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鬼和尚に聞いてみるスレ part9

203避難民のマジレスさん:2017/07/06(木) 20:01:59 ID:dpLRfrSw0
鬼和尚さん

深い瞑想に入ってもまだそこに意識があることがわかった時、それが忘我の状態なのか、それとも自我のある状態なのかを見分けることは簡単ですか?

204避難民のマジレスさん:2017/07/06(木) 20:06:24 ID:Dp/qMVVc0
鬼和尚、
観察についてお教えください。
外の世界を観察するのも、自我観照のための観察力を上げるために役に立ちますか?
それとも自らの心身の観察ができるようになったら、そちらに専念したほうが良いのでしょうか?

205香雪:2017/07/06(木) 20:13:25 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま こんばんは。
皆さま こんばんは。

止観法で身体の反応がかなりの速さで消え去るようになりました。
ちょっとずつ苦も薄まってきている実感もあります。ありがとうございます。
ブログ更新もありがたく拝見したのですが、質問があります。

一つの方法を愚直に続ける過程で、例えば、身体を厭離するために身体を空と観る。
「この右腕が空、空、空...」と念じながら見続けて自分から切り離されたものというような感覚を得ました。
身体に関しては空と観て、その他に関してはただ観察し続けるといったような方法もありでしょうか?

それから思考に関してなのですが、次から次へと様々なことが浮かんでは消えいくのを、感じると言うか、思い浮かべると言うか、
思い浮かべていることを思うと言うか、「なんだこの思考は?あれ?いつの間にか変わってる」とか同時に思うのですが、
同時に思うこと自体は自我の働きで、同時に思わずにただ頭の中を眺めているような状況が本当の観察、
というように区別したほうがよいでしょうか?

それから数息観をして20分くらいすると思考が止んで全身の充実感みたいな感じになって、
思考もわずかになりますが「これだといったい何を観察すればいいんだ?」みたいな感じになってしまいます。
そのまま座り続けて何かが生起するのを待てばよいのでしょうか?

日に日に質問することが増えてしまってすみません。よろしくお願いします。

206そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/07/06(木) 20:31:43 ID:JsGepclU0
>>202
やってみましたが規制中でできませんでした。

207避難民のマジレスさん:2017/07/06(木) 21:19:00 ID:RDnfT1os0
>>206
ありがとうございます。
スレのコピペがNGワードに引っかかっていたため、それらを抜いて
半ば強引に建てましたが、もしもコピペできる方がいらっしゃれば新しく建てて
いただきたいです。

208鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/06(木) 21:21:54 ID:1d4drIFg0
>>203 できるのじゃ。
 自分の名前や自分のイメージがなければ忘我なのじゃ。
 あればまだ忘れていないのじゃ。
 忘我になれば智慧があるじゃろう。
 すでに平等性智が芽生えているからのう。
 自他を一つと見る智慧なのじゃ。
 それがあれば忘我になっているのじゃ。

>>204 それも役に立つじゃろう。
 はっきりしたものを観察すれば自分が観察していると自覚できるのじゃ。
 心身とともに外の世界も観察するとよいのじゃ。
 どんどん実践するとよいのじゃ。

>>205 それもよいのじゃ。
 それが自分に合っていると感じるならば続けるとよいのじゃ。

 区別したほうがよいのじゃ。
 思考に囚われないようにできるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

 数息観では呼吸以外何も観なくてよいのじゃ。
 いずれ思考が自然に止まるじゃろう。
 思考が無い意識が続くのをありのままに受け入れればよいのじゃ。
 思考が止まったびっくりしたとか思うと又始まってしまうのじゃ。
 思考が無いのに意識があることをただありのままに認め受け入れれば自分は思考ではないと気付くのじゃ。
 更に感情も意志も分別も認識も無いのに意識があることを感じれば自分がそれらではないと気付くのじゃ。
 
 精進あるのみなのじゃ。

209そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/07/06(木) 21:26:21 ID:JsGepclU0
>>207
こちらやはり規制中です。

改行を変えるとNGに引っかからないで書き込めるかもしれません。

210避難民のマジレスさん:2017/07/06(木) 22:02:57 ID:RDnfT1os0
どうやら2ch.net 以下の文章が引っかかっているようでした。
お手数おかけいたしました。失礼いたします。

211香雪:2017/07/07(金) 07:24:45 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま

また教えていただいてありがとうございます。
ブログを参考にして空の法ももっと試してみようと思います。

後は区別して、観察してる意識であり続けることで思考に囚われないようにすること。
思考がやんだ後にもどうしても「思考が止んだな」とか思ってしまっていたので、
それでまた思考が始まってしまっていたわけですね。

思考だけではなく、普段自分と感じているものの全てが、
そうではない観察する意識によって、自我も静かに解体されていくというように理解しました。

精進いたします。ありがとうございました。

212避難民のマジレスさん:2017/07/07(金) 13:03:56 ID:FocWw5K20
>>208
鬼和尚さん、ありがとうございます。
忘我になれるようにやってみます。
私はまだ瞑想中に夢を見ています。
その間は夢を見ているということにはっきりと気づいていません。
さらに続けてみます。

ところで、忘我になっているときは、雑念もなく、夢も見ませんか?

213としぼっくり:2017/07/07(金) 22:11:25 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
やる気さえあれば何でも可能と言ってましたが、やる気があれば何でも出来るのでしょうか?

214鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/07(金) 22:14:48 ID:1d4drIFg0
>>210 ご苦労さんなのじゃ。

>>211 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>212 無いのじゃ。
 それらを観る主体が無いからのう。
 ただありのままにものごとが移り変わっていくのを観るのみなのじゃ。

215としぼっくり:2017/07/08(土) 12:27:10 ID:DAY232aw0
大丈夫だと思いますけど、>>213もお願いします。失礼な書き込み申し訳ありません。

216避難民のマジレスさん:2017/07/08(土) 18:54:07 ID:QoQZrmNc0
>>214
鬼和尚さん、ありがとうございます。
忘我の時は主体がなくなっているということですよね。

私は夢を見ていない時で、たまに瞑想中に雑念がなくなっている時もありますが、まだ忘我ではない気がします。
「あれ?雑念が消えてるな…」みたいなことが思い浮かんでくるからです。
自分がいて、自分が考えている感じがするからです。
雑念がなくなっていても、自分がいるという感覚が残っていればまだ忘我ではないですか?
こういう時、さらに集中するにはどうしたらいいでしょうか?
雑念がなくなっても無視して、さらに呼吸に集中し続ければ良いのでしょうか?

217避難民のマジレスさん:2017/07/08(土) 19:06:08 ID:Dp/qMVVc0
>>208 
心身の観察に疲れた時には、外の物ごとに囚われないようにしつつ、外の世界の観察もしようと思います。
ありがとうございました。

218鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/08(土) 21:25:25 ID:1d4drIFg0
>>215 そうじゃ、人間の出来ることは何でもできるじゃろう。
 出来ないと思われていたことも出来るじゃろう。
 実践によって証明するのじゃ。

>>216 そうじゃ、自分があればまだ自分を忘れていないのじゃ。
 更に集中を続けるのじゃ。
 忘我に至るのも近いじゃろう。
 姿勢を正して力を抜くのじゃ。
 それが近道なのじゃ。

>>217 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

219進路探訪者:2017/07/08(土) 23:24:26 ID:DIiPmWc60
>>177

ご返信ありがとうございます。

あれからご指摘を受けまして、なぜ私が自己のことを愚鈍であるか、
より一般化して、なぜ私が自分に劣等感を持っているかを考えました。

すると、マスコミの宣伝や伝統で社会でよしとされる価値観や道徳
の存在が根本的な原因でした。これらの観念を自分の周りの人々
が共有し自己同一化して、これについていけない者を、邪魔な存在
として見なし、そのように邪険に扱われる弱い者たちもまた、教育等で
社会的価値観を共有する以上、これについていけない自分を邪魔者
とみなす結果が、私の自己否定の生まれたプロセスでした。

しかし、だからといって、やはり社会的によしとされることはそれ自体は
悪いことではないと思います。協調性がある、積極的である、友達が多い
などの価値観です。これはその能力があること自体は悪いことではないです。

だからこそ難しいです。もし社会的によしとされることが、絶対的な悪であるならば、
それは悪い価値観だから、自分がそれに反する存在であるとしても劣等感や
うしろめたさは感じないはずです。

しかし、社会全体の価値観は悪いことでなく、むしろ良いことに思われるからこそ、
自己否定せざるをえません。

社会的な価値観に照らせば厄介者でしかないという事実に対して、
罪悪感を持っています。

まとめれば、社会的な価値観に照らして周りの人々が私のことを
悪くいってくると、実は自分自身も社会的価値観を前提としているので、
自己否定的な自己認識を共有してしまっています。

とすれば、社会的価値観を、それ自体は否定できないにしろ、私の
倫理観や価値観には関係ない独立したものとして、区別すればよい
と思っております。

しかし、そのような良い理屈が思いつきません。どうしたものでしょうか?

220としぼっくり:2017/07/08(土) 23:34:21 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践によって証明します。

221避難民のマジレスさん:2017/07/09(日) 15:35:38 ID:l0xJAHYA0
>>218
鬼和尚さん、ありがとうございます。
次に雑念がなくなったら、それも無視してさらに集中してみます。
姿勢に気をつけて力を抜いてやってみます。
ありがとうございます。

222鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/09(日) 21:17:14 ID:1d4drIFg0
>>219 どうにもしなくてよいのじゃ。
 ただ否定も肯定もせず観察し続けるのじゃ。
 自分は社会的な価値観をよいものとか否定できないとか思っていると観察するのじゃ。
 それで罪悪感を持っていると観察するのじゃ。
 自分の心の中に何があろうと観察し続けるのじゃ。
 
>>220 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>221 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

223としぼっくり:2017/07/10(月) 07:31:44 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
瞑想の時、座布団が無くても、背中が真っ直ぐだったらよろしいのでしょうか?

224鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/10(月) 22:08:41 ID:1d4drIFg0
>>223 そうじゃ、真っ直ぐならばそれで善いのじゃ。
 座布団はそうならない者の為の補助なのじゃ。
 なくても姿勢が正しくなるならば不要なのじゃ。

225避難民のマジレスさん:2017/07/11(火) 01:26:48 ID:zLNNGHJI0
鬼和尚さん、
質問なのですが、厭離された状態とういうのは思考や身体が周りの風景と同じと見える状態でしょうか?

見る主体がいるから見られる対象があると今まで思っていました。
しかし上記の状態になり、
主体も対象も無いのではないか、何も無いところに色が起こるから主体と対象という構図を作ってしまってるのではないか、と感じるようになりました。

「厭離」と書きますが、誰からも厭離されている訳ではないのではと感じますがいかがでしょう。

226としぼっくり:2017/07/11(火) 06:51:46 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。姿勢が正しくなる様努力して見ます。

227としぼっくり:2017/07/11(火) 18:37:59 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
背筋真っ直ぐにして、力を抜いたら、座布団無しでも、姿勢は正しくなりますか?

228避難民のマジレスさん:2017/07/11(火) 18:52:32 ID:/LtJi/2c0
鬼和尚さん、夜とか夕方の瞑想中に、家に一人で目を閉じてじっとしていると、怖い話や映画を思い出して集中できなくなる時があるんですが、そういう時はどうしたら良いと思いますか?

229鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/11(火) 20:58:04 ID:1d4drIFg0
>>225 それは完全な厭離ではなく忘我に入ったようじゃ。
 自分を一時でも忘れたらそのように感じるじゃろう。
 自分という観念からの厭離なのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>226 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>227 背筋が真っ直ぐならばすでによい姿勢じゃろう。
 座布団も要らないのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>228 それも雑念として流していけばよいのじゃ。
 囚われなければ消えていくじゃろう。
 恐れて逃げようとすると囚われ、いつまでもあり続けるのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

230蓮恵:2017/07/11(火) 21:21:15 ID:hu.n.GIQ0
鬼和尚さま

今月のブログ記事で一法専念とのことでしたが、私にとって姿勢を追求することがもっともよい道であるかのように思いました。

武術で語られる浮身、居着かず重力を感じず、浮いたような身体が瞑想においても要にはなるのでないしょうか。

また鬼和尚が姿勢を正しくせよ、と仰いましたが已然、骨盤のまっすぐな正しい座り方ができずにいます。

231としぼっくり:2017/07/11(火) 21:30:31 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

232避難民のマジレスさん:2017/07/12(水) 00:18:11 ID:zLNNGHJI0
>>229
忘我を調べましたが、サマーディのことなんですね。
忘我の状態からさらに進むには、自我を敢えて作り、その正体を目撃することでしょうか?
そのように観念を目撃した先に無我があるのでしょうか?

233避難民のマジレスさん:2017/07/12(水) 13:07:56 ID:Daf3Ag0M0
>>229
なるほど、ありがとうございます。
夜に一人でいて怖い気分の時は、集中どころじゃないですが、怖さから逃げずに雑念として流すところからやってみます。

234鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/12(水) 21:49:53 ID:1d4drIFg0
>>230 善いことじゃ。
 姿勢を研究すればサマーディにも自然に至れるようになるじゃろう。
 肉体を使う技とも共通する真理がわかるじゃろう。
 座布団を使ったり、いろいろ試してみるとよいのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>231 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>232 忘我とは自我を忘れている状態なのじゃ。
 自我を思い出したときにそれを観る最も大きなチャンスが訪れるじゃろう。
 自我は自分ではなく、自分のものではなくただ単に忘れたり思い出したりする記憶による観念に過ぎないと気付くのじゃ。
 その時は何も図らずとも自然にやってくるのじゃ。
 そうすれば無我になるじゃろう。
 それまで精進あるのみなのじゃ。

>>233 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

235避難民のマジレスさん:2017/07/13(木) 01:18:29 ID:a7aNDVMs0
>>234
わかりました。
この忘我から、自我の生成を観るというニュアンスでしょうか。
ギャップに気づくと言いますか。

やってみます。
ありがとうございました。

236としぼっくり:2017/07/13(木) 17:36:48 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
お釈迦様は姿勢を正しくする為に座布団みたいな物を使われていたのでしょうか?
質問を続けて申し訳ないですが、鬼和尚さんは座布団使われるのでしょうか?

237蓮恵:2017/07/13(木) 18:33:38 ID:58WbNv1g0
鬼和尚さま
武道関係ですが、肉体の技術を習得する機会に恵まれました。
姿勢に関しては、肉体の正中線や重心の線を完全に真っ直ぐにするような練習をしているので効果があれば、報告します。

それといままで気づかなかったのですが、自分の居場所がないと感じていることに気づきました。
どこかに居場所を求めているようです。

居場所を求めず、ただ観念を離れることが本当の己の居場所を作る方法だと思うのですが

238避難民のマジレスさん:2017/07/13(木) 18:39:31 ID:czRftzgI0
瞑想して心を鎮め、胸に意識を持っていくと目をつむっているのに目の前が明るくなります。けれど、更に意識して胸に集中しようとすると、それを無意識に思考でやっているのでしょう、戻ってしまいます。
明るくなる、戻る、明るくなる、戻るを繰り返しています。何かアドバイスを頂けないでしょうか。

239鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/13(木) 22:28:08 ID:1d4drIFg0
>>235 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>236 座布団はないのじゃ。
 野外であったから草を積んだりして座るところを創ったのじゃ。
 慣れれば平気なのじゃ。
 わしも毛布とかをしくこともあるのじゃ。

>>237 気付いてよかったのじゃ。
 その観念を厭離すれば居場所も必要なかったとわかるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>238 そのような反応に囚われないようにするのじゃ。
 何が起ころうとただひたすらに集中し続けるのじゃ。
 明るくなることも戻ることも何の意味もないのじゃ。
 ただひたすらに集中し続けることだけが真の実践なのじゃ。

240としぼっくり:2017/07/14(金) 07:08:32 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、鬼和尚さんも姿勢を正しくする為に毛布を使うと言う事でしょうか?

241避難民のマジレスさん:2017/07/14(金) 18:56:43 ID:czRftzgI0
>>238
とらわれないように進みたいとおjいます。ありがとうがおざいました

242避難民のマジレスさん:2017/07/14(金) 20:42:25 ID:izxhxeRQ0
鬼和尚さん、気というのは簡単に言えばどういうものなのでしょう?
オーラとはちがうものですか?

243鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/14(金) 21:15:41 ID:1d4drIFg0
>>240 そうじゃ、骨盤を垂直に保つために尻にしくのじゃ。
 骨盤が垂直になれば姿勢も正しくなり、力を抜いても倒れないのじゃ。
 そして気が頭まで入って無念夢想の状態になるのじゃ。
 実践によって証明するのじゃ。

>>241 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>242 気とはエネルギーなのじゃ。
 熱も熱気なのじゃ。
 オーラも生き物の気なのじゃ。
 万物にあり、人の中にもあるものじゃ。

244としぼっくり:2017/07/14(金) 21:41:03 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践によって証明します。

245避難民のマジレスさん:2017/07/14(金) 22:02:18 ID:izxhxeRQ0
>>243
242ですが、なるほどわかりました。
ありがとうございます。

246香雪:2017/07/15(土) 20:03:07 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚さま

こんばんは。空の法に拙いながらも少しずつ取り組んでいます。
ブログにある言葉を参考にして「自分の身体があるでもなく、ないでもなく」から、
先へ進んで感覚や思考に行こうとすると、消えたくない悲しい思いでいっぱいになりました。

怖れではなかったのですが、それで自己同一化してしまいます。
悲しんでいる自分に酔ってすらいるようです。

そのまま空の法で身体や感覚、思考などまで広げて「あるでもなく」と観続けるべきか、
それとも観察で「悲しみを感じている」としていくべきか、どちらがこの自分を越えていけますか?

よろしくお願いします。

247鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/15(土) 22:21:48 ID:1d4drIFg0
>>244 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>245 どういたしまして、またおいでなさい。

>>246 そのように強い反応があるということはそれが完全にできていると言うことなのじゃ。
 本当に効果があったから自分が消える悲しみも起こったのじゃ。
 おぬしには空の法が向いているのかもしれん。
 そのままその悲しみも空であると念じるのじゃ。
 障害も空であると消しながら進むのじゃ。
 出来るところまでやってみるのじゃ。
 どうしても無理であると感じたならばそれでやめてもよいのじゃ。
 それまで空の法によって進んでみるのじゃ。

248避難民のマジレスさん:2017/07/16(日) 12:18:09 ID:l0xJAHYA0
鬼和尚さん、ちょっと長い質問になってしまったのですが、縁起の観察について教えてください。

去年この掲示板で
「原因が無ければ反応も無いことを観察するのじゃ。
 反応が無ければ自分も無いと更に続いていくのが縁起の観察なのじゃ」
と教えていただいたんですが、昨日ようやくちゃんとその意味がわかった気がします。
その時は難しく考えていたんですが、これはじつはすごく単純なことなのではと思ったのです。

つまり、通常は「自分があるから、反応が起きている」と考えるのですが、実際は、「観念などの原因によって肉体の反応が起こり、その反応に自分を投影している」ということですよね?
だから、「原因となる観念などがなくなれば反応が起きないので、そこに投影していた自分がないことがわかる」、というのが縁起の観察だと思ったのですが、どうでしょうか?

昨日はそこでさらに、鬼和尚さんのブログを参照してみたのですが、縁起の法のところには、悟りに至るまでのプロセスはそこまで詳しく書いてない気がしました。
全体的に観察することで観照が起きやすくなる、と書いてあるだけだと思います。

それで質問したいのですが、「原因がなければ反応がなく、反応がなければ自分もない」ということを自分を投影している反応すべてに適応していくとすごく時間がかかると思うのですが、縁起の法だけで悟りに至ることはできるのですか?
それとも、これは止観の法の一部であって、集中による忘我と組み合わせて使う方法なのですか?

249香雪:2017/07/16(日) 18:45:23 ID:q6UBxgPc0
>>247
鬼和尚さま ありがとうございます。
想像以上に心を揺さぶられてしまい、これは勇気がいるな、と感じていますが、
それ以上に自分に空の法ができている、という言葉に力が湧きました。

このまま空の法で進んでみようと思います。ぜひまたご指導よろしくお願いします。

250鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/16(日) 21:57:04 ID:1d4drIFg0
>>248 そのように感じるならば実践してみると善いのじゃ。
 正しければ反応も起こるじゃろう。

 観察を続けて苦の真の原因である自我に気付けば無我にもなるのじゃ。
 そして観念をも滅することが出来るじゃろう。
 縁起は観察の法であり、常に集中と共に行うものなのじゃ。
 実践によって確めてみるのじゃ。

>>249 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

251としぼっくり:2017/07/16(日) 23:25:51 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
善友とは一体なんなのでしょうか?
失礼な事をお聞きしますが、鬼和尚さんと僕は、善友なのでしょうか?

252避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 00:22:52 ID:gy.DD9Vw0
>>250
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なるほど、自我の投影先は人によって異なるので、自分の感じるところを追っていけば良いのですね。

私は身体的な反応が起きた時に、強く自分を感じます。
音を聞いた時や何かに触れている時、胸の辺りからくる感情が湧く時等です。
つまり、肉体が何かの原因から反応することによって、例えば、音を聞いている主体があるように感じ、触っている主体があるように感じ、胸の緊張から感情の主体があるように感じます。
肉体的反応を厭離できれば、主体がそこにないことがわかりそうです。
他にも投影先はあるかもしれませんが、まずは肉体の反応を厭離するべく観察していこうと思います。

それで、鬼和尚さんに聞きたかったことは、私はこのように反応に自分を投影していて、投影先がたくさんあるので、それを観察する優先順位のようなことでした。
主体を感じる肉体的反応はたくさんありすぎて、すべてを厭離するのは私には無理な気がします。
強く主体を感じる反応の一つを選んで、何度も観察すれば良いでしょうか?
でも、このような部分的な厭離だけで自我にたどり着けますか?

あと、集中も必要だと教えていただきありがとうございます。
集中の瞑想も続けて行きたいと思います。

253避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 10:32:53 ID:czRftzgI0
感情は胸の反応を以て自分に起きていると感じているようです。胸の反応自体は自動的に起きているような気がするものの、それが自分の胸(皮膚と心臓の間くらいの場所)だという思いが強くて、どうしても自分の感情だと思ってしまいます。
それで、そのような体の中の反応する臓器?(あるいは箇所)のような観察できないものを乖離するのはどうすればいいですか?

254避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 10:41:34 ID:czRftzgI0
補足
つまり、そういう体の目に見えないところを観察するにはどうすればいいかという意味です。

255避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 12:06:18 ID:czRftzgI0
自己解決
と思っていたら、止観すると感情や反応が自分のでない感じがして、この状態と普段思考先行の状態の違いを観察して、乖離していけばいいのではと気付きました。お騒がせしました

256鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/17(月) 22:12:35 ID:1d4drIFg0
>>251 素行がよく、学識豊かで、よくないことから遠ざけてくれる人というのじゃ。
 善き友と呼べるじゃろう。
 いろいろ聞けるうちに聞いて実践するとよいのじゃ。
 そうすれば優れた境地にいけるのじゃ。

>>252 そうじゃ、自分が主体と感じるものを観るとよいのじゃ。
 その投射が観られたならば、一切の投射がなくなるのじゃ。
 偽りの主体である感覚をもたらしていたものと気付くからのう。 
 もはや二度とその投射は起こらなくなるのじゃ。
 実践によって証明するのじゃ。

>>253>>255 何があろうとそれをありのままに観ればよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

257としぼっくり:2017/07/17(月) 22:27:43 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
鬼和尚さんを師匠、善き友として精進していこうと思います。これからも色々と聞かせて頂く事があると思いますが何卒よろしくお願い致します。

258避難民のマジレスさん:2017/07/17(月) 23:25:27 ID:/LtJi/2c0
>>256
鬼和尚さん、ありがとうございます。
理解できました。

反応すべてにそれぞれ主体が生まれているのではなくて、いろいろな反応に投射される元の主体があるということなのですね。
私はいつも投射先を観察することを考えてしまうのですが、投射元を観察することが重要なのを思い出しました。
それなら、一つの反応からでも、その主体の感覚をもたらしているところにたどり着けるはずですね。

主体の感覚をもたらしている投射元を見れるように、注意深く観察してみます。
ありがとうございました。

259避難民のマジレスさん:2017/07/18(火) 07:49:20 ID:czRftzgI0
>252の自分が主体と感じるものを観るは、主体の投射先である胸を見るのか投じている主体(自分という観念)を見るのかどちらですか?

260鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/18(火) 21:40:46 ID:1d4drIFg0
>>257 そうじゃ、何度でも聞くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>258 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>259 全てを観るのじゃ。
 主体と感じるものも、投射する働きも、投射される客体も全てを観察するのじゃ。
 そうすれば自我の成り立ちに気付いて厭離が起こるのじゃ。
 それはただ観念が投射されている現象でしかないとわかるからのう。
 実践あるのみなのじゃ。

261避難民のマジレスさん:2017/07/18(火) 22:07:55 ID:czRftzgI0
>>259
なるほど全てを見るのですか。そのようにします。ありがとうございました

262避難民のマジレスさん:2017/07/19(水) 07:33:13 ID:GBGdI4v60
お釈迦さまも和尚様も自ら進んでは肉食しないとスレで見ましたが
何か理由があるのでしょうか?慈悲の表れですか?
食べるためには殺生は仕方ないと和尚様の意見を過去レスでは見ましたが

よくベジタリアンの人に対して「動物も植物も生き物を殺して食べるのはおんなじだ」
という意見を見ます、が私は植物と動物は一緒には思えないのです
それなら極端ではありますが人を殺生して食べるのも同じでしょう
食べるためには人を殺生するのも仕方がないことで罪にはならない?
さすがにそんなわけじゃないでしょうし
その点はどうお考えかお聞かせ下さい

263避難民のマジレスさん:2017/07/19(水) 16:45:07 ID:arO.hJ7Q0
鬼和尚、こんにちは。

和尚は自我は観念であると仰っていますが、私にとって自我を投影しているものは何かをしばらく観て参りました。

私にとって自我はすでに肉体でも思考でもありません。
意識の起点と言いましょうか、「物事に注意を向ける」の向ける主体です。
あちら、こちらのこちら側とも言えます。

これは何か「特別な視点」と認識しがちですが、これも経験を元にした記憶です。
過去の気づき経験の記憶に囚われてしまい「特別な視点」としてしまっている。
これも自我であり観念とわかりました。

ここまで観察ましたが、しつこくこの特別な視点があります。
あとどこを観察すればよいのか相変わらず迷っております。
この「特別な視点」をもっと観察したところに答えがあるのでしょうか?

264としぼっくり:2017/07/19(水) 18:35:25 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
無意識の観察が出来る様になるには、どれくらい観察を続けたら良いのでしょうか?

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/19(水) 22:06:04 ID:1d4drIFg0
>>262 それも慈悲なのじゃ。
 自らの為に殺される生き物をなるべく少なくするのじゃ。
 
 植物は大抵根が残れば食べても増えるのじゃ。
 動物は死ねばそれまでなのじゃ。
 善事をする機会も失われるのじゃ。
 そうであるから同じではないのじゃ。

>>263 その視点の観念が今何を想起しているのか観察してみるのじゃ。
 その視点がなくなると思うと恐れが起こるとか、視点があると思えば孤独感があるとかみてみるのじゃ。
 それらの縁起が完全に観られたならば厭離も起こるのじゃ。 
 実践あるのみなのじゃ。

>>264 それは人によって異なるのじゃ。
 大体二千から三千回ぐらいでできるようになるのじゃ。
 夢の中で観察しているとか、しようと思わないのに自然に観察していたとかの兆候があるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

266としぼっくり:2017/07/19(水) 22:15:14 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
1日2回として3、4年くらいですね。
質問ですが、無意識の観察が出来れば、自我に気付く事が出来るのでしょうか?

267避難民のマジレスさん:2017/07/19(水) 23:40:13 ID:arO.hJ7Q0
>>265
鬼和尚、ありがとうございます。

以前まではその視点を真我や本質の私などのよくスピリチュアルで目にするもの同じと認識をしていました。
確かにこの認識を手放すとまた振り出しに戻ってしまい、また昔のように苦しくなるのではないか、という恐怖はありましたが、今となってはこの視点への囚われが先に進むことを妨害してるのではと感じています。
そのため手放しても良いと思っています。

縁起を観るとのことですが、この視点を想起するまでの流れをじっくり観察するということでよろしいでしょうか?

268避難民のマジレスさん:2017/07/20(木) 11:35:08 ID:LstX99Vo0
鬼和尚さん、質問ですが、悟った人や無我の状態の人は、車にぶつかりそうになる等の身の危険を察知した時、どうなりますか?

体が緊張して、恐怖を感じますか?
つまり、体自体が恐怖を感じますか?
それとも、体は緊張するけれど、恐怖は感じませんか?
あるいは、緊張もせず、恐怖も感じませんか?

269避難民のマジレスさん:2017/07/20(木) 15:00:39 ID:M789lx0g0
>>265
常々考えてたことが間違ってはいないようで安心しました
自分のために殺生される生き物をできるだけ少なくすることに努めます
ありがとうございます

270鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/20(木) 21:04:42 ID:1d4drIFg0
>>266 それもできるじゃろう。
 真摯に己を観ようとするならばもっと早く気付くこともできるじゃろう。
 覚悟があれば恐れも超えて無我にいたることも出来るのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>267 想起してからも観るのじゃ。
 視点を手放す恐れも、それによる好悪も全てを観るのじゃ。
 そうすれば観察が完全に成り、厭離も起こるのじゃ。

>>268 恐れは感じないじゃろう。
 体が勝手に反応するじゃろう。
 肉体が最適な対応をするのみなのじゃ。

>>269 どういたしまして、またおいでなさい。

271避難民のマジレスさん:2017/07/20(木) 22:20:02 ID:arO.hJ7Q0
>>270
このような連鎖を観てみるということでよろしいでしょうか?

悟りに対する疑問が起こる

探そうとする

視点を意識する

視点に「真我」「本質の私」などのレッテルを記憶から引っ張って貼り付ける。そのような想起をしている。

「これが悟りだ」「良いものだ」と認識している

「しかしこれで良いのだろうか」と疑問がある

以下ループ


一番目の悟りに対する疑問が起こるのも、
「私が悟りを知って楽になりたい」という本心が根本にあるからです。

つまり悟りで楽になろうとして、悟りの観念に囚われループしているものが私という観念。
そしてこの観念の元になっているのが…記憶?
記憶も観念?
よくわからなくなってきました。

ここを実際に実践でじっくり観察ですね。
ありがとうございます。

272としぼっくり:2017/07/20(木) 22:29:13 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問を続けて申し訳ないですが、真摯に己を観るとはどういう事なのでしょうか?

273としぼっくり:2017/07/20(木) 22:44:44 ID:DAY232aw0
>>272追記です。
真摯に己を観るとは、真摯に自分を観察するという事でしょうか?

274避難民のマジレスさん:2017/07/21(金) 10:10:51 ID:izxhxeRQ0
>>270
鬼和尚さん、ありがとうございます。
つまり、喜怒哀楽の感情は観念が作り出しているのでしょうか?
悟った人は体を動かすのが楽しい、というようなことは感じますか?

275鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/21(金) 21:57:04 ID:1d4drIFg0
>>271 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>272>>273 そうじゃ、自分と感じるものを観察するのじゃ。
 それが近道なのじゃ。
 観察を日々実践するのであれば自分を観察する事で無意識の時にも自分を観察する機会が増えるのじゃ。
 そうであるから常に自分を追及し、観察するとよいのじゃ。

>>274 そうじゃ、それも観念なのじゃ。
 感じようと思えば感じることも出来るのじゃ。
 観念から離脱しても観念を使うことはできるのじゃ。
 船で彼方の岸に渡ったものが、渡り終えても用の無くなった船を使えるようにのう。
 なんでも自在なのじゃ。

276としぼっくり:2017/07/21(金) 22:25:53 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分とは何か観察し、自分と感じるものを観察して行こうと思います。

277としぼっくり:2017/07/21(金) 23:01:28 ID:DAY232aw0
>>276追記です。
お礼がいつも短くてすいません。いつも丁寧なご回答ありがとうございます。

278避難民のマジレスさん:2017/07/22(土) 00:29:04 ID:r3AdvIzY0
>>275
なるほど、ありがとうございます。
感情も観念なのですね。
悟っても感情を自在に使えるのなら安心しました。
ありがとうございました。

279としぼっくり:2017/07/22(土) 09:36:50 ID:DAY232aw0
鬼和尚さんお礼に続けて質問大変申し訳ないですが、自分を観察するとは、自分と感じるものを観察するという事なのでしょうか?

280避難民のマジレスさん:2017/07/22(土) 10:35:35 ID:czRftzgI0
聞こうかどうか迷ったのですが、OSHOのオレンジブックに男女が愛し合っているとき(要するに性交)の瞑想とか気は体のとんがっているところ(性器)に集まるとか書いてありました。このOSHOの態度からして悟りや修行と性的欲求とは関係がないという理解でいいでしょうか。
つまり、性的欲求を満たすことは修行の妨げにならないのかという意味です。

281蓮恵:2017/07/22(土) 11:03:28 ID:vWTE.il20
この世の全ての事象は、自分の心の中で起きているということがわかりました
ある意味、心の一人遊び、観念遊戯ともいえます

282避難民のマジレスさん:2017/07/22(土) 13:40:53 ID:9XP4Lp720
鬼和尚さん

テーリーガーターによく出てくる、
「5つの構成要素の集まり
6つの器官と認識対象とを合わせた12の領域
12の領域に6つの認識作用を合わせた18の要素の教え」
とは、何のことでしょうか?

283香雪:2017/07/22(土) 21:15:42 ID:q6UBxgPc0
鬼和尚様 こんばんは。

たまに休んでしまいますが、空観でことごとく「これも空だ、あれも空だ」とやっています。
ところで、自分の気付いたことや体験と合わせて、鬼和尚様のブログなどで教わったことを
僕のブログでも書いてよろしいでしょうか。

284鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/22(土) 22:19:28 ID:1d4drIFg0
>>276>>277 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>278 どういたしまして、またおいでさない。

>>279 そうじゃ、今ここで自分と感じるものは何か、観察してみるのじゃ。
 それは人によっては肉体であり、感情であり、それらの集まりと感じることもあるじゃろう。
 それを追求することで確実に自我は観察されることになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>280 関係はないのじゃ。
 囚われなければ妨げにはならないのじゃ。
 それは修行に使うことも出来るが、囚われれば迷いになるものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

285鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/22(土) 22:28:19 ID:1d4drIFg0
>>281 そうじゃ、全ては自分の観念なのじゃ。
 自らの観念の世界で苦も起こるのじゃ。
 観念が無ければ実際の世界に生きられるのじゃ。

>>282 それは色受想行識の五蘊なのじゃ。
 肉体と感覚器官と思考と分別と認識なのじゃ。

 眼耳鼻舌身意の器官とその対象である色形、音、匂い、味、感触、心の働きなのじゃ。
 それに視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、心の感覚をあわせて十八なのじゃ。
 要するに感覚の観察を全てにすることじゃな。

>>283 善いことじゃ。
 後に続く者に参考になるじゃろう。
 どんどんやるとよいのじゃ。

286としぼっくり:2017/07/22(土) 22:58:32 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分とは何か観察し、自分と感じるものは何か観察して行こうと思います。

287としぼっくり:2017/07/22(土) 23:40:39 ID:DAY232aw0
>>286お礼続けて申し訳ありません。
質問ですが、自分と感じるものは何か、観察する事は、自分を追求し、自分を観察する事になるのでしょうか?

288避難民のマジレスさん:2017/07/23(日) 00:43:12 ID:Tu1eESLY0
>>285
鬼和尚さん、ありがとうございます。
理解できました。
五蘊の説明は、世の中にあるものより鬼和尚さんの説明がわかりやすいですね。
そして、18の要素は、6つの感覚にそれぞれ、器官、対象、働きがあるということですね。
テーリーガーターではこの観察で悟っている人が何人かいるようなので参考にしてみます。
ありがとうございました。

289香雪:2017/07/23(日) 09:17:53 ID:q6UBxgPc0
>>285
鬼和尚様 ありがとうございます。

自分の言葉もどなたかの役に立てるといいな、と思っています。
空観はこれからも実践あるのみ、がんばります。

290避難民のマジレスさん:2017/07/23(日) 12:27:57 ID:czRftzgI0
>>280
スピ界でこの点はタブー視されてますね。なーんだ関係ないのか

291避難民のマジレスさん:2017/07/23(日) 19:15:05 ID:oakPTNLg0
鬼和尚さん、すみません、また質問させてください。

鬼和尚さんは
>>47 で、死に行くものと死によってもなくならないものを追求するようにと教えてくださいましたが、
私はやっぱり、心臓と頭がなくなれば、真っ暗になって何もなくなる気がします。
そして、それを見ているものがあるというのは、ただの想像とか、気のせいなのではないかと疑ってしまいます。

肉体がなくなっても何かが残っているということを、実際に死んだのではないのに、どうしてマハリシはわかったのですか?
想像や気のせいではなく、それが事実だと、なぜわかったのでしょうか?

292鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/23(日) 20:45:57 ID:1d4drIFg0
>>287 そうじゃ、それが自分を追及し、観察する事なのじゃ。
 日ごろただ漠然と自分と感じているものが本当に自分なのか観察によって明らかにするのじゃ。
 そうすれば気付きがおこるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>288 どういたしまして、またおいでない。

>>289 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>290 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。

>>291 それを徹底して観察するのじゃ。
 そうすれば疑うこともできない気付きと感得がそこに現れるのじゃ。
 手のあるものが自分の手があるかどうか疑えないように、何度でも確められる完全な感覚があるものじゃ。
 そしてむしろそれまでの死がある自分こそ観念妄想であったと気付くのじゃ。
 それまで徹底して観察あるのみなのじゃ。

293としぼっくり:2017/07/23(日) 21:03:43 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
しつこい様ですが、自分と感じるものは何か、観察するだけで、自分を追求し観察する事になるのでしょうか?
回答を下さっているのに何度も同じ様な質問申し訳ありません。

294避難民のマジレスさん:2017/07/24(月) 18:42:37 ID:8TunS37.0
鬼和尚
空観の瞑想は具体的にどうやればいいのでしょうか?
何を思い浮かべればいいのでしょうか?
死の恐怖の感情そのものを無くしたくてやってみたいと思ってます

295避難民のマジレスさん:2017/07/24(月) 20:03:24 ID:Daf3Ag0M0
>>292
鬼和尚さん、ありがとうございます。
徹底して観察すれば、それが疑いのない事実だとわかるのですね。
納得できました。

質問なのですが、マハリシが悟ったということは、死に行くものとそうでないものを見る過程で、自我の成り立ちを見たのですか?

296鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/07/24(月) 21:20:02 ID:1d4drIFg0
>>>>293 そうじゃ、なるじゃろう。
 実際に何を自分と感じるのか観察してみるとよいのじゃ。
 何度でも聞くとよいのじゃ。
 何度でも答えるのじゃ。

>>294 それは般若心経にも書いてあるのじゃ。
 身体や感覚や思考や分別や認識をそれぞれ空であり、無であると念じていくのじゃ。
 死の恐怖さえも空であり、無であると念じるのじゃ。
 その他自らの一切を空であり、無であると念じるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>295 そうじゃろう。
 死にいくものである自我は観念に過ぎないと気付いたのじゃ。
 それが観念であるからには死もまた観念と気付いたのじゃ。
 おぬしも実践あるのみなのじゃ。

297としぼっくり:2017/07/24(月) 21:50:16 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
何を自分と感じるのかを観察すると確かに、自分を追求し観察している気がします。自分と感じるものは何か、観察して行こうと思います。
いつも沢山の質問に答えて頂き本当にありがとうございます。

298294:2017/07/25(火) 08:52:20 ID:g.mcEtiU0
>>296
ありがとうございます

299避難民のマジレスさん:2017/07/25(火) 19:05:22 ID:FocWw5K20
>>296
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自分でも観察してみましたが、肉体が死ぬとして、脳の死んで行く過程が曖昧になってしまいました。

そこで質問なのですが、阿頼耶識は肉体の機能ですか?
それとも死んだらなくなるものですか?

300299:2017/07/25(火) 19:12:44 ID:FocWw5K20
>>299
すみません、それとも、ではなく、
つまり、死んだらなくなるものですか?
のまちがいです。

301香雪:2017/07/25(火) 20:35:56 ID:q6UBxgPc0
こんばんは。鬼和尚さん。

先日、数息観を10分くらい。雑念が止まらないまま空観に移りました。空観を10〜15分くらい。
「身体は空である。在るでもなく無いでもなく、汚れているでもなく清いでもなく、
増えもせず減りもしない、特徴があるのでもなく、ないのでもない。ただ空である。」
と念じ、それを感覚、感情、思考、分別、認識まで広げてやってみました。
自我消失の悲しみは乗り越えられたと思います。

それで、認識まで念じ終えた後、朝方で眠かったせいなのか、
感覚的には、思考も起こらず全身が止まってる感じがしたのですが、
空観や瞑想を続けていくと、こういったことが起こるものなのでしょうか?

それで、次に何かまた変わった状態が起きた時に、念じたり実践すべきなのは、
どういったことがありますか?長文で申し訳ありません。よろしくお願いします。

302n:2017/07/25(火) 22:34:29 ID:89bMzBlM0
鬼和尚様

ブログの月々の法話をいつも有難く拝読させていただいております。
そこで質問があるのですが、大乗の6つの誤りの5番目として

⑤ 一切空と教える誤り。

 大乗の般若経典では一切が空であると説いておる。
 これはお釈迦様の否定した外道の教えに近いものじゃ。

とありますが、しかしウダーナヴァルガ 第12章 道 の 七 には、
「一切の形成されたものは空である」
と釈尊が説いておられます。
これはどのように理解すればよろしいのでしょうか。


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