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仏教

39無名:2013/09/06(金) 13:26:21
(4)信仰について   ブッダ自身の思想のなかに信仰の場所はありません

信仰についてはお話がだいぶ脱線しておられますが、わたしが指摘したのは、「神々への祈願や呪文、犠牲や祭祀、運命判断、胡麻たき、まじないなど、すべて神秘的な力に預かろうとする宗教的行為」、すなわち信仰、がブッダによって否定されたということです。したがって、ブッダへの崇拝も当然その否定にふくまれますが、それだけでなく、すべて「神秘的な力に預かろうとする宗教的行為」の否定と見るべきだ、というのがわたしの理解です。

これを、「旧い信仰を捨てて、新しい信仰を取れ」などとしたのでは、ブッダのドグマ批判の姿勢と一致しません。ブッダの立場は、「お前のドグマはだめだが、おれのドグマはよい」などというものではなく、ドグマそのものを否定するものだったからです。

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(903)
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(904)

もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。(905)

(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それゆえに、諸々の論争を超越している・・・。(906)

(中村元訳、『ブッダのことば スッタニパータ』、岩波文庫、197〜198頁)

したがって、ブッダの「信仰を捨てよ」という言葉を、「旧い信仰を捨てて、新しい信仰を取れ」「お前のドグマはだめだが、おれのドグマはよい」と言う意味に取ることは不可能です。「神々への祈願や呪文、犠牲や祭祀、運命判断、胡麻たき、まじないなど、すべて神秘的な力に預かろうとする宗教的行為」全体への否定と理解すべきだと思います。
それは、他のブッダの言葉とも一致するものです。

ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。(スッタニパータ 1064)
アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに八十となった。たとえばアーナンダよ、古き車が革ひもの助けによって行くがごとく、そのごとくアーナンダよ、思うに、わたしの身体は、革ひもの助けによって、わずかに保っているに過ぎない・・・。それゆえ、アーナンダよ。なんじらは、これからは、自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、他を拠り所とせず、生きていきなさい。

(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)

神々やッダの神秘的力に依存して救われるのではなく、一人一人が真理を理解することによって救われる、というのがブッダの教えです。それは、人間の知識の届かない領域に関する事柄には沈黙を守ったというブッダの姿勢と一致するものでもあります。ブッダを超人化した後代の人びとがブッダの超越的な力に依存するようになったことは歴史的事実ですが、ブッダ自身の思想のなかに信仰の場所はありません。

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism30.html


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