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信仰は役に立つか
168
:
パンナコッタ
:2008/02/22(金) 16:25:37
【法則 5】 聖典は一日にしてならず。
宗教の聖典(正典)は、社会・時代・地域との妥協の産物である。
人々のニーズにあうように、聖典は編集しなおされてきた。
われわれは、印刷文化になれしたしんでいるせいか、キリスト教の聖書をはじめ、宗教の聖典が最初から、一冊の本として存在したかのような誤解をしていることが多いようです。
しかし、おもだった宗教をみてみると、おおかたの場合、ひじょうに長い時間をかけて聖典が編集されてきたことがわかります。
イスラームの聖典『コーラン』(クルアーン)の場合、比較的早い時期にまとめられていますが、キリスト教などの場合、現在の『新約聖書』の原型のまた原型となる、
『マルキオン聖書』と呼ばれるものが成立したのが、イエス・キリストが死んでほぼ100年以上たってからのことです。仏教のお経にしても、お釈迦さんがなくなってから、
しばらくは弟子たちの記憶力によって教えが維持されていましたが、文字に書かれたのは、かなり後のことです。よく誤解されていることですが、イエス・キリストは、
聖書に一言も自分で文章を残していませんし、お釈迦さんも、自分で書いたお経を残していません。
このようなことがなぜ起こるのでしょうか? 理由は三つほど考えられます。第一に、布教上の理由、第二に技術史上の理由、第三に組織上の理由、などです。
まず、布教上の理由です。ある人が神のお告げを受けて、それを広めようとしている場面を想像してください。最初から一冊の本をもってきて、「これを読め!」と大衆に叫んでも、なかなか読んでくれるわけがありません。
学校の教科書のように、それを読まないと勉強ができないとなれば話は別ですが・・・。それに、世の中にはさまざなな考えをもった人々がいます。もし、活字にしたものをもって教えを広めようとしても、
そのすべてが人々に受け入れられるとはかぎりません。それに、ひとたび文字に書かれたものは、なかなかあとで修正することができません。この手間は、新聞や雑誌が謝罪や訂正の広告をだすのを考えればわかることです。
しかし、口頭の説教ならば、臨機応変に対応できるし、人々の反応もフィードバックできます。そこで、多くの宗教は、口頭による布教からはじまり、いわば「マーケティング・リサーチ」をしたうえで、
受け入れられやすい教えを編集し、最終的に一冊の聖典に仕上げていったということができます。
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