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自殺は正しい?

1・・・・・・:2005/08/19(金) 19:17:47 ID:4fh.ijD2
くだらないスレッド立ててすいません。
生きたい人は生きればいい。
死にたい人は死ねばいい。
やはりこの通りなのか・・・と最近、絶望感でいっぱいです。
自分がこの世の中に合わないなら、
どんな生き方をしても息苦しいなら、
死んだほうがいい。
死にたい人は病院に行っても無駄だと・・・。
やはりどうしようもなく、
救いようもない。
生きたい人だけが救われる希望がある。
うつ病とかで死にたいと思うなら、
自殺するのはやめたほうがいいかもしれない。
でも、それが甘えだったら、弱さだったら
死ぬのは正しい。気がする・・・迷う。
かまって欲しいくて書き込んでいるんだろうか。
ただ死ぬ前に、何かを叫びたい・・・。悔しい。

78ososo:2009/04/18(土) 22:39:04 ID:mLIbCoR6
e4さん

僕が、あらゆるすべての存在は実は同じ一つの存在なのではないか、と思う理由でもあるのですが。
自己を認識する認識を追及する行為は際限なく続き、
e4さんのおっしゃるとおり自己とは、そうして追究することにより新たに誕生してしまうわけです。
追究を止めてしまえば、止めたその最終地点が「核としての自己」として定義できるのかもしれない。
しかし追求をやめなければ自己はどこまでいっても「こういうものだ」と定義することはできないわけです。
そうすることをどこまでも拒み続ける。
つまりそれは、確定した何かであることをどこまでも拒み続けるわけです。
「これだ」と定義してもまたその定義を探すわけですから、なんとも終わりが見えない。
この永遠に終わりが無いということに、僕は答えがあるような気がしていて、
どこまでいっても何かであることを拒み続けると言うことは、どこまでも何かでないわけです。
何かでないということは、何ものでもないということ。
何ものでもないのならば、言い換えれば何ものにでもなれるということです。
そういう実にオールマイティーな存在が自己を追求していったら現れるわけです。
自己という一点を追求、掘り下げていったら、宇宙のような果てしなく広い空間に出てしまったと言うか。
それは追求していった最終地点に現れたわけではなく、その追求する過程の中にも常に在ったんです。
何でもないのなら何でもある。これは「すべて」ということです。一は全になってしまった。
だから僕は、あらゆるすべての存在は実は同じ一つの存在なのではないかと思うわけです。
これも結構、暴論っぽいですね。

無についてです。
僕は自分以前に意識以前に体感以前に存在としては在ると考えているので
「空白の体感」も無ければ、「空白という認識」も無いところにも、やはり在ると思いたいわけです。
しかし
睡眠時の空白中の自己にとって「在るか」「在る状態ではないか」という概念は機能していない。だからこそ、その空白を、僕達はイメージ出来ないし、
空白として以外解釈出来ないわけです。
→はおっしゃる通りでその空白をどう考えればいいかと言えば「無」がしっくりきますね。
例えば意識や体感の無い存在として在った場合、どうやって在るということを認識するのかと考えてみたのですが、
どう考えればいいか困ってしまいました。
もう少しこの問題については考察してみたいと思います。

79いきてまーす:2009/04/19(日) 06:29:15 ID:JiKC0WbM
 e4さんの趣味はなんですか? 
好きな女性と付き合った事ありますか?
好物はなんですか?
夜空を見つめたりしませんか? 私はよくします。きのうは星がたくさん出ていたなー。

80e4:2009/04/19(日) 16:20:02 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん

趣味はチェスですね。(将棋もやりますが、今はチェスがメインです)
僕は「知恵比べ」が好きなのと、あの底の見えなさ、極めるという言葉が意味を持たないくらい本当に奥が深いところは、
どこまでも考えてしまう僕には合っているのかもしれません。
(海外のトーナメントで優勝したこともあります)
ただ、日本はチェスよりも将棋囲碁が主流ですから(レジャー白書によると衰退の一途を辿っているようですが・・・)、
対人戦をやる時は海外のサイト、アメリカyahooやPlayOK.com等を利用しいています。
将棋よりも駒の再利用が出来ない分簡単というイメージがあるかも知れませんが、実は見方によっては将棋以上にチェスは難しいゲームですよ。
僕は洋服や車、バイク等にお金はかけません。ただ、チェスには非常にこだわりますね。
チェス駒とチェスボード、チェステーブルに五十万円以上は使いましたから・・・

The House of Staunton(ザ・ハウス・オブ・スタントン)
Italfama(イタルファマ)

この2ブランドが僕の愛用しているものです。(この掲示板はURLが貼れないので、興味があったら検索してみてください。)
個人輸入代行業者を利用して購入するので、現地で直接買うよりも若干高くなるのが痛いですが・・・

あと、もう一つはアニメですかね・・・
最近は「機動戦士ガンダムoo」のブルーレイディスクを集めてます。
(アニメのDVDは相当持っていますよ。基本的にシリアスなもの、ダークなものが多いですが。)

好きな食べ物はイカ刺しですかね。基本的に僕は好き嫌いがほとんどないので、(ハチミツは駄目ですが。)、
何でも好きと言えば好きになります。

好きな女性とは付き合ったことはありませんね。付き合う以前の問題として「恋愛感情」を体験したことがありませんから。
容姿が綺麗だとか可愛いだとか、性格がいいだとか、女らしいだとか、そうしたことを女性に対して感じることはありますよ。
ただ、それが個人的な欲望に結びついていかないので、恋愛に発展しないわけです。

夜空の星は眺めることはあります。僕は今大学で「分子生物学」を専攻していますが、
専攻がはっきり自分の中で決まる前は「天文学」厳密には「天体物理学」も候補として持っていたんです。
宇宙の神秘や果てに非常に僕は興味があったし、それは今も変わりませんが、
現在の僕はそうしたことにしみじみと浸っているだけの余裕がない。
星を綺麗だと感じながら、同時に「死」について哲学することをやめることが出来ないわけです。
ですから、純粋に、そうした存在を感じることから、ここ何年も僕は遠ざかってしまっています。
悲しいことではありますが・・・

81e4:2009/04/19(日) 16:56:36 ID:V12x6fAg
ososoさん

僕なりにososoさんが所持している世界観というのを、記述してみたいと思います。
自己は追究するほどに新たな主体(自己)を生み、同時にどこまでも「具体的な自己」であることを拒む。
そしてその合わせ鏡のように無限連鎖する自己の根源に存在するものは、実は全生物が普遍的に共有している、「実態のない何か」
なのではないか?その「何か」というものは全ての存在の根源であるわけですから、自分という人間は、
逆説的に、どんな生物にでもなれる(なれた)、しかし(そして)今は「自分」をやっている。
だから、その根源の何かを「エネルギーの泉」として、その「エネルギーの泉」を「海」に、エネルギーを「海水(水)」に譬えます。
僕達は本来海という「一つの存在」なわけです。そして、その海の海水の一部が、たとえば「四角いコップ」だったり、「星型のフラスコ」だったり、
そうした「器」に入ることで「自己」として誕生する。そして、「死」というのは、様々な容器に入った「形ある海水」が、再び海へと戻っていくことを意味している。
だから、そうしたマクロな視点に立つならば、たとえば、僕は僕でありながらososoさんでもあり、ososoさんはososoさんでありながら僕でもあるわけです。
エネルギーの泉としての「一つの存在」が、ある場所では、「その一部」が「僕という形」で現れ、ある場所では「ososoさんという形」で現れているに過ぎない。
よって、本来僕は存在する全てでありえるし、逆に何者でもありえない。
僕はベランダのサボテンでもあり、隣の部屋の住人でもあり、毎朝近所の歩道を散歩している犬でもある。

しかし、ここで疑問なのは、僕がエネルギーの泉(海)という一つの存在であるならば、他者を思いやる心に「そもそもの意味」があるのか?ということです。
僕は本質的に僕ではなく、同時に全てであるならば、他者と自己との関係性は「巧妙に作られた一人芝居」でしかない。
いずれ全ての容器の海水が海へと統合され、また容器に入り「海の一部として」誕生する。
が、そもそも、他者への愛というのは、自己との「確実な差別」が成立して初めて可能なことのように思えるのですが・・・
海という一つの存在という立場に立つなら、むしろ「自殺」はより一層「個人の自由」を促進してしまうことにはならないでしょうか?
四角いコップの水である僕も、それ以外の容器に入った他者という海水も、全てが「同じ自己」であるならば、たとえば「死んで無になりたい」
というのは「四角いコップとしての自分の死と無」ではなく「エネルギーの泉としての自分の死と無」になるわけで、
そこには「他者を思いやる心」は必要なければ、そもそもの他者が「存在しない」。
これについてはososoさんはどう考えますか?
そしてまた、自分がエネルギーの泉としての存在であるならば、僕達は(僕は)永遠の存在なわけですから、
無を願う「容器の海水」にとってはこれ以上ない理不尽な現実だと思うのですが、どうでしょうか?・・・

82ososo:2009/04/19(日) 21:56:39 ID:mWPhgkVE
e4さんなりに僕の世界観を記述して下さってありがとうございます。
自分で自分の考えを言葉にしようとすると、自分が本当に言いたいこととマッチしていないような気がすることも多いのですが
e4さんの譬えもわかりやすかったので、自分の考えを再理解できました。
e4さんの疑問は、そのまま僕の疑問でもあります。
答えになるかわかりませんが、僕なりに答えてみたいと思います。
不完全な考えだと思って読んで下さい。
e4さんのエネルギーの泉や海、コップなどの譬えはとても気に入ったので、使わさせて下さい。
僕が注目しているのは、僕はエネルギーの泉という一つの存在であるのにもかかわらず、実際は僕という一人の人間だということです。
何にでもなれたはずなのに、何故だか僕であるという事実です。
一つの存在のままでもいいはずなのに、何故だか実際、世界には実に多様な形で様々なものとして現れている。
海のままでもいいのに、「四角いコップ」だったり、「星型のフラスコ」だったりと様々な容器に入って現実世界に現れている。
一つのままでもいいのに、あえて多様であるということに、僕は意味があると思うんです。
愛についてですが、僕は人間のどこかに、本来は同じ一つのものだという直感があるから愛するのかなと思います。
例えば僕は、忌み嫌っていた人が、ふと人間味や弱さを見せたとき、あるいは自分と同じような境遇で苦しんでいると知ったとき
「ああ、この人も同じ人間だったのか」と気付き、親しみや愛情のようなものがわきます。
そもそも個々の存在がそれぞれ独立した存在であるのなら、一緒に在る必要が無いように思います。
共存と言う形をとる必要が無いと。最初から一緒に在る必要が無いと。
共存する為には、そもそも一つの存在から派生したのでなければ、その必要性は生まれないわけです。
どこまでも個別の存在なら、どこまでも個別の存在のままでもいいわけですよね。
にもかかわらず同じ世界で僕らは共存しているわけです。
だからこそ人は愛するんじゃないでしょうか。誰かと一緒にいたいと思えるんじゃないでしょうか。
そんな世界で僕は僕として生きている。
僕の考えは確かに自殺を抑制するものではありません。
僕自身、自殺に関しては個人の自由だと思いますし、正しいとも正しくないとも言えませんし。
ただ僕は、どんな存在でもあれたはずなのに、あえて僕という存在であることがとても不思議で奇跡的なことだと思うわけですね。
一期一会と言うか。そしてこの世界に存在するのは、そんな希少な存在ばかりだということです。
だからせっかくの自分との出会い、他者との出会いを大事にしたほうがいいのかなと思うわけです。
無を願う「容器の海水」にとっては確かに、これ以上ない理不尽な現実かもしれません。
ただ無を願う前に、他のいろんな容器に入っている海水と混ざってみるのもいいのかなと思います。

いろいろと考えてみましたが、結局存在とは謎だなぁと思います。

83いきてまーす:2009/04/19(日) 22:02:18 ID:JiKC0WbM
 中学の長男もチェスを一人でしています。ガンダムも好きです。そして、アスペルガー症候群です。
特徴は人ととの関わりが乏しい、運動が苦手、友達が少ない。そして、親に認めてもらいにくい、かわってるから。

84ososo:2009/04/19(日) 23:20:42 ID:mWPhgkVE
僕は自分のことを全然語っていなかったので語らさせて下さい。
僕の友達で知能障害を抱えている友達がいます。
その友達は親友のお兄さんで昔からよく一緒に遊びました。20年来の付き合いになります。
彼はアニメとドラマと仮面ライダーとウルトラマンが好きでそれが生活の基本になっています。
彼にはルールがあり、頑固なまでにそのルールを守ります。人の言うことはあまり聞きません。
手に麻痺があり字がうまく書けません。計算が苦手です。人混みが苦手です。
結婚相手の理想は自分のことを面倒見てくれる人だそうです(笑)
とても自己中なのですが、僕の悩みを聞いてくれます。僕のことを心配してくれます。
僕は絵が好きで、彼も絵が好きなのでよく一緒に描いたりします。
おしゃべりが好きで遊ぶのが好きで、話題も豊富で本当に楽しい人間なんですよ。
そんな彼が、年齢を重ねるとともに、自殺したいなんて言い出したんですよ。
自分はこんなに中途半端で、生まれてこなければよかったと。もっと何もわからないくらいバカに生まれてくればよかったと。
僕は考えました。彼に一体何て説得すればいいのかと。上っ面な考えでは誤魔化せないと思いました。
どんな人間だって生き物だって生きていちゃ悪い理由なんてないと思ったんですよ。
在りのままで何が悪いのかと。人間が思う優劣なんて、所詮人間が考えたことじゃないかと。
それが絶対なわけがないと。ただ僕も人間で、僕にもどこか優越感があった。
僕も年を重ねるにつれそんな葛藤が深まり、だから本当の生きる意味、存在の理由を知りたくなりました。
それが今の僕の考えに繋がっています。
僕は彼と死ぬまで友達であるし、悩んでいたら話を聞くし、困っていたら助けます。
結構世話が焼けるんですけどね(笑)。だからたまには怒ります、ケンカもします。
彼の存在が僕を存在させるわけです。
また僕の存在が彼を存在させていると思ってくれるならいいなと思っています。
存在の相互関係。一期一会。
そんな僕はまだまだ人生の途中です。

85e4:2009/04/20(月) 04:05:51 ID:V12x6fAg
                    [宇宙生命体、人間を超えた知的生命体、(容器の海水)]

                        自己の誕生 ↑ ↓ 自己の死滅

         (容器の海水⇒海)・・・? ↓   [海水(エネルギー)]     ↑ (海⇒容器の海水) ・・・?

                     海水としての発生 ↑ ↓ 海への回帰

                          [海(エネルギーの泉)] = これが神や仏、あるいは絶対者と呼ばれる存在

                        海への回帰 ↑ ↓ 海水としての発生

(容器の海水⇒海)・・・仏教的な悟り、霊視 ↑     [海水(エネルギー)]    ↓(海⇒容器の海水)・・・神の啓示、守護霊の守護

                        自己の死滅  ↑ ↓ 自己の誕生

[人間、動植物、地球上の生命体(容器の海水)]

86e4:2009/04/20(月) 04:12:48 ID:V12x6fAg
ososoさん

すいません、個人的に考えを発展させて図を作ってみたのですが、思いっきりズレてしまいました。
今から睡眠を取って、また後ほど書き込みますが、図は、これで理解していただけると助かります・・・
(アスキーアート的な書き込み方は初めてなものですから・・・)

87いきてまーす:2009/04/20(月) 05:11:45 ID:JiKC0WbM
 私はいざこざが嫌いで、家庭内のささやかなトラブルに神経を遣い、周りに振り回されたりで、自分がどうしたいのか分からなくなります。
相手を思いやりつつ、自分を大切に生きるが私のテーマです。

人は平等に生れ出ていません。そういうものだと思おう。人と比較するから辛くなる、いやになる。見えない所で、人もいろいろあるのだ。
人は今置かれた状況で、いかに生きるか、その事が尊いのではないだろうか。
と今、感じている。

88e4:2009/04/20(月) 07:52:57 ID:V12x6fAg
いきてまーすさん

あれから、僕なりにアスペルガー症候群について調べてみました。
アスペルガーの方というのは、人とのコミュニケーションが上手くとれない傾向があるようですが、
自分が興味を持ったものに関しては、普通の人以上の集中力と能力を発揮するそうです。
そして、「理論的なもの」が興味の対象になりやすいとも書いてありました。(逆に理論的ではないものは苦手な傾向があると・・・)
調べていて僕が思ったのは、コミュニケーションというのは理屈では語れない曖昧な部分が多いものですよね?
白黒つけられるものではなく、答がない。だから、混乱してしまうのかと思いました。その一方で学問やチェスのように「具体的なもの」はどんなに複雑であっても、
「具体的だから」混乱せず吸収出来てしまう。
息子さんは、チェスをやる時、とても集中して取り組んでいませんか?
僕自身がチェスをやっているのでよく分かるのですが、チェスは非常に複雑なゲームで、本気でやる場合には、とてつもない集中力を必要とします。
どれだけのめり込んでも極めることが出来ない。だからのめり込める。
そうした複雑で奥深いものにアスペルガーの方がのめりこんだ時、一般の人以上の才能を開花させる確率は決して低くないそうです。
(僕らが普段発揮している集中力とは比べ物にならないレベルの集中力だそうですし・・・)
ですから、たとえばチェスのプロになることや、何らかの研究者になるといったことは、
実はアスペルガーの方のほうが一般の人よりもはるかに向いているのかもしれない。
一つの専門的なことを極めることに長けた才能を伸ばせれば、社会的な成功に関しては、普通の人を軽く超えるかも知れません
人間関係に関しては、息子さん自身が悩まれているようなら、一人でも多くの理解者を増やしていくことが勿論望ましいのでしょうが、
現実的に、一般の人からの理解を得るのは難しいとも書いてありました・・・

ろくな事を書けませんでしたが、最後に。
アスペルガーの方の爆発的な集中力がうまく引き出せたなら、僕は息子さんはもしかしたら「チェスのプロ」に(チェスじゃなくても構いませんが)なれるのではないかと思いました。
理解者さえいれば、(これが難しいのだそうですが)、息子さんは非常に個性的な何かを成し遂げるのかも知れません。

今現在、僕の中で情報が少ないので、これ以上具体的なことは書けませんが、僕は息子さんの才能が、息子さんの幸せにつながればいいと、そう思いました・・・

89いきてまーす:2009/04/20(月) 08:32:29 ID:JiKC0WbM
 e4さんありがとうございます。 本を読むりか、e4さんのコメントの方が
私にはスーッとはいりました。不思議と。
好きな事をやらせてあげよう、見守ってあげようと思いました。ただ、思春期で、時々ビビってます。
コツをわかったようで、ケースバイケースで、弟に当たられるのが、いやで。とほほ。
早くおおきくなーれ。

90e4:2009/04/20(月) 09:38:48 ID:V12x6fAg
ososoさん

一つの存在でいいのに、あえて多様な現れ方をしている点に関して、そして、海と海水と世界の関係に関して、
僕があれから考えたことを記述します。(例のズレた図を見ながら読んでもらえると助かります。)

エネルギーというのは「エネルギーそのもの」では「物理世界」に干渉出来ず、僕やososoさんのような媒体を通す必要がある。
これに関して、「僕という媒体(物理的な脳や肉体)に干渉することそのものがエネルギーに出来ている以上、それは矛盾しないか?」
という疑問が当然提起されますが、僕は生物(有機体)と無生物(有機体)という同じ物理的存在の本質的差異がそこに作用しているのだと考えました。
だから、たとえば地球の自転公転や、引力等の「無生物のエネルギー」は、喜怒哀楽や思考といった「生物のエネルギー」とは次元が違うもので、
思考や感情といった生物のエネルギーが前レスの「海」にやがて還元されるように、それら無生物のエネルギーも、どこかに根本的な「海」を持っているのかも知れない。
(勿論、生物のそれとは性質が異なるかも知れませんが。)
生物の「エネルギーの泉」を単一の存在と定義し、無生物の「エネルギーの泉」も同じく単一の存在と定義しましょう。
両者は互いに異質な性質を所持しており、本来干渉し合えなかった。ただ、単一の存在として「生物側」が「進化する為に」何らかの手段で有機物という干渉媒体を生み出した。(あるいは無生物側に生み出させた。)
結果生物として無生物世界をコントロール出来る可能性を手に入れたわけです。
ただ、人間というのは、そうした可能性の一つに過ぎない。
たとえばこの無機的宇宙には、人間の科学では攻略できない世界も存在していて、そうした次元を攻略する為には、人間とは異なる知的生命体と科学とは異なる論理的手段が必要となる。
そうした、それぞれの「場所」を攻略する為に、それぞれの場所に適した生命体と論理を、海が作り出した結果が「多様性」なのではないか。
即席の推論ではありますが、こうした解釈も可能かと僕は思いました。
論理が飛躍していることは自身で自覚していますが、この推論は整合性を厳密に問うものではなく、
あくまで、大まかなイメージ、つまり「言わんとしていること」を伝える為のものなので、ご理解ください・・・

僕は思うのですが、エネルギーの泉というのは地球上の生物は勿論、地球外生命体のエネルギーも内包しているはずで、
地球外生命体には、人間を超越した高等生物も確実に存在するはずでしょう。
つまり、海や海を構成する海水というのは、人間のそれを遥かに超えた能力(あるいはそれを生み出す可能性)を内包していると言える。
だから、僕らが神の啓示や霊視と呼ぶものは、そうした超越性を内包した海から、僕達容器に発信されたものなのではないでしょうか。
宗教において「神は自身の内にある」と言いながら、自分の外側に巨大な神を感じるという矛盾は、前者は海と海水の本質的一致を考えれば筋は通るし、
後者は「海が、人間を超越した高等生物としての要素も内包している事実」を見れば筋が通っていると思うわけです。
逆に仏教的な悟りは、容器の海水の方から、海の超越性にアプローチする行為に等しいのではないかと。

愛に関しては、僕は共存する理由があるとしても、そこに従わなければならない道理がどうしても納得できません。
「同じ人間だったのか」という以前に「全ての生物が単一の存在である」わけですから、
人間という物理的同族にだけ、そうした共感性が機能するのは非常に不自然な気もします。
もし共存する必要性があるのなら、たとえば「ゴキブリ」や「蠅」等のような一般的に嫌悪される生物にも、
同じく何らかの共通点を見出せなければ(本来は同じ一つのものだという直感が作用しなければ)不自然でしょう?
しかし、僕等は日常において「彼等」とは共存するどころか「排除」してさえいる。
動物でも「絶滅危惧種」と呼ばれる動物は人間による環境破壊によって「危惧種」となってしまっているわけで、その中から実際に絶滅してしまった動物も存在します。
(これは、同じ絶滅でも白亜紀の恐竜の絶滅とはわけが違いますよね?)
単一の生物として存在を捉える時、こうしたことは「共存の必要性」と矛盾してしまう気がするのですがどうでしょうか?
僕等は「共存していない」からこそ他の動物を「実際に排除出来た」し「今も排除している」のではないですか?
人間というコミュニティーにおいても人種差別や戦争がありながらも存在していられるのは、
共存というよりも「道具としての個人的コントロール」に過ぎないと僕は思ってしまうんですよ。

このテーマは非常に複雑なので、僕も更に追究してはいくつもりです。

91e4:2009/04/20(月) 11:21:27 ID:V12x6fAg
ososoさん(2)

僕が初期のレス>>43で「僕とあなたは立っている世界がまるで違う」と書いたのを覚えていますか?
あの言葉のニュアンスは僕にとって「僕はあなたとは分かり合えない」という否定的な、そして極めて攻撃的なものでした。
それはososoさんのレス>>42の「個人という視点からではなく、もっと大きな視点で見ることが出来たら世界は変わります」
という記述に世界観の押し付けと、僕の世界観を理解しているかのような前提を感じてしまったからです。
だから、あの時僕は「ososoさんに自分の無知を理解させてやろう」という一種の闘争心からしか記述していませんでした。
しかし、あれから4日が経って、随分と、僕のososoさんとの「会話の質」は変化した気がしています。
単純な反駁の応酬から「答探し」に向けての自然な協調へ、そんな変化です。
世界観が異なる人間の相互理解は非常に困難なものです。(表層的協力関係の構築は可能ですが)特に一方が相互理解を拒否するか諦めている場合においては。
僕もそうでした。そもそも、僕は他者との相互理解を求めてこの掲示板に来たわけではありませんでしたから。
存在や死の意味を前に思考停止している人間が書き込む「存在についてのレス」は僕にとって本当に空虚なものだし、そして、そのような掲示板は端的に言って死んでいる。
だから、そうした人たちの反応が見たくて、僕は思考を継続している人間として>>32を書き込みました。
だから、もう一度>>32を読んでみてください。「僕は死を肯定しますね」と記述しながら、その後に続く内容は「他者の主張への論理的否定」だけでしょう?
あそこには僕が死を肯定する理由は「何一つ」書かれていない。
あれを読んで、「誰かが」どう反応してくるのかだけが僕にとっての関心だったからです。
自身の思考停止に気付くか、それとも破綻した反駁を展開するか、感情的なレスになるのか、あるいはスルーか・・・
しかし、僕がこの4日で得たものによると、どうやら、僕が使用している「思考の次元」(思考のレベルではなく)とは違う次元の思考法が存在するようです。
そしてまた、この世界は思考停止による弊害ばかりではないのかも知れないということを「体感として」分かってきた気がします。
前者はososoさんだし、後者はいきてまーすさんですね。
いきてまーすさんは失礼ながら論理的なことは苦手でいらっしゃるようですが、
しかし複雑な思考を持たない中でも、レスが決して「死んでいない」し、
ososoさんは、既存の宗教や哲学をベースとして自分の理論を構築しているというよりも、
そもそものベースから自力で構築しようとしているような、そんな存在への真摯な姿勢を感じます。
僕の推測ですが、友達を助ける為には、あくまでも「自分の言葉」で「存在を悟らなければ」ならない、そう考えたのではありませんか?
自分の言葉で悟らなければ「自分が」友達を救うことにはならないからです。
だから、たとえ歴史上の偉人達が、「自分以上に」存在と向き合っていたとしても、それをベースとしてすらも用いたくなかった。
僕はそんな気がしました。
僕は友情というものがイメージ出来ないので何とも言えませんが、
ososoさんが、自分の言葉で存在を追究する為に(延いては友達を助ける為に)僕とのこの関係が僅かでも役立つのであれば、嬉しく思います。


ところで、アニメは、その友達の影響で見始めたものですか?
それとも絵という共通点から推測すると2人とも好きだったのでしょうか?
それから、存在の追究をするにしろ、なぜまた、この掲示板を選択したのですか?
検索から偶然?それとも、こうした掲示板は複数利用しているのでしょうか?

92e4:2009/04/20(月) 12:07:24 ID:V12x6fAg
>>90「単一の存在として「生物側」が「進化する為に」何らかの手段で有機物という干渉媒体を生み出した。(あるいは無生物側に生み出させた。)

書き直します。
元々有機的存在というのは、少なくともこの地球上においては、極小の微生物から始まっていますよね?
(具体的には生命誕生以前の地球は二酸化炭素、窒素、水という無機的な物体だった、そこからアミノ酸等の低分子有機物が出来て、
第二段階として結合反応し、タンパク質などの高分子有機物が出来た、更にヌクレオチドが連続結合し高分子の核酸に、ポリペプチドが連続結合し、より高度なタンパク質が発生した、
そうして、核酸、タンパク質の生命の根源となる二大要素がそろったことで、有機物が発生した・・・生物学的にはこうしたプロセスを経たわけです)

僕はこの流れこそが、「生物側の海」が自己の進化の為に「無生物側の領域(物理世界)」に干渉した瞬間だと思うわけです。
存在がエネルギーとしての次元と物理的世界の壁を超越した瞬間ですね。
つまり、端的に言えば有機物は無機物から発生したわけですが、発生させるような「因果を働かせた」のは「エネルギーとしての生物」の何らかの干渉によるものだと思うわけです。
そこが、不可解なところではあるんですが。

93ososo:2009/04/20(月) 13:38:59 ID:BMD4D5cM
e4さん
いろいろと考察して頂いてありがとうございます。表まで作って頂いて。
興味深く読まさせて頂きました。
僕もエネルギーの泉とは「すべて」なので、人知を超えた神秘的なものも含むと思っています。
「すべて」は言い換えれば無限。人間の想像も及ばないエネルギーを、エネルギーの泉は内包している。
そう考えれば、いろいろと筋が通ってくることもあるわけですね。
最近、仏教で言っていることが、こういうことを言っていたのかと納得するがあったりします。(あくまで僕の勝手な解釈でですが)
こういうことを考えることは、宇宙を考えることに似ていますね。非常に奥が深い。

共存についての僕の考え方ですが。共存とは存在の一つの形で
共存とは文字通り「共に存在する」ということです。
協力して手と手を取り合って一緒にいようということではなく
多様なものがこの同じ世界に存在しているということを共存と言いたいわけです。
そういう意味で、生まれてから一度も共存以外の形で僕らは存在したことはありません。
宇宙があって、地球があって、いろんな生物がいて、そんな世界でしか存在していたことがありません。
僕一人だけで存在していたことはないわけです。僕以外の存在が確かに在るわけです。
多様なものが同じ世界を共有している。存在は常に共存している。
僕は、同じ一つのものだという直感が作用するから、差別や争いもまたあってしまうのかなと思います。
弱肉強食という生物の習性も、戦争も、排除も、やり方は違えどこの世界を一つにしようとする行為ではないでしょうか。
共存していなければ、一つの存在しかなければ、そもそも排除すらできないわけです。
「同じ一つのものだから」という直感と同時に「同じ一つのものなのに」という直感も働くのではないのでしょうか。
戦争や差別はなかなかなくなりませんし、そんな中で親から子へ抱く無条件の愛情のようなものも生物にはあるわけです。
存在はそういうことを繰り返して、現実世界で存在の本質に近づこうとしているのではないでしょうか。

何か戦争や差別を肯定するような言い方になってしまったかもしれませんが
僕自身は、それぞれの違いを認め合って共に生きていけるような世界を望んでいます。

存在(世界)は、いろいろなやり方ではあっても、この世界がより善い世界であるようにずっと巡ってきたのではないのでしょうか。

僕がこの掲示板に来たのは偶然といえば偶然です。ある意味必然だったのかもしれませんが。
生きる意味かなんかで検索して、ここに何だか辿り着いたという感じでしょうか。
生きる意味というのを、他の人がどう考えているのか知りたかった。
僕の周りにはそういうことを真摯に考えている人はいなかったですし。
自分の考え、直感が、おこがましいながら生きる意味を考えている人達の役に立てればとも思っていました。
何様ですね(笑)
自分の考えをもっと深めたかったというのも勿論あります。
e4さんとのやりとりの中で、自分の曖昧だった部分が大分具体化できました。
e4さんとのやりとりは僕にとって、とても尊いものになりましたよ。
最初この掲示板に来たときは、まさか自分がこんなに頭を使うことになるとは思ってもみませんでしたが(笑)
歴史上の偉人達の考えが全くベースにないかと言われれば、全然嘘になっちゃいますが
僕はただ自分の言葉で語らなければ、理解できたことにならないと思ったんですよね。

掲示板はここしか利用していませんよ。

絵とかアニメとかは個人的に昔から好きでしたよ。
好きなのはジブリアニメですね。世界観が好きだし、内容が普遍的で。

94e4:2009/04/20(月) 19:23:38 ID:V12x6fAg
ososoさん

自分のレスを点検してみましたが、やはり例の推論は破綻していました。
非科学的という意味においてではなく、論述としての矛盾に満ちていた、ということです。

会話を続ける中で思ったことですが、僕はososoさんに同じ説明を何度もさせてしまっている気がするのですが、非常に困ってしまいました。
それに関して、非常に申し訳なく思うと同時にこれは理解力の問題ではない気が、つまりもっと根本的な問題であるように思っています。
共存にしろ、存在にしろ、会話の中で度々使用されるこれらの概念の認識が、
僕とososoさんとの間で乖離してしまっている気がするんですね。
たとえばある芸術作品を、芸術として客観的にどう評価するかという時、評価者の芸術という概念の認識や定義に差異があれば、
それはもはや、議論としては噛み合わなくなってしまうでしょう?
あくまでも、互いが共有する言葉というのは、同じ認識において個性的に利用されるべきで、(議論においてはです)、
そうでないなら、互いの認識の差異はある程度把握した上でなければ、互いに混乱するし、話も噛み合わなくなってしまう。
僕がososoさんに同じ記述を繰り返させてしまうのは、そうしたところに原因があるのではないかと個人的には感じています。

これをどうすべきか非常に悩むところなのですが、僕等の間で乖離している概念は、たとえば「食べる」「飲む」
というような僅かな説明で事足りるような単純で具体的で、言語化可能なものではないと思うんですね。
「意味」という単語は僕等は日常において頻繁に使用しますよね?ではここで質問なんですが「意味の意味」について厳密な言語化はは可能だと思いますか?
ちなみに僕は意味の説明を展開する為に意味という概念を用いずにはいられない為、これは不可能と認識しているんです。
しかし、僕等は日常において、「意味」という言語化不可能な概念を共通の認識を持って使用している。
しかし、これそのものは問題ではないんです。問題なのは、そこに会話に支障を来すほどの認識の乖離があった場合です。
言語化不可能か、あるいは言語化困難か、そうした現実を前に、意思疎通のモチベーションはありながらも、どう疎通してゆくべきか、
僕はそこで今悩んでいます・・・

95ososo:2009/04/20(月) 21:40:29 ID:BMD4D5cM
e4さん

僕も語るのに自分の言語、認識に固執してしまっているとところがあるので申し訳ないです。
いつか書いたと思うんですが、月を指す指は月ではないと。
月が言いたい事で、指が言葉。言葉はそれ自体ではない。
なので言葉にはやっぱり限界はあると思うんですよね。
単語の絶対数が足りないと思うんですが(僕の中のですが)、同じ単語にいくつかの意味を含ませてしまいますし。
語りたい認識に対して、新しく共通の単語をつくっちゃえばいいのかなとも思いますが。
更に難解にもなりそうですが。。。
もどかしいですが、でも少しずつでも確実に歩み寄ってはいますよね?
思ったんですけど、そもそもコミュニケーションってこういうもどかしいものなんですよね。

96e4:2009/04/20(月) 22:31:02 ID:V12x6fAg
ososoさん

>もどかしいですが、でも少しずつでも確実に歩み寄ってはいますよね?

いや、勿論それは僕自身も感じていることではあるんですが、言語表現の限界を迎えてしまうと、
そこから先は感覚的な把握に頼りざるを得なくなってしまうわけです。(シックスセンス的なものと言えばいいのか・・・)
僕は初期の頃、ososoさんの世界観というのを言語的領域では「具体的に」把握出来なくて、半理解の抽象的な世界観を、ある時、感覚的に掴んだんですね。
(言語的理解の欠陥(限界)を感覚により補完した、ということです。)
だから、あのような譬えが僕の中から出て来たわけです。
ただ、そうした、インスピレーションっていつでも、言語的限界への到達時に機能するわけではないじゃないですか?
インスピレーションが働く「法則性」が脳科学的にはあるとしても、僕はそれを知らないし駆使できない。
だから、ある一点から先に進めずに会話が停滞することが僕としては非常に「もったいない」わけです。
こうした「もったいなさ」というのは、日常の抽象的会話においてはほとんど起こり得ません。
何故なら、「結論や答を出す為」の会話ではないからです。
ただ、こうした、結論や答を出す為の過程に真摯に向き合う時、会話の内容は「具体的になりざるを得ない」し、途中で放棄することも許されません。
だから、たとえば「まあ、人それぞれじゃない?」「答が無いのが答だ」などという発言は体のいい逃げ口上でしかなくなるでしょう。

まあ、いいでしょう。
ところで、一つ質問ですが、何故ososoさんは自分の世界観を述べながら、人(僕を含めた、掲示板の参加者)に何かを尋ねることがないのですか?
尋ねる必要性があるわけではありませんが、他者の考えを知る為に来ている側面があるなら、たとえば隊員3号さんでも僕でも、何か質問する方が自然なのかなと・・・

97ososo:2009/04/21(火) 13:39:38 ID:K1MG1.dI
そういえば、ほとんど質問してないですね。
あまり意識していませんでした。
基本的には皆さんの考えを読みにきているんですよ。
皆さんのスレッドを読んで、そうだなぁと思えばそれで納得してしまいますし。
ちょっと違うんじゃないかなぁと思えば、それに対して自分の世界観を書いてみて質問した気になっていたんだと思います。
自分の世界観を述べることが質問というか。
でもそれじゃ単なる独り言になってしまいますね。。

98e4:2009/04/21(火) 19:41:59 ID:V12x6fAg
いや、独り言だとは思いませんよ。
僕が感じているのは、ososoさんの世界観というのは非常に独特で深いものがあるとは思うのですが、
「自殺は正しいか」というこのスレのテーマを考えた時に、失礼ながら非常に説得力に欠けるのではないかと思ってしまうんです。
ososoさん個人が生きることには「一種の真実」として機能するのかもしれませんが、自殺を試みる人間を前に(少なくとも僕にとっては)、
非論理的に感じられるわけです。たとえば宗教というのは、その宗教を肯定した上で分析すれば筋の通った理論ではあるんですが、
その宗教という土台に立たない、立てない人間にとっては、恐ろしく妄想的なものですよね?
ですから、それは突き詰めれば「自殺との個人的な対峙」ではあっても「自殺との普遍性を内包した対峙」にはならないのかなと・・・
ですから、そうした意味においてはこのスレの利用にマッチした世界観ではないのかも知れません。
世界観そのものが個人個人異なるわけで、そうした前提において普遍性が機能するのかと、そうした反論は可能ですが、
僕が言っている普遍性というのは「語り得ないものには沈黙する」つまり、大多数が共通認識として所持している事実をベースに、
そこから個性的な見解を展開すべきなのかなと。(その方が「自殺は正しいか」というテーマに有益な答が僕は出ると思うわけです。)
そうなると、ososoさんの世界観はすでに「正しさを論じる」土俵からは逸脱してしまっている気がするんですね。

失礼すぎることを書いているのは承知していますが、たとえばososoさんの「友達のため」という背景等を考えると、
お友達がososoさんの世界観に近い思想を前提として持っていない限り、根本的な救いを実現するのは困難である気がします。
そして、だから「自殺はよくない」や「生命は尊い」「他者や自己に価値がある」には繋がっていない気がします。
僕はososoさんの世界観を理解するよう努力はして来ましたが、しかし、やはり個人的には「そのような解釈もありますね」としか思えないわけです。

そしてもう一つ。
「自殺は正しいか」というテーマにおいて、自殺を否定した上で、自殺者志願者を救えるような答を直接的に出す努力も肝要ではあるでしょうが、
たとえば極端な方向性として「自殺の価値を肯定した上で、それ以上に生きる価値を見出させる」回答を考えることもまた重要なのかなと思っているのですがどうですかね?
(決してososoさんが前者だと言っているわけではなく、問いへの対峙の方向性としてです。)
つまり、「自殺は無価値、生きることにこそ価値がある」ではなく「自殺にも十分価値はあるが、それ以上に生きることには価値があるのではないか?」ということですね。

99Detc:2009/04/23(木) 23:41:01 ID:SCOFgttI
その人が自殺しても 誰にも影響しない、与えない(苦しみ悲しみそして絶望したりする人がいない)ならばそれは正しいとは言わないが、問題無いでしょう。 だが、逆に苦しめたり悲しませたりする人(他人や家族関係無く)が例え一人でもいるのなら、絶対に正しいことではありません。残される者が自殺は間違い、絶対に正しくないことです。と言うからです! 基本的に正しいか?間違いか?は、生きている人(残された人たち)が決めます。

100(,,゚Д゚) 隊員3号:2009/05/06(水) 12:56:04 ID:i.TZOdDE
正しいか、正しくないか、この問題は結果からは判断できない。
結果というのは時間軸のどこを基準とするかで内容が異なるためだ。
例えば戦争終了直後であれば、敗戦国の国民は戦争は負の遺産しかもたらさないと考えるだろう。
しかし、日本の様に敗戦から50年後、戦前よりも豊かな暮らしを手に入れて
果たして国民は戦争は負の遺産しかもたらさないと考えるだろうか?
別の可能性として、もしも日本が勝ったとしたら・・・
勝利した軍事国家のやることは独裁と相場は決まっている。
今現在の道徳を基準に置いて、大日本帝国は果たして正しいといえるか?

結果から自殺の正当性を語ることはできない。
さて、どうすれば答えが出るのだろうか?

101名無しさん@生きる意味:2009/05/06(水) 20:36:26 ID:U/jhczVI
自殺は正しいか、正しくないか?自分が決めることです、
他人が判断することではありません。

102アンジェリカ:2009/05/07(木) 16:23:58 ID:iXZqDpoM
つまりどちらでもないと言うこと!!

103:2009/05/08(金) 20:37:04 ID:tdMwSOXs

自殺が正しいわけがないだろう?
自ら命を断つことに正当性なんか微塵もない。

104mahow:2009/05/09(土) 02:05:38 ID:sU9eyq/g
 私もスレ主さんの文を読んで、分かる部分がありました。
昔から、精神的に人に頼れず、自分の存在価値も見出せず、誰かの役立ちたい と思っても
真意が上手く伝わらず、非難され、苦しいです。

ですが、自殺報道を見る度に、悲しくて、何とかならなかったのか と自分を棚に上げて考えてしまいます。
魂が見える方によれば、自殺するとその時の苦しさがずっと続き、来世に行けても
また同じ人生をやり直す事になる とか。 真実は分かりませんが、もし本当なら恐ろしく思います;

私自身も生き辛く、何度も今も挫けそうになりますが、そうなった時の自分を客観的に見ると、
 今まで苦しみながらも何とか生きてきた人生の最期が「無念の自殺」では
 「今までの苦悩や頑張りの対価」としては「悔しい」…とも思います。

 本当は理想のように生きたいけれど それが叶わないから、生きる事を止めたくなる のだと考えたりします…。
この件に関しては、誰か心を痛める人間が生まれる事柄が、正しい物であって欲しくない と思います。
…分かり辛くてすみません;

105(,,゚Д゚) 隊員3号:2009/05/09(土) 12:07:52 ID:i.TZOdDE
私の思想では、人は自分のために生きていると考えているので
天涯孤独の人間が自分の生死を自分で決めるというのはOKだと思っている。

ただ学生とか、生かされている立場の人間は自殺は駄目だと思ってる。
思想とかは関係なく、人としての願いだな。

106名無しさん@生きる意味:2009/05/11(月) 00:15:49 ID:U/jhczVI
>103
なぜ?理由は?

107:2009/05/11(月) 10:04:17 ID:C29LvE3M
>106
人を悲しませる事にどうして正しいことだと、胸を張って言えるんだ?
自分の生死を自分で決めるってのは、個人の自由だが
絶対に正しい選択ではない。

「悲しむ人なんかいない」なんて、死ぬ前にわかるわけないだろう?

108名無しさん@生きる意味:2009/05/11(月) 20:08:13 ID:U/jhczVI
自殺でも病死でも人が死ぬと悲しむ人がいますが、
それが正しくない理由とは言えませんね。

>自分の生死を自分で決めるってのは、個人の自由だが
自由なんでしょ、正しくないことを自由にできる訳はないと思いませんか?

109:2009/05/11(月) 20:17:40 ID:uSltfxJA

人を悲しませることを、自ら進んで行うことが正しいとは思えないけど?
病気や事故で亡くなった人と一緒にしてはいけないよ。

110w、m:2009/05/12(火) 13:02:08 ID:5/iVyqsg
自殺は正しいか、正しくないか?。
正しい、間違いと決める前に、感情や私的立場、利害、世論などを出来るだけ入れないで、自殺と思われる行為に該当する事実を元に考えて見ました。
『自殺に至る。』これは一つの結果です。社会生活は原因と結果の繰り返しで生活しています。道理的に単純に考えれば、原因があるから結果がある。私達の生活も現在は過去の結果であるし、現在は未来の原因になる。馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことです。
誰でも知っていると思われますが、一本の木は土の表面を基点にして、上に幹や枝葉があるように、土の中にもそれに匹敵する同じ物が有る。とよく言われています。
現在や今迄の歴史を見ても自殺行為に近いものが多く見受けられます。例えば特攻隊、自爆テロ、負ける事を覚悟の戦い、人を助ける為に、自らが犠牲になっていく。
これらの自殺的行為から共通して考えられるのは、其々に死に匹敵する理由があれば命を捨てるということのように感じられるのです。
例えば、いじめにあって自殺をした場合に考えられるのは、周りの人に対して、訴える、いじめた相手に罪の重さを生きている限り忘れさせない恨みの行為、いじめの行為からは良い結果は出ない。まだ他にも考えれば色々と意味が有るでしょう。
どんな死に方で有っても、一人の人間が死ぬという事には軽い、重い、の理由は無いと思われます。
そして人間の自殺という行為を(匹敵する理由があれば死を選ぶ)という起点から考えてみると人間一人一人に其々違った、命より重い目的、義務、使命を持たされていると考えると解るような気がします。それでないと他の生き物と同じように身を守ることに専念するだけでいいと思えるのです。
好きな人が出来て親兄弟を捨ててでも愛する人の所に行く。これらの行為から考えても人間は本能によって生かされているといえるのではないでしょうか。
それからすれば、ここで議論されている『生きる意味を知りたい』という事は大きな意義が有ると言えるでしょう。『なぜ』もし、あなたが人間の目的や義務、使命、習性を知れば、今後の社会がどうなるか、何を求めているか、が、解ることになりますから、先手を打っていけば、人間社会を好き放題に何でも出来ることになってしまいます。自殺から考えた、私の意見です。どう思われますか?。

111(,,゚Д゚) 隊員3号:2009/05/14(木) 05:24:02 ID:i.TZOdDE
>>110
私の個人的感想としては、意味や理由を意識するあまりに少々理想に傾いた文章と感じました。
現実的には他人の死は人にとって思ったほど重要ではなく、重くもありません。
私自身、人の死には何度か立ち会っていますが、私も含め皆それほど感じてはいませんでした。

仮にクラスメイトの死 程度では、私なら影響は皆無と言ってもよいでしょう。
他のクラスメイトも次の日には普通に登校して勉強するでしょうし、
人の死によって影響を受ける人は現実にはなかなかいないでしょう。

人というのは自分が生きる上で不利益な状態に立たされると
本能的に自己の防衛が優先されて、自己の精神の安定を図ります。
それは自己の正当化であったり、別の何かに意識を集中したり、究極は忘れる事ですかね。
なのでいじめ問題に置いても加害者に罪の重さを自覚させることはかなり難しく、現実的ではありません。

w、m さんが指摘するように、感情や私的立場、利害、世論などを排除するならば
理由さえあれば自殺できるとする考え方は「感情、私的立場、利害、世論」
そのものであるので、真っ先に排除しなければならない対象です。
理由があろうがなかろうが関係なく、自殺というものを単体で考えないと
自殺という行為を正当化しているだけに過ぎないという結論にしか行き着けません。
なにせ本人にとっては確証を持てずに行為に及ぶことになりますし
その後の確認も取れないことから、自分に言い聞かせている状態…
つまり自己の正当化ですね。

これらを踏まえた上で、あらためてw、m さんの考えを聞いてみたいですね。

112w、m:2009/05/16(土) 08:34:06 ID:GsOhYpWg
(,,゚Д゚) 隊員3号さん、ご意見ありがとうございます。
私の考えですが、その前に少し隊員三号さんにお聞きしたいのですが、結婚をして子孫を残す、本能的行為。この意味を考えられたことは有りませんか。遺伝子についてどう思われますか?。
文章からは自殺した本人自身と受け取る側の現実的現状の事だけを言っておられるように思いますが、意味は幅広く有ると思われます。人類的立場や遺伝子による多重人格、人間の目的の事を考えられた事は有りませんか。
人間を考える時は人間的と人類的見解によっても違うように考えられます。それだけに関係している事実や歴史、その事実や歴史から出た結果、などを長い目で見なければ真実は見えないと思います。
私が真実を見つける方法の一つとして持っているのが、「直ぐに嘘と分るのは冗談。時間が経って分るのが嘘。永遠に分らないのは嘘ではなく真実」この考えを元に疑問を解いていきます。
飛躍していると思われるかも知れませんが、私は本人の意志とは別に、人類は生き残る為の本能と共に遺伝子の中からでも助けと期待が出ているのではないかと思っています。
人が結婚をして子供を作る行為は世界共通の事です。世界共通の場合は人類的な見方が必要ではないかと思われます。結婚、それは、現在を生きる者が、現在、もしくは近い将来を生き貫いていく為の一種の遺伝子の組み換えに似ていると思えるのです。
先に書いたように現在の私達を一本の木に例えると、原因と結果の関係から思えば、私達は地上に出ている幹や枝葉に当たると思うのです。そして根の部分が私達を作り出してきた先祖と考えてみたのです。(只、先祖といっても、家系や祖父母、など血縁の濃さを重視した先祖の事を言っているのでは有りません。私の見方の理由は血縁といっても、我が子であっても半分他人です。孫にいたっては四分の一。曾孫となると八分の一しか血縁は残りません。親や祖父母は人類を生き続けさせる為と今の社会を生きる方法を教えるだけの途中の目先にある一つの歯車でしかないと思いますから、家系や血縁重視という、そんなものに意味も興味も私には有りません。)
それから思うと人類として、遺伝子を入れて考えると、今迄選ばれ、世代を超えて、生き残って来たにもかかわらず、此処で終りにする事の辛さを合わせて考えるのです。
本人の後ろにいる、根の部分の人達は、「私達は信じ、考えてきたものが間違っていた。人類である人間の義務、目的を果たす事が出来ず、途中で挫折するのか。」と、無念差を感じているように思えるのです。
一般的には確かに誰が死のうと、生きようと無関係のように見えます。又、現実社会生活から見れば誰にしても自分の事で精一杯です。しかし、自殺のメッセ−イジを人類的立場から考えると、無差別に送っているとは思えません。言い換えれば自殺は暗号のようなもので、似た環境、義務、目的を持っている仲間に向けて危険を発していると考えられるのです。
それだけに受け取った人の中には自分には関係ないと見向きもしないでしょう。しかし、同じ条件や環境にいる人にとっては、生き残る為の警告のメッセージとして、身に摘まされる思いもし、又、準備もするでしょう。その点から考えれば、死は決して軽いものではないと思えるのです。
どんな出来事も考え方の基点の置き方一つで、悪にも、善にも取れます。立場と環境によって、どのように取ってもいいと思いますが、自分を大切にするのであれば、必ず矛先が『共存共栄』の方向に向くように考え、努力する事が、生き残りと、満足した人生を送る為の最大の条件だと思っています。(日本人の多くが『共存共栄』を考えなかった結果がでかけています。『注』)
皆さんは、この考え、どう思われますか?。

113なんだかなー:2009/05/16(土) 14:46:17 ID:U/jhczVI
>w、m
(,,゚Д゚) 隊員3号さんの発言に対する答えになってません。意味が理解できないの?
あなたの意見は論点が定まっていません。ただ長文なだけで支離滅裂です。

114w、m:2009/05/16(土) 20:37:53 ID:.u05s/rs
なんだかなーさん、意見有難うございます。
只、長文と支離滅裂と言われては返す言葉が有りません。どうも失礼しました。
後はあなた方にお任せして、私は消えることにします。今迄に私の考えを書き込んでいいものかどうか迷っていましたが、これで肩の荷が下りました。私が今後書きこむ事は無いでしょう。私だけの人生を考えて送る事ができます。
皆さん。有難うございました。

115:2009/05/16(土) 23:27:56 ID:SCOFgttI
長文、支離滅裂!そして… 始まり。まー、いいでしょ。短い文で色々考えていることに表しきれないこと?か、まだ納得できるといったところまで考え、思いが届いていなかった?などのことでしょう。 取り巻きのファン?がどういったところで、当人がどう受けるか? だけ… 人間がなぜ一つの個だけで生命を後世へ伝えていけないのでしょう?今の私たちには臆…以上の遺伝子の混じりがあってそこに生きている。しかし1000年前の私たちと今の私たちは〜どこが進化した?(変わったのでしょう?) … は〜…! 別に〜背中に羽根が生えて空へ行くことも出来ません。 絵…なんのって、当人しか判りませねー 他人に与えるイメージ?結果色々意味が届いていなかった?などというもの、支離滅裂になったからといった事でしょう。 いい言葉あります。百聞は一見にしかず。

116e4:2009/07/19(日) 01:08:24 ID:2V5CI6/o
ここに来るのも久しぶりですね。
あれから自殺チャットだとか、哲学系のブログだとか色々回ったり、自助グループ関係に参加したりしましたが、
相変わらず僕の中で肯定出来るような変化はありません。
他者に何らかの回答を求めるスタンスで新たなコミュニティーに参加するようなことは当然無く、あくまで自問に対して自答する為の材料を手にする為、
僕なりに能動的にアクションを起こしてきたつもりですが、結果は惨敗。
いや、惨敗という表現は適切ではないかもしれません。
他者に干渉出来るギリギリのラインでの自己主張、それが成功したのか否かは結局のところ明確には出来ないわけですから。
一つ思ったことがあります。
今現在死を望んでいる人との関わりの中で、互いに背景は違えど同じ結末を想定しているはずなのに、
そして可能なら、その結末の直前まで付随するであろう感情を共有したいはずなのに、皆なぜか「核心」について語ろうとはしない。
何故死にたいのか、何故自分は今こんな場所にいるのか、それは自分自身の責任なのか、本当の敵は誰か、何故かそこを省略して体感している苦痛だけを訴え共有を試みる。
自分を語りたくないのか、語るほどの自分ではないのか、それとも自分が何者なのか本当は知らないのか。
救いがあるとするなら向き合い続けてきた「自己」を互いがさらけ出し共有する以外にないというのに、なぜだろう、極めて表層的な慰め合いに終始してしまう。
恐らく考えたくないのだろう。死が何なのか、それを考えずに漠然とした苦痛の中で死を選択しようとしている。
家庭、友情、学校、職場、これらのコミュニティーの中で自分が何を体験し感じて来たか、その原因は何か、それらをはっきりさせることを恐れている。
「しょうがないんですよ。自分が弱いからいけないんです」・・・本当にそれが答えなんですか?
「生まれてきたことが間違っていた」・・・それは、あなたが自身の本質の中に確かに見出したものですか?
みんな自分が見えていない。そして何故か見えたことにして、見えないまま死を選択しようとしている。
僕はまだもう少し歩いてみることにします。

117e4:2009/07/19(日) 22:12:03 ID:2V5CI6/o
「死にたい」僕がそう思うとき、僕は本当に死にたいんだろうか?
精神的な余裕というものを失いかけた中で僕が感じたことは、どうやら自分が本当に望んでいるのは「死」ではないようだということだった。
いや、矛盾しているようだが、実のところこれは全く矛盾していない。
僕は「死にたかった」というよりも「生きていたくなかった」。そして厳密には「何かを感じ続けること」に心底ウンザリしてしまっていた。
喜怒哀楽のバランスが主観的に取れている人生において、そこに見出されるのは幸福感、さもなくば充実感。
だが、そのバランスが、著しく否定的な方向性をもって偏向している人間にとって、それは刺激的なものではあるにせよ、「濃厚な人生」などになりはしない。
無機質な苦痛。たとえば宗教的に苦悩することを一つの試練と解釈するなら、それはもはや「苦痛」ではないし、苦痛を超えた先に存在する何かがイメージ出来るのなら、もはやそれは肯定的プロセスと呼称すべきものになるだろう。
僕は何も見出せない。今までの自分や、こうして書き込みを行っている今の自分、そしてPCの電源を落としした後のこれからの自分、それら全刹那の中に連続して起こり続ける、あらゆる対象に対する半ば強制的な反応、そこには実は何もない。
意味だったり、価値だったり・・・ せいぜい分析する価値もない「理由」が僅かに存在するだけだ。
ただ、感情の起伏だけがそこには存在している。高尚な内的事実などというものはそこにはない。
だから、結局のところ効率よく快楽を摂取する技術と狡猾さ、そして運が「生きる意味らしきもの」を感じさせるし、自分という存在の価値を認識させる。
中途半端だが、続きはまた今度。

それから、最後に一つ。「何かを感じ続けたくない」そう感じ続けてきた人間にとって選択肢は一つしかない。
「死」だ。
生きながらにして、同時に世界を都合よく感じ続ける手段など、現実逃避する以外(それも極めて高度な、狂人と言って差し支えないような)ありはしないし、
感じながら生きることを選択するなら、もはや「悟りの境地」に入る以外ないだろう。そして、そのどちらもに「才能」と「努力」「モチベーション」が必要だ。
死の選択は「そうした意味において」全く正しい。なぜなら、「感じない方法」に対する「唯一つの解」だから。
唯一つだけ、故に「解釈」は成り立たない。絶望的なほどに。

118:2009/07/20(月) 02:39:38 ID:SCOFgttI
生きることが苦しみで、生きて居たくない… 苦しみがあるから生きて居たくないわけでなく、生きていることが苦しみであるから生きて居たくない!私、思う… 人と関わっていることが苦しみであり喜びである、人々と関わっていくことが嫌になってくる!そして心…が干からびてくる。

119女16:2010/01/12(火) 21:44:19 ID:OslDJKOI
私は自殺は正しい事だとは思いません。しかし、間違っているとも思いません。
何故なら正しいとか間違ってるはその人の立場、状況で変わるからです。

この日本と言う国では殺人は犯罪になり、一般的に考えて「人殺し」は間違っている事となっていますが、もし戦争になれば逆に殺せと言われるのです。
何を言いたいかというと、「人を殺す事」は「間違っている」と言っておきながら
戦争になれば「人を殺す事」は「正しい」となるのです。

つまり正しいとか間違っているは明日にもコロッと変わってしまう曖昧なものなのです。
だから私は正しいとも間違っているとも思いません。

それに最終的に自殺を決めるのは、選ぶのは、自由です。
そして、「自殺は正しい」と言う人も「自殺は間違っている」と言う人も
私はどちらの考えでもその人なりの価値観でそう思ってるわけだからそれでいいと思います。
どんな意見も考えも自由だと思うんですよ。
ただ、自分の意見が正しいと他者に認めさせようとするのはいかがなものかと思います。
私が自分なりに自由に意見するように誰にでもその自由はあるのです。

だから「自殺は正しい?」の質問に対しての私なりの答えは「それはその人の価値観で決める事であり、どんな意見を持とうとも自由だと思います。ので正しいとかの問題ではないと思います」になります。
ただ例えば、今自殺しようとしてる人が目の前にいて、
その理由がどんな事であれ私はとめます。
こんな事を言うと矛盾していると思われるかもしれないけど、
それは正しいとか間違っているの問題ではなく、私が止めるのも自由です。
それに自殺はあくまで手段であって解決策だとは全く思えません。だから私は止めます。

最後に、私はかなり未熟な人格であり、まだ16の子供です。
それに義務教育を放棄してきたので知識もありません。
矛盾してる所があるかもしれませんが、どうかそこら辺はご理解下さい。

120案の運が好き:2010/01/15(金) 23:35:58 ID:vsqTlhUM
//義務教育を放棄してきたので知識もありません
なれば、いまから、自分から学ぶことをはじめればよい。

//最後に、私はかなり未熟な人格であり、まだ16の子供です。
ならば、そのほうには、いまだ長い時間と成長が多大にあることを解ればよい。

//この日本と言う国では殺人は犯罪になり
あなたが、この国の人で、あなたが他人を殺せば、それはどこの国であっても
人殺しという犯罪になる。

//戦争になれば「人を殺す事」は「正しい」となるのです
結果、人を殺すことが戦争であると思われているようです。戦争が正しいと
あなたが思っているのかが重要であると考えます。
みんなが、ためらいも無く人殺しになれるか?そして終わったあと普通に
生活できるか?殺人狂が殺人をしない生活を普通と出来るか?出来ないこと
にするために理由?納得させられることが必要でしょう。人を殺しまくつた
けど戦争だから仕方が無い。殺さなければ殺されるから、正しいと偽って、
偉い人たちが笑っていられるためにでしょ。

//自分の意見が正しいと他者に認めさせようとするのはいかがなものかと
思います。
自分の意見がある。もしくは自分は絶対、正しいと思い込んでいるのなら
それでよい。どんぐりの背比べ?  より取り込んでなお自分の意見を
もつほうが好いのではないか?  昨日の自分と変わらぬ今日の自分?
永遠にかわらぬモノ、変えられぬモノ、より好く出来ることが重要でわ無いか

まあ、心の芯に変わらぬ強い想いをもつのは大切じゃ。

//私は正しいとも間違っているとも思いません
間違ってしまうかもしれないから、ことばにしませんということかな?
自分のすぐ隣で大切な人が殺されようとしている時。けど人殺しは正しい
とも間違いとも思えないからどっちでもいいか?とか?
間違ってしまうかもしれないでも言ってみないと合ってるのか間違っている
のか? なぞがなぞを呼ぶ。間違いを恐れては本当に選択するべき時に
決められない。解らないんだよ。
根本的問題を言えば人は間違える生き物?なのでそれでいいのだ。と私
が考えます。

121(,,゚Д゚) 隊員3号:2010/01/23(土) 01:44:51 ID:i.TZOdDE
>>119

現在の日本の憲法では、戦時中であろうと民間人が人を殺せば犯罪となります。
また、戦争になっても民間人が人を殺せと言われる事はありません。

また、貴方の判断基準が不明瞭ですね。
何を持って“それ”が正しいのか、曖昧ですね。

犯罪に関しては法律なので確かな基準がありますが
法律で犯罪とされているから間違いであるとするなら
法律で犯罪とされていない「いじめ」は正しいという事になる。

よって、「犯罪 = 間違い」という論理は成立しない。
人殺しは間違いではなく、正しくもなく、犯罪なのです。
つまり、戦争になれば「人を殺す事」は「正しい」とはならない。

貴方の世界観は「正しい」と「間違い」の二極化に陥っているようですね。
現実の世界は「正しい」と「間違い」の中間に存在するのです。

122女16:2010/03/25(木) 12:44:34 ID:OslDJKOI
あれからここに来ていなかったので、自分のレスに対して
返事をしてくれた人がいる事に気づきませんでした。すみません。

お二人のレスを読んで、あの時の私は「自分の考え」の整理が出来ていない事に
改めて気づきました。

私の考えの矛盾には、書き込む前から分かってはいました。
それでも書き込んだ理由は、「自分の考えが矛盾している」と
分かっているのにどこが矛盾しているのか分からないからでした。

お二人にレスして頂いて私はやはりもっと自分の考えを具体的に明確に
すべきだと思いました。
それと、このレスはお二人のレスに対しての返答にはなっていませんが、
今は「自殺は正しい?」について考えられるだけの考えが
自分には出来ないと思うので、そのことに対しての返答はしません。
(自分勝手ですみません。)

ただ、お二人のレスを読んで私の矛盾している部分が
なんとなくどこが矛盾しているのか分かったような気がしました。
私の考えに対して返答して下さって、どうもありがとうございます。

123HIDEYA:2011/04/01(金) 21:37:18 ID:MizuFR/g
生きてるだけで丸儲け。

124天使or悪魔:2011/07/07(木) 23:06:31 ID:bHKEBZoE
死んでも、自分が辛いだけ。だから、生きてて、楽しいこと見つけよ。あきらめずに。

125n:2012/10/18(木) 14:26:54 ID:Bu2zA3vA
人口動態統計の自殺対策への活用
 わが国の自殺死亡に関する統計には、厚生労働省の人口動態統計と警察庁の自殺統計の2つがある。このうち、平成23年の人口動態統計が先日公表された。23年の人口動態統計では全国の自殺死亡数は男性19,904人、女性8,992人の計28,896人となっている。女性に限れば死亡数・死亡率(人口10万対)ともに22年から若干の増加がみられるものの、自殺死亡総数が2万9千人を割り込んだのは平成10年の自殺死亡急増以降初めてのことである。
 近年の人口動態統計では、平成10年の急増初期と比較して中高年〜高齢男性の死亡率に低下傾向がみられる一方、若年層の死亡率は上昇傾向にあることが示唆される。
 人口動態統計に関連して、われわれは数年前から情報システム研究機構 統計数理研究所と連携し、地域における自殺対策の立案・推進に資するため、人口動態調査死亡票を用いて地域別・要因別の自殺傾向をまとめた『自殺対策のための自殺死亡の地域統計』を作成し、本ホームページ内で公表してきた。この地域統計では、全国の二次医療圏および市区町村ごとに、市区町村再編も反映しつつ昭和48 年まで遡って自殺関連指標の推移が把握できる。また、ベイズ統計学という手法を用いることにより、地域の人口変動の影響を調整した安定性の高い指標を算出している。この地域統計については、統計数理研究所と連携し、行政担当者・研究者にとってより使いやすいものになるよう検討を進めているところである。
 本年8月に見直しが行われた自殺総合対策大綱では、地域レベルの「実践的な」取組を中心とする自殺対策への転換が大きな柱として謳われている。今回紹介した地域統計も含め、われわれは今後も地域の自殺対策の立案と実践に活用できる信頼性の高い基礎資料の提供を継続していく。

126D-MIKI:2013/03/02(土) 03:13:33 ID:M9Fj7fjg
自殺が正しいかを問う時点で、その人の本当の問題が生きるか死ぬかではないことがわかります。
自殺がしたければ、正しさとは関係なく、すればいいからです。
正しいかを問うということは、その人は、自分の行動を肯定してもらうことを欲している、そういうように見えます。
そのような自分の中核にある悩みをクリアにして、それと向き合いましょう。

127@Clown_115 荒らし:2013/07/01(月) 13:33:42 ID:???
@Clown_115 ttps://mobile.twitter.com/Clown_115?p=s 迷惑 荒らし 不愉快 愉快犯 凍結させよう 黒原(総) クズ ゴミ


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