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「α」についてはここで語ってください

1法の受験人:2003/05/21(水) 00:37
ぼーんさんが述べられてる「α」なる理論。
これに対しては批判も多いので、
こちらでまとめて話しませんか?

83親切な2chの匿名希望:2003/08/04(月) 03:52
コスタリカのソース
http://hunbook.hp.infoseek.co.jp/column/costarica.htm
http://www.costarica.co.jp/

842chno:2003/08/04(月) 04:01
>わたし自身がまず実践していることだからね。
>我が家は戸締りや防犯ベルはきちんとつけているが
>武器は金属バット一本持っていない。
>その代わり隣近所とは、常に親密な付き合いをしている。

だって、君が自衛しなくたって、警察が守ってくれるじゃん!
国際社会にそんなもんあるの?

852chの匿名希望:2003/08/04(月) 04:02
>>85
おっとコレも失礼。
キーを押し間違えて、名前が中途半端でカキコされてしまった。

86武蔵:2003/08/04(月) 10:46
>>83

ご親切に有難うございます。
日本外務省の
2.軍事力 (1)防衛・国内治安予算19,813百万コロン(99年予算)(約78百万ドル)
(2)兵役 なし
(3)兵力 1948年憲法により常設軍を禁止。治安維持のための国家警備隊及び地方警備隊あり。(約8,000人)

これ、参考になりますね。
約8000人の国家警備隊及び地方警備隊がいるんですね。
346万人に対する人口比で、多いのか少ないのかも、分かりませんが
外国侵略の心配はなさそうに思います・・・・
「軍隊を捨てた 自然保護の先進国 年金生活者の楽園」という
公式HPのキャッチフレーズをアタマから信じることもできないとは思っていましたが
今も実地に行って学んで来たい要素がたくさんある国家経営であるとは思います。

87武蔵:2003/08/04(月) 10:57
>>84

>だって、君が自衛しなくたって、警察が守ってくれるじゃん!
国際社会にそんなもんあるの?

国連軍と言うのが、公平な警察の働きをしているとも思えない現在
国際社会にそんなもんあるとは思いません。
しかし国際関係においては、個人のように、
警察が居なければ無法者がならず者のままでやってはいけないですし
またやっていけない国際システムを作っていかねばならないでしょう。
医療を中心にした救援隊をつくるなど、国際的に日本の力を無視できない
重要な国にしていく必要もあると思っています。

いずれにせよ困難な道だとは思いますが、不可能な道だとは思いません。
むしろ軍備強化によって近隣国の不安を増したり、イラクまで派兵して
国際的なテロの対象国になるよりは、
近道だと思います。

88○○番長:2003/08/04(月) 11:12
>>68 2chの匿名希望殿

深謝深謝。全く僕の不注意でしたわ。
一応医療関係者の端くれでありながら、このような初歩的ミスを犯すとは…。
笑いものにしてやって下さい(欝

おかしい所があったら、ドンドン叩いてやって下さい。

89大神:2003/08/04(月) 22:43
>>コスタリカ

346万の8000人。日本の自衛隊と同じ人口での比率になるな。

90武蔵:2003/08/04(月) 23:05
>>89

単語的には「国家警備隊及び地方警備隊」というのは、警察官(鉄道や海上保安官)のようなニュアンスを感じますが、
コスタリカではそれが自衛隊に当り、日本と同じくその他に警察官もいるのでしょうか?

91○○番長:2003/08/05(火) 00:03
>>65 ぼーんさんへ

腐れソースをぶち上げた所で、誠に心苦しいのですがお返事を(欝

>αを掲げているからこそ、「行動がαと矛盾していること」を
>問うことができるのです。
>それで「結局何も事態が変わらない」とは言い切れません。
>「結局何も事態が変わらない」という主張には、根拠がないと僕は考えます。

結局みんなαを当為として認めるでしょう。いやそれを大っぴらに否定して事を成す
国家や組織、個人は居ないと僕も考えます。その点僕とぼーんさんの認識に違いはない。
αを否定してはいない訳です、誰もが。古代や中世ならいざ知らず、
少なくとも現代においてはそう云う看板は降せないのでしょう。
でも看板は看板です。看板を掲げて得になるなら幾らでも掲げるでしょう。
おそらくαを掲げるコストは無いのですから。政治屋が色んな団体の理事や
顧問になるように(笑
どうして僕が何も変わらないと書いたかと云えば、α認知後にできることが
殆ど残っていないからなんです。α肯定・否定での色分けは出来ない。皆が
認めているから。色分けが出来ない、認知に関して差別化出来ないという点
において、思考停止やと書いた訳です。

αと行動との矛盾点を突いて、戦争などのα違反行為を是正させると考えて
おられるようですが、何がどのくらいαに反しているかの基準、
即ちガイドラインがない以上、それも相当難しい。と云うのは、お互いが
αに基づいて行動していると主張するからです。現状をみれば想像に難くない。
どんな悪行にも必ずαの旗印が揚げられることでしょう。
曰く自由と平和を齎す為。曰く抑圧を撥ね退ける為。曰く搾取を無くす為と。
先にも書きましたが、理窟と膏薬は何処にでも付きますから。

92○○番長:2003/08/05(火) 00:29
>>91続き

>これは論理的に言っておかしいです。
>行動はともかく、「αを認めざるを得ない」ということは、
>もっとも悪い状況においても「無力だ」とまでしか言えず、
>このことが積極的に悪いことになることはありえません。

ここで仰っている『論理的』と云う意味が僕にはよく呑み込めませんが、
ここでα認知が積極的に悪い結果を齎すかどうかを考えてみましょう。
もしも先に書いたαのガイドライン(ホロコーストと戦争犯罪、
衝動的殺人との差異を測る基準みたいなもの)なしに、αとの矛盾を
突いてしまうと、三者とも同じ罪科になってしまう。これは感覚的にも、
道義的にも、また現行法との兼ね合いからいってもおかしい。
巨大悪を相対的に庇う形になる点で非倫理的ですし、三者の区別を
しない点で思考停止でもあります。
全員ではないにせよ、多くの人間がα認知した後、やはりガイドラインは
必要不可欠、というより正にそれこそが大問題やないのかと僕は考えます。

ガイドライン・ぼーん試案が既にあるのなら、是非お聞かせ頂きたく思います。
またどこかに書いておられるなら、お手を煩わせることなく、スレタイとレス番を
教えていただければ結構です。

93○○番長:2003/08/05(火) 01:20
>>92 続き

α違反の矛盾を効率よく、かつみんなが納得のいく形で突く為にも、
ガイドラインは必須ですね。α認知の有無に僕が余り大きな意義を
見出せないのは、偽りのα認知を人間はし勝ちだと云うこと以上に、
この基準がよく分らないからでもあります。
α否定者に対しては武力をもって従わせれば済むことです。なんと
言ってもα認知者・肯定者は圧倒的多数ですから、もはや相手の認否は
問題になりません。僕は決してそう考えませんが、ぼーんさんにとっては、
α否定者を強引に従わせようとも、相手に非難される謂れはないとの
ことですから。

ガイドラインの必要性は同意頂けるでしょうか?行列の割り込みと
ホロコーストが同じ罪科でないのは明らかですから、あえて言挙げ
するまでもないと思いますが・・・。
ではそのガイドラインはあるのか?それともこれから作り上げるもの
なのか?恐らくぼーんさんは後者の立場ですね。
ここでまた争いが起こりましょう。誰も自分の不利なように基準を決めたくは
ないでしょうし。αを掲げたもの同士、汚物を投げあうような非難中傷合戦。
見るに耐えませんね。あんたらエエ加減にせなあかんよと言われても、α否定者は
ダマットレ!!!と一喝。α認知が引き起こすもう一つの問題、人間の我欲を放置
したままでのガイドライン作成は、結局争いを止められないことです。
一見α認知に直接関わりは無いようですが、αを一度戴いてしまったが最後、
お互いのエゴ調整に取引や交換は不可能になること、互いの立場を正当化する
ものはαしか無くなることを鑑みれば、α認知のしからしむる所と言えます。

94○○番長:2003/08/05(火) 02:02
>>93 続き

>たとえば、殺人犯が政治家の脱税を告発した場合と、
>そういった大きな罪を取り立てて犯していない人が
>同じ罪を告発した場合で、そこに差が生じるとは思われません(>>65

立場を問わず告発出来る為にこそ、僕がしつこく言い立てるガイドラインが
必要やないんですか?微罪を大罪と同一視しないため、また違反は違反として
裁くために、何らかの基準が要ります。
しかしその基準を巡って争いが起こりうる。もし人間の我欲を放置したまま
であれば。α認知では何も変わらないと書いたのは、この点にも当てはまります。
今も行われている利権争いが、そのままαガイドライン作成権の争いに
棚上げされるだけだからです。α肯定者同士で揉め、α否定者の意見には
耳を貸す義務は無いとするα理論に、一体どれほどの価値、有用性があるのか
僕には疑問です。

ここまでの僕の疑問点を纏めますと・・・

①αの認否に大きな意義は無い。α認知派・肯定派は多数なので
 否定者を圧殺するのは容易いから。またローコストなら
 誰でも気軽にαの御旗を掲げるであろうから。
②αに基づいて秩序を構築するには、実際の運用法、
 ガイドラインが必要不可欠であるものの、それが無い。
③ガイドライン作成で大きく揉める。少なくとも人間の我欲を
 放置したままならば。

今のところこんなもんです。

95大神:2003/08/05(火) 19:46
>>コスタリカ

http://www1.ocn.ne.jp/~mourima/sindou.html

警察とは違うな。海上保安と自衛隊を合体させたようなものだな。
軍隊の保持も禁止していない。

96大神:2003/08/05(火) 20:29
>>95
ちなみにこの軍隊の保持を禁止していないは、12条に書いている通り
緊急時に国会の承認で軍隊編制が出来るの意味。

97武蔵:2003/08/05(火) 21:48
>>95 >>96

すごい検索力ですね。
これは有り難いです。
コスタリカへ行っても、これだけのことをつかめるとは思いません。
一通りは読みましたが、お気に入りに入れ、行くチャンスがあればプリントアウトして持っていきます。

これを読んで、関心は増しました。

>緊急時に国会の承認で軍隊編制が出来るの意味。

他国軍が上陸して来たような場合は当然だとも思います。
他国へ攻め込むことはなさそうでもありますね。

何はともあれ、このリンク有難うございました。

98イカフライ:2003/08/06(水) 06:55
>>95

このサイト、見てみました。ジックリ読んではいませんが、長野の弁護士さんの個人ホ−ムペ−ジですね。
 反戦系の記事も多いし、ゆっくり読むと、参考になりそうです。

99ぼーん:2003/08/06(水) 10:45
>>94
> ①αの認否に大きな意義は無い。α認知派・肯定派は多数なので
>  否定者を圧殺するのは容易いから。またローコストなら
>  誰でも気軽にαの御旗を掲げるであろうから。

これが現状ですね。
だからこそ、αを掲げることのコストを適切に引き上げるために、
「行為とαの整合性」をどんどん問題化していく、という方向がありえるわけです。

> ②αに基づいて秩序を構築するには、実際の運用法、
>  ガイドラインが必要不可欠であるものの、それが無い。

ガイドラインは、完全なものがあるわけではありませんが、まったくてがかりがないわけでもない。

たとえば、私の今日のたのしみのおやつを獲得する権利と、
別の誰かの生存に関わる最低限度の食料を獲得する権利と、
どちらがより根源的・基本的権利と言えるか。

そう意見が分かれる問いとも思いません。

> ③ガイドライン作成で大きく揉める。少なくとも人間の我欲を
>  放置したままならば。

②での説明との関連で言うならば、「私のおやつへの権利」よりも
「誰かの生存に必要な食料への権利」を上位におく事は、私にとって「損」でありえます。

しかし、私たちは、自分たちの欲望をαとの関連付けにおいて正当化するという立場に立つならば、
個人的には損になるとしても認めざるを得ない事柄が少なからず存在します。

ですから、揉めますけども、いくつかのことについては、そう意見の分かれない基本的前提を作ることは可能です。
少なくとも、先の2つの権利について、より生存の基礎たる権利の方を上位におくことについて、
番長さんは否定なさらないと思いますがどうですか?
番長さんは、上記2つの権利について、どちらを上に置きますか?
番長さん自身が責任を持って選ぶ選択として、どちらを上に置くことを選びますか?

もし、より生存に基礎的な権利を上に置くならば、そしてそういう人が十分に多いならば、
そういう規範を実効的なものにしていくことは、少なくとも民主的な社会においては可能です。
民主的な社会において可能なら、国際社会で力を持っている国の多くが民主的な国家ですから、
国際社会においてもまったく不可能な話ではないわけです。もちろん、そう簡単な道筋だとは言いませんけどね。

100イカフライ:2003/08/06(水) 11:12
>たとえば、私の今日のたのしみのおやつを獲得する権利と、
>別の誰かの生存に関わる最低限度の食料を獲得する権利と、
>どちらがより根源的・基本的権利と言えるか。

>そう意見が分かれる問いとも思いません。

 殆どの人は、後者を優先させるべき、確かに言うでしょう。
 けれど、殆どの人は実際には、誰かの生存に関る食料より自分の楽しみのおやつを優先させてしまうのではないでしょうか?

101大神:2003/08/06(水) 13:11
>>97
>コスタリカ
 喜んでもらって何より

102ぼーん:2003/08/07(木) 11:43
>>100
> 殆どの人は、後者を優先させるべき、確かに言うでしょう。
> けれど、殆どの人は実際には、誰かの生存に関る食料より自分の楽しみのおやつを優先させてしまうのではないでしょうか?

させているでしょうね。
しかし、まずは、後者を優先させるべきであるが、私たちはそれを優先させていない、という現状認識から出発しなければなりません。

問題の解決のためには、まずは問題の認知です。
そこまでは同意できますか?

同意できるならその先の話ができますが。

103イカフライ:2003/08/08(金) 14:56
>>102

あの、今更って言われるかもしれないけれど。
aの思想、ここでは自分の今日の楽しみのおやつより生存に関る他者の食料を優先させる、というのは、別に目新しい考えでも珍しい考えでもなくて、すご-く当たり前な
      社  会  の  基  本
なわけなんだよね。
 
 てのは、ちなみにa否定の世界を考えてみよう。
 欲しい物があれば、誰かから奪う、文句言われればぶん殴る、気に入らないヤツはぶっ殺す、ヤリタクなったら強姦する。
 それって修羅の世界だよね。
 強者だけが生き残る、って言い方も出来るかもしれん。ところが、この強者ってのも、実は一様じゃないんだ。
 原始の社会では、腕力に秀でた者が強者だろう、けれど、ひ弱なのび太もジャイアンの給食にこっそり毒薬を入れれば勝てる。

 繰り返すけれど、奪い合い殺し合いの世界だよ。
 それこそ、殺しあったあげくに滅びちゃわないかな。

 でね、
>後者を優先させるべきであるが、私たちはそれを優先させていない、という現状認識から出発しなければなりません。

 は、何故か?
 
 ひとつはル−ルが完璧ではないってことだよね。
 ル−ルってのはさ、気に入らないから殺す、とか、欲しいから盗む、という事をすれば、まあ、大体の国では警察に捕まって罰せられるよね、基本的に。
 勿論、大半の人は、それがいけないことだ、と思ってはいる、でも、反面ばれなきゃいい、と思うのも事実だし、それどころか、んなこと、悪いなんてヘとも感じないやつもいる。

 もうひとつは、後者を優先させるべき、と思いつつ、それを優先できないか?という理由、まあ、心のというか、人間のあり方の問題と言うか。
 それが、我欲ってやつじゃないか、と思うんだ。

 これも何度もいって、進歩なくて悪いけれど、私は利己こそ人間の本能で、利他はあとつけの道徳だ、とは思わない。
 利己も利他も、おなじように備わった人間の本能じゃないか、と思う。
 というのは、我欲が無ければ、人は死んでしまう。飢えたトラの子の前に自分の身を投げ出すのは、宗教講話としては良いけれど、実際そんなことやってばかりいたら、これも人類滅びちゃいそうだね。

 社会のル−ルっていろいろあるけれど、基本は共存することだよね。
 それには、みんなが自分の事だけじゃだめ、だよね。
 でも、反面、人間は我欲から逃れられない、この矛盾をどうするのか、って事かな、私に考えられるのは。

 まあ、みんなと仲良くするのは不可能だけど、喧嘩しないで済む方法を作り出していく、というか。

104三毛猫ナナ:2003/08/08(金) 17:00
>>102
問題を認知させる必要性はイカフライさんも
私も認めています、相違点はその方法です。

貴方がそれを万能であると思われるならマル
クスの言う疎外に陥っていると言わざるを得
ません、貴方は社会法則を甘く見すぎなので
す。

イカフライさんはその点、人の多様性、混沌
を良く理解されています。

私達が正しいとする思想の結末はどの様になるか
は未知数ですし、将来もしかしたら私達の理解も
承認も越えた所にある方法で世界平和が成される
かも知れません。
先の見えない未来の他者の為にも、私達の信じる
思想も認めない思想も全てを置いておくべきなのです。
私達が成すべきは存在否定ではなく存在肯定によって
全ての者に未来を切り開くことなのです。

105三毛猫ナナ:2003/08/08(金) 17:16
貴方の主張は皆がアルファを認め行為に移せば
平和が成されるとするものですが、私はそれが
全てだとは思えないのです。

人は利己的で世は無情です。
その様な社会法則を変え、皆にアルファを守ら
せ続けるには共産主義的な暴力を振るい続けな
ければ無理だと推測します。

貴方の情熱は評価します、でもそれを現実に変
える為の判断力も大切なのです。
現実に負け判断力に驕るのでは話になりません
が、両者を根気良く持ち続ける事が目的を成す
為に必要ではないでしょうか?

106イカフライ:2003/08/08(金) 20:23
>>104

>イカフライさんはその点、人の多様性、混沌
を良く理解されています。

あはは、どうも(^^ゞ

 ぼ-んさんもね、理解していないことは無いと思うのだ、あれだけ頭のよいひとだからね。
 ただ、ぼ-んさんの意見を聞いていると、それが理念と義務とで解決できる、といわれているように思える。
 それは、どうなのかなあ、と思うわけですよ。
 義務、というのは、罰則またはご褒美がなければ成立たない事がおおいんじゃないだろうか?

107イカフライ:2003/08/08(金) 20:28
 人間が一番動くのは、「せねばならない」ではなくて、「したい」ではないのかな、と思う。
特に、能動的・積極的に動くのは。
 義務だけで動くのは、仕方なく、ではないだろうか?
 つまらない仕事だったら、それしか仕事がなくて食えないなら、まあ、仕方ないからやるけれど、最低限しかやらない、その最低限ですら、
「給料が貰える」からと「無断欠勤するとクビだから」がなければ、やらない。
 でも、好きな仕事は一生懸命やるよね、仕事でなくても、趣味でもなんでも好きなことって、採算を度外視しても情熱を傾ける。
 
 そんなもんじゃないのかなあ。

108ぼーん:2003/08/09(土) 11:35
>>104
> 貴方がそれを万能であると思われるならマル
> クスの言う疎外に陥っていると言わざるを得
> ません、貴方は社会法則を甘く見すぎなのです。

僕の主張は、むしろ甘く見ているのはあなた方の方だ、
というものです。

> イカフライさんはその点、人の多様性、混沌
> を良く理解されています。

しかし、その多様性の中でどのように振舞うことが効果的か、
については、僕が批判したいくつかの点についてすら、
不十分な考慮しかしていないことは明らかだと思います。

> 私達が正しいとする思想の結末はどの様になるか
> は未知数ですし、将来もしかしたら私達の理解も
> 承認も越えた所にある方法で世界平和が成される
> かも知れません。
> 先の見えない未来の他者の為にも、私達の信じる
> 思想も認めない思想も全てを置いておくべきなのです。
> 私達が成すべきは存在否定ではなく存在肯定によって
> 全ての者に未来を切り開くことなのです。

もし、そのような道が見つかるとすれば、それは徹底的な相互批判を通じてでしょう。
僕がある思想を存在否定しているとすれば、それは現時点において説明できている範囲において、
不十分であるかまたは矛盾がある、という意味で否定しているだけです。

その人が、それでも将来にわたって考察を続けて不十分さや矛盾を解消したいのだ、と述べるならば、
それを否定するつもりはありません。
否定しているのは、今、現時点で批判に答えられない、という暫定的な総括をも拒む態度です。

>>105
> 貴方の主張は皆がアルファを認め行為に移せば
> 平和が成されるとするものですが、私はそれが
> 全てだとは思えないのです。

これはまた随分と単純化されたものです。

> 人は利己的で世は無情です。
> その様な社会法則を変え、皆にアルファを守ら
> せ続けるには共産主義的な暴力を振るい続けな
> ければ無理だと推測します。

何をもって「共産主義的暴力」と述べているのか分かりません。
前の「叩き出す」のときのように、物理的暴力以外のものをさして「暴力」と呼んでいるのであれば、
それは比喩以上の意味を持ちません。言説による批判を暴力と呼ぶならば、それは単に議論の
否定に過ぎません。

> 人は利己的で世は無情です。

この、極めて重要であるけれども、それだけを言うならばあまりにも単純すぎる人間観・世界観は、
もはやそれ自体元凶である、と僕は考えています。
人間の利己性は、もっとも強力で、社会を考える上でもっとも重要な側面ではありますが、
考慮すべき唯一の側面ではありません。

> 貴方の情熱は評価します、でもそれを現実に変
> える為の判断力も大切なのです。
> 現実に負け判断力に驕るのでは話になりません
> が、両者を根気良く持ち続ける事が目的を成す
> 為に必要ではないでしょうか?

「情熱は評価します」という婉曲な侮辱を僕が喜んで受け取るとでも思っているのでしょうか?
これが、「相手を見てやり方を変える」ということの一例であるのならば、随分となめられたもんだなぁ、と思います。
あなたに情熱以外のものが見えていないのは、あなたがそこに情熱以外のものを読み取れていないからです。

両者を根気よく持ち続けることと、根気よく原則的に現実に抗すること、どちらが必要なのか、それがまさに今議論されていたことです。
「両者を根気良く持ち続ける事が目的を成す為に必要ではないでしょうか?」とおっしゃるなら、そのことの必要性を説明してください。

> イカフライさんはその点、人の多様性、混沌を良く理解されています。

というのもそうですね。多様性や混沌があるからこそ、そこに多様で混沌とした方法を用いてはならない、という可能性もあります。
多様性や混沌があるから必ず方法も多様で混沌であるとは限らないのです。
また、方法が多様であるとしても、どのレベルで多様なのかは一意ではありません。
それこそがまさに議論になっているはずだったのですが、そこは都合よく無視して、こうして結論めいたことをさりげなくおっしゃる。
ズルイな、と思います。

109ぼーん:2003/08/09(土) 11:44
>>107
僕の知る範囲での運動を見る限り、「したい」からやってる運動は、まさに「自分のためにやってるだけ」
になりがちであり、その運動が当事者にどんな影響を与えているか、まったく反省のない運動になることも
しばしばです。

介護の現場で腐るほど見てきました。
「やらなきゃ生きられない」障害当事者は、「したい」からやってる支援者が逃げないために徹底的に気を遣い、
どんどん消耗していく。そんなことが、ホントに驚くほど頻繁に起こってます。(これは僕の周囲だけの話ではなく、
一般的な話です。支援者と障害当事者の関係は障害学関連の研究会でも何度かテーマにされてますし、
ボランティアに対する怨嗟をつづった詩なども、ネット上で読んだことがあります。)

そんなんでもやらないよりはマシだったりしますけどね。
まったく外出の不可能な生活よりは、支援者に気を遣いながらでも外出の可能な生活の方がマシといえば
マシで、だから不満があっても当事者は運動から離れないことは多いですけどね。(怒って離れる人ももちろん
います。)

また、イカさんがここで言う「義務」は、全然違うものをごっちゃにしています。

他者から義務として引き受けさせられるものと、
私自身の人間としての一貫性を保とうとしたら義務になってしまうものを自ら引き受けていくのとでは、
全然意味が違います。

110ぼーん:2003/08/09(土) 11:45
>>109
注釈。
「たのしくやる」ってのと、「たのしいからやる」ってのは、全然違う話ですよ。ってこと。

111イカフライ:2003/08/09(土) 19:25
>>109

>他者から義務として引き受けさせられるものと、
>自身の人間としての一貫性を保とうとしたら義務になってしまうものを自ら引き受けていくのとでは、
>然意味が違います。

これが、前者が「したくちゃいけないから」やる、であって、後者は「したいから、楽しいから」やる、の差じゃないかなあ。

 勿論、後者でも、それプラス義務がないと、難しいけれど。

 昔ね、ある同人誌をやってた時、締め切りを設定するかどうか、でもめたことがあるんだ。
 で、ある人が、
「同人誌は自由な創作の場であり、イマジメ−ションが湧いたときに作品を作るものだから、締めきりは設定するべきではない」
と言って、私が
「だからこそ、締め切りを設定しないと、いつまでも作品は集まらない」
と反論したんだけれどね。

 一番いいのは、それが好きであり、しかもせねばならない、という責任があることだよね。

 やりたくもないのに仕方なくやる仕事ではプラスアルファは生じない、けれど、その仕事が好きでやりがいを感じたら、その給料以上に人は頑張るからね。

112イカフライ:2003/08/09(土) 19:41
ところで、感覚的な意見で悪いけれど。

>>105 の三毛猫ナナ さんのレスを読んで、なんか、じ-んときちゃった。

なんでかなあ、とか考えたんだけれど、ナナさんの苦悩、っていうのかなあ、そういうの感じちゃって。
別にかばってくれてるから、ということではないよ。

 世界が残酷なのは、当たり前だ。
 その残酷な世界で、我々はなにを成すべきか。
 世界の残酷さに目をつぶって、理想論の天国だけにしがみつくのも、残酷な世界に負けて「仕方ない」とうそぶくのも、世界に負けるのは、同じ事なんだよね。

 けれど、その残酷な世界を直視しながら、なおを理想を持ちつづける事って、すごく苦しい。
 それに、なんかじ-んと来た、みたいな。

113○○番長:2003/08/09(土) 22:15
こんばんわ〜。返答をほっぽらかしてレスしてしまいます(謝

なるほど、納得がいきました。

ぼーんさん=介護職orボラ=青い芝の会=α

のラインで考えれば、何か一本の線でつながるように思えます。
何や、類似業者やないですか、ぼーんさん。まあ僕は高齢者や中途障害者、貧困者に接する機会が多いんですが、その点は違うかもね。CPとか筋ジスの人らでしょうか?ぼーんさんのお付き合いのある方たちといえば。


関係ないレスですんません

114○○番長:2003/08/09(土) 23:31
ぼーんさんへ

>> ①αの認否に大きな意義は無い。α認知派・肯定派は多数なので
>> 否定者を圧殺するのは容易いから。またローコストなら
>> 誰でも気軽にαの御旗を掲げるであろうから。
>これが現状ですね。
>だからこそ、αを掲げることのコストを適切に引き上げるために、
>「行為とαの整合性」をどんどん問題化していく、という方向が
>ありえるわけです(>>99)

ありえると云うより、整合性を問題にする、その追求を現実の力たらしめる以外に
αによる秩序構築・平和確立はありえませんね。となると、やはりガイドラインと
それを遵守させる力の双方が一番問題になるわけです。ガイドラインについては
また縷縷述べるとして、それを守らせる実行力は、武力が根幹になると僕は
考えているのですが、ぼーんさんは如何お考えでしょうや?

>ガイドラインは、完全なものがあるわけではありませんが、まったくてがかりが
>ないわけでもない。
>たとえば、私の今日のたのしみのおやつを獲得する権利と、
>別の誰かの生存に関わる最低限度の食料を獲得する権利と、
>どちらがより根源的・基本的権利と言えるか。
>そう意見が分かれる問いとも思いません(>>99

普通に考えれば、最低限度の食料>おやつに違いありません。
それで大揉めすることはないでしょう。権利の比較だけならば。
ただ実際問題として、目の前にいない人々の苦悩、たとえそれが飢餓線上の
人達のものであったとしても、その苦しみをどこまで人間が共有できるか
僕には相当疑問です。同苦同悲の境地に至る者は僅かでありましょう。
行為とαとの整合性を突くといっても、完全に守らせることはもちろん、
不完全にでも遵守させることすら、多大の努力を要するでしょう。
幼児教育から学校教育、α御用学者(?)養成、政府広報、マスコミなど
あらゆる媒体を駆使して、α遵守を呼びかける必要があります。こと食というのは
人間の本能に関わる事、生半な教育・宣伝では如何ともし難い面があります。
ときには罰も必要です。1日の必要カロリーは、活動性の高くない人で大体
30〜35kCal/体重(㎏)くらいですが、実行するしないに関わらず、
余剰分を飢えた人々に分け与えるように要請するでしょう、理念αは。
また衣食住など全てにわたってαが介入するようになれば、あまりに窮屈な
世界になってしまう。それは大げさだと思うかもしれませんが、理念とは
そういうものです。無条件の当為とはこういうものです。

簡単なこと、おやつと必要食料についてすらこの呈でありますから、もっと
難しい問題、ホロコーストと戦争犯罪の比較、胎児の医療的利用(パーキンソン病
患者団体は積極的とききます)、売春合法化問題など、微妙な課題に関しては、
殆ど白紙なのではありませんか?まあこれらは何をもってこようと百家争鳴と
なるのでしょうが…。

115○○番長:2003/08/10(日) 00:22
>>114続き

>少なくとも、先の2つの権利について、より生存の基礎たる権利の方を
上位におくことについて、番長さんは否定なさらないと思いますがどうですか?
番長さんは、上記2つの権利(注:必要食料とおやつ獲得権)について、
どちらを上に置きますか?番長さん自身が責任を持って選ぶ選択として、
どちらを上に置くことを選びますか?
>>99

自信を持って前者と答えるでしょう。僕はかなりの大食漢ではありますが、
病人の布団を剥ぐ真似はせんと思います。
ただ近視眼的かつ刹那的な僕の行動を鑑みれば、その回答を世界にいる全ての人に
適用するのか?と聞かれれば、かなり怪しいものになるとも思います。僕の関心は
自分を中心にした同心円状になっているからです。僕だけではないでしょう。
およそ人であるなら、みなそういう風に行動しているのやと、経験上そう考えます。
それは公正概念+情だ、みたいなことをぼーんさんは書いてたように記憶しますが、
確かにひとつの解釈ではあります。
ただそうやって人間の内面を幾つかの構成要素に分けて考えると、公正概念と情だけ
では少々荒い解釈であります。ひとつはその比重について。もうひとつはその
要素数についてです。

公正概念と情の比重が9:1くらいならいい。でも5:5、3:7、1:9ならどう
なのか?1:9であるなら、公正概念という内面の事実は、人間にとって
瑣末なものでありましょう。そして公正概念を拡大させるのは人間の生理に反する
ことと言ってもよくなる。
次に構成要素数についてですが、公正概念と情の二つだけが人間の内面を占めている
訳ではありません。ここで『情』を肉親の情・近しい人の誼としますと、
この『情』の他に、信仰心や道徳感情、習慣、先入見、生理的反射、個人的嗜好など
多彩なものが人間の内面にはあります。よしαが万人に共通のスキーマであると
しても、それは比重の面からも、また数の上からも、一部分でありましょう。

人間の一部分を肥大させ、それを現実変革の足場にする考えは、
いささか楽観的過ぎるように写ります。
人間的な事実を元にしか、社会や国家を考えられない僕にとっては。

116武蔵:2003/08/10(日) 00:51
>>115

突然割り込みすみません。

>ただ近視眼的かつ刹那的な僕の行動を鑑みれば、その回答を世界にいる全ての人に
適用するのか?と聞かれれば、かなり怪しいものになるとも思います。僕の関心は
自分を中心にした同心円状になっているからです。

こういう感覚はほとんどの人が共有していると思います。
目の前に餓死しかけている人がいる時に、これ見よがしにおやつを頬張る人・・・余り考えられません。
しかし、世界中の飢餓がなくなるまでおやつを食べない人も少ないでしょうし、
個人的にそれを実行しても、余り意味はないでしょう。

ただ、そういう世界の矛盾を知って、その構造的矛盾を根こそぎ変革しく展望があったとしたら?
そんな方向性で世の動きを見つめて考えていきたいと思うんですが・・・・

117イカフライ:2003/08/10(日) 01:23
>>116

>ただ、そういう世界の矛盾を知って、その構造的矛盾を根こそぎ変革しく展望があったとしたら?
そんな方向性で世の動きを見つめて考えていきたいと思うんですが・・・・

その展望を探しているのではないでしょうか?
 私、他スレにもいろいろごちゃごちゃ書いているので、意見が重複してしまうかもしれないのですが。

 食糧問題でいえば、世界の供給料だけを見れば、現在の世界人口を養える量は足りている、あとは配分の問題だ。
 じゃあ、少なくとも生存ギリギリの量だけは、配給できるようにすればいい。
 あら、簡単じゃない、と思うけれど、じゃあ、具体的にはどうやって配給するの?
 となると、ちょ-難しいですよね。

 日本の国を考えてみれば、完璧とはいえないまでも、例えば生活保護などのように最低限の福祉はシステムとして存在している。
それでも、その保護からこぼれる人もいるとしても、極論として物乞いするなり、食物屋のゴミ箱を漁れば、飢えない程度のものは満たせる。
 じゃあ、これを世界に当てはめてみる、そうなると、国家を超えた組織とシステムが必要ではないか?
 と思える。
 そして、そのシステムを、というか、どんなシステムでも、それを守らせるには、強制力と大多数のコンセンサスの両方が必要なのだ。

 と、あまりにも漠然とした答えになってしまう。

 武蔵さんの考える展望って、どんな像なんでしょうか?

118武蔵:2003/08/10(日) 02:06
>>117  < 展望 >

飢餓の原因がいろいろあるでしょうから、その原因にメスをいれて個々の対応が必要ですし、
ひと言で言える問題ではないと思いますが、
あえてひと言で言ってみると、「教育」だと思います。
国際的なプロジェクトで、学校つくりと就学援助をすること。
その地に合った産業開発と職業訓練も必要かと思います。
医療頭脳の輸出などは日本がぜひ行ないたいと思います。
(国際的な名誉ある地位が得られます)
国境なき医師団なんかは、国や国連が強力に支援すべきだと思っています。

まあ、こんなことは粗末な頭からひねり出す一例ですので
個々の国についての知識を寄せ合って、研究する組織がまず必要でしょうか?
歩くにの企業をもうけさせるための支援ではなく、あくまで必要とする国の実情にそって考えるシステムが大事だと・・・

119武蔵:2003/08/10(日) 02:17
変換ミス

歩くにの企業→ある国の企業

120○○番長:2003/08/10(日) 02:51
武蔵さん、こんばんは。

>こういう感覚はほとんどの人が共有していると思います。
>目の前に餓死しかけている人がいる時に、これ見よがしにおやつを頬張る人・・・
>余り考えられません。
>しかし、世界中の飢餓がなくなるまでおやつを食べない人も少ないでしょうし、
>個人的にそれを実行しても、余り意味はないでしょう(>>116

古今東西、人間って同じですわ。当たり前ですよね。
もちろん例外もあるんでしょうけど、例外をもって人間の
本質ということにはならないと思います。
僕の出発点はいつも人間として当たり前の感覚からなんです。
難しい理窟はよく分らないもんで(汗


>ただ、そういう世界の矛盾を知って、その構造的矛盾を根こそぎ変革していく
>展望があったとしたら?
>そんな方向性で世の動きを見つめて考えていきたいと思うんですが…(>>116

根こそぎ変革しうる方法論として、ぼーんさんはαを提唱している訳なんですよね。
正確に言えば、世界に遍く存在する人間否定や争いを根絶出来なくとも、今よりは
ましになるだろうと考えておられるんやと思います。一足飛びには達成できないが、
道筋さえ明らかになれば、あとは一歩一歩着実に進んでいけば良いと。
概ね武蔵さんもそうお考えなんでしょう。

それは大変すばらしいことです。本当の意味で反対する人間はおらんのや
ないですか?非現実的だとか、理想主義だとか言う者はいても、そういう反論は
理想状態を暗黙のうちに認めた話の立て方ですから。
そういう意味では同一線上にいるんですね、反戦平和派も懐疑派も。

ただ僕がいつも中心に据えるのは、鳥瞰視的な理想状態の実現よりも、今すぐに
実現可能な幸福とは?或いは不幸に耐える術とは何か?という問題意識なんです。
戦禍に巻き込まれても、強制収容所に送られても、差別に晒されても、必ず
幸福になれる道があるはずだし、実際人間にはそれが可能でした。
被差別部落民やハンセン氏病患者の境遇が悲惨でなかった筈はないのやけれど、
彼らに実際接して、僕なりに色々調べ愚考を重ねてみた結果、僕みたいな
もんでも彼らのように生きられるんやないかと思い至ったんです。
もしか僕の問題意識、幸福論は、不幸に耐えるだけの思考なのかも知れませんが、
それを基礎に置かないあらゆる理想や正義なんてものを、僕は重用する気に
なれないんですよ。


平和構築とは何の関係もないですけど(笑
まあ読み飛ばして下さい。

121○○番長:2003/08/10(日) 02:57
>>120

訂正…。

×もしか僕の問題意識、幸福論は…

○もしかしたら僕の問題意識、幸福論は…

122武蔵:2003/08/10(日) 03:18
>>120

>僕の出発点はいつも人間として当たり前の感覚からなんです。
難しい理窟はよく分らないもんで(汗

おお!!一緒ですよ。
私も人間として当たり前の感覚からしか考えられまへんわ(大阪弁バージョンでいきまひょか)
しかし、当たり前がみんなそれぞれやさかいにね。ちょっと厄介です。
まあ、私はいつも「みんなちがってみんないい」と、かねこみすずでいきたんんですが・・・
これが実は、わたしの「α」です。 
「人間否定や争いを根絶出来なくとも、今よりはましに」していきたいと。

後半は、心の持ちようということですね?
どんな不幸に見える境遇の中にも幸福はあると。
それは、全ての人自身に課せられた課題であって、
他人である我々個人や社会としては、不幸な境遇というのを、最大限に取り除いていく義務があるように思うんですが。。。。
ハンセン氏病回復患者の置かれていた「不要な隔離」から解放されるのに
あれほどの年月が必要だったということは、我々大いに反省して
2度とそのような罪を犯さないように、そういう理不尽なメにあっている人の声に
耳を済ませていかなアカンと思うんですわ。

123ぼーん:2003/08/10(日) 08:00
>>114
> また縷縷述べるとして、それを守らせる実行力は、武力が根幹になると僕は
> 考えているのですが、ぼーんさんは如何お考えでしょうや?

そういう事態はありえるし、実際にもありそうですよね。
ただし、武力は用い方次第ですよね。
今回のイラク攻撃のような用い方であればα破壊的に作用しますが、
国連決議を取り、査察団委員長の意見をきちんと尊重し、
攻撃理由の証拠はきちんと(事後的にでも)吟味する、
等々のルールにきちんとのっとって武力行使が行われるなら、
かなりのケースで(最終的な武力行使を否定しないまでも)
武力行使を行わなくても成果を挙げることは可能だと思います。

> 普通に考えれば、最低限度の食料>おやつに違いありません。
> それで大揉めすることはないでしょう。権利の比較だけならば。
> ただ実際問題として、目の前にいない人々の苦悩、たとえそれが飢餓線上の
> 人達のものであったとしても、その苦しみをどこまで人間が共有できるか
> 僕には相当疑問です。同苦同悲の境地に至る者は僅かでありましょう

そうですね。
だからこそ、この面でのメディアの役割は重大です。
マスメディアの役割がそうだし、デモや様々な学習イベントなどの意義もこういう点にあります。
私たちは、その事実をしっかりとかみ締めるように考えるならば、やはりそれなりに痛みを感じてしまうもののようですから。

私たちは、他者の痛みが自分の痛みとならないように様々な装置を私たちの周囲にめぐらせています。
その「装置」のありようについては、http://www.lifestudies.org/jp/mutsu.htm 森岡正博『無痛文明論』がとても参考になります。
これら「無痛化装置」にいかに抵抗するか、が1つのテーマとなるでしょう。

> 実行するしないに関わらず、
> 余剰分を飢えた人々に分け与えるように要請するでしょう、理念αは。
> また衣食住など全てにわたってαが介入するようになれば、あまりに窮屈な
> 世界になってしまう。それは大げさだと思うかもしれませんが、理念とは
> そういうものです。無条件の当為とはこういうものです。

そのとおりです。その窮屈さを、まずは実感することです。
そして、窮屈ながら、私たちはそこまで徹底して自分の物を手放すことができない、
ということに気づくはずです。まさに自己矛盾。

この自己矛盾がエネルギーになります。
そこから先の道の1つは、「我欲を捨て、より多くの物を手放すように自分を変える」
ことでもあるでしょうが、それだけではないし、それよりももっと重要な道があるように思います。
「生存ギリギリ以上のものをすべて他者に譲渡せよ」という命令を私たちが受け取らざるを得ないのは、
責任ある人々がすべては動き出してはいないからです。
すべての人が動くならば、私一人の譲渡すべきものは、「そこまでは」多くないはずです。
そして、αの恩恵をこうむろうとするすべての人に、同じ義務があるはずです。
だとすれば、「他者にも義務の履行を求めること」がなすべきこと、できることの1つになるでしょう。

# それでも結構な量にはなると思いますが。

124ぼーん:2003/08/10(日) 08:00

今のところ僕はこう考えています。
「1 最低限、すべての人が僕と同等の譲渡をするならば、実際に問題が解決の方向へ動くだろう、
という、応分の負担は確実に負う。」
「2 すべての人が1を果たせば問題は解決の方向へ向かうはずだが、すべての人がそうしている
わけではないので、今、現実を変えるために、1以上のことを可能な限り行う。」
「3 1、2を行うとしても、実際の不正義が変化していない限り、私自身の免罪は行わない。不正の
上で生きられているという事実を認識し、それについて言い訳しない(だから、僕は、たとえば9.11
のような事件によって命を落とすとき、あるいは大事な人を奪われるとき、実行犯を非難する資格は
ないし、非難しないでしょう。)」
「4 1、2、3について、周囲に粘り強く説いていくことを行う。」

いくつか書き漏らしがあるかもしれませんが、これが基本的な姿勢です。


ちょっと時間がないので、このへんで。続きについては、またレスします。
以下は、簡単に。

あと、「基本的権利を尊重するという原則があるのに、私のもっと瑣末な権利を優先してしまう」現象については、
やはり、その現実を指摘し続けることが大事だと思います。
私たちは、こっそりとおやつを食べることはできても、飢えた人々の目の前で、
飢えた人々を足元に転がしたままでそれを食べるのは、相当に気分の悪いものです。
まずは、そこでおやつを完全に放棄はできなくても、半分にするぐらいのことからはじめてはどうか、とは思います。
つまり、先の1ですね。その上で、なすべきこととしての2、3、4について行っていく。

すべての余剰を譲渡するのに比べれば、それはできんことではない、って気はしませんか?

125武蔵:2003/08/12(火) 08:56
>>124

>私たちは、こっそりとおやつを食べることはできても、飢えた人々の目の前で、
飢えた人々を足元に転がしたままでそれを食べるのは、相当に気分の悪いものです。
まずは、そこでおやつを完全に放棄はできなくても、半分にするぐらいのことからはじめてはどうか、とは思います。
つまり、先の1ですね。その上で、なすべきこととしての2、3、4について行っていく。
すべての余剰を譲渡するのに比べれば、それはできんことではない、って気はしませんか?

目の前では出来ないことが、隠れてこっそりなら出来てしまうし
現実には目の前にはいないんですよね。
ホームレスは目の前にいる(ガード下のダンボールハウスや公園の青テントハウスを見たことない人いるのかな?)
のだけれど、心の中で切り捨ててしまっている(つまり見えない)

まず、目の前にいる(見える)状態を作るべきであると思います。

126イカフライ:2003/08/12(火) 09:16
>>120

>ただ僕がいつも中心に据えるのは、鳥瞰視的な理想状態の実現よりも、今すぐに
>実現可能な幸福とは?或いは不幸に耐える術とは何か?という問題意識なんです。
>戦禍に巻き込まれても、強制収容所に送られても、差別に晒されても、必ず
>幸福になれる道があるはずだし、実際人間にはそれが可能でした。
>被差別部落民やハンセン氏病患者の境遇が悲惨でなかった筈はないのやけれど、
>彼らに実際接して、僕なりに色々調べ愚考を重ねてみた結果、僕みたいな
>もんでも彼らのように生きられるんやないかと思い至ったんです。
>もしか僕の問題意識、幸福論は、不幸に耐えるだけの思考なのかも知れませんが、
>それを基礎に置かないあらゆる理想や正義なんてものを、僕は重用する気に
>なれないんですよ。

悲惨な状況で、尚且つ、幸福を持ちつづけるということは、なにか?心のあり様、ではあるけれど、それは
「宗教」
かな、とか思うんだ。
 人間って、幸せな時は人にも優しいし、気持ちも前向きだよね。不幸だと、ひねくれたりひがんだり、人を自分と同じ所まで貶めようとしたりする。
それほどの極限状況でなくて、それこそ日常的なレベルでもそういうことってあったりする。
 中島みゆきの「幸福論」って歌でも唄われてるように、さ。

 クリスチャンの人がね、辛い事や悲しい事に直面したとき、それを神が自分に与えたもうた試練だと思って、感謝して受けとめる、というんだよね。
 例えば、マザ−・テレサとかがあれだけの活動が出来たのは、その強い信仰があったからなんじゃないかな?
 世界はあまりにも悲惨で、人間はあまりにも無力だ、その中でなにかを成し得ようとするとする時、その心の支えになるのは、人の世の表層的な現実を超えたものが、人の心を支えるのではないか?
 なんて思うのですが。

 ただ、これは反面、結局、現実にはどうにも解決できない事をごまかす手段に過ぎない、という皮肉な見方も出来るんだよね。
 実際、「神が与えた試練だと思って感謝して受ける」というのが、自発的な信仰からでたもんならまだいいけれど、他者の悩みや苦しみに対してこれいっちゃたら
「なめとるんか、ワレ」
 じゃないっすか? なんの解決にもならんし、それ以前に、不誠実だよね。
 それなら、私にはあなたの悩み苦しみに関してなにもできません、ゴメンナサイ、って言えよ、せめて。
 いるかいないかも解らない神様に責任転嫁するなよ。
 ワシは、中学生の時、一時期教会に通っていた事があって、まあ、そこで出会ったクリスチャンやら、あと学校の宗教教育(そ-ゆ学校だったんで)やらで、あまりいいもんに出会わなかったもんで。
 まだ、社会主義の方が、具体性、現実性があるんじゃないか、なんて思いもしてさ。
 実際、昔はキリスト教に失望して社会主義者になった人とがいるんじゃないかな、ほら「なにがわたしをそうさせたか」とか書いた女性もそうだったよね。
 
 ところが、ワシが小学校6年生の時、あの連合赤軍のリンチ事件が起こっている。当時の新左翼だけを社会主義というつもりはないが、あれは、ショックなのだ、今でも尾を引いてるくらい。
 社会主義革命、っていうのも、そう考えると、本当に世の改革にはならんのじゃないか?
 なんぞと悩んだりして。

 かくしてワシはノンポリになったのでした。
 
と、まあ、自分のことばかり言ってもなんだけれど。

127聞いた話から@捨てハン:2003/08/12(火) 14:40
>>125
ホームレスに関してですが、少しだけ書きます。

スレと話が外れますが、

ホームレスになる人も色々で、ある程度まとまったお金を持っていながらもすむ所の確保をせず、お金は紙袋に入れて持ち歩いている人がいたそうです。
どうしてかは聞きませんでしたが、何らかの理由があってホームレスになった事は確かです。
戸籍を売ってしまって身元無し、何も束縛が無い自由はあっても、住むところを確保できない状態になっているとか・・・。
都会ではガード下や公園や駅の雨風しのげたり、水道やトイレが近くにある場所に住んでいます。食べ物も、レストランの裏口のポリバケツに捨ててある残飯を漁れるから、どこのレストランの何が旨いか、結構、詳しいらしいです。
銭湯に行く人もいるようです。まったく無職というより、日雇い労働をして、僅かながら収入が有る人もいますし。
ホームレスになっても生きて行こうと思ったら生きていける環境があり、日本はまだまだ平和で豊かなんですね。
もっとも、最近はホームレスの強制立ち退きを行っているようだが。

ただ、多くの人が、飯を殆ど食べずに酒に費やしているので、体を壊して、時々行き倒れになって病院に運ばれているけど、でも、病院も殆どが点滴を射って応急処置をして帰すようです。そりゃ、商売ですから、お金を払ってもらえなければ最後まで治療はしないのでしょう。どうしょうも無い重症な場合は、役所の福祉課が治療費を提供しているようです。
そんで、精神科の病院にもアル中で入院するらしいです。同じく治療費は福祉課から出しているらしいです。普通の病院なら強制退院させされるが、精神科に入院すると、なかなか退院したがらないらしいです。住むところがあって、飯も出るし、言うこと無いのでしょう。それと同様で、刑務所に入って出所したら、又、わざと何かしでかして入りたがるらしいです。

以上、裏話でした。(勿論、ホームレスの全員とは言いません。中には、そんな人がいるという話です。)
決して、現実から目を逸らしてはいません。

128武蔵:2003/08/12(火) 15:18
>>127

そうですね。ホームレスはひとことでは語れません。
少々ずれても大してずれていないということで、このまま少々・・・・

その多様性のあるホームレスについて、
自立の意志のある人たちに対して、行政が自立支援をすべきであるということは
大方のコンセンサスが得られていると思います。
自立できるまでの公共住宅支給、就労支援や生活費の支給または貸し付けなど。
これすら実行されていないのですが、行政に実行させるべく頑張っている人たちが居ます。
我々も、支援活動くらいはしていかねばと思います。

しかしあなたの言われる精神科入院や刑務所収容すら求める部分―自立放棄してしまった人たちをどうしていくのか、これが問題ですね。
☆☆だからといって放置は出来ない。
☆☆「収容」ではなく生きる意欲を回復するべく、個々の取り組みが必要になってくる。
言うは易く、行いは難し の典型ですね。
行政まかせにも出来ないけれど、取り組んでいる人たちへの行政のバックアップだけは絶対に必要だと思います。
こういうことも、せめて支援活動くらいはやっていきたいと思います。

129イカフライ:2003/08/14(木) 09:00
>>124 について、考えていたのだけれど。
 ぼ-んさんがどれだけ負担を負っているかは、解らないけれど、多分、かなりの負担を負っているのだろうとは、推測します。
誰もが、そのような負担を負えれば全ては、とまでは言わないにせよ、かなり問題は解決するとは思うんだ。
 けれど、全ての人が自由意志で負担を負う、事は無いのよね。
 
 飢えた人を足元に転がしておやつを食べるのは、大概の人にとって気分のよくないもんだけど、自分のおやつを食べたいのも人間だから、いろんな言い訳を作る。
そこで、それをわけるように解いて行く(これが4だと思うけど)ことは大切だと思うし、また、個人で出来るのはこのレベルだと思うんだよね。
でも、それは結局最終的には個々の自由意志になってしまうのだ。
 そうなると、みんなが意志に関らず分けられるシステムってものが必要になってくるよね。

 例えば、ホ−ムレスの話が出てるけど、ホ−ムレスが重病になったら、福祉のお金で治療を受ける事が出来る、この治療費は税金から出ているわけです。
なかには、ホ−ムレスなんて落伍者なんだから勝ってに死ね、なんであんなヤツラに金ださなきゃいねえんだ、と思う人もいるでしょう、けれど、そういう人も、ホ−ムレスの治療費は税金と言う形で分担しているわけです。

 そういうシステムは、先進国では、まあ、国によって差もあるし、日本において完璧とは言えないまでも、かなり出来ている部分はあると思うんだよね。
それを世界レベルでどう構築していくか、ではないだろうか?
 まあ、そこまで話をひろげてしまうと、個々のパンピ−には実行が難しいんだろうけれど。

130武蔵:2003/08/14(木) 11:24
>>129

マリーアントワネットが直接残虐行為をしなかったからといっても、彼女は自国民の苦しみに対して責任がありました。
そして
今の世界は資本が富を産む(金が金を呼ぶ)システムになっていますね。
そういう意味では、先進国でその恩恵を被っている人たち全てに責任があると思います。
そのシステムを強化するのではなく緩和する必要もあると思います。
決して貧乏人が足引張りをしているわけではなく、底上げすることで全体がより上がるんだってことです。
とりあえずはそのシステムを理解して先進国や資本家は、責任を負う自覚が必要だと思います。
国内的にも世界的にも・・・・

131イカフライ:2003/08/15(金) 17:37
>>130

>今の世界は資本が富を産む(金が金を呼ぶ)システムになっていますね。
そういう意味では、先進国でその恩恵を被っている人たち全てに責任があると思います。
そのシステムを強化するのではなく緩和する必要もあると思います。
決して貧乏人が足引張りをしているわけではなく、底上げすることで全体がより上がるんだってことです。

それをどうやって構築していくのか?
 
 一瞬、考えられるのは、共産主義ですね。貧しい民衆が革命によって政府を倒し、王侯貴族が独占していた富を再分配する。
 けれど、その後は?
 フランス革命も、内ゲバと粛清の嵐で、幕を閉じました(まあ、あれは共産主義革命ではありませんが)
 ソ連を始めとした社会主義国家は、経済破綻しました。
 中国は、市場経済を導入し、資本主義国家以上の貧富の格差が現れ始めています。

 けれど、では、資本主義の一人勝ちなのか?
 
 本家本元アメリカでも、武蔵さんがいわれるような資本を持つ者に富が集まる、いわば富の一極集中が問題になっている。

 三毛猫ナナさんが、2ちゃんねるで、「第3の道」と言われていましたのが、興味あります。
 お時間があれば、お話して頂きたいので、ナナさんをお待ちしていますが。

132イカフライ:2003/08/15(金) 17:45
>>131

勿論、ナナさんだけではないですよ。

 今の社会の問題の大きな原因に貧困がある。戦争だって、貧困が大きな理由になっていることは多くないでしょうか?

 自覚を促す事は大切です、けれど、それは所詮、自由意志に過ぎないのです。

 例えば、ホ−ムレスを心から気の毒に思っている貧しい人のなけなしの寄付より、ホ−ムレスなんて目障りだから河に投げ込んじゃえばいいのに、と思っているお金持ちの税金の方が、結果的にホ−ムレスに貢献している場合がある。
 これが、システムだと思うのです。

 かといって、私は理念や理想は否定しません。
 ある種、ホ−ムレスなんてゴミ、位に思っている人間にその負担を負わせるシステムを作ろうとするのは、やはり意志だから。

133イカフライ:2003/08/15(金) 17:46
>>132


>勿論、ナナさんだけではないですよ。

→勿論、ナナさんにだけお聞きしてるのではないですよ。

134ぼーん:2003/08/16(土) 11:08
>>132

戦争の原因が貧困であることは、むしろ少ないんじゃないかと思います。
最近戦争を起こしている国、参加している国は、アメリカ、イギリス、といった面々。
かなりさかのぼるとイラクのクウェート侵攻とかありますけど。
あれも、「貧困が原因」というものとは違う。貧困国は、実際には戦争する元気もない。

内戦やテロの原因にはなりえますけどね。

しかし、内戦とても、貧困は第一義的な原因だといいがたい。
たとえば、シエラレオネの内戦にしたって、内戦状態を放置した方が安くダイヤモンドを買い付けることができるし、
だからこそ、介入しようともしない。利害関心から先進国の介入がないことを知っているから、
ゲリラも恐怖政治をしけるわけです。先進国は黙認し、現地のゲリラが現地住民の搾取を直接行う。
構図としては、先進国による現地住民搾取をゲリラが「代行している」と言ってもいい。

資本の論理で物事は進んでいきますが、そこに責任を負うべき人が誰なのかが徹底して曖昧にできるシステムがあります。
私たちはダイヤモンドを購入するとき、それがシエラレオネで奴隷労働に従事させられている人が掘ったものであり、
そのために「安く」買うことができている、というようなことを想像しないで済むわけです。だから「永遠の輝き」なんて簡単に言える。
ここでも内戦の原因は、貧困でもあるわけなんですが、その貧困のそのまた原因がある、と言える。
それは、資本主義的な利害関心です。

資本主義的な利害関心は、私たちの発展の原動力でもありますが、そこには倫理の枷ははめられておりません。
奴隷労働から得る利益も、新しい技術開発から得る利益も、同じように利益をもたらします。
枷のはめられていない資本主義的な利害関心にとっては、どちらの利益でもかまわないわけです。

私たちの考えるべきは、資本主義的な利害関心に倫理の枷をはめること。
その方法は、やはり1つには、資本主義的な世界、経済の動きが、どのような現象を引き起こしているかを明らかにすること。
そこで引き起こされている現象を倫理的に評価すること。こうした作業がなされることが必要条件でしょう。

135ぼーん:2003/08/16(土) 11:22
>>129
部分レスで申し訳ないですが。

> 例えば、ホ−ムレスの話が出てるけど、ホ−ムレスが重病になったら、福祉のお金で治療を受ける事が出来る、この治療費は税金から出ているわけです。

> なかには、ホ−ムレスなんて落伍者なんだから勝ってに死ね、なんであんなヤツラに金ださなきゃいねえんだ、と思う人もいるでしょう、
> けれど、そういう人も、ホ−ムレスの治療費は税金と言う形で分担しているわけです。

これはそう簡単にはいえません。

私たちは、たまたま今あるような経済システムを持っており、
その経済システムを通じた分配によれば、たまたま今あるような所得がそれぞれの手元に届けられる。
それは、いちいち「たまたまそうなっているだけ」という性質のものです。

税金を払うという行為は、一般には「私のものを拠出する」という風に意識されていると思いますが、
ここでの「私のもの」という概念の中身は検討の必要があります。

「今の社会のルールに基づいてたまたま私のものとして仮に割り当てられたもの」という意味以上の意味は
付与しようがないと思います。私有の根拠を問うていくと、これまた証明できない前提にたどりつきます。
一般には、ロックの言うような「私の身体を用いて生み出したもの、最初に摂取した無主物」は私のもの、
といったものが私的所有の根拠とされてますが、この根拠自体には、根拠はありません。
だから、「別に、その人の身体を用いて生み出したものの、半分だけがその人のもの」といっても、間違いではない。
全部その人のものにするか、半分だけにするか、あるいはもっと別な決め方か、そうした諸々の物の「分け方」については、
どれが正しい、という証明はできません。だから、ある人が、「これは元々俺の物だから」と言うとき、そのことの究極的な根拠はありません。
そのことはまず確認しておく必要があります。

さらに、現代のような複雑な経済社会においては、「何が私の身体を用いて生み出したものか」は割りと
はっきり分かるとしても、「そのうちどれくらいが私のものか」ということを決めることは非常に困難なのです。
たとえば、1つの会社がある製品を生み出して商売しているときに、その営業担当、広報担当、開発担当、
生産ラインの労働者、一人一人は、いったいどれだけの取り分を権利として主張できるのか?
これを考えると、私たちの所得の決まり方というのも、規範的な意味においては、「どんぶり勘定」でしかありません。

# もちろん、実際の取り分は、それぞれの労働者の労働市場における希少価値によってある程度決まっている。とはいえます。
  しかし、「市場においてどのように取り分が決まるか」という記述的命題から、「どのように分配されるべきか」という規範的命題を
  引き出すことはできません。

「なんであんな奴らに「俺の」金をださなきゃけねえんだ」と言うならば、
「それは、もともとそんな根拠なんてないからだよ」と、とりあえず言えば言えます。
それだけで話は終わらないですけどね。まずは出発点として確認しておくべきことではあります。

136三毛猫ナナ:2003/08/17(日) 00:24
ぽーんさんが御指摘されている通り問題の大きな原因は分配
システムにあるのではないかと推測できます。

資本主義では問題があるのは明白ですが、共産主義では更に
問題があるのは過去の実例からみても明らかでしょう。

この辺の事を踏まえ今後どの様な社会システムを構築していく
かが大きな課題になるのではないかと私は考えています。
(私の言う第三の道とは社会学者ギテンズやマンハイムの言葉で
すが、これは乱暴に言えば社会民主主義ですが、問題も多く課
題も山積みなのです)

私としては余剰を厳しく搾取するのではなく、資本主義で
見られる様な個人の努力では如何ともできない不公正な状
況を改善する事の方が現実的だと思っております。
(これはあくまで感想です)

137武蔵:2003/08/17(日) 17:06
>>131

>一瞬、考えられるのは、共産主義ですね。貧しい民衆が革命によって政府を倒し、王侯貴族が独占していた富を再分配する。

全く違うんです。
大きい意味では再分配という範疇に入るかとは思いますが、
富める者から税金的に富を取り上げ、それを貧者に分配すると言うような再分配のことを言っていません。
>>118
をもう一度読んで下さい。
緊急的には、食物援助も必要と思いますが、
本気で取り組むべきは「教育援助」。
農業・牧畜その他、その国にとって一番ヒットした産業を
彼ら自身の手で開発する力をつけていくための支援に先進国が取り組むこと。
そのようにして底上げをすることは、先進国にとってもプラスになるんです。

138イカフライ:2003/08/19(火) 10:51
>>137

武蔵さんが、共産主義革命を標榜している、といってるわけではないです.誤解なきようお願いします。

>>136
>私としては余剰を厳しく搾取するのではなく、資本主義で
見られる様な個人の努力では如何ともできない不公正な状
況を改善する事の方が現実的だと思っております。

私が言うシステム、というのもこれです。
 ここでずっと命題になっているαの思想がありますね。2ちゃんねるでも用いた例えですが(何故か、これだけ頭の良いナナさんの説明でずっと解らなかったヤスツさんが、わしのたとえで解ってくれてたようです)
「毎日3食食べてるイカフライさんのおやつの肉まんと、今まさに飢えて死なんとしてるナナさんへの肉まん、どちらを優先させるべきか?」
この場合、イカフライさんならずとも、足元に飢え死にするナナさんを見下ろしての肉まんは、あまり美味しくないでしょう。
 また、それを眺めている人々の殆どは、そのイカフライさんの行為を是認はしないでしょう。
 これが、αの原点だと思ってるんですが、ぼ-んさん、これで良いですか?

 ところが、長い間食べていなかったイカフライさんがやっとこありついた肉まんだったら、今まさに飢えて死なんとしてるナナさんが目の前にいても、自分で食べてしまうと思います。
それどころか、同じような状況でやっとこ肉まんにありついたぼ-んさんの肉まんを奪って食べてしまうかもしれない。
 そこで、ぼ-んさんが餓死しても、ワシが生き残りたい、きりぎりの状況では、弱肉強食の生存本能だけが突出してしまう。
 やがて、毎日食べられる生活を手に入れたイカフライさんは、見殺しにしたぼ-んさんのことを、気に病むかもしれません。
 けれど、生きる為に仕方なかった、と、それは考えるしかないでしょうし、また、そういう状況でその行為を行った人間は、責めるべきではありません。

 そうなると、みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築、ということが課題になってきますよね。
 
 これは、平和にも言えていると思うのです。

139ぼーん:2003/08/19(火) 12:22
>>136
> 私としては余剰を厳しく搾取するのではなく、資本主義で
> 見られる様な個人の努力では如何ともできない不公正な状
> 況を改善する事の方が現実的だと思っております。
> (これはあくまで感想です)

常識的で穏当な提案ですが、この手の議論を見てて思うのですが、「匙加減」以上のものを
あまり感じません。この手の案を言う人はみな「現実的だ」というのですが、他の案に比べて
現状との距離が近い、という以上の根拠を聞いたことはないです。

# 政治において、一定の事実が変更できないとか、ある流れが抗しがたいとかと信じるの
  は、普通、その事実を変更したくないとか、その流れに抵抗することに利益をもっていな
  いことの反映である。(E.H.カー)

資本主義的分配・市場的分配を出発点にし、「どこまで不平等を緩和できるか」という問いの立て方。
まず共産主義的・平等的分配を出発点にし、「生産のインセンティブをもたらすために、どこまで不平等を
容認するか」という問いの立て方。

どちらの問いの立て方でもいいはずです。
では、どちらの問いの立て方がいいのか。
どちらの問いの立て方が「現実的」か。それは議論すべき論点でしょう。

140武蔵:2003/08/19(火) 12:22
>>138

>武蔵さんが、共産主義革命を標榜している、といってるわけではないです.誤解なきようお願いします。

そりゃあどうも。

>そうなると、みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築、ということが課題になってきますよね。

しかし既に日本の大部分の人間は毎日安心して食べられる状況にあるわけです。
決して肉マンを飢えている人に与えても自分が他の肉まんを食べられない状況ではありません。
そこで我々はどうしているのかどうしなければならないのかという問題です。

私は世界の底辺部分にいる人たちの底上げのために、先進国としてするべきことがある。
その第一は教育ではないかと提案したのですが・・・・
もう既にNGOなどを中心に行なわれてはいますが、民間は何しろ資金が乏しい。
自国政府を動かさねばならない。
メールや手紙を各議員に送ることも大事だし、マニフエストの中に織り込ませていく活動もしなければならない。
どう思いますか?

141武蔵:2003/08/19(火) 12:34
>>139

書き込みボタンを押しても、えらい時間がかかるなあと思ったら、ぶつかっていたんですね(^^ゞ

>資本主義的分配・市場的分配を出発点にし、「どこまで不平等を緩和できるか」という問いの立て方。
まず共産主義的・平等的分配を出発点にし、「生産のインセンティブをもたらすために、どこまで不平等を
容認するか」という問いの立て方。
どちらの問いの立て方でもいいはずです。

確かにそうなのですが、共産主義アレルギー蔓延する中で、後者を出発点にするのは
あまりにも抵抗がきつすぎる気がします。
私なら前者を取ります。

私は毛語録にも学ぶべきものが多くあると思っています。
紅衛兵のやって来たことは、毛沢東の理想に反することも多いです。
人間社会の生きる姿勢として、取り入れるべきものは取り入れるべきであると思います。

142武蔵:2003/08/19(火) 13:15
>>138

>そうなると、みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築、ということが課題になってきますよね。
 
それは誰も(懐疑派の方も)異論はないんです、何度も繰り返されています。
具体的には何をなすべきで、何をなさっているかという話に移りましょう。

143ぼーん:2003/08/19(火) 14:21
>>141
私的所有権は、単なる既得権として主張されているわけではないのです。
その既得権は、正当に守られるべき権利であるとして主張されています。
そして、「正当に守られるべき権利である」という神話が、神話として意識されずに強力に浸透していること。
これが現行の私的所有権の枠組みの強さです。
だから、これを問題化し、そこに論争点を立てる必要があるのです。神話的強さを解体するために。

その際、抵抗の強さはメリットですらあります。
強い抵抗の中で論争が続けば、それこそが人をひきつけるメディアとなります。
論理的にいって、私的所有権思想の無根拠性は明らかです。
これは私的所有権思想の擁護者の間ですら一致した見解と言えるでしょう。
強い抵抗と論争は、私的所有権思想の神話性の解体のための必要条件です。

神話性が剥奪されても、現行の私的所有権制度の下で既得権を持つ人たちに対しては有効ではないでしょう。
彼らは、倫理的に、理性的に考えるよりも、馬鹿になってでも自分たちの既得権を守ることにやっきになりますから。
しかし、私的所有権制度から利益を得ているわけではない人すら、この神話を信じ込んでいる。
そのことが、私的所有権制度の基礎を確固たるものにしているという現状があるわけです。
だから、そうした論争は実際には私的所有権制度から利益を得ていない人たちを、
私的所有権制度に対する反対者として政治的に組織するための論理を提供することになるわけです。
これが最大の利益です。

共産主義革命が一応実現したのは、それがブルジョア階級を理性的に説得したからではありません。
共産主義思想が、ブルジョア的枠組みの中で損をしている人々を政治的勢力として組織化する論理を与えたからです。
最終的な政治的帰結は、組織化されたあとの両勢力の力関係によって決まっていくでしょう。
(共産主義革命が起こらなかった国においてすら、社会保障の拡充がなされていったのは、
潜在的な革命の可能性があったからこそ、とする史観がありますね。それも同じです。)

問題の根っこは分配問題にあり、分配問題の根っこは私的所有権思想を巡る問題に突き当たります。
だから、この論争点を運動からはずすべきではないと考えます。

144武蔵:2003/08/19(火) 14:36
>>143

>しかし、私的所有権制度から利益を得ているわけではない人すら、この神話を信じ込んでいる。
そのことが、私的所有権制度の基礎を確固たるものにしているという現状があるわけです。

これは痛感するんですがね。
貧乏人の代表ともいうべき「我々」が、なぜか「家賃生活」という既得権すら守りたがる(笑)
神話が実話として世界を闊歩しています。

ただ、共産主義革命の過程で余りにも多くの過ちを犯してしまった。
人民裁判(考え方自体は非常に民主的な方法と思うんだけど)・粛清・・・・・
アレルギーは私にもあります。

>(共産主義革命が起こらなかった国においてすら、社会保障の拡充がなされていったのは、
潜在的な革命の可能性があったからこそ、とする史観がありますね。それも同じです。)

だから資本主義の中に、共産主義が目指したものを「社会保障」「基本的人権の擁護」という形で
形成していきたいと思うのです。
まずは最底辺の底上げという形で・・・・・

145ぼーん:2003/08/19(火) 15:46
>>144
念のために言っておきますと、僕は共産主義者ではありません。
共産主義の間違いは、安直に言ってしまえば、その未来像の実現方法における失敗です。
マルクスの行った資本主義批判は極めてリアルできちんとした基盤にのった批判であり、
今なお力を持っていると言えるものです。
(カーですらマルクスを、ある段階までは「リアリスト」である、と認め、その議論に賛意を示してる。)

> だから資本主義の中に、共産主義が目指したものを「社会保障」「基本的人権の擁護」という形で
> 形成していきたいと思うのです。
> まずは最底辺の底上げという形で・・・・・

そのような政策を行うことに僕は同意します。
問題は、どのような論理の上に、その政策を正当化するか、です。

たとえば、同じようにある社会保障制度の1つを実現しようとするときに、
私的所有権(既にもっている人たちの既得権)を批判せずに、いったいどこからその社会保障制度の財源を捻出するというのでしょうか?
社会保障制度の財源は、それが所得移転であれ教育投資であれ、既得権の持ち主からそれを(一部であれ)取り上げることなしには不可能です。
そしてそれは、「私的所有権であるから取り上げてはならない」と保護されているのです。
それでも取り上げることに同意するのは、「温情」であり、「してもしなくてもよいこと、あえて言えば恵まれない人を助けるという美徳」とされる場合だけです。
結果、不十分なレベルでしか社会保障は行われないでしょう。今がそうであるように。

私的所有権を批判しない限り、どのような形であれ、武蔵さんの言うような政策を推し進めていくことの正当化はできません。
正当化できないならば、私的所有権という神話のために損をしている人を結集させることはできません。旗がないのです。
結集させることができなければ、「私的所有権は正当な権利である」と主張する人々に対して政治的に対抗することはできず、
武蔵さんの言う社会保障制度も政治的に阻まれるでしょう。

146ぼーん:2003/08/19(火) 15:56
共産主義アレルギーとは、私的所有権神話の裏返しに過ぎません。
避けて通れるものではないのです。

共産主義は、現実の社会が利害の対立である(資本家と労働者の利害の対立である)ことを喝破
しましたが、その解決方法として「単一階級の実現」を掲げました。これは、問題の解決というより、
問題の回避なわけです。

結果的に、共産主義社会における既得権層が、「我々は単一階級である」という神話によって、
実際には利害対立があるはずの人たちを抑えつけていたわけです。

原始的な資本主義社会における持てる者が、自由競争理論によって「資本家と労働者の利害の調和」
を説き、資本家と労働者の間の実際の利害を覆い隠そうとしました。
(自由競争理論の大前提が、私的所有権です。)
共産主義社会における持てる者が、「すべて労働者階級である」という単一の階級という神話によって、
実際上の利害対立を覆い隠そうとしました。これらは、まったく同じ構造を持っています。

同じように言うならば。
現代の資本主義社会は、自由競争理論+自発的善行によって、持てる者と持たざる者の間の利害を
覆い隠そうとしています。ある種のボランティア賛美論をはじめ、私的所有権論を批判せずに問題を解
決しようとする志向を持った様々なアイデアが出されるのも、無理のない話です。
(資本家が自らボランティアや寄付を実践しながら賞賛したり謙遜したりしますよね。あれも興味深い現象です。)

私的所有権神話の延命を図る人たちは、共産主義アレルギーすらも利用するでしょう。
私たちはそれに対抗できる論理的な言葉を紡いでいく必要があるのです。

# そして、それは可能です。私的所有権の理論の根拠のなさは、既に証明済み、と言っていいでしょう。
  様々な政策論を、その上に置いていくことが必要でしょう。

147ぼーん:2003/08/19(火) 16:09
>>138
あまり趣味ではないけれど、リアリスト的に言うならば。

現行の私的所有権システムにおいて利益を享受している人は、そんな政策をやりたくはないんですよ。
で、そういう社会の中で、いったい誰が、その「みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築」をするんですか?
心優しい人たちが、でしょうか?

既得権の享受者は、絶対にそんなことをしたいとは思わないんです。
それは、持てる者から奪うことによってしか実現できないのですから。

# いや、たまにはマルクスみたいにブルジョア生まれのくせにプロレタリアートの立場で思考するもの好きがでてはきますけども。
  それが一大政治勢力になるなんてことはありえないわけです。

そして、既得権を支えている神話(私的所有権神話)を共有している人たちは、そんなことをすべきではない、と思うんです。
持てる者から奪うことは私的所有権の侵害であり悪だ、と言われているわけですから。そういう神話の中に生きてますから。
一部の人たちは、そこで犯罪に走るなど、そもそもの善悪の彼岸で自分の生活を立てていこうとするかもしれません。
犯罪に走ることのできない人たちは、それが自分たちに相応の待遇であると信じて、その枠組みの中で生きていくんです。

# 一部の犯罪者の言うことに、社会通念の矛盾を突く鋭い内容が含まれていたりするのも、決して偶然ではありません。

こうした中で、リアルな政治的相互作用の帰結として武蔵さんやイカさんの言うシステムを構築したいならば、
それを政治的に実現しようとする勢力が必要なんです。じゃ、いったい誰なんですか?良心的な市民でしょうか?
それは、運動の当初においては必要な存在ですが、それだけではダメなんです。
その勢力が存在するためには、そのような勢力が存在しえるための理屈が必要なのです。
資本主義勃興期の労働者に共産主義が必要とされたように。

共産主義という思想のその内容面での失敗から学ぶことは必要でしょう。
しかし、その「政治的な成功」からも学ぶべきです。

148武蔵:2003/08/19(火) 16:15
>>145

共産主義国の中にも「既得権」神話が跋扈しています。
典型的なのは「将軍様」の世襲でしょう。
そういう意味で、全ての「私的所有権」または「既得権」を吐き出せというのは
まさに革命でしょう。

>それでも取り上げることに同意するのは、「温情」であり、「してもしなくてもよいこと、あえて言えば恵まれない人を助けるという美徳」とされる場合だけです。
結果、不十分なレベルでしか社会保障は行われないでしょう。今がそうであるように。

確かにそうです。持てる者は権力を握っています。
選挙方法を握っているし、富の分配権すら握っています。
税制はますます金持ち優遇政策になってゆきます。

>私的所有権を批判しない限り、どのような形であれ、武蔵さんの言うような政策を推し進めていくことの正当化はできません。

私の言っているのも、ゆるやかな私的所有権批判ではあるのですが・・・・
つまり、我々は「私的所有権」から疎外されているものであるということの自覚です。
だからこそ、底辺を底上げすることによって我々もレベルアップする立場であるということに自覚です。
民衆が自分たちの立っている位置を自覚すれば、
税制を改革して、その分配たる社会保障制度や、
国際的には、一体その国に何が必要なのか―ミサイルか医療品か、それらへの姿勢が変わってくると思います。

もちろん「私的所有権ってなんや?」「それは守られるべきものか?」
「守ったらオイラは得なんか損なのか?」という議論も大事だと思います。
少しずつはやっているんですが・・・

149武蔵:2003/08/19(火) 16:23
>>145->>147

ちょっと早まって146と147を読まずにレスしたようです。
了解しました。
しかし、旗をどうして・・・どのように具体的に・・・
もう少し考えてみます。
可能な限り、具体的な運動指針のような形も示してください。

150ぼーん:2003/08/19(火) 17:00
共産主義アレルギーの主要な原因は、
「私的所有権の批判」を、「私的所有権の否定」として捉えて、「一切合財の公有化」と同一視する態度だと思います。

運動を進める上で、議論を進める上で、この論点で生じうる誤解に注意深く対処することが重要になってくるでしょう。

「現行の私的所有権の批判」というのは、様々な別様の私的所有権のあり方、可能性を許容します。
たとえば、「市場で決まる分配を出発点とする」現行の私的所有権に対して、
「「市場で決まる分配マイナス一定割合の税金」を出発点とする」オルタナティブな私的所有権を提示することができます。

その「マイナス一定割合の税金」の根拠は?と尋ねられるならば、
私たちは私的所有権よりも生存権を上位におくので、生存権を保障するための最低限の拠出を要求することができます。
私的所有権は、それを達成した後に認められる権利だ、と位置づけます。
と答えることになるでしょう。これは共産主義とは似て非なる方向です。

# いつだかネコさんが、「理屈の上では共産主義とは似て非なる方向ではあっても、現実の経済の物理的実行可能性
  の中では、共産主義と同じものになる危険性があるのではないか」という問題提起があったかと思います。
  誤解でなければ。
  その可能性はあるかとは思いますが、ならない可能性は結構大きいので、それで満足していいんじゃないの?
  というのが僕の答えでした。答えになってない、って言われましたけど(笑)
  でも、そもそも私たちの持っている者が足りないのであれば、そもそも平和は不可能である。というしかありません。
  それは僕の提案する方法が悪いのではなく、どんな方法であれ、物理的実行可能性が足りないなら不可能なんです。

# 平和が可能であるためには、物理的実行可能性は不可欠で、これがなければ問い自体成り立ちません。
  逆に言えば、この問いを問いと認める限りは、物理的実行可能性はみたされている、みたされうると仮定するしかないのです。
  物理的実行可能性は、少なくとも現状に関して、本当のところどうか証明することはできませんから。

  ちょっと余談が過ぎた。。

151武蔵:2003/08/19(火) 17:10
>>150

あんまり違ったこと言ってないように感じるのですが、
読み取り間違いか知らん?

>「「市場で決まる分配マイナス一定割合の税金」を出発点とする」オルタナティブな私的所有権を提示することができます。
その「マイナス一定割合の税金」の根拠は?と尋ねられるならば、私たちは私的所有権よりも生存権を上位におくので、生存権を保障するための最低限の拠出を要求することができます。

これは現行の消費税を間違いなく福祉税にした場合の話ですね。
こういう税すら、今は持てるものの「私的所有権」を守るために使われていますね。

152武蔵:2003/08/19(火) 18:27
>>150

もう一つ、
私的所有権の世襲制度を幾ばくか軽減していくこと。
これは世襲しない方がプラスになる人数が圧倒的に多数なのですから
啓蒙活動で何とかなるような気がするんですが・・・・・

153ぼーん:2003/08/19(火) 22:03
「 ここに、およそ政治の世界の複雑性、その魅力、その悲劇がみられる。政治は、けっして接することのあり得ない二つの異なる面
にそれぞれ属する二つの要素 −−− ユートピアとリアリティ −−− から成っている。明晰な政治思考を最も妨げるものとして、
理想と制度 −−− 前者はユートピアであり、後者はリアリティである −−− とを区別しないことがあげられる。」

「コミュニズムをデモクラシーに対置するコミュニストは、コミュニズムを平等性および同胞性という純粋な理想と考え、他方のデモク
ラシーをイギリス、フランス、アメリカなどに現存する制度 −−− およそ政治的制度に固有な特権階級・不平等性・圧迫などがみ
られるところの制度 −−− として考えるのを常としていた。民主主義者も同じ対比をしたのであって、天上界に建てられたデモク
ラシーの理念型と、階級の区別もあれば異端者狩りも強制収容所もあるソヴィエト・ロシアにおける現存の制度としての共産主義と
を比較していたのが実際であった。いずれの場合にも、理想と制度の間で行われた比較であって、見当ちがいであり意味をなさない
ことである。」

「理想は、それがひとたび制度に具体化されると、理想的なものではなくなって、自己本位の私利の表示となり、やがて新しい理想の
名において打倒されることにならざるをえないのである。この相容れない力と力との不断の相互連関が、政治を織り出してゆくのであ
る。あらゆる政治的事態は、ユートピアとリアリティ、道義と権力という両立しない要素をふくんでいるのである。」

(P.182〜P.183)

154ぼーん:2003/08/19(火) 22:05
>>153は誤爆でした。失礼。。。

155<故意に未入力>:2003/08/19(火) 23:00
反戦・平和アクション議論板は自壊しました Part22
http://society.2ch.net/test/read.cgi/jsdf/1061093230/

「私的所有権の批判」について、ここをヲチしてる↑では非難轟々の模様です。
引き篭もっていたいんだ!と、仰るなら特にお勧めはしませんが。(笑)
骨クソとムサイクソで、細々と身内の話をするよりは、反対論者のいる場所に
出張するのも、一つの手段ではありますがねえ・・・・

おっと、骨クソは自分の見える・影響内「だけで」活動をしてれば、それで満足!
の自慰的(失礼)平和主張者でありました。

156武蔵:2003/08/20(水) 00:24
>>155

この部屋を読み取るだけでも結構忙しいのでね。
特に「『危機の二十年』を読む」スレを熟読している。
非難するのなら、ここへ出て来て非難すればいい。
傷を舐め合っている所なんぞ見たくもない。

157イカフライ:2003/08/20(水) 01:12
>>150

えっと、どこまで理解できているか解っていないんですが。

 私が言ったシステムの基本的な考え方は
・生存権は保障されるべきである。
・現在の分配の偏在を緩和すべきである。
ということになるんだよね。

>「現行の私的所有権の批判」というのは、様々な別様の私的所有権のあり方、可能性を許容します。
たとえば、「市場で決まる分配を出発点とする」現行の私的所有権に対して、
「「市場で決まる分配マイナス一定割合の税金」を出発点とする」オルタナティブな私的所有権を提示することができます。

>その「マイナス一定割合の税金」の根拠は?と尋ねられるならば、
私たちは私的所有権よりも生存権を上位におくので、生存権を保障するための最低限の拠出を要求することができます。
私的所有権は、それを達成した後に認められる権利だ、と位置づけます。
と答えることになるでしょう。これは共産主義とは似て非なる方向です。

 この「私的所有権の批判」というのが、よくわかっていないんだけれど。
 このマイナス一定割合の税金というのは今でも取られているよね、で、前に出たホ−ムレスの話でも、それをいったつもりではあったんだけれど。
 まあ、現実問題としてね、今の日本では、税金はマトモな使われ方はしてない。
 熊しか通らない道路、作ったりとか。
 ODAの問題も、同じ質だよね。日本企業が入札して、向こうの人は使いもしないでっかい建物つくって終わり、みたいな。
 ただ、これは使われ方の問題で、基本的な考え方としては、基本的生存権を保障した後、私的所有権を認める、というのは、日本国内ではそこそこ満たせている、と思うんだけれど。

158イカフライ:2003/08/20(水) 01:19
で、よく解らないなりに考えて、まあ、具体的に思い当たる像は、北欧の福祉国家くらいしか、思いつかないんだけれど。

 福祉国家と呼ばれる国は、大体、どこの国も、消費税は30パ−セント以上だし、所得税やらなんやらで収入の半分くらいもっていかれる。
 でも、国民は、それ払ってるんだ。
 というのは、結局それが自分に帰ってくるからなんではないか?
 年取っても、安心な老後が送れる、とか、親が寝たきりで痴呆になっても国が面倒見てくれる、とかね。

159イカフライ:2003/08/20(水) 01:31
>>156
>>157

で、話の途中だけれど、武蔵さんもあまりとんがらないで。
あえて未入力さん、非難轟々ならば、どういう点で何を言いたいのか、こちらで皆さん、お話なさってはいかがでしょうとお誘いしたら?
 
 私自身も、この私的所有権については、なんといってよいのか、よく解りません。
 というか、あまり頭が良くないんで、抽象的な専門用語が出てくると、「で?」ってなっちゃうのよ。
 ま、これが壱学生ちゃんに嫌われる原因かもしれないけれどさ、それを現実に置き換えてどうなのよ?って思うわけ。

 たださ、飢えて死んでいく人がいたり、満足な医療も受けられないで、それこそ正露丸一瓶あれば、治る病気で苦しんでる人がいたり、それってさあ、ひどいなあ、とか思うわけ。
 ワシは、日本人の中では、かなり低所得層なんだけれど、それでも、3食食べて、毎日発泡酒と缶チュ-杯くらいは飲めるわけだ。

 この分配システムだよね。
 国内では、上手くいってるとはいわないまでも、まあ、そこそこではないかな、と思うわけだ。
 それは、余剰がある。問題はあるにしても、福祉が行われている。というか、福祉だって、余剰が無いと出来ないよね。

 そうなると、ODAがまともに使われる、武蔵さんがいうように、その国の人の手で、その国に合った産業を興せる、とか、
あと、フェアトレ−ド、って今は草の根レベルだけれど、多国間、特に、持つ国と持たざる国の間の、貿易不均衡を無くす、とか、そういったことしか思いつかないんだよね。

160武蔵:2003/08/20(水) 10:17
>>143

>私的所有権は、単なる既得権として主張されているわけではないのです。
その既得権は、正当に守られるべき権利であるとして主張されています。
そして、「正当に守られるべき権利である」という神話が、神話として意識されずに強力に浸透していること。
これが現行の私的所有権の枠組みの強さです。
だから、これを問題化し、そこに論争点を立てる必要があるのです。神話的強さを解体するために。


私的所有権とその既得権は、人間社会の仕組みが生み出したことですね。
その維持再生産を常に行なっているのも、社会の仕組みです。
組換え可能な仕組みです。
革命のように、仕組みの全てをいったんご破算にするやり方もあれば、
改革のように部分的に少しずつ仕組みを変えて行くやり方もあるでしょう。
いずれにせよ社会の構成員が、この既得権は社会全体にとって有益かどうかの判断力がなければなりません。

>>150

>「現行の私的所有権の批判」というのは、様々な別様の私的所有権のあり方、可能性を許容します。

これはもちろん消費税だけをさすものではありませんね。
売買(大きく言えば貿易)には、既に社会(世界)の政治的仕組み・ルールが発動されています。
ダイアモンドが我々の指にはめられる経過もそんなルールの一つによっていますね。
石油産油国で石油が使えなくなったのも、人為的な出来事です。

まるで自然の法則のように当たり前の事としてしまっている搾取収奪による私的所有権の既得権の問題性を
まず我々自身が知っていくこと、それを知らしていくことがとっても大事だと思います。

さてと。。。。何から手をつけましょうかね?
私的所有がどのような手順で正当化されているかということを明らかにすることですかね?
金が金を生み出す、権力が権力を生み出す仕組み・・・・地主と小作の近代版
リストラが正当化されてきた現在、これが見えやすいでしょうかね?
それとも、既得権の世襲にメスを入れますかね?
最も分かりやすい事例をぼーんさん具体的に提示してみてくれませんか。

161武蔵:2003/08/20(水) 10:32
サラリーマン(またはその程度の所得者)が生涯働いて手に入れることができたマイホーム。
これを世襲にするか否か。
既得権を守る方向が得かどうか・・・・
自分が手に入れられるくらいのマイホームなら、自分の子供にも同じ程度の能力と努力とで手に入るでしょう。

ところで、既得権が守られないなら、それによって大量のマイホームが市場に出回ります。
そうなると当然価格は暴落します。
5分の1、10分の1になったマイホームを、自分の子供たちは易々と手に入れることが出来ます。
兄弟姉妹の全てがです。

バブルの時の大変さと今の容易さを考えてもそれは歴然と分かる筈です。
私と同様に貧乏な私の身内たちの全てが今年までにマイホームを獲得しました。
世襲制をなくしたら、価格はもっともっと下がり、ほとんど全ての安サラリーマン(またはその程度の所得者)
が、家賃生活から解放されます。
マイホームは資産価値ではなく居住価値が中心になります。

162ぼーん:2003/08/20(水) 11:44
>>155
私的所有権の根拠が究極的にはない、ってのは論理的には当たり前の事実だし、
(根拠付けは無限にさかのぼるしかないんだから)
私的所有権の擁護者ですらそれは分かってることなんだよ。

日本の代表的な私的所有権擁護者である森村進などは、
「これは直感的に否定できないし、多くの人が受け容れているから、議論の前提としていい」
というような立場を表明している。論理的な根拠がないことは認めてるんだよ。
(文言は違うが。正確になんと言っているか知りたければ『リバタリアニズム入門』でも読めばいい。)

権利概念ってのは、基本的には道具的なものだ。
どんな権利も、その究極根拠、原因となるものはない。
それは単なる人の世の約束事に過ぎない。(約束事ではあり、それが重要である。)

権利を問題にしたいなら、それを権利と認定したときにどんな社会が帰結するか、ってところで問題にするしかない。
どんな社会を帰結させたいかによって「何が権利か」を考えていくしか議論の方法がないんだよ。
でなければ、あるいは「権利は問題にしない」、
つまり、森村みたいに「今権利とされているものが権利だ」と、もっとも安直な保守主義に走るか。そのどちらかしかない。
(これはこれで「なぜ今権利とされているものが権利なんだ?」という問いには答えない。相変わらず根拠がない。)

これだけ見通しのいい議論が理解できないなら、2chの連中はよほどの馬鹿なんだろうな。
この問題について考えたいなら、主要な論争は
森村進『所有権の理論』、『リバタリアニズム入門』
立岩真也『私的所有論』、「自由の平等1〜6」(岩波『思想』に収録)
の両方をあわせながら読めば、欧米の論者の議論も含めて大枠は分かる。
それ以上のことが知りたかったら、それらの参照してる文献に進めばよい。
2chを読む時間があったら、その方が有益だ。経験的にそう推測するのは仕方がない。

2chの連中が文句があるなら、自分で勉強するか、ここにきて議論すればいいよ。

163ぼーん:2003/08/20(水) 11:59
>>157
> このマイナス一定割合の税金というのは今でも取られているよね、

でも、それは、「俺のものをとられている」という意識ですよね。
とられてますけど、それを元々は俺のものだ、と思ってるわけです。
意識の上では、私的所有権の枠組みの中で、どういうわけかとられているもの、でしかありません。

これが神話です。

> 基本的な考え方としては、基本的生存権を保障した後、私的所有権を認める、というのは、
> 日本国内ではそこそこ満たせている、と思うんだけれど。

1つは意識の上の問題として。
払った税金は、元々はあなたのお金ですか?と聞かれて、
「いいえ違います、たまたま私の手元にあっただけで、私のものではありません」って答える人って、皆無だと思いますよ。
私的所有権の神話(=市場を通じて手元に届いた分配が私の正当な取り分である)の中に生きてます。

あと、イカさんは、「そこそこ満たせていると思うんだけど」とか言いますけど、
それが「全然」なのか、「そこそこ」なのかは、あまり関係がないんじゃないですか?
「そこそこ」だったら、「全然」のときとくらべて、どう議論が変わるんですか?

164ぼーん:2003/08/20(水) 12:10
>>160
> 改革のように部分的に少しずつ仕組みを変えて行くやり方もあるでしょう。
> いずれにせよ社会の構成員が、この既得権は社会全体にとって有益かどうかの判断力がなければなりません。

そうですね。今は、神話の中に生きている、という自覚すらない状態ですからね。

>>161
その話は、さすがに乱暴か、と(苦笑
細かい話をしだすとキリがないけど。

単純には、税収を一定にすると仮定して、相続税を引き上げると、所得税等々は下がります。
その場合、家屋の価格は暴落はしません。
相続財産はあるが所得を稼ぐ能力のない人から、
相続財産はないが所得を稼ぐ能力のある人へ所得移転するのと同じです。
損をする人もいれば、得をする人もいます。

# みんながハッピーになる、というお話を紡ぐのは魅力的な仕事ですが、
  それこそがカーの批判するユートピアニズムに陥るのではよくありません。

165ぼーん:2003/08/20(水) 12:13
>>161
多くの庶民の場合、家屋は資産価値よりも使用価値の方が高いと考えると、
あまり高率の税金をかけると、使用価値が高いのに、手放さざるを得なくなってしまいます。
これは結構非効率だし、感情的にも受け容れがたいでしょう。
今の相続税では数千万の控除があると思いますが、その程度の控除はあった方が望ましい気はしますね。

おそらく、武蔵氏は反対しないと思うが。

問題は、相続税の最高税率ですね。これは結構引き上げてもそんなにむちゃくちゃにはならんと思いますが。

166武蔵:2003/08/20(水) 12:20
>>164

>単純には、税収を一定にすると仮定して

一定にすると仮定する必要が分かりません。
所得に不均衡がある限り、私的所有の前に所得税による天引きも当然必要だと思うのですが・・・
所得を稼ぐ能力のない人(例えば障害者など)の生活権は当然保証されるベキですから
親からの財産譲与がなくっても、最適な(バリアーフリーなど)住居が保証されるでしょう。

167武蔵:2003/08/20(水) 12:32
>多くの庶民の場合、家屋は資産価値よりも使用価値の方が高いと考えると、
あまり高率の税金をかけると、使用価値が高いのに、手放さざるを得なくなってしまいます。
これは結構非効率だし、感情的にも受け容れがたいでしょう。

資産価値より居住価値の方が高い家屋は取り上げる必要はありません。
子供が買い取ればいいのですから。(子供の所得も加味して、優遇措置は取られていいと思います)
兄弟がいれば当然今でもそういう措置が取られています。

もちろん私がいうのは、極論であって
今程度の控除を否定する気持ちまではありませんが・・・・・

>問題は、相続税の最高税率ですね。これは結構引き上げてもそんなにむちゃくちゃにはならんと思いますが。

最高税率の引き上げとは?
円のレートと同じで結構反対に取られやすいのですが・・・
何兆円の遺産でも、70パーセント以上は取らない、というのを90パーセントまでは取るというような意味ですよね?
(数字はあてずっぽうです)

168ぼーん:2003/08/20(水) 12:58
>>160後半
それは私的所有権だけの問題ではないです。
私的所有権の問題なのか、資本制的経済関係の問題なのか、ごっちゃになってます。
ちょっと整理します。

自由市場経済至上主義の基本的な考え方はこうです。
私的所有権を設定する。そこで自由な経済取引が行われる。
自由な市場競争の結果、社会全体としては豊かさを最大化することができる。

いっぱい曖昧な言葉がありますが、その点はご容赦。元々曖昧なものですから。
この基本的な考え方を仮に受け容れるとしたとき、そこにいくつかの論点があります。

(1)そもそもの私的所有権の設定の仕方によって、最終的に最大化された富の分配状況は変わります。
その最初の私的所有権の設定を正当化する根拠はない。分けなおしてもいい。

(2)私的所有権を設定しても、その後の市場競争が社会全体としての豊かさを最大化するとは限らない。
現実には市場競争のルールにのっとって行われるわけではなく、様々なルール破るが起こるので、
市場は期待された性能を発揮しない。

ダイヤモンドについては、両方の問題があります。
そのダイヤの原石は誰のものか。そのダイヤの原石が発掘されて流通することの利益をどう分けるか。
次に、そのように「実際に」分けるためには、市場を補完するどのような制度が必要か。
そうした問題がたてられるかとおもいます。

169ぼーん:2003/08/20(水) 13:02
>>166
> 一定にすると仮定する必要が分かりません。

税収を「増加させる」、あるいは「減らす」とするならば、
それは相続税か、所得税か、という手段の議論とは関係なく、
どれだけの税収が必要か、という問いを別にたてねばならないからです。

170ぼーん:2003/08/20(水) 13:10
>>166
理念型としては、私的所有権の根拠はなく、そのような家の相続についても
所有権として認めないとする所有権の設定の仕方は可能ですが、その場合、
その帰結について考察すべきです。

で、手放した家は、他人にとってはただの「古家」ですが、
手放す前の元々の持ち主にとっては「住み慣れた家」であることも多いのです。
元の持ち主にとっての価値は高いのであれば、それを無理やり引き剥がすよりも、
元の持ち主の手元においておいた方がいいでしょう。

で、これを考えるときに、>>167に書いてあるように、

> 子供が買い取ればいいのですから。

なんですけど、借り入れ制約ってのがありますから。無理な人もいます。

政府が貸し付ける、という方法はありますので、併用すれば最終的には「相続税100%、
控除なし」も不可能じゃないし考える価値はあると思いますが、今はとりあえずおいときま
せんか?どっから「手をつけるか」、って話をしてたわけですから。

171武蔵:2003/08/20(水) 13:12
>>169

もちろん総合的に考えねばなりません。

ぼーんさんは誤解ないと思いますが、一応言っておきます。
現行の制度のままなら、私は相続税の控除額を下げる方に反対しますよ。
一言で言えば金が金を生む富みの集中化を是正することにあるのですから。

ちょっと出かけますので・・・・後でゆっくり読みます。

172武蔵:2003/08/20(水) 13:16
>>170

私の主張はマイホームの資産性ではなく居住性を言っているので
分かってもらえると思っていたのですが・・・

ひとつひとつについての細かい是正は必要でしょう。
方向性と具体性・・・・
またゆっくり読んで考えます。でわ。

173武蔵:2003/08/20(水) 13:39
>>170

>で、手放した家は、他人にとってはただの「古家」ですが、
手放す前の元々の持ち主にとっては「住み慣れた家」であることも多いのです。
元の持ち主にとっての価値は高いのであれば、それを無理やり引き剥がすよりも、
元の持ち主の手元においておいた方がいいでしょう。

私は親の家だから無条件に自分のものだと言う考え方を否定しているのであって
個人の心情的な価値感覚を否定しているわけではありません。(共産主義者ではありません)
現行のままでも、その古家に対する思い入れを、兄弟姉妹の誰が尊重されるかという問題があります。
そういう個々の感情を無視して、長男だから住み続ける権利があると考えるのもおかしな話です。
細かい点についての細かい配慮は当然するべきだと思います。

大きい方針としては、財産権の世襲制を廃するカタチがいいと思っています。
住み慣れた古家を取り上げる事を目的にはしていません。

174ぼーん:2003/08/20(水) 13:50
>>172
> 私は親の家だから無条件に自分のものだと言う考え方を否定しているのであって

それは僕も否定しています。
が、その考え方を否定するとしても、相続税を100%にする根拠にはならないのです。

その家を親の家だとするならば、その親があげたい人にあげるのは自由です。
という考え方は否定できません。

「何が、その親のものなのか」が問題になっているわけです。
(あるいは、どこまでがその親のものなのか)

175イカフライ:2003/08/20(水) 17:49
>>163

すいません、私、よく解らなくなってきています。

> 私的所有権の神話(=市場を通じて手元に届いた分配が私の正当な取り分である)の中に生きてます。

 この取り分が、正当であるのか、どうか? という話ならば解るのです。
 資本の偏在によって、また、理不尽な中間搾取などによって、富が偏在し、一方で、飢えて死ぬ人がいて、一方で、ごちそうが捨てられている。
 そのシステムを是正することによって、世界中の人が、基本的生存権を保障されるようなシステムを作りましょう、と。

 それにはなにはいいアイデアがあるか、って話なんですが。
 いえ、たぶん、その話をしているのだと思うのですけれど、この「私的所有権の神話」といわれると、とたんに解らなくなります。
 ようするに、自分の手でかせいだお金は自分のもの、というのが神話、ってことですよね?

 それって、どういうことなのでしょうか?
 それぞれの稼ぎはみんなで分けるという共産主義ではないのですよね?(ぼ-んさんも武蔵さんもそれは否定されています)

 そうなると、どういうことになるのでしょう?
 ちっと具体像が思いつきません。

176だよもん星人:2003/08/20(水) 19:21
とりあえず、ぼーんさん。
あなたが自分に何を課そうとあなたの勝手です。

けど、他人を無理やり巻き込まないでね

177うろちい:2003/08/20(水) 19:59
>だよもん星人さん

現実はたった一つしかありません。
何かをするつもりが無い人のために、他の人が巻き込まれていることも忘れないでください。
結局「何をすべきか(しなくてもいいか)」を考えるしかありません。

178だよもん星人:2003/08/20(水) 22:12
無茶苦茶やって事が良くなるとは限らんのですが。
私有財産を否定していったいなんの足しになると?
むしろ事態は悪化するような気がするんですが。

> さらに、現代のような複雑な経済社会においては、「何が私の身体を用いて生み出したものか」は割りと
> はっきり分かるとしても、「そのうちどれくらいが私のものか」ということを決めることは非常に困難なのです。
> たとえば、1つの会社がある製品を生み出して商売しているときに、その営業担当、広報担当、開発担当、
> 生産ラインの労働者、一人一人は、いったいどれだけの取り分を権利として主張できるのか?
どれだけの取り分が主張できるのかは、雇用契約で明示されてますが。
いや、これは正確ではないですね。
労働者に対する労働の対価は会社(雇用主)から支払われるのであって
製品から支払われてるわけではないですから。

> これを考えると、私たちの所得の決まり方というのも、規範的な意味においては、「どんぶり勘定」でしかありません。
明確な契約があり、それに双方が合意してるわけですが。
これのどこがどんぶり勘定だと?

179ぼーん:2003/08/20(水) 23:19
>>178
> 無茶苦茶やって事が良くなるとは限らんのですが。
> 私有財産を否定していったいなんの足しになると?
> むしろ事態は悪化するような気がするんですが。

「私有財産制を否定」したりしてません。
現行の私有財産制度を否定して、別の権利との関係の中で制限を加えることを考えています。
「現行の私有財産制度の否定」であり、「私有財産制度の批判」です。

> どれだけの取り分が主張できるのかは、雇用契約で明示されてますが。
> いや、これは正確ではないですね。
> 労働者に対する労働の対価は会社(雇用主)から支払われるのであって
> 製品から支払われてるわけではないですから。

その会社が獲得する利益は市場が決めるものです。
規範的な理由とか、そういうものとはまったく関係なしに、事実として決まるものです。
それが全部会社のものである「べき」、という根拠はありません。

# 実はもっとたくさんもらうべきかもしれません。

労働者に対する労働の対価は、その会社の利益を資本家と労働者で分配しているだけです。
その両者の力関係で、市場における希少性によって、その分配率は決まるでしょう。
これも規範的な理由とかとはあまり関係なしに決まることが多いです。
事実として市場が決めているだけで、そこに規範的な根拠なんてないんです。

ここらへん、だよもん星人さんの言っていることは、まさに典型的なユートピアニズムです。
「市場が決めることと、公正さによってそう決まるべきこととは、一致する」って言ってんだから。

そんな根拠なんかないんです。

> > これを考えると、私たちの所得の決まり方というのも、規範的な意味においては、「どんぶり勘定」でしかありません。
> 明確な契約があり、それに双方が合意してるわけですが。
> これのどこがどんぶり勘定だと?

両者の力関係の均衡点が、その分配率になっているだけです。
そこに、「分配はこうあるべき」などという規範の入る余地などないんです(リアリズムの主張)。
だから、そうやって決まるものは、「規範的な意味においては「どんぶり勘定」」でしかありません。

180ぼーん:2003/08/20(水) 23:25
>>179補足

実際には、賃金の決まり方についても、まったく規範的要素が入らないわけじゃないけどね。
最低賃金を定めた法律もあるし、両者が合意したとしても、これより低い時給での契約は違法。
労働者は、仮に最低賃金以下の賃金で合意したとしても、最低賃金を要求することができる。

また、恣意的で規準が不明確ながら、まったく収入のない人、あってもごくごくわずかな人には
生活保護が支給される。これも規範的要素に基づいた(広義の)賃金の決まり方、と言える。

181ぼーん:2003/08/20(水) 23:47
>>175
たとえば原始的な話では、
「誰かが、無主の木から果実をもぎとった。そのとき、その果実は彼のものとなった」
というようなお話で、私的所有権の説明をしています。
「もぎとる」というのが労働ですね。

では、なぜ、「労働を加えた」ならば、それがその人のものになるんでしょうか?
そのことに根拠はないんです。
いうなれば、「そういうことにしとこうや」と言っているだけの話です。

賃金が私のものだ、というお話は、この「私が手を加えた物は私の物だ」
という原理に基づいて正当化されているものです。
じゃ、この原理自体はどのようにして正当化されるのでしょうか?という話です。

イカさんは、その根拠をなんだと思いますか?

182イカフライ:2003/08/20(水) 23:54
>>181
>イカさんは、その根拠をなんだと思いますか?

う-ん、この場合、もぎとった、という労働をしたわけですから、ただその果実をながめていた人より食べる権利が発生する、ということですかしらねえ?


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