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Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

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管理人「トキ」 敬白

5286神の子さん:2015/03/21(土) 19:30:07 ID:tYFyomJk
「私個人は、個人救済が基本であり、この基本を無視して国家や環境を語っても砂上の楼閣だという解釈をしています。」とトキさんが云い、a hopeさんが同意したのです。

勿論a hopeさんは以前から「個人救済」止めて「環境問題に特化した点」が教団の最もおかしな点としています。

ですから「個人救済が基本」という「救い」の意味を問うているのです。

なぜこれが勉強の邪魔になるのですか?お二人の説が正しいのであれば『生命の実相』に書かれた引用文の意味はどう解釈したらよいのですか?

批判だ邪魔だとかいう前に答えるべきだと思いますが。

5287神の子さん:2015/03/21(土) 20:01:46 ID:tYFyomJk
「自分勝手に間違った前提を作り、」

どこがどう自分勝手の間違った前提なのですか?

5288a hope:2015/03/21(土) 20:22:18 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p157 後から7行目〜

滝村―― ふつうの常識では、病気になれば医者にかかれば治ると思われているのですが、そういう常識に捉われている貧民が病気になっても医者にかかることができないのは悲惨なのです。


谷口―― そういう場合、医者にかかる金を与えるのが救いになるのか、あるいは人間は医者にかからなくとも治りうる自然療能を備えているという真理を知らしてやるのが本当の救いになるかは考え物です。

医者にかかる金を与えればその時は仮に医療費にありついて救(たす)かるかもしれないが、その金がなくなれば、二度目はまた救からないが、真理を知って自然療能の尊さを知って救かったら永久に医療費が要らなくなるから、無限の医療費を貰ったということになるのです。だから「生長の家」の真理を知らしてやることは彼らに無限の医療費を供養することになるのです。

5289a hope:2015/03/21(土) 20:23:43 ID:cEpBaIdo

>>5288 a hope所感)

医者に医療費を払えない様な教養のない貧民に『「生長の家」の真理を知らせる』には、
具体的にはどうすればいいのでしょうか?
この後、滝村氏はさらに雅春先生にそのことについて質問しています。

続けて謹写していきます。

5290a hope:2015/03/21(土) 22:26:46 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p158 4行目〜

滝村―― ところが、「生長の家」の真理はなかなかむずかしい。教養のない貧民にそれをしらせてやることはとうてい不可能のことだと思います。


谷口―― 決してそれは不可能ではないのです。医者の薬が病気を治すということも、貧民がそれを研究して知っているのではないのです。ただ一般にそういうから、その宣伝に乗ってそう思っているだけです。そして金がなくて医者にかかれないことを不幸なんぞのように思って苦にやむのです。

わたしに言わせれば、 医薬費を出しうる富豪の方が、医者にいい加減にゴマ化されて、軽い病気でも重く言われたり、あるいは恐ろしい病名を宣言されるだけで恐怖心を唆(そそ)られたりして、かえって病気を重くしている例の方が多いと思うのです。

その点は貧民は、病気にかかっても医者にかかる金がないと背水の陣を布いてしまっているから、罹病率が非常に少なく、自然療能に頼るしか仕方がないから、自然療能が強くて病気がはやく癒えるのです。貧民は貧乏だから病気に罹ってかわいそうだとあなたは言われるが、わたしに言わせれば金持ちは医薬費があるから病気に罹りやすくてかわいそうだとも言えるのです。

薬そのものに癒す力がないということは医薬を十分研究している医者自身の方が知っているのです。普通の人は医学を研究したことがないから宣伝だけで雷同して薬の卓効(たっこう)を信じているのですが、そんなものではないのです。

先日も・・・(中略)・・・

要するに一般人が医者の薬を効くと思っているのは、一般人が深く医学を研究してみた上で信じているのではない。この実話でもわかるとおり、研究している医者自身はかえって薬効を深く信じないで、ただ宣伝にかかっている素人だけが、信じているのです。

なんでも大衆というものは、自分で研究もしてみないで宣伝のとおりに信ずるものですから、「生長の家」の真理でも、深くそれを読みこなして、本当に真理を摑むことは至難であるにしても、「人間の病気は薬よりも自然療能を喚起すれば治る」という結論だけを信じさせることは、社会の先達の位置にある知識階級が宣伝するだけでよいのです。宣伝すれば大衆は信じて幸福を得るのです。

ところが現在では、貧民は栄養不良で、過労で、生活環境が悪いから病気に罹る、そして病気に罹れば薬がないと治らないというような宣伝ばかりが多く行われているから、貧民を恐怖さし、貧民の頼りうる唯一の医者たる自然療能を鈍らし、どんな不遇にもズンズン伸びて行ける生活力の芽を刈りとってしまって、貧しい人をいやが上にも不幸に押し込んで陰惨な状態に陥れているのです。

5291a hope:2015/03/21(土) 22:30:25 ID:cEpBaIdo

>>5290 a hope所感)

わたしは、病気になれば医者にかかり薬をもらって服用していますし、家族もみなそうしています。
現代の日本では、ほとんどの人が医者にかかることが出来ると思うので、
この対談の当時の状況とはずいぶん変わってきてしまっていると思います。

しかし、医学の進展した現代であっても、不治の病は存在しますし、
いくら薬を服用しても全く効果のない場合もあると思います。

それになによりも、「真理」を知って一生医者にかからず健康でいられるのならば、
それほど幸せなことはありませんよね!


以前、どこかで「生長の家の教え」にハマるのは、インテリが多い、と聞いたことがあります。

>>5277でトキさまご紹介の稲盛和夫氏もしかりですね!

わたしは自分にインテリジェンスがあるとは思っていませんが、勉強することは大好きですので、
「生命の實相」のような霊的波動の高い内容の本を読破していくことに魂の悦びを感じます。

「生命の實相」は拝読するだけで、魂を向上させ、「真理」を悟ることが出来る「聖典」なのですから、
「生長の家」にご縁のあったわたしたちにとっては「必読の書」ですよね!

5292a hope:2015/03/21(土) 23:14:42 ID:cEpBaIdo

>>5279るん吉さま

>>5248で、雅春先生が、

<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するのです。しかし、一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。
地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。>>

と「真理」をご説明くださっていて、その文中に「心が清まる」という表現があるのですが、
どなたかが、そのことを大きく曲解されて、

<<東北大震災の津波で亡くなった人達は皆さん心の清くない人達と云うのですか?
東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達ですか? >>

と的外れな質問されているようですが、


わたしは、世の中に心の清くない人など一人も存在しないと信じています。

ここで雅春先生がおっしゃっている「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。
だから、真理を悟っている方にとっては、たとえ現象に地震や津波が現れていても、それは影でしかないと思います。

また、どんな人間でも「実相の心(神の心)」の周りを包むツミ(迷い)を取されば、
そのままの清まった「神の心」が顕われて、悟ることができるのだとも思います。

そして、本来「悪い心」などない、「清くない心」などもない、 
『わたしは「神の子」うれしい たのしい ありがたい』というのが、
「生長の家」の実相独在の真理なのだとわたしは信じています。

5293神の子さん:2015/03/22(日) 05:49:08 ID:8wK9.k12

>>5248で、雅春先生が、
<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するので
す。しかし、一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人を
その天災は害することはできない。>>

と「真理」をご説明くださっていて、その文中に「心が清まる」という表現があるのですが、どなたかが、そのことを大きく曲解されて、
<<東北大震災の津波で亡くなった人達は皆さん心の清くない人達と云うのですか?東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達
ですか? >>と的外れな質問されているようですが、わたしは、世の中に心の清くない人など一人も存在しないと信じています。

**これこそ『実相』を観念で捉えている観念論です。「われわれの心が清まれば起こらなくなるのです」「清まれば」と書かれているのです。
変化していく心を問題にされています。「世の中に心の清くない人など一人も存在しないと信じています。」この言葉は『実相』の概念に自己満足
している姿です。

ここで雅春先生がおっしゃっている「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。
だから、真理を悟っている方にとっては、たとえ現象に地震や津波が現れていても、それは影でしかないと思います。

**「地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するの
です」ここに「地上全体の【生物の心】が清まらなくてはならない」と書かれています。地上全体の【人間の心】が清まらなくてはならないと書か
れてはいない。動物が、植物が悟りますか?「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。とのa hopeさんの意見は
「生物の心」と書かれていることを見落とした自己解釈です。
「真理を悟っている方にとっては、たとえ現象に地震や津波が現れていても、それは影でしかないと思います。」これも同じで、
「「たましいの救い」とは最も厳粛な意味での救いでありまして、救われるということはわれわれのたましいが個性をもちながらも神または仏そのもの
なる大自在の境地…欲しいと思う事物はそこに現れ、欲せざる事物はそこから姿を消すというような大自在境にに達するということであります。」
       「頭注版一巻p23」
に反する発言です。現象だから悟れば気に掛からなくなるなんてことは言っていない。「心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することは
できない。」との言葉にも反します。
「地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから」からこそ動物を殺して食べるのはやめよう、安いからと外材の輸入をすることで、穀物を生産
する場の確保のためとして材木の伐採をすることは止めよう、との今の教えがあるものと考えます。生命の実相か忘れましたが、屠殺の時に牛が涙を
流す場面が書かれ、食肉の為に動物を殺すことの罪悪について書かれたところがあります。杉檜の植林によってどんぐりの木椎の木などの雑木と呼ば
れる木々の伐採により、山の動物の食物を奪う結果を造り今里に猪、鹿の出現を見ています。昔はまがった松を上手に利用し棟木にしました。
人間の欲のための植林をしながら、今は外材に押され、林業の跡継ぎも減っている有様です。間伐さえままならない所もあります。

食事から食肉文化が無くならない限り「地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから」という『生命の実相』の言葉は成就しないのです。
この言葉の成就を目指して教団は進んでいると考えます。

「そして、本来「悪い心」などない、「清くない心」などもない、 『わたしは「神の子」うれしい たのしい ありがたい』というのが、
「生長の家」の実相独在の真理なのだとわたしは信じています。」なんて浮かれながら肉食をするのですか?a hopeさん

5294神の子さん:2015/03/22(日) 06:09:51 ID:8wK9.k12
簡単に言えば食肉にされる動物の嘆きの声、樹木の伐採による食物の減少による動物の嘆きの声、人間の欲望による開発のため伐採される樹林の嘆き、


これらが無くならない限り、「地上全体の生物の心が清まらなくてはならない」の言葉が実現することはない。

そのための運動がなぜ『生命の実相』に反する事なのですか?ノーミートなんてと云うあなた方こそ『生命の実相』に反することをしているのです。

5296神の子さん:2015/03/22(日) 09:29:38 ID:8wK9.k12
>>5295
深海魚さん わたしはトキさんのように卑怯ではありませんので、縹さんと同じく普通に返事しますね

棚口雅敏さんは聖使命会員なんですか?そして世界の平和を願っているのですか?

であれば遺憾と申すべきですね、そうでなければ何の問題もありません。

あくまで、生長の家を信じるという人間に対していっているのですから。

こういった掲示板なりブログなりで生長の家の真理の能書きを言う人に対してのものですので、只静かに自分は信じているという立場の人が
どんな行動をしてもそれは構いません。

5299神の子さん:2015/03/22(日) 11:58:26 ID:8wK9.k12

<雅敏さんは、聖使命会員であるかどうかは、知りません。しかし、そんじょそこらの一般人でもありません。雅宣総裁のたいせつなご長男さんです。>

親鸞聖人も息子の善鸞がよからぬ教えを説いたことで勘当しています。よく兄弟がどうのこうのと云われますが、秩序を破ることをしているのではありませんか?
真理をないがしろにするもの、秩序を破るものには義絶は仕方ありません。息子ではありますが大切なと云うことはないでしょう。

<で、彼は、「世界平和」を、願っている人か、願っていない人か、どういう精神のお方か、神の子さんには、おわかりでは ないのですか?>

知る由もありません。

<雅敏さんも、ここをご覧になっておられるとおもいますが>

こんな想像での発言では以下の発言には意味がありません。

<全世界の人が、肉食をやめないかぎり、世界が清まらないという新宗教みたいな考え方は、極極狭い範囲の人間たちしか共感できないマスロビィクス的な考え方で、こんなことを
いってはわるいですけれど、そのような考え方を強要される教えでは、いづれ、近い将来、限界がくると思えております。 >

「地上全体の生物の心が清まらなくてはならない」は『生命の実相』に書かれていることで地震津波等の大規模災害の起きる原因であると神が書かせ雅春先生が筆を執ったという
聖典に書かれていることです。

私の解釈が違うというのなら、まずあなたがトキさん、a hopeさんに代わりに解釈してください。聖典の解釈の相違を論じることが誌友会の邪魔をすることとは考えません。

5300神の子さん:2015/03/22(日) 12:10:27 ID:8wK9.k12

<問題にされてる文は、どうでもいいようなはしっこの部分であると感じております。>


生命の実相の一言一句神の言葉であると評価した人もいましたが、貴女にはどうでもいいような端っこの部分が説かれているというのですね。

<「心が清まる」という意味は、「真理を悟る」と同義だと思うのです。>とかって解釈したことも書きましたが、貴女も同じように取捨選択しながら生命の実相を読むのですね。

そしてこれはどうでもよい文章と判断しながら生命の実相を読むと云われるのですね。

5303神の子さん:2015/03/22(日) 13:26:04 ID:8wK9.k12
>>「地上全体の生物の心が清まらなくてはならない」は『生命の実相』に書かれていることで
地震津波等の大規模災害の起きる原因であると神が書かせ雅春先生が筆を執ったという聖典に書かれていることです。<<

この文についてを、
神の子さんは、「全世界の人が、肉食をやめることが、心を清めることだ」と、捉えるのでしたら、それは、どう考えましても、全世界の人が,肉を食べなくなることなどは、
不可能なことですから、永遠に、地震津波等の大規模災害の起きるということになります。

○だからあなたの解釈を聞いています。いつの日か地震津波が無くなると書かれている、そのためには「地上全体の生物の心」が清まらなくてはならないと書かれている。
「地上全体の生物の心」とはどんなものですか、あなたの解釈を教えてください。

「心を清める」につきましては、人間というものは、現象世界では、知らず知らずのうちに、神様から授かったままの、生まれたままの、そのままの良い心(無私、利他的な心など)
だけでなく、この世に生きて行くうちに悪い心(猜疑心、恨み、嫉妬、悪意、利己心、欲深い心など)で、曇って、心が塞がっているものですから、それを、「生命の實相」や、
聖典などを読み、神想観、浄心行、愛行したりして自分の心を顧みる….ということをして、生長の家では、「心を清めて」心をさっぱりさせて生きて行くというときに、昔は,
「心を清める」というふうに言っていました。

○これも「地上全体の生物の心」がどんな意味か分からなければ分かりませんね。わたしは文字どうりすべての生命あるものととらえますが、貴女は人間だけを指しているというのですか?
上の説明では本を読み神想観し浄心行し愛行をして心を浄めるという。動物植物鉱物には心は無いのですか?

人間は、この世に魂の修行にきているので、おのおのが出会う体験には、魂の進化のために無駄はない、!ということが さまざまな例で、教えられていると思います。

○人間は女の子宮から生まれたことは一度もないとか言いませんか?人間はこの世に生まれ修行しているのですか?
前にも聞きましたが、人間は何時低級霊になり高級霊になった暁に人間はどうなりますか?


私の解釈では地上天国は来ないと云うことですね、ではどうしたら地上天国は来ると教えられていますか?地震津波が無くなるにはどうしたらいいと書かれていますか?

5307a hope:2015/03/22(日) 20:11:38 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p160 9行目〜

滝村―― 薬剤の功罪いかんの問題は別として病気に罹れば医者にかかるという通念がまだ現在は一般人にあります以上、貧乏のために医者にかけず子供を失い、あるいは親を亡くしたという場合、その貧困が遺族に与えた悲しみは最大の打撃になると思います。

医者にかけても駄目な病人だったとは思いながらも、医者に一度でも見てもらっておけばよかったという嘆きがおこるのは普通で、まだ「生長の家」の真理を知らない人にとっては、医者にかかることの方が不幸に思われ、不幸にして医者にかかりえないことを、みずから幸福であると悟っている人はまったくなく、この点当事者にとっては貧しく医者にかかりえないことを不幸と感ずるほかはないのであります。


谷口―― そこで、あなたのような貧民愛の深い人が出現して街頭に立ってでも、医薬なくともたいていの病気の治りうる理由、人間は環境に支配せられるものではなくて、自覚さえ強まれば勇気さえ出せば健康上にも社会上にも頭をあげうるゆえんを宣伝して下さる必要があると思うのです。不撓(ふとう)の意気と不屈の努力さえあれば、現在でも貧賤から起って、少なくとも貧賤の階級を脱して中産階級程度に昇りうる機会はたくさんあるのです。可憐な婦女子でもそれができないことではない。一例をあげれば、
・・・(略)・・・
逆境は必ずしも人間を不幸にしない。人間を不幸にするのは、環境に甘える心だということがわかるのです。


滝村―― しかし外から改造して住みよい世界を造ってゆけば、内から浄まるよりも早く浄まるのではありますまいか。


谷口―― 早いかもしれない。しかし、どういうふうに改造するかの構図を作るのは人間の心だから心がよくならないでいて、形の構図を立派につくることはできない。まず、心をよくしなければならない。そして内部の力を発現させて徐々に人生にその影を刻んでゆく。この方がよいのではありますまいか。

とにかく、外から物質の豊富さと安易とを与えることによって人間は幸福になると考えている点において、そういう考え方は人間の生命の自主的な創造力を否認して、人間を一個の木偶人形(でくにんぎょう)にしてしまっている点において賛成できないのです。


滝村―― わたしは今気がつきましたが、形の世界が現実界(うつしよ)【念の影の世界】であるとしますと、今まで外から浄める方が早く浄まるのじゃないかと考えていたのが誤りであると気がつきました。

牛乳瓶は外から見てきたなく見えていても、それは内側に牛乳のカスがついているからであるとしますと、外から洗う方が手っ取り早いと思っていくら外から磨いても美しくなりっこはない。形をいくら変革しても、それを運用する人間の心が浄まらなければ別な点において新しい組織の運用に欠陥を生ずる!

わかりました。わたしは社会をよくする道は、ただ『生命の実相』の真理を宣伝しさえすればよいのだということがわかりました。この考えは急にわたしの頭に閃いて来て、今までわたしの心の中を占領していた疑問がスッカリ溶けてしまいました。

5308a hope:2015/03/22(日) 20:15:19 ID:cEpBaIdo

>>5307 a hope所感)

この第五章では、滝村氏が雅春先生と対談することで、徐々に真理に目覚めていく様子がうかがえます。

滝村氏は貧民を救うのは、外からの物質的援助をするなどして社会改造をするしかないと考えていたようですが、
結局は、社会を本当に良くするためには、人々の心を変えなければならないことに気がつかれます。

そして、

<<形をいくら変革しても、それを運用する人間の心が浄まらなければ別な点において新しい組織の運用に欠陥を生ずる!>>

とおっしゃっています。
ここに、『人間の心が浄まる』という表現がでてきました。

そしてさらに、

<<わたしは社会をよくする道は、ただ『生命の実相』の真理を宣伝しさえすればよいのだということがわかりました。>>

と断言されています。

それは、言いかえれば、

「この社会をよくするためには、人間の心を浄める(清める)ことが必要で、それには、人々に「生命の実相」の真理を伝道し悟らせればいいのである」

となりますよね?

少なくともわたしの信じる「生長の家」の第一の使命とは、そういうことです。

このことから考えると、残念ながら、聖典「生命の實相」を失い、「生命の実相」の真理の伝道に積極的ではなく、
環境保護という外の世界の改造ばかりにご熱心な現教団は、どう考えても「社会をよくすることはできない」という結論に達してしまうのですが・・・。

みなさんはそうは思われませんか?

5309トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/24(火) 20:47:37 ID:TsXze1oc
 少し観点が違いますが、青少年練成会などで、どうしようもない不良だった子供が
更生して立派な人になったり、大人の練成でも倒産寸前の会社が再建されたり、たく
さんの人が救われました。個人が救われたのですが、それが社会という観点から見た
ら、世の中がよくなったとも言えます。人間の心が変わるというのは、それだけの
偉業だと思います。

 その意味で、個人の救済から始める事が、結果として、社会のため、国家のため、
世界のためになるのかもしれないと感じています。

5310a hope:2015/03/24(火) 21:54:51 ID:cEpBaIdo

>>5309トキさま

トキさまのご意見に心より賛同させていただきます。
わたしも個人の心を救済してこそ、社会がよくなるのだと感じています

「日本国の実相顕現」も「世界平和」も個々の魂が浄められてこそ達成できるのだと思っています。

5311a hope:2015/03/24(火) 23:02:14 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p164〜

谷口―― 牛乳の瓶の穢(よご)れは内側に牛乳のカスが付いているから外からいくら洗ってもそれはとれない――それはあなたのおっしゃるとおりです。現代人の経済観念は、物質は「蓄(た)めて置かねばたりなくなる」という、物質有限観という人間の「迷いの滓(かす)」が牛乳瓶の内側に蓄(たま)っているから、外側から見ればそれが搾取でもなんでもして蓄めて置かねば損だというふうにあらわれているのですが、それは心の牛乳瓶の内側に「欲ばる心」という「迷い」のカスが溜まっているからであります。

人類に欲ばり根性がなくなり、報酬がなくとも励みが出て、働いて進歩しうるように人類の多数がなってくれば、人間は金の必要がなくなる。すると金で追い廻して人間を使おうとしても無駄のことであるから、そんな馬鹿なことをする人間も無くなるのです。金に追い廻される人間、金に縛られる人間があるからこそ金で人間を追い廻したり金で縛ろうとする人間も出てくるのです。

みんな自分の心が環境に現れるのです。みんな欲ばって、人よりは余計月給を貰おう、人を押し倒して人よりは余計地位が上がろうなど考えているから、みずから長時間勤務という制度を作りあげてしまって、我と我手で自分を縛り苦しめることになったのです。人を押し倒して自分が上にあがろうなどと思っているから、月給は余計貰っても、無理をして、人間らしい家庭の楽しみも味わえず、苦しんで、自分の欲ばり根性は棚に上げて、雇い主を怨んだりすることになるのです。怨むならば自分の心ばかりです。

自分の心が変われば、そのような外界が変わってくるか、それとも自分というものとその環境というものとが調和しなくなりますから、その人は自然にそういう環境を出てもっと自由な勤務につくことができるようになるのです。そして、その環境、状態が自身の心に相応するような代わりの人間がその環境に這入って来て、そこでまたその人が、心相応に鍛えられることになるのです。何事も無駄はないのです。心相応の人が心相応の世界で鍛えられるようになっているのがこの世界であります。


滝村―― なるほど、大変よくわからせていただきました。

5312a hope:2015/03/24(火) 23:07:17 ID:cEpBaIdo

>>5311 a hope所感)

この滝村氏の「牛乳瓶の内側にたまったカス」の例えは具体的でわかりやすかったです。

結局、人間も同じなんですね。
どんなに外見を磨いて綺麗にみせているつもりでも、その心は見抜かれてしまう。

だからこそわたしたちは、正しい信仰をして心を浄めていくんですね!

5313コヨーテ:2015/03/25(水) 09:08:44 ID:NBWk5vHk
>>5311>>5312、修養みたいな感、うけますよね。修養では、無理ですね。

5314a hope:2015/03/26(木) 06:46:48 ID:cEpBaIdo

>>5313コヨーテさま

コメントありがとうございます。
ですが、大変申し訳ないのですがよく意味が通じません。
もう少し、詳しくご説明くださるとうれしいです。

5317応援:2015/03/29(日) 16:06:44 ID:ibklqf52
A hopeさま

y欲張り根性がなくなり、、、、
そういうところが、修養っぽくおもえるということではないでしょうか、

5318神の子さん:2015/03/29(日) 16:33:43 ID:???
古桶の底をぶち抜くことを修業と云うのであれば

溜まった水を浄めることを修業と云うのであれば

吾が心と云う古桶をそのままにして修行と云うのであれば

5319a hope:2015/03/29(日) 23:09:35 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

コヨーテさんのコメントの内容がわたしにはよく理解できなかったのですが、
>>5317の応援さんのコメントを拝見して、コヨーテさんが言わんとしたことがなんとなくわかったようなきがします。

つまり、修養には「欲ばり根性のような汚い心を半ば強制的に外からの訓練によって叩き直す」ようなイメージがあるので、
それが、牛乳瓶の外側だけを磨いて綺麗にしていることのイメージと重なり、
そして、そのような修養的なやり方では、本当に心を浄めることは無理だとおっしゃりたかったのでしょうか?

そうだとすると、コヨーテさんのおっしゃることは、その通りだと思います。

心を浄め、真理を悟るためにはどんなに辛い修行をしても駄目だということは、
すでに釈迦やキリスト、そして谷口雅春先生が証明してくださっていますものね。

わたしは自分の心がどれだけ浄まったかは、
どれだけ自分の置かれた環境に「感謝」できたかでわかるのではではないかと感じています。


実は、わたしはここのところいろいろとありまして、なかなかゆっくりパソコンに向かう心の余裕がありませんでした。

家族が具合がわるくなったり、仕事で失敗したり、子供が問題行動を起こしたり・・・ちょっと気づかれすることが重なり、
精神的に追い込まれ、実際、一晩眠れないくらい心が動揺した夜もありました。

ですが、どんな困難があっても、どんなに苦しんでも、
「その困難や苦しみは自分が生長できる大きなチャンスだからありがたいんだ」って思うようにしました。

そしたら、本当に次の日朝の神想観で瞼の裏に素晴らしい光が見えて、すがすがしい気持ちになることができて、
それから、すべてが好転していきました。

そういう意味で、自分から辛い修行を求めなくても、今現在の自分の置かれた状況に感謝できるようになるのが、
それが一番の修養になるのではないかと感じています。

5320a hope:2015/04/01(水) 07:44:54 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

4月に入りましたので、第33回 web誌友会を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5321a hope:2015/04/01(水) 07:46:43 ID:brQxC10.

つづきまして、聖経「続 真理の吟唱」より、謹写させていただきます。


「神の聖愛と叡智を受けて益々向上する祈り」

われ今、宇宙の大神の神前に坐して真心を献(ささ)げて感謝し奉る。
永劫の過去より久遠の未来に到るまでに常に我と倶(とも)にいまして、我を導き護り給うその海よりも深く、山よりも高き御恩に対し感謝し奉る。

われ大神の神子(みこ)として地上に誕生してより以来、常に神は我を護り、教え、導き、必要に応じて、魂の向上に、精神の発達に、肉体の健康増進に最適なる糧を、色々の経験を通じて恰度(ちょうど)適当に与え給うのである。

神はまことにわが生命(いのち)の父であり、また母であり給う。
わが魂を養うために何を今、その時、その場に与えるが最もよきかを知り給うのである。
必ずしも〝甘い〝 経験ばかりが魂の栄養にはならないということを知り給うのである。
時には厳しい環境が私にとって魂及び精神並びに肉体の鍛錬のために必要なることを知り給うのである。
これは神の〝父〝 としての峻厳なる叡智的愛なのである。
もし峻厳なる神の父性的愛がなかりせば、私の魂も精神も肉体も、常に温かな潤いの中のみに育てられて、例えば〝もやし〝 の中で育った荳の蔓(つる)の如く、ウドの軟弱にして、すぐ腐ってしまう茎の如く、まことに脆い軟弱なものになっていたに相違ないのである。

わが今日、いかなる困難にも毅然として耐えることが出来、如何なる複雑錯綜せる事態に面しても、周章(しゅうしょう)狼狽(ろうばい)することなく、神の叡智につながる心の導管(どうかん)を開いて導きを受け、快刀乱麻(かいとうらんま)に截(た)つが如くに自由自在に事を処理し行くことが出来る力は、まことにも父としての神の峻厳なる愛と智との巧みなる配剤によって養われたのである。
今、私はこの事を顧みて、大神に無限の感謝を献(ささ)げ奉る。

困難や苦痛や、時には悲哀さえも私たちはそれをみずから体験することによって、困難に面して将(まさ)に崩折(くずお)れんとする人の心境を知ることが出来、それらの人々の心に真に同情し、彼らに自己同一し、彼等を真に愛することが出来るのである。
愛は神の母性的顕現として来たるのである。
峻厳なる神の父性的顕現の奥に、その深奥(しんおう)の幽(ゆう)なるところに、神の母性的愛はましまして、吾らが困難に躓き倒れ、苦痛に将に悶絶せんとする時に、隠れたるわが意識の奥にて吾らを支え給うのである。
困難に耐える力を鼓舞(こぶ)し、悲しみの奥に聖地があることを、それとなくわが意識の奥底から囁きかけて下さり、再び立ちあがる力を育み下さるのが、神の母性的愛なのである。

かくて冷厳なる法則としての神の父性的顕現と、天人の羽衣の如く柔らかく、春の霞の如く温かく、見えざる慈手(じしゅ)をもて、吾らを抱きあげ給うところの神の母性的顕現と、この両者の調和せる導きと、み護りと、叡智と聖愛とがあったればこそ、私の今日の愛と智慧とを備えた生活があるのである。
吾らの父にして母にまします神に無限の感謝を献(ささ)げます。
ありがとうございます。

5322a hope:2015/04/01(水) 07:49:00 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第33回 web誌友会 案内 

期間   4月1日〜4月30日まで
テキスト 「生命の實相」第17巻 宗教生活篇 
内容   第1章〜第4章
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆


この17巻の宗教生活篇には、第1章と第2章に講演会での講演内容、
第3章と第4章に座談会での座談内容が収録されています。

真理は個人の生活に生きてこそ本物だと思います。
自分が光れば周りも明るくなりますものね。

これからも聖典「生命の實相」の真理を学んで、人類を光明化していきましょう!

5323トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/01(水) 22:15:53 ID:/cKczFlM
a hope様、ありがとうございます。
今月もよろしくお願いします。

 皆様もどんどんご参加をお願いします。

合掌 ありがとうございます

5324a hope:2015/04/03(金) 21:22:36 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p1

はしがき

〝生命の實相哲学〝 の説く中心真理はなんであるかというと、現象界は唯心所現であるから、心に従って自由自在に貧でも富でも病でも健康でも不幸でも現すことができるということである。
これを〝横の真理〝 という。
それからこの哲学の〝縦の真理〝 は、人間は本来、神の最高の自己顕現であり、如来であり、無限の生命、無限の知恵、無限の愛、その他すべての善徳に充ち満ちた久遠不滅の存在である――これがわれわれの実相であるということである。
この〝縦の真理〝 と〝横の真理〝 とを縦横に駆使して人生を支配しうる生活が本当の宗教生活であるのである。

宗教というものを死後の生活のためのものだと考えるのはまちがいである。
宗教は生命の不滅を教えるものであるから、死後にも生命が存続する限りにおいて死後の救いをも説くけれども、今生きている生命の救いが成就しないような宗教で、死後も存続する生活の救いが成就することは不可能であるのである。
生長の家の教えがすぐれているのは、宗教的真理を実生活に応用して、その真理を悟れる人々の身辺に、今ここに、天国浄土が実現するからである。

今ここに天国浄土を実現する道は仏教でもキリスト教でも説かれているが、それがたいてい忘れられているのである。
本書の一五一頁に小木虎次郎博士とわたしとの問答がある。
「趙州和尚(じょうしゅうおしょう)が僧堂にいると弟子が道を聴きに入ってきた。趙州和尚は〝何を担いで来たか。その担いでいるものを放して来い〝 としかりつけたという話がある。〝無だ、無だ〝 と言って〝無〝 を担いでいる人がある。無というもの〝 だと思うから〝無〝 を担ぎたくなる。〝無〝 とは〝なんにも無いことじゃ〝 とわかったらもう担がなくなる。〝裸になってすべてを捨ててこい〝 と言ったら、着物を脱いで来ることだと思って身体(からだ)を真っ裸にして出て来るようなことでは、〝まだ何か股間に提(ひっさ)げて来ているぞ〝 と言われてまごつくようなことになる」と小木博士が言っている。
この何ものをも摑まなくなり、露堂々と生命の実相の完全さが露呈するようになったとき、その人の生命は自由自在となって病気も貧乏も家庭苦もいっさいの生活上の問題が解決するのである。

宗教生活はいっさいの否定をとおして、〝無〝 さえも否定しきって、その奥にある生命の実相の大自在を発揮する生活である。
死んでから宗教の救いがはじまるのではなく、生きている今本当の宗教生活があるのである。
キリストも「死にたる者に死にたる者を葬らせよ」と教えている。
読者が本書を読むことを契機として真に大自在の生活に到達せられんことを希望してやまない。

因みに本書の対話の中に出て来る人名はことごとく実在の人であって、石川芳次郎氏はそのころ京都電燈の社長であり、ただ今は京福電鉄の会長をしている。
小木虎次郎は石川氏の岳父であって明治初年の〝博士〝 の稀有なころの工学博士である。
岡善吉氏はそのころ京都ガスの支配人であったが、今は大阪ガスの重役をしておられる。
そのほか本書に出てくる人は、いずれも懐かしい人たちばかりである。
『生命の實相』の頭注版がでるに方(あた)って更(あらた)めて芳名を掲げて敬意を表する。

昭和三十八年七月十日   

著者しるす

5325a hope:2015/04/03(金) 21:25:21 ID:cEpBaIdo


>>5324 a hope所感)

聖典「生命の實相」はどの巻も『はしがき』が素晴らしいのでわたしは読み飛ばすことができません。

「縦の真理」―― 人間神の子 (唯神実相)
「横の真理」―― 唯心所現 

このふたつの真理が〝生命の實相哲学〝 の説く中心真理であり、
<<この〝縦の真理〝 と〝横の真理〝 とを縦横に駆使して人生を支配しうる生活が本当の宗教生活であるのである。>>
と、述べられています。

人生を支配するには、どちらの真理もおろそかにできないというわけですね!

この17巻なのですが、わたしの頭注版にはまったく赤線が引かれていませんでした。
ということは、わたしはまだこの巻は未読だったわけです(;´∀`)

どんな内容なんでしょうか、ワクワクしています。
みなさんもぜひ一緒に拝読してみてくださいね!

5328神の子さん:2015/04/04(土) 08:54:01 ID:???
a hopeさま

でも、やっぱりこっちだよね。「縦の真理、人間神の子」

根本真理だから。

横の真理ぽっちは案外誰でも知ってたりするけど、(#^.^#)

5329神の子さん:2015/04/04(土) 09:16:30 ID:p..UGkhA
上はるん吉でした

5330神の子さん:2015/04/04(土) 12:21:43 ID:RwGVxWiM
51 :神の子さん :2015/04/04(土) 08:57:25 ID:p..UGkhA教区板に続き、

独占板 ( *´艸`)

5331神の子さん:2015/04/04(土) 14:00:03 ID:UgE//uj6
>>5319


5332るん吉:2015/04/04(土) 15:05:00 ID:???
a hopeさま
>>自分が大きく成長できるチャンス。
>>自分から辛い修行を求めなくても、今現在の自分の置かれた状況に
>>感謝できるようになるのが、・・・

読ませて頂きました。けど、自分は応援さんのいうよのがちと分かるかなぁ。ですね。
感謝も難しい時はあるし、それを自力で感謝やったら、現象の心でやるわけやから
これも、修養ですよね。
私はa hope様みたいに人間出来てないから、難しいかな。

5333a hope:2015/04/05(日) 10:09:48 ID:cEpBaIdo

>>るん吉さま

わたしはここでは偉そうなことを言っていますが、現実には全然大した人間ではありません(;・∀・)

日々、偽我(ウソの自分)との戦いです。

現象のわたしには欲ばり根性もしっかりありますし、見栄をはりたい時もありますし、
相手を傷つける言葉を発してしまったり、態度をとってしまったりして、
落ち込むこともよくあります。

でも、以前よりはそういう自分にこだわらなくなりました。
それは、そんな自分は真我(本当の自分)ではないんだとわかっているからだと思います。


例えば、子供が悪さをして暴れている時など、頭から叱らないで静かにさとすように、

「こんな悪さをする○○君は、本当の○○君じゃないんだよ。それはウソの○○君だね。
お母さんは本当の○○君を信じているよ。」

と言ってあげると、必ず静かになって悪さをやめてくれます。
「実相を見る(信じる)」とはそういうことなのではないかと思います。


『感謝』に関しては、わたしもるん吉さまのおっしゃる通りだと思います。

「感謝しなくては・・・」という気持ちでするのであれば、
それは「現象の心」で無理やりすることになってしまいますものね。

わたしは「感謝の気持ち」とは実相の〝気づき〝 であり『悟り』なのではないかと感じています。

だから、『感謝』は内から湧き上がってくるものでなければ本物ではないと思います。

わたしはそこのところがわかったときに「大調和の神示」の内容がよく理解できました。

そして、本当の「和解」とは「感謝し合うこと」であり、
それができたとき、現象世界に「生長の家」が復活するのだと信じています。

5334a hope:2015/04/05(日) 10:11:57 ID:cEpBaIdo

「大調和の神示」


汝ら天地一切のものと和解せよ 天地一切のものとの和解が成立するとき 天地一切のものは汝の味方である

天地一切のものが汝の味方となるとき 天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ 

汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ 

われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき 先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である 

汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である 神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ 

天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である 

本当の和解は互いに怺え合ったり 我慢し合ったりするのでは得られぬ 

怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ 感謝し合ったとき本当の和解が成立する 

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ 

天地万物との和解が成立せねば 神は助けとうても 争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ 

皇恩に感謝せよ 汝の父母に感謝せよ 汝の夫又は妻に感謝せよ 汝の子に感謝せよ 汝の召使に感謝せよ 

一切の人々に感謝せよ 天地の万物に感謝せよ その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見 わが救を受けるであろう 

われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる 

われは此処に見よ 彼処に見よと言うが如くにはいないのである 

だからわれは霊媒には憑らぬ神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ 

われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ 

われは愛であるから 汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる 

(昭和六年九月二十七日夜神示) 



「大調和の神示」 転載元 http://www.na.rim.or.jp/~hfg01061/public_html/16-9-27.htm 

感謝 合掌

5335a hope:2015/04/08(水) 09:24:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p44 5行目〜

病気の話が大分出ましたが、「生長の家」は何も病気治しばかりをするところではない。
「生長の家」の説くところは一切宗教の神髄である。
何教でなければならぬと凝り固まった宗派ではない。
また宗門でもない。
派生したものならば、その流れて行く方向がちがうかもしれぬ、また宗門でありましたならば、
それは門でありますから、東門と西門とはまったく別方向を向いているかもしれぬ。
別方向に流れたり、別方向を向いていたら、イヤこの教えは東向きじゃ、イヤこの教えは西向きじゃと言って互に争わなければならぬかもしれぬ。
けれども、「生長の家」はどの方向へも偏寄ってはいないから、宗派争い、宗門争いをする必要がない。
お前の宗教をやめて「生長の家」へ入れとは言わない。
また言う必要がない。
すべての宗門もそれで宜しい。
しかしもっと奥へ這入れ、その堂奥(どうおう)に「生長の家」があるということを説くのであります。

キリスト教の人はキリスト教でそれでよい。
仏教の人は仏教でそれでよい。
神道の人は神道でそれでよい。
しかし宗教というものをただ講座や、哲学や、乞食のような拝み倒しや、死に際の用だと思ってはならない。
宗教はその神髄まで深く入って来るとき必然的に実生活にまで生きてこなければならないのであります。
宗教が実生活にまで生きてこないとき、宗教は無用の長物視され、閑人の閑事業視され、老人の玩弄物視されてしまうのであります。

ところが宗教が実生活にまで生きてきますと、それが実生活の指導原理となってくるのであります。
実生活の指導原理となるばかりでなく、「神の子」の生活を人生に実現することになるのであります。
実際宗教の目的は、「神の子」の生活を人生に実現するためであって、これこそ「生長の家」がこの世に出現した使命であります。

5336a hope:2015/04/08(水) 09:26:31 ID:cEpBaIdo

>>5335 a hope所感)

この第1章「生活に生きる宗教」は、昭和9年11月10日に東京都有楽町報知講堂で行われた、
「人類光明化運動講演会」での谷口雅春先生の講演内容です。
その講演では、雅春先生の話を聞いたり、「生命の實相」を拝読したりすることにより心が整い、
病気が治ってしまったという『唯心所現』の実例が次々に紹介されています。

しかし上のわたしの謹写部分にですが、「生長の家」は決して『唯心所現』(横の真理)だけを説く宗教ではないと述べられています。

つまり、人々に唯心所現の真理(横の真理)を悟らせて実生活に生かすことで、「人間神の子」(縦の真理)を人生に実現させること、
それが「生長の家」がこの世に出現した使命であるとおっしゃっています。

>>5328でるん吉さまもコメントをくださっていますが、
この「人間神の子」の『縦の真理』が「生長の家」の根本真理にあるからこそ、「生長の家」は一切宗教の神髄だといえるのですね!

「生長の家」って本当にすばらしい!!

5337a hope:2015/04/10(金) 10:29:21 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p56 後から4行目〜

今までの宗教に属する人や道徳家が善くなろうと思っても善くなれないのは「頼みにならぬ我」――本来悪いわれ――本来無いわれ―― ウソのわれで善くなろうと思うからなのだ。 
なぜいつまでもそんな「ニセ物の我」で善くなろうと思いつつ善くなれないといってそんなことに引っかかっているのだ。
今まで他の宗教や修養法や自制法などでいくら禁酒禁煙しようと思っても禁酒禁煙できなかった人が「生長の家」に来られて神想観をやったり、わたしの『生命の實相』を読んでいるうちに、自然に巧まず工夫せずに禁酒禁煙させてくる実例が多いのであります。

それは前の場合には、酒を飲みたい心、――ウソの心で酒を飲むまいと工夫していたからそれが止められなかったのです。
「酒を飲みたい心」で酒を飲むまいと工夫したとてそれは無駄な努力にすぎないのです。
そんな悪い心は無いと知って、実相の心、阿弥陀仏の心、無限に善い心、久遠のキリストの心ばかりが実在であり、それが「本物の自分の心」だと知ったとき、ひとりでに内在の善が顕われてきて、善きことばかりができるようになるのです。

「生長の家」の説くところは、自分を悪いくだらないものであると大きくいったんその悪さを認めてから捨てるというような迂回的な捨て方をするのではない。
闇をいったんあると認めてその闇を握って摑んで捨てようと思っても、闇というものは消えるものではない。
闇というものを消す方法は、闇がアルとかナイとかいうことなしに頓着しないで闇の反対――「光」をだせば、闇は消えてしまうのです。

光さえ出せば幾億万年以来からの濃い闇でも電燈一個ともせば消えてしまうのです。
だから闇のことは頓着する必要はちっともないのです。
「悪い自分」のことは頓着する必要がない。
ただ本当の自分の「光」さえだせばよいのです。
本来「天照大御神」と同体の自分のみを認めればよいのです。
本来「尽十方無礙光如来と同体の自分」というもののみを認めればよいのです。
「久遠のキリストと同体の自分」のみを認めればよいのです。
そうしたら光が出ればすべての闇が消えてしまうように、悪い自分というものは本来無いから消えてしまうのです。
だから苦労して止(や)めようとしても止まなかった飲酒癖などが自然になんの苦しみもなく止まるのは、自分のうちに宿る仏性が出て来るからです。
自分の中に宿るキリストが出て来るからです。・・・

5338a hope:2015/04/10(金) 10:32:59 ID:cEpBaIdo

>>5337 a hope所感)

ここに、「生長の家の教え」が、「修養」とか「自制」とかいうような方法で
『悪い自分(偽我・本来無い自分)に働きかけて善くしていこうという教えではない』、
ということがはっきりと述べられています。

<<今まで他の宗教や修養法や自制法などでいくら禁酒禁煙しようと思っても禁酒禁煙できなかった人が「生長の家」に来られて神想観をやったり、わたしの『生命の實相』を読んでいるうちに、自然に巧まず工夫せずに禁酒禁煙させてくる実例が多いのであります。>>

わたしたち「生長の家」を信仰する者は、人間の悪や罪を認める必要はまったくなく、
だだ、神想観をして、『生命の實相』を拝読することで、自然に「実相の心」(本当の自分)が顕われてすべてが順調に流れ出すというわけですね!

5339トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/10(金) 19:49:24 ID:4juByk5Y
生命の実相第17巻 44ページより謹写

 病気の話が大分出ましたが、「生長の家」は何も病気治しばかりをするところではない。
「生長の家」の説くところは一切宗教の神髄である。何教でなければならぬと凝り固まった宗派ではない。
また宗門でもない。派生したものならば、その流れて行く方向がちがうもしれぬ、また宗門でありましたならば、
それは門でありますから、東門と西門とはまったく別方向を向いているかもしれぬ。
別方向に流れたり、別方向を向いていたら、イヤこの教えは東向きじゃ、イヤこの教えは西向きじゃと言って争わなければならぬかもしれぬ。

 けれども、「生長の家」はどの方向へも偏寄ってはいないから、宗派争い、宗門争いを
する必要がない。お前の宗教を止めて「生長の家」へ入れとは言わない。また言う必要
がない。すべての宗門もそれで宜しい。しかし、もっと奥は這入れ、その堂奥に「生長の家」
があると説くのであります。

 キリスト教の人はキリスト教でそれでよい。
仏教の人は仏教でそれでよい。
神道の人は神道でそれでよい。

 しかし、宗教というものをただ講座や、哲学や、乞食のような拝み倒しや、死に際の用だと思ってはならない。
宗教はその神髄まで深く入って来るとき必然的に実生活にまで生きてこなければならないのであります。

(つづく)

5340トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/10(金) 20:03:14 ID:4juByk5Y
 宗教が実生活にまで生きてこないとき、宗教は無用の長物視され、閑人の閑事業
視され、老人の玩物視されてしまうのであります。ところが宗教が実生活にまで生き
てきますと、それが実生活の指導原理となってくるのであります。実生活の指導原理
となるばかりではなく、「神の子」の生活を人生に実現することになるのであります。

<以上で、謹写を終えます>

 私が感じた部分は以上の部分であります。

 亡くなられた藤原敏之先生は、生長の家宇治別格本山の長期練成が終わる時のご講話
で、「みなさんは、今日で宇治の練成会は最終日を迎えますが、ここで学んだことを
帰ってから実践することが大事なんですよ。」と言われていたのを思い出します。

 聖典に書かれていることを生活に実践し、よりよい生活を送る。
その悦びがあって、はじめて他人様にお伝えしようという原動力になるのであります。

 生活に活かす、という信仰は、簡単なようですが、たいへんな部分はあります。
が、そこからしか、本当の向上はないと感じております。

合掌 ありがとうございます

5341a hope:2015/04/12(日) 23:26:23 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p60 後から2行目

神さまは決してイエス・キリストを磔刑(はりつけ)にされはしなかったのです。
またキリスト自身も磔刑に処せられて血を流したこともなかったのです。

ではなぜキリストは磔刑になって実際われわれの眼に磔刑になったのごとく顕われ給うたのでしょうか。

それは神の怒りをなだめんがためではない。
至仁至愛(しじんしあい)なる神は決して未だかつて怒り給うたことはないのです。
だから神の怒りをなだめる必要などは露さらないのです。

ではなんのために神はキリストを遣わし給うて磔刑にかかって苦しむ有様を現じ給うたのでありましょうか。

それは実に人類の罪の意識をなだめんがためなのであります。
「罪」というものを神は造り給わないのでありますから、罪はこの世に実在しない、実在しないはずの罪がどうして消えないかというと、人類自身の念が、罪がある、罪が重いと思ってそれに執着しているからなのです、「罪はない」と知って念を罪から解放しましたらなら、地球の引力がなくなったらいっさいの雲霧が飛び散ってしまうように、「本来無い罪」は自然に消え去ってしまうのであります。

だといって、「罪は無い」と教えてやっても、「罪はアル」と思っている人々には、なかなか「オオそうか」と罪念が消えてしまわない。
そういう人の罪の観念を消し去るためには、罪を贖(あがな)うためには罪の値を支払うためには、自分自身何か罪つぐないの苦しみをするか、誰かが代わりに苦しんで「オイお前の罪の代価はワシが代わりに払ってやったよ」と言ってくれる人がなくてはならない。

イエスが神から遣わされて十字架にかかって苦しまれたのは人類に対して「オイお前の罪の代価はワシが代わりに支払ってやったよ」と言って、われわれの罪の意識をなだめる役目で出現されたのであります。
決して神の怒りをなだめるためではなかったのです。

神は決して怒り給うような神ではないのです。
「オオ君が僕の代わりに借金を支払ってくれたのかありがとう」――人類はこう言って罪の重荷がおりたと思ってラクになり、ヤレヤレと思う。
これで、人類から罪の念が解放される。
罪本来無く、ただ罪の念で繋ぎ止めておいたために今まで消えなかった罪ですから、もうこれで罪は消えてしまったのです。

イエス・キリストはこういうように人類の罪の意識をなだめて人類から罪を解放し、人類をラクにしてあげようと思って、本来苦しまず、本来金剛不壊で傷つかない「久遠の実在」であるにもかかわらず、磔刑にかかって傷ついた姿であらわれたのであります。

だから、キリストの十字架の目的からいってもキリストでさえ苦しみ給うたのであるから自分も苦しまねばならないなんて考えているのはまちがいなのであります。
キリストの十字架は人間が楽になるように出現したのです。

宝蔵菩薩の四十八願は人間が楽になるように、極楽になるように出現したのです。
宗教というものは、こういうように人間が楽になるように、極楽になるように出現したのでありまして、今までの宗教には難行道という易行道(いぎょう)とがあると言われていますが、真宗などは易行であって、ただ南無阿弥陀仏と言うだけで救われるのでありますが、「生長の家」は易行よりもまだやさしいのです。

それは容易(やさ)しいだけではない。
楽な行である。
楽行道だと言っているのであります。
もう時間も予定の十時を十分過ぎましたから今日の講演はこれで終ることに致します。

第1章 終わり

5342a hope:2015/04/12(日) 23:27:37 ID:cEpBaIdo

>>5341 a hope所感)

あくまでも、磔行(はりつけ)になったのは肉体キリストの現象の姿であって、
実相のキリストは久遠の実在で、磔行(はりつけ)にもなっていないし、血も流していないのですね。

わたしたち人間の実相もみなキリストと同じ久遠の実在なのですから、悟ってみれば、
どんな苦難に見舞われようとも苦しむこともなく傷つくこともないのだと思います。

そして、「病なし 迷いなし 罪なし」 の「実相独在」の真理を悟るためにわたしたち「生長の家」の信徒がすべきことは、
神想観と聖典「生命の實相」の拝読なのですから、それは本当に「楽行道」ですよね!

5343トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/13(月) 20:18:29 ID:SxM22Y9g
>>5342

 おっしゃる通りですね!

 生長の家の聖典を拝読すると、いろいろ良い事が書いて有ります。
例えば、生命の実相の第7巻の「朝の時間を活かせ」などは有名です。

 ただ、そういう部分は、倫理とか道徳というところでも説かれてい
ます。信仰が倫理や道徳とどこが違うか、というと、神様の説かれた
真理から出発するところにあります。生長の家の信徒だと、人間=神の子
の真理から始まるかと感じます。

 タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。そのために必要なのは、日常生活
の中で、誰でも始められるものですから、本当に「楽行道」ですね。

5344a hope:2015/04/14(火) 09:38:18 ID:cEpBaIdo
>>5343 トキさま

わたしの所感にご賛同くださりありがとうございます。

<<タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。>>

わたしも、トキさまのおっしゃるようになってこそ、神の子の実相が顕現したといえると思うのです。


現教団の雅宣先生や純子先生のご指導は、
『人間は「神の子」だから「神の子らしく」肉食を減らし、地球にやさしく暮らしましょう!』
みたいな、ご指導になってしまっていて、そのような指導方法では、神の子の実相は顕現しないと感じています。

今現在、生長の家の信徒の為すべきことは、
雅春先生の遺された「聖典の拝読」と「神想観の実修」それが最優先だと思います。

それに、それは、誰をも幸せにする「楽行道」なのですから・・・

5345a hope:2015/04/14(火) 14:55:27 ID:cEpBaIdo

みなさま こんにちは

家政連板 >>5143で神の子さま(おそらく曳馬野さまかそのお仲間)が、
わたしの>>4344のトキさまへのコメントに反応されて、

<<「三正行」と云われているわけですが、二つだけでは野弧になりましょう。
教団の中で『愛行』をやり切れなかった人間、が隠れてネットで寝言を言う。どこが「楽行道」なんだか?>>

と発言されています。

わたしが今回、雅宣先生や純子先生のご指導を批判したので、きっと登場されるのではないかと予測はしていました。

わたしは、今までずっと、生長の家の信徒がすべきこととして、三正行をあげさせていただいていましたが、
今回は「聖典の拝読」と「神想観の実修」だけをあげさせていただいのには理由があるのです。

なぜなら、最近では「生長の家」の信徒のすべき「愛行」の定義がハッキリわからなくなってきてしまっていると感じているからです。

わたしが認識している愛行とは「生長の家の教え」つまり「人間神の子の真理」の伝道です。

ですが現教団の指導の下では、太陽パネルの建築への募金や、マイ箸運動、節電、・・・
そんなことが生長の家の「愛行」であるかのようになってしまっていませんか?

だから、あえて、生長の家の信徒が最優先にすべきことの中に「愛行」を省かせていただいたのです。

雅春先生の「聖典を拝読」し「神想観を実修」していれば、おのずと正しい「愛行」は行われるものだと思います。

5346a hope:2015/04/14(火) 14:59:39 ID:cEpBaIdo
>>5345訂正

わたしの>>4344のトキさまへのコメントに反応されて、
  ↓
わたしの>>5344のトキさまへのコメントに反応されて、

5347神の子さん:2015/04/14(火) 15:26:37 ID:wVeysO6Q
>>雅春先生の「聖典を拝読」し「神想観を実修」していれば、おのずと正しい「愛行」は行われるものだと思います

以下の3144を答えとしましょう

3140 :神の子さん :2015/04/14(火) 12:51:34 ID:1Pks5UNk
過疎の村起こしですか?安倍ポチの言いぐさと同じこと


3141 :神の子さん :2015/04/14(火) 13:08:17 ID:1Pks5UNk
福岡のまじめな信徒さんの書き込みを妨害するかのように、a hopeさんがつまらん貼り付けをしたので、出てこなくなった。

誌友会版で能書き云うだけならいいのだが、二つの版を独占した。トンチンカンさんも一つの版の独占、縹さんも一つの版の独占、

この三個の版には誰も反応しない。過疎化の原因は管理人のいい加減さでしょう。


3142 :神の子さん :2015/04/14(火) 13:36:28 ID:1Pks5UNk
なんかアクセス制限掛けてるのかな


3143 :神の子さん :2015/04/14(火) 14:11:50 ID:wUlsSC6Y
今現在、生長の家の信徒の為すべきことは、
雅春先生の遺された「聖典の拝読」と「神想観の実修」それが最優先だと思います。
それに、それは、誰をも幸せにする「楽行道」なのですから・・・ a hopeさん

「三正行」と云われているわけですが、二つだけでは野弧になりましょう。

教団の中で『愛行』をやり切れなかった人間、が隠れてネットで寝言を言う。どこが「楽行道」なんだか?


3144 :神の子さん :2015/04/14(火) 14:52:12 ID:wVeysO6Q
大体トキさんが教区の人間であり、生長の家の教えはこうだと云える人であるならば、そして人から信頼されているのであれば、

貴女の教区から分派に行く人はいないでしょう。そして総裁の教えがおかしいと云うのでしたら、今の教えから残っている信徒を救う

のが愛行でしょう。そして昔のままの素晴らしい教区として全国に知れ渡っていることでしょう。

そうなっていないとすれば現場で愛行をしていないと云うことでしょう。

壇上で能書き云うことを仕事としているのでしょうか?それとも本部直轄の組織人間で給金のために能書き云っているのでしょうか?


3145 :神の子さん :2015/04/14(火) 15:04:41 ID:wVeysO6Q
公開プロキシ規制だとか、リファラ規制だとか、管理人さん頑張っていますね

5352a hope:2015/04/14(火) 19:34:15 ID:cEpBaIdo

以下に1月12日の純子先生のFBからのご文章を紹介させていただきます。

――――――――

今週のことば--

私たちは、困っている人、災害にあった人、難民などに、物資を送ったり献金をします。
肉食からノーミートに転換することは、貧しい国の人々に献金するのと同じような効果があり、大きな愛行であり、善行と言えます。
そのように考えれば、毎日の食事から少しずつ肉を減らしていくことを、信仰者ができないはずはないと思います。
            
機関誌『生長の家』2014年11月号33頁

―――――――


本当に、肉食からノーミートに転換することが、貧しい国の人々に献金するのと同じような効果があり、
「大きな愛行」で「善行」になるのでしょうか?

それに、「毎日の食事から少しずつ肉を減らしていくことを、信仰者ができないはずはない」というご発言があまりにも押しつけ的に聞こえてしまい、
時にはお肉も美味しくいただいているわたしは、生長の家の「信仰者」ではないのかととても嫌な気持ちになりました。


繰り返しますが、>>5343でトキさまがおっしゃっているような、

<<タバコや肉食をやめなさい、ではなくて、人間 神の子の自覚が深まる
と自ずからタバコも肉食も減ります。>>

という状態になっていくのが、本当の「生長の家」の信仰者の姿なのだとわたしは思います。

5353神の子さん:2015/04/15(水) 06:30:32 ID:???
>>おそらく曳馬野さまかそのお仲間が


曳馬野に、お仲間無し。ひとりぽっち。

5354a hope:2015/04/18(土) 18:38:19 ID:cEpBaIdo

生命の實相第17巻 p80 1行目〜

実際に「生長の家」の聖典『生命の實相』を読みますと、「ああ自分の宗教の教祖はこういう意味を説いていられたのか」とはじめて頷けて釈然とするのであります。
よく宗教同士相争うているのを見受けますが、元来宗教は和解がその役目でありますのに、その宗教が互いに相争っているのは、「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われるから、ギコチなくなり、固苦しくなり、ついには互に相争うて和解を使命とする宗教本来の使命が滅びてしまうのであります。

「生長の家」はすべての争っている宗教を一つの真理の内に癒合して仲好しにさせるという機能をもっているのでありますから、よくちがった宗教の人たちが夫婦になると互に調和しないで家庭にいろいろな問題が起っているような場合に、そこへ一冊の『生命の實相』の聖典が舞い込みますと、今まで、反対のように見えていた宗教は実は一つの真理の表門と裏門であって、本当はやはり一つであるということが分かって夫婦が仲好しになられた例がたくさんあるのであります。

5355a hope:2015/04/18(土) 18:39:28 ID:cEpBaIdo

>>5354 a hope所感)

<<よく宗教同士相争うているのを見受けますが、元来宗教は和解がその役目でありますのに、その宗教が互いに相争っているのは、「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われるから、ギコチなくなり、固苦しくなり、ついには互に相争うて和解を使命とする宗教本来の使命が滅びてしまうのであります。>>

宗教の本来の使命は、「和解」だったのですね・・・・。


<<「生長の家」はすべての争っている宗教を一つの真理の内に癒合して仲好しにさせるという機能をもっているのでありますから、・・・>>

そして、本来の「生長の家」には、そういう機能があったのですね・・・。


今現在、その「生長の家」が内紛し分裂し、「和解」の使命が滅びてしまって見えているのは、
「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われているからにほかならないと思います。

生長の家が「和解」の使命を取り戻すためには、すべての「ねばなばならない」を払拭して、
信徒一人一人が、聖典「生命の實相」の基本に戻ること、それ以外方法はないように感じています。

5356神の子さん:2015/04/18(土) 18:58:11 ID:f6iBwf1Q

今現在、その「生長の家」が内紛し分裂し、「和解」の使命が滅びてしまって見えているのは、
「こうでなければならぬ、ああでなければならぬ」と捉われているからにほかならないと思います。

生長の家が「和解」の使命を取り戻すためには、すべての「ねばなばならない」を払拭して、
信徒一人一人が、聖典「生命の實相」の基本に戻ること、それ以外方法はないように感じています。
***************************************************************************************************

あなたが『ねばならない』に一番捉われているのでしょうが。基本に戻らなければならないとね。

あなた自身が教団との和解が出来ていない。

貴女の言う和解とは何?

5357レイ:2015/04/18(土) 21:32:04 ID:1ThqK4Lc
基地に言われて誌友会に参加する事にしました(^-^ゞ

5358レイ:2015/04/18(土) 21:35:44 ID:1ThqK4Lc
最近、インキンタムシだと思ったらパンツを毎日履き替えれば痒くないって事に気付きました。

しかし。

ただ、パンツを履き替え『ねばならない』から解放しても股間が痒くなってしまいます。

5359レイ:2015/04/18(土) 21:38:11 ID:1ThqK4Lc
働かねばならない
税金を納めねばならない
服を着ねばならない…

人生百般の『ねばならない』から解放されただけでは無軌道な人生になってしまいます。

5360レイ:2015/04/18(土) 21:44:55 ID:1ThqK4Lc
教団と和解せねばならない
メガソーラー募金をやらねばならない
聖典を読まねばならない
肉食をやめねばならない…

一切の『ねばならない』から解放されて、ただ神の子の値打を出す…その為にはしっかり勉強して誰にでも親切にして、神の子の値打ちを、この世に人間が生まれた目的を果たすようにしたいですね。

5361レイ:2015/04/18(土) 21:54:44 ID:1ThqK4Lc
さて、それなら自分は迷い子では無い、神の子だというヘッドライトを常に心に灯すようにしたいですね。

だから大事なのは…

ここで和解念仏和尚の出番でしょうかな?

5362私嘘つきです:2015/04/18(土) 22:37:42 ID:f6iBwf1Q
「私は学ぶ会に移りました、ああすっきりした」

「全国大会に行けなくなりました、残念」

何て作文書く、嘘つきを止めてからモノ言いましょう

5363レイ:2015/04/18(土) 23:30:32 ID:1ThqK4Lc
>>5362
嘘は言ってないけどね。
全国大会、行けるようにしたいな〜

貴方も行きませんか?

5364レイ:2015/04/18(土) 23:47:40 ID:1ThqK4Lc
誘ってもらえて感激ですか?

思いたったら明日、直ぐに申し込みを(^人^)

5365私嘘つきです:2015/04/18(土) 23:58:02 ID:f6iBwf1Q
嘘は言ってないけどね。
全国大会、行けるようにしたいな〜
**************************************************************
歩いて行けば〜 誰もあなたの歩くの止められないよ

空気吸うのは自由だろ、歩くのも自由、陰金たむしも自由にどうぞ

5366a hope:2015/04/19(日) 00:24:09 ID:brQxC10.

レイさま

Web誌友会ご参加ありがとうございます。

ですが、ここで言う「ねばならない」とは、自分の本意ではないことを強制的にするときに使うことばだと思うのです。

だから、>>9358の<<パンツを履き替え『ねばならない』から解放しても股間が痒くなってしまいます。>>

という場合に使うのはちょっと違う様な気がしますが・・・

パンツを履き替えればかゆみが止まりレイさまが快適になるのであれば、それはレイさまの本意なのではないですか?

一方、肉が大好きな人が『肉食を止めろ』と言われたら、それはその人の本意ではないですよね?

そういう時に、「自分は肉は食べたいけれども、環境のために肉食は控えなければならない」と使うのが本当の「ねばならない」のつかい方なのではないのでしょか?

たしかに、働くのが嫌いな人が働くのは「働かねばならない」ですし、
税金を納めるのがいやな人が税金を納めるのも「納めねばならない」でしょうし、
服を着るのが嫌いな人が服を着るのも「着ねばならない」となるのかもしれません。

ですが聖典「生命の実相」を拝読し、神の子の自覚がでてくれば、そんな怠け心やケチな心や変態心は自然になくなってきますよね!

だから反対に考えれば、聖典「生命の實相」を拝読して神の子の自覚を深めることで、
無理なく「ねばならない」を払拭できるのが「生長の家」の教えなのだと思うのです。

少し説明がややこしくなってしまいましたが、レイさまが>>9360で、そういう意味で、

<<一切の『ねばならない』から解放されて、ただ神の子の値打を出す…その為にはしっかり勉強して誰にでも親切にして、神の子の値打ちを、この世に人間が生まれた目的を果たすようにしたいですね。>>

とおっしゃっておられるのでしたら、レイさまのご意見に心より賛同させていただきますね!

5367a hope:2015/04/19(日) 11:22:31 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p96 4行目〜

実例をあげれば、先日話しました材木(さいき)さんの話でありますが、材木さんの泊まっておられた小川旅館のおかみさんが耳が悪くて少しも聞こえなかった。
始終耳ががんがん鳴っていて聞こえなかったのであります。
客も三、四人しか来ないで経営が思わしからず、困っている状態なので、材木さんが「生長の家」の話をしてぜひ読んでみるようにと教えられたそうであります。

それでおかみさんが生長の家の聖典『生命の實相』を貰って一所懸命に読んでみられた。
一度は、石井照子さんに訪問してもらったのでありますが、それ以来気分がすっかりよくなって今まで夕立のようにざあざあなっていた耳鳴りがぴったりやんでしまったのであります。
耳だけではない、主婦(おかみ)さんの心が変わってくると、それと同時に店が繁昌してきたのです。
四、五人しかなかった客が三、四十人もやって来て、部屋が足りなくなって一室に二組三組と詰め込まねばならぬような始末になってきたのであります。
心が変われば店が繁昌する。
貧乏も極楽も皆心の中にある。

これはただの一例ですが『生命の實相』という本一つで、この宿屋の主婦さんの環境が地獄から極楽へ一転してしまったのであります。
これを推し進めて行きますと、『生命の實相』の本を読ましたら、その読む人の環境が極楽になる。
すべての人間に『生命の実相』の本を読ましたら、すべての人間の環境が極楽になる。
そうすると心一つで地上に天国が成就することになるのであります。・・・

5368a hope:2015/04/19(日) 11:25:03 ID:cEpBaIdo

>>5367 a hope所感)

<<これを推し進めて行きますと、『生命の實相』の本を読ましたら、その読む人の環境が極楽になる。
すべての人間に『生命の実相』の本を読ましたら、すべての人間の環境が極楽になる。
そうすると心一つで地上に天国が成就することになるのであります。・・・>>

生長の家の伝道は、真理の書かれた聖典の「文書伝道」だと教わりました。
混乱したら基本に戻ればいいだけのことだと思うのですが・・・違うのでしょうか?

5369神の子さん:2015/04/19(日) 21:37:52 ID:1ThqK4Lc
>>5365
アナタは観世音菩薩さまですか?

ありがとうございます(^-^)

5370レイ:2015/04/19(日) 21:54:25 ID:1ThqK4Lc
パンツは冗談ですがf^_^;
そういう意味で。

私は神の子の美しい値打ちを出す為に生きていきたいと思ってます。
それがこの世に自分の生まれた目的、意味なんだと。

『人間の目的は「神の子」の値打を出すこと』
(人生読本37ページ)

5371レイ:2015/04/19(日) 21:59:50 ID:1ThqK4Lc
生命の実相は、私には難しくちょっと敷居が高いけど。
読み出せば引き込まれて一気読みもしますが、普段はなかなかページが進みませぬ。

5372レイ:2015/04/19(日) 22:58:49 ID:1ThqK4Lc
雅春先生の本を買いすぎて何れから手を付ければ良いか途方にくれていましたが。
自分の愛読書は人生読本と真理の吟唱になりました。

自分なりのやり方が掴めてきたトコで。
心が落ち着いて腹を立てる事が少なくなった自分に気付きます。

5373a hope:2015/04/20(月) 09:41:09 ID:cEpBaIdo

レイさま 

<<私は神の子の美しい値打ちを出す為に生きていきたいと思ってます。
それがこの世に自分の生まれた目的、意味なんだと。>>

<<心が落ち着いて腹を立てる事が少なくなった自分に気付きます。>>

レイさまの素晴らしいご心境に感動しました!


『人生読本』は、わたしにとっても愛読書です。
実は4年前に全文章をこの掲示板の信仰/体験板と聖典板に謹写していたのですよ。

その最初の文章が見つかりましたので紹介させていただきます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311411528/730

わたし、、、若いですね(笑)

子供達もまだ小さかったので、今よりずっと家事育児に忙しかったのだと思いますが、
自分で読んでも、生長の家の教えに触れて感動している様子がありありと伝わってきます。


『生命の實相』は、確かに哲学的な説明が多いので難しいのかもしれません。
わたし自身は、哲学が好きなのであまり気になりませんが・・・。

雅春先生はたくさんの著書を遺してくださっていますが、その中でも「聖典」と呼ばれるものは、
拝読しなくても携帯しているだけで災難から身を護ってくださるお守りの役目をしてくださいますよね!

家の本棚に在るだけで、お家を護ってくださっているのだと思います。

聖典の真理の言葉は、頭で考えすぎずに素直に心読することが大切なのではないかと感じています

5374a hope:2015/04/23(木) 11:39:10 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p137 5行目〜

 谷口――なんでも「ぜひこうして欲しい」「こうでなければならぬ」とこの「ぜひひてほしい、ねばならぬ」に捉われますと、心が互いに引っかかって争わなくてはならなくなるのです。
この欲しい、ねばならぬ」を捨てたときに家庭の平和は来るのです。
自分で「こうではなければならぬ」という寸法を持っていると、そうでないものはみんなまちがっているように見える。
そうすると心の中でどうしても非難する。
心の中で非難すると、言葉に出して非難しなくとも必ずそれが感応して互い互いに意地悪をやるようになってくるのです。

だから、お父さんが仏壇を拝みにならなかったとて「お父さんが拝まぬから悪い」とお考えにならないでよいでしょう。
「一人出家すれば九族天に生まる」という言葉がある。
一人でも本当に悟れば、一家全体は救われるのです。
お父さんが仏壇を礼拝なさらなければ、この分はお父さんの分だと思ってあなたが代わりに礼拝してあげるとよろしい。
お父さんを咎める心になるよりよほど気持ちがよい。

5375a hope:2015/04/23(木) 11:51:49 ID:cEpBaIdo

>>5374 a hope所感)

ここに登場する「お父さん」は、ご自分が病身であり、ある霊覚者によると父の方の因縁があるので、
「お父さん」自身が父方の仏壇を礼拝しないとその病気は治らないといわれたそうです。
ですから家族がその「お父さん」に父方の仏壇を丁寧に礼拝するように頼むのですが、
まったく聞き入れずに、そのことで家族と争いのようになってしまっているようです。
その相談への雅春先生お答えが、上の謹写部分です。

とても考えさせられる内容だと思いました。


これを間違って解釈してしまうと、

『片付けをしないわが子を咎めることなく、親が代わりに片付けてしまう・・・その方が、叱らずにすむから、気もちがいい。』

ということにもなりかねません。


現「生長の家」の問題にあてはめてみて考えますと、
わたしたちは、生長の家の総裁・副総裁なのに本来の「生長の家」の信仰をしない雅宣先生や純子先生を、

<<総裁・副総裁が本来の「生長の家」を信仰なさらなければ、この分はお二人の分だと思ってあなたが代わりに信仰してあげるとよろしい。
お二人を咎める心になるよりよほど気持ちがよい。>>

となってしまいます。


今回、岡先生というお方が雅宣総裁に「公開質問」をされたようですが、
これは、ご自分自身のお心の「気持ちのよさ」だけを考えていては決してできない、
とても勇気のある行動だと思いました。

5376a hope:2015/04/26(日) 09:29:05 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」17巻p165 9行目〜

太田――先生、わたしは質問があります。
わたしは信仰は教育を否定しない、信仰と教育とは平行して行くべきものだと思うのです。
神様を本当に信ずるということと、神様にまかせたというのを口実になんの努力もせずに懶(なま)けていることとはちがうと思います。

谷口――それはちがいますねえ。

太田――ところがわたしの家内の場合では、神様を本当に信ずるということは、何もかも神様に打ち委(まか)せて、子供の教育はほったらかして、自分は何もせずに懶(なま)けているということなのです。

谷口――そんなことはありますまい。 
本当に神様を信じたら、懶(なま)けるなどという状態は自然になくなるのが本当の信仰です。
懶(なま)けるということは「行為」でないわけではない、形にあらわれた一種の「何もせぬという行為」である。
そして形にあらわれた行為は心の影ですから、心に本当の信仰が握れたら、その心の投影として行為が自由自在になる。
自由自在無礙になるのが本当の正しい信仰の投影としての行為です。
何もしないで懶(なま)けているという行為は、決して正しい信仰の投影ではありませんねえ。
信仰というものは、たとえばここにある茶碗でもここからかしこへ動かそうとする時に祈って手を動かさないでいるのが信仰ではない。
あの茶碗はきっと動かせると信じて自分が起ち上がって持ってくることです。

太田――ところが家内の場合では、わたしがいろいろと子供に注意していることを、子供を信じないからだと言うのです。
子供を信じ神様を信じたら、そんなに子供の行為に干渉しなくとも、大空に凧の糸目を切って放したように、本当に無干渉になってしまわねばならないと言うのです。
しかしわたしは、子供に注意を与えることが干渉だとは思っていない。
教育だと思っているのです。
教育というものは導くということです。

谷口――そうです。
教育ということは引き出すということです。
本来もっているものが出やすいように窓口を開いてやるということです。・・・

5377a hope:2015/04/26(日) 09:31:40 ID:cEpBaIdo

(a hope所感)

この後、ご主人の太田氏に、

<<神様を本当に信ずるということは、何もかも神様に打ち委(まか)せて、子供の教育はほったらかして、自分は何もせずに懶(なま)けているということなのです。>>

と思われてしまっている、奥さまの太田夫人が反論しています。


わたしも「子供の教育」に関しては、悩むことが多いので、この太田ご夫婦と雅春先生の御対談はとても興味深かったです。


よく「自由と放任は違う」という言葉を聞きますが、みなさんはどう違うとお考えですか?


上の雅春先生のお言葉に、

<<心に本当の信仰が握れたら、その心の投影として行為が自由自在になる。>>
<<自由自在無礙になるのが本当の正しい信仰の投影としての行為です。>>

とあります。


わたしは、正しい信仰(生き方)ができていないのに『自由』を主張するのはそれは 『自由』ではなくて「自分勝手」や「放漫」で、
そして相手の「自分勝手」や「放漫」をさせるがままにしてしまうのが「放任」なのではないかと解釈しました。

相手の「実相」を礼拝して信じることは勿論信仰の基本だと思いますが、現象の相手の姿がおかしかったり間違っていると感じたら、
「あなたのしていることは、おかしくありませんか?間違っていませんか?」と注意してあげることは、
相手の「実相」を信じているからこそできる、とても信仰深い愛深い行為なのではないか感じています。

5378a hope:2015/04/30(木) 12:17:50 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第17巻 p212 9行目〜

谷口―― 東京でも「手のひら療治」の幹部が、ぞくぞく『生長の家』へお入りになるようであります。
病人に同じ手を触れるにしても、病気本来無い「生命の実相」を知って触れると、普通の二倍三倍の速力で治るのであります。
江口鎮白(やすきよ)さんの「手のひら療治」の道場には正面の机の上に全集『生命の實相』が置いてあるそうで、江口さんみずから『生命の實相』の治し方は大乗の教えであって、自分の治し方は小乗の治し方であって方便の教えである。
今の世に大乗の教えを受ける人が少ないのでやむをえずに方便としての小乗の治し方を採用していると言われているそうです。
こう言ううる江口さんは心の広い方です。

5379a hope:2015/04/30(木) 12:22:03 ID:cEpBaIdo

>>5378 a hope所感)

ここに、「大乗」と「小乗」という言葉がでてきました。
このことに関しては、以前第11巻「万教帰一篇」を勉強しているときに少し混乱して、このweb誌友会で質問させていただきました。
そのときに、縹さまが素晴らしいご指導をくださいました。
>>3785 〜>>3800 のあたりです。

あらためて読み返してみると『生命の實相』の教えがどれだけすごい教えなのかを再認識できます。
今世でこの教えに巡り合えたこと、この「生命の實相」を信仰の指針として学べることに心から感謝の念が湧き上がってきます。


ところで、以前わたしが曹洞宗の寺の座禅会に参加していたときに、
そこの寺の住職の法話で「大乗と小乗の説明」の例え話を聞いたことを思い出しました。


【住職の話】

まわりが火の海の中で遊ぶ子供をどのように救出するのか?

いきなり大きな車(大乗)で向かっては、子供は警戒してその車には決して乗らない。
1、ますは、羊車などの小さな車(小乗)を見せて子供の興味をひき家より連れ出す
2、そのあと、手押し車に乗り換えさせてより速く逃げ、
3、最後に大きな車(大乗)に乗せて安全を確保する。


そのような説明でした。

この例えを、「生長の家の教え」で考えてみました。


【a hopeの考え】

人間を「罪の子」だと信じている人間をどのように救出するのか?

いきなり「人間は神の子で罪なしですよ」(大乗・人類の救済)を説いても決して信じない
1、まずは、自分の心を変えることで病気や生活難や人間関係が改善することを知らせる(小乗・個人の救済)
2、そのあと、三正行をすることで「人間神の子」の自覚を深めさせ
3、最後に「唯神実相」の真理を悟らせる(大悟・大乗・人類救済)

生長の家の教えには縦の真理(唯神実相)と横の真理(唯心所現)がありますが、
ここでは横の真理が(小乗・個人の救済)、縦の真理が(大乗・人類全体の救済)になるのではないかと解釈しました。
間違いがあればご指摘ご指導をお願いいたします。

唯神実相を大悟した谷口雅春先生やキリスト釈迦等のレベルの方でしたら、大乗をいきなり説いても奇蹟は起きたかもしれません。

ですが、大悟していない(完全に救われていない)人間が人類全体の救済をいきなり目指すのは無理があると思います。
「生長の家の教え」で考えれば、まずは個人の救済(小乗)をしていくことが信仰の基本になるのではないでしょうか?

5380a hope:2015/05/01(金) 20:48:30 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

5月に入りましたので、第34回 web誌友会を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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