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テーマ前書き集

1同人α総務:2014/06/12(木) 13:27:48
第2号「想」
第2号「想」  2005/2

          

はじめに

さて、第2号の名称の「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなければ
なりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?はた
して無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まされて来
ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの難題に決
着をつけなければならないと考えました。
いま現在我々が生きている世界は有限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取
って確かめることができます。しかし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、
各の頭の中には神や虚数や妄想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の
果てと思われている130億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受け
るとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび音楽
や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその世界へ
積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕たちは人生
を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自己表現に努
めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」とした次第であ
ります。
                                 古賀和彦

19編集部:2014/06/12(木) 16:37:14
第36号「言葉(言魂)」
第36号「言葉(言魂)」  2013/8

          

前書き

 [言葉には不思議な力があります]
こんな文句から始まる本がありました。
続いてマザーテレサの言葉が書かれていました。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
  言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
  行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
  習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
  性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言葉、行動、習慣、性格、運命と繋がって行きます。
言葉の、重さ、大切さが分かります。

 以前αの作品の中で引用した新約聖書 ヨハネによる福音書第一章第一節を思い出しま
した。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  はじめに言葉がありました。   in the beginning was the Word,
  言葉は神とともにありました。   and the Word was with God,
  言葉は神でありました。       and the Word was God
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 数年前、文芸同人に参加してから作品投稿を通じて、言葉への拘りが深まりました。前
のようにすらすら書けなくなりました。作品だけでなく、ちょっとした手紙、投稿、メー
ルですら考え込むようになりました。そして日常発するおしゃべり言葉にもとまどうこと
があります。
自分が意図するものとは異なった言葉が出てしまう、或いは聞き手、読み手に言葉が通
じない、そんな場面に出くわすことがあります。
 言葉は人類がつかみ取った素晴らしい宝物ですが、ちょっとした刃物、ときには凶器に
もなります。皆が共通の認識のもとで使っている言葉のはずなのですが、その言葉の意味
合いが少しずつ異なっているのではないか、自分はどこまでその言葉の意味を知っている
のか、使い方を知っているのかなどと立ち止まることが多くなりました。
 他者に対して言葉を使って自分をどのように間違いなく表現するか、誤解されないよう
表現するかということ以前に、言葉を使って思考する自分のその土台となる言葉ひとつひ
とつが、あやふやなものであってはならないとの思いが心に刺さるようになりました。感
覚、感性だけではない「考える」ときに使う言葉が淀んでいたら思考まで淀むような気が
しています。

 言葉は過去のたくさんの人々が紡いできたもの、その中にたくさんの魂が宿っている、
そして自分も今その言葉を使って自分の魂を紡いでいる…、そんな思いに行き着くのです。
生き続ける限り、最後まで言葉との格闘、遊びが続きそうです。

古賀 由子

20編集部:2014/06/12(木) 16:54:53
第36号 「古 典」
第36号 「古 典」 2013/11

          


古典への視座

 古典を見る自分の目は、先の東北大震災によって変わった。大震災からひと月ばかり経
った頃、《そういえば『方丈記』に地震の記述があった》と思い出し、かくて久しぶりの
何十年ぶりかでこの本をひもといた。

「又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。
山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり」という大地震の描写では、《文がいい》
とその把握に感心したりした。
「地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず」。なるほど。「家の内にをれば、忽ちにひ
しげなんとす。走り出づれば、地われさく」。なるほど、なるほど。

 他のタイプの天災の記述もあった。
「また養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世の中飢渇して、あさま
しきこと侍りき。或は春、夏ひでり、或は秋、大風、洪水など、よからぬことどもうち続
きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬収
むるぞめきはなし」。 飢饉の記述である。
 民はどうしたかというと、「これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は
家を忘れて山に住む」。「念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとく
すれども、更に目見立つる人なし」。
 世では「さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるし
なし」。これが初年度だという。
 次の年も続く。「前の年、かくの如く辛うじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思
ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まささまにあとかたなし」。
ついに人々は「はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家
ごと乞ひ歩く」。この者達は「かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち
倒れ伏しぬ」。そうして「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知
らず」。世はどうしたかというと「取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満ち
て、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬
・車の行き交ふ道だになし」。
 こうした遺体を数えたお坊さんがいた。それによると、「四、五両月を数へたりければ、
京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる
頭、すべて四万二千三百余りなんありける」。夥しい数の遺体が放置されていたのだ。さ
らに、「いはむや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの
辺地などを加へていはば、際限もあるべからず」。さらにさらに、「いかにいはんや、七
道諸国をや」。

 僕はいつの間にか、彼我の社会を比較する視点で文を追っていた。この飢饉、今の時代
だったらどうだろう。この度の大震災を念頭に置くと、もしいったん起これば、人々は直
ちに救援の手を伸べる。人々ばかりでなく、各自治体、村から町、市から県、国まで手を
差し伸べて、手厚いだろう。さらに国内ばかりでなく海外からもこれでもかこれでもかと
援助の手が伸びるだろう。
 『方丈記』の時代は、この手の援助が見られない。人々は被災しても放置されたままだ。
彼これを比べると、社会の「密度」が違うことが感じられる。社会は間違いなく「進化し
ている」のだ。予防措置が講じられることも考え合わせると尚更のことだ。人が社会を作
ったのも、相互扶助のためだと考えられるが、その実が得られたとの思いである。

 ここに至って自分の古典の読み方が今までと違っていることに気付いた。若い時からず
っとこの方古典は「お習い申し上げる」という態度で接していた。自分の人生を照らす展
望、役に立つ教訓などを得ようとしていたのだ。いま、自己観照してみると、『方丈記』
には、社会の彼我比較という姿勢で接しているではないか!

 『方丈記』の読書から二年ほど経ったこのほど、『更級日記』に目を通した時もそうだ。
やはり「お習い申し上げる」的態度ではなく、やはり彼我の比較という視点で読んでいた。
今回、「実存空間」が、その彼我の比較の視野に入っていた。
 『更級日記』は、著者である少女が今の千葉県から京都へ旅するところから始まる生涯
の日記であるが、その記述に「恐ろしい」「心細い」という内容が幾つもあった。
 「足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり」。
 「をさかなかりし時、あづまの國にゐて下りてだに、心地もいさゝかあしければ、これ
 をや、この國に見すてて、迷はむとすらむと思ふ。人の國の恐ろしきにつけても」
「母いみじかりし古代の人にて、初瀬には、あなおそろし、奈良坂にて人にとられなば
 いかゞせむ。
 石山、関山越えていとおそろし」
「冬になりて上るに、大津といふ浦に、舟に乗りたるに、その夜、風雨、岩も動くばか
 り降りふゞきて、雷さへなりてとゞろくに、浪のたちくるおとなひ、風のふきまどひた
 るさま、恐ろしげなること、命かぎりつと思ひまどはる」
などなど著者は様々の場面で「恐ろしさ」を感じている。かの頃の、実存空間は「恐ろし
かった」のだ。
 またそれは、「心細く」もあった。
 「片つかたはひろ山なる所の、すなごはるばると白きに、松原茂りて、月いみじうあか
 きに、風のおともいみじう心細し」
 「いとゞ人目も見えず、さびしく心細くうちながめつゝ」
「父はたゞ我をおとなにしすゑて、我は世にも出で交らはず、かげに隠れたらむやうにて
 ゐたるを見るも、頼もしげなく心細くおぼゆるに」
「おはする時こそ人めも見え、さぶらひなどもありけれ、この日ごろは人声もせず、前
 に人影も見えず、いと心細くわびしかりつる」
「又の日も、いみじく雪降り荒れて、宮にかたらひ聞こゆる人の具し給へると、物語し
 て心細さを慰む」
「人々はみなほかに住みあかれて、古里にひとり、いみじう心細く悲しくて、ながめあ
 かしわびて、久しうおとづれぬ人に」
 などなど「心細さ」の記述が散見される。

 かくて今と比べて、『更級日記』を読んで、《かの時代(およそ今から一千年前)、「恐
ろしくも心細い」実存空間だったのだな》と思った次第。


 僕の余生も残り少なくなったせいもあろうか、古典の読み方が「お習い申し上げる」か
ら変化していることを感じるのである。諸君におかれてはいかがだろう。

神野 佐嘉江

21編集部:2014/06/12(木) 17:07:23
第38号「心情風景」
第38号「心情風景」  2014/3/1

          


 雨風の強い日を除きほぼ毎日、その日の気分にもよるが二〜五時間くらい散歩する。
所沢に住んでいるが、この町は狭山丘陵の先端部に位置し、舌状に伸びた丘陵とその間の
谷部によって成り立っている。ほとんどは住宅地となっているが未だに丘陵部では森とし
て残っている所がある。そのいくつかは公園として保護されている。
 そんな場所を月に三〜四回は歩く。森といってもいわゆる里山であり、原生林ではなく
人工林である。それらの森あるいは林は、近年地域の人との生活と無関係になっているの
でほとんど手が入れられることなく荒れつつあるが、公園として保護されている所はそれ
なりの手入れがなされているようである。保護地域は落葉樹が多く、歩いていると季節の
変化を実感する。最初はただそんなものかと記憶に止め、あの時はこうだったなどと記憶
をさかのぼっていたのであるが、どうもあやふやなところが出てくる。そこで正確に比較
してみようと思い写真を撮って比べてみることにした。

 比較の為まず定点を決めそこを撮っていくこととした。ところが定点と決めたところを
数週間後に訪れてみると、周りが変化していてよく分からなくることもしばしばである。
カメラはいわゆるディジカメである。一昔前のようにフイルムの残り枚数も気にすること
なく撮影できる。定点と思しき所、あるいはちょっと気がかりな場所など下手な鉄砲もそ
のうち当たる方式で撮っていった。散歩終了後パソコンにそれらの映像を収納するのであ
るが、なんとなく映像の色が記憶と違っている。これはよく考えると当たり前のことであ
るがなんとなく納得がいかない。
 もともと発光体でない限り、物には固有の色というものがない。その時の光の様子によ
って色は変化する。極端に言えば同一のものであっても、晴天の太陽光の当たる所と日陰
のある所とでは色は変わる。ところが普通そのような変化は気がつかない。もっともこれ
を写真に撮ってみると分かる場合もあるが。しかし写真を見てなんとなく違うという感覚
は、光に起因するの色の違いではないように思える。要するに自分が〔思っていた世界〕
と違うという感覚である。

 人はみな物の色について、思い込みといってもよい記憶を持っている。写真を見て違う
と思うのはこの記憶色との間で生じるようである。
物を見て人はそれを脳内のある場所に収納する。それを記憶として呼び戻すときは、その
人が持っていた色の履歴を参照し「こうであった」として呼び出しているようである。こ
れを〔心象空間〕とでも言っておこう。一方写真はカメラ自体の有する特性により記録さ
れており、あえて言えば〔カメラ空間〕とでもいえる。心象空間はカメラ空間と比べ慣性
が巨大であり、微妙な変化には追従しないようだ。しかしながらある特徴的なことに対し
ては過剰なくらい反応するようである。
 この心象空間と写真を近づけるために色々な実験を試みた。最近の写真編集ソフトを使
用すると相当なことができる。ひと昔前のプロの写真家と同じような処置ができるようで
ある。当時は撮影時のフイルター、あるいは現像時の処理など、手間をかけて仕上げたこ
とが現在ではパソコン上で目視しながら可能になる。ソフトにより色々あると思うが、ま
ず撮影時のカメラの設定を生にしておく。この生の画像をパソコンで開いて編集画面を見
ると、露出補正に始まり色温度変更など色んな項目が出てくる。これらを選んで、画像を
見ながら自分がそう思った画像に近づけるべく変更していく。これをやると相当なところ
まで心象空間に近づけることができる。

竹内 一郎郎

22編集部:2014/06/23(月) 16:48:32
第12号 「出会い」
                                    .
第12号「出会い」 2007/8




          


◎ 輪を広め 奨みて会合 年新た (今年年頭に詠んだ句)

 小生1983年(昭和58年)2月24日に最初の脳内出血を発症し、多くの人たちの
ご配慮により幸運にも命をとりとめました。 2年間の休職後復職、16年の間茨の道を
乗り切って来ましたが、1983年(平成1年)8月10日、2回目の脳内出血を起し、
左半身の麻庫が重く、「身体障害者2級」に認定されました。
 外出もままならぬ状況でしたが、小学校以来の同級生のF君が、マンションの手配から
愛車で景勝地へのドライブ等々、多忙にもかかわらずお世話下さいました。
更に“赤チョウチン”で飲み交わす「出会い」もまた最高に楽しいものです。
 皆様のご好意を戴いて、横浜で開催された佐高11期生の45周年記念同窓会にも参加
させていただきました。有難い事です。外出は苦痛も伴いますが、叱咤激励して、趣味の
俳句の吟行にも率先して出かけます。
そこにまた新たな「出会い」があり、感動は一入(ひとしお)です、

◎ 一輪草 一人暮らしの 一工夫

????????????????????????????????????????????????????????碇 民治

23編集部:2014/10/18(土) 16:13:57
第39号「加賀見(カガミ)」</
第39号「加賀見(カガミ)」 2014/5

          

 加賀見は、鑑・鏡とも記される。
白川静博士の字通によると鑑(keam)・鏡(kyang)は、光(kuang)の意味を持ち金属
の盤に張った水で反射した光を臨み見ることである。

つまり、加賀見の[加賀]は人や物から射してくる光、[見]はそれを見ること。
鑑は、水鏡で[加賀(光)]を見ること。
鏡は、のちに水鏡の発展形として[加賀(光)]を見るために匠が面を磨いて作った器と
なった。

 佛教では、華厳経の因陀羅微細境界門中に、帝釈天(インドラ)の宮殿に掛かった帝網
と呼ばれる網のことを説いている。
この帝網には無数の宝石がくくりつけられ、それぞれが相互にその姿を映し合う鏡になっ
ている。
 実は、これら宝石とは、自らの姿を現わすと同時に、互いの姿を映し見ている人の存在
を示している。鏡三枚だけの万華鏡でさえ、それぞれの鏡が映し出す像の変化によって無
限の像が生み出されるが帝網上の無数の宝石は、人が相互に映している姿を、そのまま無
限に映し合う宇宙の鏡となっている。

それ故に鎮めた心の光で照らし加賀見を見れば、そこに写った対象の深奥まで解る。
鑑よ、鏡、加賀見さん。
αの作品を照らし映して、作者の心の内までも、隠さず見せておくれ。
読者よ、あなた自身も輝く心で、これらの作品を照らし映して読んで下さい。
長岡 曉生


  表紙絵について
 どんなに美しい羽根をもつ孔雀でも自分の姿などには少しも関心がない。それでも夜そ
っと木に登り空の鏡を眺めている。夜空の鏡に己の姿を映そうとしているかのように留ま
っている。
 煌々と照る月は夜空に浮かぶ丸鏡、孔雀の目線の先にも丸鏡、鏡が沢山集まってキラキ
ラと孔雀を映し出す。この風景は空の鏡に映った孔雀の姿なのです。
万理 久利

24編集部:2014/10/18(土) 16:29:08
第40号「謎」
第40号「謎」 2014/8
 創立10周年記念号


          

前書き 「謎」                      古賀 和彦

 昔読んだ本に「99・9%は仮説」/サブタイトルが「思いこみで判断しないための考
え方」/ 竹内薫 著/光文社新書があった。それによると、この世の現象の99・9%
は仮説であるという。
 またWikipediaで調べて見ると「仮説とは、真偽はともかくとして、何らかの現象や法
則性を説明するのに役立つ命題のことで、別の言い方をするならば、何らかの実際の現象
や規則性に出会ったものの、その現象や規則性が出現する仕組みや機序が知られていない
ような場合に、それを説明するために、人が考え出した筋道や推論の前提のことである」
とあった。
 鉄の箱であるあの重い飛行機が大空をなぜ飛ぶのか? 現代ではベルヌーイの定理など
で機体の浮力について説明してあるが、本当のところ納得するような充分な証明ではなく
未だに謎の部分を残しているという。
 実際、ニュートン力学は19世紀末までは揺るぎない存在であった。しかし相対性理論
の登場によってその位置づけは変化し、相対性理論の枠組みの中での特殊な場合のひとつ
となって納まっている。思いこみ、常識、前例、先入観、固定観念をもう一度疑ってみる
必要がある。 この世はまさしく「謎」に満ちていて、私の行く末もまた何の確信もない
「謎」だらけである。

 謎という言葉をじっと見つめると、言葉の迷いと読める。それはまさに私がいつも文章
を書くときに覚える逡巡を現しているようだ。美しいとか友情とか素晴らしいとか、そし
て安易に使われている慣用句や警句など、それだけで文章は恙なく作ることは簡単だが私
は同じことを言うにも少しでも違った言い方、自分の感性に基づいた言葉がないかと考え
続けるのである。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをお
もしろく」と井上ひさしは言っているが、一般の人が安易に納得して受け売りすることに
私は疑問を抱く。一見易しそうな表現にも彼しか書けない言葉を模索して苦しんでいる姿
を、私は思い浮かべるのである。また一方では学術的なもの哲学的なもののなかには難し
くしか表現できないものや、隠喩、暗喩という難解なものでしか表現出来な芸術もあるか
らだ。
 さて「謎」という文字の成り立ちや本来の意味とは何か、「字通」で紐解いてみると、

「酒席などで、酒令として当座の余興に行われた遊びの一種で、文字探しの類が多い。

酒を飲む順序を指名されると負ければ罰ゲームが与えられる。謎解きやサイコロを使って
遊ぶもの、くじ引き、じゃんけんに似た劃拳などがある」
と書いてある。これはまさしく私達が目指す創造/概念メタファー/オキシモーランの世界
なのだ。

25編集部:2014/10/25(土) 18:34:19
第41号「気」
第41号「気」 2014/10



         


 それこそ何〔気〕なく選んだ言葉、でも関心がある事柄のどこか象徴的な言葉のような
〔気〕がした言葉なのです。いざ前書き書くにあたって調べてみると山ほどの意味があり
ました。読みもキ ギ ケ ゲ と使われ方によって異なってきます。
同じ気でも「き」と「け」では解説の量も中味も異なります。広辞苑から簡単に引用して
みます。

 き【気】
 ?天地間を満たすと考えられるもの。またその動き。
 ?生命の原動力となる勢い。
 ?心の動き・状態・働きを包括的に表す語。
 ?はっきりとは見えなくても、その場を包み、その場に漂うと感ぜられるもの。
 ?その物本来の性質を形作るような要素。
 け【気】
 1実態をとらえるのではなく、何かそれらしい感じをいう。
 2けはい。様子。
 3心もち。ここち。
 4気力。心身の力。
 5病気。
 6その味わい。匂いなどのあること。

「き」も「け」の漠然としているけれど、何となく共通したものがあります。
そこで文字から責めてみましあ。小学館漢和辞典からです。
 气の部
 【気】
 ?天地間の自然現象。
 ?息
 ?目に見えない力、いきおい。
 ?空気
 ?ガス
 ?気だて
 ?一年を二十四分した季刊
 ?におい。
 ?おもむき。ようす。
 ?根気。
 ?人気
結果、広辞苑の「け」と「き」の合併版です。こちらの方が簡潔です。

 以前は科学一辺倒だったのが、近頃では分からない世界、説明出来ない世界にも関心を
持ち始めています。とりわけ精神世界のことは脳科学をもってしても未知のことだらけで
す。そんなことは迷信だ、妄想だ、と思うのは科学的に説明できないだけのことで、やは
り科学崇拝に過ぎない、これもまた「妄想」なのではないか…。
 気はいろいろな意味がありますが、今回のテーマとしては漢和辞典にあった?天地間の
自然現象、?目に見えない力、いきおい をイメージしたようです。
夏休みのラジオ体操で「大きく息を吸って、吐いて」のかけ声、香港に住んでいた頃には
早朝フラットの前で数人が集まってゆっくりと手や足を動かしていました。太極拳です。
他にも気功療法といったものもあります。酸素を吸って血流を良くする、単にこれだけで
はない「わけの分からないもの」があるようです。

 宇宙の不思議、人間が生まれて生きていることの不思議、感情の動きの不思議、考える
ことの不思議、信じることの不思議、全部ひっくるめて「気」につつまれているように思
えます。巨大な不思議不思議に果敢に立ち向かい、ほんの僅かではあっても少しずつ科学
的に解き明かしていこうとするのも人間、不思議不思議をそっくりそのまま受け止めてそ
れぞれの「よく生きる」をそれなりに実践していくのも人間、両方あっての人間なのです。

2014.10.2 古賀由子



26編集部:2015/02/18(水) 03:03:48
フロー体験
  42号「フロー体験」


        

フロー体験─生活から楽しみを引き出そう

 フロー体験とは、なんのことはない、皆さんよく知っている、「没頭する」「没入する」
「寝食を忘れる」あの体験のことだ。平凡のように思われるが、よく考えてみるとこれが
生活から楽しみを引き出す─退屈で不安な生活を楽しいものに変える大変な業物なのです。
M・チクセントミハイ著『フロー体験─喜びの現象学』が教えてくれた。
 没頭は、「心理的エネルギー(つまり注意)が、現実の目標に向けられている時や、能
力が挑戦目標と適合している時に生じる。一つの目標の追求は意識に秩序を与える。人は
当面する課題に注意を集中せねばならず、その間ほかのすべてを忘れるからである。挑戦
目標の達成に取り組んでいる時が、生活の中で最も楽しい時である」(八頁)。
 なぜ楽しいか。「楽しさは、個人が知覚した挑戦目標が自分の能力と釣り合っている部
分で生じている。テニスを例にとれば、もし二人の能力が釣り合っていなければ楽しくな
い」(六六頁)。
能力と挑戦目標の関係を敷衍すれば、例えば、錦織選手の活躍で自分もテニスを習いた
いと思うとしよう。まずラケット振りから始めるだろう。しばらくするとボールを当てる
のが面白くなり、ラケット振りを嫌がるようになる。さらに今度はボールが相手コートに
入るのが面白くなり、ボール当て練習が退屈になる。それが進めば、今度は試合がしたく
なり、練習だけでは満足できない、……
 皆さん、このように、少しずつ目標のレベルを上げて挑戦し、楽しさを伴った経験は無
数にあると思う。遠い昔の受験勉強に始まり、何かの習い事、読書、創作、研究、スポー
ツ……。

 筆者の場合を一つ挙げておこう。忘れもしない、今を去る六十余年(!)前のこと、ニ
キビ面の高校生の時のある日のことである。受験時代である。数学の問題を解いていたか
と思う。しばらくの没頭からふと我に返ると、「ここはどこだろう」。なんと見当識を失
っていた。ここは縁側だ。その突き当たりの壁に向かっている。辺りを見渡し確かめる始
末だった。「まるで虚空に浮いていたな」「時間はあっと言う間に過ぎたし、楽しかった」。
結局「没頭はいいものだ」と思い、この年になるまで忘れることはなかった。

 フロー経験には、8つの構成要素があるという。このうち1つでもあればいい(六二頁)。
?達成できる見通しのある課題と取り組んでいる時に生じる。
 筆者の上記事例も、「自分にも解けそうだ」という見通しがあった。
?自分のしていることに集中できていなければならない。
 縁側の突き当たりとはいえ、自分の勉強部屋である。家は他には母一人であったが、母
がここに顔を出すことはない。
?行われている作業に明瞭な目標があり、直接的なフィードバックがある。

 筆者の場合も、解き方が皆目分からないという相手ではなく、「解けそうだった」。
答えは備えてあり、正解だったかどうかすぐに分かる。
?意識から生活の気苦労や欲求不満を取り除く、深いけれど無理のない没入状態で行為し
ている。
 筆者の場合、母にまつわる嫌なことを忘れることができた。(もっと大きく、勉強自体
そういうわけで、好きになった経緯がある)。
?楽しい経験は自分の行為を統制しているという感覚を伴う。
(筆者の場合、これはあまり意識されなかった)。
?自己についての意識は消失するが、これに反してフロー体験の後では自己感覚はより強
く現れる。
 筆者の場合、先にも述べたように、我を忘れて時を過ごし、逆に、我に返った後は、そ
んな自分であったことを強く意識した。
?数時間は数分のうちに過ぎ、数分は数時間に伸びるように感じられることがある。
 筆者の場合、あっと言う間に過ぎたのだった。

 皆さんにご自分のフロー体験を語ってもらおう。あるいは、考察してもらおう。
皆さんの刺激になるように、最後に掲げておく。
 「インド出身の若い数学の天才、スリニヴァーサ・ラマニュジャンは、彼の心理的エネ
ルギーのほとんど全部を数理論に投じたので、貧困、疾病、苦痛、それに突然訪れた死も、
彼にとってやっかいなものではあったが、彼の心を計算から引き離すことはできなかった」
(二五四頁)。

2014.12.30 神野 佐嘉江

27編集部:2015/07/03(金) 19:24:57
ありがとう
第43号 「ありがとう」 2015/5

          




前書き 「ありがとう」??????????????????????????????????????国木 光

 「有り難うございます」は感謝を表わす言葉ですが、大変美しい響きの言葉だと思いま
す。茶道に一期一会という言葉がありますが、それは生涯にただ一度まみえるお客様だか
ら、誠心誠意まごころ込めておもてなしをしましょうという心の姿勢を説いたものです。
「有り難きことを今頂きました」一期一会のこの心を響かせて、ありがとうと言ったなら、
その言葉の響きは、深いところから発せられているので、相手の心に深く浸透し、言った
人も言われた人も、共に心が和み癒されることでしょう。それゆえにとても美しい言葉だ
と想うのです。

 何に対しての感謝なのかとうことは、感謝する人の意識の視点が何処にあるかというこ
とにかかってきます。視点を物に置いているとしたら、自分の好みの物を頂けば嬉しいし、
そうでなかったら、「こんな物」とやや迷惑な気持が入ったおざなりな「ありがとう」に
なってしまうでしょう。
 また義理堅いというのはいいことですが、頂いた物を見ておそらく幾ら位と値踏みし、
だったらこの位の物をお返ししなければと心を煩わせることになります。そうすると、相
手の好意をありがたいと思うよりも負担と感じてしまうことになりましょう。
??それは好意をお金で換算していることになり、心の貧しさという事になりませんか。
たとえささやかな贈り物であったとしても、くださった方の愛念をありがたく頂き、感謝
の気持を込めてありがとうと心から喜んだら、相手に最大のお返しをしたことになるでし
ょう。感謝する人の意識の視点を物ではなく心に置いている人は、物を通してあるいは行
為を通して、相手との心の交流が生まれてくるでしょう。

2015.3.17



28編集部:2015/07/03(金) 19:28:30
生命
 第44号「生命」 2015/8

??????????????????  表紙絵
           マンデルブロー集合



前書き 「生命」 ?????????????????????????? ??????????  ?? 竹内 一郎


 我々の住んでいるこの地球には多くの生命が重層的に絡み合いながら生存している。その関係は
単純に競合あるいは共存とはいえず複雑にからんでいるようである。共存、競合などの言葉は、全
体的に見ようとする立場から言うと成り立つかもしれない見方であり、個別の種にとってはただひ
とえに生命の維持しかないのであると思う。
 さて生命とは何だろう。このきわめて単純な設問に対する簡単明瞭な答えはおそらく見出せない
のではないだろうか。これに対する答えは、我々人間中心からではあるが、宗教、自然科学、芸術
などの多岐にわたる分野がそれを追求しているようである。そのような膨大な範囲の分野について
小生のごとき浅才はとても及びもつかない。

 それらの追求の中で量子力学を確立した物理学者のシュレーディンガー博士による『生命とは何
か』という著作があり、ちょうど今これを読み始めたところである。うろ覚えであるがシュレーデ
ィンガー博士の生命観として「生物は負のエントロピーを食べている」という考えがあることを確
かめてみたくなったことがその根本動機である。
 良く知られているがエントロピーは常に増大している。生物とは、このエントロピー増大に抗し
自らマイナスのエントロピーを注入することにより、生命を維持することが可能である、とシュレ
ーディンガー博士は言っているのである。

 現在この負のエントロピーをネゲントロピーと言っている。今でこそこのような見方が当たり前
となっているが、これが一九四三年に示されたということで、彼は天才というしかない。
この『生命とは何か』は、それまでそれぞれ別の道を進んでいた生物科学を物理科学の目で俯瞰し
ており、今日の生物学の根本にあると思える。
 良く知られている二重螺旋構造の遺伝子による遺伝の仕組みが現在では徐々に明らかになってき
ており、生命とは何かという問いに対して少しずつ答えが出てきているようである。それでもなお
根本的なことは何も答えていないか、回答が無いようである。なぜ生命のような複雑な構造、組織
が成立したのか。どうも生命のもととなる有機物は巨大な恒星中で生成され、その後の超新星爆発
時に空間に撒き散らされたものらしい。その塵の一部により太陽系が形成され、その中の惑星の一
つである地球において(おそらく)偶然に生命が発生するのであるが、不明のことがまだ多々ある
ようである。
 自分もそうであるこの不思議な生命について、これから勝手に想像力を働かせて考えていきたい。

2015.7.3



29編集部:2016/02/17(水) 08:27:43

     第45号業 「業」  2015/12

??????????????



前書き テーマ[業]??????????????            ????長岡 曉生

 前四十四号のテーマ[生命]の流れを引き継いで[業]を今回の四十五号のテーマと定めました。
それでは「業」とは何か。 どう読ませるのか。 何ゆえテーマ[生命]の流れを引き継いでいるのか。
について、テーマ提供者の考えを説明します。

 [生命]は、この宇宙が始まった時から、その誕生に適した星系の適した惑星において、長い時を掛け
て形成されてきており、その結果この地球上では現人類を頂点とする生物集団が出現しました。
地球上での[生命]の出現は、偶然それに適した自然界の条件が整ったから起きたわけですが、これには
長い時間が掛かりました。逆に言えば、その間の自然環境の変化は、ゆっくりとしたものでした。
 しかし、ひとたび一定の言語とこれによる知識を兼ね備えた現人類が出現した後の自然環境の変化は、
正に破壊的なものとなりつつあります。これは、地球上で言語と知識の力により大発展を遂げた現人類が
持つカルマンが、地球という星の将来を左右していると言うことです。

 というわけで、現人類が地球という星に影響を及ぼしているカルマンを、[業]という漢字に集約して、
考えて見ました。

 周知の通り、「業」には、複数の読み方が有り、それぞれが異なる意味を表しています。

 先ず、「業」の訓読みには[なり]・[なりはひ]と[わざ]が有ります。
・[なり]は、草木において自然に生長したり実が成る意味の[なる]の連用形の名詞化です。昔は田畑
からの収穫を[物成り]とも呼びました。この[なり]の派生語に、[なりはひ(生業)]が有ります。
・[なりはひ]は、自然の恵みの[なり]と植物の蔓や根が自然にのび広がる[這ふ]の連用形[はひ]
の合成語です。その本来の意味は、五穀・木の実などが自然の恵みで増えることですが、後に人が田畑を
耕作して収穫を得ること、またそのための人為的な業(わざ)を指すように成り、さらには、人の職業お
よび生計一般をも指すようになりました。
つまり、自然の恵みに人が工夫を加えて農作物の増産を図るようになったわけです。
・[わざ]は、この[なりはひ]のために、人が人為的に加える作業・行ないです。

 次に、「業」の音読みには[ぎょう]と[ごう]が有ります。
・[ぎょう]の意味を、白川静博士の字統によって探って見ましょう。
金文と篆文(てんぶん)では[業]字は上部にのこぎり場のようなギザギザ、下部に長い柄のある器の形
です。
後漢代の辞書、説文解字では[業]を鐘や鼓などの楽器を並べて掛ける大版(大きな板)としています。
漢初の類語辞典、爾雅(じが)では版築法で二枚の板(版)で挟んだ土を打ち固める為の柄のある板を[業]
としまた版築法によって城壁を築く工事を[業]としました。
後代に、全て事業のことを[業]というように成りました。
・[ごう]は、佛教のカルマンにあたる言葉で、宿業・業苦などの熟語としても使われます。
さらに人が作るカルマンの内、行動によるものを身業、発言によるものを口業(くごう)、心中の思いに
よるものを意業(いごう)、これらを纏めて三業と言います。この三業の大きさは、人の知識量とともに
増大しているのです。
つまりは、人類が作る三業が人類のアーラヤ識つまり集合的無意識を形成して行くのです。

 今回、なぜこんな面倒な言葉[業]をわざわざテーマに選んだのでしょうか。
それは、秘密です。 何てことは申しません。
今の説明通り、[業]には人が無意識にあるいは意識的に作る結果が、全て含まれているんです。
というわけで、どうか皆さん自身がお好きな題材を自由に選んで下さい。
(そうです。色々書いたわりには、制約が無いんです。)

 表紙絵は、金文と篆書と楷書による[業]字です。
[業]字の画数が十三であるのも、十三期生の作者としては、尽きぬ縁を感じます。
????????????????????????????????      越智十三こと 長岡曉生



30編集部:2016/05/10(火) 20:18:53

第46号 「静」 2016/2

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  静??????????????         ??        風野 茜


 最近、私に最も添う言葉は「静」だ。
「おはよう」「おやすみなさい」「いただきます」「ごちそうさま」。
こういう何気ない言葉、毎日口にしていた時はたいして意識さえせずに使っていた言葉が身近から
消えてしまった。盛時には、五人の家族と一匹の犬がいた家、声と音で満たされていた家が、今は
静かだ。
 古い木造の家は声をたてるという。時に、二階や屋根裏で「ミシッ」とか「カタッ」という音が
する。今まで気がつかなかった。静かだから聞こえる、聞こえるからなお一層感じる静けさ。本当に
不思議な静けさだ。


★表紙絵について
 「斜光」という高校同窓誌に寄稿していたあの人はいったいどんな方なんだろう、どんな御夫妻なのだ
ろう、それが風野 茜氏の作品を読んだ後に湧き上がった私の反応でした。その氏の家を訪問する機会が
できたのです。閉じ籠もり病にかかっていたというのに、数年振りで身繕いをして外に出て電車に乗って
氏の家に出向きました。昨年秋のことです。
 先ず目に入ったのが玄関の下駄箱の上に乗っていた小さなカモのつがいの置物です。私が想像していた
風野 茜夫妻の印象そのまんま。家の中のそこここに夫妻の思い出の小さな置物がありました。
 ピアノの蓋の上に置いてあったのがこの絵です。お孫さんが描いたものです。家の中でこの置物を見つ
けて絵にしてくれたそうです。そうそう、このお孫さんの名前も覚えています。斜光作品の中に登場して
ました。この馬はスエーデンの伝統工芸で、木製の馬「Dalahäst(ダーラナ馬)」。北欧を訪れたとき購入したもののようです。
 「至る所に風野家族が生きている」、家の中にはそんな空気が流れていました。このダーラナ馬の絵は
私には象徴的なもののように思えます。斜光作品を読んで私なりに想像していた家族の風景、夫婦の風景
がそっくりそのまま体感できた訪問となりました。

31編集部:2016/08/10(水) 13:42:05
心もよう
     第47号 「心もよう」  2016/05

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前書き テーマ[心もよう]??????????????       古賀 和彦

 事物の数量を表すものを基数詞といい、その数は「ものの数え方・助数詞・6000」とい
うwebの表題の6000はいささか多すぎるが、重複を除いても数百はありそうだ。
 犬猫の一匹、うさぎ一羽、和歌・短歌一首、宇宙船一隻、戒名一諡(し)等々。日本語
における季節や自然を表す歳時記に書かれた言葉や物の数え方を表す数詞は、世界の中で
も日本は特に多いのではなかろうか。
 なかには面倒くさいのか、はたまた無知な故か、すべての対象物をを一個二個の呼称で
すます人もいる。しかし数詞は日本語の繊細な表現の一部でもあるから疎かにはできない。
 また、縁(えにし)、雨宿り、小糠雨(こぬかあめ)、驟雨(しゅうう)、名残り雪(な
ごりゆき)、草いきれ、蝉時雨(せみしぐれ)、 野分(のわき)、逢引(あいびき)、あだ情
け、言い知れぬ、群青(ぐんじょう)、鈍色(にびいろ)、仕舞屋(しもたや)など、私が
美しいと思う日本語がたくさんある。そのなかでも「心もよう」が特に好きだ。
 フォークシンガーの井上陽水が1973年9月に作詞作曲した「心もよう」は音楽も詩も実
に秀逸だと思う。

?? 作詞/作曲 井上陽水

さみしさのつれづれに
手紙をしたためています あなたに
黒いインクが きれいでしょう
青いびんせんが 悲しいでしょう
あなたの笑い顔を
不思議なことに
今日は覚えていました
十九になった お祝いに
作った歌も忘れたのに
さみしさだけを 手紙につめて
ふるさとにすむ あなたに送る
あなたにとって 見飽きた文字が
季節の中で うもれてしまう アア

遠くで暮すことが
二人に良くないのはわかっていました
くもりガラスの 外は雨
私の気持ちは 書けません
さみしさだけを 手紙につめて
ふるさとにすむ あなたに送る
あなたにとって 見飽きた文字が
季節の中で うもれてしまう
あざやか色の 春はかげろう
まぶしい夏の 光は強く
秋風の後 雪が追いかけ
季節はめぐり あなたを変える アア……

 さて「心もよう」とは心のありよう、どのような心境であるのか、といったことを表す
言い回しで、さまざまな思いが混ざり合っている様子などを含んだ表現である。私のよう
にいつも「岐路」や「AとBの狭間」で迷ってきた者にとってその微妙な心の状態や変化
は、『ダロウェイ夫人』の〈意識の流れ〉に沿うような気がする。
 「心もよう」はまた、黄色をみれば幼い頃の小学校の前の畑でのスケッチを、草いきれ
という言葉に出会うと川遊びからの帰り道のけだるさを、流行歌(はやりうた)を聴けば
すなわち女性にあこがれた学生の頃の場末の飲み屋を思い出す。そのような色や音や文字
や生きている周りの舞台によって「心もよう」は変化するようである。
 今読んでいる『エゴ・トンネル』という本の中に、人間の脳に「ミラーニューロン」と
いうものがある。それは他の動物の行動を観察して、自分の行動と照らし合わせて、まる
で我がことのように感じるという神経細胞のことで、まるで「鏡」のように反応すること
から、その名前「ミラーニューロン」名付けられたという。あまり繁く安易に使われるの
がいやで私は滅多に書かないが、いわゆる「感情移入」のことである。
 他の人と同じような言葉や情景や感情に、私が共感するのも「ミラーニューロン」のせ
いに違いない。そんな人々もまた同じ私の仲間なんだろう。

 大日本除虫菊『虫コナーズ』の長澤まさみと高畑淳子との掛け合いのCMである空間虫
よけ剤を「ぶら下げないよりだいぶいい」とか「最後までぐぐぐと踏ん張る虫コナーズ」
などとその効き目を曖昧にするところがなかなかいい。だからいままで私が表題について
いろいろ書いたものが少々辻褄が合わない文のような気がするが、まあ「虫コナーズ」の
いかがわしさ、あやふやさに免じて今回の表題を私が好きな言葉である「心もよう」とし
た。



32編集部:2016/10/31(月) 07:30:45
そよぐ
     第48号 「そよぐ」  2016/08


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前書き テーマ[そよぐ]??????????????         古賀 由子

昔からこの「そよぐ」と言う言葉の語感と優しいイメージが好きだ。そよ風のそよ。
穏やかな日、木の葉が気持ちよく揺れ動く感じにぴったりの言葉だ。「風にそよぐ葉」
いかにも気持ちよさそうだ。軽やかな気分になる。
これに対して「揺らぐ」という言葉がある。同じように物或いは人の心がパワーバラ
ンスの変化により微妙に揺れる状態をさす言葉のようだが、どこか不安感、不安定感が
つきまとう。一方この揺らぎはむしろバランスをとる貴重な現象でもあり、次なる新た
な世界を作り出す前提にもなっているような気もする。

「そよぐ」と「揺らぐ」の違いについて考えてみた。
「揺らぐ」は他からの要因はあったとしても、あくまでも自らが動き出してゆらゆらす
る。「そよぐ」は主体がないまま、自然(気)に身を任せ、自然と同化して動いている
姿のように思える。「そよぐ」という言葉の心地よさはそこから来ているのではないか。
 物体、人間の場合は心も含めて、自己の特性を主張すればするほど他の物体と衝突が
起きる。それが揺らぎとなる。特製を無にして自然のなすがままに任せる姿が「そよぐ」。
 広辞苑で「そよぐ」を調べてみて驚いた。漢字表記で「戦ぐ」とある。戦いのイメー
ジとは全くかけ離れているのに。なぜこの字を当てたのか分からない。宿題としよう。

 ネット辞書を調べていると、「戦ぐ」の他に「」(そよぎ)が出て来た。
意味は
  1.ブラフマン、サンスクリットの、仏教に関する、清浄な、バラモンの、
  2(と通じて)木が風を受けるさま、風が木の上を行くさま、(芃と通じて)草
   木が茂る。
は「そよぐ」風景そのものを漢字で表してくれているではないか。「戦ぐ」より何倍
も相応しい。そよぐについての私のイメージは1.の意味と深い所で通じているような気
がしてくる。調べてみたい。

注)は掲示板では表記できないため画像を使ったため、見えづらい。「林」の下に「風」と書く。



33編集部:2017/01/14(土) 06:59:57
日本語
      第49号 「日本語」  2016/10


         



前書き テーマ[日本語]                 神野 佐嘉江

 優れ物と紹介されて「まあ、かわいい」。優れ物が切り子細工であろうが、小物バッグ
であろうが、寄せ木細工であろうが、その一言で、後の言葉が続かない。最近の若い女性
の感想の述べ方である。テレビで見るとこんな人が多い。後に続けて例えば、「鋭い光り
が入り乱れてきれい」とか、「色合いに他では見られない渋みがある」とか、「よくもこ
んな狭いところに色とりどりの幾何模様が産め込まれているものだ」とか、言えないもの
か。皆さんにおかれても、もどかしい思いをされたことは一度や二度ではないでしょう。

 上は日本語の廃れについて述べたものですが、逆に日本語の豊かさについて感じ入った
ご経験もおありでしょう。あるいはまた方向が違って、日本語の歪みなどについての体験
をお持ちかもしれません。日本語にまつわる御体験あるいはご意見をお聞きしたい。



34編集部:2017/05/16(火) 09:39:30
変化
    第50号 「変化」  2017/01
       

前書き    テーマ 「変化」              竹内 一郎

 方丈記は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうた
かたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし」と始まる日本人の無常観を表
した書であるといわれている。 著者、鴨長明は隠棲し世間を斜に見たのかもしれない。
確かに戦乱、飢饉、大火、地震など天災、人災の連続した苦難の時代であった。それゆえ
隠棲したのかも。
 それはそれ、人の歴史は常に各種の困難の中ではぐくまれてきた。現在において防災技
術は鴨長明が生きたときから比べると格段の進歩をしているがいまだもって人は天災、人
災から逃れることはできない。
 彼の時代、人は天災、あるいは戦争などの人災になすすべも無く呆然と立ちすくんだで
あろう。そのなかで無常観というものが脚光を浴びてきたのであろう。しかしよく考える
と、無常とは冒頭の「」文に言い表されているとされるが、これは常に変化し定まること
のない情景を表しているだけで、この情景とその後に書かれている著者の心理状況をおも
んばかっての無常観、日本人が抱く思い入れの感情があるようである。なんとも言えない
切なさ、虚無などと表現される感情、あるいは情緒の側面があるようだ。
 それはさておき「無常観」という仏教でいう本来の意味は、それら一切の感情や情緒を
そぎ取ったところ、読んで字のごとく「常はない」ということではなかろうか。すなわち
常に「変化」しているという地球の姿を言っているのではなかろうか。鴨長明は方丈記の
書き出で無常を見事に表現している。書き出しの後に続く彼の心象風景を重ねることによ
り日本人の無常観なるものを表現した。この日本特有の無常観もまた歴史の中で特異な変
化をした無常観であろう。

 「変化」について過去二回書いてきたがこれまで取り上げた「変化」は人の心の枠外の
ことであった。しかし変化は人の心の枠の中でも常に起こっている。この心の変化する個
々の動きは多様であり方向性がないように見えるが、どうも社会という個人の集合の枠で
見ると何らかの方向性があるようだ。これが歴史の流れ、あるいは変化というものである
ように思える。第二次世界大戦後七十年が経過し、人は平和が一番大切でありその実現の
ため他人を思いやるグローバルな世界が目標だと信じてここまで来たが、このところの世
界の情勢を見ると潮目が変化してきているようにみえる。英国のEU離脱をきっかけとす
る、EU諸国における離脱への圧力、米国におけるトランプ大統領の誕生などグローバル
化に掉さした民族主義というか各国エゴイズムの昂然たる主張など今迄目指してきた価値
観の変化が頭をもたげてきたような兆候がある。おそらくこれらは世界が動乱の時代への
変化していることへの兆しではなかろうか。
 これらのことも考慮しながら「変化」を書いてみるつもりであるがわが心、常に変化し
どうなるか分からない。



35編集部:2017/05/16(火) 09:51:56
海と山
         第51号 「海と山」  2017/05

     

前書き    テーマ 「海と山」              長岡曉生

 今年の年号には、素数が二つ揃っている。
平成二十九年の二十九も、西暦二〇一七年の二〇一七も共に素数である。
 一方、私の連続作品[肥と筑]は、第四十一回を迎える。
四十一といえば、十三番目の素数だが、十三自身も素数である。
つまり、作品番号についても、素数が二つ揃っている。
 合わせて四つも素数が揃うと、何か新しい視点を据えるべきなのか。
いやしかし、今回の素数中で、作品番号の四十一こそ[肥と筑]中の肥前佐賀の県番号である。
 それゆえ、今回の[肥と筑]は、その原点に戻って書くことにしよう。
その原点は、長生薬を求め[海]を渡り、蓬莱・方丈・瀛州の三神[山]を探しに来た徐福伝説にある。
徐福伝説にかけて、今回の[同人α]と[肥と筑]のテーマは、ともに[海と山]とする。
 私の興味を、素数と有明海へと向けて頂いた富士山麓の赤松老師に、感謝!!!



36編集部:2017/10/26(木) 12:07:00
辞世の句
       第52号 「辞世の句」  2017/07

       

前書き   「辞世の句」             響灘王子

 まだ皆さんはお若いでしょうが、私自身がそろそろ西方浄土への航海準備が必要かと思
いまして今回のテーマは「辞世の句」と致しました。否人生いたる処に青山有りで、事件
事故災害の無い日のない日本列島においては何時その時がくるかも知れず、諸事万端怠り
なきよう慌てぬよう段取り八分の心掛けが肝要かと思います。
 そもそもこの思いつきは過去の映画「忠臣蔵」で赤穂城主:浅野内匠頭の辞世の句
「風誘う 花よりも尚 我はまた 春の名残を如何にとかせん」にあります。果たして即
日切腹を命ぜられた若殿が、数時間内にこのような深い味のある名句が発句できるのか、
後世の他人の作ではとの疑念が生じたからです。以降先人達の辞世集を見ては、自分の最
後の時までに如何なる秀作が残せるのかと思案の日々です。

 そこで有名なものを列挙してみますが「辞世の句」と言う明確な定義がある訳ではなく、
詩的な短文で和歌、俳句、漢詩など音韻を重視したものであることが多いようです。また
西洋人には格言はあっても辞世句の意識はないようで、死に直面してまでも「名」を残そ
うという日本人の美意識が表明されています。 古くは古事記のヤマトタケルに始まり、
皇室・貴族関係 → 源平合戦の頃 → 戦国時代 → 江戸時代 → 明治以降も連綿と続きます。
  ○ 身はたとえ 南山の苔に埋るとも??魂魄は常に北闕の天を望まんと思う 〜後醍醐天皇
  ○ 願はくは 花の下にて春死なむ??そのきさらぎの望月の頃 〜西行
  ○ 散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ 〜細川ガラシャ
  ○ あら楽し 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし 〜大石内藏助
  ○ 旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る 〜松尾芭蕉
 ??○ 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも??留置まし大和魂 〜吉田松陰
  ○ おもしろきこともなき世をおもしろく 〜高杉晋作
  ○ フランス軍の先頭に〜ナポレオン・ボナパルト
  ○ 音楽が終わったら、明かりを消してくれ〜アドルフ・ヒトラー
最初の後醍醐天皇の「身はたとえ・・・」は以降殉国の場面での基本形として多用され、
また自然美や花鳥風月や季語を入れれば美しい仕上がりになります。

 次に好きな句を列挙してみます。
  ○ 見るべき程の事は全て見つ 今はただ自害せん 〜平 知盛
  ○ かかる時 さこそ命の惜しからめ かねて無き身と思い知らずば 〜太田道灌
  ○ 浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して 〜清水宗治
  ○ 一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 〜阿南惟幾
  ○ 散る桜 残る桜も散る桜〜昭和特攻隊
やはり武士・軍人の命のやりとりが絡んだ句は万感迫ります、自分の死を目前にして「終
活句」を作るだけでも大変な精神力なのに、更に人に感銘を与える美しき句を作る力量に
は感服です。

 勿論妻子・子孫には潤沢な資産を残すので辞世句など無用と思われる方は結構ですが、
小生のように残せる物が僅少の場合には預貯金通帳と株券と最後に辞世の句を残したいと
思います。数年前から自分史にも着手していますが、よくよく考えるといくら立派な一大
長編名文を完成しても冗長な作文では読み手も・・・なので、簡単明瞭な一句くらいなら
ば親族一同にも読んでもらえ、更には墓石に刻んでもらってもいいし、額縁に装幀しても
いいし、金銀財宝と違って永遠に残るでしょう。命のやりとりをしない平凡な現代人とし
ては、幸福な人生であったと感謝しながらも個性的でかつ人生訓的なものも挿入しつつ上
品で、また生い立ちの瀬戸内風景を入れてとなれば「白砂青松」となるかもしれません。
以前から家系図作成中ですが、その頃に作った一句
    〜??美田無く 子孫に残すは家系図一枚 〜
 でもこれでは妻子から文句が出そうだし、名句はハードル高くてお迎えをお願いするの
は何時のことになるやら!

 別編〜句に絡んで
 今春、遠縁の大学教授(英米文学)が退官記念に句集を発行、その中で一句
  ○ 学ぶ意味 問へど答へぬ若きらに 我は板書す「世のためなり」とが琴線に触れ
たのでここに掲載させてもらいます。
最後の「と」は無いほうが引き締まると思うのですが諸先輩の御意見は如何でしょうか。

【表紙説明】
 平成23年東日本大震災の秋に、単身軽四にて初めての東北地方一周の旅行をしました。
その際前年に早世した孫を偲んで青森県恐山まで脚を伸ばし、また各地の旧友を訪ねる道
中で奥羽の名水:十和田湖を堪能した際のスケッチ「十和田湖旅情」です。
 今でも思い出すのが、小学校4年生頃の国語教科書にあった「十和田のヒメマス」で学
芸会の演題にもなり、60年近く経っても不思議と和井内貞行の名前を忘れません。
 西国人にとって東北は北海道よりも遠い存在で、後日東北初旅日記も文字にしたいと思
います。



37編集部:2017/10/26(木) 12:14:36
出自
       第53号 「出自」  2017/10


       


前書き   「出自」          古賀 和彦

 今度の冊子の表題を「出自」と決めたのは自分が高齢になり、急に懐古的になって昔を
を懐かしみ美化するという考えでは全くない。ただ自分の成り立ちを調べることでこれま
での己の考えや生き方の検証ができるのではないかと思った。
 ブリタニカ国際大百科事典によると「出自」とは
「親子関係の世代的連鎖に基づく特定祖先への系統的帰属。この場合の親子関係は社会的
に承認された親子関係であり,したがって必ずしも血縁であるとはかぎらないし、また生
物学上の親子がすべて社会的な親子関係になるともかぎらない。親子関係の世代的連鎖に
際して,父子関係もしくは母子関係のいずれか一方のみの連鎖をたどるものを単系出自-
unilineal descentといい,父系出自と母系出自とがある。父子関係と母子関係のいずれか
を選択できるものを選択的単系出自 ambilineal descentといい、父子関係と母子関係のい
ずれをもたどるものを双系出自 bilateral descentという。」とある。

 昔『ルーツ』(Roots)というテレビドラマがあった。
アレックス・ヘイリー原作の小説『ルーツ』(原題:Roots: The Saga of an American Family)
を基にした1977年制作のアメリカ合衆国のテレビドラマ(ミニシリーズ)である。
アメリカという国家の歴史上、最も暗い側面のひとつである黒人奴隷の問題を真っ正面か
ら描き、社会現象と言えるような大反響を巻き起こした。ドラマが放送されると、中には
部屋の電話線を抜いて着信を絶ちドラマに見入る者も現れ、キジー(Kizzy)などアフリカ
の名前が人気になるなど、人種・民族を問わず好評を博した。
 西アフリカのガンビアで生まれた黒人少年クンタ・キンテ(英語版)を始祖とする、親
子三代の黒人奴隷の物語を描いている。続編の『ルーツ2』では、その後(南北戦争で奴
隷制が廃止されて以降)の一族の物語が描かれ、最後には原作者アレックス・ヘイリー(俳
優が演じている)も登場する。

 そこで私の「出自」を調べて見ようと思った。日本の姓の中で1位・佐藤姓の190万
人、2位・鈴木姓の180万、3位・高橋姓の140万人には到底およばないが、私の古
賀の姓は北九州地方を中心に10万人ほどいるから、私の出自の確かめようがない。しか
し父方の田雜姓については全国に270人くらいしかいなにので、おそらく一族のつなが
りは強いに違いないと思った。そして調査の結果、私の想像だにしなかった事実が判明し
た。それらのことから遠い昔の先祖のDNAにすり込まれた連綿とした情報が、私の性格
や考え方を決定したに違いないと確信したのである。



38編集部:2018/02/03(土) 17:55:56
髭(ヒゲ)
       第54号 「髭(ヒゲ)」  2018/1


前書き   「髭(ヒゲ)」          古賀 由子

            

 髭(ヒゲ)と言えば、最近缶コーヒーの宣伝でみた山田孝之の真っ黒な髭、昨年テレビ
でよく見た都民ファーストの若狭勝と評論家伊藤惇夫のちょび髭、角界騒動ででずっぱり
のスポーツライター玉木正之のふさふさの白髭、昨年末に終わったばかりのドラマにでて
きた船越英一郎演じる医者の赤髭がすぐ思い浮かびます。あとは懐かしき父の何とも言え
ない胡麻髭の感触でしょうか。
 武士の髭、作家の髭、政治家の髭、それぞれの性格や育ちや志向を推し量る材料にもな
りますが、私にとっては、人の髭はだらしなさを計る尺度か権威を表す尺度かオスらしさ
を誇示する尺度にとどまります。
 髭と言えば男性のものと思いがちですが、香港で働いていた頃、鼻の下にうっすらと長
い産毛のような髭を生やしているローカルスタッフがいました。日本人からすれば、どう
見ても産毛ではなく髭です。広東語はもちろん、マンダリン、英語、日本語も話せる才色
兼備の女性でした。本人になぜ剃らないかとは尋ねることがはばかれました。後でわかっ
たことですが、それは立派なおしゃれのひとつで、セックスアピールにも繋がっていると
のことでした。髭のありようも国によって異なってくるのでしょう。そう言えば、彼女の
髭にはだらしなさを感じるより、髪を結い上げたときの後れ毛に共通したチャーミングさ
がありました。私にも髭があります。左の顎に一本の髭です。それが黒くて太いのです。
放っているとすぐ1?以上にまで伸びます。母も同じ所に生えているのを知ったとき、
DNA鑑定をするまでもなく、「私は本当に母から生まれた子供なのだ」と確信しました。
もっと以前に分かっていたら、祖母の顎を見たかったのに、せめても母に祖母の髭を聞き
たかったのに。

 ここまでは人間のお話。人間以外で髭を取り上げるとするなら、何と言っても、その生
え具合とカーブの美しさを誇る猫の髭です。生える位地、本数、長さ、曲がり具合、全て
が黄金律であるかのようにまで思えてきます。其の役割を知れば、機能がもたらした黄金
律とも言えます。
 中学生の時友人から譲り受けた子猫は、其のつぶらな瞳と小さな体より、まずその立派
な髭に目を見張りました。白い細長い髭が、見事に顔の一部となっていて、生まれて間も
ないというのに、既に其の小さくてひ弱な体を守り抜く武器を備えているかのように見え
ました。近頃では野良猫も一人歩きする飼い猫もみかけなくなり、もっぱらテレビで猫を
眺めていますが、やはり一番先に目がいくのは猫の髭です。人間も含めて生き物の中で一
番関心があるのは猫の髭です。

※ヒゲの漢字は「髭」の他に生える場所により「髯」、「鬚」がありますが、代表して「髭」の字を使用しました。



39編集部:2018/05/20(日) 21:02:48
「チョットコイ」 
       第55号 「チョットコイ」  2018/5

??????????????????????    

前書き   「チョットコイ」            神野 佐嘉江


 入院中の出来事で、病院前に森がありますが、そこから鳥の声「チョットコイ」が聞こ
えました。鳥の声の聞きなしで何かあった。看護師さんに調べてくれるように頼み、一方
自分でもリハビリの作業の一環で、パソコンを打つ際に、ネットを調べさせてもらいまし
た。「チョットコイ」と鳴くのは、「キビタキ」もしくは「コジュケイ」とありました。
「キビタキ」は、ヒタキの原色っぽい黄色いやつです。渡り鳥で、南方から今やってきた
のでしょう。「コジュケイ」は小綬鶏の読みですが、鶏を含み、灌木草むらを歩くやつです。

 そこで聞こえてきた「チョットコイ」はキビタキだ、というと、周りにいた病院の助手
さんが、「わたしも聞いた」と。ベッドへ戻ると調べ方頼んでいた看護師さんからも「キ
ビタキ」または「コジュケイ」だと教えてくれました。

 翌朝、またその泣き声を聞きました。リハビリのパソコンに立ち会った助手さんにそれ
を言うと、「私も聞きました」と。そこで、

      キビタキは今日も来たねと笑い合う病院内のチョットコイ仲間

 皆さんからは小鳥にまつわる話が聞けるかな。



40編集部:2019/05/17(金) 08:23:28
変化としての四季
       第56号 「変化としての四季」  2019/4


            


前書き   「変化としての四季」           竹内 一郎


 地球上のいわゆる中緯度領域のほとんどには日本語でいう「春」「夏」「秋」「冬」と
いわれている変化がある。これは地球が太陽の周りを一年かけて回っていることからくる
現象であるが、ただ回るだけで起きる現象ではない。地球は自転しておりその自転軸が太
陽の周りをまわる回転(公転)面に対しほぼ二三度傾いていることによる。もっとも四季
とはっきり感じられる場所は、地球上中緯度のあたりであり両極では夏と冬だけ、赤道付
近においてはほぼ夏と考えてよい。我々中緯度に住む人間だけが四季があるのが当たり前
と思っているに過ぎない。という前提であるが我々は環境としての四季を知っている。お
そらく地球上同じような地域に住んでいる他の生命体も同じように四季を感じていると思
う。生命は環境の圧力を受け、その中で住むための身体的最適値が得られるよう変化して
きているはずだから、他の生命体も人間が感じると同様に感じているであろう。その中で
も日本人は四季の変化に敏感であり、其れを繊細な美的感覚にまでもっていっているとい
われているが、これも日本という地理的環境からくるものと思う。

 この四季「春、夏、秋、冬」は互いに等価と考えられると思っていたがどうも違うので
はないかと最近思うようになってきた。夏と冬これは安定した期間でありその間の風物の
変化は少ない。一方春と秋は冬から夏へのあるいは夏から冬への変化の過渡期と思われて
ならない。この間の風物の変化は大きい。いわゆる夏らしいあるいは冬らしいというのは
多少の幅はあるがかなり一義的に想定できる。一方春、秋についてはその想定するところ
がかなりの幅をもっているようである。これについての小生のかってな理屈がある。詳し
くは別稿を参照いただくことにするが大まかな考え方を以下に記してみる。

 四季は、循環しており一つの円と考えそれを四等分の円弧に春夏秋冬を割り当てて考え
られる。つまり、春に始まり一周し冬に至る円と考えると四季は互いに等価である。とこ
ろが全て変化していると考えると春から始まり冬に至る経緯は同じであるが次の春は全く
前年の春とは違う。一年たてば樹木は大きくなり動物は成長し、あるものは世代交代して
いる。そのように考えると四季は平面上の円周ではなく時間の次元を考慮した三次元のス
パイラルと考えるのが自然ではなかろうか。このスパイラル側面から見ると正弦(sin)
であり上面から見ると余弦(cos)の曲線である。すなわち時間と変化を見ると正弦曲線
でありその変化の割合を見ると余弦曲線であらわされる。正弦と余弦は互いに微分の関係
にありお互いの変化の割合をあらわしている。このような議論はいわゆる「ヘリクツ」と
もいえるが我慢して聞いていただきたい。スパイラルを側面から見ると正弦曲線であり一
般にサイン曲線と言われている。ご存知のようにサイン曲線は立ち上がり部分と立下り部
分の動きが速く天井部と低部の動きはゆっくりしている。すなわち動きの速い立ち上がり
部分が春であり、立下り部分が秋となる。夏と冬は天井部と低部に対応している。

 身の回りの風物の変化を写真に残しその変化を楽しんでいるが、夏と冬は変化が少なく
撮影した写真も少ない。それに対し春と秋は風物の変化が激しく撮影した写真も多い。何
気なく動いているように見える時間の流れにもいろいろ考える昨今である。



41編集部:2019/05/17(金) 17:25:37
共感覚
         第57号 「共感覚」  2019/9 


               



同人α57号テーマ「共感覚」   長岡 曉生

 私の本来のテーマは[肥と筑]であり、その基本線は、日本人は何処から来たかという問題である。
ここ暫くの私の投稿は、一見この基本線を大きく外れているように見えるかも知れない。
 しかし、日本語が持つ特色を調べることこそ、この問題の鍵となる。
この特色ある日本語を母語として育った人を、角田忠信博士は[日本語人]と名付けられている。
この[日本語人]とは如何なる存在なのかを、このところ私なりに考え続け、文章化しててきた。
今回は[日本語人]が潜在的に関わって居るのが、異なる五感が混じり合って発現する未分化の感覚
世界、いわゆる[共感覚]の世界ではないかという観点から、推論を進めて行きたい。
 もし、この[共感覚]に興味をお持ちの方は、それぞれ独自の考えを披露して戴きたい。

イメージ
??
(PHOTO:LEIGH WELLS / GETTY IMAGES)



42編集部:2019/12/24(火) 17:57:00
笑う
         第58号 「笑う」  2019/12 

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????????????????????    重要文化財 寒山拾得図 伝顔輝筆 東京国立博物館蔵 より
               (表紙絵は未定です) 




同人α58号テーマ「笑う」             風野 茜

 令和元年も残すところ十日となりました。今年の十大ニュースも発表になっています。
 春には天皇即位・令和改元、夏には東日本台風大雨洪水の大災害、秋にはラグビーワールドカップ日本
大会開催がありました。吉野彰氏のノーベル化学賞授賞、女子ゴルフでは渋野向日子さんの四十二年ぶり
二人目の海外メジャー大会での優勝がありました。ラグビーのワールドカップは日本代表の活躍で念願の
八強入りを果たし日本中大喜びしました。その中で「笑わない男」として話題になった選手もいます。試
合後の彼のコメントに私は笑ってしまいました。私が?笑う?ってどういうことなのだろうと考えるきっ
かけのひとつになりました。
 考えだすと笑うって複雑です。笑った笑わないで一悶着(ひともんちやく)おきることもあります。笑い
の種類も様々です。笑いのテンポも時代によってかわります。
 学識豊かな同人αの皆さま、?わらう?についての学術的な見解をおきかせください。
 忘れられない思い出の笑顔はありますか。

 <追記>
 「笑う」を58号テーマに決めたものの、突然笑えない事態が出来(しゆつたい)、一月(ひとつき)近く
停滞してしまいご迷惑をかけました。
 私は中途入会者なので、テーマと本文の関係がつかめず、とりとめのないテーマ前書きになってしまい
ました。
 「笑う門に福来たる」
 良い令和二年でありますように。

    令和元年十二月



43編集部:2020/11/22(日) 13:35:51
バランス
          第59号「〜バランス〜」  2020/11
          
??????????????????????????????カトレア




前書き 「〜バランス〜」          響灘王子

世の中はあらゆるものがバランスで成り立っていることがコロナ禍でハッキリと解りました。

○ コロナバランス〜皆が外食や旅行等々を控えただけで、中小はおろか巨大企業までもが大赤字に陥るなんて、世の中の全てが絶妙なバランスで繋がっていることが判明(株価で大損)

○ 平和バランス〜人類の歴史は戦争の歴史で二度の大戦を経でも懲りず、この次発生の不安

○ 軍事バランス〜兵力は勿論だが、それ以上に国家民族の胆力・知恵・団結力・科学力 等も必須

○ 経済バランス〜何処の企業もNo-1を目指して競争するがなぜ共存できぬのか、国家も同様に

○ トランプバランス〜ハチャメチャ大統領だが拉致被害者に言及してくれたのは彼ひとりでした

○ 税収バランス〜我国の現状は収支バランス無視の無節操なバラマキ予算で1億2億などは屁のカッパ、しかし大赤字国家と言われても具体的には誰が債権をもっているのかな?

○ 罪と罰バランス〜残虐な事件続発だが殺人犯を死刑にせぬのは法務司法関係者の臆病卑怯さ

○ 精神バランス〜今は正気であっても、誰でも紙一重で狂気になる危うさを内包

○ 寒暖バランス〜自然界の寒暖差の熱エネルギーを自在に操作できれば大変革or大変かも

○ 金銭バランス〜出と入りの管理のみという簡単さが解からぬ馬鹿者が何と多いことか

○ 貧富バランス〜寒空の下のホームレスを思いつつ、暖かい布団で眠れる幸福に毎夜感謝

○ 夫婦バランス〜天皇皇后両陛下も夫唱婦随で婦唱夫髄ではないでしょう、異論あればプロポーズも三々九度も結婚指輪も女のほうからしてみれば如何?

○ 家事バランス〜家事の夫婦バランスでは度々男性が批難されますが、家電修理 乗り物修理 大工工事 剪定作業 不快害虫処理 重量物移動 これらを主婦はできますか?

○ 男女バランス〜男女の基本的人権はイコールですが、自殺率は男のほうが2倍以上は何故? 物造りでは男独占で、家 家電 車 鉄道 船 ビル 飛行機 ダム パソコン 等々世の中の100%の分野で男の創造作品、女では電球1個否釘1本も鉛筆1本も作れない(単純労働以外)、女が創造したものが何かありますか?でもそんな男達を創出するのは偉大な女性陣なのです!

★ これだけ放言すれば如何なる反応がくるのか興味半分・恐さ半分です。



44編集部:2021/09/23(木) 08:25:08
逆旅
 第60号「逆旅」 ??????     ????       2021/9

   
????  ??coppers早川「ステッキ」F091(ブロンズ像)




前書き 「逆旅」              ??????  ?? 古賀 和彦


 私はいままで三十回の転居をしてきたので、有り体に言えば「時空を移動する旅人」
とも言える。そこで各時と各場所での我が人生行路のアンソロジーとして、第60号の
表題を「旅」にとしようと思った。
 『日本国語大辞典』、『字統』、『字訓』、『字通』等の辞書を牽いた結果、旅につ
いてのいろいろの関連する言葉を知った。
 旅路、行脚、漫遊、船旅、漂泊、道中、旅の空、道ゆき、さすらう・・・ドサ回りは
御免被りたいが、自分探し、模索、探求、リセット等の意味等々があった。そのなかで
特に気になったのが「逆旅(げきりよ)」である。旅の逆だから旅人を迎えること。また
その場所。
はたご。やどや。旅館。そしてまた、人はいずれ宿を旅立つことから、旅をするという
意味になった。
????????????????
?????????????????????? 甲骨文字の「旅」??

 そしてこの文字を含む李白の有名な漢詩があった。

白文(原文)
夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客。
而浮生若夢、為歓幾何。
古人秉燭夜遊、良有以也。
況陽春召我以煙景、大塊仮我以文章。
会桃李之芳園、序天倫之楽事。
群季俊秀、皆爲恵連。
吾人詠歌、独慚康楽。
幽賞未已、高談転清。
開瓊筵以坐花、飛羽觴而酔月。
不有佳作、何伸雅懐。
如詩不成、罰依金谷酒数。

書き下し文
夫れ天地は万物の逆旅(げきりよ)にして、光陰は百代の過客(かかく)なり。
而して浮生は夢のごとし、歓を為すこと幾何ぞ。
古人燭を秉りて夜遊ぶ、良に以有るなり。
況んや陽春我を召くに煙景を以てし、大塊の我に仮すに文章を以てするをや。

そもそも天地は万物を宿す旅館のようなものであり、(その中に来るものあり去るものあ
り)月日は永久に往いて帰らぬ旅人のようなものだ(いつまでも留ることはない)。

 今回の表題はこの文字『逆旅』だと思った。

◆表紙絵について

2010/9/9の日記より
僕の化身 「ステッキ」F091(ブロンズ像)

私はこのブロンズ像を銀座のデパートの作品展で見つけたとき、まさに今までの自分の
姿を見たように思えた。一度は家に帰ったが、矢も盾もたまらず欲しくなり、踵を返し
てその日のうちに購入した。この像にたいしての作者の命名は「ステッキ」作品番号は
F091である。Fというのは動物や人間や飛行機や船などのシリーズの一つの区分符
だろう。そして091というのはそのシリーズの制作番号と思われる。ここでも奇しく
も我が素数愛好家として
喜ばしいことに31番目の半素数(7×13)である。
私には電話番号や身近な数字に語呂合わせを考える癖があり、ことあるごとに考えて楽
しんでいる。例えば私の携帯番号は090−1210−7080であるが、語呂合わせ
では、
    無い苦労 人に言わないで(古賀は)七転び八起き
    大苦労  人に言わないで(古賀は)七転八倒

wikipediaより
語呂合わせ(ごろあわせ)とは、文字を他の文字に換え縁起担ぎを行うものや、数字列
の各々の数字や記号に連想される・読める音を当てはめ、意味が読み取れる単語や文章
に置き換えることを指す。電話番号や暗証番号、数学など元の数字列が意味する事象を
暗記する場合に使われる。
例えば
1564 :「人殺し」  893:「ヤクザ」   427:「死にな」
37564:「皆殺し」 18782:「嫌な奴」????37564:「皆殺し」
4649 :「よろしく」 0840:「おはよう」 14106:「愛してる」 724106:「何してる」
889??:「早く」   0906:「遅れる」   3470:「さよなら」

さて、「F091」に対する私の語呂合わせの考察は、『「F」という文字は「ヘルムホ
ルツ(自由)エネルギー(Free energy、大文字)を示す文字として用いられる』という
ことから導き出した結論が、「瘋癲(ふうてん)」。気がついてよく見ると「瘋癲の寅さ
ん」にそっくりなのだ。091という文字の語呂合わせは「悔い無し」故に「瘋癲(ふ
うてん)に悔い無し」。そして像の名前は「ステッキ」から「彷徨える次郎」に改名した
訳だ。




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