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kaohigashi COPIPE

1stzz:2007/07/27(金) 05:51:45
...

2名無しさん:2007/07/27(金) 05:53:06
Unknown (小谷野敦) 2007-05-12 22:27:50  私はルソー好きだなあ。「孤独な散歩者の夢想」なんか特に。

Unknown (kao) 2007-05-13 14:47:15 私は新潮文庫の井上究一郎訳で読んでますが、これが性に合わないのかも。『失われたときを求めて』(ちくま文庫)、何度トライしても読了できないのは、井上訳のめりはりのないのったりしたリズムについていけないから、というのがありそうです。『告白』もそうで、もっとあっさり訳してよ、と思うことがしばしば。

Unknown (koyano) 2007-05-13 21:57:32 「夢想」の新潮文庫は青柳瑞穂だよ。『告白』は私も井上訳で読んだ。金沢君のおじいさんね。まあ、もともとあれはねちねちした文章です。

Unknown (kao) 2007-05-15 17:28:19 『夢想』、まだ読むつもりで買ったままです。『告白』が下巻で完全にストップしてまして。あの、内輪の個人名はどうぞお許しを・・・。

3名無しさん:2007/07/27(金) 05:56:17
単行本が1990年に出たようだが、このころでもそのふざけぶりは衰えてなかったんだなあ。のっけから昔懐かしい調子が出てきた。

 「「歩く饒舌」と噂されている火のついたような唯野のおしゃべりと蟇目の沈黙が仲よく並んで文学部の建物の四階にある唯野の研究室の前までやってくると、ひっそりした廊下の片側に、壁の方を向いたままひとりの女子学生がしゃがみこんでいた。
 「お女中お女中」唯野が声をかける。「いかが召された」
 「はいあの、持病の癪が」
 「国文科の学生らしい」唯野は蟇目とうなずきあう。」(p6)

 これこれ。パロディという単語を初めて知ったのは、筒井を読んでだった。のちにパロディこそ文学の真骨頂だと知るが、当時は本気と冗談の区別がまだつかず、あわいに生きていたので、こういう馬鹿げた調子をスポンジが水を吸うように吸収した。あたしがいまだにこういうおどけたパロディ調を好きなその一因は、筒井にあるのかもしれん。

4名無しさん:2007/07/27(金) 05:57:37
残念ながら、唯野教授の文学論講義自体は、ちっとも面白くない。すでにこちらが文学論に興味を失っていることもあろうが、それ以上にやはり粗雑に感じられて、結局文学を読む際に役に立たない抽象的一般的な文学論に関心を持てない。やはり文学論をやるなら、イーグルトン『文学とは何か』(岩波書店)みたいに、文学論自体を俎上に上げた文学論についての批評、あるいは完全に道具と割り切って、廣野由美子『批評理論入門』みたいな実践的なのを読む方が役に立つと思う。

Unknown (koyano ton) 2006-03-01 00:18:59 エイズの件は糸圭秀実が執拗に批判していて、私は糸圭に反論して、『敵』なんかは秀作だとか、『反=文藝評論』に詳しく書いてあります。

5名無しさん:2007/07/27(金) 06:00:44
コメント Unknown (ton) 2006-04-19 23:23:54 「触手」って君は昆虫か。それを言うなら「食指」。

Unknown (kao) 2006-04-20 13:00:31 わーははは、ご指摘いただき、自分で大笑いしてしまった。ほんとだ、「触手」・・・。我ながら、アホさ加減が、すごいなー。自戒を込めて、訂正せず、残しておくことにします。中学生のころの愛読書に、創元推理文庫のスペースオペラ、「反地球シリーズ」がある。『ゴルの巨鳥戦士』が第一巻。このシリーズには、人の乗れる巨大な鳥だけでなく、すごく知性のある、人間みたいにしゃべる昆虫が出てきて、小難しい台詞をいいます。なんかその知的な昆虫になったような気分。しかしあーアホやなあ。

Unknown (ton) 2006-04-20 13:32:47 私は米文学といったら、メルヴィル、ヘンリー・ジェイムズ、ヘンリー・ミラーなんだが、好みがだいぶ違うみたいね。ヘミングウェイなんて大衆作家としか思えないし。

6名無しさん:2007/07/27(金) 06:05:26
では (あえて名を秘す) 2007-03-06 03:33:20 四方田氏がそんなに凄い人なら、なんで東大比較の教授じゃないんでしょう?

Unknown (kao) 2007-03-06 18:19:02 人事などにはまったく疎うございまして・・・。四方田先生、非常勤では大学院で講義なさっていました。私も思います、四方田氏や稲賀氏や小谷野氏が比較に戻れば、華やかさでは抜群でしょう。でも大学院の人事は、大学院に所属する教員だけの思惑では決まらないようです。T大でもK場の大学院のスタッフは、まず学部の教養課程でどんな語学を担当するかで、相当に絞り込まれます。そこは結局、H郷出身の外国語研究者たちの縄張り・・・。

7名無しさん:2007/07/27(金) 06:06:52
Unknown (あえて名を秘す) 2007-03-07 01:17:30 ああ、四方田さんは宗教学ですからね。第二の中沢事件になってしまう。

Unknown (kao) 2007-03-07 15:35:02 最近ではK場も、小森先生をはじめT大外の割合が増えましたが、由良君美のころは確かに肩身が狭かったでしょうね。K場に実力者が多いのは間違いないです、恐らく日本の大学で最もスタッフの質が高いと思います。ただ、全体に、T大でもH郷の学部、大学院と生粋のT大出身者が多いようです。そして彼らに実力者が多いのも事実です。

8名無しさん:2007/07/27(金) 06:17:40
2006-10-20 欧米  オスカー・ワイルド『獄中記』(田部重治訳、角川文庫、1998)

 風俗喜劇で時代の寵児となったワイルドだが、年少の友人、アルフレッド・ダグラスとの男色関係を、その父親の貴族から訴えられ、有罪となって、二年間の下獄生活を送る。本書はこの獄中体験を経ての、魂の再生の記録。大正時代は、あの放蕩児ワイルドが魂の問題に目覚め、個人主義者として生まれ変わった記録として、大正教養主義との関連で、熱心に読まれた。今でもこうして文庫が出つづけているのだから、一定読者がいるようだが、特に読んで愉快だったり感心することもない。逆に、いまだに文庫で出ているのが謎だ。先日新潮文庫の福田恆存訳を手に入れた、こっちを読んだ方がよかったかな。

コメント Unknown (小谷野敦) 2006-12-25 01:30:18  どっちを読んでも同じ。私は途中で放り出した。

Unknown (kao) 2007-01-09 10:14:39 タイトルだけで売れている本でしょうか。

Unknown (小谷野敦) 2007-01-16 01:34:28 タイトルで売れていたといえば「情事の終り」だなあ。

9名無しさん:2007/07/27(金) 06:24:37
コメント Unknown (ekatof) 2007-02-16 04:00:46 20世紀後半という条件でベストワンを挙げるなら、カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』だなあ。これだけは不動。読んでいる作品数が少ないから今ひとつ頼りにならない評価だけれど。
……申し訳ないことにkao君のベスト3は一つも読んでいないです。クンデラくらいは読もうと思うのだが……。

Unknown (kao) 2007-02-16 08:31:28 こちらは『冬の夜』を読んでないという・・・。『蜘蛛の巣の小道』(福武文庫)だけ読んでますが、よかったです、こちらはふつうのリアリズムですけどね。ナボコフ『青白い炎』(ちくま文庫)とともに、今年中には読みたい一冊。
クンデラはいろいろいわれるが、『冗談』一冊で世界文学の歴史に名を残すにふさわしい仕事をしたと思います。あと短編集『可笑しな恋』(集英社)もいい。
人生は思っていたより短そうなので、とにかく死ぬまでに読みたいと思っている本を、気持ちの盛り上がりとか体調の万全とかを待たず、遠慮せず読む。当面はこの方針で行きたいと思っております。

Unknown (小谷野敦) 2007-02-18 12:17:17 そんな新しいものばかり読んで・・・。「佳人乃奇遇」を読みたまえ。

Unknown (kao) 2007-02-20 22:48:44 こういう海外小説の読書は、文学青年(今は中年)の楽しみのためですから。『佳人乃奇遇』を純粋な娯楽としては読めませんよ。『経国美談』は三国志みたいで血沸き肉踊りましたけど。
ところで先のクンデラの短編集、タイトルを間違えています。千野栄一他訳『微笑を誘う愛の物語』(集英社)が正しく、文庫化に際し西永良成が訳し直し改題して、『可笑しい愛』となりました。

Unknown (小谷野敦) 2007-02-21 00:24:15 その年で中年なら、俺は初老か。

Unknown (kao) 2007-02-21 09:55:12 年齢は精神的なものもありますから。小谷野さんみたいに、今の四十代前半は若者といえる人もいれば(ダウンタウンの松本も、「オレの子どものころの四十ってものすごいオッサンに見えたけど、自分がなってみたらぜんぜん自覚ない」とかいってました)、李賀みたいに、齢二十にして心已に朽ちたり(引用は正確でない)、なんてこともあります。私個人は自分の人生のいちばんよい時期は二十代で終わった気持ちです。あとはその遺産で食べていくというか。

10名無しさん:2007/07/27(金) 06:50:10
漱石は軽文学の王だった!
日露戦争は、日本の近代文学が成立するうえで、大きなターニングポイントになった。「日露戦後」文学とは、どのようにつくり出され、社会に定着していったのか。島崎藤村、国木田独歩、田山花袋、小栗風葉、夏目漱石という、当時を代表する5人の作家に焦点を当て、それぞれの評価の転変を詳細に跡づけながら、近代日本の歴史の中で、文学が文学となった時を考証する、俊秀の鮮烈なデビュー作。

大東 和重
1973年、兵庫県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学術博士。専攻は日中比較文学。近畿大学語学教育部講師

11名無しさん:2007/07/27(金) 06:51:39
◆大東和重『文学の誕生 藤村から漱石へ』講談社、2006年12月

本書は日露戦争後の文壇が分析される。

論じられる年代は、明治39年から41年にかけて。期間は短いが、この時期は近代文学にとって極めて重要だ。なぜならこの時期に、<文学>概念が大きく変化したからである。そして、この時期に確立した文学の評価軸は、おそらく現在までも強固に残っているであろう。この時期に、文学の世界に一体何が起きたのか。著者は、当時の批評を丹念に読み解きながら、このダイナミックな変化を記述する。

取り上げられる作家の名前は、島崎藤村、国木田独歩、田山花袋、小栗風葉、夏目漱石。

本書では、彼らの作品そのものが分析されるのではなく、彼らを巡る批評が分析の対象となる。そこから見えてくるのは、<自己表現>という文学の善し悪しを判断する基準だ。要するに、作品の価値はとりもなおさず「作者」にあるとする文学観。したがって、この時期を境に、真面目な「作家」(作家その人が実際に真面目だろうと、作品の読み取りから得られる作家像にせよ)の評価が、がらっと変わるし、不真面目な「作家」は評価が下がり、やがては文学史からも消えていく。このあたりの作家たちの栄枯盛衰の物語が非常に面白い。

メディア: 単行本(ソフトカバー)

12名無しさん:2007/07/27(金) 06:54:02
その後小谷野さんは、『もてない男』(ちくま新書)でブレークした。自分はたまたま、台湾から帰国後に研究室主催のシンポジウムで、小谷野さんと同席した。また、東京に戻ってきた小谷野さんは、自分の通う学校に、週に一度教えに来ていた。それで研究室でお目にかかると、たまに話をするようになった。むろん、著書も幾冊か拝見し、勝手に親近感を抱いている。そして最近、自分の論文を小谷野さんに見てもらうことがあった。専門の異なる人の論文なんて、用でもない限り、なかなか読めないものである。しかも相手は忙しい人だ、論壇誌や文芸誌に評論を、同時に数本も連載している。著書も年に数冊出る。敬愛する先輩に、多忙の中論文を読んでいただき、お褒めの言葉も頂戴した。感謝である。

13名無しさん:2007/07/27(金) 07:11:04
 さて読書の感想。二年ほど前に、同著者編の『だから教授はやめられない 大学教授解体新書』(ジャパンタイムズ、1995)を読んだことがある。大学教員にまつわる惨憺たる現状を暴露した本。どんな業界でも内輪暴露的な本はあるもので、ことに例えば警察や大学など、本来ならば正義がまかり通るべき、聖職と世間から見なされている業界ほど、暴露の格好の対象となる。最近では男子小学生の、将来つきたい職業ベストスリーに、「学者」というのが入るらしい。大学教員は羨ましがられる職業の一つへと成り上がった。当然その内輪暴露も書かれる。

 しかし自分は、ここで描かれるような大学残酷物語を経験したことがない。自身悲惨な目に遭ったことがないだけでなく、また所属する大学院でも目にしたことがない。うちの大学の先生たちは、研究と教育と行政でまさに忙殺されている。実際研究室の主任は、昨年三月、過労死なさった。うちの大学で見ている限り、大学教員はのんきな商売、したいことをしている趣味人的な商売どころか、殺人的に労働量とストレスの大きい商売である。

 そもそもこの手の暴露本でよく書かれる、大学教員の横暴など、見たことがない。そんなどうしようもない人間ばかりが大学に巣食っているなら、いくらなんでも機能しなくなる。また、無能無能といっても、そもそもみんなが有能なはずない。本書では五年以上論文を一本も書かない数多くの大学教授が痛罵されているが、大学院もなく、週五六コマの授業をこなしさえすれば学生を指導する必要もない大学の教員の場合、研究しろといっても無理でしょ、モチベーションがまったくないんだから。そういうのははじめから批判の対象にしても無意味だ。本書で描かれるような、研究も教育もしない大学教員の無能、コップの中の嵐の権力闘争、セクハラやパワハラ、前近代的な大学組織などは、どこの世界でもあるんじゃないかしら。取り立てていうほどでもない。

 それよりも、身をもって経験した、大学教員の最も悲惨な事実は、その教員になれない、ということである。

14名無しさん:2007/07/27(金) 08:55:56
大東和重. Ohigashi, Kazushige. 中国語. 日中比較文学

大東和重 オオヒガシ カズシゲ Ôhigashi Kazushige 軽文学の王・夏目漱石の栄枯盛衰――あるいは明治40年,文学の自己同一化 The Rise and Fall of Natsume Sôseki: The Self-Identification of Literature in 1907

大東和重 オオヒガシ カズシゲ Ôhigashi Kazushige 恋愛妄想と無意識――『蒲団』と中国モダニズム作家・施蟄存 The Delusion of Love and the Unconsciousness: Tayama Katai’s Futon and Chinese Modernist Writer Shi Zhecun’s “Meiyu zhi Xi”

15名無しさん:2007/07/28(土) 09:00:56
わが読書
「かれらは生きていて、かれらはぼくに語りかけた」(ヘンリー・ミラー『わが読書』)

2007-01-10 その他
石原千秋『学生と読む『三四郎』』

 石原千秋『学生と読む『三四郎』』(新潮選書、2006)

 日本文学が専攻の大学教員が書いた、大学教員の仕事と日常。自分も大学教員で食べているので、他の人はどんな風に過ごしているのかなあと思うことがある。参考になるかと思って読んだ。

 石原氏の論文は、もちろん同じような時代や作家を扱っているので、読んだことがある。特に感心はしない。本書でもくり返し書かれているが、石原氏の立場は「テクスト論」とかいうらしい。これは、「作者は死んだ」「テクストは間違わない」とかで、作者を無視し、テクストだけを論じるという立場。別にそんなものにこだわる必要はないと思うが、石原氏はこだわっていて、学生たちを指導する際に、『三四郎』を論じていても、「夏目漱石」の名前は一切出させないらしい。

 へー。すごいな。どうしてそんなことをするのか、私にはさっぱり分からない。これが教育的立場? 言葉の意味はよく分からんが、本人はとにかくすごい自信である。本書を読んで驚くのは、この恐るべき自信である。著者は確固たる信念をもって、学生たちにびしびし教育を施している。文学部で二番目に厳しい先生とかいわれているらしいが、厳しくするには、それを裏打ちするだけの努力と自信が必要だ。

 努力はしている。徹夜でレポートの添削をしたり。これはえらい。しかしこの自信がどこから来るのか、謎である。自分も文学を講じたりすることがある。いつも思うのは、こんなこと教えて何になるかな、というもの。自分の立場は、こんな本があります、読むとけっこう面白いです、みんなも試しに読んでみて、しばらく面白い思いができるよ、これで人生観がちょっと変わったりするといいね、一銭にもならないけど、人生が豊かになったらいいなあ、でも文学の読みすぎで性格がゆがむこともあるから気をつけて、それと文学は中毒性があるから、趣味程度にたしなむように。こんな感じのスタンスである。教えるものはないと思っている。単にサジェストするだけ。

 だから文学を教えるのは難しいし、空しい。しょせんは教えてどうこういうものではない。教えられるのは、読み方のテクニックとか、研究する際のテクニックとかだが、これはあくまで補助的なものである。やはり外国語を教えているときの、実質がある手ごたえなどない。

 そういう疑問を感じずに、

16名無しさん:2007/07/28(土) 09:01:58
 そういう疑問を感じずに、堂々と文学を教え、学生の書いたレポートを内容の面で評価し、添削をしている。すごい。私には絶対無理です。そして、申し訳ないのだが、そこで引用されている学生のレポートというのが、たまげる。私には読んでも、ちっとも面白くないし、理解できない。無意味なことが書いてあるとしか、思えない。テクスト論だから、事実を積み上げるようなレポートじゃないのよ。それを著者は、これはよく書けてるとか、まだまだ甘いとか、評価するのである。すごい自信だ。

 私が今この著者のクラスに参加しても、最低の点数しかもらえないだろう。そもそもこういう、成長しただとか、必死で食らいついてきただとかいう、道場スタイルには、昔から嫌悪感を覚える(中島梓の「小説道場」は、テクニックを磨く講座だから、別)が、それ以上に、この人の求めているようなものを、どうしても書きたいと思わない。いやとにかく引用されているレポートだけでもいいから見てみてよ。これが日本文学のレポートだとしたら、私はそんな研究いらない。

 これはそもそもの立場が違うのだ。この人は、テクストを読み解くということに、至上の価値を置いている。私は、作品なんてのは、ずいぶんあいまいな価値しかなくて、ある作品、例えば漱石の『三四郎』が特権化される理由が、分からない。これは断言する、『三四郎』は日本文学史上の最高傑作だと思っています。私はもう十数年読み返してないが、あまりに好きすぎて読み返せないのである。しかし、ここで引用されたレポート・・・『三四郎』って、こんなつまらない話だっけ、としかいいようがない。

 いくつも疑問がある。著者なんて関係ないなら、どうしてもっと三流作家の小説を読まないのよ? 『三四郎』がすぐれてテクスト分析にふさわしいなら、それは漱石が書いたからではないのか? それに、作者なんて関係ないなら、どうしておたくも匿名で本を書かないのか? 作者名を記すことの意味はどこにあるのか、考えなくていいのか?

 私も人並みに文学理論から恩恵を受けている。しかし、文学理論をふりかざす人たちのいうことには、ちっとも感心しない。バルト自体は、それを読む楽しみがある。しかし、じゃあその主張のごく一部である「作者は死んだ」を金科玉条のごとく振りかざして、阿呆の一徹で、この教室では作者の名前を出してはいけません、これは教育的配慮です、なんてのは、硬直した教条主義で、しかも傲慢でさえあると感じる。

 ・・・いや好んでそこに参加する人のことはいいのよ。勝手にやればいいから。でもこういう考え方が一般的になるとしたら、文学ってほんとつまらない。もういい加減、漱石ばっかり論じるのはやめようよ。あたしはこんな風にテクストを読みました、なんて、読書感想文ばっかり書くのはやめようよ。人の読書感想文なんて、その本を読むことの楽しさを削るばっかなんだからさ。しかも、ここで引かれてるレポートの文章みたいなのが蔓延したら、たいへんだ。文学以外が専攻の人に見せてみてよ、理解不能だと思うよ・・・実際今日本文学の論文を書く人のかなりな割合は、客観的に見てものすごい変てこな文章になっている。例えば先に記した、自分の本のレビューを書いた人の論文の文章なんて・・・いかん、下品になるからやめよう。でも引用してみたい。すごいよ、これが同じ日本語か、しかも同じ専攻か、と思うから。

 読みながらしばしば立腹した。でも立腹する必要はないか。ぼくとは関係ない人だし。みんな好きなようにやればいい。研究の世界には、それぞれ確固たる信念をもって研究を進めるうるさ方も必要だ。それに、ああ、これが大学教員の日常か、というのは参考になった。それと、石原先生、長年文学がご専攻のわりに、ゆるい感傷を書いたり、学生とのゆるい冗談の言い合いがあったり。正直、デリカシーのない文章を書くのね。今手元に本がないので正確に引用できないが、平気で、スタイル抜群の美人、なんて書くのよ。すごいなー。これは文学をやっていることの意味自体が問われるのだから、考え物だと思う。ただ、これがいい文章だと思う人がいるとしたら、それは違う星の下に生まれただけで、勝手にやってくれればいい。井伏鱒二を一回読んでみてよとはいいたいが・・・最近こればっかね。

[付記]ちゃんと引用しておこう。

17名無しさん:2007/07/28(土) 09:02:43
[付記]ちゃんと引用しておこう。まず道場風。プライドが高すぎてレポートが出せなかったという学生に対して、「僕は心の中で「そのプライドと折り合いを付けてから出直してこい! そうでないと、お前は一生不幸になるぞ!」と叫んでいた」(94頁)。次にゆるい冗談。コンパでの「大サービス」というやりとり。「「ねー、ねー。先生、ウッチャンに似てるーッ。」「何言ってるんだ。似てるんじゃないよ。俺はウッチャンなんだよ。最近までドーバー海峡横断部にいたから大変だったんだ。その前は、芸能人社交ダンス部だったしさ。」」(22頁)。こんなのもある。「「ねぇ、そのシャツ、コム・デ・ギャルソンじゃない?」「先生、よくわかりますね。僕は就職もそっち関係を狙ってるんです。」「そうか。僕はスーツはコム・デ・ギャルソンだけど、シャツに二万円出す気にはなれないなぁ。それにギャルソンのシャツはワンサイズじゃん。僕には大きすぎるんだよ。」」(137頁)。そんで最後に、私には決して書けない文章。「中井貴子は、今『JJ』から飛び出てきましたという感じのスタイル抜群の美人だ。(中略)彼女はアナウンサー志望だったのである。そこで、学生時代に知的な言葉を身に付けておきたくて、僕の演習に食らいつく覚悟で来たのだった」(158頁)。ざっとこんなもんです。どーですかお客さん。

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Unknown (小谷野敦) 2007-02-03 18:08:10  へえ。 文学部じゃなくて教育学部だよ。

Unknown (kao) 2007-02-04 11:11:23 内容は、S城大学時代の話なんです。正確には、「B芸学部」みたいですね。

反発だけ (イチロー) 2007-06-07 06:09:03 反発と嫉妬だけでこういう下品で意味不明なブログを書いてしまうあんたが、羨ましい。普通はもっと理性が働くけどね。

Unknown (kao) 2007-07-05 15:13:50 あら、こんなところにコメントが。
石原氏のこの著書に対する反発は、ブログに記してある通り。
嫉妬、というのは、私の石原氏に対する嫉妬、ということでしょうが、どうして私が石原氏に嫉妬せねばならないのか、分かりません。面識はなく、世代も違うし、業界も違うし、私なりに表現する場所も与えられています。学界で威張れるような地位につきたいなどと考えたことは、金輪際ありません、石原氏が威張ってるかどうかは知りませんが。要するに、私には石原氏に対し嫉妬する理由はなく、その結果、石原氏に嫉妬したことは、一度も、たとえ瞬間でも、ありません。
下品は、少し認めざるをえないでしょうね。もし石原氏と面識があったら・・・もうちょっと筆を抑えただろうなあ。これは私が小心者であるということで、理性は関係ないですが。

18名無しさん:2007/07/28(土) 09:07:40
慎みを欠いた観察, 2006/7/6
By 慈眼生 - レビューをすべて見る

この本のとりえは、テクスト論とか『三四郎』云々とかよりも、むしろ大学生や教官たちの生々しい描写にあろう。自意識過剰なあまりレポートを書かない男子学生や、業績がないのに自己主張だけはつよい教師など、きわめて卑近なところから成城大学という空間が記述されていく。その慎みを欠いた観察のおもしろさは小谷野敦の本を思わせる。ただ気になるのは、これほど成城のことを生々しく描いているにもかかわらず、著者自身のことについてはある抑制が働いているのではないかということだ。たとえば、著者は成城に対してくりかえし自身の愛着の深さを語っているが、ではなぜその成城から早稲田に移ったのか。そこは全く触れられていない。やはり著者自身の卑近な欲望とかも描いてほしかった。つまり著者がすこしカッコよくすぎるのではないかと思う。そこが小谷野敦との違いだ。

_________________________

石原先生に師事したかったなあ, 2006/6/13
By きっちょ (神奈川県川崎市) - レビューをすべて見る

日経の書評欄でとり上げられてて、読んだらすごくおもしろかった。
すごいよ石原千秋。
大概の大学教員なら、この大学大衆化の時代、「ふつうの大学生」に対して、『貴様らこのサルが、こんなことも知らんで大学に来るな』と、はなっから見放したりするところを、ちゃんと正面から向き合って「大学生のレベル」へと引き上げようとする。年4回もレポートを課し、そのうえそれ全部添削して返すなんて、信じ難いほどの労力ですよ。
少なくともこの人は、研究者である自分と等しく、教育者であり続けようと自らをきびしく律している。そこにうそ偽りなく感動しました。
ただね、この本に登場する「ちゃんとした文章が書けない男子学生」に、「自分の気に入った研究者の真似をしなさい」とアドバイスしたら見違えるように進歩した、というくだりはどうかと思う。だって、学生がコピーした対象が自分(石原千秋)なんだもん。そりゃ事実なんだろうけど、さすがにそれを臆面もなく書くのは恥ずかしいぞ、石原。
それからもうひとつ。ふつうの人である私から見ると、やっぱり文学って、なんか胡散臭い。この本に登場する学生たちの「成長の軌跡」は、申し訳ないが「素直なフツーの子たちが、なんだかヘンな方向に行っちゃった」風にしか見えない。

19名無しさん:2007/07/29(日) 05:41:52
わが読書「かれらは生きていて、かれらはぼくに語りかけた」(ヘンリー・ミラー『わが読書』)

2006-08-08 欧米 オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

 オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』(福田恆存訳、新潮文庫、1962)

 いやあびっくりつまらなかったね。こんなに著名な小説が、こんな出来損ないだとは思わなかった。完全に素人の小説だ。

 ワイルドって、曲がりなりにも十九世紀後半のイギリス文学の一方の雄という扱いだと思うのよね。唯美主義のチャンピオン、英国世紀末文学の代表者、みたいな。この作品だって、どんなイギリス文学史でも出てくる。しかし構成にせよ人物造形にせよまったく練れていない。それに、ほとんどどうでもいい駄弁の連続である。いやドリアンを罪悪の道へと誘う役割を果たすヘンリー卿の、逆説に富んだエピグラムだとかは、けっこう楽しいのよ。自分はチェスタトンも好きだからさ。でも、それ以外に読むところがない・・・。ヘンリー卿が出なくなってからは、退屈なもので、しかも何でも下手くそに説明してしまうものだから、読んでいて自然とああ納得とか、心を動かされるようなシーンが、ちっともない。

 ワイルドというと、「存在すること(エグジステンス)と生きること(リブ)は全く別のことだ」なんていう台詞が思い浮かぶ。これをもじるなら、「書くこと(ライティング)と物語ること(テリング)は全く別のことだ」とでもなろうか。今即興で考えたんで通じるかどうか知らんが。

 まだ戯曲の方がマシなのかしら。あるいは、昔習った先生が、小説も戯曲もつまらんが、評論はなかなかいけるんだ、とおっしゃってた。確かに、警句をつなげただけの、直に文章を連ねるジャンルの方が、向いてはいるかもしれない。座談に生命を燃焼させた人らしいので、人物は一流だったのかもしれんが、しかしそれでも、本書から判断する限り、作家としては二流だわなあ。文学は所詮は残されたものから判断するしかないわけだから。

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コメント Unknown (小谷野敦) 2006-12-16 01:58:56 ワイルドを面白いと思ったことは一度もない。

20名無しさん:2007/07/31(火) 08:04:11
2005-04-26 日本 ---  丸谷才一『たった一人の反乱』上(講談社文庫、1982)

 谷崎潤一郎賞受賞作シリーズ、第二弾。丸谷才一は1925年生まれ。1924年生の安部公房・吉行淳之介・吉本隆明、1925年生の三島由紀夫・辻邦生らと同世代。ずいぶん多彩な面々だ。丸谷だけは一冊も読んだことがないものの、前々から玄人受けする作家と認識している。少なくともいまだ旧仮名遣いを用いており、『文章読本』などの著書もある人なので、文章では読ませるはず。今回期待は大きい。

 ふと気づいたのだが、過去の谷崎賞受賞作、よく見ると読んだことのあるものが、そこそこある。第一回の小島信夫『抱擁家族』(講談社文芸文庫)、第三回の大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫)、第六回吉行淳之介『暗室』(講談社文芸文庫)、第十五回田中小実昌『ポロポロ』(中公文庫)、 第十七回深沢七郎『みちのくの人形たち』(中公文庫)、後藤明生『吉野太夫』(中公文庫)。書いてみて気づいたが、『抱擁家族』『万延元年』『暗室』はそれぞれの作家の代表作だし、『ポロポロ』は隠れたファンも多い田中小実昌の小説代表作、後藤明生『吉野太夫』も不思議な味わいの名作。要するにいずれも劣らぬ傑作だが、ことに深沢の『みちのくの人形たち』は、神品。一字一句味わって、まったく無駄というものがない。

 受賞作家の他の作品、ということになると、大半の作家は読んだことがあり、どれもがそこそこの作家。大庭みな子でずいぶんつまづいたが、今後は期待できるかな。

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21名無しさん:2007/07/31(火) 08:05:58
2005-04-27 日本 --- 丸谷才一『たった一人の反乱』下(講談社文庫、1982)

 さて読書の感想。読んだのは火曜日。火曜日は、午前中小田急線鶴川にある某大学で授業、夜東武線川越にある某予備校で授業の日。朝大学へ向かう電車の中で読み始めたのだが、やめられなくなった。車中と授業の合間を含め、夢中で読みふける。要するに、これはかなり面白い小説である。変てこな小説やなおかしな読書感やな、と首をかしげつつ、とにかく無性に引き込まれて読んだ。こういう引き込まれ方は珍しい。以下の感想は、はネット読書第一回のもの。・・・

 驚きの面白さだ。これだけどうでもいいことしか書いてないのに、これだけ惹き込まれるとは。これまでまったく読んだことのないタイプの小説である。少しとりとめがなくなると思うが、ぼちぼち感想を。

 ストーリーは、エリートの中年サラリーマンが、柄にもなく若いモデルを妻とし、その祖母にあたる刑務所帰りの老婆が居候してきて、てんやわんや。これに、小才がきいて弁の立つ、モデルの父の元大学教授、反体制的なカメラマン、長く尽くしてくれたのに、突然自分の才能に目覚めて辞めていく昔気質の女中、といった面々を配する。物語に決定的なヤマがなく、小波乱があるものの比較的淡々とした日常がつづく。これは下手をすると、橋田寿賀子ドラマである。

 ところが、大事件の起こる風俗小説や推理小説とは異なった意味で、通俗的なドラマとなるはずにもかかわらず、ものすごく面白く読める。これが意外のもとである。

 その理由の一端は、この、奇妙にうがっていながらなぜか説得力のあるように感じられる、心理の変化や事件の因果をこと細かに説明する、独特の文体にあるだろう。冒頭の、

 「男前のせいで惚れられるとか、顔はともかく気性がうれしいとか、それともいっそ一押し二押し三押しとかなら様になるけれど、ひい爺さんのおかげで若い娘に気に入られるというのは奇妙な話だった。しかしユカリがぼくに関心を示したのは、どうも曽祖父のことからであったような気がしてならない。」〔1〕

 という入り方のねじくれた文体は、全篇を通して一貫している。どうして年の離れた二人が結婚することになるのか、その恋愛のきっかけが何なのかというと、どうもはっきりしない。曽祖父の金時計の話が、そんなに若い女の気持ちを惹くとは思えない。しかしそれくらいしか理由がないと、あれこれ詮索した上で、とりあえずの結論を出す。

 これは全篇そうで、

22名無しさん:2007/07/31(火) 08:06:38
 これは全篇そうで、刑務所帰りの祖母が来たことにしても、女中が突然辞めることにしたのにしても、カメラマンが授賞式で突然暴言を吐き出したのにしても、どうも成り行きがそうなっただけで、決定的な理由の説明ができない。ありきたりの言い方でいうと、この日常にひそむ決定しがたさ、日常の裂け目からふっと運命の曲がり角が来る、その不安さを、つねに引きずりながら話が進む。例えば〔8〕で、刑務所帰りの妻の祖母が来て、妻と女中もともに大酒を喰らったときに、「もしこのときツルがずっと眠りつづけていたならば、あの晩は別にどうということはなく平穏無事に終わり、ぼくの生活は静かに平凡につづいたかもしれない」とある。しかしツルは目を覚まし、安定していたはずの日常が、累卵の危機にさらされる。慎重に検証しているにもかかわらず、事態は曖昧模糊としたままである。

 人々の行動もぼんやり霧の向こうのシルエットのようにしか浮かび上がらない。キャラクターの設定があるにもかかわらず、その性格から彼らの行動を演繹的に導き出すことができない。彼らはかなりの割合で偶然のきっかけで行動するからである。このような、明晰でありつつも曖昧な文体を駆使した作品は、あまりお目にかかった記憶がない。だから新鮮に感じるのだろう。

 そしてもう一つ、冒頭にすでに顕著なのだが、この話は現在の一点から主人公が身の上話をする形をとっている。当然読者としては、その主人公の現在へと至る過程を追い、結局どうなったの? という結末を期待する。若い女と結婚したことで、このような身の上話をせずにいられないどんなひどい目にあったのか、と思いつつ読む。

 その期待は、〔6〕で「とつぜんユカリの祖母が現れたとき、平穏で幸福なその一時期はたちまち終わった」とあるように、刑務所帰りのモデルの祖母が出てきてひとまず満たされる。ところがこの祖母が意外と常識人で、主人公の家庭になじんでしまう。とすると、この祖母の登場ではさほどの事件になってくれないのである。祖母が元夫を殺したいきさつも、期待されるドラマチックさはまったくない。刑務所もあくまで日常の延長にある場所として描かれている。また〔14〕で女中が辞めると言い出したときに、「破局、あるいは第一の破局」なんて言葉が使われているが、大した「破局」ではない、単に女中がいなくて廊下に埃がたまって困る、という程度である。

 また、タイトルの「たった一人の反乱」も、何か面と向かった「反乱」は、カメラマンのいささか若気の至りのごとき暴言を除けば、まったくない。少なくとも主人公には「反乱」などない。市民的な倫理に対する「反乱」が描かれるのかと思ったが、主人公は慎重に自らを保守的な常識人と規定している。さほどの欲も野心もなく、何を目的に生きているのか分からないほど、やや知的であることを除けば、まったく凡庸な人物である。どうして彼が私語りをせねばならぬのか、必然性が結局見えてこない。作者は主人公に自己投影していない、かといってこの凡庸な人物を戯画化しているわけでもない。

 要するにこんな小説作法、見たことがない。どこに力点を置いているのやら、さっぱりつかめない。にもかかわらず魅力がある。すいすい読んでしまう。

 そこで思った、これは現代版『トリストラム・シャンディ』、あるいは『吾輩は猫である』ではないか、と。なまこのようなつかみどころのない小説。小説の約束を無視した小説。メタフィクションというほど派手な仕掛けがあるわけではない。しかし、くだらないなあと思いつつ、安心してその詮索に身を任せることができる。その程度の低い議論をついつい読まされてしまうのは、いわば作者の余裕がその議論をくるんで、手のひらの上であやつり、切迫感がない。これは極めて高度な技である。小説を完全に牛耳っている。唯一苦しいのは、大学教授がつまらぬ講演を延々展開するところで、あれはどう考えても聴衆が楽しむ内容ではない。しかしあれを除けば、作者がよゆうで登場人物たちにしゃべらせている。しかも戯画化というような意地の悪さでなく、そこには妙に切実な感覚がある。要する高度な駄弁である。これは、タイプは違うものの、『吾輩は猫である』と共通する。

 とにかく相当な技術を駆使している。たくさん読めば飽きるかもしれないが、今回は感心した。

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23名無しさん:2007/07/31(火) 08:09:10
2005-07-05 日本 --- 加賀乙彦『帰らざる夏』上(講談社文庫、1977)

 ネット読書会、谷崎潤一郎賞受賞作シリーズ。前回は丸谷才一『たった一人の反乱』、それまでに読んだことのないタイプの小説で、期待はしていたとはいえ、あんな奇想に富む小説だとは予期せず、なかなか堪能した。今回は医者でもあり長編作家でもある、加賀乙彦。とにかく長い小説を書いている、評論も長編小説を扱ったものが多い。小説は長ければいいと思っているあたり、嫌いではない。しかし恐らくベタなリアリズムなんだろうなあ、と思いつつ読んだら、その通りだった。以下読書会第一回の感想。・・・

 全体的な印象などから、ざっと書いてみますか。細かいことは置いといて。

 この小説、書くのに相当時間がかかっていると思う、巻末の年譜を見たところ、この小説は自伝的な内容になっているらしく、自身陸軍の幼年学校に通っていたのね。にしても、戦争から半世紀後に書かれたと思われないほど、戦時下の軍隊はかくもあらんと思わせる軍隊用語が駆使してあって、これまで読んだ、太平洋戦争を素材にした小説で、もっとも当時の言語空間を感じさせる小説だった。「八紘一宇」がどうのなんてレベルじゃないね。ただし、それがどこまで正確なものなのかは、分からないけど、とにかく自身がそういう軍事教育を叩き込まれたにしても、これだけ軍事用語で統一して書き出すのは、やはり困難だと思われる。ずいぶん勉強しなおしたんじゃないかなあ。

 しかし内容は、おっしゃるとおり、素朴な小説だ。そもそも意図ははっきりしない、何を書きたかったのか。単に自身の人生をたどりたかったというなら、それにつきあわされる方はたまったもんじゃない。戦時下の少年の心理を書きたかったのか? にしては切迫するものがない。もしこの小説から、稚児云々というのを除けば、ずいぶん魅力のない小説になってしまうんじゃないかなあ。というか、太平洋戦争末年の軍事少年がいかなるものだったか知ったりするという目的以外に、単に小説としてだけ読んだときには、稚児の話以外に読むべき場所がないような気もする・・・。

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24名無しさん:2007/07/31(火) 08:10:03
2005-05-04 日本 ---  丸谷才一『横しぐれ』(講談社文芸文庫、1990)

 この人、小説がむちゃくちゃうまいよ。ストーリーは単純。本来なら小説になりえないような地味なものである。国文学者となった中年男が、戦争中に父親が四国に旅をしたときに酒をたかられたという乞食坊主は、もしかして種田山頭火だったのではないか、という推測を、「横しぐれ」ということばを頼りに、山頭火の全集を探ったり、父親のかつての友人にたずねて回ることで、明らかにしようとする、という話。「横しぐれ」なんて、ふだん聞いても聞き流してしまうようなことばが、すでに亡くなった父の私生活、その父親への思い、山頭火という放浪癖のある自由律の俳人の文学や人間、そこへと流れ込む日本文学のことばの伝統などなど、多くのなぞを解き明かす鍵となる。パズルを解くような、というのとはちょっと違うが、父親が出会ったのは山頭火だったのではないか、という疑いを、この「横しぐれ」ということばを頼りに解いていくその手つきは、推理小説の形を借りた過去の事実の絵解きになっていて、鮮やかというほかない。

 丸谷の特徴として、相当な薀蓄を披露していながら、軽い。父親の過去という重いテーマでありながら、厳粛さは感じさせない。そこかこの人の弱みでもあり、魅力でもある。これだけ複雑な技巧を駆使しながら、気軽に読める。へーとかあははとかで済ませられる。軽文学なのである。すごいな。丸谷と同世代の作家たちは、よきにつけ悪しきにつけ、人間性の探求という、重々しいテーマさえ設定していれば、小説としての魅力は二の次だった。小説のうまい吉行淳之介や三島由紀夫にしたところで、最終的には「文学」が顔を出す。面白く読ませる工夫よりも、まず「文学」でなければならなかった。ところが丸谷は、とにかく小説に工夫がある。この人にとって文学の至上の課題はこの巧みさ、高度に洗練された技巧である。ただし、人間性の探求でないといっても、風俗小説ではない。極めて高度な文学である、ただしその文学性の保証に、魂の問題とかを扱わないというだけだ(本書ではアイデンティティの問題をちょっと扱っているが、それも正面からではない)。こりゃ大人の文学だな。

 本書は講談社文芸文庫の、最初期に出た本。ずいぶん前に買った本である。文芸文庫はもともと、講談社文庫で出ていて、当時消えていた文芸作品を文庫化するのがメインだった。この『横しぐれ』も、もともとはふつうの講談社文庫で、それを文芸文庫に収めたのである。のちには独自に編集したものが増える。かつては文芸文庫、よく買ったものです。毎月発刊されるたびに、楽しみにして、最低でも一冊は買っていた。かつては文芸文庫の既刊の半分以上の点数は持っていた。最近は・・・残念ながら、買いたいと思う本が出ない。でもちくま文庫と、この講談社文芸文庫は、限りなく応援している。自分の日本文学の読書は、もちろん新潮文庫や岩波文庫に助けられてもいるけれど、筑摩の文庫版全集「ちくま日本文学全集」と、この講談社文芸文庫に負うところが大きい。いささか旧時代ではあっても、その志の高さは尊敬に値する。しかし、赤字だと思うのに、よくまだつづいてるなあ。この文芸文庫は、本の裏側に記した内容紹介に、ずいぶん力瘤が入っていて面白いのだが、そこでよく使われる用語を利用すると、文芸文庫がいまだ出つづけていることこそ、「力業」だ。

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25名無しさん:2007/08/15(水) 06:46:34
高島俊男『お言葉ですが・・・④ 広辞苑の神話』(文春文庫、2003)
...
高島氏の『水滸伝と日本人』を読み、本来込み入った大して面白くもないはずのテーマなのに、あまりに面白く読めたことに、感銘。『水滸伝』について書かれたもの、についての論、というあたり、自分と手法的にも似てるのよね。そこで、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫、1998)を読み、さらに『お言葉ですが・・・』(文春文庫、1999)、『お言葉ですが・・・② 「週刊文春の怪」』(文春文庫、2001)、『漢字と日本人』(文春新書、2001)と読み進めた。

 それ以来しばらく読まなかったのだが、今回『お言葉ですが・・・③』を読むと、やっぱ面白い。中国文学を専攻している自分にとって、中国や漢文関係の知識が勉強になるのはもちろんだが、自分の言葉の使い方の誤りを教えられることもあるし、あ、こんな本があるの、と気づかされることも多い。

 でもたぶん、いちばん愉快なのは、正論を展開しつつ自分の怒りを正当化していく手つきだろうな。太宰治『津軽』の新潮文庫版に付された、渡部芳紀の注を、揚げ足取りでなく「ちゃんと本文を読んでないからこんなひどい注をつけてるのだ」とこてんぱんにやっつけるあたり、痛快この上なし。

26レザーノフ『日本滞在日記 1804−1805』:2007/08/15(水) 06:48:15
レザーノフ『日本滞在日記 1804−1805』(岩波文庫、2000)

 レザーノフというと、日本を開国させようとして失敗、腹いせに襲撃事件を起こした、という印象の人。プチャーチンなんかより五十年ほど前に、シベリア開発とからんで、日本を開国させようと長崎までやってきた。半年ほど滞在して交渉したが、結局失敗した。行きがけの駄賃で帰りに部下のフヴォストフに命令して、樺太や択捉の番屋を焼き討ち。そもそもレザーノフはシベリアの毛皮商人の女婿で、露米会社の幹部、商売のために日本を開国させようとして失敗しその憤懣をぶつけたという、乱暴者である。

 でも本書を読む限り、あんまり乱暴者のイメージは湧かない。どちらかというと、優柔不断で病弱(実際シベリアを経由しての帰途に四十代で亡くなる)、元軍人だが、艦長クルーゼンシュテルンらに睨まれていたせいか、ペリーなんかに比べてちっとも毅然としていない。気の毒なくらいである。だからといってレザーノフの評価が変わるわけでもなかろうが、この日記だけだと、特に憎めない人だけどなあ。

 ところで本書で最も記憶に残るのは、レザーノフが頻繁に接することになる、日本のオランダ通詞だち。オランダ人との会話やオランダ語の書物を通して、鎖国下の日本で閉じ込められていた彼らは、世界が限りなく広いことを承知している。しかし、知っているだけ。彼らは、漂流でもしない限り、その世界を実際に目にすることはかなわない。その悲哀。解説でも引かれている、ある通詞が、長崎では自由がないと不満を唱えるレザーノフに向っていう、次の台詞。

 「あなたが、自由を束縛されているのは、一時的なことだけですが、私たちは永遠それに堪えていかなくてはならないのです。私たちの父や祖父たちは、米を食べるだけを楽しみに生活を食っていたのです。そして私たちや私たちの子どもたちも同じようにこんな生活を送っていかねばならないのです。私たちは感情をもつことさえ禁じられているのです。」

 江戸時代は確かに一つの安定し平穏なコスモスを作っていたかもしれない。しかしそのことによる犠牲は大きい。逆に、われわれは現在、完結した平穏なコスモスを持たない。その代わりに、野放図にしたいようにできる。やりたい放題である。どっちの方がいいのか。何もやりたくない人には、江戸時代の方がよかろうし、何かをしたい人には、当然近代以降の方がいい。私はどっちかというと後者で、江戸時代なんかに生まれなくてよかったと思う。だが、後者が必ずしも幸せではないことも、事実である。

27レザーノフ『日本滞在日記 1804−1805』:2007/08/15(水) 06:49:26
Unknown (小谷野敦) 2007-06-09 20:37:23 完結したコスモス? 平穏? そうは思わないがなあ。

Unknown (kao) 2007-06-10 11:36:45 ははは、おかましゃべり、いいじゃないの。たぶん一人称でたまに「あたしゃね、こういうの気に入らないのよ」みたいに書くからだなあ。
えーと、幕末から明治初期に日本へ来た西洋人、オールコック、フォーチュン、モースなんかの記録を見ると、「日本人は幸せそうにしている」と書いています。オールコックは、いずれこの幸せも、産業化が進むとともに、失われるだろう、みたいなことも。
幸せかどうかは、主観的な要素が大きいので、判断できないんですけどね。

Unknown (小谷野敦) 2007-06-11 00:30:49 まあ、田舎の人は朴訥だ、みたいな幻想でしょ。渡辺京二のやつ、『中央公論』で「江戸を美化したつもりはない」なんて言ってるけど、なら私の批判にちゃんと答えろよ。

28名無しさん:2007/08/15(水) 06:50:51
2006-02-17 原書 英語  William Shakespeare. Macbeth. Retold by Anne Collins. Penguin Readers. 2004.

 初めて読んだよ、『マクベス』。本書はリライトとはいえ、戯曲形式のまま、分量もたっぷりあるので、かなり本格的。

 シェイクスピアの戯曲は、その名台詞の数々で知られる。本書にも、死を覚悟したマクベスの、有名な台詞が。やっぱこの辺は、原作か完訳で読めるといいのだろうが。

 黒澤明「蜘蛛巣城」は、「マクベス」をほぼそっくり焼き直したのね。ラストの、森が動くなんてシーンも、記憶にある。黒澤はしかし、何でシェイクスピアの有名な悲劇を、わざわざ日本映画として換骨奪胎しようとしたのか? 映画としては、「蜘蛛巣城」にしても、「乱」にしても、出来がいいとは思えなかった。「用心棒」や「隠し砦の三悪人」みたいな、オリジナル作品の方が、はるかに出来がいいと思うのだが。


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