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詩・歌・管・弦 part 2

1千手★:2007/07/20(金) 23:01:14
「詩・歌・管・弦 part 2」を作ります。やはりわたしたちの思考はこのまわりをまわっている。

125千手:2008/06/18(水) 19:37:08
>>124
ほかいびとさん、グールドはぜひとも聞いて下さい。雪舟と関係があるかは分かりませんが。
シュトックハウゼンはなかなか聞けないと思いますが、ともかく機会があったら「短波」をぜひとも聞いて下さい。少し劣った録音でもいいなら私の方からCD−Rをお送りすることもできます。
それで少し話しは違いますが、>>123のニコレのBWV1034の演奏、よく聞いてみると私がすきでない第一の理由が分かりました。
ほとんどすべての音をビブラートをかけて吹いていることです。それがとても不快なのです。
何を聞かせたいのか、という疑問がたまってしまうのです。隅々まで不要な色づけが施されているように聞えるのです。そしてバッハから音楽として本質的な何を聞取っているかというとそれがあるように思えないのです。
グラーフの旧版の方も聞いて見ましたが、ファゴットを使った音色構成も落ち着いて素晴らしいのですが、アンダンテに関してはグラーフの新版が一番納得して聴けます。
旧版の方がLPで今一歩よい音で聞けないせいかもしれませんが。
グラーフの新版はちょっとオーバーな表現が無いわけではないのですが、それでも彼が「バッハから掴んだもの」ききとることができる気がします。
こんなことも素人談義ではありますが。

126ほかいびと:2008/06/19(木) 07:30:11
>>125
「短波」のご紹介ありがとうございます。

シュトックハウゼンについては、
アメリカの動画サイト「YOU TUBE」で去年からたくさん見てます。
直感音楽はまだ良さがわかりませんが
「オクトフォニー」は概念として面白いなとおもいました。

127千手:2008/06/20(金) 00:28:43
>>126
むむ、なんとも研究熱心な。
けど、直観音楽は聞くものそして演奏するものです。
音楽家になる最短のコース。

次の演奏日がなかなか組めないでいます。
6月29日(日)は空いているんですが、どうでしょう?
もうひとつの案は、曜日に関係なく、毎月9日(命日)を直観音楽演奏日にするということです。

みなさんからご意見をいただければ幸い。

128毛蟹:2008/06/26(木) 01:42:37
千手さん、皆様、お久しぶりです。
突然ですが、近頃気になるニュースがありました。
「磯にクーラーボックスを忘れたから取ってきて」・・・釣り人からの110番通報。
「子供を病院に連れて行きたいが、夕飯をこしらえていて手が離せないから連れて行って」・・・母親(たぶん)からの119番通報。

こういった事例が急増しているとのこと。これはどういうサインなんでしょう。社会的なセーフティーネットも平気で食いつぶす。日本は(たぶん世界も)餓鬼地獄になりつつあるようです。子供たちには本当に過酷な時代が到来しました。

6月29日の直観には参加できます。毎月9日というのは、夜遅くでないとメンバーが集まらないでしょう。やはり練習後に次の練習日を決めるという従来の方法がいいのでは。

129Pentatonics:2008/06/26(木) 10:18:28
29日であれば参加できます。
7/9であれば参加できません。

130千手:2008/06/26(木) 22:41:55
ご意見ありがとう。6月29日(日)の18時からやりましょう。
場所は京都造形芸術大学陽陽館。

このところ「神さま」に会う道を考えていました。一つヒントが見つかって。まだ途中ですが。
多分「刃物研ぎ」でも「神さま」に会えるような気がします。
感覚の研ぎが必要です。演奏のレベルを一段上げるためには。

演奏日、急ですがメーリングリストで回します。

131Pentatonics:2008/06/28(土) 12:53:03
諸般の事情により、欠席させていただきます。
すいません。

132千手:2008/07/09(水) 11:37:56
ペーター・ルーカス・グラーフは狂暴なひとなのだ。BWV1034を聞いていて、その第三楽章の一ヶ所、一瞬、それを感じた。
それは非常に強いものだ。
穏やかさと静謐を基調とした演奏が何故か、ということをも一瞬のうちに理解させてくれた。
ここにはグールドが弾く克明な緩徐楽章に匹敵するものがある。

133千手:2008/07/11(金) 22:32:23
>>124
>トルコ行進曲もそうですがゆっくり味わい深く演奏したことが
これ、わたしとは印象が違います。
「ゆっくり」、それで世界から出てしまうのです。そしてその世界の外の小径を
、その辛さともども、克明に辿りなおしているのです。辿っているのです。
 グールドの「ゆっくり」、そこにはいつもひとり我慢して進まなければならない道を進む辛さがあります。この辛さを辿った先にしか、善はなく、歓喜はないのです。
そんなメッセージをいつもグールドからは聞き取ります。禁欲の辛さ、我慢の辛さ、そしてそこに見えるもの。それが「グールドのゆっくり」です。わたしにとっては。

134千手:2008/07/25(金) 07:13:22
拙論:「鶴見和子歌集『回生』」を紹介します。これもいつ削除するかわかりません。

 ある方から鶴見和子の歌集『回生』(藤原書店)を送っていただいた。入院して歌を作りはじめたということは新聞などで紹介されていて知っていたが、実際に目にしたことはなかった。
 手にとって読んでみると、素晴らしい。その一端を紹介してみよう。こんな歌たちだ。
一、我もまた動物となりてたからかに唸りを発す これのみが自由
二、水、水、といいてウランの火に灼かれしヒバクシャの惨苦あらせてはならぬ カタストロフィ カタストロフィ
三、楡若葉そよぐを見れば大いなる生命(いのち)のリズム我もさゆらぐ
四、猿も鹿も猪も棲むとう七沢に片手片足(へんしゅへんそく)の我 山姥(やまうば)となれり
五、玄関の扉(とびら)開けば山々を渡り来(こ)し風はそこに待ちてあり
六、フル・スピードもて燕(つばめ)自在に飛び交えど衝突せぬを不思議と思う
七、花道を杖もて歩む静(しずか)われ 昔を今になすよしもがな
八、おおらかに死を語りあう友のありてかがよい熄(や)まず我が老いの日々

135<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

136千手:2008/07/25(金) 07:59:52
<承前>
 こうして八首を上げてみると、この歌集の特質の幾つかは見えてくる気がする。第一首にあげた「我もまた」の歌は、ベッドに拘束される入院という状態の中でも自分に思いっきり自由にできることを発見するのである。それが「唸る」こと。ただこの自由を得るためにはみずから人間の枠を壊し、動物への変身を果たさなければならない。作者はそれを断然やってしまうのである。その素晴らしさ。その肯定的な、生ることへの明確な姿勢に瞠目させられる。
 「水、水」の歌も入院中のみずからの渇きをもとに発想されている。ヒバクするとはこうして渇くことなのだ。「ヒバクシャ」を片仮名で記す修辞は、一瞬思考を中絶させ、読者を「ウランの火に灼かれた」ひとびとの現実の苦しみに直面させてくれるものだ。「被爆者」といってしまったら、あの広島、長崎の被爆者のことね、とあっさりと出来合いの概念だけでことを捉えてしまうだろう。それではあのたまらない「渇き」に、直面しがたくなってしまうはずだ。必ずみずからの身体感覚を出発点にして、そこから物事を考えてゆくこと、この姿勢がすばらしい。ニーチェ的な方法だ。
 三首目の「楡若葉そよぐを見れば」の歌には直観音楽的なものがある。あとがきで言われる「経験と歴史とをへて到達した「実存」ともいうべき新しい境地」とは、まさにこの一首の中に言われていることだ.。宇宙のリズムを感じ、そして呼応する、そういう営みだ。この世界がどれだけ豊かなものであるか、ご存命であればお伝えしたいことだ。
 山姥宣言の歌は、痛快なものだ。みずからを山姥と名乗って恥じないひとは極々まれだ。半身不随の異形になって、作者ははじめてその地位を手に入れた。山姥になるとは、悲惨と栄光を同時にわがものにすることなのだ。
 五首目の「山々を渡り来し風」の歌はこの上なく爽やかな歌だ。五月に時々感じることのできるその風は、山々の緑を渡って遠くからやってくる風で、日本の季節の味わいの最良のものの一つのはずだ。この風を、わが師、山中智恵子も歌っていた。「風とほくわたらふ五月」と(『虚空日月』)。この歌集のこの歌で、わたしははじめて山中智恵子の歌った五月の風が再び捉えられたと感じた。
 六首目の、フル・スピードもて自在に飛び交う燕の歌に関しては、わたしは多少の疑問を感じるところがある。これもまた五月であろう。この国に渡り来て、巣場所を見つけ、そして全力で飛び交う燕たち。それもまた五月のめざましいできごとであるが、それを彼ら燕たちはペアリングの行動としておこなっているのだ。激しさも当然である。全力、全速力も当然である。伴侶を得た喜びもそのフル・スピード飛行にはある。この歌で物足りなく思うのは、そのペアリングの必死と歓喜を作者が見落としているところだ。わたしはまた燕の歓喜も感じ取りたいと思う。
 七首目の「静」の歌はまことに巧みに詠まれた歌である。左注によれば作者は国立小劇場で「賤(しず)の苧環(おだまき)」を観たという。静御前の思いと我が思いを重ねてうたう歌は、どこかに(詩歌管弦の)遊びの愉しみを隠していて優雅である。
 わたしが先に引いた最後の八首目の歌である。「かがよい熄まず我が老いの日々」。こういう姿勢をもってみずからの老いを祝福する姿には感動するほかはない。われらはみなこうありたい。われもまたこうありたいと思う。
 最後にもう一首だけ付け加えておこう。多分目立たない歌である。
・ほとほとと病室の扉(と)を叩く音 三日つづきて直輔昇天を知る
 この「ほとほと」は折口(信夫)が説くまれびとの来訪を告げる音だろう。こんなところに、こっそりと、さりげなく、作者のしっかりとした民俗的感性をみることができる。作者はたぐいまれな稟質をもった方なのだと知られる。
   ◇   ◇
 こうして数首あまりを取り出しただけで、この歌集が、生まれることの稀な、秀逸な歌集であることがわかるだろう。ここには感覚と身体によって感得されたのっぴきならないことだけが歌われている。歌い方は過剰、過度なところがまったくなく、すべてが的確を旨として歌われている。この歌集は、わが国の歌壇にとって、またわが国の歌の歴史のなかで、記念され、そして後の歌人によって必ず学ばれるべき一集である。このような歌集が生まれ、そしてそれに触れられたことを、わたしは率直に喜びたい。

137千手:2008/07/25(金) 08:01:36
>>135 一ヶ所訂正のため削除しました。

138毛蟹:2008/07/28(月) 01:46:16
>134,136
ご紹介頂いた歌ですが、僕には「うなり」を発することも、「いのちのリズム」を見出すこともできませんでした。つまりこの歌人が感得した(かもしれない)「のっぴきならない」ことを僕の身体で追体験することはできませんでした。
本当に「のっぴきならない」ことが、変身の瞬間が、この歌人に訪れたのでしょうか?「うなり」の質(それはどんな声だったのか?)の記述、「リズム」の質の記述はありません。葉がそよぐリズムが「のっぴきならぬ」ものであったのなら、その「のっぴきのならなさ」を記述しなければリズムを捕捉したことにはならないと思います。

139毛蟹:2008/07/28(月) 01:52:06
僕が鈍いのでしょうか。確かにこのごろ意図的に感度を下げて想像力の働きを抑えていますが。

140千手:2008/07/29(火) 01:55:06
>>137,>>138
三番の楡若葉の歌は、リズムをもって動く宇宙の一部との呼応の目ざめなのでしょう。
そういうものがあり、そういうことがあるということへの目ざめ。そういうことをきちんと正直に語り記している、そういう歌だと理解しています。
けれど演奏ではない。
そして演奏の能力はそんなに研いてはいない。
あくまで自分の変身を、語り、人に報告するというところに位置している歌です。
山中智恵子のように、歌のことばによって「リズムを捕捉する」ことのできる歌人というわけではないでしょう。

141毛蟹:2008/07/29(火) 09:46:40
>>140
アドバイスありがとうございます。
ご紹介いただいた歌たちと向き合っているうちに、歌人とは何をする人なのかさっぱりわからなくなってしまいました。

>けれど演奏ではない。
>そして演奏の能力はそんなに研いてはいない。
>あくまで自分の変身を、語り、人に報告するというところに位置している歌です。
>山中智恵子のように、歌のことばによって「リズムを捕捉する」ことのできる歌人というわけではないでしょう。

そういうことなんですね。

残念なのは、固有な(のっぴきならない)瞬間の精密な記述がないことで、読み手が自分の引き出しの中からうすらぼやけた記憶を1や3の歌にコピペすることを許してしまっていることです。それがいいことなのか悪いことなのか、どうでもいいことなのか、僕にはわかりません。

「私は葉のそよぎのリズムと呼応した」と言われても、その葉のそよぎのリズムを見せてくれないなら、読み手である僕はその固有なリズムに呼応することはできません。千手さんに看破されましたが、僕は生成(演奏)にしか興味が持てないのです。

142千手:2008/07/29(火) 12:06:32
>>136 訂正
鶴見和子『遺言』を見て発見したんですが、鶴見さんは国立小劇場で「静」をみずから踊っていたようです。
それで、>>135に戻して、
「左注によれば作者は国立小劇場で「賤(しず)の苧環(おだまき)」を観たという。」→
「左注によれば作者は国立小劇場で「賤(しず)の苧環(おだまき)」を踊ったことがあるようである。」
に訂正します。

143毛蟹:2008/07/29(火) 12:08:04
以前千手さんに紹介してもらった「蝉」が登場する山中智恵子の歌が好きです。透明でエロティックな感じがします。蝉の抜け殻のように、自由に出入りできる空間として自分の身体を読み手に提供しているような感じがします。そこ(肉体)に自分は居ないという自信を感じます。勿論僕には何が詠まれているのかほぼさっぱりわからないのですが、この短期な僕が「わからない」ことに癇癪をおこさず、ちゃぶ台もひっくり返さず、「ずっとわからないままでいてね」と願ってしまうのは稀なことです。ピントの外れたファンレターです。失礼。

144千手:2008/07/29(火) 12:09:50
>>141
よく分かります。言葉で「そよぎのリズム」を見せるのは音で見せるよりなお難しいことと思います。
ただ、山中智恵子のように、できる人はいるのです。

145千手:2008/07/29(火) 21:52:24
鶴見さんの『遺言』から面白いところを紹介しておきます(p.88)。
「ところがそんなもんじゃないの。倒れてはじめてわかったのは。萎えたる足は我が気象台なんです。高気圧と低気圧。台風が来る。もうNHKの天気予報より、もっと早くわかるんです。この足が全部感知しちゃう。気圧の配置感知する。逸早く、気圧配置感知する、萎えたる足は我が気象台なんです。そのくらい体が自然の条件と連動しているんです。……」
とりあえずこんなところです。

146千手:2008/07/29(火) 22:00:34
>>143
「虚空日月夢邃きかも」の歌がわからない、と思って、
気がつくと三十年以上経ってました。

147千手:2008/07/30(水) 08:44:36
山中さんのその歌とりあえず全体紹介しておきます。

ただよひてその掌に死ねといひしかば虚空日月夢邃きかも (『虚空日月』)

148千手:2008/09/28(日) 11:44:21
>>141
こんな言い方ができるかもしれない。
短歌は濃縮ジュースのようなものだ。正しく還元できればもともとのシュティムング(Stimmung)を現に再生できる。
高度な歌の場合還元法は非常に複雑だ。だが必ず音律法があり、音律によってみずからのあり位置を正確に指示する。
そしてしばしば本歌など、自分の思考の位置、所在地を指示するための参照歌ないしは参照テクストがある。
音律の組み立て方が作家のもっとも個人的なところ。
還元法は音律を軸にその他の要素を織り込んでゆく一種の個人文法のようなもの。

とりあえず思いつくまま。

149千手:2008/10/07(火) 00:16:06
鶴見和子歌集『花道』 二十四首を読む をupしました。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_1.html
コメントをいただければ幸いです。

150千手:2008/10/16(木) 22:40:37
「風土と日本文化研究会」第十六回研究会(2006年11月18日)の『折口信夫・釈迢空の「國」歌』の配布資料をブログで公開しました。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_2.html
さらに議論が広がるならなお幸いです。

151千手:2008/10/22(水) 15:00:50
山中智恵子さん、亡くなるとき、わたしの夢枕に現れてくれた、という話です。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_3.html

152千手:2008/10/31(金) 22:41:33
フランキーさんという翻訳をしてくれたインドネシアの先生が
「オイナニケケ」というスラウェシ島マナドの民謡のテープを送ってくれました。
その話です。
http://25237720.at.webry.info/200810/article_5.html

153千手:2008/11/01(土) 00:20:55
>>152
CONNIE MARIAさんの歌うその歌を聞くと、言い難い幸福感を感じます。
その幸福感は、そのミナハサ・ツアーの間中感じたものだった。深い深い幸福感。
そのまま死んでもいいと思うような。比類がない。
ちょっと違うが、シュトラウスの「死の四つ歌」の「眠りにつこうとして」に近いかもしれない。
「ケケ」の方がもっと暖かいものだが。
どこかに南の国の幸福があるのだ。

154千手:2008/12/04(木) 13:44:18
 今日読んだ鶴見和子『歌集 山姥』より

翼のべ空飛ぶ鳥を見つつ思う自由とは孤独を生きぬく決意

いい。すばらしい。

155千手:2008/12/20(土) 00:25:51
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen.
(Hoelderlin: Haelfte des Lebens)
'kalt'の続きが何なのか分からなくなっていた。'trunken von Kuessen'かと思っていたところだ。
'Klirren die Fahnen'だった。それだとなお救いがない。

156毛蟹:2008/12/20(土) 15:13:12
>154
そうでしょうか?
鳥もコミュニティーを離れては生きてゆけないはずです。
「孤独を生きぬく決意」ではなく、「誰にも助けられず一人で死に行く覚悟」なら僕にも共感できます。

157千手:2008/12/20(土) 23:32:20
>>156
そのどちらでもなく、孤立することをおそれずに進んでゆくという姿勢を明確にしている歌だと理解しています。

158毛蟹:2008/12/21(日) 09:53:18
>157
生き物への理解の足りない歌だと理解しました。

159毛蟹:2008/12/21(日) 10:47:53
この歌人の望むところは「生成」ではなく「説得」だと思います。

160千手:2008/12/22(月) 23:34:24
同じく鶴見和子『歌集 山姥』より

もう死にたい まだ死なない 山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

この揺れ、振動に宇宙の無限のふるえがあるようだ。

161千手:2008/12/31(水) 14:49:13
鶴見和子歌集『山姥』の紹介。
http://25237720.at.webry.info/200812/article_4.html

162毛蟹:2009/01/03(土) 10:22:29
>160,161
旧年中は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いします。

161拝読しました。160の歌は未来の予測不可能性(意志なき意志)に対する「探り」だと感じました。
「もう死にたい」がなければいい歌です。くどい。どうしてこの歌人はこうも読み手を説得したがるのでしょう。
生理的に拒絶反応が生じます。

163千手:2009/01/03(土) 14:44:53
>>162
(もう死にたい )
まだ死なない 
山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

「もう死にたい」はかなりの部分作者のサービス精神でしょう。
一筋だけが対話になっていると思います。
ベートーベンの
「こうでなければならないのか?
こうでなければならない」
というメモ書きのように。

164千手:2009/01/06(火) 00:39:25
『鶴見和子を語る』という本を読みはじめたが、その中で鶴見俊輔さんがこう語っている。
>それは彼女の価値判断の基準が変わったんです。つまり学問の世界というのがあって、一番はだれだというのが彼女のはじめの発想だったんです、アメリカへ行っても。人生の終わりになったら、自分はいまここで身障者とsていこうやってここで暮らしている。この片隅の暮らしがすべての基準になるんです。だから価値の転換があるんです。(p.62)
>だから名声からは離れていると。(p.62)
>片隅の人生の、これが実人生なんです。だから一番病(いちばんびょう)だと私は批判してきたんだけれども、最後の十年は一番病から自由になった。(p.63)
 俊輔さんのこうした批判的な捉え方はおよそ的確で魅力的なのだが、「最後の十年は一番病から自由になった」という理解には疑問を感じる。短歌を作っていた最後の十年、和子さんは短歌の中にも自分の実経験を型に帰属させる発想法と、よき未来の予告を語るという(未来病的な)発想法を持込んでいて、その大別して二つの発想法によって実人生のリアルな経験を干物のようなものにしてしまっている。
晩年の三歌集(『回生』『花道』『山姥』)を読んで、私がほんとによいと言えるのは二首だけだ。『回生』のなかの「カタストロフィー、カタストロフィー」の歌と、>>160に引いた「もう死にたい」の二首。

165千手:2009/01/06(火) 00:56:55
鶴見俊輔さん(↑)の
>八十歳に近く、彼女が脳出血で倒れたとき、歌は彼女にもどって来た。はじめは型はずれだったけれど、だんだんに型がととのって来て、その後、彼女は紀貫之の歌の理論、歌は生きとし生けるものの、生きる姿勢の中にあるという伝統にもどりました。
という理解にも二重の疑問を感じる。一つは紀貫之の歌論の理解に関して。もう一つは鶴見和子の歌の位置づけに関して。
 これについてはきちんとした反論を書くつもりだが、和子さんはよきにせよ悪しきにせよ、「一番病」を、名利の意識と言えそうなものを、短歌の中にまで持込んでいるのだ。99.9%までがそういう歌だ。通例の一番病や名声欲のようなものとは違ったものだが、だが「リアルなもののかかわり」を何よりも尊重する態度とは逆の物なのだ。

 このことをきちんと書こうと思うのだが、同時に自分は何という修羅の中にいるのだろうと感じる。
 だが俊輔さんは多分わたしのこのような反論も分かっていて、明確には語らないが、そこのところを鶴見和子の「業」として、「自分性」(わたしの造語)として捉えているのだと思う。

166千手:2009/01/06(火) 01:44:58
>>164,>>165
http://25237720.at.webry.info/200901/article_2.html
に修正・再録しました

167毛蟹:2009/01/07(水) 13:17:58
>166
この歌人は「(誰にも助けられず、看取られず)黙して死にゆく」生き物ではありません。しかしほとんどの生き物はそのように死んでゆきます。
この歌人はそのような生き物たちの死から何かを学んだのでしょうか。
山中智恵子の「蝉」の歌にはこの「黙して死にゆく」生き物と同じ生が感じられるのです。なんとなくです。

168千手:2009/01/08(木) 04:00:52
>>167
自分の死としては現在望みうる最高の環境での死しか想像できなかった人だと思います。

169千手:2009/01/08(木) 04:12:29
承前
鶴見俊輔さんがとても的確な捉え方をしている。
>自分ひとりを相手にして、自分ひとりで芝居をしていて、楽しんでいる。p。120
と。主に宇治の施設での最後の十年の生活についてのことだ。この批判的な眼差しに少し驚いた。
 それがさらに、肯定的な捉え方でもあるということが次のところからわかる。
>和子は戦後、政治に出ていたら、当選してますよ。それから一回ぐらいは大臣をやれたでしょう。それが彼女にとって大変にまずいことになっただけなんだ、好きじゃないんだから。それは宇治の施設で自分の部屋で一人芝居しているほうがいいんですよ。それも自分の幸運と思うだけの見識が、彼女には具わっていた。
 鶴見和子の晩期十年の短歌をどう肯定的に捉えられるかを思慮しているのだが、「ひとり生活の処世術」として大きな意味がある仕事だと言えないか、と思っている。

170千手:2009/01/08(木) 04:16:04

後半の引用はp.130

171千手:2009/01/08(木) 04:28:17
こんなページがある。
>鶴見(俊輔) 着るものも、おふくろの着ていた着物を裁断して、自分がいま着て寝てるって。これは和服の問題ですね。ちょっと洋服じゃそうならないと思う。そういうことを楽しんでいたんです。
>黒田(杏子) 終の日のお着物も決めておられたんです。
   「藍鼠の郡上紬に朱の衿かけたるままに書きおきぬ旅装束と畳紙の上に」(『山姥』)
  そのとおりに旅立たれた。俊輔さんがお通夜のとききれいだねえと。
>鶴見 すべて自分の想像の中で楽しんで、死に装束すらも楽しんでいた。
>黒田 最後まで衣食住を堪能された稀有の人。
>鶴見 そうですね。本当に。
>金子(兜太) できたといいうこtだな。それが。見事だよ。敬服するな。p.115
 わたしはそれを「堪能した」とは思わない。むしろ「管理した」と感じる。
 そして金子さんは「敬服する」と言っているが、わたしは敬服しない。むしろ哀れむ。どうしてここまで自己管理しないと気がすまないのか?

172千手:2009/01/08(木) 04:36:19
わたしは最近、哲学者も一種の猟師で、殺すことを本来の仕事にしている存在だと感じている。
何を殺す? 業の尽きた有情を。
 そしてまた「送り」をして成仏の手助けをしてやらなければならない、と。まさに諏訪の勘文の思想だ。

173千手:2009/01/08(木) 04:41:15
「送り」をして、もしくは「食べて」と言い直した方がいいか。

174毛蟹:2009/01/08(木) 08:22:55
>172
よくわかりますが、「カタストロフィー」と「もう死にたい」も火に食わせてあげないと。

175千手:2009/01/09(金) 23:35:57
>>172
を修正してブログにup。
http://25237720.at.webry.info/200901/article_4.html

176千手:2009/01/10(土) 02:11:56
宇治ゆうゆうの里に行って来ました。
診療所の鶴見和子さんの最後にいた病室に入れてもらって、窓の外に「山茱萸の緑の青葉」を探したのだが分からなかった。

177千手:2009/01/10(土) 02:15:29
>>174

哲学者としては、自分も食わないと、という発想をしますが。

178千手:2009/01/10(土) 02:35:12
結局鶴見俊輔さんが和子さんの最後の十年も「一人芝居」と批判している。
これを越える観点と言葉をもてなければ、俊輔さんより先へ行ったことにはならない。
自分にはそれがまだ見つかっていない。
紀貫之の歌論ががアニミズムとえいるのか。
鶴見和子の歌が近代短歌ではなく、貫之につながると言えるのか。
この二点は俊輔さんの議論に対する疑問だが。
和子さんの最後まで貫いた意志的な努力の姿勢はそれはそれで素晴らしいものだと思わざるをえない。
そしてそこに欠けているものとを合わせて、どう位置づけ、どう評価するか。
「ひとり生活の処世術」としての評価以上のことができるのか。
ゆうゆうの里へ行って、ああいう老人ばかりのところで死を迎えたくはないと思った。

179千手:2009/01/10(土) 02:46:41
最後まで業の尽きなかったひとなのだ。

180毛蟹:2009/01/10(土) 21:19:17
>138
こうして数首あまりを取り出しただけで、この歌集が、生まれることの稀な、秀逸な歌集であることがわかるだろう。ここには感覚と身体によって感得されたのっぴきならないことだけが歌われている。歌い方は過剰、過度なところがまったくなく、すべてが的確を旨として歌われている。この歌集は、わが国の歌壇にとって、またわが国の歌の歴史のなかで、記念され、そして後の歌人によって必ず学ばれるべき一集である。このような歌集が生まれ、そしてそれに触れられたことを、わたしは率直に喜びたい。

僕はそうは思いません。この歌人は「黙して死に行く」生き物たちの生と死を自分の都合にあわせて利用しているだけとしか思えません。それは僕が思うに冒涜です。

181毛蟹:2009/01/10(土) 22:47:01
ご紹介頂いた歌たちのメッセージは「わたしはここにいるのよ!」というものだと思います。
鶴見俊輔さんは「観客が一人もいない」という意味で「一人芝居」とおっしゃったのでしょうか。それなら残酷ですね。哀しく滑稽でかわいい「ひとり生活の処せ術」です。

ある意味タフな歌人だと思います。↑のメッセージを発信するために何でも利用するのですから。

>翼のべ空飛ぶ鳥を見つつ思う自由とは孤独を生きぬく決意

千手さんには大変失礼ですが、こんな一人よがりの薄っぺらな歌を詠む度胸は僕にはありません。

182千手:2009/01/11(日) 16:55:02
>>181
>利用しているだけとしか
 この人にも「利用する」前の時間があるのです。その時間が、歌ではほとんど消えてしまって見えなくなっている。それが問題なのですが。

183千手:2009/01/11(日) 17:13:43
↑は>>180の間違い。
>>181
俊輔さんの読みの底までわたしはまだ達することができていませんが、
>鶴見俊輔さんは「観客が一人もいない」という意味で「一人芝居」とおっしゃったのでしょうか。それなら残酷ですね。哀しく滑稽でかわいい「ひとり生活の処せ術」です。
はかなり深い意味でそうだと思います。
けれどわたしが今思っているのは、鶴見和子さんにとって歌が暗黙に予感している他者は、ほんとはごく内密な世界で、自分に、そして俊輔さんに、そして他の兄弟姉妹に向けて作っているように見えます。
「わたしはこんなに意気高く生きてる」ということを示そうとして。
多分再晩期にしろ和子さんを訪ねたら、わたしの仕事が何かということを真直ぐに尋ねられたことでしょう。
その姿美しい意志の形をわたしは決してないがしろにすることができない。
 けれど歌の道としては、本道からは外れていると思います。
  高見山青透くばかりすがた立つつくづくと今をよき咲(ゑま)ひあれ
    山中智恵子『みずかありなむ』「離騒」
 こういう他者の持ち方が正道だと思います。
 けれど他方で、鶴見和子さんほどきちんとした意志の姿勢を貫き、示した歌人も他にいないと思います。
「ひとり遊び」「兄弟遊び」という狭さが残っているにしてもです。

184千手:2009/01/11(日) 17:26:49
「山姥の歌---ひとり生活の処世術」
わたしの鶴見和子論はこんなタイトルになるでしょう。

185千手:2009/01/13(火) 01:22:16
拙詠一首

ひとの死をつぶさに見つつ隅田川父は火中を生き延びたまひたり

柳田国男『炭焼日記』昭和二十年三月九日の条にこんな記述があります。
>今夜夜半過ぎ空襲、全体で百三十機ばかりという、東京の空を覆いしもの五十機、窓をあけて見ると東の方大火、高射砲雷の如し。三時まで起きてふるえて居る。いつ落ちるかもしれぬという不安をもちつつ。

わたしの父はその時三十五歳だったはずです。

186千手:2009/01/13(火) 01:30:24
柳田の認識は、この時のいわゆる「東京大空襲」を少し過少視し(約七分の一)ているようで、
実際はB29、344機だったと言われています。
 翌日の記述だと思われるのですが、「五十機」という発表が公になされていたのでしょうか。

187千手:2009/01/13(火) 02:12:13
再びこの歌:

 もう死にたい まだ死なない 山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

これは古今集・貫之の「生きとし生けるもの」の歌の系譜につながるというよりも、
むしろ道元・正法眼蔵の「無情説法、無情得聞」につながるものではないだろか?
 「もう死にたい」という問も、それに対する「まだ死なない」という聞、これが朝の光の中の山茱萸の揺れのの問・答、説法・得聞なのだ。
無情の説法を無情が聞く。そういう関係に思える。このとき「生きとし生けるものの歌を聞く」という有情のレベルはもう超えられている。

188毛蟹:2009/01/14(水) 01:06:31
>187
>このとき「生きとし生けるものの歌を聞く」という有情のレベルはもう超えられている。

そうでしょうか?有情、無常ってよくわかりませんが、「わたしのいのち」が他者として生きているということの気付きの瞬間だと僕には思えます。

189千手:2009/01/14(水) 02:13:39
>>188
? 有情/無情は確かにものすごく難しい。ただこれが分からなければ道元禅はわからない。
それで、まずはちょっと『古今集』「仮名序」を読んでみて下さい。

190千手:2009/01/14(水) 02:16:31
有情→無情:
生物から無生物(=宇宙の法)への飛躍があるのではないでしょうか。

191千手:2009/01/14(水) 02:22:31
「飛躍」というより「帰入」と言った方が誤解が少ないかもしれません。
「無情説法、無情得聞」で十分明確な表現だと思いますが。
この表現も、考えるならまずちょっと『正法眼蔵』の「無情説法」を読んでみて下さい。

192毛蟹:2009/01/14(水) 10:59:47
>190
>もう死にたい まだ死なない 山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり

「黙して生きている」状態にある歌人の「いのち」が歌人に何も語らなかったと断定する根拠を僕はこの歌から見つけることができません。
「いのち」の声を聴き取ったかもしれません。そしてこの歌人が生涯の中でいのちに最接近した瞬間であったかもしれません。それを否定する根拠もこの歌の中にはないと思います。
この歌は生物から無生物への侵入の手前にあると僕は思いました。

193毛蟹:2009/01/14(水) 11:41:57
>192
「侵入」を「帰入」に訂正。

この歌では体力が気力を上回っています。逃れようとする精神を捕まえて身体は生き続けています。青葉は簡単には落ちません。いのちの強さに半ば呆れつついのちに祝福を贈る歌人を僕は想像したいです。

194毛蟹:2009/01/14(水) 23:11:04
「この人は並外れた歌人ではない。この歌人は並外れた人ではない」これを自分なりに確認したかっただけです。

この歌人に関する僕のエントリーはこれで終わります。
千手さんありがとうございました。

195千手:2009/01/15(木) 22:52:31
>>193
いわば体力のなかに宇宙の法を聞きとっている、と考えるのですが。
それが「揺れている」ということではないか、と。

196千手:2009/01/17(土) 03:02:11
山中智恵子さんの歌を一首紹介しておきます。

  星は医師と誰か言ひけむこはれゆく銀河を仰ぎとどめむものを
             『青扇』

197千手:2009/04/04(土) 18:36:41
『風騒思女集』より山中智恵子さんの歌二首。

壊れゆく人間のため空は在り 鳥ありといふすべのなきか

束の間の狂気の晴れ間旅立たむわが尾の尽きるそのところまで

198千手:2009/04/17(金) 00:13:58
Susan Boyle - Britains Got Talent 2009 Episode 1 - Saturday 11th April
http://www.youtube.com/watch?v=RxPZh4AnWyk
「普通のおばさんが!」という驚きの。

199毛蟹:2009/04/17(金) 01:19:49
>>198
普通でない群集=装置から「普通でない」と驚かれる少々歌のうまい「普通のおばさん」を「普通でない」と思い込む努力を惜しまない僕ってたぶん普通なんだなと感じました。

200千手:2009/04/19(日) 05:28:34
拙論「岡本太郎はほんものである(1)」
http://25237720.at.webry.info/200904/article_2.html

201毛蟹:2009/04/19(日) 13:59:45
>200
読ませていただきました。
テキストの最後の部分では八重山の歌の限界について述べておられると読んだのですが、間違っていないでしょうか?

一つ残念なのは

>それは、たとえば、動物と相戦いそして仕留めることとそう違わないことのはずだ。

僕も含めてほとんどの読者がこのような「なまのなまなましさ」の物差しを持ち合わせていないことです。
たいへん意地悪な質問ですが、千手さんはいのちを賭して動物と戦い、仕留めた経験がおありですか?

202千手:2009/04/20(月) 01:54:36
>>201
>テキストの最後の部分では……
挙げたCDの「とぅばらーま」のもっと先はあるだろうということです。
>いのちを賭して動物と戦い、仕留めた経験……
ありません。「いのちを賭し」のところ、猟師の経験ともちょっと違うと思います。

203千手:2009/04/20(月) 02:19:42
>>202 補足
強いクマにとっては、人間のまずもって来れないところに冬眠するということ自体が命がけの行動だと思います。
猟師にとってはそういうところまで行って、熊穴を見つけること自体が命がけだと思います。

204毛蟹:2009/04/20(月) 09:55:47
>>202
>「いのちを賭し」のところ、猟師の経験ともちょっと違うと思います。

そうですよね。熊に力を出させないような方法(寝込みを襲う)でないと職業としては成りたたないはずですから。

>>203
この場合、猟師と熊が命がけで取っ組み合っている相手は自然であって熊(猟師)ではありません。
一般的に「動物と相戦う」という場合、その瞬間、両者に相手に対する殺意があるということを前提していると思います。
穴熊猟の場合熊は・・・寝てるんでしょ?

205千手:2009/04/20(月) 14:56:32
>>204
穴から追い出してから撃ちます。

206千手:2009/04/20(月) 15:00:47
>この場合、猟師と熊が命がけで取っ組み合っている相手は自然であって熊(猟師)ではありません。
 熊と猟師は互いに相手の考えを読んで行動します。何でわざわざ危険な崖の上に寝場所を決めるのか。

207毛蟹:2009/04/20(月) 22:54:45
>>205
>穴から追い出してから撃ちます。

失礼しました。猟師によって2通りの方法があるようですね。

>>206
>何でわざわざ危険な崖の上に寝場所を決めるのか。

それは熊に限ったことではなく、天敵のいる動物に普通にみられる戦略です。天敵と戦うことを回避する戦略です。
もし熊が人間と戦うハメになることまで考慮して崖の上に穴を構えているなら特別な動物といえるかもしれません。

208毛蟹:2009/04/20(月) 23:24:06
今も行われる熊猟って人間の性なんですかね?

209毛蟹:2009/04/21(火) 00:13:13
やっぱり千手さんご自身が熊を仕留めた経験がないとダメだと思います。

210千手:2009/04/21(火) 05:08:23
>>207
>もし熊が人間と戦うハメになることまで考慮して崖の上に穴を構えているなら特別な動物といえるかもしれません
 熊は人間が追ってくることを考慮して寝穴を定めているようです。

211千手:2009/04/21(火) 05:17:22
>>209
最後の行一部修正しました。

>>207
寝穴が少なく、血の臭いがついても同じ穴にまた熊が入ってくるところでは穴の中で仕留めるのが普通のようです。
木曽福島の樋口さんの話。少量の火薬をつめた弾で銃口を耳に当てて撃つそうです。

飛騨の橋本さんは、原則穴から出して、1〜1,5mの近距離でかかってくる寸前に頭に撃ち込みます。

212千手:2009/04/21(火) 05:29:40
>>208
知と技と体術のすべてを傾けて強敵と対決し勝利する喜びが一番のようです。

213千手:2009/07/09(木) 22:48:01
アファナシエフの弾くブラームスop.117は(op.118-6も)は、グールドを越えて、ブラームスの火をその先にまで伝えている。
透明な湧きいでる泉の水が、いわば鋼のように厳しく、また厚みのあるものであることを教えてくれる。
そんな印象だ。

214千手:2009/09/12(土) 19:47:26
アファナシエフの《ショパン:ノクターン》。
こんな苦しいショパンを聞いたことがない。
重く、苦しい。

これはアファナシエフの栄誉だろう。

215千手:2009/09/12(土) 19:50:17
>>209
同行して、殺せば同じことだと思います。

216毛蟹:2009/09/14(月) 01:05:23
>>215
橋本さんがそう仰ったのなら同じなのでしょう。

217千手:2009/09/14(月) 01:21:23
>>216
橋本さんが言ったわけではありません。
技術、胆力では違います。

218千手:2009/09/27(日) 11:35:50
私が最も恩恵を受けているグールドの演奏のひとつは、バッハのピアノコンチェルトの7番だ。
この確信を持った強い音の響きは、最高の音楽の一つだ。
「すきなだけ多くの時間と空間をもっているという確信」もここ、この場にはある。
音楽の最高のもののひとつだ。

219千手:2009/10/10(土) 23:57:51
「ある日の伊東静雄」開始。
http://25237720.at.webry.info/200910/article_3.html

220千手:2009/10/16(金) 11:32:40
「ある日の伊東静雄」6 ここで一応完結。補足を一つつける予定。
http://25237720.at.webry.info/200910/article_10.html

221千手:2009/10/28(水) 21:41:02
「杉本秀太郎の伊東静雄論」連載開始。

http://25237720.at.webry.info/200910/article_11.html

現在2まで公開。
乞うご期待。

222千手:2009/11/03(火) 18:48:09
ヘルダーリンの詩の朗読CDが手に入った。朗読はBruno Ganz。正確な韻律で読んでいるものと思う。
エリギー、とかオーデとか。
自分の思っていた読み方とずいぶん違うので、驚くと同時に、ヘルダーリンの詩が普通の詩人の詩とまったく別物なのだということがわかる。
ほとんど呪詛に聞こえるのだ。多くのドイツ人にとってもそうなのだと思う。
〜はどこにある、〜はどこにある、などということを本気で真っ正面から疑問にして問うているのだから。
たとえばあのアテナイはどこにある、等々(パンと葡萄酒)。
ほんとは呪いや呪詛ではなくて、深々と現在を問い出しているものなのだが。
だがともかくこういう詩には堪えられないドイツ人が多いだろう。

223千手:2009/11/03(火) 19:03:55
Brot und Wein


7
例えば「パンとP葡萄酒」の7の終わりのところ。
 Weiß ich nicht und wozu Dichter in dürftiger Zeit?
Aber sie sind, sagst du, wie des Weingottes heilige Priester,
Weiche von Lande zu Land zogen in heiliger Nacht.

乏しいい時代に詩人が何のために存在するのか、わたしは知らない。
詩人は、酒神バッコスの聖なる司祭のように、聖なる夜の中を、国から国へと移り行くのだ。
(詩人に引き付けて意訳)

聖なる夜の中をめぐり歩くより他のことを知らない者……。

224千手:2009/11/03(火) 19:17:38
さらに、その詩の最後のところ、

8
selbst Cerberus trinkt und schläft.

これが酒神の存在の意味なのだ!!!

ツェルベルス(地獄の番犬)さえ酒を飲んで眠るのだ、と。

葡萄酒はすでにキリストの血さえをも溶解させて、ディオニュソスの酒になっているのだ。
この"trinkt"に気を止める人は少ないのではないだろうか。
いやいや、ヘルダーリンをドイツ語で読もうとするほどの人なら、深くそこに気を止めるだろう。

このさりげない"trinkt"が酒神の存在の意味なのだ。


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