えた、──と、わたしは説く。」
41
:
無名
:2013/09/06(金) 16:37:47
「法句経」の名でしられる「真理のことば」(ダンマパダ)
http://sugano.us/butu/sinri-0.htm
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