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信仰は役に立つか

1管理者:2005/02/11(金) 19:30:12

スレッドテーマのご提案が有りましたので、活発なご議論を期待して、新しいスレッドを立てます。スレッドテーマは「信仰は役に立つか」と致しました。ご了承の程、お願いできれば幸いです。提案内容は以下の通りです。

64 名前: 空即是進化 投稿日: 2005/02/10(木) 23:22:46

まだ時期尚早かもしれませんが、どうしても知りたいことがあります。
 この掲示板で旧来の迷妄が晴れたのはよいのですが、次に「信ずべきもの」は皆様にとって
何でしょうか? 
 
 私が20年前の離会時、ほとんど全ての正宗及び学会関係出版物を廃棄し、沈黙することに
決めたのは「次のもの」を見出すことができなかったからです。初期の〈幸福の科学)に2年 
程首を突っ込んだこともありました。自分が如何に無知だったかを知ることはできましたが、
宗教団体の堕落の過程を再び見ることになってしまいました。
 「信ずるものは救われる」というのは本当だと思います。たいがいの宗教はフィクションだ
ということが、この掲示板であらためて知らされましたが、フィクションであっても死ぬまで
だましていただければ、真実と同様の価値があると思います。信じ続けられれば幸せだが、信
じられなくなれば、即地獄。それが分かっているために信じ続ける努力をする。少々の矛盾な
んてなんのその。都合の悪いことはすべて聞こえないふり。それができるから何十年もやって
られる。そういう人たちが組織を維持させてきた。北朝鮮も同じかな。金で繋がっているのは
極少数だと思う。
 犀角独歩さんは、学会首脳は‘それ‘を『偽物』だと知っているはずだとおっしゃるが、今
でも交流のある複数の学会副会長達は、まだまだ純粋に見えます。こいつは知っているな、っ
て奴もいますがね。なお、‘それ‘とは大御本尊でも名誉会長でもよい。
 私は信じ続けることができず、逃げ出しました。私なりに悩んだつもりですが、デルトロさ
んなんかと比べると、ずいぶん楽してきたなと思います。生活も安定してますし。しかし、人生
も残り少ない(壮年として動けるのは)と感じ始めて、再び真理を探究したくなりました。
 
 皆さんにとって、「それでも信じる」「これなら信じる」「信じていい」「これだけは
間違いない」ものは何ですか? 信仰の対象に限らず、座右の銘、何らかの原理、現象など
ワンフレーズでも結構ですので、ご教示ください。お願いします。

123犀角独歩:2005/03/05(土) 07:02:34

> 121

この投稿には概ね賛同します。
カルトと宗教は何が違うのか、という議論は繰り返しされてきたことで、十分な答えはたぶん、いまのところ出ていないでしょう。

この問題を考えるうえで、カルト問題は、単に宗教上の問題としてとらえるのではなく、社会心理学的見地から分析をすることが必要である。また、その際、メンバーの心理とリーダーの心理とは、同一論法で分析すると間違いを来す。操作される側と操作する側では、心理的側面は異なっている。

以上の点は留意しなければならないでしょう。

124空即是進化:2005/03/05(土) 08:05:47

 >122 引きこもる前に一言。

 私はカルトを容認しているわけでもなく、ピカドンを許してるわけでもなく、
科学の進歩のために犠牲は必要だと言いたいわけでもありません。ただ、「事実」
として‘ある’と考えているのです。
 また、部外者が高みの見物をきめて発言しているのでなく、当事者でありながら
一歩引いて見たつもりなのです。
 カルト問題は、ここに参加している人は皆当事者でしょう。最悪の事態は免れて
いても、大きな傷を負って生きている。
 独歩さんの情熱は分かるが、‘らしくない’と感じたのは私だけでしょうか?

125空即是進化:2005/03/05(土) 08:25:56
 
>123 カルトの「メンバーの心理とリーダーの心理」

 メンバーの心理はかなり分析がなされているようですが、リーダーの心理の方は
どうなんでしょう。よい資料があったらご教示ください。(不勉強ですいません)

126彰往考来:2005/03/05(土) 09:05:20

空即是進化さん、

>120「ピカドンは科学の発展に役立った」ということも否定はできないでしょう。
>124ピカドンを許してるわけでもなく、科学の進歩のために犠牲は必要だと言いたいわけでもありません。ただ、「事実」
として‘ある’と考えているのです。

私は一エンジニアです。常に科学技術の発展を促していく立場です。
ピカドンのどこが科学の発展に役立ったのですか?
ピカドンは科学技術の悪用にすぎません。いわば科学者としての良心
を悪魔に売ったような代物なのです。
原子力発電の技術とピカドンの技術は違いますよ。ピカドンなどなく
ても量子化学は存在するのです。原子力発電は安全性などで賛否両論
があるのは事実ですが、少なくとも現在の私たちの生活は原子力発電
によってもたらされた電気なくして成り立たず、恩恵を受けています。
ピカドンのどこが役立っているのですか?
私にはピカドンが科学の発展に役立ったなどという意見は受け入れま
せん。それは一部の悪徳経営者が公害も考えずに有害な廃棄物を処理
もせず、垂れ流すのと変わりません。悪徳経営者はそれで利益を得ま
す。そしてそれが会社の発展に役立ったと言っているのと同じでしょ
う。

ピカドンのどこが科学の発展に役立ったのですか? お答え願います。

彰往考来

127犀角独歩:2005/03/05(土) 10:08:25

空即是進化さん

いま、けっこう、大事な部分を話していると思います。
‘らしくない’のではなく、このような点を鮮明にしてきたのが、わたしという人間です。

まず、核兵器についてですが、以下のような切り抜きをわたしは大事に取ってあります。

「水爆の父」テラー博士
『「威嚇投下で十分だった」
  原爆開発計画参加「日本の犠牲、残念」
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/ikaku.gif
(クリックしても表示されませんでしたら、アドレスバーにコピペしてください)

この発言のなかで

「東京湾上空で夕刻に爆発させればよかった。1000万人の市民とヒロヒト(昭和天皇)が真昼のように明るくなった空を目撃し、戦争終結を決めたかもしれない。そうした機会を与えず、犠牲者を出したことを残念に思う」

と述べたと報道しています。ここでいう「爆発」は威嚇であり、殺傷破壊を目的にしたものではありません。'98の報道です。テラー博士は当時、既に90歳でした。晩年に50年前、丁度わたしの今の年齢の頃にときに参画した殺傷を懺悔する意味もあっての発言であるとわたしは受け止めました。ご参考にしていただければと思います。

> 「カルトにしても人類の進化の面では、何らかの役に立っているかもしれない
> 事実として…

この点ですが、仰ろうとされる意味は、もちろん、わたしはわかっているつもりです。
ただ、わたしが申し上げているのは、事実であれば、記述していいというハードルの外し方は誤解を招くということです。

それ以前に、空即是進化さんの破壊的カルト・マインド・コントロール論の理解が、たとえば、西田師が述べんとした肝心の「ツボ」を外しているようにお見受けするわけです。その前提とすべき理論の理解に、やや難があったうえで、即断されたことであるのではないのかと観察しています。

つまり、

> 破壊的カルトによるマインド・コントロールを強調されているものの、これって一般の宗教団体でも、政治集団でも、企業でも、果ては親子関係にあっても日常的に使われている

という点です。これはしかし、西田師の述べる意を必ずしも正確に認識された結果とはわたしには思えません。師はわたしの恩人ですし、知り合って既に10年近い歳月が流れています。ですから、著述ばかりではなく、時には酒を飲み交わしながら、話を聞く機会もたびたびあります。そこからわたしが斟酌する師の理論は、空即是進化さんの感想とはかけ離れています。

ただし、空即是進化さんが感じた‘共通性’は、社会心理学では「社会的影響力」と言われる部分であろうかと思えます。また、このような「誤解」は、よく見聞することで、特に社会心理学、また、ハッサン師その他の著述を熟読せず、マスコミその他一人歩きした「マインド・コントロール」語で理解したと思い込んだ場合に散見できます。(空即是進化山河相であると断定しているわけではありません)

この点については、以下のサイトが参考になろうかと思います。

『マインド・コントロール』を取り巻く2つの誤解
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1847/gokai.html

以上のことから、わたしは、今回の空即是進化さんが「事実」であると呈示されたことが、前提の部分で正確さを欠いた即断である点を指摘したわけです。

また、何より、実際に死傷者が出た事柄で「犠牲は付き物」的な発言は、配慮を欠いたものである点を棚上げにして、わたしは議論に継続することは、道義に反すると申し上げた次第です。

ただし、以上の指摘は、けっして空即是進化さんの人格を攻撃したり、言葉狩りをしたりすることを目的にするのではなく、誤解、もしくは実際の被害者の気持ちを配慮したうえで語るという一定のルールを「お窺い」したものであったことをご理解いただき、さらに議論を継続したいと願うものです。

なお、これから外出しなければならず、125のご質問の点は、追ってレスさせていただく所存です。

128犀角独歩:2005/03/05(土) 10:10:55

【127の訂正】

誤)空即是進化山河相であると
正)空即是進化さんが、そうであると

129パンナコッタ:2005/03/05(土) 13:48:39
〉123  犀角独歩さん、ありがとうございます。リーダーの心理は同書では、

『オウム真理教と麻原にまぎれもなく日本特有の側面があることを否定する
事は出来ないものの、「日本にしか見られない」といいきるのは極端だと私は
思う。その理由は以下のとおりだ。
 多くのカルト指導者を研究してきたわたしは、麻原と、アメリカの「家族型
カルト」の指導者チャールズ・マンソン、ブランチ・ダヴィディアンの教祖
デイヴィド・コレシュ、リビアの政治家ムアマル、カダフィ、そしてかつての
ウガンダの酋長イディ・アミンなどには、多くの共通する心理的動向がある事
に気づいた。彼らはみな貧しい生い立ちで、幼少期に苦労している。世に出た
当初は、全員、詐欺師のたぐいで、ことば巧みに人々から金銭をまきあげたり
味方につけたりした。ひとつ成功するたびに自己評価を高め、しまいに自分は
なにをやっても罰せられることはない、人間のつくった法律では自分を裁くこ
とはできないという気になりだした。その誇大妄想的な人格は着々と悪化、ほ
とんど病的な段階に達し、ついに社会に対する脅威になる。こういう人物は、
国家と国民と資産をほしいままにしかねない可能性があり、じっさいに上記
の何人かはそれを実行しているのだ。』
              ロバートKレスラー著 FBI心理分析官2
と、指摘しています。

130パンナコッタ:2005/03/05(土) 13:49:21
〉125 空即是進化さん、更に同書では、こう分類しています。

『オウム真理教を全面的にテロリスト・グループと分類するのは正しくないが、
両者に共通点は多い ― なかでも、教団内で階級を作り上げ、信者がそれぞ
れの役割になりきっている点がそうだ。むかしからいわれているそうした階級
は、つぎの三つのグループに分かれる。指導者、行動主義的扇動家、そして
理想主義者だ。
「指導者」は、ふつうは全身全霊をうちこんでいる人物で、理屈がうまく、強
烈な個性を持つ人物。純粋なテロリスト・グループではないカルトの場合、指
導者の人格はかなり誇大妄想的であるのがふつうだ。どちらにせよ、指導者は
かならず偏狭で、ひたむきで、過剰にうたぐり深い精神傾向を示す。自分の失
敗や力不足を他人のせいにし、反対する者は悪意があると非難する。指導者は
自分を中心に据えて、唯一無二の存在であるかのようにみなした手のこんだ
信仰体系をつくりあげるものだ。
 指導者になる人間は、自分ひとりではほとんどなにも完遂できない。指導者
の「使命」を全うするには、部下の存在が必要不可欠だ。 ― それも、単な
る手下ではなく、おもに以下に述べるふたつの分類にあてはまる部下が。

131パンナコッタ:2005/03/05(土) 13:50:00
続き
行動主義的扇動家は、反社会的な性格をもつ日和見主義者だ。彼らは自分の所
属するカルトなりテロリスト・グループなりを富と権力の道とみなしている。
 〜 こういう人物は精神に異常があるわけでなく、たいていの場合、他人の
欲求に鈍感で、罪悪感や共感おぼえる能力にとぼしい。この種の性格立場の人
間を調査したある研究家は以下のように結論している。彼らは、「暴力にひる
まない。それどころか、その刺激にひきつけられた。おなじ中流階級出身の仲
間とちがって、幼いころから合法的な行動や、勤勉やがまんといったことでは
なく、トラブルや突っ張りや抜け目のなさや刺激を求めて生きる」。

理想主義者はいつまでたってもおとなになりきれない。永遠に「真実」を追い
求めて生きるタイプで、大学中退者も多い。このタイプはグループ内でマイナ
ーな役割を演じ、その才能や特技が ― 一級品ではないことが多い ― し
ばしば必要とされるにもかかわらず、行動主義的扇動家や指導者ほどの権力を
行使することは許されない。彼は命令を唯唯諾諾として実行に移す一兵卒なの
で、そうすることで指導者への忠節を示し、教団の目標を達成できるかぎり、
サリンの袋を地下鉄の車両に置くこともいとわなかっただろう。
 〜盲従者を取り上げた古典的著書 THE TRUE BELIEVER
のなかで、エリック・ホッファーは理想主義的盲従者の性格を、こう特徴づけ
ている。
「彼は罪の意識にさいなまれたヒッチハイカーで、車が通ればそれがキリスト
教から共産主義までだれのものであってもおかまいなしに乗せてくれと親指を
つきだす。スターリンでもキリストでもいいから、命がけで崇拝する対象がな
くてはやっていけない狂信主義者なのだ。彼は命あるかぎり現世に敵対し、見
果てぬ夢のために身命を賭してもかまわないとおもう」この手の理想主義者は、
罪悪感を表現する手段のひとつとして、つらい極貧生活をおこなう。彼らは自
己評価が低いので、精神的支柱としてのグループなしでは敗残者になったよう
な気がする。彼らが集団を離れようとしないのは、自分の人生はそこにとど
まってこそ、意味と目標のあるものだと感じているからだ。
              ロバートKレスラー著 FBI心理分析官2

長くなって、すみません。空即是進化さんのご参考と、までに記してみました。

132空即是進化:2005/03/05(土) 18:25:53
 
 >彰往考来さん、犀角独歩さん、
 
 「ピカドン」については、核開発全体を象徴的な意味で使ったのであって、投下の事実のみを
言ったつもりはないのですが、確かに「ピカドンは科学の発展に役立った」と書くと甚だまずい
ですね。誤解されてもしかたないか。かなりはしょっているため、本意が伝わらないんですね。
というか全く力不足です。それとも人格にも問題があるのかな。

 それにしても、少し違う受け止め方をしてくれる人がいれば、自説の掘り下げや肉付けをやっ
てみたかったのですが、無理があったようです。

 正義の名のもとに(そして神の加護のもと)原爆は投下され、人類史上最大の虐殺が行われた
わけですが、こんなことは無神論者にはできない。信仰してるからできるんじゃないでしょうか。
これもマインド・コントロールとは無関係ですか?

 理解が足りない、生半可と言われれば全く否定はできません。それゆえ勉強したいと思ってい
るのです。もう少し時間をください。

 >バンナコッタさん  

 資料ありがとうございます。

 >問答迷人さん、愚鈍凡夫さん、吉祥仙人さん、大勇者さん、真実探求者さん

 ご意見、ご指導大変ありがとうございました。


 >追伸  お別れのあいさつではありません。

133愚鈍凡夫:2005/03/05(土) 19:37:02

どなたか、小生を呼びましたか。 ��(。・Д・。)アン?

神の名の下に実行される虐殺は、国家にとっては、マインドコントロールと言うよりも、自己弁護のための卑劣な言い訳に過ぎないと思います。
自分たちと反対側の信念体系に属する人々を悪と決めつけて、そして、それを排除することが正義だと意義付け、自国民をマインドコントロールの罠に嵌めていくんでしょうね。我々は神より選ばれし民である、我々の反映こそが神の意志に叶う唯一の道である。とかなんとか、劣等感に凝り固まった民衆に、ささやかな優越感を与えるのでしょうね。
原爆投下は、今更取り返しがつかないですから、反面教師として永久に伝えていかなければならないことだと思います。

134大勇者:2005/03/05(土) 20:26:12
>>132 空即是進化さん。
こちらこそ、空即是進化さん及び皆さんの投稿に得るものは大きいです。

<原爆投下の大虐殺>作戦行為の奥を煎ずればやはり「差別意識」があり、
他の命を軽んずる差別意識の根には愚鈍凡夫さんが仰る様に信仰や宗教が関わってくるのでしょうね。

分離でも統合でもない何かの<世界共通意識>が必要なのだと思うのですが・・・

135犀角独歩:2005/03/05(土) 22:04:54

空即是進化さん、まあ、ゆっくりと話し合いましょうよ。

>自説の掘り下げや肉付けをやってみたかったのですが、無理があった

これから、ゆっくりなさればよいと思います。

> 無神論者にはできない。信仰してるからできるんじゃないでしょうか

わたしはこのご意見には賛成します。
滝本太郎弁護士がいみじくも同様の発言をしています。

「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人は際限がない」

これはたぶん「悪意の殺人には限度が、正義の殺人には際限がない」との意を含むと思います。

> 少し時間をください

時間はたっぷりあります。資料もたっぷりあります。語るに足りるここサンガの住人も充分におります。

それにしても、日本が白人国家であったら、原爆は投下されなかったでしょうね。
宗教だけの問題ではなく、人種差別の要素を孕んでいる点を、わたしは決して見逃しません。

136真実 探求者:2005/03/05(土) 22:19:23
、、さすがは、鋭い卓見、、。 一度、ロス〜シスコ辺りを散策するだけで、、黄色、、キイロンボ、、へのいやみを実感可能です、、。 白人でもメキシコからの不法移入者は排除盛んでしたネ、、。(今も同じ)、、。 いまや米国でのスパイ活動の一番はキイロンボの中国のようです、、。 米国は黄色人種はアフリカ並みと確信しているでしょう、、!! 難儀ですネーーー、、。

137真実 探求者:2005/03/05(土) 22:42:36
御免下さい、、。 「悪魔のマーケッテング(津田、上野訳、日経BP社)」を読んだ、、。 タバコ産業の恐るべき戦略が詳細だった、、。 さすが米国は自由の国、、??です、、。 露製のカラシニコフ、中国製のノリンコという、自動小銃を、ベネズエラの闇商人と組み、お隣のコロンビアの右派〜〜左派陣営に売り込み
(吊り上げ)をしたのは
、マイアミに本拠とする武器商社(朝日新聞より)が判明した、、。 力===正義、、??とカン違いの、、御乱行には、、??? でしょうか、、??

138彰往考来:2005/03/05(土) 23:41:21

空即是進化さん、

>132
>「ピカドン」については、核開発全体を象徴的な意味で使ったのであって、投下の事実のみを
言ったつもりはない

重箱の隅をつっつくようで申し訳けありませんが、核開発全体であれ“核”は許せないのです。
あなたは北朝鮮の核開発を是とされるのでしょうか?

核=原子力ではありません。核は兵器です。それも他に転用できない兵器なのです。
きっと貴殿は核=原子力として使っておられるのでしょうが、誤解される表現です。
なお、核分裂反応であれば兵器だけの言葉ではありません。

彰往考来

139犀角独歩:2005/03/06(日) 00:31:17

138 彰往考来さん:

横レスになる?かもしれませんが。

わたしは、今後の歴史のなかで、実は核兵器より原発のほうが遙かに危険であると考えています。記憶も醒めやらぬ東海原発の杜撰さ、近代で見れば、チェルノブイリの‘事件’。

かつて世界経済は金で動き、化石燃料で動き、さらに今ではウランで動いています。
しかし、その中で最も危険なビジネスは原発ではないでしょうか。

必要性云々ではなく、本当に原発は安全なのでしょうか。
地震・津波が起きて、その施設が壊れたとき、テロが起きたとき、何より、その施設が廃棄された跡地、その廃棄物、これほど、杜撰且つ危険な存在が他にあるのでしょうか。

わたしは、原発に断固、反対です。「では、代替電力はどこから」などという議論ではなく、危険であるから危険であるという意味での反対論です。

この点を、彰往考来さんはどう考えていらっしゃるのでしょうか。平和利用はいいとして、そんなこと以前にその安全性に対する問いです。

140彰往考来:2005/03/06(日) 11:32:45
>139犀角独歩さん

ちょっと熱があり医者にいくとインフルエンザB型の疑いということでトホホ。

個人的には原発は反対です。安全性に疑問があるからです。それと原発からでる
廃棄物は私たちの子孫に禍根を残しかねません。

安全なタ代替エネルギー・・・これが今求められているものです。本来技術者たる
もの、このような困難なテーマにいどむべきなのです。

なお、我が茨城県は東海原発の臨海事故での被害者でもあるのです。

本当に原発が安全でかつ必要なら都庁の脇につくればよいという考え
もあります。それができない以上、安全なものではないのです。

彰往考来

141大勇者:2005/03/06(日) 12:39:41
>139 犀角独歩さん 横レス失礼致します。

私も浜岡原発に近い地域に住んで居りますので、必ず起こるであろう東海地震を考えると本当に他人事ではありません。
浜岡原発に事故が起これば首都圏にも死の灰が降る事になるそうです。

計画中を含めると人類は438基の原発を所有する事になります。
http://www.pref.ibaraki.jp/bukyoku/seikan/gentai/chisiki/02ima/0213b.htm
若し事故の確立が一万年の一であったとしても、23年に一度起こる計算です。
因みに原爆の世界保有数は3万発・・・

142犀角独歩:2005/03/06(日) 12:51:27

140 彰往考来さん:

インフルエンザですか。お大事になさってください。

そうですね。東海原発は茨城県ですね。
わたしは三代続いた江戸っ子ですが、しかし、先祖は水戸藩の武士でした。父はとおの昔に鬼籍には入りましたが、戦前から東京に住んでいたのにも拘わらず、最後まで本籍を移すことはありませんでした。わたしは、生まれながら東京に住み続けていますが、本籍は今でも茨城県のままです。

ですから、原発反対は、もちろん東海原発反対に特に力点があります。

「原発反対」のご意見に接し、安堵しました。
広大な海洋、すなわち、水の惑星、地球、さんさんと降り注ぐ太陽光、既に科学は水素・酸素・太陽光から安全なエネルギーを作る技術に到達しているのではないでしょうか。しかし、それを阻んでいるのは、化石燃料と、ウラン・プルトニウムを牛耳る一部特権階級と、それに連なる国家利権…。

こう申し上げると「いや、そんな簡単に代替エネルギーは完成しない」とエンジニアである彰往考来さんとお応えになるでしょうか。しかし、その研究と、その利用を阻むのは、科学進歩の遅ればかりではないであろうとわたしには思えます。

やや話は滑りますが、わたしは禁煙してから、10年近く経ちました。
最近ではさらに嫌煙運動、禁煙運動は盛んになりました。しかし、それよりもっと、深刻である自動車排気ガス、工場排煙による大気汚染には、まったく無頓着ですね。煙草産業に連なる資産には厳しく、化石燃料に関してはメディアも沈黙。このような不均衡がいったいどこから生じるのでしょうか。

仮に膨大な電力を発電する技術は完成しなくても、1トン足らずの車1台を稼働させるガソリンに代わる無公害燃料すら開発流通しない「インチキ」に、わたしは憤慨を禁じ得ません。

科学応用のさじ加減も、大資本家や、大企業の利益次第。
マイナーチェンジをちょっとずつして、消費を煽る商品流通もそんな延長にあるのでしょう。

お大事になさってください。

143犀角独歩:2005/03/06(日) 13:00:45

141 大勇者さん:

わたしはかつて『静かな被爆』という近未来SFを書いたことがありました、ボツ稿となり未完ですが。

老朽化した原発が次々と事故を起こし、その報道を国家政府が秘匿している間に日本が滅んでいくというあらましで書いたのです。

わたしは、しかし、このようなことは決して絵空事であると思っていません。人類を次に重大な危機を及ぼすものがあれば、それは間違いなく、原発事故であると考えています。北朝鮮や、中国が日本を軍事侵略する確立より、はるかに高いだろうと思えます。そんな危惧感は、示してくださった「1万年からの換算で23年に1度」を拝読し、さらに高まりました。

しかし、これは決して皮肉でも攻撃でもなく、このような憂慮する事態にありながら、政府与党の一員である公明党は、何等対策も講ぜず、自民党の原発マネー路線に足並みを揃えていることに深い憂慮を禁じ得ないのです。

144大勇者:2005/03/06(日) 15:08:54
>>143 犀角独歩さん
>原発マネー路線に足並みを揃えていることに深い憂慮を禁じ得ないのです。
仰る通りと思います。
現段階では政治や政府は、国益(企業)第一優先であるのは致し方ないかとも思います。
そこで、非政府組織であるNGO、NPO、CSOへの期待が高まるわけですが、
これは持論ですが(独歩さんに復怒られるかもしれませんが)これらの団体が決して非営利団体でなければならない理由はないと思っています。
商業ベースに乗って企業と提携しながら成長した勢力になっていく事が揚々実現への早道ではないかと思います。

145パンナコッタ:2005/03/06(日) 23:22:20
〉142 犀角独歩さん、自動車の排気ガスはまったく無頓着だったのでしょうか?

74年のマスキー法以来、常に排出ガス削減は開発エンジニアの命題です。
三元触媒や燃料噴射の電子化等で常に高いハードルをクリアしてきた研究者の
努力がある、という事を考慮の片隅に入れて置いてください。
無公害のガソリンの代替車の開発はしております。ただ、莫大な開発費とガソ
リンスタンドに変わる燃料インフラ整備などが流通の大きな妨げになっている
のが現状であります。燃料電池車がそうですが、エコビークルとしてLPG、
天然ガス、現実的なのはモーターとの組み合わせのハイブリッドなど。

主題からずいぶん外れているな。 無粋なツッコミ、ごめんなさい。

146犀角独歩:2005/03/07(月) 12:04:36

> 145

わたしの投稿の主意は、健康被害云々で喫煙ばかりを取り沙汰するが、排気ガス被害のほうが遙かに深刻であるということです。

147彰往考来:2005/03/09(水) 09:58:46
>146 犀角独歩さん、

7、8日と無理をして九州へ出張で、大したことにならず
無事帰ってきました。20日出席は問題なさそうです。

>健康被害云々で喫煙

本件、日本国政府がタバコ税の増税をする前になると、不思議
とテレビなどで、健康被害だとか他人のタバコが迷惑だとかの
キャンペーンが流されるんですよね。タバコ税の増税に不満な
輩は吸わなければよいといわんがばかりに。

ちなみに私はタバコを吸いませんが、吸ってる方はドンドン国
に税金を納めておられるのでエライなと思っています。私はこん
なこことで税金を払うのはまっぴらですが。

148犀角独歩:2005/03/09(水) 11:09:37

147 彰往考来さん:

> 7、8日と無理をして九州へ出張で、大したことにならず
> 無事帰ってきました。20日出席は問題なさそうです。

よかったです。インフルエンザでも出張ですか。たいへんですね。
ご無事で何よりでした。
20日のご発表、楽しみにしております。

>> 健康被害云々で喫煙
> …タバコ税の増税…前…健康被害キャンペーン

なるほど、この因果関係ですか。
納得できますした。

149パンナコッタ:2005/03/12(土) 20:11:28
信仰ということについて、ちょっと面白い考察があったので、載せてみます。

◇はるか古代には人間社会と神の社会派全く別個に、しかも神の社会の方がは
るか上位に存在し、人はただ神を恐れ、祭祀を執り行い、その怒りが軽いよう
に、われわれを苦しめないように、とオダてスカして、なんとか生き延びさせ
てもらってきたのじゃな。 〜 ところがそのうち、人間の生活技術が発達し、
ある程度の自然災害に対してもそれを防ぐことが可能になり、人々の意識が
”生き延びる”ということから”よりよく生きる”という方に向かい始めた
とき、神は”害を与えないよう願う”存在から、より積極的に”向上を実現
させる”手段へと成り下がった。つまりは人間の方が神より上位になったん
じゃな。 〜 牛馬と同じく、神は人間の道具に格下げされたわけじゃ。
▲神に供物を供える、というところからさらに一歩進んで、神をひどい目に
あわせ幸福を強要、という信仰方法もある。お地蔵さまに縄をかけて縛り、
功徳を願う縛り地蔵の風習は各地にあるし、なじみ深いところではあの選挙の
時のダルマの目入れ。あれも、最初ダルマに目を描かず、片方だけに目を入れ、
福をもたらしたらもう一方も入れてやる、という、いわば脅迫なのである。
                唐沢俊一著 「ウラグラ!」 より

どうでしょう、我々は敬っているように見えても実は人間以下の道具の使用
として、この信仰をしてたんじゃないでしょうか。”幸福製造器”なんての
はまさに典型的な例えでしょうし、道具以下ですからオカルト風味の歯や偽書・
偽史、といったものも躊躇無く受け入れて自分の派閥に肉付けしていったの
でしょう。

151空即是進化:2005/05/14(土) 00:31:45
 皆様、ご無沙汰してました。
 もっと自分自身のレベルアップを図ってから再登場しようかと思っていたのですが、
さっぱり研鑽も進まず、このままでは永久に出れなくなってしまう、などと考えてい
ました。
 ただ、板曼荼羅・学会へのこだわりが消えてしまった今、「本尊論」への興味が薄
れてしまっているのも事実でした。
 
 その中で犀角独歩さんの
 >本尊抄に「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたもう」
 この五字はしかし、問答さんがお示しのとおり、上行所伝付属です。
  では、この「授与」の二文字ですが、具体的には、どのように授与されるのでしょうか。
 すなわち、これがまさに漫荼羅の形で授与されるということではないでしょうか。
  実際のところ、漫荼羅には「授与」の文字を以て弟子・檀那に下されていったわけです。
  さらにこの漫荼羅図は実に懇切丁寧です。この妙法蓮華経が、どのような形で所伝された
 かを図案を以て説明されています。「南無妙法蓮華経」と大書され、それが多宝塔内の妙法
 蓮華経であり、釈迦・多宝は並座し、これを示し、付属弘通の四菩薩は釈尊の脇士として、
 その法が付属されたことを示します。その儀式が行われたのは在世八年八品に限ることは図
 示を見れば即座に理解できます。こうして八年八品において、四菩薩に付属された妙法蓮華
 経は、今度は、具体的に、その弟子檀那に、日蓮花押の認めを以て授与されるところが漫荼
 羅ではないのかと、わたしは考えるわけです。これはまた、末法法華経の行者の所持の法、
 事行の法が何であるかを明示された証文でもあるでしょう。
  ですから、漫荼羅は事行の南無妙法蓮華経の授与書ではないのか、となれば、これは、本
 門本尊の性質とは役割を異にしていると、わたしは考えるわけです。
 
 >「漫荼羅が授与書」、いわば允可、もしくは免許の意味がある

 これには、まさに‘目からうろこ’でした。弟子たちにとっては本尊代わりに唱題の対境と
しても使える、真に‘ありがたいもの’といったところでしょうか。
 まったく、独歩さんの進化には、驚くよりあきれています。

 ちょっとした疑問なのですが、授与書だとすれば、弟子たちの中には、複数の曼荼羅を下付
された方もいたのでしょうか?その訳は?(不勉強ですいません)

 ともあれ、「信仰は役に立つか」というよりは、‘何を、どうすれば’今ある信仰を役に立つ
ようにできるのか。探求していきたいと思います。

 14日のオフ会は残念ながら参加できませんが、次の機会に是非よろしくお願いします。

152犀角独歩:2005/05/14(土) 00:42:40

空即是進化さん、お久しぶりです。

わたし、呆れられているのですね(笑)

宮崎英修師の受け売りですが、『創価学会批判』のなかで、師が書いていたことですが、漫荼羅は1人1舗が原則で、ちょっと、拡大解釈すれば、複数でもらっているように見える場合、ほとんどが偽作というニュアンスとわたしは読みました。

また、是非、お運びください。
お会いできることを楽しみにしております。

153吉祥仙人:2005/05/15(日) 11:29:25
 >「なにを、どうすれば」今ある信仰を役立てられるか

 個人的リアリティーではない価値を出せと言われると、正直答えに窮します。

 日蓮大聖人はなぜ「文証・理証は現証にすぎず」とおっしゃられたのでしょうか

 この金言も「偽書」の中の御文なのでしょうか。

154犀角独歩:2005/05/15(日) 13:09:07

> 「文証・理証は現証にすぎず」

ではなく、「道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」です。

この意は、仏法をこころみるのに、道理と文章証拠にすぎるものはない。しかし、道理と証文があるからといって、実際の証拠がなければ理論・空文となる、故に道理証文が実際に証明される現証に過ぎるものはない、という意味でしょう。道理・証文を現証と比較して取捨しているのではなく、その三つ取りそろえて必要であると言っているのでしょう。文を改竄して、意を変えるべきではありません。

ここで、道理・証文がなくても、現証だけでよいという「個人的リアリティーではない価値」という考えは、むしろ、牧口値論の考えで、蓮師の法門とは関係のないものでしょう。たぶん、牧口さんは、自分の値論のこのような点に限界が感じ、大石寺に帰伏したのではないでしょうか。もし現証だけでよければ禊だけでもよかったわけですから。

155吉祥仙人:2005/05/16(月) 05:29:02
 犀角独歩さんへ

 ありがとうございました。

 「三証」についての学会教学は、やはり独自のものなのですね。

   >「改竄して、意を変える」

 厳しいご指摘です。ただし、たとえ牧口価値論だとしても、「宗教は現実の
人生に有意義でなければ存在価値は無い。」という考えに私は同意します。
 創価学会が社会に有意義な存在であることは、事実と思います。

156犀角独歩:2005/05/16(月) 07:04:06

吉祥仙人さん、わたしは創価学会の過去50年は、実は誤った器物崇拝、教義に基づいたけれど、実際のところ、数百万人の歓喜と実体験があったことを知っています。この観察を通じて「本尊が正しいから、教義が正しいから、所謂‘功徳’がある」という定義は必ずしも、そうは言えないということを知りました。

また、あなたのように創価学会が、功利的にはたらいた人とは裏腹に、たぶん、1千万規模で、創価学会のために時間と労力、財産を無駄にした人々もいるということも、よく知っています。この現実に眼を背けて、善いことばかりを喧伝するのは、事実と反します。

わたしは創価学会に35年いましたから、その善い面も悪い面も、表も裏も見てきました。
ですから、その公平な判断をここで考えたいと思っています。

しかし、少しの反省、見直しもせず、ただ善い面ばかりを書き連ね、弁明に終始するような態度は、外部からは受け入れられないということを、もっともよく知っています。これはどのような組織にも言える普遍の原理です。

あなたの投稿に対する態度が、以上の点から見直され、善い部分ばかりの一方的な通知ではなく、会構成員の責任として、、是正するべき点を積極的に考え、前向きに修正するための投稿であれば、ちゃんとした議論になっていくでしょう。

善い面ばかりを述べるのでは、無反省、無自覚の咎を免れないということです。

157吉祥仙人:2005/05/16(月) 22:49:00
 犀角独歩さんへ

 私が創価学会のよい部分を書き連ね、独歩さんが悪い部分を指摘することで
掲示板全体としては、バランスが取れているのではないでしょうか。
 私に犀角独歩さんと共同歩調をとれと言われても、やはり立場の違いという
ものが出てくるのではないでしょうか。
 この掲示板は創価学会を糾弾するものではないと理解しております。

158犀角独歩:2005/05/16(月) 23:02:37

吉祥仙人さん、わたしは、あなたと一緒にバランスを取ろうなどという気は毛頭ありません。
わたしはわたしで完結しておりますので、わたしが考える、創価学会の功罪両面を書きます。

だいたい、当板は、学会糾弾の場でないことはもとより、学会宣伝の場では断じてありません。
その点が理解できないあなたの非常識が受け入れられないことを気付けない点が鬱陶しいのです。

159パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:14:23
 【法則1】 宗教は社会現象である。

宗教は、人間の相互作用(コミュニケーション)から生まれた社会現象である。
したがって、それぞれの社会・時代・地域によって、その内容は変化するものである。
  まず、宗教社会学の大前提からお話しましょう。
神の存在や宗教的体験についての意見は、大きく二つにわかれます。ひとつは、神のイメージや宗教的体験は、脳の中にプログラムされたもので、
実際には存在しないという立場で、これをかりに「唯脳論」(ゆいのうろん)と呼んでおきましょう。もうひとつの立場は、
「いや、神や宗教体験は実在する」というものです。これを「実在論」と呼んでおきます。
 さて、学問的に考えた場合、このいずれにも問題点があります。唯脳論についていえば、たしかに、宗教体験や神のイメージは、脳の中の構造と密接に関係があります。
しかし、人間が集団をつくって、それぞれの文化のなかで、さまざまな宗教を生み出していくプロセスは、単純に脳の中のプログラムに還元して説明することはできません。
また、実在論が主張する神の存在も実証不可能で、学問的な議論にはなじみません。
  そこで、第三の立場が求められます。つまり、宗教という現象は、人間の相互作用(コミュニケーション)から生まれた社会現象である、という見方です。
では、「社会現象」とは何でしょうか。「自然現象」と対比させてみましょう。
 テルテル坊主を作って、雨が降らないように願うことや、雨乞いの儀式をする、アフリカのある部族を想像してみましょう。いくら願おうとも、降るときは降る、
降らないときは降らない、というほかありません。人間の願いや祈り、思いや解釈は、直接、自然の動きには影響を及ぼしません。自然現象は、基本的には、自然の摂理にしたがって動いているのです。
しかし、「社会現象」、つまり人間の相互作用から生まれた現象は、さまざまな人々の思惑や解釈によって影響されます。宗教も、そのような社会現象のひとつであると考えられます。
したがって、人間が作った宗教は、人間によってになわれている以上、それぞれの社会、時代、地域などの状況に影響されて変化する、ということができます。
しばしば誤解されているように、ブッダやキリストの教えが、現代にそのままのかたちで伝わっている、などということはありえません。宗教は、必ず人間の相互作用の中で変化するものなのです。

 【法則1-1】

    宗教とは、本来自明ではない超自然的なものに関する事柄を自明なものに変換し、人々をそのようにふるまわせる社会的装置である。

では、「宗教」をどのように定義すればよいかでしょうか(実は、宗教の定義は学者の数だけある、といわれている)。一般の辞書類にのせられている定義の最大公約数をとれば、
「神仏などの超自然的な存在に関する教義・信仰・儀礼・組織」などということになります。
しかし、もうすこし別の角度から、宗教の本質に即した定義を考えてみると、【法則1-1】のようになります。 
神や(大乗仏教以降に神格化された)仏の存在やそれらによる救いは、もともと「自明」(あたりまえ)ではありません。しかし、宗教はそれを不問に伏して、自明のことにすることからはじまります。
また、人々も自明のこととしてふるまいます。
さて、このように人々の心やふるまいを、ある方向にむけさせる仕組みが宗教です。それは、人間が作り出したしくみ(装置)であり、その意味で「社会的」装置といえます。
  この宗教というシステムは、「ハードウェア」「ソフトウェア」「実践」の三つからなるといえます。「ハードウェア」と「ソフトウェア」はコンピュータの用語です。
MDをもっていても、MDプレーヤーがなければ音楽は聞けません。逆に、MDプレーヤーがあってもMDがなければ音楽が聞けません。
このように、ハード(ここではMDプレーヤー)とソフト(MD)は、常に連動しています。 ハードウェアとソフトウェアは連動し、ともに信仰に信憑性(もっともらしさ)をあたえ、
組織を維持するための「道具立て」の役割をはたします。そして、この両者をつなぐのが、人間の身体的な動作(実践)です。
 この図式にしたがうならば、新しい儀礼用具の導入は、そのモノに対する教義上の意味づけを必要とし、それが使用される儀礼全体のありかたや身体の動作も変化する。
逆に、思想面での変化は、その思想を補強し、信憑性をあたえるような場所やモノを必要とし、新しい思想に適合した儀礼の実践を生むことになります。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

160パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:14:59
 【法則2】 宗教の中心は空洞である。
   神や仏がたとえ存在しないとしても、宗教という装置は成立する。
   重要なのは、神や仏が存在すると、人々に信じさせることである。

  一般に、「神さまや仏さまは本当にいるのか?」という質問がよくあります。
【法則1】ですでに述べたように、神や仏が存在するかどうかは、実証不可能なことです。
しかし、宗教というしくみは、神や仏がたとえ存在しないとしても成立するという、面白い性質をもっています。
  そこで、このしくみを、マジックミラーを例にとって説明してみましょう。
ある部屋に大きな鏡がはられているとします。AさんとBさんが部屋に入ってきました。Aさんは、すぐに人の気配と視線を察知し、部屋にはられている鏡は、
本当はマジックミラーで、向こう側では、きっと誰かが自分達を見ているに違いない、と考えはじめます。
Bさんも、しだいにAさんと同じような気配を感じるようになります。二人は、自分達が感じた気配を率直に語り合い、「キミもそう思った」「やっぱり、オレもそうだ」と、マジックミラーの存在に確信をもちはじめます。
 さて、この部屋の鏡は、本当にマジックミラーだったのでしょうか? 真相はわかりません。しかし、鏡がマジックミラーにちがいないという考えを、たがいのコミュニケーションを通して確信するようになりました。
そうなると、二人にとってその鏡は、「マジックミラー」以外のなにものでもなくなります。そして、二人は、マジックミラーの向こう側で自分たちを見ている視線を気にして行動することになります。
  「気持ち悪ければ、その部屋を出ればいいじゃないか」とおっしゃるかもしれませんが、これは、宗教のしくみを説明するためのたとえ話だと、単純に考えてください。
このような奇妙な例をあげたのは、ほかでもありません。人々が、コミュニケーションを通じて、あることを確信するプロセスを示したかったからです。マジックミラーの後ろにいる(と思われている)人間は、神や仏にたとえることができます。
 さて、ここで、部屋の鏡がマジックミラーであるかどうかは問題ではありません。二人がマジックミラーだと思いこんでしまえば、すくなくとも二人にとっては、それはマジックミラー以外のものではありません。
ということは、鏡の後ろに人間がいようがいまいが関係ないのです。「思いこみ」だけが一人歩きしはじめているのです。

 宗教の場合も同じで、かりに神や仏が存在しないとしても、人々が「いる」と確信することによって、宗教というしくみは作動しはじめるのです。
ここで重要なのは、一度「思いこみ」でできあがると、それが人々の「ふるまい」に大きな影響を及ぼすことです。マジックミラーの前の二人が、向こう側の視線を気にして行動せざるをえないように、
神や仏の存在を確信した人々は、その存在を疑うべきもないこととしてふるまうようになります。
  神や仏の存在に関する確信を強化し、さらにもっともらしいものするのが、【法則1-1】で説明した、「ハードウェア」と「ソフトウェア」の組み合わせです。
儀礼の荘厳さや、詳細な儀礼の手順、厳しい戒律、救われたという奇跡の物語、などなどが、信仰を強化することになります。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

161パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:16:30
 【法則 4】 宗教は毒にも薬にもなる。
   すべての宗教は、人間の幸せを追求する。
   しかし、問題は、「幸せ」の内容とその追求方法である。
   信者の「幸せ」が、非信者の「不幸せ」になることもある。

地下鉄サリン事件をはじめとするオウム事件が明るみにでたとき、世間の反応として印象的だったのは、「人を幸せにするはずの宗教が、なぜ人殺しなどしたのか?」
「いや、あれは宗教などではない。殺人集団だ!」というものでした。しかし、この意見をそのまま鵜呑みにしていいものでしょうか、すこし考えてみましょう。
たしかに、古今東西のあらゆる宗教は、人間の幸せを追求してきました。しかし、「宗教が人間を幸せにする」というのは、宗教の一面でしかありません。特定の人々が、
「宗教」の名のもとに「幸せ」を追求することで、それ以外の人々とのあいだに葛藤を生みだすという側面も宗教にはある、ということを認識しておくべきでしょう。
「宗教は人間を幸せにするはずだ!」という固定観念は、宗教が関係した深刻な社会問題をあまり体験したことのない日本人にとっては、ある意味では当然のことかもしれません。
日本人が「宗教」というとき、暗黙のうちに、キリスト教や仏教をモデルにしているようです。これらは、(少なくとも日本では)事件を起こす可能性のきわめて少ない「おとなしい」宗教で、
比較的プラスの評価を受けているものです。しかし、歴史をひもとけばすぐにわかることですが、そんなキリスト教や仏教でさえ、それぞれの教えを追求する過程で、社会との葛藤を経験してきました。
そして、現にこうしているあいだにも、(単純に宗教だけが原因ではないにせよ)世界各地で宗教にかかわる紛争が続いています。
このようにいうと、世界で宗教紛争が起こっているのは、「宗教が本来の道からはずれて、間違った方向にいってしまったからだ!」などという人もいます。
しかし、「正しい道/間違った道」というものがあると考えるよりも、宗教は人間に救いをあたえる反面、人々を戦いへと向かわせるような力ももっていると見たほうが、はるかに現実的ではないかと思います。
 つまり、、宗教には人間をプラスとマイナスの両方に向かわせる二面性があるわけです。このことをふまえたうえで、「宗教は人間を幸せにする」というときに問題となるのが、
「幸せ」の具体的内容と、それを追求する方法です。
 たとえば、宗教Aはこう説く。「できるだけ質素な生活をして、毎日神に祈りなさい。そして、他人のために役立つことをするように、日々こころがけなさい。
そうすれば、平穏な人生と安らかな死、さらには来世での豊かな生活が保証されるであろう」と。
一方、宗教Bはこう説く。「この世の中は悪に満ちている。いくらわれわれが頑張っても、もはや救いようがない。神の命令にしたがって、今の世の中を徹底的に破壊し、
ゼロから人類をやり直すことが、人類を幸せにみちびく唯一の道である」と。この二つの宗教は、いずれも人間の幸せを説いているし、それをめざそうとしていますが、その方向性はまったく対照的です。
  この例は極端なものですが、いずれも現実に存在した宗教の教えです。このように、宗教が説く「幸せ」という基準も、ひとつではないのです。
また、「人間の幸せ」というときの「人間」とは一体誰のことなのか、ということも重要なポイントです。よく「信じる者は救われる!」といいますが、信じなければ「救われる」対象にはならないのが宗教の基本です。
信者でもない人間、つまり全人類までも幸せする、というふところの深い宗教は、それほど多くないのが現実です。逆にいえば、「救われる」という条件とひきかえに信者になったわけですから、このことは当然といえば当然です。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

162パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:17:55
 【法則 6】 宗教組織が成功するカギは秘密の隠蔽と開示にある。
   およそすべての宗教にとって不可欠なのは「秘密」である。
   秘密を隠したり見せたりすることが、宗教組織が成功するひとつのカギである。
     
およそすべての宗教には、かたちはさまざまですが、なんらかの「秘密」があります。「秘密」といっても、聖典(経典)に隠された秘密や教祖だけが知っている秘密といった、
特定の人間しか知らない「知識」だけではなく、教祖だけがもっている超能力といった、特定の人間しか身につけられない「力」も含みます。
  秘密は人をひきつける魅力をもっています。よくある昔話を思い出してみてください。ある男が、「竹と梅の蔵はのぞいてもいいけど、松の蔵だけは絶対にのぞくな!」と主人に釘をさされ、留守番をまかされる。
しかし、のぞくなといわれればのぞきたくなるのが人の心。ついに松の蔵をのぞいてしまう。すると・・・。人間の深層心理をうまくあらわした昔話です。
宗教の場合も、秘密をつくっておくことで、人々をひきつけることができます。たとえば、修行しだいで超能力が身につくという宣伝文句は、人々をひきつけます。
超能力という秘密を知りたくて、宗教に足をふみいれる人もいるでしょう。しかし、それによって信者が集まりすぎるのも、また問題です。多くの信者がいっせいに修行をはじめると、
ある時点で、多くの信者が一定の超能力を身につけてしまいます。教団側も、信者のニーズにこたえるために、一定の修行をした信者には、ある程度の超能力が身についたとして、
それを認めてやる必要があります。これがなぜ問題かというと、「超能力のインフレーション」がおこるからです。
 お金がでまわりすぎると、お金の価値が極端にさがって、いわゆる「インフレ」になります。これと同じように、たとえ第一段階の超能力であったとしても、超能力者が増えすぎると、
超能力自体の価値や「ありがたみ」がなくなってしまいます。これが「超能力のインフレーション」です。そもそも人間は「限定商品」が大好きな生き物です。
「100個限定!」などといわれると、すぐにとびついてしまうでしょ。
そこで、教団側が何をすべきかというと、いうまでもなく、「インフレ抑制策」をとることです。
具体的には、茶道や華道の免許のように、資格制度をもうけたりして、修行の段階に応じて、超能力に位をつけるのです。
そして、第一段階から第二段階に昇格するためには、3年間の修行が必要で、その次の段階にいくにはさらに5年必要だ、という具合に、
なかなか昇格できないようにしておく必要があります。そうすることで、信者の競争心をかきたてることもできるし、
昇格した達成感と優越感は、さらに修行しようという意欲を生むことにもなります。
しかし、なかなか昇格できなくても、これまた信者の不満がつのることになります。そこで今度は、すこし規制緩和をして、昇格を簡単にする必要もでています。
つまり、宗教組織が信者をひきつけ続けるためには、規制と規制緩和、秘密の隠蔽と開示とを、うまくバランスをとりながらおこなうことが必要なのです。
 さて、「インフレ」の問題は、超能力を売り物にするような新宗教だけのものではありません。キリスト教のカトリックのような伝統的な宗教も、実は同じ問題をかかえています。
たとえば、「奇跡」をとりあげてみましょう。人々が「奇跡」と呼ぶような現象は、こうしているうちにも、世界中でおこっています。しかし、カトリックが「奇跡」として認めているものは、ほんのひとにぎりです。
自分が「奇跡」だと思えば、それは「奇跡」以外のなにものでもないはずですが、カトリックの世界では違います。現在、年間200〜300程度の奇跡がローマ法王庁に報告されています。
たとえば、聖母マリアが出現したとか、聖母マリアが血の涙を流した、などというものです。報告された「奇跡」の90%は、ただちに「インチキ」として除外され、残りの10%を法王庁が綿密に調査するそうです。
しかし、「奇跡」として認定されるのは、ほんのひとにぎりで、しかもその認定には、長いもので数十年の月日がかかるそうです。
 では、なぜこのような認定作業が必要なのでしょうか? もうおわかりのように、「超能力のインフレーション」と同じように、「奇跡のインフレーション」を抑制するためです。
あっちこっちで奇跡がおこってもらってはこまる。奇跡の価値や「ありがたみ」がなくなってしまうので、一定の基準にしたがって、奇跡を認定していく必要があるのです。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

163パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:18:50
 【法則 7】 宗教の秘密はつくられる。
   宗教の秘密は、最初から存在するものではない。
   宗教組織や聖職者たちは、自分たちの地位を正当化するために秘密をつくりだす。
   宗教の秘密に中身がなくてもよい。中身があると思わせるだけでよい。
     
宗教に秘密が不可欠であることは、【法則 6】でお話しました。宗教自体が、なんだか秘密めいていますし、
聖典(経典)に隠された秘密がある、などときくと、宗教には最初から秘密が隠されていたのだと勘違いしてしまいます。
しかし、宗教の秘密も、そのときどきの事情によって、人間がつくりあげてきたものです。
 話をわかりやすくするために、古代の宗教を例にとってみましょう。古代において、さまざまな自然現象は、神の怒りや、なにか超自然的な力のしわざだと考えられていました。
 そして、わざわいを鎮めるのは呪術師や司祭といった聖職者の役目でした。人々は、彼らに頼るしか方法がなかったので、彼らのいいなりになって、いけにえを捧げたり、
 金品を奉納したりしてきました。聖職者たちは、右に三回、左に三回まわり、水を五回ふりかけて・・・と複雑な動作を器用にこなして儀式をすすめていきます。
 一般人にとっては、とてもその意味は理解できないし、また簡単にまねできるようなものでもありません。そのため、聖職者の権威は高まり、人々は彼らに従わざるをえません。
 つまり、聖職者たちは、自分たちの地位を高めるのに、まんまと成功したわけです。
しかし、聖職者たちの儀式の意味をつきつめて考えていくと、その多くには、ほとんど根拠がないことがわかってきます。たとえば、水を五回ふりかけなければならないところを四回ではいけないのか? 
聖職者は、五回でなければならない理由を長々と語るでしょう。でも、その多くはあとから考えだされた理屈です。とはいうものの、一般人にとってはわかりにくいだけに、
あいかわらず、「聖職者は不思議な力と秘密をもっている」ということになってしまいます。
 そうなると、秘密の中身はなくてもよい、ということになります。特定の人間が秘密をもっていて、われわれはそれを知ることができない、と思わせるだけでよいのです。
すでに【法則 2】でもお話しましたが、宗教の本質は、中心がたとえ空洞であっても、そこには何かがある、と人々に思わせることです。秘密の場合も、これと理屈は同じです。
さて、一般信者もバカではないですから、聖職者の知識に疑問をもちはじめることがあります。聖職者が一般信者に論破されるようなことがおこれば、その宗教組織はもうおわりです。
しかし、多くの宗教組織は、聖職者の地位を保護するような制度をつくりあげてきました。たとえば、神学校や学林といった聖職者の養成機関をつくり、聖職者になるためには、
そこで専門教育を受けなければならないという規則をつくることです。そして、そこでしか獲得できないような知識や技能をつくりだすことで、聖職者と一般信者との明確な区別をつくりだせばよいのです。
このように、宗教の秘密はつねに生産され、それを独占するような仕組みをつくることによって、宗教組織は聖職者の地位を安定させてきたといえます。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

164パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:19:27
 【法則 8】 宗教にも免疫反応がある。
   異端の発生や異宗教の登場は、宗教を活性化させ、体系化させる。
     
一般に「免疫」は、人間のからだをバイ菌から守る仕組み程度に理解されています。しかし、本質的には、「免疫」とは、「自己」と「非自己」を区別する仕組みなのです。
免疫の仕組みを、臓器移植を例にとってみてみましょう。兄弟や親子の臓器なら、他人の臓器よりも移植がうまくいくと考えられがちですが、そんなことはありません。
人間のからだにとっては、たとえ兄弟や親子の臓器であっても、「自分のものはでない」という意味では、「他人の臓器」でしかありません。
臓器が移植されるときにおこる問題は、拒否反応です。つまり、からだが「自分のものではない」と判断すると、あたらしい臓器を「敵」だと思って攻撃しはじめるのです。
そこで、患者に免疫力低下剤を投与し、「自分」と「自分ではないもの」を区別をする能力を一時的に鈍らせて、新しい臓器が定着するようにするのです。
 ここまでは、われわれのからだの話。しかし、宗教にも、同じように「自己/非自己」を区別しようとする力がはたらいています。
たとえば、キリスト教における聖書の誕生をみてみましょう。イエス・キリストが紀元30年頃にはりつけになり、それから100年以上たったころ、マルキオンという男の一派が、
のちに「マルキオン聖書」と呼ばれる、現在の聖書の原型のまた原型をつくります。このことは、すでに【法則 5】でもふれました。
マルキオンという男は、実は「異端」として処罰された人物です。彼は、この世の中は悪に満ちている、だから禁欲せよ、と説きました。このどこが悪いのか? 
「この世の中は悪に満ちている」というのがよくない。「この世の中は神がつくられた。その世の中が悪いということは神が悪いということか」という三段論法です。
いずれにしても、異端とされた一派が、はじめて聖書の原型をつくってしまったわけですから、キリスト教の主流はあわてはじめます。そして、主流派も、自分達なりに聖書の編集に着手します。
 このように、宗教も異質なものの登場によって、自分についてあらためて考えるようになり、体制をととのえようとしはじめます。
このことは、日本の神道にもあてはまります。「神道」(「しんとう」と読んでください)は、日本古来の宗教であるといいますが、その教えは、最初から体系化されていたわけではありませんし、
自分たちの宗教が「神道」であると認識されていたわけでもありません。神道が自分たちの宗教に自覚的になったのは、仏教の登場以来だといえます。仏教が輸入された当初、
仏という外国の神がひとつ加わった程度にしか認識されていませんでしたが、仏教が勢力を伸ばすにつれ、神道側も体制をととのえる必要がでてきました。
そこで、教えや儀礼をすこしずつ整備していったのです。

  宗教は、異端や異宗教があらわれないかぎり、なかなか自分の姿をたしかめようとしません。
異端や宗教の登場で、あわてふためいて自分をふりかえる、というのが宗教の歴史において繰り返されてきました。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

165パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:20:06
 【法則 9】 宗教には、「脅し」と「慰め」がつきものである。
   宗教は、人を慰めるだけではうまくいかない。
   時には、脅すことも必要である。

「脅し」などという言葉を使うと、なんだか物騒ですが、あえて使います。一般に、宗教は人の心をいやし、人を慰めるものだと思われています。
しかし、これも宗教の一面にすぎません。もし、慰め続けるだけだったらどうなるでしょうか? 人々は骨抜きになり、向上心をうしなってしまうでしょう。
 経済学者・社会学者のカール・マルクスが「宗教は阿片である」といったのは、実はこのことです(厳密には、すこしいいまわしが違いますが)。
マルクスは、宗教が人々の心を安らかにしていることも十分に理解していましたが、宗教によって、人々がいったん気持ちよくなってしまうと、社会を変えていこうという気がなくなってしまいます。
まさにその意味で、宗教は阿片みたいなものだ、というのです。
 さて、事実、どの宗教にも「脅し」の部分と「慰め」の部分が存在します。「アメとムチ」といいかえてもいいでしょう。なによりも、「天国と地獄」「極楽と地獄」などという考えかたが、それをよくあらわしています。
つまり、教えどおりの生き方をしないと「地獄に行くぞ!」と脅すと同時に、教えどおりの生き方をすれば天国や極楽に行ける、というわけです。これが、もし天国や極楽だけで地獄がなかったら、
誘惑に弱い人間を、品行方正にすることは困難だったでしょう。だから、地獄のイメージをできるだけ恐ろしく描くほうが、人々の行動を律するのに効果的なのです。
 社会学の古典として有名な、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本には、こんなことが書いてあります。
自分が天国に行くか地獄に行くかは、すでに神さまによって決められている。そして、それを何人もかえることはできない。
このキリスト教のプロテスタントが説いた「予定説」と呼ばれる教えは、人々を恐怖のどん底におとしいれた。そこで人々は、自分は天国に行くように決められているはずだ、
と自分にいいきかせるために、勤勉に働き、禁欲生活をおくり、そのことが金もうけのシステム(資本主義)を生んでいった(かなり途中を飛ばしたので、くわしくは岩波書店から出ている翻訳か、
井上順孝編『現代日本の宗教社会学』世界思想社に書いた、作者の解説をお読みください)。このように、天国と地獄のイメージは、人々にひじょうに大きな力をおよぼすのです。
ちなみに、日本において、地獄のイメージがはっきりと描かれるようになったのは、平安時代に源信によって書かれた『往生要集』という本からです。

 ところで、どの宗教にも「脅し」と「慰め」があるといっても、行きすぎは問題です。昨今、問題になっているような宗教は、人の心のすきまをねらって、
不安をあおったあとに、「いや、でもウチの宗教なら救われますよ」となだめるわけです。これではあからさまですが、
いずれにせよ、宗教において「脅し」と「慰め」は車の両輪みたいなものだといえるでしょう。 
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

166パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:24:45
【法則 3】 宗教も進化する。
  宗教も、社会の発展とともに変化してきた。
  そして、それぞれの時代や社会のニーズに応えられない宗教は衰退していく。

宗教の起源については、従来から多くの説があり、これといった決定版があるわけではありません。
宗教がいったいいつごろから存在するのか、という疑問についても、よくある質問でふれたように、約6万年前のネアンデルタール人の化石から、
葬送のあとが発見されているものの、人類がいつごろから信仰や宗教らしきものをもったかという、明確な年代はわかりません。
とはいえ、理論的に考えて、直立二足歩行と大脳の発達、言語の誕生、道具の発明などが、宗教の誕生に重要な意味をもったということはできます。
 つまり、大脳が発達したことによって、人類は、目の前にないものを想像する力(イメージ能力)を身につけました。このことは、神という超自然的な存在を想定する、宗教の本質に大きく関わります。
言語の誕生は、主観的な考えを伝達し、共有することを可能にしました。さらに、道具の発明は、考えを具体的な形に表現し、伝達することを可能にしました。
このように、人類進化の過程のなかで、イメージ能力の発達とコミュニケーション技術の発達が、宗教の誕生に重要な役割をはたした、といってもよいでしょう。
 さて、人間が進化して宗教を生みだしたように、宗教も社会の発展にあわせて進化してきたといえます。では、どのように進化してきたのか。
それは、人間につきまとう「不確実性」、つまり、先行きの見えない不確かさに対応して、進化してきたといえます。
生命体としての人間には、常に不確実性(不確かさ)がつきまといます。その不確実性は、以下の三つに分けられる。
  自然的不確実性
   災害をはじめとする自然環境に関する不確実性。
   →いつどのような自然災害がおこるかわからない。
  社会的不確実性
   自己の社会的・経済的位置づけに関する不確実性。
   →いつどのようにして、社会的地位を失ったり、生活がかわるかわからない。
  根源的不確実性
   疾病・障害や老化・死に関する不確実性。
   →いつどのようなかたちで、病気にかかったり死んだりするかわからない。
 宗教は、これらの不確実性に対応し、それぞれの時代に姿を変えてきたといえます。原初の社会においては、自然的不確実性の度合いが高く、
自然の脅威を超自然的な存在によるものと考え、予測不可能な自然環境に対応する宗教のかたちが生まれました。たとえば、雨乞いや豊作・大漁祈願などです。
しかし、技術の発達とともに、自然環境の予測や制御がある程度可能になると、宗教も様変わりしてきます。社会の形態が複雑になると、社会的不確実性が増大し、
それに対応する宗教があらわれてきました。たとえば、ストレスの多い社会のなかで、いかに生きるのかといったことを教える宗教です。
 もちろん、自然環境に対する不確実性は常に存在しますから、このような移行は、不確実性に対するウェイトの置き方が変化してきたと考えたほうがよいでしょう。
また、根源的不確実性も、生命体としての人間には、常につきまといます。これについても、宗教は、病気や生死についての意味づけをあたえてきました。
また、人間がかかえる不確実性の変化は、生産技術の変化とも関わってきたといえます。狩猟・採集→農耕・牧畜→産業化という変化のなかで、不確実性のタイプも、「自然的」から「社会的」へと変化してきた。
以上のことを簡単にいえば、それぞれの時代や社会のニーズにあわない宗教は生き残れない、ということです。
    (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

167パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:08
 【法則3-1】 宗教は「ハードウェア型宗教」から「ソフトウェア型宗教」へと進化する。

 さて、人類史の大きな流れをみると、宗教を大きく二つのタイプにわけることができます。ひとつは、宗教が存在する根拠を「モノ」(物質)に求める宗教であり、
これを「ハードウェア型宗教」と呼んでおきます。もうひとつは、宗教の根拠を「情報」に求める宗教で、これを「ソフトウェア型宗教」と呼んでおきましょう。
仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどの「世界宗教」と呼ばれるものに共通する点は、いずれも「教義」(教え)という情報に宗教の根拠を置いていることです
(このことは、小室直樹さんが『天皇の原理』文藝春秋社、1993、で指摘していることです)。
たとえば、ユダヤ教の場合、モーセが神から授かったとされる、十戒(十の戒め)が刻まれた石版を大事にしていました。それを「契約の箱」(アーク)と呼ばれるものに納めて、
神殿に安置しておいたのですが、神殿が破壊された際、どこかに消えてしまいました。それは現在も見つかっていません。だからこそ、スピルバーグの『インディージョーンズ:失われたアーク』などという映画が作られるのです。
もし、ユダヤ教が契約の箱を宗教の根拠とし、それにこだわり続けたとしたら、ユダヤ教はもっと違った姿になっていたでしょう。しかし、ユダヤ教は、契約の箱が失われたのをきっかけに、宗教の根拠を教えに置くという、
方向転換を行ないます。このことは、ユダヤ教にとって重要な展開であったと思われます。
 古代の宗教や「未開」の宗教と呼ばれるものの多くは、不思議な石や精霊が宿る木といった、モノを中心に組み立てられていました。そのため、もし、宗教の根拠になっている石や木が破壊されたり、
盗まれてしまえば、宗教は存亡の危機をむかえます。つまり、モノに根拠を求めるハードウェア型宗教は、ひじょうに弱い側面をもっています(ただし、生き残りの方法がないわけではありません。
ひとつの方法としては、宗教が根拠とするモノのコピーをつくり、それを教えと一緒に広めることです。これについては、また別のところでお話します。)。
 これに対して、情報(教義)に根拠を求めるソフトウェア型宗教は、持ち運びできるという情報の利点をいかして、広い範囲に布教することができます。ハードウェア型のように、「〜村の木」とか「〜寺院の石」といった、
特定の空間や場所にしばられませんから、活動範囲が格段に広くなります。
ただし、注意しておかなければならないのは、【法則1-1】でもふれたように、宗教にはハードとソフトの両方が必要です。だから、ハードウェア型からソフトウェア型への変化というのは、
ウェイトの置きかたが変化したといったほうが適切です。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

168パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:37
 【法則 5】 聖典は一日にしてならず。
   宗教の聖典(正典)は、社会・時代・地域との妥協の産物である。
   人々のニーズにあうように、聖典は編集しなおされてきた。
     
われわれは、印刷文化になれしたしんでいるせいか、キリスト教の聖書をはじめ、宗教の聖典が最初から、一冊の本として存在したかのような誤解をしていることが多いようです。
しかし、おもだった宗教をみてみると、おおかたの場合、ひじょうに長い時間をかけて聖典が編集されてきたことがわかります。
 イスラームの聖典『コーラン』(クルアーン)の場合、比較的早い時期にまとめられていますが、キリスト教などの場合、現在の『新約聖書』の原型のまた原型となる、
『マルキオン聖書』と呼ばれるものが成立したのが、イエス・キリストが死んでほぼ100年以上たってからのことです。仏教のお経にしても、お釈迦さんがなくなってから、
しばらくは弟子たちの記憶力によって教えが維持されていましたが、文字に書かれたのは、かなり後のことです。よく誤解されていることですが、イエス・キリストは、
聖書に一言も自分で文章を残していませんし、お釈迦さんも、自分で書いたお経を残していません。
このようなことがなぜ起こるのでしょうか? 理由は三つほど考えられます。第一に、布教上の理由、第二に技術史上の理由、第三に組織上の理由、などです。
まず、布教上の理由です。ある人が神のお告げを受けて、それを広めようとしている場面を想像してください。最初から一冊の本をもってきて、「これを読め!」と大衆に叫んでも、なかなか読んでくれるわけがありません。
学校の教科書のように、それを読まないと勉強ができないとなれば話は別ですが・・・。それに、世の中にはさまざなな考えをもった人々がいます。もし、活字にしたものをもって教えを広めようとしても、
そのすべてが人々に受け入れられるとはかぎりません。それに、ひとたび文字に書かれたものは、なかなかあとで修正することができません。この手間は、新聞や雑誌が謝罪や訂正の広告をだすのを考えればわかることです。
 しかし、口頭の説教ならば、臨機応変に対応できるし、人々の反応もフィードバックできます。そこで、多くの宗教は、口頭による布教からはじまり、いわば「マーケティング・リサーチ」をしたうえで、
受け入れられやすい教えを編集し、最終的に一冊の聖典に仕上げていったということができます。

169パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:57
 【法則 5】 聖典は一日にしてならず のつづき
 
次に、第二の技術史上の理由です。われわれは、紙に印刷された本になれていますが、古代にそんなものはありませんでした。最初は、粘土版・竹・木や、
「パピルス」と呼ばれる植物から作った、紙の原型しかありませんでした。パピルスは巻物として使われましたから、「一冊」という感覚はまだ芽生えていません。
次に登場したのが羊皮紙です。羊の皮と書きますが、実際には子牛の皮が珍重されたようです。この段階になると、すこしおりたたみができるようになり、冊子の感覚もでてきます。
さて、最終的に紙が登場したことで、現在のルーズリーフ・ノートのように差し替え(編集)の効率が良くなり、とじることも容易になったので、一冊という感覚が明確になってきます。
このような技術史的な変遷を考えてみると、「宗教の中心となる一冊の本」という感覚は、かなり後になって出てきたと考えられます。
さて、技術史的な背景について、もうひとつ付け加えておく必要があります。それは「異本」(variant)というものについてです。そこで、『源氏物語』を例にとってみましょう。
この小説は、いうまでもなく、11世紀に紫式部によって書かれたものですが、驚くべきことに、その原本はいまだ発見されていません。では、なぜ『源氏物語』が存在するかというと、
原本を書き写した「写本」がいくつも存在するからです。印刷技術が発達する以前には、人間の手によって、原本を書き写すしかなかったのです。
しかし、人の手によって書き写されていくうちに、いつしか原本の内容は変化していきます。これは写し間違いや意図的な創作によるもので、
場合によっては、登場人物の名前や筋書きまで変化するものもあります。このようにしてできた、原本とは異なる写本のことを「異本」(variant)といいます。たとえば、『源氏物語』の場合、
多くの異本が残されており、それらの情報を総合することで、成立年代や作者が判明したのです。
異本が多くなれば、それだけ十人十色に内容がバラバラになっていくようにも思われますが、実際には、内容の類似性から、いくつかの系統に分けることができます。
 さて、話を宗教にもどすと、原本から異本が生まれていく過程は、そのまま宗教の聖典が成立する過程にもみられます。
ユダヤ教やキリスト教などの聖典も、たくさんの異本のなかから文書が取捨選択され、ながい時間をかけて編集されて、「正典」にまとめられたのです。
ちなみに、「正典」とは、宗教の中心となる権威ある教義を、一定の基準にしたがってまとめたものです。
 さて、第三の組織上の理由についてです。世界の宗教の展開をみると、聖典が編集されるきっかけとして、ふたつの出来事があげられます。ひとつは創始者や教祖の死、いまひとつは、教団分裂の危機です。
創始者や教祖が存命中は、教えについてわからないことがあれば、師匠に聞けばよいのですが、なくなってしまえば、それができません。
そこで、教えが忘れられてしまう前に、一度まとめておこうという動きがでます。お釈迦さんの死後に行なわれた、世界史用語でおなじみの「仏典結集」などもそのひとつです。
このような動きには、教えを再確認すると同時に、間違った解釈が広がることを、未然に防ごうという意図もふくまれています。とはいっても、さまざなな解釈が出てくることを完全に抑えられないのが、宗教の常ですが・・・。
また、宗教教団がある程度成長してくると、かならず分裂騒動が起こります。その際に、自分達の信仰を再確認し、分派活動を抑制する意味でも、聖典の編集が行なわれます。
さて、以上のようにみてきますと、古代の教えが、現代に100%そのまま伝わるなどということは不可能に近いし、聖典は、それぞれの社会・時代・地域のニーズにあったように、
長い時間をかけて編集されてきた、ということがわかります。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

170顕正居士:2008/02/25(月) 04:35:27
信仰への誡め(『カーラーマ・スッタ』その他)

「何事かを信じてはいけない…
そう聞いただけの理由では。

伝承されて来たからといって伝統を信じてはいけない。
多くの人が語り広まっているからといって何事かを信じてはいけない。
聖典に記されているからといって何事かを信じてはいけない。
単に教師や長老の解説を根拠に何事かを信じてはいけない。
しかし観察し分析した後に理性に合致する事柄があればそれを受け容れ
全生類を善と福とに導く事柄があればそれに基づいて生活すべきである」

http://www.metta.lk/english/not_believe.htm

171顕正居士:2008/03/27(木) 20:27:42
信じてもいい理由と信じてはいけない理由  リチャード・ドーキンス

'and warn you against three bad reasons for believing anything.
They are called "tradition," "authority," and "revelation" '

「わたしはお前に何事かを信じる3つのよからぬ根拠について警告しよう。
それは「伝統」、「権威」、「啓示」と呼ばれるものである」

http://po3a.blogspot.com/2006/03/blog-post_114298809344017542.html

172顕正居士:2008/04/06(日) 01:25:54
幾つかの経典で繰り返される信仰を戒める言葉。これは仏陀その人の金言でしょう。
ドーキンス氏はこの言葉を知っていて娘に訓戒したのかも知れませんが、
現代の知識人が同じ事柄を語るのですから、仏陀の発想の先駆性は確かです。
(仏陀だけではなく六師と称される古代インド都市国家の思想家全員にいえますが)
この金言は陣那菩薩(ディンナーガ 480年頃-540年頃)によって大乗仏教の原理とされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%82%A3
要するに直接経験と推理だけが認識根拠であり、「伝聞」は認識根拠になりません。
一見は近代哲学と同様の考察が6世紀にすでに発表されたのですが、インド哲学や仏教が
いう直接経験とは禅定の幻覚を含んでおり、それで結局は話にならなかったのです。
自己内心に起こる強い確信 revelation は認識の根拠になりません。
ドーキンス氏は「伝聞」に加えて「啓示」を信じてはいけないと述べているのです。


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