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仏教
27
:
無名
:2013/09/04(水) 19:59:09
「われを善き友として」(増谷文雄)
http://fallibilis
m.web.fc2.com/012.html
ブッダがサキャ(釈迦)族のすむある村にいた時のこと、侍者のアーナンダ(阿難)がこのような質問を提した。「大徳よ、よくよく考えてみると、われらが善き友をもち、善き仲間のなかにあるということは、すでにこの聖なる道のなかばを成就したにひとしいと思われる。このことはいかがであろうか」
このような質問を提したアーナンダは、おそらく、善き友をもつことの重大さが、ようやく身にしみてわかってきたところで、その重きことは、このくらいに考えてもよいかと問うたのであろう。しかるに、ブッダはその考え方を否定して、それは「なかば」どころではない、この道の「すべて」であるということであった。そして、その例証をつぎのように語った。
「アーナンダよ、それはこのことを考えてみてもわかるではないか。人々は、わたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより自由になることができる。病まねばならぬ身にして病いより自由になることができる。また、死なねばならぬ人間でありながら、死より自由になることができる。アーナンダよ、このことを考えても、善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてであるという意味がわかるではないか」 そこでは、まず、ブッダが、その弟子たちにたいして、自分自身を「善き友」といっていることが注意されねばならぬ。
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