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大衆迎合なエスペラント運動を考える

1ladio:2006/11/09(木) 18:46:18
非エスペランティストへの宣伝をどうするか?
この問題を考える必要があると思う。
新規のE-istoを取り込まなければ、日本のエスペラント界は早晩、消滅してしまう。

エスペラント運動は思想運動と癒着しすぎている。
もはや、中立思想も邪魔である。
もっと大衆迎合なアミューズメントな運動方法はないだろうか?

妙案きぼんぬ

247やぱーの@管理人:2008/04/29(火) 19:31:12
一時、ホスト規制を甘くします。

だにょ様、よろしかったらテストしてみてください。

248ladio:2008/05/03(土) 19:57:03
憲章を定めて萌え全世界協会(MAT)を合法組織化しました。
日本国憲法をパクったおもしろ美しい憲章です。
また、著作権に関するガイドラインも載せました。
これで、タイーホされる危険はなくなりましたので、皆さん
ぜひご参加下さい。

249りょほう:2008/05/04(日) 10:04:14
>>248
憲章みました。
2点つっこませていただきます。

1.日本の著作権法よりも、現地の著作権法を守ることに触れるべきだと思います。

というのも、ファンサブは日本で見てもらうものではなく、海外の人に見てもらうものなので、
日本の著作権法ではなく現地の著作権法が問題になります。たとえばドイツ国内でドイツのエスペランティストに見てもらう場合、日本のではなくドイツの著作権法が問題になります。
現地の著作権法を守るに当たっては、現地のエスペランティストと連絡を取り合う必要があるでしょう。

2.権利者保護に対する姿勢

公開したファンサブが現地でライセンス化された場合、ファンサブの公開を中止する。また、ライセンスされた作品を買うことを促す。
権利者から公開を中止することを求められた場合、速やかに公開を中止する。

など、権利者の権利を重視した文面を盛り込むべきだと思います。
権利者のみなさんとも仲良くしたいですよね!

では、頑張ってください。

250ladio:2008/05/04(日) 12:01:39
つっこみありがとうございます。
憲章を改正しました。現地の著作権法を守ることを盛り込み、
翻訳物の公開を厳格に禁止しました。
また、9条として、著作権の放棄をうたいました。
日本国憲法の第9条のぱくりです。

251松戸彩苑:2008/09/28(日) 11:17:43
私は >>93 で、月刊「言語」2000年8月号に掲載された、立川健二氏の「英語批判の手前
で ― エスペラントからザメンホフへ」という論文を紹介しましたが、この文章がそっくりその
まま『論争・英語が公用語になる日』(中央公論新社 2002年)という本に転載されてるの
を思い出しました。

月刊「言語」のバックナンバーを探すよりも、こちらを見つけるほうがずっと楽だと思います。

もちろんこの論文は、私が >>93-96 で述べているように

  エスペラントはもう絶対に広まらないから、それは諦めて、それ以外の社会運動に専念し
  たほうが、ザメンホフの精神を現代社会に生かすことが出来るのではないか。

と言ってるものであります。

この論文と、立川健二(著)『ポストナショナリズムの精神』(現代書館 2000年)所収の「第
3章 言語戦争論序説」とを読んでみて、私が >>93-96 に書いた解釈が正しいかどうか、ご
自身で確かめられると良いと思いますね。

252ladio:2009/03/09(月) 01:24:46
 私はまだ、エスペラント運動の具体的な活動について書くことができない。しかし、活動の条件についてなら書くことができる。以下に、エスペラントを大衆と呼ばれる圧倒的多数に導入させるために、その活動に必要な条件を記した。


   大衆運動としてのエスペラント

 大衆とは、心理的に定義される。
「大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値を見いだすことなく、自分を『すべての人』と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに喜びを感じる全ての人々(である)」。(オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』)

 大衆は産業革命以降、社会の多数を占めるようになった。今まで、人々はムラなどの共同体に確固たる拘束を受けていた。ところが、産業革命後、都市部に工場労働者として集まった彼らは、その拘束から解き放たれ、自由を手にすることになる。彼らは頼るべき規範を失い、「根無し草」となった。彼らは孤独であり、常に不安を抱えている。
 そこで、彼らの不安や孤独を埋める方法で、我々は大衆に対しエスペラントを提案すべきだろう。それは、新しい仲間であり、民族である。エスペラントは人々にかくあるべしという規範を与えなければならないだろう。ただし、それは潜在的に大衆の願望の中にあるものでなければならない。ホマラニスモなどの倫理規定ではなく、彼らの孤独、不安あるいは欲望に合致していなければならない。大衆の心に存在しない要素を大衆にすり込むことは困難であり、しばしば骨折りに終わる。

 人間は理性的、合理的にはできていない。人間は欲望に従って生きており、理性はその言い訳としてしか存在しない。彼らの欲望に合致した意見でなければ、その主張は完全なる誤謬と見なされる。大衆は単純な意見しか知らないので、ある主張は宗教のように盲目的に受け入れられるか、完全に斥けられるかどちらかである。エスペラントは今まで単なる理想主義であった。人間の理性に頼り、世界が良くなれば、そして世界が真理に向かえば、エスペラントはいつか導入されるだろう、という臆見が支配的だった。しかし、真理とは間主観の共通了解による妥当であるという現象学的な見方をすれば、それが誤りであることが分かる。エスペラントはもっと卑屈に、人間の欲望に即した形で提案されなければならない。

 大衆は暗示にかかりやすい。暗示とは観念の身体化である。身体化した観念は常に善と見なされる。エスペラントは暗示によって人々に受け入れられなければならない。
 大衆は孤独である。常に他者との連帯を求めている。宣伝はだから、ある人が見たものを他の人も見ているのだという確信を与える方法で行わなければならない。エスペラント運動は全国的でなければならず、そのことが被宣伝者にも伝えられていなければならない。他人と同じものを見て、同じことを聞き、同じ意見を持つ。エスペラント運動は大衆の性質に即しているべきである。

 人間は他人と出会ったとき、彼を敵と見なすかあるいは味方と見なすかのどちらかの態度をとる。中間という態度は存在しない。敵と見なした場合、人間は他人を打倒し屈服させるか、屈服させられるかのどちらかになる。味方と見なした場合、そこでは贈与の交換が行われれる。人が他人と関係を作るとき、必ず贈与が行われる。それは具体的な物の贈与とは限らない。信念などの抽象的なものの譲り合いである場合もある。エスペラントは非エスペランティストに何を贈与しうるだろうか?また、非エスペランティストから何を受け取りうるだろうか?あるいはエスペラントは大衆を屈服させうるだろうか?他人を敵と見なし、相手を屈服させた場合でも、贈与の交換は行われる。それは、庇護と忠誠の交換である。エスペラントには人々を庇護し、恩恵を与えるだけの力があるだろうか?

 大衆は支配されることを望んでいる。大衆は孤独であるが故に、他人との連帯を求めずにはいられない。それは、自我を平気で捨て去り、他人と同化することにつながる。エスペラントは人々を支配し、大衆を結びつける紐帯となりうるだろうか?

 以上をまとめると、エスペラント運動はまず、エスペラントで人々を支配するのか、あるいは贈与の交換によって人々と共生するのかを選ばなければならない。
 次に、エスペラント運動は全国的に展開されなければならない。
 そして最後に、エスペラント運動は大衆の不安、孤独を解消し、彼らの欲望を満足させなければならない。

253KamelioJapana:2009/03/09(月) 20:58:01
>>252
ladioさん。
貴重な意見を詳しく拝聴いたしました。久しぶりに私のいつもの論争相手とは違った見解で
新鮮でした。
私なりに少しコメントをさせていただきます。

> 大衆とは、心理的に定義される。
「大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値を見いだすことなく、自分を
『すべての人』と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じで
あることに喜びを感じる全ての人々(である)」。
(オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』)

筆者の使用した日本語で「大衆」と訳された原語を知らないのではっきりとは云えませんが、
あくまで、筆者自身が思うところ大衆観に過ぎない気がします。
私は、日本語でいう「大衆」とは社会の「エリート」では無い人々、すなわち、個々人の力
だけでは直接政治や社会に影響を与えることが大変難しい立場にいて、多かれ少なかれ、与え
られた社会環境の中で生きることを余儀なくされている人々、と考えます。

すなわち、単に心的態度の問題では済まされないと思います。確かに上に定義された人たち
も居るとは思いますが(エリートの中でさえ居る)、それで総てを括るのはちょっと単純な
定義だと思います。
それに人々の心的態度とは与えられた時代や社会的条件の下でかなり変わっていくもので、
ある特定集団の心理と他のものとは民族、国家、国家体制等の条件により違うものです。
彼の定義した心理的定義は、大衆の心理の多くの部分を代表するかも知れませんが、総て
ではないと思います。従って大衆とは、貴方の書いている様な「心理的に定義される」もの
だけでは決まらないというのが私の考えです。

> 大衆は産業革命以降、社会の多数を占めるようになった。今まで、人々はムラなどの共同体
に確固たる拘束を受けていた。ところが、産業革命後、都市部に工場労働者として集まった
彼らは、その拘束から解き放たれ、自由を手にすることになる。
彼らは頼るべき規範を失い、「根無し草」となった。彼らは孤独であり、常に不安を抱えて
いる。

この上記の自由の定義こそ問題なのです。ある意味では共同体の「加護」を失い、根無し草に
なる不安を抱える「自由」も得たのですね。それに多くは農村から追われる状況下に置かれた、
と云った方が好いわけで、戦前の日本の貧しい農村や今の中国もそれと似たような状況が続い
ています。言い直せば、「根無し草になる不安を前提に自由を得た」わけです。
と言うのは、彼らには、もはや労働力の売り手としての地位が保証される前提でしか生きる
道がない。不況その他で買い手の方が有利に働く状況になれば直ぐに路頭に放り出されると
いう不安が常に付いて回る。現代でも多くの国の人々が似たような状況に置かれていますね。

254KamelioJapana:2009/03/09(月) 21:08:13
>そこで、彼らの不安や孤独を埋める方法で、我々は大衆に対しエスペラントを提案すべき
だろう。

これは、前掲の私の論点から言わせると飛躍です。
と言うのは「根無し草になる不安」とは単に人々の心理の問題ではないからです。
それは、生活を維持できなくなる潜在的可能性が常にあることから来る不安です。
このことは、先ごろの世界的金融危機でも如実に顕在化しました。

従って、大衆にEを提案しても指し当たっては、彼らには殆ど利益にはならないし、あまり
意味の無いことだと思います。というか、大衆はそっぽを向くだけでしょう。

>それは、新しい仲間であり、民族である。エスペラントは人々に「かくあるべし」という
規範を与えなければならないだろう。(「 」はKamelioの挿入)

仮令、可能だとしてもEにそんな権利はないと思いますが。。。

>ただし、それは潜在的に大衆の願望の中にある
ものでなければならない。ホマラニスモなどの倫理規定ではなく、彼らの孤独、不安あるい
は欲望に合致していなければならない。大衆の心に存在しない要素を大衆にすり込むことは
困難であり、しばしば骨折りに終わる。

すいません。意味不明瞭です。
ホマラニスモは大衆の心の中には存在しない、と云いたいのかな。
では、彼らの一連のbezonojに合致するものとは??

255KamelioJapana:2009/03/09(月) 21:20:43
>人間は理性的、合理的にはできていない。人間は欲望に従って生きており、理性はその言い訳として
しか存在しない。彼らの欲望に合致した意見でなければ、その主張は完全なる誤謬と見なされる。

これは、貴方の意見でしょうか。
どうも、二者択一のような感じがします。
そもそも「理性的・合理的」と言うことと「欲望に従って」ということが必ずしも対峙するもの
ではないのです。
まあ、それはそうとしても、
人間は、常に理性的でもないし、単に欲望のみに従って生きているのでもありません。
本来多くの人々は、条件が整えば理性的に動くものです。それが人間たる所以です。

その条件とは、理性的に動けば自他共により良い生き方が約束される環境です。
すなわち、この環境が整っていれば人々の個人の欲望と理性とは、ほぼ同じ向きを示します。
逆にその条件が乏しいと、生きることの不安の方が理性を押しのけて、利己的な欲望が出てしまい
ます。自分さえ良ければというやつですね。
尤も、そんな世の中が長期に亘って栄えたためしはありませんが。。。

>大衆は単純な意見しか知らないので、ある主張は宗教のように盲目的に受け入れられるか、完全に
斥けられるかどちらかである。

これも二者択一的。
「〜と言う傾向が大きい」等の表現を用いることをお勧めします。

>エスペラントは今まで単なる理想主義であった。人間の理性に頼り、世界が良くなれば、そして
世界が真理に向かえば、エスペラントはいつか導入されるだろう、という臆見が支配的だった。
しかし、真理とは間主観の共通了解による妥当であるという現象学的な見方をすれば、それが誤り
であることが分かる。

人間社会においては、何が真理かは確かに相対的ではあるが、そのことと理性に頼る運動がどうして
誤りなのかは説明にはなっていないと思うのですが。。。
貴方の頼る「現象学的な見方」を受け入れたとしても、個々の主観の共通項の総和が理想主義的な
ものと近くなることだってあるでしょう。

256KamelioJapana:2009/03/09(月) 21:37:43
>エスペラントはもっと卑屈に、人間の欲望に即した形で提案されなければならない。

のように貴方は、貴方は人間は常に欲望的なものだという前提に立っているので、欲望の主体である個々の
主観の総和は、すなわち真理というものは、理想を受け入れるものにはならない、と云いたいのでしょうか。

>大衆は暗示にかかりやすい。

これは、何も大衆に限ったことではないでしょうが、先に貴方が引用した「大衆の定義」からはそうも
云えるかもしれません。

>暗示とは観念の身体化である。身体化した観念は常に善と見なされる。
エスペラントは暗示によって人々に受け入れられなければならない。

一種のマインドコントロールですか。

>大衆は孤独である。常に他者との連帯を求めている。宣伝はだから、ある人が見たものを他の人も見ている
のだという確信を与える方法で行わなければならない。

「貴方の大衆の定義」ではそうかも知れませんが、私の定義する大衆は、常に孤独であるわけではありません。
もっと正確に言うとアプリオリに孤独ではないのです。
上記で示唆したようにある条件の下で孤独に思うようになる、または孤独にさせられるのです。

>エスペラント運動は全国的でなければならず、そのことが被宣伝者にも伝えられていなければならない。
他人と同じものを見て、同じことを聞き、同じ意見を持つ。
エスペラント運動は大衆の性質に即しているべきである。

大衆というものが、貴方のいう心的態度に留まるという前提ならば、Eを広めても無益でしょうし、そもそも
Eを広める理由もありません。そもそも理想主義から切り離されたE自体が直接大衆に齎す恩恵とは、一体全体
なんでしょうか。E自体の存在価値が問われます。

>人間は他人と出会ったとき、彼を敵と見なすかあるいは味方と見なすかのどちらかの態度をとる。
中間という態度は存在しない。敵と見なした場合、人間は他人を打倒し屈服させるか、屈服させられるかの
どちらかになる。

そういう人もおりますが、そんな単純なものではないでしょう。何か殺伐としたものが感じられますね。
何方の心理学理論または人間論なのですか、教えてください。
過っては、そういう理論もありましたが現段階の考古学的見地からも、別の見方をしていますよ。

>味方と見なした場合、そこでは贈与の交換が行われれる。人が他人と関係を作るとき、必ず贈与が行われる。
それは具体的な物の贈与とは限らない。信念などの抽象的なものの譲り合いである場合もある。

これは、大方その通りだと思います。共感などは大事な交換の要素ですね。

257KamelioJapana:2009/03/09(月) 21:52:40
>エスペラントは非エスペランティストに何を贈与しうるだろうか?また、非エスペランティストから
何を受け取りうるだろうか?あるいはエスペラントは大衆を屈服させうるだろうか?他人を敵と見なし、
相手を屈服させた場合でも、贈与の交換は行われる。それは、庇護と忠誠の交換である。エスペラント
には人々を庇護し、恩恵を与えるだけの力があるだろうか?

中世、封建社会のことですか???

>大衆は支配されることを望んでいる。大衆は孤独であるが故に、他人との連帯を求めずにはいられない。
それは、自我を平気で捨て去り、他人と同化することにつながる。
エスペラントは人々を支配し、大衆を結びつける紐帯となりうるだろうか?
 以上をまとめると、エスペラント運動はまず、エスペラントで人々を支配するのか、あるいは贈与の
交換によって人々と共生するのかを選ばなければならない。

貴方のお考えなら、ちょっと危険な香りがしますね。
大衆、又は社会の多数派がそういう「支配される事を望んでいる」状況に陥った時は、まさに、民主主義
が危機に晒されているのですね。
今の日本の状況は果たして如何でしょうか。

むしろ、大衆に対するプロパガンダが容易になる社会状況こそ、変えていかなくては、なりません。
極左や極右の全体主義者につけいる隙を与えないようにね。

258KamelioJapana:2009/03/09(月) 22:06:23
>次に、エスペラント運動は全国的に展開されなければならない。
そして最後に、エスペラント運動は大衆の不安、孤独を解消し、彼らの欲望を満足させなければならない。

貴方の云う「>大衆は支配されることを望んでいる。」と言っているのを思い出して、今、昔読んだE.フロム
の「自由からの逃走」と言う本が頭を過ぎりました。

大衆の不安というものが、今の社会状況から来るのであれば、その社会状況を、先ず、変える為の行動を
取ることが多くの識者(必ずしもエリートではなく広い意味で大衆の一員かも知れない)に課せられている
優先課題といえましょう。
Eが悪化しつつある社会状況に対して迎合的態度を取れば、ナチスやスターリン体制下で、また日本の
戦前・戦中の一部のエスペランチストが犯した過ちを繰り返すことになります。
その誕生の理念からしてEが広まるのは理性的・論理的に考える大衆が多く存在しえる条件下であって、
決してその逆ではないのです。
そして、本来のEの目的から外れるEの存在価値とは一体なんでしょうか。

259ladio:2009/03/10(火) 18:46:58
 拙文お読みいただきありがとうございます。

 まず、大衆の不安についてですが、これは路頭に迷う不安ではありません。
もちろんその種の不安はあります。しかしエスペラント運動にとって重要なのは
その不安ではありません。
 不安は孤独に由来するものです。大衆は「農村社会にあったような共同体的紐帯から解き放たれ、・・・最終的に帰属すべき共同体、連帯すべき仲間、したがうべき秩序を失」ったのです。(若田恭二『大衆と政治の心理学』)
その不安と孤独を埋め合わせることこそ、大衆を振り向かせる唯一の方法なのです。

>では、彼らの一連のbezonojに合致するものとは??

彼らのbezonojとは被支配の欲望です。支配されることによって、支配者と一体になり、また自分と同じように支配される他人とも一体になれるのです。
つまり、エスペラントはイデオロギーとして彼らを支配しなければならないと言うことです。

>>人間は理性的、合理的にはできていない。人間は欲望に従って生きており、理性はその言い訳として
しか存在しない。彼らの欲望に合致した意見でなければ、その主張は完全なる誤謬と見なされる。

>これは、貴方の意見でしょうか。
>どうも、二者択一のような感じがします。
>そもそも「理性的・合理的」と言うことと「欲望に従って」ということが必ずしも対峙するもの
>ではないのです。
>まあ、それはそうとしても、
>人間は、常に理性的でもないし、単に欲望のみに従って生きているのでもありません。
>本来多くの人々は、条件が整えば理性的に動くものです。それが人間たる所以です。
>
>その条件とは、理性的に動けば自他共により良い生き方が約束される環境です。
>すなわち、この環境が整っていれば人々の個人の欲望と理性とは、ほぼ同じ向きを示します。
>逆にその条件が乏しいと、生きることの不安の方が理性を押しのけて、利己的な欲望が出てしまい
>ます。自分さえ良ければというやつですね。
>尤も、そんな世の中が長期に亘って栄えたためしはありませんが。。。

人には他人と良好な関係を築きたいという欲望があります。
欲望というのは必ずしも表面上利己的とは限りません。
これはKamelioさんのおっしゃるとおりでしょう。

>人間社会においては、何が真理かは確かに相対的ではあるが、そのことと理性に頼る運動がどうして
>誤りなのかは説明にはなっていないと思うのですが。。。
>貴方の頼る「現象学的な見方」を受け入れたとしても、個々の主観の共通項の総和が理想主義的な
>ものと近くなることだってあるでしょう。

そうですね。確かに真理が理想に近づくことはあり得るでしょう。
しかし、理性に頼る運動は100年という歴史がその不可能性を証明していると思うのです。
ここは思い切って方向転換して、感性に訴えるべきだと私は思います。

>>暗示とは観念の身体化である。身体化した観念は常に善と見なされる。
>>エスペラントは暗示によって人々に受け入れられなければならない。

>一種のマインドコントロールですか。

そうかもしれません。しかし、これはプロパガンダと一般には呼ばれているでしょう。

>大衆というものが、貴方のいう心的態度に留まるという前提ならば、Eを広めても無益でしょうし、そもそも
>Eを広める理由もありません。そもそも理想主義から切り離されたE自体が直接大衆に齎す恩恵とは、一体全体
>なんでしょうか。E自体の存在価値が問われます。

エスペラントは単純に広められることに意義がある、と私は考えます。
私の考えでは全ての人がザメンホフ主義者になるべきだとは考えていません。
確率上、ザメンホフ主義者が増えるべきだと考えています。
つまり、エスペランティストの10人に一人がザメンホフ主義者になるとして、
分母が大きくなればその分、分子も大きくなるのは自明のことでしょう。
いまの100万人という悲惨な分母から6000万〜6億という分母にすることによって、
分子も大きくなり世界が良くなると考えています。

260KamelioJapana:2009/03/14(土) 09:17:35
>まず、大衆の不安についてですが、これは路頭に迷う不安ではありません。

水掛け論になってしまいそうですが、本質的には路頭に迷う不安でしょう。
その不安が無ければ、単に心理学的なからくりで病的になった人とか性格的に極端な偏りがある人は
別ですが、ロビンソン・クルーソーの様な特別な環境に置かれない限り人間は、一時的にはあるにし
ても真の意味で孤独にはなりえません。
理由は生活を自立して確保できる条件とは、彼または彼女が社会と何らかの交流がないと不可能な
ことを意味しているからです。所謂、生活手段の獲得のためには社会的生産組織に己が組み込まれて
いることが前提条件なのです。
従って、共同体を失ったことだけが孤独を固定的なものにしてしまうものではありません。それ
どころか、それは自立した個人の新たな連帯(共同体という単一集団に縛られるものではない多様な)を
作っていく条件にもなったのです。

不安は、近代市民が衣食住の不断の供給源から縛られない代わり、eventualeそれが、いつ何時、奪われ
るかも知れないという自己存立基盤の不安定さと、生活を維持するための結果責任が昔の共同体ではなく
自立した(しているべき)個人の責任に課せられるというところから来ているのです。

261KamelioJapana:2009/03/14(土) 09:29:36
>彼らのbezonojとは被支配の欲望です。

人間の本来の欲望は、むしろ逆に支配の欲望だと思います。生物学的にもそう考えるのが自然だし、
何よりも人類の歴史がそのことを物語っています。
従って、「被支配の欲望」とは、本来の望ましい環境から人間がかなり遠ざけられ、その存在自体が
脅かされる極端に不安な心理状態に陥った特殊な状況下にあることを示しているに過ぎません。
(続く)

262松戸彩苑:2009/03/15(日) 18:38:43
ladio さんとは考えてることが少し違いますが、私も「エスペラント運動をやる際には、世間
の人たちの理性を当てにしてはいけない」と考えています。

なぜならば、これまで100年以上にわたって世間の人たちの理性を当てにした運動を展開
してきたわけですが、ほとんど理解してもらえなかったからです。

革新政党や革新派の人たちに宣伝しても、賛同してくれる人はほとんどいませんでした。

また言語学者にしても、大部分の人たちは関わりを持とうとしませんでしたし、ひどいのにな
ると、いい加減なことを書いてエスペラントを批判する学者までいるわけですね。

こういう理性的なはずの人たちでさえも理解してくれなかったという歴史的事実があるわけ
です。
ですから私は「エスペラント運動に関しては、世間の人たちの理性を当てにするのは間違い
だ」と断言しているわけですね。
---

とは言うものの、私は ladio さんみたいに難しいことを考えてるわけではありません。

私は「エスペラントで雑談や趣味の話ができるということを売りにして宣伝しよう」と言ってる
わけです。

おそらく、高邁な理想のためにエスペラント運動をやっている人たちにとっては「つまらない
目標」なのかもしれませんが、しかし世間の人たちにとっては、これでも十二分にすごいこ
となんですね。

むしろ、エスペランティストがあまりにも高尚なことばかりやってるので、世間の人たちには
ついていけないという問題があるのです。

町田健という言語学者が『言語学が好きになる本』のなかで

> 結局エスペラントは、クラシック音楽とか日本舞踊とか俳句のような、一種高尚な趣味の
> 一つといった雰囲気に包まれているんでして、(注10)国際語としての実用性を発揮する
> のは、残念ながら難しい状況にあるといえるでしょう。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1199456754/18

などと書いていますが、この東大の大学院を出て公費でフランスに留学したのちに名古屋
大学の教授になったという優秀な人物でさえも「一種高尚な趣味の一つといった雰囲気に
包まれている」などと形容するような言語が、世間一般に普及するわけがないだろうと私は
思うんですね。

また田中克彦(著)『エスペラント 異端の言語』の最後のあたりにも書かれていましたが、
「韓流ブームの影響で韓国語を勉強する人が増えた」ということがあったわけですが、この
人たちだって、べつに高尚なことを考えてるわけではないんですね。
おそらく「楽しそうだから」といった理由でやってるんだと思いますが、その程度の理由で勉
強する人ならば、世間にはけっこう沢山いるわけです。

ということで私は「理性」よりも「楽しそうだと思う気持ち」のほうがよっぽど当てになるだろう
と考えているわけです。

また、こういう宣伝を成功させるために、日常生活に関する語彙・表現を整備しているわけ
です。

(終わり)

263N:2009/03/17(火) 23:30:15
松戸様。

>私は「エスペラントで雑談や趣味の話ができるということを売りにして宣伝しよう」と言ってる
>わけです。
>
>おそらく、高邁な理想のためにエスペラント運動をやっている人たちにとっては「つまらない
>目標」なのかもしれませんが、しかし世間の人たちにとっては、これでも十二分にすごいこ
>となんですね。
>
>むしろ、エスペランティストがあまりにも高尚なことばかりやってるので、世間の人たちには
>ついていけないという問題があるのです。

このご指摘は重要ですね。
私の連れ合いは「エスペラントは語学オタクのおもちゃだ」と申します。「いくら自然言語より平易だ、といっても、やっぱり習得には労力が要るよね」「だったら楽しい実用法を示してよ」とも。
エスの宣伝パンフの類はJEIにもありますが、UKで開かれる趣味の分科会(ekz.囲碁の会、鉄道ファンの会、ネコ愛好者の会)とか、Pasporta Servoなどの「肩の凝らない、実用的な楽しみ」をもっと前面に押し出すといいと思います。
私自身は北海道連盟で一般市民にエスの魅力をアピールするのに、PSを積極的に使っています(私もgastigantoなので)。
エスの精神性はあとからついてくる、ぐらいに考えてもいいと思います。

264松戸彩苑:2009/03/20(金) 09:37:47
>>263
Nさん、こんにちは。

Nさんの奥さまの発言ですが、私の考えるところでは、ほんとうに良いものだったら家族や
友人・知人に認められて広まると思うんですよね。
つまり、いわゆる「クチコミ」で広まるはずだということですね。

だいたい、自分の家族や友人・知人にさえも認めてもらえないようなものが、社会全体に
広まったリ、政府だとか国際機関だとかに認められたりするとはとても思えないのです。

そのように考えておりますので、まずは、自分の家族や友人・知人に認めてもらえるような
ことをすべきだと私は主張してるんですね。

そうやって理解者・支持者を増やしていかないと、エスペラントの未来は無いと思います。
---

Nさんは Pasporta Servo の gastiganto をされておられるんですか。

外国のエスペランティストがやって来ますと、やはり「日常生活に関する語彙・表現」が大量
に必要になると思うんですよね。

家のなかや街のなかにあるモノ・事を表わす単語や、旅行に関する用語、さらには雑談をす
る際にも多種多様な単語が必要となるんじゃないかと私は思うんですが、これまでに gast-
iganto をされてきて「こういう語彙・表現があったら良かった」みたいな経験をされたことは
無いでしょうか?

私は

  これまで多くの人たちが一生けんめいにエスペラント運動をやってきたのに、はっきりいっ
  て今ひとつパッとしない。

  その原因の一つとして「日常生活に関する語彙・表現」が不足・混乱しているという事が
  あるのではないか。

と考えていて、それを改善するための方法を

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/
http://yy67.60.kg/test/read.cgi/jinkogoplus/1228036613/

などで論じてきました。

それから Pasporta Servo の gastiganto をされてきて体験された事について教えていただけ
ると、とても有益だと思います。

(終わり)

265ladio:2009/03/20(金) 22:20:52
>ということで私は「理性」よりも「楽しそうだと思う気持ち」のほうがよっぽど当てになるだろう
>と考えているわけです。

私の考えではその「楽しそうだと思う気持ち」からエスペラントをやるというのも理性の産物だと思います。
楽しそうだからエスペラントをやるというのはとても理想的です。
私の考えでは、周りがやるからそれを何となく模倣してしまうというのが感性的だと思います。
つまり、暗示です。
誰かがどこかでエスペラントをやっている、できれば、自分の上に立つ人間がエスペラントをやっている
という事実が大衆に暗示を掛けます。
我々は何らかの方法で彼らに暗示を掛けなければならないのです。

266松戸彩苑:2009/03/21(土) 08:12:38
>>265
そんな難しいことを考えておられるんですか…

世間の人たちのエスペラント観というのは

  エスペラントは、これまで100年以上にわたって普及活動が行なわれてきたが、ほとん
  ど広まらなかった。

  だから、一部の熱心な人たち以外の人間にとっては、何の役にも立たない。

というものだと思うんですね。
これが世間においては「理性的な判断」だとされるものだと思います。

で、私の考えは、「楽しいこと」をエスペラントでやることによって、この世間の「理性的な判
断」というものを乗り越えようとするものですので、やはり「理性」ではないと自分では思って
るんですけどね。
---

> 誰かがどこかでエスペラントをやっている、できれば、自分の上に立つ人間がエスペラント
> をやっているという事実が大衆に暗示を掛けます。

オーストリーの大統領だったフランツ・ヨナスという人はエスペランティストでしたが、大統領
になったからといってエスペラントを特別扱いしたりはしませんでしたし、またオーストリーの
国民もエスペラントに飛びついたりはしませんでした。

また現在でも、1994年にノーベル経済学賞を受賞したゼルテン博士が、エスペラントの普
及のために頑張っておられますが、しかし残念ながら、世間の反応は芳しくないようです。

それから中国においては、大学で教えている第二外国語の1つとしてエスペラントが認めら
れていて、大学院に進むための試験や、公務員になるための試験などでもエスペラントが
選択できるようになってるそうなんですね。
それに、テレビでエスペラントの講座を放送したこともあったそうですし、大型書店には中国
国内で出版されたエスペラント書籍が並んでたりもしています。

つまり、政府がこれだけエスペラントを認めてるわけなんですが、しかしそれにも関わらず、
中国社会においてもエスペラントはマイナーな存在でしかないわけです。

こういう事実を見てますと、どうやら、たとえ有名人がエスペラントをやっていたり、政府が
認めたりしていても、世間の人たちはほとんど関心を持ってくれないみたいなんですね。
そのくらいエスペラントには社会的な信用が無い、あるいは「人工語なんて絶対にムリだ」
と思われてるようなのです。

私はこういうのを見まして「上からの運動(desuprismo)ではダメだ」「むしろ反対に、一般人
の生活のなかに入りこむような運動をしなければならないんだ」と考えまして、「エスペラント
で楽しいことをやる」というのを提唱しているわけです。

(終わり)

267隣の隠居:2009/03/21(土) 09:21:38
ゼルテンさんが頑張っても無理なのは、経済学で十分に説明がつきますよ。
「英語は普及しているから、みんな勉強しようとするし、エスペラントは普及していないから、誰も学ぼうとしない」という現象は、経済学では「ネットワーク外部性」という理論で十分に説明がつきます。
昔の頭の固い人は、政治運動でエスペラントの普及を加速しようとしているわけですが、かえってそれが普及のネックになっているのは明らかです。
MATのようにエスペラントで誰もが注目するようなコンテンツをつくっていく方が、理にかなっています。

268ladio:2009/03/21(土) 16:50:41
大衆をとりこにするには、思想を単純化し、断定しなければなりません。
内在思想は、いまいちはっきりしないので、いけません。
それでは大衆は何を頼っていいのか分からずエスペラントに魅力を感じないでしょう。
例えば「世界平和」など分かりやすいものがいいでしょう。
但し、もちろんこれは悪い例です。
エスペロさんなどが再三おっしゃっているとおり、平和という言葉は人々に懐疑を引き起こさせます。
私が言いたいのは、単純なイデオロギーしか、大衆を取り込むことはできないと言うことです。

何らかの方法で「我々」(大衆側)と「彼ら」(誰か)を分け隔てなければなりません。
そして、憎むべき敵が必要です。
エスペラントの敵は何でしょうか?
なるべく具体的な何かがいいのですが。。。

269ladio:2009/03/21(土) 17:17:37
そう言えば、今更なんですが。

エスペラントは政治団体ではありません。
また、営利団体でもありません。
エスペラントそれ自体はそもそも組織ですらありません。
ということは、エスペランティストって何やっても自由なんですよね。

ポスターは貼り放題だし、ビラも配り放題。
新聞・テレビ出放題。インターネットでも運動し放題。
何も遠慮することはないんです。
何なら贈収賄も罪にはなりませんね。

これをやらないなんて、実にもったいない話ですよね。

270松戸彩苑:2009/03/21(土) 20:49:16
「大衆の煽動」というのは、おもに選挙のときとか、あるいは商品を買わせるといった場合
に行なわれることが多いものだと思うんですが、考えてみると「投票する」とか「商品を買
う」といった行動は(比較的)かんたんに出来るものなんですよね。

ですから、単純なイメージを植えつけるだけで大きな効果があるわけなんですが、しかし
エスペラント運動の場合は、一人一人が、何千もの単語を憶えて、その用法に慣れなけ
ればならないわけです。

こんなことは誰だって判りますから、エスペラントのような世間においてはまったくと言って
いいほど広まっていない言葉を、時間と労力とおカネをつぎこんで憶えようとは、なかなか
思わないわけです。

また、たとえ学習しはじめたとしても、何ヶ月あるいは数年たってみて自分が予想していた
ほどエスペラントが理解・運用できるようにならなければ、ガッカリして止めてしまうというこ
とにもなってしまうわけです。

そういったことを考えますと、どうもエスペラントを大衆扇動で広めるというのは難しいんじゃ
ないかと思いますね。
---

でもまぁ、いろいろと考えてみてください。
みんなで同じことを考えるよりも、いろんなことを考えたほうが建設的だと思いますから。

271松戸彩苑:2009/04/04(土) 18:01:23
世界エスペラント協会の会員が減ってるみたいですね。
http://www.liberafolio.org/2009/revuofalo/

272松戸彩苑:2009/05/30(土) 09:00:58
ハンガリーのブダペスト大学(厳密にはエトヴェシュ・ロラーンド大学)のエスペラント学科が
廃止されたんですね。

http://www.liberafolio.org/2009/esperanto-malaperas-el-budapesta-universitato/

やはり、今までのようなエスペラント運動ではダメだということでしょう。

273Raku:2009/05/30(土) 11:33:14
そのうちに翻訳通訳機が完成してエスペラントの価値はなくなりますから。
まったく新しいエスペラント普及方法を考えるのは無駄です。
一年間でその方法を開発してただちに実行に移して5年間で1千万人の
エスペランティストを獲得できるなら話しは別ですがね。エスペラントが
滅びるかどうかはどうでもいいことです。確実なのはエスペラントは価値
をなくすことです。それをもたらすのが翻訳通訳機の完成です。わたしが
生きている間にはそんなことは起きないでしょうから、それが望ましいか
どうか、その日が早く来るのがいいかどうかを私は気にしません。その時
まで生きているかもしれないと思う人が判断してください。

274松戸彩苑:2009/05/30(土) 14:37:51
>>273
Raku さんも desuprismo 信奉者だったんですかね?

翻訳機械ですが、ほんとうに高性能なものができれば言語問題も解決するでしょうが、しか
し現在の技術の延長線上では、通訳者・翻訳者が不要になるほどのものができるとは思え
ないんですよね。

もちろん徐々にではありますが、だんだん高性能にはなるでしょうし、大ざっぱに把握でき
れば良いという場合には、どんどん使われるようにはなると思いますが。

エスペラントが入り込むことのできる分野はきわめて少ないですし、また、そういうニッチも
徐々に小さくなっていくわけではありますが、そういうところに食い込んで、なんとか命脈を
つないでいこうと私は考えているわけです。

もっとも「あくまでも desuprismo にこだわる」、つまり「政府か国際機関が認めてくれて、そ
れで一気に普及するというふうにならなきゃヤダ」というのであれば、諦めたほうが良いで
しょう。

275ベダウリンデ:2009/06/02(火) 10:04:08
>確実なのはエスペラントは価値
>をなくすことです。それをもたらすのが翻訳通訳機の完成です。
翻訳機が発展途上である今でさえ、翻訳・仲介言語としては英語が最も有力で十分機能しています。
今でさえ、公の場では、エスペラントに出番はありません。
もし翻訳機が完成したら、「価値」を失うのでは英語であり、エスペラントではないでしょう。
だって最初から翻訳言語としては存在価値が無いのですから。

翻訳機があっても、自分の力で喋りたい人は必ずいるでしょう。
言語マニアや高尚な趣味としての世界に限られるとおもうけど、
エスペラントはそういう所で細々と生きていけるのではないですか?
「変人」はきっと、いつの時代でも一定数いますよ、

276ベダウリンデ:2009/06/03(水) 09:50:20
非エスペランチストがエスペランチストの言動で最も不審を抱く事は、
エスペラントこそが言語の不平等を解決する中立公平な言語である、と宣伝している事です。
多くの人は「エスペラントなんて西洋語すぎて全然平等じゃないよ」とすぐに見破ります。
「平等じゃない」という批判に対して、エスペランチスト達はいつもお決まりで反論します。
「国家や権力を有する民族語じゃないから平等なんだ」とか(言語としての偏りについては無視)
「英語よりマシだ」「今までの人工語では一番成功してる」とか(単なる比較で本当に平等かについては無視)
「これからアジア人が変えていけばよい、言語は生きているのだから」とか(今までずっと西洋基準で発展してきたのに?)
「膠着語だから西洋語ではないです」とか(接尾語接頭語合成語なんて西洋語でもあるよ)
「ザメンホフの時代は西洋語の知識しか無かったから仕方なかった、でも気持ちは平等を目指してた」とか(だから何なの!)
等々、屁理屈ばかりなので、却って反感を買います。

まずそういう屁理屈を一掃し、エスペラントは中立な仲介言語なんかではありませんよ、
エスペラントを使っても全民族間に公平な交流はできませんよ、と素直に認めるといいと思う。
不相応な大義名分を掲げて不信感や嫌悪感を買うよりも、
こんなもん何の役にも立たないけど、お友達できてそれなりに楽しいよ、という程度にしておけばいいです。
「中立平等」の名目が無くなるとエスペラントやめちゃう人も出てくると思うけど、
そんなのは、エスペラントにはその程度の価値しか無かったという証明ですよね。

277エスペロ:2009/06/03(水) 10:08:27
>>276
Vi tute pravas...E NENIOM restas neŭtrala lingvo,ĝi estas malfacile
regebla lingvo por orient-azianoj. Ni agnosku ke E celu esti komuna
lingvo NUR inter eŭropanaoj...
そのとおり・・・エスは決して中立的な言語ではありません。東アジア人にとっては
習得が困難な言語です。エスは、ただヨーロッパ人同士の共通語を目指すべきだと
いうことです・・・

278Raku:2009/06/03(水) 20:56:37
>>276
スレを立てましたからどうぞ。
「ベダウリンデ氏エスペラントを切りまくる」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1244030093/

279らでぃお:2009/09/17(木) 03:16:56
皆さんお久しぶりです。
ちょっと思いついたことを書かせてください。
エスペラント運動について。

もっと、エスペラント運動は政治活動や宗教の布教活動のようにしたらどうでしょうか。
例えば、政治家はどぶ板選挙をしています。
宗教の布教者も草の根的に勧誘しています。
私は以前ティッシュ配りでとにかく知名度を上げようと提案したことがあります。
しかし、それは一方通行な運動です。
もっと双方向な運動が必要なのではないでしょうか?

例えば、自殺志願者をエスペラントに誘いつつ引き留める。
夜の繁華街を孤独に歩く若者に声をかけて相談に乗る。もちろんエスペラントを勧めつつ。
政治家のように街頭演説をする。
言葉の問題で困っている在日外国人にエスペラントを勧める。
引きこもり、ニートの相談に乗りつつエスペラントを勧める。
ほとんど選挙の立候補者のように、各家庭、商店街を周り、支持を広げる。

特に、発展途上国からアメリカンドリーム的なものを
日本に求めてやってきた出稼ぎの人は悲惨なようです。
彼らに、エスペラントを教え、多国籍だが、共通語を持つコミュニティを
外国人の多い地域に作れば、かなり、注目されるはずです。

お前がやれ?めんどくさいし、人望がない

280ベダウリンデ:2009/09/17(木) 12:13:09
らでぃおさんのおっしゃるとおり、エスペラントを普及するためには、
「疑問を抱かせない洗脳」が一番てっとり早いでしょうね。
そのためには、孤立してる人、悩んでる人、自分の居場所が無い人をターゲットにするのは正解。
らでぃおさんの周りにもいるんじゃないですか?
提案したからには、「めんどくさい」とか言ってないで、自分でできる範囲でいいからやれば?と思う。
日本に来た外国人には・・・生活面でサポートしつつ日本語を教える、のがベストかと。。。
エスペラントできても日本語できなきゃ働けない。

281ame:2009/09/23(水) 17:52:46
孤立してる人とか悩んでる人に、エスペラントなんか勧めても、何の意味もない
親に虐待され帰る家がない、そんで繁華街をふらついている子供に、なんかようわからん言語を勧めたところで「はあ?」だし
借金苦に喘ぎ自殺しようとしてる人間に「エスペラントを学びませんか」とか、それこそ正気の沙汰じゃない
引きこもりにエスペラントを教えても、社会に出れる訳じゃなし

本当に苦しんでる人ってのは、とにかく自分が救われることが第一なんですよ
弱っている状態の人間だからといって、軽く洗脳できるわけじゃない。彼らが宗教に引っかかるのは
宗教が何らかの形で、仮初めにせよ「救う」ことが出来るからであってね

エスペラントは宗教と違って、苦しんでる人を「救う」ことなんて出来もしないし
洗脳なんて出来やしませんよ。窮地に立たされてる人間を洗脳しやすい、「チョロい」人間だと
思っているなら大間違いだし、愚弄してるのもいいとろ

282ame:2009/09/23(水) 18:15:39
エスペラントは宗教じゃないんだから。あくまで「言語」だから。
社会的弱者を狙っても意味がない。むしろ上流階級を狙うべき。
例えば、東京大学の学生なんかどうですか。豊富な人脈を持つ将来の官僚候補に、エスペラントの信奉者を大量に作る。
これを各国のエリートにやっていくわけですよ。もちろん、実用に耐えうる言語だということをアピールしながらね。
社会的弱者であればあるほど、エスペラントなんかやってるヒマありませんからね。

283ベダウリンデ:2009/09/24(木) 15:45:09
エスペラントを勧めるんじゃなくて、正確に言えば、友達・相談相手作り、ですよ。
エスペラントは「口実」で、本当は、孤立して、悩みも人に言えない人に
エスペラントを勧めるという「口実」で近づいて、彼らの友達・相談相手になってあげてって事です。

284なつ:2009/09/26(土) 00:37:52
>>281
以前も今もそういう人たちにカルトはしのびよることをご存知ですかな?
そしてエスもそういう存在だったのですww
武闘派共産主義ではなく、サークル共産主義だったときにね。
今の我々にとって、えらい迷惑ですけど。今もその残党がはびこって牛耳っていますから。

285ベダウリンデ:2009/09/26(土) 11:02:21
そうなんですよ。カルトに巻き込まれたり、孤独が原因で犯罪の加害者や被害者になったりする人もいる。
そういう人にお友達がいたら・・・と思いました。
エスペラントは現在は、かなり健全な「お遊び」になってるのではないか、と思いました。
昔みたいな反政府運動でやってる人も、中にはいるかもしれないけど、表立った危険な活動はしてないのではないか、と。
エスペランチストにとっては「話者数を増やす」という大義名分があり、
勧誘を受ける側も、カルトほどの危険は無く、その上、自分を大事にしてくれそうな集団と出会える。
両者にとってお互いに都合がよいのではないか、と。
エスペラント界はなにしろ若手不足ですから、特に十代とかでエスペラント団体に入れば、
その子にどんな過去があったとしても、おじいさんおばあさん達が、孫のように大事にしてくれるのではないかなーと期待しました。
ただし、地方の会の先生たちが未だに思想に取りつかれ、その基準にそぐわない者は排除したり矯正したいという気概ばかり先立つようならば、
この提案は全くの無意味、むしろ有害となりますが。

286ベダウリンデ:2009/09/26(土) 11:16:53
>282
東大エリートにエスペラント勧めるのも、できればやってもらいたいです。
その頭脳優秀初心者集団の中に、批判精神が旺盛で、エスペラントの問題点に気づき、
なお且つ、真の国際共通語を作りたい、という崇高な理想も併せ持つ人がいたらなーと思います。
どちらかが欠如してたら「どこにでもいる、ただの優秀なエスペランチスト」になるだけなんだけど、
両方兼ね備えていたら、私の理想とする新エスペラントを作ってくれるんじゃないかなーと。
勝ち組エリートに、そんな暇ないか?

287ame:2009/09/26(土) 14:30:10
>>284
>以前も今もそういう人たちにカルトはしのびよることをご存知ですかな?

もちろん知っていますとも。創価学会なんてまさにそうでしょう。
戦後の経済成長に取り残され、疎外感を味わっていた人に現世利益を説くことで信者を拡大していったわけで。

>東大エリートにエスペラント勧めるのも、できればやってもらいたいです。

彼らは、とりあえず受験英語はかなりできるわけですし、エスペラントは英語よりもかなり易しいわけですから
おそらくかなり容易く習得することでしょう。
だけれども彼らは、もっとメジャーな外国語を習得したいと考えるんですよ。当然といやあ当然ですが
例えばフランス語とか、ドイツ語とか、中国語とかね。それらは実社会に出ても役に立つわけですし
本来実質的な国際語である英語がそこそこできる人間(いくら受験英語とはいえ)が、「国際語エスペラント」を普及させたい、とはそうそう思わない。

したがって、彼らを引き込むにはかなりしっかりした思想的バックボーンが必要です。
相当の理論武装をもって説得する必要がある。あまり自信はないですねー...。

蛇足ですが、以前東大の英語の入試問題に、エスペラントをテーマにした長文問題がありました。
うろ覚えですが、"Esperanto is reckoned to be 5 times as easy to learn as French"みたいな。
フランス語と比較すると5倍易しいということですが、英語と比較するとどれくらい易しいんでしょうね。

288ベダウリンデ:2009/11/02(月) 17:23:58
だにょさん的な発想になるけど、
今、ゆるキャラブームなので、エスペラント界にも、ゆるキャラ作ってもいいんじゃない?
エスペラントを宣伝する時も、気ぐるみ着てやればいいし、
カードにキャラとエスペラント語を印刷して配ったりすれば、安上がりな宣伝。
キャラは日本は日本で作っちゃっていいと思う。
他所の国のエスペラント界でも、賛同してもらえれば作ってもらって。
オリンピックにマスコットキャラがあるのだから、外国にだって「キャラ」という発想はあると思う。
世界のエスペラントキャラが集まって「サミット」とかして、
色んな国の個性的な「仲間」が増えていけば、そういうのをコレクションする楽しみも。

289ベダウリンデ:2009/11/04(水) 10:18:37
だにょさん流にアイデアの垂れ流しで。
カードの表にキャラクターの絵とエスペラント語のセリフを書いて、(どっかの外国のカードみたいにおしゃれに)
裏に読み仮名、日本語訳、単語の説明などを書く。
その他の説明は「これはエスペラント語です」だけで可。
エスペラントはポーランドの眼科医ホニャララが〜、等の説明は一切不要。
セリフは「サルートン」などの挨拶から、I love you、元気出して、等の簡単なメッセージ、
その他、麻薬noとか、自然はいいなあ、とか、色々と作って、それに合わせて絵を描く。
例会で使う公共施設の公民館祭りとか、そういう機会があったら、お茶サービスとかの雑用係でもいいからなるべく協力して、
その折にカードを配る。絵だけなら気楽にもらっていくと思う。
エスペラントやってる人は小難しい爺さんが多そうなので
「わしにお茶を出せじゃと!?」とか言いそうだけど。

290なつ:2009/11/08(日) 00:46:13
>>その他の説明は「これはエスペラント語です」だけで可。
>>エスペラントはポーランドの眼科医ホニャララが〜、等の説明は一切不要。
これ、とてもいいですねえ。
そもそもエスペラントはポーランドの眼科医の〜〜〜
そもそも論なんて要らないの。
ってのが分からない小難しい爺さん。

291だにょ:2009/11/19(木) 22:33:03
>>289
トレカ風のカードを、できれば1900年代の最初から大会などで配る風習があったら良かったです。
今頃、1枚何万円にもなって、オークション取引の対象になっていたかも。

単発で一時的にカードを配ってもコレクションの価値が生じにくいので、
永続的にカードが発行される環境を整えなければなりません。
「カードの規格」と「エスペラント界での意味づけ」をしておく必要があります。
そのための予備実験を下に書いておきます。

「ゆるキャラ」やマンガのキャラクターなどと結びつけば強力であることは言うまでもありません。

292だにょ:2009/11/19(木) 22:33:56
▼国際文通をしている人へ(大会に参加している人も!)

文通相手があなたの行為を模倣するかどうかが>>289案の成功の鍵です。
理屈をおっしゃらないで、次の実験をしてみてください。実に簡単なことですから。

1.9×5センチの大きさのカードを用意する(名刺と同じサイズ)
2.カードの表面に、あなたの好きな言葉や絵や写真を載せる。俳句でもよい!
3.裏面に次のエスぺラントの文章(できれば日本語も)を小さな文字で印刷する。訳は怪しいので直して!

 ★Kio estas Esperanto-karto?
 Esperanto-karto estas paperfolio, kiu havas largxojn je 9 * 5 centimetroj.
 Vi libere povas skribi sur la karto vortumon kaj/axu ilustrajxon placxan al vi.
 Bonvolu doni al iu la karto, kiam vi prezentas al tiu vin mem aux Esperanton.

 ★エスペラントカードとは?
 エスペラントカードは、9×5センチメートルの大きさの紙片です。
 お気に入りの言葉やイラストを自由にかくことができます。
 自己紹介やエスペラントの紹介のとき、どうかそのカードを差し上げてください。

4.文通相手にそのカードを同封して送付する(大会で会った人に手渡しても良い)。

5.文通相手から同様のカードが返信されてくるかを検証する。
  5人の相手に出して、3人から同様のカードが返信されてくれば、流行する脈あり!

6.相手から返信されたカードの裏面に文言がなかったり、大きさが著しく違っていたら
 「始めてカードを渡す相手のために裏面に文言を入れましょう」
 「エスペラントカードの大きさは9×5センチです」などと伝えるフォローをする。

▼エスペラントカードの条件は2つ。

◎おおむね9×5センチの大きさであること
◎裏面に解説文言、あるいはカードのどこかに「Esperanto-karto」という名称が入っていること

この大きさにしたのは、手で工作するとき、ものさしで測りやすいから。
事務機器を使えるような豊かな国だけとは限らないし、サイズの単純化は大事。
ちなみに日本の名刺は91×55ミリ、欧米の名刺は3.5×2.0インチですから、両者とほぼ同じ大きさです。
この大きさに準拠させて、裏面にカード交換の意味を書いてください。
クリスマスカードや誕生カードなどで「既にやっていたこともある」とおっしゃらないでください。
ルール(規格)、意味づけ、そして長く続けることが大事なのです。
三省堂という本屋のしおりのコレクターが結構います。
規格と意味付けを決めて、長く続けただけで価値が自然に生まれた事例です。こういう話はいくらもあります。

内輪向けの予備実験で成功したなら、今度は非エスペランティストに拡張させたいです。
まずはエスペラント大会の入口で、参加者に表が白紙のカードを配って、メッセージ交換をしましょう。
慣れてきたら>>289案のとおり、一般人にカードを配り始めましょう。

293ベダウリンデ:2009/11/21(土) 11:44:52
>>292
これも素晴らしい分析・企画力ですね。
ただ一つ思ったのは、カードサイズが細長すぎる、という事です。
名刺は字だけだから細長くてもいいけど、この場合、絵を入れたいので、細長いと書きづらい。
黄金比(1:1.6)、白銀比(1:1.4)などと比べても、細長感が強い(1:1.8)と思う。
カードサイズは厳格に指定せず、おおむね名刺サイズ〜ポストカードサイズで自由にすると良いと思う。
ポストカードというのも国によって色々みたいなんですが、色々あってもいいと思います。
既定のはっきりしたトレカイメージよりは、サイズにも個性が出る切手収集のイメージになります。
私の案では、短い辺は5〜11センチ。長い辺は8〜15センチ。
この範囲に収まっていれば、縦横比率は問わない、とする。
最大サイズで、11×15センチとなるのですが、大きいと思われるかもしれませんが、
A4判を1/4に切ると、このサイズに収まるからです。
A版は一応国際基準みたいだし、家庭のプリンタで印刷して、そのまま切れば楽に大量生産できます。
日本人は年賀状など作り慣れてるので、日本のはがきサイズでエスペラントカードを作っても楽です。
他の国でも、各国の名刺サイズやポストカードサイズで作ってもらえれば楽だと思います。
もちろん、5×9も、欧米名刺サイズも、基準クリアです。
アメリカのコピー用紙はA版と異なるらしいのですが、それを1/4しても既定サイズに収まります。
実は私も早速カードを作ろうと思ったのですが、5×9センチの枠を設定するだけで四苦八苦し、
やーめた、と思いましたよ。

294だにょ:2009/11/24(火) 22:03:15
ありがとう!>ベダウリンデさん


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