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鬼和尚に聞いてみるスレ part9
103
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/17(土) 21:59:13 ID:1d4drIFg0
>>101
意識は今の自分ではないのじゃ。
自分という観念を超えたものなのじゃ。
時と言う観念もないものじゃ。
全てを超えてただ在り続けるものじゃ。
それに通じれば過去も今も全て一つとして見られるのじゃ。
悟った者に前世が見える宿命智が芽生えるのもそのためなのじゃ。
それは強く集中することでも達成できるものじゃ。
死の恐れをも超えて今の意識に深く没入すれば過去の事も悉く見られるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
104
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/18(日) 05:50:24 ID:eAIt472s0
>>102
何が起ころうとも、そのときの心の動きを観察するよう努めます。
ご教授ありがとうございました。
105
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/18(日) 07:51:13 ID:hDl7hXkQ0
これから起こることにためらいながら、光の中へ一気に飛び出ました。
そのタイミングでオギャア!と叫びました。
男の子ですよ!
と看護婦さんが話をする。
近所の人が赤ちゃんを見に来ます。
かわいい赤ちゃん!
全て聞こえていますし、意味もわかります。
笑ってあげるとすごく喜んでくれました。
生まれてから多分あかちゃんの頃は、この世の全てを理解し、万能感がありました。
しかしこの世界で成長し物心がつくにつれ、こちらの世界に染み付いていく中、万能感は薄れていきました。
それでもつながることはできました。
そしてお父さん、お母さんとの言葉を教えられたぐらいから繋がることができなくなりました。
あれから何十年が過ぎて禅に縁があり組んできています。17年がたちますが、あの赤ちゃんの頃の万能感には至りません。
あの万能感が悟りなのでしょうか?
ひたすら本心を観察するプロセスが、通じていくのでしょうか?
そしてあれだけの生まれる前のためらいを感じていたのは、まさに今の苦しみを自分で設定していたからなのかとも感じています。
106
:
蓮恵
:2017/06/18(日) 10:54:11 ID:NzzPrVro0
観念があるからこの世界と己が存在するのですね
107
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/18(日) 10:57:54 ID:czRftzgI0
苦い記憶が甦ると胸のあたりが緊張状態になり、この負荷感を不快に思うから苦になる。
不快という思考以前は体の反応にすぎないと、観察しました。どうでしょうか?
108
:
進路探訪者
:2017/06/18(日) 14:56:15 ID:DIiPmWc60
>>103
ご返信ありがとうございます。
しかし、そのように生まれる前の自分を見ようとしてヴィパッサナーを
行っても、それでは単にただボーっとした無意味な感覚しか得ることが
できません。
私の意識ではここまでしか到達できません。
109
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/18(日) 22:08:12 ID:1d4drIFg0
>>104
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>105
悟りではないが忘我の状態なのじゃ。
赤子にはまだ自我がないからのう。
その状態では一時的に無我の世界もみえるのじゃ。
本心を観察し、ひたすら集中すればまたそこに至れるのじゃ。
更に不死の境地にも至れるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>106
そうじゃ、世界も己も観念によって創られているのじゃ。
観念がなければ創られていないありのままの世界が見えるのじゃ。
それが不死の境地なのじゃ。
110
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/18(日) 22:09:57 ID:1d4drIFg0
>>107
よい気付きなのじゃ。
感情は体の反応として表れるものじゃ。
その反応を繰り返し観察すればやがて消えてしまうのじゃ。
記憶はあるが苦の反応がなくなるのじゃ。
それにも囚われず進むとよいのじゃ。
>>108
そのような智慧はむしろ集中によって到達できるのじゃ。
自我も超えるほどに集中すれば能力の制限が突破されるのじゃ。
日々の瞑想によってそれは可能になるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
111
:
進路探訪者
:2017/06/19(月) 00:29:20 ID:5UcS1zmo0
>>110
ご返信ありがとうございます。
しかし、それならば生まれる前の自分を見るにはサマーディを完成させる必要がありますよね。
だとすると、サマタ瞑想の不得意な者にはこのような生まれる前の自分を見るのは難しいのではないですか。
112
:
としぼっくり
:2017/06/19(月) 01:06:07 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
本当に死を超える事は出来るのでしょうか?
113
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/19(月) 05:36:52 ID:czRftzgI0
>>107
回答ありがとうございました、観察を続けます
114
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/19(月) 07:13:37 ID:K1DT3PSk0
>>102
>>98
ご回答ありがとうございます
私には「必要以上のお金のためにあくせく働くなんてバカみたい」という気持ちと
「お金がないのはみじめだ」という相反する気持ちがあります
おそらく自分から拒否している心があるみたいですね
もっと観察してみます
115
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/19(月) 20:00:34 ID:1d4drIFg0
>>111
決意して行えば難しいことも無いのじゃ。
ただ姿勢を正しくすれば誰でもサマーディに至れるのじゃ。
姿勢が大事なのじゃ。
姿勢を正して実践あるのみなのじゃ。
>>112
出来るのじゃ。
仏陀と多くの阿羅漢達が証明しているのじゃ。
座禅だけでも多くの者が悟っているのじゃ。
止観を行えば悟りも容易になるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
>>113
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>114
そうじゃ、本心を観察して進むのじゃ。
またおいでなさい。
116
:
としぼっくり
:2017/06/19(月) 21:32:11 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
悟りとは、自我を滅して、認識を滅する事で、それが死を超えた不死の境地という事でしょうか?
117
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/20(火) 12:14:09 ID:o/aV81ho0
鬼和尚こんにちは。
質問なのですが、この世は起こることが起きているだけなのでしょうか?
私の考えも起こるべくして起こったのですか?
そうなると、私がしたいと思ったことも起こるべくして起こり、それが達成されるされないも起こるべくして起こったのか。
和尚の見解はいかがでしょうか。
118
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/20(火) 17:22:18 ID:jXBLfuUE0
追記すみません。
起こるべくして起こるってもしかしたら自我を滅するテクニックなのでは?と鬼和尚のブログを読んでいて思いました。
もしそうだとしたら、何かを成し遂げたいなら自分の意思はしっかり持たないといけませんね。
どうなんだろうな。
119
:
進路探訪者
:2017/06/20(火) 20:48:31 ID:DIiPmWc60
>>115
ご教授ありがとうございました。
・・・話を変えて申し訳ありませんが、本日すごい変化がありました。
自分の中にたくさんある苦の1つの原因が分かり、それが消えました。
消えた苦とは、複雑なものです。世間体や常識という物差しで
自分を無価値な存在としか見なせなかったといった感じです。
社会では、世間体や常識という、とりあえず悟りを開いていない身の上
では大海原のような強大でどうにもならない観念があります。
また、私は幼少のころからいじめや運動ができないコンプレックスから、
すぐ自己否定をする癖がついております。
社会人になり常識や世間と出会った結果、世間体や常識という観点から
自分の評価をしてしまい、今までの自分が非常識であったことを恥じました。
それ自体は悪いことではないかもしれませんが、いくつもの非常識な言動
をした記憶が残り、それが生来の自己否定という感情と結びつき、
非常識な言動をした自分の存在の全てを否定してしまっていました。
しかし、最近になり、それは単に、自己否定という感情と世間や常識との
区別が単についていないだけであるのが原因と分かりました。
世間や常識は私の価値とは無関係で、そういう誤認とは、自分のことを
他人が悪口をいっていたのを間違って認識していたからでした。
むしろ、他人と対決せずとも世間体が原因で自分が非難されるべきならば、
世間体にはかなわないからしょうがないと、世間体という束縛を同時に
自己逃避の手段としていました。今では、世間体とはもっと道徳的に強く
非難されるべきことがらで関係してくるので、とりあえず自己否定したい
感情とは関係ないと見なせるようになりました。
これがわかって自分の苦が一つ消えたと思っているのですが、これは
仏教的にも苦が消えたと考えても良いのですか?
そうだとすると、苦が消えるというのは、時には自分の苦の原因と
なっている観念を論理的に探ることでもよいのですか?
120
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/20(火) 21:54:37 ID:1d4drIFg0
>>116
そうじゃ、それが不死の境地なのじゃ。
簡単に言えば自我と、阿頼耶識と言う認識の作り出す観念が、本当の存在のあり方を見えないようにしているのじゃ。
それらが取り除かれると、本来肉体に縛られるものではない意識が感じられるようになるのじゃ。
そして肉体の死は存在の消滅ではなく、悲劇的なものでもなく、単なる変化であり、観念であったとわかるのじゃ。
そのようにして死を超えるのじゃ。
>>117
そうともいえるのじゃ。
そうでないともいえるのじゃ。
原因から必然的に起こることもあるじゃろう。
原因があっても他の要因で起こらないこともあるじゃろう。
人の自由意志も少しはあるじゃろう。
それによって起こることも起こらないようにしたり、起こらないことも起こるようにできるのじゃ。
この世では人の意志が一番強いのであるから、修業して悟りも得られるのじゃ。
>>118
そのように感じるならばそれにょって実践してみるとよいのじゃ。
よい結果が得られるかもしれんのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>119
よかったのじゃ。
論理的に考えることで集中力が増し、気付くこともできたのじゃ。
それもまた観察を伴っているものじゃ。
経典に書かれていることも論理と思われているが、実は観察の例なのじゃ。
論理のみの場合は原因を誤って求めてしまうこともあるのじゃ。
論理的に正しいからそれが原因であるとか、考えて求めてしまうから間違うこともあるのじゃ。
観察によれば自らの反応を常に見張っているから間違うことも無いのじゃ。
原因が正しくなければ反応も無いからのう。
そのような違いがあると知るとよいのじゃ。
121
:
としぼっくり
:2017/06/20(火) 22:23:18 ID:DAY232aw0
丁寧なご説明ありがとうございます。
理解がより一層深まりました。日々、精進して死を超えようと思います。ありがとうございます。
122
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/20(火) 23:57:53 ID:Z4p/NdYs0
>>120
レス頂きありがとうございます。
実は起こるべくして起こるに身を委ねていた時期がありました。
今でもそうといえばそうです。
コントロールしようという意思自体が宇宙の繋がりによって起こったものであり、自分には何の責任もない。
このような心境はかなり楽であり、自我も起こっているものと捉えると悩みなど吹き飛びます。
全部宇宙の意思であり起こりべくして起こる。
お釈迦さまのタタータはこのように解釈されていますが、本当に釈迦はそのような意味で言ったのか?途中で曲解されたのではないか?など少し懐疑的であり、ここは和尚に聞いてみようと質問してみました。
突き詰めると確かに自我には自由意思はないと思いますが、
私が何かを成し遂げたいと思うこと自体宇宙の意思である。
しかししかし、そのように認識しているのは自我である。
しかししかししかし、そのように認識するよう仕向けたのは宇宙である。
と、切りがない笑
実は全部夢の中で起こっていることであり、夢の中で自我が反応するとその反応にまつわる出来事が起こる。
そのような脳のような夢の装置がここなのではないかと思ったりもします。
悟りとは関係のない話ですみませんでした。
ありがとうございます。
123
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/21(水) 01:08:31 ID:LScZtiwk0
鬼和尚様、
例えばの話ですが、悟りへの願望もない、悟りの知識もまったくない人が、
精神的にいいぐらいの理由で座禅を続けて、毎日簡単にサマーディに入れるようになったとします。
本人はサマーディが何かも知らないし自覚もまったくありません。
これは、悟りに近い状態と言えるでしょうか?
124
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/21(水) 13:43:36 ID:rIFRVnQI0
鬼和尚、
ふと思ったのですが、集中と観察はとう違うのでしょうか?
前は、呼吸の感覚に集中していたため、呼吸によって喉や腹が動くのも観てしまい、集中が定まっていませんでした。鬼和尚の仰る通り鼻先へ集中しすると、集中の先が定まりました。
何か刺激や感覚がある度に、「観る」というのか「意識する」先がその場所へ移り変わり、「鼻先へ戻そう」という意志で戻します。
鼻先、鼻の空気の出入りに集中していることは、観ていることと同じように感じました。
これは、鼻先の空気の出入りを「観察している」ことではないのでしょうか。観ること、意識する先、を1点に集め動かさないことが、「集中」でしょうか?
このように、集中も観察も同じように感じてしまったのですが、集中の仕方にどこか間違いがありますでしょうか?
125
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/21(水) 13:47:50 ID:rIFRVnQI0
続けてもうふたつ、よろしくお願い致します。
頭の中が、快くなってきたら、意識の場所が鼻先よりも、頭の中に移り変わる感じがします。
そうなっても、集中の先は鼻先に置いたままが良いでしょうか?
頭の中に移した方が良いでしょうか?
また、サマーディは姿勢によってなるものと、集中によってなるもの、二種類があるという理解で合っていますでしょうか?
126
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/21(水) 17:11:04 ID:czRftzgI0
自我は人が自分をこう思っているだろうというイメージとか自分が日本人だとかOOが苦手とか私は頭がいいと思っているとか私はXXという名前だとか無意識に思っていることを言うのですよね。
自我を無意識から意識に移すことでそれを乖離する。だから意識している自我はないですよね?
127
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/21(水) 21:33:19 ID:1d4drIFg0
>>121
どういたしまして、またおいでなさい。
>>122
そうじゃ、観念を離れるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>123
人によるが近くないじゃろう。
大抵の者は恐れて自分がおかしくなったとか思うものじゃ。
そのような心境になった者の話が西洋にもよくみかけるものじゃ。
最後には自殺とかしてしまうものもいるのじゃ。
>>124
それは意志が違うのじゃ。
集中では同じところや呼吸に意識をかけつづけるのじゃ。
反応とか刺激が起きても流して、何が起きても続けるのじゃ。
対象に没入するのじゃ。
観察では同じところに意識をかけないでよいのじゃ。
新しい反応や刺激が起こればそれに注意するのじゃ。
対象とは距離ができるのじゃ。
そのように違うのじゃ。
>>125
鼻先に集中し続けるのじゃ。
どのような刺激や反応が起きても同じ対象に集中し続けることで深い瞑想に入れるのじゃ。
それはサマーディに入る補助になる方法が二種類なのじゃ。
他にもいろいろな方法があるのじゃ。
>>126
そうともいえるじゃろう。
完全に意識できたら気付きが起こり、なくなるからのう。
それが観念でしかなかったとわかるのじゃ。
128
:
としぼっくり
:2017/06/21(水) 23:11:52 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
死は超えた方が良いのでしょうか?
129
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/22(木) 06:44:18 ID:czRftzgI0
自我の乖離は大変ですが頑張りたいと思います
また何かあればお願いします
130
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/22(木) 09:22:52 ID:wpzKKBII0
>>127
ありがとうございます。
集中と観察の違いがわかりました。
そのように集中するようにしていきます。
サマーディに入る補助になる方法は他にも色々あるのとのことですが、どのようなものがあるのでしょうか?
131
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/22(木) 12:58:54 ID:Daf3Ag0M0
鬼和尚さん
自分が書いたものに自我が投影されているのを厭離したいのですが、どう観察したら良いでしょうか?
例えば、掲示板などで何かを書いて、もし、それが批判されたら自分が批判されたように感じます。
書かれているものを見るだけの場合は、その時に湧いてくる怒ったり悲しんだりする感情が、最近は体が恐怖心で反応しているだけに思えてきて、それほど気にならなくなりました。
これは、その時に湧く感情が観察しやすいからだと思います。
でも、自分の書いたものを観察すると、ただ文字を見ているだけなのに、自分のもののように感じます。
これは、何かを読んで感情が湧くだけの場合と違い、わざわざ自分がそれを自ら書いたという記憶があるから、自我が投影されるのかもしれません。
こういう場合も、見ているだけでそのうち厭離されるんでしょうか?
自分の書いたものを眺めていると、自分のその時の気持ちや記憶が自動的に思い出されてきている気がします。
こういう観察の時は、それは思い出さない方が良いのですか?
それともその感情や記憶も観察した方が良いのでしょうか?
132
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/22(木) 21:25:52 ID:1d4drIFg0
>>128
死の苦を持つ者はそのように願うじゃろう。
今ここでは安楽な生活が出来る故に、それも感じない者が多いかもしれんがのう。
確実に来る死によって肉体の全てが失われる苦を知るならばそれを超えるべきとわかるじゃろう。
それを知るには常に死を思うのじゃ。
死を思うことが死を超える必要を教えてくれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>129
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>130
薬を飲んだり、呼吸法とかもあるのじゃ。
神仏に献身するとかもあるのじゃ。
あまり確実な方法ではないのじゃ。
観察できれば厭離されるのじゃ。
観察できなければできないのじゃ。
思い出したら思い出したと観察するのじゃ。
今ここに起こる事をありのままに観るのじゃ。
そうすれば自分ではないと気付くのじゃ。
133
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/22(木) 21:34:28 ID:1d4drIFg0
>>131
観察できれば厭離されるのじゃ。
観察できなければできないのじゃ。
思い出したら思い出したと観察するのじゃ。
今ここに起こる事をありのままに観るのじゃ。
そうすれば自分ではないと気付くのじゃ。
134
:
香雪
:2017/06/22(木) 21:36:28 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま
こんばんは、ご質問があってまいりました。
身体に反応が顕れるのが先、ということを拝見しまして、
改めて仕事中に観察をしてみました。
結果として、耳で聞いた音や人の声に、まず身体が反応します。
胃や心臓付近がもやっとするなどの不安感などの感覚として。
次に記憶や言葉が想起されてきます。それでさらに不安な感覚が増大します。
そして次に思考が始まります。それでさらに苦が増大してきます。
記憶が想起される過程は阿頼耶識のプロセスということで理解してみましたが、
12縁起で言うと、六処で受けた衝撃が触、身体に顕れる反応は受、
思考を始めている段階ですでに取、という考え方で合っていますでしょうか?
無理して縁起に当てはめる必要もないかとも思うのですが、
阿頼耶識のプロセスは無明から行・識などにまたがって行われ、
その後、自我生成から投射までのプロセスが名色・六処以降に行われるのでしょうか?
縁起の法に興味があります。どうぞ、よろしくお願いいたします。
135
:
としぼっくり
:2017/06/22(木) 21:58:15 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
常に死を思おうとおもいます。
136
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/22(木) 23:52:11 ID:Daf3Ag0M0
>>133
鬼和尚さん、ありがとうございます。
ようやく、何かを厭離したい時の観察の仕方がわかってきました。
つまり、自分の書いたものを厭離したい時は、書いたもの自体やその内容を観察するのではなくて、それを見ている時の自分の心の動きを観察するのですね!
だから、湧き起こる感情を観察した時は、自分を観察しているから感情を厭離できたのですね。
当たり前のことかもしれないのですが、観察対象についてはっきりとわかっていませんでした。
鬼和尚さんのおかげで理解できました。
厭離もできてきた気がします。
とても助かりました。
ありがとうございました。
137
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/23(金) 21:31:31 ID:1d4drIFg0
>>134
そのような理解でよいのじゃ。
十二因縁も観察例の一つに過ぎないから、あまり囚われてはいかんのじゃ。
自分の観察がそれに反していてると間違いではないかと思うかもしれんかせのう。
観察によって厭離が起こり、苦が無くなるんならばそれが正しい観察と言えるのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>135
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>136
よかったのじゃ。
またおいでなさい。
138
:
香雪
:2017/06/23(金) 22:02:51 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま
縁起のお話、ありがとうございました。
順番に囚われてはむしろ進みも遅くなってしまうかもしれない、
ということなんですね。
仏教の理論は難しくてなかなか理解できないことが多かったのですが、
観察という実践で以前よりも心を知ることができるようになりました。
今後も精進していこうと思います。それでは失礼します。
139
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/24(土) 18:09:08 ID:Daf3Ag0M0
鬼和尚さん
続けてすみませんが、集中について質問させてください。
数息観などで集中して深い瞑想に入ることは、肉体的に疲れていても可能なのでしょうか?
究極まで力を抜くのがコツだと鬼和尚さんは書いていますが、それはつまり、肉体的に疲れていても力を抜いて座れば、寝ているくらい楽だということですか?
私はまだ姿勢のコツを探っているところなので、疲れていると集中し続けることが難しいです。
疲れていたり睡眠不足だったりすると、3分くらいでやめたくなってしまいます。
元気な時の方が集中できる気がします。
でも、本当に集中している時はリラックスして究極まで力を抜いているはずなので、元気でなければ集中できないというのは気のせいなのでしょうか?
うまく座れば、疲れていても関係なく集中できるのですか?
それから、瞑想で疲れがとれるという話をよく聞きますが、それは精神的な疲れ以外にも、肉体的な疲れにも言えることなのですか?
140
:
としぼっくり
:2017/06/24(土) 19:03:20 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
死は今にあるのでしょうか?
141
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/24(土) 21:12:56 ID:1d4drIFg0
>>138
そうじゃ、必要なのは自らのありのままの心を受け入れ、観察するだけなのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>139
慣れれば少しぐらい疲れていても集中できるのじゃ。
肉体は疲れも感じないじゃろう。
少しぐらいの疲労ならば姿勢を正しくして、呼吸すればとれるのじゃ。
物凄く疲れて肉体が痛むほどであるといかんのじゃ。
ストレッチとかヨーガで疲労を回復してからやるとよいのじゃ。
疲れ具合によるのじゃ。
>>140
あるじゃろう。
心臓が止まれば今すぐにでも死ぬのじゃ。
呼吸が止まっても五分で死んでしまうのじゃ。
死はいつか遠くではなく今あると言えるのじゃ。
142
:
としぼっくり
:2017/06/24(土) 21:31:45 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
死を超えようと思います。
143
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/24(土) 22:15:26 ID:o7TfOr0I0
別のところでも書いたが、鬼和尚は〜〜じゃ言葉を止めればもっと信者が増えるだろうに
それをやらずに亀仙人みたいな話し言葉で、大多数の高慢な人間の失笑を買っているのだが、
少数の助けを求める人のために、あえて、年寄り言葉を使っているようだ。
それは凄いなと思う。今まで多くの覚者に会って来たが、慈悲一番は鬼和尚だと思う。
144
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/24(土) 22:41:02 ID:dpLRfrSw0
>>141
鬼和尚さん、ありがとうございます。
疑問が解決できました。
鬼和尚さんの回答からすると、私はやはりできれば疲れていない時に瞑想した方が上達するかもしれないですね。
私は寝る前に瞑想していますが、疲れていることが最近多くなってきてしまったので、時間のある土日はもう少し早い時間に瞑想しようと思います。
そして、疲れている時は、疲れを取ってから瞑想すればいいのですね。
少しの疲れは姿勢を正して呼吸すれば良いということなので、平日の夜はそれで今後やってみます。
ありがとうございました。
145
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/25(日) 21:18:10 ID:1d4drIFg0
>>142
そうじゃ、死を超えた境地にまで進むのじゃ。
またおいでなさい。
>>143
おぬしにはまけるがのう。
わっはっはっは。
>>144
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
146
:
進路探訪者
:2017/06/26(月) 00:22:20 ID:DIiPmWc60
>>120
ありがとうございます。
法随観とは論理を用いて感情を見るということだったのだと分かりました。
そのコツをつかめました。
おかげでまた進歩できました。
世間体と自己否定の感情を区別できたことに加え、今度は他者からの
否定的な言動と自己否定的(ネガティブ)な感情をある程度区別できました。
他者の私を虐げる言動により、潜在的な自己否定の感情が呼び覚まされ
ていたのが今まででした。
しかし、私は疑似科学的かもしれませんが、相手の言動を自己と区別
するために、ベクトル的に考えました。つまり、相手の言動を、
「力・向き・位置」で捉えました。
すると、相手の言動は、相手から私という方向で従属的な関係を強いらせ、
そして私の言動を何かしらあげつらうことで、私が劣っているということの
説得力をもっていました。
しかし、決定的に違うのが、「位置」です。方向や力では区別できませんが、
相手が強力であるがゆえに従属的関係にある非力な者は、相手の
頭の中という空間に位置する存在で、私とは区別されるものです。
しかし、なおも問題があります。私を否定したい他者の頭に存在する
非力な「私」は、ヴァーチャルな存在で現実の私とは違いますが、
ベクトルの平行条件のように、位置情報を無視してしまえば私に
ピッタリ重なり合い、区別ができなくなってしまいました。
位置までは区別できましたが、相手の観念と私とで重なる力と向き
をどう区別すればよいでしょうか。
147
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/26(月) 19:43:38 ID:4nJZYcxk0
鬼和尚さん
じつは、ちょっとした質問がありまして、今日はレスがあまりないみたいなので、続けて質問させてください。
鬼和尚さんは善行は心をもってなされるとブログに書いていますが、例えば、コンビニのレジに置いてある募金箱などはどう思いますか?
あれに会計後に出た小銭を入れる人は、財布が小銭でいっぱいになるのが嫌だから、という利己的な気持ちも少しありますが、それと同時に、募金になるなら一石二鳥だとか、募金する良い機会だとか、お互いにプラスだから善いことをしている、などと思っていると思います。
これは善行になりますか?
次に、鬼和尚さんは、誰かを憎むのは心の動きだから悪ではない、それによって行動することが悪だ、とどこかに書いていたのですが、SNSや掲示板に誰かを憎む気持ちを書くことはどう思いますか?
書く人は匿名で書いているので、それによって直接誰かを傷つける訳ではありません。
同じようにわかる人に気持ちを知ってほしいからとか、憎む気持ちを吐き出したり整理したいから書くのだと思います。
これは悪行になりますか?
148
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/26(月) 19:49:15 ID:czRftzgI0
和尚さんは初めてサマーディに入った時どれくらい集中していたのですか?今では瞬時に入れるのですか?
私は30分位集中すると飽きてきます
149
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/26(月) 21:07:58 ID:czRftzgI0
鼻先に集中するのは鼻先と一体化するように意識を集中するのですか?
150
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/26(月) 21:08:53 ID:1d4drIFg0
>>146
それはありのままに観察していないのじゃ。
相手の頭にある自分は非力ではないのじゃ。
むしろ強力であり、脅威を与える存在である故に相手は否定するのじゃ。
そうでなければ否定する必要も無いからのう。
相手の頭にある自分が非力とは、おぬし自身の観念なのじゃ。
そのように観察すれば善いのじゃ。
>>147
それも善になるのじゃ。
助かる者が居るからのう。
書く事も悪になるじゃろう。
言葉による悪行も悪なのじゃ。
気をつけるとよいのじゃ。
>>148
わしは悟りを得るまではサマーディに入れなかったのじゃ。
もはや時間を忘れて集中していたのじゃ。
今では直ぐに入れるのじゃ。
それぐらいでよいのじゃ。
自分の本心を観察する事が大事なのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
151
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/26(月) 23:09:54 ID:cEburPgE0
鬼和尚
ブッダのことば(岩波文庫)の「二種の観察」のところで
「およそ苦しみが生ずるのは、すべて○○に縁って起こるのである」
というのが、一つの観察法である
「しかしながら○○が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない」
というのが第二の観察法である
とありますが、これは
原因から苦が起こり、原因がなければ苦もない
という苦の滅の観察と同じことでしょうか。
その観察例がいくつも書いてあるということでしょうか。
152
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/27(火) 00:22:32 ID:cEburPgE0
鬼和尚
自分の肉体の感覚が、サハー世界にいる単なる印のように観えます。
例えるなら、パスポートに押される入国スタンプのようなものです。
この肉体の感覚を、これは私のものだと思うのは観念なのですね?
153
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/27(火) 19:20:46 ID:Daf3Ag0M0
>>150
鬼和尚さん、ありがとうございます。
コンビニの募金箱は善行で、掲示板に憎しみを書くのは悪行なのですね。
悪行について、さらに質問なのですが、この場合どうして誰も傷つけていないのに悪になるのでしょうか?
他人にではなく自分に影響があるのですか?
それから、また別の質問をさせてください。
以前、鬼和尚さんは体は自分ではないと教えてくださったのですが、私は腕や脚などは自分ではなくても、やっぱり胸や心臓の辺り一帯は自分のように感じます。
その辺りの肉体がなくなって、感情がなくなったら何となく自分じゃない気がします。
この場合は、胸や心臓の辺りを観察したり、感情を観察すれば、それらが自分ではないことがわかるのでしょうか?
154
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/27(火) 19:43:45 ID:czRftzgI0
現在胸と丹田の集中をやっています
胸に集中する人は、意識を頭から胸のあたりに移す感じにするのか胸と自分を一体化するイメージをするとかするのでしょうか?
155
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/27(火) 21:35:31 ID:1d4drIFg0
>>149
そうではないのじゃ。
集中していれば自然に対象と一体化した感覚が起こるのじゃ。
一体化しようとすれば観念を追うことになるのじゃ。
慣れれば直ぐにも対象と一体化できるようになるが、それもしようとするものではないのじゃ。
ただひたすらに対象に集中することだけが大事なのじゃ。
>>151
そのような理解でよいのじゃ。
経典に書いてあることは観察の例に過ぎないのじゃ。
あまりに経典の言葉に囚われて自分の観察して気付いたことを間違いだと思うのは本末転倒なのじゃ。
自分の本心を観察して気付けば厭離も起こるのじゃ。
それを道しるべにするとよいのじゃ。
>>152
そうじゃ、よい気付きなのじゃ。
肉体が自分とか自分のものと思うのは観念なのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
156
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/27(火) 21:44:45 ID:1d4drIFg0
>>153
憎しみによって自分を傷つけているのじゃ。
憎しみを持つ自分を表しているからのう。
一度それを受け入れれば習慣になり憎しみを持つものとなるのじゃ。
心が憎しみを持つ者は憎しみの世界を作り出すのじゃ。
心が世界を創っているのであるからのう。
そうじゃ、観察が完全に為されれば厭離が起こるのじゃ。
自己同一化がなくなるのじゃ。
観察されたものは主体ではないからのう。
>>154
意識をもってくればよいのじゃ。
ただひたすらに集中するのじゃ。
そうすれば自然に対象と一体化した感覚になるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
157
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/28(水) 18:33:56 ID:czRftzgI0
>>154
ここで教わったことを守ってサマーディに至れるよう修行したいと思います
どうもありがとうございました
158
:
進路探訪者
:2017/06/28(水) 19:19:02 ID:C4F1lTIQ0
>>150
お教えいただきありがとうございます。
たしかに、理屈として、私の存在が大きいから
こそ相手は優位に立つため私を否定したいというのは理屈として明白なので、感情的にも納得できました。
だから、自己否定と相手の悪口を区別できました。
次に、自己否定ですが、私はこれを自分が立ち向かうという恐怖からの逃避の結果と推測しました。
そして、この恐怖心ですが、これは一種の劣等感からくるのです。
その劣等感とは何かというと、人間関係で人より先手を取って動けない愚鈍さが原因でした。
しかし、愚鈍さの理由が分からないし、愚鈍さの原因は生まれつき?で後天的なものでないため、他のものとの区別による苦の解消も難しいです。
愚鈍さをどうすれば良いですか?
159
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/28(水) 20:25:05 ID:Mv1H2QeE0
>>156
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なんとなく理解できました。
できるだけ憎しみを言葉にしたり、悪口を言ったりしないようにします。
それから、胸の辺り一帯やそこに湧く感情を頻繁に観察してみます。
ところで、胸の辺りに湧く感情についていえば、私は人生がコントロールできないということが少し怖いです。
最近気づきましたが、そういう恐怖を持っているみたいです。
コントロールできない人生や生まれ変わりも含めて、自分はこの宇宙に振り回される小さな存在だという感覚があります。
この感覚や恐怖を持っているものも自我ですか?
それを上手く観察できたら、それも自分ではないことがわかって恐怖を消せますか?
160
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/28(水) 21:37:57 ID:1d4drIFg0
>>157
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>158
それは愚鈍ではないのじゃ。
自分は愚鈍であると思い込んでいるだけなのじゃ。
親とかに言われてその観念があり、その後の経験でそうであると思い込んでしまっているだけなのじゃ。
それが植えつけられた観念でしかないと観察するのじゃ。
それを信じていると観察するのじゃ。
そうすれば消えるのじゃ。
>>159
それは自我ではないのじゃ。
自我は観念であるから何ももてないのじゃ。
ただ自分が在るという観念から恐れや感覚が起きているだけなのじゃ。
その縁起が完全に観察できたならば、消えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
161
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/29(木) 19:02:56 ID:lboPJwsg0
鬼和尚さま
クリシュナムルティは悟ってからプロセスと言われている首の痛みが生じたり失神することが多々あったと言われてますが、
あれらは一体何だったのですか?
クリシュナムルティのカルマだとか個人性だとか彼特有のことですか?
悟りとどういう関係があるのでしょうか?
162
:
香雪
:2017/06/29(木) 19:59:28 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま
こんばんは、お尋ねしたいことが2つほどあってまた来ました。
仕事中のことなのですが、隙間時間に数息観をした後に仕事に戻ってから、
ほんの数秒、身体も思考も止まって、見ているものが判別できなかった瞬間がありましたが、
これは状況的にはどういったところなのでしょうか?
もう一つは、誰かの発した言葉を聞いて、みぞおちなどに湧いた感情を観察して、
すぃ〜っと消えていくのを確認したのですが、記憶の想起を止めてしまったり、
原因や本心を探り出すような深い観察ができない場合は、こういった一瞬の観察を
繰り返していくだけでも観照に近づいていくことはできますでしょうか?
質問が2つになってしまいましたが、どうぞよろしくお願いします。
163
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/29(木) 20:20:23 ID:rVd9uqEE0
>>160
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なるほど、自我は観念なので感覚や恐怖を持つことはないのですね。
私は、肉体が自分のものではないというのはなんとなくわかってきた感じがします。
それで、肉体が自分のものではないのなら、感情や思考も自分のものではないはずだと思います。
そこまでは思うのですが、それでもやっぱり何となく自分がある気がします。
自分があるということがただの観念だとはまだ思えません。
そして、まだ自分に執着があります。
この自分とは、生活と好きなことをする能力のことです。
大人になるまで辛い人生だったので、逆に今の幸せに執着があるのです。
子供の頃できなかったことが今できるのが幸せなので、それらをまだ失いたくないと思っているのです。
でも、それらもいつかは失うものなので、悟りたい気持ちはとてもあります。
それに今の人生がたまたま上手く来れただけという自覚があるので、次の人生が上手く行くかはわからないのも怖いと思っています。
鬼和尚さんは、こんな私はさらに何を観察したら良いと思いますか?
164
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/29(木) 21:37:33 ID:1d4drIFg0
>>161
クンダリニーが上がっていたのかもしれん。
首が曲がっていれば首に障害がおこるのじゃ。
いきなり失神したかのような変性意識にもなったりするのじゃ。
ちゃんと制御できていれば大丈夫なのであるがのう。
>>162
それは一瞬分別する意識が止まったのじゃ。
マナ識が止まったと言えるのじゃ。
それもできるじゃろう。
観察を続けていればいずれはできるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>163
ありのままを観察すればよいのじゃ。
やがてはその幸せも失われてしまうことに気付くじゃろう。
悟りを得なければ老病死の苦から逃れられないのじゃ。
全てをありのままに観察するのじゃ。
そうすればそれが本当に生きる助けとなることに気付くじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
165
:
161
:2017/06/29(木) 21:57:01 ID:lboPJwsg0
>>164
お答えありがとうございます
クリシュナムルティのそういった現象に対しラジニーシがクンダリニーで説明していたように思います。
変性意識のような状態になったりもするんですね。
それは知らなかったです。
ありがとうございました。
166
:
香雪
:2017/06/29(木) 22:12:17 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま
ご返事ありがとうございます。
唯識についても知らないことだらけなので、自分で判別できるくらいには
ちゃんと知識を付けたほうがいいのですね。勉強してみます。
それからもう一つの一瞬の観察でも続ければできると聞いて嬉しいです。
観照が起きるまで粘り強く精進していこうと思います。
ありがとうございました。それでは失礼します。
167
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/06/30(金) 02:34:44 ID:cEburPgE0
鬼和尚
自分というものが虚構ならば、他人もまた虚構なのですよね。
だからと言って、他人を痛めつけてもいいということではなくて。
虚構である他人が、虚構である私を傷つけるということはないのですよね。
168
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/30(金) 05:49:22 ID:V4yPcVCk0
いつも教えていただきありがとうございます。
本心を見ようとしています。
観察している心がはたして本心なのかどうか、どうしたら判別できますか?
自分で自分を騙す可能性がある以上、
なぜ自分は、自分に騙されていない、
つまりそれが本心であると確信することができ得るのでしょうか?
169
:
素人A
:2017/06/30(金) 08:21:49 ID:kTYjJpfI0
今朝はまた学校の行かず親のかねで遊びまわってそれで良いのかと友達に忠告された起きて夢出よかった。金も遅れて
故郷に帰る金もない。学校か名無しさんに読書をし、考え抜き、働けるようになったら知恵者として認めてやるよ
と忠告されるし 家の鍵無く巣というし何でこのように私は来たのだろうか?いつまでも流年してごまかして働く気がなく
遊びほうけて居るのか?でも本人は観光で来たので勉強しないのか?勉強すると働かされるので怠けているのか良くわからん
夢?では無いだろう私は遊人の性格だし真面目は無いし修行と授業は無理に竹刀に逃げている金にも拘らないでも
困つている。もっと金持ち修行も関心なく。会話も自分中心で人の言葉聞くのは面倒で色即是空の中で満足に逃げている
現実なのか?でも働くとは何なのか良くわからん修行とは良くわからん。私は指名されて居ない人で人に期待されていない
し気楽なんで何もすることが内に稲尾つているのか?皆真面目の中遊んて気まずくないのか生活は苦しいと思わないのか?
センチメンタルやメランコリーなため息でも遊ぶ不真面目なのかでも真剣は辛いし今まで酔か逃んげん駄者のだめだこりゃ
にも遊んでいるし、何とかしなきゃも言葉遊びで 凡人が幻実感に飛龍つても落ち付かず
他他見ないと不味いのかまず一生懸命の集中力ざ前使用か
170
:
素人A
:2017/06/30(金) 08:24:29 ID:kTYjJpfI0
あれまちがつて来てしまったでも此処も避難所だしまあ良いか
171
:
としぼっくり
:2017/06/30(金) 15:10:00 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
瞑想の時、止と観は別々にした方が良いのでしょうか、それとも同時にした方が良いのでしょうか?
172
:
素人A
:2017/06/30(金) 19:34:44 ID:gOqWUDAs0
でも正しいく読める集中力が無いと不味い 精神が散漫では迷うだけ
基礎は大切なコツコツでも華々しくないし面白味も詰将棋と詰碁は
客観的な正しい読みを養えば観つまり観えるようになる野鴨でもやる気が無いし
173
:
としぼっくり
:2017/06/30(金) 19:45:31 ID:DAY232aw0
>>171
止の行と観の行です。すいません。
174
:
避難民のマジレスさん
:2017/06/30(金) 19:52:23 ID:JjiX2Cic0
>>164
鬼和尚さん、ありがとうございます。
すべてをありのままに観察することが、本当に生きる助けになるということですよね?
よく観察してみます。
自分の心や人生もよく観察してみます。
・・・自分の人生をよく観察しよう、と思っただけで、見ようとしていなかったものや、誤魔化していたものが何となく見えてきた気がします。
またわからなくなったら教えてください。
ありがとうございました。
175
:
進路探訪者
:2017/06/30(金) 20:24:29 ID:DIiPmWc60
>>160
愚鈍であるというのが思い込みに過ぎないとおっしゃいますが、
事実として私は同年代の他の人と比べてのろまだし、それを
競争するような機会があればそれが現実化します。
たとえば私のカギが取られて、それを周りの者がそれらの者同士
でキャッチボールをし合っていても、私はそれらのパスの隙を突いて
自分のカギを取り返すことはできませんでした。
(いじめと区別がつかないし、事実いじめにエスカレートしそうな挙動
ですが、当時まわりでこういう遊びが流行っていました)
ふつうは、鍵を取られてもどこかのパスミスをついて取り返すことができます。
たとえ理屈として、私が愚鈍であるというのが他人からの評価に過ぎないと
区別しても、私の身体能力は悪くそれを区別するというのはなかなか難しいです。
176
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/30(金) 21:06:12 ID:1d4drIFg0
>>165
どういたしまして、またおいでなさい。
>>166
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>167
そうじゃ、それでよいのじゃ。
自分が傷ついたと思えば怨みや憎しみも起こるのじゃ。
観念であると気付けばそれもなくなるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>168
本心が観られたならば変化が起こるじゃろう。
悲しいときに悲しんでいると観られたならば悲しみは消えるのじゃ。
そのように本心が観られたならば小さくとも心に必ず変化は起こるものじゃ。
偽りの心を観ていれば何の変化も無いのじゃ。
そのように見分けるとよいのじゃ。
177
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/06/30(金) 21:19:44 ID:1d4drIFg0
>>171
別々にするとよいのじゃ。
そうしないと自分が何をしているのかわからなくなるのじゃ。
心は捉えがたく目印も無いものである故に、自分が確かな意志を持って集中や観察を行わなければ、更に捉えがたくなってしまうのじゃ。
慣れれば集中しながら観察も出来るようになるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
>>174
そうじゃ、迷ったときや苦をもったときに役立つじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>175
事実がどうであろうとおぬしの心の中に自分は愚鈍と言う観念はあるのじゃ。
その観念があれば全てがそれを証明しているようにみえるものじゃ。
心の中に観念として自分は愚鈍と言う認識があることを観るのじゃ。
178
:
としぼっくり
:2017/06/30(金) 21:41:30 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
精進して行きます。
179
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/01(土) 06:54:18 ID:B7qQwuCw0
>>176
ご教授いただき、ありがとうございました。
もう少し教えてください。
というのも心はそのつど常に変化しているようでよくわからないからです。
例えば、「親のいいなりに生きていくのは嫌だ」という思いがあったとして、
それが本心だった場合、どのような変化が考えられるのでしょうか?
その変化も千差万別なのでしょうか?
180
:
としぼっくり
:2017/07/01(土) 07:02:53 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
なぜ中々自我、自分に気付けないのでしょうか?
181
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/01(土) 09:01:23 ID:Lu2NsCjg0
鬼和尚、質問です。
マハラジは「”私は在る”という状態に留まりなさい」と言っていますが、
これは、煩悩に飲み込まれず自己同一化していない状態を維持する事と同じでしょうか?
182
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/07/01(土) 21:45:00 ID:1d4drIFg0
>>178
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>179
それによって阻害されていた行いが出来るようになったりするじゃろう。
親に反発していて話も出来なかったが出来るようになるとかのう。
そのように気付くだけで変るのじゃ。
人や環境によって違うがのう。
自ら実践して確めるのじゃ。
>>180
それが主体だと思っているからなのじゃ。
観ようとする意志が主体を作り出してしまうのじゃ。
そして主体であるから観るものであり、見えないものであるとしてしまうのじゃ。
意志によらない観察や忘我での観察によってそれは見えるようになるのじゃ。
>>181
もっと深い意識なのじゃ。
全てである意識がそれなのじゃ。
本来わたしともいえないものであるがのう。
183
:
としぼっくり
:2017/07/01(土) 23:50:00 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
>>182
そして主体であるから観るものであり、見えないものであるとしてしまうのじゃ。とは、
主体であるから自分は観るものであり、自分が見えないものであるとしてしまうという事でしょうか?
184
:
としぼっくり
:2017/07/02(日) 00:02:31 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、意志に依らない観察とは、観察を続けて行けば出来るようになるものなのでしょうか?
185
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/02(日) 02:47:26 ID:Lu2NsCjg0
>>182
お答え頂きありがとうございます。
ということは、マハラジは修行の初期の段階で
”全てである意識”に辿り着くことができたのでしょうか?
186
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/02(日) 06:33:28 ID:06wbKOrg0
>>182
ご教授ありがとうございました。
実践を続けます。実践に関してですが、
例えば、親の言動に対して、悲しみを覚え、その後なんだそんなもの大した事ない、
という、一連の反応や思考が観察されたとします。
観察は、それで終わりでよいのですか?
それともその反応について、
自分は親に愛されていないと感じ、しかしその思いから逃げようとしているのかもしれない、
などと後からの類推による解釈は必要ありますか?
187
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/02(日) 20:26:35 ID:czRftzgI0
かれこれ1年近く苦滅をやってきましたが、どんなに原因を探っても小さくなることはあっても消えない苦があることに気付きました。
これはやはり自我を観照して根本的に苦をなくすしかないように思います。和尚さんのご意見をお聞かせください。
188
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/07/02(日) 22:12:12 ID:1d4drIFg0
>>183
そうじゃ、自分が観ていると言う意識があれば、見ている者は見えないのじゃ。
その意識が無いときに見ている者は観えるのじゃ。
難しいことではあるがのう。
>>184
そうじゃ、観察を続けていれば無意識でも観察が出来るようになるのじゃ。
慣れた動作が無意識でもできるのと同じなのじゃ。
そのような無意識の観察によってのみ自我は観られるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
>>185
そうじゃろう。
それによってしか死は克服できないからのう。
そけこそ不死の意識なのじゃ。
>>186
そのように類推するのもよいじゃろう。
それが正しければ反応があり、厭離も起こるのじゃ。
正しくなければ反応も無く、厭離も起こらないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>187
自我を原因とする苦は自我を観なければ消えないじゃろう。
自我を観て厭離できればそれも消えるじゃろう。
実践によって証明するとよいのじゃ。
189
:
としぼっくり
:2017/07/02(日) 23:35:11 ID:DAY232aw0
ご丁寧な説明ありがとうございます。
無意識の観察が出来るようになる様精進して行こうと思います。
190
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/03(月) 05:34:28 ID:sumTNmzA0
>>188
ご教授ありがとうございました。
1)他人の言動→2)思考によるそれへの解釈→3)体の反応→
4)自分の苦であるとの思考→5)体の反応→6)類推での思考→7)体の反応→
という感じに続くように観察できると思うのですが、反応が多くなりすぎて、
痛みで頭がぼうとなり観察どころではなくなります。
そういう場合、3)や5)の「体の反応の観察だけ」で止めておいても、効果はあるのでしょうか?
類推するのもよい、ということは逆に必ずしも類推する必要はないということですか?
191
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/03(月) 08:38:06 ID:Cq36Gado0
鬼和尚、ブログ更新ありがとうございます。
今回は自分に合った修行の道のお話でしたが、自分にあった修行法はどのように見付けたり、わかることが出来るのでしょうか?
逆に、修行に向かないことはありますか?
192
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/03(月) 08:51:40 ID:Cq36Gado0
鬼和尚、
意思について教えてください。
意志はどこから起こりますか?
観念、思考、感情、とは違いますか?
意志は死後に残りますか、それとも死とともに消滅するものですか?
意識に意志はあるのでしょうか?
193
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/03(月) 18:20:29 ID:czRftzgI0
>>187
ついつい人と比べてしまう事がなくなりません。自我の乖離によるしかないでしょうか
194
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/07/03(月) 22:09:38 ID:1d4drIFg0
>>189
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>190
効果はあるじゃろう。
必要は無いのじゃ。
役に立つときもあるがのう。
ただ本心をありのままに観るだけで変容は起こるじゃろう。
>>191
それは自分が無理なく続けられるものなのじゃ。
無理をしなければ続けられないものは自分に合っていないといえるのじゃ。
そのように実証してみるとよいのじゃ。
195
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/07/03(月) 22:14:55 ID:1d4drIFg0
>>192
意志も認識から起こるものじゃ。
観念の一つではあるのじゃ。
観念が無ければ意志も無いのじゃ。
死ねば無いのじゃ。
意識にはないのじゃ。
>>193
それも親とか友人とかの条件付けによるものなのじゃ。
いつも他人と比べているような親とか友人が居れば自分もその観念に染まってしまうのじゃ。
そのような心の反応が自分にあることを観察によって明らかにするのじゃ。
そしてその原因を探し、原因から比較があり、原因が無ければ比較も無いと観察すればきえるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
196
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/04(火) 06:02:52 ID:sumTNmzA0
>>194
ご教授ありがとうございました。
私の場合、感情が起こるときの体の反応、つまり、お腹が緊張したり、
鼓動が大きくなったり、といった体の動きを観察しているのですが、
これで本心を観察していることになっていますか?
死ぬ前に自分に騙されていたと後悔しないために、
今後の行動の指針として、自分の本心を知りたいのですが、
今のところ、なにもわかった感じがしないので、これでよいのか不安です。
197
:
としぼっくり
:2017/07/04(火) 07:57:13 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察を続けていれば、自分が観ていると言う意識は無くなるのでしょうか?
198
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/07/04(火) 22:18:53 ID:1d4drIFg0
>>196
なっているのじゃ。
感情だけであるがのう。
観察するにつれて反応が変っていくじゃろう。
それも観察するとよいのじゃ。
>>197
無くなるのじゃ。
無意識に観察しているときには自分という観念がないからのう。
観察が自然に始まり、何もせずに続いていくのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
199
:
としぼっくり
:2017/07/04(火) 22:33:11 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
精進して行きます。
200
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/05(水) 05:58:27 ID:sumTNmzA0
>>198
感情だけとはいえ、だまされずに本心を観察できますね。
怒りや悲しみが起こったら、体の状態変化に意識の焦点を合わすように心がけます。
ご教授ありがとうございました。
201
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/07/05(水) 20:36:57 ID:1d4drIFg0
>>199
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>200
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
202
:
避難民のマジレスさん
:2017/07/06(木) 19:13:22 ID:RDnfT1os0
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1494198815/l50
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】57
すみません、ここで書くことではないかも知れませんが、
どなたが次スレをお願いします。
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