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kaohigashi COPIPE
22
:
名無しさん
:2007/07/31(火) 08:06:38
これは全篇そうで、刑務所帰りの祖母が来たことにしても、女中が突然辞めることにしたのにしても、カメラマンが授賞式で突然暴言を吐き出したのにしても、どうも成り行きがそうなっただけで、決定的な理由の説明ができない。ありきたりの言い方でいうと、この日常にひそむ決定しがたさ、日常の裂け目からふっと運命の曲がり角が来る、その不安さを、つねに引きずりながら話が進む。例えば〔8〕で、刑務所帰りの妻の祖母が来て、妻と女中もともに大酒を喰らったときに、「もしこのときツルがずっと眠りつづけていたならば、あの晩は別にどうということはなく平穏無事に終わり、ぼくの生活は静かに平凡につづいたかもしれない」とある。しかしツルは目を覚まし、安定していたはずの日常が、累卵の危機にさらされる。慎重に検証しているにもかかわらず、事態は曖昧模糊としたままである。
人々の行動もぼんやり霧の向こうのシルエットのようにしか浮かび上がらない。キャラクターの設定があるにもかかわらず、その性格から彼らの行動を演繹的に導き出すことができない。彼らはかなりの割合で偶然のきっかけで行動するからである。このような、明晰でありつつも曖昧な文体を駆使した作品は、あまりお目にかかった記憶がない。だから新鮮に感じるのだろう。
そしてもう一つ、冒頭にすでに顕著なのだが、この話は現在の一点から主人公が身の上話をする形をとっている。当然読者としては、その主人公の現在へと至る過程を追い、結局どうなったの? という結末を期待する。若い女と結婚したことで、このような身の上話をせずにいられないどんなひどい目にあったのか、と思いつつ読む。
その期待は、〔6〕で「とつぜんユカリの祖母が現れたとき、平穏で幸福なその一時期はたちまち終わった」とあるように、刑務所帰りのモデルの祖母が出てきてひとまず満たされる。ところがこの祖母が意外と常識人で、主人公の家庭になじんでしまう。とすると、この祖母の登場ではさほどの事件になってくれないのである。祖母が元夫を殺したいきさつも、期待されるドラマチックさはまったくない。刑務所もあくまで日常の延長にある場所として描かれている。また〔14〕で女中が辞めると言い出したときに、「破局、あるいは第一の破局」なんて言葉が使われているが、大した「破局」ではない、単に女中がいなくて廊下に埃がたまって困る、という程度である。
また、タイトルの「たった一人の反乱」も、何か面と向かった「反乱」は、カメラマンのいささか若気の至りのごとき暴言を除けば、まったくない。少なくとも主人公には「反乱」などない。市民的な倫理に対する「反乱」が描かれるのかと思ったが、主人公は慎重に自らを保守的な常識人と規定している。さほどの欲も野心もなく、何を目的に生きているのか分からないほど、やや知的であることを除けば、まったく凡庸な人物である。どうして彼が私語りをせねばならぬのか、必然性が結局見えてこない。作者は主人公に自己投影していない、かといってこの凡庸な人物を戯画化しているわけでもない。
要するにこんな小説作法、見たことがない。どこに力点を置いているのやら、さっぱりつかめない。にもかかわらず魅力がある。すいすい読んでしまう。
そこで思った、これは現代版『トリストラム・シャンディ』、あるいは『吾輩は猫である』ではないか、と。なまこのようなつかみどころのない小説。小説の約束を無視した小説。メタフィクションというほど派手な仕掛けがあるわけではない。しかし、くだらないなあと思いつつ、安心してその詮索に身を任せることができる。その程度の低い議論をついつい読まされてしまうのは、いわば作者の余裕がその議論をくるんで、手のひらの上であやつり、切迫感がない。これは極めて高度な技である。小説を完全に牛耳っている。唯一苦しいのは、大学教授がつまらぬ講演を延々展開するところで、あれはどう考えても聴衆が楽しむ内容ではない。しかしあれを除けば、作者がよゆうで登場人物たちにしゃべらせている。しかも戯画化というような意地の悪さでなく、そこには妙に切実な感覚がある。要する高度な駄弁である。これは、タイプは違うものの、『吾輩は猫である』と共通する。
とにかく相当な技術を駆使している。たくさん読めば飽きるかもしれないが、今回は感心した。
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