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ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易

1名無しのひつじさん:2007/02/01(木) 10:35:51 ID:lRpwgqoI
☆★☆★学校・教会は日本人に 教えるべき☆★☆★
       ここ→ >>1-22 

鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249〜257)は、次のように述べている。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、
獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、
奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、
同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、
何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
インドやアフリカまで売っている』と。

37名無しのひつじさん:2007/03/26(月) 12:21:02 ID:SqTZSP6I
〜〜奴隷売買そのものが消されている〜〜

中世カトリック大名による奴隷売買50万人という数字は初耳です。
しかし無視されているのは、このような奴隷売買だけではなく、
戦国の世の合戦は敵地の村や町を襲って放火・掠奪を行うのが常態で、
とくに人々を捕らえて奴隷として売るのが常であったということ。
この奴隷として売られた人々は国内だけではなく、東南アジアや遠くヨーロッパにも及んでいた
(倭寇、日本人主体の初期倭寇も中国人主体の後期倭寇も、朝鮮や中国を襲って人々を拉致し、
日本・東南アジアに奴隷として売り飛ばしていた)。
戦国における奴隷狩りについては藤木久志著「雑兵たちの戦場」(朝日新聞社刊)に詳しい。
15・16世紀の国際貿易の主な商品は奴隷であり、奴隷狩りは全世界的に行われていた。
日本の戦国時代の奴隷狩りもキリシタンによる奴隷売買も、すべてその一環と考えられます。
これらすべての奴隷売買が教科書からは消されている。
(ポルトガルによるアフリカでの奴隷狩り奴隷売買は掲載されていたが)
その流れに属するのでは。

38名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:11:03 ID:sYito2/w
話がいきなり近世に飛んで恐縮であるが、戦国時代以降の日本の歴史を考えてみたい。
古代や中世についても語りたいことは多々あるが、本論から外れるので別の機会に譲る。
戦国時代の画期を示すものとして、1543年の種子島へのポルトガル商人漂着による鉄砲伝来、
1600年に豊後に漂着したオランダ商船リーフデ号(西暦1600年4月19日、
佐志生の入江に今にも壊れそうな、とてつもなく大きな帆船が漂着した。
遠いオランダの地から、東洋の国ジパング(日本)へ向けて旅立った、
5隻の船団(ホープ号500トン乗員130人、リーフデ号300トン110人、ヘローラ号300トン109人、
トラウ号220トン86人、スハッブ号150トン56人)の中でただ1隻だけ、
1年10ヶ月におよぶ苦難の航海の末日本に到着した船、それがオランダからの初めての船、
リーフデ号であった。この船には、江戸時代、日本とイギリス、オランダ両国の友好を、
とりもつことになったウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが乗っていた。

1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した年である。

オランダという国が正式に公認されたのは1648年だったので、リーフデ号がオランダを出発した
1598年という年は、オランダがスペインから独立を宣言した1581年からわずか17年しか経っておらず、
まだ独立戦争の最中のことであった。)が上げられる。
日本には1543年に欧州勢力としてポルトガル商人が種子島に漂着して火縄銃を伝達しているから
カソリック国とは面識があったわけであるが、
オランダ船により、プロテスタント国との接点ができたわけである。
時の権力者、豊臣政権の大老筆頭徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示した。
船に載まれていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収され、
ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられた。
そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けることになる。
運良く彼らの返答は家康の気を良くし、臼杵で被った損害も補償された。
日本に残った乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日本人女性と結婚している。
この漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関する情報など、
非常に役立つものを握っていた。

39名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:17:04 ID:sYito2/w
(リーフデ号の乗組員のあるものは家康の上杉景勝討伐に砲手として参加したと伝えられている。)
中でもウィリアム アダムスは三浦按針の日本名を与えられ、
また江戸橋に邸宅、相模国三浦郡逸見村に220石あるいは250石の領地を与えられ、
家康の外交顧問として活躍した。彼の業績としては、
日蘭貿易のための画策及びイギリス東インド会社へ日英貿易の利を説き、
平戸のイギリス商館開設の窓口となったことや航海士としての技術を生かした、
洋式帆船建造などがあげられる。
ヤン・ヨーステンは家康に仕え外交の諮問に応じる立場として活躍、
オランダの日本貿易独占に尽力。東京中央区「八重洲」の地名は、
「ヤン・ヨーステン」が転訛したもの。

この中で私が注目するのはオランダ商船からもたらされた武器、長射程艦載砲である。
当時の日本にはなかったであろう、この武器が、家康に天下取りの意欲をいだかせ、
関が原合戦へと繋がったとは言えないだろうか。わずか、関が原の半年前のことである。
この因果関係を証明する術はない。しかし、状況証拠を考えると、
この時期のオランダとの接触が家康に天下を取らせ、
褒美がポルトガル、スペインを排除してオランダへの独占的交易権の付与であったのではないか。
証明はできないが、辻褄はあっていると考えるがいかがであろうか。
もしこのことが証明されたらどうなるか。日本史は、このとき以降独立した歴史ではなく、
欧州勢力によって支配者が決められるということである。
間接的な意味での植民地である。
鎖国(この用語も適切ではない。選択的開国というのが正しい)の真の意味とは、
オランダと徳川家で談合して徳川家による日本支配とオランダの交易を相互承認し、
他の勢力(伊達、島津、毛利、前田等の外様大名)がカソリックのスペイン、ポルトガルと、
結びつかないようにするための規制、枠組みであったのではないか。
島原の乱(1637年のキリシタン一揆。天草四郎時貞(当時16才)を総大将にし、
原城(南有馬町)に総勢3万7千人で90日間たてこもった。

40名無しのひつじさん:2007/04/02(月) 10:18:33 ID:sYito2/w
1637年12月 総大将天草(益田)四郎時貞の下、
キリシタン信仰を団結のよりどころに島原天草の農民三万七千人の一揆軍が原城にたてこもり、
幕府軍十二万五千人と戦いを繰り広げた。
翌年の二月二十八日、一揆軍は総攻撃を受け、老若男女問わず皆殺しとなった。
日本史上もっとも悲惨な事件とされる。)で、
幕府がカソリックに恐怖をいだいたことが、最大の契機となった。

このように考えると、カソリック勢力と接触し、
支倉常長(慶長18年9月15日(1613年10月28日)仙台藩主,伊達政宗
の命を受け,メキシコ,スペイン,イタリア,そしてバチカンと旅した)を派遣した、
伊達正宗は徳川+オランダ連合にカソリックと組むことにより対抗しようとしたのではないか。

41名無しのひつじさん:2007/04/04(水) 14:52:17 ID:sYito2/w
『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)の中の、
 対話部分のテキストで、「日本人の奴隷(奴隷貿易)」について言及しているものをアップしておきます。p232-235

レオ  ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。
    わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。

ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。
    つまりすべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、
    あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。
    というのも、ヨーロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、
    それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても、
    賤役を強いられない規定になっているからだ。だがマホメット教徒、
    すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。
    これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。

レオ  そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、
    賤役に従えという法律に拘束される者は一人もないわけだな。

ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。
    それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固く守られている。
    それどころか、日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、
    日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。
    そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
    道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、
    こんな安い値で手放すわが民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。

マンショ ミゲルよ、わが民族についてその慨きをなさるのはしごく当然だ。
     かの人たちはほかのことでは文明と人道とをなかなか重んずるのだが、どうもこのことにかけては人道なり、
     高尚な教養なりを一向に顧みないようだ。
     そしてほとんど世界中におのれの慾心の深さを宣伝しているようなものだ。

42ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買:2007/04/04(水) 14:55:37 ID:sYito2/w
>>41よりつづく
マルチノ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、
     あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫って行かれて売り捌かれ、
     みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。
     単にポルトガル人へ売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。
     というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、
     彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。
     しかし日本人が贋の宗教を奉じる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、
     そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、
     虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。

レオ   いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというような習慣を、
     われわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、
     しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、
     これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、
     他方、パドレたちはこうした質入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。

ミゲル  いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。
     何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、
     その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当らない。
     とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで、当り前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、
     わずかばかりの代価と引き換えに、母の懐から引き離されて行くのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い。
     また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して、
     本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、
     この方々が百方苦心して、ポルトガル追うから勅状をいただかれる運びになったが、
     それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。
     しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。

43ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買:2007/04/04(水) 14:56:44 ID:sYito2/w
>>41-42よりつづく
     日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、
     あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、
     こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、
     ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。
     ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、
     自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、
     自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。
     というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、
     ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、
     そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。
     さればといって、日本人がこういう賤役に陥るきっかけを、
     みずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。
     したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ。

レオ 全日本の覇者なる関白殿Quambacudonoが裁可された法律がほかにもいろいろある中に、
   日本人を売ることを禁じる法律は決してつまらぬものではない。

ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当る下役人がその励行に眼を閉じたり、
    売手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。
    だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、
    また船が入って来る港々の長なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。

レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。

ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。
    しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、
    私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨーロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、
    こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。
    それはそうと、このあたりで以前の話に戻ることにしてはどうだろう。

44善良なヨハネ・パウロ一世は殺される:2007/04/12(木) 17:57:39 ID:lRpwgqoI
このネタを本格的に検証する場合、最終的にはこの時代に手広く植民地貿易をしていた各国、
スペインやポルトガル、オランダ等に残る「人身売買」の証拠や、
状況認識となる記録など古文書等も当たらないといけなくなるでしょう。
そもそも「奴隷」の定義がアフリカ黒人奴隷のそれと女性達のそれとはまた性質も異りそうです。

戦国時代の宣教師の活動については、高瀬弘一郎著「キリシタン時代の研究」(岩波書店)がよいかと思います。
高瀬先生は元慶応義塾大学教授で、日本の歴史学界におけるキリシタン研究の権威。
イエズス会の古文書を渉猟し、スペイン・ポルトガルの植民地政策と宣教師の関係を論じています。
手軽に入手できる通史としては藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」(講談社学術文庫)でしょうか。

戦国時代の奴隷売買については、上述の藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』(朝日選書)という本があります。
古文書を駆使し、慢性的飢餓にあった中世農村の「出稼ぎ」として戦争のディテールを論じたこの本では、
戦国時代の戦争は半分かた大規模な人狩りビジネスであったとされています。

藤木氏が引用している古文書は国内での売買例なのですが、相当数の奴隷が国外に売られたことは確かにしても、
それを上回る国内市場があったと思われます。
(日本国内で奴隷と言うとピンとこないかもしれませんが、
 下人と呼ばれ売買される非自由身分が古文書には多々登場しており、
 私の先祖に売買された下人がいても不思議はないぐらいです)。

45名無しのひつじさん:2007/04/24(火) 16:42:03 ID:lRpwgqoI
【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (単行本) 藤木 久志 (著)
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価格: ¥ 1,365 (税込)

内容(「BOOK」データベースより)
飢餓と戦争があいついだ日本の戦国時代、英雄たちの戦場は、人と物の掠奪で満ちていた。
戦場に繰り広げられる、雑兵たちの奴隷狩り―。まともに耕しても食えない人々にとって、
戦場は数すくない稼ぎ場だった。口減らしの戦争、掠奪に立ち向かう戦場の村の必死の営み。
やがて、天下統一によって戦場が閉ざされると、人々はアジアの戦場へ、城郭都市の普請場へ、
ゴールド・ラッシュの現場へ殺到した。「雑兵たちの戦場」に立つと、意外な戦国社会像が見えてくる。

村に対する人や物の略奪(乱妨)が日常化していた戦国時代の戦場。
そして略奪こそを目当てに戦いに加わった下級兵士たち。
現在では既に通説化しているかもしれない戦国時代の現実であるが、門外漢の目には非常に新鮮であった。
時代劇で描かれる華やかな武将たちと同時に存在した、戦争の現実がここにある。
更に驚かされたのが、東南アジアに売買された日本人奴隷(戦争での略奪被害者)と、
同じく東南アジアで繰り広げられた西欧諸国の植民地戦争に投入されたという日本人傭兵の存在。
きちんとした研究があるからこそ明らかになるこうした現実に、歴史の幅広さと奥深さを痛感させられる。
新版ということで、旧版の訂正や新たなエピソード挿入等があるそう。
価格も手ごろなので戦国史の好きな方には是非薦めたい。

46天草四郎が得た奴隷売買による豊富な資金:2007/04/24(火) 16:47:07 ID:lRpwgqoI
■戦国時代は悲惨な時代・・・
戦国合戦の話を読んでいると、軍勢が何千何万とか書かれていますが、
その数字のすべてが武士というのではなく、武士10〜20%、農民80〜90%の割合だそうです。
村の大きさによって、徴発される人数(1人〜8人くらい)が割り当てられました。
そのような強制的動員の他に、自主的に参加する者が多くいたそうです。
合戦に出れば兵糧が支給され、戦地での掠奪など、彼らにとって戦場は稼ぎ場でもあったのです。
合戦の背景には、掠奪暴行、乱取り(人や物を奪うこと)があって、
その掠奪や人狩りが目的で参加し、合戦後には人身売買の市が立てられることもあったようです。
戦国大名たちもそのような濫妨狼藉を黙認したり、敵城を攻め落とした後の褒美として、
兵たちに自由に乱取りをさせました。
そして、そのような狼藉は常識であり、決して悪事とは見なされていなかったといわれます。

戦国時代の約100年間は、各地あるいは全国規模で凶作、
水害、干魃、疫病、飢饉が毎年のように多発した時代だったそうです。
戦乱の世が長期にわたって続いた原因として、家臣団に与える領地を獲得するためとか、
下克上の目を他国侵略へそらすため、といわれますが、
その他に大きな目的として食糧を奪い取るための戦争も多かったと思われます。
戦場付近の村を襲って農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらって来て売り払ったり奴隷にしたり。
現実の戦国時代は飢餓から生き残るために、人々が必死になった悲惨で厳しい時代だったのですね。

豊臣秀吉は準管区長コエリヨに対して次のように命じています。
『ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。
従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ。』

2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れています。
豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べています。
『バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。
秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。』

47天草四郎が得た奴隷売買による豊富な資金:2007/04/24(火) 16:52:13 ID:lRpwgqoI
豊臣秀吉は、この奴隷狩りを止めさせるために、イエズス会の司祭、コエリュに詰問しています。
「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。
いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、
ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも開放しろ。
そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」

これにコエリュが答えて
「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。問題なのは、
外国船を迎える港の領主(キリシタン大名や天草四郎)であり、
厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。」
このやり取りで、秀吉は激怒し、奴隷売買禁止令を発します。

天草四郎があれだけ最新鋭の鉄砲で武装できたのも、奴隷狩りの豊富な資金があったからです。
彼らは現在の絵や小説やドラマに描かれているようなムシロ旗に竹槍の武装などしてないんですね。
鎧を着て、銃で武装した組織的武士団です。
戦前までは、この事実はよく知られていたそうです。
そのため、古い物語などに出てくる天草四郎は、
魔回転生に出てくるような化け物として描かれています。
しかし戦後はあべこべに日本人がキリスト教徒を迫害したのだと教科書で教育しています。

■濫妨狼藉の世界
 戦国時代の戦いの目的は何だったのだろうか。そんな当然のことを今更問う意味があるのか、
 領土争いに決まっているではないか、との反論がありそうだが、それは「英雄的視点」からの戦争論である。
 確かに、例えば豊臣秀吉が、国郡境目の争いを止めよ・九州の国分け紛争は自分が裁く、などと言っていたように、
 戦国時代の戦いが領土紛争であったことは間違いがない。
 だが、雑兵たちの視点に立つと、別の重要な側面が存在した。
 つまり、「食う(生きる)ための戦争」・「略奪目当ての戦争」ということである。
 ルイス=フロイスの『日本史』には、われらにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪うために、
 戦いがおこなわれる。日本での戦さは、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである、との記述がある。

48名無しのひつじさん:2007/04/24(火) 16:59:16 ID:lRpwgqoI
フロイスはポルトガル出身の宣教師だけに、日本に対する誤解や偏見があったことは否めない。
だが、フロイス『日本史』も含めて宣教師の書き残した各種史料は、
信仰の問題を除けば、概ね冷静公平な記述である、
との評価も研究者の間にはある。では、フロイスのこの記述を裏付けるような史料は存在するのだろうか。
先ず最初に実例として挙げられているのは九州南部の戦国大名島津氏である。島津方の日記・覚書・軍紀には、
戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。中には、
「人を取ること四百人余り」というものもあり、これなどは単なる戦争捕虜ではなさそうである。
島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、
島津氏の事例は決して特殊なものではなく、誇張もあるだろうとはいえ、各地の史料からは、
戦国時代における大量の人取りが決して珍しくはなく、また容認されていたことが分かる。

今回は、戦国時代、戦国大名たちによって人の略奪と売り買いがごく自然に行われていた事実を、
藤木久志氏の著書『戦国の村を行く』から紹介することにします。
この著書は、これまでのように支配者側からみた華々しい戦国時代の側面ではなく、
村人など、支配されていた側の視点から戦国時代を見つめなおしたもので、
生々しい戦国時代の歴史が浮かび上がってきます。

戦国時代、封建領主とその地域に住んでいる人々とは、
年貢負担、戦役負担などを媒介にして持ちつ持たれつの関係にあります。

ですから、領主が敵方の手に落ちれば、そこにいる領民も敵方の手に落ちたということを意味します。
落ちた領民や領民の財産は、敵の兵士たちの略奪の対象になります。
しかしここまでは、戦場という非日常的世界のことだからということで、
しかも一般兵卒の話とすれば、納得しがたいこともないわけです。
しかし話が武田信玄や上杉謙信という教養のある戦国大名となると、
多分ほとんどのひとが驚かれると思います。
藤木氏は、これについて武田信玄と上杉謙信の例をひいて紹介しています。
相模の国での戦で武田軍によって村人が生け捕りにされ、みな甲州へ連れていかれます。
そして親類のある者は、2〜10貫文ほどの身代金で買い戻されたと言います。

49天草四郎が得た奴隷売買による豊富な資金:2007/04/24(火) 17:04:39 ID:lRpwgqoI
また上杉謙信の例では、上杉謙信が小田城(つくば市)を攻め落とした時、
小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、
上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行ったというものです。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭ほどということです。
この人身売買は、戦場に出入りしていた奴隷商人たちに売られていったことは明らかです。

【戦国時代】
九州南部の戦国大名島津氏の日記・覚書・軍紀には、
戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。
中には、「人を取ること四百人余り」というものもある。
島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、
「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、島津氏の事例は決して特殊なものではなく、
戦国時代における大量の「人取り」が決して珍しいものではなかったことが分かる。
生捕りにされ連行された人々は、下人や奉公人として働かされた。
また、親族のいる者は身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。
戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、
仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。
また、ポルトガルなど外国商人により、生捕られた人々が海外へと、
奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。
こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、
多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。

50名無しのひつじさん:2007/04/26(木) 14:41:42 ID:taPIsFPg
北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高村)を越え、春日城(上越市)近くまで侵入し、
村々に火を放ち、どさくさに紛れて女性や児童を乱取りし、生け捕った越後の
人々を甲斐に連れ帰って、自分の召使(奴隷)にした。
「甲陽軍艦」に、この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、略奪に大成果をあげたのも、
みな信玄の威光のお陰だと力説している。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての戦争もあり、
大名さえ強ければ、それは思いのままであった。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は、肥後の国に連れていかれ売られたが、
その年、肥後の住民はひどい飢餓と労苦に悩まされ、
己が身を養うことすらおぼつかない状態にあったから、
彼らをまるで家畜のように高来(たかき、島原半島)に転売。
その高来から上海に人身輸出。時の上海には日本人奴隷の市がたっていた。

天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧したとき、
追われた一揆方の男女が村を捨てて山々に逃げ込むと、
信長は徹底的に山狩りをして、男も女も切り捨てよと命じた。
やがて生け捕られて信長のもとに送られ殺された数は1万2250人余り。
「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」といわれ、「生捕りと誅させられたる分、
合わせて3,4万に及ぶべく候か」といわれた。生捕っても信長に報告せず、
諸大名軍がひそかに国元に連れ去った男女2,3万人に上がった筈であるといわれる。

<無数の山田長政たち>
日本人傭兵たちのマニラでの評判はひどかった。有害なる国民にして、不真面目な罪を犯し、
多大なる害毒を流す。中国人よりもさらに不穏にして好戦的で、しばしば戦いをもってこの国を脅かし、
略奪のためにきた彼らの船で、この国と海岸を荒し廻った。そうした日本人の一人に、
シャム(タイ)で暴れまわった山田長政がいる。彼は「海外に雄飛する日本人」の代表格として、
いまも日本史の教科書に登場する。シャムの内乱に雇われ、日本人傭兵隊をひきいて活躍し、
ついに毒殺された彼は、日本では徳川方の小大名大久保忠佐に仕えた六尺、
つまり主人のカゴをかつぐ下僕であったという。日本人の源流がしのばれる。

51名無しのひつじさん:2007/04/26(木) 14:42:46 ID:taPIsFPg
1608年(慶長12)8月、マニラで日本人1500人もの大暴動が必至、という形勢になったとき、
総督は日本人すべての退去を命じて幕府に「当所に数年逗留のいたずらものども」によって
「所々騒ぎにまかり成る」と強く抗議した。しかし日本側(家康・秀忠)は外国の介入を慎重に避けて、
「近年、その国に到る日本人の悪逆をなす輩は、
呂宋(ルソン)法度の如く、成敗いたさるべし」とつっぱねている。
暴逆の日本人は現地ルソンの法で処罰していい、煮て焼いて食おうと口出ししないというのである。
あわれ1500人の在留日本人はいっきに棄民に。

私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃至8千、
多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。
・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に、
2〜3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。
彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、
月に1エスクード半または2エスクードの給料で、翺翺としてこの征服事業に馳せ参じ、
陛下にご奉公するであろう。[1,p95]

日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本人を傭兵の如くに見ていたのである。

■8.天草をスペイン艦隊の基地に■
全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キリシタン勢力の中では、
布教を成功させるためには軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。
1590年から1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、
1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。
要点のみを記すと、日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。
そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。
この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)
又は四国を包囲することは容易であろう。
そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、
さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・

52名無しのひつじさん:2007/04/26(木) 14:44:02 ID:l6VTH9BU
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、
その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。
このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。
なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、
また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、
通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、カトリックが、
すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。

53名無しのひつじさん:2007/05/15(火) 14:12:23 ID:/GTeHdBk
宗教というのは組織が大きくなればなるほど宗教原理が曲がっていく。
中世において、ローマ帝国の文化をもっとも多く保持していたのはカトリック教会であった。
教会は学校や病院などによってますますおおくの土地を手に入れ、
王国の土地の3分の1がカトリック領主に占められていることさえ珍しくない事態を招き、
ついに王権に脅威を与えるまでになった。
教会は10分の1の税によって富を増やした。
すべての人の所得の10分の1を教会に納めるという税である。
これはどのような税より苛酷な税であった。
1515年ヴァチカンのサンピエトロス大聖堂の建築資金不足を補うために、
ローマ法王庁は売官のためのシステムを開発した。
ローマ法王は免罪符をドイツ国内で売り出させたのだ。
これは賽銭箱の中にお金を入れると、
チャリンという音がするたびに人間の魂は天国に近づくなどと巧言し、金を集めたのである。

法王庁は免罪符を発行しただけでなく、重要な聖職までも売り出した。
金を出す者を僧職に命したのである。
この売官は近代に至るまでヨーロッパでは広く行われていたが、
法王庁は贅沢が原因となり財政が乱れ、金を得るためには手段を選んでいる余裕がなくなっていた。
フィレンツェでは、金融業者と結託して金を儲けたり、
カトリック教会ではもともと利子を取って金を貸すことを禁止している。
それをみても目を見張るような堕落である。

この時代になると聖職者に課した独身の戒律にもかかわらず、
法王が子供をつくることなど珍しくも何ともなくなっていた。
例えば、マキヤベリ(イタリアの政治思想家1469〜1527)が「君主論」のモデルとして、
天才的政治家チェーザレ・ボルジャ(1475〜1507)と彼の妹であり美人として、
いまに名を残すウレチヤ・ボルジャ(1480〜1519)とは、
法王アレクサンデル6世(1431〜1503)の私生児であった。

54名無しのひつじさん:2007/05/16(水) 15:23:26 ID:/GTeHdBk
そもそも聖職者の独身制は、カトリック教会自身が制定した制度である、
12世紀にはすでにカトリック教会は堕落していて、
しばしば皇帝から改革を迫られていた。身内の修道院からも改革の要求が出るありさまであり、
このままだと、僧職の任命権利は、皇帝に取り上げられかねない事態となった。
法王グレゴリウス7世(1620〜85)は強く任命件を主張し、
教会が自律的な任命権を確保する代償として、
教会には厳しい自己規律を持つことになった。それが聖職者の独身制である。
勿論、僧職を売ることなども厳しく禁止したのである。
このような経過を経て1122年には、皇帝と教会の間にウォルムス協会が結ばれ、
僧職の叙任権を教会は手中に収めたのである。

このことによってカトリック教会は皇帝の支配を脱し、
法王の権力は、飛び抜けて大きくなったのである。
叙任権を得た法王はどのような人物であれ聖職者に任命でき、
任命された者は、人が生まれて死ぬまでの節目節目を司る、秘蹟という宗教儀式を行う権利を持つのだ。
これは大きな権力となったのだ。
ここで注意すべきことは聖職者の独身制は、カトリック教会が、
皇帝との対抗上、戦術的に必要であるとして、自主的に制定した制度である。
何かに差し障りがあれば、カトリックが自主的に発止したからとて、
キリスト教の教義上、全く差し障りはない。
キリスト教はもともと修行を必要としていないから修行を専門とする僧侶は必要とはしないはずだ。


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