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大衆迎合なエスペラント運動を考える

253KamelioJapana:2009/03/09(月) 20:58:01
>>252
ladioさん。
貴重な意見を詳しく拝聴いたしました。久しぶりに私のいつもの論争相手とは違った見解で
新鮮でした。
私なりに少しコメントをさせていただきます。

> 大衆とは、心理的に定義される。
「大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値を見いだすことなく、自分を
『すべての人』と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じで
あることに喜びを感じる全ての人々(である)」。
(オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』)

筆者の使用した日本語で「大衆」と訳された原語を知らないのではっきりとは云えませんが、
あくまで、筆者自身が思うところ大衆観に過ぎない気がします。
私は、日本語でいう「大衆」とは社会の「エリート」では無い人々、すなわち、個々人の力
だけでは直接政治や社会に影響を与えることが大変難しい立場にいて、多かれ少なかれ、与え
られた社会環境の中で生きることを余儀なくされている人々、と考えます。

すなわち、単に心的態度の問題では済まされないと思います。確かに上に定義された人たち
も居るとは思いますが(エリートの中でさえ居る)、それで総てを括るのはちょっと単純な
定義だと思います。
それに人々の心的態度とは与えられた時代や社会的条件の下でかなり変わっていくもので、
ある特定集団の心理と他のものとは民族、国家、国家体制等の条件により違うものです。
彼の定義した心理的定義は、大衆の心理の多くの部分を代表するかも知れませんが、総て
ではないと思います。従って大衆とは、貴方の書いている様な「心理的に定義される」もの
だけでは決まらないというのが私の考えです。

> 大衆は産業革命以降、社会の多数を占めるようになった。今まで、人々はムラなどの共同体
に確固たる拘束を受けていた。ところが、産業革命後、都市部に工場労働者として集まった
彼らは、その拘束から解き放たれ、自由を手にすることになる。
彼らは頼るべき規範を失い、「根無し草」となった。彼らは孤独であり、常に不安を抱えて
いる。

この上記の自由の定義こそ問題なのです。ある意味では共同体の「加護」を失い、根無し草に
なる不安を抱える「自由」も得たのですね。それに多くは農村から追われる状況下に置かれた、
と云った方が好いわけで、戦前の日本の貧しい農村や今の中国もそれと似たような状況が続い
ています。言い直せば、「根無し草になる不安を前提に自由を得た」わけです。
と言うのは、彼らには、もはや労働力の売り手としての地位が保証される前提でしか生きる
道がない。不況その他で買い手の方が有利に働く状況になれば直ぐに路頭に放り出されると
いう不安が常に付いて回る。現代でも多くの国の人々が似たような状況に置かれていますね。


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