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TK師との会話

1TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

81ラピ。:2013/09/30(月) 23:26:07
☆滝沢たん

私の言葉もぶっきらぼうに見える時があるかもですが
単なる言葉ですのでよろしくです。

第2、第4の実践についての記事はいろんなところに書いてて
まとまってないかもですが
このスレッドでは38番から書き込んでます。

また「悟りを目指している方」のスレッドでは
111から書き込んでます。

あとブログでは第2の実践の状況をちょこっと表している記事があります。

「至る」
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1722.html


>1。自分は一切なくなりますでしょうか?
>2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?

えっと、私が書いたのは
「今まで自分だと思っていた自分」が消滅した
ということです。

そして付け加えると、その更なる自分がいた、ということです。

その更なる自分をどう表現していいか、、、。
いまだにできません、、、。

表現しようとすると、ただただ無心になってしまう
という感じです。

ちなみに至る前まで「本当の私」だと思ってた自分は
一般的に言われている「エゴ」と言われているものだったのだ
とわかりました。

それまで「エゴ」というものが
(いろんなところでその言葉をよく聞いてましたが)
どういうものかよくわかっていませんでした。

「それまで自分だと思ってた自分」が消えて初めて
「あ、これがエゴというものだったんだ。エゴが消えたんだ。」
とわかりました。

ちなみに第2次実践の時の私の言う「闇」も
いまだにどう表現していいかわかりません。
表現しようがないので「闇」と言ってます。

だから滝沢たんがその闇に対して表現できていることに
「ん?」と思いました。

>私の状態としては、2の方が近いと思います。
>自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。

そのただ起きて過ぎていっている自分を見ている「自分」
が存在していますか?

そしてもうひとつ。

もし至ってるとしたら。
そしてそれがつい最近のことだとしたら
ここまで その状況をすぐに明確に言葉には表せないと思います。

至ればそれまでと全く違う次元ですので、
私の場合その状況がどういうことなのか、
初めはただただ味わうことしかできなかったから。

本などで読んだ情報と照らし合わせて
「そんな感じなんだろう」という感じで表現されている感じがしました。

もし至ってしばらく経っていて
その状況に慣れていらっしゃっる方の表現だとすると
それもありなのかなと思いますが。

@(*・ω・*)ポッ

82ラピ。:2013/09/30(月) 23:35:21
☆TK師

ありがとうございます!

確かに実践の動機は
「まずは私を使っていろいろ実験して
みんなが使える方法を開発するのだ!」
でしたが
実践してる時はそんなことも忘れてひたすら実践でした。

その動機により、決めた実践をひたすらやってました。

決心したら ひたすら実践です@(*・ω・*)ポッ

83TK:2013/09/30(月) 23:47:52
滝沢さん

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。

可能性は強いですよ。


>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、
>自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。


ただ、ここで曲者なのが次の部分。

>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

ただ、光の存在に体験させられただけみたいにとれるのです。

なぜかと言うと、

>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

光をあなたの意志で消し、さらに真っ暗な虚無に突入したと言うのであれば、
あなたの取ったプロセスがヒットしたと言えるのでしょうが、
そのように思えないのですね。

でも、貴重な体験であるとは思います。

これからの、あなたの進むための手掛かりになるのではないでしょうか。

また、同じような経験が踏めると良いですね。

84滝沢:2013/10/01(火) 06:43:29
おはようございます。
TKさま

私の一過性なる体験談に付き合っていただき、
色々なご意見ありがとうございます。

それそのものであり、それから意識と思考、世界が、ただ起きていき消えていく無限ループ三昧で、
今自分の状況を説明できる状態にはなくなっています。

また機会があればお邪魔させていただければと思います。

失礼します。

85TK:2013/10/03(木) 07:06:46
エゴにはエゴを増強する作用の悪玉エゴと、
エゴを減らす(殺す)作用の善玉エゴの2種類があるのです。

方向的にヒットしているのではないでしょうか。

ちなみに私は自然が良いなどとどこかの間抜けみたいな事は言いません、
無理やりこそが鍵なのだと説く者ですから。

釈迦も「激流」だと説いてましたが、
「緩流」に対する「激流」とはそう言う事ですよ。

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。


>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

読解力を駆使してみましたが、これが恐らく次元上昇のプロセスですね。

光はあなたが確認しているので自他がある、
つまり恐らく一般的にコーザルと呼ばれている次元なのでしょう。

>瞑想中に無、空と一体でいる

つまり、この段階ではまだ、無、空では無く残り物(形態)があるのです。

光が出た後に光が消える、これも次元上昇のプロセスです、
実際はこの光が消えた後が「形」を突破した「一体(合一)」と表現できるプロセスになると思います。

その後は、プロセス的には空間が滅び去る段階へと続きます。

経験できたプロセスを手掛かりとして、
繰り返しトレースできるように心がけると良いと思います。

やがて、自我が消滅します。

肉体はメンタルが物質化したものと考えるとちょうどいいようなものですから、
実際はメンタルの変化に応じた肉体の変化が出てこないと、
メンタルもしっくりしたものにならないと思いますが、
肉体は物質なのでメンタルと違って変化に時間がかかり、
その間メンタルは低次元に縛られますから、繰り返しの鍛錬が必要です。

86滝沢:2013/10/03(木) 12:35:03
TK様

ご教示ありがとうございます

長い時間、頭を使おうとすると、締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

今は、自我の思考も含めた体験が起こり、消えていく。
生活していて楽になったという思いが出てはそれも消えていく。
というような無限ループです。
そのループがあたりまえになってきて、大分余裕になったという思いが出て消えていく。。
こうして書く事、表現する事自体に無意味さを感じ、TVを見るようにただ見ている聞いている方が楽に感じます。

ここ数日で気づいたら何かがシフトしており、自我が主人公となる事は無くなっており何かやろうという意味込みを作る事も難しくなってきています 頑張ればできるのですが
起こった事をただこなすのが楽で良いです。
今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、ただ座ろうと思います。

また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

失礼いたします。

87TK:2013/10/04(金) 23:25:15
>行為者がチリとして残っていることも事実です

エゴがあるという事ですが、しかし、
そのエゴが究極に向かうためには推進力として使えます。

>長い時間、頭を使おうとすると、
>締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

そのスタンスが良いです。

ここまでくれば、いい線です。

ラピ。さんにした指導と同じに言えますから、常時、
頭の中を空っぽで居るようにして下さい。

憶えておかなければならない事とかは、紙とペンを使って、筆記して、
度々見るようにして、頭の中はそう言う事も含めて常に一切空っぽにするのです。

あなたの前には先人が二人、私もラピ。さんも歩いた道です。

ここは、受け売り知識ではない自分の経験の話しをする場ですから。

ここでは「理解は低次元な行為」なのです、「理解を捨てて下さい」、
誤認覚者は「理解したことで悟ったと勘違い」している人たちですがあなたにはこの事が通じそうですね。

ラピ。さんはあなたと違って、
瞑想ではなく公開はできませんがあるヨーガの技法を利用したのです。

これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

感情の無い力のこもらない、まるでロボットのような動き方や話し方、
全体として意志の無い生きる屍のようなと表現するとちょうどいいような動き方になります。

感情の無いロボットのようなシンプルな行為です。


これは、至る前の人は思いに基づき行動をし思いに基づき対話をし、
このように全て「思い」に基づいて行為をしている、
その行為の元である「思い」を捨てる事により全ての動きが出来なくなることに起因しますが、
やがて、至った後には、
「思い」に基づくどのような行為より優れた瞬間的な行為がそれにとって代わって出現します。


>今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、
>ただ座ろうと思います。

ちなみに、ヴィパッサナ等の日常生活を利用した実践はしてないのですか。

釈迦も教えてますが、こちらにも重要な価値があるのです。

>また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。

悲しいマインド程度で良かったですね、
私は瞑想時には開けてはならないパンドラの箱を開けたがごとく、
幼いころに負った罪悪感のトラウマが巨大な怪物の形となって来る日も来る日も私に襲いかかり、
感受性は極めて鋭敏になった危険な状態で、
ポルターガイスト現象なども発生し、逃げ場の無い地獄の日々を耐え抜きました。

頑張って下さい。

日常実践は至る方法としては重要なウエイトのものです。

やるかやらないか選択肢の問題ですが、
私はそれをやらないわけにはいきませんでした。

なぜなら、
その時の私は肉体としての自分では無く精神体としての自分を生きていたからです。

修行のステージを上げて行くと言うのはこういう事を言うのです。

88ラピ。:2013/10/05(土) 04:36:25
☆TK師

師匠、いろいろありがとうございます。
補足させていただきます。

私のそのヨーガの技法は第2の実践なのですが
これは起きている間中ずっとしていました。

もちろん、普通に生活してましたので
(山に籠ったりはしてません(笑)
ご飯を食べてる時も、仕事をしてる時も
何かをしてる時もずっとです。
それが実践です。例外なしの日常での実践です。

この実践により、私は闇に放り出され
自分が消えそうになりました。

実際、消えた瞬間がありました。

でも完璧に消えることができませんでした。

ただ、この時に得たものが「からっぽ」でした。

でもこのからっぽも簡単に得た物ではありません。

闇から帰ってた時に、精神と体が分離した状態になっていて
今までどうやって体を動かしていたかわからなくなってました。

ちなみに闇に突入する前にも分離した状態であり、
(第1の実践で自分が否定さる出来事があり、どん底状態でした。
そこから第2の実践が始まりましたので)
日常の生活をするのが常に意識的でしかできなくて
(そうでないと、腕一本、あげることすらできなかった)
常に実践せざる得ない状況でありました。

ただ究極の消える体験をしてからは、その実践ができなくなりましたので
ただただ、相対的世界(此岸)に一生懸命帰ってきました。

ちなみに究極の消える体験の前も
何度も消えそうになる体験はしています。
それでも実践はやめなかったので究極の消える体験までいきました。

究極の消える体験をしてからは
赤ちゃんに戻って全ての行動を一からやり直していく感じでした。
そうやって帰ってきました。
ある意味、一度死んで、生まれ変わった感じですかね。
「私」をもったまま それを体験した、という感じです。

この一からのやり直しのおかげで
「私」はまだいましたが純粋に行動することができるようになりました。

(普通、赤ちゃんから成長してすべてできるようになるのは
いつの間にか だと思いますが
この時の新たなる私の誕生の時は
「私」があるままで全てを始めました。

ひとつひとつの行動を「私」が存在しているままできるようになっていった
という感じですかね。
無意識ではなく、意識的に、という感じです。

赤ちゃんの頃は「私=エゴ」はある意味いなくて
いつのまにかできるようになる感じ、
気付いたらできていた、という感じですよね。

私の場合、「私」という意識を持ったまま生まれ変わった経験ができた、
という感じですかね。

1つの行動があたり前にできるって、
ほんと実はすごいことなんですよね。
それがどうやってできるようになったのか、
考えてもわかりませんよね。)

今できる当たり前の行動を
ひとつひとつ、意図的にするようにしたらわかるのですが

私たちは実は何もしていなかった。

無意識に思考のまま生きていたのです。

そして赤ちゃんの状態から「私」をもったまま歩き始めて
思いに頼らない動き=純粋なる動きができるようになりました。
=からっぽです。

ただし、まだ「私」はおりました。

そのからっぽは「私」が意図しなければ空っぽではなかった。
その意図する私がまだいた。

私は「からっぽ」そのものではなかった。
その「からっぽ」そのものになることが悟りであるのだろう、
と直感的に思いました。

それになるために、最後の激流を渡る決心をし
それを達成しました。

からっぽなる私を超えて
からっぽそのものになりました。

@(*・ω・*)ポッ

89滝沢:2013/10/05(土) 16:19:50
TKさま、ラピさま

愛のこもったメッセージありがとうございます。
色々とありがとうございます。
メッセージからくる波動に、ただただ、感謝です。

ご返信しようと色々書いてみたものの、
どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

すいません。表現できず。。

失礼します。

90TK:2013/10/06(日) 08:48:47
滝沢さん

>ご返信しようと色々書いてみたものの、
>どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

まともな実践とはそういうものです。

質問すら出てこない。

なぜなら、質問も疑問も捨てられてしまうのですから。

私は今まで対話のピンポン遊びをやってる、
自称実践者といういかがわしい事をして遊んでいるエセ実践者を多くみました。

あの者たちは、
低次元のアストラルと言う次元での住人として楽しんでいるのですが、
絶対にあの者たちがそれより上の次元に上がれることはありません、断言します。

生きているうちよりあの者たちが死んだ後にその違いは明らかとなります。

あなたには分かるでしょうが、あの者たちの善も悪も無いと言っているのと、
私が善と悪が無いと言っているのは、表現だけは同じでまるっきり別物です。

それを知っている我々は、釈迦もそうでしたが、あえて善も悪もあると言うのです。

ただ、似非賢者の特徴は善も悪も無いと説きますから、
この辺が判断基準になるところです。

我々は善と悪はあると説きます、似非賢者は善と悪は無いと説きます、
なぜこのような違いが出るかと言うと、
我々は善と悪を無くするための善と悪の利用の仕方を知っているからです。

似非賢者はこれを知りません、ですから、
本からの受け売り知識しかないので善と悪は無いと理屈をこねまわして説いているのです。

しかし、真実は理屈が無いから善も悪も無いのですが。

私は実践時に幽体離脱と言うツールが使えましたので、
どんな実践をすると肉体を抜けた後はどうなるか、
繰り返し繰り返し確認する術がありましたが、
肉体と言う異次元交流のための便利ツールをまとっていると、
違いがはっきりしませんが、死んだ後には大違いです、しかし、
その時には後の祭りです。

あなたは、確実に次元上昇のプロセスを上がっている、
アセンションを果たすべく本物の実践者です。

次元上昇による行動方式が変更される過渡期はあなたのようになります。

これが本当の次元上昇です。

マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

あなたのような本物の実践者のために我々がいるのですから。

エセ実践者は、
目的が違いますから自らの誤認による覚者と戯れているとちょうどいい、
その二つがバランス的に釣り合うものですから、
両者ともそれで楽しい時期なのです。

堂々巡りを回っていても自分たちもそれで楽しいのですから、れはそれ。

「理解」と言うキーワードで結びつくのが、誤認やエセの結びつきですが、
本物は「理解と言う低次元行為をすっかり捨てて」合一に向かうのです

「理解を捨てて」、
この一言はあの酔っ払い(恐らく死ぬまで)の人たちには通じないキーワードなのです。

私は激流の実践時は「理屈」はすべて捨てました。

我々本当に次元上昇した者は「理屈」がありません。

今ここで述べているものも、
聞く者にとって理屈でも我々にとっては「理屈」ではなく、ただの言葉なのです。

これが次元の違いなのですが、エセ実践者も自らの誤認による覚者も、
本当にこれが分からない。

好きで酔っぱらっているのですから、
それはそのまま構わないでおくことが賢明なのでしょう。

エセ実践者ばかりを目にしてましたので、
あなたのような本物の実践者を見るとこちらもうれしくなります。

91TK:2013/10/06(日) 09:16:06
地獄と言う表現について、なるべくわかりやすい言葉で説明するならば、
一例で言えば悪いことをして刑務所に入るのにかなり似ていますね。

実際は恐らく刑務所などと言うそんな生易しいレベルのものでは無いと思いますが、
しかし、規則正しい生活を送らされてお勤めをさせられる、
禅寺などの修行環境と、刑務所はどこか似ている点があると思います。

そもそも刑務所も、人間を修養するための施設の一つと言う意味では、
似ていても不思議ではありません。

私が激流や地獄と表現するものは、
これらの機能をさらに倍増させたようなものなのです。

よく、囚人生活の映画とか見たことがありますが、
実際は刑務所と言えども懲役で働かせられているだけではなくて自由時間もある事でしょう、
しかし、これに対して私が激流や地獄と言うものに対しては、
就寝時以外の意識のある限りは、マインドに自由を一切与えない、
このような実践になります。

標準的な人間の感覚なら、
マインドのままに自由にできる時間を自由時間とか休憩時間とか表現していますが、
それを一切自分の生きている生活の中から排除するという事を指します。

マザー・テレサは愛の反対は無関心であると言いましたが、
この意味をさらに詳しく解説するなら、
自分のマインドの動きに無関心で居てはならないという事なのです。

至る前の人間は必ず、遭遇する出来事に対してマインドが動きます。

無視してもマインドは動いているのです、なぜなら、その「無視」そのものが、
既にマインドが動いているという事なのですから。

本当に至った者の辿り着いた状態としての無関心は、無視すらしないのです、
一般の人には逆立ちしてもこのような事は出来ません。

善と言う判断が僅かにでも起きたなら「必ず」無視しないで実行に移しなさい、
悪と言う判断が僅かにでも起きたなら必ず無視せずに絶対にそれをしてはいけません。

就寝時以外の意識のある限りにおいて常にこれを実行しなさい。

これ本当に口で言うのは簡単ですが、実行に移すと偉く困難性の高いものなのです。

肉体上の行動の自由を規制するのが刑務所なり禅寺などの修養機関であるとすると、
更に突き進んで、
メンタルの自由を就寝時以外の意識ある限り規制するのが激流の実践なのです。

更に激流の実践では善とマインドに僅かにでも浮かんだら、
100パーセントの行動を起こさなければなりません。

つまり、マインドも、行動も生きている生において一切の自由が無い、
これが実践の真実です。

刑務所は生易しいと思いますよ、
いくら行動を規制されても大元のマインドまでは規制されませんから。

所が、大元のマインドを自らで100パーセント規制したら、
行動の自由も一切ありません。

つまり、行動、メンタルともに牢獄の中という事です。

この実践で重要なのは例外無しの100パーセントと言う言葉にあるのです。

生きている意味が無いと感じますよ、でも、
それが至ると生きている事の最も重要な意味だったのだと言う事が分かります。

至った我々には生きている意味はありません、
この状態で楽々生きているのです。

至る前の者は変な所は真似せずに、
このような所こそ至った者の真似をしなければならないのです。

一般の人には意味なく生きる事はこの上なく苦痛です、
至った我々はそのような状況に常に楽々生きていますが、
これが次元の違いからくる苦痛なのです。

この、「意味なく生きる」事こそ真似して、
そのことから受ける苦しみを充分に味わって下さい、
それこそが真実の「激流」の実践なのです。

92ラピ。:2013/10/06(日) 11:40:42
TK師 滝沢さん
貴重なお話、いつもありがとうございます!

私がかつて実践していたときは
はじめは何も疑わず、自分を信じての実践でした。

そのあと、信じていた自分が信じられなくなる出来事がありましたが
それでもあきらめずに実践を行いました。
(ちなみに至ると 信じてた「自分」は消えます)

実は「師」はいらないと思ってました。

、、、本物の師なんて いない って思ってました。

だから自分だけで長年歩いてました。

TK師に初めてメールをしたのも
師匠を探していたのではなく
私が今どの位置にいるのかを知りたくてコンタクトしました。

でも最終的にTK師は「本物」であると確信しましたので
師を信じ、激流に飛び込みました。

実践中にいろんな疑いが出てくるかもしれませんが
それはすべて「エゴ」の声で
もし、その声に従って疑問をもって実践がおろそかになってしまったなら
それこそ、「エゴ」の思うつぼです。

だからひとつのことを決めたならどんなことがあっても
最後までやり通す、できなくなるまで続ける
くらいの決心が必要です。

ひたすら清き道を進んでください。
疑う時間を持つ暇もないほどに。

大丈夫です。

清き道を歩かれているすべての皆様。

@(*・ω・*)ポッ

93滝沢:2013/10/06(日) 18:46:40
TKさま、ラピさま

精妙なニュアンスに共感いたします。
何も言えないです。
ただ、受け取らさせていただきました。

失礼いたします。

ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
そのままコメントしないでおこうと思います。
掲示板は毎日チェックさせていただいておりますので。。

94TK:2013/10/06(日) 19:30:11
滝沢さん

>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

もし、
あなたに対してのコメントであるとあなたの中に判断が起きた時にはコメントは返してください。

理由は分かるでしょうか。

あなたの徹底できていない部分の実践が、
ここで明らかになったのです。

あなたは、あなた独自の意思表示について、
非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。

あなた独自の意志表示をしてもらっては実践上は駄目なのです。

この場合はコメントを返さない事があなた独自の意思表示となってしまうのです。

至った我々には意志と言うものがありません。

しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

「緩流」では無く「激流」であると言う意味は、
細かい部分に至ってまで神経質なほどに見逃してはならないという事です。

95TK:2013/10/06(日) 20:08:54
滝沢さん

>至った我々には意志と言うものがありません。
>
>しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

この件について少し。

マタイの福音書 5章39-42

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
>
>あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。
>
>求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。

イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。

紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。

>ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

マインドを働かせすぎです。

ラピ。さんから掲示板が汚れて迷惑とでも言われましたか。

これは紛れもなく、あなたの保身混ざりの妄想(マインド)です。

丸見えですよ。

96滝沢:2013/10/06(日) 23:57:50
tkさん
愛をありがとうございます

そうですね。状況書いてみようと思います。
さらなる激流現れてきません。
自分を意図的にいじめられなくなっています。なので生活を淡々としていく感じです。
頭はからで意識は頭上遠くに拡散されております。
完全にぽっかりサハスラーラ大きく空いている感じです。
体も虚無の真っ黒な空間に感じられます。実際に視界に入れば肌色です。
自分の思考が来てもどんどん高速に過ぎ去って行くように感じられます。
道の真ん中に立って車が200キロぐらいで頭の中をヒュンヒュンと通り抜ける感じです
自然の素晴らしさに関しては全身で愛や慈悲を感じ、散歩中に自然をじっと見ているとサマディ起こります。

97滝沢:2013/10/07(月) 06:33:06
tkさま

あのメッセージを書き込んだ後、
体に震えがおきまして、
一晩中意識がどこにあるかも分からず、
体は死んで思考も死んで、あの虚無空間の中ただいる中、
虚無空間そのもので、赤ん坊のように丸まって過ごしました。
まさに赤ん坊のように丸まるのが一番落ち着き、必然的にそうなりました。

いくつか意識がある時の感覚を思い出せます。
虚無空間に対する恐れ
お腹の中が洗濯機でグルグルかきまわされて気持ち悪さ。
頭の中は光の高速な点滅、もうろうとする意識。

2、3時間は、眠りについていたようです。
幸いな事に眠くありません。

虚無空間にこれほど長くいたのは初めてです。
理解を超えた体験でした。

98滝沢:2013/10/07(月) 06:52:03
tkさま

私にメッセージを出すよう促していただいた事、感謝いたします。
メッセージを読んだ時に一つのリミッタが外れ、震えの後、虚無が一気に吹き出したたように感じました。

99TK:2013/10/07(月) 07:15:47
滝沢さん

私の言葉に反応が起きるのは、あなたにはまだ確実に、自我があるという事です。

この残った自我こそが、
激流を渡るイカダの正体ですからうまく利用しないと駄目なんです。

私に出会う前のラピ。さんの段階に似てますね。

自我が少なくなってかなりの楽が実現できているのです。

ラピ。さんは私に会う前にその段階で、悟ったと誤認してました。

とにかくまずは空っぽを確実なものにして下さい。

それと、実践できる限りは実践するという事です。

本当に激流を渡り終えたら、実践はいくらやりたくても不可能になるので、
ラピ。さんのように

おのずとわかります。

今のあなたの段階でも充分に楽は実現できている、
その先に進むかはあなたの問題です。

ラピ。さんは進みたいと言う強い意志がありましたから。

100ラピ。:2013/10/07(月) 07:40:20
みなさまおはようございます!

☆滝沢たん

掲示板に書き込むことで気付くこともあると思いますので
どうぞ、思うものがあれば書き込んでね。

ちなみに彼岸の前には必ず激流があります。


☆TK師

そうですね。
ということは滝沢たんは今まさしく
チャンスの時、ということですね。

@(*・ω・*)ポッ

101滝沢:2013/10/07(月) 09:18:56
自我をイカダに激流を乗り越え至るですね
了解いたしました

102TK:2013/10/13(日) 11:01:39
私は決死の状況で激流を渡ったが、
はたしてこのような道を他の者が渡れるものだろうかと思った。

何人もの自称道の者と言う者たちに出会ったが、どれもこれも、
私が折角命がけで見つけたものだったが、
いつしか私はもう誰にも道案内などしなくて良いと思っていた。

しかし、少なくとも一人道案内したら至ったんだ、
だからもう一度ここで少し話をしてみている。

ただし、至れる者とそうでない者の違いで気が付いた部分がある、
三止三請と言う言葉を聞いたことがあるが至れる者と言うのは
私が教えないと言えば三度でも四度でも教えてくれと迫ってくる者だ。


大パリニッバーナスッタンタ3・40(ブッダ最後の旅)
>もしお前が修行完成者に懇請したならば、
>修行完成者(=ブッダ)はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、
>しかし三度まで言ったならば、それを承認したであろう。


それくらいの意志の強さの無い者には、教えても無駄だと言うことが分かった、
これは「激流」なのだから、
意志の強さの至らない者は「激流」の流れの方が勝って流されていく。

私は本物の「激流」を説く者だ、
あちらこちらの「緩流」で一生涯賢者ごっこを続けたいような者に私は用はない。


マタイの福音書 16章21-23
>その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、
>律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、
>そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
>
>するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。
>「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
>
>しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。
>「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。
>あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」


ヨハネの福音書 13章8-9
>ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」
>イエスは答えられた。
>「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
>
>シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」


「あなたはわたしと何の関係もありません。」はすなわち
「下がれ。サタン。」と同じ言葉として使われている。

ペテロと言う人物の中に住んでいる者がイエスから「サタン」と呼ばれている者だ。

そして、それを釈迦も「悪魔」と呼んでいた。

実は私が実践者だった頃に、私はペテロと言う人物とは違って、
イエスに言われるまでもなく自分で自分の中の「サタンと言う者」を見抜く精度の目があった。

つまり、ペテロがここで述べたような事は私は他者から指摘されるまでもなく、
自らで出来なかったという事だ。

このペテロの言葉の中のどこがサタンだと言うんだと思う者も多いだろう、
私ははっきり言うが、そう思う者が既に「サタンという者」に乗っ取られているからそう思うのだ。

「サタンという者」に自らを乗っ取られていて、それを自分だと思い込んでいて、
さらに気持ち良いとか言っているんだ。

これは、私が述べているみんな次の内容にかかってきているものだ。

>イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。
>
>紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。


他者の意志を自分の独自の意志表現で妨げてはならないという事だ、
これをペテロと言う人物がやった、
だからこの者は「サタン」に乗っ取られた者とイエスから呼ばれた。

イエスが盲人に手引きをさせないのは、
この盲人の独自の意志表現がイエスが話した「サタンという者」に乗っ取られた行為になるからだ。

至った我々に意志はない、すなわち、このようにならなければ、
語る言葉には細心の注意が必要なのだ。

>「あなたはわたしと何の関係もありません。」「下がれ。サタン。」

(続きます)

103TK:2013/10/13(日) 11:02:20
(続きです)

以前も自称道の者と言うバカな者に、あなたの表現するそれは「識別」ですとか、
間抜けさらけ出しまくりの、
ヨーガやってるとかインドで習ったとか言うエセ実践者がいたが、
その者こそ私に対しての独自の意志表現すなわち「サタンという者」に乗っ取られていた。

私と対等に議論などしたら、カルマを背負うのは相手だけだ。

イエスの説いた「従順」の実践、
この実践を私がやっていた時に時々私をある種の不安が襲った。

私は自ら進んで私の持っている個性とか独自性とかオリジナリティーとかアイデンティティとか、
そのようなものを完膚無きまで意図的に意志を振るってことごとく徹底的に私の中から潰して排除する行為をしているのだが、
このような方向性の道を歩んでいる私はどうなるのだろうか、
「このままでは私は私で無くなってしまう」。

しかし、
私には進むしかなかった、私には「サタン」を見抜く目が与えられていたからだ。

「このままでは私は私で無くなってしまう」この声がサタンという者の声だと私には見えているのでこの声を無視する、
すなわち進むしか手が無いという事になる。

「サタンという者」と一緒にいて、
それで良しとして気分が良いと言うものたちの私には気がしれないがね。

私の話を聞いて進む者は、
私と言う結果を見て実践するのだからまだ進んでいく事にためらいはないだろうが、
私の場合は文字通り自分自身を実験台そのもので率先して個性、独自性、
アイデンティティなるものを自らで片っ端から徹底的に潰していくと言う行為は私には非常に恐怖だったよ。

ただし、「私はとても大変だった」、この表現は好ましい表現なのだ、
大変な環境が作り出せれば作り出せるほど、
激流度合いが増して早く渡れる事に繋がる、
知っててやるより知らないでやる方が激流度合いが増して早く進めることになる。

このような理由から、有能な指導者と言うものがもしいるのなら、
理由を説明せずに理不尽を無理やりやらせる、
このような手段を取り入れる事だろう。

大変(激流)を避けて通りたい者など、
所詮、彼岸(神の国)へのアセンションは無理だからやめておくことです。


マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

ここで述べた実践がイエスの説いた子どもたちのようになるための実践にあたります。


あとネット上でエセ賢者とエセ実践者も良く目にしたが、彼らの特徴は指導する、
それを受けると言う事を利用して、
その正体はその場の雰囲気を楽しんでいる者たちだった。

そして、時々、自分たちはこのような真理を学んでいない多くの者たちと違って、
学んでいる分だけ優れているんだ的な無意識の固定観念を自分自身の中に宿している。

エセ実践者とはこう言うものだ、しかし、
真実の実践とは私が何度もここで話している通りで、
この自分は世界の中で一番劣った者で他は全て自分より優れた人たちなのだと言うポジションこそが、
アセンションの入り口なのだから全く違うのです。

エセは善も悪もないとか言っていますが、これも、本質とは全くの別物で、
至った後の賢者の状態をあの頭の悪い人にわかるようにカスタマイズしなおすと、
善の想いも、悪の想いも、善も悪も無いと言う想いも、
そもそも「想い」そのものがないと言う意味なのです。

善も悪もないと言う想いを抱けなどと、誰も説いていないのですよ。

善も悪も、善も悪も無いという想いも無いと説いているのです。

エセ賢者が「理解」を説くが、これはエセと言う証です。

最終的に「理解」は消えますが、
実践段階でも「理解」無く進む事に優れた価値があるのです。

104ラピ。:2013/10/13(日) 23:24:41
☆TK師

いつもありがとうございます。

私の通った道も、どの瞬間も気を抜かず、抜けず
必死の道でした。

ある意味、「エゴ」との勝負です。
エゴに自由にさせる時間は全く持たせず、
徹底的にやっていくのです。

この道は簡単、楽ちんではありません。

自らその選択をする人だけが
誰かに何も言われなくてもその道を選んで進んでいくのだと思います。

彼岸の前に激流があると言われていますが
まさしくこれは激流です。

彼岸に渡ろうとする者に対して 
大きな抵抗が彼岸の前に立ちふさがっています。

でもあきらめなければ門は開かれます。
あきらめればそれで終わり。

本気で真剣に実践してる人にとっては
「あきらめる」という選択はできないと思いますが。

ちなみに師とのかつてのやり取りについて
参考になるかもしれないのでちょっと書いてみます。

初めの頃は 自分のそれまでの「知識」というもので
師にメールしていましたが
それらはことごとく否定されてしまいました。
(ちなみにこの知識は必要ありません。
道の妨げになります)

いろいろ否定されて、何がなんだかわからなくなり
どうしていいかわからなくなりました。

最終的には
「あの、私わからなくなりました。
どうしたらいいですか?どうしたらいいですか?」
という言葉になりました。

師は「本物」である、という直感がありましたので
師を信じて実践することにしました。

今までの知識をすべて捨てて一からのやり直し。
まさしく何も知らない一番低いものとして実践させていただくと決心し
やりとげました。

@(*・ω・*)ポッ

105TK:2013/10/14(月) 18:31:49
マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。


誰も子供時代が無い者はいません、つまり、
成長する過程でだんだんとカルマの世界にはまってくるという事です。

「子どもたちのようにならない限り」、
ここからわかる事は科学さえ進めばこの世界全体の次元上昇は可能だと言う理論も浮上してくることになるかもしれません。

つまり、生まれた最初は良かったのに、
成長の過程で低次元になってくるという事なのですから。

まず、生まれてくる子供に罪はないと言いたい所ですが、
貧困地域に生まれる子供もいれば、裕福な資産家の家に生まれる者もいるし、
人には生まれながらにして差があります。

カルマと言うものがあるとして、そのほとんどがどのような環境に生まれるかで、
決定づけられると言っても良いです。

例えばどこに行っても虐められる者がいるて、
虐められない者はどこでも虐められないと言う現象がある点を捉えれば、
虐められる者の中に虐められるための原因があると考えるのはこれ以上無いくらとても科学的な考え方です。

人の一生の幸、不幸を左右する性格はほとんど全て生後に親から収集したものです。

つまり、どの親の元に生まれるか、
カルマと言うものがあるとしたらここでかなりの部分が決定づけられます。

エゴの無い子供の段階からどんどんとエゴを収集して、
幸福なあるいは不幸な人間になって行く。

子は親の背中を見て育つとか、三つ子の魂百までもと言う言葉がありますが、
これが一生を左右していく事になります。

私などの悟った人間であったとしても、出力形態としての行動パターンはやはり、
親から収集したようなものが基本となっています。

これは、日本人であれば日本語を出力して表現するのと同じことで、
悟った者も何らかの行動パターンで行為を出力する以上、
その基本は親から収集したパターンで編成されるという事になると思います。

ただ、収集元の親との大きな違いは、
悟った者の場合はあくまでも仮の出力形態でしかないという事なのです。

私はこれを疑似エゴイズムと呼んでいますが、
即ち行為はあくまで我々の仮の姿なので状況に応じてパターンの編成は自在と言う意味です。

ただし、
悟る前の者は親から授けられたそれそのものの狭い中で右往左往するしか手がありません。

親を呪ったところで仕方がありません、
もっと親が金持ちだったら自分はこんなに苦労しなくてよかったのにとか、
親がもっと出来た人間だったら自分はもっと良かったに違いないとか、
あんな親のようにはなりたくないと反発しながら、その、
反発を通して親と同じ特性を身に着けて行くと言うエゴの特性があります。

自分は親とは全く正反対だと思っているのは本人ばかりで、
思考のパターンはほとんど親と同じようになって行きます。

まず、実践者の取らなければならない第一の方法は、
自分の「理想」と言うものをしっかりと持ち、
それの実現に向けて精一杯生きる事です。

親と話し合いと称した議論するも良し、対立する事もあるかもしれませんが、
そうやって、「理想」を精一杯生きてみることです。

これがすなわち「ワクワク」の次元の実践段階です。

(続きです)

106TK:2013/10/14(月) 18:32:26
(続きます)

「ワクワク」は私が見る限り低次元アストラルで、
釈迦やイエスの教えのレベルと比べれば、それより遥かに下の次元の内容です。

物事には順番と言うものがあって、
この「ワクワク」と言う低次元の段階を精一杯やりもしない者は、
その先には進む事はできません。

その意味で「ワクワク」と言う低次元の段階の実践は必要な実践という事になります。

ここだけはスピ系は当たりだったと思います。

自分の親から与えられた「エゴ」のコマを充分に利用して「理想的」な生き方をしてみるという事です。

釈迦やイエスの教えは、「ワクワク」の実践を終了した段階の者のための教えです。

もちろん当人は釈迦やイエスの教えの実践に入るまで、
自分は親とは正反対だと思い込んではいるのですが。

ワクワクの次の段階に進んだ者の実践内容を記します。

マタイの福音書 15章4
>神は『あなたの父と母を敬え』、
>また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。

反発する事で同じエゴを収集して来たのですから、
「従順」にする事によってエゴが解けていくのです。

エゴの中にいる人にはこの理論分かりませんね。

この実践をしていると面白いように、
自分の反発は親の特性とそっくり同じであったことをまざまざと思い知らされます。

この実践では親に神をオーバーラップさせて、敬い従順を実践する形となります。

親に対して馴れ合いでは無く、礼儀を重んじた他人行儀の接し方となります。

自らの中のエゴを落す手段は、
自分の外の人のエゴを利用するしか手が無いと言う原理があります。

即ち、自分にエゴをふるってくれる人が居なかったら、
自分の中のエゴは落とす事は出来ません。

自分に対してエゴをふるってくれるその振るわれたエゴに対抗せず、
従順に接する事によって、エゴは落ちるのです。

これはすごく科学的な理論です。

「従順」と言う行為そのものが、
「対抗」があって初めて成立する相対の原理でエゴを減らす作用の善玉エゴですから。

これは、本当に凄い実践でしたね、親からも気持ち悪がられるし、
反対にやめろと言われるし、
それでも実践は最優先なのでこの場合は実践を優先していいのです。

「従順」の実践中であったとしても、方向性のぶつかり合った選択肢の場合は、
優先順位を付けた選択と言う手段が許されます。

実践者を続けたければ実践は命に代えても最優先事項です。

親を神のように敬い他人行儀に礼節をもって従順にするたびに、
親のこの性格が自分の中にもあった、親のあの性格が自分の中にもあったと、
次々と親から収集した自分の性格の客体化が自らの中で起きてきます。

間違ってもこの実践の際は、駄目親と言う判断は許されません。

どんな親の行為に対しても神として敬い従順です。

実践とは「激流」なので、当然危険も付きまといますし、
アセンションを志す者はそれを自己責任でやってもらうしかありません。

いやなら、アセンションはあきらめる事です。

このような奥義の数々を、気安くさらしていいものかとも思うのですが。

この先を、どうしてもという者は、メールという事になりますが、しかし、
それほどの志の者がいるとも思えませんし。

危険な部分も無いような行法など、
真実の行法とは言えないしそれをあえて仰々しく「激流」などと呼びはしません。

聖書というものがほとんどどこの書店でも売られていますが、
あれを真実に解釈できたなら、
あのような危険な本を良くどこの書店でも置きますねの話しになると思います。

つまり、いかに真実は何も伝わっていないという事を指します。

至った者は至れるような読み方をしているわけですが、
至れない者は至れるはずの無いような読み方をしています。

本質的にあの聖書に記載されている実践法をやれば誰でも至れるはずなんですが、
ただし「激流」です。

イエスは磔にされましたし、踏み絵を踏めなくて拷問にあった者も過去に居たし、
この「激流」と言う言葉は生易しいものでは無いと言いたいのです。

107実践マン:2013/10/15(火) 19:55:58
TK先生

上記のお話、たいへん有難いです。
親に反発して、自分の理想を実現しようと気のすむとこまでやりました。
今は、親に従順であろうと奮闘中です。

一年ほど前に親の満足する家(親の近所)に引っ越しました。
それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。
それがきっかけで、エゴが出てこないように、他人行儀な態度に変わりました。
介護をする覚悟です。

時々、親と主人との意見が割れます。
基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。

108TK:2013/10/15(火) 22:23:45
実践マンさん

>それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。

何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?

ここが問題なのです。

これ次第で私の回答が変わるのですよ。

109実践マン:2013/10/16(水) 05:04:04
TK先生

ありがとうございます。

>何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?

他の家族のために、私がこの怒りをおさめなくてはならないと感じました。
「私の」親と思うと怒りを感じたので、他人と思い、甘えを無くすようにつとめました。
他人と思うことにより、感謝の気持ちが出てきました。
再度、怒りの気持ちが湧くこともありますが、親がいてくれるからこそ怒りが湧くことに感謝しています。

110滝沢:2013/10/16(水) 07:04:40
TK様、ラピ様

ご無沙汰しています。

突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。

ラピさんの至った後のおっしゃっている事がよく分かりました。
また、TKさんの自我への考え方がよく分かりました。
お二人の愛に感謝いたします。

今は、子供のように、淡々と平穏な生活を送っております。
本当に普通で、戻ってきたという感じです。

色々とありがとうございました。

111TK:2013/10/16(水) 18:05:46
実践マンさん

>時々、親と主人との意見が割れます。
>基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。

実践マンさんの場合理屈の範疇で生きてますから、
実践と言っても理屈で解決する実践ですね。

どちらと決めてしまうよりも、状況に応じてという判断が的確だと思います。

理屈で解決できなくなったその時には、その先の進み方がありますから。

精一杯に実践すると言う事さえあれば、いかなる場合でも先に進めると思います。

112TK:2013/10/16(水) 18:08:13
滝沢さん

>突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。

僅かのこの文章から、私なりの判定は不可能ですが、たとえ、
誤認であったとしてもあなたなら、自分だけでも進んでいけると私は思います。

とりあえず、良かったですね。

113滝沢:2013/10/16(水) 18:33:50
TKさま

光明の後、起こるがままにtkさんおすすめの聖書、ブッダの2冊を買いました
何度も読み返したここの記事を広く理解したいなと思いまして
正直、光明起こってもそれで探求は終わりですが覚者の物語、深い理解こそが、この生を全うすることだなと思っております

114ラピ。:2013/10/16(水) 23:01:40
☆滝沢たん

今、平穏な生活を送られているのですね。
ほんと、よかったです!

ちなみに至りますと、
もう自我がありませんので
勝手に自我がどういうものだったのかわかってしまいます。

今まであったものがなくなってしまうので
その違いというのですかね、それが分かってしまいます。

至ってしまえば
自分の存在が真実そのものになりますので
どうぞ、いろいろ表現してみてくださいね!

@(*・ω・*)ポッ

115TK:2013/10/16(水) 23:22:59
滝沢さん

>光明起こってもそれで探求は終わりですが

この言葉が誤認ではなかったとしても、
あなたにはまだ明らかにしていかなければならないものがあるはずです。

まず、あなたの今いる所はまだ、私やラピ。さんの居る彼岸ではないですね。

実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。

あなたが怠ることなく実践を続けたなら、必ず成就出来る事でしょう。

釈迦もそうでしたし、私もそのようなプロセスを踏んでいますが、
自分で辿り着けた光明を師として進んでいけばいいのです。

私の紹介した本を持っているのなら、
悟りを開いた間もない頃の釈迦の言葉が載っています。
まだ、悟りを確実なものに出来ていないことが分かります。


悪魔との対話(相応部経典6−1−2)

>3.そのとき尊師は次のように思った、−−−「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に
> 実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実
> 践している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したい
> のであるが。
>4.未だ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>5.まだだ完全に実践していない智慧の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>6.まだ完全に実践していない解脱の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>7.まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)〉の体系を完全に
> 体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めてのすべての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱し
> たと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び
> 敬いたよって生活したいのであるが。
>8.むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだ
> ろう。」

116滝沢:2013/10/17(木) 05:46:38
おはようございます

ラピさん
おしゃるとおりです
自我がわかってしまいました。

TKさん
読んでみようと思います
まだ1ページも開けてないです。。

117滝沢:2013/10/17(木) 07:45:03
http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html
TKさんラピさんのおしゃる事に近いと感じました

今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!

118実践マン:2013/10/17(木) 09:45:30
TK先生

はい、理屈で解決する実践を精一杯頑張ります。
ありがとうございましたm(_ _m)

119TK:2013/10/17(木) 17:48:06
滝沢さん

>今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!

これを今あなたがやったら、私やラピ。さんの所へは至れませんが。

しかし、あなたの選択肢ですから。

今のあなたは、私に出会う前のラピ。さんですね。

私はこの人に出会って更なる地獄に突き落としたのですから。

あなたには空間があるでしょ。

我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。

120滝沢:2013/10/17(木) 18:36:46
実践がある実践もないも含めた
生を楽しむという表現をさせていただきました。
というのも実践が分からなくなってしまったためです。
もし、実践がはっきりすれば実践したいと思っています。
光明後、サタンが愛であると体験しました。
サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

>あなたには空間があるでしょ。
>我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。

見られるものは見るものになります。
これを空間がないと呼べますでしょうか?

121TK:2013/10/17(木) 18:56:50
滝沢さん

>見られるものは見るものになります。
>これを空間がないと呼べますでしょうか?

よべません。

今のラピ。さんもあなたのこの言葉には異次元から生じる違和感があるはずです。

まるで、私と出会ったころのラピ。さんのようですね。

彼女は私と出会う前のかなり過酷な実践をした成果で、
あなたの言う空っぽを実現して、私がまだまだ全然、
と言うのが分からなくてね、悟っていると言い張ってましたから。

122滝沢:2013/10/17(木) 20:13:17
書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

123ラピ。:2013/10/17(木) 21:41:16
☆滝沢さん

掲示板を見られている皆さんの
気づきのヒントになるかもなので
ちょっと話は戻りますが
書かせていただきますね。

滝沢さんの表現された言葉
「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」

ここなんですがTK師は「自我への考え」については
一度も書かれていません。

考えとは、人それぞれによって違うものであり、
正しい、正しくないというもの含んでいます。

人によって正しくなったり、正しくなかったりします。

師は「自我」という事実について述べられているのみであり、
それは絶対的なものであり、師の考えではありません。

そもそも至ってしまえば真実そのものになるので
表現することは「考え」ではなく「真実」なのです。


そして滝沢さんの引用されていたサイトですが

http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html

だから滝沢さんは「光明を得た」と宣言したのでしょうか?

この内容は「実践者」に対しての方便が書かれていると思います。

>もしかしたら光明を得ているかもしれないし、もしかしたら得ていないのかもしれない。
>そこに「もし」や「だが」はなかった。それは単純な言明だった。もう一度、繰り返そう。
 >あなたは光明を得ているし、そうであるしかない。

「もし」とか「だが」とか疑うことなく
光明を得ているものとして実践しなさい、ということです。

光明を探したり、求めたりするのではなく。

だから滝沢さんは「光明を得た」として
これから実践をしていく、ということですかね。


>もっと別の言い方をしてみよう。
>自分自身を光明を得た存在として敬うようになった瞬間から、あなたは誰しもをあるがままで光明を得た存在として敬うほかはなくなってしまう。

このように実践しなさい、ということです。

実際、至ってしまえば敬う対象は消滅するのです。

だから実践者にそう語られているのでしょう。


>見られるものは見るものになります。

この表現が滝沢さんの状態であるなら
残念ながら私たちの状態に至ってはないですね、、。

私たちの状態ではそんな表現はできません。


>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

かつての私も似たようなことを師匠に言っていました。

滝沢さんは自分の言っていることが
私たちに伝わっていないとお思いでしょうが
実は丸見えなんです。

@(*・ω・*)ポッ

124TK:2013/10/17(木) 23:06:20
滝沢さん

>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

滝沢さん、あなたはまだです。

実は私やラピ。さんは、同次元の者同士、打ち合わせなどしなくても、
この次元の者にしか通じない対話というものが分かります。

それは、本当に至っているからなのです。

ですから、あなたが限界を感じるのは、異次元だからです。

これが結論です。

ちなみにあなたの次元はこちらからは丸見えです。

125TK:2013/10/18(金) 00:21:22
滝沢さん

私はあえて至った後の状態がどのようにあなたの表現と
相違しているのかというようなことをあなたには語りません。

理由は、あなたの悟りの誤認の元になってしまうからです。

私はここで前にも述べているつもりなのですが、至る前の者に、
至った後の者の状態を述べる事は害にこそなれ参考にはならないのです。

ただ、あなたはまだなのです。

あなたの特性も大体掴めています。

とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。

それはそれで構わないと思います。

あなたがここで明らかにした経験から、
あなたならそれでも進んでいけると思えるからです。

ここで、至ったと誤認して甘んじてしまう事さえなければです。

私も究極が明らかになった時には、その後退転して、まだ此の岸の者でした。

その後になって次々と明らかになったものがあったのです。

なぜ、このような事が起きるのかと言うと、
エゴの力を悟りに至る推進力として使っているからなのです。

126滝沢:2013/10/18(金) 05:18:38
Tk様

ありがとうございます
真摯に受け取りたいと思います
道なき道ですね
全て計画済みで起こるがままパーフェクトに感じます

127滝沢:2013/10/18(金) 09:18:02
あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう

ラピさま
Oshoのページで響いたのはあなたは釈迦でもないという部分とダンスするという部分です
Tkさんの釈迦の悪魔との対話の引用に通じる部分やラピさんの表現してくださいという部分に通じるなと思っています
また、光明が起きてから検索でoshoのページを見つけました

おっしゃる通り自我の考え方というより過去に起きた事の事例から受け取った私の理解という表現が正しいですね
言葉は難しいですね

Tkさま
私は独自の道を歩んでるわけではありません
ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、それが縁で色々な事実を教えていただきました
そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を受けて今があると考えています

128ラピ。:2013/10/18(金) 20:09:42
☆滝沢さん

ここを見つけてくださって、そして書き込んでくださって
ほんとうにありがとうございます。

ほんとこれもご縁かもしれないですね。

Oshoの記事に関してですが、了解です。


>「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」

実はこの表現からも滝沢さんの状態がわかったのです。
私たちの状態では使えない言葉をつかってらっしゃるから。

普通に使っている言葉にその人の次元が現れています。

どうやってもそれは隠せないのです。
私たちはそれを見抜いてしまいます。

滝沢さん、かつての私と同じ状態であるとしたら
あと少し、でも遠いあと少しです。
次元を超えるには激流が必ず必要です。

穏やかなままで次元上昇はあり得ません。
私がそれを経験していますから断言します。

今回の光明に、激流はありましたでしょうか?


滝沢さん,私はかつて師の言葉が分かりませんでした。

自分の知っていると思っている言葉を使っても
ちっとも伝わってない気がしたし、
「何言ってるの??え・・??なんで???」という状態でした。
「????」でした。

だから、ついに降参し、一から始めさせていただく
と決心しました。

今まで得たものをすべて捨てて
初心者としての実践です。

この時の動機は実は
「師匠のいる次元に行きたい!」これでした。

ちなみにこの「師匠の次元に行きたい!」というのは動機であり、
実践するときはそれすらも捨てて、
ひたすら実践です。

おかげさまで今に至ることができました。

願望を抱いた実践では、至ることができません。

ひたすら実践することが大切です。

129TK:2013/10/18(金) 20:38:30
滝沢さん

>あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう

この辺もあなたは実践中の人のスタンスではないのですね。

つまり、シンプルではないという事です。

あなたは思考(マインド)的な振る舞い方が非常に多いのではありませんか。

実践者はシンプルがもっとうなのです。

マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。


実践中の私にはとてもあなたが今ここでしているような振る舞い方は出来ませんでした。

私はラピ。さんに関しては、かなり私への接し方で戒めた部分があります。

私は何度も宣言していますが実践者ではありませんので、
我々と同じつもりになって至る前の人が振る舞っていたら絶対に至れません。

あなたの立ち位置が高いという意味ですよ。

>Tkさま
>私は独自の道を歩んでるわけではありません
>ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
>たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、>それが縁で色々な事実を教えていただきました
>そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を>受けて今があると考えています

実践者にはとてもできないような受け答えの数々ですね。

>あなたは、あなた独自の意思表示について、
>非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。

>実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。

この言葉、厠にでも捨てられたようですね。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

わかりましたか、
あなたが私の話すのとは違う独自の道を歩んでいるという意味が。

どうぞどうぞ、ご自由に。

130滝沢:2013/10/19(土) 08:28:04
TKさま

ありがとうございます

おっしゃられる通りです
やはり私は、まだまだ修行僧の身ですね
精進させてください

131TK:2013/10/19(土) 10:31:05
滝沢さん

今、あなたがなにをもって光明と言っているのか私には分かりませんが、
前にあなたがここで公開された体験については、
束の間体験であれ相当のものと判断しています。

ですから、
その経験で辿りつけたものを師として確実なものにするべく歩めば良いと話をしたのです。

以前のラピ。さん同様の空っぽが実現できた程度なら、
実は以前のラピ。さんもあなたもそうですが、
私の目には全然空っぽではありません。

つまり、感覚が鈍い鈍感がもたらした空っぽの誤認と言う意味です。

ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。

132ラピ。:2013/10/19(土) 20:32:12
確かに今と比べるとかつてのからっぽは今とはまったく違います。

ただ、これからの道、
このからっぽも活かしてていけると思います。


>ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。

師には、自分の状況をお伝えしていました。
そしてその都度、言葉をいただきました。

滝沢さんも状態がどうであるかなどを表現されたら
師からの言葉があると思いますよ。

だから表現をおすすめしたのです。

至っていれば、表現でそうであるとわかるし、
至ってなくても今の状況について
言葉を頂けると思います。

私もなにか言葉にできるかもしれません。

そしてあとは実践あるのみです。

133TK:2013/10/19(土) 23:39:26
滝沢さん

あなたは、私に出会ったばかりの至る前のラピ。さんの状況に近いですね。

私に出会ったころのラピ。さんは、空間認識の中に住んでいて、
空っぽの内面と外側があるというようなところで精神世間の知識をしこたま仕入れて楽々生きていたのです。

それで、私には自分は悟っているんだと言ってたんですね。

滝沢さん、あなたの表現の端々が、
私はそのあたりにいますと私には聞こえてくるのです。

ラピ。さんも私に出会ったとき、私の指示する内容が、
全く楽で屁でもないみたいな状況でした、
これ悪魔の声がかなり少なかったことを意味していました。

でもね、これ残念ながらラピ。さんが至ったと言う激流の彼岸ではありません。


>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

あなたの鈍感な目で空っぽと思えても、空っぽではない(サタンはいる)のですから、実践はあります。

私はそれをラピ。さんの中からあぶり出しました。

これがラピ。さんの言う激流ですが、実はあなたの中からもしこたまあぶりだせるのですがね、一杯いますよ。

どんなに微細な内面も見抜いていかなければ彼岸には渡れずいつまでもいつまでも此の岸の人のままです。

ここで光明だと語られると誤認覚者になってしまいます。

もちろん現代ではあなたのような方も珍しくはないので、
お好きなようにとは思います。

134滝沢:2013/10/20(日) 09:39:35
光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております
非常に平穏になりました
そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
そしてひっかかった場合、即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しです

135TK:2013/10/20(日) 17:46:16
滝沢さん

>光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております

そのレベルの意識を、純粋意識とは言いませんが。

あえて言えば空間認識の次元の意識というのです。

つまり、空間と言う「対象」がしっかりとあなたにはあると言う意味です。

意識の拡散現象すなわち「ありのままに見える」とは、
「対象」が目の前にぶら下がっているうちは起きません。

あなたのそれはまだ、空っぽではないのですから。

>非常に平穏になりました

以前のあなたに比べたらの条件付きで、そうでしょうね。

>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、
>その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
>そしてひっかかった場合、
>即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しですそうでしょうね。

あなたは、まだ、彼岸ではありません。

私に出会う前のラピ。さんですね。

>とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

私があなたに対して自分独自の方法と述べるのには、主な理由がまだあるのです。

私はあなたに対して今の所導師ではありません。

あなたの私に対する接し方と言うのは、当然そういう人はいると思いますが、
自分が拾いたい情報が出てきたらもらって行こう、そういうスタンスですね。

つまり、
それだけ私の把握していないあなた独自の方法があなたにあるという事であると私は把握しています。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

このように、何が独自で何が独自でないかこれは主観の問題ですから、
あなたが私は独自に進んでいるわけではありませんと言われても、
私が独自と言っている事とは食い違ったりしますよね。

私は別に何が正しくて何が正しくないかなどという事を
ここで弁じようなどと言う気はないのです。

あなたの、視野の狭さを指摘したいのです。

悟った者の「あるがままの見え方」とはまるで正反対の視野の狭さで、
自分は光明を得たのだと、あなたの光明は誤認ですと私は言いたいのです。

私などあなたが光明を得た、探究は終わった、と言った直後位に、
あなたが誤認の光明である事を見抜きました。

あなたはこの時点で何の情報も流してないですよ、しかしそれでもわかるのです、
これが本当のあるがままに見えるというものですから、
誤認の光明のあなたと違いますね。

(続きます)

136TK:2013/10/20(日) 17:46:46
(続きです)

実践者は自分の捉え方と違うものが相手から出てきた時に、
まず相手が正しくて自分が違うのだ、あるいは自分が理解できないだけなのだ、
最悪保留と言うスタンスを取りながらも、
自分は相手の言うのとは違うと言う内面の声の方を殺すのです。

たとえ相手が間違っていて自分が実際は正しくても、実践者はそうするのです。

そもそも、内容が正しかろうが正しくなかろうが、
内面の声そのものが悟った者のそれではないのですから、
殺さなければその上の次元には行けません。

ですから、私はあなたはまだだよ、
そこで甘んじたらエセ賢者(偽キリスト)になてしまいますよとだけ言うのです。

基本姿勢として、私はあなたの取っている私の把握していない方法については、
私が教えたものではありませんから何か言う事はできません。

よってあなた独自に進んでいると私が述べるのです。

ただ、あなたの独自性の部分で当然ヒットしている部分もあると思います。

>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

それにしても、
あなたの内面にまだいっぱいありそうなのに悪魔をそのままにして悪魔退治以外に実践はありますかとはね。

はっきり言いますが、ありません。

>光明後、サタンが愛であると体験しました。

あなたの場合は、サタンといつまでも同化している事が愛です、と聞こえてしまうのです。

はっきり言いますが、あなたの取っている振る舞い方の数々では、
あなたに同化している悪魔とあなたは対面すらできません。

私はちなみに実践中は、サタンを親の仇同様に思ってました。

それくらいにけ嫌って同化から離れました。

だから戦いと言うのです。

釈迦の言葉にもよく「勝者」とか「激流」とか言う言葉が出てきますが、
激流の相手はただ自らと同化している悪魔だけです。


スッタニパータ439-443
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
>(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
>
>このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? 
>(敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。
>わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
>
>或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、
>姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
>
>軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、
>わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。
>わたくしをこの場所から退けることなかれ。
>
>神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、
>わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。
>──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。


イエスの言葉を取ってみてもほとんどそのような感じですよね。

>「下がれ。サタン。」
>「あなたはわたしと何の関係もありません。」

あなたは悪魔と仲良くしたいのだったら、もう実践者では無いですね。

至る前のラピ。さんにも言いましたが、
私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
あなたの一生の中でもそうあるものではありません。

私も、いつここのサイトからいなくなるかもしれませんし。

137ラピ。:2013/10/20(日) 19:28:44
☆滝沢さん

師の言葉から、いろんな感情が起こってると予想します。

それとも何も変わらずでしょうか?

ちなみに私の時の師の言葉はもっと厳しかったですよ。
まだまだ甘いかもです。

>私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
>あなたの一生の中でもそうあるものではありません。

私の場合、この言葉を聞いて「はっ!」とし、
このチャンスを逃してはならない、と思い、
素直に師の言葉を聞くようになりました。

138TK:2013/10/20(日) 20:51:12
ラピ。さん、
もともとラピ。さんの言語化練習に付き合う形での私の参加でしたから、
それでは、次の事をラピ。さんの言葉で説明してあげたらどうでしょう。

>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

これ、ラピ。さんが私に出会う前のまだ彼岸に渡る前の、
空っぽ実現時の次元の内容ですが、
この事についてラピ。さんの言葉で経験談とか話してみられると参考になると思いますよ。

>これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

これ、ラピ。さんが彼岸に渡る前の此の岸での内容ですね。

ようやく、滝沢さんは今、
私に出会う前のラピ。さんの居たところに来たという事のようですから。

もちろん、ラピ。さんにとってこれは光明ではなかったわけですし、
これが光明の誤認である事が理解できると思います。

139ラピ。:2013/10/20(日) 22:31:10
師匠、いつもありがとうございます!

はい!


>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

まず、この表現からもまだ、至られてないことが分かります。

私もかつて、「からっぽである」と師に宣言していました。
この時点でのからっぽとは
確かにいろんな思いが浮かばなくなっている状態でありましたが、
肝心なものに気づいていませんでした。

でも、その肝心なものに気付いてないときは
とりあえず、「からっぽ」でいることにしました。

さて、滝沢さんのおっしゃっている「からっぽ」も
私のかつての「からっぽ」も
どんなからっぽでしょうか?

本当にからっぽでしょうか?

確かに思考は止まっているかもしれませんが
止まっているのですよね。

止まっているだけで「思考」そのものはまだ存在してるわけです。

消滅してからっぽ ではなくて
それを「選択する自分」がいるからからっぽ、ではありませんか?

「からっぽである!」と宣言する私がいて
そのからっぽを意図的にしているからこそのからっぽではないですか?

私はそれに気づきました。

私はからっぽそのものではなく、
からっぽをを意図する私がいる「からっぽ」でした。

「からっぽ」という対象が存在する状態、
「からっぽ」を実践している状態です。

まだ実践できていたわけです。
からっぽを、、。

エゴがまだ存在していたのです。

ここから実際に師に送ったメールをそのまま転記します。


師匠、
「頭が空っぽの状態であること」と「からっぽそのものであること」
は全く違いますよね?

私は彼岸がよいです。
空っぽの状態を保つ自分がまだいます、私には。

空っぽそのものがいいです。

今、空っぽの状態はわかりますが
あまりに穏やかすぎます。
だって空っぽですから。


師匠、「激流」が必要だとおっしゃってましたよね?

☆(ここまで)


ここで私は激流に飛び込みました。

滝沢さんも今、かつての私のように穏やかな状態でしょうか。

でも、何かをきっかけに暴れだす「自我」がまだいますね。

いや、それには負けないくらい
「穏やかである自分」を選択し続けるでしょうか。

では、穏やかであることに集中したり意図したりする自分はいませんでしょうか?

その「自分」を野放しにしても、ずっと穏やかでいられるでしょうか?


あと、「激流は起こりましたか?」
この問いの答えをいただいていません。

ということは、滝沢さんに激流は起こっていなかった
と捉えてもいいですね?

140TK:2013/10/20(日) 23:25:08
ラピ。さん

彼岸に渡る前の此の岸の空っぽ時に、体が動かせなくなる現象も起こりましたよね。

そこから徐々に体が動かせる状態になる過程も少し説明してもらえますか。

つまり、思いか無い状態で体を動かすコツと言いますか、そのようなものですね。

これもみな私に出会う前の此の岸での出来事ですからね。

141ラピ。:2013/10/21(月) 01:07:22
はい!

まず師に送ったメールをそのまま紹介します。


(ここから)
ひとは行動するとき
本当は行動していない。

習慣的に、なんとなくで行動している。

そしてそれは純粋な行動ではなく
(変な表現ですが)いろんなことを考えながらの行動なので
はて、この手をどうやって動かしてたかな?
と純粋に考えるとわからなくなるし、
多分純粋に動かせない。


私の第2のスタートです。

それまでのことがそぎ落とされて
空っぽになった状態です。=闇でもあります。恐怖です。
だから、「わからない」としか言いようがないですよね。

とことん頭を空っぽにして
(だから、動けなくなりました。わからなくなりました。)
一つの動作を意図的にできるよう、日々をすごしました。
手を上げる事も
なんとなくではなく
純粋に上げるという事。

同じ動きでも
意識がまったく違う。


どう言ったらいいか、わかんないけど

頭が空っぽというか
手を動かすなら、それのみ純粋に行うこと。

ちなみに今は「頭がからっぽ」といっても
恐怖はありません。

空っぽといいながら
いろんな情報処理はできる。
決してなにもできない状態ではない。

オートマチックに「ぱぱぱ!」って感じです。

瞬間より早い瞬間がありますよね。

それが徐々にできるようになりました。

だんだん普通に出来るようになりました。

それまでの動きとは同じことをしていても質が違いますね。

純粋になにかに影響される事なく動ける。

(この今私が動いている状態は
どうやって説明したらいいか、わかりませんが
ある一つの点だけ(点ではないかもしれない。これはなんと言ったらいいでしょう?)
ですべてが動くという感じです。

動きの始まりを知っていて
そこに軽く命令というか、インスピレーションを送るというか
信号を送るというか、それを意図しただけというか、、、。
そんな感じで動く、という感じですかね?)

(ここまで)


このメールを書いてる私にはまだ「エゴ」があります。

かつて、本当に体が「思い通り」に動かせなくなってしまいました。
今まで普通にできていた(と思っていた)ことができなくなった。

今までは「なんとなく」で動き、
「思い」により動いていた。

動く前に思いがありました。

では、その動く前の思いがなくなってしまったら?
からっぽで思いがなくなってしまったら?

動けません、、、。

でも私は日常を普通に生きていたので
「動けません」
これでは済まないと思いました。

だって、ご飯を食べるお箸を持ち上げるのも大変なんです。
ある意味、命がけでしょうか(笑)

「かつて動けていたではないか。
動けるはずだ。」

この意志のみでがんばって動きました。

「どうやって動いてたのだろう。」

そんな考える暇はなく
「動け!」と頑張りました。
考えても仕方ないのです。

この頃はまだ意志がありました。
だから頑張りました。

「できるはずだ」「できて当然なんだ」

と頑張りました。

そして初めはギクシャクしていた動きも
少しずつスムーズに動けるようになりました。
(時間はかかりました)

意志を振り絞っての努力でした。
どんな動きにも気を抜くことができませんでした。

正直言って、どうして動けるようになったのか
その時の具体的なメカニズムはうまく説明できません。

ただ、その時の私の
「できるはずだ」
「できて当たり前だったじゃないか」
この言葉が私を奮い立たせました。

「できない」という言葉は私にはありませんでした。

「つべこべ言わずにやれ!できるだろ!」
これでした。

そして徐々に「思いなく」動けるようになりました。

単に「動く」ということです。

手を動かそうとしたら動かせる、そんな感じです。

何にも影響されていない純粋な「動かそう」という思いと
「動き」が直結してるような感じでした。
時間差がない感じですかね。

昔の話ですが、、、。

142TK:2013/10/21(月) 19:10:53
>昔の話ですが、、、。

ラピ。さんはかなりの年数、
此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

私に最初に出会った時には、
確か私から悟りの印可をもらいたかったような動機でしたが、
私に全く相手にされてませんでしたからね。

こちらも、少しでも悟っているなどと言う思いが僅かにでもあると、
これより先に進む事は不可能なことであることを知っているのでそのようになったのですが。

思い出しますね、「あなたは死ぬまで停滞確定です」、
と何度か私に言われましたね。

もう少しで、激流の彼岸に至るチャンスすら失う所でした。

143ラピ。:2013/10/21(月) 22:33:58
はい!

ちょっといろいろ思い出してみますので
少々時間をくださいね。


>「あなたは死ぬまで停滞確定です」

はい、よく言われました。
初めは意味が分かりませんでした。

途中は何度も言われるので
「なんでそんなこと言われなくちゃならんの」と思いました。

そして最後は
「そうかもしれない。
でもできる限りのことをやらせていただこう。後悔の無いように」
でした。

師匠、厳しくも真実に導く言葉を
本当にありがとうございました。

144TK:2013/10/21(月) 23:39:59
ラピ。さん

>此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
>何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

これややデリカシーの無い質問でしたね。

失礼しました。

何が言いたかったかと言いますと、
ここから先に進むためには釈迦も言っている通りで「激流」が必要です。

それでも、釈迦は彼岸に渡るのに激流を渡らなければならないと言ったが、
私は緩流で渡った見せるとか言う釈迦以上の天才がいるのでしょうか。

そう言う人はまず、誤認の悟りです。

楽を実現したという分、
エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので停滞と言う事が起こりやすい段階です。

つまり、死ぬまで彼岸には渡れずに此の岸のままが起こったりします。

ラピ。さんも何年とは言いませんが、
相当長い期間ずっとそこの此の岸のポイントで停滞していたと伺ったように思います。

ですから、
ここから先は悟った者のありのままの目(意識の拡散現象)でエゴの動きを捉えた、
的を得た激流を作り出すためのテクニックが必要となります。

私などは1年ほどの短期間の実践で激流を渡りましたが、
実はラピ。さんや滝沢さんとはプロセスが違っています。

彼岸に渡る前の此の岸のラピ。さんと今の滝沢さんが同じような段階にいますが、
私には悟る前に悟った者に近い、
エゴを見抜く目があったので、異なるプロセスで進みました。

なので、私の体験談は話しても滝沢さんの参考にはなりません。

しかし、以前のラピ。さんに対してもそうですが、
悟った者のありのままの私の目(意識の拡散現象)には空っぽではありませんでした。

そこから、数々の実践法が繰り出されますから、彼岸に渡る事は可能なのです。

私は良くラピ。さんに、
いくら敬語で武装しようが君のメンタルの状態など私の前では丸裸同然だと述べてました。

つまり、その甘さの部分を、
悟った者のありのままの視点(意識の拡散現象)で見抜いて行けば、
彼岸に渡れます。

ただし、再び激流の地獄など来ないと思ったいただろう、
その地獄が再びやって来ることになります。

釈迦の言葉の通り、激流を渡って彼岸に至るのです。

145ラピ。:2013/10/22(火) 07:52:14
おはようございます!

>楽を実現したという分、
>エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので
>停滞と言う事が起こりやすい段階です。

師はある程度楽に生きている私のエゴを見抜き、
それをあらわにしてくださいました。

その「エゴ」こそ、激流を起こすものであり
彼岸へ導くものですね。

私は停滞していたのは何年もの間です。

師に出会う前に第3の実践をしていましたが
第3の本格的な実践はブログを始める前からとほぼ同じです。
なので2006年の年末前から2013年の5月すぎまで。
6年以上、やってました。

師に出会えなかったらずっとそのままだった可能性が高いです。

なぜなら初めは師に「停滞確定」と言われても
意味が分からなかったからです。

そこまで、鈍かったのです。

エゴに気づけず、エゴのまま
「幸せ〜」とか「すばらし〜!」とか言ってましたね。

ま、その時は本気でした、、、。
自分の状態を疑っていませんでした。
何も見えていない状態です。

でも今の私からすると、
確かに酔っ払いの何者でもありません。

師から私はビンタをいただき、目が覚めました。
そのおかげで今があります。

いろんなスピリチュアルな知識を詰め込んで
永遠に続かない幸せとそうでない時を繰り返す日々。

「幸せ!」と言っているその本性を見抜かなければなりません。

心地よい言葉だけを求めて
自分を受け入れてくれる環境にぬくぬくといること。

それでは「停滞確定」です。
永遠にそのまま。ほんとそうですね。

でも本人がそれでもいいと言うのならそれもありでしょうね。

師も何度も言っていますが
「激流」は必要です。

そこから進みたいというのであれば
激流は避けられません。

「楽ちんな場所」で次元上昇はあり得ません。

146名無しさん:2013/10/27(日) 04:55:45
はっきり言っておきます

あなたがたは単なる詐欺師です

知恵ある者は私の言葉に従いなさい

147ラピ。:2013/10/27(日) 06:33:33
>146さん

そこで表現されている「あなたがた」や「私」は
誰のことでしょうか?

148TK:2013/10/27(日) 07:01:42
>あなたがたは単なる詐欺師です

詐欺師、はて?

誰か従ってくるの、へ?

149名無しさん:2013/10/27(日) 08:28:21
悟ったんですか?

スピリチュアルって意味無いんですか?

貴方たちもまだ途中なんでしょ?

150ラピ。:2013/10/27(日) 16:40:36
>149さん

かつてはスピリチュアルやってましたが
もう卒業しました。

今、スピリチュアルが必要な方も
いらっしゃると思いますので
それでいいと思いますよ。

151TK:2013/10/27(日) 17:35:36
>悟ったんですか?

さあねえ。

あなたの妄想で考えてみたらわかるかもよ。

>スピリチュアルって意味無いんですか?

スピ系、さてねえ。意味って一体なんだっけ。

スピ系では、全てに意味が無いとか聞いたことがあるぞ。

>貴方たちもまだ途中なんでしょ?

途中ってどっからどこにいく途中なんだっけ。

どこも目指してないんだけど。

152TK:2013/10/29(火) 10:15:28
ワクワクの実践と次の激流の実践の大きな違いです。

ワクワクの実践は外の現象に対して自分の中の理想というものを基準にして精一杯取り組む事です。

この段階では生きがいや楽しみというものも味わう事の出来る実践となります。


次の激流の実践は、取り組む相手は自分の内面です。

無理やりワクワクと言う手段はあったとしても、
本当の意味でのワクワクはここではありません。

この段階では、外を絶対的なものとして、中を滅ぼしていくのです。

人を裁いてはならないとか、実践マンさんが話しした、
ウソをつこうとする人のウソを見破ってはなりませんとかは、
実践する盲人にとっては、ただ、訳も分からず実践するしかないわけですが、
この理論上にかなった実践法の一つなのです。

そして、これにカルマ論を重ねると、
外の現象は自らのカルマの実現そのものと言う捉え方ですから、
この実践がダイレクトに自らのカルマ落しという事になるのです。

騙されて損をした、
実践者のスタンスであれば自分の実践を貫けてよかったとなる訳ですが、
これにカルマ論を重ねると、
騙されたことで自分のカルマが一つ解消されたと捉えるわけです。

繰り返し述べますがこれは危険な実践法なのでやれとは言わないですが、
やる人は自分の自己責任でやるしか手がありません。

従順の実践をどこまで完璧にこなせるかは本人の機根にかかってくるものですが、
一つの重要なポイントがあります、それは、
自分にとってどんなものより最優先する戒律を設けておくのです。

前に話しましたが、自分の方向性を放棄して、
外の方向性に合わせた従順の実践時に、
互いにぶつかり合う方向性に出会う事があります。

この場合は優先順位による選択という事になります。

前の例で言えば、実践はどんな場合にも最優先なので、
実践をやめなさいと誰かに言われても実践を続けることになります。

これと同じで、
一例ですが私が実践時に風俗店の前を通りかかった時に店の呼び込みの人に声をかけられましたが、
私は不邪淫戒に触れると判断して、
声をかけてくれた呼び込みの人の行為には非常に感謝するが私は今は入れないのです、
あなたのお気持ちは非常にありがたい、
私はあなたにお金だけ払いますと申し出たが、
あなたのような方からお金はいただけませんと丁重に断られました。

このような選択肢になるのです。

この場合に重要な事は、
相手を自分を横道にそれるようにたぶらかす悪い者と識別してしまうのではなく、
あくまで自分に善意を働いてくれた人と捉えると言う点です。

このような時に利用できるツールが相手の行為に対しての「感謝」です。

常に意識的にふるまうと言うのはこういう事を言うのです。

この辺が実践者としてやっていけるか、
単なる世俗の人として生きて行くしかないかを見極める分岐点ですから、
駄目な人は駄目です。

たとえば、実践者という事で私があえて反応を起こすような言葉をぶつけると、
とたんに私を裁きまくったり、何度か繰り返して様子を見たことはありますが、
信念というものにかけている人はやっぱり駄目だと判断できました。

このような人の場合は人に指示を求めるのではなく、
自分なりの理論で精一杯やってみるという事なんです、
エゴの世界でも何でも精一杯がないから「信念(意志の力)」というものが鍛えられないのですね。

人に従うのではなく、「精一杯の高い理想」を持って、
自分が中心になって人を導こうとする者の立場をとる事です。

まず、この課題がクリアーできない者に、次はありません。

「意志の力」の劣った者は激流は渡れません。

153実践マン:2013/10/29(火) 16:52:07
あらゆる人を神とみなし、神のお金は神に返すのが当然であるという実践をしていこうと思います。
ウソを見破らない実践と合わせて、やっていきます。
この実践をしようと心から思えるようにしてくれた過去数年間の出来事の数々に感謝の気持ちでいっぱいです。
騙してくれた方々、損をさせてくれた方々、不貞行為をしてくれた方々!ありがとうございます。
私の強いエゴをあぶり出していただきました。
恨みつらみの苦しみはもうこりごり、苦しみから抜けるために、
神のお金と思うしか道は無いという体験、嘘は真実であると思うしか道はないという体験をさせてもらいました。
次に、心を揺さぶる出来事があっても、乗り越えます!
TK先生のご指導のおかげで、決意がいっそう固まりました。
ありがとうございます。

154ラピ。:2013/10/29(火) 22:47:27
なにがあっても感謝。

私もやっていました。

騙されても、ひどいことをされても 何をされても
(どんだけのことがあったのだ(笑)
「私のためにしてくれているのだ。」
「私のために起こっているのだ。」
と、すべてに感謝でした。

いわゆる「ポジティブシンキング」やってました。

どんな時も
「ありがとう!」「幸せ!」と言い続けていましたよ。

@(*・ω・*)ポッ

155149:2013/10/31(木) 22:27:54
TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。あなたの通った道 あなたの悟り方。

156149:2013/10/31(木) 23:03:01
どーしたんですか?

157TK:2013/10/31(木) 23:20:04
>TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。

はて?

>あなたの通った道 あなたの悟り方。

どこも通ってないよ。悟りって、はて?

>どーしたんですか?

どーしたんですか?

158TK:2013/11/02(土) 09:08:24
理想的なワクワクの実践については、
この人は現実世界に生きることに意義があるのであって、
精神世界の人でない方が良いです。

自分のエゴで自らの理想に向かって歩いていくのです。

難しい精神世界の教えなど全く必要ありません。

反対に「不完全」位の方がワクワクの実践には向いています。

完璧な教えを学ぼうなどと言う精神世界のような人の姿勢は示さないで下さい。

基本は単純でいいのです。

導かれる人では無くて、
出来るだけ人を自分の理想に向かって導く人になって下さい。

もしも、具体的な理想が思い浮かばないと言う人の場合は、
単純に思いっきり善を無し悪をなさない、この生き方でいいです。

善を無し悪をなさない、これは万人にとっての固定的な理想なのです。

いくら、悪人と言う人でも無意識の固定観念の中に必ずこの理想を持っています。

思いっきり善を無し悪をなさないこれを指針にして生活を送って行けば、
じきに具体的な自分なりの理想が見えてくると思います。

自分の理想は人の理想ではないのですから、
人に導かれるような立場は長くやるべきではありません。

各々の理想に向かって精一杯という事は、そう言う事になると思います。

まず、自分の実際に足で歩いて行動して、
善を無し悪をなさない等の理想を実現していくという事です。

誰しもが幼いころには接しているだろうテレビドラマの正義のヒーロー、正義を愛し悪を憎む、
端的に言えばあれを自分の実生活の中で思いっきりやれば良いのですよ。

人を裁いてはなりませんとか、
ヒーロードラマのネタにもなら無いようなこの手の教えはこの段階の実践の人にははっきり言って邪魔です。

私が目にしたスピ系はバカ丸出しで、
このような取り合わせてはならないものをアホみたいに一緒にして、
喜んでべらべら喋っている、このようなバカな人たちの事を言うのですよ。

この人た、本当にバカですよね。

滑稽すぎて、笑えてきますから腹痛いのでやめて下さい。

159ラピ。:2013/11/02(土) 22:27:21
☆TK師
いつもありがとうございます!

自分の実践を思い出してみると
ほんと単純にある意味バカになってやってました。

人にどう思われようと
(どう思われていたかは聞いてないので定かではないですが(笑)
自分の理想を貫いていました。

私の昔の理想は実践の内容と同じで
まさしく「なんでも喜んでする人」でした。

「私がなにか人に頼んだ時
喜んで引き受けてもらったらうれしいなぁ。
では、まずは自分がそういう人になろう。
何かを頼んで嫌な顔をされたら嫌だなぁ。
されたら嫌なことはしないようにしよう。
だからどんなことも喜んでしよう!」
と思いました。

そしてそうであるよう、どの瞬間も
そのために実践していました。

ほんと単純です。

「(自分を捨てて)喜んでなんでもする」
ただこれをひたすらやっていました。

難しく考える必要はないですね。

ちなみに「自分を捨てて」という実践は
そう考える自分も捨てます。

考えることなく、ひたすらやっていく、という感じです。

それを私の生き方として実践していました。

「何かの目的の為」ではなく
自分の生き方としてどんな時もやってました。

160TK:2013/11/03(日) 09:24:19
>「私がなにか人に頼んだ時
>喜んで引き受けてもらったらうれしいなぁ。
>では、まずは自分がそういう人になろう。
>何かを頼んで嫌な顔をされたら嫌だなぁ。
>されたら嫌なことはしないようにしよう。
>だからどんなことも喜んでしよう!」
>と思いました。


これが紛れもなくワクワク(理想の実現)の実践だったという事を物語っている。

この「喜ぶ」と言う実践法は本質的に、
このような意味のために使われている実践法では無い。

スピ系等が訳も分からず「喜ぶ」と言う実践の言葉をどこかから適当に盗んできたとして、
ごちゃ混ぜる事を楽しむあのバカな者たちのごちゃ混ぜの中に取り入れている可能性もあるが、
「喜ぶ」と言う実践自体は本来は「激流」の実践時に使用されるツールなのだ。

つまり、何を言いたいかと言うと、
ラピ。さんは本当の「激流」時の実践での内面を対象とする観点には立っていなかったので、
それなりの精度でこの実践に接していた事を物語っている。

このように、ワクワクの実践時には不完全な実践であるからこそ、
激流の実践と同じ「喜ぶ」の実践ではあっても効果があるのだ。

この「喜ぶ」はあくまでも、本質的な意味での善玉エゴとしての使い方では無く、
自分の「理想」の実現に向けての実践レベルなのである。

これと同じ事で、
私が善をなし悪をなすなとワクワクの実践の者に対して話したのも、
これ自身は激流時の実践の者も取り入れている実践法なのだが、
実践の精度の点で幼いころに接しているだろうテレビの正義のヒーローのそれだと話した通りで、
同じ実践でも激流の実践時の精度では無く、
あくまでもワクワクの実践の者に向けて話している事になる。

不完全だからこそ理想の実現の実践段階には向いているのだ。

私がスピ系のバカな者たちのあのごちゃ混ぜの教えの中で、
「ワクワク」だけは拾えそうだなと思ったのも、
これだけは他のごちゃまぜの内容とは異質な部分を感じたからだった。

161TK:2013/11/04(月) 09:02:56

>「(自分を捨てて)喜んでなんでもする」
>ただこれをひたすらやっていました。

この自分を捨ててと言う部分も、ある意味漠然とした表現なので、
いかような解釈も飛びこませることができる部分です。

ラピ。さんはやや異なりましたが、
理想主義者的な段階での実践であればここについては、
ほとんど次のようになるのではないですか。

「自分を捨てて」=「自分を犠牲にして」だと思いますね。

私が一番言いたいのは、
「戦う時は対象の相手としっかり向き合って確実に戦え」という事を言いたいのです。

「目には目歯には歯」系の教えと、
従順系の教えで例えば「裁いてはなりません」とかと、
両方取り混ぜたらバカっぽくて実践になりませんが、
このようなアホなことをやってる者ががさまんと居るようです。

自分でバカなことをして無駄に貴重な寿命と時間を費やしている事に気が付かないのがスピのアホウどもたちです。

戦う対象の相手は「敵」に決まっています、
美辞麗句だけお経のように並べて喜んで気がふれているようにしか見えません。

「敵」には「敵」としっかりとマーキングして下さい。

スピ系の者たちを見ていると、
現実社会から逸脱した何かに憑りつかれた気持ちが悪い宗教団体の亡者のように見えてしまうのは私だけでしょうか。

現実社会は競争の原理、生ぬるい捉え方をしていた者は負けです。

ワクワク段階での実践では、
現実の社会の中に戦うべく「敵」がある、そう言う事です。

ここではエゴを強めた者だけが自分の理想を実現した勝者となります。

もっと思考を働かせ、頭を使い、
猿知恵でも働かせればバカとハサミは使いようで人生を幸せに進んでいく事が出来ますから。

スピのアホウどもは、
この辺をまるっきりわかってないで永遠に酔っぱらいで一生を終える事になりますが、
この者たちはバカだと思います。

私はあの手の酔っ払いは嫌いです、現実に生きていない者を見るのは気持ち悪い。

酔っぱらったままで、
生きている時間の経過とともに寿命を減らして損をするのはこの者たちですから。

ごちゃ混ぜがいくら好きでも、正反対をごちゃ混ぜにしたら、
残るのは気がふれた酔っ払いだけです。

人間である事(エゴ)を全うできなければ、
人間(エゴ)を卒業する過程(激流)へは進めない事を良く覚えておく事です。

もしも、
自分の理想の実現を邪魔する者が目的の遂行の前に現れたらどうしますか、
その時には最大限に思考を駆使して考え抜いて理想を実現するべく対策を練るのです、
そしてそれを実行に移して下さい。

くれぐれも、邪魔する者に「従順」に、これが実践だ等と言う間抜けな対応は、
おかしくて腹痛いのでしないで下さい、
これではただの負け犬が自分に都合のいいように納得できる口実として、
スピ系の屁理屈を利用しているだけです、だが、
実際にこういうおバカがいるからスピ系は笑えるのです。

さすが、「ごちゃまぜ」、
逃げ道に都合の良い口実を探すにもゴミの山から拾いだします。

言っておきますが、現実社会でまともに戦って生きてもいない人間が、
そのような生半可なエゴの強さで、次の激流になど進めるはずもありません。

激流を渡るイカダの正体はエゴなのです。

162ラピ。:2013/11/04(月) 10:37:08
みなさま おはようございます!

☆TK師匠いつもありがとうございます!

「自分を捨てて」ですが
私の場合、
自分の気持ちを無視して、という感じでした。

それをとことんしていると「嫌だと思う自分」なんていないのも同然なんです。

「自分を犠牲にして」という言葉は
かつての私には違和感を感じてました。

そもそも犠牲になってるとも思ってませんでした。(笑)

これが実はこの「自分を捨てて」の実践の恩恵です。
まっすぐ実践に打ち込めます。

実践を邪魔する私を無視しての実践ですから
とことん実践できました。

そしてほかの悩みはあったかもですが
実践に対する悩みは全くありませんでした。

その悩みそのものが思い浮かばなかった。
実践に対して疑問を持ちませんでした。

それほどまっすぐにやってました。

(エゴの順調なる成長。
この実践により「実践する私」が育ったのです。)

だからこそ、この実践に対する否定的な出来事が起こった時、
打撃が大きかったです。(笑)

実践する私が否定されたのです。
私の人生、それにかけていました。

「私が否定されたら私はどう生きたらいいのだ。」

実践する私=私となっていましたので
私すべてを否定された感じになってしまいました。

めっちゃ育った「私」が打ちのめされてしまいました。
もう、実践できなくなってしまいました。
こてんぱん。

何を信じたらいいのかわからなくなりました。

そしてボー然とする私に第2の扉が現れました。

もう進むしか道はありませんでした。

これは私の通った道です。
いろんな道があると思いますが
ご参考までに、です。

@(*・ω・*)ポッ

163TK:2013/11/05(火) 18:16:00
>「自分を捨てて」ですが
>私の場合、
>自分の気持ちを無視して、という感じでした。


実はこれが完璧にできていたら、次の内容は発生しませんでした。


>実践する私が否定されたのです。
>私の人生、それにかけていました。
>
>「私が否定されたら私はどう生きたらいいのだ。」


つまり、実践内容に不完全な部分があったという事です。

従って、
この時のラピ。さんの内面には自分が確実だと信じている実践内容を否定されたくないという想いが
強く作用していた結果の行き止まりです。

ここが、理想主義、つまりワクワクの実践であったと言う部分です。

まず、一段階目の実践はこの不完全さがあった方が良いのです。

私とラピ。さんには一つの共通点があります、それは、
激流に突入前の不完全な実践方法の徹底した実践です。

私はラピ。さんと対話を交わした初期の頃、
スピ系の多くの者たち特有の非常にどっちつかずの中途半端な状態にあると感じました。

実は、それで、初期の頃に次の対話が出てきたのでした。

>>「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」というひらめきでした。


>これそうとうに凄い内容ではあるんだけど、ただし、今一つ内容が完璧すぎたんだね。
>
>だから、エゴがはぐくまれなくて、中途半端に精神世界人間になりつつあるんだろ。


その後、確かに酔っ払いだが、
スピ系の普通の酔っ払いとはどこか違うとなって行った。

やがて激流に突き落とす事になったわけです。

私にとってはラピ。さんが私に次いで成就に至りましたので、
ある程度確信が持てた部分があります、
多くの人たちに必要なのはスピ系の教えでは無い、
ワクワクを含むエゴを強めるための方法だと言う点です。

まずスピ系のごちゃ混ぜの教えの取り合わせにより、この折角の良いものも、
他のものと打ち消し合って、酔っ払いの酒の肴にしかならないのです。

スピ系は今に至るまでに我々が至った所と同じ段階の成就の実績を上げるどころか、
反対に多くの酔っ払いを世の中に輩出した実績しか私は目にしたことがありませんが、
その問題点がこの部分にあるように思えます。

164ラピ。:2013/11/05(火) 22:37:40
☆TK師

いつもありがとうございます!

メールのやり取りのはじめのほうに
私のことを知ってもらうために師に次のことを伝えました。

>私の今の原型は
>「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」というひらめきでした。

勝手ながら師と私の実践に
共通点があるのでは、と思ってましたのでお伝えしました。

これを伝えれば、私のことがなにかわかっていただけるかな、、と。

そして師のされた実践が私にも使える!と
これまた勝手ながら思ってました。

懐かしいです(笑)


>この時のラピ。さんの内面には自分が確実だと信じている実践内容を否定されたくないという想いが
>強く作用していた結果の行き止まりです。

まさしくずばりその通りです。
行き詰ってしまいました。

そして第2の扉が見えた、、、。


ちなみに、どっちつかずの状態でも
それを意図的にとことんやっていれば
気付くものはあると思います。

あっち行ったり、こっち行ったりを
しっかり自分の選択としてやっていくのです。

人のせいにしない。

なんでも、今ある意志をしっかり使って
起きている間はずっと、それをやっていくといいかもしれません。

起きている間はず〜っとです。

そうすれば、気付くものもあると思います。

かつての私に「妥協」という言葉はありませんでした。

やるならなんでも「とことん」です。

165陽介:2013/11/10(日) 23:00:10
師よ、

私はエゴに負けました。そしてスピリチュアルに酔い、
悟ったと誤認し、「楽」を実現しました。

しかしその事に気づきもしていなかったので、
最初は師の言葉を受け入れることはできませんでした。

しかし師の言うとおりなのです、
私は全てはひとつであると感じています。
私は愛を感じています。
「それ」そのものではないのです。

ゆえに些細なきっかけで、私の「楽」はゆらぐのです。

師の教えに触れた時、私は風邪をひいていました。
師の言葉を否定しながら、
風邪によって、身体がままならないことに、
私の「楽」が「苦」に変わっていきました。

私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。

まずはもう一度、
「常に感謝する。」という実践から始めたいと思います。

TK師とラピ。師、このような機会をいただきありがとうございます。

166TK:2013/11/10(日) 23:21:59
陽介さん

このハンドル名の方と私はお話ししましたか?

167陽介:2013/11/10(日) 23:37:09
TK師

お話しするのは初めてです。

168ラピ。:2013/11/11(月) 00:25:30
☆陽介さん

ようこそいらっしゃいました。

陽介さんは「楽」を実現したとのことですが
どうのようにして実現されたのですか?

169TK:2013/11/11(月) 00:26:35
陽介さん

>ゆえに些細なきっかけで、私の「楽」はゆらぐのです。
>
>師の教えに触れた時、私は風邪をひいていました。
>師の言葉を否定しながら、
>風邪によって、身体がままならないことに、
>私の「楽」が「苦」に変わっていきました。
>
>私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。

あなたは幸せを望んでいると言うが、まず、
他者の幸せは自分の幸せと言う理想主義者的なレベルに上るべきではないだろうか。

自分自分と望んだところで、このベクトルで得られるものではない。

他者の幸せが得られるためなら自分が犠牲になっても良いとか、
このくらいの捉え方が出来るものなら悟りまで行ける可能性もあるのだが、
もともと自分の幸せが得たいからなどと言う動機で、
至れた者など居たのだろうか、無理だろうな。

ラピ。さんは私と比べたら、
それでも自分自身の幸せの取り組みをした人だったようだが、
最終的には人の為や奉仕を学んで至ったのだ。

170陽介:2013/11/11(月) 18:46:54
ラピ。師

私は最初ヴィパッサナー瞑想とブッダの教えの実践を行いました。
しかし、それを続けることができなくなったため、
次はスピリチュアルな教えを実践しました。

すべてはひとつである。
偶然というものはない。
しなければならないことというものはない。
善悪というものはない。
信じる必要はない。
努力はしなくてもよい。
現実は中立である。

というようなことを信じて、
これと反対の観念を捨てることを続けました。
それは自我を薄める効果があったと思います。

自我の薄まりとともにエゴが私を苦しめることは少なくなりました。

何かの声が聞こえたり、観照する意識の存在に気づいたり、すべてひとつと体感したり、私のハートから愛が溢れ出すというような今までにない体験も起こりました。

それを私は「楽」の実現と表現しました。

171ラピ。:2013/11/11(月) 23:15:45
☆陽介さん

お返事、どうもありがとうございます!

そうですね。そのスピリチュアルの教えでは
一時期な幸せ感は得られても
そこどまりでしょうね。

私の話をしますと
実は私は「人の為」の意識が欠けていたために
至れなかった経緯があります。

私の場合、実践は自分の限界に挑戦する意味での実践でした。
だから過酷な状況も頑張れました。

でもそれだけでは至れませんでした。
そして師に出会って、師の教えにより
至ることができました。

それが「人の為」であり、「奉仕」です。

「自分」だけでは「自分」を完璧に捨て去ることはできません。
相対的な「人の為」が効果的です。

陽介さんの書き込みから
私の実現した「楽」とは違うようですが
「人の為」の実践は効果ある実践ではないかと感じています。

でも、まだ自分の望む幸せがあるのなら
それをとことん叶えるために実践していくのも
1つの道としてありますね。

道はひとつではありません。
@(*・ω・*)ポッ

172陽介:2013/11/12(火) 07:08:22
TK師、ラピ。師

昨日、「常に感謝し他者のために生きる。」を実践してみました。
とっても苦しいですが、他者のためという意志をとりいれることで、自分のためにはできなかったことができるように感じました。

今後は「常に感謝する、そして喜んで他者のために生きる。」を実践していきます。

ありがとうございます。

173TK:2013/11/12(火) 17:54:25
陽介さん

>昨日、「常に感謝し他者のために生きる。」を実践してみました。
>とっても苦しいですが、他者のためという意志をとりいれることで、
>自分のためにはできなかったことができるように感じました。

苦しいという事は、
今までやってきたものは効果が無かったという事を意味しています。

自分が幸せになるために実践したいのです、
と言う目的でそもそも達成できるものではありませんから、
もともと私にしても「楽」が実現できたと言うのは、
探究の末の副産物として「楽」を手に入れたようなものなのです。

最初からそれが目的でやっていたわけではありません。

あえて以前に目的らしいものがあったとしたら、
事の発端は生きている事が無価値なものなのかどうか見極めたかったというものですね。

実際は楽と苦と言う関係性においては、
苦を先取りして楽になる的な所もあるので、
実践後に楽を実現できたからと言って、
そこに至るまでに苦を必要以上に増大させたという事でしかありませんから、
楽を実現して幸せになりたいと言う目的の人の、
目的にかなうものとも思えません。

174ラピ。:2013/11/13(水) 07:41:10
みなさま、おはようございます!

幸せは求めれば逃げていく、という感じですかね。

自分の幸せのために生きるより、
「自分」を使って人の幸せのために生きることが
真実の幸せへの近道となるかもしれません。

「幸せになろう!」というより、
「いつのまにか幸せになっちゃってる」という生き方が
いいかもです。

@(*・ω・*)ポッ

175TK:2013/11/13(水) 23:47:58
>幸せは求めれば逃げていく、という感じですかね。

その通り。

ここでは何度も何度もおんなじことばっかり繰り返して言わないと、
駄目みたいだね。


>探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
>
>探して見えてくるものは、全てまやかしです。


>私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。


「望んでいる」と言う言葉も、「求める」と言う言葉と同じだから宜しくね、
ご法度なの。

いつまでも望んだり求めたりしているのは勝手だけど、
永遠にたどり着けませんよ。

何度も繰り返して言うの嫌だから、
信じたくなければ死ぬまでどうぞ辿りつけませんからご勝手に、
ご自由に、お止はしませんよ。

でも、くどくなるけどもう一度引用を載せておきましょうか。

これ親切なのか不親切なのか、はたまた、
押し売りなのかわかりませんかけどね、ちょっと嫌になってきましたね。

何で、こうやって重要なポイントを語っているのに、聞き漏らすのかなあ、
張り合い無くなっちゃいますよ。


>>まずは私を使っていろいろ実験して
>>みんなが使える方法を開発するのだ!
>
>これ実はここにはあらわされていない、一つ重要なポイントがあります。
>
>>まずは私を使っていろいろ実験して
>>みんなが使える方法を開発するのだ!
>
>この為に、「私は、まずは私を使っていろいろ実験して、
>みんなが使える方法を開発するのだ!」と言う思いを捨てて実践するのだ、
>と言うのが真実の実践法です。
>
>実践とは私は死ぬまで、この実践を続けて行くのだ、これが至るための方法です。
>
>結果を僅かにでも想定して実践したら、至れません。
>
>命ある限り死ぬまで永遠に実践する、これがポイントです。
>
>色々と至るための必須のポイントがあるのです、
>これらが分からないといつまでも迷路の中で終いには世に沢山うようよいる酔っ払いの一員になる訳です。
>
>例えば世界の人たちのためにと思ったら、
>世界の人たちのためにと言うその思いを捨てて、実践する、
>複雑ですが必要な事なのです。
>
>善であろうと悪であろうと、とにかく「一切の願望」を捨てる、これが至るためのポイントです。
>
>そうすると、しばらくして一人でに至って、自由に色々な事が出来るようになります。

176TK:2013/11/14(木) 07:07:48
陽介さん

>私は最初ヴィパッサナー瞑想とブッダの教えの実践を行いました。
>しかし、それを続けることができなくなったため、

もう一度よく読んでみましたが、まず何でここでできなくなったかですね。

つまり、もしかしたら、効果があったという事だったのかもしれませんよ。

>次はスピリチュアルな教えを実践しました。
>
>すべてはひとつである。
>偶然というものはない。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>現実は中立である。
>
>というようなことを信じて、
>これと反対の観念を捨てることを続けました。
>それは自我を薄める効果があったと思います。
>
>自我の薄まりとともにエゴが私を苦しめることは少なくなりました。

自我の薄まりとか苦が少なくなったとか、あなたの、気分的なものですね。

薬だと思って飲めば、そうでは無いものでもそのように思えてしまう。

理論的には自我を強める教えと弱める教えをごちゃ混ぜんに取り入れて、
これがあなたの掲げたもののごちゃ混ぜんの現実なのですが、
この真実をあなたは聞いて、
理屈で考えてあなたは効果があると本当にお考えなのですか。

専門的に知っているものからすると、かなり、
笑える取り合わせと言うのが真実なのです。

ちなみに、
あなたは我々から見たら自分のエゴを見抜く事も出来ないど素人なのです。

177TK:2013/12/01(日) 10:24:59
ラピ。さんはスピ系を捨てて私の教えに従ったわけですが、やはり、
スピ系では駄目だと言うことが分かったわけですね。

例えばスピリチュアルは屁理屈を唱えながら納得したりする教えのようなものだと思うのですが、
スピリチュアルと言う言葉こそ使わないで、
全く同じような事をやっている者たちを見て、
確かラピ。さんは何度かアプローチを試みたようでしたが、
そういう所の人たちはなぜに、
自分たちが既に酔っ払いの世界にいる事に気が付かないと思いますか。

その人たちには、我々が必要としているレベルの真剣さが足りないから、
気が付けないのだと思います。

その人たちはもしそう言われたら、
私たちは真剣なんですと言うかもしれませんが、こちらにしてみたら、
たかだかその程度で真剣なの、はい、
さようならのレベルの違いの世界の話しですよね。

私も酔っ払い集団を見て、死ぬまであれ続けるのだろうから、
飽きもしないでよくやるなあと思ってますが、しかし、悟る前と言えども、
彼らにはもともと資質など無いと思います、
悟る前の私なら絶対に彼らのような寄り道はしませんでしたから。

そもそも、人が「納得や理解」して聞かせようなどと言う内容に、
「納得や理解」できる段階にはすでに悟る前の私はいませんでした。

人が話をする内容の「納得や理解」と言う行為そのものに、
私が求めているものはそのようなものではないと言う猛烈な不信感と違和感がありましたから、
「納得や理解」させよう聞かせようなどと言う者を前にして、
どんなにありがたそうな話をされても、ついていく気さえ起きませんでした。

自分が賭けてみる価値があるのは、昔から伝承されている聖典以外に無い、
人間の解説など極力入れないそのままに接して真実を掴む、
これしかないと言うような判断が起きたので、
「納得させよう理解させよう」等という意図をわずかにでも含む話をする者たちは一切相手にしない、
これが私のスタンスでしたから。

ですから、ネット上のあの酔っ払いたちを見るたびに、
あの者たちは既に悟りでは無く100パーセント死ぬまで酔っ払いだと見ただけでわかります。

だから、酔っ払いの人たちと悟る前の私は全く違うので、彼らをかまっても、
それは「人を見て法を説け」で無駄な徒労なのです。

至る前の私であってもキリスト教の集会所、教会、様々覗きましたが、
どれも自分の求めているそれでは無いと出来るだけ速やかに見抜けました。

我々にしてみたらあんなもので納得させられて、バカじゃない、
の世界に見えますが、それがその人たちの現実なのです。

これからの教訓にしないとなりませんね。

本質的にワクワク段階が必要な者たちが、
うっかりその場でお喋りしながら心地よくたむろする事に甘んじてしまったのではないですかね。

私に言わせると、宗教の信者と同じで、地に足がついていないのです。

たかだかワクワク段階の実践者に対して、
どこに延々とお喋りを続けて行かなければなら無いような小難しい理論が必要なのでしょうか。

これではワクワクの本質からは大幅に軌道が外れています。

激流段階の実践では規制が主になりますが、
ワクワク段階の実践では自由が主体となるのです。

(続きます)

178TK:2013/12/01(日) 10:25:42
(続きです)

ワクワクは、大した小難しい根拠なしに、
体を動かし行動を起こすことを旨とする教えですが、
屁理屈をこねまわすのが本位になってはもう違う道にそれていてお終いなのです。

あくまで、理論は少なく行動と結果に重要性をおく、
これがワクワク段階の実践法です。

単なる妄想の世界で楽しんでいるだけなんですね。

まさにスピ系や宗教の酔いにはまってしまった人たちとはそういうものだと思います。

もったいないですけどね、何がって、
人間無意識にも酔っぱらいながら生きている間に、
自分の寿命を刻々と削っていると言うのに、
無駄な寄り道自身がもったいないとは思います。

しかし、かと言って私に言わせれば、所詮まがい物に引っかかる自身が、
その者に原因がある、ラピ。さんは頑張って何とかしようと思ったようですが、
本人の素養の問題ですから、私は意味がないと思います。

本当に至れる人は、そのようなものがたとえ目の前にぶら下がっていようと、
絶対に引っかかりません、至る前の私と比べたら、
至る前の私はああいう者たちと比べて何倍も真剣でしたから。

一言に真剣さと言っても主観の部分ですから、
激流段階の実践者なら自分の命と比較してどの程度のものかが真剣さの尺度です。

その事のために命を落してもいいくらいに思えるのかどうかと言う意味です。

ワクワク段階の実践なら、
寝る間も惜しんで熱狂的と言えるレベルでなければ駄目ですね、
私はどこか冷めた部分があるのですとか言う人は、全く持って論外です。

その生き方で何かがつかめたら、
あまりにも人生を甘く見過ぎてバカにしていると言うものです。

私は実践者にはラピ。さんの時もそうでしたが、
何度か突き放そうとする事があります、それでも、しがみ付こうとするか否かで、
その者の「信念」の有無の確認とする事があります。

きっぱりと言いますが、
「信念」の乏しい者は既に渡るための基本が欠けています。

私はラピ。さんに出会う前に実験的に多くの者に話しかけましたが、
それをつくづく思い知らされ、
ラピ。さんに出会ってそれはほぼ確信に変わりました。


大パリニッバーナスッタンタ3・40(ブッダ最後の旅)
>もしお前が修行完成者に懇請したならば、
>修行完成者(=ブッダ)はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、
>しかし三度まで言ったならば、それを承認したであろう。


時々独り言のように何かを吐き捨てる以外では、強く懇請されれば、教えようか、
これが私の基本姿勢で、色々な私なりの実験段階を経ているので、
それ以外で私は本質的に教える事などしたくありません。

私から話を聞き出せて損したり得したりするのは私では無く聞く方なのですから、
ラピ。さんの場合はうまくそのチャンスをものに出来ただけに過ぎませんでした。

しかし、私のこのようなスタンスから確実にものに出来た者が出た以上、
このスタンスは間違いがなかったと言う裏付けとなりました。

179ラピ。:2013/12/01(日) 16:21:29
☆TK師

いつもありがとうございます!

私はスピ系にはまってましたが
(そのおかげでブログがあり、掲示板があるのですが 笑)
それ以前にしっかり実践していましたので
その経験があったおかげで
スピ系を捨ててわりとすぐに至ることができました。

今振り返ってみて スピ系で得たものはなにか?と言えば
いろんな経験ですかね。

私にとってスピ系の教えは至るのに役に立つものではなく、
逆に邪魔をするものとなってました。

私はかつてスピ系で言われていることが本当であるかを
実験していました。

スピ系で言われていることが本当なのか
実際自分で試していたのです。

これはブログだけでなく、
私の日常でもやってました。

スピ系の怖いところは
善悪の判断ができなくなる、ということです。

まだこの次元にいる方は
善悪の判断が実は必要です。

子供を思ってみてください。
子供に何かを教えるとき、
やはり善悪抜きでは教えられませんよね。

子供に「なんでもあり」、なんて教えることができるでしょうか。
いけないときは叱らなければなりません。

でもスピ系は「なんでもあり」を説いていることがあります。

さて、本当なのでしょうか。

単にバカな大人になってしまいますよ、それでは。

そしてスピ系の教えは出来事を都合よく解釈をしてしまう可能性があり、
現実が見えなくなります。

スピ系は一種の現実逃避です。

私はスピ系を経験して、それまでにない経験をたくさんしました。

そしてさて、スピ系で言われていたことは
本当だったのだろうか、、、、。

はてな? です。

私が至る直前に至るのを邪魔していたのは
スピ系のへんてこりんな知識でした。

師とのメールのやり取りも初めのほうは
ほんとうに私は素っ頓狂で
バカ丸出しでした。

常識のない、ポジティブシンキングに近いもので
お気楽、能天気、
ほんとうに失礼な礼儀知らずでした。

そんな私にもお返事をくれたTK師なのです。

TK師を師と呼ぶと決めてからは
TK師の教えに従いました。

スピ系を捨てろといえば捨て、
(その時点ではなにもわかっていませんでしたが
師の教えに従いました。
なぜ?と聞く必要なんてありません。
師と呼ぶからには絶対なのです。
これがほんとの師弟関係というものです。)

その他、師に言われたことは絶対でそれに従っていくと決めました。

そのおかげで今があります。

まずは今までの自分を捨てなければ。
それまでの知識というものを捨てなければ。

そうでなければ自分を飛び越えることはできません。

そしてなにもなくなった 何よりも一番低いものとして
師の教えに従う。

これにより、彼岸への門は開かれたのでした。

これは激流段階での実践です。

TK師、ありがとうございます。


ちなみに私はもともと師を求めてはいませんでした。
同じ次元の人間を師とすることはできませんでした。

でもTK師は違ってました。

TK師以外は私は
決して師と呼ばなかったと思います。

TK師に出会わなければ
私に師はいませんでした。

断言できます。

180名無しさん:2013/12/02(月) 08:40:41
TK師、みなさまおはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

>スピリチュアルと言う言葉こそ使わないで、
>全く同じような事をやっている者たちを見て、
>確かラピ。さんは何度かアプローチを試みたようでしたが、

はい試みました。

自称覚者さんが教えを説いてるところがあるのですが
その教えがこちらからしたら屁理屈だらけのでたらめで
次元上昇してない人の表現でした。

でもその人に「それは違う」、と私がお伝えしても
全く伝わらなかった。

自称覚者は言葉で納得させよう、理解させようとしてました。
そして「自覚」という言葉も普通に使われています。

何度も言ってるけど納得や理解をしていたら彼岸に渡れないのです。
自覚することが悟りだなんて、かつての私と同じレベルです。

悟りについてかつて私は 「悟りとは知ること」
とブログに書いたことがあります。

それは私がまだ彼岸に渡ってない時で、
悟りってこういうものかな
という感じで書いたのですが
まだ至ってない次元にいた私ならそうとしか書けなかったでしょう。

悟りは私にはその頃は異次元だったからです。
そんな私が書いてはいけなかった。

書くなら、まずは悟ってから、でした。

自称覚者さんのもとに集まる人は
彼岸には渡れません。
渡れるどころか、道から大きく離れてしまう可能性があります。

そもそもその自称覚者が彼岸に渡れていないのに
導くことなんてできないでしょう。

自称覚者が悟りについてきちんと語れないのだから。

この「悟りとは気付くこと」を自称覚者がみんなに伝え
みんながその自称覚者を本物だと思い、
「悟りとは気付くことなんだ!」と理解したとする。

全く駄目ですね。
ダメな集団になってしまいます。

彼岸への道は気付きでは通れません。
知ることでも通れません。

やはり激流が必要なんです。

激流とは、自我との戦いです。

自我を納得させたりするのでは自我を消滅させることはできないのです。

静かにすることはできても。

本気で彼岸へ渡りたいのならやるしかありません。
実践しかありません。

理解や納得、自覚なんてしていたら
その場どまり。
永遠に次元上昇はできず、同じ処をぐるぐる回るだけ。

どうにかしてあげたいのだけど無理ですね。

実際、試みたけど無理でした。

それなら、それをとことんすればいい、と思います。

どうなるかは知りませんが自由ですよね。


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