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仏教

1無名:2010/06/12(土) 21:46:26
仏教に関して  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

119無名:2017/03/06(月) 03:46:59
最高の教え???
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(903)
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(904)

もしも他人に非難されているがゆえに下劣であるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。(905)

神秘的なことを権威的態度で「信じよ」と説いたのではなく

ブッダの教えは、それを聞いた人々にとって、「眼あるものは見よ」というがごときだったと言うのです。それがブッダの教えを聞いた人々の印象だったのです。つまり、ブッダは、人知でははかりえない神秘的なことを権威的態度で「信じよ」と説いたのではなく、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。

ブッダの教えは、「現に証せられるもの」、つまり、現実の世界で実証できるものであり、「時を隔てずして果報あるもの」、つまり、未来の果報を約束するものではなく、今ここでその結果が現れるものであり、また、上記と同じように、「来り見よというべきもの」、つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。それが、ブッダの教えに感動した人々の印象でした。このようなブッダの教えに感動した人々の印象は、神秘的形而上学的な問題に対するブッダの沈黙という態度とまったく一致するものです。

120無名:2017/03/11(土) 19:31:42
仏教 入信 サーリプッタ
http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/amidakyou/rakann/01syahihotu/newpage1.html

舎利弗がサンジャヤの許で数年間を過ごしたある日、彼は王舎城の町で托鉢中の一人の修行僧に目を止めた。
その人は質素ではあるが清潔な衣をまとい、しっかりと足元を見つめて歩む一歩一歩に心の安定が感じられた。
舎利弗は、その当時の礼儀に従って、托鉢が終わるまで後をついて歩き、そして語りかけた。

「沙門よ、貴方の心静かな態度に惹かれてついてきました。貴方は誰で、その師は誰なのですか。そして、その師が何を教えていらっしゃるのか、どうぞ教えてください」と。
「私はアッサジと言い、師は釈尊であります」と、その修行者は答えた。そして、「私は比丘になって日が浅いので、教えを詳しく説く力はないが」と断った上で、お釈迦さまの「縁起法頌」を告げた。

諸法は因より生ず
如来(釈尊)はその因を説きたもう
諸法の滅をもまた

大沙門(釈尊)はかくの如く説きたもう(南伝大蔵経「律蔵」大品) つまり、アッサジは「全てのものは原因(因縁)があって生ずる。この世のあらゆる事物、現象は全て互いに関連しあっていて、何一つ孤立したものはない」という、お釈迦さまの教えの中心である「縁起の思想」を述べた。

舎利弗は、これだけを聞いて、いかにその教えが素晴らしいものであるかが理解できた。

121無名:2017/07/12(水) 11:03:09
2015-09-10
仏教を知るキーワード【19】密教 〜大衆の求めに応じた仏教的呪法儀礼〜
http://naagita.hatenablog.com/entry/2015/09/10/090011

ブッダは密教を否定したが、人々にとって仏教は神秘に満ちた教えだった

ブッダ(釈尊)はこう述べた。「隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなるものが三つある。女性(の身体)と、バラモンたちの呪文、そして邪見だ。この三つは隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなる。」ブッダは続けてこう断言する。月と太陽と如来(ブッダ)の説いた真理と実践(法と律)は、明らかにしてこそ光輝くと。ブッダは文字通りの密教、秘教のたぐいを全否定した。

しかし仏教徒の見方は違った。成道直後に、カッサパ三兄弟を神通神変で調伏したブッダを人々は偉大なる魔術師と讃え恐れた。阿羅漢の神通力も、しばしば大衆を驚喜させた。仏教はバラモン教や沙門宗教を凌駕する霊験高い教えとしてインド社会に受容された。

実際、インド社会に仏教が浸透すると、大衆の求めに応じた僧侶らによる呪法儀礼も広く行われた。それらは西暦七世紀頃から体系化され、密教、金剛乗と呼ばれるまでに発展した。大日経、金剛頂経などの密教経典で、説法するのはもっぱら真理を人格化(仏格化)した法身仏たる大日如来だ。密教では、ブッダ(釈尊)は「大日如来が衆生の機根にあわせて現れた応身仏」として曼荼羅の末端に追いやられた。

曼荼羅を作り、火や水を用いた特殊な儀式(護摩や灌頂)を行う神秘的な儀礼が注目される密教だが、手に印契を結び、口に真言を唱え、意を禅定状態に高める三密行法は、伝統仏教の禅定修行を踏まえたものと言える。仏教史的に見れば、密教は従来の初期仏教、大乗仏教の思想体系を統合する教えでもあった。いわゆるチベット密教とはインド仏教の博物館というべき「総合仏教」だし、日本の真言宗も日本仏教各宗のなかでインド仏教の姿をもっとも忠実に保存している。

122無名:2017/07/16(日) 15:04:35
釈迦 葬儀

http://www.sougi-soudan.com/column/syaka.html
「お前たち(出家=僧侶)は葬儀にかかずらうな。葬儀のことは在家(僧侶ではない)の人たちに任せて、お前たちは修行に専念せよ」
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/8a7911810a9fc569c4f5c949ae78efe4
釈尊を真に尊敬するのは葬儀という儀礼よりも、仏法を実践することが大切なのであって、これは出家者、在家信者を問わない、ということです。中村元先生は「儀礼否定」論であると言われるのですが、「儀礼を行ってはならない」ということではないと思います。

(引用者註:世尊は)「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向って怠らず、勤め、専念しておれ。アーナンダよ。王族の賢者たち、バラモンの賢者たち、資産者の賢者たちで、修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。」
    中村元訳『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』岩波文庫、131〜132頁

「僧侶が葬儀に関わることが許されない」と理解する者がいる。しかし、相手が「アーナンダ」であることを忘れてはならない。アーナンダは、釈尊の存命中は「阿羅漢果」を得ていない、ただの「修行者」であった。つまり、釈尊は、「阿羅漢果を得ていない修行者は、葬儀に関わることが許されない」といったのであって、僧侶全てが許されないという意味ではないと判断すべきである。

ただ、崇拝は清らかな信を抱く、王族・バラモン・資産者がその任に当たるという。ここから、釈尊の供養は、いわゆる「勝ち組」が行うことになったことが理解できる。つまり、供養するための「塔=ストゥーパ(いわゆるパゴダだ)」は、それを造るのに高い費用がかかるということになるだろう。

なお、釈尊は、「かかずらうな」とかいいながら、アーナンダ(阿難陀)がこの後、「修行完成者のご遺体に対して、われわれはどのように処理したらよいのでしょうか?」(前掲同著、132頁)という問いに対し、釈尊は「世界を支配する帝王(転輪聖王)」に対する処理の仕方をすべきだといい、その方法をアーナンダに教えるのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99
僧侶は遺骸の供養等考えず真理の追求に専念すべきだ、供養は在家の信者がしてくれる、と答えたとされる。 ただし、アーナンダは阿羅漢果をまだ得ていなかった状況から、修行途中の弟子に対しての戒めであり、葬送儀礼そのものに出家者がかかわることを禁じたものとは言い難い。

123無名:2017/07/16(日) 21:45:31
仏教を知るキーワード【19】密教 〜大衆の求めに応じた仏教的呪法儀礼〜
2015-09-10
http://naagita.hatenablog.com/entry/2015/09/10/090011

ブッダは密教を否定したが、人々にとって仏教は神秘に満ちた教えだった

ブッダ(釈尊)はこう述べた。「隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなるものが三つある。女性(の身体)と、バラモンたちの呪文、そして邪見だ。この三つは隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなる。」ブッダは続けてこう断言する。月と太陽と如来(ブッダ)の説いた真理と実践(法と律)は、明らかにしてこそ光輝くと。ブッダは文字通りの密教、秘教のたぐいを全否定した。

しかし仏教徒の見方は違った。成道直後に、カッサパ三兄弟を神通神変で調伏したブッダを人々は偉大なる魔術師と讃え恐れた。阿羅漢の神通力も、しばしば大衆を驚喜させた。仏教はバラモン教や沙門宗教を凌駕する霊験高い教えとしてインド社会に受容された。

実際、インド社会に仏教が浸透すると、大衆の求めに応じた僧侶らによる呪法儀礼も広く行われた。それらは西暦七世紀頃から体系化され、密教、金剛乗と呼ばれるまでに発展した。大日経、金剛頂経などの密教経典で、説法するのはもっぱら真理を人格化(仏格化)した法身仏たる大日如来だ。密教では、ブッダ(釈尊)は「大日如来が衆生の機根にあわせて現れた応身仏」として曼荼羅の末端に追いやられた。

曼荼羅を作り、火や水を用いた特殊な儀式(護摩や灌頂)を行う神秘的な儀礼が注目される密教だが、手に印契を結び、口に真言を唱え、意を禅定状態に高める三密行法は、伝統仏教の禅定修行を踏まえたものと言える。仏教史的に見れば、密教は従来の初期仏教、大乗仏教の思想体系を統合する教えでもあった。いわゆるチベット密教とはインド仏教の博物館というべき「総合仏教」だし、日本の真言宗も日本仏教各宗のなかでインド仏教の姿をもっとも忠実に保存している。

124無名:2018/03/26(月) 06:36:45
悪霊はセックスできない人の
妄想・攻撃・淫行を形にしたもの

125無名:2018/03/26(月) 06:37:41
ちっとも罪を嫌がらんな
救いがないぜ

126無名:2018/05/29(火) 12:57:28
衝撃事実拡散

【創価学会の魔の正体は、米国が仕掛けてるAI(人工知能)】

創価を日本統治に利用してる組織がCIA(米国の極悪クソ諜報、スパイ)

創価の活動家は、頻繁に病気や事故に遭うけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってる

災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すから、定期的に米国のAlが科学技術で災いを与える。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもん

パトカーの付きまとい、芝刈機音、ドアバン、ヘリの飛行音等も、米国が仕掛けてるAIが、人を操ってやってる。救急車のノイズキャンペーンに至っては、サイレンで嫌がらせにする為だけに、重篤な病人を作り出す冷徹さ

集スト(ギャングストーカー、ガスライティング、コインテルプロ、自殺強要ストーキング)以外にも、病気、痛み、かゆみ、湿疹かぶれ、臭い、自殺、殺人、事故、火災、台風、地震等、この世の災い全て、クソダニ米国の腐れAIが、波動(周波数)を悪用して作り出したもの

真実は下

http://ss.fan-search.com/bbs/honobono/read.cgi?no=12029

127無名:2018/10/22(月) 20:53:38
わたしは、わたしたち。
それが仏教であり、真理であり、さとり。
だから、さとりは無限。

128無名:2018/11/24(土) 01:01:31
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。
このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。

初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。
(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)
ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、もっと根本的な批判だったのです。つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。

ブッダの教えは、それを聞いた人々にとって、「眼あるものは見よ」というがごときだったと言うのです。それがブッダの教えを聞いた人々の印象だったのです。つまり、ブッダは、人知でははかりえない神秘的なことを権威的態度で「信じよ」と説いたのではなく、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。同じような定型句として、また、次のようなものもあります。
教法は世尊によりて善く説かれた。すなわち、この教法は、現に証せられるもの、時を隔てずして果報あるもの、来り見よというべきもの、よく涅槃に導くもの、知者がそれぞれに自ら知るべきものである。
(同上、74頁)
ブッダの教えは、「現に証せられるもの」、つまり、現実の世界で実証できるものであり、「時を隔てずして果報あるもの」、つまり、未来の果報を約束するものではなく、今ここでその結果が現れるものであり、また、上記と同じように、「来り見よというべきもの」、つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。それが、ブッダの教えに感動した人々の印象でした。このようなブッダの教えに感動した人々の印象は、神秘的形而上学的な問題に対するブッダの沈黙という態度とまったく一致するものです。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

注目すべきことは、なぜサーリプッタやその他の250人もの懐疑論者サンジャヤの門弟たちがブッダの教えに魅かれたのか、というところです。あきらかに、その理由の一つは、ブッダが神秘主義的形而上学的問題に対して沈黙をまもっていたことに関連しています。それが懐疑的な人々を同感させるものだからです。つまり、懐疑論者サンジャヤの弟子たち250人がブッダに帰依したという歴史的事件は、ブッダが神秘主義的形而上学的問題に対しては沈黙したのだという仏典の記述が事実であったことの状況証拠となっています。

129無名:2018/11/24(土) 21:20:52
「空」の意味―『ミリンダ王の問い』より
http://www.ne.jp/asahi/village/good/buddhism.htm

「大王よ、…いったいあなたは、歩いてやってきたのですか、それとも乗り物でですか?」
「尊者よ、わたしは歩いてやってきたのではありません。わたしは車でやってきたのです」
「大王よ、もしあなたが車でやってきたのであるなら、<何が>車であるかをわたくしに告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「軸が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「輪が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「車体が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」

「しからば大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛(くびき)・輻(ふく)・鞭<の合したもの>が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「しからば大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。大王よ、車とはことばにすぎないのでしょうか? しからば、そこに存在する車は何ものなのですか?」
(『ミリンダ王の問い 1』 中村元・早島鏡正訳 東洋文庫)
(この対話は、直前の、ミリンダ王によるナーガセーナへの問いで始まる。
「あなたは誰か」という問いに、尊者ナーガセーナは、
「ナーガセーナ」という名で呼ばれているが、それは名前に過ぎず、そこに「人格的個体」は認められない、と答える。
それに対して、ミリンダ王は、誰がナーガセーナなのか、何がナーガセーナなのか、
髪の毛がナーガセーナなのか、心臓がナーガセーナなのか、脳がナーガセーナなのか、と
上のような仕方で問い詰める。
それに対するナーガセーナの反論が、上の対話である。
その結論は、
「轅に縁(よ)って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って…、『車』という名称・呼称・仮名・通称・名前が起こるのです。」
つまり、縁起(=関係性)によって存在するのであって、実体は存在しない、というのである。)

130無名:2018/11/24(土) 22:45:30
カーストとは
http://nehan.net/buddha-dharma/varna-jati.htm
カースト制度とは15世紀末にインドにやってきたポルトガル人によって、インド特有の身分制度を指す言葉としてつけられたものです。カーストはポルトガ ル語で血統や種族を意味するカスタという言葉が語源となっています。カースト制度の中にはヴァルナと呼ばれるものとジャーティと呼ばれるものがあります が、彼らがこれらを区別せずに一つの言葉で表したために、「カースト」今ではインドの身分制度の総称となっています。

『法華経』成立の背景
http://textview.jp/post/culture/33011
『法華経』は、釈尊(しゃくそん/お釈迦〈しゃか〉さま)が亡くなって500年ほど経った頃(1世紀末〜3世紀初頭)に、インド北西部で編纂(へんさん)されたと考えられています。

131無名:2018/11/24(土) 23:58:07
http://nehan.net/buddha-dharma/varna-jati.htm
仏教徒の高位カースト
•グバージュ(バジャチャリア) → 仏教司祭
•バレ(バンラ) → 金銀細工師
•ウレ(ウダス) ◦トゥラダル → 商人
◦バニア → 商人
◦シカーミ → 大工
◦マリカーミ → 菓子屋
◦タムラカール → 銅器職人
◦ロハンカール → 石工
◦アワ → レンガ積工
◦カンサカール → 錫職人


中・低位カースト
•ティニ(シバチャリア) → 葬いの司祭
•グア・ハレ → 牛飼い
•ジャブ(マハルジャン) → 農民
•クマ(ブラアティ) → 壷作り
•テウラ(ラージ・タラ) → こうじ作り
•カドゥ(マリ) → 庭師
•ナウ(ナビット) → 床屋
•カウ(ナカーミ) → 鍛冶屋
•サェミ(マナンダール) → 油売り
•クサ(タンドゥカール) → 精米、壁塗り、織物
•テペ → 農民
•ブン(チトラカール) → 絵師
•カター(スッダカール) → へその緒切り
•チバ(ランジットカール) → 染物屋
•サンガ → 洗濯屋
•デザル → 農業労働
•ブル → 葬いの松明持ち
•バー → 葬いの供物受け
•ドゥイン → 穀物採り、運搬役
•バラミ → 木こり
•チビ → 捺染職人
•ナエ(カサイン) → 屠殺、肉売り
•ジュキ(クスレ) → 仕立屋、楽師
•ドーン(バディカール) → 太鼓演奏者
•クル → 太鼓作り
•ドビ(ラジャカ) → 洗濯屋
•ボデ(デョラ) → 漁師、掃除人、儀礼の後片付け
•チャメ、チャムカラ(クチカール)、ハラフル → 掃除人、汚物処理

132無名:2018/12/02(日) 23:29:20
護摩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9

インドで紀元前2000年ごろにできたヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼である。
仏教には釈尊入滅から約500年後に発生した大乗仏教の成立の過程でバラモン教から取り入れられた、と考えられている。そのため、護摩は密教(大乗仏教の一派)にのみ存在する修法であり、釈尊の直説に近いとされる上座部仏教には存在しない。

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html

このように、大衆の救いに特別の関心を持つ大乗仏教運動の改革者たちは、ブッダが否定したさまざまな迷信(大衆信仰)を否定するどころか、むしろそれを積極的に受け入れ、それによって大衆が救われ得ることを主張したのです。そして、それを正当化するために、新しい経典(大乗経典)をつくったわけです。

133無名:2018/12/03(月) 22:05:59
「カルトと若者」ダライ・ラマとの対話を通して
http://www.tibethouse.jp/news_release/2000/2000hh7.html
2000年4月24日 東京新聞より抜粋

ダライ・ラマ法王の手は、思いの外ずっしりとしていた。18日に都内で行われた記者懇談会の後、法王は、壇から降りて私の方に歩み寄り、微笑みながら右手を握られた。この予想外の出来事に、他の記者たちもわっと法王の周りに群がり、握手を求めた。

◆◆ 自分で調べ、自らの頭で考える尊さ ◆◆

懇談会で私は日本に蔓延しているカルト問題について質問をした。これまたいささか意外であり、印象的だったのは、その回答の中でダライ・ラマ法王が「study 研究する」と「investigate 調査する」という2つの言葉を最も頻繁に使っていたことだ。「learn 習得する」や「believe 信じる」ではなく、自分で調べ、吟味することの大切さを、法王は繰り返し強調した。

記者懇談会だけではない。その前週に行われた仏教講演会のおいても、この2つの言葉の重要性が熱を込めて語られた。双方の機会での法王の発言は、おおむね以下の通りである。
「人が幸福になるには、必ずしも宗教が必要だとは思わない。が、1つの宗教を信仰するのであれば、まずは正統に継承された教えを勉強すること。経典に書いてあるから信じるのではなく、分析的に確かめ、なぜこれが必要なのか、自分の頭でゆっくり考えることだ。そして、土台をしっかり築いて段階的に進むことが大切で、いきなり密教の修行に飛びつくべきではない。ましてカルトは危険である。師についても、その人が正統な教えを正しく継承しているか確かめ、その人格を含め、あらゆる角度から十分に調査することが必要だ。信じる前に、まず研究せよ。教師然とした態度をとる者には、警戒すべきだ」

自分で調べ、自分の頭で考える−まさにこういう力やそのための時間を、カルトは人々から奪っていく。

例えばオウム真理教の場合、一連の凶悪事件当時ばかりでなく、今に至っても信者たちは、麻原彰晃こと、松本智津夫を客観的に検証し、吟味することができない。謝罪についても、何がどう間違ったのか、1人ひとりが考えて行動するのではなく、信者たちは教団が指し示す方向に付き添っているだけだ。

ただ、彼らすべてが元々モノを考えない人間だったわけではない。むしろ、自分の生き方や夢、人類の行く末などについて考え込むタイプだった人が多いと答えるかもしれない。

経済的な豊かさは、人々に考える機会や時間をもたらした。職業選択も、「食うため」というより、より意味のある、より自分らしい人生を生きることを中心に考えることができる。それ自体は、素晴らしいことだ。

しかし、人生をかけてやりたいこと、人生の意味や目的、自分の使命などは、そうそう簡単に見つからない。そんなモヤモヤとした不安、不安定さを抱える若者に、オウムは、生きる目的は「悟り・解脱」であると、唯一絶対の回答を提示してみせた。さらには「人類救済」という大きな使命も与えた。

確かにそれは魅力的だったろう。が、それにしても、なぜ彼らはオウムのようなカルトに飛び込むことに、もっと慎重になれなかったのだろう。どうして、信じ込む前に自分で検証し、分析し、考えなかったのか。

◆◆ 「回答」第一の日本の教育にも原因 ◆◆

実は、こうしたことは、日本の若者たちの多くが苦手とする作業かもしれない。そもそも、1つの回答が用意され、いかに早くそこに到達するかという競争ではなく、すぐに答えが出ない問題、そして回答が決して1つでない課題について、自分で吟味し考える訓練や機会が、日本の教育の中でどれだけ提供されてきただろうか。カルト問題は、私たちが「考える」ことをおろそかにしてきた結果と言えるかもしれない。

法王の訪日に関しても、政治的な立場や発言ばかりが報じられているが、こうしたメッセージが込められた意味こそ、私たちはもっと重く受け止めるべきではないだろうか。

江川 紹子(ジャーナリスト)

134無名:2018/12/04(火) 20:51:43
仏教とバラモン教との関係について
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/56381017.html

釈迦の仏教の到達点においては、形而上学的断定、及び、哲学的思索考究を捨て去るものであるということは、本論においても述べたのであるが、それでは、仏教で言うところの「輪廻からの解脱」とは、「方便」である、ということになるのであろうか?

 実を言うと、(以前にも紹介したことと重複するが)昨年、奈良康明博士に会う機会があった。これらの諸問題に関して、直接、先生にぶつけてみたたところ、やはりそうであったのかという、明瞭なる解答を頂いた。先生の説明によれば、「釈迦は無我説を説き、霊魂不滅説は説かなかった。そして、霊魂の不滅説を信ずる者に対しては、霊魂の不滅説を否定することもしなかった。」ということであった。

135無名:2018/12/04(火) 21:51:13
仏陀真理のことば:第二六章バラモン
http://buddha-osie.com/dhammapada/dhammapada26.html

第26章は「バラモン」について説いています。

螺貝のような髪をしているからバラモンなのではない。
名前によってバラモンなのではない。
生まれによってバラモンなのではない。
真実の法を悟る人は安楽である。
彼こそバラモンなのである。

バラモン、漢訳では婆羅門と音写されています。
当時のインドにおける祭司者のことで、最高の地位と実力を有していました。
王様さえ彼の前には膝まづいたと言われます。
原始仏教においては、やむを得ない事情があったために、階級制度を表面的には是認する形をとっていました。
本来は地獄も極楽も実在するものではないと言いながら、一方では良いことをすれば極楽にいけるけれども、悪いことをすれば地獄に落ちるぞなどと説いたのと似ています。

しかしその地獄極楽よりはもう少し明確に階級制度は是認していたようです。
そのように認めたうえで、バラモンはかくあらねばならないと説いたわけです。
巻貝のように螺旋型の髪を結っているからバラモンなのではありません。
バラモンという名前の階級に据えられたからバラモンなのではありません。
バラモンの家に生まれバラモンとして跡を継いだからといってバラモンではありません。
と言っているのではないでしょうか。

当時のインドのカースト制度は家系を中心とした跡取り制として成り立っていたものと考えられます。
そうして、衣服を整え、髪型は長髪を巻き上げて螺旋状にしていたことと思われます。
仏陀は、祭司者として最高の地位と実力を持つことはそれはいいでしょう、単に親がバラモンであったからとか、跡取りとしてバラモンと呼ばれているとか、あるいは衣服を整え髪型を螺貝のようにしているからといって、真のバラモンとは言えないとしています。

苦集滅道の四諦を知り、八つの正しい道八正道を極め、縁起と空の論理を知って真に目覚めた人でなければ、真のバラモンとは言えないといっているわけです。
そのような真実の理法を守る人こそバラモンと呼ぶにふさわしいと言っているのではないでしょうか。

この詩は、原始仏典の一つであるダンマパダの一節ですが、別の原始仏典ウダーナヴァルガにもほぼ同様の詩が記されています。
さらに、原始仏典のスッタニパータにも、「生まれによってバラモンなのではない。
行為によってバラモンなのである」という趣旨の句が記されています。

この精神は仏教においては特に強調された考え方なのです。
人の上にたつ人こそ、真の理法をまもらねばならないのだと思います。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

136無名:2018/12/04(火) 23:24:49
仏教とバラモン教との関係について
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/51578291.html

仏教の教祖たるゴーダマ・ブッダ(釈迦)が、何ゆえに「真のバラモン」なのか、換言すれば、「釈迦は元々はバラモン教徒なのか?」という疑問が、ここに生じてくる。もちろん、それは、仏教という呼称がない時代の話である。

 仏教とバラモン教(Brahmanism ブラフマニズム)との関係について、私は、釈迦の境地とバラモン教の究極の境地とは、全くの同一のものであるのではないのかと、以前にも述べたが、それを語る一つの理由として、私は、ゴーダマ・ブッダは元々は王家においてのバラモン教者であった(厳密に言えば、釈迦はバラモンという環境の只中にあった)のではなかったのかと思っているのである。(もちろん、その時点では、釈迦は悟ってはいなかったのだろう。)

137無名:2018/12/07(金) 00:02:48
321 名前: 釈尊は護摩を禁じた 投稿日: 2000/09/02(土) 13:19

バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る。
バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、内面的にのみ光輝を燃焼させる。
永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。
バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。怒りは煙であり、虞言は灰である。
舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。

138無名:2019/04/20(土) 18:15:48
密教は、仏画、仏像および、密具なしには、その思想体系を示すことが、出来ません。
https://tukinoshizuku.jimdo.com/%E3%81%8A%E8%A9%B128-%E5%AF%86%E6%95%99/
密教の成立は、紀元5、6世紀〜7世紀の西南インドの海岸
もともと、「菩薩」(ぼさつ)という観念は釈迦のころにはなく、紀元前後に、現れたものと言われます。
「理趣経」には、いったい、何が書かれてあると思いますか?
実は、のっけから、男女のエッチについて書かれています。

超能力を見せるな、呪文を唱えるな(長阿含 堅固経)
2010-11-05 03:55:50
https://ameblo.jp/nibbaana/entry-10697597129.html

堅固という在家信者が、お釈迦さまに対して、
「修行者に命じて、人前で超人的能力や奇蹟を示してください。そうすれば偉大な人だとわかるし、教えももっと広まります」というようなことを懇願します。
ところがいくら頼まれても、お釈迦さまは何度も全面否定します。

釈迦には当時の社会改革者的な側面がありました。つまりアンチバラモン教と言えるでしょう。
https://t-mania.tokyo/books/buddha
その釈迦の教えがバラモン教の輪廻転生思想に対抗するために、あの世の存在を前提としていない(=輪廻転生を肯定していない)のは自然な流れです。

釈迦は相手によってさまざまなたとえ話で教えを説く、待機説法の名人でした。さらに、自分の死んだ後も、バラモンにしかわからない文語のサンスクリット語ではなく、一般大衆のわかる口語で語り継ぐようにと指示しました。

大乗仏教は根本的な間違いを犯してしまっています。それはお経をサンスクリット語で書いたことです。(中略)大乗仏教は自分たちのお経を権威付けするためにサンスクリット語にしてしまったのです。ごく一部の知識人(バラモン)にしか読めないサンスクリット語の方が、パーリ語より核が上だという思い込みからしたことでしょうが、「口語で語り継げ」という釈迦の言いつけを忘れてしまっています。

アプリオリなものは何もないということを、釈迦は「縁起」という概念を使って説明しました。縁起とは「縁」によって「起こる」と書きますが、それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。

お坊さんと不思議な話 第四話
https://s-labo.org/2017/06/02/%E3%81%8A%E5%9D%8A%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E8%A9%B1%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E8%A9%B1/

139トム:2019/06/18(火) 23:05:02
放てば手に満てり、只管打坐

140トム:2019/06/18(火) 23:10:34
放てば手に満てり。
只管打坐。

141トム:2019/06/19(水) 20:36:42
放下著(ほうげじゃく)
自分を手放し、自分を手放したという想いも手放す。
それができるようになる為に無我無心で坐禅する。

142無名:2019/09/01(日) 02:50:15
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆輪廻卒業キャンペーン・魂の回覧板☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

近年は地球文明の絶頂期を迎え、ここ日本もストレスの多い社会となって参りました。
そこで宇宙の法を理解して、今生を縁に輪廻転生を卒業しませんか? 蓮の花は泥沼から咲く♪

〜世界と人間のシステム〜

◆この世界は仮想現実(VR)のようなものである。
◆この現れた世界のすべては全自動の因縁生起プログラムによって動いており、
ほんとうは個人的行為者は存在しない。ほんとうは誰一人この世界の動きに介入できない。
どんなに高次の存在がいたとしても、それも人間同様にプログラムで動いていると思われる。
◆人間は自我の催眠システムによって、ほんとうはプログラムどおりに動いてるのに
自分の意思で心身を動かしてる、と感じる催眠状態にある。
◆しかし仮想世界の中では行為の責任が個人に負わせられるのは、倫理上も法律上も仕方のないこと。
◆人生は神聖なるジョーク。すべては宇宙意識の戯れであり、人間の意識もその深層の宇宙意識の一部。
ある意味では意識の中に世界と人間(=仮の自己)が現れ、霊魂が「私」という存在感覚を自我に投影する。

◆生きてる間に自我のシステムに何らかの強い力がかかって自我が落ちる(催眠が解ける)
ケースがあり、それがいわゆる悟りを開いた人たちで彼らは今生で輪廻を卒業するといわれる。
◆人間が体験する事象は、基本的には自分の深層意識にストックしてある過去の行為のデータ
を使って現象化してると考えられる。(人間関係なら自分と相手、集団ならその構成員たちのデータ)
◆このデータは前世から現在までのもので、現象化されればデータは消えるが、ネガティブ現象においては
それと戦ってしまう自我の防衛システムによって新たなネガティブデータが保存されやすい。
◆このデータが現象化される速度はピンキリであり、人の深層意識の状態と運命によるが、
おそらく平均的には人生の全行為の1/2以上は来世に持ち越されると思われる。

143無名:2019/09/01(日) 02:50:51
◆この仮想プログラムは自然発生的に起こっていて、厳密な意味での全知全能のプログラマー(創造神)
のようなものは存在しないと思われる(創造の原理は存在する)。
◆高次の視点で見れば、すべての事象の運命は先々まで定まってる可能性が高い。
◆全ての二極性は表裏一体であり、輪廻の中に現れるあらゆる状況は時間の中でバランスをとる。

◆現時点の人類のDNAシステムと自然界のエネルギーバランスでは、生前に自我の催眠が解けて
解脱する(真我に目覚める)のは稀なケースで、今その部分の転換期に差し掛かってるのかもしれない。
◆しかしこれは仮想世界でほんとうは個人は行為者ではないと確信してそのことをよく考え抜き、
自我に根ざした行為を控え、ハートに根ざした道理に適った行為を心がけて深層意識のデータを浄化し、
真我は不生不滅でありそれはこの仮想世界とそれが現れる源泉の両方であることを確信して死ねば、
死後に輪廻を卒業してニルヴァーナにずっといた荘厳なる至高の実在に目覚めると思われる。
しかし本当はそれは誰にとっても今この瞬間に存在する。眉間の後ろのほう(脳の中心部)とハートの中心に
全てである真我(≒無)への入り口があるが、その入り口の感触はたいてい味気なく感じられよく無視される。
幼い純粋な子供はその入り口の感触をおぼろげながら感じており、自己と世界の関係性が親密である。
その入り口の最深部から、仮想意識とその中に時間と空間の仮想世界がいま現れる。
現時点で多くの人間は我欲を主体とし、宇宙の法に従った生き方をしないために至高の真我が無視され、
延々と輪廻(幻想)の海を漂ってる可能性が高い。なお、宇宙の法は人生の境遇が悪ければ悪いほど甘くなる。

144無名:2019/09/01(日) 02:51:29
◆そのような世界観を直感的に確信して賢く生きれば、仮に死後に輪廻したとしても、
深い洞察と良縁に恵まれた好ましい流れの運命を享受できる可能性が高い。
◆生前に「来世」という可能性も少し考慮して行為するのは理にかなってるかもしれないが、
死ぬ間際に来世という概念(イメージ)を強く持ってしまうと、それが輪廻の卒業を妨害する可能性がある。
自分で死期が迫ってることがわかるケースでは、最期にはなるべく欲望・執着を捨てて、
あらゆる概念を放棄してハートの中心(自我と真我の連結点)で静かにしているのがよい。

◆人生を例えるなら、それは既に作られたシリーズものの映画を見てるようなもん。
我々はほんとうは真っ白なスクリーン(=至高の実在、ホトケ)でありその中の小さな点(=霊魂)でもある。
その小さな点が、登場人物の視点から映画の中の世界を見てる(衆生本来仏)。
つまり人間はいわば夢に見られてる側であり、ほんとうは誰も生まれず誰も死なない。誰も何もやってない。
自分が世界の中を動き回ってる、という感覚は自我の催眠によるもので、
実際には真我の霊魂の前に仮想意識とその中に仮想世界が現れて、その中の同化してる登場人物が
動き回ってるようなシーンが現象化されてるだけ。
◆生前に自我の催眠が解けて解脱した場合、メインの自己感覚は真我(映画でいうとスクリーン)の側になり、
仮想意識に中に現れた人間としての自己感覚は非常に小さくなり(ほとんど私は人間だとは感じられない)、
自分が行為者(行為の司令塔)であるという感覚もほぼ消失する。この状態には非常に現実的なパワーがある。
あえて肉体のレベルに焦点を合わせれば行為者の感覚が発生するが、それは偽りだという感覚が同時にある。
メンタルシステムの最大の障害物である自我が抜け落ちてるので、心はエナジーと喜びに満ち、
常に現在の瞬間を直感的に的確に捉え、慈悲深く注意深く道理に適った振る舞いを自動的にするようになる。
精神的にはネガティブ感情も起こるが幼子のように速やかに消えていく。
自分のことでは精神的には悩まないが、人々が苦しむのを見て胸を痛める。
肉体的(物理的)な痛みは、肉体のレベルにおいては普通の人と同じように感じるが、
同時に真我の位置からの観照が起こる。

145法華系新宗教マニア:2022/02/05(土) 13:58:03
日蓮宗系諸教団の系統分類
――身延系、正宗系、法華宗系――
https://imadegawa.exblog.jp/32566899/

146無名:2024/04/05(金) 22:28:16
濱正晃 某新興宗教団体

147無名:2025/02/02(日) 20:56:45
一般的な認識によれば、空海が創始した真言密教は古代インドにルーツを持ち、
それが古代中国に伝わり、そこで、空海が学んだものという認識があるかもしれないが、
確かに、古代インドや古代中国からも影響を受けたのは事実かもしれない。しかし、
真言密教が出来た過程はそれだけではない。空海より100年以上も前に
実在した、役行者が創始したのは修験道だが、その役行者ゆかりの大峯山や天河大弁財天社で、
若き頃の空海は修行しているのだ。そこで空海は阿字観を完成させたともいわれる。
もちろん、役行者は外国に行ったことはなく、日本国内だけで修行していた。
それで、金剛蔵王大権現という神様を感得されたという。
若き頃の空海が修験道の聖地で、修行をされた後に、有名な高野山を開いた。
つまり、真言密教というのは古代インドや古代中国の影響を一切受けなくても、
日本独自だけで完成させることが出来たというのは言い過ぎではない。
真言密教で大切にされている御本尊・御神体は大日如来や不動明王などだが、
これら、御本尊・御神体も日本国に直接降臨されたのであり、古代インドや古代中国に
降臨して、それを分霊化して、分けていただいたわけではないのである。

148無名:2025/02/03(月) 19:12:32
真言密教で使われている呪法・呪術は色々ある。例えば、

・不動護摩
・大元帥法
・孔雀経法
・虚空蔵求聞持法
・宿曜道
・請雨経法
・普賢延命法

など、知っている限りでもこれだけある。
真言密教は世界最強の呪術・呪法を持ってるし、
御本尊・御神体は大日如来や不動明王で、
これらも世界最強の力を持っている。
真言密教はあまりにも強いから歴史上かつて、
神道や修験道をも傘下に収めていた。両部神道や当山派修験道などが有名。
このさいなら、真言密教は陰陽道も傘下に収めて、
真言密教流安倍晴明派陰陽道という名前の陰陽道を作ってほしかったですね。

149無名:2025/02/03(月) 20:23:05
2000年くらい前、日本列島には邪馬台国という国があった。
邪馬台国の女王卑弥呼は鬼道という名の呪法・呪術を駆使して、
国を治めていたという。公式な記録は古代中国の記録しかなく、
その記録もそこまで詳細ではないという。
まず、その鬼道という名前だが、文字は鬼を使っているため、あまり
良いイメージを持てないのではないだろうか? 
なので、「き」と読むなら、「気」にするか「奇」にした方が良いだろう。
それと、卑弥呼が使っていた鬼道の御本尊だが、これも後付けでよいので
設定した方が良いと思う。
考えてみれば、呪法・呪術の代表格となる御本尊は不動明王
以外ありえないと思う。不動明王といえば呪文や真言の王であり、
その霊力・霊験はあまりにも強すぎて神様すらひれ伏すほどだ。
そこから占い等に発展するのも十分可能である。
不動明王は神道、仏教、密教、修験道、陰陽道、などのような宗教
や学問をすべて包括出来る存在である。

150:2025/02/04(火) 21:31:16
>>148

ま、陰陽道は京都メインで
陰陽道よりも、修験の方が地方進出先行だし、 
四国八十八カ所、西国三十三カ所も
本来は修験か、修験的な念仏聖が先行してたからなー
真言宗ですら、徐々に学問僧よりも修験、念仏聖の方がパワーが強いし、
末法思想やしねー
😀

151無名:2025/02/04(火) 22:43:04
真言密教の時代的源流は平安時代と言われてるが、
もっと遡っても良いと思います。
実際、修験道を創始した役行者ゆかりの大峯山や天河大弁財天社で空海は
修行して、そのあと高野山を開いたわけだから、真言密教の時代的源流は
飛鳥時代や奈良時代まで遡れると考えるべきです。
しかも、役行者は外国に行っておらず、日本国内だけで修行していた。
一般的認識だと、真言密教は古代インドや古代中国
から来たものというイメージしかないので、それは少し認識を
改めた方が良いと思います。それと、邪馬台国の女王卑弥呼が
使っていたといわれる鬼道も、具体的にどういうものだったのか?
御本尊は何だったのか? など研究が進んでほしいです。

152無名:2025/02/05(水) 17:29:11
世界的にも有名な仏教の開祖はお釈迦様で、今でも仏教は、
様々な宗派・流派に分かれて日々活動しており、
様々な宗派・流派それぞれの歴史的背景にも基づき各々御本尊を定められている。
そこで思ったのだが、仏教という超巨大な宗教の統一的な御本尊という存在が、そういえば
ないような気がするのだ。例えば、イスラム教ではアラーの神、ユダヤ教ではヤハウェの神、
というように最高神が存在する。仏教と言えばお釈迦様というイメージが強いが、
お釈迦様は開祖であり、御本尊というのはちょっと違う気がする。
そこで、仏教の様々な宗派・流派の垣根を超えた統一的な御本尊を定めるというのを
このさい実施してみてはどうだろうか? まあ、それぞれの宗派・流派に応じて
御本尊を定めた方が良く、統一的な御本尊は必要ないという話でしたら、それまでだと思いますが。

153無名:2025/02/05(水) 19:31:10
一般的な認識によれば、映画陰陽師などで有名な安倍晴明の呪術・技は、
古代中国から来た、というイメージを持っている方もたくさんいるだろう。
しかし、古代中国から来たのは、この世は「陰」と「陽」からなる2元論と
「火」「水」「木」「金」「土」からなる5行説で出来ている思想だけで、
安倍晴明の超人的な呪術・技は古代中国とは関係ない。もし仮に、古代中国から来た、
という論が成り立てば、安倍晴明の先生であった賀茂忠行が先に、超人的な呪術・技を
使い有名となり史上最強の陰陽師の座は賀茂忠行となっていただろう。
しかし、現実はそうではない。安倍晴明の陰陽道は賀茂忠行の陰陽道とは違う
陰陽道を超越した陰陽道と言えるだろう。では、映画陰陽師で再現された
超人的な呪術・技に近い御本尊は何だったのか? それは不動明王以外ありえない。
不動明王は呪術・真言の王であり、陰陽道をも支配できる存在である。
安倍晴明の40歳以前の記録はないという。おそらくこれは推測だが、
若き頃の安倍晴明の前に不動明王の御神体が現れて、不動明王と交信して、
真言や呪術を授けられたと考えるのが自然である。だからこそ、史上最強の陰陽師になれたのだ。

154:2025/02/05(水) 21:28:33
>>151

役行者は
どちらかと言うと道教に近い感じらしいで

真言密教は
中国で体系化されたものであり、
空海が日本でやったのは
南都仏教の延長線の山岳修行であり、
空海以後の修験道と、
それ以前の修験道は 
異なる
初期修験道は道教寄りたが、
平安期以後の三井寺、聖護院系統から始まり
それらは貴族皇族子弟の学問的センスがあるのが
修験道をまとめ出したので
真言密教の高野山の半数は
真言密教系統ではなく天台の三井寺系統である
藤原道長の時代だ
😀

155:2025/02/05(水) 21:32:04
天台はだんだん修験道要素が濃くなる、
真言密教ですら、その要素が濃くなる、
それ故に
江戸時代中期になるまで
高野山の真言密教は
空海の思想直系の真言密教の学問僧は主導権が握れなかった 
😀

156:2025/02/05(水) 21:34:59
>>152

日本の末法思想ベースに分化したのが多数派なので統一は空想、
葬式仏教自体が末法思想の延長 
宗派越えして、
それが、広がった
民衆の末法思想が浸透した
😀

157:2025/02/05(水) 21:42:15
修験道は
三井寺系統からの
葛城信仰、大峰信仰、熊野信仰、高野山の空海の墓と言われる奥の院に三井寺系統半数、藤原道長の時代に高野山復興する儀式の開始→日本地方に広がる→四国遍路のベース、出羽三山などの地方修験道へ

という歴史的流れだ 
これに遅れて修験道よりも順調ではないが鎌倉以後に地方に広がったのが陰陽道
😀

158無名:2025/02/05(水) 21:47:17
私の主張に返答していただきありがとうございます。

159:2025/02/05(水) 22:03:53
なかなか、修験道や念仏聖や葬式仏教というのは
インド中国仏教とは別視点であるから
とても謎が深い、最近は少しずつ見えつつある
😀

160:2025/02/05(水) 23:23:47
修験道や念仏聖や葬式仏教のルーツは
密教の観想みたいなのが汎用化されて発達したものよーだ
陰陽道よりも
観想の魅力が勝ったのだろうなー

観想という視点は
あんまり気づいてなかった
😀

161無名:2025/02/06(木) 23:54:07
個人的には不動明王を強調してきたが、このように疑問に思う方もいるだろう。
古代インドや古代中国から密教経典、曼荼羅、法具、等を日本に輸入しなければ、
不動明王は日本に降臨しなかったのではないか? という疑問だ。
しかし、心配はいらない。
空海より100年以上前の飛鳥時代、661年に修験道の開祖である役行者という人物が、
七宝瀧寺という寺を設立した。そこの寺の御本尊は倶利伽羅大竜不動明王である。
つまり、外国の密教経典、曼荼羅、法具、等の影響を受ける前から、既に
不動明王は日本に降臨していたのだ。ちなみに、空海も七宝瀧寺で修行していたといわれている。

162無名:2025/02/07(金) 15:04:24
役行者の弟子にあたる韓国広足という人物は生没年が不詳であるが、
飛鳥時代から奈良時代にかけて生きた人物であることは間違いないようだ。
韓国広足は役行者の霊的能力に嫉妬して、朝廷に告げ口してしまい、
役行者は699年に伊豆島に流罪となってしまうが、701年に大赦があり戻ることが出来た。
呪禁道に精通していたといわれる韓国広足だが、事績・業績についての詳細は不明なようだ。
できることなら、役行者から修験道を引き継ぎ、呪禁道など、それらを極めて、
空海に直接バトンタッチしていただきたかったですね。もし、長生きしていたら、
空海に出会えていた可能性もあります。そしたら、確実に真言密教の人脈も、
役行者・韓国広足・空海、というように連なってみることが出来、遡ることが出来ると思います。
これは、妄想ですが、証拠となる古文書が見つかり、韓国広足と空海は出会っていた!? 
なんて歴史的大発見があってほしいなと思います。

163無名:2025/02/07(金) 22:19:16
よく、古代インドや古代中国の密教経典、曼荼羅、法具、等がないと、
日本には神様・仏様が降臨しなかったのではないかと勘違いしている人も
いると思いますけど、全然そんなことないですよ。
実際、外国の影響を受ける前の時代にいた役行者という人物の前には、

・金剛蔵王大権現
・氷室権現
・毘沙門天
・聖天
・八大龍王
・千手観音
・如意輪観世音菩薩
・龍樹菩薩
・法起菩薩
・倶利伽羅大竜不動明王
・三宝荒神

など、私が知っている限りでも、役行者の前にこれだけの
神様・仏様が降臨しているのです。
だから、仮に、韓国人や中国人から、日本の神様・仏様は、韓国、中国の
おかげで降臨できたんだ、と言われてもすぐに言い返すことが出来ます。

164:2025/02/07(金) 22:49:28
>七宝瀧寺という寺を設立した。そこの寺の御本尊は倶利伽羅大竜不動明王である。


残念ながら後づけだろうな高野山の葛城修験や根来寺の修験の
そのお寺、よー行ったわー
愛好してる山伏寺院だな
三井寺系統は馴染み過ぎているので
まー根来寺の修験絡みだったらしいで
😀

165:2025/02/07(金) 22:50:39
>>163

日蔵あたりの修験道の後づけの系譜やろ
それらは
😀

166:2025/02/07(金) 22:51:46
俺は本気で
山伏と念仏聖の
霊感世界を理解したい人間やからなー
😀

167:2025/02/07(金) 22:53:42
日蔵夢記の 
霊感の扉は
とても
謎めいていて楽しいー
最近、少しづつ解読しつつあるが、
わからないのも
まだまだあるやろなー
😀

168無名:2025/02/07(金) 23:02:49
>>163で書いたものですが、あと、

・金毘羅権現
・孔雀明王

も追加しときます。


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