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信仰は役に立つか

1管理者:2005/02/11(金) 19:30:12

スレッドテーマのご提案が有りましたので、活発なご議論を期待して、新しいスレッドを立てます。スレッドテーマは「信仰は役に立つか」と致しました。ご了承の程、お願いできれば幸いです。提案内容は以下の通りです。

64 名前: 空即是進化 投稿日: 2005/02/10(木) 23:22:46

まだ時期尚早かもしれませんが、どうしても知りたいことがあります。
 この掲示板で旧来の迷妄が晴れたのはよいのですが、次に「信ずべきもの」は皆様にとって
何でしょうか? 
 
 私が20年前の離会時、ほとんど全ての正宗及び学会関係出版物を廃棄し、沈黙することに
決めたのは「次のもの」を見出すことができなかったからです。初期の〈幸福の科学)に2年 
程首を突っ込んだこともありました。自分が如何に無知だったかを知ることはできましたが、
宗教団体の堕落の過程を再び見ることになってしまいました。
 「信ずるものは救われる」というのは本当だと思います。たいがいの宗教はフィクションだ
ということが、この掲示板であらためて知らされましたが、フィクションであっても死ぬまで
だましていただければ、真実と同様の価値があると思います。信じ続けられれば幸せだが、信
じられなくなれば、即地獄。それが分かっているために信じ続ける努力をする。少々の矛盾な
んてなんのその。都合の悪いことはすべて聞こえないふり。それができるから何十年もやって
られる。そういう人たちが組織を維持させてきた。北朝鮮も同じかな。金で繋がっているのは
極少数だと思う。
 犀角独歩さんは、学会首脳は‘それ‘を『偽物』だと知っているはずだとおっしゃるが、今
でも交流のある複数の学会副会長達は、まだまだ純粋に見えます。こいつは知っているな、っ
て奴もいますがね。なお、‘それ‘とは大御本尊でも名誉会長でもよい。
 私は信じ続けることができず、逃げ出しました。私なりに悩んだつもりですが、デルトロさ
んなんかと比べると、ずいぶん楽してきたなと思います。生活も安定してますし。しかし、人生
も残り少ない(壮年として動けるのは)と感じ始めて、再び真理を探究したくなりました。
 
 皆さんにとって、「それでも信じる」「これなら信じる」「信じていい」「これだけは
間違いない」ものは何ですか? 信仰の対象に限らず、座右の銘、何らかの原理、現象など
ワンフレーズでも結構ですので、ご教示ください。お願いします。

2管理者:2005/02/11(金) 19:32:04

提案内容のつづきです。転載親しました。

65 名前: 真実 探求者 投稿日: 2005/02/10(木) 23:41:13

,,御免下さい、、。 この件は真摯に受け止めたく存じます、、。 「、、、これなら信じる、、??これなら信じても良い、、??、、」、、そろそろ思考すべき段階、、、かと存じます、、。小生も これからの、諸氏の卓見と諸問題の御提起に御期待もうし上げる一人です、、。


66 名前: 真実 探求者 投稿日: 2005/02/11(金) 01:49:54

御免、、。 実は、真実に信に耐えうる、のは??は何か、??を求めて右往左往して来ましたのが自分です、、。 全く、、トホホ、、です、、。
 真筆の曼荼羅さまもご拝見しました、。 その、すぐ横になにやら得体の知れない黒く変色した木造の彫刻仏像などがありました、、。  日蓮さまが申した「、今は摂受ではなく、破邪顕正の強い折伏の時代、、」という根本を忘れているような雰囲気の寺院も多々存在のようです、。 これでは「、心は傾注しても、周りがガタガタの法謗だらけ、」です、、。 とても日蓮さまのご誠心を信奉するとは、、、??? でしょうか、、?? 今、、いかなる形態と信心が、===日蓮さまのご誠心に100%のホンマモンの信仰かが、、??? 問われて、、??でしょうか、、??


67 名前: 管理者 投稿日: 2005/02/11(金) 07:35:49


余りにも重要なので、今まで誰も提案してこなかったテーマであると思います。

スレッドのネーミングについては、具体的にご提案頂けると幸いです。

管理者は、以前から「人に取って信仰とは何か」(仮称)というスレッドを提案してみたいと思ってきました。

新しいスレッドテーマについて、皆さんの具体的なご意見を承りたいと存じます。


68 名前: 吉祥仙人 投稿日: 2005/02/11(金) 12:33:23

 管理人さんへ

 仮称ではあまりに範囲が広すぎると思うので「信仰は役に立つか」というテーマを
提案いたします。


69 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2005/02/11(金) 13:59:54


そうですね。
「信仰は本当に必要なのか」、「何のための信仰なのか」、「信仰は何をもたらすか」、「信仰によって何が変わるのか」。そしてそれは、「生きることとどう関わってくるのか。
基本的な問題ですが、いざ、自分に問いかけてみると、自分なりの答えはあるんですが、改めて「何故」と問われた時、納得できる答えが見つからないというはありますね。
また、その信仰は人を含めた形のあるモノに向けられるのか、それとも精神的なものなのか。
好き嫌い同様に直感的要素が強いですから、言葉に置き換える作業が難しいですね。

3問答迷人:2005/02/12(土) 00:22:46

僕は、17歳、高校二年生に創価学会員に座談会に連れてゆかれて入会したわけです。振り返ってみると、僕にとって信仰とは、人生そのもので有ったと思います。

今は、宗門とは、一歩距離を置いていますが、やはり、信仰は僕にとって人生そのものであることには変わりがありません。信じる内容にこそ、変化は有りましたが、信仰を抜きにした人生は、今もやはり考えられないです。

このように言うと、「なんだ、お前はまだ洗脳が抜けていないな」と思われると思います。そうかも知れません、未練かも知れないし、洗脳が残っているのかも知れませんが、南無妙法蓮華経という教えは、僕を魅了して止みません。

確かに、妙法蓮華経、所謂法華経は釈尊とは関係のない、後世の創作で有る事は認めます。然しながら、その法華経の世界は余りにも魅力に満ち溢れています。後世の創作だからと言って切り捨ててしまう事は僕には到底不可能です。

法華経に説かれるところの、久遠の釈尊、それは高々80年そこそこしか生きる事の出来ない我が身と比べて、余りにも偉大です。しかも、その釈尊が我が身に住するという教義は驚嘆に値します。我が身に住する久遠の釈尊の前には、ただ、ひれ伏すしか有りません。

死の恐怖に苛まれながら生きるちっぽけな我が身、その我が身に久遠の釈尊が住し給うという教えは、やはり、驚嘆以外の何物もない。日々、己心にまします久遠の釈尊を礼拝し、久遠の釈尊と共に生きる人生、それは歓喜としか表現の仕様も有りません。真蹟を欠きますが、御義口伝の「歓喜の中の大歓喜なり」との一節が、心に響きます。

僕にとって、信仰とはやはり人生そのものです。創価学会に、日蓮正宗に、そして戒壇本尊に決別した今日ですが、日蓮聖人の南無妙法蓮華経の教えには、深く帰依して止まない毎日です。

役に立つか、と言えば、信仰を抜きにしては、我が人生は語れない訳ですから、必要不可欠と言わざるを得ません。

4愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 02:44:55

資料を整理していて、まだ起きてましたので、少し所感を述べさせて頂きます。
小生は近年、釈迦牟尼仏よりもゴータマ・ブッダに魅力を感じるようになりました。
ゴータマ・ブッダは、別に特別なことを述べているのではなく、ごくごく当たり前のことを述べているように思います。
ブッダとは超人ではなく、一個の純粋な人間であるとの想いを強く感じさせてくれます。
最近、純粋であり続けることが仏教の教えに近づく近道ではないかと思うようになりました。その辺がゴータマ・ブッダに親近感を持つ原因かも知れません。

5愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 03:02:22

今、日蓮教学や法華経から離れようとしている自分がいます。これは自身の思想的な流れですから、仕方がないことでしょう。ひょっとして、これは新たな信仰を模索する旅の始まりなのかも知れません。此岸を離れ、どういった彼岸に辿り着くのか分かりませんが、命有る限り、これからも弛まず研鑚を続けてまいりたいと思います。

6愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 03:28:01

はっきり言って、ホンネでは五重相対自体がナンセンスだと思っています。五重相対の本質は、「ゆうたもん勝ち」の世界に過ぎず、これを言ったからあっちの理論より優れているといった次元の話に過ぎないと思っています。優劣を争って自己満足に陥ることが仏教の本質とは思えません。
最近お見かけしませんが、恐らくアネモネさんもそう考えられているのではないでしょうか(ロムしてらっしゃるのなら、たまにはレスして下さいよ)。
所詮、大衆とは一個人の集まりに過ぎないといった次元に戻ることが大切なんじゃないでしょうか。個人を忘れた大乗仏教に、人が救えるのだろうか?
これが小生の現在に於ける偽らざる心境です。

7吉祥仙人:2005/02/12(土) 06:34:45
 人それぞれに人生体験があります。私の恥多い人生を述べるのは勘弁していただいて。

 一言で『洗脳』と斬って捨てられることへの反論も、おいおい述べることにして。
 以前書きました「自身の仏界を信じること」これが私の信仰の根本です。
 「人は何かを信じなければ生きていけない。」その中の最大のものが信仰だと思います。

8問答迷人:2005/02/12(土) 06:41:23

愚鈍凡夫さん

>五重相対自体がナンセンス

五重相対は、天台の五時八教の上に成り立っている理論であり、その五時八教は、大乗仏典が後世の作、という歴史的事実に基づかず、全ての仏典を釈尊一代の教説である、という大前提に立って捉えていますから、今日的な視点から見れば、確かにナンセンスと言わざるを得ませんね。仏教の歴史を眺めるのには、参考にはなると思いますが、それを以って仏教を論じるのは無理だと思っています。

>個人を忘れた大乗仏教に、人が救えるのだろうか?

鎌倉に生きた日蓮という人が、どのような仏教に対する捉え方をしたのか、そして、何を行動原理として、あのような苛烈な布教活動を為し得たのか、そして、その日蓮という人の教えが実際はどのような教えで、それが今日に、どういう意味を持つのか、個人的には、僕はこういう視点から、「信仰」を考えてきました。

9問答迷人:2005/02/12(土) 08:54:06

質問です。どなたかお答え頂けると幸いです。

人と人との関係に於いて、信頼関係が大切だと言います。人を信ずると言う事と、神仏を信ずると言う事と、精神作用としての違いは有るのでしようか。

10犀角独歩:2005/02/12(土) 11:55:32

問答さんの問いには、わたしも参加させていただくことにして、

まず吉祥仙人さん。「自身の仏界」というのは、あなた御自身、また、創価学会教学の特徴的タームといえると思います。
ここで質問しますが、では「仏界」とはなんでしょうか。
さらに質問を重ねれば、自分で説明もできないものを信じるとはいったい、どういう精神構造であると自己分析されますか。さらにもう一点、自分ですら、わからないことを人に勧めることを無責任であるというのは一般の見解ですが、そのような批判があるにもかかわらず、理解不能・説明不能なことを自分が信じていることを人に勧めるというのは無責任であるとは思いませんか。

以上、批判というより、「折伏」と言われるものの構造から、一般人が当然のことと導き出す疑問です。お考えをお示しいただければありがたく存じます。これはまた、たぶん、このスレッドで考えていく基礎的疑問になる部分でもあろうかと存じます。

また、もう一点。「人は何かを信じなければ生きていけない」と仰いますが、別段、そのようなことはないでしょう。殊に現代日本は世界でも類例を見ない「無宗教民衆国家」です。それは無信仰民族と換言してもよいと思えます。

わたしはかつて、とある週刊誌の取材に応えて、創価学会・日蓮正宗という信仰を棄教したとき、わたしが人生40年ではじめて気付いたことは、「人間は宗教がなくても生きていける」ということでした。

それに対して、吉祥仙人さんは、人間が生きていく条件のなかに「何かを信じる」ことを示していらっしゃいますが、これはその文脈から言えば「自分自身の中仏界」となるわけでしょう。それは創価学会、池田さんと、熱心な会員の方であれば拡大することができるでしょう。冨士門一般でも、「戒壇の本尊」「日蓮本仏」というタームまで、生きる条件の信仰対象に含まれるでしょう。

しかし、たぶん、これは生きる条件というより、死に行く条件でもあるのだろうと、わたしは思えます。なにもそこまで、奪い去る議論は必要ないかもしれません。しかし、一切が崩壊したあとに残る真実、曙光もあります。故に敢えて議論を進めたいと思います。なぜならば、自分ですら、説明も証明もできないことを進めてきた、無徳さんの好きな言葉を使えば「共同幻想」は、個人の信仰という範疇に留まらず、日本の歴史、人々に多くの功罪を与えてきたからです。わたしたちは、その答えの端緒でも示す義務があると、わたしは考えるからです。

余計なことを、記しましたが、「自分自身の仏界」とはなにか、どのようにお考えになり、それを信じているのか、まずはお示しいただけないでしょうか。

11大勇者:2005/02/12(土) 12:08:33
信仰は「価値」発見であると考えていましたが、
ここ数日の「素朴な疑問」などの投稿を拝読させて頂くと、
信仰には「価値喪失」も有得るのか?と考えざるを得ません。

私は10代の時期にパスカルの「天国の確率」を知って驚き、
20代に牧口氏の「価値論」を紹介され受け入れ入信するに至りました。
然し、今一度「信仰と価値の関係」を再考すると価値とは無から無限大であるが、
信仰で得るものは「マイナス無限大」から「プラス無限大」に亘りしかも、
「ゼロ」の概念が抜けているような気がします。つまり「ゼロ」と「マイナス」の同一視ではないかと。

放浪の天才数学者エルデシュ
ポール・ホフマン
の紹介より引用
**********************************
今、無限にたくさんのドアがあり、その中の一つだけが天国(目的地でも地獄でも、何でもいい)に行けるとします。その中から一つだけ選んで下さい。当たる確率は1/∞、つまりほとんどゼロです。選ばなかった方に当たりがある確率はほとんど1になります。
そこに悪魔(天使でもドラえもんでも、何でもいい)が現れて助けてくれます。選ばなかったドアを一つだけ残して片っ端から開けて、はずれであることを見せてくれるのです。ということは、残った一つは、選ばなかった方の代表であり、そちらの方が当たりである確率はほとんど1だということです。言い方を変えると、乗り換えるということは、選ばなかった方の全部を取る、ということになるのです。分かったかな。
対象が二つの時は開けてみせることがことができないから確率は1/2以上にはならないけど、対象が三つ以上の時なら乗り換えることで確率は倍以上になるわけです。

実はこの本にも説明があるのですが、分かりにくいうえに間違っています。結論はもちろん合ってますが。ヒドイ話じゃないですか。著者も数学者ですから、数学者の実力もよく分かりますナ。もちろん、エルデシュも間違えて、確率は変わらないと主張して譲らなかったようです。

この問題の面白いところは、乗り換えて成功した時の快感よりも、乗り換えて失敗した時の後悔の方が強力だ、という心理的な点にもあると思いますよ。
***********************************

12大勇者:2005/02/12(土) 14:06:31
続き
「見返りを求めない」と人は言います。
然し、「死後」であろうと「心の安息」であろうと、「意識して」又は「意識せず」とも見返りを求めないことなど有得るでしょうか?

よって私のここまでの「信仰に於ける精神作用の傾向」の考察では、
人を信ずる事には「損得」を見るが、神仏を信ずる事には「得」しか見ない。

13問答迷人:2005/02/12(土) 14:47:18

大勇者さん

>人を信ずる事には「損得」を見るが、神仏を信ずる事には「得」しか見ない。

僕の場合は少し違っていますね。

僕には三人のこどもがいます。23歳、21歳、17歳です。21歳の息子が、仕事に失敗して、サラ金に多額の借金を作ってしまいました。仕事に就くのに準備金が要るから、50万円ほど貸してくれ、と言いました。「必ず返せよ」と言って、貸してやりました。「判った、毎月必ず返してゆく」と言いました。それから、もう八ヶ月が経ちました。ただの一円も返してきません。その上、同棲していた娘が妊娠したので、結婚すると言い出しました。これも了解しました。二月末には孫の顔を見ることになるでしょう。

息子にお金を貸すとき、多分戻らないだろうなぁ、と思いました。戻らない事を覚悟で貸しました。親子だからです。しかし、息子は、返す気持は有るようです。ただ、状況が許さないのだと思います。返してくるかも知れない。そうすれば。息子の信用は回復されます。しかし、返さなかったら、もう二度とお金を貸すことはしないつもりです。

仰るとおり、人を信ずる事には「損得」を見ますね。

創価学会に入って、本気で学会に着いて信仰してみようと思ったとき、丁半勝負のような気持がありました。よし、僕の人生を池田先生に賭けてみよう。裏目に出ても良いと決めて、全てを張ってしまいました。結果は惨敗でした。僕の場合は、神仏を信ずる事にも「損得」を見ていたように思います。

14犀角独歩:2005/02/12(土) 16:16:04

問答さんのご解答、石山型信仰を分析する一つの鍵となりました。

この前の研究の折、島田先生は、打ち合わせの段階で「創価学会って、不思議な宗教なんだよなぁ」と、感想を述べていました。

要するに、既成の宗教分類、分析が当てはまらないという意味のようでした。

わたしは、いま『素朴な疑問』で少し書きましたが、信仰を信疑のみで捌いていく単純さも、これまた、一つの特異な特徴であろうと思えます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2006

関係しますが、愚鈍凡夫さんとのご議論のなかで五重相対義のことを触れてお出ででしたが、蓮師のこうした取捨最勝選択の方法論というのもやはり、かなり特異なものですね。いわゆる勝劣論としてカテゴライズされる側面です。それと、いま、ここで触れられた損得論。これもまた、釈尊に由来しない特異点であろうと思えますね。

以上のような特異点で、特異点と観ぜずに学会を含む石山系信仰をしてきた人には、言葉は悪いですが、自分の特異性が理解できないということが起きます。まだしも、その視点に勝劣、優劣という誤認識が加わりますから、他が変なのだと思ってしまうわけです。

そのような観察というか、分析でわたしは見ていた矢先でした。
しかし、さすが問答さんは、そんな特異性の井中から御自身を客観視される術を身につけていらっしゃいました。当然のことですね。もちろん、そうであると思っていましたが、やはり、と思ったので、余計ながら、横レスさせていただきました。

> 信仰…丁半勝負

やってみなければわからない。これを学者は破壊的カルトの勧誘テクニックの一つに数えますね。ですから、そう思われないためには、この常套句を使わないようにすることです。わたしもさんざん使いました。「目の前に液体の注がれたコップがある。それが水か、酒は飲んでみなければわからない。同じことだ。やってみなければ信仰はわからないのだ」、そう先輩の口真似をして折伏に明け暮れたものでした。ここでも信疑という二極論で選択肢は二つしか用意されません。しかし、それはトリックです。いま、考えると冗談じゃありません。毒薬が入った無色透明の液体かもしれないわけです。

西田師は

「多くの人は「やってみなきゃあ、わからない。とりあえず、経験してみてからでも遅くない」という軽い気持ちで接触してゆくが、それは非常に要注意なのである」(『マインド・コントロールとは何か』紀伊国屋書店 P110)

と、その無防備に警鐘を鳴らしていました。
善悪というと二極論と気付けますが、信疑・優劣・損得、そんな言葉になると、それが二極論であると気付けないところに、当門の問題の、根の深さがあるのかもしれませんね。

二極論、ステレオ・タイプ、すなわち権威主義的パーソナリティについて、同師は、同書で以下のように記しています。

「フロム……によると、人間は根元的な不安をいだいている。現代人は共通して、その不安を克服しようとして、自らの自由を放棄し、強力な権威者に絶対的支配を受けたいと願う傾向にあるという。その傾向は、「権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)と呼ばれる性格構造としてとらえられ、非常に多くの研究がなされた」

「権威主義的パーソナリティの特徴は、強者への服従、弱者への攻撃、白か黒かといったステレオタイプ的判断、因習主義などの特徴を共通してもつとされた。その後の多くの研究で、これらに共通の特徴は「思考の固さ(rigidity)や「あいまいな状況に対する寛容性の低さ(ambiguity tolerance)」としてまとめられた」

参:西田公昭師『マインド・コントロールとは何か』
  http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/nisida.htm
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314007133/250-4473928-5329863

  E・フロム師『自由からの逃走』
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488006515/250-4473928-5329863

15問答迷人:2005/02/12(土) 17:00:53

犀角独歩さん

>そんな特異性の井中から御自身を客観視される術

丁半信仰というのは、変な信仰ですね。やはり、幸せになりたいと思っている人から幸せを奪い取る仕組みがそこには隠されていますね。それは、あたかもマルチ商法が、一儲けしたいと思っている人からお金を巻き上げる仕組みに似ています。

16大勇者:2005/02/12(土) 17:19:01
問答迷人さん
>人を信ずると言う事と、神仏を信ずると言う事

改めて考えますと、この命題には「人」の領域と「神仏」の領域を区別しなければならなくなってしまいますね。
私にとってですが(敢えて神仏の擬人化であることをおことわりしておいて、)
イメージすると、
池田先生は人の領域。キリストは人の領域。私を折伏した人は人の領域。
釈尊は仏の領域。日蓮大聖人は仏の領域。

ここまで書いて気がついた・・・
  〜結局「人」を通じて「神仏」を見ることに(ウーン

「天国の確率」では、
若し本当に「天国」があった場合、「信じてる者」は「天国」。「信じない者」は「無になる」
「天国」などない場合「信じてる者」も「無になる」。「信じない者」も「無になる」

創価学会に入って裏目にでても「元の戻る」だけで(ダメもと)、損はない。
若し本当に良いことあったらラッキー。と、こんな程度でした(笑
しかし、今辞めたら確かに著しく「損」した気分になるでしょう。
だがこれは「コミットメントの一貫性」であり実際は「素に戻る」だけであり「普通」になるだけでは?(ウーン
「人生の時間と労力」を損したような気分だが、労力と時間は信仰しようがしまいが死ぬまで「損」し続けるとの見方も出来ます。

17問答迷人:2005/02/12(土) 18:24:52

大勇者さん

>「人生の時間と労力」を損したような気分だが、労力と時間は信仰しようがしまいが死ぬまで「損」し続けるとの見方も出来ます。

プラス思考だとそうなるとも言えますね。

ただ、損すると判っていて投資する人はいないと思います。損するかも知れないけれど、大儲け出来る可能性が有る、と思うから、リスクを覚悟の上で投資するんだと思います。

大勇者さんは、この信仰を貫けば、成仏の境涯わ味わえる、晩年、何不自由の無い生活が約束される、と信ずるから、信仰されているのではないのでしょうか。もし、そうなら、信仰にも「損得」を見ておられる事になるのではないでしょうか。

18問答迷人:2005/02/12(土) 18:54:16

日蓮聖人の真筆曼荼羅には、『有供養者福過十号 若悩乱者頭破作七分』と左右に認められたものが現存します。やはり、日蓮聖人も、信仰に「損得」を見ておられたのではないかと思います。

これは所謂、勧戒の二法、今日的に言えば、飴と鞭でしようか、それが示されていると言う事は、やはり、法華信仰のあり方には特異性があると言えるのではないでしょうか。もし、所謂カルト宗教の特異性と一致するのなら、日蓮聖人の教えと、カルト宗教との類似性、相違点を検討しなければならないだろうと思います。

19吉祥仙人:2005/02/12(土) 19:01:34
 犀角独歩さんへ

 >10の質問にお答えする前に

 ここにいらっしゃる皆さんは当然「十界論」はご存知と思って「仏界」を出したの
ですが、そこからご説明しなければならないかどうか、教えてください。

 また「人は何かを信じなければ・・・」とは宗教・信仰に限ったことではなく、
(「人間革命」のどこかにもあったと思いますが)仕事をすれば金がもらえるとか、
勉強すればいい学校に入れるとか、そういう卑近な人間の行為にも「信じる」という
行為がついて回るということです。その延長上で生きるうえでも「信じる」が必要になる
ということです。(家族愛でも、金でも、思想でも、人間不信でも、兎に角何か)
 
 その上で、真に信じ得るものを信じることは、人生に有益だと思うのです。

20犀角独歩:2005/02/12(土) 19:11:57

吉祥仙人さん、気付かれていないんですね。

ここの投稿される方で、学会の活動現役の方々を除いて、「自分の心のなかの仏界」なんて書いている人は一人としていませんよ。
だから、敢えて問うているのです。お答えいただけますか。

正直、申し上げて、わたしは仏界とか、仏の境界については説明できません。
また、ちゃんとした説明を聞いたこともありません。

> 生きるうえでも「信じる」

わたしは、これも特にそのように思いませんね。
信というのは確率の問題ですから、過去の繰り返されて失敗がなかったことを確率論的に信頼しているに過ぎません。まあ、これは、このスレッドのテーマではないでしょうね。

21犀角独歩:2005/02/12(土) 19:22:50

問答名人さんは、『有供養者福過十号 若悩乱者頭破作七分』を損得と読み解きますか。
わたしは十号(=仏)と頭破(=地獄)という二元論と考えていました。
仏になると得・地獄に堕ちては損という損得論では考えてきませんでした。

22大勇者:2005/02/12(土) 19:29:05
問答迷人さん。どうもです。
>この信仰を貫けば、成仏の境涯わ味わえる、晩年、何不自由の無い生活が約束される、
>と信ずるから、信仰されているのではないのでしょうか。

うーん。そこまでは考えていないかもしれません。私は実際あまり「唱題」とか行わないし・・・
学会に入って変ったと感じるのは「人間が成長した」ような(錯覚)と、「平凡な幸せ」がいかに困難かを知った事でしょうか。
でも信仰に出会えて良かったと思っています。(今のところ)
>信仰にも「損得」を見ておられる事になるのではないでしょうか。

私は結局人間は、本能的に「損得」を考えているのであって、
人類は宗教に「得」を感じるから世界には宗教があるのではないかと思います。
それは一部の上層部の人達の「利益」の意味ではなく大衆が「得」を感じたからのものだと思うのです。
何故「得」を感じるか?それは人が神仏と向い合った時には「損」を意識しないからではないかと・・・
つまり、先に挙げたパスカルの計算やエルデシュの計算などは単なる再認識であって
人間は意識せずとも直感的に「損得計算」行って「得」である宗教を作り上げた。
(妄想的であることを自己反省しながら投稿してみました)

23問答迷人:2005/02/12(土) 19:51:13

犀角独歩さん

>仏になると得・地獄に堕ちては損という損得論では考えてきませんでした。

なるほど。そうすると、僕の理解は学会流なんでしようね。「御本尊様には罰と功徳が認められている」このように入会当時、教えらたように記憶しています。それで、

『有供養者福過十号 若悩乱者頭破作七分』→罰と功徳→損得

と思考が繋がっているようです。蓮師の本意を思えば、やはり、仏と地獄と捉えるのが正解ですね。気宇広大な蓮師が矮小な損得を認められたとするのは、確かに変ですね、訂正して撤回します。

24犀角独歩:2005/02/12(土) 20:01:15

いやいや、問答さん、撤回など、とんでもございません。
そのようなとらえ方もありだと思います。

ただ、たしかにそれを損得という観点でとらえた典型は戸田さんであったろうなと。
まあ、あの方は、大らかでしたからね。

25吉祥仙人:2005/02/12(土) 20:04:59
 犀角独歩さんへ

 「自分自身の仏界」を「自分の心の中の仏界」と解釈されたようなので
 「己身の仏界」と訂正させていただきます。

 (真筆)が存在するかどうかは勉強不足ですが、「仏界ばかりは現じ難し、
九界があるを事から存在を推測する。」という内容の大聖人の言葉があったように
記憶しています。
 ちゃんとした説明になるかどうか自信はありませんが、『全ての人間には仏の
生命がある。無限の力がある。』その源が仏界といったところでしょうか。

26愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 20:14:43

横レス失礼します。
ちなみに、吉祥仙人さんが仰ってるのは次の文証のことでしょう。

「問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備うるに似たり、四聖は全く見えざるは如何、答えて曰く前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること 勿れ、」(「観心本尊抄」学会版P241)

引き続き、頑張って下さい。失礼しました。

27吉祥仙人:2005/02/12(土) 20:21:30
 愚鈍凡夫さんへ

 浅学な私のために、有難うございました。

28犀角独歩:2005/02/12(土) 20:33:26

愚鈍凡夫さん、フォロー絶妙。

吉祥仙人さん、そう、ここなんですよ。
「仏界計り現じ難し」だけれど、疑い惑うなというわけですね。
基本的には、わたしは、こんな説明では、蓮師の言葉であろうが、わたしはまったく納得しません。

意地悪をしているわけじゃないんですよ。ここが肝心なので、信仰と「思い込み」を分けるところでもあると思うから追及するわけです。

>…全ての人間には仏の生命がある

なんで、そんなことが言えるんでしょうか。
また、その「仏の生命…源が仏界」とは、では、なんですか。

無限の力でしょうか。無限の力なんかないでしょう。
人間は極めて有限の存在ではないでしょうか。
どうでしょうか。
言葉のマジックでイメージを作り上げたもっともらしく言い繕っているだけではありませんか。以上、質問です。

人がカルトと見る判断。
わたしは吉祥仙人さんが言う「仏界」「生命」「無限の力」とは、以下の批判に耐えないものであると思います。(誤解がないようにおことわりしますが、けっして吉祥仙人さんの個人攻撃を行っているのではありません。もっと本質的なことなので、この際、はっきりさせたいのです)違いますか。

「特殊用語がそのとおりの意味を持ってくること、そして言葉やイメージが神になることである。非常に単純化された言語というものは、月並みに見えるかもしれないが、まさにその単純化のゆえに途方もない魅力と心理的威力を発揮できる。人生の−−しかも非常に複雑な若者たちの人生の−−どんな問題でも、一組の単純な原理に還元できる。しかもそれは、それなりにつじつまがあっているので、当人は真理を体得したと主張するし、事実そう感じるのである。答えはすぐに手に入る。ライオネル・トリリングは、これを『無思想の言語』と呼んだ。まず決まり文句と単純なスローガンがあって、本当ならじつに複雑な難しいはずの諸問題が、それに還元されてしまう」

「ある言葉をコントロールすると、思想をコントロールするのに役だつ。たくさんがグループが、複雑な状況を単純化してそれにレッテルをはり、カルトの決まり言葉に換言してしまう。このレッテルこそ、詰め込み言語を具体的な言葉に表したものなのだが、それが、ある状況でメンバーがどう考えるかを支配する。カルトの決まり文句または『詰め込み言語』は、また、信者と外部の人々の 間に見えない壁をつくる。詰め込み言語は、メンバーたちが自分を特別だと感じるのを助け、彼ら を一般大衆から引き離す。詰め込み言語はまた、メンバーが何のことを話しているのか理解したいと思っている新参者を混乱させ、真理を『理解』するためには自分はひたすらもっと勉強しなけれ ばいけないのだと思わせるのに役だつ。実際は、詰め込み言語を身につけることで、彼らはいかに【考えない】かを学ぶにすぎない。彼らは、理解するとは信じることだということを学ぶ」


29愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 21:12:14

吉祥仙人さん、再び横レスです。
大きなお世話ですが、創価学会員の有志の方々で作られた「からぐらシステム」というのがあるそうですが、御書の研鑚に役に立ちそうですから、導入されてはいかがでしょうか。
ちなみに小生は、

「最後に、御書データ等の配布に関しましては、著作権などの関係から、現在、協力者及び有志の方のみに限定していますので、合わせてご了承ください。」

とありますから、導入していませんけど。

御書データベース「からぐらシステム」
http://www.ginpa.com/karagura/system.html

30問答迷人:2005/02/12(土) 21:54:51

吉祥仙人さん

>『全ての人間には仏の生命がある。無限の力がある。』その源が仏界

吉祥仙人 さんのお説に近いものとして、「一切衆生悉有仏性」という大乗の漢訳涅槃経の教説が有ります。ただ、この場合も「仏性とは何か」という課題を避けて通る事は出来ませんね。「仏性」とは、何でしょうか。「仏になる事の出来る性質」等と言い換えても、「それでは仏とは何なのだ」と問われれば、直ちに答えに窮しますね。

デカルトは「我思う、故に我有り」と言いました。これが、今日の文明の一番の根っ子だそうです。どのように疑っても、そのように思索している我の存在自体は疑いないものだと。

仏界、或いは仏性を、そのような確固たる原点として提示したとき、初めて「仏教は役に立つ」と言いえるのだと思います。道のりは遠いように思えますが如何でしょうか。

31空即是進化:2005/02/12(土) 23:08:37
管理人さま スレッドを立ち上げていただいて本当にありがとうございます。
 それにしても、当掲示板参加の皆様はさすがですね。他では危なくてとても
出せないテーマだと思いますが、ものすごく実りのあるものになりそうな気が
します。機も熟してきたということでしょうか。私も浅学ながら、精一杯思う
ところを述べたいと思います。浅学な上に手持ちの資料といえるものがほとん
ど無いため、根拠を示せと言われても、ごめんなさいとしか言えませんが、間
違いは間違いとご指摘ください。また、根拠となる資料等をご存知の方がいら
っしゃればご教示をお願います。

愚鈍凡夫さんの 
 <ゴータマ・ブッダは、別に特別なことを述べているのではなく、ごくごく当
  たり前のことを述べているように思います。ブッダとは超人ではなく、一個
  の純粋な人間であるとの想いを強く感じさせてくれます>
 との発言に全く同感です。

  釈尊の真意は、極普通の人間の生の苦しみを、少しでも緩和させたいという
 ことだったのではないでしょうか。超人を生みだすことではないと思う。
  当時はやりの「梵我一如」に対し、「諸行無常・諸法無我」を説き、永遠とか
 絶対とかへの執着を戒めたのではないか。執着は結局「苦」となる。

  私も学会員時代、集中して唱題をしている時に、急に自分が虚空に浮かび、
 御本尊と自分が一対一で向き合っているというような感覚になったことが一度だけ
 あります。それはそれはすばらしい体験であり、世界が変わった気がしました。
  それは、しばらくたてばいつもの日常であり、客観情勢に変わりは無いものの、
 非常な勇気と確信の元になりました。
  あのような体験が、修行によって随時味わえるとすれば、これほど魅力的なこと
 はないでしょう。法悦というんでしょうか。残念ながら私は一度しか体験できませ
 んでしたが。
  しかし、今にして思えば、あの浮揚感を感じる方法は他の宗教でも、他の本尊で
 も可能なのではないか、また、それが永遠の生命やら絶対の法を証明するものとは
 言えない。薬物でも可能らしいし。

  私が学会活動を積極的にやり始めたのは中3の時ですが、戸田先生の生命論を知り
 本当に感動しました。「生命は永遠なんだ」と。そして、それを教えてくれるのは学
 会しかないんだと。非学会員は生命が永遠だということを知らず、無用に苦しんでい
 ると。我ながら当時の無邪気な自分がたまらなくいとおしい。

  釈尊が「我」に執着することを戒めたにもかかわらず、後世の弟子達は「我」を捨
 てキレなかった。スッタパミータにすら「梵我一如」の影響が出ている。それほど魅
 力的なんですね。結局、インドでは「無我」が「梵我」に負けてしまった。

  釈尊は誰もが幸福になれる簡単な教えを説いたにもかかわらず、弟子達は「偉大な
 ブッタ」であるからには記録にはないが‘こう言ったはずだ‘‘真意はこうだ‘と次々
 に創作を重ね、また、自己の主張を権威付けるため、組織を維持し自分たちの生活を
 守るため、たぶん善意のつもりで肉付けをしてきたのではないか。
  これは、六老僧も現宗門も学会も同じようなもの。

  今信ずべきは「諸行無常」「諸法無我」「色即是空」「十二因縁」等か。
 これらは、昔の人間より核物理学やビック・バン理論を知った現代人のほうが、より
 理解しやすいのではなかろうか。

  宇宙及び生命の存在理由は「エントロピー増大」「進化」がキーワードと考えてい
 ます。
  誰かさんに根拠の無い独善だと笑われるかもしれませんが、今のところこれぐらい
 にしておきます。もう少し能力があれば、もっとましな主張ができるのでしょうが、
 ご容赦を。

32犀角独歩:2005/02/12(土) 23:47:33

28は、まあ、たしかに 吉祥仙人さんに、向けた質問になりましたが、実はわたしがかつて受けた質問です。

「成仏するって言うけど、いったい、いつ、誰が、成仏したんですか」と、クリスチャンに詰問されたわけです。まあ、こんなときに「死んで、色が白く、軽いと成仏なんです」なんて言った日には、たったひとこと、「…バ・カ?」と言われて終わってしまいます。

ここのところ、スティーヴン・ハッサン師の『マインド・コントロールの恐怖』を多用してきましたが、この書はアメリカ日蓮正宗(つまりはSGIもですが)を、掛け軸に拝んでいれば、何でも祈りが叶うという「カルト」と断定したものでした。
しかし、このように引用しながら、考証してみると、学会を含む石山信仰は、それに対する適正な反論を、今のところ、十分に用意できていないように窺えます。まして、一般会員に至っては、まったくその批判に甘んじる状況にあるというのが、当スレッドが立って以来、やりとりの印象です。

ここで批判者を憎悪したり、根拠も挙げず、悪口を言うのは感嘆ですが、ハッサン師が示すマインド・コントロールのカテゴライズから、脱却する新たな形態構築を考えることのほうが、世界市民としての承認を得ることは事実です。

一般の遡上に乗り、批判を厳正に受け止めながら、修正するところは修正し、前進すること、それを「健全」と評する、わたしは思うわけです。

33大勇者:2005/02/13(日) 00:25:51
戸田氏の生命論はたしかに、生気的なものやエネルギー梵や我などを否定したと言われる「無我」と矛盾するように思える。
しかし「生命」を生々しく受け取るイメージは、実は受け取り側の勝手なイメージに過ぎないとも言える。

36吉祥仙人:2005/02/13(日) 07:23:45
 犀角独歩さんへ

 >28 こんな説明では、蓮師の言葉であろうが、私はまったく納得しません。
 
 大聖人は「知者にわが義破られずば、持ちいじとなし」と自信を持って教えを
説かれたわけで、私はそれを学会流に言うなら「歴史の淘汰を受けていない思想」
として信じていたわけです。
 仏界について、納得いくように説明し実証を示せれば、もっともっと折伏が
できていたでしょう。
 
 >信仰と思い込みをわける

 はっきり言って、それは無理と思います。これが信仰だといっても、必ず
それは思い込みに過ぎないという論難が可能になると思います。
 思い込みでないという証明は、悪魔の証明といわれる「ないことの証明」に
近いと思います。

 おまけ
 クリスチャンに「いつだれが成仏したのですか」などといわれたら
 「いつだれが天国にいったのですか」とでも、聞いてやればよかったと
思います。

37犀角独歩:2005/02/13(日) 10:13:03

36 吉祥仙人さん:

> 大聖人は「知者にわが義破られずば、持ちいじとなし」

ですから、その蓮師の言は、はっきりと100年前に崩壊したわけです。
漢訳法華経、天台学を基礎にした蓮師の教義は、根底から近代仏教学の前に、敗れ去り、崩壊したわけでしょう。それを認めないのは、そんな学問を知らない石山圏という井戸の中だけです。

> 「歴史の淘汰を受けていない思想」

歴史の淘汰を受けていないではなく、現実から目を背けることによって成立してきたの間違いでしょう。

> 仏界について、納得いくように説明し実証を示せれば、もっともっと折伏が
できていたでしょう。

そのとおりですね
で、その仏界の説明はどうなさいましたか。

> 悪魔の証明といわれる「ないことの証明」

では、この言葉を奪って言えば、あなたが「己身の仏界」はないことの証明である故に説明できないわけですか。


> クリスチャンに「いつだれが成仏したのですか」などといわれたら
>「いつだれが天国にいったのですか」とでも、聞いてやればよかったと
> 思います。

その質問は不可でしょうね。何故ならば、召天は死後に係りますが、蓮師に限らず、仏教で言う「成仏」は元来、生きているときに係ることです(有余涅槃)。まして、上述の議論をしたときのわたしは創価学会員で、十界論に基づいていたわけです。九界まで説明できたけれど、最後、仏界に関しては蓮師文献の中で、その文証がない。これは議論としては成り立たなかった経験を言うわけです。
仏界を言い出したのは、わたしですから、当然、説明の義務があります。それを説明できなかったとすれば、わたしに非があることを認めざるを得なかったということです。

まあ、いわば吉祥仙人さんが、今回、仏界を言い出したことは、それと同じ火坑に墜ちたということです。「違う」と言われるのであれば、方法はただ一つ、仏界をここに明快に説明される手だてのみです。

38吉祥仙人:2005/02/13(日) 12:00:36
 犀角独歩さんへ

 お答え有難うございます。

 以前、日寛上人の理論を大聖人の理論の発展系として捉えられないだろうかと、
どこかに書き込んだ記憶がありますが、法華経も釈尊の教えの発展系として
とらえ、文献上学者が認める釈尊直説ではないとしても、正しいのではないかと
思います。(確か桐山某師を罵った記憶もあります。)
 「己身の仏界」があるという証明は、九界があるという証明と同じように、自身の
経験・内省・直感その他によるしかないと思います。それが論証になっていないと
言われるのなら、ある意味信仰そのものが論証不能となるでしょう。
 私も20歳で入信する前、あるクリスチャンと論争した挙句、「実際に信じて
みなければ分かりません。」といわれた経験があります。(私は唯物論で攻めたのですが)

39大勇者:2005/02/13(日) 12:52:10
犀角独歩さん 宜しければご教示頂きと思います。

よく分かりませんが、
十界論の中での仏界についてを議論なさっているのだと思います。
十界論を持ち出しての仏界は現代の批評に耐ええるものではないと言う事を仰られてるのでしょうか?

十界論については御義口伝の十喩と、十法界明因果抄(写本)に記述があると思っていましたが、
蓮祖は「十界論など説かなかった」のでしょうか?

40犀角独歩:2005/02/13(日) 12:54:10
38 吉祥仙人さん:

> 日寛上人の理論を大聖人の理論の発展系

「発展」系というと蓮師の教えより、寛師のほうが優れていることになりますね。

> 法華経も釈尊の教えの発展系

これは上述と同様です。また、このような考え方は過去に例があります。
中古天台本覚恵心流口伝です。すなわち、天台勝釈迦劣・止観勝法華劣です。
釈尊<法華経<日蓮 で蓮師がいちばん上というのが日蓮本仏論ですから、いみじくもその解釈系譜に吉祥仙人さんもあるということでしょう。

> 文献上学者が認める釈尊直説

ええ、この部分が間違っていると言っているわけです。
100年前まで、大乗経典が後世の創作であると思っている人はいなかったわけです。
蓮師自身、法華経を釈尊の直説、正説であると言ったわけで、その部分が間違っているとわたしは言っているわけです。

> 正しいのではないか

なにが正しいと思われますか。

>「己身の仏界」…論証不能

そうですね。論証不能でしょう。ですから、仏界があるという人の振る舞いで見るしかないわけです。つまり、学会が、学会員がどう振る舞うかという姿を通じて、世間一般はその実否を知るということです。

反論不能になると、口汚い人格攻撃に転ずるような、ここに登場した自称学会員には三悪道は見えても、仏菩薩はまるで見られないというのが実際的な認識になります。賢明な議論が望まれる理由もここにあります。

仏界があるという吉祥仙人さんの今後の投稿のなかに、果たして本当に仏界があるか否かを観察させていただくことにするほかありません。

41愚鈍凡夫:2005/02/13(日) 12:54:58

横レス失礼します。
「六道輪廻」という概念に「四聖」と言う概念をくっつけたのが十界論でしょう。
別々のものを一つにくっつけるから、ややこしくなるんだと思います。
「六道輪廻」は、もともと輪廻を繰り返す命の定めを、如何にして「人」に生まれ、仏道修行を続けていくかを説いた歴劫修行の教えだし。
「四聖」は、「声聞」、「縁覚」、「菩薩」といった、「成仏」を目指す3通りのアプローチに、最終目的である「仏」を加えたものではないでしょうか。
それを、精神作用の状態に置き換えるから、仏界の説明が付かなくなるのではないですか。

42犀角独歩:2005/02/13(日) 12:57:06

39 大勇者さん:

蓮師は十界論というより、妙楽説一念三千を最高峰に置くわけですから、それを依拠したのは当然でしょう。

43大勇者:2005/02/13(日) 13:10:07
犀角独歩さん 有難う御座います。

十界論=精神作用=生命状態
とした位置付けは、学会が新宗教である所以ですね。
私もそのように思います

44犀角独歩:2005/02/13(日) 13:37:01

41 愚鈍凡夫さん:

そうですね。

時系列で言えば、インドに侵入したアーリア人は、輪廻思想を持っていなかったと言いますね。古い記憶ですが、長尾雅人師が「悪い行いをすると豚に生まれる」という思想を、元々の定住民族であったドラビダ人が持っており、これを包摂する形でバラモン教に輪廻思想が持ち込まれたと読んだ記憶があります。この段階では六道より単純系であったのでしょうね。

これがウパニッシャッド・二道五火説へと発展し、地上のバラモンが天上のバラモンになるという形が加わり、ここに六道は始源が形成されたのでしょうか。

さらにシャキャムニの時代にはバルナ(色:バラモン・白、クシャトリヤ/バイシャ・黄、シュードラ・黒)の混血も進み、沙門から阿羅漢、さらにシャキャムニの弟子(声聞)が発生、ここに二乗が添加。

そして(たぶん、イラン、ミトラ信仰の影響から)菩薩思想が隆起、ここに仏陀を含めて、十界が出揃うことになったわけでしょう。

45犀角独歩:2005/02/13(日) 13:42:38

大勇者さん:

これは、吉祥仙人さんへの40のレストも関連しますが、十界論がシャキャムニと、生命が蓮師と関連しないとしても、それはそれです。

変な言い方ですが、現代、その仏を頂点とする十界論を懐く人々の言説・行動から、外部が仏を観れば仏は今日的な意味を持つのでしょうね。

46大勇者:2005/02/13(日) 14:41:22
犀角独歩さん
結局のところ、私は「信仰は何をもたらすか」しか考えていないようです。
実不実に対する問題意識は希薄かも知れません。
人類になどと大袈裟なことは言いませんが、自分が何を信じれば「得」なのか?
実りある人生を過ごせるか?が一番大事です。
池田さんのスピーチに価値があるのなら信用しましょう。
高祖遺文に価値があるならば信じましょう。法華経に価値があるならば糧としましょう。
二元論かも知れませんが、本音は「得」したいのです。「損」したくないんですね。
私にとっては、宗教、信仰、教義はすべて「幸福論」なのかも知れません。
以上 ぶっちゃけでした。

47犀角独歩:2005/02/13(日) 14:47:05

46 大勇者さん:

戸田さんの延長からして、仰るところは、そうであろうと理解できます。
わたしはそれを創価学会、創価教学ということに、何ら反論はありません。

ただ、ここでは、そこから石山教学、富士教学、日興教学、日蓮門下教学、日蓮教学へと、過去へ遡源しても考えていますので、そのような広い範疇からですと、そのようなお考えを、それらに共通する考えであるという点に就き、認めがたいとコメントするのみです。

48大勇者:2005/02/13(日) 15:09:45
犀角独歩さん

>47はそれはそれでよく理解出来ます。

しかし、幸せになる為に信仰して何故不幸が生まれるのか?
その「リスク」と「危険」の起因の分析は過去へ遡源しても考えていかなければなりません。
浅識の私にはまだまだ解り得ません。
ご面倒でしょうが今後とも宜しくお願いします。

49犀角独歩:2005/02/13(日) 15:18:04

48 大勇者さん:

こちらこそ、宜しくお願いいたします。

50問答迷人:2005/02/13(日) 16:27:22

大勇者さん

>しかし、幸せになる為に信仰して何故不幸が生まれるのか?

創価学会流に言えば、その信仰が間違っているから、そういう事になりませんか。間違った宗教を信ずれば不幸になり、逆に正しい信仰を信ずれば幸せになれる。これが、一貫した創価学会の主張でした。

51問答迷人:2005/02/13(日) 16:53:54

日蓮聖人も四箇の格言で当時の浄土、禅、律、真言の四宗を攻撃して、法華経信仰を広めたわけですから、「間違った信仰をすれば不幸になる」という主張は蓮祖以来という事になります。

そして、問題なのは、その「正しい信仰」として蓮祖が提示した法華信仰に於いても、やはり信仰すれば不幸になる、という現実がある以上、法華経も本来信仰すべきものではないのではなかろうか、という疑問に到達せざるを得ません。これは、法華経が釈迦の説法ではない、という仏教学の成果を踏まえて、考えなければならない点でもあります。

さらに、「間違った宗教を信ずれば不幸になり、逆に正しい信仰を信ずれば幸せになれる。」この事は本当のことなのかどうか、吟味し直さなければならない。ひょつとしたら、どのような信仰も幸せをもたらさないのではなかろうか、そんな疑問に突き当たります。そして、それでは、信仰は全て有害無益なのか、という疑問。

或いは、信ずる対象の問題ではなくて、信じ方、信仰のやり方によって、幸不幸が決まる、ということは無いのか、という疑問。

あるいは、神仏は全て幻想に他ならず、そのような実在しない物に囚われる事がおろかな事であり、迷信に他ならない。信仰は人から正常な知性を奪い去る麻薬であるから、近づいてはならないという事なのだろうか。

特に、日蓮聖人に連なる信仰体系において、五時八教が否定されている以上、五時八教及び、五時八教に由来する全ての宗教批判の原理は全て反古だと言う事。そして、それに代わる、仏教学や仏教考古学の成果を踏まえた宗教批判の原理を提示しない限り、いくら法華経が最高、南無妙法蓮華経が最高、と叫んでみても、まったく「鰯の頭も信心」のレベルに過ぎず、とても、僕には他人に勧めるような蛮勇は湧いてこない、という事です。また、犀角独歩さんではないが、「法華経が最高だか信仰してみないか」などと言う人を見たら「なぜ最高なのか、証拠を言ってみろ」と詰問する責任があると思っています。

52問答迷人:2005/02/13(日) 17:12:49

個人的な心象風景を書いて見ます。

個人的に僕が鰯の頭を信仰するのは、これは自由でしょう。鰯の頭も、普通の鰯ではダメで、太平洋の荒波に揉まれた、体長10センチの鰯で無ければならない。それを天日干しにして、絹の布で磨き上げた鰯の頭だけが霊験がある・・・・

こんな事も、一人で、心の中で信じているだけなら何も問題は無い、そして、鰯の頭を信仰している事は他人に告げても別段構わない。結果として、鰯の頭信仰をやっている僕の振る舞いが、他の人に比べて、如何にも素晴らしい、人として立派だ、お付き合いしたい人だ、となれば、鰯の頭を信仰する人が増えるかもしれない。そして、それは構わないと思う。

問題は、「この鰯の頭は最高だよ、信仰したら、お金は儲かるし、癌でも治るし、幸せ一杯の人生が約束されているよ」と言って鰯の頭信仰を勧めたら、それはどうなるだろうか。やはり、なぜ、その鰯の頭を振興すると幸せになれるのか、説明しなくてはならないだろう。理由は説明できないが、確かにそうなる、というのなら、鰯の頭を信仰した人の癌が治ったパーセントが鰯の頭を信仰していない人と比べて、格段上であることを、統計的手法で示さなければならない。又、過去の文献があるのなら、その文献を証拠として提示する必要もあるだろう。

文証、理証、現証と日蓮聖人は仰ったが、鰯の頭が最高である、という事は、文証でも破綻し、理証でも破綻し、現証も示せないと思う。

53問答迷人:2005/02/13(日) 17:14:48

訂正です。

× その鰯の頭を振興すると

○ その鰯の頭を信仰すると

54問答迷人:2005/02/13(日) 20:57:00

空即是進化さん

>31 急に自分が虚空に浮かび、御本尊と自分が一対一で向き合っているというような感覚になったことが一度だけ  −中略ー  非常な勇気と確信の元になりました。

僕も、よく似た体験があります。感覚として表現するとすれば以下の様な有様でした。

「自分が虚空に浮かび、御本尊と自分が一対一で向き合っているというような感覚になりました。そのまましばらくお題目を唱えていると、その唱えている自分のお題目が御本尊様の南無妙法蓮華経のお文字と急に溶け合い、一つに融合しました。」

この不思議な感応体験が有るので、鰯の頭信仰と同列としか思えなくても、僕は法華経、日蓮聖人から離れる気になれないのだと思います。

55犀角独歩:2005/02/13(日) 23:23:02

なにを今さらの話ですが、44の自己レスです。

六道成立に至る系譜ですが、地獄の思想は、元来インドにはなかったと記憶します。ヤマ(最初の人、故にいちばん最初に死んで冥府に行き支配者になった、ヤマ=閻魔)、地獄の思想はどこから輸入されたのか、その起源はチグリス=ユーフラテス河流域でしたか。。

餓鬼の起源はよく知りませんが、バラモン教のなかで、子孫に供養を捧げてもらえないものは餓鬼となるという話がありましたね。

阿修羅は外来の神である故に、その起源では善神であったものが悪鬼とされたのでしたね。

そんな話でした。いちいち、資料は挙げませんでしたが、輪廻(サンサーラ)思想が仏教だと思ったら、大きな間違い。シャキャムニ登場以前のインド史。アーリア人の侵入、土俗民話との融合、外来思想との融合という数千年単位のシンクレティズムの末に成立した仏教以前の思想ですね。

また神(天)に至っては、多くのインド、その他地域の神々が、多く習合しながら日本に招来されたわけです。これらもまた、元来の仏教とは関係のない外来思想でした。

さらに言えば、シャキャムニは自分が祖師であるという認識はなかったと言います。
ニッバーナ・スッタンターなどを見ても、シャキャムニは偉大な修行者として、亡くなっているわけで、いまでいう超越的な本仏など、どこにも見られません。ブッダとは、その原意は、単に目覚めた者という意味であったと記憶します。

さてさて、そんなこんなの末の末、日蓮は本仏だ、己心の仏界だ。さて、どうやって、上述の学問的成果と整合性が採れるのか、採らずに語れば、一般常識から物笑いのタネ、太陽は地球を周りを回っているというのと、あまり変わりません。これに歯にくっついた御肉がいまでも生きて成長している、楠板の彫刻は生きている日蓮そのものという話をくっつけて語れば、まあ、オカルト、おまじいの類と思われても致し方のないという一般の見識眼を、そろそろ、石山圏でも意識したほうがよいのではないのか? というのは、果たして本当に批判でしょうか?

56大勇者:2005/02/13(日) 23:40:26
>50 問答迷人さん
>間違った宗教を信ずれば不幸になり、逆に正しい信仰を信ずれば幸せになれる。
>これが、一貫した創価学会の主張でした。

私も折伏された時に散々言われました。確かにその通りです。
しかもそれは、感受に留まらず現実的なものであるとまで断じるわけです。
また、幸と不幸の境も定義などの考察は浅く、絶対的、相対的などで終始し、
後は仏法に答えを求めよとの調子でしょう。

不幸とは、「幸せでない」です。
ここに負の概念は見当たりません。

最初にゼロの概念と負数の概念を発見利用したのはインド人であるようです。
シャキャムニがゼロの概念を知っていたかは知り得ませんが、大乗の興りと竜樹までの期間に
ゼロの概念である「空」の確立が重なるようです。負の概念は更にその後インド〜中国と広がります。

現代から考えて「末法」や「宿業」は人は生まれながらにして「マイナス」を背負っている解釈に考えてしまうが
これはどうなのだろうか?末法も宿業も+1、鰯の頭も+1なのではないだろうか?

57問答迷人:2005/02/13(日) 23:45:56

犀角独歩さん

人類史上に幾多の宗教がありますが、突き詰めてゆくと、今日の科学的検証に耐える宗教は果たして存在するのでしょうか。恐らくは、否。

それでも、真実の宗教、信仰を求めてさまよいあるく必要があるのでしょうか。答えは恐らく否。

釈尊、天台、日蓮。そして、キリスト、マホメット。何か真実を本当に見たのでしょうか、そうかもしれない。しかし、今日にそれらが伝えられる間に、そのエッセンスは全て覆い隠されてしまっているのではないでしょうか。

もはや、宗教、信仰の出番は無いのでは。

独歩さんはこの点、どう思われますでしょうか。

58犀角独歩:2005/02/14(月) 00:22:51

問答名人さん、実に‘ヘソ’の部分ですね。

わたしは問答さん、また、空即是進化さんがお書きになっておられた体験を興味深く拝読しました。もちろん、わたしもそのような体験はあります。

わたしには実は、現代の科学レベルに対応できる宗教を確立するという、まあ、野心ではないのですが、そのような思いがあります。『21世紀の日蓮』、そんな本を出そうと思っているところもあるんです。

従来のお伽噺とあまり変わらない経典やその他、しかし、その中にまざまざと息づく、人の心を打って止まない何か、人を精進に駆り立てる、人を善心に駆り立てる何か、そんなものをしかし、仏教は持っています。科学に耐えないばからしい部分はもちろん、あります。しかし、その狭間に見え隠れする人類の精神的な英知の蓄積を、しかし、たぶん、問答さんも、法華経や、日蓮の遺文の行間にご覧になっておられるのではないでしょうか。お話にならない部分は捨て置いて、そのようなエッセンスを、もう一度、抽出してみるのもいいんじゃないだろうか。そんな気持ちがあります。

わたしは、旧約聖書の天地創造なんかSF的には面白くて好きです。しかし、あんなものが事実であるはずはありませんよね。しかし、それを懐く多くのクリスチャンが神の「愛」に基づく実践行動を間近に見て敬意を表しているのは事実です。ですから、同じように荒唐無稽なSFのような法華経でありながら、しかし、そのコンセプトになっている法華菩薩の精神は、心を打って止みません。そのようなエッセンスの抽出と再編成、実践への促し、それは日蓮遺文でも同様ではないのか、しかも、それは出来るはずだという思いがあるのです。

そんな再編成を、問答さんが管理されるこの場所で行っていくことに歴史的な意義も感じています。

わたしは、この掲示板を運営される問答さんに、そのような敬意を表すると共に、そのような、(あまり好きな言葉ではないのですが、他に適切な言葉が思いつかないので敢えて使用しますが)「宿命」と「使命」を担われているのではないのという思いがあります。

59問答迷人:2005/02/14(月) 08:40:14

犀角独歩さん

>『21世紀の日蓮』

そうなんですね、だから、廃屋となった古い建物は、一先ずなぎ倒して、更地にしようとされてきたわけですね。そして、仏典や遺文の中から精神的な英知の蓄積を抽出して、再構成したいと。

壮大なスケールの構想ですね、21世紀の竜樹・天親が、このインターネット掲示板というサンガで活躍して、21世紀の仏教運動を創出する。

犀角独歩さんが、『21世紀の日蓮』という言葉を出されたのは、「いよいよ、この富士門流信徒の掲示板がそういう段階に到達したと判断されたのですね。

60彰往考来:2005/02/14(月) 12:24:56
>54 問答迷人さん

同じ経験が1度私もあります。私のときは、御本尊様から、お顔が出てきて
びっくりしました。あとで、色々調べてみると、日蓮聖人画像とそっくりで
した。それまで、日蓮聖人画像などみたこともなかったのにです。

それで日蓮漫荼羅から離れられなくなってしまいました。

61犀角独歩:2005/02/14(月) 13:40:07

問答さんが、お作りになったこの掲示板は、もっとも新しい形のサンガであると、わたしは考えています。これからの時代は、このネット・サンガ(ともいうべき)集いの場で、研鑽が進むのではないでしょうか。

わたしはA・クラークという学者が好きなのですが、彼は、もしこの大宇宙に文明を永続させる知的生物がいるとすれば、彼等は平和主義であるはずだと記していました。何故ならば、そうでなければ、戦争殺戮で発達の家庭で滅亡してしまうという、統計的な分析に基づくものでした。

わたしは、この掲示板が、継続するのは、そのような平和裡な議論が可能であるからだと思います。しかし、それは各人の自発性ばかりではやはり限度があります。ここでは書込ルールという「律」が遵守される故にその永続性もあるのであろうと思えます。
何より、管理人さんご自身が各人の尊厳を最大限に尊重される秀でた精神性をお持ちであろうから、この管理が可能なのでしょう。

ここは、組織に苦しめられた人々が、かつて渇望した理想郷なのであろうと思います。
前置きが長くなりましたが、いつであったか顕正居士さんと、雖念さんが、でしたか、いま「日蓮が生きていたら」という予測をご投稿くださったことがありましたね。わたしは、あのご投稿を実に興味深く拝読したのです。21世紀に生き残る日蓮は?という思いから頷けるところがありました。

当スレッドのテーマである「信仰」を考えるということですが、わたしは、ここで各人が自己点検をする、チェック項目を一つ呈示したいと思います。それは何かといえば、「何で自分は、そう考えているのか」ということです。

ここに集う方々は、自分の言葉として「仏」「生命」「成仏」、また「本覚」「本尊」等々と当然のことのように語りますでしょう。しかし、それは何処かで、そのような言葉を自分のものにするタイミングが必ずあったわけです。その時、その言葉が各人にとって、どのような感情と共に、受容され・肉化されたのか、そこに各集団の「都合」が盛り込まれていなかったのかという自己分析を、出来る限り、多くの‘言葉’で行ってみることが、わたしは信仰を考えるもっとも端的な近道になると進言したいと思います。

62犀角独歩:2005/02/14(月) 13:40:42

―61からつづく

たとえば、わたしが平成2年に法華講に移講したとき「池田大作」「創価学会」という‘言葉’を聞くと感情は不快となり、怒りさえ生じました。わたしは、これを自分の経験からであろうと思っていたわけです。ところが最近、高校1年(16歳)の、顕正会入会わずか数ヶ月という少年と知り合いました。その子供は、この言葉を口にするとき、明らかに憎悪の感情が共に噴出しているのです。これは「日顕」という‘言葉’でも同様です。ところが「顕正会」「浅井先生」、もしくは「大御本尊様」という‘言葉’を使うとき、反転して、強い確信と歓びをあらわにしていました。会ったこともない、池田さんの名前を口にすると怒り、見たこともない彫刻本尊を考えると涙を流す…。しかし、わずか16年しか生きてこない、それも数ヶ月間で彼の言葉による飯能は、そのように激変しているわけです。この少年は、彼の集団内では「強盛な信心」にあると認識され、しかし、一歩、外に出れば、「マインド・コントロールされた」「洗脳された」というまったく正反対の評価を受けることになるでしょう。

その評価云々は別として、では、その少年の信仰は、本当にその少年が自分の経験と研鑽で獲得したものなのでしょうか。もちろん、それは違いますでしょう。これは基本的錯誤帰属と言われるところです。

以上は、一少年の例ですが、では、わたしたちが、たとえば日蓮本仏、もしくは「本門戒壇の大御本尊」のへの‘信仰’とし、そこに渇仰恋慕を懐き、熱い情熱を捧げ、自分の感情が最大限に昂揚するようになっていたのは、どうしてなのでしょうか。また、それを、本当に信仰と呼ぶことが出来るのでしょうか。もしかしたら、第三者(集団・指導者)に拠って植え付けられたそうさであったかも知れません。

わたしたちが、自分自身の信仰と考えてきたものは、本当に「信仰」であったのでしょうか。また、わたしたちが、その信仰を説明するときに使う各「言葉」と、その言葉によって条件付けられている感情の噴出は、自分自身の確実な統計的分析、蓄積によって想定されたものであったのでしょうか。

その「信仰」と「感情」が操作されたものであったか否か、それはその自分の感情が、自分に取ってではなく、特定の集団・指導者の利益を繋がるように構築されていたものであったかどうかを分析してみれば、その生成過程の大半の意味はわかることになるのではないでしょうか。

人類は以上のような、操作により、国家・集団・指導者のために、命さえも擲ってきました。このような操作に、最も力を発揮させる言葉は「信仰」という二文字ではなかったのか。となれば、そのような他者から与えられ、他者の功利性の道具にされた自分自身の感情と行動は、各宗教に心身を委ねる人々の心中で理想化されたイメージである「信仰」と、はたして同一のものであるのか…。
以上の点も、わたしは、このスレッドを通じて、考えてみることが、ここ日蓮圏、富士門圏にある我々にとって、21世紀の日蓮を考える一歩とすることによって、過去と同轍の過ちを繰り返さない最低限の条件となることであるとわたしには思えます。

63真実 探求者:2005/02/14(月) 19:37:09
失礼します、、。  深く、、、〜〜深く、、とても考えさせられました、、。 有難う御座います、、!!!、、。

64パンナコッタ:2005/02/14(月) 22:07:37
初めまして。横レス失礼します。

>21世紀の竜樹・天親が、このインターネット掲示板というサンガで活躍して、
21世紀の仏教運動を創出する。
なんだすごいものですね。是非末座に加えていただく、よろしくお願いします。

さて、
>しかし、幸せになる為に信仰して何故不幸が生まれるのか?
との問いに果たして答えはあるのでしょうか。何となく自分の経験からして
正統的な答えは、出ないんじゃないかなと思います。実は以前、ある事でか
なり真剣にこの事を考えたことがあったのです。そして自分なりに考えた末、
出した結論は 「信仰すれば幸せになる」 ではなくて、
 『信じていること(それ自体)が幸せ』 
と云う結論でした。かなり乱暴な結論と思われるかも知れませんが、学会を始
め石山、他の教団でも同じ結果でしょう。いや、それに限らず例えばマルチ商
法やオカルト、UFO、心霊現象なんかで騒ぐのもこの範疇でしょう。

だから教団に嫌気がさして離れるとそれまでの幸せ(信じていること自体)
を放り投げることになりますから結果的に不幸になのでしょう。

一寸、異質な私の結論に至ったのには、どっぷりと 学会・石山教義にハマ
らなかったこともあるでしょうが、宗教社会学をちょっと囓ったこともある
からでしょう。
 関西国際大学の岩井洋助教授のHP 宗教の法則
  www.kinet-tv.ne.jp/~benjamin/site.html#soc

この中には
 宗教は社会現象である。
  宗教の中心は空洞である。
  宗教も進化する。
  宗教は毒にも薬にもなる。
  聖典は一日にしてならず。
  宗教組織が成功するカギは秘密の隠蔽と開示にある。
  宗教の秘密はつくられる。
  宗教にも免疫反応がある。
  宗教には、「脅し」と「慰め」がつきものである。


と あり、その中の
【法則 4】 宗教は毒にも薬にもなる。

     すべての宗教は、人間の幸せを追求する。
     しかし、問題は、「幸せ」の内容とその追求方法である。
     信者の「幸せ」が、非信者の「不幸せ」になることもある。

が、実は求めていた答えだったんじゃないかと思ったからです。勿論考え方の
事であって、
「宗教を社会現象としてとらえる点にあります。つまり、宗教が人間の相
 互作用(人間同士の関わり合い)から生まれた現象だと考えるのです。
 ですから、「神さまは本当にいるのか?」などということは、最初から考
 えません。神という存在すらも、人間の想像力によって考えだされたもの
 だ、という立場をとります。」

との立場で自分も考えているからでしょう。

65パンナコッタ:2005/02/14(月) 22:15:02
>64 長かったな・・・。 すみません。(__;)
 不幸になのでしょう。→不幸になるのでしょう。

66犀角独歩:2005/02/14(月) 22:23:17

パンナコッタさん、はじめまして。
ご意見、もっともであると拝読しました。

>『信じていること(それ自体)が幸せ』

とは、まったくそのとおりでしょう。また、肌に合った活動を続け、同心の仲間と集団を構成していることも幸せのうちなのでしょうね。

ただ、神はいるかを考えない人の心象が、では、信仰なのかという点では意見が分かれるでしょうね。わたしもその口ですが、故に神仏希求のメカニズムを補助自我という捌きは馴染みますが、しかし、全世界7億とも10億ともいうクリスチャンは頷かないでしょう。まして、命懸けで神を求める人々、たとえばイスラム原理主義の眼の前で、そんなことを言ったら、頚は胴体から切り離されることでしょうね。

67パンナコッタ:2005/02/14(月) 23:04:14
おお、 犀角独歩さんのさっそくの反応ありがとうござます。 独歩さんの緻密
な考証には唯、舌を巻くばかりの自分でありますので浅学な私にご教授のほど
よろしくおねがいします。 質問事項は素朴なスレに上げておきます。

さて、この板でみなさんが真剣に考えている信仰とは求めている信仰、渇仰し
ている信仰のことですが、無意識下でしている信仰もあると思います。所謂
『言霊』なんてやつですね。作家の井沢元彦さんが少し前に主張してたやつ。
日本語を使う以上、こうあってほしいことと、こうなるだろうなをゴッチャに
なってしまう事があると思います。現代の言霊、イヤ言霊の亡霊かな。

68犀角独歩:2005/02/14(月) 23:28:37

パンナコッタさん、「ご教授」なんてとんでもない。

「言霊」、この切り口、面白いですね。
もう、少し記していただけませんか。

69パンナコッタ:2005/02/14(月) 23:30:35
67つづき
『日本人は「言葉と実体がシンクロする」という幻想にとりつかれており、
その幻想から「言葉を言い換えれば実体の方も変わる」という誤った信念
をもっているからだ。』  
               井沢元彦「言霊の国」解体新書より

これって結構あると思いますよ。言い換えのことですね。

 敗戦→終戦  全滅→玉砕 侵略→進出 値上げ→料金改定 などなど

自分は井沢さんの意見に全て賛同している訳ではないのですが、現実にある
事として認めなくてはいけない。認めるどころか意図的に仕事で使ったりして
いますからね。ある意味、言霊信仰信者なんですね。立派な謗法だ。(^o^)
以前、同放で大白蓮華の値上げを秋谷会長が「料金改定」と堂々と発言して
ましたっけ。 これは大謗法ですよ。 (^◇^)

70犀角独歩:2005/02/14(月) 23:35:49

> 69

この視点、いいですね。

ロムしていただいているのであれば、お気付きだと思いますが、わたし、このへんのところは‘一般語’に翻訳して、社会の見解に戻すことを、常としてきました。言うまでもなく「本門戒壇の大御本尊」を彫刻、「御肉牙」をお肉(笑)などです。

もう、ちょっと、続けてください。

71愚鈍凡夫:2005/02/14(月) 23:42:57

横レス失礼。

「むむっ、空き屋! もとい! 秋谷のオッサンまだ儲ける気かいなぁ」

以前、聖教新聞は日本一安いと宣もうた学会員さんに、たった3枚しかない新聞がひと月いくらするのですかと尋ねたら、その学会員さんは無言で帰っていきました。

帰り道、その学会さんの心の中では藁人形に五寸釘が打ち込まれていたことでしょう。

「またそのネタかい」 ・・・・・・・( ̄  ̄) しらぁ〜

72パンナコッタ:2005/02/15(火) 00:24:38
たしか御書に
 「和泉式部は和歌で雨を降らす・・」
なんてのがありましたね(何でしたっけ。真筆ありましたっけ?)結構、蓮祖も
言霊を信じていたんでしょう。いや、昔ほどその力は大きかったんでしょう。

73パンナコッタ:2005/02/15(火) 00:31:53
> 70 お肉じゃ、判んないと思いますが。だって、汗かいているんですよ。
> 71 ホントに打ってたかも知れませんよ。

74愚鈍凡夫:2005/02/15(火) 00:34:11

パンナコッタさん、初めまして。この文証ですが。

「いづみしきぶ(和泉式部)いろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、」(「種種御振舞御書」学会版P912)

むむっ、場違いのギャグがすべったみたいですね。もう寝ます。お休みなさい。

75パンナコッタ:2005/02/15(火) 00:59:34
> 73 失礼しました。(^_^;)
 言霊について簡潔に書くと

『言霊の国に「言論の自由」はない。「自分の国は自分で守る」と言う「世界
の常識」を口にすると、「平和の敵」とレッテルを貼られてしまう。「平和」
を唱えていれば努力をしなくても「平和」が続くと信じられているこの国では
「有事に備えようとする者」は「戦争を望む者」とみなされるのだ。
「日本は負けるかも知れない」と本当のことを言えなかった戦時中と、いった
いどこが違うのか?
 日本を「世界の非常識国家」にしてしまったコトダマイストの言論統制の
実体を井沢元彦氏が分かりやすく「解体」してゆく
           井沢元彦「言霊の国」解体新書の裏表紙より

なんだか宣伝みたくなってしまいましたが、すんません。
要は言葉の”アヤ”なんですが、負のイメージが一寸大きいかも知れません。

正の言霊だってあるんですよ。ダジャレです。雨は降らせられないけど、笑い
は降らすことができるかもしれません。サムいのが多く、ハズすのが多いけど。

76犀角独歩:2005/02/15(火) 01:04:23

寝る前に、見たら、パンナコッタさんと、愚鈍凡夫さんのご投稿、思わず、吹き出し眠気も覚めましたが、老婆心は休ませていただきます。

愉快な一夜でした。有り難うございます。

77パンナコッタ:2005/02/15(火) 12:38:06
> 74  愚鈍凡夫さん、ありがとうございます。 種種御振舞でしたか。でも
あれはC3だけど怪しさ120%だしなぁ。でも、蓮祖はちょっぴりでも書い
ていたのかなぁ。燃えちゃったしなぁ。残っていれば字体とか継ぎ接ぎなんか
がわかるのになぁ。 

 と、正直な気持ちなんですが、それを頭っから「御金言」として尊ばせる集
団の意向、手練手管に乗せられていた事が判ってしまったため、苦しんでいる
人がいるですね。つまり人を幸せにするための仏法(教団のことですな)には、
不幸せにする要因が含まれている事を巧くカモフラージュしている。一般の信
者は只、幸せになる要因としか思いこまされていない。これは不幸ですよ。

ですから、(教団)信仰は「幸福」をもたらす事もありますが『不幸』をもた
らすこともありますよ と、最初に注意書きが必要なんじゃないかなと思います。

78大勇者:2005/02/15(火) 15:12:35
パンナコッタさん。 宜しくお願い致します。
>77 まったく仰る通りと存じます。

しかし逆説的に考えると、
幸せになる要因としか思いこまないことが信仰なのではないでしょうか?
教団や教義に不幸をもたらす要因があったとしても、人が神仏に向き合おうとする時に
不信を持ち込む事が出来ないから・・・信仰が信仰でなくなってしまいますから。

別な言い方をすると、「不幸を感じる」とは一瞬間でも自分の過去を投影する作業です。
信仰とは瞬間でも先を投じる作業であると思うのです。

79パンナコッタ:2005/02/15(火) 22:28:21
大勇者さん。ありがとうございます。

たしかに(純粋な意味での)祈りは、人間にとっては非常に大切な物と思ってますし、
不幸せになる要因があるなんて、熱心にやってる人はいないですね。

 >信仰とは瞬間でも先を投じる作業であると思うのです。
いいですね。このような向上心を発揮させる為の信仰だったと思いますから。

でもこの信仰の形態をみると、これは渇仰した信仰の形だと思います。(カテゴライズは
良くないかも知れませんが) 
一般世間を見渡してみるとプチ信仰(変な言葉だけど)て、いっぱいありますよね。
おみくじ、雑誌なんかの星占い、血液型占い、手相、人相、開運ペンダント、ヒランヤ、
タキオン、喫茶店のカプセル(いまでもあるのか?) などなど・・・。
ラッキーカラーはブルー、何て書いてあると青い服装で出かけてしまうようなのも信仰の一
形態ですよね。
いいことがあればラッキー、無ければ捨てればいい、程度の物でも信仰の対象物になりえますね。
だから効き目が無くても不幸というリスクをあまり背負わないんでしょうね。
こんな形の(さほど求めてはいない)信仰もある、と言うことです。好き嫌いとか高尚であるか
どうかなんかは、全く別の話しですけど。

前に出した宗教の法則ってやつの、
 【法則 4】 宗教は毒にも薬にもなる。

     すべての宗教は、人間の幸せを追求する。
     しかし、問題は、「幸せ」の内容とその追求方法である。
     信者の「幸せ」が、非信者の「不幸せ」になることもある。

 よく「信じる者は救われる!」といいますが、信じなければ「救われる」対象にはならないのが
 宗教の基本です。信者でもない人間、つまり全人類までも幸せする、というふところの深い宗教
 は、それほど多くないのが現実です。逆にいえば、「救われる」という条件とひきかえに信者に
 なったわけですから、このことは当然といえば当然です。

と、云うのはどうでしょうか?

80犀角独歩:2005/02/16(水) 11:33:42

> 67

亀レスですが、「言霊」ということですが、

「南無妙法蓮華経は、神人の霊通する神秘の音である。これを言霊と云ふ。理屈ではない。法悦の極地に於て心霊の底から鳴り渡る神の御音である」(『皇道仏教行道会講習摘録』)という一節が思い起こされました。

ここでいう神は神仏習合の、それも神本仏迹の神を言うのでしょう。

敢えて脱線すれば、皇道仏教で言われるところは「天皇本尊論」でした。
わたしは、最近、この言葉を読み直し「!」と思ったのです。

天皇本尊とは天皇は現人神、天皇=人(のなかの最高位)=神という構図なのでしょうが、これは○○本仏論と理論構成が一緒です。○○=人(のなかの最高位)=仏、日蓮本仏、派祖本仏、住持本仏、会長本仏というも、人(のなかの最高位)=仏という等式が成り立つとき、実は「本尊」足り得るわけです。

わたしが学生時代、地元幹部から「池田先生と思って挙げる題目も、日蓮大聖人と思って上げる題目も、一緒」と「指導」を受けたことがありました。本尊は南無妙法蓮華経で、故に蓮師を南無妙法蓮華経如来とするのが寛師説と窺えます。この類推からすれば、○○本仏論という「言葉」は○○本尊と置換可能であることになります。

その他、皇道仏教を概観すると、石山教学というのは、意外にこの影響を受けている、もしくは共通性を持っていると思えました。

まあ、当スレッドとは離れますが、言霊から連想で記してみました。

81犀角独歩:2005/02/18(金) 00:15:13

> 80

自己レス。この書き込み、人気がありませんでしたね。
けれど、皇道仏教、田中智学、この比較対照をしないと学会を含む石山系の真実相は明確化できないでしょうね。

82パンナコッタ:2005/02/18(金) 00:45:58
>80 神本仏迹論が台頭したのは、元寇が契機とみなさんお考えでしょうか?

83愚鈍凡夫:2005/02/18(金) 11:58:25

平安時代の「本地垂迹」と鎌倉時代の「神本仏迹(反本地垂迹)」。思想にも流行廃りがあるという典型例のような気もします(「誰がこんな事、決めたんだ」との心の声がするのは気のせいだろうか)。
日本人特有の「神仏共存共栄思想」というか、「信者置いてけ堀思想」というか、各々のお家の事情による「妥協の産物思想」とも言えるでしょうか。

ちなみに、「神本仏迹」は蓮祖遺文になく、「本地垂迹」は「産湯相承事(偽書)」「四条金吾許御文(未決書)」に有ります。

資料

神道(しんとう)
http://www.miyagawa.com/syuha/syu/sinto.html

本地垂迹説
http://www.tabiken.com/history/doc/R/R103R200.HTM

神仏習合
http://www.ichinomiya.gr.jp/web/HTML/SinbutuShugo.htm

84パンナコッタ:2005/02/18(金) 12:21:47
愚鈍凡夫さん、ありがとうございます。
自分は平安・鎌倉期の本地垂迹説は、密教の影響が大と考えているのですが。

85犀角独歩:2005/02/18(金) 14:26:55

パンナコッタさん、横レス失礼します。

> 平安・鎌倉期の本地垂迹説は、密教の影響が大

これは当然でしょうね、そもそも本地垂迹説は密教から生じたものというのが定説ですから。
ただし、その原形となったのは、本迹法門であるといいますから、法華(顕経)から密教に流入したと見るべき点はあります。けれど、たぶん、密教のそれは、本・迹の言を籍りているものの、その原形はインドの権化思想なのではないのかと、わたしは考えています。

いずれにしても、本地垂迹説は日本に仏教が伝来して形成された神仏習合よりも後天的なもので、初期の段階では区別され、空海以降、本地垂迹説と「習合」したと、さらに細分化して考証すべきではないのかと考えています。

86愚鈍凡夫:2005/02/18(金) 20:10:21

「天照大神」と「大日如来」は雰囲気的に結びつきやすいですよね。
それと、俗な言い方をすれば、問題解決のためにそれぞれ専門的な神を勧請するということが、密教曼陀羅と相通じるものがあるんでしょうかね。
確か、キリスト教を日本で最初に布教する時、キリスト教の神を「大日如来」と勘違いさせたとか、信者が勝手に勘違いしたとか、聞いたことがあります。

87犀角独歩:2005/02/18(金) 20:29:59


宗教の本質はシンクレティズムだと断言したのは、故岩本裕師でした。
もっともな賢察であろうかと存じます。

「良いとこ取り」は、どこの信仰集団でもやることで、これを貫名英俊師はパッチワークと、説明しました。正しい分析であろうかと思います。

自分たちが謗法だというレトリックを、自分たちの集団で使うと謗法でなくなるというお笑いが石山系集団、特に顕正会(員)の特徴であるといえますね。

わたしは、顕正会の所謂『諫暁書』の表紙を見て、堂々と(彼らが邪宗、謗法という)中山法華経寺所蔵の『立正安国論』の真筆写真が掲載されていたので、大笑いしました。そもそも、これは不許可転載なのでしょう。この非常識、違法性こそ、この団体と、その団体に‘未だに所属して所識がどうだ’と語る自分の背を見えない人の実態をよく反映していると思ったものです。

本地垂迹などという便利な言葉を使うのであれば、この掲示板は仏意仏勅に基づいて運営されることになったもので、管理人さん、そして、わたしたちこそ、如来の使いとして、彫刻やら、お肉やら、他所から持ってきた相伝文書やら、真偽未決のインチキ文書で、「日蓮大聖人」の聖意を穢す悪党ども、ばったばったと切り倒す正義の味方、真の菩薩と宣言でもしましょうか。つまり、わたしどもは、その菩薩にましまして、垂迹して凡夫身に現れた如来使であると(笑)

わたしは、そんな誇大妄想は、毛頭ありません。反面、いまだに特定集団の肯定化のために蓮師、並びにそれ以降の文書を使って、自己肯定化の駄文を作り、恥じないナルシズムには嘔吐を禁じ得ないと断言しておくことにしておきます。

いわば、そんな現在で見られる醜悪な実態こそ、本地垂迹説によって、何でも「良いとこ取り」をしてきたシンクレティズムと同轍の類であるという点を、敢えてわたしは特記しておくものです。

88パンナコッタ:2005/02/19(土) 00:10:24
やはり空海がひとつの境目みたいですね。権化思想もとより、中国では儒教、民間信仰の道教
との摺り合わせがあったわけですから、師匠の恵果和尚の頃には、何でもアリだったのかな。
だから大日、金剛系の統合ができたのかもしれません。

石山の伽藍配置を四神相応の地(確か仏哲辞典と記憶)と位置づけていましたが、おもいっきり
陰陽道ですよねぇ。

89犀角独歩:2005/02/19(土) 04:30:26

そう。だから、教学の成り立ち、もしくは伽藍形式、なんでもいいから徹底的に分析してみれば、日本の神と仏教の習合、その仏教は中国では道教と、さらにインドではインドの神々と、インドの神々は、イラン、ギリシャの神々と、では、シャキャムニはといえば、当時のバラモン思想を基礎にして、そのバラモン思想はまた、アーリア人の元来の信仰にドラビダ人の土俗信仰を包摂し、さらにセム系の信仰も包摂してと。習合、統合を繰り返してきているわけです。

このように見てくれば、いったい、なにが「純粋な」かということは言えないわけで、神社参拝が駄目とか、他の神仏を拝んでは駄目とか、それが謗法だというのであれば、蓮師の漫荼羅は、そんな他の神仏が習合して、デパートみたいなものです。不動・愛染、大日の要素まで孕んでいます。

かつて創価学会の『折伏経典』で、身延を神仏雑乱の魔の巣窟みたいな書き方をしていました。まあ、こんな口調は顕正会も継承しているわけです。しかし、蓮師漫荼羅の諸尊勧請を一つひとつ見て、そのルーツを探れば、一体仏造立に比して、まさに神仏雑乱の体と言えなくもないわけです。以下のサイトは、ほんの参考ですが、漫荼羅に勧請されている神仏が、石山が言う他宗、それも異国の「邪宗」の神々であることは容易に理解できます。それらを勧請した漫荼羅を本尊と拝み、「他宗の神仏に手を合わせるのは謗法だ」という神経は、わたしには理解できません。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~india/home60-6.htm

一経・一仏のみを「信仰」というのであれば、法華経と釈尊一体仏、それを題目と日蓮本仏と言うのであれば、主題(南無妙法蓮華経七字)のみを背に掛けた日蓮座像を拝まなければ、矛盾を来します。しかし、蓮師漫荼羅を信仰すれば、すでに上述の如き、神仏をまとめて、拝んでいることを認識すべきだとわたしは思います。漫荼羅の文字だといいが、それが神仏像になると駄目と言っても、拝んでいる対象に代わりがあることにはなりません。

さて、いったい、漫荼羅本尊「信仰」とはなんでしょうか。謗法とはなんでしょうか。

90犀角独歩:2005/02/19(土) 04:57:52

> 石山の伽藍配置を四神相応の地(確か仏哲辞典

仏哲(笑)
以下の文をご参考に

富士一跡門徒存知の事「駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由」

本尊三度相伝「四天を書く時は北方多聞天と云つて鬼門の方を守る」「西面に立つ自ら鬼門の方と成る」
六巻抄文底秘沈抄第二「正しく王城の鬼門に當たるが故」「佛法の住処は鬼門の方に三國倶に建つるなり、此等は相承の法門」「凡そ富士大日蓮華山は日本第一の名山にして正しく王城の鬼門に当たれり、故に本門の戒壇応に此の地に建立すべき故」
開目抄下愚記「鬼門は即ち丑寅の方なり。霊鷲山は王舎城の鬼門なり、天台山は漢陽宮の鬼門なり、比叡山は平安城の鬼門なり。類聚第一巻の如し。富士山もまた王城の鬼門なり」
撰時抄愚記上「王城の鬼門」
取要抄文段「正に王城の鬼門に当る故」

91犀角独歩:2005/02/19(土) 05:22:16

> 89の補足

インドの神と日本名対照表
http://www.ffortune.net/symbol/indo/sinwa/nihon.htm

92犀角独歩[TRACKBACK]:2005/02/19(土) 06:18:49

> -87まで

当スレッドで「本地垂迹」につき、雑駁な議論となりました。
確か、この点については、過去にかなり議論したことがあったと思い探してみたら、ありました。

ずっと濃密で参考になろうかと存じます。

『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』における本地垂迹議論
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/r52-r200

93犀角独歩[TRACKBACK]:2005/02/19(土) 06:29:02

> 92

記述が大量で読むのが辛いと思われる方に。
当時、わたしが投稿した本地垂迹起源は、以下のとおり

*** 以下転載 ***

本地垂迹説、今更ながら、考えさせられるものでした。
地名さんの影響を受け、数日前、近隣の図書館に行き、何か関連する良い書籍はないものかと探していたのです。見つけたのは村山修一師著『本地垂迹』<日本歴史叢書33>吉川弘文館刊でした。

わたしはこの本を一読して「おや」と思ったのです。個人的には本地垂迹説を本門・迹門とはまるで違う観点で考えてきたのですが、この本の中では、その起源をインドに権化思想に置き、羅什から僧肇を経、天台に至り本迹法門を生んだと言い、その影響が日本の本地垂迹説となっていくという粗筋に基づくのでした。また、この書の冒頭に

「近代史において、はじめて本地垂迹を体系的にとりあげたのは辻善之助博士であった。『史学雑誌』第18巻(明治40年)にのせられた「本地垂迹説の起源」のはじめのところで、博士はその概念を次のように説明されている。
  この説は本地即本有の妙理無始無終の絶対なる仏陀が、人間を利益し衆生を済度せんが為めに、迹を諸所に垂れて、神となって種々の形を顕はすをいふので、我邦の神祇は、其本源をたづぬればみな仏菩薩にあり、仏も神も帰する処は一つであるといふのである。
  この語の起りは、法華寿量品にあり、もとは久遠実成の釈迦即絶対的理想の仏陀を本地とし、始成正覚の釈迦即現実的の歴史上の釈迦を垂迹とするのである。日本の本地垂迹説は、この説を拡張応用したのである」(P1)

と紹介します。また、僧肇については

「その名著『註維摩』の中で、
  本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕す無し、本跡殊なりと雖も不思議一なり。
 とのべ、本地垂迹の深淵な関係を強調して注目をひき、仏身論に関してこの説は以後の学者に盛んに利用せられ、やがて天台宗をはじめた智邈や三論宗をはじめた吉蔵にもとりいれられ、『法華経』寿量品にみえる、上に引用した辻博士の後段に文にある定義、つまり本地仏と垂迹仏の解釈となってあらわれた。そうしてこの解釈はやがて喇嘛(ラマ)教などにみられるような外道諸神の密教的習合の上にもおしひろげられて適用されることになり、次第に仏神論より他の方向へも発展する形勢となった。(P4)

と解説します。この記述はしかし、最近の法華経解釈で日本のスタンダードになりつつある菅野博史師が

「本と迹は、『荘子』の説かれる聖人の具体的な行為を『迹』(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以(履き物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教の側で『迹する所以』を『本』と改めたものである。智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである」(『法華経入門』岩波新書 P91)

という説と必ずしも一致しません。

本地垂迹が本門迹門であるというのはしかし、頷けません。
天台が指摘する本迹の相違は特に始成正覚として久遠実成を隠すということに特に力点があり、履き物と足跡の関係というより、権(かり)実の差と言ったほうが当を得ている気がするからです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/r142

94愚鈍凡夫:2005/02/19(土) 09:28:15

平安時代には、神の本地が仏であると言い、鎌倉時代には、逆に仏は神の権化(化身)であると言い、そして、江戸時代には豊臣秀吉を豊国神社、徳川家康を日光東照宮に神として奉じるわけです。そして明治にはいると、名もなき戦没者を祀った「長州桜山招魂社」を模した「東京招魂社」を建て、後に政府の統帥を受けない天皇直属の軍隊であることを理由に、山県有朋ら軍閥によって「靖国神社」と改名します。
時代によって思惑は違うようですが、その時々の都合に合わせて神と仏・菩薩の習合が繰り返されてきたように思います。また、日本の場合は天皇家と関わり合いの深い神社と、仏教を折衷する手法として神仏習合が行われていったのではないでしょうか。その理由付けに、法華経寿量品が利用されたように思います。
しかし、神仏習合の観点から見た時、「信仰」とは何なんでしょうか。
この漫荼羅に全てが備わっているのだから、この漫荼羅を本尊と仰いで「信仰」すればよい。というのは、今風にいうと、あそこに行けば何でも揃うといった、専門店が軒を連ねる一大ショッピングセンターを連想させます。
漫荼羅を本尊とすることは、実は、一神教ではなく多神教を意味するのではないでしょうか。

**************************************************
天照大神 = 大日如来、観音菩薩
八幡神 = 阿弥陀如来
熊野権現 = 阿弥陀如来
日吉 =天照大神=大日如来
市杵島姫 = 弁才天
愛宕権現 = 秋葉権現 = 地蔵菩薩
素盞鳴 = 牛頭天王
大国主 = 大黒天
東照大権現(徳川家康) = 薬師如来
松尾 = 薬師如来

ウィキペディアより
**************************************************

95犀角独歩:2005/02/19(土) 10:34:46

愚鈍凡夫さん

「先生は、日蓮大聖人の生まれ変わり」「先生は、日目上人の生まれ変わり」なんていうのは、一種の本地垂迹説なんでしょうかね。

こんな考えは血脉両抄に見られますね。もっと、言えば、蓮師の上行応誕論も、これでしょうか。

あと、反論・異議というわけではありませんが天照・八幡が大日・観音というウィキペディアの該当箇所は、真言系に係る記述ですか。差し詰め、石山系が記せば「悉く日蓮」、通日蓮なら「悉く釈尊」とでもするところでしょうか。

その釈尊も、ヒンドゥー教ではビシュヌ(毘紐天=維持神)の化身にされていましたけれど。

96犀角独歩:2005/02/19(土) 11:05:35

もう40年近く前、テレビで時折、ヤコペッティの世界残酷物語とかいうドキュメント番組をよく再放送していたんですね。

そのなかで、アフリカかどこかの未開部族が飛行機を木や葉っぱで作ってご神体にして拝んでいるというのがありました。
その人たち曰く、「あの空を飛んでいるものは、神様の乗り物で、それを我々から奪い取った…」

なんで、こういう話になるのか?
子供であったわたしは思わず笑ったのですが、しかし、いまになると、この実話、本地垂迹やら、習合やらをしてきた宗教事情と何も変わらないと思えます。他教、異教の神々を次々と自分たちの神仏の配下に位置づけて優位性を誇ったり、人々の畏敬と尊敬を集めている神仏の生まれ変わり、お使いであるとしたりしてきたわけですから。

結局のところ、こういった精神構造は、救世主渇望を利用したものであり、かつ、支配隷属構造の一変形と見ることができるのでしょうか。

97愚鈍凡夫:2005/02/19(土) 11:35:37

犀角独歩さん、どうもです。
ややこしい名前の仏・菩薩を身近な神に置き換える事は、宗祖を神仏に置き換えるといった祖師信仰にも容易に繋がる発想だと思います。
親近感を持たせながら、難信難解な理論を説いて崇拝させる。原始の時代から変わらぬ、未知なるものへの恐怖と畏敬という心理を巧みに利用しているように思います。
宗教に於ける罰と利益、二極を使い分けた見事な人心操作ですよね。ひょっとして、一流の宗教指導者は、臨床心理学の専門家なのかも知れませんね。

98犀角独歩:2005/02/19(土) 13:00:30

97 愚鈍凡夫さん:

>難信難解

本当に難信難解なのかという思いがわたしにはあります。

天台六大部なんかは、難解と言うより、ともかく量が多くて、辟易して、理解しようと取り組んでいると、信がどうのは、すっ飛んでしまうところがあります。

その天台を基礎にする蓮師教学は、では難解かというと、それほどとは思えませんよね。難解な部分は、むしろ、要は蓮師が本当に解いたのはどんなものかが、中世以降の解釈が入りすぎて、その実像が見えないこと。

いまの学会を含む石山系教学が難解かと言えば、少しもそんなことはありません。寛師にしても対して難しいものではないですね。

ただ、それを冷静に分析するとき、難解ではないけれど、こんなことが信じられるかという意味では、たしかに「難信」ではあるかもしれません(笑)

> 一流の宗教指導者は、臨床心理学の専門家

破壊的カルト・マインド・コントロールの、日本の第一人者・静岡県理大学の西田公昭先生は「宗教の現場で行われている社会心理学的要素に、大学その他研究が追いつかない」と漏らしていたことがありました。

ただ、本当の専門家であれば、心理的詐術で人を操ったりしないでしょう。
彼らは悪用の達人だと言うことでしょうね。

99犀角独歩:2005/02/19(土) 13:19:02

「もっと全体主義的なグループは、自分たちの教義は科学的に証明されていると主張する。その教義は、あらゆる問題と状況についてのあらゆる疑問に答えるものだと主張する。個々のメンバーは、自分で考える必要はない。教義が彼にかわって考えてくれるのだから」(『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版P118)

「カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできな い』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになってい る(もちろんそのころには、人々は教義を学ぶことよりも資金集めとか勧誘のようなもっと実際的な仕事へ向かってしまっている)。
教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然 としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる。
マインド・コントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作りあげることにかかっているので、カルトの教義は、きまって、あなたは自分自身を信じてはならないと要求する。教義が、思想と感 情と行動のすべてを決める『マスター・プログラム』となる。それは完全で絶対的な真理そのもの なので、教義のどんな欠陥も、信者自身が不完全だからそう見えるのだとされる。信者は、たとい 本当には理解できなくても、決められたとおりの信条に従わなければならないと教えられる。同時に、真理をもっとはっきり『理解』できるようになるには、もっと働き、もっと信仰を深めなければならないといわれる」(同P168)

100愚鈍凡夫:2005/02/19(土) 17:22:19

その信仰が神仏に対する「信仰」なのか、それとも、教義や指導者の言葉に対する「信仰」なのか、はたまた、集団に所属する安心感に対する「信仰」なのか。
自らに問うてみた時、「信仰」の本質が見えてくるのかも知れませんね。


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