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kaohigashi COPIPE
16
:
名無しさん
:2007/07/28(土) 09:01:58
そういう疑問を感じずに、堂々と文学を教え、学生の書いたレポートを内容の面で評価し、添削をしている。すごい。私には絶対無理です。そして、申し訳ないのだが、そこで引用されている学生のレポートというのが、たまげる。私には読んでも、ちっとも面白くないし、理解できない。無意味なことが書いてあるとしか、思えない。テクスト論だから、事実を積み上げるようなレポートじゃないのよ。それを著者は、これはよく書けてるとか、まだまだ甘いとか、評価するのである。すごい自信だ。
私が今この著者のクラスに参加しても、最低の点数しかもらえないだろう。そもそもこういう、成長しただとか、必死で食らいついてきただとかいう、道場スタイルには、昔から嫌悪感を覚える(中島梓の「小説道場」は、テクニックを磨く講座だから、別)が、それ以上に、この人の求めているようなものを、どうしても書きたいと思わない。いやとにかく引用されているレポートだけでもいいから見てみてよ。これが日本文学のレポートだとしたら、私はそんな研究いらない。
これはそもそもの立場が違うのだ。この人は、テクストを読み解くということに、至上の価値を置いている。私は、作品なんてのは、ずいぶんあいまいな価値しかなくて、ある作品、例えば漱石の『三四郎』が特権化される理由が、分からない。これは断言する、『三四郎』は日本文学史上の最高傑作だと思っています。私はもう十数年読み返してないが、あまりに好きすぎて読み返せないのである。しかし、ここで引用されたレポート・・・『三四郎』って、こんなつまらない話だっけ、としかいいようがない。
いくつも疑問がある。著者なんて関係ないなら、どうしてもっと三流作家の小説を読まないのよ? 『三四郎』がすぐれてテクスト分析にふさわしいなら、それは漱石が書いたからではないのか? それに、作者なんて関係ないなら、どうしておたくも匿名で本を書かないのか? 作者名を記すことの意味はどこにあるのか、考えなくていいのか?
私も人並みに文学理論から恩恵を受けている。しかし、文学理論をふりかざす人たちのいうことには、ちっとも感心しない。バルト自体は、それを読む楽しみがある。しかし、じゃあその主張のごく一部である「作者は死んだ」を金科玉条のごとく振りかざして、阿呆の一徹で、この教室では作者の名前を出してはいけません、これは教育的配慮です、なんてのは、硬直した教条主義で、しかも傲慢でさえあると感じる。
・・・いや好んでそこに参加する人のことはいいのよ。勝手にやればいいから。でもこういう考え方が一般的になるとしたら、文学ってほんとつまらない。もういい加減、漱石ばっかり論じるのはやめようよ。あたしはこんな風にテクストを読みました、なんて、読書感想文ばっかり書くのはやめようよ。人の読書感想文なんて、その本を読むことの楽しさを削るばっかなんだからさ。しかも、ここで引かれてるレポートの文章みたいなのが蔓延したら、たいへんだ。文学以外が専攻の人に見せてみてよ、理解不能だと思うよ・・・実際今日本文学の論文を書く人のかなりな割合は、客観的に見てものすごい変てこな文章になっている。例えば先に記した、自分の本のレビューを書いた人の論文の文章なんて・・・いかん、下品になるからやめよう。でも引用してみたい。すごいよ、これが同じ日本語か、しかも同じ専攻か、と思うから。
読みながらしばしば立腹した。でも立腹する必要はないか。ぼくとは関係ない人だし。みんな好きなようにやればいい。研究の世界には、それぞれ確固たる信念をもって研究を進めるうるさ方も必要だ。それに、ああ、これが大学教員の日常か、というのは参考になった。それと、石原先生、長年文学がご専攻のわりに、ゆるい感傷を書いたり、学生とのゆるい冗談の言い合いがあったり。正直、デリカシーのない文章を書くのね。今手元に本がないので正確に引用できないが、平気で、スタイル抜群の美人、なんて書くのよ。すごいなー。これは文学をやっていることの意味自体が問われるのだから、考え物だと思う。ただ、これがいい文章だと思う人がいるとしたら、それは違う星の下に生まれただけで、勝手にやってくれればいい。井伏鱒二を一回読んでみてよとはいいたいが・・・最近こればっかね。
[付記]ちゃんと引用しておこう。
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